週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンが求めるべきものとは?

求めよ、さらば与えられん・・・有名な言葉ですが、クリスチャンが本当に求めるべきなのは、どんなものなのでしょうか?

 

 

▼何を求めたらいいのか・・・?

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 クリスチャンでなくとも、一度は聞いたであろう、有名な言葉がある。「求めよ、されば与えられん」。他でもない、イエスの言葉である。現代的な翻訳では、このようになっている。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

(マタイの福音書 7章7節)

 

 イエスの教えはシンプルだ。「求めれば、与えられる」。しかし、肝心の「何を求めるのか」という点については直接の言及はない。一体、何を求めよというのだろう。何と、この言葉は日本語の辞書にも載っている。調べてみた。

【求めよさらば与えられん】

新約聖書「マタイ伝」から》「神に祈り求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。

小学館デジタル大辞泉

【求めよさらば与えられん】〔マタイ福音書七章〕

信仰の主体的決断を説いたイエスの言葉。転じて、与えられるのを待つのではなく、何事にも自分から求める積極的な姿勢が必要であることをいう。

三省堂大辞林第三版)

 

 なるほど、日本の一般的な辞書は、「信仰を求めよ」という意味で捉えているらしい。確かに、そう考えれば合点がいくように思える。しかし、本当にそう言い切っていいのだろうか。

 同じ場面を、ルカの福音書ではこう書いている。

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます

(ルカの福音書 11章9~13節)

 

 これを見ると、エスは「聖霊」についての話をしているようにも思える。信仰を与えるのは聖霊の働きだが、果たしてそれだけを求めればいいのだろうか。

 また、マタイの福音書の前の部分では、こうも書いている。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6章33節)

 

 この流れから「求めなさい」と言っていると考えた場合、求めるべきは「神の国」になるのではないか? という考え方も、不自然ではない。

 人によっては、「何でも求めていいのだ」という人もいる。「経済的な祝福を求めれば与えられる」と解釈する人たちもいる。また「神の導きを求めれば道が拓かれる」と解釈する人もいる。「いや、聖霊だけを指すのだ」という人たちもいる。一体、イエスはどんな意図でこの発言をしたのだろうか。クリスチャンが本当に求めるべきものは、一体何なのだろうか。

 今回は、聖書に出てくる4人の人物が求めたものに注目し、これらの疑問を紐解いていきたいと思う。

 

 

▼例1:エサウは何を求めたか

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 私が「求めた」という単語から、まず思い出したのが「エサウ」である。エサウは、イサクの長男。双子の兄であり、弟はヤコブであった。アブラハムの孫にあたる。エサウは、一体何を求めたのだろうか。聖書をひらいてみよう。

イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために」父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう」エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった」エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか」エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も」エサウは声をあげて泣いた。

(創世記 27章 30~39節)

 

 エサウは、「長子の権利の祝福」を求めた。アブラハムが神と契約を交わしたその祝福を、イサクは受け継いでいた。そのイサクの祝福は、本来は長男であるエサウが引き継ぐものと思われていた。しかし、あるとき、エサウは空腹だったので、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに、弟のヤコブにその権利を売ってしまった。この部分を読んでいただきたい。

さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。エサウヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

(創世記 25章29~34節)

 

 さて、エサウの軽率な言動の結果、エサウが引き継ぐはずの「祝福」は、弟ヤコブに与えられてしまった。もちろん、母リベカと弟ヤコブの策略もあったのだが、本質的にはエサウが権利を売ってしまったのが原因である。エサウは「私も祝福してください」と懇願したが、彼のための祝福は残されていなかった。彼の状況を、新約聖書はこう描写している。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

(ヘブル人への手紙 12章16~17節)

 

 彼が求めたものは「祝福」であった。しかし、彼にはその祝福は与えられなかった。もし、イエスの言葉が「何でも求めてよい、そうすれば与えられる」という意味であれば、エサウは与えられてよいはずである。しかし、彼には祝福が残されてはいなかった。なぜなのだろうか。

 私は、このヘブル人への手紙を読んだとき、率直に「エサウがかわいそう」と思った。なぜか。元はといえば彼のものであった祝福を、母リベカと弟ヤコブが騙して奪ったかのように思えたからである。それなのに、騙されたエサウは祝福を受け継げなかった。涙を流してさえも、彼の願いは叶わなかった。その上、「俗悪な者」とまで書かれている。なぜなのだろうか。

 ここでやはり、エサウの言動を細かくチェックする必要がある。私は、彼の言葉の「私を祝福してください。私」(創世記27章34、38節)という部分に注目した。ヘブライ語では「バラケニー・ガム・アニー」。「ガム」は文字通り、「私も祝福してください」という意味である。「私も」ということは、ヤコブへの祝福に、自分も加えてくれという意図がある。

 しかし、エサウは本質を見失っている。彼は、自分自身で、たった一つの権利を売ったのである。しかも、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに。もし、彼が本当に「悔い改めて」、反省して涙を流したのであれば、最初に「軽率なことをしてしまった」という反省の弁が出るはずである。しかし、彼は「私も祝福してください」と懇願したのであった。彼が望んだのは、祝福だけだった。反省せずに、ただ貰えるはずのものを貰えなかったので、懇願しただけであった。36節では「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」と、父イサクのせいにしている。彼は祝福がもらえなかったので大声で泣き叫んで、ダダをこねただけだった。エサウの心は変わっていなかったのだ。 

 ヘブル人の手紙にはこう書いてある。エサウは、「心を変えてもらう余地がなかった」(新改訳3版)と。新改訳聖書2017では「彼には悔い改めの機会が残っていなかった」と書いてある。ここに本質がある。

 私はやはり「何でも求めれば、望み通り与えられる」という主張には、納得できない。現に与えられない人もいるからである。その大きな要因のひとつに、「心の動機」があるのではないか。エサウの心の動機は「祝福がほしい」だった。しかし、彼には軽率にその祝福を手放してしまった。しかも、その過失に対する反省がなかった。そして、彼はひとつしかない祝福を逃してしまったのであった。

 イエスはこう言っている。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

ヨハネ福音書 15章7節)

 

 

▼例2:ソロモンは何を求めたか

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 「求めた」というキーワードで、次に思い出すのはソロモン王である。有名なエピソードだが、見てみよう。

ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

(列王記第一 3章 5~10節)

 

 ソロモン王は、神に「何が欲しいか」と問われ、「民をさばくための聞き分ける心」を求めた。よくソロモン王は「知恵」を求めたと言われているが、厳密に言えば「判断力」「統治力」が正しい。ソロモンの願いは、父ダビデの時代に強大になったイスラエル王国を治めるための、王としての矜持が感じられる。

 実際に、ソロモンには適切な判断力が与えられたようだ。列王記第一3章にあるエピソードは、彼の知恵を示す代表的なものである。簡単に説明すれば、ある日、2人の女が1人の赤子をソロモンのもとに連れてきた。2人とも、その子は自分の子だと主張する。「私の子だ」「いや、私の子だ」という、水掛け論を、ソロモンはこのように治めた。「生きている子を2つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」。サイコパスにも程がある。

 しかし、これが上手くいった。実の母親は、子どものかわいさあまり、子どもが真っ二つにされることよりも、むしろ自分の手を離れて生きる道を望んだ。本当の母親でない方は、真っ二つにするよう望んだのである(これ自体がサイコパスだが・・・)。もちろん、本物の母親は前者であった。

 ソロモンは素晴らしい判断力でイスラエルの国を統治した。では、ソロモンは完璧な判断力を持った王となったのであろうか。いや、そうではない。彼は政治においては力を発揮したかもしれない。しかし、神に対して忠実ではなかった。彼は、力が強くなるにつれ、諸外国の女性を妻としてめとるようになった。彼には700人の妻と、300人のそばめがいたという。その多くが政略結婚だったのだろうが、諸外国の女たちを妻にした結果、ソロモンは諸外国の神々をも崇拝するようになってしまったのだ。彼は、外国の神々を崇拝する儀式や伝統、文化を取り入れてしまったのであった。聖書にはこう書いてある。

彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11章3節)

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。

(ネヘミヤ記 13:26)

 

 ソロモンが、なんと失敗した例として言及されているのである。偉大な王であるはずのソロモンが、実は後の時代に、こんなにもこき下ろされているのである。彼は本当に知恵のある王だったのだろうか。否。彼は失敗し、その失敗を修正できなかった王である。彼は本当に識別力のある王だったのだろうか。否。彼は神に対して忠実ではなかった。

 ソロモンが「判断力」を求めたエピソードは、クリスチャンの間でよく「模範解答」として紹介される。しかし、本当にそうなのだろうか。私は、ソロモンの答えは、「長寿」「敵の失墜」「富」を求めなかったという意味では「及第点」だとは思う。しかし、決して「ベスト」ではなかったと思っている。では、何がベストだったのか。彼の父、ダビデを見てみよう。

 

 

▼例3:ダビデは何を求めたか

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 ダビデは何を求めたのだろうか。聖書を見てみよう。

まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

詩篇 23篇6節)

一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

詩篇 27篇4節)

 

 ダビデは、神と共に生きる人生を求めた。ダビデは、いくつもの失敗をした。自分の部下を殺して、その妻を略奪した。おそらくは自分の力を誇示するために、神の意思を聞かずに人口調査をした。そして、自分の子どもたちを正しく教育できなかった・・・。

 しかし、ダビデはこのように評価されている。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

(列王記第一 11章4節)

彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。(中略)それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。

(列王記第一 15章3~5節)

 

 いかがだろうか。これ以上ない、絶賛の嵐。最高の称賛を、ダビデは受けている。ダビデは「心が主とひとつになっていた」のである。

 ダビデは、あらゆる意味で失敗をした。しかし、彼はその度に神の前に反省し、深く自分の行いを悔いて、「歩み」を改めた。その結果、彼は「主と共に歩んだ」「彼の心は一生涯主とひとつであった」と評価されているのである。

 実は、この「主と共に歩む」「心が主とひとつになる」という点で、共通している人物がいる。他でもない、イエスである。

 

 

▼例4:イエスは何を求めたか

 イエスは自分自身を、どのように表現したか。見てみよう。

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10章30節)

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5章18節)

 

 どうだろうか。エスは、自分の言葉も、行いも、そして心も、全て父(神)とひとつだと宣言したのである。ダビデが神と共に歩んだのと同じ、いや、それ以上にイエスは神と共に歩み、神と心ひとつになっていたのである。

 そして、イエスは自分だけではなく、自分を信じる者たちが、神とひとつになれるように、祈った。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

ヨハネ福音書 17章20~23節)

 

 「彼らが父よ、あなたに留まるように」それがイエスの切実な祈りであった。エスは、何よりも、クリスチャンが神と心ひとつになり、神と共に生きるように祈ったのである。

 イエスは、クリスチャンが毎週日曜日に教会に通えるように祈っていない。イエスは、クリスチャンが聖書を学問的に学ぶ知識が与えられるようには祈っていない。イエスは、クリスチャンが「奉仕」をするように祈っていない。エスは、クリスチャンたちが「すべての人が父なる神のもとにひとつになる」ように祈ったのである。

 

▼神と共に生きること

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 本題に戻ろう。「求めよ。されば与えられん」。この言葉は、何を求めよと言っているのか。私は、クリスチャンが本当に求めるべきは、「神と共に歩むこと」そして「神と心ひとつになること」、この2つに尽きると思う。実は、その2つに神が定める「生き方」が内包されていると言っても過言ではない。

 昨今、「求めよ。されば与えられん」を用いて、「何でも神様に求めなさい」という教えを、よく耳にする。確かに、神には何だって求めてもよいとは思う。経済的祝福であれ、自分の昇進であれ、高級な車であれ、日々の必要なものであれ、人間関係の改善であれ、病気の癒やしであれ、晴天であれ、彼氏や彼女であれ、それを求めたければ何だって神に求めればよいとは思う。

 しかし、その際に3つのことを念頭に置く必要がある。

1:エサウのように「心の動機」が問われる(参考:ヤコブの手紙4章3節)

2:それが必ず自分の思い通りのタイミングや方法、見える形で与えられるとは限らない

3:全てを決定し、実行するのは神である

 

 モーセは、約束の地に入りたいと願った。しかし、神は「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」と言った(申命記3章26節)。パウロは、「自分にあるとげ」を抜いてくださいと3度も神に願った。しかし、神の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である」(コリント人への手紙第二12章9節)だった。どちらも、彼らが願う方法では願いは叶えられなかった。

 イエスは、こうも言っている。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章29~34節)

 

 このようなイエスの言葉を信じれば、いたずらに「富を求める」行為は、必ずしも神に喜ばれる願いではないような気が、私はしてしまう。大切なのは、やっぱり心の動機であるのは、間違いないだろう。富を得た結果、何に使いたいのか。それを、神を見ている気がする。

 

 求めるものは求め、願うものは願ったらいいと思う。与えるも、与えないも、神の計画次第。大切なのは結果を神に委ねること。そして、何よりも「神と共に歩む」こと、「神と心ひとつ」にされるよう求めること。これは聖霊の助けなしにはできない生き方である。だからこそ、「聖霊の助け」を求める。これが、イエスが語ったことの真髄ではないか・・・と、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。 

【疑問】牧師は「礼拝会」を休んじゃダメなのか?

牧師たるもの、毎週日曜日の「礼拝会」を休んじゃいけないんだそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼牧師の子どもはカワイソウ?

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 牧師の子どもはかわいそうだ。こんな意見をツイッターで見かけた。なぜかというと、「牧師の子どもは日曜日のイベント、例えば運動会や、部活の試合の応援などに来てくれないから」だという。確かに、子どもの晴れ舞台に親が臨場できなければ、子どもにとっては寂しいだろう。

 なぜ牧師は日曜日のイベントに来られないのか。「牧師は必ず日曜日の礼拝会に出席しなければならない為」だという。なぜ日曜日の礼拝会に出席しなければいけないかと聞くと、「多くの教会が牧師の欠席を許さないから」だという。

 ここまで聞いて、私はひとつ疑問に思った。「聖書には何と書いてあるのだろう」。SNSなどで散見される意見を見ると、多くの牧師たちは、「日曜日の礼拝会を休んではいけない」と思っているようだ。しかし、その根拠は何なのか。

 クリスチャンたるもの、その信仰の基盤になっている聖書の言葉から根拠を見つけなければならない。「みんながそう言っているから」では、ちょっと根拠に乏しいと感じる。では、聖書はどう書いているのか。「礼拝会」は、休んではいけないものなのか? 牧師は教会を導く「船頭」なのか? 教会の目的は何なのか? そして、現代の教会に必要な姿とは、どんなものなのか。簡潔にまとめたい。

 なお、この記事は「礼拝」の価値観や、「教会」の価値観についての、これまでの記事の内容に多分に依拠するものである。私のこれまでの主張は、下記の記事を参考にしていただきたい。それでは、始めよう。

 

<参考リンク>

【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか? - 週刊イエス

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?! - 週刊イエス

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?! - 週刊イエス

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか? - 週刊イエス

 

 

▼「礼拝会」は休んではいけないものなのか?

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 ほとんどの教会が、毎週日曜日に行っている「礼拝」と称する集会がある。私の今までの記事を読んでいただければわかるが、それらは「礼拝」ではない。日曜の集会は、「礼拝」ではなく、ただ一堂に会するための「礼拝会」である。「礼拝」とは、「神に自分自身をささげる生き方」であって、集会を指すのではない。

 では、この「礼拝会」は休んではいけないものなのだろうか。結論から言えば、絶対にNOである。詳しくは、以下の記事を参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 日曜日に集まる習慣は、ヨーロッパの土着信仰とミックスした結果の、ただの合理的なルーティンである。そこに聖書による根拠はない。イエスの復活や、ペンテコステは日曜に起こったが、その日に集まる根拠としては弱いように思われる(※安息日の7日目の次の時代、すなわち「8日目の時代」に入ったという面白い視点はあるが、この記事では言及は避ける)。日曜に必ず集まるべしとの考えは、金曜の日没から土曜の日没までにかけてを「安息日」として、厳しくルールを守っているユダヤ教の考えに影響を受けたものである。

 むしろ、聖書を読めば、クリスチャンにとっては「毎日が安息日」であり、「集まれるなら毎日集まるべき」であるし、「24時間365日が礼拝」なのである。それが筆者の基本的な考えである。したがって、クリスチャンは毎週必ず日曜日に教会の「礼拝会」に出席しなければならないという考えは誤りである。

 

 では、「牧師」という立場に限って考えてみよう。なぜ「牧師は日曜日の礼拝会を欠席してはならぬ!」と考える人がいるのだろうか。疑問に思ったので、とある人に聞いてみたところ、こんな返事が返ってきた。

ひとつの群れ(教会)を導く導き手は、1人の方が良いんです

 どういうことだろうか。これは簡単に言えば、「リーダーは1人でないと、正しいゴールにたどり着けない」という意味である。リーダーが何人もいると、意見がバラバラになって、結果的にメンバーもバラバラになってしまう。確かにその主張は一見、論理的に思える。ワントップで動く集団の方が、目標設定も明確だし、意思決定も早いし、動きやすい。逆にそれぞれがバラバラの意見のまま進んでいくと、いつまでたってもまとまりのない集団になってしまう。良し悪しはさておき、まるでどこかの与党と野党のようである。

 この考えのベースには、前提がある。それは、「牧師が教会のリーダーである」という考えだ。牧師が教会のリーダーであるのならば、日曜の礼拝会に牧師が出席しなければ、「導き手」が存在しないことになり、確かにそれはよろしくない。もっと言えば、多くの場合、牧師が行う「説教・メッセージ」が礼拝会のメインディッシュと考えている人もいる。そして、多くの人が「説教は牧師だけの特権である」と考えている。その場合、牧師がいなければ「説教」を行う人がいなくなってしまう。だから、牧師が礼拝会を欠席すると、困ってしまう。こういうロジックだ。

 ちょっと考えを整理してみよう。

<前提条件>

1:リーダーは1人であるべきだ

2:牧師は教会のリーダーである

3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ

4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである

5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない 

<以上の条件から導き出される結論>

・教会の唯一のリーダーであり、礼拝会のメインディッシュである「説教」を行う権利を持つただ一人の存在、すなわち「牧師」が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである。

 

 以上が、「牧師は日曜日の礼拝会を休んではいけない」と考える人のロジックである。

  さて、聖書はどう言っているのだろうか。順番に見ていこう。

 

 

▼「牧師」が群れを導くなどという妄想

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 いくつかの前提をもとに導き出した結論か正しいか判断するためには、まずその前提が正しいか検証する必要がある。順番に見ていこう。

 

