クリスチャンは、神社やお寺に入ってはいけないのでしょうか? 「初詣」に行くのはどうでしょう?
▼どこからが偶像礼拝?
イエスを信じ、クリスチャンになると、ふとした疑問がわいてくる。「神社やお寺に入っちゃいけないのだろうか」という疑問だ。もし、宗教的でない日本の家庭で生まれ育っていれば、「初詣」や「お盆の墓参り」などは、当たり前に行ってきた「文化」であろう。では、ひとたびクリスチャンになった場合、これらの行為は、禁止されるのだろうか。
確かに、聖書は「偶像礼拝」を禁じている。このような箇所がある。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
(出エジプト記 20:3~6)
確かに、聖書にはハッキリと、「わたし以外にほかの神があってはならない」「偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」と書いてある。旧約聖書も、新約聖書も、この偶像礼拝や、ほかの神々を信じる行為を、最大の悪のように書き、忠告している。イスラエルやユダの王たちが失敗した多くの理由は、この「偶像礼拝」である。
では、現代の日本に住むクリスチャンが、「神社・仏閣」に行く行為は、果たして「偶像礼拝」なのだろうか。お祭りは? お神輿は? 初詣は? お盆は? お焼香は? お墓参りは? どこまでが良くて、どこからが悪いのか。今回は、日本人が直面する、現実的な問題に焦点を当てて考えてみたい。
▼将軍ナアマンの姿勢
聖書に、「ナアマン」という将軍が登場する。彼のエピソードは、日本人にとって、とても参考になる。長いので、簡単に説明する。
▼ナアマンは、イスラエル人ではなく、外国の将軍だった。彼は重い皮膚病を患っていた。ある日、召使いの少女が、こんなふうに言った。「イスラエルにいる預言者なら、きっとその皮膚病を治してくれるでしょう」。ナアマンは、ワラをもつかむ思いで、仕えている外国の王を通して、イスラエルの王に手紙を書いた。
▼こうしてナアマンは、預言者エリシャのもとにやって来る。預言者エリシャは「ヨルダン川で7回、体を洗いなさい」と命じる。
▼ナアマンは、馬鹿にされたと思って、激怒して帰ろうとする。ナアマンの部下たちが、必死でなだめ、ナアマンはなんとか「念の為やってみるか」という思いで、ヨルダン川で7回、体を洗った。
▼すると、どんなことをしても治らなかった皮膚病が、たちまち治ってしまった。ナアマンは驚き、イスラエルの神、主を信じた。
と、まぁこんな話である。このナアマンが唯一の神を信じた後に言った言葉が、非常に印象的だ。
ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人(預言者エリシャ)のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。(中略)しもべはこれからはもう、主(神)以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモン(外国の神)の神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」
エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。
(列王記第二 5:15~19)
ナアマンは、外国の将軍だった。しかし、奇跡的な体験をして、イスラエルの神である「主」を信じた。彼は、自分が信じてきた外国の神(リンモン)に、自分からはいけにを献げないと決心する。
しかし、ひとつの懸念があった。それは、彼が仕える王様が、外国の神、リンモンを信じていたからだ。ナアマンは、そこで王の腕を支える役目があった。リンモンの神殿にも入るし、膝もかがめる。ナアマンは、誠実に、大真面目に、リンモンの神殿で膝をかがめることを告白し、赦しを求めた。そして、預言者エリシャは「安心して行きなさい」と、ナアマンに告げた。これがことの顛末である。
つまり、「外国の神の神殿に入ること」「そこで膝をかがめる=礼拝のポーズをとる」ことは、「赦されて」いるのである。これは、非常に興味深いポイントである。
ナアマンの話を読むと、「行為」ではなく、「心」に重点が置かれていると分かる。いけにを献げないというナアマンの決心は、神殿での行為が、本心のものではないと表している。ナアマンの主張は、「仕事上、やらなければならない行為なんです。不可抗力なんです。本心ではありません。だから赦してください」という歎願であった。
ナアマンは信仰を持った後に、彼のそれまでの職務を放棄しなかった。面白いポイントだ。ナアマンは、将軍をやめて、神殿に入らないという選択もできた。しかし、彼はそうしなかった。現代社会では、信仰を持った後に、「日曜日に教会に行けないから」という理由で、仕事を辞めてしまう人も多い。もちろん、それもひとつの立派な信仰の表現だ。否定はしない。しかし、「今、自分が置かれている環境で、信仰者として精一杯、誠実に職務をこなす」というのも、ひとつの道ではないか。私は、そんな人を応援したい。
この日本社会で生きていると、ナアマンのように「不可抗力」で本心ではない行動を取らないといけない場面も多いだろう。例えば、上司が亡くなった時、仏式のお葬式に出席しなければならない時がある。その時、お焼香をするのは、クリスチャンとしてどうかという葛藤は、もちろんあるだろう。しかし、私はナアマンのような信仰をもって、堂々と、その上司、そしてそのご家族に対して誠実に、儀式としてのお焼香をするのはアリだと思う。大切なのは心なのだ。お焼香というポーズをとりながら、神に祈ればいいのではないか、と、私は思う。
