週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】清く正しく生きることが「証<あかし>」になるのでしょうか?

教会で悩み相談をすると、よく「そんなの証し<あかし>にならないよ!」と言われます。どういう意味でしょうか?

 

 

▼証しにならない?!

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 「それは証し<あかし>にならないよ」。教会でよく言われる言葉だ。「証し<あかし」という単語にピンとこない人も多いかもしれない。要するに、「そんな生き方を他人に見せたら、クリスチャンらしくないからやめなさい!」という意味である。例えば、酒を飲むとか、テストでいい点をとらないとか、きちんと働かないとか、失敗してくよくよ悩んでいるとか、そういう姿である。そういう人たちに対して、教会のオバちゃんたちは、「そういうのは証しにならないわよ」とバッサリ言うのである。教会で、仕事の悩みなどを相談すると、絶対にこの言葉を聞くことになる。そういう経験を一度すると、教会で本音の話ができなくなってしまう。

 「証しにならない」と言う人たちの頭の中には、「クリスチャンたるもの、常に清く正しく美しく生きなければならない」という考えがあるのだろう。または、「クリスチャンは常に成功していなければならない」という想いがあるのかもしれない。でも、その考えは本当に正しいのだろうか。

 今回の記事は、「そもそも証しって何?」「本当の証しとは何か」という視点で書いていこうと思う。

 

 

▼「証し」の言葉の意味

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 教会で聞く「証し<あかし>」または「証し<あかし>をする」という耳慣れない表現は、どこから来た表現なのか。実は、聖書にはこの「証し」という表現がたくさんある。その例を見てみよう。

 

彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光(イエス)について証しするために来たのである。

ヨハネ福音書 1:8)

もしわたし(イエス)自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。

ヨハネ福音書 5:31)

 このように、「あかし」という言葉は聖書のいたるところに出てくる。では、「●●が●●を証しする」というのは、どういう意味なのだろうか。「ガリラヤのイェシュー」を書いた山浦玄嗣氏は、このように解説している。

 

 聖書には「証し」とか「証しする」という言葉がよく出てきます。国語辞典にはこうあります。

 

 証し=①証拠・証明。 

    ②後ろ暗くないことの証明。

 

 普通、世間では「証しする」という言い方はしません。「証し」は、「身の証しを立てる」とか、「生きている証しだ」という言い方で用います。「証し」は「あかす」という動詞の連用形から派生した名詞です。クリスチャンと名乗る方はよく「聖書の学びをする」という奇妙な言い方をします。「聖書を学ぶ」と言えばいのに、なぜでしょう。これはキリスト教特殊語法です。「証しする」も、この類です。

 ところで、聖書で「証しする」という意味は、前後関係から見て、「証し=証明・証拠」と説明する国語辞典の意味とは趣が違います。(中略)

 「犬が哺乳類であることを証明する」という文は意味が通りますが、「犬を証明する」は何のことやら見当もつきません。証明とは常に「AがBであることを」が内容として示されなければなりません。A、Bどちらを省いても証明になりません。

 「証しする」と訳された「マルテュレオー(ギリシャ語)」の意味は、辞書によると「証言する、証人である、証しする」です。日本語の「証言」の意味は次のようです。

 

  証言=①事実を証明すること。

     ②証人の陳述。

 

出展:山浦玄嗣「イチジクの木の下で 上」P:224-227 2015.

  

 山浦氏によれば、聖書の「証しする」は、「証人として●●を証言する」、言い換えれば「ああ、いかにもそうだなぁ、と思わせる」ということだそうだ。

 若干補足すれば、福音書の著者たちの宗教的な思考言語であったであろう、ヘブライ語の「あかし」は、「エイド」という言葉で、こちらも「証人・証言」という意味である。つまり、ヘブライ語的にも、「証しする」という言葉は、「証拠・証明」というよりは、「証言する」「証人となる」という意味なのだ。わかりやすく言い換えれば、「明らかにする」「確からしくする」という意味と考えられる。

 以上のようなことから、先に示したヨハネ福音書の内容を、山浦氏は以下のように訳した。

 

その人(バプテスマのヨハネ)はその光ではなくて、光(イエス)についてあまねく世に知らせようとして来た人だ。

ヨハネ福音書 1:8)

もし俺(イエス)が、俺の言うことは本当なんだと自分でいくら言い立てたとて、そんな言葉は信用できまい。

ヨハネ福音書 5:31)

 

 「証しをする」というのは、「『ああ、●●って本当なんだなぁ』と思わせるように、証言する行為」と言えるだろう。

 

 

▼クリスチャンたちが言う「証し」とは?

