聖書の神の名前は、「エホバ」とか「ヤハウェ」とか言われます。一体、何が正しい名前なのでしょうか?
▼神の名前は「エホバ」ではない?
聖書の神は、唯一の神である。世界の創造者であり、全能者であり、唯一無二の神である。そんな神を、クリスチャンたちはどう呼ぶのだろうか。最初の本格的な日本語訳の「文語訳聖書」では、神は「エホバ」とされている。新改訳聖書では太文字の「主」(しゅ)、共同訳聖書では普通の文字の「主」(しゅ)などとされている。
この神の名前は、ヘブライ語で「YHVH」(יהוה)のアルファベットで示される4文字で表す。
<神の名前>(右から読む)
י ה ו ה
ヘブライ語はいちいち母音を全て明記しない。そのため、この4文字の正確な読み方は分からない。「ええっ、そんなことあるの?」と思うかもしれないが、日本語だって同じだ。漢字に全ての読み仮名は振らない。「生」という漢字は、「せい」とも読めるし、「なま」とも読める。「しょう」でもいいし、「き」でもいけるし、「い<きる>」だってOKだ。文脈で無意識に読み分けをしているだけで、本来は色々な読み方ができる。「羽田」は「はねだ」だが、「成田」は「なりた」である。同じ漢字だが、読み方が違う。本来どう読むかは、なんとなく知っているだけで、正確には学ばないと分からない。
ユダヤ人は、神の名前を呼ぶのは恐ろしいと考え、この名前を口にしてこなかった。「YHVH」を「アドナイ」(私の主)とか「ハシェム」(the name)と言い換えてきた。その結果、「YHVH」の正確な読み方は、誰も分からなくなってしまったのである。したがって、この4文字は、その子音である「Y/H/V/H」を使って表すしかない。
「YHVH」は、旧約聖書で6220回も登場する。初登場は創世記2章4節である。
これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】<しゅ>が、地と天を造られたときのこと。
(創世記 2:4)
なお、「主人」の意味での「主」も存在するため、新改訳聖書では「YHVH」を「主」と太文字で表記する(※「主人」の意味の「主」は普通文字の「主」となっている)。この記事では「YHVH」で示される神の名前を【主】と表記して区別する。
神自身が自分自身を指して【主】(YHVH)と述べたのは、出エジプト記6章2節が最初である。
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である』」
(出エジプト記 6:2~8)
唯一の神である【主】は、何度も「わたしは【主】である」と繰り返し、自分の名前を強調している。ちなみに新改訳聖書では、神が話者の場合は「わたし」とひらがなで、それ以外の人物は「私」と漢字表記で区別している。話者がイエスの場合も「わたし」とひらがなになっている。
【主】という名前は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも示されず、モーセに初めて知らされた。ただ、これ以前にも【主】の文字は多数存在はしている。モーセとファラオとの会話でも、ファラオは「【主】とは何者だ」と発言している(出エジプト5:2)。ファラオの口から「YHVH」の名前が出ているのである。当然だが、旧約聖書は後代にまとめられたため、最初から【主】の名前が出ているが、モーセの時代までは明確に主が自分の名前を語ったことはなかった。詳しくは後述する。
さて、日本語で最初の本格的な聖書、文語訳(明治・大正訳)は「エホバ」と表記している。【主】(YHVH)の4文字は、どうして日本語で「エホバ」と呼ばれるようになったのか。実は、意外な理由がそこにはあった。今回は、「エホバ」の読み方が生まれた意外すぎるルーツ、神は自分をどう呼んでいるのか、神の名前の意味とは何か、順番に紐解いていこう。
▼「エホバ」となった意外なルーツ
どうして文語訳は、【主】(YHVH)の名前を「エホバ」と表記したのか。英語では「Jehova」(ジェホバ)となるが、その読み方はどこから来たのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。
先に述べたように、ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する文字だ。そのため、「YHVH」の正確な読み方は分からない。「ヤハヴァハ」の可能性もあるし、「ヤヒヴホ」でもいいし、「ヨヒヴィヒ」と読むかもしれない。どの母音をあてるかによって読み方が全く変わるのである。では、なぜ「エホバ」になるのか。
実は、意外な理由があった。ヘブライ語は、読み方が複雑なため、後代になって発音を指示する「ふりがな」が発明された。これは「ニクダー」と呼ばれる記号で、「a/e/i/o/u」のどの母音をあてるのか示すものだ。日本語でいう「ふりがな」のようなものである。
例えば、「ב」(ベート。Bの発音)に「a」の発音のニクダーが付くと「バ」という発音になる。「e」のニクダーが付くと「べ」という発音になる(※興味がある方はこのサイトなどを参照)。このニクダーを付ければ、子音だけで表記するヘブライ語も、正確な読み方が分かるのだ。
