週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンは「避妊」をしてはいけないのか?!

クリスチャンはコンドームを使ってはいけないの? そんな質問をされた経験があります。聖書は何と書いているのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンはコンドーム禁止?!

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 クリスチャンですと自己紹介すると、様々な質問をされる。「日曜日教会行くの?」とか、「家族もキリスト教なの?」とか、「カトリックプロテスタントってどう違うの?」などと、何度も聞かれる。ある日、少しトリッキーな質問をしてきた人がいた。「クリスチャンはコンドーム使っちゃダメなの?」というものだった。言い換えれば「クリスチャンは避妊していいのか、ダメなのか」という問いかけである。ナルホド。世間一般では、クリスチャンになると「避妊」もダメと思われているのかと勉強になった。面白い。

 しかし、なぜ「避妊してもよい」と言えるのか。もしくは、なぜ「避妊してはダメだ」と言えるのか。正直言うと、正面からキチンと考えては来なかった。この機会に、考えてみようと思った。

 今回の記事では、少しデリケートだが、この「避妊」について書く。断っておくが、この記事は「婚前交渉の是非」や「中絶の是非」がテーマではない。あくまでも「結婚している夫婦が避妊をすることの是非」についての記事である。その点をご留意いただきたい。

 また、以前このブログの記事について「体験していないことを、いかにも体験したかのように書くのはいかがなものか」という批判が寄せられた。その是非は置いておいて、同様の批判に対して先に答えを書いておく。私は男性である。そして現在に至るまで、女性と性関係を持ったことはない。ゆえに、いかなる方法によっても避妊の経験はない。避妊の経験はないが、あえて避妊についての記事を書くのだと、先に宣言しておこう。

 今回は、聖書で避妊をした例はあるのか、そもそも避妊は悪いことなのか、聖書の価値観は何かという観点で、記事を書いていく。また、子どもを産むことについては、様々な事情が、それぞれの夫婦、家族にあるだろう。産みたくても産めない人もいる。産みたくなくても、様々な事情で妊娠し、結果的に産む決断をする人もいる。それぞれに、複雑な事情が存在する。だから、この記事でも決して断定的に「避妊はダメだ」とか「避妊すべきだ」とか言うつもりはない。それぞれにデリケートな事情があるのは、百も承知である。この記事は、決してそういう方々を糾弾するためのものではないことは、分かっていただけたらと思う。

 ただ、一般論として、クリスチャンは「避妊」をどう考えたらよいのか、議論はすべきだと思う。だから筆を執った次第である。この記事を読んで、傷つく人がいないよう願っている。

 

 

▼聖書で最初に避妊をした例 ~オナンの物語~

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 聖書に避妊をした例はあるのか。実は存在する。まずは、その例を見てみよう。

ユダはその長子エルに妻を迎えた。名前はタマルといった。しかし、ユダの長子エルは主<しゅ>の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。ユダは(次男の)オナンに言った。「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい」しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。ユダは嫁のタマルに、「わが子シェラ(三男)が成人するまで、あなたの父の家でやもめのまま暮らしなさい」と言った。シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家にいき、そこで暮らした。

(創世記 38:6~11)

 

 これは、男の子が大好きな「オナン」のエピソードである。オナンは、自慰行為「オナニー」の語源となったとも言われている(本当かどうか知らないが)。私のクリスチャンの友人A氏は、好きな聖書の登場人物を聞かれた際「オナンかな!」と元気よく答えていたが、意味の分かった者だけが笑っていた。これで笑えるのは、相当聖書を読んでいる人であろう。

 冗談はさておき、これは次男のオナン(図らずしも韻を踏んでしまった)が、長兄に子孫を残さなかった話である。オナンの父はユダ。ユダはヤコブの子どもである。アブラハムを起点として見てみよう。

<オナンの系図

アブラハム(高祖父)

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イサク(曽祖父)

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ヤコブ(祖父)

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ユダ(父)

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エル(長男)、オナン(次男)、シェラ(三男)

 

 オナンは、アブラハムの玄孫(やしゃご・孫の孫)である。この世代の400年後にモーセが登場するので、まだ旧約聖書の律法が確立するより、ずいぶん前の話だ。日本で400年前というと、ちょうど江戸時代が始まった頃なので、その感覚が伝わるだろうか。

 まだモーセの律法が確立する前、アブラハムの家族には、長男が家を引き継ぐという風習・伝統・ルールがあった。その目的は、おそらくはアブラハムが神と交わした契約の祝福と義務を、後の世代まで受け継ぐためであったのだろう。アブラハムから脈々と引き継がれた契約を受け継ぐ対象は、基本的には長男であった(しかし、神の計画は皮肉なもので、往々にして長男じゃない人が受け継いだりするのだが・・・)。

 長男が子どもを授からず死んだ場合はどうするのか。「長男の兄弟」が「長男の妻」と結婚し、「長男の息子」を「代理に産んで家を引き継がせる」という風習が、彼らにはあった。これは「レビラト婚」という風習で、まるめて言えば「寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する風習」といった感じだ。

 この頃は、モーセの律法は成立していないが、後にモーセ時代の律法でも同じ決まりが規定されている。

兄弟が一緒に住んでいて、そのうち一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

申命記 25:5~6)

 

 レビラト婚の目的は、「長男の子どもを残す」というものであった。つまり、オナンがタマルとの間に産むはずの長男は、オナンの子孫ではなく、エルの子孫としてカウントされる手はずになっていたのである。

 日本にも似たような習慣があった。例えば私の祖父は四男なのだが、次男(祖父の兄)には子どもが産まれなかった。だから、私の祖父の長男(私のおじ)は、戸籍上は次男の養子に入った。四男である私の祖父の子孫よりも、次男の子孫を残すのが、一家として優先事項だったのである。「レビラト婚」は、日本人にとっても決して関わりのない文化ではない。

 さて、オナンの話に戻る。オナンは自分が子どもを産んでも、自分のものにならないと知っていた。それゆえ、オナンは「兄嫁のところに入ると、地に流していた」とある。オナンは、いわゆる「膣内射精」(中出し)をせずに、「膣外射精」(外出し)をしていたのである(つまり、厳密に言うと「オナニー」ではない)。

 神はオナンの行動をどう評価したのか。

彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。

(創世記 38:10) 

 こう書いてある。オナンの行動は神の目には悪であった。では、オナンの行為のどこが悪だったのだろうか。避妊そのものが悪いことなのか。その点を見ていこう。

 ちなみに、この部分だけ読むと「嫁のタマルがかわいそうだ」と思う方もいるかもしれない。ごもっとも。しかし、ご安心を。タマルは知恵を働かせ、なんと義父のユダとの間に子どもを設けるのだ。実は、その子どもがメシアであるイエスの祖先となるのであった・・・。興味のある方は、創世記38章とマタイの福音書1章を読んでみてほしい。

 

 

▼オナンはなぜ悪とされたのか

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 オナンの行動はなぜ悪とされたのか、その「動機」に焦点を当てて考えてみたい。オナンの行動の前に、大前提となった神のことばを振り返って見てみよう。

神は彼ら(人、男と女)を祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」

(創世記 1:28)

 

 神が人に最初に命じた基本的命令は「生めよ。増えよ。地に満ちよ」であった。当時の価値観では子どもは神からの祝福であり、逆に子どもが産まれないのはネガティブな事であった(今回、その価値観の是非を問うつもりはない)。

 さて、そんな中でのオナンの行為である。オナンの動機については、実は明確な記述がある。もう一度見てみよう。

しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。

(創世記 38:9)

 

 オナンの目的はハッキリしている。「兄に子孫を与えないように」というものだ。おそらくオナンは、自分の子にならないのが「しゃく」だったのだろう。以上の点をふまえ、なぜオナンが神の目に悪とされたのか、まとめてみる。

<オナンはなぜ悪とされたのか>

1:長兄のために子孫を残すという、明文化はされていないが、確実に把握していた風習・ルールに逆らった

2:アブラハムの直系の子孫でありながら、神からの祝福・神との契約を受け継ぐための子孫を残そうとしなかった

3:「産めよ。増えよ。地に満ちよ」という神の基本命令に対し、生殖能力があり、法的な妻も存在したにも関わらず、それを個人的な「しゃくに障る」という理由で拒否した

4:神が悪と定めたから

 

 オナンが悪とされたのは、おそらく2番目の「神とアブラハムの契約を受け継ぐ子孫を残そうとしなかったから」というのが、最大の理由であろう。いずれにせよ、最後にあえて明記したように、究極的には神が悪と定めたから悪なのである。善悪を定めるのは主権者である神ただお一方である。

 

 

▼子どもは神が授けるものという価値観

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 「避妊の是非」という本題に入る前に、もうひとつだけ聖書の価値観を確認したい。「子どもは誰が授けるのか」という問題である。

 聖書で、子どもは「胎の実」(ルカ1:42)と呼ばれる。そこで、「胎」という単語に注目して聖書を調べてみた。

 「」という単語は、ヘブライ語で「レヘム」という。旧約聖書では少なくとも31回登場する。新約聖書ではギリシャ語「コイリア」(「お腹」の意味)が24回登場し、英語のKJVという翻訳では、そのうち12回が「胎」の意味で用いられている。では、どんな意味合いで用いられるのか。いくつかピックアップしてみた。

そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。主<しゅ>がアブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。

(創世記 20:17~18)

主<しゅ>はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケル不妊の女であった。

(創世記 29:31)

神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

(創世記 30:22)

 

 聖書の価値観のひとつは「子どもを産むも、産まないも、神の決定による」というものだ。母の胎を開くも閉じるも、神が決めるものなのだ。「胎」に関わる文章のほとんどは、比喩的な詩文を除けば、ほとんどが「神」または「主<しゅ>」が主語となっている。子どもを授かるのも、神の決定。子どもが何らかの理由で授かれないのも、これまた神の決定。聖書はそう書いている。

見よ、子どもたちは主の賜物。胎の実は報酬。

詩篇 127:3)

 

 また、神は子どもが胎内にいる時から、その存在をご存知である。聖書を見てみよう。

神である主<しゅ>よ、あなたは私の望み、若い日からの拠り所。私は産まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。

詩篇 71:5~6)

あなた(神)こそ、私(ダビデ)の内蔵を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私が隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

詩篇 139:13~16)

次のような主のことばが私(エレミヤ)にあった。「わたし(神)は、あなた(エレミヤ)を胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた

エレミヤ書 1:4~5)

 

 神は、人が胎内にいる時から、いや、その前からその存在をご存知である。神ご自身が母の胎内で、あなたを形造り、あなたという存在を誕生させ、あなたという存在を大切に思っていて下さっている。これが、聖書の価値観である。つまり、産まれた者はみな神が産ませたのである(これは決して、「神が産ませない者は産まれない。だから中絶は神が認めているのだ」という結論には帰着しない)。

 あなたという存在は、神が形造ったのである。それは神の恵みである。

 

 

▼「避妊」は悪いことなのか?

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 さて、以上の点をふまえて、本題に入ろう。避妊は悪いのか。オナンの事例から、果たして避妊は悪いと言えるのか。オナンの事例は、現代の「避妊」に当てはまるのか。見ていこう。

 現代において、なぜ「避妊」をするのか。繰り返すが、この記事のテーマは「結婚している夫婦の避妊の是非」なので、未婚の性交渉については今回は議論しない。結婚している夫婦の避妊の目的について、未経験者の私が想像できる限り書いてみた(現代の日本人カップルを想定している)。

<結婚している夫婦が避妊をする理由>

・新婚時代は2人きりで過ごしたいから

・子育てはもう少し年齢を重ねてからしたいから

・子育てができる経済的基盤がないから

・そもそも子どもを産み育てるつもりがないから

・子どもが嫌いだから

・海外、特に発展途上国などに長期滞在予定で、安心して子どもを産み育てられないから

・妻が妊娠に耐えうる健康状態ではないから

・子どもを産み育てるより、優先したい夢などがあるから

・子どもを産みたくない以外の理由があるから(生理をコントロールしたい、病気予防など)

・何らかの事情があり、コンドームをした方が安全な性行為ができるから

・その他の理由(筆者の逃げ)

 

 さて、これらの理由はオナンの動機と合致するのだろうか。私は個人的な意見として述べるが、必ずしもオナンの事例は現代の避妊すべてに当てはまるものではないと思う。オナンの動機は「至極、自己中心的なもの」であり、「神とアブラハムの契約をないがしろにするもの」であり、「兄への責任を果たさない行為」であった。

 では、現代の避妊は「自己中心的」といえるのだろうか。必ずしも、そうではないと思う。上に挙げたように、様々な事情がある。人によっては「経済的保証がない中で、子どもを作るのは、それこそ自己中心だ」「子どもの未来を経済的に保証できるようになってから子作りをすべきだ」と考える人もいるだろう。私はその考え方に対して、個人的に思うところはあるものの、積極的に否定する材料を持ち合わせていない。

 例えば、女性の体調面の事情で「避妊的」な行為をする場合がある。「低用量ピル」なども最近は話題になっている。少し前に、TBSの「クレイジージャーニー」という番組で、アマゾンの「カヤポ族」について紹介していた。それによると、カヤポ族は「生理の出血」を汚れとみなした末に、「生理の出血は止めるが、排卵は継続できる薬」を開発しているらしい。「妊娠できる生理コントロール」が可能になれば、生理の様々なネガティブな現象に苦しむ女性にとって、素晴らしい朗報に違いない。世界中の製薬会社が彼らのレシピを欲しがっているが、彼らは決して明らかにしないそうだ。

 また、男性側に何かしらの事情があり、コンドームを使用するケースもあるだろう。そういった様々な「健康的理由による避妊」も、これまた否定できるかと言われると、私は自信がない。

 他にも、夫婦2人の時間を一定期間持ちたいというカップルもいるだろう。核家族化が進んでいる日本では、子どもができると、夫婦2人の時間を持つのは困難だ。「乳母」という言葉も、もはや死後になりつつある日本では、子ども1人だけでも、働きながら世話をするのはとても大変だ。特に都市部では、子どもを保育所へ預けたくても、慢性的な人手不足と保育所不足により、預けられない状態が続いている。子ども1人だけでも、大変なのだ。

 聖書は、夫婦の時間を持つ大切さを、このように書いている。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24:5)

 

 なんて素敵な言葉ではないか。この言葉を理由に、1年間の「新婚休」を取得できれば良いのだが・・・(涙)。

 聖書は、夫婦だけの時間を否定はしていない。しかも、この「喜ばせなければならない」の言葉には、当然、セックスも内包されているのは明らかだ。セックスをすれば、子どもができるかもしれない。であるならば、夫婦で話し合い、子作りをする時期をある程度「避妊」によってコントロールするのは、悪い行為ではないと、私は思う。

 聖書には、他にも「夫婦のつとめを減らしてはならない」(出エジプト21:10)とか、「夫も妻も互いに対して義務を果たせ。夫も妻も互いに自分のからだについて権利は持っていない」(第一コリント7章)と、夫婦の間でのセックスを推奨する記述が様々ある。夫婦間のセックスは、神が創造したものであり、人はこれを喜んで享受するものである。したがって、聖書が夫婦間のセックスを推奨しているのならば、なぜ避妊は禁止されなければならないのか。実は、避妊を禁じる明確な根拠が、聖書の中からは見つからないのである。

