週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】「人の目」が気になる人に送る、聖書の言葉

ついつい他人にどう見られているか気になるのが人間ですが、聖書は何と言っているのでしょうか?

 

 

▼「人の目」が気になる?

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 人間は、弱い生き物だ。基本的に、自信がない。外側は自信に満ちあふれているような人も、実は自信のなさの裏返しだったりもする。認めてほしい。愛してほしい。褒めてほしい・・・。どうしようもない自己承認欲求が、人間にはある。それが人間のサガというものだ。

 だからこそ、人は常に「他の人にどう見られているか」を気にする。自分が他人にどう評価されているか。他人にとって自分は有益な存在になっているか。自分は嫌われてはいないか。人によって差こそあれ、どんな人もこのような不安と、日々戦っているのではないだろうか。

 私は、正直いってあまり人の目を気にする性格ではない。しかし、やっぱりブログに付くコメントは気になるし、悪口を言われたらヘコむ。だから、私も「人の目」を気にはしているのだろう。

 人によっては、「他者の目」を気にするあまり、何が自分の本当の心なのか、分からなくなってしまっているケースもあると聞く。他の人の意見に合わせるあまり、自分がなくなってしまうのである。「空気を読んでばかりいたら、自分が空気のようになってしまった」なんて、よく聞く話だ。特に日本人は島国独特の「むら社会」の文化の影響もあり、世界的に見ても「人の目」を気にする傾向は強いのではないか。

 「人の目」からは、ある意味では一生逃れられない。しかし、自分の気持ちの持ちようは変えられる。聖書は、「他の人にどう見られるか」という問題について、どう書いているのだろうか。今回は、「人の目」が気になる人に対して、聖書の言葉を送る。

 

 

▼イエスは何と言ったのか

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 イエスは、他者からどう見られるかという問題について、どのような発言をしているのだろうか。こんな言葉がある。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

(マタイの福音書 5章11~12節)

人々があなたがたを憎むとき、人の子(イエス)のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

(ルカの福音書 6章22~23節)

 

 クリスチャンの中では、他の人の目を気にするあまり、「自分がクリスチャンである」と大胆に言えない人も少なくない。クリスチャンであると公言することによって、自分にマイナスの影響があるのではないかと恐れているのである。しかし、イエスは上のように「わたしのゆえに排除され、ののしられ、けなされるとき、あなたがたは幸いだ」と教えているのである。「わたしのために・人の子(イエス)のゆえに」迫害されるのであれば、飛び上がって喜べとまで教えているのだ。

 このことから、「人の目」を気にしすぎる姿勢は、イエスの教えとは合致しないと分かる。クリスチャンである以上、もはや人に何を言われようが気にしなくて良いのである。ただイエスが神であり主<しゅ>であると告白すれば良い。聖書にこう書いてある。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。

(ルカの福音書 12章8節)

 

 

▼イエスは何と言ったのか、その2

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 イエスの言葉を別のアングルから検証してみよう。当時のユダヤ教には「律法学者」や「パリサイ派」と呼ばれる指導者たちがいた。彼らは、尊敬される宗教指導者だった。しかし、イエスは彼らはこのように痛烈に批判した。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

(中略)

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(中略)

あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

(中略)

(マタイの福音書 6章1~16節)

 

 パリサイ派に対して、イエスは強い批判を繰り返している。その根源は、彼らが「人に見せるために」善行を見せびらかしていた点にある。彼らは、聖書に書いていないような部分まで強調し、「いかに自分が信仰深いか」を見せびらかして、尊敬を集めていたのだ。そうやって自尊心を満たしていたのだ。

 しかし、イエスは「戸を閉めて、隠れたところにいる父に祈れ。そうすれば、隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言った。「人の目」を気にするのではなく、「隠れたところに存在する神」に対して行動せよ。それがイエスの言葉である。

 現代の教会においても、同じように「パリサイ派」のような状態に陥っている人はいないだろうか。「毎週来て偉いね」と言われるために日曜日に教会に行ってはいないだろうか。「自分の信仰深さ」を見せびらかすために、教会で「奉仕」をしていないだろうか。また、「あの人より、自分は教会に来ている」「あの人より奉仕をしている」「あの人よりマシだ」と思ってはいないだろうか。人間は弱い。すぐ人と自分を比較する。しかし、聖書にはこう書いてある。

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る

(サムエル記第一 16章7節)

 

 

パウロは何と言ったのか

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 では、イエス以外の人物たちはどのように言っているのだろうか。使徒パウロの場合を見てみよう。彼が書いた教会への手紙の中には、こんな告白がある。

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

(コリント人への手紙第一 4章1~5節)

 

 使徒パウロにとって、イエスに従い、イエスを伝えることの他に、大切なものはなかった。「他人の評価は、私にとって非常に小さなことだ」これは、パウロの「俺はお前らに何言われても気にしないぞ!」という大胆な告白である。パウロは、若い頃はイエスの信者を迫害していた。彼は、信者を見つけては牢に引きずっていくほど、激しく迫害した。

 しかし、イエスと劇的な出会いを果たしたパウロは、とたんにイエスを述べ伝え始める。その上、彼は「もうモーセの律法は必要ない」と言わんばかりの「信仰義認」の考え方を、至るところで述べ伝えていた。外国人からは恐れられ、ユダヤ人からも批判された。パウロほど命を狙われ、批判され、さげすまれていた使徒はいなかっただろう。彼のこんな告白がある。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

(コリント人への手紙第二 11章23~27節)

 

 それほどの極限の状態にあっても、パウロは「俺は、人にどう思われようとも、全く気にしない!」と断言したのであった。なんと強い姿勢だろうか。私も、パウロのようなブレない心を持ちたい。そう思う。「イエス以外のことなんで、ゴミクズだ!」そうパウロは言い放っている。

 

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

(ピリピ人への手紙 3章8節)

 

 

▼神はエリヤに何と言ったのか

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 旧約聖書ではどうか。預言者エリヤのケースを見てみよう。預言者エリヤは、主に北イスラエルで活躍した預言者である。彼は、イスラエルの神、【主】(しゅ)に従わず、バアルという異邦の神に仕えた王たちと戦った。彼は立派にその勤めを果たし、勝利したのだが、いわゆる「燃え尽き症候群」のようになってしまう。「私のいのちを取って下さい」と言っていることから、現代でいえば「うつ病」のような状態だったのかもしれないという人もいる。

 さて、そのエリヤが「燃え尽きた」シーンを見てみよう。

自分(エリや)は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

(中略)

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

(中略)

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。

主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。(中略)しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。

(列王記第一 19章4~18節)

 

 いかがだろうか。エリヤは絶望の状態にあった。「死にたい」と願うが死ねず、どこを探しても神を見つけられなかった。まさに、希望がないとはこのことである。しかし、神はエリヤにこのように宣言する。「わたしは、7000人を残してある」

 これは、「私の味方は誰もいない」と嘆いたエリヤへの答えである。「7000」という数字は、ヘブライ語において完全数「7」の千倍。圧倒的な量を表す数だ。「まだ見えない仲間を、たくさん残しているよ」。これが神の答えであった。

 「人の目」を気にしている人にありがちなのは、「私だけだったらどうしよう」という不安である。「こんなことしているのは私だけ」「他の人はみんな違う」「私だけ異質だ」。「一人ぼっちだ」。それが人間の根本的な恐怖である。

 しかし、神の言葉は違う。「私はあなたのために仲間を残している」それが神の約束である。私は、これは個人的にいわゆる「サイレント・マジョリティ」をも示唆した言葉でもあるのではないかなと受け取っている。

 新約聖書は、このエリヤのエピソードを、このように解説している。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。

(ローマ人への手紙 11章2~5節)

 

 イスラエルの民は見捨てられていない。神は必ずイスラエルに対する恵みを残されている。エリヤの話はその「型」である・・・これがローマ人への手紙の解説である。エリヤが「私だけが残った」と言ったが、神はその先々の時代までも含めて、「いや、まだ7000人を残している」と言ったのかもしれない。

 自分が一人ぼっちに思える時がある。しかし、神はその孤独感を知っておられる。そして、必ずその心に応じて報いてくださる。神は、そういうお方だ。

 

 

▼まとめ:人の目より、心に注目しよう

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 いかがだろうか。聖書は、現代の私たちにとっても励ましの言葉に溢れている。以下、今回紹介した事例をまとめてみよう。

<イエスの言葉>

他人が、イエスを信じる信仰をバカにしてきた時こそ喜ぶべきだ。

パリサイ派は人の目ばかり気にしているが、人からどう見られるかではなく、隠れたところにおられる神こそに気を配るべきだ。

パウロの言葉>

人にどんなに批判されようが、知ったこっちゃない。

・それどころか、自分で自分を評価することさえくだらない。

エスを信じる信仰に比べたら、他のどんなものもゴミクズ同然だ

<神のエリヤに対する言葉>

あなたは一人じゃない

・わたしは、「わたしのために」、他の仲間を残している

 

 あなたは一人じゃない。他の人にどう思われるか、気にしすぎるのは良くない。それは、裏を返せば、究極の自己中心だ。そうではなく、隠れたところに存在する神に気を配ってみてはどうか。神が見ている、「他者の心」に寄り添ってみてはどうだろうか。自分の「関心のベクトル」の方向が、自分から他者へと向きが変わる時、不思議とあなたの恐れや不安は、なくなっているかもしれない。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは土葬じゃないとダメなのか?

クリスチャンの埋葬は、どのようにすべきなのか? クリスチャンではない人に聞かれたので考えてみました。

 

 

▼クリスチャンの埋葬方法とは?

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 「クリスチャンって死んだ後、死体の埋葬はどうするの? 土葬じゃないといけないの?」ある日、友人からこんなことを聞かれた。「埋葬の方法」は、20代の私にとって、正直言って、あまり考えてこなかったテーマだ。しかし、人間いつ死ぬか分からない。自分の考えを、今のうちにまとめておくのも悪くはない。果たしてクリスチャンは土葬すべきなのか、それとも火葬がよいのか。はたまた別の方法があるのか・・・。

 「土葬」とは、死体をそのまま土に埋める行為を指す。日本語の法律用語では単純に「埋葬」というらしい。死体を火で焼いてから取り出した骨を埋葬する行為を「火葬」という。言わずもがな、日本では仏教の影響から「火葬」が主流となっている。

 さらっと法律を調べると、一応、日本でも「土葬」は可能のようだ。しかし、現実的には様々な許可を取らないといけないため、日本での「土葬」は、ほとんど不可能、というのが実態のようだ。東京や大阪などの大都市では、そもそも土葬を条例で禁止しているところも多い。

 一方、アメリカなどでは土葬が主流と聞く。土地が広大だから、という理由もあるだろうが、キリスト教の影響も否定できない。また、ユダヤ教は土葬である。これについては後で述べる。

 クリスチャンは、自分が死んだ後、どのような埋葬方法をとるのがふさわしいのだろうか。火葬でもよいのか。いや、土葬でなければいけないのか。聖書は何と言っているのか。今回は、少しデリケートな「埋葬」の方法について考えてみる。

 

 

▼クリスチャンの復活についての基本的信仰

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 クリスチャンは土葬するべきだ、という意見がある。なぜなのか考えてみよう。これは、ユダヤ教の考え方も大きく影響している。以下、クリスチャンの基本的な考え方をまとめてみた。もちろん、細かい点は諸説あるが、今回は大枠で考えていただきたい。

<クリスチャンの基本的な信仰>

・いつの日か、メシアであるイエスがこの地上に帰ってくる

・その時、死んでいる者たちはみな復活する

・その際、タイミング・方法・場所などについては諸説あるが、信じる者たちはメシアたるイエスと会う

・一人残らず最後のさばき(評定)を受け、イエスを信じる者たちはいつまでも主たる神・イエスと共にいるようになる

 

 このような考え方は、以下の聖書の言葉からも分かる。

<イエスの再臨>

そのとき人々は、人の子(イエス)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

(ルカの福音書 21章27節)

こう言ってから、イエス使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります

使徒の働き 1:9~11節)

 

<人間の復活とさばき>

神は主(イエス)をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

(コリント人への手紙第一 6章14節)

しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。(中略)また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

(コリント人への手紙第一 15章35~44節)

ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

(ダニエル書 12章2節)

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように

(ヘブル人への手紙 9章27節)

 

<復活した後に新しい存在となる>

兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

(コリント人への手紙第一 15章50~52節)

エスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(テサロニケ人への手紙第一 4章14~17節)

 

 ・・・以上は、クリスチャンの基本的な復活についての信仰である。細かい点は、解釈が分かれる部分が多いが、概ねこんなところだろう。

 死んだ後に復活するのだから、そのために死体をできるだけそのまま保存しておくべきだ。・・・このような考え方に基づき、ある人々は「クリスチャンは土葬すべき」と考えている。一定程度は理解はできるが、「果たしてそうなのか?」という疑問も残る。死体は、土葬であれ、火葬であれ、腐ったりしてしまったら、同じではないだろうか。であるなら、土葬でも火葬でも同じではないか? という疑問は拭えない。

