週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

「オンライン礼拝の “是非” 」を議論するイベントに参加してみた

コロナ禍以降急速に増える「オンライン礼拝会」について、現役牧師はどう捉えているのでしょうか? 聖書はどう言っているのでしょうか?

 

 

▼「オンライン礼拝」をめぐる神学バトル!

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 世界中がコロナウイルス関連の激変の渦に巻き込まれてから1年半。面白いイベントを見つけた。「オンライン礼拝」についての「神学バトル」だという。「JCFN」という団体が企画する「C-link」(クリンク)というイベントだ。

 「神学バトル!」と銘打って、現役の牧師2人が、オンライン礼拝会について「あり? なし?」と議論する。あえて賛否の立場を主催者側がパネラーに指定し、前半と後半でその立場を入れ替えて議論するという。面白そうじゃないか。コロナ禍になって1年半も経つのに、いまだに「是非を議論」というのは、いささか時代遅れのような気もするが、何もしないより議論した方がいい。興味深いイベントだ。

 私は「クラウドチャーチ」という「完全オンラインのプロテスタント教会の牧仕(牧師ではなく牧仕)を務めている。クラウドチャーチは完全オンラインでやっているので、オンライン礼拝会を否定されたらクラウドチャーチの存在そのものにケンカを売られているようなものである。参加しないわけにはいかない。

 (↓↓↓クラウドチャーチの詳細はこちら↓↓↓)

www.cloudchurch-japan.com

 イベントに参加してみた結果、面白かった。特に「オンライン礼拝会」についての問題点や課題が洗い出された点は評価したい。また、多くの質問が飛び交う中で、司会者がうまく論点を整理し進行していた点には拍手を送りたい。

 一方で、両氏の主張は、やや根拠が薄いと感じた。それぞれの立場を説明してはいるが、それが「なぜ」そのような考え方に帰結するのか、根拠立てが弱かった。聖書の言葉による裏付けも少なかった。

 また、「神学バトル」と銘打っていた割には、両氏の立場を説明して終わってしまい、ディベートというよりはむしろ「意見発表会」になっていた点は残念だった。もう少し、お互いの理論の弱点を指摘し合う、再質問が飛び交う、本物のディベートが見たかったなという印象だ。

 そもそも論として、単なる集まる集会でしかない「礼拝会」(礼拝集会・礼拝式。「礼拝会」についての記事はこちら)を、「礼拝」と銘打ち、イベント本番でも「オンライン礼拝」と表記・言及していた点はとても残念である。

 イベント自体は、論点が整理され、考えるキッカケとなる面白いものだった。そこで今回は、どのような議論が交わされたのかをはじめ、両氏の論点を整理し、どのような「ツッコミポイント」があるかを書こうと思う。その上で、「オンライン礼拝会」はアリなのか? という結論ミエミエの問いに対して、あえて私なりの意見も短く書く。

 この記事はあくまで私がイベントに参加した「感想」であり、運営者、司会者、パネラーの両氏に対する攻撃的な意図は全くないことを理解した上でお読みいただきたい。

 

▼両氏の意見まとめ

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 まず、パネラーの大坂太郎氏、鎌野直人氏双方の意見を簡単にまとめる。大坂氏も鎌野氏も現役の牧師であり、神学校(聖書や神学などを学ぶ学校)の教師(鎌野氏は校長)である(両氏のプロフィールはこちら)。

 重要な点だが、このイベントで「礼拝」と言っているものは、本質的な「礼拝」についてではない。教会堂や家庭など、一定の場所に物理的に集まる「集会」を指している。私は、クラウドチャーチでは一貫して「プレミアム集会」とか「オープン集会」とか「集会」と銘打っているし、意図して「礼拝」という語を使うなら「礼拝会」と言っている。この記事でも一貫して「礼拝会」と書くが、イベントでは「礼拝」との表記および言及がなされていた。その点は大変残念である。ただ、イベント冒頭に司会者から「今回『礼拝』と言う際は集会を意味する狭義の『礼拝』だ」と一応の説明はあった。全体として不満ではあるものの、その点は評価したい。

 そして、これもかなり重要な点だが、このイベントの立て付けは、主催者側が両氏に賛否の立場を指定し「もし仮にその立場だったら、どのような論理で賛成または反対するのか」というプレゼンを行うというものである。従って、以下にまとめる「両氏の論点」は、必ずしも大坂氏、鎌野氏個人の意見を100%反映してものではないと強調しておきたい。両氏には両氏なりの考えがあるだろうが、それは今回のイベントの趣旨ではない。あくまでも「賛成または反対の立場だったら、どのような論点を挙げるか」という視点で議論を行うというのが、今回の趣旨だ。だから、この後私が述べる「ツッコミ」は、彼らの「論点」へのツッコミであって、彼らを個人的に攻撃する意図は全くない。その点は明確にしておきたいと思う。

