クリスチャンはよく「礼拝を守る」という表現を使いますが、その言葉はどんな意味なのでしょうか? また、どこから来たのでしょうか?
▼「礼拝をどこで守っていますか?」という質問
多くの教会は、日曜日に「礼拝」という名前の集会をやっている。たいていの場合は、毎週同じ集まりに行くので、顔なじみばかりである。しかし、たまに遠出をしたり、旅行先などで、いつもとは違う教会に行く時がある。初めての教会に足を運び、自分がクリスチャンであることを伝えると、決まって言われる言葉がある。「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」という質問である。
「礼拝を守る」というのはクリスチャンの間で、実によく聞く表現だ。例えば、地元・長野のとある教会に集っていた際、20代の若いお姉さんが教会に来た。初顔だったので話しかけてみると、「いつもは東京の教会に通っているんですけど、今日は帰省しているので、この教会で礼拝を守りに来ました」と彼女は言った。私は、当時小学校6年生だったが、子ども心に「礼拝を守る」という表現に違和感を覚えた。「礼拝って守るものなのだろうか」という素朴な疑問が湧いてきたのである。
礼拝は守るものなのだろうか。行うものなのだろうか。何か別の意味合いがあるのだろうか。今回は「礼拝を守る」という表現について書く。「礼拝を守る」とは、どんな意味なのか。その表現は、一体どこから来ているのか。そこに意味はあるのか。そんな疑問に答えていく。
また、この記事は以前の記事の内容と多分に重複するため、お時間がある方は以前の記事も参考にしていただきたい。
▼「礼拝を守る」というのはどんな意味なのか
「礼拝を守る」という表現の意味を考えてみよう。この際、「礼拝」と「守る」と2つに分解して考える必要がある。断っておくが、ここで考えるのは、本来の「礼拝」の意味合いではなく、この表現を多用する人々が思い込んでいる「礼拝」の定義である。
まずは言葉の意味を考えてみよう。広辞苑をめくってみる。
<れいはい【礼拝】>(広辞苑第6版)
1:神仏などを拝むこと。現代では主としてキリスト教でいう。
「守る」についても広辞苑を見てみよう。
<まも・る【守る・護る】>(広辞苑6版)
1:うかがいみる。見定める。
2:目を話さずに見る。見詰める。見守る。
3:侵そうとするものをくいとめる。番をする。守備する。保護する。
4:大切にする。世話をする。
5:背かないようにする。「規則を守る」
現代においては、おそらく3の「敵から仲間を守る」の「防御」という意味と、5の「規則を守る」の「遵守する」という意味が、通常使うものだろう。
では、「礼拝を守る」を考えてみる。一般の日本語なのだから、まずは広辞苑の定義をもとに検討しよう。「礼拝」は「神仏などを拝むこと」、つまりは「拝む行為」である。一方、「守る」は、「敵からの防御」および「規律の遵守」という意味である。以上の点を鑑み、「礼拝を守る」を考えると以下のようになる。
<れいはい・を・まも・る【礼拝を守る】>(広辞苑6版の意味合いから考察)
1:神を拝む行為を、邪魔するものから保護する
2:神を拝む行為の規律に、違反しないようにする
まず1は日本語としては少し不自然だ。想定される状況としては、「サタン(悪魔)が神を礼拝する人間を妨げようとしているので、礼拝行為を継続するために、サタンの攻撃を防ぐ」といったような感じだ。もしくは、右翼の街宣車でも来て、礼拝会の邪魔をするというケースも物理的には想定可能だが、ちょっと個別具体的すぎて、一般的に使う言葉としてはズレている。
1の場合だと、初めて参加する教会の集会で「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」と聞くのは「いつもどこでサタンの軍勢からの攻撃から神を拝む行為を保護していますか?」という意味になってしまう。どこかの軍隊とかじゃあるまい。日本語としてもまるでトンチンカンである。
では2はどうか。「いつもどこで礼拝を守っていますか?」は、変換すると「いつもはどこで、神を拝む行為に違反しないようにしていますか?」という意味になってしまう。これはヘンテコな日本語だ。「神を拝む行為」というのは「違反」できるようなものではない。やはり、前提が間違っているようだ。
そこで、「礼拝」または「守る」の意味合いを考え直す必要がある。「守る」の意味を間違えている可能性は低いだろうから、「礼拝」の定義にズレがないか、まず考えてみよう。
広辞苑で「礼拝」は「神を拝む行為」だったが、実際に多くのクリスチャンが使っている「礼拝」の意味は、広辞苑の説明とは違うのではないか。私は、これまでの経験から、クリスチャンたちが言う「礼拝」を定義してみた。
<「礼拝を守る」と言う人の「礼拝」の定義>
・日曜日などに教会で行う「礼拝」と称する集会のこと
・集会は、代表者の祈り、賛美の歌の斉唱、聖書の朗読、牧師など教師による説教(メッセージ)、献金などをもって構成される
・「礼拝」は、毎週参加する義務のある集会である
ざっとこんなところだろう。そう。彼らが言う「礼拝」とは、「神を拝む行為」ではなく、「日曜日などに教会などで行われる集会に毎週参加する行為」を指すのだ。ナルホド。この前提に立てば、「礼拝を守る」がより自然な日本語に近づく。「守る」の方も、「規則を守る」という意味の「守る」という意味で捉えれば、この「礼拝」の意味に近づく。整理してみよう。