 ここで一旦、ユダヤ教ではどういう考えなのか、見てみよう。

 

 

ユダヤ教の復活についての信仰

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エルサレム東部・オリーブ山のユダヤ教墓地(筆者撮影)

 ユダヤ教は「復活」についてどう考えているのか。実は、「メシアが来る時に死者が復活する」という考えは、ユダヤ教キリスト教も基本的には同じである。一部のユダヤ教の考え方では、メシアはエルサレム東部の「オリーブ山」に到来する。その際、復活して一刻も早くメシアに会えるようにと、オリーブ山には大量のユダヤ教墓地がある。聞くところによれば、この墓地は最高級の墓地で、偉業を成し遂げた指導者や、多額の献金をした人しか入れないのだという(ユダヤ教ツアーガイド談)。目覚めた時に、メシアと同じ場所にいるために、この墓地に入るのは最高の栄誉なのだとか。

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ユダヤ教徒の墓の上には、このような小石が置かれている場合が多い(筆者撮影)

 ユダヤ教には、誰かが死亡した後、24時間以内に埋葬しなければならない決まりがある。これは、おそらく中東の暑い気候によって、死体が早く腐敗してしまうからだろう。それゆえ、日本のような壮大な葬式は営まれない場合が多いという。

 ユダヤ教の墓の上には、たくさんの小石が積まれている。これは、死後30日は死者の霊が浮遊しているという迷信から、「自分は墓泥棒ではなく、お墓を大事にしに来たんですよ」という敬意を示すための行為だそうだ(ユダヤ教ツアーガイド談)。現代でも、この習慣は引き継がれている。ユダヤ教にとって、死体は丁寧にスピーディーに、敬意を持って扱うべきものである。自分の死体を粗末に扱われるのは、ユダヤ教徒にとっては最大級の屈辱なのだそうだ。

 

 話が少しそれたが、埋葬の方法は、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとっても信仰と直結する大切なものである。「復活」という信仰がある以上、死体を焼かずにそのまま埋葬するのは、論理的には正しいように思える。

 しかし、先述のとおり、死体をいくら保存しても、埋めれば腐ってしまう。ミイラのようにすれば一応は残るかもしれないが、シワシワのまま復活するわけにもいかないだろう。一方で、焼いてしまえば死体は灰になってしまうので残らない。一体、どこまでが「復活」できる範囲になるのだろうか。ここで、イエスが何と言っているか見てみよう。

 

 

バプテスマのヨハネは何と言ったのか

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 エスの時代にも、この「復活」をめぐる論争はあったようだ。詳細は、以前の記事を参考にしていただきたい。イエスは「復活はある」と明言した。では、その死体の扱いについて、イエスは何と言ったのだろうか。実は、イエスは直接「死体は土葬すべき」とか「火葬でもよい」などとは言っていない。しかし、それにつながるような発言は別の人物から出ている。バプテスマのヨハネである。見てみよう。

あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

(マタイの福音書 3章9節)

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

(ルカの福音書 3章8節)

 

 当時のユダヤ人たちは、「自分はアブラハムの子孫だから、既に救われている」と考えていた。「救い」の定義の議論は避けるが、簡単に言えば、ユダヤ人として生まれた段階で神に愛されている。だからユダヤ人として生まれただけで神の国の一員となれる、そう考えていたのだ。

 それに対し、バプテスマのヨハネは上のように指摘した。「神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫(イスラエル)を起こすことがおできになる」。それがバプテスマのヨハネの教えだった。これは、直接的に死体の埋葬方法を指示した言葉ではない。あくまでも、「ユダヤ人として生まれた者ではなく、神の計画に沿った者が神の国に入るのだ」と述べたのが本質的な意図である。

 しかし、この言葉から、「神は人間をどんな状態からも復活させることができる」とも読み取れる。石ころひとつからでも、アブラハムの子孫、つまりはすべての歴史上のイスラエル人を復活させることさえ、神の力をもってすれば可能なのである。であるならば、神に信頼して、一旦は死んだ人がどのような状態であろうとも、神の力によれば復活できると考えるのは、当然ではないか。もしかすると、ヨハネの「石ころ」という言葉は、先に述べた「ユダヤ教の墓の上の石ころ」から着想を得ているのかもしれない。もしかするとイエスも、墓の上にある石ころをつまんで、「神はこの石ころからでも、イスラエルを再興できるのだ」と言ったかもしれない・・・。

 そもそも、思い出してほしい。神は最初の人間アダムを、「ちり」から造ったのであった。「ちり」に「神の息」を吹き込むと、それは人(アダム)となった。それが土葬のように人の形をしていなくとも、またミイラのように保存されていなくとも、神の力をもってすれば復活するのだ。神は人間を「ちり」から造ることができる存在なのだ。

 神の力、そしてバプテスマのヨハネの「石ころひとつ」の言葉を信じるならば、土葬であろうが、火葬であろうが、どんな状態であっても「復活」できる。つまり、結論としては、クリスチャンは「土葬でも火葬でもどっちでもいい」のである。それぞれが、神に信頼して決断した方法で埋葬すれば良い。それが私の結論である。

 しかしながら、先述のとおり、日本では法的に「火葬」以外の埋葬方法はかなりハードルが高い。一部のキリスト教施設では土葬のような形が可能とも聞く。しかし、個人的にはそこまで無理をして土葬にこだわらなくとも良いと思う。日本の制度上、「火葬」が一番シンプルで、スムーズなやり方であろう。しかし、どんな形であっても、神は人をよみがえらせることがおできになる。埋葬の方法は、各々の信仰に従って選択すれば良いと思う。

 

 

▼オマケ:ひからびた骨からよみがえる

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 イエス時代以外にも、旧約聖書の預言の中で、「ひからびた骨が復活する」という描写がある。それは、エゼキエル書にある。少し長いが見てみよう。

主<しゅ>の御手が私<エゼキエル>の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る』」

私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ』」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──主のことば』」

エゼキエル書 37章1~14節)

 

 これは、一度滅ぼされたかのように見えたイスラエルの国が、また再興するという預言である。打ちのめされたイスラエルの民を「ひからびた骨」にたとえている。その骨に肉が生じてまた復活する描写は、イスラエルの国が、ボロボロの状態からまた再興する様子を表している。

 この聖書の部分は、一義的にはイスラエルの国家的再興の預言だ。そして、それは現実のものとなっている。神はこのように、何もないところから偉大なものを生み出すことのできる方である。無から有を生み出せる、唯一の存在である。その神に信頼するならば、たとえ自分の肉体が死後どのような状態になっていようとも、復活はできる。そこから肉を生じ、皮膚を生じ、また肉体としてよみがえることなど、神にとってはたやすいこと。クリスチャンにとって、埋葬方法は、悩むようなイシューではないと分かるだろう。

 

 興味深いことに、イスラム教では死後、魂は肉体を離れると考えているため、死体の扱いは粗雑である。エルサレムにあるイスラム教のお墓を見たことがあるが、ユダヤ教の墓とは違い、かなり汚く、丁寧な扱いを受けていない印象だった。

 このように、信仰と死体の扱いは、かなり密接につながっている。クリスチャンとしても、自分の死後、肉体をどう扱うか、今一度考えてみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、神は石ころ一つからでも、アブラハムの子孫を起こすことができるのだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【聖書】『新改訳2017』で、何がどう変わったのか?

新改訳聖書」は2017年に新しい翻訳が出ました。何が、どう変わったのでしょうか?

 

 

▼47年ぶりの「大改訂」をした「新改訳」

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 日本語の聖書には、いくつかの種類がある。最も古い本格的な翻訳は「明治元訳」と呼ばれ、のちに「大正訳」となり、現代の「文語訳聖書」となった。文語訳聖書を現代風に改定したものが「口語訳」である。日本で最もメジャーな翻訳は「共同訳」であろう。「新共同訳聖書」にさらに手を加えた「聖書協会共同訳」が2018年に出版されている。

 もうひとつ有名な聖書の翻訳がある。「新改訳聖書」である。1970年に初版が発行。2008年には第3版が出された。そして、2017年には47年ぶりの「大改訂」を行い、「新改訳聖書2017」が刊行となった。

 「大改訂」というのだから、大幅な変更があるはずだ。しかし、分厚い聖書を手にとっても、イマイチどこが変わったのか分からない。一体、何が変わったのだろうか。細部の変更に気がついても、「なぜそう変えたのか」という理由までは分からない。かくいう私も「新改訳聖書2017」を手に取り読んでみたところ、様々な変化には気がついたものの、その理由までは分からずにモヤモヤしていた。

 しかし、2019年1月に、このような本が出版された。

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「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]

 

 この本は新改訳聖書2017」をどういう意図をもって翻訳したのか、文字通り「何を、どう変えたのか」を検証し、明らかにする本である。

 今回は、この「聖書翻訳を語る」の本を読んだ上で、私が「オモシロイ」と思った3つのポイントを紹介する。

 

 

▼1:いけにえの名称

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 「新改訳聖書2017」を読んで、まず気になった変化が「いけにえ」の名称である。聖書には、主ないけにえの種類が5つある。まとめてみよう(レビ記1~5章参照)

 

【いけにえの名称】

新改訳聖書第3版>ヘブライ語

1:全焼のいけにえ(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:和解のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のためのいけにえ(ハッタート)

5:罪過のためのいけにえ(アーシャーム)

新改訳聖書2017>ヘブライ語

1:全焼のささげ物(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:交わりのいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のきよめのささげ物(ハッタート)

5:代償のささげ物(アーシャーム)

 

 どうだろうか。2番目の「穀物のささげ物」以外の名称は、大胆に変更となっている。どうして、このような変更が行われたのか。「聖書翻訳を語る」によると、概ね以下が変更の理由である。

ヘブライ語「ゼバハ」をどう訳すか>

・「いけにえ」を表すヘブライ語「ゼバハ」は、3番の「和解のいけにえ」を指し、他の4つとは明確に違う

・それゆえ、3番の「和解のいけにえ」と他の4つを区別する必要がある

・「ゼバハ」は単体でも「いけにえ」という意味である。またほとんどの場合が「ゼバハ」だけでも、実質的には「ゼバハ・シュラミーム」=「和解のいけにえ」と同じ意味であるから、3番から「いけにえ」という単語を外すわけにはいかない

・また「和解のいけにえ」は、神にささげた動物を、後に調理して、仲間同士で食事を一緒にするという意味も含まれていた

・このような点から、より仲間内の人間関係を強調するために「和解のいけにえ」から「交わりのいけにえ」(fellowship=交わり)と訳を変更した

<日本語の「いけにえ」の意義>

・一方、日本語の「いけにえ」は「動物」をささげる場合に限って用いる

・しかし、「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」には、動物以外の小麦粉などをささげる記述もある

・また、「全焼のいけにえ」のヘブライ語オーラー」は「いけにえ」と訳す「ゼバハ」とは完全に違う概念であるので、別の日本語を充てる方が望ましい。

・よって、3番以外の「いけにえ」については、「ささげ物」と統一されることになった

<まとめると・・・>

よりヘブライ語のニュアンスに近い名称となった(「ゼバハ」とそれ以外を区別)

「オーラー」と「ゼバハ」を区別した名称となった

一緒に食事をする「交わり」が強調された名称となった

・日本語の「いけにえ」の意味を狭める名称となった(「ゼバハ」のみが「いけにえ」となった)

 

 いかがだろうか。多少難しいかもしれないが、個人的には納得のいく解説だった。特に、聖書を読むと、「いけにえ」は神の前で動物を燃やすだけではなく、その後の食事が重要でもあったので、神と仲間同士の人間関係を強調する「交わり」という言葉が入ったのは、評価に値すると思う。

 

 ちなみに、「聖書協会共同訳」では以下のようになっている。

<聖書協会共同訳の”いけにえ”>

1:焼き尽くすいけにえ(オーラー)

2:穀物の供え物(ミンハー)

3:会食のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:清めのいけにえ(ハッタート)

5:償いのいけにえ(アーシャーム)

 

 

▼2:「偽りの証言」について

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 ヘブライ語については、新改訳聖書の翻訳チームのリーダーである津村俊夫氏が、詳細な解説を書いている。中には「マニアックすぎやろ・・・」というマイナーチェンジや解説もある。「SO WHAT感」が否めないものも正直ある。しかし、その中には、根本的なクリスチャンの価値観を変える変更もある。今回は、私が特に重要・オモシロイと思った2つを紹介する。

 

 有名な「十戒」のひとつ、「偽りの証言をしてはならない」について、「新改訳聖書2017」では大きな変更が加えられた。見てみよう。

新改訳聖書第3版>

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

新改訳聖書2017>

あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

 

