週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<前編>

教会で繰り返し唱える「主の祈り」、同じ言葉を繰り返して唱えるのに意味はあるのでしょうか?

 

 

▼「主の祈り」が矛盾しちゃってる問題

f:id:jios100:20181026013200j:plain

 「主の祈り」は、現代でも多くの信者が唱える有名な祈りの文言だ。礼拝会で、毎回「主の祈り」を暗唱する教会も多い。これは、イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りだ。マタイの福音書とルカの福音書に記述がある。マタイの方を紹介しよう。

 

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 なるほど。確かに、エスはこのように祈れと命じている。だから、今日でも教会で、クリスチャンたちがこの言葉を繰り返し暗唱しているのだ。

 どうしてイエスは「こう祈りなさい」と教えたのだろうか。ちょっと立ち止まって、前の文脈も見てみよう。

 

(以下、全てイエスの言葉)
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父(=神)に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい・・・

(マタイの福音書 6:5~9) 

 

 違和感を覚えないだろうか。「祈る時、同じことばをただ繰り返してはいけません」とある。イエスは、その後で、「こう祈りなさい・・・」と教えているのである。それならば、「主の祈り」を繰り返し唱える習慣こそが、「同じことばをただ繰り返している」状態ではないだろうか。私は、子どもの頃からこの矛盾が心にひっかかり、ずっとオカシイな・・・と思っていた。 今回は、この「主の祈り」の矛盾について書く。

 

 

▼「主の祈り」の本質は、その中身にある

f:id:jios100:20181026013317j:plain

 イエスは、「同じ言葉を繰り返すな」と言ったあとに、「このように祈れ」と命じた。この言葉をただ繰り返し唱えるだけでは、イエスの命令と矛盾してしまう。

 では、どう考えたらいいのか。答えはシンプルだ。発想の転換をしてみよう。イエスは、「この言葉を繰り返し唱えよ」ではなく、「このような内容で祈ってごらんなさい」と言ったと考えればよいのだ。つまり、「主の祈り」の文言は、ただそのまま繰り返すためのものではなく、自分の言葉で祈るためのガイドラインと捉えるのだ。こう考えれば、「同じ言葉をただ繰り返す」ことにはならない。

 主の祈りは、基本的な祈りのポイントを抑えた、とても大切なものである。そのポイントを抑えるために、主の祈りを暗唱するのは良いことだと思う。ただ、呪文のようにこの言葉を繰り返すのではいけない。「主の祈り」の中身をしっかりふまえた上で、心から祈る必要がある。

 では、主の祈りの中身とはどんなものだろうか。今回は「主の祈り」を以下の8つに分割して考えてみる(前半は1〜4について書く)。

 

【主の祈りの8つの要素】

1:神への呼びかけ

2:神の名を賛美する

3:御国の到来を願う

4:神の計画の成就を願う

5:必要の満たしを願う

6:罪の赦しを願う

7:赦しを受けた後のリアクション

8:悪からの救済を願う

 

  

1:神への呼びかけ

f:id:jios100:20181026013539j:plain

 最初の一文は、いつも見逃されがちな、大切な祈りの要素だ。「主の祈り」はこう始まる。

天にいます私たちの父よ。

 これこそ、大切な祈りの要素である。祈りのはじめに、神を「私たちの父」と呼んでいるのだ。これは、ユダヤ人にとっては、びっくり仰天のパラダイムシフトだった。彼らにとって神は「イスラエルの父」であっても、「わが父」とはとても呼べるような存在ではなかった(※筆が進みすぎたので詳しくは別記事で)。
 しかし、神は、私たちを「子ども」としてくださったのである。

 

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

(ローマ人への手紙 8:14~15) 

  本来、イスラエルの民ではない、外国人の私たちは「神の子ども」ではなかった。しかし、イエスを通して、神は私たちへの愛を示してくださった。そして、聖霊を与え、外国人である私たちさえも「子ども」としてくださったのである。神が私たちを「子ども」としてくださったからこそ、私たちは神を「わが父」と呼べるのである。

