週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

「日本YLG2024」に参加して丨率直レビュー

 7年ぶりに、キリスト教のシャバ」に出た。

 「旅の友となる」をテーマに「日本YLG2024」が、埼玉県の国立女性教育会館で開催された。「YLG」とは「Younger Leaders Gathering」の略で、日本語にすれば「若手リーダーの集まり」という意味になろう。3月11日(月)から14日(木)までの4日間にわたる大会に、約340名が参加した。普段私はこういった大会に興味を示さないが、こんなアウトサイダーの私に、とある方が親切にも「興味ない?」と声をかけてくださったので、珍しく参加することにした。こうしたクリスチャンの大会に参加するのは、私にとっては実に7年ぶりで、期待と不安が入り混じっていた。

 

 4日間の日程を終えて「むちゃくちゃ楽しかった」と素直に思った。シャバの空気はうまい。やはりイエス・キリストを信じる仲間と出会い、語り合い、励まし合い、また議論することは心から興奮した。一方で、久々にキリスト教の世界の「当たり前」に接し、その文化の根強さにモヤモヤすることも多々あった。

 そこで久々に「週刊イエス」を更新し、この「日本YLG2024」の感想を記したい。記憶があせないうちに。気持ちがアツいうちに。良かったことも、悪かったこともシンプルに書き留めたい。

 

 実は、これは私のオリジナルの発想ではない。イエスを信じる先輩である山崎ランサム和彦先輩のブログにインスパイアされている。山崎氏は、2023年9月の第7回日本伝道会議に参加した感想を、自身のブログに記しており、私はそれを拝読した。山崎氏は率直に「良くなかったこと」を痛烈に書いていて、感動した。私もこうありたいと思った。未読の方はぜひご一読いただきたい。

 今回、図らずしも山崎先輩と同じように、私はイチ参加者として日本YLG2024に参加した。イチ参加者としての感想を先輩の姿にならい、素直にまとめたいと思う。

 

【良かった点】

1:子連れの参加者に優しい大会だった(ファミリーフレンドリー)

 日本YLG2024の大きな特徴は、何といっても幼い子どもの参加数だった。約340名の参加者のうち、小学生以下の子どもが約75名だった。私と妻も、2歳の娘と、0歳の息子を連れて参加した。
 通常、こういった大会は子どもは参加できないか、できても満足なプログラムがないか、夫婦の片方が世話を余儀なくされ満足にプログラムに参加できないことがほとんどだ。礼拝集会でも子どもが泣いたりすると、退室し母子室での参加になり、肩身の狭い思いをすることが多い。

 しかし、日本YLG2024は、はじめから「子ども大歓迎」という姿勢で大会を準備していた。メインの集会時(1日に3度、各2-3時間程度)にはチャイルドケアが用意されていた。ただ預かるだけでなく、小学生にはAWANAジャパン全面協力のもと、聖書の内容を教えるプログラムがあったり、幼児も楽しめるようにアクティビティが用意されていたりした。

 子どものケアはすべてボランティアで、保育の経験がある方々が従事してくださり、プロの手によるケアが受けられた。私の2歳の娘は、通常初めての場所では緊張し、親から離れたがらない。しかし、日本YLG2024の子どもプログラムのスタッフの雰囲気がとても良かったのだろう、初日から「楽しかったー!!」と満面の笑みで帰ってきた。夫婦ともにホッとし、大人のプログラムに集中することができた。子育て経験者ならそのスゴさが伝わると思うが、なんとお昼寝までさせてくれたことには感激した。

 子ども関連のことについては、運営側とスタッフのコミュニケーションも非常に綿密で、親切だった。大会前から何度も「家族で来てくださりありがとうございます」「大歓迎です」といったメールで参加を励ましてくれ、子連れで参加することに罪悪感を抱かずに済んだ。大きな課題である子どもの入浴時間も、最大限要望を聞いて調整してくれた。幼児のケアのために集会場で参加できない参加者のために、集会の様子はネットでライブ配信もしてくれた。最後に子どもがステージに上がり、参加者全員で次世代のために祈る機会があったこともとても良かった。

 

 子どもに関してはすべて至れり尽くせりの対応で、最初から最後まで、家族連れに優しい、ファミリーフレンドリーな大会だった。この点は非常に画期的で、最高の環境だった。子どものプログラムやケアを準備するためには、スタッフの数や労力も倍増するだろうし、そこまでして家族連れでの参加を勧めてくださった実行委員会とスタッフの労には心からの敬意を表したい。ありがとうございました。

 

 

2:「旅の友となる」というテーマにふさわしい内容だった

 日本YLG2024のテーマは「旅の友となる」だった。公式ホームページには、以下のように大会の目的が書かれている(強調筆者)。

YLGは、世界最大の宣教ネットワークであるローザンヌ運動の若手リーダーによる集会です。

Younger Leaders Gathering(若手リーダー大会)の略で、牧師や宣教師だけでなく、多様な分野で仕える若手クリスチャンリーダーたちが出会い、つながるための大会です。

