【まとめ】クリスチャンの離婚・再婚についての考え方
離婚、再婚。社会においては、もはや「普通」のことになりましたが、クリスチャンはこのテーマについてどのような考え方をすれば良いのでしょうか。
- ▼デリケートなテーマにつき
- ▼聖書の基準をどのように適応するか
- ▼聖書の「結婚観」について
- ▼旧約聖書の「離婚」の基準
- ▼イエスが示した「離婚」の新基準
- ▼パウロが示した「離婚・再婚」の基準
- ▼再婚できるもうひとつのケース
- ▼聖書で「再婚」した例
- ▼当然ありうる反論
- ▼結局は、神に従って生きるのが基本
▼デリケートなテーマにつき
「クリスチャンは、離婚や再婚についてどう考えているの?」ある友人からそう聞かれた。私は答えにつまった。自分の中で、ある程度の考えはあった。しかし、正直いって真剣に考えてこなかったテーマでもあった。離婚や再婚は、もはや現代社会においては珍しくない。それゆえ、実際に離婚した人、再婚した人、ご両親が再婚した人など、当事者の方が大勢いる。それはクリスチャンであってもそう変わりない。
このような内容の記事を書くのを、私はためらっていた。当事者の方たちの人間関係やアイデンティティに関わる話であるし、何といっても私は結婚経験のない独身者だからである。私に離婚や再婚について書く権利はない。そう思っていた(筆者は2020年に結婚した)。
けれど、友人からそのように聞かれ、少なからずこのテーマについて悩んでいる人がいると気がついた。そして、結婚、離婚、再婚は、人間の人生において非常に重要なテーマであると再認識した。その結果、ある程度このブログでもまとめておく必要があるだろうとの結論に至った。このような経過から、今一度聖書を調べ直し、私なりの考えをまとめてみた。読者の方々は、これはあくまでも、私の個人的意見であるという点をご理解いただいた上で、参考程度に読み進めていただければ幸いである。また、この記事で扱うのは「クリスチャンの離婚・再婚」であることを念頭に置いてほしい。
▼聖書の基準をどのように適応するか
聖書は、現代に生きる私たちにとって、どのようなものなのか。ある人は、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉だ」と言い、ある人は、「聖書はそのまま現代に適応できない」と言う。ある人は「聖書は人生のマニュアルだ」と言い、ある人は「聖書は人生の指南書ではない」と言う。
私は、どちらかと言えば、「聖書は神の言葉」として捉える立場だ。当然、聖書の言葉は、生き方の基準になると、私は考える。だから、こんなブログを書いている。しかし、時代背景、言語や文化の違いを、よく踏まえた上で聖書を読む必要があると思う。特に、聖書は、一義的には昔のユダヤ人に対して語り継がれ、後に文字で記された書物であるという点を忘れてはならない。外国人である現代の私たちは、よくよくその点を理解し、聖書の文章を解釈する必要がある。当然、翻訳によって起こりうる弊害も考慮すべきだろう。
そう考えれば、旧約聖書にある「律法」の規定のほとんどは、私たち外国人を直接的に縛るものではない。それは自明の理だろう。新約聖書はどうか。新約聖書には、イエスが示した基準、「使徒」たちが示した基準、現代の私たちにも当てはまる部分、当時の文化背景のみに適用すべき部分などが混在していて、どこで「ライン」を引くかは議論がある。もしかすると、聖書をソックリそのまま、「現代の人生マニュアル」のように読む読み方は、危険かもしれない。
しかし、旧約・新約に関わらず、聖書の記述を通して、私たちが「いかに生きるか」をうかがい知ることはできる。聖書には、神がデザインした「生き方のヒント」がある。聖書は、私たちの心の動機を明らかにする。聖書は、人の過ちを浮き彫りにする。
聖書がどんなものか、聖書自体が宣言している。
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(テモテへの手紙第二 3:16~17 聖書協会共同訳)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
(ヘブル人への手紙 4:12)
私の意見では、聖書はマニュアルではないが、「生きる基準」にはなりうる。では、今回のテーマ、「離婚・再婚」について、聖書は何と言っているのか、私なりにまとめたい。
▼聖書の「結婚観」について
「離婚・再婚」を語る前に、まず聖書の「結婚観」を語らないといけない。「結婚」は、旧約・新約にまたがる、聖書の一大テーマだ。その中でも、一番重要なのは、以下の言葉だろう。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
(創世記2:24)
これは、神がアダムとエバの2人を創造したときの記述である。男は、女と結ばれ、その2人は「一体」となる。2つの別々の存在が、「結婚」という概念によって、「ひとつの存在」となるのである。これは、聖書の後々のメッセージの伏線でもある。