もちろん、クリスチャンとして、どうしても仏式のお葬式には出席したくない、という信仰のスタイルを持つ人もいるかもしれない。それはそれで尊重したい。しかし、クリスチャンであるならば、その旨をしっかりと説明し、何かしらの形で、残されたご家族への愛の心を示す必要があると思う。結局、自分を守りたいのか、相手をケアしたいのか、その心のベクトルの違いである。
▼シャーマニズムによる「霊的に汚れる」というウソ
一方で、「神社・仏閣に入ると、霊的に汚れる」という主張をするクリスチャンたちもいる。このような主張を聞くたびに、私は心からため息が出る思いだ。「悪霊によって汚れる」なんていうのは、シャーマニズムが盛んな国が、クリスチャンの信仰と土着信仰を混ぜてしまった結果起こる間違った信仰である。
聖書には、こう書いてある。
さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。(中略)私たちには父成る唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(中略)しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。(偶像に捧げた物を)食べなくても損にならないし、食べても特になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
(コリント人への手紙第一 8:4~8)
そもそも、唯一の神以外には神は存在しない。新約聖書の時代は、偶像へのいけにえとして捧げた動物は、からだが汚れるから食べてはいけないという価値観があった。仏壇に備えた白米とか、お餅とか考えればわかりやすいだろう。しかし、パウロは「そんな神、どうせいねえんだから、食っても食わなくても一緒!」とバッサリ切ったのである。しかし、それを食べちゃいけないと思っている人もいるから、思いやりの心を持とうね、というのがこのコリントの手紙のポイントだ。
もちろん、一定の配慮は必要だ。しかし、本当に相手のことを考え、配慮するなら、ただ黙って見過ごすのではなく、「そんなもので、あなたは汚れないよ、大丈夫だよ」と、きちんと教えてあげるべきだ。
預言者イザヤの書に、はっきりと偶像の無力さについて書いてある。
偶像を造る者はみな、空しい。彼らが慕うものは何の役にも立たない。それら自身が彼らの証人だ。見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。見よ。その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。(中略)それは(木材のこと)人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。また、温まって、「ああ、温まった。炎が見える」と言う。その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。「私を救ってください。あなたは私の神だから」と。
(イザヤ書 44:9~17)
さらにイエス自身も、このように言っている。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」
(マタイの福音書 15:16~20)
ユダヤ教では、「手を洗わないまま食べると、汚れる」という教えがあった。しかし、イエスは、「食ったもんは、どうせウンコになるんだから、気にするな。でも、本当に悪いものは、心の中からでてくるんだ。そっちに気をつけろ」と言ったのである。神社・仏閣に入ると「霊的に汚れる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。その前に、自分の心の中を吟味した方が100倍いい。
勘違いしてほしくないのは、私は「悪霊」がいないと言っているわけではない。悪霊は、確かに存在する。ほとんどの場合、悪い思いは、自分の心の中に住み着いている。しかし、それらは「神々」ではない。権限を何も持っていない、大したことない存在だ。クリスチャンは、神の愛に引き寄せられた存在である。悪霊は、私たちに対して何の権力も持っていない。聖書にこう書いてある。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ人への手紙 8:38~39)
つまり、「どんなものも、神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のである。ましてや、「神社・仏閣」に行って、そこで手を叩いたからといって、何ら影響力はない。
もちろん、自分の心が神から離れないように、用心は必要である。毎日、自分の心のチェックは必要だ。しかし、本当に気をつけるべきは「心の動機」であって、どこに行くとか何をするかではない。シャーマニズム教クリスチャンたちが言うように、「悪霊」なんかをいちいち気にしているようでは、まだまだ神の愛への信頼が足りない、と私は思ってしまう。彼らは、私たちに対して、何の影響力もないのだから。
