週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】牧師は「礼拝会」を休んじゃダメなのか?

牧師たるもの、毎週日曜日の「礼拝会」を休んじゃいけないんだそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼牧師の子どもはカワイソウ?

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 牧師の子どもはかわいそうだ。こんな意見をツイッターで見かけた。なぜかというと、「牧師の子どもは日曜日のイベント、例えば運動会や、部活の試合の応援などに来てくれないから」だという。確かに、子どもの晴れ舞台に親が臨場できなければ、子どもにとっては寂しいだろう。

 なぜ牧師は日曜日のイベントに来られないのか。「牧師は必ず日曜日の礼拝会に出席しなければならない為」だという。なぜ日曜日の礼拝会に出席しなければいけないかと聞くと、「多くの教会が牧師の欠席を許さないから」だという。

 ここまで聞いて、私はひとつ疑問に思った。「聖書には何と書いてあるのだろう」。SNSなどで散見される意見を見ると、多くの牧師たちは、「日曜日の礼拝会を休んではいけない」と思っているようだ。しかし、その根拠は何なのか。

 クリスチャンたるもの、その信仰の基盤になっている聖書の言葉から根拠を見つけなければならない。「みんながそう言っているから」では、ちょっと根拠に乏しいと感じる。では、聖書はどう書いているのか。「礼拝会」は、休んではいけないものなのか? 牧師は教会を導く「船頭」なのか? 教会の目的は何なのか? そして、現代の教会に必要な姿とは、どんなものなのか。簡潔にまとめたい。

 なお、この記事は「礼拝」の価値観や、「教会」の価値観についての、これまでの記事の内容に多分に依拠するものである。私のこれまでの主張は、下記の記事を参考にしていただきたい。それでは、始めよう。

 

<参考リンク>

【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか? - 週刊イエス

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?! - 週刊イエス

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?! - 週刊イエス

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか? - 週刊イエス

 

 

▼「礼拝会」は休んではいけないものなのか?

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 ほとんどの教会が、毎週日曜日に行っている「礼拝」と称する集会がある。私の今までの記事を読んでいただければわかるが、それらは「礼拝」ではない。日曜の集会は、「礼拝」ではなく、ただ一堂に会するための「礼拝会」である。「礼拝」とは、「神に自分自身をささげる生き方」であって、集会を指すのではない。

 では、この「礼拝会」は休んではいけないものなのだろうか。結論から言えば、絶対にNOである。詳しくは、以下の記事を参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 日曜日に集まる習慣は、ヨーロッパの土着信仰とミックスした結果の、ただの合理的なルーティンである。そこに聖書による根拠はない。イエスの復活や、ペンテコステは日曜に起こったが、その日に集まる根拠としては弱いように思われる(※安息日の7日目の次の時代、すなわち「8日目の時代」に入ったという面白い視点はあるが、この記事では言及は避ける)。日曜に必ず集まるべしとの考えは、金曜の日没から土曜の日没までにかけてを「安息日」として、厳しくルールを守っているユダヤ教の考えに影響を受けたものである。

 むしろ、聖書を読めば、クリスチャンにとっては「毎日が安息日」であり、「集まれるなら毎日集まるべき」であるし、「24時間365日が礼拝」なのである。それが筆者の基本的な考えである。したがって、クリスチャンは毎週必ず日曜日に教会の「礼拝会」に出席しなければならないという考えは誤りである。

 

 では、「牧師」という立場に限って考えてみよう。なぜ「牧師は日曜日の礼拝会を欠席してはならぬ!」と考える人がいるのだろうか。疑問に思ったので、とある人に聞いてみたところ、こんな返事が返ってきた。

ひとつの群れ(教会)を導く導き手は、1人の方が良いんです

 どういうことだろうか。これは簡単に言えば、「リーダーは1人でないと、正しいゴールにたどり着けない」という意味である。リーダーが何人もいると、意見がバラバラになって、結果的にメンバーもバラバラになってしまう。確かにその主張は一見、論理的に思える。ワントップで動く集団の方が、目標設定も明確だし、意思決定も早いし、動きやすい。逆にそれぞれがバラバラの意見のまま進んでいくと、いつまでたってもまとまりのない集団になってしまう。良し悪しはさておき、まるでどこかの与党と野党のようである。