<前提1:リーダーは1人であるべきだ>

 リーダーは1人であるべきなのか。これは聖書の記述とは直接関係ないかもしれないが、私個人の意見を言うならば、「YES & NO」である。

 確かに、意思決定プロセスはひとつに定めていた方が良い。意思決定の早さ、確実さ、一貫性を保つためにも、意思決定プロセスの明確さは必要である。教会によっては、最終的な意思決定を牧師がするところもある。または、リーダーシップをとるチームで判断する場合もある。また、教会によってはメンバー全員の多数決で決めるところもある。カトリックなどは、本部の決定が全てであり、組織的な意思決定プロセスが明確になっている。

 この意思決定プロセスが明確ではないと、必ず意見の相違が出た場合に争いが起きる。今回は、どのプロセスが優れていると論じるつもりはない。それぞれにメリットとデメリットがある。

 しかし、聖書はこう教えてはいないだろうか。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)

 確かに、意思決定プロセスは、ひとつに絞り、明確であった方が合理的かもしれない。しかし、人間の目に見えることが、必ずしも正しいとは限らない。聖書にはこう書いてある。

人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

箴言 14章12節・16章25節)(全く同じ文)

 これは、「人間の目に合理的・正義に見えるものが、必ずしも正しいとは限らない」とも読めないだろうか。その点から見ても、「リーダーは1人」という点に固執する必要はないのではないか。意思決定プロセスは明確にしつつも、同じ教会の中では、互いに仕え合い、互いの意見を尊重して平和を保つのが重要である。

 

<前提2:牧師は教会のリーダーである>

 これは明確に間違っている前提だ。聖書をひらこう。

キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

(エペソ人への手紙 5章23節)

また、御子(イエス)はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

(コロサイ人への手紙 1章18節)

 教会のリーダーは「牧師」ではなく「イエス・キリスト」である。エスの言葉は聖書に書いてある。イエスの性質・神の性質は、旧約聖書新約聖書の両方に書いてある。教会が一番に聞くべきは、牧師の「説教」ではなく、聖書の言葉、すなわち「神の言葉」である。牧師は教会のリーダーなどではなく、教会の役割の一つである。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

(エペソ人への手紙 4章11節)

 だから、「牧師が教会のリーダー」と考えている人は、今すぐその考えを改めた方がよい。

 

<前提3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ>

 これも明確な間違いである。この価値観については、何度もこのブログで取り上げたので、今回はいちいち論じるのはやめる。上に述べたように、クリスチャンにとっては毎日が礼拝である。礼拝会は便宜上、クリスチャンたちが「励まし合い」「教え合い」「支え合い」「愛し合う」ために集まっているものである。集まりをやめるのは得策ではないが、「必ず毎週日曜日」というルールは聖書のどこにも記述はない。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10章25節)

 

<前提4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである>

 これも明確な間違いである。礼拝会の目的は多岐にわたる。むしろ、新約聖書を読むと、集まりの主眼は「励まし合うこと」であるようにも見える。また「食事を一緒にする」というのも、その大きな目的のひとつのように思える。私個人としては、礼拝に必ず「説教」が不可欠だとは思わない。むしろ、聖書に記述のある教会は、多くの者が語り、互いに教え合っていたように思える。

ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

(コリント人への手紙第一 11章33節)

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3章16節) 

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10節24節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5章16節)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

(ペテロの手紙第一 4章8~10節)

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

ヨハネの手紙第一 3章23節)

 いかがだろうか。聖書には、一言も「牧師の説教が教会の目的」だとは書いていない。むしろ、「一緒に食事をし」「互いに教え、忠告し合い」「互いに注意を払い」「互いに罪を言い表し」「互いのために祈り」「互いに熱心に愛し合い、もてなし合い、仕え合い」「互いに愛し合うこと」これが神の命令である。 牧師の説教など命じられていはいない。ただ、イエスを神と信じる者同士の愛の関係を持つように命じられているのである。

 

<前提5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない>

 これも明確な間違いである。聖書のどこにもそのような記述はない。「牧師」という言葉そのものが、本来「羊飼い」という単語であるにも関わらず、一度だけ「牧師」という言葉に捏造されている(エペソ4章11節)。この一語のみが聖書に登場する「牧師」であって、それは捏造なのだから、本来「牧師」という言葉は聖書には登場しないのだ。聖書に根拠がないのだから、「牧師しか教えてはいけない」という考えは、明確な誤りである。

 ただ、このような記述も、確かに聖書にある。

兄弟たち、あなたがたにお願いしますあなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章12~13節)

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節)

 確かに、指導者を敬う必要は大いにある。人への尊敬は、適切な関係性を構築する。同時に、教える立場の者には大きな責任が伴う。勝手に聖書に記述のないものを教え、間違った教えを広めてしまう危険性があるからだ。現に、近年、有名な牧師たちが今までの自分たちの教えは間違っていたと告白するケースが、多々起きている(※例えば、「繁栄の神学」で有名なベニー・ヒン氏のケースなど)。このことから、教える側だけの問題ではなく、聞き手の判断力も必要な時代になっているのは間違いない。

 しかし、そのような状況を鑑みても、「牧師だけに教える権利がある」との考えは、根拠に乏しい。聖書の時代の教会では、「牧師」ではない立場の者も、互いに教え合っていた。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18章24~26節)

  プリスキラとアキラは、現代でいえば「執事」のような、教会の行政部分(お金の管理、貧しい人の支援など)を担っていた人たちであったと想像できる。彼らは「牧師」ではなかった。しかし、彼らは人々を教えていたアポロに対し、彼の神学的間違いを指摘したのであった。

 アポロもそれを受け入れ、新しい教えを教えていった。その結果どうなったのだろうか。

アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18章27~28節) 

 「牧師」ではなかったが、プリスキラとアキラはアポロに聖書を教えた。彼らは分を超えていたのだろうか。否。彼らの指摘は正しいものであった。その結果、アポロによってより正確な教えが広がっていったのであった。

 

 ・・・いかがだろうか。1は部分的には正しい前提だ。しかし、2~5に関しては完全に間違った前提となっている。間違った前提から導き出された「解」は、当然間違った答えになるのは言わずもがな。以上の点から、「牧師が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである」という考えは、完全に間違っているといえる。

 教会の唯一のリーダーはイエスである。礼拝会の主目的は、「励まし合うこと」にある。イエス・キリストが再び帰って来る希望を告白しあい、一緒に食事をし、互いに助け合うのが教会の目的である。牧師でなくとも説教やメッセージはできる。それが聖書から学べるポイントである。

 最後に、私は、さらに大きな視点での指摘をしたいと思う。

 

 

▼教会のゴールは神であり、中心はイエスであり、船頭は聖霊である

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 教会の究極的な目的を、大胆に述べよう。それは「神ご自身」である。聖書にはこのように書いてある。

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主<しゅ>はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

(コリント人への手紙第一 1章2節) 

 「神の教会」「神の諸教会」という言葉は、新約聖書に12回登場する。教会は神のものであり、また、教会が目指すべき目的・ゴールは、唯一の創造主である神ご自身である。日曜日の礼拝会が目的ではない。神につながり、神と共に歩むこと。それを励まし合うこと。これが教会の真の目的である。

 

 また、教会の中心にいるのは誰だろうか。それは他でもないイエスである。聖書にこう書いてある。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1章23節)

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

(エペソ人への手紙 1章22節)

 教会には、イエス・キリストその人が与えられている。教会のリーダーはイエスその人であり、教会の中心はイエスご自身である。教会の人間関係の中心には、イエスがいる。それは紛れもない事実だ。

2人か3人がわたし(イエス)の名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18章20節)

 

 また、教会を導くのは誰なのだろうか。牧師なのだろうか。否。教会を導く「船頭」は「聖霊」である。聖書にこう書いてある。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

使徒の働き 20章28節)

 クリスチャンを導くのは「牧師」ではなく「聖霊」である。その基本を忘れて、「牧師」という人間だけに頼るようになると、黄信号。各々が、日々、聖霊の導きを求める必要がある。 

 

 ・・・いかがだろうか。いかに「教会には牧師がいなければダメだ」という考えが、人間的なものであるか分かるだろう。2人でも3人でも、イエスが中心にいて、神に向かっていて、そして聖霊の導きによって進んでいくコミュニティ。それが教会なのである。

 

 

▼おまけの提言:休んだっていいじゃない! 

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 さて、この記事のタイトル「牧師は休んじゃダメなのか」に対して、私なりの答えを書いて記事を閉じようと思う。単刀直入に言えば、「休んだっていいじゃない!」というのが私の答えだ。

 牧師を、聖書のいう「監督者」と捉えるならば、これが牧師の資格である。

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3章2~5節) 

 

 自分の家庭を治める、子どもを従わせる、という面では、以下のような言葉もある。

父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

(コロサイ人への手紙 3章21節)

 

 子どもを気落ちさせないためにも、日曜日のイベント事には、どうぞ出席なさったらいいのではないか。子どもの晴れ舞台を見に行ってあげたらいいではないか。それが子どもに「愛を示す」という行為ではないのだろうか。

 子どもだけではない。愛する妻とデートをしているだろうか? 愛する家族と時間を過ごしているだろうか? 近所の人と関係を保っているだろうか? 困っている人を助けているだろうか? 

 私は一度、日曜日に友人に引っ越しの手伝いを頼まれたので、礼拝会を欠席して引っ越しの手伝いをした。手前味噌で恐縮だが、クリスチャンではないその友人にとっては、愛を感じる行為だったのではないだろうか。日曜日の礼拝会という儀式的なものより、優先するべきことが、この人生たくさんある。日曜日の礼拝会を保つよりも、本当に大事なものを見失っていないか、チェックする必要がある。

 

 その上で、「礼拝会」のスタイルを維持するために、私なりの提言がいくつかある。

1:「牧師」的な存在を複数設けて、交代で休めるようにする。イスラエルの祭司だってシフト制だったのだから、良いではないか。私が集っていたコミュニティでは、それを実践していた。人材不足? ならば、「神学校」などの過剰な負担を強いる登竜門や、「とりあえず伝道師」という時間ばかり消費するシステムで下積みさせるのをやめたらいいと、私は思う。

2:牧師的な存在以外の人でも、いわゆる「説教・メッセージ」をできるように訓練する。また、その機会を設ける。メッセージなど、実は誰でもできる。現に、私が集っているコミュニティでは、それを実践している。それをやらなければならないほど、クリスチャン界の人材不足の状況は逼迫している。

3:日曜日にこだわらず、様々な形の「教会」を模索したらどうか。昨今では、土曜日に集まる集会も増えていると聞く。月曜でも水曜でもいい。また、現代のテクノロジーでは物理的な距離を乗り越え、オンラインでも人間関係を持つことができる。私は、教会の定義を「2人以上のイエスを中心として人間関係が発生するもの」と捉えているので、インターネット上でも教会は十分存在し得ると考えている。

 

 ・・・いかがだろうか。もしこのブログの読者であるあなたが「牧師」の場合、あなたのライフスタイルを見直してみてはいかがだろうか。働き方改革」が叫ばれている今、牧師だって働き方改革をしてもいいのではないだろうか。本質は変えず、スタイルは時代にふさわしいものがあると、私は思う。現代にふさわしい「教会の」あり方が、きっとあるはずだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】式文を唱えるのは本当に「お祈り」なのか?

クリスチャンは「お祈り」をするそうですが、どうやってやるのでしょうか? 決められた文章を唱えるの? 自分の言葉で祈るの?

 

 

▼「祈り」とはどういうものか?

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 クリスチャン生活にとって「祈り」は欠かせない要素である。教会に通い始めたばかりの頃は、祈りというものは、ひざまずいて、両手を組んで、目をつむって、物静かに神に語りかけるものだと思っていた。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公がベッドの上に肘を乗せて祈るような、それが「祈り」のイメージだ。しかし、成長するにつれ、「祈り」には様々なものがあると分かってきた。

 中学生の頃、ハワイから宣教師がやってきた。50代ぐらいの、色黒のいかにもハワイアンという言葉が似合う、元気ハツラツとした女性だった。彼女は、教会の礼拝堂で「祈りましょうか」と言った。てっきり頭をもたげて祈るのかと思ったら、なんと彼女は礼拝堂の床に大の字に寝っ転がったではないか。そして、彼女はかっと開いた目で、天井を見つめながら大声でつぶやいた。「あ~~~神様~~~大好きです~~~~」そうして彼女はしばらく黙っていた。衝撃だった。これが祈りなのかと思った。しかし、間違いなく、彼女にとっては、それが心からの「祈り」だったのである。

 留学先のイスラエルでは、さらに新しい「祈り」の概念を学んだ。ヘブライ語の授業で、「ミトパレル」という単語を習った。「どういう意味か、当ててみて」と先生が言った。発音だけ聞いて、意味を予想しろといっても無茶である。みな黙っていたところ、ヘブライ語の先生はジェスチャーでヒントを出した。両手で本のような形を作り、体を前後に揺さぶったのである。一体、何のジェスチャーなのか、誰も分からなかった。「分からないの?」先生は驚いたように言った。「これは、『祈り』なのよ!」と。そう、ユダヤ人にとって「祈り」とは、祈りの式文が書いた本を手で持ち、それを音読し、体を前後に揺さぶる行為なのだ。西洋の「祈り」や、日本人が神社などで行う「祈り」とは、全く違う「祈り」のスタイルだった。ジェスチャーで示されても、全く分からないという、新鮮な経験だった。

 イエスをメシアと信じている、元ユダヤ教徒、いわゆる「メシアニック・ジュー」の方に聞いたところ、エスを信じた後も、その人にとって「祈り」は祈りの式文を唱える行為なのだという。それ以外の「祈り」は、彼らにとっては厳密には本格的な「祈り」ではないのだという。また、カトリックの方とも話した経験があるが、カトリックにおいても「祈り」は基本的には祈りの式文を唱える行為であって、プロテスタントのように自分の言葉で祈る「祈り」は本物の「祈り」ではないのだという。

 文化や信仰によって「祈り」のスタイルには様々な種類がある。しかし、「祈り」の本質は何なのだろうか。祈りとは何か。祈りに決まったフォーマットはあるべきなのか。聖書の登場人物はどう祈っているのか。実際に、どう祈ったらいいのか。いつでも祈ることは可能なのか。今回は「祈り」にフォーカスして記事を書く。

 

 

▼「祈り」にフォーマットはあるのか?

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 「祈り」とは、そもそも何を指すのだろうか。国語辞典をひいてみた。

 

【祈り】

祈ること。また、そのことば。「神にーをささげる」

 

【祈る】

1:よいことが起こるようにと神や仏に願う。祈願する。「世界の平和をー」

(古くは、のろう意でも使った。今も「祈り殺す」などの形で残る)

2:他人の幸せを切に望む。かくあれかしと念ずる。「大会の成功をー・っております」

明鏡国語辞典

 

 なるほど、神などに対して願う行為を「祈り」と言う。そう捉えて差し支えなさそうだ。ちなみに、ヘブライ語で「祈り」は通常「ミトパレル」(מתפללと言う。これは、もともと「介入する」とか「仲裁する」とか「裁く」といった意味の「パラル」(פָלַל)が語源となっている。ここから派生した「祈り」という単語(名詞)が「テフィラー」(תְּפִלָּהである。聖書には77回登場する単語である。これは、自分の心に「介入し」、心の中にあるのか見極めた上で、神に心を注ぎだす行為である。「神」と「自分」の関係を、どこか第三者的に見つめている自分がいる。自分を違う立場から見つめ、心の中に何があるのかを見ている。「神」と「自分」、そして「他者」ともつながり、そこに「仲裁している自分」が存在している・・・そんなことを、この「テフィラー」という言葉は示唆しているのではないか。

 他にも「とりなし」を意味する「アタル」(עָתַרも「祈り」という言葉に翻訳されている。例えば、エジプトの王ファラオが「もう災害が起きないように祈ってくれ」と懇談するシーン(出エジプト記8:28など)の「祈ってくれ」は「アタル」が使われている。

 他にも、元々「祝福する」「ひざまずく」を意味する「バラク」(בָרַךְも「祈り」を意味する言葉とされている。カトリックでは、この「バラク」の複数形「ベラホット」(ברכותを、仲間同士の祝福の祈りの言葉として用いている。

 

 ユダヤ教や、カトリックにおいては、祈りの式文の通りに祈る行為が「祈り」という印象が強いだろう。一方、プロテスタントの場合は、決められた祈りの文言などもあるが、自分の言葉で祈るスタイルが多い。

 「祈り」にはフォーマットはあるのだろうか。決められた文言があるべきなのだろうか。それとも、自由に自分の言葉で祈るべきなのだろうか。イエスが何と教えたかは「主の祈り」の記事で既に書いたので、参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 イエスの教えは、まとめると以下のようなものである。

<「祈り」に関するイエスの教え・行為>

1:ただ同じ言葉を呪文のように繰り返すのは意味がない

2:「主の祈り」で示したのは式文ではなく、要素である

3:イエス自身も、神に対して心を注ぎ出して自分の言葉で祈った

 

 以上の点を鑑みると、式文だけで祈るのは、どうもイエスの言動とマッチしないのではないかと、個人的には思う。また、後述する他の聖書の登場人物も、自分の言葉で神に対して「祈って」いる。聖書では、神に対して、自分の言葉で語りかける行為が「祈り」として描写されている。

 結論から言えば、「祈り」とは、自分の心に「介入し」、自分の心を見極めた上で、神の前に「ひざまずき」、神の前に自分の心をさらけ出し、心を注ぎ出して、神に対して自分の心の奥底から自分の言葉で語りかける、その語りかけを指すのだと、私は思う。

 もちろん、人間そう簡単に自分の心など分からない。そんな時も必要な事柄を、神に祈るために「式文」はとても有効である。「式文」による祈りは、とても意味深いものだし、その祈りを大切にしている人の姿勢を、私は尊重する。同じように、聖書の言葉、特に詩篇などの言葉をそのまま読み上げるのも、また良い祈りとなると思う。

 しかし、エスや他の聖書の登場人物の姿を見ると、「式文しか祈りとして認めない」というのは違和感がある。式文はあくまでも祈りのガイドであって、正解ではない。自分の言葉でも祈り、そして、式文でも祈り、また「霊のことば」(後述)でも祈ればいい。大切なのは、「神に心が向いているか」である。

それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

(コリント人への手紙第一 14章15節)

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」

(サムエル記第一 15:22~23)

 

 

▼聖書の例1:イエスの祈り

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 聖書の登場人物は、どう祈っているのだろう。まずはイエスがどう祈ったか、聖書をめくってみよう。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、このをわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように

(マルコの福音書 14章36節)

 

 これは、イエスが十字架につく直前のシーンである。イエスは、正直にも「この杯(十字架の苦難)を取り去ってください」と父なる神に祈っている。しかし、同時に「わたしの望むことではなく、あなた(神)が望むことを行われるように」とも祈っている。自分の率直な「願い」を告白しつつも、神の主権を認め、神の計画が成就するように祈る。完璧な、お手本のような祈りである。