【礼拝】:日曜日などに教会などで行われる集会に参加する行為、および毎週参加する義務、暗黙のルール
【守る】:規則を遵守する
【礼拝を守る】:日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する
「礼拝を守る」=「日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する」。こう考えれば、「礼拝を守る」というのは自然な日本語になる。広辞苑に載っているような「普通の日本語」で考えると、「礼拝を守る」という言葉は意味をなさい。クリスチャンたちは、「礼拝」の定義を暗黙のうちに変えて使っているのだ。
注目すべきは、「礼拝を守る」という言葉は、「毎週日曜日に、必ず教会の『礼拝』と称する集会に出席しなければならない。これは義務である」という発想が大前提としてなければ、生まれてこないという点である。この無理やりな日本語を使っている人は、多かれ少なかれ、「日曜日の礼拝会に出席するのは、当然守るべきルールである」という発想に立っている。そうでなければ、この言葉は、日本語としておかしいのである。
さて、「毎週、教会の『礼拝』と称する集会に参加するのは、クリスチャンの義務である」という、このヘンテコな発想はどこから来ているのだろうか。聖書をよく読んでいる人なら、「あ、そういうことか!」と分かるかもしれない。さて、聖書をめくってみよう。
▼「礼拝を守る」の発想はどこから来ているのか
「礼拝を守る」という言葉は、もちろん聖書には登場しない。しかし、「~を守る」という表現はたくさん出てくる。聖書は、どのように「守る」という言葉を使っているのか、見てみよう。
<聖書の中の「守る」とその対象> ※全て、「~を守る」という表現に統一
・契約を守る(創世記 17:10など)
・おきてを守る(出エジプト記 12:14など)
・命令を守る(出エジプト 20:6など)
・戒めを守る(レビ記 22:9など)
・主の定めを守る(申命記 30:16など)
・罪から身を守る(サムエル記第二 22:24など)
・王宮の門を守る(列王記第一 14:27など)
・町を守る(列王記第二 20:6など)
・天幕の入り口を守る(歴代誌第一 9:19など)
・沈黙を守る(エステル記 4:14など)
・いのちを守る(エステル記 8:11など)
・プリム(祭り)の時期を守る(エステル記 9:31など)
・さとしを守る(詩篇 78:7など)
・神があなたを守る(詩篇 91:11など)
・神のことばを守る(詩篇 119:17など)
・正しい人の道を守る(箴言 2:20など)
・なめらかな舌から守る(箴言 6:24など)
・見知らぬ女から守る(箴言 7:5など)
・王を守る(箴言 20:28など)
・たましいを守る(箴言 22:5など)
・律法を守る(箴言28:7など)
・家を守る(伝道者 12:3など)
・城壁を守る(雅歌 5:7など)
・ぶどうの実を守る(雅歌 8:12など)
・誠実を守る(イザヤ 26:2など)
・帰る時間を守る(エレミヤ 8:7など)
・イスラエルを守る(エレミヤ 35:4など)
・なわらしを守る(エゼキエル 20:18など)
・人々を守る(ダニエル 12:1など)
・庭を守る(ゼカリヤ 3:7など)
・しきたりを守る(マルコ7:4など)
・言い伝えを守る(マルコ 7:9など)
・慣習を守る(ルカ 2:27など)
・日を守る(ローマ 14:6など)
・自分をきよく守る(ヤコブ 1:27など)
・神のわざを守る(黙示録 2:26など)
実に、多くの用途で「守る」という言葉が使われているのが分かる。このままだと整理しづらいので、大雑把に分類してみよう。
1:何から自分を防御する(罪から、いのちを、たましいを、あなたを、なめらかな舌から、見知らぬ女から、自分を)
2:何かから他者や物質を防御する(王宮の門、町、天幕の入り口、王、家、城壁、イスラエル、人々、庭、ぶどうの実)
3:神が定めたルールを遵守する(契約、おきて、命令、戒め、定め、さとし、神のことば、誠実、律法、律法の規定、正しい人の道、神のわざ、安息日)
4:人間が定めたルールを遵守する(安息日、祭りの時期、ならわし、しきたり、言い伝え、慣習、<祭りなどの>日)(人間が定めたルール的なものを遵守する)
5:その他の慣用的表現(沈黙を守る、帰る時を守る)
明確に整理ができたと思う。
その上で「礼拝を守る」という発想は、どこから来ているのだろうか、考えてみよう。よく読んでいただいた方はお気づきかと思うが、上記の1~5で同じ言葉が違うグループに分類されている、いわゆる「被っている」言葉がひとつだけある。そう、「安息日」だ。
ユダヤ教にとって、「安息日を守る」ほど大切なものはない。一番大切なルールといっても過言ではない。安息日には様々な規定がある。働いてはいけないのはもちろん、電気をつけたり、火をおこしたり、車を運転したりなど、してはならない決まりがたくさんある。なんと、安息日に歩いていい距離すらも決まっているのだ(1km弱。使徒1:12など参照)。現代においても、そのルールは変わらない。だがしかし、このルールのほとんどは、聖書に記述があるものではなく、人が後代に「付け足し」したものである。聖書にある「安息日」の規定はこうだ。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が6日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、7日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