 

 しかし、同時に「子どもは神が授けるもの」という価値観に立つと「避妊する意義はどこにあるのだろう」という疑問は当然わいてくる。私自身は、自分が結婚して避妊をするかと問われたら、「しない」と答える。私個人としては、現段階では「避妊」に積極的な意義は見いだせない。子どもは神が与えるのだから、神が定めたタイミングで授かるし、授からないのであれば、授からないまでだ。ただ、これは個人的な立場であって、普遍的に誰にでも適用できる考え方ではないのだろう。

 子どもは神が授けるもの、という価値観に立つと「人間が出生をコントロールする避妊は、越権行為ではないか」「命の可能性をムダにするのか」と思う人もいるだろう。一定の理解はできる。しかし、そんなことを言ったら、排卵・生理はどう考えるのか。妊娠する可能性があるが、性行為を持たず、または性行為を持っても着床しなかった場合、排卵される。排卵された卵子は生理となって体外に出される。その卵子は、ムダになったのだろうか。そんな無茶苦茶な。

 精子はどうか。男性が精子を腟内に出さなければ、それは命をムダにする行為なのだろうか。そうではあるまい。もしそうであったら、ほとんど全ての男性が罪悪感と戦わなければなるまい(性的な理由の自慰行為の是非は別として、あくまで精子の膣外排出という視点で)。ましてや、夢精という意思ではコントロールできない生理現象だったあるわけなのだから。

 こう考えると、オナンが咎められたのは「膣外射精」という行為そのものではないと結論づけられるだろう。オナンが悪とされたのは、彼の心だったのだ。アブラハムの契約・祝福を受け継がず、兄への義務を果たさず、神の命令を無視した。その心の動機が悪かったのであり、決して「避妊」そのものが悪いとは断言できない、と私は思う。

 

 結局のところ、「心の動機」が全てだと言うほかない。神は心を見る。神はオナンの心を見て、悪とした。自分の心の動機はどうだろうか。常に自分の心をチェックしながら、愛している夫や妻と相談し、神の定めた範囲内で性交渉を楽しめば良いと思う。避妊をしてもしなくても、神が定めたタイミングでしか、子どもは授からないのだ。

 

 

▼おまけ:子どもを産まなくても妻を愛したエルカナの話

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 最後に、聖書で「夫」として素晴らしい姿を見せている、エルカナという人物を紹介したい。聖書を見てみよう。

エフライムの山地ラマタイム出身ツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。(中略)エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もうひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。(中略)そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上っていくたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか

(サムエル記第一 1:1~8)

 

 私はエルカナの姿に、やさしい夫の姿を見出す。当時、女性にとっては「子どもを産む」というのが存在価値であり、ステータスであった。しかし、エルカナは子どもを産めないハンナを軽んじず、むしろ優しく語りかけた。「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」。この言葉は、エルカナの心そのものであっただろう。裏を返せば、「私にとって、あなたは十人の息子以上の存在だ。私はあなたを愛している。それで良いではないか」という語りかけに、私には聞こえる。子どもを産むのが至上命題であった当時の価値観の中で、この言葉が言える夫は、そうはいなかったであろう。

 結局、神はハンナの切実な願いを聞かれ、男の子を与える。その男の子が預言者サムエルとなるのであった。しかし、エルカナは、たとえハンナが子どもを産めないままであっても、ハンナを愛しただろう。

 子どもが産まれても、産まれなくても、夫婦が愛し合って一緒にいる。これこそ、素晴らしいことではないだろうか。私は、そう思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【注意】「教会教」に気をつけろ!

キリストを信じるのが「クリスチャン」ですが、キリストよりも「教会」を大事にしてしまっている人がいます。どういうことでしょうか。

 

 

▼「教会教」の信者たち

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 上京した時、東京に知っている教会はなかった。仕方なく、家の近くの教会を巡ってみた。何週間か経ったある日曜日、訪れた教会で嫌な思いをした。礼拝会が終わると、私より2、3年上の若い男性が話しかけてきた。牧師の息子だという。「普段はどこの教会に行ってるの?」彼は言った。「上京したてなので、まだ教会探してます」僕は答えた。「まだ教会探してる? それはダメだよ」彼は強い口調で言った。「ウチの父親はそれ絶対許さないよ」と。

 おそらく、教団(教会のグループ)の教会に所属していた彼は「所属教団の教会に行くのが当然だろう、何を迷っているのか」という考えだったのだろう。「上京したばかりで、どんな教会に行けばいいか分からない」という人の気持ちが分からなかったのだ。私は呆然として、何も答えられなかったが、「もう二度とこの教会には来ないようにしよう」とだけ思った。

 今思えば、彼は牧師である父親に全ての判断を委ねて、自己判断ができない「父親依存」であり、「牧師依存」であり、「教会教」の信者だったのだ。今では彼に対して可哀想と思えるようになったが、当時は「なんて嫌なヤツなんだ」と思ったものだ。後日、別の知り合いから、彼の父親、つまり牧師が「あの若者は教会を決めていないらしい。けしからん」と言っていたと聞いた。上京したての田舎者の気持ちが、この牧師には理解できなかったようだ。「すぐに所属教会を決めないなんて、信者として失格だ」それがこの牧師の意見であった。この父親にして、この子あり。親子揃って「教会教」の信者だったのだ。

 また、ある時、とある牧師からこんなことを言われた。「あなたのブログは教会を否定している。”使徒信条”に『我は教会を信ず』とあるだろう。教会は信仰の対象なのだ。信仰の対象を否定してはいけない」彼は、「これは読者としてではなく、牧師として忠告する」とご丁寧にマウンティングをお取りになって、私にこう言ったのであった。「教会は信仰の対象」。彼の言葉に、私は驚きを禁じ得なかった。クリスチャンは、「イエスをメシアと信じる人」ではなかったのか。この人は「教会」を崇拝しているのか。本気で驚いた。私は「使徒信条」なるものを唱える文化の教会に集った経験はなかったので「ひぇ~~『使徒信条』ってそんなヤバいこと書いてあるの? 知らなくてよかったぁ~」と思ったものである。

 彼が引用した「使徒信条」というのは、多くの教会で伝統的に唱えられている文言である。もちろん、聖書からの引用ではない。4世紀〜5世紀にラテン語で完成したものとされる。いわば、人間が勝手に作り出した文言である。

 私は「使徒信条」が間違っていると言いたいのではない。本当の問題は、その一部を引用して「教会は信仰の対象だ」と牧師が言っているという事実だ。開いた口が塞がらなかった。エスではなく教会を信仰しているのなら、それは「クリスチャン」ではなく「教会教」の信者ではあるまいか。

 

 先ほどから述べている「教会教」とは一体何なのか。クリスチャンに見えて、実は違うものを信奉している者たちのことだ。「クリスチャン」とはその名の通り、キリストを信じる者である。聖書にこう書いてある。

それから、バルナバはサウロ(後のパウロ)を捜しにタルソに行き、彼を見つけて、アンティオキアにつれてきた。彼らは、まる一年の間教会(エクレシア)に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった。

使徒の働き 11:25〜26)

 

 つまり、エスをメシア(キリスト)と信じる者が、揶揄されて「キリスト・チャン」、つまり「キリスト者」と呼ばれるようになったのである。エスの言葉を信じ、イエスをメシアと信じる人がクリスチャンである。イエスが伝えた「言い伝えより神の言葉を優先せよ」(マルコ7章など)という教えも、当然クリスチャンの信仰の一つである。

 しかし、昨今のクリスチャンたちを見渡すと、どうもエスの教えより教会組織を優先してしまっている人たちが大勢いるように感じる。彼らは「クリスチャン」ではなく「教会チャン」になっているのだ。教会の伝統や言い伝え、教会のルールに縛られ、神の教えをないがしろにしている人たち。私は彼らを「教会教の信者」と呼ぶことにした。

 今回の記事では、「教会」の定義とは何か。「教会教」に陥っている人の特徴は何か。クリスチャンにとって「教会」は重要か。この三点について見ていきたいと思う。

 

 

▼「教会」という単語の意味

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 「教会教」を議論する前に、「教会」の定義をハッキリさせておく必要がある。まずは「教会」という単語に注目してみよう。「教会」という単語は、新改訳聖書3版では118回出てくる。なるほど「教会」は重要らしい。しかしこの「教会」という単語、旧約聖書には一度も出てこない。当然だ。旧約では「教会」にあたる単語は、「教会」と訳さず「集会」「集まり」「会衆」などと訳しているのだ。実は新約聖書でも「教会」にあたる単語を場合によっては本来の意味の「集会」「集まり」などと訳している(申命記31:30など)。

 まとめてみよう。

<”教会”にあたる単語>

旧約聖書

「カハル」:動詞で39回、名詞で123回、変化系の名詞で4回登場。主な訳し方は、「群れ」「集会」「集まり」など。現代のイスラエルの信者たちは、自身の共同体を「教会」(クネシア)と言わずに、「集会」(ケヒラー)と言う。

 

新約聖書

「エクレシア」:114回登場。主な訳し方は「教会」が109回。そのほか5回は「集会」「集まり」など。本来は「人の集まり」の意味。旧約聖書の引用の際は、ヘブライ語「カハル」が、ギリシャ語「エクレシア」と翻訳されている。

 

 新約聖書において旧約聖書を引用する際、「カハル」の部分を「エクレシア」としていることから、この2つの語が対応するのは明らかである。

 さて、この「カハル」と「エクレシア」が出てくる聖書の言葉をいくつか見てみよう。該当の単語部分は太字にしてある。まずは旧約聖書の「カハル」から見てみよう。

全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。

(創世記 28:3)

(前略)この集団全体を餓死させようとしている。

出エジプト記 16:3)

モーセイスラエル集会全体に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

申命記 31:30)

主よ、天はあなたの奇しいみわざをほめたたえます。まことにあなたの真実を、聖なる者の集いで。

詩篇 89:5)

 

 旧約聖書の「カハル」は「群れ」「集団」「集会」「集い」などと翻訳されている。「教会」という単語は一度も出てこない。

 

 では、新約聖書はどうだろうか。「エクレシア」を見てみよう。

また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

使徒の働き 7:38) 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。

使徒の働き 19:32)

もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。

使徒の働き 19:39)

今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動を弁護できません」こう言って、その集まりを解散させた。

使徒の働き 19:40)

「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう」

(ヘブル人への手紙 2:12)

 

 太字の部分が「エクレシア」である。このように「集会」や「集まり」というのが本来の意味だ。しかし、この5つの部分以外はすべて「教会」と訳されている。本来は「人の集まり」という意味の単語なのに、なぜか「教会」となっているのである。 

 「教会」というのは、そもそも中国語を流用した誤訳なのだが、現代まで何の疑問も持たれず「教会」という単語が日本にも定着してしまっている。以前の記事(教会籍の謎)でも書いたが、広辞苑ですら「教会」とひくと「教会堂」と建物を指す語として定義している。本来は「人の集まり」を意味する単語「エクレシア」が間違って捉えられ、日本語の辞書にまで載ってしまっているのだ。

 こう見ると「エクレシア」を「教会」と表すのは、かなり意図的な翻訳であると分かる。素直に「集会」と訳せば良いものを、意図的に「教会」という造語に変えてしまっているのだ。広辞苑の勘違いを見ても、「教会」というのは日本人に共同体の本質を誤解させる、悪影響極まりない誤訳といえよう。

 「教会」という単語に正当性がないのは分かった。では「教会」の定義を見てみよう。

 

 

▼イエスが示した「教会」の定義

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 そもそも「エクレシア」と最初に言ったのは誰なのか。他でもない、イエス自身である。その言葉を見てみよう(この部分は、以前の記事の一部を加筆・修正したものである)。

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子(イエス)をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」エスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリスト(メシア)であることをだれにも言ってはならないと命じられた。

(マタイの福音書 16:13~20)

 

 イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味ではないか。

 イエスの存命中、イエスがメシアだと宣言できた者は、ペテロ以外にはいなかった。みな口々に「バプテスマのヨハネの生き返りだ」とか「預言者エリヤの再来だ」とか「預言者エレミヤの再来だ」とか「新しく来た預言者だ」とか言っていたのである。しかし、ペテロは「あなたはメシアだ」と大胆にも宣言した。それは誰にも悟れるものではない、特別な奥義だった。それゆえイエスは「自分がメシアであることを誰にも言ってはならない」と命じられたのであった。これが「エクレシア」が初めて聖書で登場するシーンだ。エスがメシアだと告白する者の集まり、それがエクレシアである。

 

 さて、その次に「エクレシア」が登場するのはマタイの福音書18章だ。またもイエスの言葉である。エスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会(エクレシア)を建てる」と宣言した。その後の会話である。

また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。2人か3人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:15~20)

  

 イエス時代は、まだ後代のような組織的な「教会」などなかった。イエスが「エクレシア」と言った時、「組織的教会」を指したはずがない。存在しなかったからだ。エスが言った「エクレシア」は確実に「人の集まり」を指す言葉である。実は、イエスが「エクレシア」という言葉を使ったのは、4つの福音書の中で、この2度のみである(回数は3回)。

 私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。

<16章>

エスをメシアだと告白する宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。

<18章>

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(★16章との対応を示す)

2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。それが「エクレシア」である。

 

 この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。

 これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。

 しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命だ。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。

 また、ユダヤ社会においては「証言には必ず2人か3人の証人が必要」との文化もあった。それは旧約聖書の律法に由来する(申命記17:6など参照)。イエスの「2人でも3人でも・・・」の発言の裏には、この律法との関連性もあるだろう。共同体の最小単位を2~3人としたのは、この影響もあるかもしれない。

 

 他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。

<”教会”の定義>

エスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。

・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。

その中にイエスの存在がある。

・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。

・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。

・これはあくまで「普遍的な教会」の概念である。もちろん「コリントの教会」のような「地域教会」(ローカル・チャーチ)という小さな概念は存在する。この記事ではあくまでも「普遍的な教会」を扱う。

 

 「教会」の定義はできた。では、教会の目的とは何なのか、簡単に見ていこう。

 

▼「教会」の目的とは何か

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 「教会」は何のために存在するのか。イエスをメシアと告白する者たちの集まり、それが教会(エクレシア)だが、その目的は一体何なのだろう。全てではないが、あえて4つ特出しでまとめてみる。

 

1:互いに間違いを指摘するため

 イエスは、「わたしの教会を建てる」と宣言した。それは何のためと言っているか。もう一度、先に挙げた聖書の言葉を見てみよう。

また、もしあなたの兄弟(信者の仲間)があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。

(マタイの福音書 18:15〜17)

  イエスは、「もし信者の仲間が、あなたに対して罪を犯したら、個人的に指摘せよ」「しかし、聞き入れないなら複数人で」「複数人で指摘しても聞き入れなかったら、信者の集いに報告せよ」と言っている。エスご自身が「教会の目的は、互いに間違いを指摘すること」だと明言しているのだ。むしろ、イエスが教会(エクレシア)の役割に言及したのは、先に挙げたように、この部分のみなのだ。

