週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】イエスの話は分かりづらい?(その1:アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)

エスの言葉は、結構な確率で意味不明です。日本語で読むと分かりづらいですが、ユダヤの常識で捉えていくと、腑に落ちるものもあったりするのです。今回はその第一弾。

 

 

▼イエスの話はよく分からん!

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 大胆に言うが、エスの話の多くはよく分からない。例えば、ナタナエルという人物が聖書に登場する。彼は当初、イエスをメシアだと認めていなかった。しかし、イエスが「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」という謎の発言をした途端、ナタナエルは「あなたは神の子、イスラエルの王です」と180度態度を変え、イエスの弟子となる。なぜ彼が態度を変えたのか、理由の解説はない。全くの謎である。

 他にも、イエスの言動には謎が多い。ニコデモというユダヤ教の教師とのやりとりも、分からない部分ばかりだ。イエスは「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言う。ニコデモは「人は老いていながら、どうやって生まれることができるか」と返す。イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできない」と言う。しかし、「水と御霊によって生まれる」とはどういうことか、全く解説がない。

 イエスは、群衆にはほとんど「たとえ話」でしか語らなかった。意味の解説がなされているたとえ話もあるが、全くないものもある。そのため、その解釈をめぐってしばしば議論が起こる場合もままある。

 

 なぜイエスの話は分かりにくいのか。その原因は、主に3つ挙げられる。

 ひとつは、イエスの時代から、既に2000年ほど経っているという「時間の壁」である。日本の2000年前といえば、まだ文字すらなかった古の時代。日本最初の神話、「古事記」ができたのが8世紀なので、イエスの時代から約700年も後である。古文・漢文で苦労した読者の方々は、その難解さを理解できるのではなかろうか。

 2つ目は、「言語の壁」である。新約聖書は、ギリシャ語で書かれている。しかも、ただのギリシャ語ではない。新約聖書は、ヘブライ語話者が、ヘブライ語のマインドをもってギリシャ語で書いた書物なのである。言ってみれば、日本人が日本語で考えたものを英語で書いた本のようなもの、とでも言えば分かるだろうか。そのため、旧約聖書ヘブライ語新約聖書ギリシャ語の多くが対応している。

 例えば、有名なヨハネ福音書1章1節「はじめに“ことば”があった」の「ことば」はギリシャ語では「ロゴス」(ことば)という単語だ。従来、「ロゴス」という単語の意味について様々な研究がされてきた。しかし、筆者がヘブライ語話者である点を踏まえると、ここはヘブライ語の「メムラ」(ことば)という単語に重点を置いて理解すべきではないか・・・との指摘もある。新約聖書は「ヘブライ語マインドのギリシャ語」で書かれているのだ。ただの言語の壁より分厚い、見えない大きな壁が、そこにはある。

 3つ目は、最後だが最も重要なポイントである。それは、新約聖書旧約聖書の知識が大前提となっている、という「見えない前提」が存在する点だ。しかも、旧約聖書だけでは足りない。その後に追加された「口伝律法」(ミシュナー)の理解も必要になってくる。

 まとめて言えば、新約聖書のイエスの言葉を理解するためには、「1世紀当時のユダヤ教の知識」(特にパリサイ派の考え方)が大前提として必要なのである。ユダヤ教の知識があれば、「イチジクの木の下にいる」というのが「律法(トーラー)をよく学んでいる」というユダヤの「ことわざ」であると分かる。「水から生まれる」というのが「母親の羊水から生まれる」という比喩だと分かる。ユダヤ教の知識があれば、新約聖書がより深く理解できるのだ。

 実は、この3つを踏まえてイエスの言葉を読むと、みるみる新約聖書が分かるようになる。実は、旧約聖書を読むと新約聖書がもっと分かるようになるのだ。「新約は好きだけど、旧約はちょっと・・・」と思っている人は、ぜひマインドを少し変えて、「旧約をよく学べば、イエスの言葉がもっと理解できるかもしれない!」と思って読んでみて欲しい。

 

 さて、今回はイエスのわけの分からない言葉の中から、ひとつピックアップし、意味を考えてみたいと思う。正直いうと、私の意見は全くの筋違いかもしれない。あくまでひとつの解釈として、読んでいただけたら幸いである。

 

 

▼復活をめぐる論争

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 ユダヤ教の指導者たちと、イエスのやりとりの中で、こんな言葉がある。聖書をひらいてみよう。(マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を引用しているが、基本的には同じエピソードである。ただ、細かい記述に違いがある)

その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに答えた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。

(マタイの福音書 22:23~34)

<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』。さて、七人の兄弟がありました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしていまるのではありませんか。死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています」

(マルコの福音書 12:18~27)

復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない』ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです」律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。彼らはそれ以降、何もあえて質問しようとはしなかった。

(ルカの福音書 20:27~40)

 

 お読みいただけただろうか。サドカイ派は「レビラト婚」(※詳細は過去記事を参照)という風習を盾に「復活」はありえないとイエスに迫る。それに対し、イエスアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、「復活」の根拠となると反論するのである。また、その答えに一同が驚嘆して納得してしまうのだ。正直、現代の私たちにとっては意味不明ではないだろうか。整理するために、一旦、登場人物や状況を整理してみる。

 

<登場人物>

【サドカイ人】:ユダヤ教の上流階級・祭司・貴族層。「肉体の復活」を否定していた。いわゆる「モーセ五書」のみを聖典とした。(人種ではなく階層的要素が強い)

【パリサイ人】:ユダヤ教の宗教指導者の一派。「肉体の復活」を肯定していた。旧約聖書、ならびに口伝律法を聖典とした。(人種ではなく派閥的要素が強い)

【律法学者】:律法(トーラー・旧約聖書)の専門家。多くがパリサイ派だったとされている。

【イエス】:上記の2つの派閥から糾弾されていた。

<状況>

・イエスは、サドカイ派パリサイ派の両方から糾弾されていた。

「復活」は、両派閥が対立していた神学的要素のひとつだった。

・復活を否定するサドカイ派がイエスの見解を求めた。

エスが「復活はない」と言えば、サドカイ派は肯定されパリサイ派が否定される。逆に「復活はある」と言えば、サドカイ派が否定され、パリサイ派が肯定されるという状況だった。

パリサイ派としては、イエスを否定したいのは山々だが、この件に限ってはイエスに復活を認めてほしいというのが正直なところであった。

・イエスは当時「時の人」であり、イエスの教えに多くの人々が注目していた。

<イエスの答え>

・「モーセ“柴の箇所”でこう書いてあるのを見たことがないのか」

・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と書いてあるだろう」

だから復活はある。復活はないなどと言っているサドカイ派は思い違いをしている。

神は死んだ者ではなく、生きている者の神である。

・イエスの教えに、みなが驚嘆して黙ってしまった。

 

 ・・・いかがだろうか。登場人物や状況は、よく分かっていただけたと思う。しかし、問題はイエスの答えである。「柴の箇所」とは一体何なのか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という記述が、どうして復活を肯定する根拠となるのか。「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味か。この聖書の記述だけでは、全く意味不明ではないだろうか。私は少なくとも、この記述をずっと疑問に思っていた。

 今回、様々な検討をした結果、ある程度、私なりの結論を得た。読者の方には少しでも参考になれば幸いである。

 

 

▼復活なんかありえない?!

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 大前提として、当時のユダヤ教はなぜ「復活」について対立していたのかを知る必要がある。サドカイ派は復活を否定し、パリサイ派は復活を主張していた。ただ復活を認めるのみならず、パリサイ派にとっては「復活」は彼らの信仰を支える超重要な神学であった。

 実は、旧約聖書は「復活」について多くを語っていない。ダニエル書で一度だけ復活が示唆されているだけで、旧約聖書には、直接「復活」を支持する記述がないのである。むしろ、ある部分では復活を否定しているとも受け取れる記述がある。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5)

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 いずれも、「死後に神をほめたたえることはできない」という趣旨の記述である。復活の直接の否定ではないものの、「死んだら最後、神を崇めることはできない」と言うならば、「肉体の復活はない」と考えるのも自然な成り行きではないだろうか。

 

 一方、ダニエル書の記述は以下である。

その時、あなたの国人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしとの時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

(ダニエル書 12:1~2)

 

 なるほど。「大地に眠る者のうち、多くの者が目を覚ます」という記述をもって、死者が肉体をもって復活すると考えるのは可能だ。だが、ダニエル書の後半の多くは比喩で描かれているため、この記述ひとつだけを持って断言するのは適切かというと、疑問が残る。

 以上の点から、「復活」をめぐり、「“復活”という発想は、バビロン捕囚以降、バビロンの宗教・哲学に影響を受けたユダヤ教の中で発展したものである」という学者たちもいる。確かに、旧約聖書に明確な記述はないし、否定しているとも受け取れる記述があるのだから、そう結論づけたくなるのも理解できる。

 また、ある学者たちは「紀元前100年頃に起きたユダヤ人への大迫害が、『肉体の復活』という活路を見出す価値観を生み出したのではないか」と指摘する。確かに、迫害があればそれから逃れる神学が生まれるのも、理解はできる。こう考えると、パリサイ派の「復活」という神学は、考えようによっては「言い伝え」の部分ではないかと判断できるかもしれない。

 これは想像にすぎないが、「復活」についてはサドカイ派よりパリサイ派の方が、神学的には根拠に乏しい立場にあったと考えられる。聖書に記述がないのだから、パリサイ派にとって「復活」の神学はアキレス腱のような「急所」であり、ハッキリと弁証しきれない部分だったのかもしれない。

 「復活」が律法ではなく「言い伝え」ならば、イエスは「復活」を否定し、この部分においてもパリサイ派を批判したはずである。しかし、イエスは驚くべきことに「復活」を肯定した。この点においては、イエスパリサイ派の主張を認めたのである。これは、驚くべきことである。

 パリサイ派は、イエスを糾弾しつつも、イエスが復活を認めた点においては、イエスを認め、安堵し、一瞬イエスを受け入れたくなったのではないか・・・そんなふうに想像する。「律法学者たち(多くがパリサイ派)の何人かが、『先生、立派なお答えです』と答えた」という記述から、そのニュアンスが汲み取れるだろう。

 私は、一人のクリスチャンとして、イエスの言葉を信じる。イエスが「復活はある」とハッキリと宣言しているのだから、復活はあると信じている。信じる者も、信じない者も肉体と霊において復活し、神からの判決を受けると本気で信じている。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・・

(ヘブル人への手紙 9:27)

 

 さて、たっぷりと状況の説明をしたところで、本題の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」について考えてみよう。

 

 

▼「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の意味とは

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 ハッキリ言って、イエスのこの言葉を解釈するのは難題である。ひとつずつ紐解いていきたい。まずは、イエスが言及した「柴の箇所」を見てみよう。

モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセモーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

(中略)

神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:1~6、15)

 

 ここを読むだけでは、なぜこの部分が「復活」を示唆するのか分からない。前提を整理してみよう。

<「柴の箇所」の前提>

ユダヤの信仰の創始者は、アブラハムであった。アブラハムが神と契約を結んだのが、神とイスラエル民族の特別な関係の始まりであった。

神とアブラハムの契約は、そばめとの子どものイシュマエルではなく、神が約束した子どもであるイサクが引き継いだ。

イサクが受け継いだ契約は、兄のエサウではなく、弟のヤコブのものとなった。

・そしてヤコブが「イスラエル」という名前を神から与えられ、イスラエル民族の父祖となった。

・聖書にもとづけば、モーセヤコブが死んでから約120年〜300年後に生まれた人物である。(※イスラエルがエジプトに何年滞在したかは議論があり、それによって変動するが、相当後の時代の人であることは確か)

神はそのモーセに対して「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と宣言した。

 

 「柴の箇所」の前提は以上である。神がアブラハムと契約を結び、イサクが「約束の子」として契約を引き継ぎ、ヤコブがさらに引き継ぎ、イスラエル民族の先祖となった。アブラハムが信奉した神」「イサクが信奉した神」「ヤコブが信奉した神」と捉えれば、別に復活しなくとも、この事実には変わりがない。だとすれば、イエスがこの「柴の箇所」を引用したのはトンチンカンになってしまう。イエスが正しいとすれば、何か別の意味があるはずだ。

 ここで、ユダヤ人にとってアブラハムはどのような存在だったか知る必要がある。アブラハム を考える際、「契約」という言葉は切っても切り離せないほど重要なポイントだ。ユダヤ人にとって、神がアブラハムと交わした「契約」こそが、大切なのである。では、その契約を簡単に見てみよう。

主<しゅ>はアブラム(※アブラハムの元の名前)に言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(中略)主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地(カナンの地、今のイスラエルの土地)を与える」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

(創世記 12:1〜7)

そして主<しゅ>は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(中略)その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」

(創世記 15:5〜18)

 

 神とアブラハムの契約によれば、「イスラエルの土地を、アブラハムの子孫が支配する」のである。これは、物理的にも、宗教的にも、精神的にも、習慣的にも、あらゆる意味でユダヤ人を通してカナンの地が治められ、そして全世界が彼らを通して神を知るという契約である。イサクもヤコブも、基本的にはこの「契約」を神の選びによって(両方とも兄は選ばれず、弟が選ばれた)、引き継いでいるのである。この「契約」はユダヤ人にとって非常に重要なもので、彼らは、今も昔もこの契約を堅く信じているのである。かくゆう私も、そう信じている。

 さて、イエス時代のイスラエルはどういう状況だったか。ユダヤ人たちはその土地を支配していたのだろか。いや、していなかった。カナンの地を支配していたのは、ローマ帝国であった。ユダヤ人にとって、ローマの支配を脱するのは悲願だった。それは、パリサイ派サドカイ派も、バプテスマのヨハネのグループ(エッセネ派)も同じだった。彼らにとって、イスラエルの地はいまだかつて、モーセヨシュア、そしてダビデやソロモンの時代も含めても「完全に支配」されていないのであった。神がアブラハムと交わした契約は、いまだかつて実現していない・・・これが彼らの共通認識であった。

 これについては、新約聖書の「ヘブル人の手紙」の著者も同じ認識を示している。(※ヨシュアは、モーセの後を引き継ぎ、イスラエルの民が初めてカナンの地を占領したときの民族的リーダーである)

もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休み(神が約束の土地を完全に支配させるとの意)は、神の民(イスラエル)のためにまだ残されています。

(ヘブル人への手紙 4:8〜9)

 

 長々書いたが、この「契約」に着目すると、一定の結論が見えてくる。「アブラハムが信奉した神」ではなく、アブラハムと結んだ契約を実行する神」と読めばいいのだ。こう読めば、少し理解できそうだ。私の想像を含めたイエスの言葉の解釈をまとめてみよう。

<イエスの言葉の私的解釈>

モーセの柴の箇所でこう書いてあるじゃないか。主<しゅ>ご自身が自分を指して、『わたしはアブラハムと契約を結び、それを実行する神、イサクに契約を引き継がせた神、ヤコブに契約を受け継がせた神である』と宣言したじゃないか。アブラハム、イサク、ヤコブは契約のとおり、イスラエルの土地を支配したか? いや、いまだかつてイスラエルの土地は完全に支配されたことはない。今もローマがこの土地を支配している。では神が嘘をついたことになるのか? そうじゃないだろう。では、神の民がこの土地を支配する約束は、いつ実現すると思う? アブラハム、イサク、ヤコブが復活した後だ。復活しなければ、この約束は彼らに実現しないのだ」

 

 イエスの言葉は、イスラエルの民がこの土地を完全に支配する」と堅く信じていたパリサイ派サドカイ派両方にとって、説得力に満ち溢れたものだったのだろう。一同は感嘆して黙ってしまった。堅く信じている要素を用いて、正しさを証明するイエスの論法には、ぐうの音も出ない。

 律法学者の一部が、「先生、立派なお答えです」と言った部分も、想像すればパリサイ派の心情が見えてくる。律法学者、つまりパリサイ派たちにとってこの「復活」の神学は「急所」だった。サドカイ派の論法は、いつもパリサイ派に対する「決め手」の質問だったのだろう。パリサイ派はこれに対抗する答えを持ち合わせていなかった。だからこそ、イエスの見事な答えに、イエスを否定するパリサイ派の律法学者たちも、ついつい「立派なお答えです」と感嘆してしまったのではなかろうか。

 

 

▼「生きている者の神」とはどういう意味か

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  もうひとつ、イエスが言った「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」とはどういう意味なのだろう。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」が、「アブラハムたちと交わした契約を実行する神」という意味なのは既に述べた。それが、どうして「神は生きている者の神」という言葉につながるのか。

 ここで、ユダヤ人たちの常識に立ち返りたいと思う。彼らの信じる旧約聖書の言葉には何と書いてあったか。もう一度振り返ってみよう。

主よ、帰ってきて、私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。死においては、あなたを覚えることはありません。よみにおいては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

詩篇 6:4~5) 

主よ、あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。(中略)私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか。ちりが、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。

詩篇 30:3~9)

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ。あなたの恵みが、墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。あなたの奇しいみわざが、闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。

詩篇 88:10~12)

 

 そう。ここから見えてくるのは、「死んだ者は神をほめたたえられない」という発想である。ここで詩篇の言葉が活きてくる。彼らが信じる「完全な支配」とは、イスラエルの民を通して、唯一の神を全世界が知ることである。神は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」にそう約束した。しかし、神がこの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉で自身を現したのは約120年後のモーセの時代である。アブラハムもイサクもヤコブも既に死んでいる。しかし、神はその3人と交わした契約を実行すると、モーセに宣言する。

 もし復活がなければ、死んでしまったアブラハムたちは、「神をほめたたえる」ことすら叶わない。もっと本質を言えば、「生きていない者は神との関わりを持てない」という意味になる。聖書の神のいう「契約」とは、「神との関わり」を指す。「関係性」こそが、神との「契約」なのである(「契約」については、友人が詳細な記事を書いているので参照していただきたい)。神との関係を持つ人々の中に、その族長たちも、当然入ってくるはず。つまり、復活がなければ、彼らが信じている契約の成就は達成されないのだ。詩篇の記述によれば、死んだ者は神との関係を持てないからである。

 神は、3人とも既に死んでいる時に「私は彼らの神である」とハッキリと宣言した。これは、この3人も含め、彼らの後の時代の人々も、みな復活することを示している・・・それがユダヤ人にとって当然の帰結だったのだ。

 おまけに、新約聖書でもイエスの弟子、そして使徒であるペテロがこのように話している。

アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その門前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

使徒の働き 3:13~15)

 

 ペテロは、あえて「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という「柴の箇所」の神の名前を用いて、「死者の中からよみがえったイエス」について論じた。これは、この呼び名が「復活」を示唆するものであるという、当時の解釈を示している。

 

 このように、エスの言葉は、(1)時代の壁、(2)言語の壁、(3)見えない前提、をクリアしないと、意味がストレートに理解できないものが多い。エスが意味不明なことを言っているのではない。イエスの言葉は、当時の人々にとっては、胸に突き刺さり、心が変えられる、そんな言葉だったのだろう。現代の私たちは、そんなイエスの言葉をしっかり理解するために、上記の3点をふまえた上で、新約聖書を読む必要がある。これは決して、「勉強不足の人は聖書を読んではいけない」という意味ではない。むしろ、聖書は読めば読むほど面白いということの証左ではないか。旧約聖書を読めば、新約聖書が面白くなる。新約聖書を読めば、旧約聖書がさらに面白くなる。バイスバーサ(逆もまた真なり)。聖書は不思議な書物なのである。
 そんなイエスの言葉は、2000年経った今でも、人々を感動させる力がある。しかし、正しく理解するためには、この壁を乗り越える必要もある。壁を乗り越えた理解の先には、「もっとイエスを知りたい!」という飽くなき喜びが待っているだろう。まだイエスの言葉をよく知らないという方は、これを機に、新旧約聖書の両方を読んでみてはいかがだろうか。

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか?

