週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】式文を唱えるのは本当に「お祈り」なのか?

クリスチャンは「お祈り」をするそうですが、どうやってやるのでしょうか? 決められた文章を唱えるの? 自分の言葉で祈るの?

 

 

▼「祈り」とはどういうものか?

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 クリスチャン生活にとって「祈り」は欠かせない要素である。教会に通い始めたばかりの頃は、祈りというものは、ひざまずいて、両手を組んで、目をつむって、物静かに神に語りかけるものだと思っていた。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公がベッドの上に肘を乗せて祈るような、それが「祈り」のイメージだ。しかし、成長するにつれ、「祈り」には様々なものがあると分かってきた。

 中学生の頃、ハワイから宣教師がやってきた。50代ぐらいの、色黒のいかにもハワイアンという言葉が似合う、元気ハツラツとした女性だった。彼女は、教会の礼拝堂で「祈りましょうか」と言った。てっきり頭をもたげて祈るのかと思ったら、なんと彼女は礼拝堂の床に大の字に寝っ転がったではないか。そして、彼女はかっと開いた目で、天井を見つめながら大声でつぶやいた。「あ~~~神様~~~大好きです~~~~」そうして彼女はしばらく黙っていた。衝撃だった。これが祈りなのかと思った。しかし、間違いなく、彼女にとっては、それが心からの「祈り」だったのである。

 留学先のイスラエルでは、さらに新しい「祈り」の概念を学んだ。ヘブライ語の授業で、「ミトパレル」という単語を習った。「どういう意味か、当ててみて」と先生が言った。発音だけ聞いて、意味を予想しろといっても無茶である。みな黙っていたところ、ヘブライ語の先生はジェスチャーでヒントを出した。両手で本のような形を作り、体を前後に揺さぶったのである。一体、何のジェスチャーなのか、誰も分からなかった。「分からないの?」先生は驚いたように言った。「これは、『祈り』なのよ!」と。そう、ユダヤ人にとって「祈り」とは、祈りの式文が書いた本を手で持ち、それを音読し、体を前後に揺さぶる行為なのだ。西洋の「祈り」や、日本人が神社などで行う「祈り」とは、全く違う「祈り」のスタイルだった。ジェスチャーで示されても、全く分からないという、新鮮な経験だった。

 イエスをメシアと信じている、元ユダヤ教徒、いわゆる「メシアニック・ジュー」の方に聞いたところ、エスを信じた後も、その人にとって「祈り」は祈りの式文を唱える行為なのだという。それ以外の「祈り」は、彼らにとっては厳密には本格的な「祈り」ではないのだという。また、カトリックの方とも話した経験があるが、カトリックにおいても「祈り」は基本的には祈りの式文を唱える行為であって、プロテスタントのように自分の言葉で祈る「祈り」は本物の「祈り」ではないのだという。

 文化や信仰によって「祈り」のスタイルには様々な種類がある。しかし、「祈り」の本質は何なのだろうか。祈りとは何か。祈りに決まったフォーマットはあるべきなのか。聖書の登場人物はどう祈っているのか。実際に、どう祈ったらいいのか。いつでも祈ることは可能なのか。今回は「祈り」にフォーカスして記事を書く。

 

 

▼「祈り」にフォーマットはあるのか?

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 「祈り」とは、そもそも何を指すのだろうか。国語辞典をひいてみた。

 

【祈り】

祈ること。また、そのことば。「神にーをささげる」

 

【祈る】

1:よいことが起こるようにと神や仏に願う。祈願する。「世界の平和をー」

(古くは、のろう意でも使った。今も「祈り殺す」などの形で残る)

2:他人の幸せを切に望む。かくあれかしと念ずる。「大会の成功をー・っております」

明鏡国語辞典

 