 よく、「間違いを指摘し合おう」と私がブログで書くと「裁くな」「魔女狩りにつながる」などとの指摘をいただく。しかし、あえて言おう。イエス自身が、「罪を指摘し、聞き入れない場合は教会に報告せよ」と言っているのだ。それをなぜ「裁くな」といって咎めるのか。「間違っているんじゃないの」と言うだけの「指摘」と、「お前は間違っているからこのような罰を受ける」と断定・断罪する「裁き」は完全に違う。その違いを理解しなければいけない。

 もちろん、当時のユダヤ教の文化背景も無視してはならない。ユダヤ教シナゴーグユダヤ教の教会のようなもの)には、教会的な機能だけでなく、地域の簡易裁判所のような役割もあった。常日頃から、宗教的集まりが、「争い事の調停」の役割を担っていたのだ。イエスの発言の裏には、そのような当時の世相も反映されているだろう。

 しかし、だからといって教会がその役割を担うことの否定にはならない。実際、コリント人への手紙第一の6章には、教会(エクレシア)が日頃の争い事の調停を行うという当然の価値観が示されている(ただし、現代において裁判所の役割を否定するものではない)。

 教会は、互いに互いの間違いを愛を持って指摘できる集まりなのだ。

 

2:互いに励まし合うため

 聖書の別の場所には、このように書いてある。

 約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23〜25)

 

 聖書には「集まりをやめたりせず、励まし合え」と書いてある。何をもって励ますのか。エスがもう一度帰ってくるという希望を告白して、励まし合うのである。それは、イエスと空中でもう一度会えるという希望である。イエスが地上に戻ってきて、王として君臨する希望である。天と地が新しくされ、新しいエルサレムが造られる希望である。この希望を告白し合うために、クリスチャンは「教会」という集まりを形成するのである。

 昨今、教会では「愛し合いなさい」ということなどが語られるばかりで、「イエスが帰ってくる」という希望が告白されていないのではないか。イエスが再び戻ってくることを語るのが、タブーとなっていないだろうか。実は、この希望を告白し、励まし合うことこそ、教会の目的なのである。何度も言うが、政治的主張を繰り広げることが、「希望を告白すること」ではない。

 

3:傷んでいる人を慰め、励まし、育てるため

 もちろん「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」と書いてあるとおり、愛を促す励まし合いも大切である。落ち込んでいる人、傷ついている人を慰め、励ますのも教会の役割である。聖書にこう書いてある。

異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:2〜4)

 

 この言葉から読み取れば、「預言」とは「人を育て」「勧め(励まし)」「慰め」を人に向かって話すことである。細かい定義はひとまず置いておくが、それが預言の特徴である。そして、預言は教会を成長させる。つまり、教会という集まりの目的のひとつとして、「教育・激励・慰め」が想定されていると考えてよい。

 イエスは、こう言っている。

エスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです

(マタイの福音書 9:12〜13)

 

 またイエスは、「重荷を負った人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)とも言った。心が傷んでいる人。悩みを抱えている人。居場所がない人。そのような人々にこそ、イエスは「わたしのところへ来なさい」と言っているのである。エスを信じる者の集まりが教会なのだから、教会とは傷んでいる人が集まり、互いに慰め合い、励まし合い、育て合う、そんな集まりなのである。

 

4:それぞれの役割を果たし、イエスに向かって成長するため

 エペソ人の手紙は、「教会」(エクレシア)について語っている部分が多い。一部を抜粋しよう。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)、また教師(教育者)としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ(エクレシア)を建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストのみちみちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:11〜15)

 

 この部分は「それぞれの役割をしっかり果たして、イエスに向かって成長するために教会の共同体がある」という趣旨で捉えてよいと思う。教会には様々な人が集まる。それぞれが、整えられ、役割を果たし、その人の集まりが成熟して、ともに成長する(もちろん、「奉仕」しなければダメだという意味ではない)。そのためには、互いに教え合う必要がある。牧師のありがたい御高説を聞いていれば成長できるわけではない。それでは「教えの風」にもてあそばれてしまう。互いに「愛を持って真理を語り合う」必要がある。

 人は、集まらなければ独りよがりになってしまう。もちろん、様々な事情があって教会の集会には集えない人もいるだろう。それは全く問題ない。しかし、様々な方法で人間関係を構築することはできる。必要なのは、人間関係なのだ。その人間関係の中心にイエスがいる。教会の共同体は、この中心にいるイエスに向かって成長するためにある。それぞれの良さ、役割を果たして、支え合いながら、このイエスに似た存在となる。ミニ・イエスとなっていく。それが、エクレシアの目的である。

 

 さて、長くなったが、教会の単語、定義、目的について整理できた。さて、いよいよ「教会教」とは何か、今回の本題に入っていく・・・。

 

▼聖書の言葉VSキリスト教の伝統  

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 さて、「教会教」を今一度定義しよう。

<教会教の特徴>

・イエス自身よりも、キリスト教の教会組織を重んじる人

・イエスの言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

・イエスが大切だと教えた聖書の言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

 

 この「教会教」のワナについて、イエスは既に警告している。パリサイ人たちとの議論から、それは明らかである。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 当時のユダヤ教は、長年の積み重ねによって、本来守るべき聖書の教えから離れてしまっていた。本来、聖書の教えを守るために設定された、伝統、文化、しきたり、ルールを守るために力を注ぐあまり、どんどん本質からそれてしまっていたのだ。彼らは、聖書の言葉よりも、伝統・文化を優先してしまったのだ。しかし、イエスはパリサイ人たちを批判し「伝統・文化によって聖書の言葉をないがしろにしてはならない」と断言したのであった。

 現代の私たちも、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。エスよりも、キリスト教の文化を重要視していないだろうか。エスの言葉よりも、教会の伝統を優先していないだろうか。

 私は、教会を否定しない。「エクレシアを建てる」と言ったのは他でもないイエスだからだ。キリスト教の伝統、文化、しきたりを全て否定はしない。それらは、聖書の言葉を守るために、先人たちが議論、工夫の末に作ったものだからだ。彼らの議論や知恵は、勉強すれば現代においてもかなり参考になるのは間違いない。

 しかし、先人たちが作った伝統が、必ずしも正しいとは限らない。先人たちの議論が、必ずしも正しい結論に帰結したとも限らない。伝統、文化が現代に適応しうるものとも限らない。人はみな間違える。ユダヤ教の様々なしきたりも、元はといえば聖書を守るために作られたのだ。しかし、それが本質から逸れてしまっていたのだ。

 現代の教会も、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。聖書から全くそれてしまった、伝統、文化はないだろうか。今一度、自分たちが無意識に守っている伝統、文化を見直す必要がある。今の教会は「~信仰告白」だとか「~信条」だとか「~宣言」だとか、人間が作った信仰基準ばかりを大切にしているように、私は感じる。決して、そのような「~宣言」は無駄とは言わないが、その内容が果たして正しいのか、現代でも重要視する必要があるのか、吟味する必要がある。「先人たちが作ったものだから、必ず正しい」というのは、思考停止である。

 なぜ毎週日曜日に教会に行かなければならないのか。なぜ牧師を先生と呼ぶのか。なぜ教会で奉仕をするのか。なぜ「教会籍」があるのか。バプテスマと救いは関係があるのか。聖餐式をする資格は存在するのか。酒は飲んではいけないのか。タバコは吸ってはいけないのか。なぜ聖書を読むのか・・・等々。それは、聖書に書いてあるのか? イエスはそう教えているのか? 常に考えるのをやめてはいけない。

 このブログは、「教会教」に対抗するために書いていると言っても過言ではない。「ここがヘンだよキリスト教」のタグの記事を見ていただければ、個別の事案についてはまとめているので、参考にしていただきたい。

 

 ひとつだけ「教会教」の典型例を聞いたので、ご紹介しよう。ある知人が、とある教会でバプテスマ(洗礼)を受けた。その時、牧師がこう言ったそうだ。

「いいですか。あなたは今、この教会で私からバプテスマを受けました。あなたは、クリスチャンになったのですから、これから毎週日曜日に、この教会に来なければなりません。他の教会はダメです。この教会の信徒になったのですから。それから、私のことはもう~さんと呼んではいけません。先生と呼びなさい」

(某牧師のコメント 知人A氏談)

 

 この牧師は、典型的な「教会教」の信者である。間違いだらけで、ツッコむ気力もわかないが、一応指摘しておく。

・私からバプテスマを受けてクリスチャンになった

→間違い。イエスを信じる者がクリスチャンである。バプテスマを授ける人は、誰であってもその人の救いとは関係がない。

 

・クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に来なければならない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。

 

・他の教会に行ってはいけない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。イエスを信じる者の集まりが教会なので、どこの地域教会に行こうと差し支えない。その人の自由である。教会のメンバーを減らさないためにこういう嘘を言っているのである。

 

・先生と呼びなさい

→間違い。イエスは明確に「先生と呼ばれてはならない」と命じている。クリスチャンにとっての「先生」(ラビ)はイエスただ1人である。

 

 このようなトンデモナイ教会教の教えが、実はクリスチャンの世界では至るところで横行している。本当に悲しいが、事実である。教会に行って、「あれ、ヘンだな。聖書のどこに書いてあるのかな」と思ったら、ぜひ聖書を調べてほしい。

 教会に行くと「毎週日曜に来なきゃダメだ」だとか「奉仕をしないやつは二流」だとか「牧師の家族であっても『先生』と呼びなさい」だとか、「バプテスマを受けていない人は役割がもらえない」だとか、聖書に書いてもない文化が、いかにも「信仰」かのように扱われている。そして、その文化を大切にするよう、押し付けられる。

 そんな「教会教」の圧力に負けてはいけない。そういう文化を押し付けてくる人には、「聖書のどこに書いてあるんですか」と聞いてみよう。答えられまい。聖書に書いていないのだから。「牧師を先生と呼ぶ文化」に至っては、書いていないどころか、「呼ばれるな」とイエス自身が命令している。それにも関わらず、誰もかれもが全くやめようとしない。おかしい。そんな教会教の文化には、負けてはいけない。

 クリスチャンは「イエスをメシアと信じ、告白する者」である。教会を信じる者ではない。教会とは「イエスをメシアと信じ、告白する者の集まり」である。教会の組織が教会そのものではない。人の集まりが教会なのである。

 

 

▼「教会教」に陥らないために

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 最後に、「教会教」に陥らないために、いくつかオススメの方法を書こう。これは、あくまでも私のオススメであって「こうしなければならない」という強制ではない。

 

1:自分で聖書を読む

 牧師や教師たちの教えだけを丸呑みではいけない。自分で聖書を読み込んでみよう。分からないことがあったら、自分で調べ、聞き、リサーチしてみよう。積み重ねれば、必ず面白くなってくる。「教会教」を判別できるようになる。

 

2:神に対して、聖霊の助けを祈る

 間違った教えに惑わされないよう、神に祈ってみよう。そうすれば、神から与えられた「聖霊」によって、真理とそうでないものを見分け、悟れるようになるだろう。

 

3:牧師を過剰に信頼しすぎない

 クリスチャンの中には、「教会教」の成れの果ての「○○先生教」の信者もいる。特定の牧師の教えが全て正しいと勘違いし、イエスではなく、その牧師を崇め奉ってしまう人たちだ。目も当てられない。「牧師先生様教」ともいえるだろう。カルト宗教の温床である。健全に見える団体でも、内実は「牧師教」である場合も結構多い。だから注意が必要だ。

 ただ、そういった牧師たちも、必ずしも間違いばかりを教えていないという点は留意しておきたい。教えは正しくとも、周辺がその牧師を祭り上げてしまうケースもある。だから、「誰が」ではなく「中身」で物事を判別するクセをつける必要がある。このブログの内容も、必ず間違っている。それを、読者のみなさんには、判別して読んでほしいと願っている。

 

4:完全な教会はないと認識する

 完全な教会などない。人の集まりが教会だ。人は不完全な存在だ。だから人の集まりである教会が完全であるはずがない。教会が完全になるのは、イエスが返ってきて、イエスと教会が完全にひとつとなる時のみである。それまでの教会は、不完全であると知る必要がある。永遠に続く教会も、これまた存在しない。聖書時代の教会で、現代まで残っている「地域教会」は存在しない。所属している教会は、イエスが返ってこなければ、いつかなくなる。自分が今集っている集まりに愛着があっても、それだけに固執しすぎないよう、注意が必要である。

 

 いかがだろうか。おそらく、「教会教」の信者がこの記事を読むと、過剰に反撃するだろう。しかし、それは想定内である。読者のみなさんには「教会教」に陥らないように、ぜひ自分の心を見張っていただきたいと思う。自戒も込めて、この記事を書いている。決して「キリストのからだ」たる教会を否定するつもりはない。私がしたいのは、「今の教会組織の中心にイエスはいるのか?」という問いかけである。

 読者のみなさんには、ぜひ自分で聖書を読み、イエスが何と言ったのか、聖書には何と書いているか調べてほしい。そして、集まりをやめず、互いに励まし合う、本来の教会の目的を果たしてほしい。そう願っている。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】教会にドレスコードは必要か?

教会によっては服装に厳しいところがあります。果たしてその根拠は何なのでしょうか?

 

 

▼ショートパンツを履いていったら怒られた友人

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 あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「教会にショートパンツを履いて行ったら、怒られてしまった」と。なんと、教会にTシャツやショートパンツを着て行ったらダメなのだという。私は思わず笑ってしまったが、実際にそのような教会があるのは事実だ。

 教会によっては、ドレスコードがある。スーツなどのセミフォーマルでないといけない格調高いところもあれば、私が集う共同体のように、何でもOKなところまで様々だ。それぞれの集まりには、それぞれのルールがあり、私はそのいずれも否定するつもりはない。しかし、服装は「礼拝会」においてどの程度重要なのだろうか。今回は、礼拝会の服装について、一般的な価値の重さについて論じていきたいと思う。

 

 

▼礼拝会の服装はどうあるべき?