では、神の名前「YHVH」にニクダーが付いていれば、正確な発音が分かるのではないか。その通り。しかし、これが間違いの元だった。
ユダヤ人たちは、神の名前を口にするのを恐れた。神の名前は恐れ多く、口にしてはならないものだった。それは、モーセの十戒にあるこの教えが影響している。
あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
(出エジプト記 20:7)
神の名前「YHVH」は、決して発音してはいけないものだった。そのため、ユダヤ人 たちは神の名前を「YHVH」を使って呼ばず、「אדני」(アドナイ)と呼ぶようになった。「アドナイ」とは「私の主」という意味である。
しかし、かといって聖書の表記を勝手に変えるわけにはいかない。聖書には「YHVH」の名前が何度も出てくる。これでは、朗読する際に困ってしまう。そこでユダヤ人たちは、後代になってニクダー(ふりがな)を付けた。「יהוה」(YHVH)を「אדני」(アドナイ)と読むために、ふりがなを付けたのだ。整理してみる。基本的にヘブライ語は右から読むので注意してほしい。
<アドナイのニクダー付きの表記>
אֲדֹנַי
解説すると以下のようになる。
<アドナイのニクダー解説>
אֲ דֹ נַ י
I+なし N+A D+O A+短いA
おわかりいただけただろうか。「アドナイ」はヘブライ語で「ADNI」と表記する。そこに「短いA+O+A+なし」のニクダーが付く。これで「ADNI」の表記で「A+DO+NA+I」となり、「アドナイ」と読めるわけである。ユダヤ人たちは、この「ふりがな」を「YHVH」に表記することで、「YHVH」を直接発音せず「アドナイ」と読み替えるように指示していたのである。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読ませる、漫画のアレと同じだ。
しかし、この基本を知らない学者たち(おそらく中世あたりのヘブライ語を知らない学者たち)が、後代になって「アドナイ」のふりがなを本当の神の名前と勘違いして研究した。「アドナイ」のふりがなを「YHVH」に付け足すと、このようになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
יְהֹוָה
解説すると以下のようになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
יְ הֹ וָ ה
H+なし V+A H+O Y+短いA(e)
この「YHVH」に「アドナイ」のニクダー(ふりがな)をふった場合の発音は上記の通りになる。なお、鋭い読者の方は「一番右のニクダー違うやんけ!」と思うかもしれない。鋭いご指摘ありがとう。ただ、ヘブライ語の文法ではY( י )に「短いA」の母音記号<אֲの下についているやつ>を付けられないため、代わりに「e」の発音の母音記号<יְ の下についているやつ>を付けることになっているのだ。
解説すると以下の通りになる。
<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>
Y+短いA(e)/ H+O / V+A/ H+なし
いかがだろうか。こうすると、「イェ・ホ・ヴァ・ー」(Ye/Ho/Va/H)となり、つなげると「イェホヴァー」、より日本語らしく変化すると「エホバ」となるわけである。英語では「J」の発音は「ヤユヨ」ではなく「ジャジュジョ」と発音するので「Jehova」(ジェホバ)となったというわけだ。
とどのつまり、「エホバ」の表記は、「アドナイ」と読ませるための「ふりがな」を、間違えて「YHVH」に当てはめて読んでしまったカンチガイの結果なのだ。もちろん、「YHVH」の読み方の「可能性」として否定できるものではない。しかし、「YHVH」を発音しないために「アドナイ」のふりがなをわざと割り当てていることから、その可能性は低いだろう。カンチガイによって「エホバ」の読み方は生まれてしまったのだ。
では、「YHVH」は何と読めばいいのか。考えていこう。
▼神は自分をどう呼んだか
「YHVH」で表す神の名前は、どう読めばいいのか。新改訳聖書2017の「あとがき」にはこのような表記がある。
旧約聖書においては、特に、文語訳ではエホバと約され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を、『聖書新改訳2017』も、従来の「聖書 新改訳」の伝統を踏襲して、太字で主と訳し、それによって主の御名が記された、主の御名がエロヒームと読まれるように母音表記されているところでは、太字で神と訳している。
<「あとがき」聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>
なるほど。「アドナイ」だけでなく「YHVH」を「エロヒーム」(神)と読ませるための母音表記(ニクダー)もあるらしい。