 また、読者の皆様も以下の論点を読みながら様々ツッコミを入れたくなるだろうが、それは後で書くので、まずは論点のまとめを読んでいただきたい。また「オンライン礼拝会」を議論するにあたり、大きな論点となる「聖礼典」サクラメント。主にバプテスマ聖餐式を指す)については議論が大きくなるのを避けるために、今回は深い言及を避けるよう運営側から指示があった。「聖礼典」については7月17日開催の次回イベントで大きな論点になると予想される。

●大坂氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「賛成」の立場の場合)

1:歴史的に教会の共同体は「テクノロジー」を用いてきたのだから、オンラインという技術も用いるべきだ

使徒パウロが宣教に用いた大船、グーテンベルク活版印刷、現代の教会が用いる音響や映像の手法などが挙げられる

 

2:礼拝会の形式は、時代や状況に応じて変化している。だからオンラインもその変化の一つであって、受け入れるべき

ユダヤ教においては、旧来いけにえをささげる行為が「礼拝」であったが、神殿が崩壊し、物理的にいけにえをささげることが困難になったため、会堂での集会や、旧約聖書の律法を遵守することが「礼拝」へと変化していった

・祭儀を重要視するカトリックでさえも、コロナ禍においてオンライン技術を許容する発言をしており、変化を受け入れている

 

3:オンライン礼拝会は宣教の場になる

・そもそも「会堂」に集まるという行為自体が、旧来の神殿での祭儀と比較すれば新しいものであった

・特に地方の教会にありがちな、牧師が不在だったり、別の教会と兼任だったりする教会にとっては助かるツールになる

・物理的に教会の集まりに参加するよりハードルが下がるし、対面には抵抗がある人もオンラインでは参加しやすい場合がある

 

●鎌野氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「反対」の立場の場合)

1:教会は、歴史的にパンデミックの中でも集まりをやめていない

・ペストやスペイン風邪でも信者は集っていたのだから、コロナ禍でも物理的に集まるのをやめてはいけない

 

2:信教の自由を確保する必要がある

・信教の自由を確保する必要があるので、政府の言いなりになり、集まりを自粛してはいけない

 

3:神学的な観点からも物理的に集まる必要性がある

・礼拝会は「恵みの手段」であるので、物理的に集まる必要がある

・礼拝会で「聖書の言葉」を聞き、「聖礼典」を行うために物理的に集まる必要性がある

 

4:人間は「身体的存在」であるので、物理的に集まる必要性がある

・礼拝会と「所作」は切り分けられないものであるから、物理的に集まる必要性がある

 

5:オンライン礼拝会を許容すると「礼拝会の商品化」につながる

・信者が好みの教会の礼拝会を選り好みする、「礼拝会の商品化」が起こり、それは好ましくない。

 

●鎌野氏の論点まとめ(オンライン礼拝会に「賛成」の立場の場合)

1:テクノロジーは積極的に使用すべき

・基本的に大坂氏の意見と同じで、教会は歴史的にテクノロジーを使ってきたので、現代においても教会はテクノロジーを用いるべき

 

2:礼拝会は継続すべきものだから、オンラインでも継続することが大事

・歴史的に教会は礼拝会を継続してきたので、パンデミックの中であっても礼拝会は何かしらの形で継続すべき

 

3:より多くの人が礼拝会に参加できる工夫が必要

・歩けない人など、オンラインでこそ出席が可能になる人がいる

 

4:毎日が「礼拝」であるので、「礼拝会」はその一部にすぎない

・オンラインであろうとなかろうと、本質は「礼拝」は日々の歩みなので、固定した場所や時間の「礼拝会」は本来聖書が言っているものではない。だから「礼拝会」はオンラインでも問題ない

 

5:対面だからといって「本当の姿」とは限らない

・物理的に対面で会っているからといって、相手が「本当の姿」とは限らない。オンラインだからこそさらけだせる「本音」もあるはず

 

●大坂氏の論点(オンライン礼拝会に「反対」の立場の場合)

1:歴史的な理由

・おおむね鎌野氏と同じ

・コロナ禍でも、ユダヤ教徒イスラム、保守的キリスト教会は集まることをやめてはいない

 

2:政治的な理由

・国によって集会が禁止されることに対しては戦わないといけない。国が自粛を要請しているからといって思考停止してはいけない

・「沈黙の同意」をして国に恭順してはいけない

 

3:神学的な理由

・鎌野氏の意見と同じ。「身体性」が大事なので物理的に集まるべき。オンラインでは「身体性」は確保できない


 以上が、両氏の意見を簡単にまとめたものである。次項で、各氏の論点の評価できる点とツッコミポイントを挙げたい。

 

▼論点を3つのポイントに整理する

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 両氏の「意見発表」は、オンライン礼拝会をめぐる論点が整理された点では良かった。大きく上げれば、論点は以下のようになろう。

A:歴史的な観点

・テクノロジーの導入の是非

・継続性の捉え方

・権力との関わりの捉え方

 

