週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】神の「コーリング」を受け取る5つのポイント

神の「コーリング」はどうやって受け取り、見分ければよいのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」は誰にでもある

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 神の「コーリン」とは、神が人間に対して「生きる目的」や「役割」、神が定めている「計画」などを知らせる「神のお告げ」のようなものである。クリスチャンたちは、神の「コーリング」に従い、神の計画のとおりに歩み、生きたいと願う。コーリングは、究極的には「神を信じること」によって、「神の子ども」となる呼びかけである。私個人の考えでは、神の「コーリング」は誰にでもあるが、それが「どこで、どのタイミングで、どんな仕事をするか」など、超個別具体的なものとは限らないと思う。そしてそれが、超自然的な形で奇跡のように示されるとも限らないと思う。詳しくは前回の記事を参照していただきたい。

 とあるアメリカの牧師が、こんなことを言っていた。「神のコーリングは、カーナビのようなものだ」と。カーナビは、正しい道を直進している時は、何も語らない。しかし、方向転換する時や、道を間違えてUターンすべき時などにアナウンスが入る。それと同じように、神もまた、人間が神の計画どおりに歩んでいる時は沈黙を保つかもしれないというのだ。なるほど、いつも「神の計画」が具体的に示され続けるとは限らない。むしろ、正しい道を歩んでいる時は、神は沈黙を保つ・・・という説は、一理ある。

 また、ある別のクリスチャンがこう語っているのを聞いたことがある。「神の計画は平均台のようなものではなく、広い道のようなものだ」と。神の計画は、いつ、どこで、何を、どうやってやるかという細かく、超具体的に人間を縛るものではない。または、その道を一歩でも踏み外せば、奈落の底に落ちてしまうようなものではない。むしろ、どこで何をしていようとも、神に信頼し、神に従う心持ちで進めば、おのずと神の計画が達成されるというような、「広い道」である・・・という意見だ。クリスチャンの人生と神の計画の関係は、大仏の手のひらで踊っている孫悟空のようなのかもしれない。

 

 さて、以上をふまえて、私の「コーリング」についての意見をまとめる。

1:コーリングは神が、何らかの形で人間に神の計画を示すものである

2:コーリングは、常に明確で具体的な形で示されるとは限らない

3:コーリングは、いつも示され続けるとは限らない

4:コーリングは、誰にでも超自然的な奇跡を伴って示されるとは限らない

5:しかし、コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性はある

 

 コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性がある。私はそう信じる。では、一体コーリングはどんな形で感じるものなのだろうか。どうやって真偽を見極めたら良いのだろうか。今回は、簡単に5つのポイントに絞って「コーリングの受け取り方」をまとめたいと思う。

 

 

▼何よりも「聖霊の導き」が大切

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 はじめに断っておくが、これから述べる5つのポイントが全てではない。人それぞれの受け取り方があるだろう。また、5つ全てが合致しなければならないというものでもない。1つのポイントだけ強烈に語られる場合もあるだろうし、5つ全てがそれぞれ小さな形で示されるケースもある。大切なのは、それぞれのバランスを見ながら、「心の動機」を見極め、神に祈り、神の計画のとおりに生きたいと願う姿勢である。

 「みこころ」(神の思い)だと思う場合、たいていは「おこころ」(自分の思い)であるケースが多いので、注意が必要だ。特に、人生を左右する大きな決断は慎重にすべきである。今ある想いが、神の計画、いわゆる「みこころ」かどうかを判断する秘訣は、以前、記事を書いたので参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 一番大切なのは、「聖霊の導き」である。聖霊の導きは、これから述べる5つのポイント全てに渡って大切な要素だ。人間としてのイエスは、今は私たち人間と共にはいない。しかし、イエスが「聖霊」を、助け主として私たち人間に与えているのである。イエスはこう言っている。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書 14章26節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章13~15節)

 

