週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】イエスの話は分かりづらい?(その1:アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)

エスの言葉は、結構な確率で意味不明です。日本語で読むと分かりづらいですが、ユダヤの常識で捉えていくと、腑に落ちるものもあったりするのです。今回はその第一弾。

 

 

▼イエスの話はよく分からん!

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 大胆に言うが、エスの話の多くはよく分からない。例えば、ナタナエルという人物が聖書に登場する。彼は当初、イエスをメシアだと認めていなかった。しかし、イエスが「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」という謎の発言をした途端、ナタナエルは「あなたは神の子、イスラエルの王です」と180度態度を変え、イエスの弟子となる。なぜ彼が態度を変えたのか、理由の解説はない。全くの謎である。

 他にも、イエスの言動には謎が多い。ニコデモというユダヤ教の教師とのやりとりも、分からない部分ばかりだ。イエスは「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言う。ニコデモは「人は老いていながら、どうやって生まれることができるか」と返す。イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできない」と言う。しかし、「水と御霊によって生まれる」とはどういうことか、全く解説がない。

 イエスは、群衆にはほとんど「たとえ話」でしか語らなかった。意味の解説がなされているたとえ話もあるが、全くないものもある。そのため、その解釈をめぐってしばしば議論が起こる場合もままある。

 

 なぜイエスの話は分かりにくいのか。その原因は、主に3つ挙げられる。

 ひとつは、イエスの時代から、既に2000年ほど経っているという「時間の壁」である。日本の2000年前といえば、まだ文字すらなかった古の時代。日本最初の神話、「古事記」ができたのが8世紀なので、イエスの時代から約700年も後である。古文・漢文で苦労した読者の方々は、その難解さを理解できるのではなかろうか。

 2つ目は、「言語の壁」である。新約聖書は、ギリシャ語で書かれている。しかも、ただのギリシャ語ではない。新約聖書は、ヘブライ語話者が、ヘブライ語のマインドをもってギリシャ語で書いた書物なのである。言ってみれば、日本人が日本語で考えたものを英語で書いた本のようなもの、とでも言えば分かるだろうか。そのため、旧約聖書ヘブライ語新約聖書ギリシャ語の多くが対応している。

 例えば、有名なヨハネ福音書1章1節「はじめに“ことば”があった」の「ことば」はギリシャ語では「ロゴス」(ことば)という単語だ。従来、「ロゴス」という単語の意味について様々な研究がされてきた。しかし、筆者がヘブライ語話者である点を踏まえると、ここはヘブライ語の「メムラ」(ことば)という単語に重点を置いて理解すべきではないか・・・との指摘もある。新約聖書は「ヘブライ語マインドのギリシャ語」で書かれているのだ。ただの言語の壁より分厚い、見えない大きな壁が、そこにはある。

 3つ目は、最後だが最も重要なポイントである。それは、新約聖書旧約聖書の知識が大前提となっている、という「見えない前提」が存在する点だ。しかも、旧約聖書だけでは足りない。その後に追加された「口伝律法」(ミシュナー)の理解も必要になってくる。

 まとめて言えば、新約聖書のイエスの言葉を理解するためには、「1世紀当時のユダヤ教の知識」(特にパリサイ派の考え方)が大前提として必要なのである。ユダヤ教の知識があれば、「イチジクの木の下にいる」というのが「律法(トーラー)をよく学んでいる」というユダヤの「ことわざ」であると分かる。「水から生まれる」というのが「母親の羊水から生まれる」という比喩だと分かる。ユダヤ教の知識があれば、新約聖書がより深く理解できるのだ。

 実は、この3つを踏まえてイエスの言葉を読むと、みるみる新約聖書が分かるようになる。実は、旧約聖書を読むと新約聖書がもっと分かるようになるのだ。「新約は好きだけど、旧約はちょっと・・・」と思っている人は、ぜひマインドを少し変えて、「旧約をよく学べば、イエスの言葉がもっと理解できるかもしれない!」と思って読んでみて欲しい。

 