B:神学的な観点

・礼拝の捉え方

・「身体性」の捉え方

 

C:実践的な観点

・リーチできる人の範囲

・交流の深度の問題

 おおむね、このように分類できるだろう。この論点が整理されたのはよかった。

 しかし、両氏の主張は根拠が弱かった。以下、両氏の論点に対して私が思うツッコミポイントである。上にまとめた3点に整理して語ろう。繰り返すが、このイベントは「もし賛成/反対の立場ならどういう論理を立てるか」という立て付けであり、両氏の本音を反映したものではないと改めて強調したい。私は彼らを個人的に攻撃するつもりは全くなく、イベントで示された論点の矛盾点や根拠の弱さを指摘したいだけである。

 

▼A:「歴史的な観点」の問題点 〜論理の飛躍〜

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 大坂氏も鎌野氏も、オンライン礼拝会に肯定的な意見であれ、否定的な意見であれ、「歴史の継続性」を根拠に語っている。この際に両氏に欠けているのは、「なぜ歴史を継続しなければいけないか」という視点である。歴史を継続すべきという主張の根拠がないのだ。「歴史的にそうだったから今もそうすべき」というのは、単なる前例踏襲主義の思考停止である。

 歴史から学ぶのは大切だが、真に学ぶのであれば「歴史上の歩みが良い結果をもたらしたかどうか(結果)」「神学的に問題がないかどうか(神学)」「実践的に現代でも合理的かどうか(合理性)」などの視点から再検証すべきであろう。その意味で「歴史的観点」からの両氏の主張は、根拠が弱く、論理が飛躍していたように思える。私は「なぜ歴史を継続する必要があるのか」とコメント欄で質問したが、回答は得られなかった。

 特に鎌野氏の「ペストやスペイン風邪でも信者は集まっていたのだから、コロナ禍でも物理的に集まるべきだ」という主張は、当時は物理的に集まるしか方法がなかったのだから「オンライン礼拝会」について語る上では極めて不適切である。時代的背景がまるで違うのだから、集まりについて議論するなら、まず集まる目的を明確にしなければならない。その上で、オンラインという手法を通して、その目的が達成できるかどうかという視点での議論が必要だ。目的が達成できれば良し、達成できなければダメ。議論はシンプルだ。両氏の主張は、集まりの「目的」についての言及がほとんどなく、その点はかなり残念だった。

 

 「権力との関わり」からオンライン礼拝会を論じるという視点は、私にはあまりしっくりこなかった。3つの理由があるが、1)議論の前提が間違い  2)論理が飛躍している  3)神学的な裏付けが弱い  というのが理由である。

 まず、1)「議論の前提」だが、このディベートは「オンライン礼拝会の是非」がテーマである。権力との関わり云々の主張は、「オンライン礼拝会」が物理的な集会の代替品だという前提に立った意見である。しかし「オンライン礼拝会」は物理的な集会の代替品ではない。このディベートはあくまでも「オンライン礼拝会の是非」という議論なのだから、「オンライン礼拝会は物理的な集会の代替品」という前提で語るのは議論として不適切である。

 また、前提として「政府が集会を禁止している」という視点があるが、これも間違っている。少なくとも日本では罰則を伴う集会の禁止はされておらず、事実として会堂に自由に集えているのが現実だ。現実に則さない前提は、出発点から間違っている。

 また、2)「理論の飛躍」だが、「権力に負けないために物理的に集まるべきだから、オンライン礼拝会はダメだ」と論じるのは、どう考えても論理が飛躍している。物理的集会の制約とオンライン礼拝会の是非というのは2つの異なるテーマなので、切り分けて考えないといけない。仮に複合的に論じるのであれば、2つの点がどのような接点があるのか、どのように論理的につながり、正当性があるのか証明しなければならない。

 3)「神学的な裏付け」、これも弱い。「神学バトル」なのであるから「権力に負けないために」という前提の正当性を、まず神学的に証明しなければならないが、両氏とも証明できていない。また、聖書にはローマ13章など、時の権力者に従うことの重要性を語る部分もあることから、それらの聖書の言葉と「権力に負けない」という姿勢をどう両立させるのかの言及も必要だ。両氏ともこの説明は全くしておらず、私は「ローマ13章とどう両立させるのか」質問をしたが、回答は得られなかった。

 権力云々というのは、ある意味特定の政治的ポジションに立った論点で、「神学バトル」としてはおよそ不適切な論点ではなかったと私は考える。

 

▼B:神学的な観点 〜「身体性」という言葉のナゾ〜

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 神学的な視点からの論点は大きく2つある。「礼拝」の捉え方と、「身体性」の捉え方である。

 「礼拝」に関しては、このディベートの中で「礼拝とは何か」の定義づけがあまり深くなされなかったのがとても残念だった。「オンライン礼拝会の是非」を語っているわけなのだから、「礼拝」とは何か、「礼拝会」とは何かをまず論じ、定義づけなければその是非は論じられない。その意味で、このイベントの立て付け自体が少し脇が甘かったように感じる。

