週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】聖書を読むのが大切な4つの理由

クリスチャンでも、クリスチャンでなくとも、聖書を読むのはめちゃんこオススメです! なぜオススメなのか、4つの理由で紹介します。

 

 

▼聖書を読むのは大事か?

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 聖書は、あなたの人生を変える。私は、強烈な確信をもって断言する。聖書を読むのは、めちゃめちゃ、めちゃのめちゃんこオススメである。クリスチャンの人にとっては、聖書を読むのは毎日の食事のよう。クリスチャンでない人にとっては、聖書はいのちを得させる人生のカギだ。

 私は、小学校6年生の頃から聖書を読み始めて以来、ほぼ一日も欠かさず聖書の言葉に親しんできた。今まで、およそ15~20回ほど読んでいると思うが(全然足りない!)、読むたびに新しい発見があり、飽きることはない。聖書の言葉に親しみ、そのたびに神の新しい姿を教えられてきたと思う。

 東京に出てくるまでは、このように毎日聖書を読むのが、クリスチャンにとって「当たり前」だと思って育ってきた。しかし、上京し、様々なクリスチャンたちと接する中で、どうやらそれが「当たり前」でないと気がついた。こんなに楽しいのに、なぜだろう。なぜ聖書を読まないのだろう。不思議でならなかった。実は、今でも不思議に思っている。

 思うに、聖書を読むことの魅力が、十分に伝わっていないのだと思う。聖書の言葉に親しむより、日曜日に教会に行く方が優先されてしまっているのではないか。キリスト教」っぽい「品行方正」でいる方が、聖書の言葉に従うライフスタイルより優先されているのではないか。教会が、聖書の魅力を十分に伝えきれていないのではないか。そう思えてならない。

 今回、聖書を読むのが、なぜ大切なのか。なぜ欠かせないのか。私なりに4つの点に絞って書いてみた。読者のみなさんには、これを機にぜひ聖書に親しんでいただけたら、私としては嬉しく思う。

 

 

▼理由1:聖書から「義」について学べる

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 聖書は、あなたに「義」を教える。何が神の基準で、何が人間の本来のデザインで、どう生きたらいいのか、神は人間にどのような生き方を望んでいるか、聖書の言葉を通して知ることができる。聖書にはこうある。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感(息吹)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

(テモテへの手紙第二 3:15~17)

 

 ここでいう「聖書」とは、一義的には旧約聖書を指す。旧約聖書が書いているのは、大胆に要約すれば、イエスについてである。新約聖書は、旧約聖書が指し示すイエスその人について書いてある書物だ。旧約聖書が語るものは一体何だったのかを、新約聖書が明らかにしているのだ。新約聖書は、旧約聖書の解説書だ」と言う人もいる。あえて言えば、旧約聖書は問題集であり、新約聖書は回答集のようなものだ。だから、広い意味では、旧約聖書新約聖書も同じように「教え」「戒め」「矯正」「義の訓練」のために有益である。

 ここでいう「義について学ぶ」とは、「神の思いを知る」という意味と等しいといって良いと思う。神がどのようにこの世界を作ったのか。いかに、アブラハムという人が選ばれ、約束が交わされたのか。その子孫であるイスラエルの民が、どのように歩んだのか。どのように神の約束が受け継がれていったのか。神がイスラエルの民を通じて、どのような「生きる基準」を示したのか。イスラエルの人々が、どのように神に反抗したのか。神を信じる人が、どのように神を礼拝し、神に従い生きたのか。預言者が、どのようにメシアの出現を預言し、世の終わりについて語ったのか。これら全ては、旧約聖書から学べる。そして、その時代の人々が待ちに待ったイエスという人について、新約聖書を通して知ることができる。それら全てを通して「神の思い」の断片が、だんだんと理解できるのだ。

 聖書を読んでいくと、だんだんと「神がデザインした生き方」が分かるようになってくる。もちろん、クリスチャンが信じているのは、「行いではなく、信仰による救い」である(※詳しくは以前の記事を参照)。しかし、イエスを信じ、神と和解したクリスチャンは、神との関係を深めながら生きる人生を歩みたいと願うようになる。その基準、神の思いが記されているのが聖書だ。だから、クリスチャンにとって、聖書を読み、その言葉に従って生きる「生き方」は、当然である。

 これはちょうど、好きな人ができたら、徹底的にリサーチするのと似ている。好きな人に、既にパートナーはいるのかどうか。その人は、どんな人か。好みの食べ物、好みの服装、趣味は何か。性格はどうか。好きな人がいたら、その人のことをいつも考え、その人がどのような考え方をするのか、徹底的にリサーチするだろう。