 聖霊は、神の力の現れであり、また神ご自身だとクリスチャンは信じる。「聖霊」は信じている者に神について教え、神の計画を知らせ、神と共に歩めるように導いてくださる力である。その神の霊が、イエスの時代以降、クリスチャンに、そしてクリスチャンの集まりである教会の共同体に与えられている。その聖霊が、クリスチャンに神ご自身について教え、導き、また何を言うかさえ伝えるのだと聖書は書いている。

 そのほか、聖霊について聖書が何と書いているか見てみよう。

聖霊は何を話すか教える>

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

(マルコの福音書 13章11節)

 

聖霊は神を知るための知恵である>

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

(エペソ人への手紙 1章17節)

 

聖霊は神の深みさえも探り、啓示する>

神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

(コリント人への手紙第一 2章10節)

 

聖霊は人間に祈りを教え、また人間のために祈る>

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです

(ローマ人への手紙 8章26~27節)

 

 だからこそ、聖霊による導きは、コーリングを受け取る上で、何よりも重要である。聖霊が大前提である。これから述べる5つのポイントは、全て聖霊の導きを求めつつ実行するものだと覚えてもらいたい。神に祈り、聖霊の導きを求めた上で、5つのポイントに入っていきたい。

 

 

▼1:志があるかどうか(心の動機)

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 まずひとつ目のポイントは、「」である。やりたいという意志があるかどうか。それがまず、「これが神の導きかどうか」見極めるポイントである。聖書にはこう書いてある。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

(ピリピ人への手紙 2章13節)

 

 何か行動を起こす時に、「志」がなくては始められない。新しいミニストリーを始めるにしろ、事業を起こすにしろ、牧師としての働きを始めるにしろ、宣教師の団体にアプライするにしろ、転職するにしろ、結婚するにしろ、傘を持っていこうかどうか決めるにしろ、きのこの里かたけのこの里か決めるにしろ、まずは「志があるかどうか」というのが大前提である。

 志、というと自分勝手に聞こえる可能性があるが、もちろんその中には、いわゆる「聖霊の導き」も含まれる。聖霊の導き」を求めて祈りつつ、与えられた志に従って決断していけば、一定の方向性は見えてくるだろう。「志・意志」、つまり、何をしたいか、何に情熱を抱くか、何が得意か、何がやりたいコトなのかを吟味すれば、おのずと「コーリング」が聞こえてくるかもしれない。

 「やりたい」という意志が、教会の共同体の管理者になる大前提の条件でもある。聖書には「監督者」の条件として以下のように書いてある。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである」ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

(テモテへの手紙第一 3章1~7節)

 

 「監督」としての条件が様々書いてあるが、その前に、「監督の職に就きたいと思うなら・・・」との記述がある。これは「やりたい」という「意志」が大前提だという意味ではないかどんなに能力があっても、やりたいという意志がなければ始まらないのだ。

 

 私自身は、この「やりたいこと」に素直になる姿勢も、クリスチャンには必要だと思う。一部のクリスチャンたちは、やりたいことに忠実に突き進むのを「悪いこと」だと決めつけている傾向にあるのではないか。自分のパッションに素直になるのは、そんなに悪いのだろうか。否。その熱い思いは、神が与えた可能性もあるのだ。考えなしに突っ込むのも危険だが、よく吟味し、慎重になり、聖霊の導きを祈った上で湧き上がってくる「志」は、神が与える「コーリング」だと考えていいのではないだろうか。

 

 また、やりたいという「意志」に加え、「情熱」も重要である。志があっても、情熱が伴わなかったり(2つは似ているようで異なる)、好きになれなかったり、楽しめなかったりしたら、もしかすると違う道を模索した方が良いのかもしれない。

 「才能」も同じように重要である。クリスチャン用語では「賜物」と言ったりもする。歌がうまくなければ歌手にはなれない。文才がなければ作家にはなれない。外国語ができなければ通訳にはなれないし、背が高くなければバレーボール選手にはなれない。もちろん例外はあるし、神は不可能を可能にする方である。また、今現在できないことも、練習したり才能を磨けばできるようになるかもしれない。才能だけで見切ってしまうのも良くない。しかし、全く才能がないのに非現実的な夢を抱き続けるのも問題である。