初回となる日本YLG2024の目的は、日本宣教に仕える多様な若手リーダーがつながり、キリストにある謙遜さを求めながら、宣教協力の土台となる真の友情を築くことです。

 

 つまり、今回の大会の目的は「真の友達になろう!」というものであった。素晴らしいと思った。このような大会は、往々にしてメインの集会や、メイン講師、そこで語られる「説教」に重きが置かれがちだ。しかし、私は常々「礼拝集会の内容よりも、フリータイムや食事、お風呂の時間、ちょっとしたスキマ時間、そして夜ふかしして語り合って友達になるのが、クリスチャン大会の醍醐味だよなぁ~」と思っていた。どこまでも天邪鬼なので、プログラムよりも、そこで出会う人に期待していたのである。今回、それがメインテーマとなっていて嬉しかった。

 

 言っているだけでなく、この大会は「友」となれる機会がたくさんあった。5人程度の「スモールグループ」が割り当てられ、基本的にそのグループで4日間を共に過ごした。全体集会ではグループで一緒に座り、その後でガッツリ話す時間が昼と夜それぞれに設けられた。

 通常、こういったスモールグループに割り当てられる時間はせいぜい15分程度のもので、あまり深い話ができない場合が多い。しかし今回、1時間もの時間が割り当てられたことで、グループ内での会話が深まり、結果的にフリータイムや夜の時間にこのグループのメンバーと話す機会も増えた。自然と「友」となれるように、大会全体が「仕組まれていた」のである。

 

 一方で、ワークショップやフリータイム、食事は自分の好きなように行動できた。こうしたメリハリも効いていて、グループ以外の人とも深く関わることができ、互いに知り合うことができた。特に食事の席が指定されていなかったのは個人的に良い影響が大きく、合計9回あった食事の機会で、すべて違う方々と知り合い、話すことができて非常に良かった。中には、私のような「若者」と夜の時間を喜んで過ごしてくださった一回り以上先輩の方々もいらっしゃった。世代を超えて喜びをもって交流ができたことは、非常に良かった。

 クリスチャン業界は狭い世界で、Facebookで「共通の友達」が300人以上いることもザラにある。そんな世界だからこそ、集会に行けば同じようなメンツと会う。しかし、SNSの発展によって「知っているようで知らない」「SNSではよく知っているけど、実は会ったことがない」「10年以上会っていない」という関係も多い。今回は、そんな人々と真に「出会い」「友人となる」ことができる貴重な機会だった。私も多くの「はじめまして」や「久しぶり」、そして「えっ、あの人の旦那さんなの!?」を体験した。

 

 また、細かい点だが、参加者の名札のクオリティが非常に高かった。秀逸できれいなデザイン、読みやすく大きなフォントの印字、首や肩の負担にならない細めの紐。すべてが整っていた。また、裏面にはプログラムが印刷されており、「次のプログラム何だっけ?」となった時にすぐに手元で確認ができることも大きなメリットだった。

 

 こうした大会の名札は、初日は全員がつけるが、2日目以降は忘れられていることが多い。デザインや形状が良くなく「負担」になるからだ。しかし今回は、最終日までほぼ全員が着用しており、自然とお互いの名前を知ることが出来た。これは互いに「友」となる為には非常に大きなポイントだったと思う。名札をデザインした方々に拍手を送りたい。

 

 

3:「1on1メンタリング」という新しい大会のカタチ

 今回の大会での特徴的なプログラムのひとつに「1on1メンタリング」というものがあった。約50名の40代-70代の先輩を「メンター」として選び、1時間程度の個人面談ができるという制度だった。大会中の朝食、昼食、フリータイム、夜の時間などを活用し、希望するメンターとの面談が実施された。メンターは上限3名まで選ぶことができ、選択肢も多く、充実していた。メンターの役職も、牧師や宣教師にやや偏っていたものの、中には医師や公認会計士など、様々な分野で活躍する人材が用意されていて、比較的自分が興味のある分野の専門家に話を聞けるシステムになっていた。

 

 このような大会においては、往々にして自分と同世代か、同じような興味関心がある人との関わりだけで留まってしまいがちだ。しかし、このような先輩とのメンター制度があることによって、自由時間にはちょっと話しかけづらい年齢やタイプの人と話せる機会が生まれていた。結果として幅広い人々のつながりが生まれるよい機会だったと思う。

 今回、私は自分の中に、ある個人的なテーマがあり、そのテーマに沿った方々に面談を申し込んだ。1名は、あえて普段は絶対にしない女性の先輩を選び、話を聞いてみた。結果として非常に良かった。このように、「どんな相手と」「何を話すか」の選択権が参加者にあることで、各々の必要や要望を満たすことが可能なシステムとなっていて、非常に好感が持てた。

 

 フリータイムに話しかけるには、ちょっと気まずい相手でも、制度を利用すれば堂々と話が聞け、また「友」となることができたと思う。とても良い制度であり、次回も続けて欲しい。この発想を生んだスタッフの方々に感謝したい。

 