 なるほど、神などに対して願う行為を「祈り」と言う。そう捉えて差し支えなさそうだ。ちなみに、ヘブライ語で「祈り」は通常「ミトパレル」(מתפללと言う。これは、もともと「介入する」とか「仲裁する」とか「裁く」といった意味の「パラル」(פָלַל)が語源となっている。ここから派生した「祈り」という単語(名詞)が「テフィラー」(תְּפִלָּהである。聖書には77回登場する単語である。これは、自分の心に「介入し」、心の中にあるのか見極めた上で、神に心を注ぎだす行為である。「神」と「自分」の関係を、どこか第三者的に見つめている自分がいる。自分を違う立場から見つめ、心の中に何があるのかを見ている。「神」と「自分」、そして「他者」ともつながり、そこに「仲裁している自分」が存在している・・・そんなことを、この「テフィラー」という言葉は示唆しているのではないか。

 他にも「とりなし」を意味する「アタル」(עָתַרも「祈り」という言葉に翻訳されている。例えば、エジプトの王ファラオが「もう災害が起きないように祈ってくれ」と懇談するシーン(出エジプト記8:28など)の「祈ってくれ」は「アタル」が使われている。

 他にも、元々「祝福する」「ひざまずく」を意味する「バラク」(בָרַךְも「祈り」を意味する言葉とされている。カトリックでは、この「バラク」の複数形「ベラホット」(ברכותを、仲間同士の祝福の祈りの言葉として用いている。

 

 ユダヤ教や、カトリックにおいては、祈りの式文の通りに祈る行為が「祈り」という印象が強いだろう。一方、プロテスタントの場合は、決められた祈りの文言などもあるが、自分の言葉で祈るスタイルが多い。

 「祈り」にはフォーマットはあるのだろうか。決められた文言があるべきなのだろうか。それとも、自由に自分の言葉で祈るべきなのだろうか。イエスが何と教えたかは「主の祈り」の記事で既に書いたので、参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 イエスの教えは、まとめると以下のようなものである。

<「祈り」に関するイエスの教え・行為>

1:ただ同じ言葉を呪文のように繰り返すのは意味がない

2:「主の祈り」で示したのは式文ではなく、要素である

3:イエス自身も、神に対して心を注ぎ出して自分の言葉で祈った

 

 以上の点を鑑みると、式文だけで祈るのは、どうもイエスの言動とマッチしないのではないかと、個人的には思う。また、後述する他の聖書の登場人物も、自分の言葉で神に対して「祈って」いる。聖書では、神に対して、自分の言葉で語りかける行為が「祈り」として描写されている。

 結論から言えば、「祈り」とは、自分の心に「介入し」、自分の心を見極めた上で、神の前に「ひざまずき」、神の前に自分の心をさらけ出し、心を注ぎ出して、神に対して自分の心の奥底から自分の言葉で語りかける、その語りかけを指すのだと、私は思う。

 もちろん、人間そう簡単に自分の心など分からない。そんな時も必要な事柄を、神に祈るために「式文」はとても有効である。「式文」による祈りは、とても意味深いものだし、その祈りを大切にしている人の姿勢を、私は尊重する。同じように、聖書の言葉、特に詩篇などの言葉をそのまま読み上げるのも、また良い祈りとなると思う。

 しかし、エスや他の聖書の登場人物の姿を見ると、「式文しか祈りとして認めない」というのは違和感がある。式文はあくまでも祈りのガイドであって、正解ではない。自分の言葉でも祈り、そして、式文でも祈り、また「霊のことば」(後述)でも祈ればいい。大切なのは、「神に心が向いているか」である。

それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

(コリント人への手紙第一 14章15節)

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」

(サムエル記第一 15:22~23)

 

 

▼聖書の例1:イエスの祈り

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 聖書の登場人物は、どう祈っているのだろう。まずはイエスがどう祈ったか、聖書をめくってみよう。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、このをわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように

(マルコの福音書 14章36節)

 

 これは、イエスが十字架につく直前のシーンである。イエスは、正直にも「この杯(十字架の苦難)を取り去ってください」と父なる神に祈っている。しかし、同時に「わたしの望むことではなく、あなた(神)が望むことを行われるように」とも祈っている。自分の率直な「願い」を告白しつつも、神の主権を認め、神の計画が成就するように祈る。完璧な、お手本のような祈りである。

 エス自身が「十字架」という最大のミッションを「取り去ってください」などと言うのは、衝撃ではないだろうか。しかし、彼の言葉は、弱い人間である私たちが率直に祈っていいのだと思えるための、最大の励ましになる。

