週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンに禁止事項はあるの?

クリスチャンになったら、「これはしちゃダメ」という禁止事項はあるのでしょうか?

 

 

▼「しちゃいけないコトあるの?」という質問

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 「私はクリスチャンです」と言うと、決まって聞かれる質問がある。「クリスチャンになったら、しちゃいけないことあるの?」という質問だ。日本では、信仰は人を縛るものというイメージがあるからか、多くの人が、「クリスチャンに禁止事項はないのか?」と聞いてくる。

 当然、聖書には、様々な生きる指針が書いてある。有名な「十戒」には、「神は唯一だ」「他の神を作ってはいけない」などの礼拝に関する教えのほか、「両親を敬え」「人を殺すな」「偽りの証言をするな」などの、人間関係に関わる教えもある。旧約聖書には613の律法があるという。しかし、旧約聖書の規定を全て守るのであれば、今でも動物のいけにえを捧げないといけないことになる。豚肉も食べられない。それらを守る必要はないと日本人なら思うだろう。では、どう考えれば良いのか。

 新約聖書にも様々な生きる基準が書いてある。イエスも、「互いに愛し合いなさい」という命令から、離婚にまつわることまで、様々なことを教えている。では、信じた人が、それらの教えを一度でも破ったら信仰者失格なのだろうか。クリスチャンは、どのように生きているのだろうか。今回は、リアルな生活の中の疑問に迫っていく。

 

 

▼信仰は人を縛るものではなく、自由にするもの

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 まず、大前提として、日本人の信仰に対するイメージは、完全に間違っている。信仰は、人を縛るものではなく、自由にするものだ。人を縛るものは「宗教」である。なぜなら、宗教は人をコントロールするという別の目的のために、信仰を悪用するものだからだ。だから、私は「キリスト教」という宗教に与しているつもりはない。一人の人間として、イエスを信頼しているクリスチャンである。しかし、「キリスト教」の信者ではない。詭弁のようだが、これはとても大切な違いだ。

 イエス自身が、信仰は規制ではなく、解放だと教えている。

エスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします

ヨハネ福音書 8:31~32)

 

 イエス自身が、真理であり、いのちである(ヨハネ14:6)。「あなたがたは真理を知り」というのは、「イエスを知り」と同義である。エスはあなたを自由にするのである。だからイエスは、「わたしのことばにとどまれ」と教えたのだ。このイエスのうちにこそ、本当の自由があり、解放がある。まずはその前提を知っていただきたい。

 

 

▼神のデザイン通りに生きられない人間

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 クリスチャンの信仰は、「神が自分たちを造った」という大前提がある。聖書にはこう書いてある。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:27)

 

 神は、人間をご自身に似せて造られた。人間は、神によってデザインされた存在である。そして、それはとても良いものだったと聖書に書いてある。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。

(創世記1:31)

 

 「非常に良かった」というヘブライ語は、極上のものを表す表現だった。神は、人を造るときに「さぁ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と、他にはない表現をしている。「さぁ!」という部分を見て、神様がめっちゃテンション上がっている!! と感じる人もいるだろう。人は、神の目には特別なデザインとして造られた存在なのである。

 

 しかし、人は神のデザイン通りに生きることはできなかった。聖書にこうある。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」

(ローマ人への手紙 3:9~12)

 

 人は、誰もが罪の下にある。この罪とは、犯罪のことではない。「神のデザイン通りに生きない」という意味だ。これは、全ての人がそうなのであって、逃れられる方法はない。残ながら、人は「神を求める者」には、自分の力だけではなれないのである。

 一方、神は完全に義なる存在である。神のデザイン通りに生きないままの人間は、この義という性質を持った神と関わることができない。こうして神と人は断絶してしまうのである。

 そんな。なぜ神と断絶しなきゃいけないのか。なぜ神は人を「言うことをきく」存在に造らなかったのだろうか。テキトーにしていても、神のデザイン通りに生きることができたら、どんなに楽だっただろうか。しかし、聖書には基本的な原則が書いてある。

すると、あなたは私(パウロ)にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に造る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~22)

 

 神は、私たちが自分の意志で、行動を選択できるように造った。神は、私たち人間が、「こう生きてほしい」という想いがありながらも、私たちが自発的に「生き方」を選択できるようにしてくださったのである。逆にいえば、神に従わない道を選んでいるのは、自分自身なのである。

 もし、神が私たち人間を、強制的に「神の生きる道」に従わせたとしたら、それは人間ではなくて、ただのロボットである。私たちには、本能に逆らう「意志」がある。本能に逆らう選択ができるからこそ、人間たりえるのである。

 