 ひとつ付言するならば、今回は「年上が年下のメンターになる」という構図だけだったのが残念だった。「多世代協働」を謳うならば、「年下が年上のメンターになる」という構図があってもいいはずだ。次回からは、そのような構図でも1on1メンター制度を導入してみてはいかがだろうか。これは私からの提言である。

 

4:ボランティアの方々の奉仕が美しかった

 この大会には、約50名のボランティアが参加していた。大会に参加する条件が「25歳以上」だった為、25歳未満の青年がボランティアスタッフとして参加していたのだ。学生もいれば、なんと仕事を休んで来ていた社会人の方もいた。

 彼らは、受付、清掃、昼食の弁当やお茶配布、軽食やコーヒーの準備、参加者の誘導、アナウンスなど、多岐にわたる仕事を精力的にこなしていた。日程的にも、人数的にもかなり忙しそうに動いていたが、印象的だったのは彼らが楽しそうに働いていた姿だった。喜びに溢れながら他者に仕える姿は、輝いて見えた。

 

 とても恥ずかしいが告白すると、「得体の知れないオッサン参加者の為に自分の時間と労力を犠牲にする」という発想が私にはまったくなかったので、これほど多くのボランティアが働いている事実に心底驚いた。「え? なんで? なんでわざわざ大変なことをしに時間を使っているの?」と、ビックリした。喜びを持った奉仕を無償でする若者の姿を目の当たりにし、自分の自己中心さに気付かされ、反省した。彼らの献身的な姿を見て、心から感動した。

 日本YLG2024にボランティアとして仕えてくださった皆さん、本当にありがとう。心から尊敬します。

 

 

5:歓迎的(ウェルカミング)な雰囲気だった

 この大会の印象は、終始大会が「歓迎的な雰囲気」(ウェルカミング)だったことだ。参加者にタンブラーが配られ、1日中コーヒーを飲むことができた。中には「Little Light Coffee」プレゼンツの本格的なコーヒーの提供もあり、コーヒー好きの私にとっては、これ以上ありがたいことはなかった(その結果、カフェインを摂りすぎて、今、頭痛をロキソニンで抑えながらこのブログを書いている。人間とは愚かな存在である)。昼にはおやつ、夜には交流のための軽食なども用意されていた。

 大会実行委員の方々は、常にメールやfacebookでの問い合わせに答えてくれた。私はこのブログを見れば分かるように、小うるさい小姑のような性格なので、何度も分からないことを問い合わせたが、その度に丁寧に対応していただいた。大会の最中、終始「あなたを歓迎します」というメッセージが伝わってきて、心がほぐされた。

 

 

 

 以上、ざっと「良かった点」を5つ挙げた。これらの素晴らしい要素は、すべて実行委員会、スタッフの皆さま、メンターの皆さま、そしてボランティアスタッフの皆さまの苦労のおかげで生み出されたものだと思う。改めて本当に心から感謝したい。そしてこの機会を与えてくださった、唯一の神に最上級の感謝と栄光をささげたい。

 

 

【悪かった点】

 さて、良い点は数多くあったが、それと同時に悪い点もあった。あくまで私個人の観点から、「ここを改善したらもっと良くなる」と思う点を5つ挙げたい。

 

1:「先生」文化を変えようとしたが、徹底できていなかった

 日本YLG2024では、初日の集会で「牧師を『先生』と呼ばずに『さん』で統一しましょう」という提案がなされた。奇しくもこれは前年の第7回日本伝道会議での提案と同じであった。先に挙げた山﨑ランサム和彦さんのブログにもある通り、これは大変画期的かつ野心的な素晴らしい試みであったと評価したい。

 ご存知ない方への補足だが、日本のキリスト教業界には長年にわたり「牧師、宣教師に『先生』という敬称をつける」という文化が定着している。これは聖書には一文字も書かれていない単なる「文化」である。それどころか、逆に聖書は「先生と呼ばれるな」(マタイ23章参照)と教えている。

 個人的にはこの「先生呼び文化」が、日本のキリスト教業界のピラミッド型構造を生み出し、牧師への依存、牧師権力の腐敗と膠着化、有名牧師の意見に付和雷同する等々の様々な悪影響を及ぼしていると考えている。聖書に根拠もなく、悪影響しかないこの文化は、今すぐにでもやめた方がいい。先日つくった動画でも言及しているので、詳しくはぜひ動画を見て欲しい。

youtu.be

 

 今回の日本YLG2024のテーマは「旅の友」であり、またサブテーマとして「謙遜さ」が挙げられていた。もう一度、公式ホームページの文章を見てみよう(強調は著者による)。

YLGは、世界最大の宣教ネットワークであるローザンヌ運動の若手リーダーによる集会です。

Younger Leaders Gathering(若手リーダー大会)の略で、牧師や宣教師だけでなく、多様な分野で仕える若手クリスチャンリーダーたちが出会い、つながるための大会です。

初回となる日本YLG2024の目的は、日本宣教に仕える多様な若手リーダーがつながり、キリストにある謙遜さを求めながら、宣教協力の土台となる真の友情を築くことです。