 鎌野氏はその問題を指摘し、「礼拝」の本質を論じた。「オンライン礼拝会に賛成」の立場の際の「4」がそれに当てはまる。私もこの点に関しては彼の意見に賛成だ。「礼拝」の本質を議論しなければ、適切な解が得られないのは自明だろう。

 両氏ともに重要なポイントとして挙げたのは「身体性」である。この「身体性」という言葉であるが、あまり意味が分からない。おそらく神学的な専門用語であろう。少し横道にそれるが、両氏は議論において専門用語を多用するきらいがあった。専門用語はその世界の人間にとっては議論をスムーズにする効果があるが、同時にその用語の意味や背景、前提を知らない人との断絶を生む副作用があり、この手のイベントのパネラーとしては専門用語をできるだけ排除するか、使用する際にその意味を簡単に説明する必要があったと個人的に思う。また、専門用語は「分かった気、説明した気になる」という大きな難点もある。噛み砕いて説明できなければ、それは分かっていないのと同じである。その意味で、両氏にはより分かりやすい言葉で説明をしてほしかったと、個人的に思う。

 「身体性」という言葉を、私は「人間は物理的な肉体を持った存在である」と解釈した。そう解釈した場合、両氏の意見は「人間は物理的な肉体を持った存在であるから、礼拝会も物理的であるべきだ」というものになる。ハッキリ言ってよく意味が分からなかった。なぜ人間が物理的な存在であると「礼拝会」は物理的である必要があるのか。やはり理論が飛躍していると感じた。

 鎌野氏はこれについて「礼拝会と『所作』は不可分」と説明したが、これも意味が不明瞭だった。「所作」という言葉も専門用語で、私には全く意味が分からなかったが、コメント欄で大坂氏が解説したところによると、「人間の動作であり、礼拝会においてはパンを割く等の行動のこと」ということらしい。ただ、あまり腑に落ちない。オンライン礼拝会でも、別にそれぞれの場所でパンを割く「所作」は可能である。どういう意味で「礼拝会と所作は不可分」と言っているのか意味が分からないし、それがどうして「オンライン礼拝会では所作が不可能」という結論になるのかも分からない。そもそも「人間は物理的な存在」だとしても、それがどうして「礼拝会も物理的であるべき」という結論に至るのか、全くよく分からなかった。

 また、鎌野氏と大坂氏は2人とも「礼拝会の『身体性』はとても大切なので、集まる必要がある。だからオンライン礼拝会はダメだ」という主張を展開していたが、これも謎だ。zoomの画面越しで「集まる」ことは可能であり、そもそもこのイベントもzoom開催である。仮に「zoomは『集まり』ではない」と主張するなら、その根拠を示さなければならない。両氏ともその議論は全くせずに、ただ「『身体性』が大事だから、物理的に集まるべき」との主張をしていた。私は両氏に「zoomが『集まり』といえない根拠は何か」と質問したが、回答はなかった。

 また、コメント欄にて他の参加者から「人数が多い教会では、コロナ禍前から、一部屋に全員が入らないため別室のモニターを見て礼拝会に参加する形式もあった。また、乳幼児がいるため母子室のモニターで礼拝会に参加するケースもあったが、それは身体性を損ねているのか」という的を得た質問も出た。これに対し、両氏は「いや、そんなことはない。別室モニターや母子室での参加は、物理的に集まっていることになる」と回答した。これは両氏の意見と矛盾する回答だ。もし矛盾しないとすれば、なぜオンラインでの集いは身体性を損ね、別室や母子室のモニターは身体性を損ねていないのか、その違いは何かを説明しなければならない。しかし、両氏はその点は言及しなかった。

 私は2人の回答を受け「どの程度離れていたら身体性を確保できるのか。その差は何か」と質問したが、両氏ともに「そういう細かい議論はしない」と、回答を拒否した。私からすれば、その「差」こそが今回の一番の論点であり、重要なポイントだと思うのだが、両氏にとっては違ったようである。

 おそらく「聖礼典」を除けば、この「身体性」というのは一番大きな論点なのだろうが、両氏の議論では何も明確にならなかった。1)人間が物理的な存在であることと、礼拝会を物理的に行うことの関連性  2)「身体性」を損ねるものと、損ねないものの「差」  3)「集まる」の定義と根拠  これらのポイントが両氏の主張に欠如しているため、全くのスカスカの議論になっていて、とどのつまり何も明確になっていないのだ。総じて「根拠が薄い」と感じた。

 

 また、他にも細い点だが、私が気になったツッコミポイントを挙げておこう。鎌野氏は「神が創った日曜日を大切に取り分ける必要がある」と論じた。しかし、神が創った「安息日」は金曜の日没から土曜の日没の「第7日目」であり、鎌野氏の意見は明確な間違いである。この点はコメントで指摘したが、鎌野氏は「土曜安息と日曜安息の話をするとキリがないからここでは論じません」と鼻で笑って質問をかわした。私は神学的にかなり重要なポイントであると感じたが、鎌野氏にとってはそうではなかったようだ。