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 服装について述べる前に、「礼拝」を定義しなければならない。私は日曜日の「礼拝」という集会は「礼拝」だとは思っていない。その点については、去年記事を書いたので参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

  結論から言えば、日曜の「礼拝」という集会は「礼拝会」であって「礼拝」ではない。「礼拝」とはあなたの人生をささげる「生き方」そのものである。それなら、あなたの人生すべてが礼拝と言って差し支えない。つまり、日中スーツを着て働いているときも、夜パジャマを着て寝ているときも、裸でシャワーを浴びているときも、全て礼拝なのである。であるなら、根本的に「礼拝に服装は関係ない」と言えるだろう。

 聖書自体が、こう教えていないだろうか。

(妻たちに対し)あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。(中略)同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

(ペテロの手紙第一 3:3〜8)

 

 神は人のうわべではなく、心を見る。つまり、礼拝という生き方において大切なのは、「柔和で穏やかな霊」「同情心」「兄弟愛」「心優しさ」「謙虚さ」といったような「心の中の隠れた人格」であって、うわべを着飾る行為ではない。

 

 また、イエスはサマリヤの女に対して、「いつでも、どこでも、誰でも礼拝できる」という基本を教えた。聖書を見てみよう。

エスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

ヨハネ福音書 4:21~24)

 

 つまり、現代の私たちは、教会の「礼拝堂」でなくとも礼拝できるし、実際に礼拝しているのである。礼拝は「生き方」なのである。だから、本質としては一緒に礼拝する心を形で表しましょうという「礼拝会」にドレスコードは必要ない。本来は、服装に関わらず、礼拝は可能だからである。

 ただ、地域の文化によって、服装が心の状態を表すという考え方もある。現代の日本においても、時に服装は大切である。お葬式にアロハシャツで行ったら普通はひんしゅくだし、国会議事堂の本会議場はスーツでないと入場できない。就職の面接はたいていスーツで行くし、学校の体育の授業では指定の運動着を着ないといけない。文化によっては、ある程度の服装は大切と捉える人がいるのは当然だろう。ただし、人の前と神の前ではとるべき行動は違う。これについては後述する。

 海外の例も考えてみよう。例えば、インドネシアの教会は、かなり服装に厳しいところが多い。正しい服装でないと入場できないところもある。それは、インドネシアの文化において、服装が大切だからである。とはいえ、正装が「バティック」というアロハシャツみたいなものなので、日本人の私からすると、むしろラフな服装だったのだが・・・。

 兎にも角にも、服装は文化と密接しているので、それぞれの地域の文化に沿ったやり方があるだろう。しかし、そこには本質はない。だから、クリスチャンは文化と自分の心をよく吟味して、そのグループごとのルールを決めていったら良いと思う。

 既に、ある程度の結論が既に出てしまったが、もう少し詳細に聖書をひらいてみたい。

 

 

▼旧約時代、そしてイエス一行はどうだったか?

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 旧約時代の礼拝はどうだったか見てみよう。モーセの時代、イスラエルの民には「祭司」がいた。当時、礼拝には様々な手順があり、祭司がその儀式を行っていた。祭司の服装はどうだったのか、見てみよう。

モーセはアロンとその子ら(祭司たち)を近づかせ、彼らを水で洗った。そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとませ、さらにその上にエポデを着せた。すなわち、エポデのあや織りの帯で締めて、彼にエポデを着せた。次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミム(※くじの一種と考えられている)を入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらに、そのかぶり物の全面に金の札すなわち聖なる記章を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。(中略)次に、モーセはアロンの子らを連れてきて、彼らに長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた。主がモーセに命じられたとおりである。

レビ記 8:6~13)

 

 神は、モーセに命じて、ことこまかに祭司の服装を指定した。ここに書いていない規定もたくさんあった。何色に糸を染めるかとか、どの宝石をどの位置に取り付けるかまで、細かく指定があった。アロンなどの祭司は、指定された通りの服装を着て、決まった日に、決まった手順で聖所・至聖所に入り、神にいけにえを捧げたりしていたのである。礼拝には詳細な手順があり、それを守らないと死んでしまうほどであった。それほど、神の存在は恐ろしいものであった。

 しかし、旧約の規定は、全てイエスにつながる型である。現代の私たちは、当然旧約聖書にあるような「礼拝の規定」を守る必要はない。

さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。(中略)この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

(ヘブル人への手紙 9:1~12)

 

 イエス「永遠の贖い」を成し遂げたので、これらの規定を守る必要はなくなった。もはや、旧約の祭司のような服装をしなくても良いのである。

 

 一方、イエス一行の服装は、どのようなものであったのだろう。聖書をのぞいてみよう。

それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻きの小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。

(マルコの福音書 6:6〜9)

 彼ら(イエス一行)が道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」。イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス)には枕するところもありません

(ルカの福音書 9:57〜58) 

 こう見ると、エス一行は、かなりみずぼらしい服装をしていたのではないだろうかと推測できる。毎日同じ下着! ばっちい!! 長いあいだ旅をして、寝るところもままならず、借りぐらしの日々が続いていた。スーツなんていうものは当時はないが、高価な紫色の着物など着ることなどできなかっただろう。しかし、彼らは主なるイエスと共に歩み、主のそばで生き抜いたのであった。

 イエスは、「花婿と一緒にいるときに、どうして断食できようか」と述べるなど、「イエスと一緒にいる」という特別さをたびたび強調している。そのイエスと一緒にいた弟子たちは、おそらく毛皮を身にまとうような、とても「正装」とは言えない服装をしていただろう。もちろん、現代の日本の経済状況と単純比較はできない。しかし、大切なのは服装ではなく心であるという結論に矛盾するものではないだろう。

 エスの弟子たちは、服装はボロボロでも、イエスと一緒にいることを喜んだのだ。神であるイエスと一緒にいる。待ち望んだメシアと一緒にいる。それ自体が特別であり、礼拝だったのだ。現代の私たちも、服装に気を配るよりも、イエスと一緒に歩む人生を送っているかどうかに注力した方が良いのではないだろうか。

 

 

▼「面接にはスーツを着て行くじゃないか」の2つの誤解

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 反論を考えてみる。一番よく聞くのは、「就職の面接にはスーツを着ていくではないか。偉い人に会う時は、ネクタイを締めるではないか。人の前できちんとした服装をするなら、王である主の前に出ていく礼拝の場では、かしこまった服装をするのは当たり前ではないか」という主張である。

 これは、言い換えれば「人の前でふるまうのと同じ原則で、神の前でもふるまうべきだ」という反論だ。しかし、この反論はロジックが弱い。2つの誤解に基づいているからだ。ひとつは、日曜の礼拝会を礼拝だと思いこんでいる誤解。2つ目は、人の前と神の前で同じ原則が適用されるという誤解だ。一つずつ見ていこう。

 

1:日曜に集まる集会は「礼拝」ではない

 先の章で述べたように、日曜に集まる集会は礼拝ではない。「礼拝会」である。礼拝とは、あなたの人生を神にささげる「生き方」である。つまり、1年365日24時間、毎日、瞬間、瞬間が礼拝なのだ。だから日曜に集まる礼拝会は「神の前に出ていく」行為ではない。あなたはいつも「神の前」にいるのだ。これはある意味、恐ろしい事実である。あなたはいつも主の前に裸の状態なのだ。

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

(ローマ人への手紙 14:12)

 

 だから、先のように「神の前に出ていく時には正装で」と主張する人は、もし筋を通すのであれば、いつも正装していなければならない。私たちは常に神の前にいるからだ。しかし、そんなことは不可能だ。神はあなたが、シャワーを浴びる時も、寝ている時も、ご飯を食べている時も、あなたを見ている。そして、信じる者と一緒にいてくださるのだ。

 

2:人はうわべを見るが、主は心を見る

 さて、「人の前でふるまうのと同じ原則で、主の前でもふるまうべきだ」という論点だが、これはそもそも前提が間違っている。聖書に何と書いてあるか見てみよう。

人はうわべを見るが、主は心を見る。

(サムエル記第一 15:7)

 

 聖書にはハッキリと、「人はうわべを見る」そして「主(神)は心を見る」という2つの原則が書かれている。そう、人前でかしこまった服装をするのは、人はうわべで人を評価するからである。ビジネスでスーツを着るのは、うわべの見栄えをよくするためである。それがいつしか文化となり、社会では当たり前になった。

 しかし、それは「人はうわべを見る」という大前提に立っているからする行為である。神はうわべを見ない。神は心を見る。だから、神の前で服装を着飾る必要はないのだ。神の前に出るならば、整えるべきは心であって、服装ではない。

  こう考えるならば「人の前ではきちんとした格好をするのに、礼拝ではしないのか」といった反論は、根拠に乏しいと分かるだろう。神の前ではあなたは裸同然である。そして、神は見てくれではなく、あなたの心を見るのである。

 もちろん、人はうわべを見るのだから、人が集まる「礼拝会」ではそれなりのドレスコードは必要だという意見もあろう。その通り。だから共同体のコミュニティ全員で一致して決めたルールがあれば、それに従うのが良いだろう。しかし、そのルールは本当に必要なものか、議論があってもいいと思う。議論を赦さないコミュニティは健全とは言えない。

 ちなみに、イエスのたとえ話の中で、「婚礼に招かれたが、礼服を着ていなかったので追い出された」というものがある(マタイ22:1~14)。一度、このたとえ話を用いて「服装は大切だ」という反論をされたことがある。目も当てられない誤解だ。これは、「メシアを信じる者」と「信じない者」が区別されるという比喩だ。「キリストを着る」という比喩も、聖書の他の部分に出てきているではないか。聖書を読む際は、比喩をしっかり見分ける必要がある。

 

 

ドレスコードはない方が良い?

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 さて、この記事ではずっと「服装ではなく心が大切」と述べてきた。では、教会の共同体の集まりで、服装のルール、いわゆるドレスコード」を設けるのは悪いのだろうか。私は、決して悪くはないと思う。

 集まる人たちの総意で「この服装がふさわしい」と決めたのなら、そのルールは大切にするべきだろう。服装という、ある意味「どうでもいいもの」で不快になったり、心がざわついたり、人に迷惑をかけたり、ましてや争いが生まれるのは、避けたほうが懸命だ。だから読者の方々は、教会の集まりに出かける際には、その共同体の雰囲気に合わせた服装で出向いた方が良いだろう。

 

 その上で、あえて一言問題提起をしようと思う。フォーマルな服装を強制するというのは、経済的弱者を教会に入れなくすることではないか。その想定を、教会はしているのだろうか。例えば、スーツや革靴を強制すれば、経済的に準備できない人を排除することにならないだろうか。きれいなワンピースが買えない人は、教会に来てはいけないのだろうか。たとえ購入できたとしても「自分は安物しかない」といった劣等感を与える結果にならないだろうか。

 新約聖書には、服装の規定はほとんどない(※いわゆる「被り物」の論争はこの記事では避ける)。しかし、食事に関する記述から、経済的弱者に配慮すべきだと分かる。その記述を見てみよう。

しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。 食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじ、食事を持参しない人々(※あるいは「貧しい人々」)を侮辱するのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。あなたがたを褒めるべきでしょうか。この点については、褒めるわけにはいきません。

(コリントの信徒への手紙第一 11:20〜22 聖書協会共同訳)

 

 コリント地域の共同体は、比較的、裕福な人が多かったと考えられる。コリントは大都市であり、富裕層が多くいたのは想像に難くない。同時に、経済的弱者も多く集っていたと考えられる。しかし、コリント地域の教会は食事を持参できる富裕層だけで、好き勝手に食事をしていたのだ。パウロはその姿勢を批判した。今回、あえて聖書協会共同訳を用いたが、新改訳聖書2017では、「貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか」と書いてある。パウロは、経済的弱者が教会の共同体でないがしろにされていた状況を批判したのであった。

 現代の教会はどうだろうか。日々の生活でも精一杯の家庭に、日曜日ごとに着るフォーマルな服装を準備するのは、大変ではなかろうか。毎週同じ服装というわけにもいかないだろうから、せめて3~4種類は必要になるだろう。子供がいたら、その分の服も準備しなければいけない。そう考えると、経済的な負担はかなりのものになるだろう。果たして、その負担を強いるほど、服装は大事なものなのだろうか。

 また、昨今「教会に若者が来ない」という声をよく聞く。若者の代表として言うが、「毎週日曜日にかしこまった服装で10時半に教会に来い」と言われて、喜んで行きたくなる若者はほとんどいない!!! 若者に教会に来てほしいならば、まずは服装の決まりを柔軟なものにしたらどうだろうか。もちろん、中には「かしこまった服装でないと教会らしくない」という意見の人もいるだろうが、私の意見では、そういう稀有な人々は、ごくごく少数だと思う。もちろん、「格調高さ」が好きな人々を対象とするために、厳しいドレスコードを維持するのも戦略としてはアリだ。しかし、多くの人を歓迎することにはならないだろう。

 服装は、礼拝にとってはどうでもいいものだ。だとしたら、より多くの人々を歓迎するためにも、厳しい決まりがあるなら、少し変更の余地があるのではないか。これは、私のちょっとした提案である。どんな服装で礼拝会にいくかは基本的には自由である。もちろん、秩序に適した服装で。当然、アキラ100%の格好は辞めたほうがいいだろう。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【注意】有名な「牧師」であってもイエスに出会っていない可能性がある?!

ステージの上で聖書を語っている牧師は、本当はイエスと出会っていない可能性がある?! そんなバカな?!

 

 

▼「クリスチャンやめました」と語る牧師

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 先日、あるアメリカの著名な牧師が、声明を発表した。「私は、もはやクリスチャンではない」という、驚くべき「棄教宣言」だった。この知らせを聞いて私は驚いたが、同時に「やっぱりな」という気持ちがあった。なぜなら、私は以前から「彼の主張は聖書の記述に基づいていない」と感じていたからである。彼の著作は、多くのクリスチャンたちにもてはやされてきた。しかし、私は彼の著作が「聖書に基づいていないように思える」とずっと主張してきた。予想通り、今回の「クリスチャンやめる」宣言によって、著作の内容そのものが疑われる事態となってしまった。とても残念である。

 ここで、ひとつの疑問がわいてくる。「牧師は絶対にクリスチャンなのだろうか?」言い換えれば、「牧師なら全員、絶対イエスと出会っているのだろうか?」恐ろしいが、とても大切な疑問である。クリスチャンでない人や、クリスチャンになって間もない人が聞くと驚くだろうか、ある意味で「牧師」という人種は一番危ないのである。

 今回の記事では、牧師であってもイエスに出会っていない可能性を指摘する。エスはその問題についてどう教え、私たち人間はどう対処すべきか、何を基準とすべきか論じたい。

なお、「一度救われた人は信仰を“捨てる”ことはできない」「信仰は不可逆的である」といった主張もあり、それらを使えばこの記事により深みが増すだろう。しかし、議論が多いポイントなので、それらの主張について今回の記事で深入りは避ける。

 

 

▼本当の意味でイエスに出会っていない牧師は存在する

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 結論はハッキリしている。牧師であっても、本当の意味でイエスに出会っていない人は存在する。悲しい上に驚きだが、事実である。

 例えば、私はとある黒人系アメリカ人の友人がいた。熱心な牧師だった。彼は、新約聖書をほぼ暗記しているほど、聖書が大好きな「クリスチャン」だった。しかし、あるとき、突然「イエスはメシアではなかった」と結論づけ、ユダヤ教に入信してしまった。

 また、私の知る別の牧師は、人目にはとても「敬虔な」クリスチャンに見えた。礼拝会での説教(メッセージ)はとても分かりやすく、正直言えば、私が通っていた教会の牧師の何倍も上手かった。話し方も穏やかで、包容力があり、人を引きつける力があった。尊敬されていた牧師だったが、ある日突然、教会のお金をすべて持ち逃げしてしまった。夜逃げだった。彼を尊敬していた人々は、一同にショックを受けていた。これは詐欺事件である。

