週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【まとめ】「週刊イエス」で筆者が伝えたかった5つのこと

週刊イエスも、これが公式には100記事目。何を伝えたかったのか、まとめました。

 

 

▼何を伝えたかったのか

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 基本的に毎週水曜日に記事を更新してきた「週刊イエス」も、これが100記事目である。ひょんな思いつきで始めたブログも、2年以上続いた。今では、毎週50ほどの国と地域から、4500PVほどのアクセスをいただくようになった。記事を読んでいただいている方々には、感謝したいと思う。

 読んでくださっている方々には申し訳ないが、この100記事を節目として、一旦「毎週」の更新に区切りをつけたいと思う。理由は、正直さすがにネタ切れになってきたのに加え、今年1月に結婚し、自分の中での優先順位が変化したからだ。聖書には、こんなユニークな規定がある。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24章5節)


 このように、聖書時代のイスラエルでは、新婚の男性は兵役が免除されたのである。その理由は「妻を喜ばせる」ため。私も、結婚したからには、妻との時間を大切にしたい。フルタイムの仕事もしながら毎週記事を書くのは、結構、時間も体力も知力も投資しなければならない。毎週続けるのは難しいと判断したところである。

 しかし、このブログはほそぼそと続けていきたい。これからは不定期の更新としていく。HUNTER×HUNTERぐらいの更新頻度にしたいと思う。まだ記事にしていない「温めている」インタビュー記事も3つほどある。リクエストはあるが、私なりの結論が出ていないがゆえに書ききれていないテーマ記事もある。それらの記事を、今後も楽しみにしていただけたらと思う。

 

 さて、私はこのブログを通して何を伝えたかったのか。もちろん、様々なテーマはあるが、振り返ってみて、大まかなポイントをまとめてみた。

 

 

▼1:クリスチャンの信仰は、あなたの人生を縛るものではない

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 このブログを始めたのは、「クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に行かなきゃいけないの?」と、友人に聞かれたのがキッカケである。そこで、「クリスチャンになったら『毎週日曜日』に教会に行かなければならないのか?」の記事を皮切りとして、それまで個人的なメモに過ぎなかったブログを2018年3月1日に「週刊化」した。

yeshua.hatenablog.com

 クリスチャンではない友人と信仰について対話していると、どうやら「クリスチャンになると生活が制限される・一定の義務が生じる」という認識が一般的だというのが分かった。そのような「息苦しい」認識は、本来のクリスチャンとしての人生ではない。私が体験してきたようなイエスを信じる人生と、大きくかけ離れている。そう思った。そこで、今一度、聖書をひらき、イエスを信じる人生はどのようなものか考えてみた。

 毎週日曜日に教会に行く。「十分の一献金」をする。アルコールを飲まない。タバコを吸わない。教会で「奉仕」をする。クリスマスを祝う。そんな「クリスチャンのイメージ」は、全く聖書と関係ないと明らかにする。それがこのブログのひとつの目的だった。

 イエスに対する信仰は、日本人の多くがイメージするような、「あれはダメ、これはダメ、これこれをしなければならない」というような、人生を制限するものではない。むしろ、聖書にはこう書いてある。

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ヨハネ福音書 8章32節)

 

 イエスを信じる信仰は、あなたを解放し、自由にするものなのである。

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▼2:信仰だと思っているものは、ただの文化かもしれない

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 2つ目の大きなテーマは、クリスチャンが信仰として当たり前に考えているものが、実はただの「文化」ではないか、という問いかけだ。日曜日の礼拝会。クリスマスにイースター。「教会籍」に「牧師夫人」。大切だと思っているものが、実は聖書の記述とは関係なく、ただの「文化」だという可能性がある。もしかすると、聖書そのものよりも、この「文化」の方が大事になってしまっていないか。そうした問いかけである。

 さらには、教会での奉仕の強制、牧師への過度の依存、とりあえず「神学校」に行き、「とりあえず伝道師」になる・・・。こういった聖書にはない教会の「きまり」を、過度に重要視してはいないだろうか。もはや、イエスを救い主と信じる「キリスト教」ではなく、教会の文化を守るための「教会教」となってはいないだろうか。そういう問いかけである。

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 思えば、たいてい日曜日に行う「礼拝」も、「礼拝」とはいっているが、その儀式は全て文化によってできたものだ。賛美の歌を歌い、聖書を朗読し、牧師の説教を聞いて、賛美をして、献金をして、終わる。この「礼拝」の流れも、全部「文化」なのではないか。

 また、多くの人にとって人生に大きな影響を与える「恋愛・結婚」についてのテーマも、このブログでは大きく扱ってきた。「みこころの相手」や「過度な恋愛禁止」など、まるで聖書を無視したようなキリスト教文化によって苦しめられ、青春を歪められた人も多いのではないだろうか。このブログを読んで、少しでも解放される人がいたらいいなと思う。

 また、我々の知る「キリスト教」は、本来の聖書の文脈の大元である「イスラエルユダヤ」の背景から、大幅に逸れてしまっている。コンスタンティヌスやヘレナを始めとして、歴史上の人物たちは、聖書・信仰を「西洋化」し、政治的に利用してしまった。その結果、大切な伏線であるユダヤ的な背景が、聖書から切り取られてしまった。このブログでは、たびたび聖書の中のユダヤ的な背景に言及し、「キリスト教」という「文化」に警鐘を鳴らしてきたつもりである。読者の皆様に少しでも参考になれば幸いだ。

(参考記事)

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▼3:何に希望をおいているのか

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 クリスチャンは何に希望をおいているのか。無論、イエスにである。クリスチャンの基本的な信仰はこうだ。唯一の創造主なる神がこの世界を創造した。しかし、人は神と共に歩む生き方ではなく、自分の力で生きる方法を望んだ。それが「罪」であり、その結果、死が世界に入った。神はノアと契約を結び、アブラハムと契約を結び、モーセと契約を結んだ。それは全て、救い主(メシア)であるイエスによる契約の伏線だった。

 神であるイエスは、人間となってこの世に来た。そして、神と共に生きるよう、人生を方向転換を呼びかけた。様々な奇跡を行い、自分が神の子であると示した。そして、この世での最期に十字架で、私たち人間の罪を背負って、死んだ。3日後に、死を打ち破り、よみがえって多くの弟子たちの前に現れた。その後、イエスは天に上った。私たち人間は、このイエスを信じることのみによって、救われ、神と共に生きるようになれるのである。このイエスへの信頼が、クリスチャンの信仰である。自分の力で生きていた絶望から、神の愛が注がれる希望へと変わるのである。

 しかし、これで終わりではない。イエスは、天で私たちのために場所を備え、神が定めたそのときに、またこの地上に帰ってくるのである。そして、新しい天と地が創造され、私たちは一瞬のうちに新しい存在に造り変えられる。そして、いつまでも神と共にいるようになる。これこそが、クリスチャンの希望である。

わたし(イエス)の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14章3節)

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

(テサロニケ人への手紙第一 2章19節)

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

(コリント人への手紙第二 5章1節)

 

 昨今のキリスト教の教会では、この「イエスが再び帰ってくる」という希望を、あまり語っていないのではないか。「信じた人は天国に行く」というシンプルなメッセージに終始するあまり、この希望が、なおざりにされているのではないか。この世でどう生きるかを強調するあまり、天地と、そして私たち自身が全く新しくなるという希望が、置き去りになっているのではないか。信じた者が救われるという真理も、この世でどう生きるかという視点も、大切である。しかし、もっと先の希望も、同じく大切ではないか。

 エスが帰ってくるのを待ち望むことこそが、今の時代のクリスチャンたちに必要な姿勢だと、私は思う。その希望があれば、もはやこの地上の人生で思い悩むことは少なくなる。やれサタンの攻撃だとか、疫病がどうだとか、人生に絶望しなくても良くなる。むしろ、パウロのように早くこの世を去りたいとさえ願う。聖書には、こう書いてあるではないか。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

ヨハネの手紙第一 4章18節)

 

 私は、イエスが帰ってくるのだという希望を、このブログでも強調したかったのだ。

(参考記事)

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▼4:自分で聖書を読んで実践することの大切さ

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 このブログを通して、最も伝えたかったのは、「自分で聖書を読む重要性」である。私は、10歳のときに始めて聖書を手にした。それ以来、何度も何度も聖書を読み返した。分からないこともたくさんあった。しかし、いろんなクリスチャンの友達と議論したり、教えてもらったりして、自分なりの聖書の理解を形作っていった。いつも、神ご自身の力の現れである、「聖霊」に助けを求めつつ、読み込み、日々聖書メッセージを心に蓄えていったのであった。

 聖書は誰かに教えてもらわなければ読めないものではない。それは、宗教改革以前の常識である。現代においては、ほとんどの場合自分の母語で聖書を読むことができる。それは、先人たちの多大なる努力によってのことである。今現在も、聖書を各地の言語に翻訳している人々もいる。また、インターネット上にも様々なツールがある。かつては大学の図書館にしかなかった原語の解説に、今や誰もがアクセスできるようになっているのだ。

 聖書は、神学校に行かなければ読めないものでも、教えられないものでもない。もちろん研究は進める必要はあるし、そういった専門家も必要だ。しかし、一般的にクリスチャンとして生きる上で必要なのは、何よりも聖書そのものを読むことである。

 聖書に出てくる、エチオピアの宦官が「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるのか」(使徒の働き8章31節)と言った話は有名だ。しかし、彼に教えたピリポは、学校に行った「神学博士」だったのだろうか。もちろん、パウロのようにユダヤ聖書学校(イェシバ)に通った可能性はあるが、そうではない可能性もある。アキラとプリスキラがアポロを教えたエピソードに代表されるように、イエス以降の時代の信じた者たちは、互いに教えあっていた使徒の働き18章24~26節)。また、私がこのブログに何度も引用した聖書の言葉には、こうある。

この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17章11節)

 

 大切なのは、神学校に行くことでも、神学書を読み漁ることでも、海外の牧師のメッセージを外国語で頑張って聞くことでもない。自分で、日々、聖書を読み、それを実践していくことこそが大切である。誰もが聖書を読み、誰もが教えることができる。誰もが聖書の言葉で励ますことができる。1人ひとりが、積極的に聖書を読み、自分で考え、行動するよう、励ます。これがこのブログの最大の目的である。

(関連記事)

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▼5:イエスに信頼する人生はめっちゃ楽しい!