<2つのものが1つとなる例>
・ユダヤ人 と 外国人(異邦人)が ひとつになる。(ローマ11章、エペソ2章)
・キリスト と 信者の集まり(教会)が ひとつになる。(エペソ5章・黙示録21章)
・聖書の神 と 人間が ひとつになる。(コリント人への手紙第一6章)
新約聖書のエペソ人への手紙は、特にこの「結婚」の概念について解説している部分である。エペソ人への手紙の筆者であるパウロは、上に挙げた創世記の一部を引用し、結婚の概念について説明している。
私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。
(エペソ人への手紙 5:30~33)
また、「結婚」は聖書の最初の書物「創世記」で登場し、最後の書物「黙示録」でも描かれる。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(中略)また、最後の7つの災害で満ちた、あの7つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降ってくるのを見せた。
(ヨハネの黙示録21:2~10)
ここでは、キリストを「花婿」として、キリストを信じる者たち(≒新しいエルサレム)を「花嫁」として描いている。イエスは、福音書の中で何度も自分を「花婿」に例えて話していた(例:マタイ9章、25章など)。黙示録で描かれる「花婿」はキリストを指し、「花嫁」はイエスに信頼する者たちを指す。聖書の最初と最後に「結婚」が描かれているのである。
まとめると「結婚」は、聖書が描く最も大切なもののひとつである。結婚は、「2つのものが、ひとつとなる」という概念であり、聖書の最初から最後まで示されている基準である。聖書の基準から言えば、「結婚」は、「両性による不可逆的な契約」である。
異論はあるだろう。しかし、この部分は譲れない。創世記は、ハッキリと「男と女」の関係として「結婚」を表している。また、先に挙げ「違う性質の2つのものが、ひとつになる」という「結婚」の特性を鑑みれば、やはり「両性による」と考えた方が、私はしっくりくる。それが「神のデザイン」だと思う。「不可逆的な」と「契約」の部分は、次の議論と重なってくるので後で議論する。
ひとまず結婚は定義できた。さて、今回のメインテーマである、「離婚・再婚」について見ていこう。
▼旧約聖書の「離婚」の基準
聖書は「離婚」について何と言っているのか。旧約聖書の「モーセの律法」にその記述がある。
人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出ていって、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻として、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。
(申命記 24:1~4)
これは、直接的に離婚を許可した規定ではない。しかし、離婚が前提となっている規定である。
旧約聖書の価値観では、この箇所を根拠に「離婚」は許容されていた。しかし、男性のみに許された限定的な権利であった。それは、当時の価値観で、女性は男性の所有物のように見なされていたからだと考えられる。例えば、聖書で人口を数える時、特に断りのない場合は、基本的に男性の人数のみの記述になる。現代人が聞くと「なんて不条理な」と思うかもしれないが、それが当時の価値観だったのだ。
離婚は、基本的には限定的な規定であった。上記の聖書の言葉のように、離婚できたとしても、一定の成約があったと考えられる。離婚した相手が別の人と再婚した場合には、同じ相手との再婚は禁じられていた。旧約聖書の世界で「離婚」は許容されていたが、元々は、例外的な規定だったと考えた方が良い。
しかし、それが次第に、「男性の権利」と捉えられ、簡単に離婚できるようになってしまったのだろう。新約聖書の人々の反応を見ると、男性側が妻を気に入らなくなった場合、すぐに離婚してしまうような社会だったのだと想像される(※現代にソックリ)。例えば、子どもができないとか、家事をサボるとか、料理がマズいとか、態度が悪いとか、そんなささいな理由もあったのかもしれない。この状況に対して、イエスは物申すのであった。
▼イエスが示した「離婚」の新基準
さて、そんな社会に対して、イエスは全く違う基準を示した。イエスは、聖書本来の基準を示したのである。聖書の言葉を見てみよう。
また、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
(マタイの福音書 5:31~33)
だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。
(ルカの福音書 16:18)