 才能がないのにも関わらず、やり続ける行為は、他の人に迷惑をかける場合もある。例えば、いわゆる「説教」がクソ下手くそなくせに、長々と語る牧師が多すぎる。信者にとっては我慢しなければいけない退屈な時間で、拷問以外の何物でもない。先に挙げた聖書の言葉にも、「教える能力があり」という条件がある。教える能力がない場合は、「説教」は能力のある人に任せ、自分は他の役割を模索したらどうか。「牧者」の役割は、何も「説教」だけではない(むしろ説教ではない・・・)のだから。

 もちろん、モーセやギデオンのように、元々「口下手」だったり「臆病な者」が民を導くリーダーになるケースもある。自分が得意でないこと、情熱を抱いていないことが、神の「コーリング」である可能性もある。だから、「志」だけで決めつけず、様々なポイントで吟味する必要がある。他のポイントを見ていこう。

 

 

▼2:聖書の言葉と合致しているか

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 聖書の言葉、聖書の価値観は、「コーリング」を受け取る際に重要な判断材料となる。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3章15~16節)

 

 聖書は神について、イエスについて教え、戒め、矯正し、義の訓練のために役立つ。聖書を読むと、自分の心に響く言葉に出会う。一度読んで最初は何も感じなかったとしても、時によって人生を変えるような衝撃になる場合もある。

 クリスチャンは、多かれ少なかれ、聖書の言葉に感動し、突き動かされたという経験があるだろう。私は、個人的に聖書を読んで感動し、人生の方向性が変わった体験を何度もしている。イエスを信じたキッカケも、聖書の言葉だった。宣教師団体に就職しようとインターンをした際も、1日に3度聖書の言葉に感銘を受け、人生の計画を白紙に戻した。その結果、今は民間企業で働いている。詳細は後日ブログに書こうとも思う。

 聖書は人生のマニュアル本ではない。占いの答えが書いてある本でもない。一部だけを切り取り、適用するのは危険である。全体の文脈、聖書全体の価値観と合致しているか注意しながら、聖書の言葉を解釈する必要がある。極論だが、旧約聖書で神がイスラエルの民に「敵の民族を滅ぼせ」と命じている部分をとって、「クリスチャン以外を殺そう」という発想になるのは避けなければいけない。バカみたいだが、それと同じレベルの曲解が、個人、または地域教会のレベルで実際に起こっている。

 しかし、聖書の言葉を自分のために「利用」するのではなく、聖書の言葉から神のメッセージを汲み取ろうとする動機で読めば、必ずや良い教訓を得られるだろう。聖書は、イエスの言葉や生き様を綴っている。他の登場人物の模範、反面教師的な教訓、旧約聖書の律法、歴史、詩、預言、使徒たちの生き様や手紙などから様々な学びを得られる。教訓がある。インスピレーションがある。人生を変えるような衝撃がある。

 聖書を読んでいると、同じ場所でも気になる部分が変わってくる。ある時は愛についての記述が目につくようになる。ある時は赦しについての記述が。ある時は恵みが。ある時は悔い改めが。ある時は罪が示され、ある時は勇気が与えられる。ある時は奉仕へと突き動かされ、ある時は静まりへと招き入れられる。人それぞれ、その時々に、異なったメッセージを語る。それが聖書という書物である。

 大切なのは、日々、毎日毎日聖書を読み、神からのメッセージを受け取ろうという姿勢ではないか。日々聖書の言葉を観察し続ければ、何か人生についての発見がある。それが神からの「コーリング」の一部であると思う。

 また、聖書の言葉は自分の思いを「見分ける」ために役立つ。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4章12節)

 

 聖書の言葉そのものが、自分の「心の動機」を見分ける剣となるのだ。

 

 