 エス自身が「十字架」という最大のミッションを「取り去ってください」などと言うのは、衝撃ではないだろうか。しかし、彼の言葉は、弱い人間である私たちが率直に祈っていいのだと思えるための、最大の励ましになる。

 また、ヨハネ福音書には、イエスが弟子たちに対する溢れんばかりの愛をもって祈った祈りの言葉が記されている。これも十字架の直前のシーンである。

これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父(神)よ、時が来ました。子(イエス)があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。

(中略)

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼ら(弟子たち・すべての人々)のうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

(中略)

正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです

ヨハネ福音書 17章1~26節)

 

 いかがだろうか。この祈りは、決して決められた言葉ではない。イエスご自身が、十字架という苦難を前にして、愛する弟子たち、そして時を超えて全ての人々への思いに溢れて祈った、そんな心から溢れるような祈りである。私はどうしても、この祈りが「式文」から作られたようには思えないのだ。

 

 

▼聖書の例2:ハンナの祈り

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 預言者サムエルの母、ハンナも心を注ぎ出して神に祈った人である。ハンナは不妊の女であった。彼女はそれを悩み、「男の子を与えてください」と切実に神に祈った。そのシーンを見てみよう。

ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主<しゅ>に祈った。そして誓願立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません」

(サムエル記第一 1章10~11節)

 

 ハンナは、この願いをどのように祈ったのだろうか。その解説が、続くシーンに書いてある。

ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです

(サムエル記第一 1章12~16節)

 

 ハンナは、心の中で神に祈っていた。言葉にならないほどの、「募る憂い」と「苛立ち」が彼女の中にあった。彼女は、言葉にならないほどの思いで、「主の前に心を注ぎだし」、神に祈った。それは、はたから見れば酔っ払ったようにも見えるほど、激しいものだったのだろう。

 私たち人間は、ときに「こんなことを祈っていいのだろうか」という思いに駆られる時がある。「もっと高尚な祈りをするべきではないか」「ただのお願いになってはいないだろうか」と不安になる時がある。

 しかし、ハンナのこの必死さに励ましがある。「男の子を与えてください」というのは、決して「高尚な祈り」とは言い切れない。だが、神は彼女の切実な願いに答えてくださった。ハンナもまた、「神が応えてくださる」という確信を得たことが、続く以下のシーンから分かる。

エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。

(サムエル記第一 1章17~18節)

 

  神に心を注ぎだして祈った結果、ハンナは確信を得た。「その顔は、もはや以前のようではなかった」のである。神に祈る、その祈りは決して「高尚な」ものだけである必要はない。切実に、自分が本当に求めるものを、まずは正直に神にさらけ出して祈ってみる。そうすれば、ハンナのように、悩みそのものから解放されるかもしれない。祈りは、そんな素朴なものでいい。私個人としては、そう思う。

 

 

▼聖書の例3:マリアの祈り

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 イエスの母マリアは、相当な迷いの中にあっただろう。婚約中の不貞は、死刑同然に扱われていた当時の文化の中で、見に覚えのない妊娠をした。天使が現れ、羊飼いや学者たちが訪れ、親戚には祝福され、エルサレムでは預言者たちに崇められた。「一体、この子は何なのだろう」。彼女は戸惑い、不安の中にあったに違いない。

 そんな中で、マリアはこのように祈ったのである。

マリアは言った。私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに

(ルカの福音書 1章46~55節)

 

 マリアの祈りは、神の力を称えると同時に、イスラエルの民族的な救いを確信したものであった。当時、イスラエルローマ帝国の植民地だった。しかし、イスラエルにとっては、神がアブラハムに約束した通り、この地をイスラエルが治めるはずなのである。しかし、現実はそうなってはいなかった。その状況を打ち破る存在として期待されていたのがメシアであった。

 マリアは、自分が身ごもっていたのがそのメシアであると確信し、このように祈ったのではないだろうか。ローマという権力を引き下ろし、困窮しているイスラエルを救ってくれる・・・そんな存在を期待したのだ。これは、決して現代の「個人的救済」を強調する、西洋的なキリスト教の発想ではない。イスラエルの民族的救い」を願う祈りである。「神とアブラハムとの契約の成就」を望む祈りである。もちろん、メシアたるイエスに対する神の契約は、さらに大きいものであったのだが、その当時のイスラエル民族にとってのメシアは、そのような民族的救済の期待がかけられていた存在だった。

 現代の私たちにとって、「祈り」は個人的な願いになりがちである。ハンナのような個人的な祈りも良い。しかし、マリアのような大きな神の計画の成就を願う祈りも、また重要である。どちらも優れているとか、間違っているというのはない。どちらの祈りも欠かせない。現代のクリスチャンは、イエスが教えたように「御国が来ますように」と祈ったらいいと思う。「異邦人の時が来ますように」という祈り、「あなたの福音が届きますように」という祈り、「マラナタ・主よ、来てください」と祈る祈り・・・神の計画の実現を確信し、それを宣言する。それもまた「祈り」なのである。

 

 

▼聖書の例4:モーセの祈り

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 モーセはどのように祈ったのか。彼の様々な祈りは、聖書に細かく記されている。興味がある方は、出エジプト記民数記申命記などを読んでみると、よく分かる。今回は、その中でひとつだけ特出しで紹介する。

 神がイスラエルの民に律法を与え、幕屋や「契約の箱」の設計図を示した後、イスラエルの民はその通りに幕屋と契約の箱を建設した。その後で、モーセはこのように祈った。

契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りくださいイスラエルの幾千幾万もの民のもとに

民数記 10章35~36節)

 

 「契約の箱」は、神の存在を強調するためのモニュメントだった。箱に力があるのではなく、神の存在感の重さにこそ、力がある。モーセの祈りは、神と共に歩むという思いが強調されたものだった。

 イスラエルが偉大なのでも、モーセが偉大なのでも、神の箱が偉大なのでもなかった。そこに存在する神こそが偉大だったのである。民を率いるリーダーとして、モーセは常にその思いを捨てずにいた。

 これは、短く、シンプルな祈りだ。しかし、とても重要な祈りである。私が授業を受けたユダヤ教の先生は、「この2節だけを1章にしてもいいぐらいだ」と言っていた。ユダヤ人にとっては、この2つの祈りは、それほど重要だという意味だ。神が一緒にいる、それが何よりも大切なのである。

 

 

▼「祈り」に正解はない

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 今まで、様々な「祈り」の種類を見てきた。結論としては、「祈り」のスタイルに正解はない。どう祈っていいか分からない時もある。そういう時は、「式文」で祈るのはオススメだ。また、聖書の言葉をそのまま、祈りの文として引用するのも、また良いと思う。以下は、エペソ人の手紙にある、私のオススメの祈り文である。

こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

(エペソ人への手紙 3章14~21節)

 

 この「あなたがた」の部分を、祈りたい人の名前を入れて、祈ってみよう。「私」にしてもいい。膝をかがめ、天と地のすべての「家族」の元、「天の父」である神に祈ってみよう。

 

 式文や、聖書の言葉を用いた祈りも、もちろん大切である。しかし、聖書の人物たちを見ると、自分の心を注ぎだす、自分の言葉による祈りも、また同じように大切である。エスは十字架の苦難を取り除いてほしいと祈った。ハンナは男の子が欲しいと祈った。言葉にならないほどの悩みを、神の前にさらけ出した。マリアはイスラエルの民族的な救いを実現する、メシアの誕生を確信して祈った。モーセは民がいつまでも神と共に歩めるようにと祈った。それぞれ、千差万別の祈りのスタイルであり、どれも重要な祈りである。

 人間は、何が正解か考えがちだ。しかし、必ずその方法がひとつだけとは限らない。声に出してもいい、出せなくてもいい。家で一人でも、友と一緒でもいい。大の字になって叫んでも、椅子に座って厳かに祈ってもいい。大切なのは、人に見せるのではなく、神に心を注ぎだしているかという、その一点である。

 聖書はこう命じている。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(マタイの福音書 6章6節)

絶えず祈りなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章17節)

 

 

▼おまけ:オススメの祈り方3選

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  オマケに、私の個人的なオススメの祈り方を3つ、簡単に紹介しよう。

 

1:チョコチョコ祈り

 上に挙げた「絶えず祈れ」という言葉がある。これは、24時間365日祈れという意味ではない。眠れなくなってしまう。そうではなく、「絶え間なく、神に心を注いでいなさい」という意味である。そのような状態を目指せと言っているのである。

 では、具体的にどうしたらいいのか。私のオススメは、どんな時でも、ふと思いついた時に神に祈るという「チョコチョコ祈り」である。ふと思い出した時でいい。「神様、ありがとう」「神様、助けて」「神様、疲れた」「神様、あなたは本当にスゴイ!」「神様、今から会う人といい時間を過ごせますように」・・・などなど。ちょこっとした祈りでいいのだ。何も、かしこまる必要はない。生きている全ての瞬間で、神を思い出し、ちょこっと祈る。それだけで、祈りの生活が変わるだろう。

 

2:祈り歩き(プレイヤーウォーク)

 同じ場所で祈っていると、ついつい集中が途切れてしまう経験はないだろうか。私は、落ち着きがない性格もあってか、同じ場所で長々と祈るのが苦手である。そんな時、どうするか。歩きながら祈るのだ。ちょこっと散歩に出かけてみよう。そして、ブツブツ祈りながら歩き回るのだ。場合によっては、気に入った音楽でも聞きながら、心を神に向けて祈りながら、歩き回って祈るのである。

 歩いて祈っていると、新しい思いがふつふつと出てくる時がある。「あ、これも祈ってみたいな」「これ最近祈ってなかったな」などなど、新しい祈りの言葉がどんどんわいて出てくる。私はたまに祈り歩き(プレイヤーウォーク)をするが、謎の感動に包まれ、歩きながら号泣してしまったこともある。神の恵みの大きさを思い出し、それに感動して泣いていたのだが、さすがに自分で自分にひいたが、それだけ神に心を向けられた経験だったと思う。祈りにマンネリを感じている人は、ぜひこの祈り歩き(プレイヤーウォーク)を試してほしい。

 

3:ことばにならない霊のうめきによって祈る

 さて、最後に不思議な祈りのスタイルをご紹介する。それは「ことばにならない霊のうめきによって祈る」というものだ。聖書にはこう書いてある。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

(ローマ人への手紙 8章26節)

 

 この部分の解釈は、細かくは分かれる部分はある。今回は、「御霊(聖霊)が」「ことばにならない」「うめきをもって」「とりなしてくださる」という文字通りの理解をした上で、私の見解を述べる。

 新改訳聖書3版ではこの部分を「言いようもない深いうめき」と訳していた。新改訳聖書2017では「ことばにならないうめき」となっている。一部のクリスチャンたちは、この「うめき」を「異言」(※外国語や、人間の言葉ではない言語を指す)という形で祈ることだという。かくいう私も、いわゆる「異言」を用いて祈る場合もある。

 しかし、それだけにとどまらず、人間には「言いようもない深いうめき」があるのではないか。言葉を出さずに祈っていたハンナは、まさに傍から見れば「酔っ払っている」ようであった。同じように、使徒2章で「異言」で話し始めた信者たちを見た人々は、「このひとたちは酔っ払っている」と思ったという記述がある。言いようもない、ことばにならない、でも祈りたい。そんな深いうめきが、聖霊の導きによって出てくる。傍から見れば、それは酔っ払いのようである。しかし、その人の心は、確実に祈っている。

 祈りは「ことば」に留まらない。もしことばにならないのであれば、心を神に向けて叫んでみるのもいいだろう。叫びにすらならないかもしれない。ただ涙が流れるだけかもしれない。ただ黙ってしまうだけかもしれない。ただ、それでも心は神を神に向ける。聖霊に身を委ねて、ただただイエスの名前をもって、神の前に出て、心を注ぎだす。そんな「ことば」を超えた「うめき」をもって祈るという不思議なことが、ときに起こり得るのだ。私はその経験をしてしまった。そして、その祈りは祈りの生活を、より満ちたものにしたのであった。

 

 いかがだろうか。もちろん、ここで挙げた以外の「祈り」も存在する。何よりも、自分が祈る前に、王であり、祭司であるイエスご自身が、私たちのために祈ってくださっている。

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙 7章24~25節)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】聖書の神の名前は「エホバ」なのか「ヤハウェ」なのか?  

聖書の神の名前は、「エホバ」とか「ヤハウェ」とか言われます。一体、何が正しい名前なのでしょうか?

 

 

▼神の名前は「エホバ」ではない?

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 聖書の神は、唯一の神である。世界の創造者であり、全能者であり、唯一無二の神である。そんな神を、クリスチャンたちはどう呼ぶのだろうか。最初の本格的な日本語訳の「文語訳聖書」では、神は「エホバ」とされている。新改訳聖書では太文字の「」(しゅ)、共同訳聖書では普通の文字の「主」(しゅ)などとされている。

 この神の名前は、ヘブライ語で「YHVH」(יהוה)のアルファベットで示される4文字で表す。

<神の名前>(右から読む)

י ה ו ה 

 ヘブライ語はいちいち母音を全て明記しない。そのため、この4文字の正確な読み方は分からない。「ええっ、そんなことあるの?」と思うかもしれないが、日本語だって同じだ。漢字に全ての読み仮名は振らない。「生」という漢字は、「せい」とも読めるし、「なま」とも読める。「しょう」でもいいし、「き」でもいけるし、「い<きる>」だってOKだ。文脈で無意識に読み分けをしているだけで、本来は色々な読み方ができる。「羽田」は「はね」だが、「成田」は「なり」である。同じ漢字だが、読み方が違う。本来どう読むかは、なんとなく知っているだけで、正確には学ばないと分からない。

 ユダヤ人は、神の名前を呼ぶのは恐ろしいと考え、この名前を口にしてこなかった。「YHVH」を「アドナイ」(私の主)とか「ハシェム」(the name)と言い換えてきた。その結果、「YHVH」の正確な読み方は、誰も分からなくなってしまったのである。したがって、この4文字は、その子音である「Y/H/V/H」を使って表すしかない。

 「YHVH」は、旧約聖書で6220回も登場する。初登場は創世記2章4節である。

これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】<しゅ>が、地と天を造られたときのこと。

(創世記 2:4)

 

 なお、「主人」の意味での「主」も存在するため、新改訳聖書では「YHVH」を「」と太文字で表記する(※「主人」の意味の「主」は普通文字の「主」となっている)。この記事では「YHVH」で示される神の名前を【主】と表記して区別する。

 神自身が自分自身を指して【主】(YHVH)と述べたのは、出エジプト記6章2節が最初である。

神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である』」

出エジプト記 6:2~8)

 

 唯一の神である【主】は、何度も「わたしは【主】である」と繰り返し、自分の名前を強調している。ちなみに新改訳聖書では、神が話者の場合は「わたし」とひらがなで、それ以外の人物は「私」と漢字表記で区別している。話者がイエスの場合も「わたし」とひらがなになっている。

 【主】という名前は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも示されず、モーセに初めて知らされた。ただ、これ以前にも【主】の文字は多数存在はしている。モーセとファラオとの会話でも、ファラオは「【主】とは何者だ」と発言している(出エジプト5:2)。ファラオの口から「YHVH」の名前が出ているのである。当然だが、旧約聖書は後代にまとめられたため、最初から【主】の名前が出ているが、モーセの時代までは明確に主が自分の名前を語ったことはなかった。詳しくは後述する。

 さて、日本語で最初の本格的な聖書、文語訳(明治・大正訳)は「エホバ」と表記している。【主】(YHVH)の4文字は、どうして日本語で「エホバ」と呼ばれるようになったのか。実は、意外な理由がそこにはあった。今回は、「エホバ」の読み方が生まれた意外すぎるルーツ、神は自分をどう呼んでいるのか、神の名前の意味とは何か、順番に紐解いていこう。

 

 

▼「エホバ」となった意外なルーツ

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 どうして文語訳は、【主】(YHVH)の名前を「エホバ」と表記したのか。英語では「Jehova」(ジェホバ)となるが、その読み方はどこから来たのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。

 先に述べたように、ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する文字だ。そのため、「YHVH」の正確な読み方は分からない。「ヤハヴァハ」の可能性もあるし、「ヤヒヴホ」でもいいし、「ヨヒヴィヒ」と読むかもしれない。どの母音をあてるかによって読み方が全く変わるのである。では、なぜ「エホバ」になるのか。

 実は、意外な理由があった。ヘブライ語は、読み方が複雑なため、後代になって発音を指示する「ふりがな」が発明された。これは「ニクダー」と呼ばれる記号で、「a/e/i/o/u」のどの母音をあてるのか示すものだ。日本語でいう「ふりがな」のようなものである。

 例えば、「ב」(ベート。Bの発音)に「a」の発音のニクダーが付くと「バ」という発音になる。「e」のニクダーが付くと「べ」という発音になる(※興味がある方はこのサイトなどを参照)。このニクダーを付ければ、子音だけで表記するヘブライ語も、正確な読み方が分かるのだ。

 では、神の名前「YHVH」にニクダーが付いていれば、正確な発音が分かるのではないか。その通り。しかし、これが間違いの元だった。

 ユダヤ人たちは、神の名前を口にするのを恐れた。神の名前は恐れ多く、口にしてはならないものだった。それは、モーセ十戒にあるこの教えが影響している。

あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

出エジプト記 20:7)

 

 神の名前「YHVH」は、決して発音してはいけないものだった。そのため、ユダヤ人 たちは神の名前を「YHVH」を使って呼ばず、「אדני」(アドナイ)と呼ぶようになった。「アドナイ」とは「私の主」という意味である。

 しかし、かといって聖書の表記を勝手に変えるわけにはいかない。聖書には「YHVH」の名前が何度も出てくる。これでは、朗読する際に困ってしまう。そこでユダヤ人たちは、後代になってニクダー(ふりがな)を付けた。「יהוה」(YHVH)を「אדני」(アドナイ)と読むために、ふりがなを付けたのだ。整理してみる。基本的にヘブライ語は右から読むので注意してほしい。

<アドナイのニクダー付きの表記>

אֲדֹנַי

 

 解説すると以下のようになる。

<アドナイのニクダー解説>

   אֲ      דֹ      נַ       י

 I+なし      N+A        D+O             A+短いA

 

 おわかりいただけただろうか。「アドナイ」はヘブライ語で「ADNI」と表記する。そこに「短いA+O+A+なし」のニクダーが付く。これで「ADNI」の表記で「A+DO+NA+I」となり、「アドナイ」と読めるわけである。ユダヤ人たちは、この「ふりがな」を「YHVH」に表記することで、「YHVH」を直接発音せず「アドナイ」と読み替えるように指示していたのである。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読ませる、漫画のアレと同じだ。