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 では、クリスチャンたちが「証しする」と言う時、何を「本当なんだなぁ」と思わせようとしているのか。無論、「神の存在」「イエスの存在」である。もっと踏み込めば、「神がどれだけ偉大な方か」「イエスの懐がいかに深いか」を明らかにするのが「証し」である。

 よく、クリスチャンの集会に行くと、「証し」と称して誰かの過去話を聞かされる場合がある。「証し」は、神やイエスの素晴らしさを明らかにするものだが、時々この重要なポイントを忘れてしまっている人がいる。そういう人たちの「証し」は、「私はこれだけ頑張って、これだけ成功しました!」という、ただのサクセスストーリーだ。そういう人たちの証しは、一見、「神」という言葉は使っているが、その結論がしょうもない。「たくさん献金したら、もっとお金が入ってお金持ちになりました!」とか、「神様のおかげで一流大学に合格しました!」という、「神、関係なくない?」といった話が多いのである。これでは、「証しではなく」ただの「深イイ話」である。これらは、驚くべきことに、全て私が教会で聞いたことのある実話だ。

 今まで聞いた証しで一番しょうもなかったのは、某国の自称クリスチャン・アーティストが、「神様はボクをこんなにカッコよく造ってくれました。だからこうしてみんなの前で歌えます」と言って、上着を脱ぎ、タンクトップ姿になった証しだ。えっ・・・神の素晴らしさではなく、結局ただの自慢じゃん・・・と思ったのだが、会場は「キャー」という黄色い声援に包まれていた・・・。

 

 「神を信じたら、人生うまくいった」

 「神にお願いしたら、お願い事が叶った」

 

 クリスチャンの「証し」って、そんな程度のものなのだろうか。努力で勝ち得るものなのだろうか。否。本物の証は違う。

 私が考える、本物の証しは、「神がどれほど憐れみ深い方か」明らかにするものである。クリスチャンは、自分が清く正しく生きたから、救われるのではない。イエス自身が、まだ私たちが生まれるはるか前に、十字架で死ぬことを選び、私たちに寄り添うことを選んだのである。自分たちの努力によらない、一方的な救いである。クリスチャンはこれを「恵み」と呼ぶ。

 努力によらず、行いによらず、ただ「恵み」による救いを信じるのが、クリスチャンだ。であるならば、その神の「懐の深さ」を証明するには、「清く正しい生き方」ではなく、「どんなに自分がしょうもない人で、だけどそんな自分を神が見つけてくれた」という話が「証し」なのではないか。もっと単純に、「俺が信じてる神ってすごいんだぜ?!」というのが証しなのではないか。

 「そんなの証しにならないよ」と言われても、クヨクヨ悩まなくてもいい。そんなあなたの等身大の姿を、イエスは愛してくれたのだから、それを思いっきり誇ればいいのだ!

 

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(中略)「誇る者は主(神)を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙第一 1:26~31)

 

 

▼「良い行い」を備えるのは神

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 「証しにならない」と言う人々が、おそらく「でもこう聖書に書いてありますよ」と、主張する聖書の言葉がある。以下の言葉だ。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 これは、有名なイエスの言葉である。ここだけを読むと、「ああ、自分の良い行いを見て、他の人の証しにならなくちゃ」と思うわけである。でも、果たしてそうなのだろうか。聖書の別のところには、こうも書いてある。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

(エペソ人への手紙 2:8~10)

 

 この聖書の言葉によれば、以下の2つは明らかである。

 

1:行いではなく、恵みによって与えられる信仰で救われる。

2:良い行いは、自分のものではなく、神があらかじめ備えたもの

 