 また、「天にいる」という部分も大切だ。私たちの神は天におられる、全てを治めている神である。神の偉大さ、そのキャラクターを宣言し、そして「私たちの父よ」と呼びかける。これが、祈りの始まりなのである。

 実際に、こう祈ってみたらどうだろうという、例をいくつか挙げる。あくまで、例であって、いろいろな形があって良い。

<祈りの例>
●天にいるお父さん・・・

●この世界の全てを造った神様・・・

●愛する天の主よ・・・

●王の王である天の父よ・・・

 

 

▼2:神の名を賛美する

f:id:jios100:20181026013809j:plain

 「主の祈り」は、以下のように続く。

御名が聖なるものとされますように。

 

 「呼びかけ」の次の要素は、「賛美」である。しかも、単純な賛美ではない。伝統的な言い方では、「願わくは、御名を崇めさせたまへ」と祈る。この表現には、「あなたを賛美します」以上の、奥ゆかしさが表れていると思う。

 本来、人間は神を賛美することすら値しない存在である。ちっぽけで、神様に向かって言葉を発するのすらためらわれる弱い存在、それが人間だ。旧約聖書の時代は、神の顔を見ただけで「死んでしまう」とされていた(士師記13:22、イザヤ6:5)。それほど神は恐るべき存在なのだ。だから、せめて「願うことなら、あなたの名前が崇められますように」と言うのだ。

 もちろん、「神を賛美してはいけない」とはならない。ただ、神はそれほど恐れ多い存在なのだと知らないといけない。神への恐れを理解すればするほど、その神ご自身が、人(イエス)となって地上に下り、死んでまで愛してくれたというのが、どれほど、めちゃんこスゴイのか、理解できるようになるからだ。

 

<祈りの例>

●神様、あなたの名前が聖なるものとされますように・・・

●全世界で、あなたの名前が崇められますように・・・

●あなたの素晴らしさを、賛美させてください・・・

●あなたはどれほど恐れ多い方でしょうか。あなたの前にひれ伏します・・・

 

 

3:御国の到来を願う

f:id:jios100:20181026014022j:plain

 さて、「呼びかけ」、「賛美」の次は、「願い」に入る。しかし、自分の満たしを祈るのではない。3番目は、「御国の到来を願う」祈りだ。

 「御国」というのは、言い換えれば「天国」のことだ。「天国」といっても、大方の読者の方々が想像するような天国とは、少しニュアンスが違うと私は思っている。天国は「行く」ところではなく、「来る」ものなのである。もっと日本語的に言えば、「天国は実現するもの」なのだと、私は思っている。だから、イエスも、「天国に行けますように」と祈れと言っていない。イエスは、こう祈れと教えている。

御国が来ますように。

 

 詳しくは別記事を書く予定だが、この世の終わりに、イエスは再び地上にやって来る。そして、「新しい天と新しい地」を創造する。これが完全な「御国」、福音書では神の国と表現する状態である。では、「御国」は、いわゆる「世の終わり」まで実現しないのだろうか。私は、違うと思う。

 イエスはこうも言っている。

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです

(ルカの福音書 17:20~21)

 

 もし「御国・神の国」が、世の終わりまで実現しないのであれば、神の国はあなたがたのただ中にある」というのは矛盾してしまう。では、どういうことなのか。

 こう考えてみたらどうだろう。神の国の完全な実現は、イエスがこの地上に帰ってきて、新しい天と地を創造するときだ。しかし、そのエッセンス、その状態は、この地上でも実現可能である。神の国は、人と人との人間関係の間に実現する」と。

 「あなたがたのただ中にある」というのは、とても重要な言葉だ。人間がひとり、どんなに正しく生きても、そこに「神の国」は生まれない。人と人との人間関係の間に、「神の国」は実現する。私たち人間は、一人ひとりが「ミニ・イエスとなり、人と人が個人的に愛によってつながる時、そこに「神の国」の状態が現れる。一瞬かもしれない。不完全かもしれない。しかし、確かに「神の国」のエッセンスはそこに実現する。