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 最後に申し上げたいのは、「エスに信頼する人生は、とてつもなく楽しい」という真実である。これは、心を込めて断言できる。私は、16歳でイエスを信じたが、それまでの人生と、それからの人生は、まるで人間が変わってしまったかのようであった。それまでの、人の目を気にしていた抑圧された人生から解放され、ただイエスの愛を感じ、心満たされる人生に変わった。読者の皆様にも、ぜひこのイエスに信頼する人生の素晴らしさを体験してもらいたいと、切に願っている。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

(ペテロの手紙第一 1章8節)

 

 このブログでは、「就活イエス」というタイトルで、「働くクリスチャン」たちへのインタビュー記事を掲載してきた。十人十色の人生だが、それぞれがイエスとの出会いに人生を変えられ、新しい歩みを始めている。彼らの人生が、読者の皆様の励まし、参考になれば幸いである。このインタビュー記事は、まだいくつかインタビューは行ったものの、記事にできていないものもあるので、今後、適宜、記事を更新していくつもりだ。

<就活イエス記事一覧>

yeshua.hatenablog.com

 

 以上、節目の100記事目に、このブログを通して皆様にお伝えしたいことをまとめた。ここで一旦、毎週の更新は終わりにしたいと思う。少しずつ記事を更新するので、また覗きに来てくだされば幸いである。

あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。

ヨハネの手紙第二 1章12節 新改訳聖書3版)

 

 

2年間、このブログをお読みくださり、本当にありがとうございました。

 

(了)

【提起】コロナウイルス騒動にクリスチャンとして思うこと

ネムーンから帰ってきたら、日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていました。クリスチャン、そして記者として一連の騒動に対して思うことをまとめました。

 

 

コロナウイルスで大騒ぎ

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 ハネムーン先のタイから帰ってきた。日本中がコロナウイルスで大騒ぎになっていた。驚いた。メディアがその騒ぎの一旦を担っている感は否めないので、記者である私が言うのは恐縮なのだが、正直、「そこまで騒ぐ必要ある?」と感じた。今でもそう思っている。特に、トイレットペーパーやテッシュなどが店から消えている状態を見ると、人間のあまりの愚かさに残念な気持ちでいっぱいになる。同時に、「人の恐れ」のパワーの凄まじさを感じる。

 なぜ疫病は起こるのだろうか。神がいるのであれば、なぜ人は病気で苦しまなければいけないのだろうか。今回は、疫病が起こる意味について簡単にまとめる。そして、「人の恐れが一番怖い」という持論をまとめる。そして、何を一番に恐れるべきか、クリスチャンはこの状況下でどう対処していけばいいのか、私の考えをまとめる。

 

▼疫病はなぜ起こるのか

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 そもそも、疫病はなぜ起こるのだろうか。日本人と議論すると、決まって「神がいるのであれば、なぜ病気はなくならないのか」という指摘がある。神がいるのならば、なぜ苦しむ必要があるのか。この指摘に対しては、まずは聖書の大前提を語る必要がある。まずは、疫病について聖書が語る7つのポイントをまとめる。

<“疫病“について聖書が語る7つのポイント>

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 

1:創造のはじめは、疫病はなかったと考えられる(「死」は存在しなかった)

 聖書の基本的な価値観は、「神がこの世界、人間を創造した」「それらは全て良かった」というものである(創世記1章参照)。そして「<死>はなかった」のである。なぜなら、「人の罪によって死が入った」という記述があるからだ(創世記1~3章、ローマ人への手紙5章12節)。

 

2:人間の「罪」により、世界に「死」が入った。すなわち「疫病」もそのときに存在するようになった

 つまり、創造のはじめには、疫病は存在しなかったのではないかと考えられる。しかし、人は神の掟を守らず、神と断絶し、罪と死がこの世界に入ってしまったのだ。その結果、病がこの世界に入ってしまったのである。

 

3:神は、ときにこの「疫病」を用いて、人を罰する

 神は、この「疫病」を用いて、人を罰する。例えば、エジプトから脱出したイスラエルの民が貪欲になり、神に不平不満を言った結果、疫病が起こったという記述がある(民数記11章33節)。ダビデ王の時代にも、ダビデが神の計画から逸れて、(おそらく徴兵制導入のため)人口調査をした結果、激しい疫病が起こり、7万人が倒れた(サムエル記第二24章)。疫病による「神罰」の記述は、実に多い。

 

4:神は、ときに神に従う民を救うために「疫病」を用いる

 一方で、神はご自分の計画を遂行するために「疫病」を用いる場合もある。例えば、イスラエルの民がエジプトから脱出する際に「10の災い(奇跡)」があったが、その中には、家畜が死ぬ疫病や、「腫れ物」ができる病もあった(出エジプト記9章、申命記7章15節)。

 また、「神の箱」を持ち去ったペリシテ人や、ベテ・シェメシュという町では、疫病によって「死の恐慌」があったという記述がある(サムエル記第一5章~6章)。他にも、アッシリアの軍勢がエルサレムを攻撃しようとした際も、一晩で18万5000人の兵士が倒れたという記述がある(列王記第二19章35節)。これは、疫病によるものか明記されていないが、その可能性がある。このように、神が計画を遂行するため、ある意味「ポジティブ」な意味で「疫病」を用いる場合もある。

「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである

出エジプト記 15章26節)

 

5:この地上では、神を信じる者も疫病で苦しむ場合がある

 日本人の中には、「神を信じれば病気にならない」と考える人もいる。しかし、聖書は必ずしもそうは書いていない。この点な有名な人物は、ヨブである。ヨブは、神を信じる誠実な男だった。その真実さは、毎日「もしかしたら罪を犯したかもしれない」と思い、自分の子どもの分まで「いけにえ」を献げていた程であった。しかし、ヨブは死ぬほどの病にかかる(おまけに子どもも全財産も失う)。その理由を、聖書は書いていない。

 新約聖書にも、信者の中で「死ぬほどの病気にかかった」者もいる(ピリピ人への手紙2章27節)。しかし、「なぜ」その病が発生するのか、明確な理由は書いていない。確かなのは、このように神に信頼する者も、何らかの理由で病にかかるという事実だ。そして、ヨブもそれらの信者たちも、病気になっても神への信頼を捨てなかったのである。

 逆にアサ王は病気になったときに神ではなく医者(※当時の医者は現代における霊媒師・まじない師のようなものだと想定される)を求めた。アサ王はその治世の前半では神に従ったが、晩年はこのように神に従いきれなかった。その点では叱責されている(歴代誌第二16章12節)。(これは、現代において医者にかかってはいけないという意味ではない)

 

6:神には病を癒やす力があり、またその力を人に与えるときもある

 信じる者には、聖霊によって「癒やしのちから」が与えられる。

 イエス自身が、様々な病気の人を癒やした。熱病を癒やし、歩けない人の足を治し、ツァラアト(※社会的に差別された重い皮膚病)の人に触れて癒やした。ついには、死人のラザロさえ蘇らせたのであった。

 また、イエスはこの天に上る直前にこう言っている。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。

(マルコの福音書 16章15~18節)

 イエス自身が癒やしを行い、また弟子たちにこう命じているからには、癒やすちからは存在する

 他にも、病への勝利を宣言した部分は聖書にたくさんある。例えば、ダビデは何度も、「(主に信頼する者に)病は近づかない」などと歌っている(詩篇91編3~10節、詩篇103編3節など)。新約聖書には、「病気の人は手を置いて祈ってもらえ」とも書いてある(ヤコブの手紙5章14~15節)。神のちからによる癒やしは、確かに存在するのである。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ヤコブの手紙5章14~15節)

 

7:新しい天と地には「死」がなくなる

 世の終わりが来たら、どうなるのか。聖書にはこう書いてある。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。(中略)神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

(黙示録 20章14~21章4節)

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。

ヨハネの黙示録 22章1~3節)

 もはや「死」がなくなる。そして、いのちの木の葉が、諸国の民を癒やすとも書いてある。病や死がなくなり、もはや嘆きも叫び声もなくなる。「疫病」からの完全な脱却、勝利は確かに存在する。これが、クリスチャンが持つ希望である。

 

 さて、「疫病」についての聖書の価値観を、ある程度簡単にまとめた。この上で、一連のコロナウイルス騒ぎに対する、私の個人的な見解を述べたい。

 

 

▼広がっているのは人の恐れである

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 一連の騒動を見て、私の個人的な見解を述べたい。本当に怖いのは、感染症そのものではなく、それに動揺する「人の恐れ」ではないか。

 巷では、不安からか、オイルショック時を彷彿とさせる、トイレットペーパーやティッシュペーパーの買い占めが起きている(歴史から何も学んでいない!)。咳をする乗客をめぐって、列車の中で諍いが起きている。政府が呼びかけているのは大規模なイベントの規模縮小や中止なのにも関わらず、少人数での集まりも続々と自粛が相次いでいる。首相の一声で、全国の学校が一斉に休校になる。東日本大震災の追悼式さえも中止になる。地下鉄はガラガラ。教会関係の集まりも続々と中止になっている。飲み会も中止になり、さらには、なぜかコロナビールまで売れなくなっているという。一体、なぜなのか。