 いかがだろうか。「隣人に対し」という部分が、「隣人について」に変わっている。これについて、「聖書翻訳を語る」の本はこのように語っている。

出エジプト記20章16節は、第3版までは「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と訳されてきた。これでは「隣人を目の前にして」嘘を言うということに理解されてしまう。しかし、ここで禁止されていることは、第一義的には、法廷において「隣人のことで」偽りの証言をしてはならないということである。原文を直訳すれば、「あなたの隣人のことで、偽りの証言で(副詞的大正)答えてはならない」となる。英訳はほとんどすべて、”You shall not bear false witness against your neighbor”(「あなたはあなたの隣人に対する偽りの証言をしてはならない」)であるが、英語の”against”に影響されて「~に対し、偽りの証言をする」と訳されたではないかと思われる。しかし、ヘブル語の前置詞 b(ב)は「について、において」という意味もあるから、新改訳2017では「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と改訳している。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]106-107頁)

 

 いかがだろうか。この部分を用いて、クリスチャンは「嘘はNG」のような思い込みがあるが、実は違う。これは、コミュニティ内の「裁判」で「隣人についての偽証」を禁じた部分である。実は、聖書は「嘘」が全て悪いとは言っていないのだ。

 余談だが、私は、入社面接の際に、当時の社長に「聖書には嘘をついてはいかんと書いてあるだろう」と前置きされた上で、「競合とウチどっちに来るんだ」と問いただされたことがあった。聖書をダシに使うとは、社長もヤリ手である。「もちろん御社です」という言葉が真になってしまった結果、今の会社で働いている。

 

 

▼3:ヘブライ語独特の文法

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 聖書ヘブライ語の文法は、ややこしいものが多く、現代の日本人にとって理解するのは困難な部分もある。この本では、特に「談話文法」についての解説が詳しく書いてある。見てみよう。

ロングエーカー等による最近のヘブル語「談話文法」(文を越えた文章の文法)の理論によれば、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は、従来のように①「現在・未来」(非過去)のテンスを意味するだけではなく、文脈によっては、②「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW)それが起こったのかを述べる。

それゆえ、(サムエル記第二7章)9節後半で(B]「接続詞+完了動詞」が用いられているのは、①テンスが過去から現在・未来に変化したのではなく、②直前までの出来事が「どのようにして」起こったのかを説明しているだけである。

(中略)

ヘブル語の動詞は、英語のようなインド・ヨーロッパ語とは違って、「テンス」(時制)というよりは、どちらかというと、「アスペクト」(相)で考えたほうが良いということになる。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]126-127頁)

 

 ・・・書いた人(津村氏)の頭が良すぎて、何のこっちゃ分からないが、具体例を見ると良く分かる。サムエル記第一17章38節を見てみよう。まずは、新改訳2017以前の主な翻訳を比べてみる。少年ダビデが、かの有名なゴリアテを倒す直前に、サウル王に接見し、よろいやかぶとを着せられるシーンである。

<口語訳>

そしてサウルは自分のいくさ衣ダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。

<新共同訳>

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。

<新改訳第3版>

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。

フランシスコ会訳>

ダビデに自分の衣服を着せ、頭に青銅の兜をかぶらせ、鎧を着せた。

<岩波訳>

サウルは、ダビデに自分のを着せた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、[身には]よろいを着けさせた。(注:後半部分は七十人訳に欠ける)

 

 最後の岩波訳が「(ギリシャ語翻訳の)七十人訳には欠ける」と書いてあることから分かるように、後半部分をどう翻訳するかは、古くから難題であったようだ。

 この文章には2つの部分がある。

(A):サウルはダビデに自分の武具(装束)を着せた

(B):青銅のかぶとを彼(ダビデ)の頭にのせ、よろいを彼(ダビデ)に着せた

 

 まず、新改訳以外の翻訳は(A)の部分を「装束」などと訳している。よろいの前に着る、下着のような物だ。一方、新改訳は「よろいかぶと」と武具を指す用語を使っている。これは、ヘブライ語では「マド」という単語で、辞書をひくと「よろい」または「上着」のようなものを指すようだ。英語は「tunic」(ギリシャ兵の上着)や「armor」(よろい)が多数派である。下着のような「装束」は少しニュアンスが違うかもしれない。

 しかし、ここで問題が発生する。(A)を行っていたら、すでに「よろいかぶと」は装着しているはずなのだ。しかし、(B)で「かぶと」と「よろい」をもう一度装着してしまっている。同じ行為を、二度も描写するだろうか。それゆえ、日本語のほとんどの翻訳は、矛盾しないように(A)の方の「マド」を「装束」と訳しているのだと想像される。

 だが、「聖書翻訳を語る」はこう解説する。見てみよう。

この箇所も、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW))それが起こったのかを述べるという、上の原則を当てはめて考えるとよいのではないか。

 

(WHAT)サウルはダビデに自分の武具を着けさせた

(HOW)頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである

 

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]128頁)

 

 いかがだろうか・・・。つまり、この(A)も(B)も、同じ出来事を描写しているのである。(A)で何が起こったのかを説明し、(B)で、「どうやってその出来事が起きたか」の詳細を説明しているのである。日本風に例えれば、こんなところだ。

(A):太郎くんはおつかいに出かけて大根を買った。

(B):玄関のドアを出て、八百屋に行き、150円を払って大根を買ったのである。

 

 つまり、上記のサムエル記第一の場面では、(A)サウル王が少年ダビデに自分のよろいを着せた、という事実を、(B)先にかぶとをかぶらせて、その後によろいを着せた、という説明で補足しているのである。(A)と(B)の間に「どうやってやったかと言うと・・・」という文が省略されているのである。省略というか、この文法の組み合わせがあると、自然とそういう意味になる言語なのである。

 ふつう、よろいを着る際は、かぶとより先によろいを着るものである。かぶとを先にかぶってしまったら、それからよろいは着られない。よろいを着るためには、かぶとを脱がなければならない。二度手間である。そんなサウル王の様子を、「聖書翻訳を語る」の本はこう書いている。

この後半の、まず「かぶと」をかぶらせ、次に「よろい」を着けさせるという、通常の順序とは反対のことを行ったサウルの慌て振りを、さりげなく揶揄しているのであろう。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]129頁)

 

 その研究の結果、「新改訳聖書2017」では以下のような翻訳になっている。

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。

(サムエル記第一 17章38節 新改訳聖書2017)

 

 聖書は、ヘブライ語ギリシャ語で書かれている(+一部アラム語)。より細かく、正しく理解できるよう、日々研究は進んでいる。その研究の成果が、新しい翻訳に反映されている。このような細かい違いだが、全くニュアンスが変わってしまうような表現が、新しい翻訳にはたくさん隠れている。ぜひ、読者の皆様も、「新改訳聖書2017」を読む機会があれば、読んでいただきたい。そして、「あれ?」と違和感を覚えたら、ぜひ今まで使っていた翻訳と比べてみてほしい。

 

 

▼おまけ:「新改訳」の権利問題と「聴くドラマ聖書」の登場

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 最後に、「新改訳聖書2017」の誕生には、多くのドラマがあったと述べておきたい。実は、「新改訳聖書」は、近年まで権利をアメリカの財団が保有していた。しかも、日本人の翻訳者たちには詳細が知らされない形で、勝手に権利がアメリカの財団のものになっていたようである。

 あろうことか、さすがは訴訟大国アメリカ。なんと聖書の翻訳をめぐって、「著作権侵害」だとの訴訟が起こってしまったのである。新改訳聖書著作権は、日本人の手を離れる危険さえもあったのだ。それゆえ、「新改訳聖書」は権利の問題がややこしく、アプリ開発などが自由にできなかったと耳にする。確かに、アプリなどで出てくるのは口語訳や共同訳ばかりで、新改訳のものは圧倒的に少ない。

 紆余曲折を経て、多額の(本来払う義務がない)賠償金を払い、2008年にようやく著作権が日本側に戻ってきた。そして、その10年後の2017年に、初版から47年ぶりの「大改訂」が行われたのであった。詳細は下記のリンクに書いてあるが、察するに想像を絶する戦いと、裁判の実務と、超多額の賠償金と、祈りが積まれた結果、現在の「新改訳聖書2017」が存在するのだと知った。私は裁判の当事者ではないし、つぶさに詳細を知っているわけではない。多くを語るのは避けよう。しかし、多くの方々の努力の上に聖書の翻訳が成り立っている事実は、明記しておきたい。

▼参考リンク

 https://www.seisho.or.jp/archives/about-ssk/#

 

 また、これは著作権と関連があるかは分からないが、つい先日「聴くドラマ聖書」というアプリがローンチされた。

graceandmercy.or.jp

 これは、日本の俳優陣が聖書を朗読したものを聞ける、いわゆる「オーディオバイブル」である。なんと、無料。朗読のクオリティや、BGM、インターフェースなど、これまでのモノに比べて、かなりクオリティが高いので、筆者もそこそこ満足している。まだβ版なので、使用感はイマイチな部分もあるが、これから改善されるだろう。

 この「聴くドラマ聖書」は、「新改訳聖書2017」を使用している。つまり、今まで「新改訳聖書」のアプリは、これまで3000円ほどかかっていたところ、このアプリをダウンロードすれば、なんと「無料」で聖書が読めてしまうのである!

 「聴くドラマ聖書」を「聴かない」という裏技ではあるが、縦書きモードもあるので、縦書き派の方々も満足できる仕様になっている。もし聖書に興味がある方がいれば、ぜひこのアプリをダウンロードして、今日から聖書を読んでみてはいかがだろうか。このような自由のアプリ開発も、翻訳の著作権が戻ってきたことによる影響が大きいのではないだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンが求めるべきものとは?

求めよ、さらば与えられん・・・有名な言葉ですが、クリスチャンが本当に求めるべきなのは、どんなものなのでしょうか?

 

 

▼何を求めたらいいのか・・・?

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 クリスチャンでなくとも、一度は聞いたであろう、有名な言葉がある。「求めよ、されば与えられん」。他でもない、イエスの言葉である。現代的な翻訳では、このようになっている。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

(マタイの福音書 7章7節)

 

 イエスの教えはシンプルだ。「求めれば、与えられる」。しかし、肝心の「何を求めるのか」という点については直接の言及はない。一体、何を求めよというのだろう。何と、この言葉は日本語の辞書にも載っている。調べてみた。

【求めよさらば与えられん】

新約聖書「マタイ伝」から》「神に祈り求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。

小学館デジタル大辞泉

【求めよさらば与えられん】〔マタイ福音書七章〕

信仰の主体的決断を説いたイエスの言葉。転じて、与えられるのを待つのではなく、何事にも自分から求める積極的な姿勢が必要であることをいう。

三省堂大辞林第三版)

 

 なるほど、日本の一般的な辞書は、「信仰を求めよ」という意味で捉えているらしい。確かに、そう考えれば合点がいくように思える。しかし、本当にそう言い切っていいのだろうか。

 同じ場面を、ルカの福音書ではこう書いている。

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます

(ルカの福音書 11章9~13節)

 

 これを見ると、エスは「聖霊」についての話をしているようにも思える。信仰を与えるのは聖霊の働きだが、果たしてそれだけを求めればいいのだろうか。

 また、マタイの福音書の前の部分では、こうも書いている。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6章33節)

 

 この流れから「求めなさい」と言っていると考えた場合、求めるべきは「神の国」になるのではないか? という考え方も、不自然ではない。

 人によっては、「何でも求めていいのだ」という人もいる。「経済的な祝福を求めれば与えられる」と解釈する人たちもいる。また「神の導きを求めれば道が拓かれる」と解釈する人もいる。「いや、聖霊だけを指すのだ」という人たちもいる。一体、イエスはどんな意図でこの発言をしたのだろうか。クリスチャンが本当に求めるべきものは、一体何なのだろうか。

 今回は、聖書に出てくる4人の人物が求めたものに注目し、これらの疑問を紐解いていきたいと思う。

 

 

▼例1:エサウは何を求めたか

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 私が「求めた」という単語から、まず思い出したのが「エサウ」である。エサウは、イサクの長男。双子の兄であり、弟はヤコブであった。アブラハムの孫にあたる。エサウは、一体何を求めたのだろうか。聖書をひらいてみよう。

イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために」父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう」エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった」エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか」エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も」エサウは声をあげて泣いた。

(創世記 27章 30~39節)

 

 エサウは、「長子の権利の祝福」を求めた。アブラハムが神と契約を交わしたその祝福を、イサクは受け継いでいた。そのイサクの祝福は、本来は長男であるエサウが引き継ぐものと思われていた。しかし、あるとき、エサウは空腹だったので、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに、弟のヤコブにその権利を売ってしまった。この部分を読んでいただきたい。

さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。エサウヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

(創世記 25章29~34節)

 

 さて、エサウの軽率な言動の結果、エサウが引き継ぐはずの「祝福」は、弟ヤコブに与えられてしまった。もちろん、母リベカと弟ヤコブの策略もあったのだが、本質的にはエサウが権利を売ってしまったのが原因である。エサウは「私も祝福してください」と懇願したが、彼のための祝福は残されていなかった。彼の状況を、新約聖書はこう描写している。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