 

 このように、「謙遜さ」もテーマのひとつだった。謙遜さを求め、そして真の友情を築くために、この大会中は「先生」はやめましょう。そういう趣旨での提案だった。

 また、YLGが大切なテーマとして掲げる「多世代」が協働するという意味でも、講師を「先生」と呼ぶのはふさわしくない。そういう意図での提案だったはずだ。この提案は非常に素晴らしいもので、思わず私は会場で拍手喝采した。

 

 しかし、残念だったのは、この「『先生』はやめましょう」という呼びかけが、まったく徹底されていなかった点だ。ステージに上った運営委員のうち、ほとんど全員が初日から最終日まで、ずっと「先生」という敬称を用いていた。「それでは先生を拍手で歓迎しましょう」「◯◯先生は、普段から熱心に仕えておられる先生です」などの言葉もあり、「あれ、提案はどこにいったの? 謙遜さはどこにいったの?」とズッコケてしまった。講師も、もれなく他の牧師を「先生」と呼んでおり、ポリシーがまったく徹底されていなかったことが浮き彫りになった。

 

 この「先生呼び」をやめられない現象は、結局4日間ずっと続いた。その度に私は会場で声をあげたり、拍手をしてリアクションをとったが無視され、改善されることはなかった。

 

 大会3日目には、大会運営委員長である武田孝平氏に直接1on1ミーティングを申し込み、直接「先生呼びをやめるよう徹底してはどうか」という提案をした。しかし、武田氏はポカンとした表情で、意味がその重要性がよく理解できていない様子だった。武田氏は「あの提案は真の友情を育むためのもので、ルールではない」と、私の提案をやんわりと拒否した。残念だった。

 

 武田氏は、「先生呼びをやめましょう」と提案した張本人だ。しかし、彼はステージ上でその提案をした直後に「それでは講師の◯◯さんをお招きしましょう……こんな呼び方をしていいのか、今私は戦々恐々としているのですが……」と発言した。「本来は『先生』と呼ぶべき相手だが、そうしない無礼をお許しください」という姿勢だ。

 運営委員長がステージ上でそういう姿勢を見せたら、提案は有名無実になってしまう。運営委員のその姿勢を見た参加者は「あっ、ポーズだけで実際はやっぱり『先生』と呼ばなきゃダメなんだ」と思ってしまう。現に、大会中さまざまな交流の中で、ほとんどの人が牧師を「先生」と呼んでいて、まったくその提案は反映されていなかった。この「先生呼び」の文化が日本のキリスト教業界にはかなり強く根付いてしまっているのだなと残念に思った。

 

 せっかくそういった野心的な提案をするのであれば、せめて運営委員や講師はその意思を徹底し、貫くべきではないのか。そうでもしないと、根付いた悪しき文化を変えることなど出来ない。キリスト教の文化を変えて、本当の福音を伝えていくというのもYLGのコンセプトだったはずだ。

 先に挙げた山崎先輩のブログにもあるように、この「先生文化」については、日本伝道会議でも同様に「なあなあ」になっていた様子がうかがえる。それだけ根強い悪しき文化を変えるには、徹底した姿勢が必要なのだ。指摘を直接受けたにも関わらず、改善しようとしない委員長の姿勢や、運営委員がほぼ全員その旨を徹底できておらず、ただのパフォーマンスに留まってしまっていた点は、厳しく批判したい。

 

2:なぜ通訳が必要な外国人の講師ばかりなのか?

 ステージ上で語る講師の多くが、外国語話者であり、日本語通訳を必要としていた点は良くなかった。今回、全体での集会は7度あり、最後の集会は全体での祈りがメインだったので、いわゆる「説教」「メッセージ」「証」「スピーチ」がある集会は6回あった。そのうち、前座的なものと、本チャンのものがあり、いずれの集会も2人がスピーカーとして登壇するシステムとなっていた。数えた所、6×2+αで=全13回、登壇する機会があった。

 

 全部で12回あるスピーチの機会で、外国語話者が逐次通訳を通してスピーチした機会は7回。日本語だけのスピーチは6回だった。これは「日本」YLG2024だったはずだ。日本の若手リーダーのための大会だったはずだ。なぜ日本語より外国語で話す機会の方が多いのか。めちゃくちゃ疑問である。

 メインの講師は3人いて、そのうち1人は日本人、1人はアメリカ人、1人は韓国人だった。それぞれ、日本語、英語、韓国語で、外国語話者は通訳を介して話した。日本人による日本での日本のリーダーの為の大会なのに、なぜ外国語の方が多いのか。

 

 言わずもがな、通訳を介すと解像度は下がる。同じ時間内で言えることの密度も著しく下がる。内容の理解度は、母国語で語る半分以下になる。なぜあえて外国語話者を多く登壇させたのか、理解に苦しむ。日本のキリスト教業界が、通訳を介しての外国語のスピーチに慣れすぎているのではないか。

