週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?!

クリスチャンたちは、牧師など、特定の人たちを「献身者」と呼びますが、その呼び方って謎じゃありませんか? 

 

 

▼「献身者」とは

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 教会に行くと、耳慣れない「クリスチャン用語」が様々飛び交っている。このブログは、そのようなクリスチャン用語の謎を種々取り上げてきた。今回は、「献身・献身者」というワードを見ていきたい。

 教会では、「将来は献身したい」といった言葉や、「献身者と結婚したい」などといった声が聞こえてくる。「献身・献身者」とはどのような意味なのか。その言葉の使われ方を見ていくと、どうやらクリスチャンたちの間で「献身」という言葉は、「フルタイムの牧師や宣教師になる」という意味らしい。

 言葉を論じるのだから、まずは日本語の意味を見なければならない。広辞苑の第六版によれば、「献身」とは以下のような意味である。

けんーしん【献身】

身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲。

 

 なるほど。クリスチャンがこの用語を使う場合は、「神に身を捧げて尽くすこと」「自己の利益を顧みないで、神のために力を尽くすこと」という意味と捉えて間違いないだろう。ここで、当然、「牧師や宣教師以外は献身者ではないのか?」という疑問が出てくるのは当然だ。牧師や宣教師にならなければ、「自分のために」生きていることになってしまうのだろうか。牧師や宣教師だけが「献身者」なのだろうか。今回はそのような疑問に迫っていきたい。

 

 

▼聖書のいう「献身」とは?

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 まず、「聖書のどこに牧師や宣教師だけが『献身者』である書いてあるのか?」というのが一番大切だ。このブログの賢明な読者なら、既にお分かりかと思うが、そんな記述は全くないのである。そもそも、「献身」という言葉自体、聖書に全くない。衝撃の事実。「献身、献身」と言っている人々は、聖書に記述が全くない言葉に騙されてしまっているのである。かわいそう!

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。いくつか「献げる」(ささげる)という言葉をキーワードとして、聖書の言葉をピックアップしてみた。

【1:あなた自身を神に献げよ】

あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。

(ローマ人への手紙 6:11~13)

【2:あなたのからだを神に献げよ】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

【3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ】

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司(直訳:祭司団)となります。(中略)しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙 2:5~9)

 

 いかがだろうか。これら全ての聖書の言葉に共通するのは、「あなたを神に献げよ」という言葉である。「牧師や宣教師が、神に人生を献げた人だ」とは一言も書いていないのである(※そもそも、「牧師」という単語自体、聖書に出てこない。「牧者」という単語だけ1回登場するが、なぜか「牧師」と意図的な意訳がされている)。

 それぞれの言葉を文脈からもう少し解説する。

1:あなた自身を神に献げよ

エスを信じる者は、イエスと同時に霊的に死んでいる。そしてイエスが蘇ったと同時に生きている。もはや新しい人生なのだから、今までのような自己中心的な生き方ではなく、神が喜ばれる生き方をせよ、という文脈である。

2:あなたのからだを神に献げよ

エスに信頼する者は、いつでも、どこでも、何をしていても、金太郎飴を切ったようにイエス大好きモードで生きるのである。その人の「生き方」が「礼拝」になる(※詳細は、こちらの記事を参照)。心も身体も神のために、目の前の一人の人のために生きるようになる。

3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ

これは、いわゆる「万人祭司」という考え方の根幹になっている聖書の言葉である。今までは、特定の部族に生まれた特別な人たちだけが、神にいけにえを捧げることができた。しかし、イエスが完全ないけにえとして死に、聖霊が信じる者たちに与えられて以降、イエスを信じる全ての人が「祭司」となった。エスを信じる全ての人が、聖霊によって神とつながり、神の素晴らしさをこの世に現すことができるようになったのだ。ゆえに「祭司団」と言うのである。

 

 このように、聖書が教えているのは、イエスを信じた者が、誰であれ、今までの生き方から方向転換すること。誰であれ、神に信頼する「生き方」をしなさいということ。誰であれ、神の素晴らしさを世に現せということである。決して、「牧師や宣教師などの特定のリーダーだけが、神に人生を献げよ」となど言っていない。エスを信じる人全員に対して、このように聖書は勧めているのである。クリスチャンは牧師や宣教師を目指すのみならず、むしろ、今のあなたの立場、仕事、生き方を通して、いかにイエスを喜び、伝えていくのかが求められているのではないだろうか。