 このような例は、実はクリスチャンの世界では、耳にタコができるほど聞く話だ。人々を教え、導く立場であるはずの牧師が、信仰や仲間を捨ててしまうのである。それだけならまだマシで、中には女性問題を起こしたり、強姦で訴えられたり、問題を指摘されても知らんぷりする輩もいる。夜逃げした牧師は、横領罪・詐欺罪・窃盗罪である。エホバ・モルモン・統一教会といった「異端・カルト」の創始者でさえ、元はといえば「キリスト教の牧師」だったのである。

 なぜ、このように「信仰を捨ててしまう」牧師が多いのだろうか。私は、どうも「最初からクリスチャンではなかった」「そもそもイエスと出会っていなかった」と考える方がしっくり来る。彼らは、うわべでは「立派なクリスチャン」に見えたが、その実はただの「文化的なクリスチャン」だったのである。

 両親がクリスチャンの、いわゆる「クリスチャン・ホーム」の人なら分かると思うが、「クリスチャンぽいこと」なら誰でも、いくらでも言える。「感謝ですね」「恵みですね」「賛美します」「礼拝します」「お祈りします」などといった、クリスチャンっぽい言葉を呪文のように唱えれば、「クリスチャンらしさ」を演じられてしまう。なんと驚き、「敬虔なクリスチャン」を演じるのは簡単なのだ。こういう人たちは、イエスを本当の意味で理解していないが、外側だけはクリスチャンらしく振る舞えてしまう。ややこしいのが、「自覚なきクリスチャンもどき」が実はたくさんいるという事実である。

 この「自覚なきクリスチャンもどき」が、クリスチャンらしさを追求した先にあるのは「牧師」とか「伝道師」とか「宣教師」とかいった職業である。なまじ、牧師になりたい、伝道師になりたい、宣教師になりたいと言うと教会の人々にもてはやされるので、真面目なクリスチャンもどきほど、この職業を目指す傾向にある。しかし、本当の意味でイエスに出会っていないので、いざデビューすると息詰まる。牧師や伝道師ほど食えないのに大変な職業はないからだ。その成れの果てが、「クリスチャンやめる」牧師たちである。

 

 

▼牧師も間違える ~イエスはどう教えたか~

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 本当の意味でイエスに出会っていなくても、クリスチャンになっていなくても、牧師になるのは可能だ。実際にそう思われる牧師を、私はたくさん見てきた。厄介なのが、そういう牧師・教師たちが「間違った教え」を堂々と教えているという点である。彼らは、本当の意味でイエスに出会っていないので、聖書の言葉を正しく理解できていない。だから、聖書の言葉を勘違いし、間違いを教えてしまうのである。

 それならまだマシだが、聖書に書いてもいないことを、さも「信仰とはかくありなん」のように教えている、とんでもない牧師・教師たちもいる。そのような教師たちのもとで教わったクリスチャンたちは、とても可哀想だ。もちろん、そのような牧師たちであっても「部分的には正しい教え」を伝えるのは可能だ。この点についてはもう少し先に議論する。

 イエスの時代も、同じような問題が起こっていた。当時も、宗教的な指導者たちがいた。その中の「パリサイ人(派)」と呼ばれる人々は、イエスと激しく対立した。パリサイ人たちは、長年のユダヤ教の発展の中で、(旧約)聖書に記述のない「文化・伝統」を聖書の言葉より重んじるようになってしまっていた(まるで、現代の教会のようである)。イエスは、彼らを猛烈に批判した。一部を見てみよう。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 イエスはハッキリと「伝統によって聖書の言葉をないがしろにしてはいけない」と、パリサイ人たちを戒めている。イエスが現代の教会を見たら、あまりに聖書がないがしろにされていて、怒りのあまり椅子をぶん投げたり、説教台を張り倒したりしてしまうのではないだろうか。「伝統と書いて『ゴミ』と読む」というセリフが某漫画があったが、まさにその通りで、守らなければならない伝統などない。時代の背景に合わせて、本質から外れない範囲内で、どんどん機能的、合理的にしていくべきだ。

 伝統に固執し、聖書をないがしろにしていたパリサイ人たちについて、イエスはこのように教えている。

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座(※教える立場)に着いています。 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

(マタイの福音書 23:1〜3)

  

 パリサイ人たちの主張の中には、聖書の記述的に正しいものもあった。ただ、彼らは自分で教えておきながら、自分ではその教えを守っていなかった。

 この世の牧師たちも全く同じである。私は、男女の付き合いに気をつけろと言いながら、教会メンバーの女性とコソコソ付き合っていた牧師を知っている。他人を赦せと教えながら、自分に反対する者を絶対に赦さない牧師を知っている。金に貪欲であってはいけないと教えながら、献金をしない教会メンバーに電話で督促をした牧師を知っている。みな、イエスが批判したパリサイ人と同じである。

 イエスが教えはこうだ。大切なのは、誰が教えているかではなく、その中身だ、と。パリサイ人の教えには、正しいものもあった。たとえ「信仰を捨てた」と宣言した牧師であっても、その教えの中には「正しい要素」はあるかもしれない。私たち人間は、ついつい「あの人が言っているから間違いないだろう」と考えてしまいがちだ。しかし、完全に正しいのはイエスだけで、人はみな間違える。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ダビデも、ソロモンも、ペテロも、パウロも皆失敗した。しかし、彼らの信仰宣言や、歌、賛美、教え、生き方には、学ぶべき部分が多くある。結論としては「誰が言っているか」ではなく、「主張の中身」を吟味し、取り入れていくという姿勢が重要なのである。

 ちなみに、イエスが「弟子たち」と「群衆」に語ったとわざわざ明記しているのは面白い。広く一般的な教えとして、この内容を教えたことの証左だ。先に挙げたイエスの言葉に続くのは「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」という教えだ。その事実も、忘れてはならない。

 先生と呼ばれる人も、拾は「偽使徒」の場合がある。聖書にはこう書いてある。

こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:13〜15) 

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:14〜15)

 

 だから、私たちは、教師たちの教えを自発的に判別する必要があるのだ。教えの風にもてあそばれないように、今から備えようではないか。

 

▼聖書によって物事を判別する

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 では、どうしたら「主張の中身」が正しいかどうか判別できるのだろうか。答えは簡単。聖書の言葉によってである。聖書にはこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12) 

  

 クリスチャンが基準とすべきは、聖書しかない。聖書を読み込み、その記述を骨まで染み渡らせる必要がある。偽札を見分ける役目の人は、慧眼を鍛えるために、正しいお札をひたすら見るのだという。そうすることで、偽札を見ると「違和感」を覚えるという。クリスチャンも、ひたすら聖書を読み込むと、聖書の基準に基づいていない主張に出くわしたときに違和感を覚えるようになる。どこが間違いか分からなくとも、「何かヘンだな」と思うのである。

 自分を例に出すと恐縮だが、私は、導入で挙げた牧師の著作を読んだ際も「どこが間違っているか分からないけど、何かが違う」と感じた(もちろん今は何が間違っているか詳細に述べられるが)。当時、まだ高校生だったが、その目は正しかった。その目は、聖書の言葉によって養われたのである。聖書の言葉は、人の思いや心を判別できるのだ。

 読者の方々は何度も目にした聖書の言葉だろうが、あえてもう一度引用しよう。

兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをべレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17:10〜11)

  

 このベレアという街の人々は、パウロやシラスといった神に選ばれた人たちの教えでさえ「果たして本当かどうか」と「疑った」のである。そして、それは「良い」と表現された。パウロは、神の霊(聖霊)に満たされ、神から直接啓示を受けた人物だ。ベレアの人々は、そのパウロの教えさえも疑い、聖書を調べたのである。であるなら、現代の私たちが牧師の教えを「果たして本当かどうか」と疑い、聖書を調べるという姿勢は、なおさら必要ではないか。

 どんなに尊敬されていたり、有名な牧師の教えであっても「果たして本当か」という視点は絶対に必要である。あえて言うが、このブログの内容だって、絶対に間違いが含まれている。読者のみなさんには、ぜひ「本当にそうか?」というクリティカルな視点を持ってほしい。そして、自分で聖書を調べる自発的な姿勢を持ってほしいものである。

また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためにです。

(テモテへの手紙第二 3:15〜17) 

 

 (以下追記)

 もちろん、聖書の言葉の他に、真理を見極めるために大切なものはある。そのひとつは、聖霊である。聖書には、「誰でも聖霊によるのでなければイエスを主と告白できない」(1コリント12:3)とある。真にイエスを主と信じている者の働きは、聖霊によるものではない。つまり、聖霊によって真理を見極めることができるのだ。聖書には、聖霊の働きとして「霊を見分ける力」というものもある。聖霊にゆだね、語られている教えがホンモノかどうか、目の前の教師が「偽教師」か否か、見極められる。

 もうひとつは、エスを主と告白する者の集まりだ。互いに指摘しあい、何が正しく、何が間違っているか、お互いに教え合うことができる。これが共同体である「教会」の役割である。

 

▼隠れた「文化的クリスチャン」に注意

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 先に述べたように「自覚なきクリスチャンもどき」は大勢いる。ただの「文化的クリスチャン」は、なまじ真面目に教会に通ったりするので、教会の共同体の中では重要なポジションにいる場合も多い。そういう場合は厄介で、聖書に教えてもいないことを押し付けてくる人も多い。そして、本当にイエスに感動している人々の心をくじくのである。私は、そのような輩を絶対に見逃さない。

 そのような困ったさんたちには、どう対処すれば良いのだろうか。聖書は、聖書の言葉こそが戦う武器であると教えている。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には心理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

(エペソ人への手紙 6:13〜17)

  

 聖書の言葉を心に蓄える。そうすれば、おのずと「クリスチャンもどき」たちを判別し、彼らに反論できるだろう。読者のみなさんは、身の回りにそういう「牧師もどき」「教師もどき」「クリスチャンもどき」がいたら、決して屈してはならない。大丈夫。神があなたと共にいる。

 とはいえ「どうやって“もどき”を見つければ良いのか」と途方に暮れる人もいるだろう。最後に、少しだけ私なりの「見分け方」を簡単にまとめるので参考にして欲しい。(追記:これは、決して「この中でいくつ当てはまったら偽教師である」といったようなチェックリストではない。読者は誤解せぬように。あくまでも、自分で判断できない人のための、私なりのオススメの着眼点である)

<クリスチャンもどきの特徴>

1:聖書よりも文化の方を大事にする

・日曜日に教会に行かないとダメだ、クリスチャンは禁煙禁酒すべきだ、信仰より教会を大事にすべきだ、恋愛禁止などなど、聖書に書いてもいないことを信仰だといって押し付ける傾向にある

・聖書より「なんちゃら宣言」とか「なんちゃら信仰告白」とかいう、ただ人間が作った文化や文言の方を重視する傾向にある

・人によっては、自分の政治的信条を主張するために、聖書やクリスチャンの集まりを利用するガチの不届き者もいる

・特に、イエスを信じて生きる生き方より、「教会に仕える」などというまやかしを教える「教会教」の信者が大勢いるので要注意。「教会教」については今度別記事を書く予定

 

2:聖書を読んでいない/理解していない

・本当の意味で聖書を読んでいないので、理解ができていない

・聖書について話してみると、基本的な部分がわかっていない

聖書の言葉の字面だけ引用して教えている場合は要注意。文脈や十字架の救いの本質から逸れている教えには注意

旧約聖書新約聖書の違いと繋がり(旧約の多くは新約の「型」)を無視して教える教師もいるので要注意

反論を受け付けない教師は要注意。「牧師の言葉は神のお告げ」なんてまともに信じたら頭がおかしいことを平気で言う人たちにも注意。

 

3:福音/救いの定義が曖昧である

・本当の意味でイエスに出会っていないため、「救いとは何か」「福音とは何か」といった信仰の根本的な理解が弱い

・いつ信じたのか、なぜ信じたのか、イエスのどこに感動したのかをきちんと説明できない

 

<クリスチャンもどきの見分け方>

1:矛盾すると思う点を質問してみる

・矛盾する点を、聖書の言葉を持ち出して反論・再質問してみる

・それに対し、反応に困っていたら、「クリスチャンもどき」の可能性アリ。主張の根拠が聖書でない場合も、注意

 

2:どうやってクリスチャンになったか聞いてみる

・あえて「どうやってクリスチャンになったか」と聞いて、「イエスに出会った」エピソードがない場合は要注意

・ありがちなのは「クリスチャンホームで」とか「お腹の中からクリスチャンで」といった答えを平気でする人がいる。要注意。

・中には、神ではなく「この教会に出会った」なんて大真面目に言う人もリアルガチでいる(しかもこの人は牧師だった・・・)。この場合も「もどき」の可能性アリ

 

3:このブログの「疑問」タイトルの記事を読んで「おかしいな」と思う教会や牧師や教師、クリスチャンの人々に注意してみる

・牧師を「先生」と呼ばなかったら怒る人には注意

・日曜日に絶対に教会に来るよう言われたら注意

・お酒を飲んで咎められたら注意

・タバコを吸って咎められたら注意

・「みこころの相手」とかいう人には注意

・牧師や神学校の大学院生でなければ聖書が語れないというような人には注意

・教会で「奉仕」をしなければいけないと言うような人には注意

・その他、このブログの「疑問」(ここがヘンだよキリスト教)シリーズを参照

 

4:「霊を見分ける力」を祈る

・聖書によると、その人がホンモノかどうか「霊を見分ける力」で見分けられる

・「霊を見分ける力」は誰にでもあるわけではなく、その能力が与えられる人がいる

・まず、神に「本質を見極められるよう」祈ってみよう

 

 

▼おまけ:リーダーこそ「支えるべき」対象である

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 ここまで書くと、私がただの「牧師嫌い」だと決めつける人もいるだろう。とんでもない。私は、牧者、長老、執事、教育者、伝道者、宣教者、預言者などの共同体のリーダーたちこそ支えられるべき存在だと思う。リーダーたちほど、負担、ストレス、誘惑、挑戦、敵が多い(とされている)からだ。彼らが間違った道にそれてしまわないよう、まわりの人々が寄り添い、支えるべきである。

 だから、まわりのリーダーたちのために祈ろうではないか。彼らが間違わないように、信仰を捨ててしまわないように、イエスに従う最高の人生を諦めてしまわないように。まわりにいる人々だけが、彼らに寄り添えるのだ。互いに愛し合い、支え合う。これこそ、聖書で命じられている本質ではないか。

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

ヨハネ福音書 15:12〜14)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス13】「イエスの弟子づくりをしたい」黒木亮太@建設作業員

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第13弾は、黒木亮太(ボブ)さん!

f:id:jios100:20190726102846j:plain

【Profile】

名前:黒木亮太(Ryota Kuroki)またの名をボブ(Bob)

生まれ:1991年

出身:大阪府岸和田市

最終学歴:岸和田市立岸城中学校卒業

職業:建設作業員

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブこと黒木亮太さん、今日はよろしく。

f:id:jios100:20190726103607j:plain よろしく。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブっていうニックネームはどこから来てるの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain ボブ・マーリーが好きやから(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 単純な理由(笑)ボブは今、どんな仕事をしているの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 今は、建築関係。建物を建てる時に空調とかの配管があるでしょ。あれを通す「スリーブ工事」っていうのがあって、それを作る仕事。建築スリーブ工事作業員って言えばいいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、たとえば天井に通ってる配管とか?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう。配管は全部やってる。梁と梁の間に穴を作って、その間に配管を通したり。鉄筋の幅を決めて、寸法をはかって、型にコンクリート流してって・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain 説明聞くだけだと難しいね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain うん、むっちゃムズいな(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ずっと同じ仕事?

