週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンはダンスをしてはいけないのか?

クリスチャンの中には「ダンス禁止!」をうたう人たちがいるそうです。どうしてなのでしょうか?

 

 

▼ダンス禁止令?!

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 先日、あるクリスチャンの友人と話していたところ、こんな話を聞いた。「あのクリスチャン学校は、ダンス禁止なんだって」。驚いた。何を根拠にそんなルールを決めているのだろう。理由を聞くと、「体を使ってアピールすることは、性的興奮を掻き立てるから」だそうだ。ちょっと頭を抱えたくなってしまうが、現実にそういうルールを定めるクリスチャンの学校や教会は存在する。

 当然、聖書には「ダンスは罪」なんて書かれていない。QED、証明終わり。答えは既に出てしまって、この記事を書くのをやめても良いのだが、もう少し深掘りしたいと思う。実は、聖書にはダンスをした人々がたくさん登場するのだ。今回は、聖書でダンスを用いて神を崇めた人々とその心に注目したい。

 

 

▼ダンス禁止のわけは? 正当性は?

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 まず、なぜダンスを禁止するクリスチャンの学校や教会があるのか考えてみよう。私が聞いた話では、「性的興奮を掻き立てるから」とか、「体を性のアピールに使ってはいけないから」などの理由が挙げられた。確かに、ダンスの種類にもよるが、そのような指摘も一理あると思わせるような激しいダンスもある。しかし、クリスチャンたるもの、まずは聖書の価値観を見ておかないといけない。そうしないとズレてしまうからだ。

 果たして、聖書は何と言っているのだろうか。序論で挙げたように、聖書に「ダンス禁止」を命じる記述は全くない。強いて、強いて、強いて言えば、こんな記述なら聖書にある。

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい

(テモテへの手紙第一 2:8~10 新改訳聖書3版)

 

 ダンスや「性的アピール」に直接の言及はないが、確かに身だしなみとして「慎み深く身を飾り」とのオススメの記述はある(※この際、男女の記述はひとまず置いておこう)。しかし、これらを「ダンス禁止」と結びつけてしまうのは、いかがなものか。ほかに、ダンスを禁じる根拠となる聖書の言葉があれば教えていただきたい。

 「ある種のダンスはシャーマニズム悪魔崇拝と深く結びついている」という理由を挙げる人もいる。確かにダンスを用いて悪魔を礼拝していたら、それは当然ダメだ。しかし、それは「悪魔礼拝」がダメなのであって、「ダンス」がダメなわけではない。

 悪魔礼拝がダンスの由来だからダメ、と言う人もいるだろう。しかし、ハッキリ言ってその指摘は全くの筋違いだ。現代の「礼拝会」のスタイルの中には、聖書由来ではない部分も多く含まれている。昔は「音楽」そのものが教会ではタブーだった(それがそもそも聖書の記述からかけ離れているが・・・)。オルガンやピアノでさえ、「礼拝にはふさわしくない」と言われていた時代もあったぐらいだ。しかし、時代の変化にあわせて様々な方法が「礼拝会のスタイル」として用いられてきたのだ。そう考えれば、大切なのは「スタイルや行為」ではなく「礼拝の対象は誰か」や、「動機や心のあり方」だと分かるだろう。

 由来や見てくれではなく、大切なのは心の動機なのだ。音楽も踊りも、全ては神の創造である。神が創造した人間が、神が創造した聴覚や身体を使って、何かを表現する。神から与えられた身体を使って、力の限り神を褒め称える。これを私は罪だとは思わないし、禁止するのもどうかと思う。

 では、聖書の登場人物たちはどうしたのか、簡単に見ていこう。

 

 

▼聖書でダンスをした人たち

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 聖書には、ダンス・踊りを用いて神を賛美し、讃えた人々が数多く登場する。今回はその中で代表的な例を3人挙げよう。

 

<ミリアムの例>

 ミリアムは、預言者モーセとアロンの姉である。彼女は、イスラエルの民の賛美の歌をリードする、いわば賛美リーダーだった。聖書初の「女性賛美リーダー」かもしれない。聖書にもこう書いてある。

アロンの姉である女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちも皆タンバリンを持ち、踊りながら彼女に続いて出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」

出エジプト記 15:20~21 聖書協会共同訳)

 

 これは、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、神を褒め称えて歌った歌である。神は民を導き、海の間を通らせて、エジプトから救い出した。その後、ミリアムは民の歌をリードしたのであった。彼女たちは、タンバリンの演奏と踊りを用いて神を賛美した。イスラエルの民も、喜び歌いながら彼女の導きで踊っていたことは、想像に難くない。イスラエルの民は、歌と踊りで神を賛美し、褒め称えたのであった。

 

ダビデの例>

 王であるダビデはどうだろう。聖書にはこんなエピソードがある。

主の前でダビデは力の限り踊った。(中略)だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。(中略)ダビデが家の者を祝福しようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエルの王(ダビデ)はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから

(サムエル記第二 6:14~20 聖書協会共同訳)

 