 この騒ぎを通して私は、「人の不安は一気に広がる」と学んだ。もはやコロナウイルスが伝染しているのではない。人から人へ恐怖が伝染しているのである。これこそ注目すべき点ではないか。

 大学時代に、「戦争の原因は人の恐れである」と学んだ。しかも、それは「実態のない恐れ」なのである。この「恐れ」に「リーダーの判断ミス」が加わると、途端に間違った方向に行く。その行き着く果てが「戦争」である。そう学んだ。本当に恐れるべきは「人の恐れ」なのである。この恐れが、争いを生み、分断を生み、軋轢を生んでいるのだ。

 別にこのコロナウイルス感染症の騒ぎが戦争を生むと言っているわけではない。しかし、実態のない「人々の恐れ」ほど怖いものはないと言いたいのだ。連日テレビで「どこどこで新たな感染者」という報道がある。しかし、東京都の交番では毎日「今日の交通事故の死者」が掲示されている。それを見て騒ぐ人はいない。それを見て、「車に乗るのはやめよう」という人はいない。

 年間10~12万人が肺炎で亡くなっている。しかし、それを恐れる人はいない。インフルエンザでは年間約1万人が死亡していると推定されている(厚労省HPによる)。しかし、それで集会を自粛する人はいない。交通事故では年間3000人以上が死亡している。しかし、だからといって車に乗らない人は少ない。それなのに、なぜかコロナウイルスだけが騒がれている。おかしいのではないか。

 イエスが、「いのち」について何と言っているか見てみよう。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。(中略) ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。(中略)ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章25~34節)

 私たち人間は、自分の命を1日も伸ばすことはできない。自分の命はコントロールできないのである。生きるときは生き、死ぬときは死ぬのだ。だから、心配しないで神に感謝して、お互いに助け合って生きようではないか。それがイエスの教えではなかったか。

 

 確かにコロナウイルスは、「新型」であるが故に、まだ確固たる治療法もない。しかし、致死率はそこまでは高くない。罹患してもしっかり対処すれば、回復するようである。パニックになって物資が足りなくなったり、病院が満杯になったり、十分な医療が受けられない場合は、その限りではないかもしれない。だからこそ、その実情を見て、落ち着いた対応をした方がいいのではないか。

 しっかり食べる。しっかり寝る。手洗いうがいをしっかりする。結局のところ、こういった基本的な対策をしっかりやるしかないのだ。心配しても、何もできない。ただ、自分にできる限りのことをしっかりして、安心していればいい。騒げば騒ぐほど、実情とは程遠い「恐怖の虚像」が出来上がってしまう。そして、それがいつしか現実のものになってしまうのだ。

 最後に、イエスが何を恐れるべきだと教えたか見てみよう。

 

 

▼何を一番恐れるべきか

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 イエスは、先の言葉に続いて、次のように述べている。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

(マタイの福音書 10章28節)

 人が本気で恐れるべきは、疫病ではない。また、悪魔でもない。人が本当に恐れるべきなのは、人をさばく権利を持っている神ご自身である。これこそが、本当に恐れるべき対象である。

 クリスチャンである私は、イエスが唯一の救いの道だと信じる。そして、信じない者に対するさばきは容赦のないものだと信じる。そして、神は私の命の権利を持っている。私は本質的にはすでに死んでいる。イエスの犠牲によって「贖われた」、つまり「買い戻された」のだから、その権利はもはや自分にはない。人の命の権利は神が持っているのである。

 であるならば、クリスチャンとしてはこのような疫病の騒ぎを恐れるのではなく、本当に霊までさばくことのできる神を恐れるべきではないだろうか。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

(伝道者の書 12章13節)

 私たちは自分の髪の毛を白くも黒くもできない。しかし、神には何でもできるのだ。

 

 

▼対策はする。でも心は揺らがず。

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 ここまで言っておいて恐縮だが、私は「対策を全くするな」とは思わない。教会の集まりを縮小したり、イベントをキャンセルするのも手だろう。韓国では、キリスト教系の新興宗教(新天地)が集会を続けたせいで、街全体を巻き込む感染拡大につながってしまった。そのような事態を招かないためにも、イベントの自粛はある意味で当然の措置だとは思う。また、これをキッカケに「毎週日曜日に何がなんでも教会に行くべき」という風潮が見直されたらいいとも思う。インターネットを利用した集会の形も、これをキッカケに検討していったらいいとも思う。

 しかし、何度も言っているが、個人的な集まりや、小規模の集まりまで強制的に中止せよという「自粛ムード」には、異議を唱えたいと思う。買い占めなど、無駄な行動が起こらないよう、冷静な対応が求められている。本当に怖いのは、「人の恐れ」なのだから。

 クリスチャンとしては、何があろうとも神に信頼する、揺るがない心が必要ではないだろうか。手洗い、うがい、よく食べて、よく寝る。できる対策はしっかりする。しかし、心は揺らがず、イエスが帰ってくるのを、ただひたすら待ち望む。困っている人がいたら、助け合う。これが、クリスチャンにできる最大の対策ではないだろうかと、私は思う。

 

 

(了)

【おすすめ】結婚式準備で実際に使ったオススメのツール10選!

結婚式編ラストです。私たちが実際に使った「オススメツール10選」をご紹介します!

 

 

▼断っておきますが

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 タイトルでお察しの方もいるかもしれないが、今回の記事はクリスチャンであるかとかないとか、もはやほとんど関係ない! ネタ切れである!! しかし、一部から要請もあったので、書くまでだ(決して浮かれているわけではない。いや、浮かれてはいるのだが)。

 結婚式の準備において、私たちが使ってとても便利だったもの10選+いわゆる「手作り」の結婚式はどのようなものか、ご紹介する。

 

 

▼1:Google Drive

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 まずはこれ。Google Drive。皆さんご存知、ファイルなどを共有できるツールである。私たちは、結婚式の準備にあたって、まず「結婚式準備用のGmailアカウント」を作った。そのアカウントに紐付けをして、ドライブを設定。必要なファイルはすべてそこにアップロードし、どこでもお互いが状況を把握できるようにした。

 共有すべきファイルはたくさんある。ゲストリスト。お手伝い依頼リスト。プログラム表。予算表。パンフレットの原稿データ。席次表のデータ。親族リスト。宣言(誓い)の文言、備品リスト、2人の写真や動画データ・・・等々。2人がどこでも同じファイルを共有するのは準備の上において重要だ。

 私たちは、私がMac、妻がwindows派だったので、必ず「元データ」と「PDFファイル」をアップロードするようにしていた。こうすることで、ファイルの誤変換を防いだ。また、ファイルを更新する際は、必ず新しいファイルを作成し、「日付け・タイトル・1版」のようなネーミングをした。こうすることで、どのファイルが最新のものか確認できる上に、状況が変わって前のファイルの状態に戻りたい時に便利なのだ。間違っても「最新@@@」や「@@@データ最終」などのネーミングをしないように。必ず「新・最新・@@@最終」などとわけのわからない状態になるであろう(笑)。

www.google.com

 

 

▼2:Weddingday

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 私たちはゲストがのべ500人いたため、紙での招待状送付は諦めた。住所の記入だけでも途方も無い作業になると想定したからであった。そこで、様々なWebサービスを検討した結果、「Weddingday」というサービスに決めた。Web招待状を利用してみて、メリット・デメリット両方あると思ったので、まとめてみる。

<Web招待状のメリット>

作成、送付の手間が圧倒的にかからない

出席、欠席の管理が圧倒的に楽

記入してもらった名前、住所、電話番号などが自動でエクセル出力できるため、管理が圧倒的に楽

・写真なども掲載できるため、楽しい雰囲気になる

挙式直前に追加で招待する際に間に合わせることができる

・招待者に一斉メールを遅れるので、事前のリマインド連絡が楽にできる

・手数料がかかるが、事前決済も利用できる。当日ピン札や封筒を用意する手間ば省けてお互いにハッピー。またドタキャン防止にもなる

<Web招待状のデメリット>

・紙での招待状と比べて、やはり少し格式が落ちる

インターネットに慣れていない高齢の方などには、電話や紙での招待状を送るなど、個別の対応が必要

・メールが迷惑メールに入っていたり、SNSのチャットを見ていない人に行き届かない可能性がある

・クレジットの事前決済で、仕えないクレジット会社もある(Weddingdayの場合はJCBのみ利用可)

・事前決済を用いた場合、受付で「事前決済をしたかどうか」確認する必要があり、ひと手間増える(※ゲストリストに事前払いか当日払いか記入する作業や、受付で確認する作業等)

 

 簡単にまとめると以上だが、やはりメリットがデメリットを大きく超えるというのが、使ってみた印象だ。格式にこだわらなければWeb招待状はかなりアリだと思う。なお、「Weddingday」は基本的には無料。クレジットの事前決済に4%の手数料がかかるが、金額が大きい場合は、受付の負担を減らし、リスクヘッジのためにも利用する価値はあると思う。

 なお、他にも「楽々ウェディング」というサービスもあり、利用を検討した。しかし、このサービスはあろうことかLINEやFacebookメッセンジャーで招待を送ると、冒頭に「★楽々ウェディング★」というタイトルがついてしまい、クソダサいのでやめた。開発者は送る人、受け取る人の気持ちまで考えた方がいい。

weddingday.jp

 

 

▼3:ラクスル

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 パンフレットなどの作成に欠かせないのが、「ラクスル」である。CMなどもバンバンやっているのでご存知の方もいると思うが、ハイクオリティな冊子を驚きの価格で印刷してくれるサービスだ。冊子だけでなく、封筒、ポスター、チラシなども作れる。最速で翌日の配送にも対応していて、急いでいる場合にオススメだ。逆に1週間後でよければ、その分単価も安くなる。