 また、鎌野氏は「オンライン礼拝会を許容すると、信者が教会を選り好みし『礼拝会の商品化』が起こり、それは好ましくない。だからオンライン礼拝会は許容すべきでない」と論じていた。では、住んでいる地域にある教会の中から選ぶことは「商品化」ではないのだろうか。その場合「どこまでなら『住んでいる地域』」に入るのだろうか。その際に基準となるのは、距離か、往復の所要時間か。それに答えられなければ、「商品化」と主張するのは、やや拙速であると思う。私はコメント欄でこの点も質問したが、回答はなかった。また「商品化」がなぜ問題なのかも語られておらず、全体的に主張がやや薄いと感じた。

 大坂氏の主張で気になったのは「礼拝会には『没入感』が必要だ」という言葉だ。これは、上に挙げた主な論点には含めなかったのだが、イベント最後の「ぶっちゃけトーク」のところで大坂氏が挙げたポイントである。つまり氏の本音である。しかし、「なぜ没入感が大切か」を根拠を持って論じてはいなかったと思う。また、「没入できる環境」には個人差があり、ユニバーサルな「没入感」を生み出すのは不可能ではないかとも思う。神学的になぜ礼拝会に没入感が必要なのか、私も知りたいところである。

 

▼C:実践的な観点 〜現役牧者ゆえの力説〜

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 最後は、実践的な観点である。これは、歴史や神学をふまえて、現実的にどのようなメリットやデメリットがあるか、またどのような効果があるかというものである。両氏の主張には大きく2つのポイントがあり、1)リーチできる人の範囲(宣教的観点)と、2)交流の深度の問題(関わり・交わりの視点)である。

 リーチできる人の範囲の視点だが、この視点はむちゃくちゃ重要である。この視点ではオンライン礼拝会に賛成の意見が圧勝というか、ほぼ議論の余地はないだろう。両氏ともに「より多くの人に届く」という意味ではオンライン礼拝会に軍配を上げており、オンライン礼拝会に反対の立場のターンでも、この視点からの反論はなかった。

 実際、オンライン礼拝会は、住んでいる場所に限らず集まれるというのが最大の利点であるように思う。地方であっても、離島であっても、また国外であっても同じ集いに参加できる。足が不自由などの身体的な理由で物理的に会堂に集まるのが難しい人でも、オンラインなら集まりに参加できる。必要なのはインターネット環境と端末のみ。かなり広い門が開かれていると言えよう。

 一応、その利点に対するカウンターアーギュメント(反論)として「インターネット環境がない人の門が閉じられる」というものもある。両氏はあまりこの点には言及しなかったが、まぁ当然といえば当然で、オンライン礼拝会を行うからといって別に物理的な集まりを否定するわけではないから、インターネット環境がない人は物理的に集まれば良いというだけの話である。

 

 2つ目のポイントとしては、「交流の深度」が挙げられるだろう。これは鎌野氏が「オンライン礼拝会に賛成」の立場で挙げた「5」のポイントが当てはまる。

 オンライン礼拝会への反対意見として「交流ができない」というものがある。ぶっちゃけ言えば、これはオンライン礼拝会を単なる「配信」としか捉えていない誤解から生まれる愚問だ。確かに一方通行の配信であるならば、交流は基本的にはできない。コメント欄でも一部可能ではあるが、人間関係の構築の観点から、その深さが十分かは疑問に残るだろう。これもまたイベントの立て付けの問題点なのだが、「オンライン礼拝会」を語る際に、「配信」なのか、それとも双方向のやり取りが可能な「オンライン上の集まり」なのかによって全く議論が変わってくる。主催者には、「礼拝」と「オンライン礼拝会」の定義をしっかりした上でイベントを開催して欲しかったと思う。

 大坂氏、鎌野氏ともに、この点に関しては言及し、「双方向」の重要性を指摘した。その点は大きく評価したいと思う。特に鎌野氏は、「オンラインでこそ出せる本音がある」という本質を突いた主張を展開した。この点は大いに賛同できるところである。

 総じて、Cの「実践的な観点」については、さすが現役の牧師と言うべきか、両氏とも力のある議論を展開していた。両氏の主張にもおおむね賛同できた。実践的、現実的に考えればオンライン礼拝会を否定するということは、もはやできない。

 ひとつ注文を付けるのであれば、「神学バトル」と銘打っている以上、実践的な視点と神学的な視点を分けて論じた方がよかったのではないかと思う。やはりベースに聖書の言葉や神学があり、その上に実践があるのだから、主張の展開が神学ベースで始まり、そこから実践的なものに展開していく……といった方が、より説得力があったのではないかと思う。