(出エジプト 20:8~11)
神が創造の7日目に休んだのが、「安息日」の起源である。モーセの律法において、「安息日」は聖なる日とされ、「いかなる仕事もしてはならない」と決められた。これ以降、「安息日」という言葉は、旧約聖書では111回、新約聖書では68回登場する。それほど重要な掟であったとうかがえる。
しかし、「安息日」のルールのほとんどは、後代になって付け足されたものであり、聖書が規定するのは「仕事」や「薪を運ぶ行為」など、ほんの少しだけである。ユダヤ教の人々は、この安息日のルールを絶対に守るために、あらゆる行為をしないようにと、細かなルールを後になって加えていったのである。 「安息日を守る」。これはユダヤ教においては、とてもよく聞く表現だ。「安息日」はヘブライ語で「シャバット」、「守る」は「ショメル」という。「安息日を守る」はヘブライ語で「シュモール・エット・ハ・シャバット」。現代でも耳タコな表現である。
私は、「礼拝を守る」という発想は、この「安息日を守る」という表現から来ていると確信している。そう、実はユダヤ教の価値観から、クリスチャンたちの言葉が生まれているのだ。ビックリ仰天。その発想は、クリスチャンのそれではなく、ユダヤ教のものだったのである。(※なお、ローマ14章に登場する「ある日」「特定の日」というのは文脈から、安息日や旧約の祭日を指すと考えるの自然なので、全て「安息日」に関連すると捉えて間違いではない)
当然、聖書はユダヤの文化と言語から生まれた事実を無視してはいけない。そして、イエスの「律法を成就し、完成するために来た」という宣言を軽んじてもいけない。しかし、イエスを信じる現代の、しかもユダヤ人ではないクリスチャンたちが、どのように聖書の言葉を取り入れるかは慎重でなければならない。ことわっておくが、「安息日」は「金曜日の日没から、土曜日の日没にかけて」を指す。間違っても「日曜日」ではないと覚えておいていただこう。現代においても「安息日を守る」ように「日曜礼拝を守る」と考えているのだとしたら、それは大きな間違いである。
一体、何がどう間違っているのか。イエスと当時のユダヤ教の指導者たちのやりとりから学んでみよう。
▼口伝律法の信者と戦ったイエス
イエス時代のユダヤ教指導者たちは、殺す計画を立てるほど、イエスを憎んでいた。イエスがユダヤ教指導者たちと対立した一番大きな原因のひとつは、「安息日」の定義をめぐっての論争である。
先に述べたように、「安息日」の規定は、長いユダヤ教の歴史の中で、どんどん過激になっていった。はじめの規定は「いかなる仕事もしてはならない」だけであった。しかし、「仕事」とは何かという論争が起こった。羊の世話をするのは仕事だろうか。水を汲むのは仕事だろうか。麦の穂を摘むのは仕事だろうか。布団をたたむのは仕事だろうか。掃除は? 洗濯は? 火おこしは? 料理は? 病気の治療は? ・・・などなど。数え始めたらキリがなくなっていった。その結果、どうなったか。疑わしきは罰せよ。そう、イエス時代のユダヤ教においては、ほとんど全ての行為を「仕事」とみなして、安息日(金曜日没~土曜日没まで)に禁じたのである。
しかし、それに異を唱えたのが、イエスその人である。彼とユダヤ教の宗教指導者たちのやりとりを、いくつかご紹介しよう。たくさんあるので、時間がない方は太字の部分だけ、さっと目を通していただければと思う。
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか」そして言われた「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子(イエス)は安息日にも主(しゅ)です」
(マルコの福音書 2:23~28)
イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々は、イエスがこのひとを安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真中に立ちなさい」それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか。それとも殺すことですか」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
(マルコの福音書 3:1~6)
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は6日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない」しかし、主(しゅ)は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼い葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。このひとはアブラハムの娘(子孫)です。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
(ルカの福音書 13:10~17)