 テンプレートがやや複雑で、入稿がうまくいかない場合もあるが、電話のオペレーターがものすごく丁寧に対応してくれるので、心配な人は電話で聞きながら作業をすると良いだろう。私たちの場合は、プロフィールパンフレット、席次表、お車代の封筒を「ラクスル」で準備した。しかも、新規登録特典で、封筒が50枚無料になったり、パンフレットのお試し印刷無料になったりと、サービスも充実している。

raksul.com

 

 

▼4:Googleフォト

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 昨今は、誰もがスマートフォンを持っている。当日、公式カメラマンもいるが、もはや参加者全員がカメラマンになっている時代だ。皆が持っている写真も欲しい。そこで、私たちはGoogleフォト」のリンクをQRコードで作成し、プロフィールパンフレットに載せた。そして、参加者にそのリンクからGoogleフォトに飛んでもらい、そこに撮影した写真をアップロードしてもらう方法をとった。

 意外にも、多くの人が写真を共有してくれた。こうすると、新郎新婦だけでなく、参加者の方も他の人が撮影した写真を見ることができるので、とても便利だった。しかも無料。使わない手はない。

www.google.com

 

 

▼5:Japan Taxi(旧:全国タクシー)

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 日本交通のタクシー配車アプリ「Japan Taxi」もオススメだ。親族やお手伝いメンバーが式場から披露宴会場に移動するため、タクシーを準備する必要があった。様々なタクシー会社に電話をしたが、人数が多かったため「個人のお客様には対応できない」と断られた。しかし、日本交通は違う。「アプリでなら、複数の予約に対応できます」とのことだった。

 7日前から予約できるということで、スマートフォンから予約をした。「Japan Taxi」アプリを使えば、決済も自分のApple IDに紐付けできるので、請求がすべて自分のところに来る。親族やお手伝いのメンバーにお金を渡す手間も省けるので、とても便利だ。

 ただ、私たちの場合は、あまりにも数が多かったため、アプリ予約の上限に達してしまい、結局残りの数台は電話予約することとなった。

japantaxi.jp

 

▼6:アルプスPPS

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 「楽しい披露宴にしたい」という思いがあったので、「インスタグラム的なボード」を用意することにした。正直、友人の結婚式であったのを見ていいなと思ったのでパクった。調べてみると、様々な商品があったが、その中で、価格・中身共に吟味した結果、「アルプスPPS」というところが良さそうだったので注文した。

 注文してすぐゲラがデータで送られてきた。修正も1度までだが無料で応じてくれた。梱包も丁寧で、折れないように厳重にパッキングされて届いた。内容、サービス、価格、スピード、いずれも大満足である。楽しいパーティーにしたい方にオススメだ。教会関係のイベントなどでも、使ってみてはどうだろうか。

alps-pps.co.jp

 

 

▼7:Piary

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 何と言ってもオススメなのが、言わずと知れたこのサイト。「Piary」である。結婚式関連のありとあらゆるグッズを取り揃えているウェブサイトだ。岐阜県にある会社のようで、よくもここまで品揃えがあるなと関心する。引き出物からカタログ、席次表、席札、プチギフトまで基本的に何でも揃っている。

 驚きなのがその価格設定だ。様々なウェブサイトを参考にしたが、結局のところ、商品のクオリティや価格で総合的に圧倒的な優勝だと思う。私たちは、ここで引き出物のグッズや席札を発注した。席札は、エクセルで名前を自動入力できるので、人数が多くても比較的時間を短縮できた。

 ひとつだけ不満があるとすれば、岐阜県の会社だけに、配送が基本的に「福山通運」だという点である。福山通運は、私の地元長野でもよく走っているし、友人が就職したのでなじみがある。しかし、マンパワーでいうと、ヤマトや佐川といった大手にはかなわない。その結果、不在票に記載がある電話番号にかけても、つながらない場合が多い。電話をかけ続けて、何とか受け取れたが、時間を追い込んでいる時は肝を冷やすかもしれない。あと、サイトを利用するとすぐにyoutubeの広告が「プレ花嫁のみなさ~ん! Piary知ってる~?」になるので少しだけannoyingだ。

www.piary.jp

 

▼8:オリジナルプリント.jp

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 オリジナルのグッズを作りたい時には「オリジナルプリント.jp」がオススメ。私たちはここで、「マグカップ」を作成した。ポロシャツやTシャツ、トートバックまで、オリジナルのアイテムを作れる。こちらも比較的安価で作成できるので、結婚式に限らず、イベントやチームのオリジナルTシャツなどを作る際にもオススメだ。

originalprint.jp

 

 

▼9:目録系の二次会景品サイト

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 二次会には景品がつきもの。ということで、オススメしたいのが「目録系の二次会景品サイト」だ。商品の目録だけを当日に手渡し、ゲストが自分の住所を書いてそのハガキを送ると、後日郵送で届くといったシステムだ。商品が多いと、荷物がかさばるし、前日や当日似搬入しなければならない。ゲストが持ち帰るのも一苦労だ。お米5kgとか地味に辛い。しかし、目録を選べば、準備する側も、受け取る側も楽チンである。ウィン・ウィンとはこのこと。

 目録系の二次会景品サイトは様々ある。正直、甲乙つけがたく、どれも同じような内容だ。いくつかリストアップするので、検討中の方はご覧いただいて、気に入った商品があるサイトを選べば良いと思う。

keihin-chaplin.jp

ssl.nijikei.net

www.keihin-park.com

 

 

▼10:ダイソー最強説

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 最後に、飾り付けなどで威力を発揮するのが、ご存知「ダイソー」である。できれば、近隣の「大きな」ダイソーに行って見よう。意外とクオリティの髙い飾り付け用の小物が手に入るはずだ。私たちは、受付のちょっとした飾りや、会場内の写真展示のデコレーションなどのグッズを、ほとんどダイソーで揃えた。別にキャンドゥとか別の100均ショップでもいいのだが、個人的にはダイソーが一番クオリティが高いような気がする。いずれにせよ、「大規模店舗」というのがポイントだと思う。
www.daiso-sangyo.co.jp

 

 

▼「手作り」はどこが違う?

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 最後に、いわゆる「手作り」の結婚式は何が違うのかまとめる。私たちは、様々な理由から「手作り」を選択した。一体何が違うのか、経験をもとに書き出してみた。

<“手作り”の結婚式・披露宴の特徴>

ウエディングプランナーがいない

・それゆえ、プログラムの中身を全て自分たちで組み立てる必要がある

・また、当日のスタッフも基本的にはいない

・司会者や案内係などを自分たちで依頼する必要がある

・機械操作などを依頼する必要がある

引き出物を準備し、自分たちで搬入する必要がある

・パンフレット、席次表、席札などを自分たちで作成し、搬入する必要がある

要するに、「ハコ」だけ確保して、中身は自分たちで準備する必要がある。それが「手作り」結婚式である。

 

 つまり、基本的に中身を全て自分たちが準備するというものだ。メリット・デメリットを簡単に挙げれば以下である。

<“手作り”結婚式のメリット>

・内容を自分たちで柔軟に決められる

・プランナーを挟まないので圧倒的に経済的

・ケーキ、引き出物、招待状などが自前なので経済的

オリジナルの出し物や演出が可能

<“手作り”結婚式のデメリット>

・「型」がないのでプログラム作成が大変

圧倒的に事務的な作業が増える

引き出物などを自分たちで保管・搬入する必要がある

お手伝いを大勢の人に頼まなければならない

・ヌケモレが発生する可能性がある(例:ケーキの発注を忘れていた、等)

 

 ざっくりまとめれば、1:手作りの方が経済的だが、その分作業が大変。2:手作りの方がクリエイティブにできるが、その分作業が大変。という2つのポイントが挙げられるだろう。

 実際にやってみて分かったが、手作りの結婚式・披露宴はとてつもなく大変だ。もし、経済的に余裕があり、クリエイティブな結婚式をそこまで求めていないのであれば、「手作り」にこだわる必要はないだろう。

 ただ、「絶対にこの場所でやりたい!」という希望があれば、そもそも会場にプランナーがいない可能性もある。結局のところ2人で目的や価値観を話し合い、その結果どうするか決めるしかない。式や披露宴をやらないという選択肢も大アリのアリ。大切なのは、2人の話し合いと寄り添いだ。この記事が、少しでも参考になれば幸いである。

 

(了)

【疑問】クリスチャンの結婚式は何が違う?(結婚準備編)

ブログ管理人のコバヤシは最近結婚しました。そこで、結婚準備のために、実際どんなことをしたのかまとめてみました。

 

 

▼クリスチャンにとっての結婚とは?