 さて、今回はイエスのわけの分からない言葉の中から、ひとつピックアップし、意味を考えてみたいと思う。正直いうと、私の意見は全くの筋違いかもしれない。あくまでひとつの解釈として、読んでいただけたら幸いである。

 

 

▼復活をめぐる論争

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 ユダヤ教の指導者たちと、イエスのやりとりの中で、こんな言葉がある。聖書をひらいてみよう。(マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を引用しているが、基本的には同じエピソードである。ただ、細かい記述に違いがある)

その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに答えた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。

(マタイの福音書 22:23~34)

<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』。さて、七人の兄弟がありました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしていまるのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています」

(マルコの福音書 12:18~27)

復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。彼らはそれ以降、何もあえて質問しようとはしなかった。

(ルカの福音書 20:27~40)

 

 お読みいただけただろうか。サドカイ派は「レビラト婚」(※詳細は過去記事を参照)という風習を盾に「復活」はありえないとイエスに迫る。それに対し、イエスアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、「復活」の根拠となると反論するのである。また、その答えに一同が驚嘆して納得してしまうのだ。正直、現代の私たちにとっては意味不明ではないだろうか。整理するために、一旦、登場人物や状況を整理してみる。

 

<登場人物>

【サドカイ人】:ユダヤ教の上流階級・祭司・貴族層。「肉体の復活」を否定していた。いわゆる「モーセ五書」のみを聖典とした。(人種ではなく階層的要素が強い)

【パリサイ人】:ユダヤ教の宗教指導者の一派。「肉体の復活」を肯定していた。旧約聖書、ならびに口伝律法を聖典とした。(人種ではなく派閥的要素が強い)

【律法学者】:律法(トーラー・旧約聖書)の専門家。多くがパリサイ派だったとされている。

【イエス】:上記の2つの派閥から糾弾されていた。

<状況>

・イエスは、サドカイ派パリサイ派の両方から糾弾されていた。

「復活」は、両派閥が対立していた神学的要素のひとつだった。

・復活を否定するサドカイ派がイエスの見解を求めた。

エスが「復活はない」と言えば、サドカイ派は肯定されパリサイ派が否定される。逆に「復活はある」と言えば、サドカイ派が否定され、パリサイ派が肯定されるという状況だった。

パリサイ派としては、イエスを否定したいのは山々だが、この件に限ってはイエスに復活を認めてほしいというのが正直なところであった。

・イエスは当時「時の人」であり、イエスの教えに多くの人々が注目していた。

<イエスの答え>

・「モーセ“柴の箇所”でこう書いてあるのを見たことがないのか」

・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と書いてあるだろう」

だから復活はある。復活はないなどと言っているサドカイ派は思い違いをしている。

神は死んだ者ではなく、生きている者の神である。

・イエスの教えに、みなが驚嘆して黙ってしまった。

 

 ・・・いかがだろうか。登場人物や状況は、よく分かっていただけたと思う。しかし、問題はイエスの答えである。「柴の箇所」とは一体何なのか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、どうして復活を肯定する根拠となるのか。「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味か。この聖書の記述だけでは、全く意味不明ではないだろうか。私は少なくとも、この記述をずっと疑問に思っていた。

 今回、様々な検討をした結果、ある程度、私なりの結論を得た。読者の方には少しでも参考になれば幸いである。

 

 

▼復活なんかありえない?!

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 大前提として、当時のユダヤ教はなぜ「復活」について対立していたのかを知る必要がある。サドカイ派は復活を否定し、パリサイ派は復活を主張していた。ただ復活を認めるのみならず、パリサイ派にとっては「復活」は彼らの信仰を支える超重要な神学であった。

 実は、旧約聖書は「復活」について多くを語っていない。ダニエル書で一度だけ復活が示唆されているだけで、旧約聖書には、直接「復活」を支持する記述がないのである。むしろ、ある部分では復活を否定しているとも受け取れる記述がある。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5)