 しかし、この基本を知らない学者たち(おそらく中世あたりのヘブライ語を知らない学者たち)が、後代になって「アドナイ」のふりがなを本当の神の名前と勘違いして研究した。「アドナイ」のふりがなを「YHVH」に付け足すと、このようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְהֹוָה 

 

 解説すると以下のようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְ     הֹ      וָ    ה 

H+なし V+A   H+O    Y+短いA(e)

 

 この「YHVH」に「アドナイ」のニクダー(ふりがな)をふった場合の発音は上記の通りになる。なお、鋭い読者の方は「一番右のニクダー違うやんけ!」と思うかもしれない。鋭いご指摘ありがとう。ただ、ヘブライ語の文法ではY( י )に「短いA」の母音記号<אֲの下についているやつ>を付けられないため、代わりに「e」の発音の母音記号<יְ の下についているやつ>を付けることになっているのだ。

 解説すると以下の通りになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

Y+短いA(e)/ H+O / V+A/ H+なし

 

 いかがだろうか。こうすると、「イェ・ホ・ヴァ・ー」(Ye/Ho/Va/H)となり、つなげると「イェホヴァー」、より日本語らしく変化すると「エホバ」となるわけである。英語では「J」の発音は「ヤユヨ」ではなく「ジャジュジョ」と発音するので「Jehova」(ジェホバ)となったというわけだ。

 とどのつまり、「エホバ」の表記は、「アドナイ」と読ませるための「ふりがな」を、間違えて「YHVH」に当てはめて読んでしまったカンチガイの結果なのだ。もちろん、「YHVH」の読み方の「可能性」として否定できるものではない。しかし、「YHVH」を発音しないために「アドナイ」のふりがなをわざと割り当てていることから、その可能性は低いだろう。カンチガイによって「エホバ」の読み方は生まれてしまったのだ。

 では、「YHVH」は何と読めばいいのか。考えていこう。

 

 

▼神は自分をどう呼んだか

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 「YHVH」で表す神の名前は、どう読めばいいのか。新改訳聖書2017の「あとがき」にはこのような表記がある。

旧約聖書においては、特に、文語訳ではエホバと約され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を、『聖書新改訳2017』も、従来の「聖書 新改訳」の伝統を踏襲して、太字でと訳し、それによって主の御名が記された、主の御名がエロヒームと読まれるように母音表記されているところでは、太字でと訳している。

<「あとがき」聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

 なるほど。「アドナイ」だけでなく「YHVH」を「エロヒーム」(神)と読ませるための母音表記(ニクダー)もあるらしい。

 問題は「学者の間ではヤハウェとされている主の御名」という部分である。なぜ「ヤハウェ」と読めるのか。調べてみたところ、様々な理由があるようだが、主な根拠としては、古い時代のギリシャ語の聖書翻訳に依るらしい。いくつかの書籍などによれば、ギリシャ語の一部の古い翻訳では「ヤハウェ」に近い発音が表記されているという。だから、少なくとも当時のギリシャ語話者の間では「ヤハウェ」に近い発音がなされていた可能性があると推測される。しかし、それは可能性の話であって、確実な事実と言えるかと問われると、微妙な問題だ。ギリシャ語で表記して「アドナイ」と読み替えていた可能性も否定できない。

 神自身は、自分を何と表現したのか。聖書を少し見てみよう。

 

エル・シャダイ>(全能の神)

さて、アブラムが99歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」

(創世記 17章1節)

 「全能の神」とは、ヘブライ語で「エル・シャダイ」である。この世界を作り、全ての上に存在する、力強い神を指す言葉である。モーセに対して「YHVH」の名前を示すまでは、基本的に神は「エル・シャダイ」という名前でご自身を現している。

 

<エル・ロイ>(ご覧になる神)

そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。

(創世記 16章13節)

 これは、アブラハムの元を追放されてしまったそばめのハガルが、神を呼んだ呼び名である。意味は「ご覧になられる神」。神はハガルの苦しみを見て、助けの手を差し伸べて下さったのである。神は人の苦しみをご覧になり、助けてくださる存在である。

 

<名前を教えないパターン>

ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人(神?)は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

(創世記 32:29)

 神は時にお茶目にも、名前を聞かれても答えない場合もあるヤコブは「ある人」(おそらく神)と格闘した。ヤコブは辛くも勝利するが、その後で、「イスラエル」(「神に勝つ者」の意)という名前を与えられる。しかし、ヤコブが神に名前を聞いても、神は答えなかった。まだ「YHVH」の名前を示す時ではなかったのだ。

 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>

さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

出エジプト 3章6節)

 先週の記事でも述べたが、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名で、ご自身を現される。これは、アブラハムと交わした契約を必ず行い、いつまでも共におられる神であるということを示している。 

 

<万軍の主という呼び名>

万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ

詩篇 46篇7節)

  「万軍の【主】」は、ヘブライ語アドナイ(YHVH)・ツェバオット」の邦訳である。「アドナイ」は「YHVH」で、「ツェバオット」は「軍隊」を意味する「ツェバ」の複数形である。英語だと「God of Almighty」と訳されている。イスラエルでは現在も軍隊のことを「ツェバ」と呼んでいる。

 「万軍の【主】」は聖書全体で235回登場する。その多くがイザヤ書で登場する。神の力強さと、守る力、いつも共にいて戦ってくださる方であるという意味が込められている。

 

 <不思議な名前>

【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という

士師記 13章18節)

  ここは、「【主】の使い」と書いてあるが、神の代理としての存在なので、神の名前を尋ねられた答えと捉えて良い。「わたしの名前は不思議である」という、また何とも奇妙で不思議な答えである。神の存在は、名前で現せるようなものではないという意味でもあるだろう。また、もっと不思議な名前がある。最後にご紹介しよう。

 

<「わたしはある」という不思議な名前>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と」

出エジプト記 3章14節)

  これが一番不思議で、かつ難解な神の自分紹介である。日本語では「わたしはある」。英語だと「I am who I am」。ヘブライ語では「אהיה אשר אהיה」(エヒエ・アシェル・エヒエ)という。

 この意味をめぐっては、様々な議論が続けられている。「わたしは存在する神だ」という意見もあれば、「わたしはあなたと共にいる」という意見もある。「わたしは世界を創造した神だ」とする見解もある。聖書を気仙沼の方言で翻訳した山浦氏は著書で、「わたしはわたしだ」と神がお茶目な回答をしたのだとの解釈を示している。どの意見も説得力があり、答えはおそらく出ないだろう。

 実は、「わたしはある」という自分紹介は、イエス自身も使っている。聖書にこうある。

エスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」

ヨハネ福音書 8章58節)

 これは、イエスが「わたしはある」と宣言した神と同じ存在であるという意味である。ギリシャ語では「エゴー・エイミ」。イエスが神を同じ名前を名乗ったシーンである。 

 

 さて、このように、神の名前は様々ある。神はに人間の言葉では表しきれないほど、大きな存在である。しかし、拭いきれない疑問が残る。「YHVH」(יהוה)は、一体どういう意味なのかという疑問である。最後に、私がイスラエルで学んだ視点を、次の章で紹介する。

 

 

▼「4文字」の意味について

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 神の名前、「YHVH」(יהוה)は、一体どんな意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。正しい発音は分からない。しかし、その意味は何なのか。ずっと気になっていた。

 私は学生時代、イスラエルに留学し、ユダヤ教の授業を受講した。そのユダヤ教の先生が、ある解釈を示した。私にとっては目からウロコだった。「なるほど、そうか!」と感動した。あくまでもユダヤ教の教師が教えたひとつの解釈にすぎないが、みなさんにご紹介する。

 ヘブライ語の文法には、以下のようなものがある。

ヘブライ語の時制>

היה  →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

 

 これは、ヘブライ語教室の初級クラスで習う定番の文法である。そのユダヤ教の教師は、上記の文法を示した後で、このように続けた。

神様の名前(יהוה)は、

この「יהיה」「הווה」「היה」全ての要素を合体させたものなんです。

ユダヤ教の教師の言葉) 

 

 どういうことだろうか。整理しよう。

<神の名前の意味>

היה  →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

 

יהוה 「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。

 

 いかがだろうか。「現在」「過去」「未来」の全ての言葉を、少しずつ組み合わせて、神の名前「יהוה」が示されているのである。つまり、神は時を超えた存在であるという意味である。

 これは、私にとっては心から感動する解釈であった。あくまで、ひとつの見方にすぎないが、私にとってはかなり説得力のある見方であった。聖書にも、こう書いてあるからだ。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

(ヘブル人への手紙 13章8節)

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」

ヨハネの黙示録 1章8節)

 

 今も、昔も、そしてこれから先も。ずっと「ここにいるよ」と耳元で囁いてくださる神様。聖書の神、יהוה(YHVH)は、そんな存在なのである。

 

 

▼おまけ:神の名前を唱えることの是非について

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 神の名前「יהוה」(YHVH)の発音をめぐっては、議論がある。「エホバ」の発音は、「アドナイ」と読ませるための「読み替え」のための「ふりがな」を誤用したために起こったミスの可能性が高い。「ヤハウェ」を示すギリシャ語などの根拠はいくつかあるが、なお議論のあるところである。

 結局は、神の名前をどう発音するかは謎のままである。しかし、人間が付ける名前によって神の存在を表すことなど、到底できない。神は人の言葉よりも、もっと大きい存在だからである。それゆえ、神を指し示す呼び名は、数多くある。ユダヤ教の一部の見方では、「今も、昔も、とこしえに、ここにいるよ」と存在を示される意味だと述べた。

 さて、発音をめぐっては議論のある神の名前だが、「ヤハウェ」と神の名前を連呼する習慣が、近年クリスチャンたちの間で流行している。中には、「ヤハウェヤハウェヤハウェ」と神の名前を不遜にも(?)繰り返す賛美の歌も発表されている。これは、果たして良いことなのだろうか。

 私個人の意見では、神の名前が分からない以上、軽率に神の名前を定め、その名を連呼する行為には違和感がある。十戒の「神は唯一である」「偶像を作ってはならない、拝んではならない」の次にあるのは、「神の名をみだりに唱えてはならない」である。ユダヤ人たちは、神の名前を呼ぶのを恐れ、「アドナイ」や「ハシェム」という別の呼び方を作った。

 日本人は外国人であり、ユダヤ人ではないから、彼らの習慣をそのまま行う必要はない。しかし、神は畏れるべき存在である。その神の名前を、まだ発音が明確ではないにも関わらず、軽率に何度も連呼するのは、私は不遜ではないかと思ってしまう。しかし、本気で神を崇める気持ちで名前を呼ぶというのであれば、神は心を見る方なので、その「心の動機」が一番大切である。私はどうしても神の名前を「ヤハウェ」や「エホバ」などと決めつけて呼ぶ行為には、個人的には抵抗がある。

 イエスご自身は、こう命じておられる。

 

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ、御名が聖なるものとされますように」

(マタイの福音書 6章9節)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】イエスの話は分かりづらい?(その1:アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)

エスの言葉は、結構な確率で意味不明です。日本語で読むと分かりづらいですが、ユダヤの常識で捉えていくと、腑に落ちるものもあったりするのです。今回はその第一弾。

 

 

▼イエスの話はよく分からん!

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 大胆に言うが、エスの話の多くはよく分からない。例えば、ナタナエルという人物が聖書に登場する。彼は当初、イエスをメシアだと認めていなかった。しかし、イエスが「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」という謎の発言をした途端、ナタナエルは「あなたは神の子、イスラエルの王です」と180度態度を変え、イエスの弟子となる。なぜ彼が態度を変えたのか、理由の解説はない。全くの謎である。

 他にも、イエスの言動には謎が多い。ニコデモというユダヤ教の教師とのやりとりも、分からない部分ばかりだ。イエスは「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言う。ニコデモは「人は老いていながら、どうやって生まれることができるか」と返す。イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできない」と言う。しかし、「水と御霊によって生まれる」とはどういうことか、全く解説がない。

 イエスは、群衆にはほとんど「たとえ話」でしか語らなかった。意味の解説がなされているたとえ話もあるが、全くないものもある。そのため、その解釈をめぐってしばしば議論が起こる場合もままある。

 

 なぜイエスの話は分かりにくいのか。その原因は、主に3つ挙げられる。

 ひとつは、イエスの時代から、既に2000年ほど経っているという「時間の壁」である。日本の2000年前といえば、まだ文字すらなかった古の時代。日本最初の神話、「古事記」ができたのが8世紀なので、イエスの時代から約700年も後である。古文・漢文で苦労した読者の方々は、その難解さを理解できるのではなかろうか。

 2つ目は、「言語の壁」である。新約聖書は、ギリシャ語で書かれている。しかも、ただのギリシャ語ではない。新約聖書は、ヘブライ語話者が、ヘブライ語のマインドをもってギリシャ語で書いた書物なのである。言ってみれば、日本人が日本語で考えたものを英語で書いた本のようなもの、とでも言えば分かるだろうか。そのため、旧約聖書ヘブライ語新約聖書ギリシャ語の多くが対応している。

 例えば、有名なヨハネ福音書1章1節「はじめに“ことば”があった」の「ことば」はギリシャ語では「ロゴス」(ことば)という単語だ。従来、「ロゴス」という単語の意味について様々な研究がされてきた。しかし、筆者がヘブライ語話者である点を踏まえると、ここはヘブライ語の「メムラ」(ことば)という単語に重点を置いて理解すべきではないか・・・との指摘もある。新約聖書は「ヘブライ語マインドのギリシャ語」で書かれているのだ。ただの言語の壁より分厚い、見えない大きな壁が、そこにはある。

 3つ目は、最後だが最も重要なポイントである。それは、新約聖書旧約聖書の知識が大前提となっている、という「見えない前提」が存在する点だ。しかも、旧約聖書だけでは足りない。その後に追加された「口伝律法」(ミシュナー)の理解も必要になってくる。

 まとめて言えば、新約聖書のイエスの言葉を理解するためには、「1世紀当時のユダヤ教の知識」(特にパリサイ派の考え方)が大前提として必要なのである。ユダヤ教の知識があれば、「イチジクの木の下にいる」というのが「律法(トーラー)をよく学んでいる」というユダヤの「ことわざ」であると分かる。「水から生まれる」というのが「母親の羊水から生まれる」という比喩だと分かる。ユダヤ教の知識があれば、新約聖書がより深く理解できるのだ。

 実は、この3つを踏まえてイエスの言葉を読むと、みるみる新約聖書が分かるようになる。実は、旧約聖書を読むと新約聖書がもっと分かるようになるのだ。「新約は好きだけど、旧約はちょっと・・・」と思っている人は、ぜひマインドを少し変えて、「旧約をよく学べば、イエスの言葉がもっと理解できるかもしれない!」と思って読んでみて欲しい。

 

 さて、今回はイエスのわけの分からない言葉の中から、ひとつピックアップし、意味を考えてみたいと思う。正直いうと、私の意見は全くの筋違いかもしれない。あくまでひとつの解釈として、読んでいただけたら幸いである。

 

 

▼復活をめぐる論争

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 ユダヤ教の指導者たちと、イエスのやりとりの中で、こんな言葉がある。聖書をひらいてみよう。(マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を引用しているが、基本的には同じエピソードである。ただ、細かい記述に違いがある)

その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに答えた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。

(マタイの福音書 22:23~34)

<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』。さて、七人の兄弟がありました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしていまるのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています」

(マルコの福音書 12:18~27)

復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。彼らはそれ以降、何もあえて質問しようとはしなかった。

(ルカの福音書 20:27~40)

 

 お読みいただけただろうか。サドカイ派は「レビラト婚」(※詳細は過去記事を参照)という風習を盾に「復活」はありえないとイエスに迫る。それに対し、イエスアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、「復活」の根拠となると反論するのである。また、その答えに一同が驚嘆して納得してしまうのだ。正直、現代の私たちにとっては意味不明ではないだろうか。整理するために、一旦、登場人物や状況を整理してみる。

 

<登場人物>

【サドカイ人】:ユダヤ教の上流階級・祭司・貴族層。「肉体の復活」を否定していた。いわゆる「モーセ五書」のみを聖典とした。(人種ではなく階層的要素が強い)

【パリサイ人】:ユダヤ教の宗教指導者の一派。「肉体の復活」を肯定していた。旧約聖書、ならびに口伝律法を聖典とした。(人種ではなく派閥的要素が強い)

【律法学者】:律法(トーラー・旧約聖書)の専門家。多くがパリサイ派だったとされている。

【イエス】:上記の2つの派閥から糾弾されていた。

<状況>

・イエスは、サドカイ派パリサイ派の両方から糾弾されていた。

「復活」は、両派閥が対立していた神学的要素のひとつだった。

・復活を否定するサドカイ派がイエスの見解を求めた。

エスが「復活はない」と言えば、サドカイ派は肯定されパリサイ派が否定される。逆に「復活はある」と言えば、サドカイ派が否定され、パリサイ派が肯定されるという状況だった。

パリサイ派としては、イエスを否定したいのは山々だが、この件に限ってはイエスに復活を認めてほしいというのが正直なところであった。

・イエスは当時「時の人」であり、イエスの教えに多くの人々が注目していた。

<イエスの答え>

・「モーセ“柴の箇所”でこう書いてあるのを見たことがないのか」

・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と書いてあるだろう」

だから復活はある。復活はないなどと言っているサドカイ派は思い違いをしている。

神は死んだ者ではなく、生きている者の神である。

・イエスの教えに、みなが驚嘆して黙ってしまった。

 

 ・・・いかがだろうか。登場人物や状況は、よく分かっていただけたと思う。しかし、問題はイエスの答えである。「柴の箇所」とは一体何なのか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、どうして復活を肯定する根拠となるのか。「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味か。この聖書の記述だけでは、全く意味不明ではないだろうか。私は少なくとも、この記述をずっと疑問に思っていた。

 今回、様々な検討をした結果、ある程度、私なりの結論を得た。読者の方には少しでも参考になれば幸いである。

 

 

▼復活なんかありえない?!