 

 

▼あなたの人生は神のもの

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 先に挙げた3つの聖書の言葉から読み取れるのは、「イエスを信じた人は、その瞬間に一度死んで、生き返っているのだ」という価値観である。実は、もう一つ大切な価値観がある。それは、「イエスを信じた人の命は買い取られている」というものだ。次の聖書の言葉を見ていこう。

人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

(マルコの福音書 10:45)

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

(コリント人への手紙第一 6:19〜20)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(コリント人への手紙第一 7:23)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

(テモテへの手紙第一 2:6)

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。

(テトスへの手紙 2:14)

 

 「贖う」という言葉は少し難しいが、辞書をひくと「あるものを代償にして手に入れる。買い取る」とある。つまり、私たちのいのちや人生は、イエスのいのちを「代価」として、買い取られたのである。聖書は、イエスを信じる者のいのちは、既に神のものであると教えている。なんとびっくり、クリスチャンは自分の意志で「献身」などできないのである。なぜなら、クリスチャンの人生は、既に神のものであり、自分のものではないからである。逆に言えば、牧師や宣教師だけでなく、全てのクリスチャンが、既に神に人生を捧げている献身者なのである。

 牧師や宣教師だけが「献身者」なのではない。職業は関係ない。全てのクリスチャンが「献身者」というマインドを持って、生きるべきなのである。

 

▼クリスチャンの責任は重大

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 全てのクリスチャンが「献身者」ーー。この事実は、クリスチャンの人生の責任を明示しているといっていい。多くのクリスチャンが、「牧師や伝道師」だけに責任を求め、あぐらをかいて生きている。とんでもない。あなたも、神に人生を買い取られた者として、責任を持って生きるべきなのである。

 クリスチャンは、いつでも、どこでも、何をしていても、神の素晴らしさを現す生き方をするよう、聖書はオススメしている。

心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 

 クリスチャンは、以下のようなマインドで生きるべきである。悩んだりクヨクヨせず、明るく、ハッピーに喜んで生きるよう聖書はオススメしている。また、聖霊を否定したり、神から語られた言葉を無視してはならない。あらゆる悪から離れる必要もある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:16〜22)

 

 クリスチャンは、聖書の言葉を伝え続ける必要がある。状況は関係ないし、立場も関係ない。聞くだけではなく、自らが学び、伝える必要がある。以下の聖書の言葉は、一義的にはテモテというリーダーの一人に語られた言葉であるが、こういう時代になるという指摘や、みことばを伝えよという命令は、現代の私たちが受け取っていい言葉だろう。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の努めを十分に果たしなさい。

(テモテへの手紙第二 3:2〜5)

 

 立場や職業に関係なく、聖書がオススメする生き方を実行する。それがクリスチャンにとって大切だ。どこにいても、何をしていても、神の素晴らしさを生き方を通して現す。それが、「献身者」たるクリスチャンの姿ではなかろうか。聞くだけで、何もしない者にならず、立場に言い訳をせず、どこを切っても金太郎飴のようなイエス大好き人間になろうではないか。

 

 

▼おまけ:「献身者」だから貧しいという嘘

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 一部の牧師や宣教師、またはそれらの職業を目指している人々の中には、「自分は献身者だから貧しい」、または「献身者は貧しくなければならない」という価値観を持っている人がいるように思う。ハッキリ言う。それは嘘だ。これについては、後日別途記事を書こうと思っている。

 確かにイエスは、「神にも仕え、富にも仕えることはできない」と言っている。しかし、それは、等しくクリスチャンは貧しくなければならないという意味なのだろうか。聖書を読むと、そうではないように思う。神によって経済的に祝福された者もいれば、貧しかった人もいる。それぞれに、神の定めた生き方がある。パウロは、「自分の手で骨折って働け」と命じているし、自分自身も人から金をもらうことなく、自費で生活していた。

 聖書は決して、「クリスチャン、特にリーダーたちは、貧しくなければならない」などと教えていない。いたずらに「教会リーダーは貧しくあるべき」という考え方が蔓延しているのは、カトリック「清貧」という間違った文化が根付いてしまっているからだろう。このような嘘に騙されず、自分の手で働き、生活を営み、持っている者は持っていない者を互いに支え合うべきである。詳しくは、近いうちに記事を書こうと思う。

 

(了)