(ヘブル人への手紙 12章16~17節)

 

 彼が求めたものは「祝福」であった。しかし、彼にはその祝福は与えられなかった。もし、イエスの言葉が「何でも求めてよい、そうすれば与えられる」という意味であれば、エサウは与えられてよいはずである。しかし、彼には祝福が残されてはいなかった。なぜなのだろうか。

 私は、このヘブル人への手紙を読んだとき、率直に「エサウがかわいそう」と思った。なぜか。元はといえば彼のものであった祝福を、母リベカと弟ヤコブが騙して奪ったかのように思えたからである。それなのに、騙されたエサウは祝福を受け継げなかった。涙を流してさえも、彼の願いは叶わなかった。その上、「俗悪な者」とまで書かれている。なぜなのだろうか。

 ここでやはり、エサウの言動を細かくチェックする必要がある。私は、彼の言葉の「私を祝福してください。私」(創世記27章34、38節)という部分に注目した。ヘブライ語では「バラケニー・ガム・アニー」。「ガム」は文字通り、「私も祝福してください」という意味である。「私も」ということは、ヤコブへの祝福に、自分も加えてくれという意図がある。

 しかし、エサウは本質を見失っている。彼は、自分自身で、たった一つの権利を売ったのである。しかも、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに。もし、彼が本当に「悔い改めて」、反省して涙を流したのであれば、最初に「軽率なことをしてしまった」という反省の弁が出るはずである。しかし、彼は「私も祝福してください」と懇願したのであった。彼が望んだのは、祝福だけだった。反省せずに、ただ貰えるはずのものを貰えなかったので、懇願しただけであった。36節では「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」と、父イサクのせいにしている。彼は祝福がもらえなかったので大声で泣き叫んで、ダダをこねただけだった。エサウの心は変わっていなかったのだ。 

 ヘブル人の手紙にはこう書いてある。エサウは、「心を変えてもらう余地がなかった」(新改訳3版)と。新改訳聖書2017では「彼には悔い改めの機会が残っていなかった」と書いてある。ここに本質がある。

 私はやはり「何でも求めれば、望み通り与えられる」という主張には、納得できない。現に与えられない人もいるからである。その大きな要因のひとつに、「心の動機」があるのではないか。エサウの心の動機は「祝福がほしい」だった。しかし、彼には軽率にその祝福を手放してしまった。しかも、その過失に対する反省がなかった。そして、彼はひとつしかない祝福を逃してしまったのであった。

 イエスはこう言っている。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

ヨハネ福音書 15章7節)

 

 

▼例2:ソロモンは何を求めたか

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 「求めた」というキーワードで、次に思い出すのはソロモン王である。有名なエピソードだが、見てみよう。

ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

(列王記第一 3章 5~10節)

 

 ソロモン王は、神に「何が欲しいか」と問われ、「民をさばくための聞き分ける心」を求めた。よくソロモン王は「知恵」を求めたと言われているが、厳密に言えば「判断力」「統治力」が正しい。ソロモンの願いは、父ダビデの時代に強大になったイスラエル王国を治めるための、王としての矜持が感じられる。

 実際に、ソロモンには適切な判断力が与えられたようだ。列王記第一3章にあるエピソードは、彼の知恵を示す代表的なものである。簡単に説明すれば、ある日、2人の女が1人の赤子をソロモンのもとに連れてきた。2人とも、その子は自分の子だと主張する。「私の子だ」「いや、私の子だ」という、水掛け論を、ソロモンはこのように治めた。「生きている子を2つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」。サイコパスにも程がある。

 しかし、これが上手くいった。実の母親は、子どものかわいさあまり、子どもが真っ二つにされることよりも、むしろ自分の手を離れて生きる道を望んだ。本当の母親でない方は、真っ二つにするよう望んだのである(これ自体がサイコパスだが・・・)。もちろん、本物の母親は前者であった。

 ソロモンは素晴らしい判断力でイスラエルの国を統治した。では、ソロモンは完璧な判断力を持った王となったのであろうか。いや、そうではない。彼は政治においては力を発揮したかもしれない。しかし、神に対して忠実ではなかった。彼は、力が強くなるにつれ、諸外国の女性を妻としてめとるようになった。彼には700人の妻と、300人のそばめがいたという。その多くが政略結婚だったのだろうが、諸外国の女たちを妻にした結果、ソロモンは諸外国の神々をも崇拝するようになってしまったのだ。彼は、外国の神々を崇拝する儀式や伝統、文化を取り入れてしまったのであった。聖書にはこう書いてある。

彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11章3節)

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。

(ネヘミヤ記 13:26)

 

 ソロモンが、なんと失敗した例として言及されているのである。偉大な王であるはずのソロモンが、実は後の時代に、こんなにもこき下ろされているのである。彼は本当に知恵のある王だったのだろうか。否。彼は失敗し、その失敗を修正できなかった王である。彼は本当に識別力のある王だったのだろうか。否。彼は神に対して忠実ではなかった。

 ソロモンが「判断力」を求めたエピソードは、クリスチャンの間でよく「模範解答」として紹介される。しかし、本当にそうなのだろうか。私は、ソロモンの答えは、「長寿」「敵の失墜」「富」を求めなかったという意味では「及第点」だとは思う。しかし、決して「ベスト」ではなかったと思っている。では、何がベストだったのか。彼の父、ダビデを見てみよう。

 

 

▼例3:ダビデは何を求めたか

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 ダビデは何を求めたのだろうか。聖書を見てみよう。

まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

詩篇 23篇6節)

一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

詩篇 27篇4節)

 

 ダビデは、神と共に生きる人生を求めた。ダビデは、いくつもの失敗をした。自分の部下を殺して、その妻を略奪した。おそらくは自分の力を誇示するために、神の意思を聞かずに人口調査をした。そして、自分の子どもたちを正しく教育できなかった・・・。

 しかし、ダビデはこのように評価されている。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

(列王記第一 11章4節)

彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。(中略)それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。

(列王記第一 15章3~5節)

 

 いかがだろうか。これ以上ない、絶賛の嵐。最高の称賛を、ダビデは受けている。ダビデは「心が主とひとつになっていた」のである。

 ダビデは、あらゆる意味で失敗をした。しかし、彼はその度に神の前に反省し、深く自分の行いを悔いて、「歩み」を改めた。その結果、彼は「主と共に歩んだ」「彼の心は一生涯主とひとつであった」と評価されているのである。

 実は、この「主と共に歩む」「心が主とひとつになる」という点で、共通している人物がいる。他でもない、イエスである。

 

 

▼例4:イエスは何を求めたか

 イエスは自分自身を、どのように表現したか。見てみよう。

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10章30節)

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5章18節)

 

 どうだろうか。エスは、自分の言葉も、行いも、そして心も、全て父(神)とひとつだと宣言したのである。ダビデが神と共に歩んだのと同じ、いや、それ以上にイエスは神と共に歩み、神と心ひとつになっていたのである。

 そして、イエスは自分だけではなく、自分を信じる者たちが、神とひとつになれるように、祈った。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

ヨハネ福音書 17章20~23節)

 

 「彼らが父よ、あなたに留まるように」それがイエスの切実な祈りであった。エスは、何よりも、クリスチャンが神と心ひとつになり、神と共に生きるように祈ったのである。

 イエスは、クリスチャンが毎週日曜日に教会に通えるように祈っていない。イエスは、クリスチャンが聖書を学問的に学ぶ知識が与えられるようには祈っていない。イエスは、クリスチャンが「奉仕」をするように祈っていない。エスは、クリスチャンたちが「すべての人が父なる神のもとにひとつになる」ように祈ったのである。

 

▼神と共に生きること

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 本題に戻ろう。「求めよ。されば与えられん」。この言葉は、何を求めよと言っているのか。私は、クリスチャンが本当に求めるべきは、「神と共に歩むこと」そして「神と心ひとつになること」、この2つに尽きると思う。実は、その2つに神が定める「生き方」が内包されていると言っても過言ではない。

 昨今、「求めよ。されば与えられん」を用いて、「何でも神様に求めなさい」という教えを、よく耳にする。確かに、神には何だって求めてもよいとは思う。経済的祝福であれ、自分の昇進であれ、高級な車であれ、日々の必要なものであれ、人間関係の改善であれ、病気の癒やしであれ、晴天であれ、彼氏や彼女であれ、それを求めたければ何だって神に求めればよいとは思う。

 しかし、その際に3つのことを念頭に置く必要がある。

1:エサウのように「心の動機」が問われる(参考:ヤコブの手紙4章3節)

2:それが必ず自分の思い通りのタイミングや方法、見える形で与えられるとは限らない

3:全てを決定し、実行するのは神である

 

 モーセは、約束の地に入りたいと願った。しかし、神は「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」と言った(申命記3章26節)。パウロは、「自分にあるとげ」を抜いてくださいと3度も神に願った。しかし、神の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である」(コリント人への手紙第二12章9節)だった。どちらも、彼らが願う方法では願いは叶えられなかった。

 イエスは、こうも言っている。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章29~34節)

 

 このようなイエスの言葉を信じれば、いたずらに「富を求める」行為は、必ずしも神に喜ばれる願いではないような気が、私はしてしまう。大切なのは、やっぱり心の動機であるのは、間違いないだろう。富を得た結果、何に使いたいのか。それを、神を見ている気がする。

 

 求めるものは求め、願うものは願ったらいいと思う。与えるも、与えないも、神の計画次第。大切なのは結果を神に委ねること。そして、何よりも「神と共に歩む」こと、「神と心ひとつ」にされるよう求めること。これは聖霊の助けなしにはできない生き方である。だからこそ、「聖霊の助け」を求める。これが、イエスが語ったことの真髄ではないか・・・と、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。 

【疑問】牧師は「礼拝会」を休んじゃダメなのか?

牧師たるもの、毎週日曜日の「礼拝会」を休んじゃいけないんだそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼牧師の子どもはカワイソウ?

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 牧師の子どもはかわいそうだ。こんな意見をツイッターで見かけた。なぜかというと、「牧師の子どもは日曜日のイベント、例えば運動会や、部活の試合の応援などに来てくれないから」だという。確かに、子どもの晴れ舞台に親が臨場できなければ、子どもにとっては寂しいだろう。

 なぜ牧師は日曜日のイベントに来られないのか。「牧師は必ず日曜日の礼拝会に出席しなければならない為」だという。なぜ日曜日の礼拝会に出席しなければいけないかと聞くと、「多くの教会が牧師の欠席を許さないから」だという。

 ここまで聞いて、私はひとつ疑問に思った。「聖書には何と書いてあるのだろう」。SNSなどで散見される意見を見ると、多くの牧師たちは、「日曜日の礼拝会を休んではいけない」と思っているようだ。しかし、その根拠は何なのか。

 クリスチャンたるもの、その信仰の基盤になっている聖書の言葉から根拠を見つけなければならない。「みんながそう言っているから」では、ちょっと根拠に乏しいと感じる。では、聖書はどう書いているのか。「礼拝会」は、休んではいけないものなのか? 牧師は教会を導く「船頭」なのか? 教会の目的は何なのか? そして、現代の教会に必要な姿とは、どんなものなのか。簡潔にまとめたい。

 なお、この記事は「礼拝」の価値観や、「教会」の価値観についての、これまでの記事の内容に多分に依拠するものである。私のこれまでの主張は、下記の記事を参考にしていただきたい。それでは、始めよう。

 

<参考リンク>

【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか? - 週刊イエス

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?! - 週刊イエス

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?! - 週刊イエス

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか? - 週刊イエス

 

 

▼「礼拝会」は休んではいけないものなのか?

