週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンになったら全てがハッピーなのか? ~ヘブル12章「成長のらせん階段」セオリー~

クリスチャンになったら人生全て上手くいってハッピー? そんなわけ!

 

 

▼全てがハッピー・ハッピー?

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 私がイエスを信じたばかりの16歳の頃、こんな賛美の歌を知った。

 

"Jesus(イエス)あなたと出会えた日から、

 全てがハッピー・ハッピー!"

  その軽快なリズムや曲調が好みで、よく歌っていたのだが、その歌詞に少しばかり違和感があった。それは、「イエスを信じたら、その後の人生は全てうまくいくのか?」という疑問である。

 そんなわけない、という答えは最初から分かっていた。聖書を読めば明らかである。イエスの弟子たちは、ヨハネ以外、軒並み殺された。パウロはいつも命を狙われ、何度もむち打ちの刑を受け、貧しい人生を送った。旧約聖書のヨブの例もある。彼は神を堅く信じる敬虔な人だったが、理由なしに大病を患うことになり、子どもが全員死に、おまけに全財産を失うといった壮絶な人生を送るハメになった。ヨブは最終的には報われたのだが、その苦しみが消えるわけではない。

 極めつけは、この聖書の言葉だ。

 

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 新改訳聖書第3版では「信仰だけでなく、苦しみをも賜った」とある。驚くべきことに、聖書は「信仰だけではなく、苦しみさえも神からのプレゼントだ」と言っているのだ。

 

 聖書の様々な人物モデルや、このような記述から、「クリスチャンになったら全てが上手く行ってハッピー・ハッピー」なのではなく、むしろ「クリスチャンになったら苦しむ」のだと分かる。えっ、神を信じたら、苦しむ? 神はなぜそんな仕打ちをするのだろう。当然の疑問である。

 私も、かつて同じ疑問から抜け出せなかった時期があった。しかし、ある聖書の言葉と出会い、自分なりの回答を得た。それは、ヘブル人への手紙12章の記述である。今回は、その記述をもとに、私の生きる糧となった、「苦しみと成長のらせん階段」について書く。

 

 

▼ポイント1:試練を乗り越える秘訣

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 まずヘブル12章の冒頭部分を見ていこう。この部分は、人生の中で直面する試練を、どうやって乗り越えていけばいいのか。その秘訣が書いてある。(ヘブル11章は旧約聖書の人物モデルを挙げ、「昔の人々は神の約束を信じた」というアプローチから、「信仰の大切さ」について語っている。その文脈からの12章である。)

 

1:こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2:信仰の創始者であり、完成者であるエスから、目を話さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

3:あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方(すなわち、イエス)のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙 12章1〜3節)

 

 人生の中の困難に対して、どのように向き合うべきか。その答えがここに凝縮されている。「イエスから目を離さず、イエスのことを考え続ける」。これこそが、試練を乗り越える秘訣なのである。

 イエスは、自分自身は何も落ち度がないのに、十字架で死ぬことを選んだ。不完全な私たちの「身代わり」として死んだ。それを自発的に選んだのである。イギリスの聖書学者、リチャード・ボウカムは、イエスが十字架の上で、麻酔薬である「没薬(もつやく)をまぜたぶどう酒」の受け取りを拒否した事実を指摘し、こう述べている。

 

このようにイエスは社会の最も悲惨な人々、その悲惨が耐え難い人々と自らをひとつにされた。同時にその飲み物(没薬をまぜたぶどう酒)を断ることで、エスは単に彼らの一員ではなく、環境による無力な犠牲者ではなく、自発的に彼らの苦しみを共有し、明確な意識を持って、彼らにとって耐え難いことを、彼らのために耐えられた。このようにイエスは王であり、無力な人々と深く連帯し、無力な人々のために責任を果たすためにぶどう酒を控えられた。

(リチャード・ボウカム著「『聖書と政治』社会で福音をどう読むか」P.112 岡山英雄 訳)

  イエスは、神ご自信であり、王の王である方だ。その王の王であるイエスが、自発的に、自分の選択で、私たちのような弱い人間のために、苦しみ、死ぬことを選んだのである。

 そのイエスのことを見続け、エスのことを考えると、不思議なことに、力が湧いてくる。試練を試練と思わなくなる。もはや私たちは、「疲れ果ててしまうことがない」のである(本当に!)。

 

 

▼イエスという希望を抱く 

 なぜ、イエスのことを考えるだけで、力が湧いてくるのか。学生のバイブル、「夜と霧」に、関連するエピソードがある。

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(ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」訳1956. みすず書房

 「夜と霧」は、精神科医だった著者フランクルの、ナチス強制収容所での実体験に基づいた作品だ。日本では多くの人が一度は手にしたことがあるであろう、ロングセラーである。未読の方は是非一読を。