クリスチャンはよく「礼拝を守る」という表現を使いますが、その言葉はどんな意味なのでしょうか? また、どこから来たのでしょうか?

 

 

▼「礼拝をどこで守っていますか?」という質問

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 多くの教会は、日曜日に「礼拝」という名前の集会をやっている。たいていの場合は、毎週同じ集まりに行くので、顔なじみばかりである。しかし、たまに遠出をしたり、旅行先などで、いつもとは違う教会に行く時がある。初めての教会に足を運び、自分がクリスチャンであることを伝えると、決まって言われる言葉がある。「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」という質問である。

 「礼拝を守る」というのはクリスチャンの間で、実によく聞く表現だ。例えば、地元・長野のとある教会に集っていた際、20代の若いお姉さんが教会に来た。初顔だったので話しかけてみると、「いつもは東京の教会に通っているんですけど、今日は帰省しているので、この教会で礼拝を守りに来ました」と彼女は言った。私は、当時小学校6年生だったが、子ども心に「礼拝を守る」という表現に違和感を覚えた。礼拝って守るものなのだろうか」という素朴な疑問が湧いてきたのである。

 礼拝は守るものなのだろうか。行うものなのだろうか。何か別の意味合いがあるのだろうか。今回は「礼拝を守る」という表現について書く。「礼拝を守る」とは、どんな意味なのか。その表現は、一体どこから来ているのか。そこに意味はあるのか。そんな疑問に答えていく。

 また、この記事は以前の記事の内容と多分に重複するため、お時間がある方は以前の記事も参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「礼拝を守る」というのはどんな意味なのか

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 「礼拝を守る」という表現の意味を考えてみよう。この際、「礼拝」と「守る」と2つに分解して考える必要がある。断っておくが、ここで考えるのは、本来の「礼拝」の意味合いではなく、この表現を多用する人々が思い込んでいる「礼拝」の定義である。

 まずは言葉の意味を考えてみよう。広辞苑をめくってみる。

れいはい【礼拝】>(広辞苑第6版)

1:神仏などを拝むこと。現代では主としてキリスト教でいう。

 

 「守る」についても広辞苑を見てみよう。 

まも・る【守る・護る】>(広辞苑6版)

1:うかがいみる。見定める。

2:目を話さずに見る。見詰める。見守る。

3:侵そうとするものをくいとめる。番をする。守備する。保護する。

4:大切にする。世話をする。

5:背かないようにする。「規則を守る」

  

 現代においては、おそらく3の「敵から仲間を守る」の「防御」という意味と、5の「規則を守る」の「遵守する」という意味が、通常使うものだろう。

 

 では、「礼拝を守る」を考えてみる。一般の日本語なのだから、まずは広辞苑の定義をもとに検討しよう。「礼拝」は「神仏などを拝むこと」、つまりは「拝む行為」である。一方、「守る」は、「敵からの防御」および「規律の遵守」という意味である。以上の点を鑑み、「礼拝を守る」を考えると以下のようになる。

れいはい・を・まも・る【礼拝を守る】>(広辞苑6版の意味合いから考察)

1:神を拝む行為を、邪魔するものから保護する

2:神を拝む行為の規律に、違反しないようにする

 

 まず1は日本語としては少し不自然だ。想定される状況としては、「サタン(悪魔)が神を礼拝する人間を妨げようとしているので、礼拝行為を継続するために、サタンの攻撃を防ぐ」といったような感じだ。もしくは、右翼の街宣車でも来て、礼拝会の邪魔をするというケースも物理的には想定可能だが、ちょっと個別具体的すぎて、一般的に使う言葉としてはズレている。

 1の場合だと、初めて参加する教会の集会で「いつもはどこで礼拝を守っていますか?」と聞くのは「いつもどこでサタンの軍勢からの攻撃から神を拝む行為を保護していますか?」という意味になってしまう。どこかの軍隊とかじゃあるまい。日本語としてもまるでトンチンカンである。

 では2はどうか。「いつもどこで礼拝を守っていますか?」は、変換すると「いつもはどこで、神を拝む行為に違反しないようにしていますか?」という意味になってしまう。これはヘンテコな日本語だ。「神を拝む行為」というのは「違反」できるようなものではない。やはり、前提が間違っているようだ。

 

 そこで、「礼拝」または「守る」の意味合いを考え直す必要がある。「守る」の意味を間違えている可能性は低いだろうから、「礼拝」の定義にズレがないか、まず考えてみよう。

 広辞苑で「礼拝」は「神を拝む行為」だったが、実際に多くのクリスチャンが使っている「礼拝」の意味は、広辞苑の説明とは違うのではないか。私は、これまでの経験から、クリスチャンたちが言う「礼拝」を定義してみた。

「礼拝を守る」と言う人の「礼拝」の定義

・日曜日などに教会で行う「礼拝」と称する集会のこと

・集会は、代表者の祈り、賛美の歌の斉唱、聖書の朗読、牧師など教師による説教(メッセージ)、献金などをもって構成される

「礼拝」は、毎週参加する義務のある集会である

 

 ざっとこんなところだろう。そう。彼らが言う「礼拝」とは、「神を拝む行為」ではなく、「日曜日などに教会などで行われる集会に毎週参加する行為」を指すのだ。ナルホド。この前提に立てば、「礼拝を守る」がより自然な日本語に近づく。「守る」の方も、「規則を守る」という意味の「守る」という意味で捉えれば、この「礼拝」の意味に近づく。整理してみよう。

【礼拝】:日曜日などに教会などで行われる集会に参加する行為、および毎週参加する義務、暗黙のルール

【守る】:規則を遵守する

 

 【礼拝を守る】:日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する

 

 「礼拝を守る」=「日曜日などに教会で行われる集会に、毎週参加するという暗黙のルールを遵守する」。こう考えれば、「礼拝を守る」というのは自然な日本語になる。広辞苑に載っているような「普通の日本語」で考えると、「礼拝を守る」という言葉は意味をなさい。クリスチャンたちは、「礼拝」の定義を暗黙のうちに変えて使っているのだ。

 注目すべきは、「礼拝を守る」という言葉は、「毎週日曜日に、必ず教会の『礼拝』と称する集会に出席しなければならない。これは義務である」という発想が大前提としてなければ、生まれてこないという点である。この無理やりな日本語を使っている人は、多かれ少なかれ、「日曜日の礼拝会に出席するのは、当然守るべきルールである」という発想に立っている。そうでなければ、この言葉は、日本語としておかしいのである。

 さて、「毎週、教会の『礼拝』と称する集会に参加するのは、クリスチャンの義務である」という、このヘンテコな発想はどこから来ているのだろうか。聖書をよく読んでいる人なら、「あ、そういうことか!」と分かるかもしれない。さて、聖書をめくってみよう。

 

 

▼「礼拝を守る」の発想はどこから来ているのか

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 「礼拝を守る」という言葉は、もちろん聖書には登場しない。しかし、「~を守る」という表現はたくさん出てくる。聖書は、どのように「守る」という言葉を使っているのか、見てみよう。

<聖書の中の「守る」とその対象> ※全て、「~を守る」という表現に統一

契約を守る(創世記 17:10など)

おきてを守る(出エジプト記 12:14など)

命令を守る(出エジプト 20:6など)

戒めを守る(レビ記 22:9など)

安息日を守る(申命記 5:15など)

主の定めを守る(申命記 30:16など)

罪から身を守る(サムエル記第二 22:24など)

王宮の門を守る(列王記第一 14:27など)

を守る(列王記第二 20:6など)

天幕の入り口を守る(歴代誌第一 9:19など)

沈黙を守る(エステル記 4:14など)

いのちを守る(エステル記 8:11など)

プリム(祭り)の時期を守る(エステル記 9:31など)

さとしを守る(詩篇 78:7など)

・神があなたを守る(詩篇 91:11など)

神のことばを守る(詩篇 119:17など)

正しい人の道を守る(箴言 2:20など)

なめらかな舌から守る(箴言 6:24など)

見知らぬ女から守る(箴言 7:5など)

を守る(箴言 20:28など)

たましいを守る(箴言 22:5など)

律法を守る(箴言28:7など)

を守る(伝道者 12:3など)

城壁を守る(雅歌 5:7など)

ぶどうの実を守る(雅歌 8:12など)

誠実を守る(イザヤ 26:2など)

帰る時間を守る(エレミヤ 8:7など)

イスラエルを守る(エレミヤ 35:4など)

なわらしを守る(エゼキエル 20:18など)

人々を守る(ダニエル 12:1など)

を守る(ゼカリヤ 3:7など)

しきたりを守る(マルコ7:4など)

言い伝えを守る(マルコ 7:9など)

慣習を守る(ルカ 2:27など)

を守る(ローマ 14:6など)

自分をきよく守る(ヤコブ 1:27など)

神のわざを守る(黙示録 2:26など)

 

 実に、多くの用途で「守る」という言葉が使われているのが分かる。このままだと整理しづらいので、大雑把に分類してみよう。

1:何から自分を防御する(罪から、いのちを、たましいを、あなたを、なめらかな舌から、見知らぬ女から、自分を)

 

2:何かから他者や物質を防御する(王宮の門、町、天幕の入り口、王、家、城壁、イスラエル、人々、庭、ぶどうの実)

 

3:神が定めたルールを遵守する(契約、おきて、命令、戒め、定め、さとし、神のことば、誠実、律法、律法の規定、正しい人の道、神のわざ、安息日

 

4:人間が定めたルールを遵守する安息日、祭りの時期、ならわし、しきたり、言い伝え、慣習、<祭りなどの>日)(人間が定めたルール的なものを遵守する)

 

5:その他の慣用的表現(沈黙を守る、帰る時を守る) 

 

 明確に整理ができたと思う。

 その上で「礼拝を守る」という発想は、どこから来ているのだろうか、考えてみよう。よく読んでいただいた方はお気づきかと思うが、上記の1~5で同じ言葉が違うグループに分類されている、いわゆる「被っている」言葉がひとつだけある。そう、「安息日」だ。

 ユダヤ教にとって、「安息日を守る」ほど大切なものはない。一番大切なルールといっても過言ではない。安息日には様々な規定がある。働いてはいけないのはもちろん、電気をつけたり、火をおこしたり、車を運転したりなど、してはならない決まりがたくさんある。なんと、安息日に歩いていい距離すらも決まっているのだ(1km弱。使徒1:12など参照)現代においても、そのルールは変わらない。だがしかし、このルールのほとんどは、聖書に記述があるものではなく、人が後代に「付け足し」したものである。聖書にある「安息日」の規定はこうだ。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が6日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、7日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

出エジプト 20:8~11)

 

 神が創造の7日目に休んだのが、「安息日」の起源である。モーセの律法において、「安息日」は聖なる日とされ、「いかなる仕事もしてはならない」と決められた。これ以降、「安息日」という言葉は、旧約聖書では111回、新約聖書では68回登場する。それほど重要な掟であったとうかがえる。

 しかし、「安息日」のルールのほとんどは、後代になって付け足されたものであり、聖書が規定するのは「仕事」や「薪を運ぶ行為」など、ほんの少しだけである。ユダヤ教の人々は、この安息日のルールを絶対に守るために、あらゆる行為をしないようにと、細かなルールを後になって加えていったのである。 安息日を守る」。これはユダヤ教においては、とてもよく聞く表現だ。「安息日」はヘブライ語で「シャバット」、「守る」は「ショメル」という。「安息日を守る」はヘブライ語で「シュモール・エット・ハ・シャバット」。現代でも耳タコな表現である。

 私は、「礼拝を守る」という発想は、この「安息日を守る」という表現から来ていると確信している。そう、実はユダヤ教の価値観から、クリスチャンたちの言葉が生まれているのだ。ビックリ仰天。その発想は、クリスチャンのそれではなく、ユダヤ教のものだったのである。(※なお、ローマ14章に登場する「ある日」「特定の日」というのは文脈から、安息日や旧約の祭日を指すと考えるの自然なので、全て「安息日」に関連すると捉えて間違いではない)

 当然、聖書はユダヤの文化と言語から生まれた事実を無視してはいけない。そして、イエスの「律法を成就し、完成するために来た」という宣言を軽んじてもいけない。しかし、イエスを信じる現代の、しかもユダヤ人ではないクリスチャンたちが、どのように聖書の言葉を取り入れるかは慎重でなければならない。ことわっておくが、「安息日」は「金曜日の日没から、土曜日の日没にかけて」を指す。間違っても「日曜日」ではないと覚えておいていただこう。現代においても「安息日を守る」ように「日曜礼拝を守る」と考えているのだとしたら、それは大きな間違いである。

 一体、何がどう間違っているのか。イエスと当時のユダヤ教の指導者たちのやりとりから学んでみよう。

 

 

▼口伝律法の信者と戦ったイエス

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 イエス時代のユダヤ教指導者たちは、殺す計画を立てるほど、イエスを憎んでいた。エスユダヤ教指導者たちと対立した一番大きな原因のひとつは、「安息日」の定義をめぐっての論争である。

 先に述べたように、安息日」の規定は、長いユダヤ教の歴史の中で、どんどん過激になっていった。はじめの規定は「いかなる仕事もしてはならない」だけであった。しかし、「仕事」とは何かという論争が起こった。羊の世話をするのは仕事だろうか。水を汲むのは仕事だろうか。麦の穂を摘むのは仕事だろうか。布団をたたむのは仕事だろうか。掃除は? 洗濯は? 火おこしは? 料理は? 病気の治療は? ・・・などなど。数え始めたらキリがなくなっていった。その結果、どうなったか。疑わしきは罰せよ。そう、エス時代のユダヤ教においては、ほとんど全ての行為を「仕事」とみなして、安息日(金曜日没~土曜日没まで)に禁じたのである。

 しかし、それに異を唱えたのが、イエスその人である。彼とユダヤ教の宗教指導者たちのやりとりを、いくつかご紹介しよう。たくさんあるので、時間がない方は太字の部分だけ、さっと目を通していただければと思う。

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」エスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか」そして言われた「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子(イエス)は安息日にも主(しゅ)です

(マルコの福音書 2:23~28)

エスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。人々は、イエスがこのひとを安息日に治すかどうか、じっと見ていた。エスを訴えるためであった。イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真中に立ちなさい」それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか。それとも殺すことですか」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

(マルコの福音書 3:1~6)

エス安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。すると、会堂司はイエス安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は6日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない」しかし、主(しゅ)は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼い葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。このひとはアブラハムの娘(子孫)です。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

(ルカの福音書 13:10~17)

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスエルサレムに上られた。(中略)そこに、38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長いあいだそうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。(※この池に一番に入ると病気が治るという迷信があった)イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であっった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(中略)その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。エスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」そのためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5:1~18)

(イエスの言葉)「モーセはあなた方に割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちからも始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています(※割礼は生まれて8日目に行う規定がある)。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。

ヨハネ福音書 7:22~24)

 

 ・・・いかがだろうか。エスユダヤ教の宗教指導者たちの対立の大きな原因は、この「安息日」についてであったと分かる。エスユダヤ教指導者たちの「安息日論争」は、上に挙げた以外にも、数限りなくある。なぜ、このような論争があったのだろうか。それを理解するためには、重要な前提を一つ知る必要がある。

 当時、ユダヤ教の律法には大きく分けて2つあった。ひとつは旧約聖書に記述がある「律法」(トーラー)である。いわゆる、創世記から申命記までの5つの書物を「モーセ5書」と呼ぶが、これが「律法」(トーラー)である(※広義では旧約聖書全てを指す)。トーラーがユダヤ教の全ての基礎であり、全ての戒めの基盤である。

 しかし、このトーラーを守るために、人々は「念のため」の外側の基準を作った。そして、外側の外側の基準が、次々とできていった。それが「口伝律法」(ミシュナー)である。トーラーには、「安息日」には「いかなる仕事もしてはならない」と書いてある。逆に言えば、それだけだ(※「火おこし」など少数の規定はトーラーにも記載がある)しかし、口伝律法(ミシュナー)はそれに留まらない。万が一でもトーラーを破らないために、念には念を入れた基準が作られたのだ。

 エスの時代は、この「口伝律法」(ミシュナー)が、まるでトーラーそのもののように扱われていた。「仕事をしてはならない」が、次第に「穂を摘んでもいけない」「床を取り上げてもいけない」「病気を癒やしてもいけない」という解釈に変わっていってしまったのである。そして、それを破った者に対しては、厳しい処罰が課されていた。

 エスは、この「口伝律法」(ミシュナー)中心主義に対してNOを突きつけたのである。この言葉を見れば分かるだろう。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)を堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていること(ミシュナー)が、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝え(ミシュナー)によって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令(ミシュナー)を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒め(トーラー)を捨てて、人間の言い伝え(ミシュナー)を堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝え(ミシュナー)を保つために、見事に神の戒め(トーラー)をないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました(※トーラーにて)。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って(※ミシュナーにて)、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝え(ミシュナー)によって、神のことば(トーラー)を無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 エスは、「安息日」にあれをしてはならない、これをしてはならないというミシュナーを否定した。その代わり、トーラーが本当に教えている精神を教えた。すなわち、「安息日に善を行え」「人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるのだ」という基準である。「安息日」は大切だ。これがなければ、私たちは週休2日どころか、週休0日だったかもしれない。死んでしまう! 神が「安息日」を作ってくださって、本当によかった!!

 

 さて、議論を「礼拝を守る」に戻そう。「礼拝を守る」という表現、価値観の根底にあるのは、「安息日を守る」といった、ユダヤ教の価値観である。その価値観は、イエスが否定したものである。

 とどのつまり、「どこで礼拝を守っていますか?」と聞くような、現代のクリスチャンたちは「日曜日には、教会の礼拝と称する集会に出席しなければならない」という、まるでユダヤ教のような価値基準を持っているのである。繰り返すが、聖書のどこにも「日曜日に教会の集会に参加しなければならない」などという記述はない。それは、ただの文化だ。「週の初めの日に集まりパンを割いた」という記述(使徒20:7)から、日曜の集会を肯定する者がいるが、それは日曜に集まったというだけであって、日曜に集まらなければ「ならない」という規定ではない。そんな違いすら分からないのなら、日本語を学び直した方がいい。それに、イエスの弟子たちは「毎日」集まっていたのである(使徒2:46、5:42、6:1、17:17、19:9など)。

 「礼拝を守る」などと言っているクリスチャンは、トーラーをないがしろにし、伝統であるミシュナーを重視していたユダヤ人たちと、実は全く同じことをしているのである。聖書に書いていない伝統や文化を重視し、聖書の記述を無視し、それを他者に押し付ける。やっていることが、パリサイ派と全く同じである。「どこで礼拝を守っているんですか?」と聞いて、「あなた日曜日教会に行っているの?」とプレッシャーを与えるような人は、旧約と新約の違いすら分かっておらず混同しているだけの人。気にする必要などない。なんと嘆かわしいことか。こればかりは、容認するわけにはいかない。「礼拝を守る」という表現は、ユダヤ教由来の全くナンセンスな表現である。

 イエスは、礼拝についてどう教えたのか。最後に、少しだけ述べてこの記事を閉じる。

 

 

▼礼拝は生き方である

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 イエスは、礼拝について何と教えたか。これについては、このブログで今まで散々述べてきたので、もはや言うまでもないだろう。「礼拝とは、神と共に生きる生き方」である。エスの教えを紹介しよう。

彼女(サマリアの女)は言った。「主よ。あなた(イエス)は預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:19~24)

 

 イエスが教えた「本物の礼拝」とはどういう意味か。以前の記事からまとめの要素だけをコピペする。

<イエスが教えた「本物の礼拝」とは>

1:「本物の礼拝」は、どこでも「礼拝」できる。

2:「本物の礼拝」は、御霊と真理によって「礼拝」する。

 

 このイエスの教えによって、旧約の常識が新しい常識へと更新されたのだ。

旧約聖書モーセ律法の常識】

「礼拝」は、「決められた場所で」祭司を通して行うもの。所定のいけにえを捧げ、決められた儀式の手順を守ることで、やっと聖なる神に近づき、礼拝できる。

新約聖書、イエスの常識】

「礼拝」は、「いつでもどこでも」、ただ聖霊によって知り、受け入れることのできる大祭司イエスを通して行うもの。儀式は必要なく、ただ唯一の完全ないけにえであるイエスの犠牲によって、聖なる神に近づき、礼拝できる。

 

 礼拝とは、場所、時間、状況、スタイルに関わらず、「あなたの人生を神にささげ、神と共に生きる生き方そのもの」を指す。「日曜礼拝を守る」などという、旧約時代の古い常識に囚われるのは、もうやめようではないか。クリスチャンは、いつでも、どこでも、神が与えた聖霊によって、イエスを信じ、神と共に生きられるのだ。イエスが示した、新しい常識のもとで、イキイキと生きていこうではないか。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【潜入ルポ】ウワサの「預言カフェ」に行ってみた!