 クリスチャンの歩みは、それと似ている。エスを信じ、イエス大好き! 神様大好き!! そうなったらならば、聖書を徹底的に調べ、神はどんなお方なのか。イエスはどんな人なのか。徹底的に知りたいと思わないだろうか。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

(ローマ人への手紙 15:4)

 

 クリスチャンを「教え」「戒め」「矯正し」「訓練」するのは、聖書そのものである。牧師でもなければ、日曜学校の先生でもなければ、信仰書でもなければ、日曜礼拝でもない。聖書そのものが、読む人に「神の思い」を教え、知恵を与えるのである。

 もちろん、牧師の説教もためになる。日曜学校もためになる。信仰書もためになるし、日曜礼拝も大切だ。インターネットで有名な牧師の説教を聞くのも良いだろう。神学を学ぶのも良い。ためになる。

 しかし、それら全ての何よりも大切なのは、「聖書そのものを学ぶ」という姿勢である。聖書は聖書から学べる。聖書そのものより、「参考書」を優先してしまう人が多いように思う。参考書は、オマケだ。まずは聖書を穴があくほど読むよう、私としてはオススメしたい。難しい? 心配ない。イエスが約束した「聖霊」が、聖書の言葉が理解できるように、あなたを助けてくれるだろう。

 

 

▼理由2:聖書から「イエス」について学べる

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 「義」を教えるのみならず、聖書はあなたに「知恵」を与える。何の知恵か。それは、キリスト・イエスに対する信仰を与える知恵である。聖書を通し、私たちは、イエスが何を言ったか、何をしたか、何を教えたかを学べる。イエス自身がこう言っている。

あなたがた(ユダヤ人)は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたし(イエス)について証ししているものです。

ヨハネ福音書 5:39)

 

 この「聖書」とは、言わずもがな、「旧約聖書」を指す。しかし、「新約聖書」はイエスその人について書いたものである。「旧約聖書」はイエスについて証言し、「新約聖書」でイエスその人の言動がありありと語られているのである。旧約聖書は、イエスについて書いているのである。

 例えば、新約聖書ヨハネ福音書は、福音書の目的についてハッキリと書いている。

エスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト(メシア)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(中略)これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子(ヨハネ)である。私たちは彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

ヨハネ福音書 20:30~21:25)

 

 ヨハネは、ハッキリと福音書の目的について、「イエスを信じるため、また信じていのちを得るため」と書いている。聖書は、読んだ人がイエスを信じるために書かれていると言っても過言ではない。最後のシメの言葉は、ヨハネらしい、なんとも詩的でロマンチックな表現である。

 実際に、イエスが復活した際、弟子たちは最初、復活を信じられなかった。そんな彼らに対して、復活したイエス自身が、聖書を用いて自身の復活を語ったのである。

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリスト(メシア)は必ずそのような苦しみを受けて、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」それからイエスは、モーセやすべての預言者たち(≒旧約聖書)から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

(ルカの福音書 24: 25~27)

 

 旧約聖書も、新約聖書も、イエスについての秘密でいっぱいだ。旧約聖書には、イエスについての「伏線」が数限りなく隠されている。新約聖書では、その「伏線回収」が多くなされている。伏線回収系のマンガや映画が大好きな私は、聖書にイエスの伏線と回収を見つけるたびに大興奮。

 聖書の言葉を通して、イエスの新しい姿を、毎日知り続けることができる。これこそが「いのち」である。

 

 究極的には、聖書の言葉そのものが、イエス自身である。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(中略)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ福音書 1:1~14)

 

 これは、「神のことば」がそのまま「イエス自身」であるという、大胆な表現である。聖書の言葉そのものが、イエス自身を現しているどころか、そのことば自体がイエスなのである。

 もっとも、この「ことば」はギリシャ語の「ロゴス」だけで考えると間違える。筆者がヘブライ語アラム語話者であり、そのマインドで書いたものであるという事実を忘れてはならない。今回、詳しく語るのは避けるが、ヘブライ語「メムラ」の意味もふまえて理解するのが大切だとだけ述べておく。

 聖書の言葉は、あなたに「イエスについて」教える。聖書を通して、イエスをもっと深く知ることができる。聖書はあなたにイエスを教えるのみならず、聖書のことば自体が、イエスそのものなのである。

 

 

▼理由3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

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 聖書は、あなたの心を明らかにする。自分が何を考えているのか。その「心の動機」は何なのか。それが、聖書の言葉を通して明らかになる。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでにも刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

(ヘブル人への手紙 4:12~13)

 

 聖書の言葉は、あなたの「心の思い」を見分ける。どういうことか。聖書を読んでいると、自分の心の動機は何なのか、判別できるのである。これは、不思議なのだが、事実である。