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 ブログ筆者のコバヤシは、最近結婚した(おめでとう私! 2回目)。クリスチャン同士の結婚と聞くと「チャペルで十字架があって~」とか、「牧師が”チカイマスカ?”って言って~」とか、様々なイメージがあると思う。しかし、その「本質」はなかなか知られていないのではないだろうか。

 クリスチャンの結婚式にはどんな意味が込められているのか。具体的にどんな準備をしたのか。今回は、実際にクリスチャン同士の結婚式のために私たちがした「具体的な準備」などをまとめてみたいと思う。

 クリスチャンの「結婚の価値観」「交際のあり方」については、先週の記事を参照していただきたい。お付き合いそのものが、一番の結婚前の準備なのだ。

 なお、今回の記事は自分たちの体験に基づいた記事のため、聖書の言葉はほとんど引用していない。まぁたまにはこういうのもアリという事で、ご容赦願いたい。

 

 

▼1:結婚の準備とプロポーズ

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 クリスチャンはプロポーズを必ずしなければならないかというと、そうではない。また、いわゆる「婚約期間」が必ずなければいけないという決まりもない。以下、クリスチャンの「交際」から「婚約」まで、私たちが通った道を簡単におさらいする。

 

<婚約時に祈る>

 私の場合は、ベタに「結婚してください」というプロポーズをした。その場で、OKをもらったので、2人でこれから結婚の準備に入るにあたり、神に守りと祝福を祈った。これからの準備がよくできるように、適切にしかるべき人に連絡ができるように、結婚まで純潔が守られるように、結婚してからもお互いを大切にし、神と共に歩めるようにという趣旨の祈りを2人でした。その晩はそりゃまぁ嬉しかった。

 

<両親への報告>

 オススメとして、結婚するにあたって、それぞれの両親と挨拶はきちんとしておいた方が良い。報告は早い方が、その後の関係性の構築に役立つ。

 私の場合は、プロポーズをしたのが私の実家がある長野県だったので、そのまま即日、実家に向かい、私の両親に婚約を報告した。両親は喜んでいた。そのままその場で、北海道に在住の相手側のご両親とZOOMというオンライン会議のアプリで婚約を報告した。図らずしも、ビデオチャットで「両家顔合わせ」を行うという21世紀らしいプロポーズ・婚約の日となったのであった。

 私の個人的経験から言えば、「はじめは顔と顔で」とこだわらず、はやめにビデオチャット等で挨拶するのもひとつの手だと思う。せっっかくツールがあるのだから、それらを駆使して、「家族」としてのコミュニケーションを深めていったらいいのではないかというのが、私の意見だ。大切なのは「コミュニケーション」であって「やり方」ではない。

 

<”婚約式”はマストではない>

 日本の教会の多くは、「婚約式」という儀式をするところも多い。ただ、これは非常に日本的な文化であって、聖書に書いてある儀式ではない。知り合いの宣教師夫婦は「なぜわざわざ『婚約式』をするのか分からない」と言っていた。私の個人的な意見では、「結婚式」や「披露宴」の準備だけでも大変なのに、わざわざ「婚約式」までやらなくても良いと思う。大変じゃん。ただ、結婚式は地元でやるが、今住んでいる場所で友人たちに「お披露目」をしたいなどの理由があれば「婚約式」をやるのも良いアイディアだとは思う。

 ただ、もしイヤなのに「婚約式」を強制してくる牧師とかがいたら、ハッキリ断るようオススメする。礼拝会の最後に「僕たち婚約しました」とでも言ったらよかろう。ちなみに私たちは婚約式はやらなかった。

 

<祈ってくれている人への報告>

 先週の記事でも書いたが、私のオススメは、お付き合いが始まってから、すぐに家族や友人、そして教会の共同体への報告するというものだ。それは、もちろん祈ってもらう為である。祈ってもらっている場合、2人の関係に進展があれば、すぐに報告した方が良いと思う。祈っている側は、2人の関係が守られるように、進展があるように祈っているわけで、その進展があったのに報告をしないのは無責任と言う他ない。必ず、適切に報告するようにしよう。間違ってもfacebookのポストで知った、などないようにしたい。

 また、クリスチャンはクリスチャン同士で結婚したいと願うのが一般的である。日本は、クリスチャンが人口の1%にも満たない「超激戦区」である。同じコミュニティ内で「好きな人がかぶる」のは当たり前。しょうがないじゃん。クリスチャンが少ないんだから! しかも、厄介なことに、多くのクリスチャンがすぐに行動に移さず、「お祈り」をして様子を見る傾向にある。

 こうなると、ある問題が発生する。「知らないうちに2人が付き合っていた」とか、「知らないうちに婚約していた」なんてことがあると、その間にその人のために「祈っていた」人の時間はどうなるのだろうか。クリスチャンは超能力者ではない。誰と誰が付き合っているなど、神様はほとんどの場合、教えてくれない。相手が婚約しているのも知らずに、希望を持ってその人のために祈っているいたいけな少年少女の心はどうしてくれるのだ! きちんと報告しない不誠実さは、周りの人の人生を奪うことでもあるのだ。クリスチャンの方々は、よく肝に銘じてもらいたい。

 私たちの場合は、婚約してすぐに「家族」「メンター」「教会の共同体の仲間たち」「その他のクリスチャンの仲間たち」に報告をした。facebookのステータスも更新した。また、個人的に会った人には、お付き合いや婚約の旨を名言した。そして、結婚までの道のりについても祈ってもらうようにお願いした。

 

▼2:結婚式の目的すり合わせ

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 さて、プロポーズや家族や友人、共同体への報告が終わったら、次は「結婚式の目的のすり合わせ」である。これが意外と重要。目的によって、日にち、ロケーション、呼ぶ人数、内容がまるで変わってくるからだ。そもそも、目的によっては結婚式そのものをやらないという結論に至る場合もある。

 これはクリスチャンでなくとも重要だが、クリスチャンの場合はさらに細かくなってくる。「教会の建物(チャペル)でやりたい」のか「そうではない」かでもかなり変わってくるし、「自分たちが集っている場所で結婚式をしたい」となるのか、「別にどこでも良い」となるのか、目的によって全て変わってくる。

 私の場合は、まずこの「目的」を2人で話し合った。お互いに優先したい目的や要素を書き出し、お互いにすり合わせていった。その結果、2人の間でおおよその結論を得られたので、具体的な準備に入っていた。ちなみに、私たちの目的は以下だった。

A:2人が信じるイエスの名前が宣言される式にする

B:できるだけ多くの友人と一緒に祝う

C:参加者にリラックスして楽しんでもらう

D:2人と、僕らが信じるイエスについて知ってもらう

 

 

▼3:会場と日にちを抑える

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 目的が定まったところで、まずは会場を抑えなければいけない。目的に沿った「ハコ」を抑えるのが重要だ。私たちの目的は、A:イエスの名が宣言される、B:できるだけ大勢、C:イエスを知ってもらう、という部分が大きかったので、以下のような場所を探した。

<結婚式会場の条件>

1:東京都内であること

2:普段から「礼拝会」で使用される「教会」であること

3:できるだけ大勢、具体的には200~300人規模の人が入れるキャパシティがあること

4:駅チカであること(→リラックスにつながる)

5:なるべく安いところ(→目的とは別に単純にカネがないから)

 

 1については、2人が東京在住であり、友人の多くが関東圏に住んでいることから当然の成り行きだった。2は、イエスを知ってもらうためには、まずは会場の雰囲気が重要であると考えたから。3は、次の項目の「呼ぶ人のリスト」とも同時並行で勧めたが、おおよそその程度の人数を呼びたいという話になったために、MAX300人規模の会場を探したから。4については、呼びたいゲストの中に、高齢の方も一定数いたことと、親戚関係が遠方から来るため、駅から近い方が望ましかったからだった。5については若い2人の経済力が理由だった。

 このように、目的が定まっていると、場所も決めやすい。下見を何回もするカップルもいると聞くが、私たちは条件に当てはまる場所が少なかったというのもあり、場所はほぼ即決だった。

 しかし、結婚式会場が教会のため、披露宴は別会場で行う必要があった。このため、披露宴会場も別途探さねばならなかった。これも、目的が固まっていたので、結婚式会場に近く、また条件に当てはまる会場は自然と限られたので、1ヶ所のみ下見をして、その場所に決めた。

 場所が決まれば、次はその会場との日程調整になる。会場が空いていなければ使えないので、自然と会場との相談になる。私たちが準備を始めたのは7月末だった。挙式や披露宴の準備には4~6ヶ月ほどかかるだろうと見越したので、12~2月の間で会場が空いている日程と、家族の日程などを加味した上で日付を1月に設定した。

 日程についてクリスチャン特有の点を挙げるとすれば、日曜日は多くのクリスチャンが「礼拝会」があるため、土曜日に開催する場合が多い。ご多分に漏れず、私たちも土曜日に挙式・披露宴を行った。

 

 ひとつ、「教会側」の対応が民間ではありえないほど粗雑なのが残念かつ厄介な点だ。当初、12月に予約する予定だったが、一旦OKしていた教会側が急にキャンセルしてきた。また、教会側の反応がなかなか鈍く、1週間以上メールの返事がないこともザラだった。そのため、披露宴会場の「保証金」の支払期限に間に合わなかった。クリスチャンの方に伝えておきたいが、「教会」を会場にする場合、かなりの確率で教会側とのやり取りに苦労するだろう。この点については最後の章でまとめる。

 ちなみに、私たちの場合は数百万円単位のお金を保証金として披露宴会場に支払う必要があった。何とか苦労してお金を工面したのだが、実際に下見で顔と顔を合わせて打ち合わせをした結果、なんと保証金なしでOKという話になった。これは、経済的にかなり助かった。読者の方も電話してダメな場合も、実際に打ち合わせをするとOKの場合もあるので参考にしていただきたい。

 ちなみに、私たちは結婚式・披露宴を全て「手作り」で行った。いわゆる「ウェディングプランナー」を挟まずに、プログラムなどを自分たちで決めたというものだった。これについては詳しく別記事を書く。

 なお、私たちの場合は「二次会」も行った。こちらも、人数がかなり大規模だったために、自然と会場は限られてきたので、決めるのは容易だった。二次会会場は、二次会専門のお店で、スタッフの方がかなり手慣れていたので、準備が結婚式や披露宴に比べて準備がかなり楽だった。専門の会場は、やはり慣れているなと感じた。

 

 

▼4:呼ぶ人のリストを作る

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 結婚式・披露宴会場や日程が定まったら、次は「ゲストリストの作成」に入る。