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 大前提として、当時のユダヤ教はなぜ「復活」について対立していたのかを知る必要がある。サドカイ派は復活を否定し、パリサイ派は復活を主張していた。ただ復活を認めるのみならず、パリサイ派にとっては「復活」は彼らの信仰を支える超重要な神学であった。

 実は、旧約聖書は「復活」について多くを語っていない。ダニエル書で一度だけ復活が示唆されているだけで、旧約聖書には、直接「復活」を支持する記述がないのである。むしろ、ある部分では復活を否定しているとも受け取れる記述がある。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5)

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 いずれも、「死後に神をほめたたえることはできない」という趣旨の記述である。復活の直接の否定ではないものの、「死んだら最後、神を崇めることはできない」と言うならば、「肉体の復活はない」と考えるのも自然な成り行きではないだろうか。

 

 一方、ダニエル書の記述は以下である。

その時、あなたの国人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしとの時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

(ダニエル書 12:1~2)

 

 なるほど。「大地に眠る者のうち、多くの者が目を覚ます」という記述をもって、死者が肉体をもって復活すると考えるのは可能だ。だが、ダニエル書の後半の多くは比喩で描かれているため、この記述ひとつだけを持って断言するのは適切かというと、疑問が残る。

 以上の点から、「復活」をめぐり、「“復活”という発想は、バビロン捕囚以降、バビロンの宗教・哲学に影響を受けたユダヤ教の中で発展したものである」という学者たちもいる。確かに、旧約聖書に明確な記述はないし、否定しているとも受け取れる記述があるのだから、そう結論づけたくなるのも理解できる。

 また、ある学者たちは「紀元前100年頃に起きたユダヤ人への大迫害が、『肉体の復活』という活路を見出す価値観を生み出したのではないか」と指摘する。確かに、迫害があればそれから逃れる神学が生まれるのも、理解はできる。こう考えると、パリサイ派の「復活」という神学は、考えようによっては「言い伝え」の部分ではないかと判断できるかもしれない。

 これは想像にすぎないが、「復活」についてはサドカイ派よりパリサイ派の方が、神学的には根拠に乏しい立場にあったと考えられる。聖書に記述がないのだから、パリサイ派にとって「復活」の神学はアキレス腱のような「急所」であり、ハッキリと弁証しきれない部分だったのかもしれない。

 「復活」が律法ではなく「言い伝え」ならば、イエスは「復活」を否定し、この部分においてもパリサイ派を批判したはずである。しかし、イエスは驚くべきことに「復活」を肯定した。この点においては、イエスパリサイ派の主張を認めたのである。これは、驚くべきことである。

 パリサイ派は、イエスを糾弾しつつも、イエスが復活を認めた点においては、イエスを認め、安堵し、一瞬イエスを受け入れたくなったのではないか・・・そんなふうに想像する。「律法学者たち(多くがパリサイ派)の何人かが、『先生、立派なお答えです』と答えた」という記述から、そのニュアンスが汲み取れるだろう。

 私は、一人のクリスチャンとして、イエスの言葉を信じる。イエスが「復活はある」とハッキリと宣言しているのだから、復活はあると信じている。信じる者も、信じない者も肉体と霊において復活し、神からの判決を受けると本気で信じている。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・・

(ヘブル人への手紙 9:27)

 

 さて、たっぷりと状況の説明をしたところで、本題の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」について考えてみよう。

 

 

▼「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の意味とは

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 ハッキリ言って、イエスのこの言葉を解釈するのは難題である。ひとつずつ紐解いていきたい。まずは、イエスが言及した「柴の箇所」を見てみよう。

モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセモーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

(中略)

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:1~6、15)

 

 ここを読むだけでは、なぜこの部分が「復活」を示唆するのか分からない。前提を整理してみよう。

<「柴の箇所」の前提>

ユダヤの信仰の創始者は、アブラハムであった。アブラハムが神と契約を結んだのが、神とイスラエル民族の特別な関係の始まりであった。

神とアブラハムの契約は、そばめとの子どものイシュマエルではなく、神が約束した子どもであるイサクが引き継いだ。

イサクが受け継いだ契約は、兄のエサウではなく、弟のヤコブのものとなった。

・そしてヤコブが「イスラエル」という名前を神から与えられ、イスラエル民族の父祖となった。

・聖書にもとづけば、モーセヤコブが死んでから約120年〜300年後に生まれた人物である。(※イスラエルがエジプトに何年滞在したかは議論があり、それによって変動するが、相当後の時代の人であることは確か)

神はそのモーセに対して「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と宣言した。

 

 「柴の箇所」の前提は以上である。神がアブラハムと契約を結び、イサクが「約束の子」として契約を引き継ぎ、ヤコブがさらに引き継ぎ、イスラエル民族の先祖となった。アブラハムが信奉した神」「イサクが信奉した神」「ヤコブが信奉した神」と捉えれば、別に復活しなくとも、この事実には変わりがない。だとすれば、イエスがこの「柴の箇所」を引用したのはトンチンカンになってしまう。イエスが正しいとすれば、何か別の意味があるはずだ。

 ここで、ユダヤ人にとってアブラハムはどのような存在だったか知る必要がある。アブラハム を考える際、「契約」という言葉は切っても切り離せないほど重要なポイントだ。ユダヤ人にとって、神がアブラハムと交わした「契約」こそが、大切なのである。では、その契約を簡単に見てみよう。

主<しゅ>はアブラム(※アブラハムの元の名前)に言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(中略)主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地(カナンの地、今のイスラエルの土地)を与える」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

(創世記 12:1〜7)

そして主<しゅ>は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(中略)その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」

(創世記 15:5〜18)

 

 神とアブラハムの契約によれば、「イスラエルの土地を、アブラハムの子孫が支配する」のである。これは、物理的にも、宗教的にも、精神的にも、習慣的にも、あらゆる意味でユダヤ人を通してカナンの地が治められ、そして全世界が彼らを通して神を知るという契約である。イサクもヤコブも、基本的にはこの「契約」を神の選びによって(両方とも兄は選ばれず、弟が選ばれた)、引き継いでいるのである。この「契約」はユダヤ人にとって非常に重要なもので、彼らは、今も昔もこの契約を堅く信じているのである。かくゆう私も、そう信じている。

 さて、イエス時代のイスラエルはどういう状況だったか。ユダヤ人たちはその土地を支配していたのだろか。いや、していなかった。カナンの地を支配していたのは、ローマ帝国であった。ユダヤ人にとって、ローマの支配を脱するのは悲願だった。それは、パリサイ派サドカイ派も、バプテスマのヨハネのグループ(エッセネ派)も同じだった。彼らにとって、イスラエルの地はいまだかつて、モーセヨシュア、そしてダビデやソロモンの時代も含めても「完全に支配」されていないのであった。神がアブラハムと交わした契約は、いまだかつて実現していない・・・これが彼らの共通認識であった。

 これについては、新約聖書の「ヘブル人の手紙」の著者も同じ認識を示している。(※ヨシュアは、モーセの後を引き継ぎ、イスラエルの民が初めてカナンの地を占領したときの民族的リーダーである)

もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休み(神が約束の土地を完全に支配させるとの意)は、神の民(イスラエル)のためにまだ残されています。

(ヘブル人への手紙 4:8〜9)

 

 長々書いたが、この「契約」に着目すると、一定の結論が見えてくる。「アブラハムが信奉した神」ではなく、アブラハムと結んだ契約を実行する神」と読めばいいのだ。こう読めば、少し理解できそうだ。私の想像を含めたイエスの言葉の解釈をまとめてみよう。

<イエスの言葉の私的解釈>

モーセの柴の箇所でこう書いてあるじゃないか。主<しゅ>ご自身が自分を指して、『わたしはアブラハムと契約を結び、それを実行する神、イサクに契約を引き継がせた神、ヤコブに契約を受け継がせた神である』と宣言したじゃないか。アブラハム、イサク、ヤコブは契約のとおり、イスラエルの土地を支配したか? いや、いまだかつてイスラエルの土地は完全に支配されたことはない。今もローマがこの土地を支配している。では神が嘘をついたことになるのか? そうじゃないだろう。では、神の民がこの土地を支配する約束は、いつ実現すると思う? アブラハム、イサク、ヤコブが復活した後だ。復活しなければ、この約束は彼らに実現しないのだ」

 

 イエスの言葉は、イスラエルの民がこの土地を完全に支配する」と堅く信じていたパリサイ派サドカイ派両方にとって、説得力に満ち溢れたものだったのだろう。一同は感嘆して黙ってしまった。堅く信じている要素を用いて、正しさを証明するイエスの論法には、ぐうの音も出ない。

 律法学者の一部が、「先生、立派なお答えです」と言った部分も、想像すればパリサイ派の心情が見えてくる。律法学者、つまりパリサイ派たちにとってこの「復活」の神学は「急所」だった。サドカイ派の論法は、いつもパリサイ派に対する「決め手」の質問だったのだろう。パリサイ派はこれに対抗する答えを持ち合わせていなかった。だからこそ、イエスの見事な答えに、イエスを否定するパリサイ派の律法学者たちも、ついつい「立派なお答えです」と感嘆してしまったのではなかろうか。

 

 

▼「生きている者の神」とはどういう意味か

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  もうひとつ、イエスが言った「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味なのだろう。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」が、「アブラハムたちと交わした契約を実行する神」という意味なのは既に述べた。それが、どうして「神は生きている者の神」という言葉につながるのか。

 ここで、ユダヤ人たちの常識に立ち返りたいと思う。彼らの信じる旧約聖書の言葉には何と書いてあったか。もう一度振り返ってみよう。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5) 

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 そう。ここから見えてくるのは、「死んだ者は神をほめたたえられない」という発想である。ここで詩篇の言葉が活きてくる。彼らが信じる「完全な支配」とは、イスラエルの民を通して、唯一の神を全世界が知ることである。神は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」にそう約束した。しかし、神がこの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉で自身を現したのは約120年後のモーセの時代である。アブラハムもイサクもヤコブも既に死んでいる。しかし、神はその3人と交わした契約を実行すると、モーセに宣言する。

 もし復活がなければ、死んでしまったアブラハムたちは、「神をほめたたえる」ことすら叶わない。もっと本質を言えば、「生きていない者は神との関わりを持てない」という意味になる。聖書の神のいう「契約」とは、「神との関わり」を指す。「関係性」こそが、神との「契約」なのである(「契約」については、友人が詳細な記事を書いているので参照していただきたい)。神との関係を持つ人々の中に、その族長たちも、当然入ってくるはず。つまり、復活がなければ、彼らが信じている契約の成就は達成されないのだ。詩篇の記述によれば、死んだ者は神との関係を持てないからである。

 神は、3人とも既に死んでいる時に「私は彼らの神である」とハッキリと宣言した。これは、この3人も含め、彼らの後の時代の人々も、みな復活することを示している・・・それがユダヤ人にとって当然の帰結だったのだ。

 おまけに、新約聖書でもイエスの弟子、そして使徒であるペテロがこのように話している。

アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その門前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

使徒の働き 3:13~15)

 

 ペテロは、あえて「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という「柴の箇所」の神の名前を用いて、「死者の中からよみがえったイエス」について論じた。これは、この呼び名が「復活」を示唆するものであるという、当時の解釈を示している。

 

 このように、エスの言葉は、(1)時代の壁、(2)言語の壁、(3)見えない前提、をクリアしないと、意味がストレートに理解できないものが多い。エスが意味不明なことを言っているのではない。イエスの言葉は、当時の人々にとっては、胸に突き刺さり、心が変えられる、そんな言葉だったのだろう。現代の私たちは、そんなイエスの言葉をしっかり理解するために、上記の3点をふまえた上で、新約聖書を読む必要がある。これは決して、「勉強不足の人は聖書を読んではいけない」という意味ではない。むしろ、聖書は読めば読むほど面白いということの証左ではないか。旧約聖書を読めば、新約聖書が面白くなる。新約聖書を読めば、旧約聖書がさらに面白くなる。バイスバーサ(逆もまた真なり)。聖書は不思議な書物なのである。
 そんなイエスの言葉は、2000年経った今でも、人々を感動させる力がある。しかし、正しく理解するためには、この壁を乗り越える必要もある。壁を乗り越えた理解の先には、「もっとイエスを知りたい!」という飽くなき喜びが待っているだろう。まだイエスの言葉をよく知らないという方は、これを機に、新旧約聖書の両方を読んでみてはいかがだろうか。

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか?

クリスチャンはよく「礼拝を守る」という表現を使いますが、その言葉はどんな意味なのでしょうか? また、どこから来たのでしょうか?

 

 

▼「礼拝をどこで守っていますか?」という質問

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 多くの教会は、日曜日に「礼拝」という名前の集会をやっている。たいていの場合は、毎週同じ集まりに行くので、顔なじみばかりである。しかし、たまに遠出をしたり、旅行先などで、いつもとは違う教会に行く時がある。初めての教会に足を運び、自分がクリスチャンであることを伝えると、決まって言われる言葉がある。「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」という質問である。

 「礼拝を守る」というのはクリスチャンの間で、実によく聞く表現だ。例えば、地元・長野のとある教会に集っていた際、20代の若いお姉さんが教会に来た。初顔だったので話しかけてみると、「いつもは東京の教会に通っているんですけど、今日は帰省しているので、この教会で礼拝を守りに来ました」と彼女は言った。私は、当時小学校6年生だったが、子ども心に「礼拝を守る」という表現に違和感を覚えた。礼拝って守るものなのだろうか」という素朴な疑問が湧いてきたのである。

 礼拝は守るものなのだろうか。行うものなのだろうか。何か別の意味合いがあるのだろうか。今回は「礼拝を守る」という表現について書く。「礼拝を守る」とは、どんな意味なのか。その表現は、一体どこから来ているのか。そこに意味はあるのか。そんな疑問に答えていく。

 また、この記事は以前の記事の内容と多分に重複するため、お時間がある方は以前の記事も参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「礼拝を守る」というのはどんな意味なのか

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 「礼拝を守る」という表現の意味を考えてみよう。この際、「礼拝」と「守る」と2つに分解して考える必要がある。断っておくが、ここで考えるのは、本来の「礼拝」の意味合いではなく、この表現を多用する人々が思い込んでいる「礼拝」の定義である。

 まずは言葉の意味を考えてみよう。広辞苑をめくってみる。

れいはい【礼拝】>(広辞苑第6版)

1:神仏などを拝むこと。現代では主としてキリスト教でいう。

 

 「守る」についても広辞苑を見てみよう。 

まも・る【守る・護る】>(広辞苑6版)

1:うかがいみる。見定める。

2:目を話さずに見る。見詰める。見守る。

3:侵そうとするものをくいとめる。番をする。守備する。保護する。

4:大切にする。世話をする。

5:背かないようにする。「規則を守る」

  

 現代においては、おそらく3の「敵から仲間を守る」の「防御」という意味と、5の「規則を守る」の「遵守する」という意味が、通常使うものだろう。

 

 では、「礼拝を守る」を考えてみる。一般の日本語なのだから、まずは広辞苑の定義をもとに検討しよう。「礼拝」は「神仏などを拝むこと」、つまりは「拝む行為」である。一方、「守る」は、「敵からの防御」および「規律の遵守」という意味である。以上の点を鑑み、「礼拝を守る」を考えると以下のようになる。

れいはい・を・まも・る【礼拝を守る】>(広辞苑6版の意味合いから考察)

1:神を拝む行為を、邪魔するものから保護する

2:神を拝む行為の規律に、違反しないようにする

 

 まず1は日本語としては少し不自然だ。想定される状況としては、「サタン(悪魔)が神を礼拝する人間を妨げようとしているので、礼拝行為を継続するために、サタンの攻撃を防ぐ」といったような感じだ。もしくは、右翼の街宣車でも来て、礼拝会の邪魔をするというケースも物理的には想定可能だが、ちょっと個別具体的すぎて、一般的に使う言葉としてはズレている。

 1の場合だと、初めて参加する教会の集会で「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」と聞くのは「いつもどこでサタンの軍勢からの攻撃から神を拝む行為を保護していますか?」という意味になってしまう。どこかの軍隊とかじゃあるまい。日本語としてもまるでトンチンカンである。

 では2はどうか。「いつもどこで礼拝を守っていますか?」は、変換すると「いつもはどこで、神を拝む行為に違反しないようにしていますか?」という意味になってしまう。これはヘンテコな日本語だ。「神を拝む行為」というのは「違反」できるようなものではない。やはり、前提が間違っているようだ。

 

 そこで、「礼拝」または「守る」の意味合いを考え直す必要がある。「守る」の意味を間違えている可能性は低いだろうから、「礼拝」の定義にズレがないか、まず考えてみよう。

 広辞苑で「礼拝」は「神を拝む行為」だったが、実際に多くのクリスチャンが使っている「礼拝」の意味は、広辞苑の説明とは違うのではないか。私は、これまでの経験から、クリスチャンたちが言う「礼拝」を定義してみた。

「礼拝を守る」と言う人の「礼拝」の定義

・日曜日などに教会で行う「礼拝」と称する集会のこと

・集会は、代表者の祈り、賛美の歌の斉唱、聖書の朗読、牧師など教師による説教(メッセージ)、献金などをもって構成される

「礼拝」は、毎週参加する義務のある集会である

 

 ざっとこんなところだろう。そう。彼らが言う「礼拝」とは、「神を拝む行為」ではなく、「日曜日などに教会などで行われる集会に毎週参加する行為」を指すのだ。ナルホド。この前提に立てば、「礼拝を守る」がより自然な日本語に近づく。「守る」の方も、「規則を守る」という意味の「守る」という意味で捉えれば、この「礼拝」の意味に近づく。整理してみよう。

【礼拝】:日曜日などに教会などで行われる集会に参加する行為、および毎週参加する義務、暗黙のルール

【守る】:規則を遵守する

 

 【礼拝を守る】:日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する

 

 「礼拝を守る」=「日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する」。こう考えれば、「礼拝を守る」というのは自然な日本語になる。広辞苑に載っているような「普通の日本語」で考えると、「礼拝を守る」という言葉は意味をなさい。クリスチャンたちは、「礼拝」の定義を暗黙のうちに変えて使っているのだ。

 注目すべきは、「礼拝を守る」という言葉は、「毎週日曜日に、必ず教会の『礼拝』と称する集会に出席しなければならない。これは義務である」という発想が大前提としてなければ、生まれてこないという点である。この無理やりな日本語を使っている人は、多かれ少なかれ、「日曜日の礼拝会に出席するのは、当然守るべきルールである」という発想に立っている。そうでなければ、この言葉は、日本語としておかしいのである。

 さて、「毎週、教会の『礼拝』と称する集会に参加するのは、クリスチャンの義務である」という、このヘンテコな発想はどこから来ているのだろうか。聖書をよく読んでいる人なら、「あ、そういうことか!」と分かるかもしれない。さて、聖書をめくってみよう。

 

 

▼「礼拝を守る」の発想はどこから来ているのか

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 「礼拝を守る」という言葉は、もちろん聖書には登場しない。しかし、「~を守る」という表現はたくさん出てくる。聖書は、どのように「守る」という言葉を使っているのか、見てみよう。

<聖書の中の「守る」とその対象> ※全て、「~を守る」という表現に統一

契約を守る(創世記 17:10など)

おきてを守る(出エジプト記 12:14など)

命令を守る(出エジプト 20:6など)

戒めを守る(レビ記 22:9など)

安息日を守る(申命記 5:15など)

主の定めを守る(申命記 30:16など)

罪から身を守る(サムエル記第二 22:24など)