 通訳を介して話すのはデメリットが大きいのに、そのデメリットを許容してまでも通訳を立たせる理由は、その話者でないと話せない特殊なことがテーマである場合や、その人物が代替不可能な場合のみである。例えば講師がビル・ゲイツであるとか、松下幸之助であるとか、ダライ・ラマである場合などである。その場合は通訳を立てても、その人物が話す意義がある。

 

 しかし、今回の大会のスピーチは、有り体に言えばいずれも「大したことのない内容」だった。ローザンヌ運動の歴史や、世界宣教の状況説明や、体験談が主な内容で、別に日本語話者でも話せる内容だったと思う。聖書のメッセージ、いわゆる「説教」も別に内容的に特段新しいものはなく、使い古された当たり前のメッセージで、別にわざわざ通訳を立てて話すような内容でもなかった。むしろ日本語話者が語った方が、より深い内容のものを、同じ時間内に話せたと思う。
 また、個人的にはどうしても国や言語、文化の違い、情報不足ゆえの内容の違和感が拭えなかった。例えば、韓国系の男性が「こんなに若者の集会が大きくなっている!!」という例で挙げた教会は、日本ではカルト性の強い教会だと認知されており(ちなみに小林は当該教会に実際に1ヶ月関わったことがあるが、明確にカルト教会だと断言する)、会場では微妙な空気が流れた。教会堂に大勢の人を集め、大きなスタジアムで豪華なパフォーマンスをする映像も流れたが、日本ではリアリティもなく、また目指したい姿でもないため、目指す方向性のズレも感じた。外国講師が力を込めて語る内容は、日本では既知のものであり、目新しさや感動は個人的にはまったくなかった。また、アジア系の女性が力強く語った証は、昨今のフェミニズム的な内容のもので、個人的には聖書の価値観とのズレを感じた。彼女が暮らす国の文化や社会では、もしかすると聖書の内容との関連があるのかもしれないが、少なくとも日本の文脈では受け入れがたい内容だった。

 さらに、通訳者のクオリティにもバラつきがあり、中には難があるレベルの人がいたのが気になった。私は英語が分かるので、英語話者のスピーチの内容は分かる。中には通訳者が意味の取り違えをしていることもあり、その点が気になってしまった。英語母語話者にも聞いてみたが、その方々も間違いが気になって集中できなかったと語っていた。韓国語の通訳も、日本語の母語話者ではなく、日本語に訳した際に解像度が下がっていたと聞いた。

 特に2日目のアメリカ人講師、ダグ・バーゼル氏のスピーチは、通訳者とテンポが合っていなかった。通訳者がまだ日本語を話しているのに、終わらないうちにバーゼル氏が話し始めてしまう。通訳に「被せて」話す時間が続いた。日本語は語尾で意味が180度変わる語順の言語なので、それをされてしまうと、スピーチの内容が分からなくなってしまう。

 実際に、英語が分からない参加者に聞いたところ「集中できなかった」「半分ぐらいしか理解できなかった」「気になって話が入ってこなかった」という感想が多かった。通訳者も困っていたし、かわいそうでもあったが、通訳しきれないならばその場でバーゼル氏に「すみません、もう少し話し始めるのを待ってください」とお願いすることもできたはずだ。それをせずに、最後まで続け、日本語話者を置いてきぼりにしてしまっていた。

 

 これは流石に問題だと思ったので、私は通訳者の武田氏(運営委員長と同一人物)と、スピーカーのバーゼル氏両名に直接声をかけ、スピーカーと通訳の連携に問題があったことを伝えた。両氏ともに、その点は過失があったとして指摘を受け入れてくださった。バーゼル氏は「以前、バングラディシュで話した際には通訳者が止めてくれたので気づけたが、今回は止められなかったので気づかなかった。再来週のソウルでのスピーチの際は気をつける」と答えてくださり、指摘を受け入れてもらった。感謝したい。

 

 内村鑑三新渡戸稲造が「日本人の信者をナメるな!」と声をあげ100年以上。尾山令仁氏が「外国人ではなく日本人の日本人によるキリスト者学生運動をつくる」としてキリスト者学生会(KGK)を立ち上げて77年。未だに日本のクリスチャンイベントでは、外国人が外国語でスピーチしている。この現状を、そろそろ変えなければいけない。

 

 

3:メイン講師のメッセージの内容や論法に賛同できなかった

 メイン講師は3名いた。安藤理恵子氏、ダグ・バーゼル氏、ユ・ギソン氏の3名で、いずれも肩書きは立派な方である(公式ホームページ参照)。しかし、そのスピーチの内容は厳しい言葉遣いになるが、いずれも陳腐だったと言わざるを得ない。

 いずれの講師も、話術や体験談で聴衆を引き込み、伝えたい内容を伝えるという論法であった。ある参加者からは「聖書の言葉はどこ?」「聖書の言葉の解説が足りない」「例え話を前提とする演繹的な話し方で、聖書の言葉からの帰納的な話ではない」という感想が聞こえてきた。一言で言えば、「中身が薄かった」ということだ。

