週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「賛美歌・聖歌」じゃなきゃ賛美じゃないの?

教会によっては、「賛美歌」の歌集の歌じゃないと賛美じゃない、っていうところもあるみたいです。そもそも「賛美」って何なのでしょうか・・・??

 

 

▼「賛美歌」じゃなきゃ賛美じゃない・・・?

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 教会に行くと、様々な音楽のスタイルと出会う。伝統的なアカペラやオルガンで歌うスタイルもあれば、ギターやドラムなどを用いたバンドスタイルの、コンテンポラリーなものまで様々だ。どの歌い方にも趣があり、それぞれの良さがある。

 教会によっては、「賛美歌」や「聖歌」と呼ばれる歌集を使っている。なんと、教会によっては、この「賛美歌」や「聖歌」の歌集に入っている歌しか、「賛美」と認めないところもあるようだ。聞くところによれば、それ以外の歌は、「準賛美」とか、「準備賛美」と呼ばれるらしい。私は、そのようなバックグラウンドの教会で育たなかったので、その話を聞いた際、こう思った。まるでエホバの証人みたいだな、と。

 私は、かつて「エホバの証人」のメンバーだったことがある。その時は「エホバの賛美歌」以外の歌を口にするのは禁じられた。学校の校歌も口パクしていたのを覚えている。そこまでやるのは、やりすぎだと分かるだろう。しかし、現実にプロテスタントの教会も、本質的には同じことを行っているのではないだろうか。

 何が賛美で、何が賛美ではないのか。そもそも、「賛美」とは何なのだろうか。今回は、「賛美」とは何か、を焦点に記事を書く。

 

 

▼「賛美」の語源

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 旧約聖書には、詩篇を筆頭に、さまざまな賛美の歌が収録されている。「ほめたたえよ」「あがめよ」「賛美せよ」などなど、旧約聖書には、たくさんの賛美の表現がある。実は、賛美を表すヘブライ語の単語はひとつだけではない。聖書の登場人物は、実に様々な種類の単語を用いて神をたたえている。今回は、その中で代表的なものを8つ挙げて説明する。

詩篇63篇は、この賛美のスタイルを学ぶのに適したテキストである。後述するが、詩篇63篇に登場する単語には、その箇所を書いた)

 

1)テヒラー(תהלה

歌う、公共の場で賛美をする、アナウンスする

(「詩篇」自体のヘブライ語が、これの複数形「テヒリーム」)

2)トーダー(תודה

感謝する、告白する

3)ザマール(זמר

ほめ歌う、楽器を演奏する

4)バラーフ(ברך

祝福する、ひざまずく、敬礼する、ほめたたえる(63:4)

5)ヤダー(ידה

手をあげる、感謝する

 6)サバーフ(סבח

ほめる、自慢する(63:3)

 7)ラナンרנן

喜ぶ、叫ぶ、泣き叫ぶ、喜びのあまり歌う(63:7)

8)ハラル(הלל

輝く、賛美する、自慢する、気が狂ったように叫ぶ。

「ハレルヤ」は、「ハレル+ヤ(神の意)」である。(63:5,11)

 

 全てが神を賛美する単語であるが、微妙に意味が違う。実は、聖書には他にも様々な形で神を賛美する単語がある。全てを羅列すると辞書の索引みたいになってしまうので、今回は避ける。

 読んでいただければ分かると思うが、賛美には様々なスタイルがあった。歌を歌う場合もあれば、楽器を演奏する場合もあり、泣き叫ぶ場合もあり、手をあげる場合もあり、静かにひざまずく場合もあった。歌うだけが賛美なのではなく、主の前にひざまずいて静まる、というのも立派な賛美のひとつなのだ。

 こう見ると、「この歌だけが賛美歌であとは、認められない」という考えは、ちょっとトンチンカンだな、というのは誰でも分かるだろう。大切なのは、どのような心で神を素晴らしさを宣言するかであって、どんな歌や行動でも、それを表すのは可能なのだ。

 

 