巷で噂となっている「預言カフェ」に実際に行ってみました! その実態とは――?

 

 

▼予言は人を魅了する

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 恐怖の大王がやってくる――。そんなノストラダムスの大予言の日、私は小学校1年生だった。友人の家に泊まっていた私は、「もしかすると明日、世界が滅びるかもしれない」とビクビクしていた。目が覚めると、いつもの朝だった。朝日があれだけ嬉しかったことはない。

 ハッピーな予言も、恐ろしい予言も、「未来予測」というものは、人間を魅了する。テレビの朝のニュースでは、毎日「占い」を放送している。血液型占い、星座占い、おみくじの大吉、小吉、末吉・・・様々な占いに人は一喜一憂する。個人の程度の差こそあれ、未来への予測はどこか「人間の心の拠り所」となっているのは間違いない。人間は「時間」の軸を超えられない存在だ。だからこそ、人には「未来」「運命」など、届かないモノへの憧れがあるのかもしれない。 

 さて、あなたは「預言カフェ」なるものを知っているだろうか。東京都内の教会が運営するカフェで、高田馬場と赤坂に2店舗だけある。噂によれば、コーヒーを飲みながら、「預言」を受けられるらしい。しかし、ちょっと怪しい噂も聞く。占いじみているとか、いや、預言カフェを通じてイエスを信じた人もいるとか、そも噂は様々だ。その実態はどんなものなのか。噂話だけをアテにしても仕方がないので、実際に足を運んでみることにした。

 

 

▼預言カフェに行ってみた! 

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f:id:jios100:20190904021644j:plain と、いうことで今日は「預言カフェ」に来ちゃいました!

f:id:jios100:20190904021541j:plain いや~楽しみ。

f:id:jios100:20190904021800j:plain あんた誰やねん。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あなたもね。1人で行くのはなんか気まずいので、今日は「行きたい!」と声を寄せていただいた友人の方に来ていただきました。 

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※左から友人の岡田さん(仮名)、筆者小林、白川さん(仮名)。ちなみに全員クリスチャンです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 今回はフリー素材「いらすとや」さん全面協力のもとお送りします。全員男かよ! というツッコミはなしで。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 男で悪かったな。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 男3人でカフェに行くとか、怪しすぎじゃない?(笑)

f:id:jios100:20190904021644j:plain ・・・(今さら気がついて言えない)

f:id:jios100:20190904021644j:plain 白川さんは、なんでアロハシャツテイストなの?

f:id:jios100:20190904021541j:plain 今日は仕事が休みやねん・・・

f:id:jios100:20190904021644j:plain ・・・それはさておき、みなさんの意気込みを聞いてみましょう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 以前から噂は聞いていて、どんなところか気になっていたので、今日はかなり楽しみ!

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺はバリバリ怪しいと思ってて、確認したい感じかな。「占いと違うんか!」ってね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain なるほど。僕も噂ベースでは聞いていて。「部屋のカーテンを緑色にした方がいいとか言われるとか言われないとか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain それめっちゃ占いじゃんか。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 聖書の「預言」は「神から預かる言葉」だから、未来を予測する「予言」とか「占い」とはちょっとテイストが違うよね。そこの違いも、今回明確なのか確かめたいよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 宝くじ当たるとか預言されちゃったらどうしよう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain それはキミの願望じゃないか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 最近「預言カフェ」は、世間一般でも割と有名になってるっぽいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain そう。仕事相手の方も、クリスチャンではない方だけど「預言カフェ」の存在は知ってて。今度一緒に行こうと誘われたよ。でも、一緒に行こうとしたけど営業時間的に無理だった。

f:id:jios100:20190904021800j:plain そうなんだよね。高田馬場は18時までしかやってないし、平日だと無理だよね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain と、いうわけで、今日は19時までやっている赤坂店に来てみました!

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「預言カフェ」は、東京メトロ千代田線・赤坂駅から徒歩2〜3分ほどの好立地。

 

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堂々と「預言カフェ」の看板が!

 

 

▼さっそく入店してみる

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f:id:jios100:20190904021644j:plain お店に入る前に、今回の方針を決めておきましょう。

<今回の方針>

1:あえて自分たちはクリスチャンであることは言わずに入店

2:クリスチャンかどうか聞かれた場合は正直に答える

f:id:jios100:20190904021541j:plain 嘘は良くないですよ、嘘は。

f:id:jios100:20190904021800j:plain クリスチャン相手かどうかで対応が変わるかも注目ですね。

f:id:jios100:20190904014929j:plain
さっそく入店。ドキドキ。

中に入ると、こんな感じのお姉さん(推定35~40歳)が接客してくれました。

f:id:jios100:20190904014951j:plain(ガチでこんな感じ)

f:id:jios100:20190904015022j:plain いらっしゃいませ。何名様ですか?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 3人で。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 今お席が空いてるので、すぐご案内できると思いますが、そちらの受付ボードに、カタカナでフルネームを書いてお待ち下さい

f:id:jios100:20190904015909j:plain

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、フルネーム書くのか。これも預言の材料になるのかな。

 

女性の店員さんに導かれ、男3人は店内へ・・・

f:id:jios100:20190904015741j:plain
店内は明るい雰囲気で、テーブルが7〜8個ほど。閉店1時間前だったが、他にも3名ほどのお客さんが。店内には「クリス・トムリン」(クリスチャン界の有名アーティスト)の聞き覚えのあるCDが流れていました。

f:id:jios100:20190904021800j:plain へぇ~、思ったより雰囲気いいね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 天井がちょっと低いな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain プロの目線や。

 

メニューを手渡され、見てみる。

f:id:jios100:20190904020138j:plain
f:id:jios100:20190904021800j:plain 「預言カフェブレンド」っていうのがあるんだね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 俺はラーメン屋でも一番店が押してる最初のメニューを頼む派。

f:id:jios100:20190904021541j:plain キミの情報は聞いてねぇよ。

 

と、いうことでそれぞれ、

「預言カフェ・ブレンド」(税込850円)

「預言カフェ・プレミアムブレンド」(税込950円)

「預言カフェ・アイスブレンド」(税込1000円)を注文。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain で、預言っていくらなの?

f:id:jios100:20190904021800j:plain メニューに書いてなかったね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain てっきり「大預言●●円」「小預言●●円」とかメニューに書いてあるかと思ってた。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 預言に大も小もあるのか? 預言コミコミの値段なんじゃない?

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、そうか。どうりでコーヒーとしてはなかなか高い値段設定だなァって思ったわ。

f:id:jios100:20190904021800j:plain おい。

 

などと、話していると、テーブルの上にこんな物を発見。

f:id:jios100:20190903192021j:plain

あなたのための預言を聞いてみませんか?

預言は神様からのメッセージです。神様は私たち一人一人にご計画をもっておられ、励まし、助けを与えたいのです。ご来店のお客様に預言を録音してプレゼントします。ご注文の際にスタッフにお声がけください。

 

裏面には・・・

f:id:jios100:20190903192102j:plain

お客様各位。預言を受けていただく際は録音するようにしています。テープでの録音をご希望のお客様は、カセットテープのご持参にご協力いただくと助かります。(お持ちでない場合には当店に用意があります。1本150円です)また、お持ちの録音機器、ケイタイのボイスレコーダーで録音することをお勧めしています。どうぞ、ご協力ください。

上記の録音方法が難しい場合には、お客様のPCアドレスに音声をお送りすることができます。送信には十日~二週間程のお時間をいただくこともあります。ご理解のほど、よろしくお願いします。

こんなことが書いてあった。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain ん? ということは頼めば「預言」してもらえるということ?

f:id:jios100:20190904021800j:plain たぶん、そういう感じだね。 

f:id:jios100:20190904021541j:plain テープって、カセットテープ? 今どき再生できる機械あるの? ボイスレコーダーも今は持ってないな・・・

f:id:jios100:20190904021644j:plain ふふふ。僕は今日、某テレビ朝日の手法を使うために、胸ポケットにICレコーダーを忍ばせてきたのだ!

f:id:jios100:20190904022430j:plain

と、記者の三種の神器ICレコーダーを取り出す小林。

 f:id:jios100:20190904021800j:plain やる気満々やないか。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 「某」になっとらんやないか。 

 

などと、くだらないやり取りをしている間に、イケメンの白人のお兄さんがコーヒーを運んできてくれる。

f:id:jios100:20190904022559j:plain

↑「預言カフェ・プレミアムブレンド

f:id:jios100:20190904021644j:plain お~、いい香り。

f:id:jios100:20190904021541j:plain ホンマに分かっとるんかいな。 

f:id:jios100:20190904022858j:plain ごゆっくり。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、お兄さん、ちょっとすみません。

f:id:jios100:20190904022858j:plain はい。

f:id:jios100:20190904021644j:plain この「預言」ってしてもらえるんですか?

f:id:jios100:20190904022858j:plain もちろんですよ。少々お待ち下さい。(ニッコリ)

f:id:jios100:20190904021644j:plain (めちゃめちゃイケメンスマイルやんけ・・・)

f:id:jios100:20190904021800j:plain なんか素敵だね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 騙されたらアカン。中身を見て判断や。

f:id:jios100:20190904014951j:plain

ほどなくして、先程のお姉さんが席までやってくる・・・3人の運命やいかに?!

 

 

▼さっそく「預言」を受けてみる

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預言を受ける直前の3人。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 本日はありがとうございます。預言を希望されるのはどなたですか?

f:id:jios100:20190904021644j:plain 全員受けたいんですけど、預言は1人ずつですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい、そうですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain この席で?

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。預言は録音させていただいています。録音機器をお持ちでしたら、ご自身でスタートボタンを押していただいて、お渡しいただければそこに録音いたします。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 持ってきてないんですが・・・

f:id:jios100:20190904015022j:plain でしたら、私どもの録音機器をご用意いたします。

f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、いいよ、僕のICレコーダーを使って。

f:id:jios100:20190904021800j:plain (もはや忍ばせてすらいない・・・)

f:id:jios100:20190904015022j:plain ありがとうございます。こちらのカードもお読みください。

 

といって、お姉さんが手渡したカードはこちら。

f:id:jios100:20190904023439j:plain

預言を書き出してください。イエス・キリストからの言葉をより深く心に受け取ることができるでしょう。

預言だけで方向転換や決断を急がず、状況が整えられるのを期待し確認することが必要です。

預言を聖書の原則によって吟味し理解してください。「預言CAFÉ」の本をお薦めします。

預言は条件的です。運命的に捉えることなく信仰をもって受け取ってください。

□ 礼拝(日・木曜日)へ参加することも大切です。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ナルホド、預言についての注意事項みたいなもんやな)

f:id:jios100:20190904021800j:plain (これを見ると、結構な配慮はされている印象があるね)

f:id:jios100:20190904021541j:plain お姉さん、この「預言を書き出して下さい」ってどういう意味ですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain あ、これはボイスレコーダーに録音した預言を、後で聞き直して文字にすることをオススメしてるんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain へ? その場で書けっていう意味ではなく?

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうではなく、後でですね。結構早口ですので、その場で書ききるのはちょっと無理だと思います(笑)きちんと後で内容を吟味して、受け取っていただければと思っています。

f:id:jios100:20190904021541j:plain そんなに早口なんですか。

f:id:jios100:20190904015022j:plain 聞いてもらえば分かるかと。それでは、どなたから始めますか?

f:id:jios100:20190904021644j:plainf:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain ・・・・・・。

 

ここで発生する日本人的な譲り合い。

 

f:id:jios100:20190904021541j:plain じゃあ僕が。

 

勇気ある白川氏からスタート。

 

f:id:jios100:20190904015022j:plain 分かりました。ではボイスレコーダーの録音ボタンを押して、お渡しください。

f:id:jios100:20190904021541j:plain はい。ポチっとな。

 

いよいよ、預言が始まります・・・!

 

 

▼「預言」の中身はどんなもの?!

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↑預言を受ける小林

f:id:jios100:20190904015022j:plain 主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛しています・・・

f:id:jios100:20190904021541j:plain (うわ、確かにめっちゃ早口だわ)

 

だいたい4分ぐらいの預言があったので、お店のオススメ通り書き起こしてみた。太文字は、小林が重要だと思った部分である。 

f:id:jios100:20190904021541j:plain白川さんに対する預言・全文>(本人許可済)

主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。そのサハラ砂漠のような、何かその状況に、今私のこう愛の一撃というか、何かすごい変化がある。砂漠が、割れないんですけれども砂漠が割れて、何かその地面のこの土台の根っこの部分が大きく現れてくる。だから表面の砂ばっかり見てるともうここは不毛地帯で、僕がいっくらやっても何にもならないと思っていた。でも息子よ。実にこの深いところから命の水が湧き出てくるように私はあなたに私の豊かさを、また何か繁栄ですね。何かその喜びをちゃんとあなたに用意しています。だからもう自分を責めてはいけないと主は言われます。すごく頑張ってきましたよ。あなは私が喜んでいます。見ていますよと主は言われます。人はあなたを責めたかもしれない。でも私はあなたを責めていないからと主は言われます。
そしてその経済に対してちゃんと助けるものというか、支えるもの。私はあなたに用意して、最初はこう砂浜を歩くのは結構大変。杖があって足が支えられて、でもだんだんにそのスタスタと歩いていけるように良い意味で自立と何かその変化と、かその状況があなたに見えていくだから、いや、僕は助けてばっかりではよくないからと、ちょっと無理にあなたが頑張ろうとしているけれど、息子よ、私がいっつもです、私がいっつもあなたの状況を助け、そして私があなたを支えると、だからもう1人ぼっちで歩く、何かそれではなくて、私があなたを本当に大胆にダイナミックにというかな、何かこう力づけています。あなたはそのような愛の勇士、その戦士ですよと主は言われます。
だからあなたが通ってきたその患難もその難しさも決して無駄ではなかったと主は言われます。あなたがそのような痛みをくぐり抜けてきた。もう茨の道をもう裸足でボロボロになって。でも、あなたがそのように深い痛みを知っているからこそ、その立ち上がったときにちゃんとまわりを、何かこう育てていく、何か変化を状況を変えていくあなたはそのようなものですと主は言われます。だから受けるよりも与えるものが幸いですと聖書にありますけれども、あなたが自分の分だけ欲しいじゃなくて。すごく人に与えたい。なんかすごく丁寧な思いやりがある。
息子よ、私はちゃんとその兄弟っていうかな、横並びに見たいにはちょっと感じて。ちょっとがんじがらめな何かその状況からちょっとあなたがスポッって抜けて何かこう新しいビジョンをしっかり持っていく、そしてそこから変化がその兄弟っていうか家族っていうか肉の家族だけではないですけれども、その周りにちゃんと波及をしていく伝わっていく。だから自分だけここから抜けちゃったらなんでしょうね。周りを置いていくんじゃないかって。なんかそれではなくって、まずあなたがデビューするというか、道を見ると、何かそのことによって周りが、あ、そうか。僕たちも頑張んなきゃなってちゃんとこう見ていきます。だから恐れなくていいですよと主は言われます。まだその変化に対してもちゃんと私の何かあわれみがある。
うーん。例えば、例えば、例えばの話なんですけど、毎日例えば帽子をずっとかぶってたとする。何かそうすると何か帽子ぬいだ自分がちょっと恥ずかしいっていうか。いや、ずっとこのかぶってるしなって。でもそうじゃなくてその変化の中でそれすごくいいねって、すごく良かったねって周りが何かあなたを喜んでいく。だから自分ではいやこんなことをしてあんなことをして、誰に思われるだろうってすごくあなた学校辛く感じでいる、家族や状況の中で。でも息子よ、それが本当に良かったと、何かあなたはそれを選んでいく、それを見ていきますよ、わが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますようと主は言われます。

(以上)

f:id:jios100:20190904021541j:plain ・・・・・・。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ずっと目をつむって聞いている!)

f:id:jios100:20190904021800j:plain 想像を上回るめちゃめちゃな早口で内容を吟味する暇がない・・・)

f:id:jios100:20190904015022j:plain さあ、次はどなたになさいますか?

f:id:jios100:20190904021644j:plain では僕にお願いします。

f:id:jios100:20190904015022j:plain わかりました。では、ボイスレコーダーの録音ボタンを押してからお渡しください。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (ポチッとな)

f:id:jios100:20190904015022j:plain それでは、お願いします。あ、どうぞみなさんコーヒーをお飲みになりながらで結構ですよ。リラックスしてくださいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plainf:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain あ、あ、ありがとうございます!(たじたじ)

f:id:jios100:20190904015022j:plain それでは始めますね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain小林に対する預言・全文>
主は言われます。我が愛する息子よ。私はあなたを愛していますと主は言われます。「はしご」が例えばかかっていると。登りたくなるっていうか。あの、なんかあるんじゃないかなって。でも、こう壁にただかかってるはしごを登っても実は何もなかったなって。いろんなトラップとはいいませんが、状況に(シャッター音に気がついて1秒ほどフリーズする)あ、ごめんなさい。あ、大丈夫ですか。
・・・いろんな状況にあなたが踏み込んではなんかこう、あ、違った。なんかこれ間違ってたって自分を責めてきた。だが息子よ。もう責めなくて大丈夫と主は言われます。あながたこのようにチャレンジする。何か応答する心ですね。それは私があなたに与えているすごく良い賜物です。あ、才能です。主は言われます。だからその個性を、その思いを大事にしてくださいと主は言われます。

また失敗してもどうしようと思うと、もう手も足も出ない。何かそれではなくって、次なるつつながりが、チャレンジがあなたの人生に始まっている。あなたがそれをまとい、外套というかマントですね、何か新しい服を着て、ちゃんとそこに何か応答していく、デビューしていく、そしてその道を何か舞台を、状況を何か整えていく。それは私があなたに与えていく恵みですと主は言われます。

だから人たちもあなたを振り返る。あなたを喜ぶと主は言われます。出会わなかった人たちにあなたは出会っていくでしょうと主は言われます。まぁ分野というのかな。例えば自分はこういう役割、こういうお仕事。だからこういうビジョンの人とかこういう状況の人とはちょっと話が合わないじゃないけど、ちょっと関係ないかなと思っていた。でも実にあなたは多様性に富む。なにか人たちの状況に対して、すごく憐れみ深い、その慈しみ深い、それは私がそのように憐れみ深く、いつくしみ深い、その私の愛を、み父の愛ですね、天のお父さんの愛をあながたこの地であらわしていくように、私はあなたに新しい家族をその役割を、つながりをちゃんと用意していますと主は言われます。

だから子供の頃にすごく願っていた、なんかこうなりたいなって、なにかその思うがなにか形を変えて現実になる。そして本当にこれで良かったと。僕が本当にほしかったっていうか、知りたかったことはこのことだったと、ちゃんと分かっていく。何か理解していくと主は言われます。
だから何かこう人間的な目線というかな、今の理解する範囲で私を知ろうとしなくていいと主は言われています。私のみ思いの総計を知ることは砂の数を数えることよりも難しいことですと主は言われます。あなたの思いをはるかに超えて私の目線は高い、そして私は良い神ですと主は言われます。家族を心配しないで、恐れないで大丈夫と主は言われます。つい心配して、やっぱり何ていうんでしょうね。うーん、お母さんの願っているとおり、お父さんの願っているとおり、何か周りが自分を信頼してくれているから、何か聞き分けの良い、すごくいい子でありたい、でも息子よ、あの、すごくこうあなたの中に待ち望んでいた時、何かその時間が、状況が動いてみると、実は周りもそれを待っていたというか、何かそれをあなたが知ると主は言われます。