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 リチャード・ドーキンスという有名な学者がいる。彼は完全な無神論者で、進化論者だった。彼は有名な著作、利己的な遺伝子で、生物はすべて遺伝子が種を保存するための本能で生きていると解説している。しかし、人間だけが、この本能に逆らって生きる意志を持っていると、彼は語っている。人間だけが、意図的に誰か他の人のために命を捨てることができると彼は説明する。彼は、「ミーム」という分かりづらい言葉でそれを表現しているが、つきつめれば、人間は本能に逆らう選択ができる唯一の生物だと言っているのである。完全な無神論者である彼が、神がデザインした人間の特殊性に気がついているのは、とても興味深い。

 では、この「意志による選択」の結果、神と断絶してしまうこととなった人間は、一体どうすれば良いのだろうか。旧約聖書の人々にとっては、それは律法を守ることであった。

 

 

▼どんな罪でも同じ?!

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 旧約聖書の時代、神はモーセを通じてイスラエルの民に律法を与えた。ユダヤの律法は613あると言われているが、そこには様々な生き方の基準が書いてある。細かくここで解説することはしないが、いけにえや、生理を迎えた女性を隔離するなど、中には現代的にはちょっと・・・というものから、「殺人」「窃盗」「偽証」など、現代においても犯罪にあたるものまで様々である。「過失致死」を犯してしまった人は、一定期間、遺族の怒りから逃れるために、「のがれの町」に逃げられるという面白い規定もある。

 旧約聖書の人々にとっては、この律法を細かく守り、いけにえを捧げて、諸々の規定を守って行うものが礼拝であり、神とつながる方法だった。これにより神を知り、神の力を受け、神に守られ、生きていたのである。

 しかし、旧約聖書の律法は、後の時代の「伏線」だったのである。伏線なので、もちろん完全ではない。聖書にはこう書いてある。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

(ローマ人への手紙 3:20)

 

 旧約聖書の律法を完全に行える人は誰もいないし、それによっては神の義には近づけない。聖書はそう明言している。そういうと、真面目な日本人は、「そんな! 自分は真面目にきちんと生きている!」と思うかもしれない。

 しかし、聖書はより厳しい基準を突きつけている。なんと、「どんな罪でも同じ罪」だと書いてあるのである。

律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。

ヤコブの手紙 2:10)

 

 神の目には、「殺人」も「盗み」も「えこひいき」も「ウソ」も全て同じ罪なのである。きれいな水に、たった一滴でも毒を垂らしたら飲めなくなるように、私たち人間も、一つの点で過ちを犯したら、すべての責任を負うのである。

 

 では、どうすれば良いのだろうか。ここで、考えが止まってしまうと、「清く、正しく、美しく生きなければ!」という宗教になってしまう。聖書はそうは教えていない。何のために律法があったのかにヒントがある。聖書にはこうある。

しかし(旧約)聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

(ガラテヤ人への手紙 3:22~25)

 

 律法は、人をキリストに導く養育係である。律法があるから、キリストが理解できるのである。律法がなければ、罪の意識が生まれることはない(ローマ3:20)。律法によって、神の示す生き方が分かる。しかし、人は完璧にその生き方ができない。その解決方法が、キリストなのである。律法は、イエスを知るために示された、イエスの伏線だったのである。エスにこそ答えがある。では、イエスは何をしたのか見ていこう。

 

 

▼イエスの「先払い」の十字架の犠牲

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 私たち人間は、神のデザイン通りに生きられない。そのままの生き方だと、神と一緒に生きられない。ではどうすれば良いのか。イエスがその解決のカギだ。唯一の道だ。

 エスは、私たち不完全な人間の身代わりとなって、十字架で死んだ。そして葬られ、3日後に死を打ち破ってよみがえった。これによって、「罪」が清算され、私たちは神の前に正しい者とされるのである。これが救いであり、良い知らせ、「福音」である。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと・・・

(コリント人への手紙 第一 14:3~4)

 

 イエスは、十字架で死に、私たちの「身代わり」となった。イエスの「伏線」である律法の中にこんな言葉がある。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。<中略>すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。

レビ記 17:11~14)

 

 エスが十字架の上で、血を流したので、私たちの罪は赦された。これにより、神との関係が回復し、神と一緒に生きていくことができるのである。

 真面目な日本人は、「そんなの、こんな私が受け入れていいものなのだろうか」と思うかもしれない。「何もしていないのに、どうして赦されたといえるのだろう」と思うかもしれない。しかし、イエスの十字架の救いは、信じるだけで与えられるのである。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

(ローマ人への手紙 3:21~24)

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあながたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

 