 これは、「神の箱」がエルサレムに戻ってきた時の有名なシーンである。神の存在と力が強く示された「神の箱」(神輿のようなもの)は、敵であるペリシテ人に奪われていた。しかし、神がペリシテ人神罰を下したため、神の箱は最終的にエルサレムに返ってくることとなった。ダビデは、神の箱の帰還を喜んだ。彼は、喜びのあまり服を脱ぎ捨てて裸(または裸同然)になり、踊り狂った。全身全霊で、神の箱の帰還を喜び、神を賛美したのである。

 しかし、このダビデの姿を快く思わない人がいた。他でもない、ダビデの妻ミカルである。ミカルは裸(または裸同然)になったダビデを見て、彼を蔑んだ。その結果、ミカルは死ぬまで子供を産めなくなる罰を受けた。なんと、裸になってダンスをしているダビデを蔑んだミカルの方が戒めを受けたのだ。

 一方のダビデはこう答えている。

ダビデはミカルに言った。「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。その主の前で私が踊ろうというのだ。私は今にもましてもっと卑しくなろう。自分の目にさえ卑しい者となろう。だが、あなたの言う仕え女たちーー彼女たちからは、誉を受けるであろう」サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。

(サムエル記第二 6:20~23 聖書協会共同訳) 

 

 このエピソードを見ると、裸(同然)で踊り狂って神を褒め称える行為そのものは、むしろ歓迎されるべきだと分かる。神への思いを爆発させて踊る行為自体は、推奨されるべきであろう。もちろん、現代において男女がいる場所で全裸になって踊ったら、ただの変態集団だが・・・そのぐらいの節度は冷静に考えて分けてほしい。大切なのは「行為」ではなく、その根底にある「心」なのだ。

 

<イエスの命令>

 最後に、イエスは何と命令したか見てみよう。聖書にこう書いてある。

喜びなさい。喜びおどりなさい天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

(マタイの福音書 5:12 新改訳聖書3版)

 

 エスその人が、「喜びおどれ」と命じているのだ。エスの教えをどうして人間的な基準で禁止するのか。この一点だけでも、「ダンス禁止令」は間違った教えだと分かるだろう。

 クリスチャンは、イエスによって罪が赦され、新しいいのちを受けている。その喜びは、他の何にも代えがたい。最高の喜びを爆発させて、全身全霊で踊り狂って神を褒め称えるのは、とても良いことだ。禁止される理由はどこにもない。

 

 

▼ダンスを間違った方向で用いた例

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 聖書には「ダンス」を間違った方向で用いてしまった例も記載されている。いくつか見ていこう。

 

<金の子牛の例>

 預言者モーセが有名な「十戒」を神から授かった際、イスラエルの民は堕落してしまった。この時、モーセシナイ山に上っていたのであるが、いくら待ってもモーセが帰ってこないので、民は不安になった。そして、祭司アロンをけしかけて「金の子牛」を作って神として崇めてしまったのであった。その際、聖書にこう書いてある。

アロンは彼らの手からそれ(金の耳輪など)を受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は座っては食べて飲み、立っては戯れた。 

出エジプト記 32:4~6 聖書協会共同訳)

 

 イスラエルの民は、この「金の子牛」を神として崇め、食べて飲んで騒いで戯れていた。いわば、パーティー的なお祭りをしていたのである。この時「戯れた」の中に「踊り」が内包されたと想像しても良いのではと、私は思う(※もっと性的な「戯れ」だとする意見もある。しかし、それはダンス以上の問題である)

 神はこの罪に対して怒り、イスラエルの民を滅ぼそうとした。モーセが仲立ちして全滅は免れたが、3000人が死ぬ事件となった。この時、問題になったのは、「食べて飲んで戯れた」という「行為」ではない点に注目したい。民が「金の子牛」を神とした「偶像礼拝」が問題だったのである。このことから、「行為」ではなく「礼拝の対象」と「心のあり方」が問題だと分かる。

 

<バアルの信者たちの例>

 異邦の神である「バアル」の信者たちはどうだったか。預言者エリヤとバアルの信者たちが対決したシーンを見てみよう。

彼ら(バアルの預言者たち)は与えられた雄牛を引いて来て整え、朝から昼まで、「バアルよ、私たちに答えてください」と言ってバアルの名を呼んだ。しかし、何の声もなく、答える者はいなかった。彼らは自分たちの造った祭壇の周りを跳び回った。昼になり、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから、瞑想しているか、それとも用を足しているか、旅にも出ているのか。ひょっとすると、彼は眠っているので、目を覚まさないといけないだろう」彼らは大声を張り上げ、自分たちの習わしに従って、剣や槍で身を傷つけ、血を流すまでに至った。このようにして、真昼が過ぎて、供え物を献げる頃になるまで彼らはわめき叫んだが、何の声もなく、答える者もなく、何の反応もなかった。

(列王記第一 18:26~29)

 

 これは、預言者エリヤが神の力を示すために、バアルの信者たちと勝負したシーンである。エリヤは、いけにえの祭壇を2つ用意し、どちらのいけにえに火が着くか勝負しようと持ちかけた。バアルの信者たちは、上記のように叫んだり、身体に傷をつけたり、踊り狂ったりしてバアルの神に火を下すよう求めたが、何も起こらなかった。一方のエリヤは、いけにえを水浸しにした上で神に祈った。すると、一瞬のうちに火が降って、いけにえを焼き尽くしたのであった。