▼力の限り跳ね回ったダビデ

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 聖書の登場人物は、実に様々な方法で神を賛美した。賛美の第一人者、ダビデ王は、「神の箱」(お神輿的なもの)がエルサレムに戻ってきた際、気が狂ったように踊りまくった。

 

ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデ(祭司の衣装)をまとっていた。ダビデイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。主の箱(お神輿的なもの)がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカル(ダビデの妻)は窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。

(サムエル記第二 6:14~16)

  考えてみてほしい。王様が、力の限りジャンプして、ジャンプして、ジャンプして喜び踊ったのだ。裸で。人の目も気にせず。そのダビデ王の姿を見て、イスラエルの民は歓声をあげ、楽器を吹き鳴らして、喜び踊った。

 ダビデの妻のミカルは、それを見てドン引き。ミカルは、心の中でダビデをバカにした。おまけに、その後で嫌味まで言ってしまった。一見、ミカルが悪者のように見える。しかし、逆に言えば、ダビデは周りの人がドン引くくらい、「力の限り跳ね回った」のだ。ダビデは、それほど、全身全霊をかけて、神の存在を喜んだのであった。

 旧約聖書の最後の本、「マラキ書」にはこう書いてある。

 

しかしあなたがた、私の名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

(マラキ書 4:2)

 神に出会うと、それまでの傷ついた心が癒やされる。イエスに出会うと、それまで自分を縛っていたものから、解放される。それゆえ、クリスチャンはその喜びを噛み締めて、子牛のように、跳ね回って、喜び踊って、泣き叫びながら、神を賛美するのである。そこに、日本人特有の恥じらいはない。なぜか。神に変えられた後は、人の目を気にする必要はないからだ。関心のベクトルが、「自分がどう見られているか」よりも、「神に対する感謝と喜び」に変わるからだ。

 私が関係のあった、とある教会では、文字通り泣き叫びながら、跳ね回って賛美する女性たちがいた。誰かがふざけて、このマラキ書の箇所になぞらえて、彼女たちを「コウシーズ」と名付けたのを覚えている。彼女たちは、ひと目もくれず、文字通り跳ね回って神を賛美していた。その姿はまことに麗しかった。

 もちろん、「神の前にひざまずいて、静まる」というのも、ひとつの「賛美」のスタイルである。それは、前項目のヘブライ語からも明らかであろう。私の意見では、各々が、自分が一番神に感謝の気持ちを表せるスタイルで賛美すればいい。私自身は、力の限り跳ね回るスタイルが、自分に合っているので、できればそうしたい。しかし、教会の集会の中では、他の人も各々のスタイルで賛美している。その人たちが賛美するスタイルを邪魔しないように、私は、適切な表現の仕方で、賛美するよう工夫している。集会の秩序を保つのも、「愛」のひとつの表れである。

 

 

▼「賛美歌・聖歌」問題 ~楽器はどこまでOKか~

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 さて、本題の「賛美歌」や「聖歌」でなければ賛美ではないのか? という疑問に戻る。答えは、もちろんNOだ。「賛美」自体にも色々な表現がある。「歌」というのは、賛美のほんの一部だ。踊ったり、跳ねたり、手をあげたりするのも賛美のスタイルの一部だ。そこに優劣はない。言い換えれば、ライフスタイルそのものが「賛美」なのである。

 現代のコンテンポラリー音楽は、サタンの音楽だ、という人がいる。ドラムを用いるなんて、賛美とは言えないという人がいる。とんでもない。比較的、厳かで、「聖なる」印象のある、オルガンを用いた「聖歌」も、宗教改革の当初は「悪魔の音楽」と形容されたという。賛美に楽器を用いるなんて、とんでもないという価値観が、当時はあったのだ。礼拝会に会衆賛美を用いるようになったのは、ルターの時代以降であった。

 今現在、「正当・伝統的」と思われている賛美のスタイルも、実は歴史的に見れば、新しいものなのである。なぜその当時の新しいものは良くて、今の時代の新しいものは拒絶されるのか、明確な根拠が分からない。どんな音楽スタイル、または音楽でなくとも、賛美になりうる。神が見るのは形ではなく、心だ。どんな心で神に迫るのかが、一番大切なのである。