以上が、イエスが言った言葉である。イエスはハッキリと、「妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」と言っている。「姦淫」とは、ギリシャ語で「モイケイア」。不倫の意味である。このように「離婚」は、神によるデザイン通りの人間の生き方ではないと、イエスはハッキリ示している。
少し長いが、他のイエスの言葉も見てみよう。
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、初めの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受けいられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」
(マタイの福音書 19:3~12)
すると、パリサイ人たちがやって来てイエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです」
(マルコの福音書 10:2~12)
いかがだろうか。イエスが引用したのは、先に挙げた「創世記」や「申命記」の旧約聖書の基準である。イエスは、旧約聖書を用いて、「離婚は姦淫である」という明確な基準を示した。「淫らな行い以外の理由で」とあり、不倫が理由なら離婚できるようにも読めるが、これについては諸説あるので後述する。
ポイントは「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という部分である。イエスの言ったことをベースに、コンセプトをまとめてみよう。
・神は人を男と女とに造った。
・男と女は結婚によって、一体となる。
・結婚した瞬間に、2人がひとつの存在となる。
・肉体の接触においてひとつとなる(性交・婚姻関係・肉体的な段階)
・そして、霊的な概念においてもひとつとなる(霊的な段階)
・結婚は、「神が結び合わせるもの」である。
・神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。
・霊的段階において、人は、神が結び合わせたものを引き離せない。
・妻を離縁することは姦淫(≒不倫)である。
・別の女と結婚することは姦淫(≒不倫)である。
イエスの示した基準に対して、弟子たちは「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と反応した。これは驚くべき反応である。この部分は、当時「離婚」が男性だけの権利だった社会状況を如実に示している。当時の男性にとって、女性は「パートナー」というより「財産」に近かったのだ。子どもを産み、子孫繁栄するというのが、もっぱら当時の女性の役割だった。
イエスの言葉は、そんな当時の社会常識に対して一石を投じたもので、離婚を禁じたものではないという解釈もある。一定程度、その解釈も理解はできる。確かに、私もイエスの力点は「離婚を禁じる」方ではなく、「簡単に離婚するなよ」という方に置かれていると思う。
しかし、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という言葉が、私にはどうも引っかかる。この言葉は、「神が結び合わせた2人を、人間によって引き離すことは、”本質的にはできない”」とも理解できる。詳しくは後述する。
私個人は、「結婚は、霊的にひとつとなる契約である」と考える。神の前に、霊的にひとつとなった2人は、もはや人によっては引き離せないと、私は考える。それは、「不可逆的な契約」だからである。
ちなみに「淫らな行い以外の理由」でなら離婚はOKなのか、という疑問が残っている。これについては諸説ある。ある人たちは、この基準をもって、「相手が不倫をした場合は離婚してもOK」と捉える。
しかし、イエスの言った「淫らな行い」のギリシャ語「ポルネイア」は、本来「不倫」を示す言葉ではない点に注目したい。「不倫」を表すギリシャ語は先に挙げたように「モイケイア」である。「ポルネイア」は、むしろ「婚前交渉」などの「正しくない性行為」を指す言葉である。イエスが「ポルネイア」という単語を、ここであえて使っているのには、意味があるのではないか。このことから、ある人たちは、イエスが言ったのは「婚約時代の裏切り行為」を指すのだと解釈する。確かに、聖書協会共同訳の注釈では、「不法な結婚」との記載もある。
私は、どちらかと言えば後者に近い立場である。なぜなら、先に挙げたように人の力で神が引き合わせた2人を引き離すことは、不可能だからだ。たとえ「不倫」という過ちを犯しても、夫婦関係の修復は可能である。霊的概念では、一度結婚という契を結んだ2人は引き裂けない。一度「ひとつ」となった2人を引き裂けるとすれば、それは「死別」のみである。そしてそれは、神ご自身だけの権威である。使徒パウロは、その点を明確に示した。では、見ていこう。
▼パウロが示した「離婚・再婚」の基準
すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。