 私たちは、まず思いつく限りの呼びたい人のリストを作った。2人で合計すると500人以上になってしまったので、泣く泣く選定作業に入った。これが一番辛かった。そもそも、呼びたいと思う時点で大切な友人なわけで、呼ばないという選択肢などない。しかし、現実問題、会場のキャパシティの問題があるので、どうしても削らなければならない。何か理由を作って、削って、削って、削る作業に入った。これがある意味一番辛い作業だった。 

 しかし、削るといっても呼びたい大切な友達を、削り切るのは困難だった。そこで、私たち2人が考えた「解決方法」は、二次会を開催し、呼びたい500人を披露宴に300人、二次会に200人といった形で分割するというものだった。これは案外、いいアイディアで、結果としてほぼリストに上げた方は招待できた。

 この際、参考になったのは、義姉のアドバイスだった。「結婚式は、招待した人のおおよそ10%が欠席するのが相場」というのが、彼女の助言だった。その通り、最初に招待状を送った人のうち、約10%の人が何らかの事情で欠席のお返事をいただいた。もし、これから結婚式・披露宴の準備をする方がいらっしゃれば、参考にしていただきたい。

 また、出席という返事が来た人の中でも、おおよそ5%ぐらいは様々な事情(※私たちの場合は、急な葬式、入院、インフルエンザ等)で突然来れなくなった。なので、実際に集まれる人は「最初に招待した人」×「0.90~0.85」(90~85%)ぐらいだろう。ご参考まで。

 ちなみに後述するが、私たちは招待者リストをgoogle driveで管理し、2人の間でリアルタイムに誰が返事をしていて、誰が返事をしていないか、出席は誰か、欠席は誰かなど逐一確認できるようにした。また、招待者が披露宴300人、二次会200人と多かったため、招待状は紙ではなく、オンラインのサービスを使用した。

 

 

▼5:予算、コンテンツのブレーンストーミング

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 目的→会場→日程が決まったら、次は「予算」を作る必要がある。正直、「目的」や「会場決め」の時点で、ざっくりとした予算は計算しておく必要がある。なぜなら、会場代が一番予算に関わってくるからだ。手元に100万円しかないのに、1000万円の会場は予約できない。実は、予算は目的が固まったらある程度は考えておく必要がある。

 さて、会場が決まったら具体的な予算立てに入る。必要なものを、頭からリストアップしていく。このとき、往々にして予定よりお金はかかるものなので、支出を多めに考えて計算するのがオススメだ。私の場合は、最終的に当初の想定より40万円ほど多くの支出があった。予算を早めに立てて、そこから逸脱しないように気をつけながら、計画を立てて、物品を購入したりもしていた。

 

 予算と同時並行で、結婚式や披露宴の「コンテンツ」も考えていく。まず、2人でざっくりと「やりたいこと」をリストアップしていった。「絶対やりたい」「できればやりたい」「やりたいけどそこまででもない」の3つの優先順序に分けて考えた。そのリストと予算をにらめっこして、何が現実的にできるか考えていった。

 この際、僕は苦手なエクセル(正確にはナンバーズ)で予算表を作り、google driveで妻とシェアした。リストなどは全てgoogle driveにまとめ、実務的なものはLINEのノート機能を使ってコミュニケーションをはかっていた。

 ここで、クリスチャンならではの部分として考えるコンテンツがいくつかある。ひとつは、挙式で行う「聖書の話」(説教)だ。牧師に依頼する前に、聖書のどの部分から、おおよそどのような内容を語ってもらうか考える必要がある

 また、一般的な結婚式では「~することを誓いますか?」などという問いかけに対し、「誓います」と言うが、クリスチャンの結婚式では違う場合もある。私たちは、イエスが「誓うな」と言っている事実を重く受け止め、「誓い」は行わず、2人がそれぞれ決意を述べる「宣言」とした(※ただし新郎の私がノリで「誓います」と言ってしまうというハプニングもあった笑)。

 また、私たち2人は、イエスの名前を宣言することを挙式や披露宴の目的のひとつとしていた。そのため、神をたたえる「賛美の歌」も必ずやろうと思っていた。このため、賛美の歌の曲目や、実際に誰に演奏をお願いするかなども考える必要があった。また、披露宴の中で、何か印象に残るようなクリスチャン的なセレモニーをしたいと考えた。そこで、夫婦がお互いに仕え合うという姿勢を示すために「洗足式」という、お互いに足を洗い合う儀式をすると決めた。結果的に「印象的だった」というフィードバックをたくさんもらったので、嬉しい限りである。他にもパンを食べ、ぶどうジュース(ワイン)を飲む聖餐式をやるカップルもいると聞く。

 

 オススメとしては、「お付き合い」が始まった頃から、お互いにできる限り貯金をすることだ。私たちは、これを若干疎かにしてしまったため、多少の口論に発展してしまったこともあった。また、コンテンツもできる限り早めに2人で話し合い、優先順序をつけて固めるのが大事だ。コンテンツが決まらないと、お手伝いの依頼もできないし、物品の用意もできない。内容は早めに決めてしまおう。

 

 

▼6:お手伝いしてくれる人に依頼

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 コンテンツが固まったら、お手伝いしてくれる人に依頼を始める。私たちは「手作り」だったというのもあり、多くの人にお手伝いを依頼した。ざっくりだが以下である。

【お手伝いをお願いした内容】

<結婚式>

・司式、司会

・会場責任者

・アナウンス係

・案内係

・受付

・親族案内、親族部屋準備

・花嫁介添

・カメラマン、ビデオカメラマン

・音響、音響セット係

・賛美チーム(ボーカル、ギタリスト、ピアニスト、パーカッショニスト、ヴァイオリニスト)

・飾り付け準備係

<披露宴>

・司会、全体統括

・会場責任者、総合幹事

・飾り付け係

・新郎新婦介添係

・受付

・親族案内、親族受付

・テーブル、引き出物準備係

・マイクアシスタント

・カメラマン、ビデオカメラマン

・賛美チーム

・音響チーム

・動画作成係

・動画再生係

・片付けチーム

・余興演奏者

 <二次会>

・司会、幹事

・アシスタント幹事

・受付

・ドアオープン係

・音響、映像係

・余興演奏者

・クイズ係

  以上、様々な役割をお願いした。ゲストの数も多かったため、受付の人数も通常2人でやったりするところを、6人でお願いしたりした。今数えると、のべ60名以上にお手伝いいただいた。多くの友人の協力がなければ、できない式、披露宴、そして二次会だった。

 私のオススメとしては、早いうちにお手伝いを依頼しておくことだ。そして、LINEグループを作るなどして、定期的に情報をアップデートしたらよい。依頼された側は、「どういう格好で」「何時にどこに集まり」「何を準備すればよいか」「何を持っていけばよいか」「当日なにをするのか」というのを知りたい。なので、早めにそういった情報をアップデートすれば、依頼された人たちも安心できるだろう。

 

 

▼7:必要な備品を準備する

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 コンテンツが固まり、お手伝いしてくれる人たちへの依頼が一段落したら、必要な備品の準備に入る。これが大変だ。イメージしても、必要なものがどんどん出てくる。以下、私たちが準備したものを挙げてみよう。

<結婚式>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペンなど

・プロフィールパンフレット

・お祝いを入れる紙袋

・ウェルカムボード(似顔絵)

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・音響機材(マイク、マイクスタンド、スピーカー、譜面台等)

・親族控え室のお茶など

ダンボール、養生テープなど

・中央にしくための白い布

・フラワーガールのお花とカゴ

リングピロー

・ブーケ

・ブーケスタンド

<披露宴>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペンなど

・会費のお釣り(大量!)

・プロフィールパンフレット余り

・席次表

・お祝い、会費を入れる紙袋やミニ金庫

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・音響機材(マイク、マイクスタンド、スピーカー、譜面台等)

・引き出物(これが大量にあった!!!)

・引き出物の紙袋

・インスタグラム的なボードとプロップ

・展示の飾りや写真

ダンボール、養生テープなど

・映像を流すためのパソコン

・BGMを流すためのiPad

HDMIケーブル

・ウェディングケーキ

・メインテーブルのお花

<二次会>

・受付の飾り

・受付で使う名簿やペン

・会費のお釣り(大量!)

・お祝い、会費を入れる紙袋やミニ金庫

・ウェルカムボードを立てるイーゼル

・BGMのCD

・プチギフト(大量!)

・余興の景品目録(便利!)