王宮の門を守る(列王記第一 14:27など)

を守る(列王記第二 20:6など)

天幕の入り口を守る(歴代誌第一 9:19など)

沈黙を守る(エステル記 4:14など)

いのちを守る(エステル記 8:11など)

プリム(祭り)の時期を守る(エステル記 9:31など)

さとしを守る(詩篇 78:7など)

・神があなたを守る(詩篇 91:11など)

神のことばを守る(詩篇 119:17など)

正しい人の道を守る(箴言 2:20など)

なめらかな舌から守る(箴言 6:24など)

見知らぬ女から守る(箴言 7:5など)

を守る(箴言 20:28など)

たましいを守る(箴言 22:5など)

律法を守る(箴言28:7など)

を守る(伝道者 12:3など)

城壁を守る(雅歌 5:7など)

ぶどうの実を守る(雅歌 8:12など)

誠実を守る(イザヤ 26:2など)

帰る時間を守る(エレミヤ 8:7など)

イスラエルを守る(エレミヤ 35:4など)

なわらしを守る(エゼキエル 20:18など)

人々を守る(ダニエル 12:1など)

を守る(ゼカリヤ 3:7など)

しきたりを守る(マルコ7:4など)

言い伝えを守る(マルコ 7:9など)

慣習を守る(ルカ 2:27など)

を守る(ローマ 14:6など)

自分をきよく守る(ヤコブ 1:27など)

神のわざを守る(黙示録 2:26など)

 

 実に、多くの用途で「守る」という言葉が使われているのが分かる。このままだと整理しづらいので、大雑把に分類してみよう。

1:何から自分を防御する(罪から、いのちを、たましいを、あなたを、なめらかな舌から、見知らぬ女から、自分を)

 

2:何かから他者や物質を防御する(王宮の門、町、天幕の入り口、王、家、城壁、イスラエル、人々、庭、ぶどうの実)

 

3:神が定めたルールを遵守する(契約、おきて、命令、戒め、定め、さとし、神のことば、誠実、律法、律法の規定、正しい人の道、神のわざ、安息日

 

4:人間が定めたルールを遵守する安息日、祭りの時期、ならわし、しきたり、言い伝え、慣習、<祭りなどの>日)(人間が定めたルール的なものを遵守する)

 

5:その他の慣用的表現(沈黙を守る、帰る時を守る) 

 

 明確に整理ができたと思う。

 その上で「礼拝を守る」という発想は、どこから来ているのだろうか、考えてみよう。よく読んでいただいた方はお気づきかと思うが、上記の1~5で同じ言葉が違うグループに分類されている、いわゆる「被っている」言葉がひとつだけある。そう、「安息日」だ。

 ユダヤ教にとって、「安息日を守る」ほど大切なものはない。一番大切なルールといっても過言ではない。安息日には様々な規定がある。働いてはいけないのはもちろん、電気をつけたり、火をおこしたり、車を運転したりなど、してはならない決まりがたくさんある。なんと、安息日に歩いていい距離すらも決まっているのだ(1km弱。使徒1:12など参照)現代においても、そのルールは変わらない。だがしかし、このルールのほとんどは、聖書に記述があるものではなく、人が後代に「付け足し」したものである。聖書にある「安息日」の規定はこうだ。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が6日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、7日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

出エジプト 20:8~11)

 

 神が創造の7日目に休んだのが、「安息日」の起源である。モーセの律法において、「安息日」は聖なる日とされ、「いかなる仕事もしてはならない」と決められた。これ以降、「安息日」という言葉は、旧約聖書では111回、新約聖書では68回登場する。それほど重要な掟であったとうかがえる。

 しかし、「安息日」のルールのほとんどは、後代になって付け足されたものであり、聖書が規定するのは「仕事」や「薪を運ぶ行為」など、ほんの少しだけである。ユダヤ教の人々は、この安息日のルールを絶対に守るために、あらゆる行為をしないようにと、細かなルールを後になって加えていったのである。 安息日を守る」。これはユダヤ教においては、とてもよく聞く表現だ。「安息日」はヘブライ語で「シャバット」、「守る」は「ショメル」という。「安息日を守る」はヘブライ語で「シュモール・エット・ハ・シャバット」。現代でも耳タコな表現である。

 私は、「礼拝を守る」という発想は、この「安息日を守る」という表現から来ていると確信している。そう、実はユダヤ教の価値観から、クリスチャンたちの言葉が生まれているのだ。ビックリ仰天。その発想は、クリスチャンのそれではなく、ユダヤ教のものだったのである。(※なお、ローマ14章に登場する「ある日」「特定の日」というのは文脈から、安息日や旧約の祭日を指すと考えるの自然なので、全て「安息日」に関連すると捉えて間違いではない)

 当然、聖書はユダヤの文化と言語から生まれた事実を無視してはいけない。そして、イエスの「律法を成就し、完成するために来た」という宣言を軽んじてもいけない。しかし、イエスを信じる現代の、しかもユダヤ人ではないクリスチャンたちが、どのように聖書の言葉を取り入れるかは慎重でなければならない。ことわっておくが、「安息日」は「金曜日の日没から、土曜日の日没にかけて」を指す。間違っても「日曜日」ではないと覚えておいていただこう。現代においても「安息日を守る」ように「日曜礼拝を守る」と考えているのだとしたら、それは大きな間違いである。

 一体、何がどう間違っているのか。イエスと当時のユダヤ教の指導者たちのやりとりから学んでみよう。

 

 

▼口伝律法の信者と戦ったイエス

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 イエス時代のユダヤ教指導者たちは、殺す計画を立てるほど、イエスを憎んでいた。エスユダヤ教指導者たちと対立した一番大きな原因のひとつは、「安息日」の定義をめぐっての論争である。

 先に述べたように、安息日」の規定は、長いユダヤ教の歴史の中で、どんどん過激になっていった。はじめの規定は「いかなる仕事もしてはならない」だけであった。しかし、「仕事」とは何かという論争が起こった。羊の世話をするのは仕事だろうか。水を汲むのは仕事だろうか。麦の穂を摘むのは仕事だろうか。布団をたたむのは仕事だろうか。掃除は? 洗濯は? 火おこしは? 料理は? 病気の治療は? ・・・などなど。数え始めたらキリがなくなっていった。その結果、どうなったか。疑わしきは罰せよ。そう、エス時代のユダヤ教においては、ほとんど全ての行為を「仕事」とみなして、安息日(金曜日没~土曜日没まで)に禁じたのである。

 しかし、それに異を唱えたのが、イエスその人である。彼とユダヤ教の宗教指導者たちのやりとりを、いくつかご紹介しよう。たくさんあるので、時間がない方は太字の部分だけ、さっと目を通していただければと思う。

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」エスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか」そして言われた「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子(イエス)は安息日にも主(しゅ)です

(マルコの福音書 2:23~28)

エスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々は、イエスがこのひとを安息日に治すかどうか、じっと見ていた。エスを訴えるためであった。イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真中に立ちなさい」それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか。それとも殺すことですか」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

(マルコの福音書 3:1~6)

エス安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。すると、会堂司はイエス安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は6日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない」しかし、主(しゅ)は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼い葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。このひとはアブラハムの娘(子孫)です。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

(ルカの福音書 13:10~17)

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスエルサレムに上られた。(中略)そこに、38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長いあいだそうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。(※この池に一番に入ると病気が治るという迷信があった)イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であっった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(中略)その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。エスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」そのためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5:1~18)

(イエスの言葉)「モーセはあなた方に割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちからも始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています(※割礼は生まれて8日目に行う規定がある)。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。

ヨハネ福音書 7:22~24)

 

 ・・・いかがだろうか。エスユダヤ教の宗教指導者たちの対立の大きな原因は、この「安息日」についてであったと分かる。エスユダヤ教指導者たちの「安息日論争」は、上に挙げた以外にも、数限りなくある。なぜ、このような論争があったのだろうか。それを理解するためには、重要な前提を一つ知る必要がある。

 当時、ユダヤ教の律法には大きく分けて2つあった。ひとつは旧約聖書に記述がある「律法」(トーラー)である。いわゆる、創世記から申命記までの5つの書物を「モーセ5書」と呼ぶが、これが「律法」(トーラー)である(※広義では旧約聖書全てを指す)。トーラーがユダヤ教の全ての基礎であり、全ての戒めの基盤である。

 しかし、このトーラーを守るために、人々は「念のため」の外側の基準を作った。そして、外側の外側の基準が、次々とできていった。それが「口伝律法」(ミシュナー)である。トーラーには、「安息日」には「いかなる仕事もしてはならない」と書いてある。逆に言えば、それだけだ(※「火おこし」など少数の規定はトーラーにも記載がある)しかし、口伝律法(ミシュナー)はそれに留まらない。万が一でもトーラーを破らないために、念には念を入れた基準が作られたのだ。

 エスの時代は、この「口伝律法」(ミシュナー)が、まるでトーラーそのもののように扱われていた。「仕事をしてはならない」が、次第に「穂を摘んでもいけない」「床を取り上げてもいけない」「病気を癒やしてもいけない」という解釈に変わっていってしまったのである。そして、それを破った者に対しては、厳しい処罰が課されていた。

 エスは、この「口伝律法」(ミシュナー)中心主義に対してNOを突きつけたのである。この言葉を見れば分かるだろう。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)を堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていること(ミシュナー)が、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)によって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令(ミシュナー)を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒め(トーラー)を捨てて、人間の言い伝え(ミシュナー)を堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝え(ミシュナー)を保つために、見事に神の戒め(トーラー)をないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました(※トーラーにて)。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って(※ミシュナーにて)、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝え(ミシュナー)によって、神のことば(トーラー)を無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 エスは、「安息日」にあれをしてはならない、これをしてはならないというミシュナーを否定した。その代わり、トーラーが本当に教えている精神を教えた。すなわち、「安息日に善を行え」「人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのだ」という基準である。「安息日」は大切だ。これがなければ、私たちは週休2日どころか、週休0日だったかもしれない。死んでしまう! 神が「安息日」を作ってくださって、本当によかった!!

 

 さて、議論を「礼拝を守る」に戻そう。「礼拝を守る」という表現、価値観の根底にあるのは、「安息日を守る」といった、ユダヤ教の価値観である。その価値観は、イエスが否定したものである。

 とどのつまり、「どこで礼拝を守っていますか?」と聞くような、現代のクリスチャンたちは「日曜日には、教会の礼拝と称する集会に出席しなければならない」という、まるでユダヤ教のような価値基準を持っているのである。繰り返すが、聖書のどこにも「日曜日に教会の集会に参加しなければならない」などという記述はない。それは、ただの文化だ。「週の初めの日に集まりパンを割いた」という記述(使徒20:7)から、日曜の集会を肯定する者がいるが、それは日曜に集まったというだけであって、日曜に集まらなければ「ならない」という規定ではない。そんな違いすら分からないのなら、日本語を学び直した方がいい。それに、イエスの弟子たちは「毎日」集まっていたのである(使徒2:46、5:42、6:1、17:17、19:9など)。

 「礼拝を守る」などと言っているクリスチャンは、トーラーをないがしろにし、伝統であるミシュナーを重視していたユダヤ人たちと、実は全く同じことをしているのである。聖書に書いていない伝統や文化を重視し、聖書の記述を無視し、それを他者に押し付ける。やっていることが、パリサイ派と全く同じである。「どこで礼拝を守っているんですか?」と聞いて、「あなた日曜日教会に行っているの?」とプレッシャーを与えるような人は、旧約と新約の違いすら分かっておらず混同しているだけの人。気にする必要などない。なんと嘆かわしいことか。こればかりは、容認するわけにはいかない。「礼拝を守る」という表現は、ユダヤ教由来の全くナンセンスな表現である。

 イエスは、礼拝についてどう教えたのか。最後に、少しだけ述べてこの記事を閉じる。

 

 

▼礼拝は生き方である

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 イエスは、礼拝について何と教えたか。これについては、このブログで今まで散々述べてきたので、もはや言うまでもないだろう。「礼拝とは、神と共に生きる生き方」である。エスの教えを紹介しよう。

彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:19~24)

 

 イエスが教えた「本物の礼拝」とはどういう意味か。以前の記事からまとめの要素だけをコピペする。

<イエスが教えた「本物の礼拝」とは>

1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。

2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。

 

 このイエスの教えによって、旧約の常識が新しい常識へと更新されたのだ。

旧約聖書モーセ律法の常識】

「礼拝」は、「決められた場所で」祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。

新約聖書、イエスの常識】

「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるイエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。

 

 礼拝とは、場所、時間、状況、スタイルに関わらず、「あなたの人生を神にささげ、神と共に生きる生き方そのもの」を指す。「日曜礼拝を守る」などという、旧約時代の古い常識に囚われるのは、もうやめようではないか。クリスチャンは、いつでも、どこでも、神が与えた聖霊によって、イエスを信じ、神と共に生きられるのだ。イエスが示した、新しい常識のもとで、イキイキと生きていこうではないか。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【潜入ルポ】ウワサの「預言カフェ」に行ってみた!

巷で噂となっている「預言カフェ」に実際に行ってみました! その実態とは――?

 

 

▼予言は人を魅了する

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 恐怖の大王がやってくる――。そんなノストラダムスの大予言の日、私は小学校1年生だった。友人の家に泊まっていた私は、「もしかすると明日、世界が滅びるかもしれない」とビクビクしていた。目が覚めると、いつもの朝だった。朝日があれだけ嬉しかったことはない。

 ハッピーな予言も、恐ろしい予言も、「未来予測」というものは、人間を魅了する。テレビの朝のニュースでは、毎日「占い」を放送している。血液型占い、星座占い、おみくじの大吉、小吉、末吉・・・様々な占いに人は一喜一憂する。個人の程度の差こそあれ、未来への予測はどこか「人間の心の拠り所」となっているのは間違いない。人間は「時間」の軸を超えられない存在だ。だからこそ、人には「未来」「運命」など、届かないモノへの憧れがあるのかもしれない。 

 さて、あなたは「預言カフェ」なるものを知っているだろうか。東京都内の教会が運営するカフェで、高田馬場と赤坂に2店舗だけある。噂によれば、コーヒーを飲みながら、「預言」を受けられるらしい。しかし、ちょっと怪しい噂も聞く。占いじみているとか、いや、預言カフェを通じてイエスを信じた人もいるとか、そも噂は様々だ。その実態はどんなものなのか。噂話だけをアテにしても仕方がないので、実際に足を運んでみることにした。

 

 

▼預言カフェに行ってみた! 

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f:id:jios100:20190904021644j:plain と、いうことで今日は「預言カフェ」に来ちゃいました!

f:id:jios100:20190904021541j:plain いや~楽しみ。

f:id:jios100:20190904021800j:plain あんた誰やねん。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あなたもね。1人で行くのはなんか気まずいので、今日は「行きたい!」と声を寄せていただいた友人の方に来ていただきました。 

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※左から友人の岡田さん(仮名)、筆者小林、白川さん(仮名)。ちなみに全員クリスチャンです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 今回はフリー素材「いらすとや」さん全面協力のもとお送りします。全員男かよ! というツッコミはなしで。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 男で悪かったな。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 男3人でカフェに行くとか、怪しすぎじゃない?(笑)

f:id:jios100:20190904021644j:plain ・・・(今さら気がついて言えない)

f:id:jios100:20190904021644j:plain 白川さんは、なんでアロハシャツテイストなの?

f:id:jios100:20190904021541j:plain 今日は仕事が休みやねん・・・

f:id:jios100:20190904021644j:plain ・・・それはさておき、みなさんの意気込みを聞いてみましょう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 以前から噂は聞いていて、どんなところか気になっていたので、今日はかなり楽しみ!

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺はバリバリ怪しいと思ってて、確認したい感じかな。「占いと違うんか!」ってね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain なるほど。僕も噂ベースでは聞いていて。「部屋のカーテンを緑色にした方がいいとか言われるとか言われないとか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain それめっちゃ占いじゃんか。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 聖書の「預言」は「神から預かる言葉」だから、未来を予測する「予言」とか「占い」とはちょっとテイストが違うよね。そこの違いも、今回明確なのか確かめたいよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 宝くじ当たるとか預言されちゃったらどうしよう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain それはキミの願望じゃないか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 最近「預言カフェ」は、世間一般でも割と有名になってるっぽいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain そう。仕事相手の方も、クリスチャンではない方だけど「預言カフェ」の存在は知ってて。今度一緒に行こうと誘われたよ。でも、一緒に行こうとしたけど営業時間的に無理だった。

f:id:jios100:20190904021800j:plain そうなんだよね。高田馬場は18時までしかやってないし、平日だと無理だよね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain と、いうわけで、今日は19時までやっている赤坂店に来てみました!

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「預言カフェ」は、東京メトロ千代田線・赤坂駅から徒歩2〜3分ほどの好立地。

 

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堂々と「預言カフェ」の看板が!

 

 

▼さっそく入店してみる

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f:id:jios100:20190904021644j:plain お店に入る前に、今回の方針を決めておきましょう。

<今回の方針>

1:あえて自分たちはクリスチャンであることは言わずに入店

2:クリスチャンかどうか聞かれた場合は正直に答える

f:id:jios100:20190904021541j:plain 嘘は良くないですよ、嘘は。

f:id:jios100:20190904021800j:plain クリスチャン相手かどうかで対応が変わるかも注目ですね。

f:id:jios100:20190904014929j:plain
さっそく入店。ドキドキ。

中に入ると、こんな感じのお姉さん(推定35~40歳)が接客してくれました。

f:id:jios100:20190904014951j:plain(ガチでこんな感じ)

f:id:jios100:20190904015022j:plain いらっしゃいませ。何名様ですか?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 3人で。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 今お席が空いてるので、すぐご案内できると思いますが、そちらの受付ボードに、カタカナでフルネームを書いてお待ち下さい

f:id:jios100:20190904015909j:plain

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、フルネーム書くのか。これも預言の材料になるのかな。

 

女性の店員さんに導かれ、男3人は店内へ・・・

f:id:jios100:20190904015741j:plain
店内は明るい雰囲気で、テーブルが7〜8個ほど。閉店1時間前だったが、他にも3名ほどのお客さんが。店内には「クリス・トムリン」(クリスチャン界の有名アーティスト)の聞き覚えのあるCDが流れていました。

f:id:jios100:20190904021800j:plain へぇ~、思ったより雰囲気いいね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 天井がちょっと低いな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain プロの目線や。

 

メニューを手渡され、見てみる。

f:id:jios100:20190904020138j:plain
f:id:jios100:20190904021800j:plain 「預言カフェブレンド」っていうのがあるんだね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 俺はラーメン屋でも一番店が押してる最初のメニューを頼む派。

f:id:jios100:20190904021541j:plain キミの情報は聞いてねぇよ。

 

と、いうことでそれぞれ、

「預言カフェ・ブレンド」(税込850円)

「預言カフェ・プレミアムブレンド」(税込950円)

「預言カフェ・アイスブレンド」(税込1000円)を注文。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain で、預言っていくらなの?

f:id:jios100:20190904021800j:plain メニューに書いてなかったね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain てっきり「大預言●●円」「小預言●●円」とかメニューに書いてあるかと思ってた。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 預言に大も小もあるのか? 預言コミコミの値段なんじゃない?