無論、本当に神道の神々を信じて、神社に行ったらダメだ。例えば、受験の成功を願いに神社に行ってお願いごとをしたら、それは完全にアウトである。受験に成功したかったら、勉強せよ! ホンマ・・・。
▼神は「生きている者の神」~日本人が直面する「お墓問題」~
「クリスチャンになったらお墓はどうすればいいのか?」これは、日本人なら誰もが直面する問題である。私なりの回答は、「どうでもいい」である。
その最大の理由は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからである。
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」
(マタイの福音書 22:29~32)
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現の意味については、様々な意見があり、これだけで記事が書けてしまうので、今回は多くは語らない。ポイントは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」というところだ。
このイエスの言葉は、「サドカイ派」と呼ばれるユダヤ教の一派の人たちへ向けられた言葉だ。サドカイ派は「肉体の復活」も「霊的な復活」も否定していた。イエスは、はっきりと「死人の復活」を肯定した。つまり、私たちは死んだら必ず「復活」するのである。
それが今の肉体をもってか、はたまた霊的なフワフワしたものかは、議論のあるところだ。ユダヤ教の人々は、死んだ後の体がそのまま起き上がってくると信じている。分かりやすく言えば、「きれいなゾンビ」みたいに埋葬されたそのままの場所と姿で起き上がってくる、と信じている。だから、彼らにとっては「土葬」は当たり前。燃やしてしまうと、復活の体がなくなってしまうからだ。彼らは、「オリーブ山」という山に、いつの日かメシアが来ると信じている。ゆえにオリーブ山は、お墓の一等地で、山の斜面にずらりとお墓が並んでいる。肉体が復活した後に、メシアにすぐ会えるからだ。
↑オリーブ山の斜面(撮影:わたし)
しかし、イエスは、「復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようだ」と言った。御使いは、基本的には目に見えない(アブラハムに現れたように、目に見える状態の場合もある)。めとることも、嫁ぐこともない。今の人間の肉体とは、明らかに違った状態で復活すると分かる。
私は、肉体が残っていなくても、復活できると信じる。神の力はそんなにヤワなものではない。チリひとつに息を吹きかけて、アダムを造ったお方である。骨から肉を生じさせる主である。イエスのからだをそのまま復活させた神である。死体がたとえチリになっていようと、灰になっていようと、どこからでも復活させられるのが神の力だ。
つまり、自分のことだけを考えるならば、お墓はどこでもいい。埋葬方法も土葬でも火葬でも鳥葬でも構わない。それが見かけが白く塗った墓でも、仏教墓地でも、石に十字架の形が彫ってあっても、本質的には何も変わらない。残るのは、「どういう心でどういう生き方をしたか」だけだ。いつまでも残るものは「信仰と希望と愛」だけなのだから。
しかし、墓は、「残された、生きている者」にとって重要である。自分の信仰が、墓という形で、残された者たちに残る。自分の子孫が神を知るキッカケの少しにでもなるかもしれない。だから、信仰を形に残すという意味でも、キリスト教式の埋葬は「オススメ」ではある。一方で、残された人の関心事が、神ではなく、死人の偉大さになってしまう危険性もある。某お隣の国では、死んだ牧師の「何回忌」とか馬鹿らしいことをやっているが、それこそ人を礼拝する偶像礼拝だろう・・・。
聖書は、葬式は「生きている者の為のもの」と言っている。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。
(伝道者の書 7:2)
埋葬されるお墓が仏式でもキリスト教式でも、本質は変わらない。よく、「家族と一緒の墓に入れないのか」という人がいるが、お墓が物理的に一緒になっても意味がない。イエスを信じなければ、復活した後、永遠に離れ離れなのだ。お墓の心配をするより、永遠を神とともに過ごすのか、それとも神と離別され永遠に苦しむのか、その行き先を心配した方がいい。
個人的には、仏式のお墓に入るのは避けたいし、信仰があるのにどうしても仏式のお墓に入る理由は見つからない。しかし、特別な事情があれば、それは個別の回答があるだろう。私自身は、別に死体を燃やした灰を、海に撒いてもらっても構わないと思っている。結局は、個々がそれぞれの状況に合わせて、最も「心から神に従った」と言える判断をすれば、それでいいのだと思う。
▼おまけ:オリエンタリズムと戦え
他にも、日本にいるクリスチャンは、様々な文化に直面する。豆まき、ひな祭り、夏祭り、七夕の短冊、お盆、秋祭り、どんど焼き(田舎だけ?!)、除夜の鐘、などなど・・・。日本には、いろいろな文化、宗教が入り混じっている。
