週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】コロナウイルス騒動にクリスチャンとして思うこと

ネムーンから帰ってきたら、日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていました。クリスチャン、そして記者として一連の騒動に対して思うことをまとめました。

 

 

コロナウイルスで大騒ぎ

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 ハネムーン先のタイから帰ってきた。日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていた。驚いた。メディアがその騒ぎの一旦を担っている感は否めないので、記者である私が言うのは恐縮なのだが、正直、「そこまで騒ぐ必要ある?」と感じた。今でもそう思っている。特に、トイレットペーパーやテッシュなどが店から消えている状態を見ると、人間のあまりの愚かさに残念な気持ちでいっぱいになる。同時に、「人の恐れ」のパワーの凄まじさを感じる。

 なぜ疫病は起こるのだろうか。神がいるのであれば、なぜ人は病気で苦しまなければいけないのだろうか。今回は、疫病が起こる意味について簡単にまとめる。そして、「人の恐れが一番怖い」という持論をまとめる。そして、何を一番に恐れるべきか、クリスチャンはこの状況下でどう対処していけばいいのか、私の考えをまとめる。

 

▼疫病はなぜ起こるのか

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 そもそも、疫病はなぜ起こるのだろうか。日本人と議論すると、決まって「神がいるのであれば、なぜ病気はなくならないのか」という指摘がある。神がいるのならば、なぜ苦しむ必要があるのか。この指摘に対しては、まずは聖書の大前提を語る必要がある。まずは、疫病について聖書が語る7つのポイントをまとめる。

<“疫病“について聖書が語る7つのポイント>

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

 聖書の基本的な価値観は、「神がこの世界、人間を創造した」「それらは全て良かった」というものである(創世記1章参照)。そして「<死>はなかった」のである。なぜなら、「人の罪によって死が入った」という記述があるからだ(創世記1~3章、ローマ人への手紙5章12節)。

 

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

 つまり、創造のはじめには、疫病は存在しなかったのではないかと考えられる。しかし、人は神の掟を守らず、神と断絶し、罪と死がこの世界に入ってしまったのだ。その結果、病がこの世界に入ってしまったのである。

 

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

 神は、この「疫病」を用いて、人を罰する。例えば、エジプトから脱出したイスラエルの民が貪欲になり、神に不平不満を言った結果、疫病が起こったという記述がある(民数記11章33節)。ダビデ王の時代にも、ダビデが神の計画から逸れて、(おそらく徴兵制導入のため)人口調査をした結果、激しい疫病が起こり、7万人が倒れた(サムエル記第二24章)。疫病による「神罰」の記述は、実に多い。

 

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

 一方で、神はご自分の計画を遂行するために「疫病」を用いる場合もある。例えば、イスラエルの民がエジプトから脱出する際に「10の災い(奇跡)」があったが、その中には、家畜が死ぬ疫病や、「腫れ物」ができる病もあった(出エジプト記9章、申命記7章15節)。

 また、「神の箱」を持ち去ったペリシテ人や、ベテ・シェメシュという町では、疫病によって「死の恐慌」があったという記述がある(サムエル記第一5章~6章)。他にも、アッシリアの軍勢がエルサレムを攻撃しようとした際も、一晩で18万5000人の兵士が倒れたという記述がある(列王記第二19章35節)。これは、疫病によるものか明記されていないが、その可能性がある。このように、神が計画を遂行するため、ある意味「ポジティブ」な意味で「疫病」を用いる場合もある。

「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである

出エジプト記 15章26節)

 

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

 日本人の中には、「神を信じれば病気にならない」と考える人もいる。しかし、聖書は必ずしもそうは書いていない。この点な有名な人物は、ヨブである。ヨブは、神を信じる誠実な男だった。その真実さは、毎日「もしかしたら罪を犯したかもしれない」と思い、自分の子どもの分まで「いけにえ」を献げていた程であった。しかし、ヨブは死ぬほどの病にかかる(おまけに子どもも全財産も失う)。その理由を、聖書は書いていない。