▼3:周辺の助言を受け入れられるか

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 以前「みこころ」についての記事でも書いたが、自分が果たして神の計画通りに歩んでいるだろうかと判断する際に、「周辺の助言」に耳を傾ける姿勢が大切である。預言者モーセは、外国人であるしゅうとのイテロの助言を素直に受け入れた。一方で、ユダの王であったウジヤは、祭司たちの助言を無視し、資格がないにも関わらず自らいけにえを献げようとして、神の怒りをかった。

 人間が戒めの助言を受けて怒ってしまうのは、たいてい図星だからである。自分でも心のどこかで悪いと分かっているのに、その事実を他人に突きつけられると、プライドが発揮し、怒ってしまうのだ。周辺の助言を素直に受け入れ、吟味できるかどうかで、ある程度自分の「思い」が「コーリング」なのかどうか判断できるだろう。

 「これはコーリングかもしれない」という思いが湧いてきたら、自分の信頼する複数の人にアドバイスを求めるというのが、私の個人的なオススメだ。カギは、1人だけではなく、複数に聞くという点だ。1人だけではなく、複数に意見を求めれば、おのずとバランスのとれたアドバイスが得られるだろう。

 ただ、他人の意見はあくまでも他人の意見である。それによって、必要以上に「やっぱり正しかったんだ!」と歓喜したり、逆に「やっぱり違ったんだ」と落胆してしまうのは良くない。あくまでも、自分にはない視点を求めるためのアドバイスである。他人の言葉の奴隷になる必要はない。一番大切なのは、人の言葉よりも神の言葉なので、周辺に意見を聞いた上で、神に祈り決めるべきである。

 一方で、聖書には間違った人のアドバイスに従った結果失敗してしまったケースも多々書かれている。ソロモンの息子、レハブアムがその最たる例だろう。彼は自分の取り巻きの若者の意見を重んじ、重税に苦しむ民にさらに重税をかけてしまった。長老たちは、税を軽くするよう助言したが、レハブアムは聞く耳を持たなかった。その結果、内乱が起きて、国が2つに分裂してしまうのであった(列王記第一12章など参照)。

 ここから得られる教訓は、愚かなアドバイスに従うと、悪い結果を招くという当たり前の話である。私は、このような間違いが起こる原因・パターンは2つあると思う。

 ひとつは、「間違った心の動機」である。冷静な判断力のもと、純粋にアドバイスを求めているのであれば、重税に重税を重ねる愚かな施策は打たなかったであろう。しかし、自分にとって都合のいいアドバイスを得たがために、「彼らの助言があったから」と自分に言い訳をして、愚かな行動をとったとは考えられないだろうか。

 これは他人事ではない。同じように「あの人だってこう言っていたから」という言い訳を、自分自身にしていないだろうか。人間、ある程度の判断力はあるので、自らの判断で愚かな行動を取ってしまうケースは稀だろう。しかし、誰か他の人が助言したからという「言い訳」を獲得すると、途端に愚かな道に歩みだす。それが人間の弱さである。

 エバの失敗は何だったか。蛇に耳を貸したからではないか。アダムの失敗は何だったか。エバに耳を貸したからではないか。しかし、どちらも「心の動機」では自分がずっとやりたいと思っていた行為だったのではないか。「やりたい、でも悪い行為だと分かっている」というものを、何か自分ではない他の人の発言によって「正当化」していないだろうか。誰か他の人のせいにしても、自分の行動の結果を刈り取るのは、結局自分自身なのだ。

 

 もうひとつは、アドバイスを求める前から結論が決まっているパターンである。このような人たちは、アドバイスの中身を求めていない。彼らは、アドバイスに決して耳を傾けない。自分の結論に自信がないため、自分と同じ意見を探しているだけなのだ。こういう人たちは、自分と同じ意見で自分を肯定してくれる人に出会うまで、ずっと意見を聞きまくる。こういう場合は、大抵うまくいかない。

 やはり、周辺の意見を聞く際は、以下のポイントが重要になってくる。

1:複数の信頼できる人に意見を聞く

2:意見の中身はあくまで判断材料として吟味する。その意見に縛られる必要はない

3:予め自分の中で結論が出ていないか、人のアドバイスを言い訳にしていないか「心の動機」を吟味する

4:その上で、神に祈り、決断する

 