 イエスの救いを信じるのに、条件はいらない。ただ、それを信じればいいのだ。誰であっても、そこに差別はない。イエスを信頼すれば、誰でも価なしに義と認められるのである。この救いは、条件付きの救いではない。イエスの十字架の犠牲は、「先払い」なのである。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 

▼「しなきゃいけない」じゃなくて「そうしたい」

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 私たちは、この「先払い」のイエスの救いを、ただ信じるだけで救われる。全ての罪はゆるされ、神の前に義とされ、神と一緒に生きられるようになる。

 日本人にこの説明をすると、よく言われるのが、「じゃあ何でもしていいんだ?」という言葉だ。確かに、イエスによって罪から自由にされた私たちは、もはや律法が示すような生き方の規定に縛られない。酒を飲んでも、タバコを吸っても、それは自由である。

 しかし、何でもかんでもしていいというのは間違いだ。自己中心的な生き方、神のデザイン通りではない生き方は、神とあなたの関係を傷つける。神と一緒に生きられるようになったのに、神のデザイン通りに生きないというのは矛盾している。それは同時にはできないことである。聖書にもこう書いてある。

信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。<中略>あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。<中略>からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブの手紙 2:17~26)

 

 これは、行いがなければ救われないという意味ではない。

 たとえ話にしたらわかりやすい。友人Aさんが、車がビュンビュン走っている道路の真ん中に突っ立っているとしよう。あなたは「危ない!」と必死で声をかける。Aさんは、あわてて歩道に戻る。Aさんのいのちは助かる。この場合、Aさんが、あなたの「危ない」という声を聞き入れ、「歩道に戻る」という「行動」をとったから、いのちが助かったのである。

 もし、Aさんが「危ない」という声を聞いて、「知ってるよ」と答えても、そのまま道路に突っ立っていたら、車にひき殺されてしまう。「危ない」というのを知っているのに、その道から戻らないのは、自殺するのと同じである。同じように、イエスという救いを頭で知っていても、神のデザイン通りの生き方をしていなかったら、それは信じていないのと同じだ。

 

 信じた人の生き方は、「こう生きなければならない」という枠から解放されて、「こう生きたい」というモチベーションに変わるのである。ただ概念的にイエスを信じていても、生き方が変わらなければ、それはただの宗教である。虚しい。本当にイエスを信じ、神と一緒に生きられるようになった人は、もはや神のデザイン通りではない生き方に魅力を感じなくなる。それは自分の力ではなく、神が与える聖霊によって変えられていくのである。

 しかし、弱い人間である私たちは、信じた後も、たびたび間違いを犯す。したくないことをしてしまう。間違っていると分かっているのに、ウソをついてしまう。知ったかぶりをしてしまう。他の人の悪口を言ってしまう。キレてしまう。暴力をふるってしまう。お金をちょろまかしてしまう。エロ動画を見てしまう。不倫をしてしまう。プライドを捨てきれない。栄誉や称賛を捨てきれない。すぐ調子にのってしまう。頭では分かっていても、間違えてしまう。それが人間だ。

 神に人生を180度変えられたパウロでさえ、このように告白している。

 

私には、自分のしていることがわかりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているのです。<中略>私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

(ローマ人への手紙 7:15~24)

 

 パウロは、このように大胆に自分の弱さを告白している。頭では神のデザイン通りの生き方をしたいと願っているのに、からだがそれについていかない。自分のしたくない選択をいつもしてしまう。自分のしたくないリアクションをいつもしてしまう。「私は本当にみじめな人間です」という、パウロの大胆かつストレートな告白は、罪と葛藤してもだえている多くの人を励ますだろう。

 イエスを信じ、クリスチャンになった人は、常にこの葛藤と戦いながら、生きていくのである。一見、辛いように見えるかもしれない。しかし、心の中でキリストが生きている。聖霊が働く。たとえ、完全に神のデザイン通りに生きられなくとも、エスを知り、解放された後の喜びは、半端じゃない。こればっかりは、体験しないと分からない。イエスを信じれば、解放されて、たとえ間違ってしまっても、また立ち上がって生きていけるのだ。

 エスは、たった一度、十字架の死を通して、私たちの現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださっている。

しかしキリストは、<中略>ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。<中略>キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。<中略>しかし今、キリストはただ一度だけ世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

(ヘブル人への手紙 9:11~26)

 

 イエスはたった一度、十字架で死んだことによって、私たちの、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださったのだ。一度信じただけで、全ての罪が赦されている。もう心配することはない。もちろん、間違ってしまった時は、素直に神に謝る必要がある。でも、それでクヨクヨする必要がない。エスがずっと一緒にいるからだ。

 

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5:1)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。