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(中略)そこに、38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長いあいだそうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。(※この池に一番に入ると病気が治るという迷信があった)イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であっった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(中略)その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」そのためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
(イエスの言葉)「モーセはあなた方に割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちからも始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています(※割礼は生まれて8日目に行う規定がある)。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。
・・・いかがだろうか。イエスとユダヤ教の宗教指導者たちの対立の大きな原因は、この「安息日」についてであったと分かる。イエスとユダヤ教指導者たちの「安息日論争」は、上に挙げた以外にも、数限りなくある。なぜ、このような論争があったのだろうか。それを理解するためには、重要な前提を一つ知る必要がある。
当時、ユダヤ教の律法には大きく分けて2つあった。ひとつは旧約聖書に記述がある「律法」(トーラー)である。いわゆる、創世記から申命記までの5つの書物を「モーセ5書」と呼ぶが、これが「律法」(トーラー)である(※広義では旧約聖書全てを指す)。トーラーがユダヤ教の全ての基礎であり、全ての戒めの基盤である。
しかし、このトーラーを守るために、人々は「念のため」の外側の基準を作った。そして、外側の外側の基準が、次々とできていった。それが「口伝律法」(ミシュナー)である。トーラーには、「安息日」には「いかなる仕事もしてはならない」と書いてある。逆に言えば、それだけだ(※「火おこし」など少数の規定はトーラーにも記載がある)。しかし、口伝律法(ミシュナー)はそれに留まらない。万が一でもトーラーを破らないために、念には念を入れた基準が作られたのだ。
イエスの時代は、この「口伝律法」(ミシュナー)が、まるでトーラーそのもののように扱われていた。「仕事をしてはならない」が、次第に「穂を摘んでもいけない」「床を取り上げてもいけない」「病気を癒やしてもいけない」という解釈に変わっていってしまったのである。そして、それを破った者に対しては、厳しい処罰が課されていた。
イエスは、この「口伝律法」(ミシュナー)中心主義に対してNOを突きつけたのである。この言葉を見れば分かるだろう。
さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)を堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていること(ミシュナー)が、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)によって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令(ミシュナー)を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒め(トーラー)を捨てて、人間の言い伝え(ミシュナー)を堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝え(ミシュナー)を保つために、見事に神の戒め(トーラー)をないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました(※トーラーにて)。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って(※ミシュナーにて)、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝え(ミシュナー)によって、神のことば(トーラー)を無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」
(マルコの福音書 7:1〜13)
イエスは、「安息日」にあれをしてはならない、これをしてはならないというミシュナーを否定した。その代わり、トーラーが本当に教えている精神を教えた。すなわち、「安息日に善を行え」「人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのだ」という基準である。「安息日」は大切だ。これがなければ、私たちは週休2日どころか、週休0日だったかもしれない。死んでしまう! 神が「安息日」を作ってくださって、本当によかった!!