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 ほとんどの教会が、毎週日曜日に行っている「礼拝」と称する集会がある。私の今までの記事を読んでいただければわかるが、それらは「礼拝」ではない。日曜の集会は、「礼拝」ではなく、ただ一堂に会するための「礼拝会」である。「礼拝」とは、「神に自分自身をささげる生き方」であって、集会を指すのではない。

 では、この「礼拝会」は休んではいけないものなのだろうか。結論から言えば、絶対にNOである。詳しくは、以下の記事を参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 日曜日に集まる習慣は、ヨーロッパの土着信仰とミックスした結果の、ただの合理的なルーティンである。そこに聖書による根拠はない。イエスの復活や、ペンテコステは日曜に起こったが、その日に集まる根拠としては弱いように思われる(※安息日の7日目の次の時代、すなわち「8日目の時代」に入ったという面白い視点はあるが、この記事では言及は避ける)。日曜に必ず集まるべしとの考えは、金曜の日没から土曜の日没までにかけてを「安息日」として、厳しくルールを守っているユダヤ教の考えに影響を受けたものである。

 むしろ、聖書を読めば、クリスチャンにとっては「毎日が安息日」であり、「集まれるなら毎日集まるべき」であるし、「24時間365日が礼拝」なのである。それが筆者の基本的な考えである。したがって、クリスチャンは毎週必ず日曜日に教会の「礼拝会」に出席しなければならないという考えは誤りである。

 

 では、「牧師」という立場に限って考えてみよう。なぜ「牧師は日曜日の礼拝会を欠席してはならぬ!」と考える人がいるのだろうか。疑問に思ったので、とある人に聞いてみたところ、こんな返事が返ってきた。

ひとつの群れ(教会)を導く導き手は、1人の方が良いんです

 どういうことだろうか。これは簡単に言えば、「リーダーは1人でないと、正しいゴールにたどり着けない」という意味である。リーダーが何人もいると、意見がバラバラになって、結果的にメンバーもバラバラになってしまう。確かにその主張は一見、論理的に思える。ワントップで動く集団の方が、目標設定も明確だし、意思決定も早いし、動きやすい。逆にそれぞれがバラバラの意見のまま進んでいくと、いつまでたってもまとまりのない集団になってしまう。良し悪しはさておき、まるでどこかの与党と野党のようである。

 この考えのベースには、前提がある。それは、「牧師が教会のリーダーである」という考えだ。牧師が教会のリーダーであるのならば、日曜の礼拝会に牧師が出席しなければ、「導き手」が存在しないことになり、確かにそれはよろしくない。もっと言えば、多くの場合、牧師が行う「説教・メッセージ」が礼拝会のメインディッシュと考えている人もいる。そして、多くの人が「説教は牧師だけの特権である」と考えている。その場合、牧師がいなければ「説教」を行う人がいなくなってしまう。だから、牧師が礼拝会を欠席すると、困ってしまう。こういうロジックだ。

 ちょっと考えを整理してみよう。

<前提条件>

1:リーダーは1人であるべきだ

2:牧師は教会のリーダーである

3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ

4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである

5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない 

<以上の条件から導き出される結論>

・教会の唯一のリーダーであり、礼拝会のメインディッシュである「説教」を行う権利を持つただ一人の存在、すなわち「牧師」が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである。

 

 以上が、「牧師は日曜日の礼拝会を休んではいけない」と考える人のロジックである。

  さて、聖書はどう言っているのだろうか。順番に見ていこう。

 

 

▼「牧師」が群れを導くなどという妄想

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 いくつかの前提をもとに導き出した結論か正しいか判断するためには、まずその前提が正しいか検証する必要がある。順番に見ていこう。

 

<前提1:リーダーは1人であるべきだ>

 リーダーは1人であるべきなのか。これは聖書の記述とは直接関係ないかもしれないが、私個人の意見を言うならば、「YES & NO」である。

 確かに、意思決定プロセスはひとつに定めていた方が良い。意思決定の早さ、確実さ、一貫性を保つためにも、意思決定プロセスの明確さは必要である。教会によっては、最終的な意思決定を牧師がするところもある。または、リーダーシップをとるチームで判断する場合もある。また、教会によってはメンバー全員の多数決で決めるところもある。カトリックなどは、本部の決定が全てであり、組織的な意思決定プロセスが明確になっている。

 この意思決定プロセスが明確ではないと、必ず意見の相違が出た場合に争いが起きる。今回は、どのプロセスが優れていると論じるつもりはない。それぞれにメリットとデメリットがある。

 しかし、聖書はこう教えてはいないだろうか。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)

 確かに、意思決定プロセスは、ひとつに絞り、明確であった方が合理的かもしれない。しかし、人間の目に見えることが、必ずしも正しいとは限らない。聖書にはこう書いてある。

人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

箴言 14章12節・16章25節)(全く同じ文)

 これは、「人間の目に合理的・正義に見えるものが、必ずしも正しいとは限らない」とも読めないだろうか。その点から見ても、「リーダーは1人」という点に固執する必要はないのではないか。意思決定プロセスは明確にしつつも、同じ教会の中では、互いに仕え合い、互いの意見を尊重して平和を保つのが重要である。

 

<前提2:牧師は教会のリーダーである>

 これは明確に間違っている前提だ。聖書をひらこう。

キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

(エペソ人への手紙 5章23節)

また、御子(イエス)はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

(コロサイ人への手紙 1章18節)

 教会のリーダーは「牧師」ではなく「イエス・キリスト」である。エスの言葉は聖書に書いてある。イエスの性質・神の性質は、旧約聖書新約聖書の両方に書いてある。教会が一番に聞くべきは、牧師の「説教」ではなく、聖書の言葉、すなわち「神の言葉」である。牧師は教会のリーダーなどではなく、教会の役割の一つである。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

(エペソ人への手紙 4章11節)

 だから、「牧師が教会のリーダー」と考えている人は、今すぐその考えを改めた方がよい。

 

<前提3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ>

 これも明確な間違いである。この価値観については、何度もこのブログで取り上げたので、今回はいちいち論じるのはやめる。上に述べたように、クリスチャンにとっては毎日が礼拝である。礼拝会は便宜上、クリスチャンたちが「励まし合い」「教え合い」「支え合い」「愛し合う」ために集まっているものである。集まりをやめるのは得策ではないが、「必ず毎週日曜日」というルールは聖書のどこにも記述はない。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10章25節)

 

<前提4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである>

 これも明確な間違いである。礼拝会の目的は多岐にわたる。むしろ、新約聖書を読むと、集まりの主眼は「励まし合うこと」であるようにも見える。また「食事を一緒にする」というのも、その大きな目的のひとつのように思える。私個人としては、礼拝に必ず「説教」が不可欠だとは思わない。むしろ、聖書に記述のある教会は、多くの者が語り、互いに教え合っていたように思える。

ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

(コリント人への手紙第一 11章33節)

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3章16節) 

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10節24節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5章16節)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

(ペテロの手紙第一 4章8~10節)

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

ヨハネの手紙第一 3章23節)

 いかがだろうか。聖書には、一言も「牧師の説教が教会の目的」だとは書いていない。むしろ、「一緒に食事をし」「互いに教え、忠告し合い」「互いに注意を払い」「互いに罪を言い表し」「互いのために祈り」「互いに熱心に愛し合い、もてなし合い、仕え合い」「互いに愛し合うこと」これが神の命令である。 牧師の説教など命じられていはいない。ただ、イエスを神と信じる者同士の愛の関係を持つように命じられているのである。

 

<前提5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない>

 これも明確な間違いである。聖書のどこにもそのような記述はない。「牧師」という言葉そのものが、本来「羊飼い」という単語であるにも関わらず、一度だけ「牧師」という言葉に捏造されている(エペソ4章11節)。この一語のみが聖書に登場する「牧師」であって、それは捏造なのだから、本来「牧師」という言葉は聖書には登場しないのだ。聖書に根拠がないのだから、「牧師しか教えてはいけない」という考えは、明確な誤りである。

 ただ、このような記述も、確かに聖書にある。

兄弟たち、あなたがたにお願いしますあなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章12~13節)

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節)

 確かに、指導者を敬う必要は大いにある。人への尊敬は、適切な関係性を構築する。同時に、教える立場の者には大きな責任が伴う。勝手に聖書に記述のないものを教え、間違った教えを広めてしまう危険性があるからだ。現に、近年、有名な牧師たちが今までの自分たちの教えは間違っていたと告白するケースが、多々起きている(※例えば、「繁栄の神学」で有名なベニー・ヒン氏のケースなど)。このことから、教える側だけの問題ではなく、聞き手の判断力も必要な時代になっているのは間違いない。

 しかし、そのような状況を鑑みても、「牧師だけに教える権利がある」との考えは、根拠に乏しい。聖書の時代の教会では、「牧師」ではない立場の者も、互いに教え合っていた。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18章24~26節)

  プリスキラとアキラは、現代でいえば「執事」のような、教会の行政部分(お金の管理、貧しい人の支援など)を担っていた人たちであったと想像できる。彼らは「牧師」ではなかった。しかし、彼らは人々を教えていたアポロに対し、彼の神学的間違いを指摘したのであった。

 アポロもそれを受け入れ、新しい教えを教えていった。その結果どうなったのだろうか。

アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18章27~28節) 

 「牧師」ではなかったが、プリスキラとアキラはアポロに聖書を教えた。彼らは分を超えていたのだろうか。否。彼らの指摘は正しいものであった。その結果、アポロによってより正確な教えが広がっていったのであった。

 

 ・・・いかがだろうか。1は部分的には正しい前提だ。しかし、2~5に関しては完全に間違った前提となっている。間違った前提から導き出された「解」は、当然間違った答えになるのは言わずもがな。以上の点から、「牧師が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである」という考えは、完全に間違っているといえる。

 教会の唯一のリーダーはイエスである。礼拝会の主目的は、「励まし合うこと」にある。イエス・キリストが再び帰って来る希望を告白しあい、一緒に食事をし、互いに助け合うのが教会の目的である。牧師でなくとも説教やメッセージはできる。それが聖書から学べるポイントである。

 最後に、私は、さらに大きな視点での指摘をしたいと思う。

 

 

▼教会のゴールは神であり、中心はイエスであり、船頭は聖霊である

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 教会の究極的な目的を、大胆に述べよう。それは「神ご自身」である。聖書にはこのように書いてある。

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主<しゅ>はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

(コリント人への手紙第一 1章2節) 

 「神の教会」「神の諸教会」という言葉は、新約聖書に12回登場する。教会は神のものであり、また、教会が目指すべき目的・ゴールは、唯一の創造主である神ご自身である。日曜日の礼拝会が目的ではない。神につながり、神と共に歩むこと。それを励まし合うこと。これが教会の真の目的である。

 

 また、教会の中心にいるのは誰だろうか。それは他でもないイエスである。聖書にこう書いてある。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1章23節)

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

(エペソ人への手紙 1章22節)

 教会には、イエス・キリストその人が与えられている。教会のリーダーはイエスその人であり、教会の中心はイエスご自身である。教会の人間関係の中心には、イエスがいる。それは紛れもない事実だ。

2人か3人がわたし(イエス)の名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18章20節)

 

 また、教会を導くのは誰なのだろうか。牧師なのだろうか。否。教会を導く「船頭」は「聖霊」である。聖書にこう書いてある。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

使徒の働き 20章28節)

 クリスチャンを導くのは「牧師」ではなく「聖霊」である。その基本を忘れて、「牧師」という人間だけに頼るようになると、黄信号。各々が、日々、聖霊の導きを求める必要がある。 

 

 ・・・いかがだろうか。いかに「教会には牧師がいなければダメだ」という考えが、人間的なものであるか分かるだろう。2人でも3人でも、イエスが中心にいて、神に向かっていて、そして聖霊の導きによって進んでいくコミュニティ。それが教会なのである。

 

 

▼おまけの提言:休んだっていいじゃない! 

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 さて、この記事のタイトル「牧師は休んじゃダメなのか」に対して、私なりの答えを書いて記事を閉じようと思う。単刀直入に言えば、「休んだっていいじゃない!」というのが私の答えだ。

 牧師を、聖書のいう「監督者」と捉えるならば、これが牧師の資格である。

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3章2~5節) 

 

 自分の家庭を治める、子どもを従わせる、という面では、以下のような言葉もある。

父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

(コロサイ人への手紙 3章21節)

 

 子どもを気落ちさせないためにも、日曜日のイベント事には、どうぞ出席なさったらいいのではないか。子どもの晴れ舞台を見に行ってあげたらいいではないか。それが子どもに「愛を示す」という行為ではないのだろうか。

 子どもだけではない。愛する妻とデートをしているだろうか? 愛する家族と時間を過ごしているだろうか? 近所の人と関係を保っているだろうか? 困っている人を助けているだろうか? 

 私は一度、日曜日に友人に引っ越しの手伝いを頼まれたので、礼拝会を欠席して引っ越しの手伝いをした。手前味噌で恐縮だが、クリスチャンではないその友人にとっては、愛を感じる行為だったのではないだろうか。日曜日の礼拝会という儀式的なものより、優先するべきことが、この人生たくさんある。日曜日の礼拝会を保つよりも、本当に大事なものを見失っていないか、チェックする必要がある。

 

 その上で、「礼拝会」のスタイルを維持するために、私なりの提言がいくつかある。

1:「牧師」的な存在を複数設けて、交代で休めるようにする。イスラエルの祭司だってシフト制だったのだから、良いではないか。私が集っていたコミュニティでは、それを実践していた。人材不足? ならば、「神学校」などの過剰な負担を強いる登竜門や、「とりあえず伝道師」という時間ばかり消費するシステムで下積みさせるのをやめたらいいと、私は思う。

2:牧師的な存在以外の人でも、いわゆる「説教・メッセージ」をできるように訓練する。また、その機会を設ける。メッセージなど、実は誰でもできる。現に、私が集っているコミュニティでは、それを実践している。それをやらなければならないほど、クリスチャン界の人材不足の状況は逼迫している。

3:日曜日にこだわらず、様々な形の「教会」を模索したらどうか。昨今では、土曜日に集まる集会も増えていると聞く。月曜でも水曜でもいい。また、現代のテクノロジーでは物理的な距離を乗り越え、オンラインでも人間関係を持つことができる。私は、教会の定義を「2人以上のイエスを中心として人間関係が発生するもの」と捉えているので、インターネット上でも教会は十分存在し得ると考えている。

 

 ・・・いかがだろうか。もしこのブログの読者であるあなたが「牧師」の場合、あなたのライフスタイルを見直してみてはいかがだろうか。働き方改革」が叫ばれている今、牧師だって働き方改革をしてもいいのではないだろうか。本質は変えず、スタイルは時代にふさわしいものがあると、私は思う。現代にふさわしい「教会の」あり方が、きっとあるはずだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】式文を唱えるのは本当に「お祈り」なのか?