 新約聖書にも、信者の中で「死ぬほどの病気にかかった」者もいる(ピリピ人への手紙2章27節)。しかし、「なぜ」その病が発生するのか、明確な理由は書いていない。確かなのは、このように神に信頼する者も、何らかの理由で病にかかるという事実だ。そして、ヨブもそれらの信者たちも、病気になっても神への信頼を捨てなかったのである。

 逆にアサ王は病気になったときに神ではなく医者(※当時の医者は現代における霊媒師・まじない師のようなものだと想定される)を求めた。アサ王はその治世の前半では神に従ったが、晩年はこのように神に従いきれなかった。その点では叱責されている(歴代誌第二16章12節)。(これは、現代において医者にかかってはいけないという意味ではない)

 

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

 信じる者には、聖霊によって「癒やしのちから」が与えられる。

 イエス自身が、様々な病気の人を癒やした。熱病を癒やし、歩けない人の足を治し、ツァラアト(※社会的に差別された重い皮膚病)の人に触れて癒やした。ついには、死人のラザロさえ蘇らせたのであった。

 また、イエスはこの天に上る直前にこう言っている。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。

(マルコの福音書 16章15~18節)

 イエス自身が癒やしを行い、また弟子たちにこう命じているからには、癒やすちからは存在する

 他にも、病への勝利を宣言した部分は聖書にたくさんある。例えば、ダビデは何度も、「(主に信頼する者に)病は近づかない」などと歌っている(詩篇91編3~10節、詩篇103編3節など)。新約聖書には、「病気の人は手を置いて祈ってもらえ」とも書いてある(ヤコブの手紙5章14~15節)。神のちからによる癒やしは、確かに存在するのである。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ヤコブの手紙5章14~15節)

 

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 世の終わりが来たら、どうなるのか。聖書にはこう書いてある。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。(中略)神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

(黙示録 20章14~21章4節)

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。

ヨハネの黙示録 22章1~3節)

 もはや「死」がなくなる。そして、いのちの木の葉が、諸国の民を癒やすとも書いてある。病や死がなくなり、もはや嘆きも叫び声もなくなる。「疫病」からの完全な脱却、勝利は確かに存在する。これが、クリスチャンが持つ希望である。

 

 さて、「疫病」についての聖書の価値観を、ある程度簡単にまとめた。この上で、一連のコロナウイルス騒ぎに対する、私の個人的な見解を述べたい。

 

 

▼広がっているのは人の恐れである

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 一連の騒動を見て、私の個人的な見解を述べたい。本当に怖いのは、感染症そのものではなく、それに動揺する「人の恐れ」ではないか。

 巷では、不安からか、オイルショック時を彷彿とさせる、トイレットペーパーやティッシュペーパーの買い占めが起きている(歴史から何も学んでいない!)。咳をする乗客をめぐって、列車の中で諍いが起きている。政府が呼びかけているのは大規模なイベントの規模縮小や中止なのにも関わらず、少人数での集まりも続々と自粛が相次いでいる。首相の一声で、全国の学校が一斉に休校になる。東日本大震災の追悼式さえも中止になる。地下鉄はガラガラ。教会関係の集まりも続々と中止になっている。飲み会も中止になり、さらには、なぜかコロナビールまで売れなくなっているという。一体、なぜなのか。

 この騒ぎを通して私は、「人の不安は一気に広がる」と学んだ。もはやコロナウイルスが伝染しているのではない。人から人へ恐怖が伝染しているのである。これこそ注目すべき点ではないか。

 大学時代に、「戦争の原因は人の恐れである」と学んだ。しかも、それは「実態のない恐れ」なのである。この「恐れ」に「リーダーの判断ミス」が加わると、途端に間違った方向に行く。その行き着く果てが「戦争」である。そう学んだ。本当に恐れるべきは「人の恐れ」なのである。この恐れが、争いを生み、分断を生み、軋轢を生んでいるのだ。

 別にこのコロナウイルス感染症の騒ぎが戦争を生むと言っているわけではない。しかし、実態のない「人々の恐れ」ほど怖いものはないと言いたいのだ。連日テレビで「どこどこで新たな感染者」という報道がある。しかし、東京都の交番では毎日「今日の交通事故の死者」が掲示されている。それを見て騒ぐ人はいない。それを見て、「車に乗るのはやめよう」という人はいない。