さて、議論を「礼拝を守る」に戻そう。「礼拝を守る」という表現、価値観の根底にあるのは、「安息日を守る」といった、ユダヤ教の価値観である。その価値観は、イエスが否定したものである。
とどのつまり、「どこで礼拝を守っていますか?」と聞くような、現代のクリスチャンたちは「日曜日には、教会の礼拝と称する集会に出席しなければならない」という、まるでユダヤ教のような価値基準を持っているのである。繰り返すが、聖書のどこにも「日曜日に教会の集会に参加しなければならない」などという記述はない。それは、ただの文化だ。「週の初めの日に集まりパンを割いた」という記述(使徒20:7)から、日曜の集会を肯定する者がいるが、それは日曜に集まったというだけであって、日曜に集まらなければ「ならない」という規定ではない。そんな違いすら分からないのなら、日本語を学び直した方がいい。それに、イエスの弟子たちは「毎日」集まっていたのである(使徒2:46、5:42、6:1、17:17、19:9など)。
「礼拝を守る」などと言っているクリスチャンは、トーラーをないがしろにし、伝統であるミシュナーを重視していたユダヤ人たちと、実は全く同じことをしているのである。聖書に書いていない伝統や文化を重視し、聖書の記述を無視し、それを他者に押し付ける。やっていることが、パリサイ派と全く同じである。「どこで礼拝を守っているんですか?」と聞いて、「あなた日曜日教会に行っているの?」とプレッシャーを与えるような人は、旧約と新約の違いすら分かっておらず混同しているだけの人。気にする必要などない。なんと嘆かわしいことか。こればかりは、容認するわけにはいかない。「礼拝を守る」という表現は、ユダヤ教由来の全くナンセンスな表現である。
イエスは、礼拝についてどう教えたのか。最後に、少しだけ述べてこの記事を閉じる。
▼礼拝は生き方である
イエスは、礼拝について何と教えたか。これについては、このブログで今まで散々述べてきたので、もはや言うまでもないだろう。「礼拝とは、神と共に生きる生き方」である。イエスの教えを紹介しよう。
彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
イエスが教えた「本物の礼拝」とはどういう意味か。以前の記事からまとめの要素だけをコピペする。
<イエスが教えた「本物の礼拝」とは>
1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。
2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。
このイエスの教えによって、旧約の常識が新しい常識へと更新されたのだ。
「礼拝」は、「決められた場所で」、祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。
「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるイエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。
礼拝とは、場所、時間、状況、スタイルに関わらず、「あなたの人生を神にささげ、神と共に生きる生き方そのもの」を指す。「日曜礼拝を守る」などという、旧約時代の古い常識に囚われるのは、もうやめようではないか。クリスチャンは、いつでも、どこでも、神が与えた聖霊によって、イエスを信じ、神と共に生きられるのだ。イエスが示した、新しい常識のもとで、イキイキと生きていこうではないか。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(ローマ人への手紙 12:1)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。