(コリント人への手紙第一 7:10~16)
パウロの手紙の中には「これは神ではなく、私の勧めだ」と断っている部分もある。しかし、この部分は「命じるのは私ではなく主(神)です」と明言している。ここは、注目すべきポイントだ。だから、この部分を指して「この箇所は、この時代におけるパウロ個人の意見である」という指摘はしにくい。
興味深いのは、パウロがこの箇所で、夫と妻の双方に命じている点である。イエスが新基準を示すまでは、「女性は男性の財産」として扱われた。しかし、イエスはその常識に物申した。パウロは、ユダヤ教の常識ではなく、イエスの言葉をベースに、「男も女も、離婚してはならない」という基準を示したのである。いわゆる「男女平等の権利と義務」を示したのである。
パウロは、この箇所で「再婚」についても基準を示している。パウロの示したオプションは2つである。
<既に離婚している場合の基準>
1:再婚せずに、独身のままでいる。
2:離婚した相手と和解し、その相手と再婚する。
パウロが示した「再婚」の基準はこの2つである。つまり、「再婚」したい場合は、あくまでも、離婚した相手との和解を目指すべきであって、他の相手は想定されていないのである。さもなければ、独身のままでいるべきだと書いてある。
これは、正直いって、とても難しく、厳しい基準である。一度離婚に至った相手との再婚は、並大抵の覚悟ではできない。しかし、そのありえない和解が実現するのが、神の人知を超えた働きである。
もし再婚を考えているクリスチャンの方がいるなら、まずは別れた相手との和解を第一に考えて、祈り、行動するのをオススメする。茨の道だが、その先には大きな神の計画の道があると、私は思う。「人にはできないことも、神ならできる」のである。
また、「信者でない方が離れて行くなら、離れて行かせなさい」というのは、イエスの言葉にはなかった新しい基準だ。信者である人と、信者でない人が結婚している場合、信者である方から離婚は切り出せないが、信者でない側からは離婚ができるとも読める。私はある程度、その考えを支持する。しかし、これは決して「再婚の容認」ではない。パウロが示したのは、あくまでも例外的な規定である。
▼再婚できるもうひとつのケース
再婚についての規定は、明らかである。聖書は、最初に結婚した相手以外との再婚について、基本的にネガティブだ。
すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。
(コリント人への手紙第一 7:10~11)
しかし、例外の規定もある。以下の聖書の言葉を見てみよう。
結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男の物となっても姦淫の女とはなりません。
(ローマ人への手紙 7:2~3)
妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。
(コリント人への手紙第一 7:39~40)
ですから、私が願うのは、若いやもめ(60歳以下)は結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。
(テモテへの手紙第一 5:14)
この部分を読むと分かるのは以下である。
・初婚の相手とは、どちらかが死ぬまで結ばれている。
・どちらかが死んだら、結婚する自由がある。
・ただし、「主にある結婚」(相手が信者と解釈するのが素直であろう)に限る。
・しかし、どちらかが死んだ後でも、結婚せずにそのままでいられるなら、その方が良い。
パウロは、自身の考えを明確に示した。初婚の相手とは、相手が死ぬまで結ばれているのだ。私が、先ほど「霊的にひとつである」「不可逆的な契約」と書いたのは、そのためである。それを解除できるのは、どちらかが死んだときのみ。すなわち、生死を司る天の神だけが、その権限を持っているのである。
パウロは、独身のままでいるよう勧めている。これについては議論があるが、パウロが再婚の規定を話している部分で「私のように独身でいられるなら・・・」という趣旨の話をしているのは興味深い。この再婚規定の部分をもって、パウロは配偶者との死別経験者だという人もいる。既婚者男性だけが「サンヘドリン」(最高法院・地方法院)のメンバーになれたというのが、ひとつの根拠となっている。
パウロは、もしかすると配偶者との死別を経験し、覚悟を持って独身のままでいる生き方を選んだのかもしれない。
▼聖書で「再婚」した例
聖書で「再婚」した人たちを挙げてみよう。全てではないが、主な人物は以下である。
【タマル】
再婚というより、死んだ兄の跡継ぎを産むために、再婚させられた。長兄である配偶者が死んだため、当時の習慣によって、夫の弟オナンと再婚した。しかし、オナンは、いわゆる「外出し」をしたため、神の怒りを買って死んでしまった(※「オナニー」の語源とも言われる)。タマルは、売春婦のフリをして、元夫の父ユダを騙し、肉体関係を持って子どもを産んだ。このときの子どもが、イエスの祖先となる。