 以上、3つのポイントに分けて両氏の主張に対して、私なりのツッコミを挙げた。総じて両氏の主張は納得できる部分はあったものの、1)根拠が弱い  2)理論が飛躍している  3)反論や質問に対して雄弁ではない  といった弱点があったと思う。

 

ディベートらしいところが見たかった

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 大坂氏の意見も、鎌野氏の意見も論点が整理された意味では良かった。しかし、個人的には物足りなかった。簡単に挙げただけでも、両氏の主張には根拠が弱く、論理が飛躍している点が多々あった。また、質問も多く挙がったが、結局のところ際どい質問に対しては玉虫色の回答が目立った。日曜日についての見解など、質問にそもそも答えない場面もあった。また、母子室のモニター問題のように、質問に対する回答が本来の主張の根幹を揺るがす矛盾も起きていた。しかし、それに対する質問や議論はほとんどなかった。

 何を言いたいのか。とどのつまり、ツッコミどころが多いのに放置されていたのだ。これが、私が面白いと思いながらも、スッキリしなかった理由なのだと思う。もう少し、こうしたツッコミどころに対する「再質問」が、パネラー対パネラーで、または司会者とパネラーの間でなされたら良かったと思う。「再質問」すなわち「カウンターアーギュメント」の不在が、このイベントを歪にしていたのだ。「神学バトル」と銘打って開催したディベートのイベントなのだから、もう少し「再質問とその回答」によるディベートらしいところが見たかった。「再質問がないために、前提や論理に問題がある主張が放置される」、これが違和感の正体だと私は思う。再質問があれば、玉虫色の回答は許されないし、参加者にも違和感が伝わる。その意味で、パネラーも司会者も、少し相手(もう一方のパネラー)に対して甘かったのではないかなと私は思う。

 パネラーは、もう少し質問に対して誠実になった方が良かったと思う。次回は質問に正面から答えていただけることを期待したい。

 イベント主催者には、2つ申し上げたい。1)議論の前に主たるテーマ(今回の場合は「礼拝・礼拝会」「オンライン礼拝会」)を根拠をもって定義すること  2)単なる「意見発表会」に終わらないよう、同じ議題について「再質問」が活発になされる環境作り  この2つをお願いしたい。

 パネラーには、1)質問に誠実に答えること  2)神学から実践へと論理を組み立てること  3)それぞれの意見の論理が飛躍しないよう注意し、根拠を明確に示すこと  を期待したい。

 そして……正直、両氏が挙げたポイントは論点整理の意味では良かったが、その中身は「まあそうだよね、そうなるよね」といった想像の域を出るものではなかった。「神学バトル!」と銘打ち、パネラーの経歴に「神学校教師/校長」などとあるから、さぞ深い議論が展開されるのかと思いきや、正直いうと裏切られた。論点はあまりにベーシックで、根拠は弱く、論理が飛躍しているといった感じで、ぶっちゃけ結構ガッカリしたというのが、まぁ本音である。失礼だからここまで書かなかったけど、やっぱり我慢できなかった。ごめんなさい。もっとワクワクする、私の想像できないような論点がたくさん出てくると思っていたが、期待しすぎてしまったようだ。

 

 

▼「オンライン礼拝会」に対する私の考え

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 最後に、「オンライン礼拝会」を私がどのように考えるかを短くまとめたい。正直、ほとんどの論点が既にブログに書いてあるので、過去記事を参照していただきたいが、短く簡単にまとめる。

 「礼拝」とは何か。礼拝とは神に自身をささげる「生き方」である。毎日が礼拝であり、人生そのものが礼拝なのだ。特定の曜日や場所に集まり、賛美の歌を歌ったり、祈り合ったり、聖書の言葉を読んだり、その解釈を聞いたりする集会は、単なる「礼拝会」であって、本質的な礼拝そのものではない。

 教会の共同体として、物理的かオンラインか手法に関わらず「集まる」のは重要である。この際、「集まり」を「2人以上の人間が人間関係を構築する場」と定義する。1人では「集まり」にはならない。また、数千人、数万人が物理的に同時刻に同じ場所に存在しても、それは聖書の言う「集まり」にはならない。なぜなら「集まり」を議論する際に、まず引用されるヘブル人の手紙10章25節の目的は、「励まし」であるからだ。人間関係がなければ「励まし」も、その前段の「愛と善行を促すために、互いに注意を払おう」ということはできない。イエスの教えである「互いに愛し合う」も実践できない。「互いに」が発生する場、つまり人間関係が生まれる場こそが、教会の共同体の「集まり」であると私は定義する。また「2人以上」というのは、これ以外にマタイの福音書18章のイエスの言葉が根拠となっている。