だからすごく細やかな感性ですね。でもそれでありながらその骨太な、何か真理の柱をしっかりと家に、例えば家だったら柱がしっかりと立っていくように、私はあなたを大きく用いていきます、膨らませていきますと主は言われます。経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます。手放したと思うもの、振り返ってはいけないと主は言われます。

あなたがしっかりと何か道に対して、おそれずに何か果敢に取り組んでいる、だからこの自分ではちっちゃい努力っていうか、みんなには言わない、見せていない、でもそれであっても息子よ、私はあなたの努力を見ています、喜んでいます。だから地道に思う時間の積み重ねのその、現れを、結果を私はちゃんと大事にして、あなたの人生にそれを返していきますと主は言われます。我が愛する息子よ、私はあなたとともにあると主は言われます。
(以上) 

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい、ボイスレコーダーをお返しします。どうぞ。

f:id:jios100:20190904021644j:plain (すげぇ、終わった瞬間に冷静になる感じがヤバい)

f:id:jios100:20190904021541j:plain (一瞬、僕のシャッター音にびっくりして止まってから、1秒ぐらいかけて集中戻した感じがしたな)

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい。それでは次の方は・・・

f:id:jios100:20190904021800j:plain 私にお願いします。

 f:id:jios100:20190904015022j:plain では始めます。

 

f:id:jios100:20190904021800j:plain岡田さんへの預言・全文>(本人了承済)

主は言われます。わが愛する息子よ私はあなたを愛しています。あなたをすごく喜んでいますと主は言われます。あの、横笛をふく人、私、笛は吹かないんですが、何かこうふくかのようにあなたが奏でる何かその柔らかなメロディーというのかな、すごい深みがあって、でもすごく繊細。なんかそれがあるからこそ、人たちがちゃんと心、何かその思いを、なにかこう思いを取り戻すというのかな、何か荒れてて、もうカラカラで干上がってもう状況何にもわからないと思うと、もうみんな気持ちが荒んで、もう何か、そこに水に石を投げるみたいに一等地を、何かこう投げていく。何かそれによって人がちゃんと振り返る。ああそうだったこんなことをしてはいられないと。だから息子よ、あなたの手に今されている。何かこうて手に持っているその武器というか、持っているその良いものをますます大きく何か成長させる。だからスキルアップというか、見える資格とかそういう話だけではないんですが、何かもっともっとあなたは大胆であっていい、自由であっていいと主は言われます。
私はそのメロディーが、本当にこう風に乗っていく。風にあおられていくというのも変ですけれども、なんでしょうね。出会っていない人たちが、何かあなたを聞きつけてやってくるというか。僕はその人たちには笛はふえていないと。僕はその人たちは知らないと思っても、ちゃんとあなたが必要なもの、存在が本当に大きなものとして、かけがえのないものとして呼ばれていく。だから息子よ、焦らずに、何かそのときを待ってきた、あなたの誠実さ、その忍耐強さを私は決して忘れてはいないと主は言われます。

いろんな人たちが(ここで涙ぐむ)あなたを追い抜いていったというか、なんかすごい辛かった。でも息子よ、私はちゃんとあなたの人生に私の実りがあるように、喜びがあるように、今、移動のとき。本当に新しい変化と「聖化」のとき、「成長」のときそれが新たに与えますと主は言われます。
また家族を心配しないでと主は言われました。心配してないと、なんかこう言っても何か不思議に心配しているというか、どう思われているか、どうかなってでも私はちゃんとそれぞれの人生に良い計画をしています。1人1人が私の息子であり、私の娘ですよと主は言われます。なんか自分はやりたいことをやってあげてない。何かこう例えばですけど、使えてあげたい、こうしてあげたいと思うけど十分にできていないと。そのように責めないで。あなたの祈る声、求める声に、私がいつも応じている。だからあなたの祈りは声はちゃんと私に聞かれていると主は言われます。
また山に向かって海に入れと。その宣言する何かそのように、そのあなたがからし種ほどの信仰と思った。小さいこんな気持ちでいいのかなって。でもこの山が海に入っていくように今あなたが時代の流れを超えていくように、私はその大きな変革者としてあなたを呼んでいると主は言われます。
だから息子よ、生きることを心配しないでと主は言われます。こんな小さい、こんなに何か幼いと、何かあなたが思ってきたけれども、実にその子供のように信じる信仰ですね。何かそれを私がいつも愛しているように、これだけわかった、こんなふうだったじゃなくて本当にこんなふうに変わったと。何かあなたの日々が本当に新しくされていく。私はそれをあなたに与えます。何かこうふりしきる雨のように、シャワーのように、私の聖霊の雨を、日々受ける。なにかそのものであってくださいと主は言われます。

古い何かチリとかホコリとかもう知らずに新たの心を締め付けてきた。何か古い考えが、痛みが今本当に洗い流されて、あなたは立ち上がる。あなたは勇気を得る。あなたはよみがえると主は言われます。わたしがよみがえりです。わたしが命です。だから語る言葉を恐れずにいなさいと主は言われます。向かう場所も、何がそこここでというかな、なんかこうちゃんと私の知恵が与えられる。だからここ行って、何話すのかな僕どうするのかなってこう考えちゃう。でもそうじゃなくって、そのときにその知恵が私によって与えられる。あなたはますます喜びへ、ますます私の平安を知ると主は言われます。だが愛する息子よ、私はあなたを呼んでいますよと主は言われます

(以上)

f:id:jios100:20190904015022j:plain はい。ありがとうございました~(すぐさま席を立つお姉さん)

 f:id:jios100:20190904021644j:plain あ、ちょっと待ってください!

 f:id:jios100:20190904015022j:plain はい?

f:id:jios100:20190904021644j:plain  いくつか質問が。

 f:id:jios100:20190904015022j:plain なんでしょう。

 

この謎な「預言」だけでは引き下がれない・・・! 本番の質問タイムが始まる!!

 

 

▼「預言」について聞いてみた

f:id:jios100:20190904023439j:plain

f:id:jios100:20190904021644j:plain このカードに書いてある、「預言は条件的です」っていうのは、どういう意味ですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain ああ、それですね。預言というのは、一方的に決められている運命のようなものではありません。必ずそれを信じる「信仰」が必要になってきます。神様から示された言葉を信仰を持って受け取るのと、かならずセットなんですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド? 言われたことが自動的に全て実現するっていうわけじゃなくて、信じる行為が必要ってことですか? 

f:id:jios100:20190904015022j:plain 信じる「行い」が必要だという意味ではないんですが、神様は人間と人間関係を持ちたいと思っておられるんです。手を差し伸べているけど、その手を人間が取る必要があるというか。その関係性が「預言」を受け取るには必要という意味で「条件的」という表現をしています。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 一方的に決まっちゃうわけじゃなくて、あくまでも神と人との双方向のやり取りっていうことかな。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain もう何点かだけ。さっき、「はしご」とか「笛を吹く人」っていうイメージが出てきましたよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺は「砂漠」だったな。

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ああいうイメージは、どこから来てるんですか? 神から「降ってくる」んですか? それとも頭で思い浮かべてるんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain 「降ってくる」という表現が適切かどうか分かりませんが、私たちは「信仰をもって”受け取る”」という表現をしています。神様が伝えようと思っておられるものを、聖霊様の導きで感じ取って、それをお伝えしているんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 「預言」全体がそうなんですか? 神様の声が聞こえたりするんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain いえ、あくまでも神様が語られていることを、感じ取るというか、「受け取る」ということです。別に何か私に特殊能力があるわけではなく、神様はみなさまお一人おひとりに語っておられるんです。それをお伝えしているわけですね。

 

f:id:jios100:20190904021644j:plain 「預言」をするには、資格などが必要なんですか?

f:id:jios100:20190904015022j:plain いいえ。何か特別な資格が必要なわけではありません。クリスチャンであれば、誰でも預言ができます。もちろん、「預言カフェ」では人様に預言をさせていただいているので、それなりの「訓練」というか、一定のものを学んだ後でお店には立っています。けれど、「預言」は本来はクリスチャンであればどなたでもすることができるものなんです。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド。全員ができるんですね。(※これについては詳細は後述)

f:id:jios100:20190904015022j:plain そうですね。詳しくは毎月「預言カフェ」の創設者によるセミナーをやっていますので、そこでお聞きできますよ。無料のセミナーなので、ぜひお気軽にお越しくださいね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ありがとうございます。

 

こうして、男3人は会計を済ませ、店をあとにしたのであった・・・

 

 

▼ぶっちゃけ、「預言カフェ」はどうなの?

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「預言カフェ」を退店した3人。本音としては、どうだったのだろうか。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ぶっちゃけ、どうだった?

f:id:jios100:20190904021541j:plain 俺は正直、イメージと全く違ったというのが本音かな。もっと占いチックなことされるかと思ったけど、違った。かなり勘違いしてたな。自分の予想を上回ってきた感じ。預言が合ってるかどうかというよりも、言われた言葉を神様の言葉として受け取ったときに、「自分はめちゃめちゃ神様に愛されてるんだ」ってことを実感したかな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 店に入る前とは、やっぱりイメージは変わったよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain あと、自分は既に不安や恐れから解放されてるんだって思ってたけど、そうとも限らないんだなって思った。まだ頭では理解できてないけど、今日言われた言葉を神様の言葉として捉えたときに、ものすごく納得したっていうか。安心感があった。一言付け加えるとしたら、個人的にはもっと「聖書の言葉」があってもいいのかなぁとは思った。

 

f:id:jios100:20190904021800j:plain 僕も、総じて印象は悪くなかったかな。スタッフの方の礼節、接客、コミュニケーションの距離感も嫌なところは全くなくて。視線を合わせれば、自然と笑顔で応えてくれるし、必要以上に押し付けがましく話しかけられることもなかった。質問に対する説明も丁寧だったし。コーヒーもちょっと高いけど、美味しかったし、預言コミコミならまぁそんな感じかなって。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 接客はほんと丁寧だったね。店員のお姉さんの対応、話し方はとっても丁寧だった印象。

f:id:jios100:20190904021800j:plain ぶっちゃけ、預言そのものは良く分からなかったな(笑)何か具体的なものを指しているわけじゃなくて、曖昧なイメージというか。本当に神様の言葉かどうか、白黒つけるのは難しいと思う。ただ曖昧ではあるけど、聞いていて嫌な感じではなかった。

f:id:jios100:20190904021644j:plain そうだねぇ。個人的には、何か曖昧なイメージを伝えて、受け取り側が勝手に都合よく解釈するという「占い師あるあるの手法」の域を出ないと感じたかな。「砂漠」「はしご」「笛を吹く人」なんて言ってみたり。「もう心配しなくていい」とか「頑張らなくていい」とか「成長のタイミング」とか、結構どんな人にも当てはまりそうじゃない?(笑)

f:id:jios100:20190904021800j:plain 今日の店員さんの預言は、超えちゃいけないラインは超えないいい塩梅だったと思う。ただ、予想だけどあれも店員さんによってクオリティに差があって、店舗を拡大していくと、どうしても危ない預言をする人も出てくるんじゃないかっていう懸念はあるね。

 

f:id:jios100:20190904021541j:plain あとは、「教会に来てください」っていう勧誘がなかったのが意外だったかな。もらったカードの一番最後に「礼拝が大事」と書いてあるだけで、「ウチの教会に来てください」って一言も言われなかったよね。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 確かに、教会にダイレクトにつなげようとする勧誘じみたものは全くなかったね。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 違和感があるとすれば、なぜ「預言カフェ」を営業しているのかっていう「目的」かな。

f:id:jios100:20190904021644j:plain 確かに。「預言カフェ」ってそもそも何を目的に作られたんだろう。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 僕個人としては、「神の素晴らしさ」「イエスの素晴らしさ」を伝えるために作ったんじゃないかなと想像してるけど。じゃあ「預言」を「神を伝える手段」として使うのはアリなのだろうか? っていう疑問があるんだよね。

f:id:jios100:20190904021541j:plain 確かに。今の「預言カフェ」をイエスが見たら、頭をポリポリ掻きながら「ちょっと違うんだよなァ・・・」ってつぶやくような気がする。勝手なイメージやけども。

f:id:jios100:20190904021800j:plain 結論としては、預言そのものの内容が真実かどうかは、分からない。だけどもカフェ自体には嫌なところはなかったかな。でもカフェの目的や、預言を手段とするところに違和感を覚えたって感じ。

f:id:jios100:20190904021644j:plain ナルホド。2人とも、今日はありがとうございました。
f:id:jios100:20190904021541j:plainf:id:jios100:20190904021800j:plain ありがとう〜。またね!

 

▼預言カフェは大丈夫なのか? 小林の個人的見解

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 さて、今回はコミカルなテイストでお伝えしたが、最後にあえて真面目モードに戻って、小林の個人的な見解を述べたいと思う。「預言カフェ」はアリなのか、ナシなのか。怪しくないのか。今回、実際に足を運び、ある程度の結論が個人的に出たのでお伝えする。

 結論としては、評価できるポイントと、できないポイントがあった。個人的にまとめてみる。

<評価できる点>

・店の雰囲気、店員の接客、コーヒーの味など、カフェとしてのクオリティは及第点だった

・「預言」についての素朴な疑問に、丁寧に対応・説明がされていた

・「預言」の中身は至極曖昧であったが、逆にその慎重さが「踏み込みすぎない」という意味で、個人的には評価できた。決して「あなたの将来はこうなる」などと断定するようなものではなく、あくまでイメージを伝えるにとどまっていた。

「預言」の内容も客への励ましがメインであり、何か災いを予知し、不安を煽るようなものではなかった

・基本的には、聖書の記述をもとに主義・主張が展開されており、その内容に聖書の記述からの大きな逸脱は感じなかった

 

 「クリスチャンならばみな預言ができる」というお姉さんの発言に、驚いた方もいたかもしれない。先ほどは述べなかったが、実はこれは聖書にれっきとした記述がある。見てみよう。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~33)

 

 ここに「だれでも一人ずつ預言することができる」と明記されている。新改訳聖書第3版では、「みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができる」と書いてある。この「すべての人」というのは、文脈的にイエスを信じるクリスチャンたちを指す。だから、店員のお姉さんが言っていた「クリスチャンはみんな預言ができる」という主張は間違いではない。その点は評価できる。

 また、預言の中身も、かなり曖昧なものであった。しかし、その曖昧さが「踏み込みすぎない」という意味で、逆に評価できるポイントだった。事前に聞いていた噂では、「カーテンの色を変えた方がいい」とか「家具のレイアウトを変えたほうがいい」とか、風水や占いじみた預言がされているという話だった。しかし、実際はそんなことはなく、曖昧なイメージを伝えるのみであった。

 これは、評価ではなく分析だが、超えてはいけないラインは超えないように、おそらく運営側の教会が相当なマニュアル作り、預言をするスタッフを訓練しているのだろうと感じた。預言の内容も、3人分しか聞いていないのだが、おそらくこんな教育がされているのだろうと推測できる。

<預言カフェの預言のあり方>

・「主は言われる」というフレーズを繰り返し、強調する

・預言の対象者は「父なる神の息子(娘)である」という立場に立つ

預言のはじめは、預言を受ける人についての「映像で表すイメージ」から始める

基本的に「あなたはダメだ」「失敗する」などといったネガティブな預言はしない

過去の痛みや傷を再認識し、そこからの癒やしや解放を目指す「励まし」の預言が主体である

・1回の「預言」はおおよそ4分でまとめる

・イメージの多くは聖書から引用している。時たまに聖書の言葉を引用するが、クリスチャン用語はなるべく排除して伝えている

 

 評価できるのは、「あなたは失敗する」などといったネガティブな預言はしていないという点だ。占いの多くは「このままでは災いが起きるなどといって、そこから逃れるための方法を伝えるものだが、預言カフェの預言はそういった「占い」とは一線を画している。実は、これも聖書の記述に関係がある。

しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。(中略)預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:3~4)

 

 預言は「人に語るもの」である。そして、「人を育て」「励まし(勧め)」「慰める」ものである。その意味で、預言カフェで今回受けた預言は、内容こそ曖昧だが、人の心を癒やし、解放し、励ますことに主眼が置かれているように感じた。

 例えば、岡田氏に語られた「いろんな人たちがあなたを追い抜いていった。辛かったでしょう。でも息子よ、あなたの人生に喜びがあるように」との言葉や、白川氏に語られた「あなたが通ってきた患難は、決して無駄ではなかった」といったような言葉は、明らかに相手を励ます言葉である。何が具体的に辛かったとか、患難だったのかは語らないところがズルイ部分ではあるが、裏を返せば、大外れしないように工夫されたやり方でもある。超えてはいけないラインを超えないように、それでいて相手が過去を振り返り、慰められ、励まされるように、よくできた仕組みといえよう。スタッフも、この点はかなり訓練されていると感じた。

 また、私に預言された「はしご」のイメージは、おそらく聖書に登場する「ヤコブのはしご」(創世記28章)から連想したものだろう。岡田氏に対する予言では、「わたしがよみがえりであり、いのちである」というイエスの言葉を引用している。そのように、預言の中で聖書の言葉を引用するのは、決して間違っている行為ではない。「預言」は「神から預かる言葉」なので、聖書の言葉をそのまま語るのは、まさに本物の「預言」である。

 また、お姉さんが「聖化」と言いかけて「成長」と言い換えたところから、「クリスチャン用語をなるべく使わない」というポリシーが透けて見えた。「聖化」というのは、クリスチャン用語で平たく言えば「イエスのような人格に成長すること」を指す。しかし、一般のお客さんにはそんなクリスチャン用語は通じないので、「成長」と言い換えている。このような言い換えは、スタッフの言動の随所に見られた。預言について説明を求めた際も、なるべくクリスチャン用語を排除して説明する努力が垣間見えた。その点の努力は評価したい。

 預言を一律で「4分前後」にしているのも、何か意図がありそうだ。スタッフのお姉さんは、預言をしながら、目をつぶって瞑想しているのだが、時たま目を時計にやり、時間経過を確認していた。店として、時間をきっちり決めるのはよいことで、それは評価したい。しかし、本当の預言ならば、短くなる場合も、長くなる場合もあるのではないかと感じた。少しビジネスライクのように感じた。

 

 では、懸念すべきポイントは、どのようなものがあるのだろうか。まとめてみた。

<懸念すべきポイント>

「主は言われる」という断定口調が踏み込みすぎではないか

・曖昧なイメージだけを伝えるのは「踏み込みすぎない」という意味では評価できるが、「誰にでも当てはまることを言って解釈させる」という占いでありがちな手法の域を出ないのではないか

・「息子よ」と連呼されても、キリスト教の「神=父」「イエス・イエスを信じる者たち=息子」という概念を知らない人にとっては恐怖でしかない

預言の内容が、人の見た目に左右されている可能性

 一番懸念すべきなのは、「神の名を軽んじていないか」という点である。「主は言われる」というのは、「神はこう言っていますよ」という意味なので、非常に重い言葉である。気づいた読者の方もいると思うが、「預言カフェ」の預言の中で「主は言われます」という言葉がかなり多く使われている。たった4分程度の預言の中で、白川氏は10回、小林は20回、岡田氏は15回も「主は言われます」と言われている。3人合計で、なんと45回も言われているのだ。