f:id:jios100:20190726103607j:plain いや、前は鉄筋関係の仕事をしてたよ。基本的にはずっと建築関係の仕事をやってたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いつ頃から仕事をしてたの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 10代の前半ぐらいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えっ、10代は分かるけど、10代の前半?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。中学の頃からバイトでやってた。最初は知り合いとか親父の仕事を手伝ったりとか。それも建築。鳶職人とか、足場を作る関係の仕事。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、中学の頃からガッツリ仕事してたんだ・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。それで金貯めてバイク買ったりとかね(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんか掘り下げたらいろいろ出てきそうですが、順番に話を聞かせてください・・・。

 

 

▼泥沼の人生から抜け出したくて

f:id:jios100:20190726103656j:plain

↑大阪の友人と

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうキッカケでイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain イエスを信じたのは、元々は名古屋に行った時に路上ライブをやっていて。それがクリスチャンの人たちやったんよね。何してるんかなと思って話しかけたら、クリスチャンの人やって。それがキッカケで教会に行くようになった。ただ、それでイエスに出会ったというより、ノリというか、なんちゃってで信じてた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんちゃってとは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 「イエス信じる?」って聞かれて、「うん、信じるー」って(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 軽っ!(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain ははは(笑)一応、「イエスは俺たちの罪のために死んだ」とか言われたけど、当時は全然意味が分からんかった(笑)でも、「洗礼あるけど受ける?」みたいに言われて「受ける受ける!」って。それで「キャンプあるけど行く?」みたに言われて「行く行く!」みたいな、そんな流れ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんでも受け入れるんかい! 「宗教怖いな」とか思わなかった?

f:id:jios100:20190726103607j:plain それはなかったかな。インターナショナルで、すごく明るい教会やって。逆にキリスト教とか教会のイメージが変わったかな。なんか教会の子たちがすごく明るくて、なんでそんなにキラキラしてるんかなっていうのが気になってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 元々、出身は大阪だよね?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、岸和田ってとこ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なぜ名古屋に行ったの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 元々、俺はめっちゃ悪さをしてて。悪さを繰り返して、少年院とか刑務所に入ったりしてたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えっ、マジで。大阪の刑務所?

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。最初は少年院やったんけど、俺のやってたことが結構ヤバくて刑務所に入ってた。悪さして、入って、出て、それでまた同じ悪さを繰り返してってやってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 悪さって例えば・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain ●●(ピー)とか、▲▲(ピー)とか・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain ひぇ~~~(驚)言えないやつ!! 

f:id:jios100:20190726103607j:plain 周りのツレとかも同じワルばっかりで、もう泥沼。抜け出せなかった。ある時、「このまま人生同じことばっかり繰り返していくんかな」と不安になった。それで、全ての悪いツレとか、悪いことから縁を切りたいと思って、それで新しい場所に行って人生やり直したいと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで名古屋に出たと。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そういうこと。人間関係をとにかく変えたかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは何歳のとき?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 19歳かな。あとちょっとでハタチになる頃。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこでストリートライブをやっているクリスチャンの人たちと出会ったんだ。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう。彼らと出会って、なんでクリスチャンの人はこんなに笑顔なんだろうって不思議だった。「なんでお前らそんなに笑顔なん?って聞いたら、『俺たちクリスチャンだからだよ』って」それで教会に行ってみようかなと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生を変えるために別の場所に飛び込んで、本当に人生が変わっちゃったんだね。

 

 

▼神様からは逃げられない

f:id:jios100:20190726103756j:plain

↑名古屋時代(真ん中がボブ)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 名古屋から、いつ東京に来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 東京に来たのは3年前やけど、その前に一度大阪に帰ろうとしたことがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え、それはまたなんで。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 複雑な事情でいろいろあってんけど、罪を繰り返してしまう自分に葛藤してたんよね。怒りがコントロールできなかったり。当時は聖書をよく読んでなくて、いわゆる「善い行い」をしなきゃいけないと思っていた。酒やタバコとかやっちゃダメだと思って、でもやめられなくて・・・葛藤し続けて、ある時「もうクリスチャンやめよう」って思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ええ、そうなの?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。もうやめようと。神様に「神様、俺大阪帰るわ」って。そんで、また悪いツレと再会して、夜の街で遊ぼうと思って大阪に帰ったんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様信じないことにしたのに神様に喋ってるのオモロイ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain ははは(笑)そんで、大阪に戻って、「もうクリスチャンなんて関係ない」と思ってて。大阪のミナミに遊びに行こうとしたんだよね。そしたら、駅を出て歩いているとすぐに、でっかい十字架が立ちはだかってて。大阪弟子教会ってとこやってんけど。「あ、教会あるんかなぁ」って一瞬思ったけど、「いや、もうクリスチャンは俺に関係ない、関係ない」と振り切った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで昔の仲間と遊ぼうと。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、昔つるんでた仲間とちょっと遊んでやろうと思ったんだけどね。そしたら、まるっきり店が閉まっていたり、電話しても誰も出なかったり、とにかくやろうとしていたことが全部できなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい、全部道が閉ざされたんだ。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう、もう何もできなかった。不思議。行く場所もないし、親ともずいぶん連絡とってなくて、家には帰れないし。居場所もないし、かといって漫画喫茶とかネットカフェ行く金もないし、どうしようかなと思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 困ったね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そのとき、ふと知り合いを思い出して。同じ名前のリョウタ君っていうんやけど、フェイスブックでつながってて。彼はクリスチャンやったけど、この際もういういやと思って、ワラをも掴む思いで連絡してみた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、「今から会える?」みたいになって。大阪のひょうたん山ってところにある「アドラム・キリスト教会」ってところで会おうってなった。「もしかしたら教会に泊まれるよ」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結局、行き着いた先は教会。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうだね(笑)居場所なかったし、もう関係ないやと思ってた。それで、リョウタ君に身の上話をしたら、「ウチの牧師も有名な元暴走族だよ」って。「人刺し●●(名前)」っていうんやけどって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「人刺し●●(名前)」・・・パワーワードすぎるだろ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain 有名らしいんだけど、世代も違ったし俺は知らんかった。そういう牧師もおるんやなぁと思って。そんな話をした後で、リョウタ君が「賛美しようよ」って言い始めて。すげー嫌やった。でも嫌とは言えずに、なんとなく歌う流れになった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンやめようと思ったのに、賛美するハメに・・・(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう(笑)そんで、歌ってたりしたら、いきなりでっかい男がドアをガッシャーンって開けて勢いよく入ってきて。「おう! やってるか!!」みたいな。それが「人刺し」の牧師さんやった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジか。迫力ありそう。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、俺を見るなり、「お! お前、ナニワ少年院におった黒木やないか!」ってなったんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 少年院にいたボブを知ってた?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。その牧師さんは、元暴走族ってことで、少年院に通って福音を伝える働きをしていたんだよね。そこでイエスの話をしているときに、俺を見かけて、覚えててくれたんよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ボブは覚えてなかった?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 俺は全く覚えてなかった。向こうは覚えていてくれたみたいで、その後もいろいろ話をしてた。その日は土曜日だったんやけど、牧師さんが「明日礼拝出ていきな~」って言ってくれて、「わかりましたー」ってなって。それで、次の日、日曜礼拝に後ろの席に座って参加した。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンやめるために大阪に行ったのに、礼拝に参加することになっちゃったね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain しかも、その時の牧師さんのメッセージが「不信仰な私をゆるしてください」っていうタイトルで。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ドンピシャ(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain 何なに?! って思いながら聞いてたら、まさに自分の状況について語られてるみたいで、気がついたら涙ボロボロになってた。神様に降参した。そのとき、神様からは逃げられへんなと思ったんよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 逃げた先で神様に捉えられてしまったんだね。

 

 

▼何もあてなく東京に

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f:id:jios100:20180905032057j:plain そういえば、なんで名古屋から東京に来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 名古屋で働いていたとき、もうクリスチャンになってたんやけど、まだまだいろんな葛藤があって。ある時、給料日に給料全部使い果たしてしまって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え?! は?!

f:id:jios100:20190726103607j:plain もう最後の方とか何にお金使ったかわからないぐらい(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはめちゃくちゃだ・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain それで、ムシャクシャしているときに、仕事でトラブルがまたあって。もうその会社にはいられなくなってしまった。その時持ってたのは原付バイクだけ。仕方がないから原付で名古屋から東京まで何も考えずに運転してきたんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain すげぇ、何のあてもなく・・・?

f:id:jios100:20190726103607j:plain あてなく(笑)そこで最初、行こうと思っていた、東京のとある教会に行こうとしたんだけどね、入り口の前の階段のところで「なんか違う」っていう感覚に陥ったんだよね。よくわからないけど。だからその教会は行くのをやめた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで今通っている教会に。

f:id:jios100:20190726103607j:plain その前もいろんなとこ行ってみたりはしたんだけど、なかなかピンとこなくて。それで、たまたま今通ってる教会が検索で出てきたから行ってみたんだよね。そこで「誰か声かけてくれないかな・・・」って密かに期待してた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190726103607j:plain そしたら、とある男の子が話しかけてくれた。身の上話をしたら、「じゃあ俺んち泊まる?」って言ってくれて。それが土曜日。次の日の日曜日も同じ教会に行った。そしたら、今やってるディサイプルシップ(※教会の社会人メンバー同士で、テキストを使って聖書やクリスチャンの生き方について学ぶグループ)のリーダーのフィリピンの人に会ったんだよね。そこでも身の上話をして、そしたらフィリピン人のリーダーが中国人のおばさんを紹介してくれて、そのおばさんが今住んでる家を紹介してくれたんよ。それで、東京きて3日後ぐらいに住む場所が見つかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴイ。最初に行こうと思った教会に行ってたら無かった出会いだよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そう。仕事も池袋のそばですぐに見つかって、その時は神様が東京に居場所を用意してくれてるんだなと思ったんだよね。それで東京に住む決心をした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様って、時に試練を与えるけど、時に驚くようなつながりも与えてくれるんだよね。不思議。

 

 

▼学びの中で成長して

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↑東京の教会のディサイプルシップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教会に行き始めて、どのぐらいで神様を本気で信じるようになったの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 最初はインターナショナルの教会で、英語が分からなかったから、雰囲気しかわからなかった。途中で、いろいろあってインターナショナルの教会から日本人の教会に行くようになったんやけど、賛美歌・ワーシップが完全に日本語の歌だった。それまでは英語でわけわからんかったけど、その日本語の歌詞を見た時に、その賛美の歌を通して、神様の存在が理解できた。賛美の歌詞で、神様ほんまにおるんやって分かった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、歌詞を初めて自分の言語で理解できたんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain だけど、その教会もいわゆる「学び」がなかったから、聖書のことはほとんど分からないままやったな。聖書を学んで、神様のこともっと知ってきたのは本当に最近。東京の教会に来て、学びとかスモールグループとか、ディサイプルシップを通して、だんだんと神様について知っていったって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。確かに教えてくれる人がいないと分からないよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 一番大きかったのは、本当にイエスが自分の罪のために死んでくれたっていうことが理解できたことかな。最初は「罪」っていうのがピンとこなくて。だけど、最近「自分の罪」が明確に示されて、その時にようやく福音が理解できた気がするんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「自分の罪」とは具体的にはどういうもの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 一番は神様を見て生きていなかったこと。それを認識して、初めて「罪」というものが理解できた。そしたら、今まで教会とかで学んできた知識が勝ってにポポポンとつながって、理解の幅が広がったんよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その感覚、すごくよく分かる。何か一つ理解すると、それまで積み重ねてきたものが一気につながる感覚あるよね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 職場でイエスを伝えるときも、何か特別な準備をしてるとか、自分の頭で考えてるわけじゃないんだけど、神様に祈ると勝ってに言葉がスラスラ出てくるんよね。聖霊が俺の代わりに語っているというか。自分で話しながら自分自身で「あっ、これってそうなんや」って後で気づくときもある(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教会のスモールグループやディサイプルシップという、個人的な関係があったからこそ、深い学びができたんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうやな。今までの経験も全部神様がつなげてくれたって感じかな。

 

 

▼職場の人にイエスを伝えたい

f:id:jios100:20190726104251j:plain

↑職場の後輩と

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今の職場は気に入ってる?

f:id:jios100:20190726103607j:plain めちゃめちゃ気に入ってる。俺はずっと建築の仕事をしてきたんやけど、今の職場は建築っぽくないというか。アルバイトもいろんな子が来る。IT関連やってますって人とか、イベント関係のバイトみたいなノリで来てる子が多い。日払いで1日だけって人もいるし。だから自分が今まで付き合ってきていないタイプの人と関わって、その人たちから話を聞けるっていうのはすごく刺激的だった。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今、職場の人にイエスを伝えていると聞いたけど、その思いはどこから来たの?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 元々イエスのことを伝えたいという思いはあったから、最初は自分で「イエスを伝える4つのポイント」っていうのを勝手に決めてそれでやってたな(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジ? 4つのポイントっていうのは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 「クリスチャンになるとは?」「福音とは?」「聖書って何?」「神様って何?」みたいな4ポイント。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごく基本的でわかりやすいかも。いきなり「罪」とか言うよりいいかもね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain でも最初はやっぱり恥ずかしくてできなかった。けど、ふとしたキッカケで職場の人にイエスのことを話したことがあって。意外とみんな聞いてくれたんよね。「へー、そうなんだ」とか「クリスチャンのイメージ変わった」みたいな反応をされて。結構みんな楽しそうに聞いてくれることが分かった。それで、「ああ、もっと伝えてみようかな」って思ったって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 伝えたいという思いは最初からあったんだね。

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうやな。工夫して伝えたら反応が良かった。それでもっと職場の人にイエスを伝えようと思った。普通に最初からクリスチャンっていうのは隠さんでもええかなって思ってたかから「クリスチャンなんすよ」とは言ってた。大体みんな「敬虔なクリスチャンなんだ?!」とかいう反応するけど、自分としては「敬虔ってなんやねん!」って思ってる。「敬虔」じゃなくて最早「イエス信じてる=ライフスタイル」やから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ライフスタイルがイエス! 素晴らしいねその考え! 伝える上でのポイントは?

f:id:jios100:20190726103607j:plain なんか、最初はいきなり福音を伝えてたんやけど、そうすると向こうも「え?!」みたいな感じになる。やっぱり人間関係を作った上で、「俺クリスチャンなんだけど」っていって話すのが一番自然かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 実際伝えてみて反応はどう?

f:id:jios100:20190726103607j:plain 最初はすごいビックリされるよね。イメージとのギャップがあるみたい。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え、ボブ、クリスチャンなの? みたいな(笑)

f:id:jios100:20190726103607j:plain そうそう(笑)だけど話してると、すごく聞いてくれることが分かった。その中で、この間1人イエスを信じたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おーすごい。

f:id:jios100:20190726103607j:plain 今日(※インタビュー当日)も一緒に賛美してた。教会にも来て、一緒にディサイプルシップの会も出てきたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやってイエスを信じる仲間ができていくのは、素晴らしいね。

f:id:jios100:20190726104348j:plain

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、ボブのこれからのビジョンを教えてください。

f:id:jios100:20190726103607j:plain やっぱり、職場でもっとイエスを伝えていくってことかな。ただ、いろんな人がいるので、自分の考えを押し付けるというよりも、その人たちの仕事や、やりたいことを応援して、一緒に寄り添うっていうことをやっていきたい。仕事の中でも、イエスって素晴らしいんでよってことをもっと行動で示したいとも思う。一言で言えば「イエスの弟子づくり」かな。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain 「イエスの弟子づくり」最高だね! シメにいつも握っている聖書の言葉を教えて下さい。

f:id:jios100:20190726103607j:plain やっぱこれかな。

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

(エペソ人への手紙 2:8 口語訳)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 恵みによって救われたことを体感したボブらしい言葉、ありがとう。これからも応援してます!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】「スモールグループ」が大切だと分かる5つのポイント

クリスチャン界では「スモールグループ」なるものが存在します。一体どんな意味があるのでしょうか?