 どの講師も耳馴染みの良い導入やジョーク、体験談を織り交ぜていて、一見すると「良いメッセージ」のように聞こえるし、テンションが上がる構成だったのは事実だ。しかし、実のところ聖書のどこにその意見の根拠があるのか、不明瞭な話も多かった。全体として「良さそうなメッセージ」に見えるが、聖書の言葉という土台がなかった。ただ事前に朗読がなされるのみで、聖書の解説がなく、神学の深みもなかった。ちなみに、この点の話の薄さ、土台の弱さについては、山崎氏も日本伝道会議について同様に語っている。

 

 3夜にわたってスピーチをした、事実上のメイン・メイン講師である安藤理恵子氏は、話し方がストレートで、ノリが良く、「イケているメッセージ」のように聞こえた。まるでかつての大嶋重徳KGK元総主事を彷彿とさせるような論法で、実際に参加者からは「大嶋さんと似たタイプだね」という感想が聞こえた。それもそのはず、安藤氏は大嶋氏よりもかなり先輩のKGK元総主事なのだ。経歴を見た時、思わず「なるほどね~」とつぶやいた。実は大嶋氏のイケてる感じの雰囲気スピーチの源流は、彼女にあるのかもしれないなと思った。

 ちなみに安藤氏は初日の夜に「ウソをついて、カッコいい自分を演出しても、正直でないと若い人にはすぐにバレる」という主旨の話をしていたのだが、その点は「あ〜、確かに大嶋氏が常にカッコつけて話しているのはバレバレだったな〜」などと同意できる部分もあった。

 

 それはさておき、安藤氏の話の内容に戻ろう。彼女の論法には型があり、「私たちクリスチャンはこう思っているけど、でも実はそれ間違っているよね。本当はこうしなきゃダメだよね」というものだ。Aという前提を立て、それを否定し、実はBが真理なのだ、という論法。極めてシンプルだが、現場で聞いていると「ナルホドな」と思う、効率の良い話し方である。

 この「Aという前提」に違和感があった。なぜなら、それが極めて一般的な「クリスチャンの当たり前」をベースに設定していたからだ。それはKGKの優等生クリスチャンには響くかもしれないが、元々そういう考え方を持たない私にとっては、「牧師は間違ったことを言ってはいけないと思っていませんか?」と問われても、「いや、思ってないんですけど…」で終わってしまうのである。

 だから、彼女の話す「前提」に僕は同意ができなかった。「この人は何を言っているんだ?」と逆に疑問を抱いてしまった。

 

 安藤氏は聖書をたびたび引用した。そこで彼女がよく言ったのが「ここで書いてあることは、Yではなく、Xという意味なんですよね、明らかに」というセリフだ。3日間で何度も聞いた。彼女の決め台詞なのだろう。その意見には、同意できるものもあれば、できないものもあった。彼女は「明らかに」と言う割りに、その根拠を示していなかった、明らかに。また、彼女の意見なのか、それとも神学会で多くの同意を得ている意見なのか、誰か特定の学者の意見なのかも明瞭ではなかった。そういった解釈が分かれる聖書の言葉を、「明らかにこういう意味だ」と定義して話すならば、それなりの根拠を示さなければいけないのに、それがなかった。ただ「ノリ」でスピーチが進んでいき、なんとなく「イケている」雰囲気で終わる。終始そのような形だった

 聖書の文脈にもそぐわない話も多かった。例えば、安藤氏は旧約の律法(文字)は殺すという部分を引用し、「聖書の価値観で人を裁いてはならない」という主旨のことを言っていたのだが、パウロは該当箇所であくまでも旧約の律法を遵守することで救いを得ることはできない旨を説明していたのであって、信じて聖霊を受けた後に聖化のプロセスを歩むことや、互いに戒め合うことを禁じたわけではないことを無視している。このように、旧約と新約の関係性や、聖書全体の文脈から見ると、無理やりな解釈や引用も目立った。まず「裁く」の定義もせずに話していたのもおかしい。クリスチャンは「裁く」という言葉を誤用しているからだ。詳細は以下の動画で見て欲しい。

youtu.be

 

 特に私が彼女に同意できなかったのは、3日目の夜のスピーチだ。この日のスピーチは最悪だった。彼女の結論は、「今所属している組織的地域教会を離れないように努力しなさい」「組織的地域教会を離れて超教派の働きに精を出すのはダメだ」「組織的教会の宣教を信じなければならない」「組織的地域教会を出ていく時は、教会に祈られて送り出されないといけない」というものだった。「教会を離れる人は傷ついている」という決めつけもひどかった。そうでないケースもある。呆れてものが言えなかった。

 結局、3日間スピーチして、言いたいことはそれなんかい! 結局「教会教」やんけ! と叫びたくなった。「教会の宣教を信じる」って一体何なのだろうか。宣教をするのは聖霊であり、組織的地域教会ではない。根本的に聖書の言葉を誤解している。