 この考えのベースには、前提がある。それは、「牧師が教会のリーダーである」という考えだ。牧師が教会のリーダーであるのならば、日曜の礼拝会に牧師が出席しなければ、「導き手」が存在しないことになり、確かにそれはよろしくない。もっと言えば、多くの場合、牧師が行う「説教・メッセージ」が礼拝会のメインディッシュと考えている人もいる。そして、多くの人が「説教は牧師だけの特権である」と考えている。その場合、牧師がいなければ「説教」を行う人がいなくなってしまう。だから、牧師が礼拝会を欠席すると、困ってしまう。こういうロジックだ。

 ちょっと考えを整理してみよう。

<前提条件>

1:リーダーは1人であるべきだ

2:牧師は教会のリーダーである

3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ

4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである

5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない 

<以上の条件から導き出される結論>

・教会の唯一のリーダーであり、礼拝会のメインディッシュである「説教」を行う権利を持つただ一人の存在、すなわち「牧師」が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである。

 

 以上が、「牧師は日曜日の礼拝会を休んではいけない」と考える人のロジックである。

  さて、聖書はどう言っているのだろうか。順番に見ていこう。

 

 

▼「牧師」が群れを導くなどという妄想

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 いくつかの前提をもとに導き出した結論か正しいか判断するためには、まずその前提が正しいか検証する必要がある。順番に見ていこう。

 

<前提1:リーダーは1人であるべきだ>

 リーダーは1人であるべきなのか。これは聖書の記述とは直接関係ないかもしれないが、私個人の意見を言うならば、「YES & NO」である。

 確かに、意思決定プロセスはひとつに定めていた方が良い。意思決定の早さ、確実さ、一貫性を保つためにも、意思決定プロセスの明確さは必要である。教会によっては、最終的な意思決定を牧師がするところもある。または、リーダーシップをとるチームで判断する場合もある。また、教会によってはメンバー全員の多数決で決めるところもある。カトリックなどは、本部の決定が全てであり、組織的な意思決定プロセスが明確になっている。

 この意思決定プロセスが明確ではないと、必ず意見の相違が出た場合に争いが起きる。今回は、どのプロセスが優れていると論じるつもりはない。それぞれにメリットとデメリットがある。

 しかし、聖書はこう教えてはいないだろうか。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)

 確かに、意思決定プロセスは、ひとつに絞り、明確であった方が合理的かもしれない。しかし、人間の目に見えることが、必ずしも正しいとは限らない。聖書にはこう書いてある。

人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

箴言 14章12節・16章25節)(全く同じ文)

 これは、「人間の目に合理的・正義に見えるものが、必ずしも正しいとは限らない」とも読めないだろうか。その点から見ても、「リーダーは1人」という点に固執する必要はないのではないか。意思決定プロセスは明確にしつつも、同じ教会の中では、互いに仕え合い、互いの意見を尊重して平和を保つのが重要である。

 

<前提2:牧師は教会のリーダーである>

 これは明確に間違っている前提だ。聖書をひらこう。

キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

(エペソ人への手紙 5章23節)

また、御子(イエス)はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

(コロサイ人への手紙 1章18節)

 教会のリーダーは「牧師」ではなく「イエス・キリスト」である。エスの言葉は聖書に書いてある。イエスの性質・神の性質は、旧約聖書新約聖書の両方に書いてある。教会が一番に聞くべきは、牧師の「説教」ではなく、聖書の言葉、すなわち「神の言葉」である。牧師は教会のリーダーなどではなく、教会の役割の一つである。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

(エペソ人への手紙 4章11節)

 だから、「牧師が教会のリーダー」と考えている人は、今すぐその考えを改めた方がよい。

 

<前提3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ>

 これも明確な間違いである。この価値観については、何度もこのブログで取り上げたので、今回はいちいち論じるのはやめる。上に述べたように、クリスチャンにとっては毎日が礼拝である。礼拝会は便宜上、クリスチャンたちが「励まし合い」「教え合い」「支え合い」「愛し合う」ために集まっているものである。集まりをやめるのは得策ではないが、「必ず毎週日曜日」というルールは聖書のどこにも記述はない。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10章25節)

 