クリスチャンは「お祈り」をするそうですが、どうやってやるのでしょうか? 決められた文章を唱えるの? 自分の言葉で祈るの?

 

 

▼「祈り」とはどういうものか?

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 クリスチャン生活にとって「祈り」は欠かせない要素である。教会に通い始めたばかりの頃は、祈りというものは、ひざまずいて、両手を組んで、目をつむって、物静かに神に語りかけるものだと思っていた。映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公がベッドの上に肘を乗せて祈るような、それが「祈り」のイメージだ。しかし、成長するにつれ、「祈り」には様々なものがあると分かってきた。

 中学生の頃、ハワイから宣教師がやってきた。50代ぐらいの、色黒のいかにもハワイアンという言葉が似合う、元気ハツラツとした女性だった。彼女は、教会の礼拝堂で「祈りましょうか」と言った。てっきり頭をもたげて祈るのかと思ったら、なんと彼女は礼拝堂の床に大の字に寝っ転がったではないか。そして、彼女はかっと開いた目で、天井を見つめながら大声でつぶやいた。「あ~~~神様~~~大好きです~~~~」そうして彼女はしばらく黙っていた。衝撃だった。これが祈りなのかと思った。しかし、間違いなく、彼女にとっては、それが心からの「祈り」だったのである。

 留学先のイスラエルでは、さらに新しい「祈り」の概念を学んだ。ヘブライ語の授業で、「ミトパレル」という単語を習った。「どういう意味か、当ててみて」と先生が言った。発音だけ聞いて、意味を予想しろといっても無茶である。みな黙っていたところ、ヘブライ語の先生はジェスチャーでヒントを出した。両手で本のような形を作り、体を前後に揺さぶったのである。一体、何のジェスチャーなのか、誰も分からなかった。「分からないの?」先生は驚いたように言った。「これは、『祈り』なのよ!」と。そう、ユダヤ人にとって「祈り」とは、祈りの式文が書いた本を手で持ち、それを音読し、体を前後に揺さぶる行為なのだ。西洋の「祈り」や、日本人が神社などで行う「祈り」とは、全く違う「祈り」のスタイルだった。ジェスチャーで示されても、全く分からないという、新鮮な経験だった。

 イエスをメシアと信じている、元ユダヤ教徒、いわゆる「メシアニック・ジュー」の方に聞いたところ、エスを信じた後も、その人にとって「祈り」は祈りの式文を唱える行為なのだという。それ以外の「祈り」は、彼らにとっては厳密には本格的な「祈り」ではないのだという。また、カトリックの方とも話した経験があるが、カトリックにおいても「祈り」は基本的には祈りの式文を唱える行為であって、プロテスタントのように自分の言葉で祈る「祈り」は本物の「祈り」ではないのだという。

 文化や信仰によって「祈り」のスタイルには様々な種類がある。しかし、「祈り」の本質は何なのだろうか。祈りとは何か。祈りに決まったフォーマットはあるべきなのか。聖書の登場人物はどう祈っているのか。実際に、どう祈ったらいいのか。いつでも祈ることは可能なのか。今回は「祈り」にフォーカスして記事を書く。

 

 

▼「祈り」にフォーマットはあるのか?

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 「祈り」とは、そもそも何を指すのだろうか。国語辞典をひいてみた。

 

【祈り】

祈ること。また、そのことば。「神にーをささげる」

 

【祈る】

1:よいことが起こるようにと神や仏に願う。祈願する。「世界の平和をー」

(古くは、のろう意でも使った。今も「祈り殺す」などの形で残る)

2:他人の幸せを切に望む。かくあれかしと念ずる。「大会の成功をー・っております」

明鏡国語辞典

 

 なるほど、神などに対して願う行為を「祈り」と言う。そう捉えて差し支えなさそうだ。ちなみに、ヘブライ語で「祈り」は通常「ミトパレル」(מתפללと言う。これは、もともと「介入する」とか「仲裁する」とか「裁く」といった意味の「パラル」(פָלַל)が語源となっている。ここから派生した「祈り」という単語(名詞)が「テフィラー」(תְּפִלָּהである。聖書には77回登場する単語である。これは、自分の心に「介入し」、心の中にあるのか見極めた上で、神に心を注ぎだす行為である。「神」と「自分」の関係を、どこか第三者的に見つめている自分がいる。自分を違う立場から見つめ、心の中に何があるのかを見ている。「神」と「自分」、そして「他者」ともつながり、そこに「仲裁している自分」が存在している・・・そんなことを、この「テフィラー」という言葉は示唆しているのではないか。

 他にも「とりなし」を意味する「アタル」(עָתַרも「祈り」という言葉に翻訳されている。例えば、エジプトの王ファラオが「もう災害が起きないように祈ってくれ」と懇談するシーン(出エジプト記8:28など)の「祈ってくれ」は「アタル」が使われている。

 他にも、元々「祝福する」「ひざまずく」を意味する「バラク」(בָרַךְも「祈り」を意味する言葉とされている。カトリックでは、この「バラク」の複数形「ベラホット」(ברכותを、仲間同士の祝福の祈りの言葉として用いている。

 

 ユダヤ教や、カトリックにおいては、祈りの式文の通りに祈る行為が「祈り」という印象が強いだろう。一方、プロテスタントの場合は、決められた祈りの文言などもあるが、自分の言葉で祈るスタイルが多い。

 「祈り」にはフォーマットはあるのだろうか。決められた文言があるべきなのだろうか。それとも、自由に自分の言葉で祈るべきなのだろうか。イエスが何と教えたかは「主の祈り」の記事で既に書いたので、参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 イエスの教えは、まとめると以下のようなものである。

<「祈り」に関するイエスの教え・行為>

1:ただ同じ言葉を呪文のように繰り返すのは意味がない

2:「主の祈り」で示したのは式文ではなく、要素である

3:イエス自身も、神に対して心を注ぎ出して自分の言葉で祈った

 

 以上の点を鑑みると、式文だけで祈るのは、どうもイエスの言動とマッチしないのではないかと、個人的には思う。また、後述する他の聖書の登場人物も、自分の言葉で神に対して「祈って」いる。聖書では、神に対して、自分の言葉で語りかける行為が「祈り」として描写されている。

 結論から言えば、「祈り」とは、自分の心に「介入し」、自分の心を見極めた上で、神の前に「ひざまずき」、神の前に自分の心をさらけ出し、心を注ぎ出して、神に対して自分の心の奥底から自分の言葉で語りかける、その語りかけを指すのだと、私は思う。

 もちろん、人間そう簡単に自分の心など分からない。そんな時も必要な事柄を、神に祈るために「式文」はとても有効である。「式文」による祈りは、とても意味深いものだし、その祈りを大切にしている人の姿勢を、私は尊重する。同じように、聖書の言葉、特に詩篇などの言葉をそのまま読み上げるのも、また良い祈りとなると思う。

 しかし、エスや他の聖書の登場人物の姿を見ると、「式文しか祈りとして認めない」というのは違和感がある。式文はあくまでも祈りのガイドであって、正解ではない。自分の言葉でも祈り、そして、式文でも祈り、また「霊のことば」(後述)でも祈ればいい。大切なのは、「神に心が向いているか」である。

それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

(コリント人への手紙第一 14章15節)

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」

(サムエル記第一 15:22~23)

 

 

▼聖書の例1:イエスの祈り

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 聖書の登場人物は、どう祈っているのだろう。まずはイエスがどう祈ったか、聖書をめくってみよう。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、このをわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように

(マルコの福音書 14章36節)

 

 これは、イエスが十字架につく直前のシーンである。イエスは、正直にも「この杯(十字架の苦難)を取り去ってください」と父なる神に祈っている。しかし、同時に「わたしの望むことではなく、あなた(神)が望むことを行われるように」とも祈っている。自分の率直な「願い」を告白しつつも、神の主権を認め、神の計画が成就するように祈る。完璧な、お手本のような祈りである。

 エス自身が「十字架」という最大のミッションを「取り去ってください」などと言うのは、衝撃ではないだろうか。しかし、彼の言葉は、弱い人間である私たちが率直に祈っていいのだと思えるための、最大の励ましになる。

 また、ヨハネ福音書には、イエスが弟子たちに対する溢れんばかりの愛をもって祈った祈りの言葉が記されている。これも十字架の直前のシーンである。

これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父(神)よ、時が来ました。子(イエス)があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。

(中略)

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼ら(弟子たち・すべての人々)のうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

(中略)

正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです

ヨハネ福音書 17章1~26節)

 

 いかがだろうか。この祈りは、決して決められた言葉ではない。イエスご自身が、十字架という苦難を前にして、愛する弟子たち、そして時を超えて全ての人々への思いに溢れて祈った、そんな心から溢れるような祈りである。私はどうしても、この祈りが「式文」から作られたようには思えないのだ。

 

 

▼聖書の例2:ハンナの祈り

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 預言者サムエルの母、ハンナも心を注ぎ出して神に祈った人である。ハンナは不妊の女であった。彼女はそれを悩み、「男の子を与えてください」と切実に神に祈った。そのシーンを見てみよう。

ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主<しゅ>に祈った。そして誓願立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません」

(サムエル記第一 1章10~11節)

 

 ハンナは、この願いをどのように祈ったのだろうか。その解説が、続くシーンに書いてある。

ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです

(サムエル記第一 1章12~16節)

 

 ハンナは、心の中で神に祈っていた。言葉にならないほどの、「募る憂い」と「苛立ち」が彼女の中にあった。彼女は、言葉にならないほどの思いで、「主の前に心を注ぎだし」、神に祈った。それは、はたから見れば酔っ払ったようにも見えるほど、激しいものだったのだろう。

 私たち人間は、ときに「こんなことを祈っていいのだろうか」という思いに駆られる時がある。「もっと高尚な祈りをするべきではないか」「ただのお願いになってはいないだろうか」と不安になる時がある。

 しかし、ハンナのこの必死さに励ましがある。「男の子を与えてください」というのは、決して「高尚な祈り」とは言い切れない。だが、神は彼女の切実な願いに答えてくださった。ハンナもまた、「神が応えてくださる」という確信を得たことが、続く以下のシーンから分かる。

エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。

(サムエル記第一 1章17~18節)

 

  神に心を注ぎだして祈った結果、ハンナは確信を得た。「その顔は、もはや以前のようではなかった」のである。神に祈る、その祈りは決して「高尚な」ものだけである必要はない。切実に、自分が本当に求めるものを、まずは正直に神にさらけ出して祈ってみる。そうすれば、ハンナのように、悩みそのものから解放されるかもしれない。祈りは、そんな素朴なものでいい。私個人としては、そう思う。

 

 

▼聖書の例3:マリアの祈り

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 イエスの母マリアは、相当な迷いの中にあっただろう。婚約中の不貞は、死刑同然に扱われていた当時の文化の中で、見に覚えのない妊娠をした。天使が現れ、羊飼いや学者たちが訪れ、親戚には祝福され、エルサレムでは預言者たちに崇められた。「一体、この子は何なのだろう」。彼女は戸惑い、不安の中にあったに違いない。

 そんな中で、マリアはこのように祈ったのである。

マリアは言った。私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに

(ルカの福音書 1章46~55節)

 

 マリアの祈りは、神の力を称えると同時に、イスラエルの民族的な救いを確信したものであった。当時、イスラエルローマ帝国の植民地だった。しかし、イスラエルにとっては、神がアブラハムに約束した通り、この地をイスラエルが治めるはずなのである。しかし、現実はそうなってはいなかった。その状況を打ち破る存在として期待されていたのがメシアであった。

 マリアは、自分が身ごもっていたのがそのメシアであると確信し、このように祈ったのではないだろうか。ローマという権力を引き下ろし、困窮しているイスラエルを救ってくれる・・・そんな存在を期待したのだ。これは、決して現代の「個人的救済」を強調する、西洋的なキリスト教の発想ではない。イスラエルの民族的救い」を願う祈りである。「神とアブラハムとの契約の成就」を望む祈りである。もちろん、メシアたるイエスに対する神の契約は、さらに大きいものであったのだが、その当時のイスラエル民族にとってのメシアは、そのような民族的救済の期待がかけられていた存在だった。