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、そうか。どうりでコーヒーとしてはなかなか高い値段設定だなァって思ったわ。

f:id:jios100:20190904021800j:plain おい。

 

などと、話していると、テーブルの上にこんな物を発見。

f:id:jios100:20190903192021j:plain

あなたのための預言を聞いてみませんか?

預言は神様からのメッセージです。神様は私たち一人一人にご計画をもっておられ、励まし、助けを与えたいのです。ご来店のお客様に預言を録音してプレゼントします。ご注文の際にスタッフにお声がけください。

 

裏面には・・・

f:id:jios100:20190903192102j:plain

お客様各位。預言を受けていただく際は録音するようにしています。テープでの録音をご希望のお客様は、カセットテープのご持参にご協力いただくと助かります。(お持ちでない場合には当店に用意があります。1本150円です)また、お持ちの録音機器、ケイタイのボイスレコーダーで録音することをお勧めしています。どうぞ、ご協力ください。

上記の録音方法が難しい場合には、お客様のPCアドレスに音声をお送りすることができます。送信には十日~二週間程のお時間をいただくこともあります。ご理解のほど、よろしくお願いします。

こんなことが書いてあった。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain ん? ということは頼めば「預言」してもらえるということ?

f:id:jios100:20190904021800j:plain たぶん、そういう感じだね。 

f:id:jios100:20190904021541j:plain テープって、カセットテープ? 今どき再生できる機械あるの? ボイスレコーダーも今は持ってないな・・・

f:id:jios100:20190904021644j:plain ふふふ。僕は今日、某テレビ朝日の手法を使うために、胸ポケットにICレコーダーを忍ばせてきたのだ!

f:id:jios100:20190904022430j:plain

と、記者の三種の神器ICレコーダーを取り出す小林。

 f:id:jios100:20190904021800j:plain やる気満々やないか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 「某」になっとらんやないか。 

 

などと、くだらないやり取りをしている間に、イケメンの白人のお兄さんがコーヒーを運んできてくれる。

f:id:jios100:20190904022559j:plain

↑「預言カフェ・プレミアムブレンド

f:id:jios100:20190904021644j:plain お~、いい香り。

f:id:jios100:20190904021541j:plain ホンマに分かっとるんかいな。 

f:id:jios100:20190904022858j:plain ごゆっくり。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、お兄さん、ちょっとすみません。

f:id:jios100:20190904022858j:plain はい。

f:id:jios100:20190904021644j:plain この「預言」ってしてもらえるんですか?

f:id:jios100:20190904022858j:plain もちろんですよ。少々お待ち下さい。(ニッコリ)

f:id:jios100:20190904021644j:plain (めちゃめちゃイケメンスマイルやんけ・・・)

f:id:jios100:20190904021800j:plain なんか素敵だね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 騙されたらアカン。中身を見て判断や。

f:id:jios100:20190904014951j:plain

ほどなくして、先程のお姉さんが席までやってくる・・・3人の運命やいかに?!

 

 

▼さっそく「預言」を受けてみる

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預言を受ける直前の3人。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 本日はありがとうございます。預言を希望されるのはどなたですか?

f:id:jios100:20190904021644j:plain 全員受けたいんですけど、預言は1人ずつですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい、そうですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain この席で?

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。預言は録音させていただいています。録音機器をお持ちでしたら、ご自身でスタートボタンを押していただいて、お渡しいただければそこに録音いたします。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 持ってきてないんですが・・・

f:id:jios100:20190904015022j:plain でしたら、私どもの録音機器をご用意いたします。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、いいよ、僕のICレコーダーを使って。

f:id:jios100:20190904021800j:plain (もはや忍ばせてすらいない・・・)

f:id:jios100:20190904015022j:plain ありがとうございます。こちらのカードもお読みください。

 

といって、お姉さんが手渡したカードはこちら。

f:id:jios100:20190904023439j:plain

預言を書き出してください。イエス・キリストからの言葉をより深く心に受け取ることができるでしょう。

預言だけで方向転換や決断を急がず、状況が整えられるのを期待し確認することが必要です。

預言を聖書の原則によって吟味し理解してください。「預言CAFÉ」の本をお薦めします。

預言は条件的です。運命的に捉えることなく信仰をもって受け取ってください。

□ 礼拝(日・木曜日)へ参加することも大切です。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ナルホド、預言についての注意事項みたいなもんやな)

f:id:jios100:20190904021800j:plain (これを見ると、結構な配慮はされている印象があるね)

f:id:jios100:20190904021541j:plain お姉さん、この「預言を書き出して下さい」ってどういう意味ですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain あ、これはボイスレコーダーに録音した預言を、後で聞き直して文字にすることをオススメしてるんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain へ? その場で書けっていう意味ではなく?

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうではなく、後でですね。結構早口ですので、その場で書ききるのはちょっと無理だと思います(笑)きちんと後で内容を吟味して、受け取っていただければと思っています。

f:id:jios100:20190904021541j:plain そんなに早口なんですか。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 聞いてもらえば分かるかと。それでは、どなたから始めますか?

f:id:jios100:20190904021644j:plainf:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain ・・・・・・。

 

ここで発生する日本人的な譲り合い。

 

f:id:jios100:20190904021541j:plain じゃあ僕が。

 

勇気ある白川氏からスタート。

 

f:id:jios100:20190904015022j:plain 分かりました。ではボイスレコーダーの録音ボタンを押して、お渡しください。

f:id:jios100:20190904021541j:plain はい。ポチっとな。

 

いよいよ、預言が始まります・・・!

 

 

▼「預言」の中身はどんなもの?!

f:id:jios100:20190904023815j:plain

↑預言を受ける小林

f:id:jios100:20190904015022j:plain 主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛しています・・・

f:id:jios100:20190904021541j:plain (うわ、確かにめっちゃ早口だわ)

 

だいたい4分ぐらいの預言があったので、お店のオススメ通り書き起こしてみた。太文字は、小林が重要だと思った部分である。 

f:id:jios100:20190904021541j:plain白川さんに対する預言・全文>(本人許可済)

主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。そのサハラ砂漠のような、何かその状況に、今私のこう愛の一撃というか、何かすごい変化がある。砂漠が、割れないんですけれども砂漠が割れて、何かその地面のこの土台の根っこの部分が大きく現れてくる。だから表面の砂ばっかり見てるともうここは不毛地帯で、僕がいっくらやっても何にもならないと思っていた。でも息子よ。実にこの深いところから命の水が湧き出てくるように私はあなたに私の豊かさを、また何か繁栄ですね。何かその喜びをちゃんとあなたに用意しています。だからもう自分を責めてはいけないと主は言われます。すごく頑張ってきましたよ。あなは私が喜んでいます。見ていますよと主は言われます。人はあなたを責めたかもしれない。でも私はあなたを責めていないからと主は言われます。
そしてその経済に対してちゃんと助けるものというか、支えるもの。私はあなたに用意して、最初はこう砂浜を歩くのは結構大変。杖があって足が支えられて、でもだんだんにそのスタスタと歩いていけるように良い意味で自立と何かその変化と、かその状況があなたに見えていくだから、いや、僕は助けてばっかりではよくないからと、ちょっと無理にあなたが頑張ろうとしているけれど、息子よ、私がいっつもです、私がいっつもあなたの状況を助け、そして私があなたを支えると、だからもう1人ぼっちで歩く、何かそれではなくて、私があなたを本当に大胆にダイナミックにというかな、何かこう力づけています。あなたはそのような愛の勇士、その戦士ですよと主は言われます。
だからあなたが通ってきたその患難もその難しさも決して無駄ではなかったと主は言われます。あなたがそのような痛みをくぐり抜けてきた。もう茨の道をもう裸足でボロボロになって。でも、あなたがそのように深い痛みを知っているからこそ、その立ち上がったときにちゃんとまわりを、何かこう育てていく、何か変化を状況を変えていくあなたはそのようなものですと主は言われます。だから受けるよりも与えるものが幸いですと聖書にありますけれども、あなたが自分の分だけ欲しいじゃなくて。すごく人に与えたい。なんかすごく丁寧な思いやりがある。
息子よ、私はちゃんとその兄弟っていうかな、横並びに見たいにはちょっと感じて。ちょっとがんじがらめな何かその状況からちょっとあなたがスポッって抜けて何かこう新しいビジョンをしっかり持っていく、そしてそこから変化がその兄弟っていうか家族っていうか肉の家族だけではないですけれども、その周りにちゃんと波及をしていく伝わっていく。だから自分だけここから抜けちゃったらなんでしょうね。周りを置いていくんじゃないかって。なんかそれではなくって、まずあなたがデビューするというか、道を見ると、何かそのことによって周りが、あ、そうか。僕たちも頑張んなきゃなってちゃんとこう見ていきます。だから恐れなくていいですよと主は言われます。まだその変化に対してもちゃんと私の何かあわれみがある。
うーん。例えば、例えば、例えばの話なんですけど、毎日例えば帽子をずっとかぶってたとする。何かそうすると何か帽子ぬいだ自分がちょっと恥ずかしいっていうか。いや、ずっとこのかぶってるしなって。でもそうじゃなくてその変化の中でそれすごくいいねって、すごく良かったねって周りが何かあなたを喜んでいく。だから自分ではいやこんなことをしてあんなことをして、誰に思われるだろうってすごくあなた学校辛く感じでいる、家族や状況の中で。でも息子よ、それが本当に良かったと、何かあなたはそれを選んでいく、それを見ていきますよ、わが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますようと主は言われます。

(以上)

f:id:jios100:20190904021541j:plain ・・・・・・。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ずっと目をつむって聞いている!)

f:id:jios100:20190904021800j:plain 想像を上回るめちゃめちゃな早口で内容を吟味する暇がない・・・)

f:id:jios100:20190904015022j:plain さあ、次はどなたになさいますか?

f:id:jios100:20190904021644j:plain では僕にお願いします。

f:id:jios100:20190904015022j:plain わかりました。では、ボイスレコーダーの録音ボタンを押してからお渡しください。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ポチッとな)

f:id:jios100:20190904015022j:plain それでは、お願いします。あ、どうぞみなさんコーヒーをお飲みになりながらで結構ですよ。リラックスしてくださいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plainf:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain あ、あ、ありがとうございます!(たじたじ)

f:id:jios100:20190904015022j:plain それでは始めますね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain小林に対する預言・全文>
主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。「はしご」が例えばかかっていると。登りたくなるっていうか。あの、なんかあるんじゃないかなって。でも、こう壁にただかかってるはしごを登っても実は何もなかったなって。いろんなトラップとはいいませんが、状況に(シャッター音に気がついて1秒ほどフリーズする)あ、ごめんなさい。あ、大丈夫ですか。
・・・いろんな状況にあなたが踏み込んではなんかこう、あ、違った。なんかこれ間違ってたって自分を責めてきた。だが息子よ。もう責めなくて大丈夫と主は言われます。あながたこのようにチャレンジする。何か応答する心ですね。それは私があなたに与えているすごく良い賜物です。あ、才能です。主は言われます。だからその個性を、その思いを大事にしてくださいと主は言われます。

また失敗してもどうしようと思うと、もう手も足も出ない。何かそれではなくって、次なるつつながりが、チャレンジがあなたの人生に始まっている。あなたがそれをまとい、外套というかマントですね、何か新しい服を着て、ちゃんとそこに何か応答していく、デビューしていく、そしてその道を何か舞台を、状況を何か整えていく。それは私があなたに与えていく恵みですと主は言われます。

だから人たちもあなたを振り返る。あなたを喜ぶと主は言われます。出会わなかった人たちにあなたは出会っていくでしょうと主は言われます。まぁ分野というのかな。例えば自分はこういう役割、こういうお仕事。だからこういうビジョンの人とかこういう状況の人とはちょっと話が合わないじゃないけど、ちょっと関係ないかなと思っていた。でも実にあなたは多様性に富む。なにか人たちの状況に対して、すごく憐れみ深い、その慈しみ深い、それは私がそのように憐れみ深く、いつくしみ深い、その私の愛を、み父の愛ですね、天のお父さんの愛をあながたこの地であらわしていくように、私はあなたに新しい家族をその役割を、つながりをちゃんと用意していますと主は言われます。

だから子供の頃にすごく願っていた、なんかこうなりたいなって、なにかその思うがなにか形を変えて現実になる。そして本当にこれで良かったと。僕が本当にほしかったっていうか、知りたかったことはこのことだったと、ちゃんと分かっていく。何か理解していくと主は言われます。
だから何かこう人間的な目線というかな、今の理解する範囲で私を知ろうとしなくていいと主は言われています。私のみ思いの総計を知ることは砂の数を数えることよりも難しいことですと主は言われます。あなたの思いをはるかに超えて私の目線は高い、そして私は良い神ですと主は言われます。家族を心配しないで、恐れないで大丈夫と主は言われます。つい心配して、やっぱり何ていうんでしょうね。うーん、お母さんの願っているとおり、お父さんの願っているとおり、何か周りが自分を信頼してくれているから、何か聞き分けの良い、すごくいい子でありたい、でも息子よ、あの、すごくこうあなたの中に待ち望んでいた時、何かその時間が、状況が動いてみると、実は周りもそれを待っていたというか、何かそれをあなたが知ると主は言われます。

だからすごく細やかな感性ですね。でもそれでありながらその骨太な、何か真理の柱をしっかりと家に、例えば家だったら柱がしっかりと立っていくように、私はあなたを大きく用いていきます、膨らませていきますと主は言われます。経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます。手放したと思うもの、振り返ってはいけないと主は言われます。

あなたがしっかりと何か道に対して、おそれずに何か果敢に取り組んでいる、だからこの自分ではちっちゃい努力っていうか、みんなには言わない、見せていない、でもそれであっても息子よ、私はあなたの努力を見ています、喜んでいます。だから地道に思う時間の積み重ねのその、現れを、結果を私はちゃんと大事にして、あなたの人生にそれを返していきますと主は言われます。我が愛する息子よ、私はあなたとともにあると主は言われます。
(以上) 

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい、ボイスレコーダーをお返しします。どうぞ。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (すげぇ、終わった瞬間に冷静になる感じがヤバい)

f:id:jios100:20190904021541j:plain (一瞬、僕のシャッター音にびっくりして止まってから、1秒ぐらいかけて集中戻した感じがしたな)

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい。それでは次の方は・・・

f:id:jios100:20190904021800j:plain 私にお願いします。

 f:id:jios100:20190904015022j:plain では始めます。

 

f:id:jios100:20190904021800j:plain岡田さんへの預言・全文>(本人了承済)

主は言われます。わが愛する息子よ私はあなたを愛しています。あなたをすごく喜んでいますと主は言われます。あの、横笛をふく人、私、笛は吹かないんですが、何かこうふくかのようにあなたが奏でる何かその柔らかなメロディーというのかな、すごい深みがあって、でもすごく繊細。なんかそれがあるからこそ、人たちがちゃんと心、何かその思いを、なにかこう思いを取り戻すというのかな、何か荒れてて、もうカラカラで干上がってもう状況何にもわからないと思うと、もうみんな気持ちが荒んで、もう何か、そこに水に石を投げるみたいに一等地を、何かこう投げていく。何かそれによって人がちゃんと振り返る。ああそうだったこんなことをしてはいられないと。だから息子よ、あなたの手に今されている。何かこうて手に持っているその武器というか、持っているその良いものをますます大きく何か成長させる。だからスキルアップというか、見える資格とかそういう話だけではないんですが、何かもっともっとあなたは大胆であっていい、自由であっていいと主は言われます。
私はそのメロディーが、本当にこう風に乗っていく。風にあおられていくというのも変ですけれども、なんでしょうね。出会っていない人たちが、何かあなたを聞きつけてやってくるというか。僕はその人たちには笛はふえていないと。僕はその人たちは知らないと思っても、ちゃんとあなたが必要なもの、存在が本当に大きなものとして、かけがえのないものとして呼ばれていく。だから息子よ、焦らずに、何かそのときを待ってきた、あなたの誠実さ、その忍耐強さを私は決して忘れてはいないと主は言われます。

いろんな人たちが(ここで涙ぐむ)あなたを追い抜いていったというか、なんかすごい辛かった。でも息子よ、私はちゃんとあなたの人生に私の実りがあるように、喜びがあるように、今、移動のとき。本当に新しい変化と「聖化」のとき、「成長」のときそれが新たに与えますと主は言われます。
また家族を心配しないでと主は言われました。心配してないと、なんかこう言っても何か不思議に心配しているというか、どう思われているか、どうかなってでも私はちゃんとそれぞれの人生に良い計画をしています。1人1人が私の息子であり、私の娘ですよと主は言われます。なんか自分はやりたいことをやってあげてない。何かこう例えばですけど、使えてあげたい、こうしてあげたいと思うけど十分にできていないと。そのように責めないで。あなたの祈る声、求める声に、私がいつも応じている。だからあなたの祈りは声はちゃんと私に聞かれていると主は言われます。
また山に向かって海に入れと。その宣言する何かそのように、そのあなたがからし種ほどの信仰と思った。小さいこんな気持ちでいいのかなって。でもこの山が海に入っていくように今あなたが時代の流れを超えていくように、私はその大きな変革者としてあなたを呼んでいると主は言われます。
だから息子よ、生きることを心配しないでと主は言われます。こんな小さい、こんなに何か幼いと、何かあなたが思ってきたけれども、実にその子供のように信じる信仰ですね。何かそれを私がいつも愛しているように、これだけわかった、こんなふうだったじゃなくて本当にこんなふうに変わったと。何かあなたの日々が本当に新しくされていく。私はそれをあなたに与えます。何かこうふりしきる雨のように、シャワーのように、私の聖霊の雨を、日々受ける。なにかそのものであってくださいと主は言われます。

古い何かチリとかホコリとかもう知らずに新たの心を締め付けてきた。何か古い考えが、痛みが今本当に洗い流されて、あなたは立ち上がる。あなたは勇気を得る。あなたはよみがえると主は言われます。わたしがよみがえりです。わたしが命です。だから語る言葉を恐れずにいなさいと主は言われます。向かう場所も、何がそこここでというかな、なんかこうちゃんと私の知恵が与えられる。だからここ行って、何話すのかな僕どうするのかなってこう考えちゃう。でもそうじゃなくって、そのときにその知恵が私によって与えられる。あなたはますます喜びへ、ますます私の平安を知ると主は言われます。だが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますよと主は言われます

(以上)

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい。ありがとうございました~(すぐさま席を立つお姉さん)

 f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、ちょっと待ってください!

 f:id:jios100:20190904015022j:plain はい?

f:id:jios100:20190904021644j:plain  いくつか質問が。

 f:id:jios100:20190904015022j:plain なんでしょう。

 

この謎な「預言」だけでは引き下がれない・・・! 本番の質問タイムが始まる!!