・展示の飾りや写真

ダンボール、養生テープなど

・映像を流すためのパソコン

・BGMを流すためのiPad

HDMIケーブル

  ざっとだが以上だ。いくつか、物品を揃える上で大切なポイントをまとめる。

 

<必ずリストを作る!>

 備品を揃える上で、やはりリストの作成はマストだ。何が購入済で、何が未購入なのか一覧がないと、混乱してしまう。不必要なものの購入も防げる。いくらかかったか書いておけば、予算管理も簡単だ。私は、購入済みのものはマルをつけ、値段も横に書いて予算管理をした。

 

<引き出物を自分で揃えるのは大変>

 私たちは、ウエディングプランナーを挟まない、いわゆる「手作り」で結婚式や披露宴を準備した。それゆえ、引き出物は自分たちで揃えて、持っていく必要があった。300名分の引き出物は、大きなダンボール箱がざっと10~15箱ぐらいあっただろうか。かなりの量だった。それを前日に搬入し、自分たちで紙袋に入れて、セッティングをした。前日に、多くの友人が搬入やセッティングを手伝ってくれなければ、できなかったであろう。「手作り」を検討している方は、この「引き出物」の作業はとても大変なので、早めの着手をオススメする。

 また、当然だが、物品を会場に運び込めるのは早くても前日ぐらいなので、それまでは自宅に保管しておく必要がある。食品などは、管理できる部屋があるのが大前提だ。私も、しばらくダンボールだらけの部屋で過ごしていたのであった。

 

<パンフレットや席次表の作成はお早めに>

 その他、大変だったのはプロフィールパンフレット席次表の作成だった。

 私たちはパワーポイントなどで、自分たちでデータを作成し、「ラクスル」というサービスを通じてパンフレットや席次表を作った。完成品は、色や文字の配置などが、自分たちのイメージと違う場合があるので、大量に発注する前に、まずは数部試作品を発注するのがオススメだ。

 納期が迫れば迫るほど、金額も上がってくるので、できれば数ヶ月前から準備をしたい。私たちは、挙式が1月だったので、パンフレットは11月中の完成を、席次表は出欠が出揃う12月中の完成を目指して発注した。どれも自分たちで作成したので、かなり大変だった。特に300人分の席次表は骨が折れる作業だった(※ほとんど妻がやってくれたのだが・・・)が、やって良かった作業だったと思う。

 

<音響関係の確認はしっかりと!>

 パーティーで大切なのは、音響関係がスムーズにいくかという点である。クリスチャンの挙式では、音楽の演奏がつきものだ。会場の音響システムがどうなっているか、必要な備品は何か、しっかりと確認しておく必要がある。私の場合は、私が音響の知識がほどんどなかったため、詳しい友人に頼り切りだった。彼には大きな助けをいただいた。感謝しかない。

 映像の音声がきちっと出力できるか。BGMを流す環境は整っているか。プロジェクターのケーブル、電源は確保できているか。マイクの本数は足りているか。ケーブルの端子は適合しているか。MacWindowsの互換性は問題ないか等、細かいがあらかじめしっかり確認しておく必要がある。特に、「動画の音が出ない!」というのはありがちなトラブルなので、しっかり音声の出力方法を会場側と打ち合わせておく必要がある。

 

<物品の引き継ぎはしっかりと>

 挙式会場と披露宴会場が同じ場所であれば、あまり気にしなくても良いかもしれないが、会場が違う場合は「物品の引き継ぎ」に注意が必要だ。誰が責任を持って、物品を次の会場に引き継ぐかを確認しておかないと、物品が放置されたままになってしまう。友人は、あろうことか受付で渡すはずの「お車代」が、挙式会場から披露宴会場に移動する際にどこかに紛失してしまい、とても困ったそうだ。誰が責任を持って物品を移動するのか、明確化しておく必要がある。二次会がある場合も同様に注意が必要だ。

 また、お金の管理方法はしっかり決めておく必要がある。ミニ金庫や紙袋、スーツケースなどを用意し、紛失しないように誰がどういう方法で管理するか決めておこう。

 

 

▼8:最後まで会場、スタッフと調整

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 会場が決まり、ゲストの出欠が出揃いはじめ、お手伝いも依頼し、物品も揃った。だんだんと形になってきた。これからは、会場、スタッフとの細かな調整に入っていく。

 私の何よりのオススメは、「メールではなく、電話でやりとりをする」というものだ。メールだと、返信を待たなければならない。電話であれば、その場で何往復もやり取りができ、確認が一気に進む。メールは、あくまでも何かのファイルを送る時や、電話がどうしてもつながらなかった時の手段としよう。できれば、顔と顔を合わせて会うのがベストだ。

 また、「どうなっているかよく分からない」という点は、早めの確認をオススメする。分からないまま進んでいき、直前になって「やっぱりダメです」となるのが、一番怖い。音響はどうなっているのか。支払いは。事前搬入は可能か。当日の入り時間は。撤収時間は。追加料金はかかるか等、確認は早めにしておこう。

 できれば、下見も早めに行った方が良い。会場スタッフや幹事をお願いする友人らとも、できれば直接会って話し合うのが大切だ。資料も手渡しできるし、一石二鳥である。また、当たり前だが、メールでファイルを送る際は、「PDF」で送るのをオススメする。

 また、状況において、プログラムや席次の微修正が必ず発生する。これは、式の当日まで最後の最後まで調整が続く。一度決めたものにこだわらず、状況に応じて柔軟に対応する必要がある。

 

 

▼9:当日は楽しむ!

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 当日は本人たちが楽しむのが一番! 細かいことにこだわらず、2人がニコニコしていれば、どんなトラブルもへっちゃら・・・のはず! 以上!

 

▼おまけ:こんなところに注意

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 クリスチャンの結婚式・披露宴で「教会」(の建物)を使うというケースはよくあると思う。実は、この「教会」が実に厄介なのである!

 自分が普段から集っている教会のコミュニティであれば、スタッフとも気心が知れているので、ある程度コミュニケーションは取れるだろう。問題は、普段から知らない教会(の建物)を借りる場合である(※以下、いわゆる「教会」を、カギカッコつきで「教会」と表現する。この場合、共同体たる教会ではなく、組織や建物としての「教会」を指す)。

 以下、私が「ありえない!」と思った「教会」の対応を軽くまとめる。いわゆる「式場」ではない「教会」を利用検討されている読者のみなさんは、ご注意願いたい。

 

A:連絡が遅い・連絡が取れない

 基本的に「教会」は、レスポンスが遅い。私が借りた教会は、一度電話をしてつながったのだが、まず「担当者が不在」というお役所的な言いぶりで連絡が取れなかった。後日電話をすると繋がったが、「希望日をメールしてくれ」とのこと。メールをしても、数週間返事がない。そこで、もう一度電話をすると「ああ、そのことですか・・・」といったリアクションをされ、開いた口が塞がらなかった。

 

B:一度OKした日にちをキャンセル

 なんとか連絡を取り、「いつがいいですか?」と聞かれたので、「教会側」の会堂貸し出し可能な日にちを聞いた。いくつか候補をもらったので、その日程の中で家族と調整をした。母の仕事があったのでそれを別日に動かしてもらって、何とか日にちを確保した。その日を希望しますと打ち返した。私たちは、すっかりその日に挙式をするつもりでいた。

 すると、しばらく経った後、「教会側」から、「その日は貸し出しができない」という連絡があった。候補日を出してきたのは、「教会側」であるにも関わらず、一方的なキャンセル。私は、怒りを覚えた。ありえない対応だった。理由を聞いても、「貸し出しはできません」の一点張り。せめて事情を説明して、謝罪するなどしてほしかった。

 仕方がないので、家族には平謝りし、別の日に挙式をすることに決めた。この時点で、組織の対応としてはかなりお粗末なものだなと感じた。

 

C:当日の担当者が高圧的

 当日、会場に集まった。普通、こういう時は施設のスタッフに一言あいさつするのが筋なので、インターホンを押して「おはようございます。今日はよろしくお願いします」とあいさつをした。ここで、普通の人間であれば「おはようございます」なり、「どうぞよろしく」などと返事をするだろう。しかし、この「教会」スタッフは「何か用ですか?」と聞いてきたのだ。「まだ貸し出しの時間になってませんけど」と言うのだ。これには呆れて物も言えなかった。

 結局、そのスタッフは1日高圧的な態度で、あいさつもしない、目も合わせない、1月の寒い中、時間が来るまで扉を開けない等々、、、私としては対応にあたってくれた友人に嫌な思いをさせてしまったのが残念でならなかった。「教会」の人間の対応がこれかと思い、ガッカリした。

 

D:説明にない追加料金を取ってきた

 当日、会計をしようとすると、聞いていたよりも高い金額を請求されていた。内訳を聞いてみると、「教会」の備品を触っていた人がいたから、だという。私は少し呆れてしまった。事前に何の説明もなかったのだ。料金が発生するのであれば、事前の説明が必要ではないのか。ただ、「触ったから課金します」なんて、今どきなんていう悪徳商法だ!

 一応、会計時に「そんな、説明もなしに(数万円単位)追加料金を取るっていうのはいかがなものですか」と言ってはみたものの「いえ、ルールなんで。ちゃんと目視で確認したんで」「あんたたち、さんざん触っていたでしょう! この目で見たんですからね!」と言われて、もはや私はこの「教会」というものに呆れ果て、何も言えなかった。「本気かこいつら・・・」と思いながら、お金を払って出ていったのであった。

 

E:当日の朝にゲストにパンフレットを折らせる

 これは私ではなく、友人の結婚式での体験である。私は受付を依頼されていたので、予定より早い時間に会場に到着した。すると、「教会」のスタッフが大量の紙を抱えて、それを私の目の前の受付台にドンッと置いた。「これ、プログラムなんで、折ってください!」と言って、どこかに行ってしまった。「えっ、これ俺たちが折るの?」と思ったが、仕方がない。紙に手を触れると、ほんのり暖かった。今さっき印刷してきやがったな。受付開始の15分前だった。これが、「教会」の対応である。

 

 

・・・いかがだろうか。およそブライダルの常識からすれば、考えられないことばかりだろう。しかし、これがキリスト教の「教会」の現実である。原因は様々だが、最たるものは人材不足であろう。世間ではありえない対応を、「教会」の内部では許され続け、スタッフがスポイルされているのだと思う。常識が分からない、閉ざされた世界に生き続けると、こうなってしまうのだろうと感じた。

 挙式を受け付ける「教会」の多くは、「イエスの素晴らしさを知ってほしい」という思いでやっているのだという。だったら尚更、しっかりとした対応をしなければいけないのではないか。正直、クリスチャンでなかったら、もう二度と「教会」に来たくないと思うような粗雑な対応だった。こればかりは、褒めるわけにはいかない。同じクリスチャンとして残念でならない。

 もし、キリスト教の「教会」での挙式を検討している方がいらっしゃるのであれば、もしかするとこのような雑な対応をされて、嫌な思いをするかもしれない。残念だが、それが日本の「教会」の現実だ。願わくば、日本の「教会」がもっと心が広くなって、「来てよかったな」「選んでよかったな」と思われるような対応をしてほしいものである。

 

※次回は結婚式編ラスト!” おすすめのアレコレ10選!+「手作り」とは? 乞うご期待!