 「良い行い」は、自分が頑張ってするものではなく、神が備えるものなのである。

 

 

▼弱い時こそ強い

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 「良い行い」は、自分の力ではなく、神の備えであると分かった。すると、もう一つの疑問が浮かんでくるだろう。「良い行いができていないのは、神が働いていないからだ。自分は、神の力が働くに値する者ではないのだろうか」という疑問である。本当にそうなのだろうか。別の聖書の言葉を見てみよう。

 

しかし主(神)は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

(コリント人への手紙第二 12:9~10)

 

 パウロは、「弱いときにこそ、強い」と断言している。このパウロの姿勢から、以下のことが分かる。

 

1:自分が弱い時にこそ、神・キリストの力が完全に働く。

2:人間の弱さは、実は神の強さである。自分の弱さのうちに神の力が働くので、その弱さを誇ることができる。

 

 クリスチャンは、もはや自分の力で歩まなくて良い。また、等身大の自分を隠して、「オモテムキ」の自分を作る必要もない。なぜなら、神が弱いままの自分を愛し、その弱さの中に働いてくださるからだ。

 だから、本当の「証し」というのは、この自分の「『弱さ』の中に、神がどのように働いてくださったか」というものだと思う。クリスチャンにとっては、もはや弱さは「自慢」なのだ。

 カンチガイしてほしくないが、「弱さをそのままにしていいや~好き勝手やっておくんなせぇ」と言っているわけではない。詳しくはまた別記事を書くが、クリスチャンは「神のきよさ」に向かって、「変えられ続ける」必要がある。しかし、それは、この世の中で「活躍」することだったり、「成功」することだけを指すのではない。それだけが「証し」ではない。人の心をゆさぶるのは、「サクセスストーリー」ではなく、「失敗や挫折、弱さのその先にあるもの」なのである。

 

 

▼「地の塩、世の光」とは?

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 では、イエスの言う「地の塩、世の光」とは、どういう意味なのだろうか。もう一度見てみると、スッキリすると思う。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 クリスチャンは、自分で輝けるのだろうか。否。クリスチャンは自ら輝けない、月のような存在である。月が輝くには、方法はただ一つ。光の方を向くことだ。クリスチャンにとっての光は誰か。それは、神であり、イエスである。エスが、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1:9)なのである。

 つまり、イエスは、「俺を信じることをハズカシイと思うなよ。俺をシッカリと見て、俺の光を受けて輝け! 俺についてこい!」と言っているのである。イエスを信じる人は、もはや「弱さ」を隠さない。なぜなら、その弱さのうちにイエスの力が働くからである。

 「証しにならない」と言っている人はどうか。むしろ、その人たちは、「自分がもっとシッカリしていないとダメだ」と考え、そこにイエスが働くことを忘れていないか。「もっと清く正しく美しく生きなければ」という考えに支配されると、いつのまにか、ありのままの自分を愛してくれたイエスを忘れていく。だんだんと、「こんな自分がクリスチャンだと言ったら、悪影響だ」という言い訳を自分に作って、「クリスチャンであること」「イエスを信じていること」を隠していく。まさにそれは、「塩気をなくした塩」「升の下に置かれた明かり」ではないか。

 クリスチャンは、堂々とありのままの自分をアピールしていい。「俺はイエスを信じているんだ! イエスはすごいよ?! そりゃ毎日大変なこともあるけど、でもイエスが自分の中で働いてくれるんだ! こんな喜びに満ちた人生ないよ?」と、イエスを自慢しよう。それが、一番の「証し」ではないだろうか。

 「証言をする」のが「証し」なのであれば、ありのままの弱い自分に寄り添って、そっと抱きしめてくれたイエスの姿を、明らかにしていこうではないか。

 「クリスチャンたるもの、こうでなければならない」「クリスチャンはこれをしてはいけない」という考え方ではなく、「クリスチャンだからこんなことができる!」という考え方になろうではないか。

ですから、だれでも人々の前でわたし(イエス)を認めるなら、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

(マタイの福音書 10:32~33)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。