<前提4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである>

 これも明確な間違いである。礼拝会の目的は多岐にわたる。むしろ、新約聖書を読むと、集まりの主眼は「励まし合うこと」であるようにも見える。また「食事を一緒にする」というのも、その大きな目的のひとつのように思える。私個人としては、礼拝に必ず「説教」が不可欠だとは思わない。むしろ、聖書に記述のある教会は、多くの者が語り、互いに教え合っていたように思える。

ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

(コリント人への手紙第一 11章33節)

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3章16節) 

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10節24節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5章16節)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

(ペテロの手紙第一 4章8~10節)

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

ヨハネの手紙第一 3章23節)

 いかがだろうか。聖書には、一言も「牧師の説教が教会の目的」だとは書いていない。むしろ、「一緒に食事をし」「互いに教え、忠告し合い」「互いに注意を払い」「互いに罪を言い表し」「互いのために祈り」「互いに熱心に愛し合い、もてなし合い、仕え合い」「互いに愛し合うこと」これが神の命令である。 牧師の説教など命じられていはいない。ただ、イエスを神と信じる者同士の愛の関係を持つように命じられているのである。

 

<前提5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない>

 これも明確な間違いである。聖書のどこにもそのような記述はない。「牧師」という言葉そのものが、本来「羊飼い」という単語であるにも関わらず、一度だけ「牧師」という言葉に捏造されている(エペソ4章11節)。この一語のみが聖書に登場する「牧師」であって、それは捏造なのだから、本来「牧師」という言葉は聖書には登場しないのだ。聖書に根拠がないのだから、「牧師しか教えてはいけない」という考えは、明確な誤りである。

 ただ、このような記述も、確かに聖書にある。

兄弟たち、あなたがたにお願いしますあなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章12~13節)

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節)

 確かに、指導者を敬う必要は大いにある。人への尊敬は、適切な関係性を構築する。同時に、教える立場の者には大きな責任が伴う。勝手に聖書に記述のないものを教え、間違った教えを広めてしまう危険性があるからだ。現に、近年、有名な牧師たちが今までの自分たちの教えは間違っていたと告白するケースが、多々起きている(※例えば、「繁栄の神学」で有名なベニー・ヒン氏のケースなど)。このことから、教える側だけの問題ではなく、聞き手の判断力も必要な時代になっているのは間違いない。

 しかし、そのような状況を鑑みても、「牧師だけに教える権利がある」との考えは、根拠に乏しい。聖書の時代の教会では、「牧師」ではない立場の者も、互いに教え合っていた。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18章24~26節)

  プリスキラとアキラは、現代でいえば「執事」のような、教会の行政部分(お金の管理、貧しい人の支援など)を担っていた人たちであったと想像できる。彼らは「牧師」ではなかった。しかし、彼らは人々を教えていたアポロに対し、彼の神学的間違いを指摘したのであった。

 アポロもそれを受け入れ、新しい教えを教えていった。その結果どうなったのだろうか。

アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18章27~28節) 

 「牧師」ではなかったが、プリスキラとアキラはアポロに聖書を教えた。彼らは分を超えていたのだろうか。否。彼らの指摘は正しいものであった。その結果、アポロによってより正確な教えが広がっていったのであった。

 

 ・・・いかがだろうか。1は部分的には正しい前提だ。しかし、2~5に関しては完全に間違った前提となっている。間違った前提から導き出された「解」は、当然間違った答えになるのは言わずもがな。以上の点から、「牧師が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである」という考えは、完全に間違っているといえる。

 教会の唯一のリーダーはイエスである。礼拝会の主目的は、「励まし合うこと」にある。イエス・キリストが再び帰って来る希望を告白しあい、一緒に食事をし、互いに助け合うのが教会の目的である。牧師でなくとも説教やメッセージはできる。それが聖書から学べるポイントである。

 最後に、私は、さらに大きな視点での指摘をしたいと思う。

 

 

▼教会のゴールは神であり、中心はイエスであり、船頭は聖霊である

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 教会の究極的な目的を、大胆に述べよう。それは「神ご自身」である。聖書にはこのように書いてある。

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主<しゅ>はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

(コリント人への手紙第一 1章2節) 

 「神の教会」「神の諸教会」という言葉は、新約聖書に12回登場する。教会は神のものであり、また、教会が目指すべき目的・ゴールは、唯一の創造主である神ご自身である。日曜日の礼拝会が目的ではない。神につながり、神と共に歩むこと。それを励まし合うこと。これが教会の真の目的である。