 

 

▼「スモールグループ」とは?

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 教会に行くと「スモールグループ」なるものを紹介される場合がある。文字通り「小さな集まり」を意味し、教会に通っているメンバーのうち、数人~10人ほどのグループで集まる関係を指す。スモールグループでは、一緒に聖書を呼んだり、祈り合ったり、近況を話し合ったりする。スモールグループは、神と共に歩む人生において非常に大切なものである。私自身、東京都内で毎週1回集まるスモールグループを開催している。様々な年齢、教会、バックグラウンドの人々が平日の夜に集まり、共に聖書を読み、互いに祈り、近況を分かち合う・・・そんな時間を持っている。私の地元の教会では、スモールグループからさらに踏み込んで「1対1」の関係を意図的に作っている。

 私は「スモールグループ」は「教会」の目的そのものであると思っている。教会の目的を果たすためにスモールグループがあると言っても過言ではない。教会の規模にもよるが、特に大きい教会ではスモールグループは必須である。人数が100人を超えるような大きい教会(※メンバーが100人以上いる教会は日本では大きい部類に入る)でスモールグループがなかったとしたら、もはや教会の体をなしていないとさえ思う。それほどスモールグループは大切なものだと認識している。

 なぜ、スモールグループはそれほど大切なのか。今回は、5つのポイントに絞り、スモールグループの重要性を説明したいと思う。また、近日中にスモールグループの簡単な運営方法についてもまとめて記事を書きたいと思う。スモールグループの定義は様々あるが、今回は簡単に以下のようにしたい。

<スモールグループの定義>

唯一の聖書の神とイエスを信じる者たちが集まるグループ

人数は2人~15人ほどを想定する(それより大きいグループになると運営が難しいし、目的が果たせない)

・まだ神を信じていない人たちの参加も想定する。

マジョリティはイエスを信じる者たちを想定する。

・1人以上の運営者がいる

・同じ教会のメンバーからなるスモールグループと、様々な教会のメンバーからなるスモールグループの両方が存在しうる

・同性のみのスモールグループと、そうでないスモールグループの両方が存在しうる

定期的に集まるグループである

一定の人間関係と信頼関係が築ける場である

・イエスの名によって集まり、イエスを中心とした人間関係が構築される場である

・活動内容は、聖書を読む、聖書を学ぶ、祈る、メンバー同士で様々なトピックについて話す、一緒に食事をするなど、様々なことが想定される

・基本的にプライバシーが守られる場である

・具体的な目的によって細かな定義、ルール、運営方法は異なる

 

 

▼1:「スモールグループ」は人間関係をつくる

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 ひとつ目のポイントは、「スモールグループは人間関係をつくる」というものである。実は、これが一番重要な点であり、スモールグループの目的そのものである。まさに、「教会」の目的を果たすために「スモールグループ」があると言っても過言ではない。聖書は、教会についてこう書いている。(※先週の記事で掲載したものと同じ。くどいようだが、大切なので再掲する)

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~25)

 

 信者が集まる理由は「互いに励まし合うため」である。では、何を励ますのか。それは、前後の記述から明らかなように「イエスに対する信仰を励ます」のである。クリスチャンが告白する希望は、以下の聖書の言葉に現れている。

私(パウロ)があなたがた(コリントの信者たち)に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。

(コリント人への手紙第一 15:3~5)

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14:1~3)

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 4:16~18)

 

 これらがクリスチャンの抱く希望である。この希望を告白し、クリスチャンはこの世で生きるのである。この希望を告白するために、クリスチャンは集まるのである。その「集まり」が「教会」である。「教会」などという言葉はもとから無く、本来は「集まり」という意味である。くどいようだが、イエス自身もこう言っている。

まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 つまり、エスは「イエスを神と告白する者の集い」そのものが「教会」だと言っているのである。詳細は、先週の記事を参照していただきたい。教会は本来、「イエスを神と告白する者同士の人間関係が生まれるところ」であるはずなのだ。日曜日の「礼拝会」に出席し、誰とも話さず、「あ~~牧師先生様のお説教ためになったな~」で帰るだけだったら何の意味もない。牧師の説教が目的だったら、youtubeでも見ていればいい。教会として集う目的は、そこに生まれる人間関係である。スモールグループは、この「人間関係」をより深く築くための方法である。

 人は人間関係を通して成長する。人間関係を通して、人の心は研がれる。聖書にこう書いてある。

鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

箴言 27:17)

 

 大きな教会では、得てして集会に「参加するだけ」になりがちだ。スモールグループのようなものがないと、教会に集った人々との間の人間関係は、どうしても希薄になる。同じ教会で、「顔は知っているけど名前は知らない」「よく話すけど、どんな人かよく分からない」なんていう人はいないだろうか。もし教会の人間関係が希薄だと感じたら、スモールグループを始めてみるといいかもしれない。「人間」という単語は、「人のあいだ」と書く。神は、人間を「人間関係の中に生きる存在」に造ったのだ。

 

 

▼2:「スモールグループ」は聖書を中心に互いに教え合う場となる

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 聖書は、教会の目的のひとつとして、こんなことを書いている。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

私(パウロ)の兄弟たち(信仰の仲間)よ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

(ローマ人への手紙15:14)

 

 「互いに教え、訓戒し合う」。これは教会の大切な目的のひとつである。スモールグループは、互いに教え合う絶好の場となる。誰かが誰かを教えるという上下関係ではなく、互いに知恵を出し合い、互いに教え合い、支え合う。それがスモールグループの理想的な形である。

 何をもって教え合うのか。様々な方法があるが、一番シンプルかつ重要なのはやはり単純に一緒に聖書を読むというものだ。使徒パウロは、自分の弟子であるテモテに手紙を書いた。テモテは若き教会のリーダーだった。パウロは、そんなテモテに対してこんなアドバイスをしている。

あなた(テモテ)は年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12~13)

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3:16)

 

 この場合の「聖書」は一義的には「旧約聖書」を指す。しかし、現代の私たちにとっては旧約聖書新約聖書の両方が「聖書」として残されているので、両方読んで、そこから学べる。聖書はあなたを教える、とても有益な書物だ。

 しかし、中には一人だけで読んでもピンと来ない部分もある。何人かで一緒に聖書を読めば、一人ひとりの感性、知恵、ひらめきを共有できる。一人では気が付けない、新しい発見や発想、読み方、捉え方をシェアすれば、聖書理解は何倍にも膨らむ。使徒パウロの時代は、信者たちは家に集まり、遅くまで聖書を読み、聖書について、神について語り合っていた。聖書に登場するベレヤの町の人々は、パウロの教えが果たして本当かどうか、毎日聖書を調べた。

 同じように、スモールグループの中心となるのは、やはり聖書だと私は考える。一緒に集まり、一緒に聖書を読み、一緒に聖書について語り合う。これだけで既に立派なスモールグループになりえると、私は考える。聖書の読み方、語り合い方は様々あって、「こうしなければならない」というものはないので、目的にあったやり方を選べばよいだろう。

 クリスチャンではない人がスモールグループの中にいたら、その人にとっては聖書を学ぶ絶好の機会になる。教会では、なかなかかしこまって聞けない根本的な質問も、スモールグループでなら聞きやすい。「神はいるのか」「世界を造ったとどうして言えるのか」「イエスは何をしたのか」・・・そんな単純な質問も、スモールグループの中でなら話しやすい。クリスチャンになったばかりの人も、スモールグループは聖書や神について学ぶ、最高の機会である。

 

 

▼3:「スモールグループ」は自分をオープンにできる場となる

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 スモールグループは、ときに個人的かつデリケートな会話ができる場となる。大勢の前では話しにくい話題、話せない話題を、スモールグループではオープンに話すことができる。例えば、何か失敗してしまったり、問題を抱えている場合、人は誰かにそれを話す必要がある。スモールグループは、それを話し合い、支え合う絶好の機会となる。聖書にはこう書いてある。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙第一 1:9)

 

 この聖書の言葉は、必ずしも「全ての罪を人に言わなければいけない」という意味ではない。一義的には、罪は神の前に告白するものであり、人に言う義務はない。しかし、人間はときに誰かに自分の弱さ、至らなさを分かち合う必要がある。共に苦しみや痛みを分かち合い、共有することで、心が癒やされ、解放される。グループとしての人間関係の結びつきも強くなる。また、失敗だけでなく、今抱えている悩みを打ち明ければ、心が楽になり、解決のために知恵を出し合える。

 聖書は、共同体の役割について、以下のように書いている。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:25)

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

(エペソ人への手紙 4:32)

 

 スモールグループでは、ともに思いを分かち合い、同じからだとして痛みを共有し、喜びを共有することができる。また、互いに赦し、赦される経験ができる場でもある。グループ内で信頼関係が築ければ、より自分をオープンにすることができる。そのため、スモールグループ内のプライバシー保護は非常に大切な要素だ。それらが担保されれば、スモールグループは、もしかすると教会、家庭、職場では見せられない自分の姿をさらけ出せる場になるかもしれない。癒やしと解放、赦しと励ましがある場。それがスモールグループである。

 

 

▼4:「スモールグループ」はお互いのために祈る機会となる

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 スモールグループでは、より個人的にお互いのために祈ることができる。祈り合うことの大切さを、聖書はこのように書いている。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5:13~16)

 まことに、もう一度あなたがた(イエスの弟子たち)に言います。あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたし(イエス)の父(神)はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:19~20)

 

 聖書は、イエスを信じる者たちが集まり、互いのために祈るよう勧めている。そして、祈りは様々な形で答えられる。時に病気の癒やしという形で、時に問題の解決という形で、時に人が想像しない形で神は祈りに答える。ともに心をひとつにし、互いのために祈る。これはイエスを信じる者たちの特権である。

 スモールグループで集まる大きな理由のひとつに、祈りがある。教会の会堂で「お祈り」はできるが、それは「互いのために祈る」という個人的なものではない。やはり、少人数で集まり、互いの個人的な祈り課題(祈ってほしいこと)を集中的に祈るというのは、クリスチャン生活にとって欠かせないものである。また、イエスを信じていない人であっても、より個人的な話ができたりするキッカケになる。スモールグループ内にもしクリスチャンではない人がいたら、他のメンバーはその人のために祈ることもできる。

 

 

▼5:「スモールグループ」は互いの間違いを指摘できる関係となる

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 最後のポイントは、少しチャレンジングだ。それは、互いに間違いを指摘できるというものである。日本人は、他人に注意するのがとても苦手だが、実は聖書は互いに注意し合うように教えている。

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~24) 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:10~11)

 

 もし、スモールグループの中で、明らかにおかしな方向に進んでいる人がいたら、愛をもって指摘するのはとても大切な行為だ。教会という大きな塊では、それはときに噂話、ゴシップとなって現れる。「あの人、実は●●したんだって」「あの牧師、昔こんなことしてたらしいよ」なんていうのは、悲しいが、よく教会で聞こえてくる会話だ。それは噂話、ゴシップであり、人を建て上げるものではない。

 しかし、スモールグループでなら話は別だ。個人的な関係の中で、面と向かって「あなたの言動は、間違っているのではないか」「ちょっと冷静になった方がいいよ」「今おかしな方向に進んでいない?」などと、愛をもって指摘することができる。互いに注意しあい、互いに教え合い、互いに高め合える。それはクリスチャンにとってとても大切だ。そのような個人的信頼関係をゼロから作るのは、とても難しい。しかし、スモールグループという「場」があれば、自然とそのような指摘ができる関係性が生まれる。スモールグループを触媒として、お互いに行動、生活、信仰基準をチェックし合える関係を醸成できるのだ。

 

 いかがだろうか。他にもスモールグループの利点は、たくさんある。百聞は一見にしかず。一度、教会のスモールグループに参加してみよう。教会になければ、教会を超えたスモールグループがないか探してみよう。もしくは、スモールグループを自分で始めてみよう。きっと、素晴らしい結果が待っているに違いない。

二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

(伝道者の書 4:9〜12)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】集う教会を変えるのは、そんなに悪いことなのか?

クリスチャンの間では、集う教会を変えることを、とても重い決断だと捉える人も多いと聞きます。どうしてなのでしょうか?

 

 

▼行く教会を変えるのは悪いこと?

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 クリスチャンの人と話していると、「集っている教会」に関する悩みをよく耳にする。教会でこんな問題がある。教会のスタイルが気に入らない。教会の人の主張に賛同できない。教会で「奉仕」という名のタダ働きをさせられる・・・等々。悩みがあるから教会に行っているのに、逆に悩みが増えているのである。かわいそうに・・・。

 そんな教会にまつわる悩みの一つに、「行く教会を変えたい」というものがある。本当によく耳にする。集っている教会を変えたいと思う理由は様々だ。転勤で場所が遠くなったという物理的なもの。教会のリーダーたちの主張が自分の考え方と合わないなどの、信条的なもの。教会で用いる音楽の種類が好みではないといった礼拝会のスタイルに関わるもの。結婚したので相手の教会に行くなどの人生のステージの変化によるもの。教会の人たちとトラブルになったなどの、人間関係によるもの。中には「好きな子がその教会にいるから」といった理由もあるだろう(大いに結構だと私は思う)。クリスチャンたちは、様々な理由で集う教会を変えようとする。

 しかし、その際に多くのクリスチャンたちが葛藤する。「簡単に集う教会を変えていいのだろうか」と悩む人も多い。中には、集う教会を変えることそのものが「悪いこと・罪」だと教会の人から言われ、なかなか抜け出せないという、かわいそうな人もいると聞く。「教会を変える」だけで犯罪者のように扱われるのである。「ああ、分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか・・・」という気分だ。

 かくいう私も、同じ葛藤を経験した。私は16歳でイエスと出会った。そして、目が開かれ、当時通っていた教会の主義主張が、完全に間違っていると分かるようになった。しかし、その教会では「教会を移る」のは良しとされなかった。半年以上悩み、また牧師と話し合った結果、違う教会に行く決断をした。振り返ると、自分がイエスを信じる人生において、大きな意味のある一歩だったと思う。

 一体、なぜ多くのクリスチャンたちが「集う教会を変える」のをためらうのだろうか。聖書は何と教えているのだろうか。教会とはそもそも何なのか。今回は、集う教会の変更の是非について書く。

 

 

▼そもそも「教会」とは?