 聖書を読むと、自分の中の隠れていた悪い思いや、心が明らかにされる。聖書を読むと、自分の中の気が付かなかった「心の動機」に気がつく。聖書を読むと、人生が方向転換されるのである。

 私自身も、その体験をした。私は16歳でイエスを信じて以来、ずっと「牧師」になりたかった。イエスに出会えた喜びで、このイエスを他の人にも伝えたいと思ったのである。はじめの思いは純粋でも、それはいつしか、「牧師になって人から評価されたい」という思いに変わっていった。動機が「イエスを伝えたい」ではなく、「俺が尊敬されたい」という自己承認欲求に変わっていったのである。

 しかし、21歳のある日、聖書を読んでいると、聖書の様々な箇所(ホセア1章、箴言3章、ピリピ3章など)を通して、自分の間違った自己承認欲求に気が付かされたのだ。たった1日の間に、これら全ての聖書の言葉が語られ、ガツンと心を打ったのである。反省した。人生の目的が「イエス中心」でなかったと気がついた。神に「私の人生を本当に神に捧げます」と祈った。そして、人生が方向転換したのであった。牧師を目指した少年は、今、神の不思議な導きで、記者の仕事をしている。それは、全て聖書の言葉を通しての気づきであった。

 神のことばは生きている。聖書の言葉は生きている。読むと、あなたの心の思いが明らかになる。「心の動機」があらわになる。自分の心のモヤモヤが晴れない時、答えは聖書の中にあるのかもしれない。モヤモヤしている人、聖書読むのオススメ。

 

 

▼理由4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

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 最後に、聖書は「自分の思い」のみならず、「他人の発言」を吟味できる。おごがましく聞こえるかもしれないが、これは「他人を非難する」という意味ではなく、「サポートし合える」という意味だ。まずは聖書が何と書いてあるのか見てみよう。

パウロは、いつものように人々のところに入って行き、3回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリス(メシア)です」と説明、また論証した。(中略)兄弟たちはすぐ、よるのうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、2人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き17:2~11)

 

 使徒パウロは、いつもユダヤ人や外国人たちと議論し、イエスはメシアであると立証していた。それは、いつも「聖書に基づく議論」であった。聖書がイエス・メシアについて何を書いていて、いかにイエスがそれに当てはまるか、論じあっていたのであった。これは、聖書を知らないとできない議論である。

 そして、ベレヤという町にいた人々は、「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のである。彼らは、パウロの言葉をうのみにしなかった。自分たちで「毎日聖書を調べて」、パウロが言っていることが本当か調べたのである。

 現代のクリスチャンたちは、この姿勢が多少欠けているように思う。牧師やリーダーたちの教えを、うのみにしてはいないだろうか。権威ある(と言われている)牧師だって、間違いは犯す。彼らの教えにも、矛盾は存在しえる。どんな人の教えであれ、「本当にそうかな?」というクリティカル・シンキングで聞くという姿勢は大切である。必ず聖書を調べ、間違っていたら、指摘する。そんな姿勢がクリスチャンには必要である。

 

 また、聖書は互いに教え合うように勧めている。

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

 同じように、聖書の別の箇所では、「互いに預言ができること」「互いの預言を吟味すること」を教えている。

預言する者たちも、2人か3人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人はだまりなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも1人ずつ預言することができるのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~31)

 

 コミュニティの中で、互いに聖書の言葉を用いて教え、またその内容を吟味し合うように、聖書は教えている(「預言」の定義については、この記事で触れるのは避ける)。この「吟味」が、日本の教会には圧倒的に欠けていると感じる。

 1人ひとりのクリスチャンが、しっかりと聖書を読み込む必要がある。そして、互いに教え合うコミュニティへと発展する必要がある。「神学校」に行く必要はない(※以前の記事を参照)。誰もが、聖書の言葉に親しみ、互いに吟味し合い、指摘し合い、愛し合うことができる。

 

 「教え合うコミュニティ」については、詳しくは以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼まとめ

 聖書は、あなたの人生を豊かにする。聖書は、あなたにいのちを与える。聖書は、あなたに希望を与える。聖書を、ぜひ読んでみようではないか。

<聖書を読むのを勧める4つの理由>

1:聖書から「義」について学べる

2:聖書から「イエス」について学べる

3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

 

 ぶっちゃけ、この4つ以外にも、たくさんの理由がある。書いたら書ききれない。それほど、聖書は魅力に満ちた本だ。私は聖書の虜になってしまった。ぜひ、あなたも一度読んでみてはどうだろうか。実際に、どう読めば良いのか。私なりのオススメを、次週書こうと思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。