 

 また、教会の中心にいるのは誰だろうか。それは他でもないイエスである。聖書にこう書いてある。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1章23節)

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

(エペソ人への手紙 1章22節)

 教会には、イエス・キリストその人が与えられている。教会のリーダーはイエスその人であり、教会の中心はイエスご自身である。教会の人間関係の中心には、イエスがいる。それは紛れもない事実だ。

2人か3人がわたし(イエス)の名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18章20節)

 

 また、教会を導くのは誰なのだろうか。牧師なのだろうか。否。教会を導く「船頭」は「聖霊」である。聖書にこう書いてある。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

使徒の働き 20章28節)

 クリスチャンを導くのは「牧師」ではなく「聖霊」である。その基本を忘れて、「牧師」という人間だけに頼るようになると、黄信号。各々が、日々、聖霊の導きを求める必要がある。 

 

 ・・・いかがだろうか。いかに「教会には牧師がいなければダメだ」という考えが、人間的なものであるか分かるだろう。2人でも3人でも、イエスが中心にいて、神に向かっていて、そして聖霊の導きによって進んでいくコミュニティ。それが教会なのである。

 

 

▼おまけの提言:休んだっていいじゃない! 

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 さて、この記事のタイトル「牧師は休んじゃダメなのか」に対して、私なりの答えを書いて記事を閉じようと思う。単刀直入に言えば、「休んだっていいじゃない!」というのが私の答えだ。

 牧師を、聖書のいう「監督者」と捉えるならば、これが牧師の資格である。

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3章2~5節) 

 

 自分の家庭を治める、子どもを従わせる、という面では、以下のような言葉もある。

父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

(コロサイ人への手紙 3章21節)

 

 子どもを気落ちさせないためにも、日曜日のイベント事には、どうぞ出席なさったらいいのではないか。子どもの晴れ舞台を見に行ってあげたらいいではないか。それが子どもに「愛を示す」という行為ではないのだろうか。

 子どもだけではない。愛する妻とデートをしているだろうか? 愛する家族と時間を過ごしているだろうか? 近所の人と関係を保っているだろうか? 困っている人を助けているだろうか? 

 私は一度、日曜日に友人に引っ越しの手伝いを頼まれたので、礼拝会を欠席して引っ越しの手伝いをした。手前味噌で恐縮だが、クリスチャンではないその友人にとっては、愛を感じる行為だったのではないだろうか。日曜日の礼拝会という儀式的なものより、優先するべきことが、この人生たくさんある。日曜日の礼拝会を保つよりも、本当に大事なものを見失っていないか、チェックする必要がある。

 

 その上で、「礼拝会」のスタイルを維持するために、私なりの提言がいくつかある。

1:「牧師」的な存在を複数設けて、交代で休めるようにする。イスラエルの祭司だってシフト制だったのだから、良いではないか。私が集っていたコミュニティでは、それを実践していた。人材不足? ならば、「神学校」などの過剰な負担を強いる登竜門や、「とりあえず伝道師」という時間ばかり消費するシステムで下積みさせるのをやめたらいいと、私は思う。

2:牧師的な存在以外の人でも、いわゆる「説教・メッセージ」をできるように訓練する。また、その機会を設ける。メッセージなど、実は誰でもできる。現に、私が集っているコミュニティでは、それを実践している。それをやらなければならないほど、クリスチャン界の人材不足の状況は逼迫している。

3:日曜日にこだわらず、様々な形の「教会」を模索したらどうか。昨今では、土曜日に集まる集会も増えていると聞く。月曜でも水曜でもいい。また、現代のテクノロジーでは物理的な距離を乗り越え、オンラインでも人間関係を持つことができる。私は、教会の定義を「2人以上のイエスを中心として人間関係が発生するもの」と捉えているので、インターネット上でも教会は十分存在し得ると考えている。

 

 ・・・いかがだろうか。もしこのブログの読者であるあなたが「牧師」の場合、あなたのライフスタイルを見直してみてはいかがだろうか。働き方改革」が叫ばれている今、牧師だって働き方改革をしてもいいのではないだろうか。本質は変えず、スタイルは時代にふさわしいものがあると、私は思う。現代にふさわしい「教会の」あり方が、きっとあるはずだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。