 また、ヨハネ福音書には、イエスが弟子たちに対する溢れんばかりの愛をもって祈った祈りの言葉が記されている。これも十字架の直前のシーンである。

これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父(神)よ、時が来ました。子(イエス)があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。

(中略)

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼ら(弟子たち・すべての人々)のうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

(中略)

正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです

ヨハネ福音書 17章1~26節)

 

 いかがだろうか。この祈りは、決して決められた言葉ではない。イエスご自身が、十字架という苦難を前にして、愛する弟子たち、そして時を超えて全ての人々への思いに溢れて祈った、そんな心から溢れるような祈りである。私はどうしても、この祈りが「式文」から作られたようには思えないのだ。

 

 

▼聖書の例2:ハンナの祈り

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 預言者サムエルの母、ハンナも心を注ぎ出して神に祈った人である。ハンナは不妊の女であった。彼女はそれを悩み、「男の子を与えてください」と切実に神に祈った。そのシーンを見てみよう。

ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主<しゅ>に祈った。そして誓願立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません」

(サムエル記第一 1章10~11節)

 

 ハンナは、この願いをどのように祈ったのだろうか。その解説が、続くシーンに書いてある。

ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです

(サムエル記第一 1章12~16節)

 

 ハンナは、心の中で神に祈っていた。言葉にならないほどの、「募る憂い」と「苛立ち」が彼女の中にあった。彼女は、言葉にならないほどの思いで、「主の前に心を注ぎだし」、神に祈った。それは、はたから見れば酔っ払ったようにも見えるほど、激しいものだったのだろう。

 私たち人間は、ときに「こんなことを祈っていいのだろうか」という思いに駆られる時がある。「もっと高尚な祈りをするべきではないか」「ただのお願いになってはいないだろうか」と不安になる時がある。

 しかし、ハンナのこの必死さに励ましがある。「男の子を与えてください」というのは、決して「高尚な祈り」とは言い切れない。だが、神は彼女の切実な願いに答えてくださった。ハンナもまた、「神が応えてくださる」という確信を得たことが、続く以下のシーンから分かる。

エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。

(サムエル記第一 1章17~18節)

 

  神に心を注ぎだして祈った結果、ハンナは確信を得た。「その顔は、もはや以前のようではなかった」のである。神に祈る、その祈りは決して「高尚な」ものだけである必要はない。切実に、自分が本当に求めるものを、まずは正直に神にさらけ出して祈ってみる。そうすれば、ハンナのように、悩みそのものから解放されるかもしれない。祈りは、そんな素朴なものでいい。私個人としては、そう思う。

 

 

▼聖書の例3:マリアの祈り

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 イエスの母マリアは、相当な迷いの中にあっただろう。婚約中の不貞は、死刑同然に扱われていた当時の文化の中で、見に覚えのない妊娠をした。天使が現れ、羊飼いや学者たちが訪れ、親戚には祝福され、エルサレムでは預言者たちに崇められた。「一体、この子は何なのだろう」。彼女は戸惑い、不安の中にあったに違いない。

 そんな中で、マリアはこのように祈ったのである。

マリアは言った。私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに

(ルカの福音書 1章46~55節)

 

 マリアの祈りは、神の力を称えると同時に、イスラエルの民族的な救いを確信したものであった。当時、イスラエルローマ帝国の植民地だった。しかし、イスラエルにとっては、神がアブラハムに約束した通り、この地をイスラエルが治めるはずなのである。しかし、現実はそうなってはいなかった。その状況を打ち破る存在として期待されていたのがメシアであった。

 マリアは、自分が身ごもっていたのがそのメシアであると確信し、このように祈ったのではないだろうか。ローマという権力を引き下ろし、困窮しているイスラエルを救ってくれる・・・そんな存在を期待したのだ。これは、決して現代の「個人的救済」を強調する、西洋的なキリスト教の発想ではない。イスラエルの民族的救い」を願う祈りである。「神とアブラハムとの契約の成就」を望む祈りである。もちろん、メシアたるイエスに対する神の契約は、さらに大きいものであったのだが、その当時のイスラエル民族にとってのメシアは、そのような民族的救済の期待がかけられていた存在だった。