 ただ、聖書には親族、家族が「気が狂った」と思い、連れ戻しに来たにも関わらず、聞く耳を持たずに活動を続けたイエスという人の記述もある。周辺も何か別の意図を持っていたり、間違ったアドバイスをする可能性があるので、あくまで「吟味するための一要素」と考えたらいいと思う。

 

 

▼4:イエスの模範と合致しているか

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 4つ目は、少し気が付かない視点かもしれない。「エスの模範」という視点である。英語で「What would Jesus do?」(イエスならばどうするか)という表現を、聞いた経験のある人もいるだろう。

 クリスチャンはエスの生き様に注目すべきだ。彼がどのように生きて、何に注目し、何を語り、教えたのかを考える必要がある。イエスの姿を思い浮かべて、2000年後の自分の人生に当てはめ、自分はどのように生きたらいいのか考える。その思考の先に神の「コーリング」はある。

 イエスはたびたび、自分を「模範」として語っている。イエスの生き様を見て、クリスチャンはどのように生きるのか学ぶのである。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

ヨハネ福音書 13章15節)

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

(ペテロの手紙第一 2章20~24節)

 

 イエスは、当時の曲がってしまっていた宗教的考えにパラダイム・シフトを与えた。旧約聖書の律法を間違って適用し、本当に大事な心の問題をなおざりにしていた。弱い人を助けるはずの律法を用いて、弱い人を差別し、虐げ、軽んじていた。そんな社会の中で、イエスは弱い人、社会的に見捨てられている人、罪人だと蔑まれた人、病気の人、外国人、女性、障害がある人、気が狂ったと恐れられた人などに寄り添った。そのようなイエスの姿勢から学ぶ生き方があるのではないか。

 また、イエスは当時の宗教的指導者たちと論争した。彼の語り方は、「権威ある者のよう」だったと書いてある。当時の宗教指導者たちは、自分たちの知識をひけらかすような語り方で、民衆もうんざりしていたのであろう。イエスの語り方は、他の指導者たちとは違った。彼は当時の凝り固まった文化を否定し、常に聖書の記述を用いて民を諭した。

 エスは、人からの栄誉を求めなかった。世間から見捨てられた人に寄り添った。イエスは本質から逸れてしまった伝統や言い伝えを否定した。イエスは山奥で1人で祈り、いつも神と共に歩んだ。イエスが語る言葉は、すべて天の神が伝えた通りの言葉であった。

 自分の人生の道に悩んだ時、「自分のコーリングは何なのだろう」と迷った時、イエスがどのように生きたか思い巡らしてみよう。エスならばどうするか。その思考が、現状を打破するための一歩なのかもしれない。

 

 

▼5:状況はそれを許しているか

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 最後のポイントは「状況」である。これは、意外と重要な要素である。例えば、私がアメリカで出会ったアメリカ人の牧師はこんな体験談を語っていた。彼は、ずっとアジアに関心があった。中国に宣教師として行きたいと願い、聖書学校に入り、学んだ。中国語も勉強した。宣教師になるための訓練を受け、いよいよ中国に派遣されると決まった。その時に、中国で毛沢東政権による文化大革命が起こった。宣教師は中国に入れなくなってしまった。「状況」が、彼が目指していた「中国に宣教師として行く」という夢を閉ざしてしまったのだ。

 しかし、今振り返ってみると、彼は自分の人生に満足しているという。彼は、そのまま地元イリノイ州に戻り、地域教会の牧師として働いた。彼は教会で、アジアへの宣教の重要性を語り、教会のメンバーに大きな影響を与えた。彼自身は宣教師として中国には行けなかったが、未来の宣教師のたまごを育てたのであった。