 現代の私たちにとって、「祈り」は個人的な願いになりがちである。ハンナのような個人的な祈りも良い。しかし、マリアのような大きな神の計画の成就を願う祈りも、また重要である。どちらも優れているとか、間違っているというのはない。どちらの祈りも欠かせない。現代のクリスチャンは、イエスが教えたように「御国が来ますように」と祈ったらいいと思う。「異邦人の時が来ますように」という祈り、「あなたの福音が届きますように」という祈り、「マラナタ・主よ、来てください」と祈る祈り・・・神の計画の実現を確信し、それを宣言する。それもまた「祈り」なのである。

 

 

▼聖書の例4:モーセの祈り

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 モーセはどのように祈ったのか。彼の様々な祈りは、聖書に細かく記されている。興味がある方は、出エジプト記民数記申命記などを読んでみると、よく分かる。今回は、その中でひとつだけ特出しで紹介する。

 神がイスラエルの民に律法を与え、幕屋や「契約の箱」の設計図を示した後、イスラエルの民はその通りに幕屋と契約の箱を建設した。その後で、モーセはこのように祈った。

契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りくださいイスラエルの幾千幾万もの民のもとに

民数記 10章35~36節)

 

 「契約の箱」は、神の存在を強調するためのモニュメントだった。箱に力があるのではなく、神の存在感の重さにこそ、力がある。モーセの祈りは、神と共に歩むという思いが強調されたものだった。

 イスラエルが偉大なのでも、モーセが偉大なのでも、神の箱が偉大なのでもなかった。そこに存在する神こそが偉大だったのである。民を率いるリーダーとして、モーセは常にその思いを捨てずにいた。

 これは、短く、シンプルな祈りだ。しかし、とても重要な祈りである。私が授業を受けたユダヤ教の先生は、「この2節だけを1章にしてもいいぐらいだ」と言っていた。ユダヤ人にとっては、この2つの祈りは、それほど重要だという意味だ。神が一緒にいる、それが何よりも大切なのである。

 

 

▼「祈り」に正解はない

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 今まで、様々な「祈り」の種類を見てきた。結論としては、「祈り」のスタイルに正解はない。どう祈っていいか分からない時もある。そういう時は、「式文」で祈るのはオススメだ。また、聖書の言葉をそのまま、祈りの文として引用するのも、また良いと思う。以下は、エペソ人の手紙にある、私のオススメの祈り文である。

こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

(エペソ人への手紙 3章14~21節)

 

 この「あなたがた」の部分を、祈りたい人の名前を入れて、祈ってみよう。「私」にしてもいい。膝をかがめ、天と地のすべての「家族」の元、「天の父」である神に祈ってみよう。

 

 式文や、聖書の言葉を用いた祈りも、もちろん大切である。しかし、聖書の人物たちを見ると、自分の心を注ぎだす、自分の言葉による祈りも、また同じように大切である。エスは十字架の苦難を取り除いてほしいと祈った。ハンナは男の子が欲しいと祈った。言葉にならないほどの悩みを、神の前にさらけ出した。マリアはイスラエルの民族的な救いを実現する、メシアの誕生を確信して祈った。モーセは民がいつまでも神と共に歩めるようにと祈った。それぞれ、千差万別の祈りのスタイルであり、どれも重要な祈りである。

 人間は、何が正解か考えがちだ。しかし、必ずその方法がひとつだけとは限らない。声に出してもいい、出せなくてもいい。家で一人でも、友と一緒でもいい。大の字になって叫んでも、椅子に座って厳かに祈ってもいい。大切なのは、人に見せるのではなく、神に心を注ぎだしているかという、その一点である。

 聖書はこう命じている。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(マタイの福音書 6章6節)

絶えず祈りなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章17節)

 

 

▼おまけ:オススメの祈り方3選

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  オマケに、私の個人的なオススメの祈り方を3つ、簡単に紹介しよう。

 

1:チョコチョコ祈り

 上に挙げた「絶えず祈れ」という言葉がある。これは、24時間365日祈れという意味ではない。眠れなくなってしまう。そうではなく、「絶え間なく、神に心を注いでいなさい」という意味である。そのような状態を目指せと言っているのである。

 では、具体的にどうしたらいいのか。私のオススメは、どんな時でも、ふと思いついた時に神に祈るという「チョコチョコ祈り」である。ふと思い出した時でいい。「神様、ありがとう」「神様、助けて」「神様、疲れた」「神様、あなたは本当にスゴイ!」「神様、今から会う人といい時間を過ごせますように」・・・などなど。ちょこっとした祈りでいいのだ。何も、かしこまる必要はない。生きている全ての瞬間で、神を思い出し、ちょこっと祈る。それだけで、祈りの生活が変わるだろう。

 

2:祈り歩き(プレイヤーウォーク)

 同じ場所で祈っていると、ついつい集中が途切れてしまう経験はないだろうか。私は、落ち着きがない性格もあってか、同じ場所で長々と祈るのが苦手である。そんな時、どうするか。歩きながら祈るのだ。ちょこっと散歩に出かけてみよう。そして、ブツブツ祈りながら歩き回るのだ。場合によっては、気に入った音楽でも聞きながら、心を神に向けて祈りながら、歩き回って祈るのである。

 歩いて祈っていると、新しい思いがふつふつと出てくる時がある。「あ、これも祈ってみたいな」「これ最近祈ってなかったな」などなど、新しい祈りの言葉がどんどんわいて出てくる。私はたまに祈り歩き(プレイヤーウォーク)をするが、謎の感動に包まれ、歩きながら号泣してしまったこともある。神の恵みの大きさを思い出し、それに感動して泣いていたのだが、さすがに自分で自分にひいたが、それだけ神に心を向けられた経験だったと思う。祈りにマンネリを感じている人は、ぜひこの祈り歩き(プレイヤーウォーク)を試してほしい。

 

3:ことばにならない霊のうめきによって祈る

 さて、最後に不思議な祈りのスタイルをご紹介する。それは「ことばにならない霊のうめきによって祈る」というものだ。聖書にはこう書いてある。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

(ローマ人への手紙 8章26節)

 

 この部分の解釈は、細かくは分かれる部分はある。今回は、「御霊(聖霊)が」「ことばにならない」「うめきをもって」「とりなしてくださる」という文字通りの理解をした上で、私の見解を述べる。

 新改訳聖書3版ではこの部分を「言いようもない深いうめき」と訳していた。新改訳聖書2017では「ことばにならないうめき」となっている。一部のクリスチャンたちは、この「うめき」を「異言」(※外国語や、人間の言葉ではない言語を指す)という形で祈ることだという。かくいう私も、いわゆる「異言」を用いて祈る場合もある。

 しかし、それだけにとどまらず、人間には「言いようもない深いうめき」があるのではないか。言葉を出さずに祈っていたハンナは、まさに傍から見れば「酔っ払っている」ようであった。同じように、使徒2章で「異言」で話し始めた信者たちを見た人々は、「このひとたちは酔っ払っている」と思ったという記述がある。言いようもない、ことばにならない、でも祈りたい。そんな深いうめきが、聖霊の導きによって出てくる。傍から見れば、それは酔っ払いのようである。しかし、その人の心は、確実に祈っている。

 祈りは「ことば」に留まらない。もしことばにならないのであれば、心を神に向けて叫んでみるのもいいだろう。叫びにすらならないかもしれない。ただ涙が流れるだけかもしれない。ただ黙ってしまうだけかもしれない。ただ、それでも心は神を神に向ける。聖霊に身を委ねて、ただただイエスの名前をもって、神の前に出て、心を注ぎだす。そんな「ことば」を超えた「うめき」をもって祈るという不思議なことが、ときに起こり得るのだ。私はその経験をしてしまった。そして、その祈りは祈りの生活を、より満ちたものにしたのであった。

 

 いかがだろうか。もちろん、ここで挙げた以外の「祈り」も存在する。何よりも、自分が祈る前に、王であり、祭司であるイエスご自身が、私たちのために祈ってくださっている。

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙 7章24~25節)

 

(了)

 

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【疑問】聖書の神の名前は「エホバ」なのか「ヤハウェ」なのか?  

聖書の神の名前は、「エホバ」とか「ヤハウェ」とか言われます。一体、何が正しい名前なのでしょうか?

 

 

▼神の名前は「エホバ」ではない?

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 聖書の神は、唯一の神である。世界の創造者であり、全能者であり、唯一無二の神である。そんな神を、クリスチャンたちはどう呼ぶのだろうか。最初の本格的な日本語訳の「文語訳聖書」では、神は「エホバ」とされている。新改訳聖書では太文字の「」(しゅ)、共同訳聖書では普通の文字の「主」(しゅ)などとされている。

 この神の名前は、ヘブライ語で「YHVH」(יהוה)のアルファベットで示される4文字で表す。

<神の名前>(右から読む)

י ה ו ה 

 ヘブライ語はいちいち母音を全て明記しない。そのため、この4文字の正確な読み方は分からない。「ええっ、そんなことあるの?」と思うかもしれないが、日本語だって同じだ。漢字に全ての読み仮名は振らない。「生」という漢字は、「せい」とも読めるし、「なま」とも読める。「しょう」でもいいし、「き」でもいけるし、「い<きる>」だってOKだ。文脈で無意識に読み分けをしているだけで、本来は色々な読み方ができる。「羽田」は「はね」だが、「成田」は「なり」である。同じ漢字だが、読み方が違う。本来どう読むかは、なんとなく知っているだけで、正確には学ばないと分からない。

 ユダヤ人は、神の名前を呼ぶのは恐ろしいと考え、この名前を口にしてこなかった。「YHVH」を「アドナイ」(私の主)とか「ハシェム」(the name)と言い換えてきた。その結果、「YHVH」の正確な読み方は、誰も分からなくなってしまったのである。したがって、この4文字は、その子音である「Y/H/V/H」を使って表すしかない。

 「YHVH」は、旧約聖書で6220回も登場する。初登場は創世記2章4節である。

これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】<しゅ>が、地と天を造られたときのこと。

(創世記 2:4)

 

 なお、「主人」の意味での「主」も存在するため、新改訳聖書では「YHVH」を「」と太文字で表記する(※「主人」の意味の「主」は普通文字の「主」となっている)。この記事では「YHVH」で示される神の名前を【主】と表記して区別する。

 神自身が自分自身を指して【主】(YHVH)と述べたのは、出エジプト記6章2節が最初である。

神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である』」

出エジプト記 6:2~8)

 

 唯一の神である【主】は、何度も「わたしは【主】である」と繰り返し、自分の名前を強調している。ちなみに新改訳聖書では、神が話者の場合は「わたし」とひらがなで、それ以外の人物は「私」と漢字表記で区別している。話者がイエスの場合も「わたし」とひらがなになっている。

 【主】という名前は、アブラハムにも、イサクにも、ヤコブにも示されず、モーセに初めて知らされた。ただ、これ以前にも【主】の文字は多数存在はしている。モーセとファラオとの会話でも、ファラオは「【主】とは何者だ」と発言している(出エジプト5:2)。ファラオの口から「YHVH」の名前が出ているのである。当然だが、旧約聖書は後代にまとめられたため、最初から【主】の名前が出ているが、モーセの時代までは明確に主が自分の名前を語ったことはなかった。詳しくは後述する。

 さて、日本語で最初の本格的な聖書、文語訳(明治・大正訳)は「エホバ」と表記している。【主】(YHVH)の4文字は、どうして日本語で「エホバ」と呼ばれるようになったのか。実は、意外な理由がそこにはあった。今回は、「エホバ」の読み方が生まれた意外すぎるルーツ、神は自分をどう呼んでいるのか、神の名前の意味とは何か、順番に紐解いていこう。

 

 

▼「エホバ」となった意外なルーツ

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 どうして文語訳は、【主】(YHVH)の名前を「エホバ」と表記したのか。英語では「Jehova」(ジェホバ)となるが、その読み方はどこから来たのだろうか。私はずっと疑問に思っていた。

 先に述べたように、ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する文字だ。そのため、「YHVH」の正確な読み方は分からない。「ヤハヴァハ」の可能性もあるし、「ヤヒヴホ」でもいいし、「ヨヒヴィヒ」と読むかもしれない。どの母音をあてるかによって読み方が全く変わるのである。では、なぜ「エホバ」になるのか。

 実は、意外な理由があった。ヘブライ語は、読み方が複雑なため、後代になって発音を指示する「ふりがな」が発明された。これは「ニクダー」と呼ばれる記号で、「a/e/i/o/u」のどの母音をあてるのか示すものだ。日本語でいう「ふりがな」のようなものである。

 例えば、「ב」(ベート。Bの発音)に「a」の発音のニクダーが付くと「バ」という発音になる。「e」のニクダーが付くと「べ」という発音になる(※興味がある方はこのサイトなどを参照)。このニクダーを付ければ、子音だけで表記するヘブライ語も、正確な読み方が分かるのだ。