 年間10~12万人が肺炎で亡くなっている。しかし、それを恐れる人はいない。インフルエンザでは年間約1万人が死亡していると推定されている(厚労省HPによる)。しかし、それで集会を自粛する人はいない。交通事故では年間3000人以上が死亡している。しかし、だからといって車に乗らない人は少ない。それなのに、なぜかコロナウイルスだけが騒がれている。おかしいのではないか。

 イエスが、「いのち」について何と言っているか見てみよう。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。(中略) ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。(中略)ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章25~34節)

 私たち人間は、自分の命を1日も伸ばすことはできない。自分の命はコントロールできないのである。生きるときは生き、死ぬときは死ぬのだ。だから、心配しないで神に感謝して、お互いに助け合って生きようではないか。それがイエスの教えではなかったか。

 

 確かにコロナウイルスは、「新型」であるが故に、まだ確固たる治療法もない。しかし、致死率はそこまでは高くない。罹患してもしっかり対処すれば、回復するようである。パニックになって物資が足りなくなったり、病院が満杯になったり、十分な医療が受けられない場合は、その限りではないかもしれない。だからこそ、その実情を見て、落ち着いた対応をした方がいいのではないか。

 しっかり食べる。しっかり寝る。手洗いうがいをしっかりする。結局のところ、こういった基本的な対策をしっかりやるしかないのだ。心配しても、何もできない。ただ、自分にできる限りのことをしっかりして、安心していればいい。騒げば騒ぐほど、実情とは程遠い「恐怖の虚像」が出来上がってしまう。そして、それがいつしか現実のものになってしまうのだ。

 最後に、イエスが何を恐れるべきだと教えたか見てみよう。

 

 

▼何を一番恐れるべきか

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 イエスは、先の言葉に続いて、次のように述べている。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

(マタイの福音書 10章28節)

 人が本気で恐れるべきは、疫病ではない。また、悪魔でもない。人が本当に恐れるべきなのは、人をさばく権利を持っている神ご自身である。これこそが、本当に恐れるべき対象である。

 クリスチャンである私は、イエスが唯一の救いの道だと信じる。そして、信じない者に対するさばきは容赦のないものだと信じる。そして、神は私の命の権利を持っている。私は本質的にはすでに死んでいる。イエスの犠牲によって「贖われた」、つまり「買い戻された」のだから、その権利はもはや自分にはない。人の命の権利は神が持っているのである。

 であるならば、クリスチャンとしてはこのような疫病の騒ぎを恐れるのではなく、本当に霊までさばくことのできる神を恐れるべきではないだろうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

(伝道者の書 12章13節)

 私たちは自分の髪の毛を白くも黒くもできない。しかし、神には何でもできるのだ。

 

 

▼対策はする。でも心は揺らがず。

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 ここまで言っておいて恐縮だが、私は「対策を全くするな」とは思わない。教会の集まりを縮小したり、イベントをキャンセルするのも手だろう。韓国では、キリスト教系の新興宗教(新天地)が集会を続けたせいで、街全体を巻き込む感染拡大につながってしまった。そのような事態を招かないためにも、イベントの自粛はある意味で当然の措置だとは思う。また、これをキッカケに「毎週日曜日に何がなんでも教会に行くべき」という風潮が見直されたらいいとも思う。インターネットを利用した集会の形も、これをキッカケに検討していったらいいとも思う。

 しかし、何度も言っているが、個人的な集まりや、小規模の集まりまで強制的に中止せよという「自粛ムード」には、異議を唱えたいと思う。買い占めなど、無駄な行動が起こらないよう、冷静な対応が求められている。本当に怖いのは、「人の恐れ」なのだから。

 クリスチャンとしては、何があろうとも神に信頼する、揺るがない心が必要ではないだろうか。手洗い、うがい、よく食べて、よく寝る。できる対策はしっかりする。しかし、心は揺らがず、イエスが帰ってくるのを、ただひたすら待ち望む。困っている人がいたら、助け合う。これが、クリスチャンにできる最大の対策ではないだろうかと、私は思う。

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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