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 いずれも、「死後に神をほめたたえることはできない」という趣旨の記述である。復活の直接の否定ではないものの、「死んだら最後、神を崇めることはできない」と言うならば、「肉体の復活はない」と考えるのも自然な成り行きではないだろうか。

 

 一方、ダニエル書の記述は以下である。

その時、あなたの国人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしとの時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

(ダニエル書 12:1~2)

 

 なるほど。「大地に眠る者のうち、多くの者が目を覚ます」という記述をもって、死者が肉体をもって復活すると考えるのは可能だ。だが、ダニエル書の後半の多くは比喩で描かれているため、この記述ひとつだけを持って断言するのは適切かというと、疑問が残る。

 以上の点から、「復活」をめぐり、「“復活”という発想は、バビロン捕囚以降、バビロンの宗教・哲学に影響を受けたユダヤ教の中で発展したものである」という学者たちもいる。確かに、旧約聖書に明確な記述はないし、否定しているとも受け取れる記述があるのだから、そう結論づけたくなるのも理解できる。

 また、ある学者たちは「紀元前100年頃に起きたユダヤ人への大迫害が、『肉体の復活』という活路を見出す価値観を生み出したのではないか」と指摘する。確かに、迫害があればそれから逃れる神学が生まれるのも、理解はできる。こう考えると、パリサイ派の「復活」という神学は、考えようによっては「言い伝え」の部分ではないかと判断できるかもしれない。

 これは想像にすぎないが、「復活」についてはサドカイ派よりパリサイ派の方が、神学的には根拠に乏しい立場にあったと考えられる。聖書に記述がないのだから、パリサイ派にとって「復活」の神学はアキレス腱のような「急所」であり、ハッキリと弁証しきれない部分だったのかもしれない。

 「復活」が律法ではなく「言い伝え」ならば、イエスは「復活」を否定し、この部分においてもパリサイ派を批判したはずである。しかし、イエスは驚くべきことに「復活」を肯定した。この点においては、イエスパリサイ派の主張を認めたのである。これは、驚くべきことである。

 パリサイ派は、イエスを糾弾しつつも、イエスが復活を認めた点においては、イエスを認め、安堵し、一瞬イエスを受け入れたくなったのではないか・・・そんなふうに想像する。「律法学者たち(多くがパリサイ派)の何人かが、『先生、立派なお答えです』と答えた」という記述から、そのニュアンスが汲み取れるだろう。

 私は、一人のクリスチャンとして、イエスの言葉を信じる。イエスが「復活はある」とハッキリと宣言しているのだから、復活はあると信じている。信じる者も、信じない者も肉体と霊において復活し、神からの判決を受けると本気で信じている。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・・

(ヘブル人への手紙 9:27)

 

 さて、たっぷりと状況の説明をしたところで、本題の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」について考えてみよう。

 

 

▼「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の意味とは

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 ハッキリ言って、イエスのこの言葉を解釈するのは難題である。ひとつずつ紐解いていきたい。まずは、イエスが言及した「柴の箇所」を見てみよう。

モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセモーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

(中略)

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:1~6、15)

 

 ここを読むだけでは、なぜこの部分が「復活」を示唆するのか分からない。前提を整理してみよう。

<「柴の箇所」の前提>

ユダヤの信仰の創始者は、アブラハムであった。アブラハムが神と契約を結んだのが、神とイスラエル民族の特別な関係の始まりであった。

神とアブラハムの契約は、そばめとの子どものイシュマエルではなく、神が約束した子どもであるイサクが引き継いだ。

イサクが受け継いだ契約は、兄のエサウではなく、弟のヤコブのものとなった。

・そしてヤコブが「イスラエル」という名前を神から与えられ、イスラエル民族の父祖となった。

・聖書にもとづけば、モーセヤコブが死んでから約120年〜300年後に生まれた人物である。(※イスラエルがエジプトに何年滞在したかは議論があり、それによって変動するが、相当後の時代の人であることは確か)

神はそのモーセに対して「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と宣言した。

 