 そもそも、音楽を用いた賛美は、はるか昔、アダムとエバの直後の時代から始まっていた可能性がある。こんな箇所がある。

 

(カインの子孫の話の流れで・・・)その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。

(創世記4:21)

 このユバルの立琴と笛が何のために用いられたかの記述は、聖書にはない。しかし、楽器を使うというのが、はるか昔から行われていた文化だというのは分かる。アダムは800年生きたとあるから、この時まだ存命だったかもしれない。

 ほかにも、ダビデ王の時代に、歌や楽器に熟練した者たちが、賛美の担当を担っていたと分かる箇所がある。実に、たくさんの楽器が登場する。

 

歌い手ヘマン、アサフ、エタンは、青銅のシンバルを鳴らした。ゼカリヤ、アジエル、マアセヤ、ベナヤは、『アラモテの調べ』にのせて、琴を奏でた。マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベデ・エドム、エイエル、アザズヤは、『第八の調べ』にのせ、竪琴に合わせて指揮した。レビ人の長の一人であるケナンヤは歌唱を担当し、歌唱を導いた。彼はそれに通じていたからである。(中略)・・・イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げた。

(歴代誌第一 15:19~28)

 彼らは、長い聖書の中では、「誰やねん」という存在ではあるが、聖書に名前がハッキリと明記された、「賛美リーダー」だ。また、これらの歌や楽器を担当する者たちは、技術的にも、熟練した者たちであったと分かる。

 

これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の身やで歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった彼らの同族の数は288人であった。彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。

(歴代誌第一 25:6~8)

 ここから分かるのは、様々な楽器があったこと。歌や楽器の訓練を受けていたこと。師匠や弟子がいたことである。たまに、「賛美は心だから、技術は重要ではない」という意見も耳にする。「賛美は心」だというのは、ごもっともだ。しかし、「最高の賛美を捧げたい」という思いで、歌や楽器を練習し、熟練した者となって、神にハイクオリティな音楽を捧げたいと思うのは、とても大切な「心」である。良いものを捧げたアベルは、適当に捧げたカインよりほめられたではないか。ユダヤ人は、未だに神に捧げるものに傷がついていないか、入念にチェックをする。賛美のために、歌や楽器を練習し、高い技術力をもって神を賛美する人々を、私は尊敬する。

 

 ライフスタイルそのものが賛美である。「賛美歌」や「聖歌」といった、たかだか数百年の、人間が作った歌集にこだわらず、もっと幅広い目線で賛美を捉えたらどうだろうか。詩篇では、「新しい歌を主に歌え」と何度もオススメされている(例:詩篇33:3)。新しい賛美の歌を、どんどん作って、歌っていこうではないか。神の素晴らしさ、その偉大さを目の当たりにして、体験する時、立ち上がって、喜び踊り、涙を流さずにはいられないのだから。

 

 

詩篇63から分かる「苦しい時こその賛美」

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 さて、前述した詩篇63篇は、以下である。実に学ぶ要素がたくさんある。

 

神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ、私の唇は、あなたを賛美します。それゆえ私は、生きるかぎりあなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。脂肪と髄をふるまわれたかのように、私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で、私の口はあなたを賛美します。床の上で、あなたを思い起こすとき、夜もすがら、あなたのことを思い巡らすときに。まことに、あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私を支えてくださいます。

詩篇63:1~8)

 

 賛美の表現が、この詩篇にはたくさん隠されている。「あなたを切に求めます」「私のたましいは、あなたに渇き」「あなたをあえぎ求めます」「あなたを仰ぎ見ています」「私の唇は、あなたを賛美します」「生きるかぎりあなたをほめたたえ」「両手を上げて祈ります」「私の口はあなたを賛美します」「喜び歌います」などなど・・・。前述したヘブライ語のいくつかも、この詩篇では登場する。まさに、全身全霊をかけて、様々な方法、表現で神を賛美していたのである。