 

 

▼「預言」について聞いてみた

f:id:jios100:20190904023439j:plain

f:id:jios100:20190904021644j:plain このカードに書いてある、「預言は条件的です」っていうのは、どういう意味ですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain ああ、それですね。預言というのは、一方的に決められている運命のようなものではありません。必ずそれを信じる「信仰」が必要になってきます。神様から示された言葉を信仰を持って受け取るのと、かならずセットなんですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド? 言われたことが自動的に全て実現するっていうわけじゃなくて、信じる行為が必要ってことですか? 

f:id:jios100:20190904015022j:plain 信じる「行い」が必要だという意味ではないんですが、神様は人間と人間関係を持ちたいと思っておられるんです。手を差し伸べているけど、その手を人間が取る必要があるというか。その関係性が「預言」を受け取るには必要という意味で「条件的」という表現をしています。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 一方的に決まっちゃうわけじゃなくて、あくまでも神と人との双方向のやり取りっていうことかな。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain もう何点かだけ。さっき、「はしご」とか「笛を吹く人」っていうイメージが出てきましたよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺は「砂漠」だったな。

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ああいうイメージは、どこから来てるんですか? 神から「降ってくる」んですか? それとも頭で思い浮かべてるんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain 「降ってくる」という表現が適切かどうか分かりませんが、私たちは「信仰をもって”受け取る”」という表現をしています。神様が伝えようと思っておられるものを、聖霊様の導きで感じ取って、それをお伝えしているんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 「預言」全体がそうなんですか? 神様の声が聞こえたりするんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain いえ、あくまでも神様が語られていることを、感じ取るというか、「受け取る」ということです。別に何か私に特殊能力があるわけではなく、神様はみなさまお一人おひとりに語っておられるんです。それをお伝えしているわけですね。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain 「預言」をするには、資格などが必要なんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain いいえ。何か特別な資格が必要なわけではありません。クリスチャンであれば、誰でも預言ができます。もちろん、「預言カフェ」では人様に預言をさせていただいているので、それなりの「訓練」というか、一定のものを学んだ後でお店には立っています。けれど、「預言」は本来はクリスチャンであればどなたでもすることができるものなんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド。全員ができるんですね。(※これについては詳細は後述)

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。詳しくは毎月「預言カフェ」の創設者によるセミナーをやっていますので、そこでお聞きできますよ。無料のセミナーなので、ぜひお気軽にお越しくださいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ありがとうございます。

 

こうして、男3人は会計を済ませ、店をあとにしたのであった・・・

 

 

▼ぶっちゃけ、「預言カフェ」はどうなの?

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「預言カフェ」を退店した3人。本音としては、どうだったのだろうか。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ぶっちゃけ、どうだった?

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺は正直、イメージと全く違ったというのが本音かな。もっと占いチックなことされるかと思ったけど、違った。かなり勘違いしてたな。自分の予想を上回ってきた感じ。預言が合ってるかどうかというよりも、言われた言葉を神様の言葉として受け取ったときに、「自分はめちゃめちゃ神様に愛されてるんだ」ってことを実感したかな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 店に入る前とは、やっぱりイメージは変わったよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain あと、自分は既に不安や恐れから解放されてるんだって思ってたけど、そうとも限らないんだなって思った。まだ頭では理解できてないけど、今日言われた言葉を神様の言葉として捉えたときに、ものすごく納得したっていうか。安心感があった。一言付け加えるとしたら、個人的にはもっと「聖書の言葉」があってもいいのかなぁとは思った。

 

f:id:jios100:20190904021800j:plain 僕も、総じて印象は悪くなかったかな。スタッフの方の礼節、接客、コミュニケーションの距離感も嫌なところは全くなくて。視線を合わせれば、自然と笑顔で応えてくれるし、必要以上に押し付けがましく話しかけられることもなかった。質問に対する説明も丁寧だったし。コーヒーもちょっと高いけど、美味しかったし、預言コミコミならまぁそんな感じかなって。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 接客はほんと丁寧だったね。店員のお姉さんの対応、話し方はとっても丁寧だった印象。

f:id:jios100:20190904021800j:plain ぶっちゃけ、預言そのものは良く分からなかったな(笑)何か具体的なものを指しているわけじゃなくて、曖昧なイメージというか。本当に神様の言葉かどうか、白黒つけるのは難しいと思う。ただ曖昧ではあるけど、聞いていて嫌な感じではなかった。

f:id:jios100:20190904021644j:plain そうだねぇ。個人的には、何か曖昧なイメージを伝えて、受け取り側が勝手に都合よく解釈するという「占い師あるあるの手法」の域を出ないと感じたかな。「砂漠」「はしご」「笛を吹く人」なんて言ってみたり。「もう心配しなくていい」とか「頑張らなくていい」とか「成長のタイミング」とか、結構どんな人にも当てはまりそうじゃない?(笑)

f:id:jios100:20190904021800j:plain 今日の店員さんの預言は、超えちゃいけないラインは超えないいい塩梅だったと思う。ただ、予想だけどあれも店員さんによってクオリティに差があって、店舗を拡大していくと、どうしても危ない預言をする人も出てくるんじゃないかっていう懸念はあるね。

 

f:id:jios100:20190904021541j:plain あとは、「教会に来てください」っていう勧誘がなかったのが意外だったかな。もらったカードの一番最後に「礼拝が大事」と書いてあるだけで、「ウチの教会に来てください」って一言も言われなかったよね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 確かに、教会にダイレクトにつなげようとする勧誘じみたものは全くなかったね。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 違和感があるとすれば、なぜ「預言カフェ」を営業しているのかっていう「目的」かな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 確かに。「預言カフェ」ってそもそも何を目的に作られたんだろう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 僕個人としては、「神の素晴らしさ」「イエスの素晴らしさ」を伝えるために作ったんじゃないかなと想像してるけど。じゃあ「預言」を「神を伝える手段」として使うのはアリなのだろうか? っていう疑問があるんだよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 確かに。今の「預言カフェ」をイエスが見たら、頭をポリポリ掻きながら「ちょっと違うんだよなァ・・・」ってつぶやくような気がする。勝手なイメージやけども。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 結論としては、預言そのものの内容が真実かどうかは、分からない。だけどもカフェ自体には嫌なところはなかったかな。でもカフェの目的や、預言を手段とするところに違和感を覚えたって感じ。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド。2人とも、今日はありがとうございました。
f:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain ありがとう〜。またね!

 

▼預言カフェは大丈夫なのか? 小林の個人的見解

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 さて、今回はコミカルなテイストでお伝えしたが、最後にあえて真面目モードに戻って、小林の個人的な見解を述べたいと思う。「預言カフェ」はアリなのか、ナシなのか。怪しくないのか。今回、実際に足を運び、ある程度の結論が個人的に出たのでお伝えする。

 結論としては、評価できるポイントと、できないポイントがあった。個人的にまとめてみる。

<評価できる点>

・店の雰囲気、店員の接客、コーヒーの味など、カフェとしてのクオリティは及第点だった

・「預言」についての素朴な疑問に、丁寧に対応・説明がされていた

・「預言」の中身は至極曖昧であったが、逆にその慎重さが「踏み込みすぎない」という意味で、個人的には評価できた。決して「あなたの将来はこうなる」などと断定するようなものではなく、あくまでイメージを伝えるにとどまっていた。

「預言」の内容も客への励ましがメインであり、何か災いを予知し、不安を煽るようなものではなかった

・基本的には、聖書の記述をもとに主義・主張が展開されており、その内容に聖書の記述からの大きな逸脱は感じなかった

 

 「クリスチャンならばみな預言ができる」というお姉さんの発言に、驚いた方もいたかもしれない。先ほどは述べなかったが、実はこれは聖書にれっきとした記述がある。見てみよう。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~33)

 

 ここに「だれでも一人ずつ預言することができる」と明記されている。新改訳聖書第3版では、「みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができる」と書いてある。この「すべての人」というのは、文脈的にイエスを信じるクリスチャンたちを指す。だから、店員のお姉さんが言っていた「クリスチャンはみんな預言ができる」という主張は間違いではない。その点は評価できる。

 また、預言の中身も、かなり曖昧なものであった。しかし、その曖昧さが「踏み込みすぎない」という意味で、逆に評価できるポイントだった。事前に聞いていた噂では、「カーテンの色を変えた方がいい」とか「家具のレイアウトを変えたほうがいい」とか、風水や占いじみた預言がされているという話だった。しかし、実際はそんなことはなく、曖昧なイメージを伝えるのみであった。

 これは、評価ではなく分析だが、超えてはいけないラインは超えないように、おそらく運営側の教会が相当なマニュアル作り、預言をするスタッフを訓練しているのだろうと感じた。預言の内容も、3人分しか聞いていないのだが、おそらくこんな教育がされているのだろうと推測できる。

<預言カフェの預言のあり方>

・「主は言われる」というフレーズを繰り返し、強調する

・預言の対象者は「父なる神の息子(娘)である」という立場に立つ

預言のはじめは、預言を受ける人についての「映像で表すイメージ」から始める

基本的に「あなたはダメだ」「失敗する」などといったネガティブな預言はしない

過去の痛みや傷を再認識し、そこからの癒やしや解放を目指す「励まし」の預言が主体である

・1回の「預言」はおおよそ4分でまとめる

・イメージの多くは聖書から引用している。時たまに聖書の言葉を引用するが、クリスチャン用語はなるべく排除して伝えている

 

 評価できるのは、「あなたは失敗する」などといったネガティブな預言はしていないという点だ。占いの多くは「このままでは災いが起きるなどといって、そこから逃れるための方法を伝えるものだが、預言カフェの預言はそういった「占い」とは一線を画している。実は、これも聖書の記述に関係がある。

しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。(中略)預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:3~4)

 

 預言は「人に語るもの」である。そして、「人を育て」「励まし(勧め)」「慰める」ものである。その意味で、預言カフェで今回受けた預言は、内容こそ曖昧だが、人の心を癒やし、解放し、励ますことに主眼が置かれているように感じた。

 例えば、岡田氏に語られた「いろんな人たちがあなたを追い抜いていった。辛かったでしょう。でも息子よ、あなたの人生に喜びがあるように」との言葉や、白川氏に語られた「あなたが通ってきた患難は、決して無駄ではなかった」といったような言葉は、明らかに相手を励ます言葉である。何が具体的に辛かったとか、患難だったのかは語らないところがズルイ部分ではあるが、裏を返せば、大外れしないように工夫されたやり方でもある。超えてはいけないラインを超えないように、それでいて相手が過去を振り返り、慰められ、励まされるように、よくできた仕組みといえよう。スタッフも、この点はかなり訓練されていると感じた。

 また、私に預言された「はしご」のイメージは、おそらく聖書に登場する「ヤコブのはしご」(創世記28章)から連想したものだろう。岡田氏に対する予言では、「わたしがよみがえりであり、いのちである」というイエスの言葉を引用している。そのように、預言の中で聖書の言葉を引用するのは、決して間違っている行為ではない。「預言」は「神から預かる言葉」なので、聖書の言葉をそのまま語るのは、まさに本物の「預言」である。

 また、お姉さんが「聖化」と言いかけて「成長」と言い換えたところから、「クリスチャン用語をなるべく使わない」というポリシーが透けて見えた。「聖化」というのは、クリスチャン用語で平たく言えば「イエスのような人格に成長すること」を指す。しかし、一般のお客さんにはそんなクリスチャン用語は通じないので、「成長」と言い換えている。このような言い換えは、スタッフの言動の随所に見られた。預言について説明を求めた際も、なるべくクリスチャン用語を排除して説明する努力が垣間見えた。その点の努力は評価したい。

 預言を一律で「4分前後」にしているのも、何か意図がありそうだ。スタッフのお姉さんは、預言をしながら、目をつぶって瞑想しているのだが、時たま目を時計にやり、時間経過を確認していた。店として、時間をきっちり決めるのはよいことで、それは評価したい。しかし、本当の預言ならば、短くなる場合も、長くなる場合もあるのではないかと感じた。少しビジネスライクのように感じた。

 

 では、懸念すべきポイントは、どのようなものがあるのだろうか。まとめてみた。

<懸念すべきポイント>

「主は言われる」という断定口調が踏み込みすぎではないか

・曖昧なイメージだけを伝えるのは「踏み込みすぎない」という意味では評価できるが、「誰にでも当てはまることを言って解釈させる」という占いでありがちな手法の域を出ないのではないか

・「息子よ」と連呼されても、キリスト教の「神=父」「イエス・イエスを信じる者たち=息子」という概念を知らない人にとっては恐怖でしかない

預言の内容が、人の見た目に左右されている可能性

 一番懸念すべきなのは、「神の名を軽んじていないか」という点である。「主は言われる」というのは、「神はこう言っていますよ」という意味なので、非常に重い言葉である。気づいた読者の方もいると思うが、「預言カフェ」の預言の中で「主は言われます」という言葉がかなり多く使われている。たった4分程度の預言の中で、白川氏は10回、小林は20回、岡田氏は15回も「主は言われます」と言われている。3人合計で、なんと45回も言われているのだ。

 「主は言われる」と宣言するというのは、それが絶対起こらないといけない。そうでないと、神の名前を使って、嘘を言っていることになる。中には「あなたを愛していますと、主は言われます」という普遍的な、100%間違いない聖書の言葉をもって宣言している部分もある。そこは問題ない。しかし、必ずしも正しいと思えない預言でも「主は言われます」と言ってしまうと、それは神の名前を使って嘘をつく行為になる。いわば「冒涜」になってしまうのだ。

 例えば、私に対して預言された「経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます」という言葉は、果たして本当なのか。必ずしも、全員に当てはまるような内容ではないかもしれない。その場合、本当にこんな軽々しく「主は言われます」と宣言していいのだろうか。経済活動については、必ずしも聖書に明確な記述がたくさんあるわけではない(少数はあるが)。

 あまりに主の名前を軽く用いるのは、決して良い行為ではないと、私は思う。もし仮に今の「預言カフェ」のような活動をするならば、「主は言われます」ではなく、「主がそう言われると、私は思います」とか「主はこう言われていると感じます」などと、主語を自分にした方が懸命だ。

あなたは、あなたの神、主<しゅ>の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

出エジプト記20:7)

昔から、私(エレミヤ)と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

エレミヤ書 28:8~9)

 

  また、曖昧なイメージだけを伝えるのは、「踏み込みすぎない」という意味で賢いが、裏を返せば「誰にでも当てはまる曖昧なことを言って、相手に解釈させ、まるでズバリ言い当てたかのような錯覚をさせる」という「占いあるあるの手法」の域を出ないと思う。「預言」をまるで「占い」かのように用いて商売をしているという批判は、この状態では免れないであろう。

 もちろん、この点については、かなり詳細な注意書きが書いたプリントを手渡されたり、オーナーの著書の詳細な記述があったりと、一定の配慮はされていたようには思う。

 

 また、岡田氏の指摘のように、このカフェの目的が「神の素晴らしさ、イエスの素晴らしさを伝える」というものであったとしたら、その手法が適切かどうかについては、疑問が残る。例えば、「あなたを愛しています、息子よ」という言葉が、何度も何度も預言の中に出てくる。これは、「神=父」「イエス=息子(長子)」「イエスを信じる者=息子(長子に続く子どもたち)」という聖書の概念を知っていて、初めて理解できる言葉だ。聖書の概念を知らない人にとっては、いきなり知らない人に「息子よ」と言われても、怖いだけ。いや、私あなたの息子ちゃうし、って思ってしまうだけだ。

 それに加え、スタッフさんが預言をかなり早口でまくしたてるため、少し圧がある。正直、「怖い」と思ってしまったのは事実だ。「預言カフェ」が初心者に優しい設計になっているかという目線で見ると、少し敷居が高すぎるような気がする。

 聖書になじみがない客が来る場合に備えて、もう少し「預言とは何か」というものを説明してから預言の行為に入った方がよいのではないかと、私は思う。今回は、預言を頼むなり、スタッフさんがいきなりテーブルに来て、ボイスレコーダーを手渡した瞬間に、早口で預言をまくし立てていた。預言が終わると、何のフォローもなく、席を立とうとしていた。もう少し、「預言」とは何かを丁寧に説明する必要があると思う。

 ただ、預言を「神の素晴らしさを伝える」ために用いるのは、決して間違いではない。聖書にこう書いてある。

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神がたしかにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。

(コリント人への手紙第一 14:24~25)

 預言は、神の素晴らしさを伝える、いわゆる「伝道」のために用いてよいツールなのである。

 

 最後に、「預言」とは言いながら、人の見た目に左右されたものが多かったのが気になった。例えば、白川氏は仕事が休みだったので、アロハシャツ。私は仕事終わりだったので、スーツで向かった。その結果、白川氏は少しファンキーに見えたのだろうか、過去の心の傷や痛みに言及するものが多かった。また、白川氏は帽子をかぶっていた為か、預言にも「帽子をかぶっている」という言及があった。

 一方で、スーツだった私に対しては、「経済」や「仕事」、「家族」に関する言及が多かった。単なる邪推だが、「人を見た目で判断し、そこから予測して預言しているのでは?」と思ってしまった。私がもう一度、今度はTシャツ、短パンで髪の毛を金髪に染めていったら、果たして同じような預言になるのだろうかと、いじわるのようだが感じてしまった。神はうわべではなく、心を見る方なので、もし本当の預言であれば、見た目には左右されない預言ができるはずなのだ。


 今回の記事は、今までで最も長い記事となったが、それだけたくさんの言及をしなければいけないほど、「預言」というものは深く、また間違えやすい要素である。しかし、聖書には「預言」がしっかりと明記されている。聖書に記述がある以上、「もはや預言はない」などと言うつもりはない。

 問題は、与えられた能力・賜物をどう用いるかだ。包丁で料理をするのか。それとも人を刺すのか。便利な道具ほど、扱いは慎重になるべきだ。その意味で、「預言カフェ」は評価できる点はあったものの、若干、慎重さに欠けるのではないかというのが、私の意見である。

 気になった読者の方は、ぜひ一度、自分の足を運び、実際はどうなのか確認していただけたら良いだろう。その上で一番大切なのは、神に祈り、神ご自身がどう思われているかを求め、聞いてみることだと思う。

 

ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。(中略)預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。

申命記 18:20~22)

だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

(コリント人への手紙第一 14:37~38)

 
(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。