【サムソン・サムソンの最初の妻】
結婚式の後に、サムソンの妻は、別の男に妻として与えられた。結局、ペリシテ人によってその女は殺されてしまった。サムソン自身は、その後デリラと結婚するが、彼女はサムソンが命を落とす原因となった。一応、サムソンは、妻の死後に再婚したケース。双方がネガティブな結果を迎えている。
【ルツ】
ナオミの息子に嫁いだが、夫に先立たれてしまった。ナオミの勧めで、ボアズと再婚する。ダビデの祖先となる。夫との死別後に再婚したケース。
【ミカル】
ダビデの妻となったが、サウル王が取り上げて別の男に与えていた。サウルの死後、ダビデはサウルの側近だった将軍アブネルと交渉して、ミカルを妻として取り返した。しかし、ミカルはダビデをバカにしたので、子どもができなかった。政略結婚させられ、破棄され、また戻るという、非常に特殊な再婚のケース。また、王の妻である。
【バテシェバ】
元々、ヘテ人ウリヤの妻だったが、ダビデと不倫をして、妊娠してしまう。夫のウリヤはダビデの策略により戦死。その後、ダビデの妻となる。ソロモンの母。イエスの祖先となる。一応、夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。ちなみにバテシェバは、息子ソロモンに対抗してクーデーターを起こし、失敗したアドニヤの肩を持つなど、人格的にも問題があったと考えられる。
【アビガエル】
ナバルという悪者の妻だった。しかし、ナバルがその悪さのために死んだ後、ダビデの妻となった。夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。こう見ると、ダビデの妻はほとんど再婚である。
【ホセア】
神から、預言者の特別な使命として、預言のために売春婦の女と結婚する。その女が自分を捨てて、去ってしまっても、預言のために神に命じられて、再びその女を愛するようになる。神の使命による超例外的な再婚のケース。
以上、聖書に記述のある代表的な再婚のケースを挙げた。いずれも、例外的なケースである。しかも、預言者や士師(民族のリーダー)、国家の王、王の妻といった特殊な立場の人間ばかりであった。それでもなお、ほとんどのケースは、「配偶者の死後」というのがひとつの基準となっている。
長くなったが、以上のイエス・パウロの示した基準から、私は、以下の2つのケース以外の離婚・再婚は、決して望ましくないと思う。
<離婚が考えられる2つのケース>
1:配偶者が信者ではなく、かつ信者でない方が離婚を望む場合。
2:配偶者が不倫した場合。ただし関係修復に努力するようオススメする。
<再婚が考えられる2つのケース>
1:配偶者と死別した場合。
2:配偶者と離婚し、後にその相手と和解して再婚する場合。
結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。それは神の計画である。私はそれを信じる。それが神のデザインだと思う。
それゆえ、クリスチャンの離婚はありえないと考える。ありえないというのは、離婚してしまったらダメという意味ではない。実務的に離婚はできても、霊的には切り離すことはできないのではないか、という意味である。
信者でない人との結婚は、新約聖書では基本的に想定されていない。信じたときに、配偶者が既にいて、その人が信者でなかった場合のみ、信者でない方が離婚したいと言うなら、例外的に離婚はできる。しかし、それは「例外規定」であるのを忘れてはいけない。それ以外の再婚は好ましくないし、もし再婚しても、昔の「結びつき」が消えることはない。
相手と死別した場合は、自由に再婚できる。しかし、独身のままでいられるなら、もっと良い。これが、聖書の言葉がから読み取れる(と私が思う)基準である。
しかし、既に再婚しておられる方もいるだろう。その場合は、離婚する必要はどこにもないと、私は思う。パウロも「今ある状態に留まれ」と勧めている。今ある「不可逆的な契約」を、ぜひ大切にしてほしい。今目の前にいる人を、どうか幸せにしてほしい。それに、力と思いを注いでほしいと思う。
<私の考えまとめ>
・結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。
・それゆえ、クリスチャンの離婚はありえない。これはイエスが明言している。
・イエスを信じた時点で既に未信者と結婚している状態で、かつ相手から離婚を望む場合に限って離婚できる。
・不倫も離婚の理由になり得るという解釈もあるが、私はその立場ではない。まずは関係修復に努力するようオススメしたい。
・もし離婚してしまって、相手が存命中に再婚したいのであれば、初婚の相手との関係改善、和解につとめ、その人との再婚を目指すことをオススメしたい。大変つらい茨の道だが、その先の喜びは大きいと思う。人には不可能なことも、神ならできる。