 クリスチャン業界に深く根付いている「教会に集わない人へのむき出しの差別意識如実に出た結果だと思う。ハウスチャーチは教会ではないとか、組織的地域教会に所属しないとしっかりとしたクリスチャンではないとか、聖書に書いていないことばかりを主張している。それが安藤氏のメッセージだった。1日目も2日目も、結局このための伏線だったのかと、ガッカリした。

 現代の組織的地域教会には、不義が多く横行している。聖書にある「エクレシア」とは異なる形に、残念ながらなってしまっている。聖書に書いていない文化を優先し、教会への服従を誓わせる。献金を強制し、牧師の言うことに無条件で服従し反論しないことを強制される。そういった教会で「間違っている」と指摘をしても、逆に悪魔呼ばわりされ、教会権力者に叱責罵倒され、追い出されることもしばしばだ。クラウドチャーチに集う方々は、そのような経験を多くなさっている。そういった方々は、悩み、苦しみ、涙を流し、神の導きを祈り求めて、悔しく寂しい思いをしながらその地域教会を離れる決断をする。安藤氏は、そういった方々がまるで二流の信仰者だと決めつけているような話しぶりだった。

 

 なぜ所属している組織的地域教会を変えてはいけないのか。理解に苦しむ。聖書の根拠はどこにあるのか。別にいいじゃないか。何が問題なのだろうか。そもそもKGKだって超教派の働きであって、組織的地域教会ではない。その働きに20年間関わった人が言うメッセージがこれか? とても残念だった。

 KGKは超教派の働きであり、実は組織的地域教会の一部からは疎まれている。学生がそっちばかりに精を出して組織的地域教会の「仕事」を疎かにするからである。都合が悪いのだ。だから組織的地域教会はKGKに圧力をかける。KGKも組織的地域教会に気を使い、学生に「組織的地域教会に所属することはとても大切ですよ」と教える。それが実態だ。

 安藤氏の今回の結論は、その「KGKの悪いクセ」が露呈した残念なものだった。この点については、私は真っ向から反論し、批判したい。とても残念だ。日本YLG2024は多様なフィールドで活躍するリーダーが集まり〜と歌っておきながら、結局は「教会中心主義」に着地していたのである。これは批判せずにはいられない。
 安藤氏や「教会教」の信者の方々は、ぜひイスラエルに留学するといい。メシアニック・ジューの信仰を見てみるといい。迫害にある国の、素朴な信者が自ら熱心に集っている地下教会に参加してみるといい。きっと違う景色が広がっていることに気がつけるだろう。このような日本の組織的地域教会信奉者は、圧倒的に自分たちの文化以外の経験が足りないのである。井の中の蛙なのである。

 

 もちろん、擁護しておくと、1日目と2日目の彼女のメッセージには良い点もあった。「教えられたことではなく、自分が神から直接教わった言葉で宣教をしなければならない」とか、「完璧な人ではなく、弱さを抱えた人だからこそ宣教ができる」とか、「できるようになってから宣教するのではなく、今できることをやるのが宣教だ」など、賛同できる点は多々あった。特に「Amazonプライム」という隠語でポルノを見ることについての罪を女性のスピーカーが堂々と語っていたことは高く評価したい(追記:安藤氏はスマホで時間を浪費するという主旨でそれを話していたのだが、私の目線からは明らかにポルノについて想起するように話が構成されていたように感じた。察してくださいね、と言わんばかりに。もちろんこれは、安藤氏がポルノを見ているという意味ではない。誤解なきよう)。そういった良い面があったからこそ、着地点が「組織的地域教会を大切にしましょう」だったのは正直ズッコケてしまった。

 

 日本YLG2024には、教会の牧師や宣教師以外にも、様々なフィールドで活躍する若手リーダーが集まっていた。そのような多面的な働きを推し進めるための大会だったはずだ。それなのに、その結論が結局は「組織的地域教会は大切ですよ」だったことに私は落胆を隠せない。教会以外にも、宣教のフィールドはある。そのことを知ってほしい。人生が宣教である。教会以外の働きは二次的なものだという、差別意識に気づき、そして反省してほしい。

 (残りの2人のメッセージの内容は、あまり記憶にも残らなかったので割愛)

 

 

4:「多世代協働」「謙遜さ」をテーマにしながら、講師陣は権威を持ったロートルばかり

 日本YLG2024の最大のテーマは「旅の友となる」だったが、それに付随する大切なサブテーマとして「多世代協働」や「謙遜さ」が挙げられていた。それにも関わらず、講師陣は結局のところ大層な肩書きを持った年配の方だけだった。その点は残念だった。

 

 講師陣をざっと見ただけでも、「玉川聖学院校長」「ローザンヌ運動前国際総裁」「ローザンヌ世界宣教会議韓国準備委員長」といったゴツい肩書きが並んでいた。年齢もざっと検索した感じは不明だったが、おそらくいずれの方も60歳代-70歳代だろう。あれ、若手の大会じゃなかったの? と心の中で突っ込んでしまった。メイン講師だけでなく、いわゆる「サブ講師」も、ほとんどが50代-70代だったように見受けられる。