問題は「学者の間ではヤハウェとされている主の御名」という部分である。なぜ「ヤハウェ」と読めるのか。調べてみたところ、様々な理由があるようだが、主な根拠としては、古い時代のギリシャ語の聖書翻訳に依るらしい。いくつかの書籍などによれば、ギリシャ語の一部の古い翻訳では「ヤハウェ」に近い発音が表記されているという。だから、少なくとも当時のギリシャ語話者の間では「ヤハウェ」に近い発音がなされていた可能性があると推測される。しかし、それは可能性の話であって、確実な事実と言えるかと問われると、微妙な問題だ。ギリシャ語で表記して「アドナイ」と読み替えていた可能性も否定できない。
神自身は、自分を何と表現したのか。聖書を少し見てみよう。
<エル・シャダイ>(全能の神)
さて、アブラムが99歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」
(創世記 17章1節)
「全能の神」とは、ヘブライ語で「エル・シャダイ」である。この世界を作り、全ての上に存在する、力強い神を指す言葉である。モーセに対して「YHVH」の名前を示すまでは、基本的に神は「エル・シャダイ」という名前でご自身を現している。
<エル・ロイ>(ご覧になる神)
そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。
(創世記 16章13節)
これは、アブラハムの元を追放されてしまったそばめのハガルが、神を呼んだ呼び名である。意味は「ご覧になられる神」。神はハガルの苦しみを見て、助けの手を差し伸べて下さったのである。神は人の苦しみをご覧になり、助けてくださる存在である。
<名前を教えないパターン>
ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人(神?)は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
(創世記 32:29)
神は時にお茶目にも、名前を聞かれても答えない場合もある。ヤコブは「ある人」(おそらく神)と格闘した。ヤコブは辛くも勝利するが、その後で、「イスラエル」(「神に勝つ者」の意)という名前を与えられる。しかし、ヤコブが神に名前を聞いても、神は答えなかった。まだ「YHVH」の名前を示す時ではなかったのだ。
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
(出エジプト 3章6節)
先週の記事でも述べたが、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名で、ご自身を現される。これは、アブラハムと交わした契約を必ず行い、いつまでも共におられる神であるということを示している。
<万軍の主という呼び名>
万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ
(詩篇 46篇7節)
「万軍の【主】」は、ヘブライ語「アドナイ(YHVH)・ツェバオット」の邦訳である。「アドナイ」は「YHVH」で、「ツェバオット」は「軍隊」を意味する「ツェバ」の複数形である。英語だと「God of Almighty」と訳されている。イスラエルでは現在も軍隊のことを「ツェバ」と呼んでいる。
「万軍の【主】」は聖書全体で235回登場する。その多くがイザヤ書で登場する。神の力強さと、守る力、いつも共にいて戦ってくださる方であるという意味が込められている。
<不思議な名前>
【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という」
(士師記 13章18節)
ここは、「【主】の使い」と書いてあるが、神の代理としての存在なので、神の名前を尋ねられた答えと捉えて良い。「わたしの名前は不思議である」という、また何とも奇妙で不思議な答えである。神の存在は、名前で現せるようなものではないという意味でもあるだろう。また、もっと不思議な名前がある。最後にご紹介しよう。
<「わたしはある」という不思議な名前>
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と」
(出エジプト記 3章14節)
これが一番不思議で、かつ難解な神の自分紹介である。日本語では「わたしはある」。英語だと「I am who I am」。ヘブライ語では「אהיה אשר אהיה」(エヒエ・アシェル・エヒエ)という。
この意味をめぐっては、様々な議論が続けられている。「わたしは存在する神だ」という意見もあれば、「わたしはあなたと共にいる」という意見もある。「わたしは世界を創造した神だ」とする見解もある。聖書を気仙沼の方言で翻訳した山浦氏は著書で、「わたしはわたしだ」と神がお茶目な回答をしたのだとの解釈を示している。どの意見も説得力があり、答えはおそらく出ないだろう。
実は、「わたしはある」という自分紹介は、イエス自身も使っている。聖書にこうある。
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」
これは、イエスが「わたしはある」と宣言した神と同じ存在であるという意味である。ギリシャ語では「エゴー・エイミ」。イエスが神を同じ名前を名乗ったシーンである。
さて、このように、神の名前は様々ある。神はに人間の言葉では表しきれないほど、大きな存在である。しかし、拭いきれない疑問が残る。「YHVH」(יהוה)は、一体どういう意味なのかという疑問である。最後に、私がイスラエルで学んだ視点を、次の章で紹介する。