 だから、「御国が来ますように」というのは二重の意味があると思う。

 ひとつは、イエスが帰ってくるのを待ち望むこと。これは、聖書にも書いてある。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 もうひとつは、今生きている地上で、「神の国」のエッセンスが実現すること。互いに愛し合うという、イエスの教えによってそれは実現する。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:24~25)

 

 何より、神の国は第一に求めるべきものである。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6:33)

 

 他の何よりも、まず「御国」を願う。そうすれば、その他の「願い」は全て与えられるのだ。だから、一番最初に祈るべき、一番重要な願いは、この「御国」なのである。

 

<祈りの例>

●あなたの御国が、早く来ますように・・・

●イエスさま、早く帰ってきてください・・・

●あなたの「御国」の一部でも、この地上で実現しますように・・・

●「神の国」が来ますように。そのために互いに愛し合えますように・・・

 

 

▼4:神の計画の成就を願う

f:id:jios100:20181026014457j:plain

 ここで、不思議な言葉が出て来る。「みこころ」だ。本来の日本語にはない。簡単に言えば、「神の計画」を指す。聖書を気仙沼の方言で翻訳したことで有名な山浦玄嗣氏は、この「みこころ」を、「神様のお取り仕切り」と訳した。山浦氏がおじいちゃんなので、ちょいとばかり古めかしいが、名訳である。現代風に訳せば、「神様のご意向」とでも言おうか。「天の思し召し」でもいい。要するに、「神様の計画通りに物事が進みますように」という意味だ。

 その上で、今一度イエスの言葉を見よう。

 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 

 まず、この祈りの前提として、「天では神の計画通りに物事が進んでいる」という考えがある。未だかつて天に昇った者はいない(ヨハネ3:13)、それゆえに、天の実情は誰もわからない。しかし、かつて天にいたイエスが言うのであれば、真実なのだろう。

 問題は、この地上での神の計画の成就だ。この地上でも、神の意向がなるように、祈る必要がある。だからイエスは、「地でも行われますように」と祈るよう教えたのだ。

 日本人は、これにピンとこないようである。「神がいるなら、どうして世界に戦争があるのか」「神がいるなら、どうしてこんなひどいことが私の人生に起きるのか」・・・よく聞く疑問である。詳しくはまた別記事を書くが、神がこの世の中の基準で、何か自分に良いことをしてくれる存在だと思ったら、大間違いである。神はご利益をくれる、都合のいい存在ではない。そんなスケールで神を考えること自体が間違っている。

 聖書そのものが、神が真実であり、人のスケールで神に物申すのが、いかに的外れかを指摘している。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二 2:13)

ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師(神)を粘土(人)と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

イザヤ書 29:16)

すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」といえるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~21)

 

 人は、常に神の方向とは違う方へ進みたがる性質を持っている。世の中、なぜかそういう方向にベクトルが働いているのだ。だから、「神の計画が、天で完璧に遂行されているように、この地上でも、どうかそうなりますように。人間は神の意思とは違うベクトルに進みがちです。どうか神の計画が成就するようにしてください」という祈りが必要なのである。

 

<祈りの例>

●どうか、あなたの計画が実現しますように・・・

●自分の思いではなく、神の思いを行えますように・・・

●天では完璧な愛が満ちているように、愛がない自分が愛を実行できますように・・・

●自分にベクトルを向けるのではなく、神に、目の前の一人の人にベクトルを向けられますように・・・

 

 

▼「主の祈り」前半まとめ

f:id:jios100:20181026014857j:plain

 「主の祈り」の順番は、とても精巧だ。まず、1:神に呼びかけ、2:神を賛美し、3:神の国の実現を願い、4:神の計画の実現を願う・・・。

 「主の祈り」の前半に、「自分のお願いごと」は、ほぼ入っていない。もちろん、「神の国の実現」や「神の計画の実現」が、心から自分のお願いごとになっているのであれば、素晴しい。でも、現実、人間は弱い存在だ。なかなかそうはならない。そんな弱い人間のために、イエスは、「こう祈ったらブレないぜよ」とガイドラインを与えてくれたのだ。

 次回は、「主の祈り」の後半に入る。後半の祈りは、より生活に迫る、現実的に人間が必要とする祈りの内容になる。

 

(了)