 「柴の箇所」の前提は以上である。神がアブラハムと契約を結び、イサクが「約束の子」として契約を引き継ぎ、ヤコブがさらに引き継ぎ、イスラエル民族の先祖となった。アブラハムが信奉した神」「イサクが信奉した神」「ヤコブが信奉した神」と捉えれば、別に復活しなくとも、この事実には変わりがない。だとすれば、イエスがこの「柴の箇所」を引用したのはトンチンカンになってしまう。イエスが正しいとすれば、何か別の意味があるはずだ。

 ここで、ユダヤ人にとってアブラハムはどのような存在だったか知る必要がある。アブラハム を考える際、「契約」という言葉は切っても切り離せないほど重要なポイントだ。ユダヤ人にとって、神がアブラハムと交わした「契約」こそが、大切なのである。では、その契約を簡単に見てみよう。

主<しゅ>はアブラム(※アブラハムの元の名前)に言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(中略)主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地(カナンの地、今のイスラエルの土地)を与える」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

(創世記 12:1〜7)

そして主<しゅ>は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(中略)その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」

(創世記 15:5〜18)

 

 神とアブラハムの契約によれば、「イスラエルの土地を、アブラハムの子孫が支配する」のである。これは、物理的にも、宗教的にも、精神的にも、習慣的にも、あらゆる意味でユダヤ人を通してカナンの地が治められ、そして全世界が彼らを通して神を知るという契約である。イサクもヤコブも、基本的にはこの「契約」を神の選びによって(両方とも兄は選ばれず、弟が選ばれた)、引き継いでいるのである。この「契約」はユダヤ人にとって非常に重要なもので、彼らは、今も昔もこの契約を堅く信じているのである。かくゆう私も、そう信じている。

 さて、イエス時代のイスラエルはどういう状況だったか。ユダヤ人たちはその土地を支配していたのだろか。いや、していなかった。カナンの地を支配していたのは、ローマ帝国であった。ユダヤ人にとって、ローマの支配を脱するのは悲願だった。それは、パリサイ派サドカイ派も、バプテスマのヨハネのグループ(エッセネ派)も同じだった。彼らにとって、イスラエルの地はいまだかつて、モーセヨシュア、そしてダビデやソロモンの時代も含めても「完全に支配」されていないのであった。神がアブラハムと交わした契約は、いまだかつて実現していない・・・これが彼らの共通認識であった。

 これについては、新約聖書の「ヘブル人の手紙」の著者も同じ認識を示している。(※ヨシュアは、モーセの後を引き継ぎ、イスラエルの民が初めてカナンの地を占領したときの民族的リーダーである)

もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休み(神が約束の土地を完全に支配させるとの意)は、神の民(イスラエル)のためにまだ残されています。

(ヘブル人への手紙 4:8〜9)

 

 長々書いたが、この「契約」に着目すると、一定の結論が見えてくる。「アブラハムが信奉した神」ではなく、アブラハムと結んだ契約を実行する神」と読めばいいのだ。こう読めば、少し理解できそうだ。私の想像を含めたイエスの言葉の解釈をまとめてみよう。

<イエスの言葉の私的解釈>

モーセの柴の箇所でこう書いてあるじゃないか。主<しゅ>ご自身が自分を指して、『わたしはアブラハムと契約を結び、それを実行する神、イサクに契約を引き継がせた神、ヤコブに契約を受け継がせた神である』と宣言したじゃないか。アブラハム、イサク、ヤコブは契約のとおり、イスラエルの土地を支配したか? いや、いまだかつてイスラエルの土地は完全に支配されたことはない。今もローマがこの土地を支配している。では神が嘘をついたことになるのか? そうじゃないだろう。では、神の民がこの土地を支配する約束は、いつ実現すると思う? アブラハム、イサク、ヤコブが復活した後だ。復活しなければ、この約束は彼らに実現しないのだ」

 

 イエスの言葉は、イスラエルの民がこの土地を完全に支配する」と堅く信じていたパリサイ派サドカイ派両方にとって、説得力に満ち溢れたものだったのだろう。一同は感嘆して黙ってしまった。堅く信じている要素を用いて、正しさを証明するイエスの論法には、ぐうの音も出ない。