 詳細は割愛するが、本の中で、特に印象的なエピソードがある。それは、強制収容所でのある日を巡る出来事。強制収容所での生活は、想像を絶するものだったが、それでも人間の生命力というものはすさまじく、多くの人々が生き残っていた。

 しかし、ある日を境に、バタバタと人が倒れて死んでいく。ある日というのは、クリスマスだった。その年のクリスマスを境にして、年が変わるのも待たずに、大勢の人が息を引き取っていった。別に、クリスマスが終わったから処刑が始まったわけではなかった。明確な理由なしに、クリスマスが過ぎたら、大勢が亡くなっていったのである。

 なぜか。それは、多くの強制収容所にいた人たちが、「クリスマスまでには、きっと戦争が終わって、解放される」という希望を抱いていたからだ。何か根拠があったわけではない。ただ、クリスマスというのが、希望を抱くには、あまりにもピッタリな日だったというだけだ。しかし、無情にも何も状況が変わらないまま、クリスマスが終わった。人々は、希望を失った。失望した人たちは、生きる気力を失い、バタバタと死んでいったのである。

 このエピソードから、「人は希望がなければ生きられない」という教訓を得られる。フランクルが伝えたかったことのひとつは、この教訓ではないか。クリスマスまでには、きっと解放される。フランクルがいた強制収容所の人々は、そんな希望を失い、絶望して死んでいったのであった。

 

 逆に言えば、「人は希望がある限りは生きていられる」のである。

 

 クリスチャンの希望は、イエスだ。エスが十字架で身代わりとなって死に、自分たちは赦されているという希望。イエスが、死を打ち破ってよみがえり、天にのぼり、やがて帰ってくるという希望。クリスチャンが抱く希望は、そんな希望である。

 ヘブル書の別の場所には、「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4:15)という記述もある。イエスは、弱い私たちに寄り添ってくださる方である。人は、そのイエスがどんなことをしてくれたか。そのイエスの優しい心、懐の深さを見て、思い出すたびに、言いようもない安心感と力を得ることができるのである。

 イエスを見続け、イエスのことを考え、イエスのことを思い出し続ける。イエスという希望を、握りしめ続ける。これが、最良の試練を乗り越える方法である。

 

 

▼ポイント2:試練は何のためにあるのか

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 すると、もう一つの疑問がわいてくる。「そもそも、試練は何のためにあるのか」という疑問である。当然だろう。なぜ人は苦しまなくてはならないのか。辛い思いをするなら、なぜ、神を信じなければならないのか。神を信じるメリットはどこにあるのだろうか。ヘブル書の続きの箇所を、見てみよう。

 

4:あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

5:そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

6:主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから

7:訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

8:もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

9:さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

10:肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

11:すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙 12章4〜11節)

 

 ここは、神を「父親」になぞらえて、なぜ試練があるのか説明している箇所だ。現実の父親を「肉の父」、神を「霊の父」として、対比している。ヘブル書は、私たちが体験する試練は「神からの訓練」だと言う。神は私たちを「子ども」とみなしている。ゆえに、神は子どもである私たちの成長のために、試練を与えて訓練する、とこういう塩梅である。

 もちろん、ほとんどの「肉の父親」は、息子をいい方向に育てようと、愛情を持って厳しく叱ったり、指導したりする。「『巨人の星』の星一徹の顔が思い浮かぶ人もいるだろう。良い結果が出れば、子どもは成長する。しかし、時に悪い動機で叱る親もいる。そのような場合は、子どもを苦しめるだけで、何の成長も生まないことも多い。

 神の試練は、人間の父親の与える試練とは違う。神が与える試練の目的は、「私たちが神の聖さにあずかり、平安の義の実を結ばせる」ことである。これを、キリスト教の用語で「聖化」と言う。または、「キリストの似姿に近づく」とも言う。聖書の別の箇所には、こう書いてある。

 

確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

(コリント人への手紙第二 3:15~18)

 私たち人間は、神が与える試練を通じて、成長し、「主と同じかたちに姿を変えられていく」のである。これが「聖化」である。聖化には、試練が伴う。苦しみが伴う。それは、楽ではない。「苦しく思われる」ものである。しかし、ポイント1で述べたように、主(イエス)を見続けることによって、私たちはその試練に耐えることができる。

 鏡は、光の方向に向いていなければ、光を反射できない。私たちが「主に立ち返るなら」いつでも、「覆いは取り除かれる」。そして、光の方角、すなわち、光であるイエスの方を向き続けるなら、その光を反射し、輝くことができる。そうして、徐々に、徐々に、変えられ続けていくのである。これは、努力で勝ち取るものではない。「まさに、御霊なる主の働き」によるのである。

 筋トレすると、なぜ筋肉がつくのか。それは、筋肉を一度痛めつけ、破壊したものが「超回復」して、元の筋肉より肥大するからだ。筋トレをしている時、身体は辛い。しかし、一度砕かれた身体は、元の身体より大きくなる。私たちの人間性霊性も同様に、試練を乗り越えることを通して、成長する。

 試練を通っている時は苦しく、辛い。孤独を感じ。時に、絶望する。しかし、その中で神の光、イエスの光り輝く姿のほんの少しのカケラが見えたとき、隣でずっと寄り添ってくれていたイエスの存在に気がつく。そうして私たちは、成長し、徐々にイエスの姿に近づき、変えられていくのだ。

 

 

▼ポイント3:ひとつの疑問 聖くなければ主を見られない?