クリスチャンは、それらのお祭り文化に、どう対応すえるべきだろうか。正直に言って、私の意見は「どうでもいい」である。前述した通り、それらはクリスチャンと神の結びつきに対して、何の影響力も持っていない。豆をぶつけられても、ひな壇を家に飾っても、七夕に願い事を書いても(まさか本気で信じている人は少数派だろう)、それらは何の意味もない。豆をぶつけられたら痛いし、ひな壇は飾ったらきれいだし、子供が短冊に願い事を書いたらカワイイ。ただそれだけの話だ。大切なのは、「どこでラインをひくか」である。私は、そのような文化は、地元地域の人との交流のチャンスだから、どんどんやったらいいと思う。その中で、本物の神がいかに素晴らしいか、イエスに信頼することが、どれほど希望に満ちたものか語ればいいと思う。
実際、私の地元の教会は、「お祭りに店は出さないが、雨宿り場所として教会の建物を開放する」というラインをひいた。その結果、大雨が降り、地元の多くの人に教会の存在を知ってもらえた。クリスマス同様、文化はうまく利用しちゃえばいいのだ、と、私は思う。
日本人は、宗教に対して、非常にゆるやかな考えを持っている。初詣で神社に行き(神道)、結婚式を教会で行い(キリスト教)、葬式は仏式(仏教)で行うくらいだから、そのテキトーさがうかがえる。もちろん、そうでない人もいるだろうが、私のように全く信仰心も何もない家庭で育つ人が、大半なのではないだろうか。以前、「私はクリスチャンです」と言ったら、とある美容師さんが、「あ~私仏教なんですよ~」と言った直後に、「神社とか好きですし」と言っていたのは正直、笑ってしまった。神道と仏教の違いも分からない、多くの日本人には、その程度の”信仰”しかないわけだ。
しかし、日本人は宗教に対して無関心でもなく、無神論者でもない。これについては別の機会に語るが、「空気を読む」という言葉を広めた評論家の山本七平は、これを「日本教」と名付けた。山本七平は、「なぜ日本人はキリスト教を信じないのか」という目線から、徹底的に日本・日本人を研究をした学者である。彼の著作は、非常に面白いので、興味のある方はぜひ読んでいただきたい。
(個人的オススメ:「日本人とユダヤ人」「空気の研究」「日本人の人生観」「聖書の常識」)
「日本のお祭りは、日本特有の文化でしかなく、偶像礼拝とはとても言えない」。これは、日本人が聞けば当たり前に思う。しかし、そう思えるのは、「これはどうせ文化で、何の意味もない」と思っている日本人特有の前提があってこそだ。外国人宣教師たちにとっては、そう捉えるのがどうも難しいようだ。
特に、西洋の人たちは、日本人の信仰のいい加減さを理解できない。彼らは、どうもあの「神社」にスーパーナチュラルパワーがあると思っているらしい。豆まきをすることが、神への冒涜だと思っているらしい。短冊に願いごとを書く行為が、偶像礼拝だと思っているらしい。何度、外国人の宣教師から、「日本人が偶像礼拝をやめるように祈っている」と言われたことだろう。面倒くさいので、いちいち否定はしていないが、それを聞くたびに、「ああ、まだ日本人というものを分かってもらえていないんだなぁ」と感じる。
彼らは、「オリエンタリズム」という病気に侵されている。これは、日本人にとっては、ショッキングな事実だ。いや、彼らにとってはもっとショッキングかもしれない。しかし、これは紛れもない事実だ。
オリエンタリズムとは何か。
【オリエンタリズム】(Orientalism)
東洋研究または東洋趣味を意味する概念として使用されてきた言葉だが,アメリカの文学者 E.W.サイードが同名の著作 (1978) を発表してから植民地主義的な思考の総体を意味するようになった。東洋(第三世界) についての観念は同地域の現実を客観的に表象したものではなく,植民地支配を正当化するために西欧の側から一方的に強制された差別的な偏見の総体とされる。受動性,肉体性,官能性といった異国情緒的な東洋イメージは西欧文明の優位性を保証すると同時に,現実の植民地支配を合理化する根拠としても利用されたのである。
わかりやすく言えば、西洋の人は、われわれ東洋人に対して、「無意識の優越意識を持っている」のである。もっと単刀直入に言えば、彼らはわれわれを「東洋の文化的に遅れているサル」だと思っているのである。これは、悲しいが事実だ。ヨーロッパでは、まだまだ根強く残っている。欧州に行ったことがある人は、うなずいていただけるかもしれない。
そして、私は批判を恐れず大胆に言うが、「宣教師として来る人ほど、この傾向が強い」のである。これは、完全に私の経験・体感をベースにした一方的な言い分なので、異論、反論、疑問、質問は大いに歓迎したい。しかし、彼らからは、本気でオリエンタリズムからの優越感を感じる時がある。もちろん個人差はおおいにあるが、これを感じる時、毎回悲しく思う。
日本に来ている宣教師、または宣教師になろうとしている人にお願いだ。我々は、「日本人」である。中国人でも、韓国人でもない。「日本人」がどういう民族か、まず知ってほしい。「おまえらが英語を話せ」という姿勢ではなく、日本語を身に着けてほしい。アメリカや中国や韓国で成功した方法を、日本に押し付けないでほしい。この悲しい島国の言語と文化と背景を理解しようという姿勢を見せてほしい。これほど福音を必要としている国はない。あなたたちだからお願いしたい。どうか、私たちを理解してほしい。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
「日本人とユダヤ人」(角川文庫ソフィア)イザヤ・ベンダサン(山本七平)著 1971/9/30
「オリエンタリズム」(平凡社)エドワード・W・サイード著 1993/6/1
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。