 律法学者の一部が、「先生、立派なお答えです」と言った部分も、想像すればパリサイ派の心情が見えてくる。律法学者、つまりパリサイ派たちにとってこの「復活」の神学は「急所」だった。サドカイ派の論法は、いつもパリサイ派に対する「決め手」の質問だったのだろう。パリサイ派はこれに対抗する答えを持ち合わせていなかった。だからこそ、イエスの見事な答えに、イエスを否定するパリサイ派の律法学者たちも、ついつい「立派なお答えです」と感嘆してしまったのではなかろうか。

 

 

▼「生きている者の神」とはどういう意味か

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  もうひとつ、イエスが言った「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味なのだろう。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」が、「アブラハムたちと交わした契約を実行する神」という意味なのは既に述べた。それが、どうして「神は生きている者の神」という言葉につながるのか。

 ここで、ユダヤ人たちの常識に立ち返りたいと思う。彼らの信じる旧約聖書の言葉には何と書いてあったか。もう一度振り返ってみよう。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5) 

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 そう。ここから見えてくるのは、「死んだ者は神をほめたたえられない」という発想である。ここで詩篇の言葉が活きてくる。彼らが信じる「完全な支配」とは、イスラエルの民を通して、唯一の神を全世界が知ることである。神は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」にそう約束した。しかし、神がこの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉で自身を現したのは約120年後のモーセの時代である。アブラハムもイサクもヤコブも既に死んでいる。しかし、神はその3人と交わした契約を実行すると、モーセに宣言する。

 もし復活がなければ、死んでしまったアブラハムたちは、「神をほめたたえる」ことすら叶わない。もっと本質を言えば、「生きていない者は神との関わりを持てない」という意味になる。聖書の神のいう「契約」とは、「神との関わり」を指す。「関係性」こそが、神との「契約」なのである(「契約」については、友人が詳細な記事を書いているので参照していただきたい)。神との関係を持つ人々の中に、その族長たちも、当然入ってくるはず。つまり、復活がなければ、彼らが信じている契約の成就は達成されないのだ。詩篇の記述によれば、死んだ者は神との関係を持てないからである。

 神は、3人とも既に死んでいる時に「私は彼らの神である」とハッキリと宣言した。これは、この3人も含め、彼らの後の時代の人々も、みな復活することを示している・・・それがユダヤ人にとって当然の帰結だったのだ。

 おまけに、新約聖書でもイエスの弟子、そして使徒であるペテロがこのように話している。

アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その門前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

使徒の働き 3:13~15)

 

 ペテロは、あえて「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という「柴の箇所」の神の名前を用いて、「死者の中からよみがえったイエス」について論じた。これは、この呼び名が「復活」を示唆するものであるという、当時の解釈を示している。

 

 このように、エスの言葉は、(1)時代の壁、(2)言語の壁、(3)見えない前提、をクリアしないと、意味がストレートに理解できないものが多い。エスが意味不明なことを言っているのではない。イエスの言葉は、当時の人々にとっては、胸に突き刺さり、心が変えられる、そんな言葉だったのだろう。現代の私たちは、そんなイエスの言葉をしっかり理解するために、上記の3点をふまえた上で、新約聖書を読む必要がある。これは決して、「勉強不足の人は聖書を読んではいけない」という意味ではない。むしろ、聖書は読めば読むほど面白いということの証左ではないか。旧約聖書を読めば、新約聖書が面白くなる。新約聖書を読めば、旧約聖書がさらに面白くなる。バイスバーサ(逆もまた真なり)。聖書は不思議な書物なのである。
 そんなイエスの言葉は、2000年経った今でも、人々を感動させる力がある。しかし、正しく理解するためには、この壁を乗り越える必要もある。壁を乗り越えた理解の先には、「もっとイエスを知りたい!」という飽くなき喜びが待っているだろう。まだイエスの言葉をよく知らないという方は、これを機に、新旧約聖書の両方を読んでみてはいかがだろうか。

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。