 現代の私たちにとって、「祈り」は個人的な願いになりがちである。ハンナのような個人的な祈りも良い。しかし、マリアのような大きな神の計画の成就を願う祈りも、また重要である。どちらも優れているとか、間違っているというのはない。どちらの祈りも欠かせない。現代のクリスチャンは、イエスが教えたように「御国が来ますように」と祈ったらいいと思う。「異邦人の時が来ますように」という祈り、「あなたの福音が届きますように」という祈り、「マラナタ・主よ、来てください」と祈る祈り・・・神の計画の実現を確信し、それを宣言する。それもまた「祈り」なのである。

 

 

▼聖書の例4:モーセの祈り

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 モーセはどのように祈ったのか。彼の様々な祈りは、聖書に細かく記されている。興味がある方は、出エジプト記民数記申命記などを読んでみると、よく分かる。今回は、その中でひとつだけ特出しで紹介する。

 神がイスラエルの民に律法を与え、幕屋や「契約の箱」の設計図を示した後、イスラエルの民はその通りに幕屋と契約の箱を建設した。その後で、モーセはこのように祈った。

契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りくださいイスラエルの幾千幾万もの民のもとに

民数記 10章35~36節)

 

 「契約の箱」は、神の存在を強調するためのモニュメントだった。箱に力があるのではなく、神の存在感の重さにこそ、力がある。モーセの祈りは、神と共に歩むという思いが強調されたものだった。

 イスラエルが偉大なのでも、モーセが偉大なのでも、神の箱が偉大なのでもなかった。そこに存在する神こそが偉大だったのである。民を率いるリーダーとして、モーセは常にその思いを捨てずにいた。

 これは、短く、シンプルな祈りだ。しかし、とても重要な祈りである。私が授業を受けたユダヤ教の先生は、「この2節だけを1章にしてもいいぐらいだ」と言っていた。ユダヤ人にとっては、この2つの祈りは、それほど重要だという意味だ。神が一緒にいる、それが何よりも大切なのである。

 

 

▼「祈り」に正解はない

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 今まで、様々な「祈り」の種類を見てきた。結論としては、「祈り」のスタイルに正解はない。どう祈っていいか分からない時もある。そういう時は、「式文」で祈るのはオススメだ。また、聖書の言葉をそのまま、祈りの文として引用するのも、また良いと思う。以下は、エペソ人の手紙にある、私のオススメの祈り文である。

こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

(エペソ人への手紙 3章14~21節)

 

 この「あなたがた」の部分を、祈りたい人の名前を入れて、祈ってみよう。「私」にしてもいい。膝をかがめ、天と地のすべての「家族」の元、「天の父」である神に祈ってみよう。

 

 式文や、聖書の言葉を用いた祈りも、もちろん大切である。しかし、聖書の人物たちを見ると、自分の心を注ぎだす、自分の言葉による祈りも、また同じように大切である。エスは十字架の苦難を取り除いてほしいと祈った。ハンナは男の子が欲しいと祈った。言葉にならないほどの悩みを、神の前にさらけ出した。マリアはイスラエルの民族的な救いを実現する、メシアの誕生を確信して祈った。モーセは民がいつまでも神と共に歩めるようにと祈った。それぞれ、千差万別の祈りのスタイルであり、どれも重要な祈りである。

 人間は、何が正解か考えがちだ。しかし、必ずその方法がひとつだけとは限らない。声に出してもいい、出せなくてもいい。家で一人でも、友と一緒でもいい。大の字になって叫んでも、椅子に座って厳かに祈ってもいい。大切なのは、人に見せるのではなく、神に心を注ぎだしているかという、その一点である。

 聖書はこう命じている。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(マタイの福音書 6章6節)

絶えず祈りなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章17節)

 

 

▼おまけ:オススメの祈り方3選

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  オマケに、私の個人的なオススメの祈り方を3つ、簡単に紹介しよう。

 