 この前提のもと「オンライン礼拝会」は「インターネット環境において、人間関係の構築が可能な双方向のやり取りが可能で、2人以上が集まる場」と定義できると思う。だから、私はYouTubeなどでの一方的な録画配信は「オンライン礼拝会」だとは思わない。それは、ただの「動画視聴」だ。コメント欄やチャットでのやり取りはどうか、これはグレーゾーンで、さらなる議論が必要だと思うが、私は「人間関係が構築される」という点で「礼拝会」「集い」に該当すると思う。

 

 では「オンライン礼拝会の是非」はどうかと問われれば、答えはもちろん「是」だ。

 まず神学的な観点だが、以上の「礼拝」「集い」「オンライン礼拝会」の定義をふまえると、その是非は「オンラインでも人間関係は構築できるか否か」という問いの回答次第となる。「オンライン礼拝会」の定義は、「インターネット環境において、人間関係が築ける双方向のやり取りが可能で、2人以上が集まる場」なのだから、オンライン環境で「人間関係の構築ができる双方向のやり取り」が実現可能であれば「是」、実現不可能または可能であっても著しく趣旨を損なうというのであれば「非」となる。答えはもちろん「是」である。これを「非」と言ってしまうと、そもそもオンラインでのディベートイベントが成り立たない。オンラインでも、zoomなど対面で相手の顔も分かり、名前も分かり、お互いに声を交わし、やりとりができる。これを「人間関係の構築」と言わずに、何が人間関係の構築なのだろうか。

 鎌野氏、大坂氏は「身体的」という専門用語を用いて、あたかも物理的に集まらなければ「礼拝会」ではないというように論じた。これはぶっちゃけトークで両氏がそう言っていたので、彼らの本音である。

 では、どんな環境でも、物理的に同じ場所にいれば「身体性を損なわない」のだろうか。例えば、例えば2人の別々の人間が東京ドームに同時刻に存在しているとする。一人は南側に、もうひとりは北側にいたとする。それぞれは反対側の席に座っている人の顔も、名前も知らない。言葉も交わさず、顔も名前も知らず、ただ同じ場所に来て、同じイベントを体験し、家に帰る。果たしてそれで「集まり」「礼拝」と言えるのだろうか。それは「身体性」を損なわないのだろうか。極端な例のように聞こえるが、現にアメリカや韓国などの超大規模な教会、いわゆる「メガチャーチ」では同様のことが起こっている。

 いや、せいぜい出席者が多くても50名から100名ほどの日本の教会の礼拝会でさえ、毎週顔は合わせるが、相手の名前も名字ぐらいしか知らない。どんな人で、どんな性格やキャラで、どんな人生を歩んで、どんなことで悩んで、どんな祈り課題があって……などを全く知らずに、ただ日曜日に同じ教会の礼拝会に出席して、家に帰る。そんな関係性の人が多いのではないだろうか。それは果たして「身体性」を損なっていないのだろうか。

 カギはやはり「物理的に同じ場所にいる」というところではなく、「人間関係を築けるかどうか」だと思う。エスは「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカの福音書17章21節)と言った。2人でも3人でもイエスの名のもとに集まるところに、イエスはいるのである(マタイの福音書18章20節)。これらの言葉を根拠に、私はやはり「礼拝会のミソは人間関係が築けるか否か」にあると思う。物理的に同じ場所にいることではなく、お互いに関係を築けるかが是非を分けるのだ。

 そう考えると、「オンライン礼拝会」は「アリよりのアリ」だ。むしろ、zoomのブレークアウトセッションなどを使えば、普段全く教会の会堂では話さないような人とも話すことになり、関係性がより広く、深くなる。オンラインで開かれる関係性もある。オンライン礼拝会は神学的にも、多いにメリットがある。

 

 歴史的な観点は、私はあまり興味はないのだが、あえて一言だけ触れたい。大坂氏はこの点で良い指摘をしたと思う。ただし、「歴史的に教会がテクノロジーを使っていたから、今も使うべき」というのはやや拙速な論理かもしれない。テクノロジーは、果たして「礼拝会」にとって良い結果をもたらしたか。オンライン礼拝会の形態は、同じように良い結果をもたらしうるのか。この検証が必要である。

 実際、テクノロジーの発展は、良い結果をもたらしている。パウロは大船を使ったから、より多くの地域に宣教に回ることが出来た。グーテンベルク活版印刷があったから、聖書が一般庶民の手に届くようになった。航海技術が発達したから、日本をはじめとしたイスラエルから遠い地域にも福音が届くようになった。音楽の機材が開発されたから、より多くの人で同時に賛美の歌が歌えるようになった。言語の研究が進んだから、聖書翻訳が進んだ。インターネットが出来て、世界中の教会の活動が見えるようになり、聖書の解釈についての講話(説教)も閲覧できるようになった。聖書のデータベースのウェブサイトが出来たおかげで、誰でもヘブライ語ギリシャ語の意味を調べられるようになった……。上げればキリがないが、実際にテクノロジーや技術、研究の発展が、聖書の研究を深め、礼拝会の内容を充実させ、福音が広がるキッカケとなっているのである。