 「主は言われる」と宣言するというのは、それが絶対起こらないといけない。そうでないと、神の名前を使って、嘘を言っていることになる。中には「あなたを愛していますと、主は言われます」という普遍的な、100%間違いない聖書の言葉をもって宣言している部分もある。そこは問題ない。しかし、必ずしも正しいと思えない預言でも「主は言われます」と言ってしまうと、それは神の名前を使って嘘をつく行為になる。いわば「冒涜」になってしまうのだ。

 例えば、私に対して預言された「経済において、何かやるべき方向性をもう一度あなたに与えていく、確認させていくと主は言われます」という言葉は、果たして本当なのか。必ずしも、全員に当てはまるような内容ではないかもしれない。その場合、本当にこんな軽々しく「主は言われます」と宣言していいのだろうか。経済活動については、必ずしも聖書に明確な記述がたくさんあるわけではない(少数はあるが)。

 あまりに主の名前を軽く用いるのは、決して良い行為ではないと、私は思う。もし仮に今の「預言カフェ」のような活動をするならば、「主は言われます」ではなく、「主がそう言われると、私は思います」とか「主はこう言われていると感じます」などと、主語を自分にした方が懸命だ。

あなたは、あなたの神、主<しゅ>の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

出エジプト記20:7)

昔から、私(エレミヤ)と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

エレミヤ書 28:8~9)

 

  また、曖昧なイメージだけを伝えるのは、「踏み込みすぎない」という意味で賢いが、裏を返せば「誰にでも当てはまる曖昧なことを言って、相手に解釈させ、まるでズバリ言い当てたかのような錯覚をさせる」という「占いあるあるの手法」の域を出ないと思う。「預言」をまるで「占い」かのように用いて商売をしているという批判は、この状態では免れないであろう。

 もちろん、この点については、かなり詳細な注意書きが書いたプリントを手渡されたり、オーナーの著書の詳細な記述があったりと、一定の配慮はされていたようには思う。

 

 また、岡田氏の指摘のように、このカフェの目的が「神の素晴らしさ、イエスの素晴らしさを伝える」というものであったとしたら、その手法が適切かどうかについては、疑問が残る。例えば、「あなたを愛しています、息子よ」という言葉が、何度も何度も預言の中に出てくる。これは、「神=父」「イエス=息子(長子)」「イエスを信じる者=息子(長子に続く子どもたち)」という聖書の概念を知っていて、初めて理解できる言葉だ。聖書の概念を知らない人にとっては、いきなり知らない人に「息子よ」と言われても、怖いだけ。いや、私あなたの息子ちゃうし、って思ってしまうだけだ。

 それに加え、スタッフさんが預言をかなり早口でまくしたてるため、少し圧がある。正直、「怖い」と思ってしまったのは事実だ。「預言カフェ」が初心者に優しい設計になっているかという目線で見ると、少し敷居が高すぎるような気がする。

 聖書になじみがない客が来る場合に備えて、もう少し「預言とは何か」というものを説明してから預言の行為に入った方がよいのではないかと、私は思う。今回は、預言を頼むなり、スタッフさんがいきなりテーブルに来て、ボイスレコーダーを手渡した瞬間に、早口で預言をまくし立てていた。預言が終わると、何のフォローもなく、席を立とうとしていた。もう少し、「預言」とは何かを丁寧に説明する必要があると思う。

 ただ、預言を「神の素晴らしさを伝える」ために用いるのは、決して間違いではない。聖書にこう書いてある。

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神がたしかにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。

(コリント人への手紙第一 14:24~25)

 預言は、神の素晴らしさを伝える、いわゆる「伝道」のために用いてよいツールなのである。

 

 最後に、「預言」とは言いながら、人の見た目に左右されたものが多かったのが気になった。例えば、白川氏は仕事が休みだったので、アロハシャツ。私は仕事終わりだったので、スーツで向かった。その結果、白川氏は少しファンキーに見えたのだろうか、過去の心の傷や痛みに言及するものが多かった。また、白川氏は帽子をかぶっていた為か、預言にも「帽子をかぶっている」という言及があった。

 一方で、スーツだった私に対しては、「経済」や「仕事」、「家族」に関する言及が多かった。単なる邪推だが、「人を見た目で判断し、そこから予測して預言しているのでは?」と思ってしまった。私がもう一度、今度はTシャツ、短パンで髪の毛を金髪に染めていったら、果たして同じような預言になるのだろうかと、いじわるのようだが感じてしまった。神はうわべではなく、心を見る方なので、もし本当の預言であれば、見た目には左右されない預言ができるはずなのだ。


 今回の記事は、今までで最も長い記事となったが、それだけたくさんの言及をしなければいけないほど、「預言」というものは深く、また間違えやすい要素である。しかし、聖書には「預言」がしっかりと明記されている。聖書に記述がある以上、「もはや預言はない」などと言うつもりはない。

 問題は、与えられた能力・賜物をどう用いるかだ。包丁で料理をするのか。それとも人を刺すのか。便利な道具ほど、扱いは慎重になるべきだ。その意味で、「預言カフェ」は評価できる点はあったものの、若干、慎重さに欠けるのではないかというのが、私の意見である。

 気になった読者の方は、ぜひ一度、自分の足を運び、実際はどうなのか確認していただけたら良いだろう。その上で一番大切なのは、神に祈り、神ご自身がどう思われているかを求め、聞いてみることだと思う。

 

ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。(中略)預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。

申命記 18:20~22)

だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

(コリント人への手紙第一 14:37~38)

 
(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「避妊」をしてはいけないのか?!

クリスチャンはコンドームを使ってはいけないの? そんな質問をされた経験があります。聖書は何と書いているのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンはコンドーム禁止?!

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 クリスチャンですと自己紹介すると、様々な質問をされる。「日曜日教会行くの?」とか、「家族もキリスト教なの?」とか、「カトリックプロテスタントってどう違うの?」などと、何度も聞かれる。ある日、少しトリッキーな質問をしてきた人がいた。「クリスチャンはコンドーム使っちゃダメなの?」というものだった。言い換えれば「クリスチャンは避妊していいのか、ダメなのか」という問いかけである。ナルホド。世間一般では、クリスチャンになると「避妊」もダメと思われているのかと勉強になった。面白い。

 しかし、なぜ「避妊してもよい」と言えるのか。もしくは、なぜ「避妊してはダメだ」と言えるのか。正直言うと、正面からキチンと考えては来なかった。この機会に、考えてみようと思った。

 今回の記事では、少しデリケートだが、この「避妊」について書く。断っておくが、この記事は「婚前交渉の是非」や「中絶の是非」がテーマではない。あくまでも「結婚している夫婦が避妊をすることの是非」についての記事である。その点をご留意いただきたい。

 また、以前このブログの記事について「体験していないことを、いかにも体験したかのように書くのはいかがなものか」という批判が寄せられた。その是非は置いておいて、同様の批判に対して先に答えを書いておく。私は男性である。そして現在に至るまで、女性と性関係を持ったことはない。ゆえに、いかなる方法によっても避妊の経験はない。避妊の経験はないが、あえて避妊についての記事を書くのだと、先に宣言しておこう。

 今回は、聖書で避妊をした例はあるのか、そもそも避妊は悪いことなのか、聖書の価値観は何かという観点で、記事を書いていく。また、子どもを産むことについては、様々な事情が、それぞれの夫婦、家族にあるだろう。産みたくても産めない人もいる。産みたくなくても、様々な事情で妊娠し、結果的に産む決断をする人もいる。それぞれに、複雑な事情が存在する。だから、この記事でも決して断定的に「避妊はダメだ」とか「避妊すべきだ」とか言うつもりはない。それぞれにデリケートな事情があるのは、百も承知である。この記事は、決してそういう方々を糾弾するためのものではないことは、分かっていただけたらと思う。

 ただ、一般論として、クリスチャンは「避妊」をどう考えたらよいのか、議論はすべきだと思う。だから筆を執った次第である。この記事を読んで、傷つく人がいないよう願っている。

 

 

▼聖書で最初に避妊をした例 ~オナンの物語~

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 聖書に避妊をした例はあるのか。実は存在する。まずは、その例を見てみよう。

ユダはその長子エルに妻を迎えた。名前はタマルといった。しかし、ユダの長子エルは主<しゅ>の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。ユダは(次男の)オナンに言った。「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい」しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。ユダは嫁のタマルに、「わが子シェラ(三男)が成人するまで、あなたの父の家でやもめのまま暮らしなさい」と言った。シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家にいき、そこで暮らした。

(創世記 38:6~11)

 

 これは、男の子が大好きな「オナン」のエピソードである。オナンは、自慰行為「オナニー」の語源となったとも言われている(本当かどうか知らないが)。私のクリスチャンの友人A氏は、好きな聖書の登場人物を聞かれた際「オナンかな!」と元気よく答えていたが、意味の分かった者だけが笑っていた。これで笑えるのは、相当聖書を読んでいる人であろう。

 冗談はさておき、これは次男のオナン(図らずしも韻を踏んでしまった)が、長兄に子孫を残さなかった話である。オナンの父はユダ。ユダはヤコブの子どもである。アブラハムを起点として見てみよう。

<オナンの系図

アブラハム(高祖父)

 |

イサク(曽祖父)

 |

ヤコブ(祖父)

 |

ユダ(父)

 |

エル(長男)、オナン(次男)、シェラ(三男)

 

 オナンは、アブラハムの玄孫(やしゃご・孫の孫)である。この世代の400年後にモーセが登場するので、まだ旧約聖書の律法が確立するより、ずいぶん前の話だ。日本で400年前というと、ちょうど江戸時代が始まった頃なので、その感覚が伝わるだろうか。

 まだモーセの律法が確立する前、アブラハムの家族には、長男が家を引き継ぐという風習・伝統・ルールがあった。その目的は、おそらくはアブラハムが神と交わした契約の祝福と義務を、後の世代まで受け継ぐためであったのだろう。アブラハムから脈々と引き継がれた契約を受け継ぐ対象は、基本的には長男であった(しかし、神の計画は皮肉なもので、往々にして長男じゃない人が受け継いだりするのだが・・・)。

 長男が子どもを授からず死んだ場合はどうするのか。「長男の兄弟」が「長男の妻」と結婚し、「長男の息子」を「代理に産んで家を引き継がせる」という風習が、彼らにはあった。これは「レビラト婚」という風習で、まるめて言えば「寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する風習」といった感じだ。

 この頃は、モーセの律法は成立していないが、後にモーセ時代の律法でも同じ決まりが規定されている。

兄弟が一緒に住んでいて、そのうち一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

申命記 25:5~6)

 

 レビラト婚の目的は、「長男の子どもを残す」というものであった。つまり、オナンがタマルとの間に産むはずの長男は、オナンの子孫ではなく、エルの子孫としてカウントされる手はずになっていたのである。

 日本にも似たような習慣があった。例えば私の祖父は四男なのだが、次男(祖父の兄)には子どもが産まれなかった。だから、私の祖父の長男(私のおじ)は、戸籍上は次男の養子に入った。四男である私の祖父の子孫よりも、次男の子孫を残すのが、一家として優先事項だったのである。「レビラト婚」は、日本人にとっても決して関わりのない文化ではない。

 さて、オナンの話に戻る。オナンは自分が子どもを産んでも、自分のものにならないと知っていた。それゆえ、オナンは「兄嫁のところに入ると、地に流していた」とある。オナンは、いわゆる「膣内射精」(中出し)をせずに、「膣外射精」(外出し)をしていたのである(つまり、厳密に言うと「オナニー」ではない)。

 神はオナンの行動をどう評価したのか。

彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。

(創世記 38:10) 

 こう書いてある。オナンの行動は神の目には悪であった。では、オナンの行為のどこが悪だったのだろうか。避妊そのものが悪いことなのか。その点を見ていこう。

 ちなみに、この部分だけ読むと「嫁のタマルがかわいそうだ」と思う方もいるかもしれない。ごもっとも。しかし、ご安心を。タマルは知恵を働かせ、なんと義父のユダとの間に子どもを設けるのだ。実は、その子どもがメシアであるイエスの祖先となるのであった・・・。興味のある方は、創世記38章とマタイの福音書1章を読んでみてほしい。

 

 

▼オナンはなぜ悪とされたのか

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 オナンの行動はなぜ悪とされたのか、その「動機」に焦点を当てて考えてみたい。オナンの行動の前に、大前提となった神のことばを振り返って見てみよう。

神は彼ら(人、男と女)を祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」

(創世記 1:28)

 

 神が人に最初に命じた基本的命令は「生めよ。増えよ。地に満ちよ」であった。当時の価値観では子どもは神からの祝福であり、逆に子どもが産まれないのはネガティブな事であった(今回、その価値観の是非を問うつもりはない)。

 さて、そんな中でのオナンの行為である。オナンの動機については、実は明確な記述がある。もう一度見てみよう。

しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。

(創世記 38:9)

 

 オナンの目的はハッキリしている。「兄に子孫を与えないように」というものだ。おそらくオナンは、自分の子にならないのが「しゃく」だったのだろう。以上の点をふまえ、なぜオナンが神の目に悪とされたのか、まとめてみる。

<オナンはなぜ悪とされたのか>

1:長兄のために子孫を残すという、明文化はされていないが、確実に把握していた風習・ルールに逆らった

2:アブラハムの直系の子孫でありながら、神からの祝福・神との契約を受け継ぐための子孫を残そうとしなかった

3:「産めよ。増えよ。地に満ちよ」という神の基本命令に対し、生殖能力があり、法的な妻も存在したにも関わらず、それを個人的な「しゃくに障る」という理由で拒否した

4:神が悪と定めたから

 

 オナンが悪とされたのは、おそらく2番目の「神とアブラハムの契約を受け継ぐ子孫を残そうとしなかったから」というのが、最大の理由であろう。いずれにせよ、最後にあえて明記したように、究極的には神が悪と定めたから悪なのである。善悪を定めるのは主権者である神ただお一方である。

 

 

▼子どもは神が授けるものという価値観

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 「避妊の是非」という本題に入る前に、もうひとつだけ聖書の価値観を確認したい。「子どもは誰が授けるのか」という問題である。

 聖書で、子どもは「胎の実」(ルカ1:42)と呼ばれる。そこで、「胎」という単語に注目して聖書を調べてみた。

 「」という単語は、ヘブライ語で「レヘム」という。旧約聖書では少なくとも31回登場する。新約聖書ではギリシャ語「コイリア」(「お腹」の意味)が24回登場し、英語のKJVという翻訳では、そのうち12回が「胎」の意味で用いられている。では、どんな意味合いで用いられるのか。いくつかピックアップしてみた。

そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。主<しゅ>がアブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。

(創世記 20:17~18)

主<しゅ>はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケル不妊の女であった。

(創世記 29:31)

神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。

(創世記 30:22)

 

 聖書の価値観のひとつは「子どもを産むも、産まないも、神の決定による」というものだ。母の胎を開くも閉じるも、神が決めるものなのだ。「胎」に関わる文章のほとんどは、比喩的な詩文を除けば、ほとんどが「神」または「主<しゅ>」が主語となっている。子どもを授かるのも、神の決定。子どもが何らかの理由で授かれないのも、これまた神の決定。聖書はそう書いている。

見よ、子どもたちは主の賜物。胎の実は報酬。

詩篇 127:3)

 

 また、神は子どもが胎内にいる時から、その存在をご存知である。聖書を見てみよう。

神である主<しゅ>よ、あなたは私の望み、若い日からの拠り所。私は産まれたときから、あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。

詩篇 71:5~6)

あなた(神)こそ、私(ダビデ)の内蔵を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私が隠れた所で造られ、地の深い所で織り上げられたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

詩篇 139:13~16)

次のような主のことばが私(エレミヤ)にあった。「わたし(神)は、あなた(エレミヤ)を胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた

エレミヤ書 1:4~5)

 

 神は、人が胎内にいる時から、いや、その前からその存在をご存知である。神ご自身が母の胎内で、あなたを形造り、あなたという存在を誕生させ、あなたという存在を大切に思っていて下さっている。これが、聖書の価値観である。つまり、産まれた者はみな神が産ませたのである(これは決して、「神が産ませない者は産まれない。だから中絶は神が認めているのだ」という結論には帰着しない)。

 あなたという存在は、神が形造ったのである。それは神の恵みである。

 

 

▼「避妊」は悪いことなのか?

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 さて、以上の点をふまえて、本題に入ろう。避妊は悪いのか。オナンの事例から、果たして避妊は悪いと言えるのか。オナンの事例は、現代の「避妊」に当てはまるのか。見ていこう。

 現代において、なぜ「避妊」をするのか。繰り返すが、この記事のテーマは「結婚している夫婦の避妊の是非」なので、未婚の性交渉については今回は議論しない。結婚している夫婦の避妊の目的について、未経験者の私が想像できる限り書いてみた(現代の日本人カップルを想定している)。

<結婚している夫婦が避妊をする理由>

・新婚時代は2人きりで過ごしたいから

・子育てはもう少し年齢を重ねてからしたいから

・子育てができる経済的基盤がないから

・そもそも子どもを産み育てるつもりがないから

・子どもが嫌いだから

・海外、特に発展途上国などに長期滞在予定で、安心して子どもを産み育てられないから

・妻が妊娠に耐えうる健康状態ではないから

・子どもを産み育てるより、優先したい夢などがあるから

・子どもを産みたくない以外の理由があるから(生理をコントロールしたい、病気予防など)

・何らかの事情があり、コンドームをした方が安全な性行為ができるから

・その他の理由(筆者の逃げ)

 

 さて、これらの理由はオナンの動機と合致するのだろうか。私は個人的な意見として述べるが、必ずしもオナンの事例は現代の避妊すべてに当てはまるものではないと思う。オナンの動機は「至極、自己中心的なもの」であり、「神とアブラハムの契約をないがしろにするもの」であり、「兄への責任を果たさない行為」であった。

 では、現代の避妊は「自己中心的」といえるのだろうか。必ずしも、そうではないと思う。上に挙げたように、様々な事情がある。人によっては「経済的保証がない中で、子どもを作るのは、それこそ自己中心だ」「子どもの未来を経済的に保証できるようになってから子作りをすべきだ」と考える人もいるだろう。私はその考え方に対して、個人的に思うところはあるものの、積極的に否定する材料を持ち合わせていない。

 例えば、女性の体調面の事情で「避妊的」な行為をする場合がある。「低用量ピル」なども最近は話題になっている。少し前に、TBSの「クレイジージャーニー」という番組で、アマゾンの「カヤポ族」について紹介していた。それによると、カヤポ族は「生理の出血」を汚れとみなした末に、「生理の出血は止めるが、排卵は継続できる薬」を開発しているらしい。「妊娠できる生理コントロール」が可能になれば、生理の様々なネガティブな現象に苦しむ女性にとって、素晴らしい朗報に違いない。世界中の製薬会社が彼らのレシピを欲しがっているが、彼らは決して明らかにしないそうだ。

 また、男性側に何かしらの事情があり、コンドームを使用するケースもあるだろう。そういった様々な「健康的理由による避妊」も、これまた否定できるかと言われると、私は自信がない。

 他にも、夫婦2人の時間を一定期間持ちたいというカップルもいるだろう。核家族化が進んでいる日本では、子どもができると、夫婦2人の時間を持つのは困難だ。「乳母」という言葉も、もはや死後になりつつある日本では、子ども1人だけでも、働きながら世話をするのはとても大変だ。特に都市部では、子どもを保育所へ預けたくても、慢性的な人手不足と保育所不足により、預けられない状態が続いている。子ども1人だけでも、大変なのだ。

 聖書は、夫婦の時間を持つ大切さを、このように書いている。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24:5)

 

 なんて素敵な言葉ではないか。この言葉を理由に、1年間の「新婚休」を取得できれば良いのだが・・・(涙)。

 聖書は、夫婦だけの時間を否定はしていない。しかも、この「喜ばせなければならない」の言葉には、当然、セックスも内包されているのは明らかだ。セックスをすれば、子どもができるかもしれない。であるならば、夫婦で話し合い、子作りをする時期をある程度「避妊」によってコントロールするのは、悪い行為ではないと、私は思う。