・それ以外の再婚は好ましくないし、新たな相手とは霊的に結ばれることはできない。なぜなら、霊的には、既に初婚の相手と結び合わされており、それが解かれるのは死別した場合のみだからである。
・神が結び合わせた結婚を、人が引き離すことは良くないし、そもそもできない。それができるのは、神のみであって、その方法は「死」だけである。
・相手と死別した場合は、自由に再婚することが可能。しかし、独身のままでいられるなら、その方が好ましい。
・既に再婚している人は、ぜひ今の相手を愛してほしい。大切にしてほしい。再び離婚しないように努めてほしい。
・既に肉親が離婚・再婚している方は、「間違いだ」と言うのではなく、家族をぜひ大切にしてほしいと思う。もし、この記事で誰かを傷つけてしまったら申し訳ない。
▼当然ありうる反論
以上、聖書から読み取れる基準を羅列した。しかし、実際問題、この原則を突きつけるだけでは解決しないケースがたくさんある。
現実として、やむを得ない離婚も数多く発生しうる。暴力・DV(ドメスティック・バイオレンス)、度重なる不倫、犯罪、多額の借金、ドラッグ依存、アルコール依存、脳の病気、相手の気が狂う、結婚詐欺、子どもへの暴力やネグレクト、相手がイエスを否定するようになる、相手がクリスチャンだと思っていたら実は違った、相手が勝手に不倫をした挙げく別の人と結婚する、等々・・・。この世の結婚観は既に、めちゃめちゃに崩壊していて、修復不可能だ。人間は罪深いので、そのような間違いは、どんなに気をつけていても、誰にでも起こりうる。
特に、家庭内暴力(DV)やドラッグ依存などは、離婚しないと命が危ないケースもある。特にDVに関しては、結婚前に見抜けない場合も多い。また、結婚後に相手がイエスを信じるのを「やめてしまう」場合、「実はイエスを信じていなかった」という場合も結構ある。これは、クリスチャンにとっては想像を絶するほど辛いことだ。
そういう人たちに対して、あくまでも「原則」を突きつけ、「離婚は罪だ」とは、私はとても言えない。今までの記述を否定するようだが、上記はあくまでも「聖書が示す生き方の基準」である。例外は当然ある、と私は思う。イエスがもし現代社会にいたら、あまりにも簡単に離婚や不倫をする世の中に対して一石を投じるだろう。しかし、それと同時に、離婚して傷ついている人に寄り添い、慰めるというのもまた、イエスの姿ではなかろうか。
教会の共同体・コミュニティにとって大切なのは、現実的にそういう問題が起こったときにどう仲間を勇気づけ、慰め、支えるかだと思う。「聖書の原則はこうだ」と突きつけ、相手を傷つけてしまうのは、同時に「互いに愛し合え」「さばいてはいけない」というイエスの言葉を無下にしてしまうことになる。離婚が「当たり前」になってはいけないと、私は思う。しかし、もし離婚せざるを得ないケースがあったら、その後どうしていくか、皆で支え、サポートし、寄り添うというのが、イエスを信じるコミュニティのあり方ではないだろうか。
▼結局は、神に従って生きるのが基本
以上、私の考えをまとめてきた。私は、クリスチャンの離婚に対してネガティブだ。その理由は、これ以上述べるつもりはないが、ここまで読んでいただけた方には理解してもらえると思う。もし離婚の危機にいるカップルがいらっしゃるなら、まず相手との関係改善のために、何ができるか考えてほしいと思う。
しかし、現実的に離婚は起こりうるし、そうしないと命が危ないケースもある。もし離婚がコミュニティ内で起こった場合は、皆でその人を支え、励まし、慰め、勇気づけ、寄り添うというのが大切である。 「離婚歴」があるからといって、特定の立場になるのを制限したり、特定のコミュニティ内の役割を制限するのは、もってのほかだと思う。
また、既に離婚してしまった方はいるだろうか。私は、大変言いにくいのだが、再婚するなら、元の相手を前提に考え、関係修復に全力を挙げることをオススメしたい。しかし、もし私自身が離婚してしまったと考えると、関係修復に努力したり、そのまま独身で居続ける自信は、正直言って無い。もしあなたが、再婚できないことで傷つきすぎて、イエスに信頼できなくなってしまうのであれば、元も子もない。その場合は「再婚」も一考していいと、私は思う。しかし、それが本来の神のデザインではないと知っておく必要はあると思う。
結局のところ、神に従うというのが一番の基本である。そのためには「心の動機」を調べるのが重要である。自分はなぜ離婚したいのか。なぜ再婚したいのか。今一度、胸に手を当てて考えてみてはどうだろうか。究極的には、神に従う選択が一番なのだ。自信を持って、神に従っていると言えれば、それで良し。もし言えないのであれば、自分の「心の動機」がどこにあるのか、考えてみよう。おのずと、答えは見えてくるのではないだろうか。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
(伝道者の書12:13〜14)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。