1:チョコチョコ祈り

 上に挙げた「絶えず祈れ」という言葉がある。これは、24時間365日祈れという意味ではない。眠れなくなってしまう。そうではなく、「絶え間なく、神に心を注いでいなさい」という意味である。そのような状態を目指せと言っているのである。

 では、具体的にどうしたらいいのか。私のオススメは、どんな時でも、ふと思いついた時に神に祈るという「チョコチョコ祈り」である。ふと思い出した時でいい。「神様、ありがとう」「神様、助けて」「神様、疲れた」「神様、あなたは本当にスゴイ!」「神様、今から会う人といい時間を過ごせますように」・・・などなど。ちょこっとした祈りでいいのだ。何も、かしこまる必要はない。生きている全ての瞬間で、神を思い出し、ちょこっと祈る。それだけで、祈りの生活が変わるだろう。

 

2:祈り歩き(プレイヤーウォーク)

 同じ場所で祈っていると、ついつい集中が途切れてしまう経験はないだろうか。私は、落ち着きがない性格もあってか、同じ場所で長々と祈るのが苦手である。そんな時、どうするか。歩きながら祈るのだ。ちょこっと散歩に出かけてみよう。そして、ブツブツ祈りながら歩き回るのだ。場合によっては、気に入った音楽でも聞きながら、心を神に向けて祈りながら、歩き回って祈るのである。

 歩いて祈っていると、新しい思いがふつふつと出てくる時がある。「あ、これも祈ってみたいな」「これ最近祈ってなかったな」などなど、新しい祈りの言葉がどんどんわいて出てくる。私はたまに祈り歩き(プレイヤーウォーク)をするが、謎の感動に包まれ、歩きながら号泣してしまったこともある。神の恵みの大きさを思い出し、それに感動して泣いていたのだが、さすがに自分で自分にひいたが、それだけ神に心を向けられた経験だったと思う。祈りにマンネリを感じている人は、ぜひこの祈り歩き(プレイヤーウォーク)を試してほしい。

 

3:ことばにならない霊のうめきによって祈る

 さて、最後に不思議な祈りのスタイルをご紹介する。それは「ことばにならない霊のうめきによって祈る」というものだ。聖書にはこう書いてある。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

(ローマ人への手紙 8章26節)

 

 この部分の解釈は、細かくは分かれる部分はある。今回は、「御霊(聖霊)が」「ことばにならない」「うめきをもって」「とりなしてくださる」という文字通りの理解をした上で、私の見解を述べる。

 新改訳聖書3版ではこの部分を「言いようもない深いうめき」と訳していた。新改訳聖書2017では「ことばにならないうめき」となっている。一部のクリスチャンたちは、この「うめき」を「異言」(※外国語や、人間の言葉ではない言語を指す)という形で祈ることだという。かくいう私も、いわゆる「異言」を用いて祈る場合もある。

 しかし、それだけにとどまらず、人間には「言いようもない深いうめき」があるのではないか。言葉を出さずに祈っていたハンナは、まさに傍から見れば「酔っ払っている」ようであった。同じように、使徒2章で「異言」で話し始めた信者たちを見た人々は、「このひとたちは酔っ払っている」と思ったという記述がある。言いようもない、ことばにならない、でも祈りたい。そんな深いうめきが、聖霊の導きによって出てくる。傍から見れば、それは酔っ払いのようである。しかし、その人の心は、確実に祈っている。

 祈りは「ことば」に留まらない。もしことばにならないのであれば、心を神に向けて叫んでみるのもいいだろう。叫びにすらならないかもしれない。ただ涙が流れるだけかもしれない。ただ黙ってしまうだけかもしれない。ただ、それでも心は神を神に向ける。聖霊に身を委ねて、ただただイエスの名前をもって、神の前に出て、心を注ぎだす。そんな「ことば」を超えた「うめき」をもって祈るという不思議なことが、ときに起こり得るのだ。私はその経験をしてしまった。そして、その祈りは祈りの生活を、より満ちたものにしたのであった。

 

 いかがだろうか。もちろん、ここで挙げた以外の「祈り」も存在する。何よりも、自分が祈る前に、王であり、祭司であるイエスご自身が、私たちのために祈ってくださっている。

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙 7章24~25節)

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。