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 試練を乗り越える秘訣は、イエスを見続けること。試練は、私たちが成長し、イエスの姿に似ていくためにある。ここまではロジカルだ。しかし、ヘブル書の続きの箇所を見ると、ある疑問が出てくる。

 

12:ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

13:また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道をつくりなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

14:すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

(ヘブル人への手紙 12章12〜14節)

 私は、初めてここの最後の部分を読んだ時に、ある矛盾が気になった。これまでの理論をシンプルにして、整理しよう。

 

1:イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる。

2:試練を乗り越えれば、神の聖さにあずかり、成長する。

3:聖さがなければ、だれも主(イエス)を見ることができない。

 この3番が問題なのである。「聖さがなければ主を見ることができない」のであれば、そもそも1番の「イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる」が成立しないではないか! 

 言い換えれば「聖くされるために試練がある」のに、その試練を乗り越える条件が、「聖い人しか見ることのできないイエスを見る」ことというのは、一体どういうことなの?! という疑問である。これは矛盾している。

 これでは、試練を乗り越えるのは不可能ではないか! 私は困惑した。まるで矛盾している。私は、しばらくの間混乱した。しかし、すぐに聖書のほかの場所を読んでいて、この疑問が解決し、腑に落ちた。

 

 

▼「聖化」のらせん階段

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 私が読んだのは、このような聖書の言葉である。

 

日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰っていく。

(伝道者の書 1:5~7)

 この箇所は、直接、試練について語っている場所ではない。しかし、「巡り巡る」という表現が示唆するものが、私に気づきを与えた。

 

 そうか、「巡り巡る」のだ。成長は1度だけではない。成長し続け、聖くなり続けるのだ。

 

 そう気づいた瞬間、ただの「円」だった成長サイクルのイメージが、急に立体的になった。「らせん階段」のイメージが私の脳裏に浮かんだ。

 そうか。人間は、試練を通して、挫折を経験する。その中で、イエスの姿を見出し、成長して、聖くなる。より聖くなれば、今まで見えなかった別のイエスの姿が見えてくる。そうすれば、より大きな試練に耐えうる力を得られる。そして、また次、またその次の試練へと続いていく・・・その繰り返しなのだ。

 そう気がついた時、に、一気にこのヘブル12章の3つのポイントがつながった。私たちは、遠いむかしから現代、また未来に至るまで、このサイクルを続けていく。水が巡り巡るように。風が巡り巡るように。時が巡り巡るように。繰り返し、しかし、着実に変化していく。「*遠い過去と遠い未来をつなげるために。そのためにオレはいるんだ」というわけだ。 *「ヒカルの碁」23巻より

 

 聖書のほかの場所にも、このように書いてある。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

(ローマ人への手紙 12:1~2)

 

 心を新たにし続け、神の力によって変えられ続ける。そうすれば、何が神の道なのか、「見分け続ける」ことができる。私は、その成長、聖めのプロセスを「苦しみと成長のらせん階段」と呼ぶことにした。鉄が熱され、叩かれ、鍛えられるように、「鉄は鉄によって研がれ、人は友によって研がれる」(箴言27:17)。人は、他の人との人間関係を通して、苦労し、成長するのかもしれない。

 人は、同じことで悩み、苦しみ、また同じ失敗をしてしまう。そのたびに、落ち込む。見える景色は同じかもしれない、しかし、同じところをグルグルと回りながら、着実に人は成長していくのだ。

 

 この永遠に続くサイクルの中に、神はいる。だからこそ、神は、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」(黙示録4:8)と呼ばれる。神は自分の名前を、「わたしはある」という名前だと名乗った(出エジ3:14)。「わたしはある」というのは、ヘブル語で、過去も現在も未来も「ここにいるよ」とささやき、存在される方という意味がある。まさに、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」なのである。

 

 今、あなたはどのような試練の中にいるだろうか。どのような困難にぶち当たっているだろうか。または、どのような苦難の道を通ってきただろうか。そこで得たものは何か。今一度考えてほしい。

 聖書の神は、「耐えられない試練はない」と約束している。イエスは、いつも、いつまでも、あなたのそばで、ずっとあなたに「ここにいるよ」とささやいている。

 

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

(コリント人への手紙第一 10:13)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。