▼「4文字」の意味について
神の名前、「YHVH」(יהוה)は、一体どんな意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。正しい発音は分からない。しかし、その意味は何なのか。ずっと気になっていた。
私は学生時代、イスラエルに留学し、ユダヤ教の授業を受講した。そのユダヤ教の先生が、ある解釈を示した。私にとっては目からウロコだった。「なるほど、そうか!」と感動した。あくまでもユダヤ教の教師が教えたひとつの解釈にすぎないが、みなさんにご紹介する。
ヘブライ語の文法には、以下のようなものがある。
<ヘブライ語の時制>
היה →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。
הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。
יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。
これは、ヘブライ語教室の初級クラスで習う定番の文法である。そのユダヤ教の教師は、上記の文法を示した後で、このように続けた。
神様の名前(יהוה)は、
この「יהיה」「הווה」「היה」全ての要素を合体させたものなんです。
(ユダヤ教の教師の言葉)
どういうことだろうか。整理しよう。
<神の名前の意味>
היה →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。
הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。
יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。
יהוה →「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。
いかがだろうか。「現在」「過去」「未来」の全ての言葉を、少しずつ組み合わせて、神の名前「יהוה」が示されているのである。つまり、神は時を超えた存在であるという意味である。
これは、私にとっては心から感動する解釈であった。あくまで、ひとつの見方にすぎないが、私にとってはかなり説得力のある見方であった。聖書にも、こう書いてあるからだ。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
(ヘブル人への手紙 13章8節)
神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」
(ヨハネの黙示録 1章8節)
今も、昔も、そしてこれから先も。ずっと「ここにいるよ」と耳元で囁いてくださる神様。聖書の神、יהוה(YHVH)は、そんな存在なのである。
▼おまけ:神の名前を唱えることの是非について
神の名前「יהוה」(YHVH)の発音をめぐっては、議論がある。「エホバ」の発音は、「アドナイ」と読ませるための「読み替え」のための「ふりがな」を誤用したために起こったミスの可能性が高い。「ヤハウェ」を示すギリシャ語などの根拠はいくつかあるが、なお議論のあるところである。
結局は、神の名前をどう発音するかは謎のままである。しかし、人間が付ける名前によって神の存在を表すことなど、到底できない。神は人の言葉よりも、もっと大きい存在だからである。それゆえ、神を指し示す呼び名は、数多くある。ユダヤ教の一部の見方では、「今も、昔も、とこしえに、ここにいるよ」と存在を示される意味だと述べた。
さて、発音をめぐっては議論のある神の名前だが、「ヤハウェ」と神の名前を連呼する習慣が、近年クリスチャンたちの間で流行している。中には、「ヤハウェ、ヤハウェ、ヤハウェ」と神の名前を不遜にも(?)繰り返す賛美の歌も発表されている。これは、果たして良いことなのだろうか。
私個人の意見では、神の名前が分からない以上、軽率に神の名前を定め、その名を連呼する行為には違和感がある。十戒の「神は唯一である」「偶像を作ってはならない、拝んではならない」の次にあるのは、「神の名をみだりに唱えてはならない」である。ユダヤ人たちは、神の名前を呼ぶのを恐れ、「アドナイ」や「ハシェム」という別の呼び方を作った。
日本人は外国人であり、ユダヤ人ではないから、彼らの習慣をそのまま行う必要はない。しかし、神は畏れるべき存在である。その神の名前を、まだ発音が明確ではないにも関わらず、軽率に何度も連呼するのは、私は不遜ではないかと思ってしまう。しかし、本気で神を崇める気持ちで名前を呼ぶというのであれば、神は心を見る方なので、その「心の動機」が一番大切である。私はどうしても神の名前を「ヤハウェ」や「エホバ」などと決めつけて呼ぶ行為には、個人的には抵抗がある。
イエスご自身は、こう命じておられる。
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ、御名が聖なるものとされますように」
(マタイの福音書 6章9節)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。