 聖書には、他にも「夫婦のつとめを減らしてはならない」(出エジプト21:10)とか、「夫も妻も互いに対して義務を果たせ。夫も妻も互いに自分のからだについて権利は持っていない」(第一コリント7章)と、夫婦の間でのセックスを推奨する記述が様々ある。夫婦間のセックスは、神が創造したものであり、人はこれを喜んで享受するものである。したがって、聖書が夫婦間のセックスを推奨しているのならば、なぜ避妊は禁止されなければならないのか。実は、避妊を禁じる明確な根拠が、聖書の中からは見つからないのである。

 

 しかし、同時に「子どもは神が授けるもの」という価値観に立つと「避妊する意義はどこにあるのだろう」という疑問は当然わいてくる。私自身は、自分が結婚して避妊をするかと問われたら、「しない」と答える。私個人としては、現段階では「避妊」に積極的な意義は見いだせない。子どもは神が与えるのだから、神が定めたタイミングで授かるし、授からないのであれば、授からないまでだ。ただ、これは個人的な立場であって、普遍的に誰にでも適用できる考え方ではないのだろう。

 子どもは神が授けるもの、という価値観に立つと「人間が出生をコントロールする避妊は、越権行為ではないか」「命の可能性をムダにするのか」と思う人もいるだろう。一定の理解はできる。しかし、そんなことを言ったら、排卵・生理はどう考えるのか。妊娠する可能性があるが、性行為を持たず、または性行為を持っても着床しなかった場合、排卵される。排卵された卵子は生理となって体外に出される。その卵子は、ムダになったのだろうか。そんな無茶苦茶な。

 精子はどうか。男性が精子を腟内に出さなければ、それは命をムダにする行為なのだろうか。そうではあるまい。もしそうであったら、ほとんど全ての男性が罪悪感と戦わなければなるまい(性的な理由の自慰行為の是非は別として、あくまで精子の膣外排出という視点で)。ましてや、夢精という意思ではコントロールできない生理現象だったあるわけなのだから。

 こう考えると、オナンが咎められたのは「膣外射精」という行為そのものではないと結論づけられるだろう。オナンが悪とされたのは、彼の心だったのだ。アブラハムの契約・祝福を受け継がず、兄への義務を果たさず、神の命令を無視した。その心の動機が悪かったのであり、決して「避妊」そのものが悪いとは断言できない、と私は思う。

 

 結局のところ、「心の動機」が全てだと言うほかない。神は心を見る。神はオナンの心を見て、悪とした。自分の心の動機はどうだろうか。常に自分の心をチェックしながら、愛している夫や妻と相談し、神の定めた範囲内で性交渉を楽しめば良いと思う。避妊をしてもしなくても、神が定めたタイミングでしか、子どもは授からないのだ。

 

 

▼おまけ:子どもを産まなくても妻を愛したエルカナの話

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 最後に、聖書で「夫」として素晴らしい姿を見せている、エルカナという人物を紹介したい。聖書を見てみよう。

エフライムの山地ラマタイム出身ツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。(中略)エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もうひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。(中略)そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上っていくたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか

(サムエル記第一 1:1~8)

 

 私はエルカナの姿に、やさしい夫の姿を見出す。当時、女性にとっては「子どもを産む」というのが存在価値であり、ステータスであった。しかし、エルカナは子どもを産めないハンナを軽んじず、むしろ優しく語りかけた。「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」。この言葉は、エルカナの心そのものであっただろう。裏を返せば、「私にとって、あなたは十人の息子以上の存在だ。私はあなたを愛している。それで良いではないか」という語りかけに、私には聞こえる。子どもを産むのが至上命題であった当時の価値観の中で、この言葉が言える夫は、そうはいなかったであろう。

 結局、神はハンナの切実な願いを聞かれ、男の子を与える。その男の子が預言者サムエルとなるのであった。しかし、エルカナは、たとえハンナが子どもを産めないままであっても、ハンナを愛しただろう。

 子どもが産まれても、産まれなくても、夫婦が愛し合って一緒にいる。これこそ、素晴らしいことではないだろうか。私は、そう思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【注意】「教会教」に気をつけろ!

キリストを信じるのが「クリスチャン」ですが、キリストよりも「教会」を大事にしてしまっている人がいます。どういうことでしょうか。

 

 

▼「教会教」の信者たち

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 上京した時、東京に知っている教会はなかった。仕方なく、家の近くの教会を巡ってみた。何週間か経ったある日曜日、訪れた教会で嫌な思いをした。礼拝会が終わると、私より2、3年上の若い男性が話しかけてきた。牧師の息子だという。「普段はどこの教会に行ってるの?」彼は言った。「上京したてなので、まだ教会探してます」僕は答えた。「まだ教会探してる? それはダメだよ」彼は強い口調で言った。「ウチの父親はそれ絶対許さないよ」と。

 おそらく、教団(教会のグループ)の教会に所属していた彼は「所属教団の教会に行くのが当然だろう、何を迷っているのか」という考えだったのだろう。「上京したばかりで、どんな教会に行けばいいか分からない」という人の気持ちが分からなかったのだ。私は呆然として、何も答えられなかったが、「もう二度とこの教会には来ないようにしよう」とだけ思った。

 今思えば、彼は牧師である父親に全ての判断を委ねて、自己判断ができない「父親依存」であり、「牧師依存」であり、「教会教」の信者だったのだ。今では彼に対して可哀想と思えるようになったが、当時は「なんて嫌なヤツなんだ」と思ったものだ。後日、別の知り合いから、彼の父親、つまり牧師が「あの若者は教会を決めていないらしい。けしからん」と言っていたと聞いた。上京したての田舎者の気持ちが、この牧師には理解できなかったようだ。「すぐに所属教会を決めないなんて、信者として失格だ」それがこの牧師の意見であった。この父親にして、この子あり。親子揃って「教会教」の信者だったのだ。

 また、ある時、とある牧師からこんなことを言われた。「あなたのブログは教会を否定している。”使徒信条”に『我は教会を信ず』とあるだろう。教会は信仰の対象なのだ。信仰の対象を否定してはいけない」彼は、「これは読者としてではなく、牧師として忠告する」とご丁寧にマウンティングをお取りになって、私にこう言ったのであった。「教会は信仰の対象」。彼の言葉に、私は驚きを禁じ得なかった。クリスチャンは、「イエスをメシアと信じる人」ではなかったのか。この人は「教会」を崇拝しているのか。本気で驚いた。私は「使徒信条」なるものを唱える文化の教会に集った経験はなかったので「ひぇ~~『使徒信条』ってそんなヤバいこと書いてあるの? 知らなくてよかったぁ~」と思ったものである。

 彼が引用した「使徒信条」というのは、多くの教会で伝統的に唱えられている文言である。もちろん、聖書からの引用ではない。4世紀〜5世紀にラテン語で完成したものとされる。いわば、人間が勝手に作り出した文言である。

 私は「使徒信条」が間違っていると言いたいのではない。本当の問題は、その一部を引用して「教会は信仰の対象だ」と牧師が言っているという事実だ。開いた口が塞がらなかった。エスではなく教会を信仰しているのなら、それは「クリスチャン」ではなく「教会教」の信者ではあるまいか。

 

 先ほどから述べている「教会教」とは一体何なのか。クリスチャンに見えて、実は違うものを信奉している者たちのことだ。「クリスチャン」とはその名の通り、キリストを信じる者である。聖書にこう書いてある。

それから、バルナバはサウロ(後のパウロ)を捜しにタルソに行き、彼を見つけて、アンティオキアにつれてきた。彼らは、まる一年の間教会(エクレシア)に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった。

使徒の働き 11:25〜26)

 

 つまり、エスをメシア(キリスト)と信じる者が、揶揄されて「キリスト・チャン」、つまり「キリスト者」と呼ばれるようになったのである。エスの言葉を信じ、イエスをメシアと信じる人がクリスチャンである。イエスが伝えた「言い伝えより神の言葉を優先せよ」(マルコ7章など)という教えも、当然クリスチャンの信仰の一つである。

 しかし、昨今のクリスチャンたちを見渡すと、どうもエスの教えより教会組織を優先してしまっている人たちが大勢いるように感じる。彼らは「クリスチャン」ではなく「教会チャン」になっているのだ。教会の伝統や言い伝え、教会のルールに縛られ、神の教えをないがしろにしている人たち。私は彼らを「教会教の信者」と呼ぶことにした。

 今回の記事では、「教会」の定義とは何か。「教会教」に陥っている人の特徴は何か。クリスチャンにとって「教会」は重要か。この三点について見ていきたいと思う。

 

 

▼「教会」という単語の意味

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 「教会教」を議論する前に、「教会」の定義をハッキリさせておく必要がある。まずは「教会」という単語に注目してみよう。「教会」という単語は、新改訳聖書3版では118回出てくる。なるほど「教会」は重要らしい。しかしこの「教会」という単語、旧約聖書には一度も出てこない。当然だ。旧約では「教会」にあたる単語は、「教会」と訳さず「集会」「集まり」「会衆」などと訳しているのだ。実は新約聖書でも「教会」にあたる単語を場合によっては本来の意味の「集会」「集まり」などと訳している(申命記31:30など)。

 まとめてみよう。

<”教会”にあたる単語>

旧約聖書

「カハル」:動詞で39回、名詞で123回、変化系の名詞で4回登場。主な訳し方は、「群れ」「集会」「集まり」など。現代のイスラエルの信者たちは、自身の共同体を「教会」(クネシア)と言わずに、「集会」(ケヒラー)と言う。

 

新約聖書

「エクレシア」:114回登場。主な訳し方は「教会」が109回。そのほか5回は「集会」「集まり」など。本来は「人の集まり」の意味。旧約聖書の引用の際は、ヘブライ語「カハル」が、ギリシャ語「エクレシア」と翻訳されている。

 

 新約聖書において旧約聖書を引用する際、「カハル」の部分を「エクレシア」としていることから、この2つの語が対応するのは明らかである。

 さて、この「カハル」と「エクレシア」が出てくる聖書の言葉をいくつか見てみよう。該当の単語部分は太字にしてある。まずは旧約聖書の「カハル」から見てみよう。

全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。

(創世記 28:3)

(前略)この集団全体を餓死させようとしている。

出エジプト記 16:3)

モーセイスラエル集会全体に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

申命記 31:30)

主よ、天はあなたの奇しいみわざをほめたたえます。まことにあなたの真実を、聖なる者の集いで。

詩篇 89:5)

 

 旧約聖書の「カハル」は「群れ」「集団」「集会」「集い」などと翻訳されている。「教会」という単語は一度も出てこない。

 

 では、新約聖書はどうだろうか。「エクレシア」を見てみよう。

また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

使徒の働き 7:38) 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。

使徒の働き 19:32)

もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。

使徒の働き 19:39)

今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動を弁護できません」こう言って、その集まりを解散させた。

使徒の働き 19:40)

「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう」

(ヘブル人への手紙 2:12)

 

 太字の部分が「エクレシア」である。このように「集会」や「集まり」というのが本来の意味だ。しかし、この5つの部分以外はすべて「教会」と訳されている。本来は「人の集まり」という意味の単語なのに、なぜか「教会」となっているのである。 

 「教会」というのは、そもそも中国語を流用した誤訳なのだが、現代まで何の疑問も持たれず「教会」という単語が日本にも定着してしまっている。以前の記事(教会籍の謎)でも書いたが、広辞苑ですら「教会」とひくと「教会堂」と建物を指す語として定義している。本来は「人の集まり」を意味する単語「エクレシア」が間違って捉えられ、日本語の辞書にまで載ってしまっているのだ。

 こう見ると「エクレシア」を「教会」と表すのは、かなり意図的な翻訳であると分かる。素直に「集会」と訳せば良いものを、意図的に「教会」という造語に変えてしまっているのだ。広辞苑の勘違いを見ても、「教会」というのは日本人に共同体の本質を誤解させる、悪影響極まりない誤訳といえよう。

 「教会」という単語に正当性がないのは分かった。では「教会」の定義を見てみよう。

 

 

▼イエスが示した「教会」の定義

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 そもそも「エクレシア」と最初に言ったのは誰なのか。他でもない、イエス自身である。その言葉を見てみよう(この部分は、以前の記事の一部を加筆・修正したものである)。

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子(イエス)をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」エスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリスト(メシア)であることをだれにも言ってはならないと命じられた。

(マタイの福音書 16:13~20)

 

 イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味ではないか。

 イエスの存命中、イエスがメシアだと宣言できた者は、ペテロ以外にはいなかった。みな口々に「バプテスマのヨハネの生き返りだ」とか「預言者エリヤの再来だ」とか「預言者エレミヤの再来だ」とか「新しく来た預言者だ」とか言っていたのである。しかし、ペテロは「あなたはメシアだ」と大胆にも宣言した。それは誰にも悟れるものではない、特別な奥義だった。それゆえイエスは「自分がメシアであることを誰にも言ってはならない」と命じられたのであった。これが「エクレシア」が初めて聖書で登場するシーンだ。エスがメシアだと告白する者の集まり、それがエクレシアである。

 

 さて、その次に「エクレシア」が登場するのはマタイの福音書18章だ。またもイエスの言葉である。エスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会(エクレシア)を建てる」と宣言した。その後の会話である。

また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。2人か3人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:15~20)

  

 イエス時代は、まだ後代のような組織的な「教会」などなかった。イエスが「エクレシア」と言った時、「組織的教会」を指したはずがない。存在しなかったからだ。エスが言った「エクレシア」は確実に「人の集まり」を指す言葉である。実は、イエスが「エクレシア」という言葉を使ったのは、4つの福音書の中で、この2度のみである(回数は3回)。

 私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。

<16章>

エスをメシアだと告白する宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。

<18章>

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(★16章との対応を示す)

2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。それが「エクレシア」である。

 

 この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。

 これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。

 しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命だ。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。

 また、ユダヤ社会においては「証言には必ず2人か3人の証人が必要」との文化もあった。それは旧約聖書の律法に由来する(申命記17:6など参照)。イエスの「2人でも3人でも・・・」の発言の裏には、この律法との関連性もあるだろう。共同体の最小単位を2~3人としたのは、この影響もあるかもしれない。

 

 他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。

<”教会”の定義>

エスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。

・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。

その中にイエスの存在がある。

・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。

・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。

・これはあくまで「普遍的な教会」の概念である。もちろん「コリントの教会」のような「地域教会」(ローカル・チャーチ)という小さな概念は存在する。この記事ではあくまでも「普遍的な教会」を扱う。

 

 「教会」の定義はできた。では、教会の目的とは何なのか、簡単に見ていこう。

 

▼「教会」の目的とは何か

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 「教会」は何のために存在するのか。イエスをメシアと告白する者たちの集まり、それが教会(エクレシア)だが、その目的は一体何なのだろう。全てではないが、あえて4つ特出しでまとめてみる。

 

1:互いに間違いを指摘するため

 イエスは、「わたしの教会を建てる」と宣言した。それは何のためと言っているか。もう一度、先に挙げた聖書の言葉を見てみよう。

また、もしあなたの兄弟(信者の仲間)があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。

(マタイの福音書 18:15〜17)

  イエスは、「もし信者の仲間が、あなたに対して罪を犯したら、個人的に指摘せよ」「しかし、聞き入れないなら複数人で」「複数人で指摘しても聞き入れなかったら、信者の集いに報告せよ」と言っている。エスご自身が「教会の目的は、互いに間違いを指摘すること」だと明言しているのだ。むしろ、イエスが教会(エクレシア)の役割に言及したのは、先に挙げたように、この部分のみなのだ。

 よく、「間違いを指摘し合おう」と私がブログで書くと「裁くな」「魔女狩りにつながる」などとの指摘をいただく。しかし、あえて言おう。イエス自身が、「罪を指摘し、聞き入れない場合は教会に報告せよ」と言っているのだ。それをなぜ「裁くな」といって咎めるのか。「間違っているんじゃないの」と言うだけの「指摘」と、「お前は間違っているからこのような罰を受ける」と断定・断罪する「裁き」は完全に違う。その違いを理解しなければいけない。

 もちろん、当時のユダヤ教の文化背景も無視してはならない。ユダヤ教シナゴーグユダヤ教の教会のようなもの)には、教会的な機能だけでなく、地域の簡易裁判所のような役割もあった。常日頃から、宗教的集まりが、「争い事の調停」の役割を担っていたのだ。イエスの発言の裏には、そのような当時の世相も反映されているだろう。

 しかし、だからといって教会がその役割を担うことの否定にはならない。実際、コリント人への手紙第一の6章には、教会(エクレシア)が日頃の争い事の調停を行うという当然の価値観が示されている(ただし、現代において裁判所の役割を否定するものではない)。

 教会は、互いに互いの間違いを愛を持って指摘できる集まりなのだ。

 

2:互いに励まし合うため

 聖書の別の場所には、このように書いてある。

 約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23〜25)

 

 聖書には「集まりをやめたりせず、励まし合え」と書いてある。何をもって励ますのか。エスがもう一度帰ってくるという希望を告白して、励まし合うのである。それは、イエスと空中でもう一度会えるという希望である。イエスが地上に戻ってきて、王として君臨する希望である。天と地が新しくされ、新しいエルサレムが造られる希望である。この希望を告白し合うために、クリスチャンは「教会」という集まりを形成するのである。

 昨今、教会では「愛し合いなさい」ということなどが語られるばかりで、「イエスが帰ってくる」という希望が告白されていないのではないか。イエスが再び戻ってくることを語るのが、タブーとなっていないだろうか。実は、この希望を告白し、励まし合うことこそ、教会の目的なのである。何度も言うが、政治的主張を繰り広げることが、「希望を告白すること」ではない。

 

3:傷んでいる人を慰め、励まし、育てるため

 もちろん「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」と書いてあるとおり、愛を促す励まし合いも大切である。落ち込んでいる人、傷ついている人を慰め、励ますのも教会の役割である。聖書にこう書いてある。

異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:2〜4)

 

 この言葉から読み取れば、「預言」とは「人を育て」「勧め(励まし)」「慰め」を人に向かって話すことである。細かい定義はひとまず置いておくが、それが預言の特徴である。そして、預言は教会を成長させる。つまり、教会という集まりの目的のひとつとして、「教育・激励・慰め」が想定されていると考えてよい。

 イエスは、こう言っている。

エスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです

(マタイの福音書 9:12〜13)

 

 またイエスは、「重荷を負った人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)とも言った。心が傷んでいる人。悩みを抱えている人。居場所がない人。そのような人々にこそ、イエスは「わたしのところへ来なさい」と言っているのである。エスを信じる者の集まりが教会なのだから、教会とは傷んでいる人が集まり、互いに慰め合い、励まし合い、育て合う、そんな集まりなのである。

 

4:それぞれの役割を果たし、イエスに向かって成長するため

 エペソ人の手紙は、「教会」(エクレシア)について語っている部分が多い。一部を抜粋しよう。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)、また教師(教育者)としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ(エクレシア)を建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストのみちみちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:11〜15)

 

 この部分は「それぞれの役割をしっかり果たして、イエスに向かって成長するために教会の共同体がある」という趣旨で捉えてよいと思う。教会には様々な人が集まる。それぞれが、整えられ、役割を果たし、その人の集まりが成熟して、ともに成長する(もちろん、「奉仕」しなければダメだという意味ではない)。そのためには、互いに教え合う必要がある。牧師のありがたい御高説を聞いていれば成長できるわけではない。それでは「教えの風」にもてあそばれてしまう。互いに「愛を持って真理を語り合う」必要がある。

 人は、集まらなければ独りよがりになってしまう。もちろん、様々な事情があって教会の集会には集えない人もいるだろう。それは全く問題ない。しかし、様々な方法で人間関係を構築することはできる。必要なのは、人間関係なのだ。その人間関係の中心にイエスがいる。教会の共同体は、この中心にいるイエスに向かって成長するためにある。それぞれの良さ、役割を果たして、支え合いながら、このイエスに似た存在となる。ミニ・イエスとなっていく。それが、エクレシアの目的である。