 このように、「状況」によって道が閉ざすというケースはいくらでもあると思う。ビザがおりない。支援金が打ち切られる。大病を患う。大怪我をする。うまくいきそうな商談が突如破断になる。破産する。スキャンダルが出る。訴訟が起こされる。情熱を失う。火事で家を失う。家族にトラブルが起こる・・・等々。それは一見悲しい出来事であり、時になぜそういった問題が起こるのか分からないときもある。

 しかし、神は全世界の全てを知り、治め、思いの通り実現されるお方である。人間にとっては、到底理解できないところまで、神は知っている方である。人間に理解できなくとも、何らかの理由で神が許しているトラブル・不幸がある。理由は分からない。しかし、必ずや意味がある。聖書の「ヨブ記」は、現代の私たちにふりかかる不幸への慰めの書物でもある。

 信仰と無謀を履き違えてはいけない。一部の教会では、「無理をすることが信仰だ」といった間違った価値観が流布しているように思う。無理をするのは信仰ではない。実際、聖書にも「神が共におられないのにも関わらず、カナン人と無理に戦い、イスラエルの民は惨敗する」というエピソードもある(民数記14章参照)。神が明確なGOサインを出した場合は、勇気を持って踏み出せばいい。しかし、本当に神が示しているのか曖昧なまま、状況も整っていないのに突き進むのは「信仰」ではなく、「無謀」という。

 韓国の某教会は、2007年に無理やり渡航禁止になっているアフガニスタンに突進した。その結果、牧師がテロリストによって惨殺されるという事件が起こり、社会問題となった。彼らは「神の導き」だと主張したが、それならば、なぜ現地の言葉や、宗教言語のアラビア語を勉強しなかったのか。なぜ、イスラム教について学ぼうとしなかったのか。理解に苦しむ。政府はアフガニスタンへの渡航を禁止していて、「状況」もそれには見合っていなかった。結局、その事件はキリスト教全体への批判を招いてしまったのであった。

 「状況」は、現状から一歩踏み出そうとする時の、最後の判断材料になる。思いや情熱があり、聖書の言葉による動機もあり、周囲からの後押しや修正があり、イエスの模範に照らし合わせて、なおその道に突き進もうという時に、最後に「状況はどうか」と確認する必要がある。もちろんこれら全てを、聖霊の導きに従い、神に祈った上で行動するのが重要だ。これら全てを、バランスよく見つつ検討して、「コーリング」を見極める必要がある。

 

 

▼まとめ:方向転換したっていい

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 前回の記事でも述べたが、クリスチャンは「コーリング」にこだわりすぎる傾向がある。しかも、その「コーリング」が個別具体的な「細い道」だと勘違いしている。否、神の計画は、もっと大きな壮大な「広い道」ではないか。私たち小さな人間が、何をしようとも、自分の力ではどうにもできない。ただこれだけは言える。心が神に向いていて、神の計画の道を歩みたいと願い、神と共に生きたいと願うのであれば、おのずとその生き様が神の計画となるのではないか。私はそう思う。

 また、クリスチャンの中には、「一度この道に進んだのだから、もはや引き返せない」と悩む人もいると聞く。そうではない。神が定めた人生の道、可能性は一本道ではないと、私は思う。もし突き進んで、「違う」と思ったら、引き返したっていい。方向転換したっていい。違う道に行ったっていい。それは恥ずかしい生き方ではない。日本人はとかく「一筋信仰」の傾向が強い。しかし、聖書は一言もそんなことは言っていない。モーセは40歳でエジプトを追われ、80歳でようやく神からの使命を受け取った。ただ、モーセは神と共に生きた。神を見続け、神と共に生き続ける覚悟だけは、「一筋」である必要がある。

 結局のところ、神の「コーリング」はシンプルなのだ。

そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」

(マタイの福音書 22章35~40節)

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ福音書 13章34節)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4章2節)

 

 いつでも、どこでも、どんな時でも神を愛し、神と共に生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもイエスを宣べ伝える。いつでも、どこでも、どんな時でも聖霊の導きに従って生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもそばにいる人を愛する。これが、神の「コーリング」である。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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