 歴史的には良い結果をもたらした。では、オンライン礼拝会の想定される形態では、同じ結果は出るのだろうか。これだけでひとつの記事が書けそうだが、結論として私は是だと思う。

 一番はやはり、礼拝会を形作る「人間関係の構築」が、オンラインの技術によって、より自由な形で可能になった点だろう。この後に挙げる「リーチする範囲」(宣教的な観点)においても良い結果をもたらすのは確実だ。

 また、聖書の言葉の理解を深めるという意味でも、オンラインならばより洞察の深い対話ができる集まりを居住地に縛られずに探せる。鎌野氏は「商品化」と批判したが、私はその批判は的外れだと思う。住んでいる地域で集える範囲内の教会の中から、集う教会を選ぶのは氏の言う「商品化」ではないのか。そして「地域」に縛られるのは「是」とするならば、人口の多い東京に教会をオープンするのは「商品化」ではないのだろうか。地域に縛られるのであれば、自宅から一番近い教会に集うのは「是」で、それ以外は「非」なのだろうか。往復30分以内はOKで、それ以上は「商品化」なのだろうか……様々な疑問がわいてくる。

 神をもっと知りたいと望む以上、より深い関係が築ける集まりを探すのは当然ではないか。「商品化」という批判は、自分たちの教会に人が来なくなってしまうという不安からくる教会組織や牧会者の恐れや怠慢から来るものであろう。オンライン礼拝会によって、より良いコミュニティに集うことが可能になる。その扉が開かれたと、私は感じている。総じて、インターネットというテクノロジーを使う意義は大きい。神学的にも問題はないどころか、むしろ利点が大きい。

 ……ここまで考えて、初めて「歴史的な観点」の考察・検証が意味をなすのではないかと、私は思う。

 

 最後に、「リーチできる人の範囲」をはじめとした「実践的観点」(宣教的観点)だが、これはもう言わずもがな、オンライン礼拝会に大きく分がある。オンラインであれば、インターネット環境さえあれば離島をはじめとした過疎地域の人でも、都市部と変わらない礼拝会ができる。地方の人に礼拝会が届く可能性が広がる。足が不自由など様々な事情で外出できない人も、参加できる。参加できる人の幅が広がる。転勤などで引っ越しをしても、なじみのある人間関係の中での礼拝会を継続できる。

 「届く範囲」以外の利点も、数多くある。会堂までの行き来の時間の短縮になる。オンラインだとスライドやビデオの共有が簡単。ブレークアウトセッションなどの機能を使えば、少人数のグループ対話が容易に実現可能。会堂など同じ場所でこれをやると、ガヤガヤして集中できないが、オンラインなら静かな環境で集中して少人数グループの話し合いができる。多くの教会で多大なコストをかけている「会堂」の維持費用が、オンラインではほぼほぼ不要。これは大きい。コロナ禍のようなパンデミックでも通常営業ができる。パジャマでも気兼ねなく参加が可能。お風呂に入っていなくても参加が可能。会堂では全員、頭しか見えないがオンラインでは表情が見える。人数が多くても平等な環境で参加できる。物理的な会場では、話者が見えないなどの状況が発生しうるが、オンラインだとそれはない。乳幼児がいても、まわりに気を使わずに参加できる。などなど……実践的なメリットは数多くある。

 これらのメリットを打ち消すデメリットがあるかだが、大きなものでいえば「実際に触れ合えない」といった部分だろう。物理的に「同じ釜の飯を食う」ができないのも大きい。また、音楽を一斉にワンボイスで歌うことが難しいという課題もある。話者としては、ミュートやビデオオフの状態だと、聞き手のリアクションが見えづらくて不安。写真撮影で毎回全く同じ画角になってしまう……などが挙げられる。ただ、どれも副産物的なもので、今後技術の発展次第では解決しうるだろう。また、実際に物理的に会堂に集まったからといって、「触れ合う」か? 「同じ釜の飯を食う」か? と考えると、ぶっちゃけ物理的に集まってもしていないことも多いのではないだろうか。

 そして、どのデメリットも、だからといって「オンライン礼拝会はやっぱりダメだ」という結論に至るほどではない。やはり、オンライン礼拝会はデメリットよりも、メリットがはるかに大きいと感じる。また、神学的にも、歴史的にも妨げるものはない。よって、オンライン礼拝会は完全にアリだと、私は結論づける。

 

 以上、私の意見を簡単にまとめた。これはあくまで私の個人的な意見だし、「ツッコミどころ」も多いと思う。ツッコミ大歓迎だ。ぜひ、相互的なやり取りが可能なコメント欄に、異論、反論、疑問、質問があれば書いてほしい。そして、私の知らない視点や知識、情報を共有してほしい。私は、必ずコメントを返そう。神を知るために、徹底的に議論する。互いに教え合う。それこそが、礼拝会の真髄だと、私は思う。

 

 次回のディベート「オンライン教会の是非」。こちらも楽しみだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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