 

 結局のところ、キリスト教業界では「経歴」や「肩書き」がすべてであり、年寄りが教えるという従来の形が変わらないという残念な事実が浮き彫りになった。山崎氏が感想を書いた日本伝道会議では、登壇者を50歳以下のみとする(それでも私からすれば年寄りすぎるが)という制限を設けて「若手」(一般的には管理職の年齢だが……)を全面に押し出す工夫があったと言う。その点から見れば、日本YLG2024はまだまだロートルが支配しているという現状で、日本伝道会議と比べて後退してしまっているように感じた。

 

 老人をステージに立たせるなと言うつもりはないが、「多世代協働」をテーマに掲げている以上、登壇者の年齢はもう少しバラつきがあった方が良かったように思う。ワークショップも、講師陣は若くて40代、ほとんどが50-60代で、もう少し若手にも講師の役割を振った方が良かったのではないかと思う。20代の講師がいてもおもしろいのではないか。

 

 最後に「聖餐式」のパンとぶどうジュース(本来はワイン)を配布する際に、10代から70代の代表者が前に出たが、それは単なるパフォーマンスに過ぎない。本質を変えたいのであれば、多世代の人に講師になってもらい、登壇してもらい、そして「互いに学び合う」という姿勢が必要ではないかと感じた。70代の人は、20代から学ぶことはないのか? そんなことはないだろう。いつだって、どの世代からも学ぶことはあるのだ。

 

 ちなみに、最後の聖餐式では思いっきりイースト菌の入ったパンを割くパフォーマンスをしていたが、聖書を読むと本来はイースト菌が入っていない「マッツァ」でやるべきなので、私はちょっと笑ってしまった。パフォーマンスをするなら、せめて正しい形でやってほしいと思う。

 

5:最後の祈りの内容と対象がピンとこない

 大会の最後に全体での祈りの時間があった。代表者と参加者全体が交互に、決められた文言を読み上げて祈る形だった。大会の最後を、祈りの言葉で閉じたのは良かった。しかし、その内容に違和感を覚えた。祈りは大変長いのでここでの紹介は避けるが、基本的な神学的な部分で大きな問題はなかったように見えたものの、「祈る主体をどう考えているのか」が気になった。

 例えば、以下の祈りの文言があった(強調筆者)。

「私たちは自分の世代の宣教を優先し、多世代で仕え合うことを軽んじ、福音の広がりを狭めてきました。他の世代から謙遜に聞かなかったことを赦してください

「私たちは、宣教の働きは自分たちの世代だけのものであると、思い違いをしてきました。キリストの弟子を作ることよりも、他の事柄を優先してきました」

 

 この内容に異論はないが、これを祈るべき「私たち」の主体は、こういうことを僕らの世代に対してしてきた老人世代ではないのか? という思いが湧いてきた。この祈りを今の50代、60代、70代が祈るならば分かる。でも、ずっとその世代に苦しめられ、我慢を強いられ、意見を聞かれなかったのはその下の世代だ。この世代の人々が我々に対して悔い改めを示すのならば分かる。けれども、参加者の主体は20代から40代の「若手リーダー」のはずだ(40代を 「若手」と言うかは多少疑問ではあるが……)。

 若手リーダーがこの文言を「祈らされる」という状態に、私は違和感を覚えた。そもそも私はこの前日、武田氏に提言したのに、それを拒否されているので、その武田氏本人がこの祈りの文言を祈っている姿がシュールで仕方がなかった。言うは易く行うは難し、である。

 

 そもそも祈りの文言を精査する時間もなく、一方的に与えられ、それを読み上げろというのも無理がある。「アーメン」(そう思います。同意しますの意)と言えるかどうか、その精査もせずに私は「アーメン」とは言えない。祈りは自分の心から、真実の心で祈りたいという思いがあるからだ。祈りの文言を事前に共有し、それを反芻した上で当日祈った方が良かったのではないかと思う。

 

 

 以上、5つの「悪かった点」について思うままに書いた。ぜひ31歳の若造が言うことを「生意気」と捉えずに、祈りの文言のように「謙遜に聞いて」欲しいものである。

 

 

 さて、思いつくままに記してきましたが、冒頭にも述べたように、私はただの一参加者に過ぎませんので、私の観察は大会のほんの一部を切り取ったものに過ぎません。私の知らないところでこの大会の背後ではさまざまなご苦労や議論があったのではないかと推察します。この大会を実現してくださった関係者の皆さまには心からの感謝を申し上げたいと思います。

 

 最後に、今回個人的に一番嬉しかったのは、さまざまな人々との交流が与えられたことでした。何年も会っていなかった人々と旧交を温めたり、新しい方々との出会いが与えられたりと、対面ならではの祝福をいただいた4日間でした。このようなイベントを通して人と人とがつながることから、次の時代の新しいうねりが生まれていくのではないかと思います。動画編集もあり、スケジュール的にはきつかったですが、やはり参加して良かったと思っています。

 

(了)