 

 さて、長くなったが、教会の単語、定義、目的について整理できた。さて、いよいよ「教会教」とは何か、今回の本題に入っていく・・・。

 

▼聖書の言葉VSキリスト教の伝統  

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 さて、「教会教」を今一度定義しよう。

<教会教の特徴>

・イエス自身よりも、キリスト教の教会組織を重んじる人

・イエスの言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

・イエスが大切だと教えた聖書の言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

 

 この「教会教」のワナについて、イエスは既に警告している。パリサイ人たちとの議論から、それは明らかである。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 当時のユダヤ教は、長年の積み重ねによって、本来守るべき聖書の教えから離れてしまっていた。本来、聖書の教えを守るために設定された、伝統、文化、しきたり、ルールを守るために力を注ぐあまり、どんどん本質からそれてしまっていたのだ。彼らは、聖書の言葉よりも、伝統・文化を優先してしまったのだ。しかし、イエスはパリサイ人たちを批判し「伝統・文化によって聖書の言葉をないがしろにしてはならない」と断言したのであった。

 現代の私たちも、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。エスよりも、キリスト教の文化を重要視していないだろうか。エスの言葉よりも、教会の伝統を優先していないだろうか。

 私は、教会を否定しない。「エクレシアを建てる」と言ったのは他でもないイエスだからだ。キリスト教の伝統、文化、しきたりを全て否定はしない。それらは、聖書の言葉を守るために、先人たちが議論、工夫の末に作ったものだからだ。彼らの議論や知恵は、勉強すれば現代においてもかなり参考になるのは間違いない。

 しかし、先人たちが作った伝統が、必ずしも正しいとは限らない。先人たちの議論が、必ずしも正しい結論に帰結したとも限らない。伝統、文化が現代に適応しうるものとも限らない。人はみな間違える。ユダヤ教の様々なしきたりも、元はといえば聖書を守るために作られたのだ。しかし、それが本質から逸れてしまっていたのだ。

 現代の教会も、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。聖書から全くそれてしまった、伝統、文化はないだろうか。今一度、自分たちが無意識に守っている伝統、文化を見直す必要がある。今の教会は「~信仰告白」だとか「~信条」だとか「~宣言」だとか、人間が作った信仰基準ばかりを大切にしているように、私は感じる。決して、そのような「~宣言」は無駄とは言わないが、その内容が果たして正しいのか、現代でも重要視する必要があるのか、吟味する必要がある。「先人たちが作ったものだから、必ず正しい」というのは、思考停止である。

 なぜ毎週日曜日に教会に行かなければならないのか。なぜ牧師を先生と呼ぶのか。なぜ教会で奉仕をするのか。なぜ「教会籍」があるのか。バプテスマと救いは関係があるのか。聖餐式をする資格は存在するのか。酒は飲んではいけないのか。タバコは吸ってはいけないのか。なぜ聖書を読むのか・・・等々。それは、聖書に書いてあるのか? イエスはそう教えているのか? 常に考えるのをやめてはいけない。

 このブログは、「教会教」に対抗するために書いていると言っても過言ではない。「ここがヘンだよキリスト教」のタグの記事を見ていただければ、個別の事案についてはまとめているので、参考にしていただきたい。

 

 ひとつだけ「教会教」の典型例を聞いたので、ご紹介しよう。ある知人が、とある教会でバプテスマ(洗礼)を受けた。その時、牧師がこう言ったそうだ。

「いいですか。あなたは今、この教会で私からバプテスマを受けました。あなたは、クリスチャンになったのですから、これから毎週日曜日に、この教会に来なければなりません。他の教会はダメです。この教会の信徒になったのですから。それから、私のことはもう~さんと呼んではいけません。先生と呼びなさい」

(某牧師のコメント 知人A氏談)

 

 この牧師は、典型的な「教会教」の信者である。間違いだらけで、ツッコむ気力もわかないが、一応指摘しておく。

・私からバプテスマを受けてクリスチャンになった

→間違い。イエスを信じる者がクリスチャンである。バプテスマを授ける人は、誰であってもその人の救いとは関係がない。

 

・クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に来なければならない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。

 

・他の教会に行ってはいけない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。イエスを信じる者の集まりが教会なので、どこの地域教会に行こうと差し支えない。その人の自由である。教会のメンバーを減らさないためにこういう嘘を言っているのである。

 

・先生と呼びなさい

→間違い。イエスは明確に「先生と呼ばれてはならない」と命じている。クリスチャンにとっての「先生」(ラビ)はイエスただ1人である。

 

 このようなトンデモナイ教会教の教えが、実はクリスチャンの世界では至るところで横行している。本当に悲しいが、事実である。教会に行って、「あれ、ヘンだな。聖書のどこに書いてあるのかな」と思ったら、ぜひ聖書を調べてほしい。

 教会に行くと「毎週日曜に来なきゃダメだ」だとか「奉仕をしないやつは二流」だとか「牧師の家族であっても『先生』と呼びなさい」だとか、「バプテスマを受けていない人は役割がもらえない」だとか、聖書に書いてもない文化が、いかにも「信仰」かのように扱われている。そして、その文化を大切にするよう、押し付けられる。

 そんな「教会教」の圧力に負けてはいけない。そういう文化を押し付けてくる人には、「聖書のどこに書いてあるんですか」と聞いてみよう。答えられまい。聖書に書いていないのだから。「牧師を先生と呼ぶ文化」に至っては、書いていないどころか、「呼ばれるな」とイエス自身が命令している。それにも関わらず、誰もかれもが全くやめようとしない。おかしい。そんな教会教の文化には、負けてはいけない。

 クリスチャンは「イエスをメシアと信じ、告白する者」である。教会を信じる者ではない。教会とは「イエスをメシアと信じ、告白する者の集まり」である。教会の組織が教会そのものではない。人の集まりが教会なのである。

 

 

▼「教会教」に陥らないために

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 最後に、「教会教」に陥らないために、いくつかオススメの方法を書こう。これは、あくまでも私のオススメであって「こうしなければならない」という強制ではない。

 

1:自分で聖書を読む

 牧師や教師たちの教えだけを丸呑みではいけない。自分で聖書を読み込んでみよう。分からないことがあったら、自分で調べ、聞き、リサーチしてみよう。積み重ねれば、必ず面白くなってくる。「教会教」を判別できるようになる。

 

2:神に対して、聖霊の助けを祈る

 間違った教えに惑わされないよう、神に祈ってみよう。そうすれば、神から与えられた「聖霊」によって、真理とそうでないものを見分け、悟れるようになるだろう。

 

3:牧師を過剰に信頼しすぎない

 クリスチャンの中には、「教会教」の成れの果ての「○○先生教」の信者もいる。特定の牧師の教えが全て正しいと勘違いし、イエスではなく、その牧師を崇め奉ってしまう人たちだ。目も当てられない。「牧師先生様教」ともいえるだろう。カルト宗教の温床である。健全に見える団体でも、内実は「牧師教」である場合も結構多い。だから注意が必要だ。

 ただ、そういった牧師たちも、必ずしも間違いばかりを教えていないという点は留意しておきたい。教えは正しくとも、周辺がその牧師を祭り上げてしまうケースもある。だから、「誰が」ではなく「中身」で物事を判別するクセをつける必要がある。このブログの内容も、必ず間違っている。それを、読者のみなさんには、判別して読んでほしいと願っている。

 

4:完全な教会はないと認識する

 完全な教会などない。人の集まりが教会だ。人は不完全な存在だ。だから人の集まりである教会が完全であるはずがない。教会が完全になるのは、イエスが返ってきて、イエスと教会が完全にひとつとなる時のみである。それまでの教会は、不完全であると知る必要がある。永遠に続く教会も、これまた存在しない。聖書時代の教会で、現代まで残っている「地域教会」は存在しない。所属している教会は、イエスが返ってこなければ、いつかなくなる。自分が今集っている集まりに愛着があっても、それだけに固執しすぎないよう、注意が必要である。

 

 いかがだろうか。おそらく、「教会教」の信者がこの記事を読むと、過剰に反撃するだろう。しかし、それは想定内である。読者のみなさんには「教会教」に陥らないように、ぜひ自分の心を見張っていただきたいと思う。自戒も込めて、この記事を書いている。決して「キリストのからだ」たる教会を否定するつもりはない。私がしたいのは、「今の教会組織の中心にイエスはいるのか?」という問いかけである。

 読者のみなさんには、ぜひ自分で聖書を読み、イエスが何と言ったのか、聖書には何と書いているか調べてほしい。そして、集まりをやめず、互いに励まし合う、本来の教会の目的を果たしてほしい。そう願っている。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】教会にドレスコードは必要か?

教会によっては服装に厳しいところがあります。果たしてその根拠は何なのでしょうか?

 

 

▼ショートパンツを履いていったら怒られた友人

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 あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「教会にショートパンツを履いて行ったら、怒られてしまった」と。なんと、教会にTシャツやショートパンツを着て行ったらダメなのだという。私は思わず笑ってしまったが、実際にそのような教会があるのは事実だ。

 教会によっては、ドレスコードがある。スーツなどのセミフォーマルでないといけない格調高いところもあれば、私が集う共同体のように、何でもOKなところまで様々だ。それぞれの集まりには、それぞれのルールがあり、私はそのいずれも否定するつもりはない。しかし、服装は「礼拝会」においてどの程度重要なのだろうか。今回は、礼拝会の服装について、一般的な価値の重さについて論じていきたいと思う。

 

 

▼礼拝会の服装はどうあるべき?

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 服装について述べる前に、「礼拝」を定義しなければならない。私は日曜日の「礼拝」という集会は「礼拝」だとは思っていない。その点については、去年記事を書いたので参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

  結論から言えば、日曜の「礼拝」という集会は「礼拝会」であって「礼拝」ではない。「礼拝」とはあなたの人生をささげる「生き方」そのものである。それなら、あなたの人生すべてが礼拝と言って差し支えない。つまり、日中スーツを着て働いているときも、夜パジャマを着て寝ているときも、裸でシャワーを浴びているときも、全て礼拝なのである。であるなら、根本的に「礼拝に服装は関係ない」と言えるだろう。

 聖書自体が、こう教えていないだろうか。

(妻たちに対し)あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。(中略)同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

(ペテロの手紙第一 3:3〜8)

 

 神は人のうわべではなく、心を見る。つまり、礼拝という生き方において大切なのは、「柔和で穏やかな霊」「同情心」「兄弟愛」「心優しさ」「謙虚さ」といったような「心の中の隠れた人格」であって、うわべを着飾る行為ではない。

 

 また、イエスはサマリヤの女に対して、「いつでも、どこでも、誰でも礼拝できる」という基本を教えた。聖書を見てみよう。

エスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

ヨハネ福音書 4:21~24)

 

 つまり、現代の私たちは、教会の「礼拝堂」でなくとも礼拝できるし、実際に礼拝しているのである。礼拝は「生き方」なのである。だから、本質としては一緒に礼拝する心を形で表しましょうという「礼拝会」にドレスコードは必要ない。本来は、服装に関わらず、礼拝は可能だからである。

 ただ、地域の文化によって、服装が心の状態を表すという考え方もある。現代の日本においても、時に服装は大切である。お葬式にアロハシャツで行ったら普通はひんしゅくだし、国会議事堂の本会議場はスーツでないと入場できない。就職の面接はたいていスーツで行くし、学校の体育の授業では指定の運動着を着ないといけない。文化によっては、ある程度の服装は大切と捉える人がいるのは当然だろう。ただし、人の前と神の前ではとるべき行動は違う。これについては後述する。

 海外の例も考えてみよう。例えば、インドネシアの教会は、かなり服装に厳しいところが多い。正しい服装でないと入場できないところもある。それは、インドネシアの文化において、服装が大切だからである。とはいえ、正装が「バティック」というアロハシャツみたいなものなので、日本人の私からすると、むしろラフな服装だったのだが・・・。

 兎にも角にも、服装は文化と密接しているので、それぞれの地域の文化に沿ったやり方があるだろう。しかし、そこには本質はない。だから、クリスチャンは文化と自分の心をよく吟味して、そのグループごとのルールを決めていったら良いと思う。

 既に、ある程度の結論が既に出てしまったが、もう少し詳細に聖書をひらいてみたい。

 

 

▼旧約時代、そしてイエス一行はどうだったか?

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 旧約時代の礼拝はどうだったか見てみよう。モーセの時代、イスラエルの民には「祭司」がいた。当時、礼拝には様々な手順があり、祭司がその儀式を行っていた。祭司の服装はどうだったのか、見てみよう。

モーセはアロンとその子ら(祭司たち)を近づかせ、彼らを水で洗った。そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとませ、さらにその上にエポデを着せた。すなわち、エポデのあや織りの帯で締めて、彼にエポデを着せた。次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミム(※くじの一種と考えられている)を入れた。また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらに、そのかぶり物の全面に金の札すなわち聖なる記章を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。(中略)次に、モーセはアロンの子らを連れてきて、彼らに長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた。主がモーセに命じられたとおりである。

レビ記 8:6~13)

 

 神は、モーセに命じて、ことこまかに祭司の服装を指定した。ここに書いていない規定もたくさんあった。何色に糸を染めるかとか、どの宝石をどの位置に取り付けるかまで、細かく指定があった。アロンなどの祭司は、指定された通りの服装を着て、決まった日に、決まった手順で聖所・至聖所に入り、神にいけにえを捧げたりしていたのである。礼拝には詳細な手順があり、それを守らないと死んでしまうほどであった。それほど、神の存在は恐ろしいものであった。

 しかし、旧約の規定は、全てイエスにつながる型である。現代の私たちは、当然旧約聖書にあるような「礼拝の規定」を守る必要はない。

さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。(中略)この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

(ヘブル人への手紙 9:1~12)

 

 イエス「永遠の贖い」を成し遂げたので、これらの規定を守る必要はなくなった。もはや、旧約の祭司のような服装をしなくても良いのである。

 

 一方、イエス一行の服装は、どのようなものであったのだろう。聖書をのぞいてみよう。

それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻きの小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。

(マルコの福音書 6:6〜9)

 彼ら(イエス一行)が道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」。イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(イエス)には枕するところもありません

(ルカの福音書 9:57〜58) 

 こう見ると、エス一行は、かなりみずぼらしい服装をしていたのではないだろうかと推測できる。毎日同じ下着! ばっちい!! 長いあいだ旅をして、寝るところもままならず、借りぐらしの日々が続いていた。スーツなんていうものは当時はないが、高価な紫色の着物など着ることなどできなかっただろう。しかし、彼らは主なるイエスと共に歩み、主のそばで生き抜いたのであった。

 イエスは、「花婿と一緒にいるときに、どうして断食できようか」と述べるなど、「イエスと一緒にいる」という特別さをたびたび強調している。そのイエスと一緒にいた弟子たちは、おそらく毛皮を身にまとうような、とても「正装」とは言えない服装をしていただろう。もちろん、現代の日本の経済状況と単純比較はできない。しかし、大切なのは服装ではなく心であるという結論に矛盾するものではないだろう。

 エスの弟子たちは、服装はボロボロでも、イエスと一緒にいることを喜んだのだ。神であるイエスと一緒にいる。待ち望んだメシアと一緒にいる。それ自体が特別であり、礼拝だったのだ。現代の私たちも、服装に気を配るよりも、イエスと一緒に歩む人生を送っているかどうかに注力した方が良いのではないだろうか。

 

 

▼「面接にはスーツを着て行くじゃないか」の2つの誤解

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 反論を考えてみる。一番よく聞くのは、「就職の面接にはスーツを着ていくではないか。偉い人に会う時は、ネクタイを締めるではないか。人の前できちんとした服装をするなら、王である主の前に出ていく礼拝の場では、かしこまった服装をするのは当たり前ではないか」という主張である。

 これは、言い換えれば「人の前でふるまうのと同じ原則で、神の前でもふるまうべきだ」という反論だ。しかし、この反論はロジックが弱い。2つの誤解に基づいているからだ。ひとつは、日曜の礼拝会を礼拝だと思いこんでいる誤解。2つ目は、人の前と神の前で同じ原則が適用されるという誤解だ。一つずつ見ていこう。

 

1:日曜に集まる集会は「礼拝」ではない

 先の章で述べたように、日曜に集まる集会は礼拝ではない。「礼拝会」である。礼拝とは、あなたの人生を神にささげる「生き方」である。つまり、1年365日24時間、毎日、瞬間、瞬間が礼拝なのだ。だから日曜に集まる礼拝会は「神の前に出ていく」行為ではない。あなたはいつも「神の前」にいるのだ。これはある意味、恐ろしい事実である。あなたはいつも主の前に裸の状態なのだ。

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

(ローマ人への手紙 14:12)

 

 だから、先のように「神の前に出ていく時には正装で」と主張する人は、もし筋を通すのであれば、いつも正装していなければならない。私たちは常に神の前にいるからだ。しかし、そんなことは不可能だ。神はあなたが、シャワーを浴びる時も、寝ている時も、ご飯を食べている時も、あなたを見ている。そして、信じる者と一緒にいてくださるのだ。

 

2:人はうわべを見るが、主は心を見る

 さて、「人の前でふるまうのと同じ原則で、主の前でもふるまうべきだ」という論点だが、これはそもそも前提が間違っている。聖書に何と書いてあるか見てみよう。

人はうわべを見るが、主は心を見る。

(サムエル記第一 15:7)

 

 聖書にはハッキリと、「人はうわべを見る」そして「主(神)は心を見る」という2つの原則が書かれている。そう、人前でかしこまった服装をするのは、人はうわべで人を評価するからである。ビジネスでスーツを着るのは、うわべの見栄えをよくするためである。それがいつしか文化となり、社会では当たり前になった。

 しかし、それは「人はうわべを見る」という大前提に立っているからする行為である。神はうわべを見ない。神は心を見る。だから、神の前で服装を着飾る必要はないのだ。神の前に出るならば、整えるべきは心であって、服装ではない。

  こう考えるならば「人の前ではきちんとした格好をするのに、礼拝ではしないのか」といった反論は、根拠に乏しいと分かるだろう。神の前ではあなたは裸同然である。そして、神は見てくれではなく、あなたの心を見るのである。

 もちろん、人はうわべを見るのだから、人が集まる「礼拝会」ではそれなりのドレスコードは必要だという意見もあろう。その通り。だから共同体のコミュニティ全員で一致して決めたルールがあれば、それに従うのが良いだろう。しかし、そのルールは本当に必要なものか、議論があってもいいと思う。議論を赦さないコミュニティは健全とは言えない。

 ちなみに、イエスのたとえ話の中で、「婚礼に招かれたが、礼服を着ていなかったので追い出された」というものがある(マタイ22:1~14)。一度、このたとえ話を用いて「服装は大切だ」という反論をされたことがある。目も当てられない誤解だ。これは、「メシアを信じる者」と「信じない者」が区別されるという比喩だ。「キリストを着る」という比喩も、聖書の他の部分に出てきているではないか。聖書を読む際は、比喩をしっかり見分ける必要がある。

 

 

ドレスコードはない方が良い?