 この「身体を傷つける」という行為は、現代においてもイスラム教の一部で行われている儀式である。イスラム教の授業で映像を見たことがあるが、そこらじゅうに血しぶきが飛び散り、まるで虐殺のようであった。しかし、彼らはこれをアッラーの神への礼拝行為として行っているのである。

 この場合も、問題なのは「行為」ではなくその「対象」と「心」だということは、異論のない点であろう。

 

<エフタの娘の例>

 最後に、ちょっと哀しいエピソードを紹介する。ダンスを間違った方法で用いた例ではないが、結果的に哀しい物語になってしまった例だ。

エフタは主に誓願を立てて言った。「もし、あなたがアンモン人を私の手に渡されるなら、アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます」(中略)エフタがミツパにある自分の家に戻ったとき、娘がタンバリンを持って踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、ほかに息子も娘もいなかった。エフタは娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わが娘よ。あなたは私を打ちのめし、私を苦しめる者となった。私は主に対して口を開いてしまった。取り返しがつかない」娘は父に言った。お父様、あなたが主に対して口を開かれたのなら、どうか、その口から出たとおりのことを私に行ってください

士師記 11:30~36 聖書協会共同訳)

 

 イスラエルの将軍エフタは、戦いの前に神に誓いをたてた。それは「戦いに勝たせてくれたら、凱旋した時に一番最初に踊りで迎えてくれた人を、神にいけにえとしてささげる」という残酷なものだった。運命とは残酷なもので、なんと一番最初に出迎えたのはエフタの一人娘だった。エフタは愕然とするが、神への誓いを果たす。娘も自ら誓いを果たすように父を説得し、自らの命を絶つ決断をするのであった。

 これは、何とも哀しいエピソードだ。エフタにもそんな哀しい誓願をたてるなと言いたくなるし、そんなフラグを立てたら哀しい結果は見え見え・・・と現代の私たちは思うが、聖書に記載されている事実である。

 これは、決して踊りが間違った方法で用いられた例ではないが、哀しい結果を招いた一例として、覚えておいてもらいたい。エフタが無茶な誓願をした「心」が問われる事案であるし、その決断に従ったエフタの娘の強い心に、焦点が当たっているエピソードであると思う。エフタの娘は死んだが、その心は神に喜ばれていると私は思う。

 

 

▼「してはいけない主義」の危険性

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 さて、様々な例を挙げたが、結論はシンプルだ。

1:聖書は「ダンス・踊り」そのものは禁じていない

2:問われるのは「行為」ではなく「崇拝の対象」「心の動機」である

 

 結論は以上だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 「フラダンスはOKだけどヒップホップはNG」のように、ダンスの種類によって区分けしようとする人もいるだろう。しかし、私はその意見には反対だ。どんなダンスでも、神を礼拝するのに用いることはできると、私は思う。今では「ワーシップ・フラ」といって教会で用いられることの多くなったフラダンスでさえ、元はといえば土着の精霊信仰の礼拝で用いられたものだ。しかし、その目的さえ整えば、用いることができる。もちろん、反対論じゃたちのいう「過激な性的アピール」だって、目的が違えば、おのずと目的に沿った形になっていくのだと、私は思う。

 

 私は、クリスチャンの中に横行する「これはして良い」「これはダメ」といった、短絡的な「してはいけない主義」は危険だと思う。特に聖書に書いていなかったり、直接の言及はなくとも明らかに否定されているもの以外の、いわゆる「グレーゾーン」(ダンスについてはグレーとすら思わないが)については、柔軟な対応が求められていると思う。なぜなら、安直に「これはして良い」「これはダメ」と教えると、クリスチャンの信仰がまるで「行い」によるかのような誤解を与えるからだ。クリスチャンは、ただイエスが一方的な十字架の犠牲をなしてくださったことを信じるだけで、救われる。そう信じている。生き方の基準は、その後についてくるものだ。

 もちろん、このブログでも「これはダメだろう」という指摘をしている記事もある。しかし、それは明らかに聖書に記載があったり、直接言及がなくとも明らかに否定されたものに限って書いている。当然、いくつかの記事に対しては反論等、ご指摘もあるかと思うが、その点はまさに「グレーゾーン」なので多様な意見があって当たり前だとは思っている。

 教会や学校にとっては、そのような「ルール」を作れば、メンバーや生徒たちを簡単に管理できるので、マネジメントの面で効率が良いだろう。その「ルール」は一定、グループごとにあって良いとは思う。しかし、ルールが「聖書の基準」と間違って捉えられないよう、一定の配慮と注意が必要である。ことさらな「禁止主義」や「禁欲主義」は誰も幸せにしないからだ。クリスチャンは「自由にされた者」として歩んでいけるのではないだろうか。

 

エスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、わなたがたは本当に私のでしである。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする

ヨハネ福音書 8:31~32 聖書協会共同訳)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。