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 「集う教会の変更の是非」を議論する前に、簡単に「教会」とは何かをまとめたい。聖書で教会についての記述は様々あるが、私が一番最初に思い浮かべたのはこの言葉だ。

エスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」

(マタイの福音書 16:15~19)

 

 イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味だと、私は捉える。

 「教会」という訳語がそもそもどんでもない誤訳だと、私はこのブログで度々述べてきた。多くは語らないが、ここで使われている単語はギリシャ語で「エクレシア」ヘブライ語でいえば「ケヒラー」であり、日本語に素直に翻訳すれば「集い」とか「集会」とか「会衆」という意味である。

 しかし、同様の単語は素直に「集まり」とか「集会」と訳されているのに、なぜか特定の箇所だけ「教会」となってしまっている。聖書の言葉を人間が意図的に捻じ曲げているのである。これはいただけない(※これについて、詳しくは記事の最後に過去記事リンクを掲載したので、参考にしていただきたい)。

 

 イエスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会を建てる」と宣言した。その後で、「天の御国の鍵」について語るが、いまいち意味が不明瞭だ。これについて、実は後でイエスは別の言葉を語っている。そこも見てみよう。

まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:18~20)

 

 私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。

<16章>

エスをメシアだと告白した宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。

<18章>

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(16章との対応を示す)

2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。

 

 この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。

 これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。

 しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命である。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。

<”教会”の定義>

エスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。

・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。

その中にイエスの存在がある。

・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。

・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。

 

 では、この価値観をもとに、「集う教会の変更の是非」について考えてみよう。

 

 

▼集う場所・環境を変えるのは悪いことではない

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 結論から言えば、集う場所や環境を変えるのは、全く悪いことではない。聖書にはどう書いてあるのか。実は、「集う教会の変更の是非」については、全く記述がない(と私は思うが、間違っていたらご指摘願いたい)。強いて言えば、以下のような記述がある。

約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23~25)

 

 この聖書の言葉からは、エスを信じる者たちが集まる理由について書かれている。もちろん、集まる理由は他にもたくさんあるが、ひとまずこの部分に書いてある点をまとめよう。

<信者同士が集う理由>

希望を告白するため(当たり前だが、イエスによって赦されている、イエスがいつの日か地上に王として帰ってくるという希望であり、この国の政治が変わるなどという小さな希望ではない)

愛と善行を促すため互いに注意を払うため

互いに間違いを指摘するため(マタイ18章のイエスの言葉を参照)

励まし合うため。特に、イエスが王として帰ってくる日を待ち望み、互いに励まし合うため。

 

 これらの理由のために、「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と書いてある。「特定の教会に通い続けなさい」などとは書いていない。「集まるのをやめずに励まし合おう」と書いている。ここが大切だ。

 つまり、「励まし合う」という目的のためなら、集う場所や環境を変えるのは全く悪いことではないのである。大切なのは集まり続けることであって、特定の場所やグループにこだわることではない。2人か3人が集えば、それはもう立派な「イエスを中心とした集い」すなわち「教会」なのである。人と人の「つながり」の間に、イエスがいるのであり、「神の国」が実現するのである。

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです

(ルカの福音書 17:20~21 新改訳聖書3版)

 

 正直、教会のリーダーたちが「簡単に集う教会を変えないように」とプレッシャーをかけてくるのは、自分たちのためだ。教会の人数を維持したい。献金額を維持したい。他の信者たちに顔向けできない。1人抜けると、芋づる式に出ていってしまうのは困るなどといった、至極、自己中心的な理由である。そんなプレッシャーに困っているクリスチャンの方がいたら、ぜひ勇気を持って一歩を踏み出してほしいと思う。

 

 

▼教会を「出ていく」のは「分裂」なのか?!

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 こういう議論をすると、すぐに「教会はキリストのからだである」「キリストのからだを分裂させるな!」「分裂を招くな!」とか言う人がいる。ため息しか出ないが、一応、反論しておこう。

 「キリストのからだ」という言葉は、以下の聖書の言葉から来ている。

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会(信者の集い)に与えられました。教会(信者の集い)はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1:22~23)

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 

 まず「キリストのからだ」という言葉の意図は、主に2つだと思う。

1:信者の人間関係の中心にいるのはイエスである。教会の中心、かしらはイエスである。

2:信者の集いの中には、それぞれに違う役割がある。信者の集いは、イエスによってひとつとなり、成長していく。

 

 「からだ」という比喩には、「それぞれ違う機能や役割がある」という意味が込められている。「みんなちがって、みんないい」というやつだ。そして、イエスこそが集いの中心であり、目的であり、共通点なのである。

 こう考えれば、「イエスを信じる集まり」はどんな場所や環境であっても、本来は「ひとつ」のハズである。ただ集まっている場所が違うだけで、イエスという共通項は同じである。違う教会であっても、イエスを信じているという点では広義の「同じキリストのからだ」なのである。だから、「集う教会を変えること」は「キリストのからだを分裂させること」にはならない。

 新約聖書では「分裂に注意せよ」と何度も忠告されているではないか、という反論もあろう。しかし、それは少し認識がズレている。新約聖書で批判されているのは、「イエスから引き離す分裂」であり、「違う教会に行くこと」ではない。エスから引き離したりすれば、それは当然「分裂を招いている」といえるだろう。イエスを信じる者の集まりが「教会」なのだから、イエスを信じなかったら教会でなくなってしまう。当たり前の話だ。異端やカルト、間違った教えには注意が必要だが、「違う教会に行く」という行為そのものは、聖書のいう分裂には当たらない。

 そもそも、聖書の時代の「教会」は現代のような組織的なものではなく、もっとゆるやかな、いわゆる「家の教会」であった。エスを信じる者たちは、それぞれの家に集まり、食事をともにし、聖書や神について語り合い、イエスが戻ってくる日を待ち望みながら励ましあっていたのである。現代は現代にふさわしいスタイルがあると思うが、もっとゆるやかな「信者同士のつながり」を教会としてもいいのではないか。聖書時代の教会は、各エリアごとにゆるやかなまとまりがあり、それぞれの地域の人々が、ゆるやかな連帯でつながっていたのだと想像する。そう考えれば、現代においてどの教会に行こうが、一向に構わないのではないか。イエスを信じているという点で、共通しているのだから。

 ただ、別の教会に集うと決断した際は、いわゆる「ケンカ別れ」ではなく、ポジティブに移った方が、様々な意味で良いだろう。「同じキリストのからだ」なのであるから、本来は喜びをもって送り出し、迎え入れるのが理想である。丁寧に理由を説明し、集う場所や環境を変えれば、以前の人間関係も維持できるので、オススメだ。ネガティブな理由であっても、ポジティブな形にすることは可能である。表面上もネガティブにしてしまうと、往々にして次の場所でも上手く行かなかったりする。集う教会を変える際は、多少めんどくさくても、丁寧かつ円満な対応をするようオススメしたい。

 

 

▼同じ人間関係に留まるメリットとデメリット

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 違う教会に行く行為、集う教会を変更する行為は間違っていない。しかし、聖書にはこうも書いてある。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

(コリント人への手紙第一 10:23)

 

 集っている教会を変える行為は、果たして「益」となるのだろうか。メリットとデメリットについて、簡単にまとめてみた。

<集う教会を変更するメリット>

・自分になじみのあるスタイルの礼拝会を行う教会を選べる(スタイル)

・地理的に近い教会を選べば、時間の節約になり、負担が減る(地理的要因)

・めんどくさい人間関係からオサラバできる(人間関係)

・新しい人間関係に飛び込める、つながりが広がる、成長につながる(人間関係・成長)

・自分が慣れ親しんだスタイルや教えから脱却し、新しい視点や価値観を養える(新しい価値観)

・もし間違った教えをする教会にいたのであれば、そこから脱却できる(信条的要因)

 

 人間は、自分が関わる人たちから多かれ少なかれ影響を受ける。人は人間関係の中で成長する。集う教会を変えるという行為は、すなわち人間関係を変えるという行為である。新しい人間関係に飛び込めば、新しい刺激がある。自分が知らなかったスタイルに出会う。違う考えの人間と出会う。聞いたことのない聖書の解釈や教えと出会う。新しい視点や価値観を養える。実は集う教会を変える行為は、メリットがおおいにある。

 私は、両親の引っ越しや自分の上京、留学などの地理的理由から、様々な教会に通ってきた。正式に所属した教会だけでも、10以上になるだろうか。中には、先に書いた韓国系の教会のように、教えに賛同できず行くのをやめたところもある。しかし、行った全ての教会での経験、学びは無駄ではなかった。独立した教会にも集ったときもあるし、団体に属してる教会にも行った。いわゆる「福音派」の教会にも行ったし、いわゆる「聖霊派」の教会にも集った。様々な教会に行くことで、多様な視点と価値観、スタイルを学んできた。まだひとつの教会しか通ったことのない人は、ぜひ機会があれば別の教会も覗いてみると、面白いと思う。 

 人がみな違うように、教会もみな違う。特に日本は、同じグループに属していても、教会によって特色が大きく違う。今まで通ったことのないスタイル・カラーの教会に言ってみれば、思いもよらぬ出会いやつながり、成長があるかもしれない。

 

  しかし、教会を移り変わるのは「諸刃の剣」で、デメリットもある。見てみよう。

<集う教会を変更するデメリット>

・自分になじみのあるスタイルの教会ばかりを選ぶと、なじみのないスタイルの教会の人たちとの関わりを、避けるようになってしまう危険性がある

・負担を避けるあまり、集うこと自体をやめてしまう危険性がある

・めんどくさい人間関係を避けてばかりいると、人として成長しない恐れがある

・人間関係を継続できればいいが、断絶を繰り返し続けると、いつの間にか人間関係を維持できなくなってしまう危険性がある

自分が慣れ親しんだスタイルしか受け付けなくなる可能性がある

・「間違った教え」ばかりに気を取られると、いつの間にか判断基準が「聖書」ではなく「自分」になってしまう危険性がある

 

 あえて、メリットと対応したデメリットを挙げてみた。どれも気をつけなければいけない「危険性」ではある。確かに聖書にも「苦難を通して人は成長する」(ヘブル12章など参照)と書いてあるし、人間関係の大変さから逃げ続けたら、成長はないかもしれない。ときに、トラブルや争いは、人を成長させ、人と人の結びつきを強くする。

 しかし、いずれも「~の恐れがある」という、可能性の話である。「集う教会を変える」ことを禁止する理由にはならないと、私は思う。このようなデメリットには気をつけつつ、個々が神に祈った上で、行動を決めていけば良いと思う。また、ひとつの教会に留まらず、様々な教会を転々とする、いわゆる「チャーチ・ホッパー」の是非については、別記事を書こうと思う。

 

 

▼教会選びの6つのポイント

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 では、「どんな教会に行けば良いのか」という疑問があるだろう。画一的な答えなどないが、以下、私が参考にしたら良いと思う点を簡単に挙げる。

 

1:地理的要因

 集う場所が家から近いかどうか。これは意外と、めちゃくちゃ大事である。よく無理をして遠い教会に集っている人がいるが、私は「よくやるなぁ」と関心する。集う場所が近い方が、圧倒的に精神的、肉体的、時間的に楽だ。遠い教会に通い続けるのは、案外大変だ。漫画「スラムダンク」の登場人物「流川」(ルカワ)は、「近いから」という理由でバスケが強くもない高校へ進学したが、教会の選び方も、案外そんな理由で良いのかもしれない。

 

2:礼拝会などのスタイル的要因

 教会の礼拝会のスタイルも重要だ。自分が本当に神に心の照準をあわせられるか。スタイルが合わないと、どうしても気が散る。先に挙げたように、互いに愛と善行を行い、励まし合うという目的が達成できなければ、自分に合う場所を見つけた方が良いだろう。特に礼拝会の進め方や音楽のスタイルなどは、教会を選ぶ際に大切な要因の一つとなってくる。

 

3:教義的要因

 教会がどのように聖書を教えているかは、とても大切なポイントのひとつだ。牧師などの教会のリーダーが、聖書について語る(説教・メッセージ)場合が多いが、何度か聞いてみて、学ぶ点があるかないか見極めたら良いだろう。もし、何度か参加してみて「この教えは違うな」と感じたら、その教会に通うかどうか再考してみた方が良いかもしれない。

 

4:人間関係的な要因

 教会の主体はイエスだが、イエスがいるのは人間関係の中である。教会の主眼は、そこにおける人間関係と言っても過言ではない。どんな人がいるのか。自分はその人たちと上手くやっていけるのか。年齢層はどうか。自分はその教会のターゲット層なのか否か(年齢、ライフステージ、性別、考え方、社会的立場、パッション、ビジョン、などなど・・・)。自分は、同じ年代を求めているのか、それとも違う年代を求めているのか。よく考えて決める必要がある。人間関係が悪い集まりに関わり続けることほど、辛いものはない。

 

5:組織の運営的要因

 教会がどのように組織を運営しているかを見る必要もある。例えば、教会ではどのようにメンバーを育成しているか、吟味したら良いだろう。教会のビジョンは何か。教会が大切にしているものは何か。献金のシステムはどうか。支援している団体はどこか。様々な点から、教会の運営面を見る必要がある。

 「スモールグループ」(小グループ班に分かれて個人的な話しや相談ができるシステム)やそれに準ずるものがあるかどうかは、非常に大切である。教会とは、やはり個人的な人間関係を築く場だからだ。特に人数が多い教会ほど、スモールグループの有無は重要だ。ただ日曜日に行って、礼拝堂の席に座って誰とも話さず帰るだけでは、私はもったいないと思う。

 

6:神に祈って決める(一番大事!)

 最後だが、最も大切なのは、自分自身が神に祈ってから決めるというものだ。もちろん、どこの教会に行くかは究極的には自由だと思う。しかし、全ての決断を神に祈って委ねるという姿勢は大切だと、私は思う。基本的には「ここの教会に行きなさい」というような声が聞こえるわけではないが、決断に祈りが伴うか伴わないかは、大きな違いである。

 

 他にも教会選びのポイントはあるが、基本的にはこの6つに集約できると思う。読者の方がそれぞれ、神と真剣に向き合い、イエスに対する希望を告白するために、一人ひとりが最善の集まりに導かれるよう、願っている。

 クリスチャンではない方は、ぜひ一度、近くの教会に足を運んでみることをオススメしたい。教会って、行ってみると意外と面白い。教会に乗り込んで、聖書について、イエスについて、神についてあれこれ質問して、議論してみよう。めちゃめちゃ不思議で、楽しい集まり。それが「教会」である。

 

<参考リンク>

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。