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 さて、この記事ではずっと「服装ではなく心が大切」と述べてきた。では、教会の共同体の集まりで、服装のルール、いわゆるドレスコード」を設けるのは悪いのだろうか。私は、決して悪くはないと思う。

 集まる人たちの総意で「この服装がふさわしい」と決めたのなら、そのルールは大切にするべきだろう。服装という、ある意味「どうでもいいもの」で不快になったり、心がざわついたり、人に迷惑をかけたり、ましてや争いが生まれるのは、避けたほうが懸命だ。だから読者の方々は、教会の集まりに出かける際には、その共同体の雰囲気に合わせた服装で出向いた方が良いだろう。

 

 その上で、あえて一言問題提起をしようと思う。フォーマルな服装を強制するというのは、経済的弱者を教会に入れなくすることではないか。その想定を、教会はしているのだろうか。例えば、スーツや革靴を強制すれば、経済的に準備できない人を排除することにならないだろうか。きれいなワンピースが買えない人は、教会に来てはいけないのだろうか。たとえ購入できたとしても「自分は安物しかない」といった劣等感を与える結果にならないだろうか。

 新約聖書には、服装の規定はほとんどない(※いわゆる「被り物」の論争はこの記事では避ける)。しかし、食事に関する記述から、経済的弱者に配慮すべきだと分かる。その記述を見てみよう。

しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。 食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじ、食事を持参しない人々(※あるいは「貧しい人々」)を侮辱するのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。あなたがたを褒めるべきでしょうか。この点については、褒めるわけにはいきません。

(コリントの信徒への手紙第一 11:20〜22 聖書協会共同訳)

 

 コリント地域の共同体は、比較的、裕福な人が多かったと考えられる。コリントは大都市であり、富裕層が多くいたのは想像に難くない。同時に、経済的弱者も多く集っていたと考えられる。しかし、コリント地域の教会は食事を持参できる富裕層だけで、好き勝手に食事をしていたのだ。パウロはその姿勢を批判した。今回、あえて聖書協会共同訳を用いたが、新改訳聖書2017では、「貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか」と書いてある。パウロは、経済的弱者が教会の共同体でないがしろにされていた状況を批判したのであった。

 現代の教会はどうだろうか。日々の生活でも精一杯の家庭に、日曜日ごとに着るフォーマルな服装を準備するのは、大変ではなかろうか。毎週同じ服装というわけにもいかないだろうから、せめて3~4種類は必要になるだろう。子供がいたら、その分の服も準備しなければいけない。そう考えると、経済的な負担はかなりのものになるだろう。果たして、その負担を強いるほど、服装は大事なものなのだろうか。

 また、昨今「教会に若者が来ない」という声をよく聞く。若者の代表として言うが、「毎週日曜日にかしこまった服装で10時半に教会に来い」と言われて、喜んで行きたくなる若者はほとんどいない!!! 若者に教会に来てほしいならば、まずは服装の決まりを柔軟なものにしたらどうだろうか。もちろん、中には「かしこまった服装でないと教会らしくない」という意見の人もいるだろうが、私の意見では、そういう稀有な人々は、ごくごく少数だと思う。もちろん、「格調高さ」が好きな人々を対象とするために、厳しいドレスコードを維持するのも戦略としてはアリだ。しかし、多くの人を歓迎することにはならないだろう。

 服装は、礼拝にとってはどうでもいいものだ。だとしたら、より多くの人々を歓迎するためにも、厳しい決まりがあるなら、少し変更の余地があるのではないか。これは、私のちょっとした提案である。どんな服装で礼拝会にいくかは基本的には自由である。もちろん、秩序に適した服装で。当然、アキラ100%の格好は辞めたほうがいいだろう。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【注意】有名な「牧師」であってもイエスに出会っていない可能性がある?!

ステージの上で聖書を語っている牧師は、本当はイエスと出会っていない可能性がある?! そんなバカな?!

 

 

▼「クリスチャンやめました」と語る牧師

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 先日、あるアメリカの著名な牧師が、声明を発表した。「私は、もはやクリスチャンではない」という、驚くべき「棄教宣言」だった。この知らせを聞いて私は驚いたが、同時に「やっぱりな」という気持ちがあった。なぜなら、私は以前から「彼の主張は聖書の記述に基づいていない」と感じていたからである。彼の著作は、多くのクリスチャンたちにもてはやされてきた。しかし、私は彼の著作が「聖書に基づいていないように思える」とずっと主張してきた。予想通り、今回の「クリスチャンやめる」宣言によって、著作の内容そのものが疑われる事態となってしまった。とても残念である。

 ここで、ひとつの疑問がわいてくる。「牧師は絶対にクリスチャンなのだろうか?」言い換えれば、「牧師なら全員、絶対イエスと出会っているのだろうか?」恐ろしいが、とても大切な疑問である。クリスチャンでない人や、クリスチャンになって間もない人が聞くと驚くだろうか、ある意味で「牧師」という人種は一番危ないのである。

 今回の記事では、牧師であってもイエスに出会っていない可能性を指摘する。エスはその問題についてどう教え、私たち人間はどう対処すべきか、何を基準とすべきか論じたい。

なお、「一度救われた人は信仰を“捨てる”ことはできない」「信仰は不可逆的である」といった主張もあり、それらを使えばこの記事により深みが増すだろう。しかし、議論が多いポイントなので、それらの主張について今回の記事で深入りは避ける。

 

 

▼本当の意味でイエスに出会っていない牧師は存在する

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 結論はハッキリしている。牧師であっても、本当の意味でイエスに出会っていない人は存在する。悲しい上に驚きだが、事実である。

 例えば、私はとある黒人系アメリカ人の友人がいた。熱心な牧師だった。彼は、新約聖書をほぼ暗記しているほど、聖書が大好きな「クリスチャン」だった。しかし、あるとき、突然「イエスはメシアではなかった」と結論づけ、ユダヤ教に入信してしまった。

 また、私の知る別の牧師は、人目にはとても「敬虔な」クリスチャンに見えた。礼拝会での説教(メッセージ)はとても分かりやすく、正直言えば、私が通っていた教会の牧師の何倍も上手かった。話し方も穏やかで、包容力があり、人を引きつける力があった。尊敬されていた牧師だったが、ある日突然、教会のお金をすべて持ち逃げしてしまった。夜逃げだった。彼を尊敬していた人々は、一同にショックを受けていた。これは詐欺事件である。

 このような例は、実はクリスチャンの世界では、耳にタコができるほど聞く話だ。人々を教え、導く立場であるはずの牧師が、信仰や仲間を捨ててしまうのである。それだけならまだマシで、中には女性問題を起こしたり、強姦で訴えられたり、問題を指摘されても知らんぷりする輩もいる。夜逃げした牧師は、横領罪・詐欺罪・窃盗罪である。エホバ・モルモン・統一教会といった「異端・カルト」の創始者でさえ、元はといえば「キリスト教の牧師」だったのである。

 なぜ、このように「信仰を捨ててしまう」牧師が多いのだろうか。私は、どうも「最初からクリスチャンではなかった」「そもそもイエスと出会っていなかった」と考える方がしっくり来る。彼らは、うわべでは「立派なクリスチャン」に見えたが、その実はただの「文化的なクリスチャン」だったのである。

 両親がクリスチャンの、いわゆる「クリスチャン・ホーム」の人なら分かると思うが、「クリスチャンぽいこと」なら誰でも、いくらでも言える。「感謝ですね」「恵みですね」「賛美します」「礼拝します」「お祈りします」などといった、クリスチャンっぽい言葉を呪文のように唱えれば、「クリスチャンらしさ」を演じられてしまう。なんと驚き、「敬虔なクリスチャン」を演じるのは簡単なのだ。こういう人たちは、イエスを本当の意味で理解していないが、外側だけはクリスチャンらしく振る舞えてしまう。ややこしいのが、「自覚なきクリスチャンもどき」が実はたくさんいるという事実である。

 この「自覚なきクリスチャンもどき」が、クリスチャンらしさを追求した先にあるのは「牧師」とか「伝道師」とか「宣教師」とかいった職業である。なまじ、牧師になりたい、伝道師になりたい、宣教師になりたいと言うと教会の人々にもてはやされるので、真面目なクリスチャンもどきほど、この職業を目指す傾向にある。しかし、本当の意味でイエスに出会っていないので、いざデビューすると息詰まる。牧師や伝道師ほど食えないのに大変な職業はないからだ。その成れの果てが、「クリスチャンやめる」牧師たちである。

 

 

▼牧師も間違える ~イエスはどう教えたか~

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 本当の意味でイエスに出会っていなくても、クリスチャンになっていなくても、牧師になるのは可能だ。実際にそう思われる牧師を、私はたくさん見てきた。厄介なのが、そういう牧師・教師たちが「間違った教え」を堂々と教えているという点である。彼らは、本当の意味でイエスに出会っていないので、聖書の言葉を正しく理解できていない。だから、聖書の言葉を勘違いし、間違いを教えてしまうのである。

 それならまだマシだが、聖書に書いてもいないことを、さも「信仰とはかくありなん」のように教えている、とんでもない牧師・教師たちもいる。そのような教師たちのもとで教わったクリスチャンたちは、とても可哀想だ。もちろん、そのような牧師たちであっても「部分的には正しい教え」を伝えるのは可能だ。この点についてはもう少し先に議論する。

 イエスの時代も、同じような問題が起こっていた。当時も、宗教的な指導者たちがいた。その中の「パリサイ人(派)」と呼ばれる人々は、イエスと激しく対立した。パリサイ人たちは、長年のユダヤ教の発展の中で、(旧約)聖書に記述のない「文化・伝統」を聖書の言葉より重んじるようになってしまっていた(まるで、現代の教会のようである)。イエスは、彼らを猛烈に批判した。一部を見てみよう。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 イエスはハッキリと「伝統によって聖書の言葉をないがしろにしてはいけない」と、パリサイ人たちを戒めている。イエスが現代の教会を見たら、あまりに聖書がないがしろにされていて、怒りのあまり椅子をぶん投げたり、説教台を張り倒したりしてしまうのではないだろうか。「伝統と書いて『ゴミ』と読む」というセリフが某漫画があったが、まさにその通りで、守らなければならない伝統などない。時代の背景に合わせて、本質から外れない範囲内で、どんどん機能的、合理的にしていくべきだ。

 伝統に固執し、聖書をないがしろにしていたパリサイ人たちについて、イエスはこのように教えている。

そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座(※教える立場)に着いています。 ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。

(マタイの福音書 23:1〜3)

  

 パリサイ人たちの主張の中には、聖書の記述的に正しいものもあった。ただ、彼らは自分で教えておきながら、自分ではその教えを守っていなかった。

 この世の牧師たちも全く同じである。私は、男女の付き合いに気をつけろと言いながら、教会メンバーの女性とコソコソ付き合っていた牧師を知っている。他人を赦せと教えながら、自分に反対する者を絶対に赦さない牧師を知っている。金に貪欲であってはいけないと教えながら、献金をしない教会メンバーに電話で督促をした牧師を知っている。みな、イエスが批判したパリサイ人と同じである。

 イエスが教えはこうだ。大切なのは、誰が教えているかではなく、その中身だ、と。パリサイ人の教えには、正しいものもあった。たとえ「信仰を捨てた」と宣言した牧師であっても、その教えの中には「正しい要素」はあるかもしれない。私たち人間は、ついつい「あの人が言っているから間違いないだろう」と考えてしまいがちだ。しかし、完全に正しいのはイエスだけで、人はみな間違える。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ダビデも、ソロモンも、ペテロも、パウロも皆失敗した。しかし、彼らの信仰宣言や、歌、賛美、教え、生き方には、学ぶべき部分が多くある。結論としては「誰が言っているか」ではなく、「主張の中身」を吟味し、取り入れていくという姿勢が重要なのである。

 ちなみに、イエスが「弟子たち」と「群衆」に語ったとわざわざ明記しているのは面白い。広く一般的な教えとして、この内容を教えたことの証左だ。先に挙げたイエスの言葉に続くのは「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」という教えだ。その事実も、忘れてはならない。

 先生と呼ばれる人も、拾は「偽使徒」の場合がある。聖書にはこう書いてある。

こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:13〜15) 

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:14〜15)

 

 だから、私たちは、教師たちの教えを自発的に判別する必要があるのだ。教えの風にもてあそばれないように、今から備えようではないか。

 

▼聖書によって物事を判別する

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 では、どうしたら「主張の中身」が正しいかどうか判別できるのだろうか。答えは簡単。聖書の言葉によってである。聖書にはこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12) 

  

 クリスチャンが基準とすべきは、聖書しかない。聖書を読み込み、その記述を骨まで染み渡らせる必要がある。偽札を見分ける役目の人は、慧眼を鍛えるために、正しいお札をひたすら見るのだという。そうすることで、偽札を見ると「違和感」を覚えるという。クリスチャンも、ひたすら聖書を読み込むと、聖書の基準に基づいていない主張に出くわしたときに違和感を覚えるようになる。どこが間違いか分からなくとも、「何かヘンだな」と思うのである。

 自分を例に出すと恐縮だが、私は、導入で挙げた牧師の著作を読んだ際も「どこが間違っているか分からないけど、何かが違う」と感じた(もちろん今は何が間違っているか詳細に述べられるが)。当時、まだ高校生だったが、その目は正しかった。その目は、聖書の言葉によって養われたのである。聖書の言葉は、人の思いや心を判別できるのだ。

 読者の方々は何度も目にした聖書の言葉だろうが、あえてもう一度引用しよう。

兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをべレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17:10〜11)

  

 このベレアという街の人々は、パウロやシラスといった神に選ばれた人たちの教えでさえ「果たして本当かどうか」と「疑った」のである。そして、それは「良い」と表現された。パウロは、神の霊(聖霊)に満たされ、神から直接啓示を受けた人物だ。ベレアの人々は、そのパウロの教えさえも疑い、聖書を調べたのである。であるなら、現代の私たちが牧師の教えを「果たして本当かどうか」と疑い、聖書を調べるという姿勢は、なおさら必要ではないか。

 どんなに尊敬されていたり、有名な牧師の教えであっても「果たして本当か」という視点は絶対に必要である。あえて言うが、このブログの内容だって、絶対に間違いが含まれている。読者のみなさんには、ぜひ「本当にそうか?」というクリティカルな視点を持ってほしい。そして、自分で聖書を調べる自発的な姿勢を持ってほしいものである。

また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためにです。

(テモテへの手紙第二 3:15〜17) 

 

 (以下追記)

 もちろん、聖書の言葉の他に、真理を見極めるために大切なものはある。そのひとつは、聖霊である。聖書には、「誰でも聖霊によるのでなければイエスを主と告白できない」(1コリント12:3)とある。真にイエスを主と信じている者の働きは、聖霊によるものではない。つまり、聖霊によって真理を見極めることができるのだ。聖書には、聖霊の働きとして「霊を見分ける力」というものもある。聖霊にゆだね、語られている教えがホンモノかどうか、目の前の教師が「偽教師」か否か、見極められる。

 もうひとつは、エスを主と告白する者の集まりだ。互いに指摘しあい、何が正しく、何が間違っているか、お互いに教え合うことができる。これが共同体である「教会」の役割である。

 

▼隠れた「文化的クリスチャン」に注意

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 先に述べたように「自覚なきクリスチャンもどき」は大勢いる。ただの「文化的クリスチャン」は、なまじ真面目に教会に通ったりするので、教会の共同体の中では重要なポジションにいる場合も多い。そういう場合は厄介で、聖書に教えてもいないことを押し付けてくる人も多い。そして、本当にイエスに感動している人々の心をくじくのである。私は、そのような輩を絶対に見逃さない。

 そのような困ったさんたちには、どう対処すれば良いのだろうか。聖書は、聖書の言葉こそが戦う武器であると教えている。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には心理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

(エペソ人への手紙 6:13〜17)

  

 聖書の言葉を心に蓄える。そうすれば、おのずと「クリスチャンもどき」たちを判別し、彼らに反論できるだろう。読者のみなさんは、身の回りにそういう「牧師もどき」「教師もどき」「クリスチャンもどき」がいたら、決して屈してはならない。大丈夫。神があなたと共にいる。

 とはいえ「どうやって“もどき”を見つければ良いのか」と途方に暮れる人もいるだろう。最後に、少しだけ私なりの「見分け方」を簡単にまとめるので参考にして欲しい。(追記:これは、決して「この中でいくつ当てはまったら偽教師である」といったようなチェックリストではない。読者は誤解せぬように。あくまでも、自分で判断できない人のための、私なりのオススメの着眼点である)

<クリスチャンもどきの特徴>

1:聖書よりも文化の方を大事にする

・日曜日に教会に行かないとダメだ、クリスチャンは禁煙禁酒すべきだ、信仰より教会を大事にすべきだ、恋愛禁止などなど、聖書に書いてもいないことを信仰だといって押し付ける傾向にある

・聖書より「なんちゃら宣言」とか「なんちゃら信仰告白」とかいう、ただ人間が作った文化や文言の方を重視する傾向にある

・人によっては、自分の政治的信条を主張するために、聖書やクリスチャンの集まりを利用するガチの不届き者もいる

・特に、イエスを信じて生きる生き方より、「教会に仕える」などというまやかしを教える「教会教」の信者が大勢いるので要注意。「教会教」については今度別記事を書く予定

 

2:聖書を読んでいない/理解していない

・本当の意味で聖書を読んでいないので、理解ができていない

・聖書について話してみると、基本的な部分がわかっていない

聖書の言葉の字面だけ引用して教えている場合は要注意。文脈や十字架の救いの本質から逸れている教えには注意

旧約聖書新約聖書の違いと繋がり(旧約の多くは新約の「型」)を無視して教える教師もいるので要注意

反論を受け付けない教師は要注意。「牧師の言葉は神のお告げ」なんてまともに信じたら頭がおかしいことを平気で言う人たちにも注意。

 

3:福音/救いの定義が曖昧である

・本当の意味でイエスに出会っていないため、「救いとは何か」「福音とは何か」といった信仰の根本的な理解が弱い

・いつ信じたのか、なぜ信じたのか、イエスのどこに感動したのかをきちんと説明できない

 

<クリスチャンもどきの見分け方>

1:矛盾すると思う点を質問してみる

・矛盾する点を、聖書の言葉を持ち出して反論・再質問してみる

・それに対し、反応に困っていたら、「クリスチャンもどき」の可能性アリ。主張の根拠が聖書でない場合も、注意

 

2:どうやってクリスチャンになったか聞いてみる

・あえて「どうやってクリスチャンになったか」と聞いて、「イエスに出会った」エピソードがない場合は要注意

・ありがちなのは「クリスチャンホームで」とか「お腹の中からクリスチャンで」といった答えを平気でする人がいる。要注意。

・中には、神ではなく「この教会に出会った」なんて大真面目に言う人もリアルガチでいる(しかもこの人は牧師だった・・・)。この場合も「もどき」の可能性アリ

 

3:このブログの「疑問」タイトルの記事を読んで「おかしいな」と思う教会や牧師や教師、クリスチャンの人々に注意してみる

・牧師を「先生」と呼ばなかったら怒る人には注意

・日曜日に絶対に教会に来るよう言われたら注意

・お酒を飲んで咎められたら注意

・タバコを吸って咎められたら注意

・「みこころの相手」とかいう人には注意

・牧師や神学校の大学院生でなければ聖書が語れないというような人には注意

・教会で「奉仕」をしなければいけないと言うような人には注意

・その他、このブログの「疑問」(ここがヘンだよキリスト教)シリーズを参照

 

4:「霊を見分ける力」を祈る

・聖書によると、その人がホンモノかどうか「霊を見分ける力」で見分けられる

・「霊を見分ける力」は誰にでもあるわけではなく、その能力が与えられる人がいる

・まず、神に「本質を見極められるよう」祈ってみよう

 

 

▼おまけ:リーダーこそ「支えるべき」対象である

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 ここまで書くと、私がただの「牧師嫌い」だと決めつける人もいるだろう。とんでもない。私は、牧者、長老、執事、教育者、伝道者、宣教者、預言者などの共同体のリーダーたちこそ支えられるべき存在だと思う。リーダーたちほど、負担、ストレス、誘惑、挑戦、敵が多い(とされている)からだ。彼らが間違った道にそれてしまわないよう、まわりの人々が寄り添い、支えるべきである。

 だから、まわりのリーダーたちのために祈ろうではないか。彼らが間違わないように、信仰を捨ててしまわないように、イエスに従う最高の人生を諦めてしまわないように。まわりにいる人々だけが、彼らに寄り添えるのだ。互いに愛し合い、支え合う。これこそ、聖書で命じられている本質ではないか。

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

ヨハネ福音書 15:12〜14)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。