 注目すべきは、この箇所だ。

 

水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

詩篇63:1)

 この詩篇の筆者は、「乾いた地」を、「聖所」と表現している。実は、この詩篇の作者がいる場所は、「水のない」「衰え果てた乾いた地」なのである。人間的には、決して、神の恵みを感じられないような、そんな乾いた所だ。

 詩篇63篇のタイトルは、「ダビデの賛歌。ダビデがユダの荒野のいたときに」となっている。ユダの荒野というのは、岩地の荒野だ。実際に行った時に、写真を撮ってきた。

 

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 見渡す限り、枯れた岩地が続く。ダビデがいたのは、このように、文字通り水もなにもない荒野である。人は水を飲まないと死ぬ。指すような日照りが、ダビデを襲っていたことだろう。

 しかし、ダビデはこう宣言した。「私のたましいは、あなたに渇き」と。彼が乾いた時、本当に欲したのは、水ではなかった。神ご自身だったのだ。私たちは、この姿勢に、「苦しい時こそ、神ご自身をほめたたえる」という、賛美の本質を見る。

 イエスも、本当に人の心を満たすのは、物理的な水ではなく、イエス自身だと言う。

 

エスは答えられた。「この水(井戸の水)を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」

ヨハネ福音書 4:13~14)

 

 もうひとつ注目すべきポイントは、「聖所で」という言葉だ。この場所は、神を礼拝する幕屋でも、神殿でもなかった。なにもない荒野だ。渇ききった砂漠のど真ん中で、この詩篇の作者は、「こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ているます」と宣言する。

 詩篇の別の場所では、こう書いてある。

 

あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

詩篇22:3)<新改訳第三版>

 ダビデは、荒野の中で賛美し、そこを「聖所」と表現した。それは、神ご自身が、賛美の中に住まうと、彼が悟ったからであった。

 イエスも、実にこのように言っている。

 

エスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

ヨハネ福音書 4:21~24)

 イエスは、礼拝する場所が重要ではなく、「御霊と真理」が大切だと言った。「御霊と真理」が何かを語ると、それだけでいくつも記事が書けてしまうので省くが、要するに、(少し乱暴だが)その心が大切だと言ったのだ。

  私たちは、どんなに苦しい状況であっても、神の存在をそこに見出し、神に拠り頼む。そして、歌や踊りや、生き方の全てをもって、神をほめたたえる。場所や状況は関係ない。賛美があるところに、神の存在もあるのだから。

 

 

▼おまけ 「特別賛美」というシステム

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 さて、クリスチャンの集会には「特別賛美」という特殊なプログラムがある。集会の流れは、ざっくり言うと、はじめに賛美の歌を何曲か歌い、その後、牧師か誰からの話があって、その後また何曲か歌って終わる、というものが多い。

 「賛美」は、全員で歌う場合が多いのだが、この「特別賛美」というものが始まると、途端にコンサートちっくになる。それまで全員で歌っていたのに、急に一人か二人が前に出てきて、歌や音楽を披露するのだ。

 私は、この「特別賛美」を否定しない。前述した通り、神によりよいものを捧げたいという気持ちで楽器や歌を極めるのは、良いことだと思うからだ。しかし、それが賛美ではなく、ただのコンサートになってしまっていないか。心が神に向いているのかどうか、常に吟味が必要であろう。確かに、それまで全員で歌っていたのに、急に独奏がはじまるのだから、少し違和感があるのも正直なところだ。初めて教会に来た人が、混乱しないための工夫も必要である。

 それは、会衆賛美にも同じことが言える。賛美をリードする者たちは、常に自分ではなく、神がほめたたえられるような心持ちと工夫が必要だ。最高の賛美リーダーは、誰がどういうリードをしていたか忘れさせる、「透明なリーダー」だと、誰かが言っていた。人に栄光を返さず、ただ神のみを見るのは、容易ではない。しかし、全てを忘れて、ただ神のみを賛美しつづけた時、本当の喜びに包まれる。その賛美の瞬間を少しでも味わいたいものである。

 

(了)