 では、神の名前「YHVH」にニクダーが付いていれば、正確な発音が分かるのではないか。その通り。しかし、これが間違いの元だった。

 ユダヤ人たちは、神の名前を口にするのを恐れた。神の名前は恐れ多く、口にしてはならないものだった。それは、モーセ十戒にあるこの教えが影響している。

あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

出エジプト記 20:7)

 

 神の名前「YHVH」は、決して発音してはいけないものだった。そのため、ユダヤ人 たちは神の名前を「YHVH」を使って呼ばず、「אדני」(アドナイ)と呼ぶようになった。「アドナイ」とは「私の主」という意味である。

 しかし、かといって聖書の表記を勝手に変えるわけにはいかない。聖書には「YHVH」の名前が何度も出てくる。これでは、朗読する際に困ってしまう。そこでユダヤ人たちは、後代になってニクダー(ふりがな)を付けた。「יהוה」(YHVH)を「אדני」(アドナイ)と読むために、ふりがなを付けたのだ。整理してみる。基本的にヘブライ語は右から読むので注意してほしい。

<アドナイのニクダー付きの表記>

אֲדֹנַי

 

 解説すると以下のようになる。

<アドナイのニクダー解説>

   אֲ      דֹ      נַ       י

 I+なし      N+A        D+O             A+短いA

 

 おわかりいただけただろうか。「アドナイ」はヘブライ語で「ADNI」と表記する。そこに「短いA+O+A+なし」のニクダーが付く。これで「ADNI」の表記で「A+DO+NA+I」となり、「アドナイ」と読めるわけである。ユダヤ人たちは、この「ふりがな」を「YHVH」に表記することで、「YHVH」を直接発音せず「アドナイ」と読み替えるように指示していたのである。「強敵」と書いて「ライバル」とか「とも」と読ませる、漫画のアレと同じだ。

 しかし、この基本を知らない学者たち(おそらく中世あたりのヘブライ語を知らない学者たち)が、後代になって「アドナイ」のふりがなを本当の神の名前と勘違いして研究した。「アドナイ」のふりがなを「YHVH」に付け足すと、このようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְהֹוָה 

 

 解説すると以下のようになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

יְ     הֹ      וָ    ה 

H+なし V+A   H+O    Y+短いA(e)

 

 この「YHVH」に「アドナイ」のニクダー(ふりがな)をふった場合の発音は上記の通りになる。なお、鋭い読者の方は「一番右のニクダー違うやんけ!」と思うかもしれない。鋭いご指摘ありがとう。ただ、ヘブライ語の文法ではY( י )に「短いA」の母音記号<אֲの下についているやつ>を付けられないため、代わりに「e」の発音の母音記号<יְ の下についているやつ>を付けることになっているのだ。

 解説すると以下の通りになる。

<「YHVH」に「アドナイ」のニクダーを足した場合>

Y+短いA(e)/ H+O / V+A/ H+なし

 

 いかがだろうか。こうすると、「イェ・ホ・ヴァ・ー」(Ye/Ho/Va/H)となり、つなげると「イェホヴァー」、より日本語らしく変化すると「エホバ」となるわけである。英語では「J」の発音は「ヤユヨ」ではなく「ジャジュジョ」と発音するので「Jehova」(ジェホバ)となったというわけだ。

 とどのつまり、「エホバ」の表記は、「アドナイ」と読ませるための「ふりがな」を、間違えて「YHVH」に当てはめて読んでしまったカンチガイの結果なのだ。もちろん、「YHVH」の読み方の「可能性」として否定できるものではない。しかし、「YHVH」を発音しないために「アドナイ」のふりがなをわざと割り当てていることから、その可能性は低いだろう。カンチガイによって「エホバ」の読み方は生まれてしまったのだ。

 では、「YHVH」は何と読めばいいのか。考えていこう。

 

 

▼神は自分をどう呼んだか

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 「YHVH」で表す神の名前は、どう読めばいいのか。新改訳聖書2017の「あとがき」にはこのような表記がある。

旧約聖書においては、特に、文語訳ではエホバと約され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を、『聖書新改訳2017』も、従来の「聖書 新改訳」の伝統を踏襲して、太字でと訳し、それによって主の御名が記された、主の御名がエロヒームと読まれるように母音表記されているところでは、太字でと訳している。

<「あとがき」聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

 

 なるほど。「アドナイ」だけでなく「YHVH」を「エロヒーム」(神)と読ませるための母音表記(ニクダー)もあるらしい。

 問題は「学者の間ではヤハウェとされている主の御名」という部分である。なぜ「ヤハウェ」と読めるのか。調べてみたところ、様々な理由があるようだが、主な根拠としては、古い時代のギリシャ語の聖書翻訳に依るらしい。いくつかの書籍などによれば、ギリシャ語の一部の古い翻訳では「ヤハウェ」に近い発音が表記されているという。だから、少なくとも当時のギリシャ語話者の間では「ヤハウェ」に近い発音がなされていた可能性があると推測される。しかし、それは可能性の話であって、確実な事実と言えるかと問われると、微妙な問題だ。ギリシャ語で表記して「アドナイ」と読み替えていた可能性も否定できない。

 神自身は、自分を何と表現したのか。聖書を少し見てみよう。

 

エル・シャダイ>(全能の神)

さて、アブラムが99歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」

(創世記 17章1節)

 「全能の神」とは、ヘブライ語で「エル・シャダイ」である。この世界を作り、全ての上に存在する、力強い神を指す言葉である。モーセに対して「YHVH」の名前を示すまでは、基本的に神は「エル・シャダイ」という名前でご自身を現している。

 

<エル・ロイ>(ご覧になる神)

そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。

(創世記 16章13節)

 これは、アブラハムの元を追放されてしまったそばめのハガルが、神を呼んだ呼び名である。意味は「ご覧になられる神」。神はハガルの苦しみを見て、助けの手を差し伸べて下さったのである。神は人の苦しみをご覧になり、助けてくださる存在である。

 

<名前を教えないパターン>

ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人(神?)は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

(創世記 32:29)

 神は時にお茶目にも、名前を聞かれても答えない場合もあるヤコブは「ある人」(おそらく神)と格闘した。ヤコブは辛くも勝利するが、その後で、「イスラエル」(「神に勝つ者」の意)という名前を与えられる。しかし、ヤコブが神に名前を聞いても、神は答えなかった。まだ「YHVH」の名前を示す時ではなかったのだ。

 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>

さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

出エジプト 3章6節)

 先週の記事でも述べたが、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名で、ご自身を現される。これは、アブラハムと交わした契約を必ず行い、いつまでも共におられる神であるということを示している。 

 

<万軍の主という呼び名>

万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ

詩篇 46篇7節)

  「万軍の【主】」は、ヘブライ語アドナイ(YHVH)・ツェバオット」の邦訳である。「アドナイ」は「YHVH」で、「ツェバオット」は「軍隊」を意味する「ツェバ」の複数形である。英語だと「God of Almighty」と訳されている。イスラエルでは現在も軍隊のことを「ツェバ」と呼んでいる。

 「万軍の【主】」は聖書全体で235回登場する。その多くがイザヤ書で登場する。神の力強さと、守る力、いつも共にいて戦ってくださる方であるという意味が込められている。

 

 <不思議な名前>

【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という

士師記 13章18節)

  ここは、「【主】の使い」と書いてあるが、神の代理としての存在なので、神の名前を尋ねられた答えと捉えて良い。「わたしの名前は不思議である」という、また何とも奇妙で不思議な答えである。神の存在は、名前で現せるようなものではないという意味でもあるだろう。また、もっと不思議な名前がある。最後にご紹介しよう。

 

<「わたしはある」という不思議な名前>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と」

出エジプト記 3章14節)

  これが一番不思議で、かつ難解な神の自分紹介である。日本語では「わたしはある」。英語だと「I am who I am」。ヘブライ語では「אהיה אשר אהיה」(エヒエ・アシェル・エヒエ)という。

 この意味をめぐっては、様々な議論が続けられている。「わたしは存在する神だ」という意見もあれば、「わたしはあなたと共にいる」という意見もある。「わたしは世界を創造した神だ」とする見解もある。聖書を気仙沼の方言で翻訳した山浦氏は著書で、「わたしはわたしだ」と神がお茶目な回答をしたのだとの解釈を示している。どの意見も説得力があり、答えはおそらく出ないだろう。

 実は、「わたしはある」という自分紹介は、イエス自身も使っている。聖書にこうある。

エスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」

ヨハネ福音書 8章58節)

 これは、イエスが「わたしはある」と宣言した神と同じ存在であるという意味である。ギリシャ語では「エゴー・エイミ」。イエスが神を同じ名前を名乗ったシーンである。 

 

 さて、このように、神の名前は様々ある。神はに人間の言葉では表しきれないほど、大きな存在である。しかし、拭いきれない疑問が残る。「YHVH」(יהוה)は、一体どういう意味なのかという疑問である。最後に、私がイスラエルで学んだ視点を、次の章で紹介する。

 

 

▼「4文字」の意味について

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 神の名前、「YHVH」(יהוה)は、一体どんな意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。正しい発音は分からない。しかし、その意味は何なのか。ずっと気になっていた。

 私は学生時代、イスラエルに留学し、ユダヤ教の授業を受講した。そのユダヤ教の先生が、ある解釈を示した。私にとっては目からウロコだった。「なるほど、そうか!」と感動した。あくまでもユダヤ教の教師が教えたひとつの解釈にすぎないが、みなさんにご紹介する。

 ヘブライ語の文法には、以下のようなものがある。

ヘブライ語の時制>

היה  →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

 

 これは、ヘブライ語教室の初級クラスで習う定番の文法である。そのユダヤ教の教師は、上記の文法を示した後で、このように続けた。

神様の名前(יהוה)は、

この「יהיה」「הווה」「היה」全ての要素を合体させたものなんです。

ユダヤ教の教師の言葉) 

 

 どういうことだろうか。整理しよう。

<神の名前の意味>

היה  →「ハヤ」。It was...の「was」。過去の存在を示す。

הווה →「ホヴェ」。It is...の「is」。現在の存在を示す。

יהיה →「イヒィエ」。It will be...の「will be」。未来の存在を示す。

 

יהוה 「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。

 

 いかがだろうか。「現在」「過去」「未来」の全ての言葉を、少しずつ組み合わせて、神の名前「יהוה」が示されているのである。つまり、神は時を超えた存在であるという意味である。

 これは、私にとっては心から感動する解釈であった。あくまで、ひとつの見方にすぎないが、私にとってはかなり説得力のある見方であった。聖書にも、こう書いてあるからだ。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

(ヘブル人への手紙 13章8節)

神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」

ヨハネの黙示録 1章8節)

 

 今も、昔も、そしてこれから先も。ずっと「ここにいるよ」と耳元で囁いてくださる神様。聖書の神、יהוה(YHVH)は、そんな存在なのである。

 

 

▼おまけ:神の名前を唱えることの是非について

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 神の名前「יהוה」(YHVH)の発音をめぐっては、議論がある。「エホバ」の発音は、「アドナイ」と読ませるための「読み替え」のための「ふりがな」を誤用したために起こったミスの可能性が高い。「ヤハウェ」を示すギリシャ語などの根拠はいくつかあるが、なお議論のあるところである。

 結局は、神の名前をどう発音するかは謎のままである。しかし、人間が付ける名前によって神の存在を表すことなど、到底できない。神は人の言葉よりも、もっと大きい存在だからである。それゆえ、神を指し示す呼び名は、数多くある。ユダヤ教の一部の見方では、「今も、昔も、とこしえに、ここにいるよ」と存在を示される意味だと述べた。

 さて、発音をめぐっては議論のある神の名前だが、「ヤハウェ」と神の名前を連呼する習慣が、近年クリスチャンたちの間で流行している。中には、「ヤハウェヤハウェヤハウェ」と神の名前を不遜にも(?)繰り返す賛美の歌も発表されている。これは、果たして良いことなのだろうか。

 私個人の意見では、神の名前が分からない以上、軽率に神の名前を定め、その名を連呼する行為には違和感がある。十戒の「神は唯一である」「偶像を作ってはならない、拝んではならない」の次にあるのは、「神の名をみだりに唱えてはならない」である。ユダヤ人たちは、神の名前を呼ぶのを恐れ、「アドナイ」や「ハシェム」という別の呼び方を作った。

 日本人は外国人であり、ユダヤ人ではないから、彼らの習慣をそのまま行う必要はない。しかし、神は畏れるべき存在である。その神の名前を、まだ発音が明確ではないにも関わらず、軽率に何度も連呼するのは、私は不遜ではないかと思ってしまう。しかし、本気で神を崇める気持ちで名前を呼ぶというのであれば、神は心を見る方なので、その「心の動機」が一番大切である。私はどうしても神の名前を「ヤハウェ」や「エホバ」などと決めつけて呼ぶ行為には、個人的には抵抗がある。

 イエスご自身は、こう命じておられる。

 

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ、御名が聖なるものとされますように」

(マタイの福音書 6章9節)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。