 

(了)

【疑問】クリスチャンの「男女交際」はどのようなものなのか?

クリスチャンの「男女交際」は、一般的な「お付き合い」と違うのでしょうか? 聖書にはどう書いてあるのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンにとっての結婚とは?

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 ブログ筆者のコバヤシは、最近結婚した(おめでとう私!)。クリスチャン同士の結婚である。大勢の方の協力もあり、式や披露宴は無事、つつがなく行われ、良いスタートの1日となったと思う。

 結婚式の準備をしていると、「クリスチャンの結婚式って何が違うの?」「クリスチャンの“お付き合い”って何か違うの?」といった質問をよく受ける。日本でも結婚式のセレモニーを教会の建物でやる文化は定着しつつある。しかし、クリスチャンの「結婚の意味」「交際のあり方」などについては、あまり知られていない。果たしてクリスチャンの結婚式にはどんな意味が込められているのか、どんな準備をするのか。そんな「クリスチャンの結婚・男女交際」などについて、私の考えをまとめてみたいと思う。

 

 まず、大前提であるクリスチャンの結婚の価値観」を簡単に述べる。それは、以下の聖書の言葉に要約できる。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 2章24節)

 

 創世記は「男と女という2人の存在がひとつになる」という、結婚の価値観の根幹を示している。

 また、イエスは結婚の価値観を問われた際、先の創世記の言葉を引用した上で、このように述べている。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。

(マタイの福音書 19章6節)

 

 私の意見では、結婚は神が定めた創造の奥義の実現である。

 神は、この結婚という関係を「伏線」として、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義を用意している。使徒パウロはその奥義をこのように解説している。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

(エペソ人への手紙 5章31~32節)

 

 そして、使徒パウロは結婚した夫婦の関係について、このように述べている。

 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。 

(コリント人への手紙第一 7章2~4節)

 

 パウロは夫婦の関係をこのように描写した。これは、「セックスレスはいかんよ」という大胆な記述である。聖書にこのような記述があるのは驚きではないだろうか。ただ、この部分は一義的には肉体関係について書いてあるのだが、この勧めの根底には、「ふたりが一体になっているのだから、もはや自分のためだけに生きるのではなく、互いが相手を思いやるべきである」という価値観があるのだと、個人的に感じている。

 

 さて、聖書の結婚についての価値観を簡単にまとめると、以下である。

1:結婚は、神が創造のはじめから用意した奥義である

2:結婚は、(イシュ)と女(イシャー)がひとつになる奥義である

3:結婚は、2人の人間が一体となる奥義である

4:結婚は、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義の伏線である

 

 だから、クリスチャンにとって「結婚」とは特別な意味を持つ。そして、結婚式はそれを公にする特別な機会である。ただ、必ずしも儀式をしなければならないわけではない。神の前に、これから2人は夫婦となるという約束があればいい。実際の結婚関係が、式と前後してはいけないとか、そういった縛りもない。あくまでも、神と2人の間で、そして信者の共同体(教会)の中で「この2人は夫婦となる」という認識を持つのが大事なのだ。

 かなり簡単にだが、ある程度クリスチャンの結婚観をまとめてみた。さて、この価値観に基づき、「クリスチャンの交際」について、私の意見を示したい。クリスチャンの男女交際において、どのようなお付き合いをしたらいいのか、何をしておいたらいいのか、私なりのオススメをラインナップする。

 

 

▼議論の大前提

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 まず、「交際」を論じる前に、大前提となるポイントを4つにまとめた。これらについては、以前書いた以下の記事に詳細があるので、参考にしていただきたい。この記事では結論のみまとめる。

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

A:“男女交際”についての明確な記述は聖書にはない

 基本的に、聖書に「男女交際」についての記述はほとんどない。一部、ヤコブやサムソン、など、恋愛的な記述もなくはないのだが、その是非や、「あり方」などについては一切記述がない。だから、この記事にある「付き合い方」については、正解でも何でもなく、ただの「オススメ」である。その点をまずは強調しておきたい。

 

B:交際の目的は結婚

 クリスチャンの男女交際の目的は、結婚である。クリスチャンでなくとも一般的には「お付き合い」の先には「結婚」という段階があるのは、言うまでもない。結婚という目的に向かって、クリスチャンの恋愛的な交際はスタートする。

 私も、妻との交際をスタートした時、その場で「結婚が目的だ」という点をお互いに確認した。この点をおろそかにしてしまうと、どちらか一方が結婚を目指しているのに、どちらか一方はその気がないとなり、コミットや向き合い方に差が生じてしまう。2人の間で「交際の目的」をまずハッキリさせるのが重要だろう。

 

C:クリスチャン同士の交際が大前提

 クリスチャンにとって、付き合う相手が同じクリスチャンであるというのは大前提である。私は、「様々な意見がある」などという逃げ方はしない。クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との恋愛的な交際は論外である。ありえない。メリット・デメリットの話ではない。「ふたりが一体となる」という奥義を認めるならば、その前提に立たない「一体」は成り立たない。詳しくは、先に挙げた記事を参考にしていただきたい。

 

D:結婚までセックスはしない

 一体となるというのは、当然肉体における一体、つまりセックスも指す。セックスはクリスチャンにとっては、結婚した夫婦の間のみに与えられる、特別な祝福である。こちらも「異論はある」といった逃げ方はしない。私は強く信じ、主張する。結婚関係以外のセックスは神の創造からのデザインではない。

 聖書に根拠はいくつかある。基本的に婚姻関係以外のセックスは失敗として描かれ、ネガティブな結果をもたらしている(例:ロトと娘たちの近親相姦による子供が、イスラエルの敵対する民族の祖先となった。アムノンの近親相姦により兄弟殺しまでに発展した。ルベンが父のそばめと性的関係を持ち、長子の権利を剥奪された等)。ただし、ダビデやソロモンなど「王」の立場であった者は例外として描かれている。また、預言者サムエルの父も2人の妻がいたなど、一部例外もある。しかし、例外であっても妻の間にねたみが起こるなど、基本的にはネガティブな影響が記されている。

 また、新約聖書(新改訳2017)で「淫らな行い」と訳しているギリシャ語は「ポルネイア」という言葉である。これは、「結婚以外の性的関係」「婚約期間の裏切り」「近親相姦」などを指す。一方、いわゆる「不倫」は「モイケイア」という別の言葉を用いている。聖書は「ポルネイア」を明らかに「罪」として書いていることから、結婚以外のセックスは正しくない行為であると、私は思う。

 他にも根拠は様々あるが、詳しくは、上記の「離婚」についての記事を参考にさせていただきたいと思う。

 

 さて、以上の前提をふまえて、私なりの「オススメ」を簡潔に書きたいと思う。

 

 

▼1:カップル2人で祈る、聖書を読む

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 まず、「付き合う」となった時点で、2人で祈ることをオススメする。出会いに感謝し、特別な関係のスタートに感謝し、今後の導きと守りのために祈ってみよう。始めだけでなく、会うたびに、別れるたびに一緒に祈る習慣を持ったらいいと思う。また、会っていない時も、お互いのために祈るというのは、とても大切である。

 そして、何よりオススメしたいのが2人で聖書を読む習慣だ。できれば、同じ部分を毎日読み、その感想をシェアすると良いだろう。私の場合は、妻とお付き合いをする前から、毎日1章、同じ聖書の部分を読み、感想をfacebookメッセンジャーやLINEなどでシェアしていた。その習慣を、結婚した今も1日と欠かさず続けている。

 なぜ、一緒に聖書を読むと良いのか。様々なメリットはあるが、私なりには以下の点を挙げられると思う。

A:神について、より深く一緒に知ることができる

B:お互いに、聖書をどう読み、理解しているか認識を共有できる

C:一緒に時間を過ごしたり、コミュニケーションをとる助けになる

D:毎日、神について知るための時間を確保するよう、お互いに励まし合える

 お互いに忙しくとも、「相手と聖書を読む約束をしている」という認識があれば、自ずと続けられる。読む量や、感想のシェアのやり方は、それぞれのライフスタイルなどによって相談したら良いと思う。

 聖書をどのように読み、理解し、それを分かち合うのかは、人によって違う。その認識を早いうちからお互いに共有しておくのが大切である。

 

 

▼2:2人の境界線(バウンダリー)を決める

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 一般的には、男女交際の延長線上にはセックスがある。私は、クリスチャンではない女性の友人から「結婚するまでセックスしないのであれば、付き合う意味はどこにあるのか?」という質問も受けた。それほど、男女交際とセックスは密接に関わっている。

 クリスチャンの価値観に基づき、結婚前にはセックスをしないと決めるのであれば、「どこまでなら良いのか」という疑問が残る。もちろん、聖書はそんなに事細かく書いていない。結局のところ、「どこまで」かは、カップルが2人で話し合って決める事。これを「境界線」(バウンダリー)と呼んだりする。

 2人で「セックスをしない」という境界線を決めれば、逆に言えば「セックス以外は何でもOK」となる。もう少し「厳しめ」の境界線を決めるカップルもいる。「キスをしない」とか、「ハグをしない」とか、「手も繋がない」とか、様々なラインがある。

 この境界線の話に正解はない。ただ、2人の間に境界線の齟齬があると、トラブルのもとになる。例えば、男性側は「セックス以外は何をしても良い」と思っていたとする。一方で、女性側は「キスは当然NG。手をつないだり、2人きりになるのもNG」と思っているとする。この認識の差があると、例えば男性がキスを迫った時に、女性側は驚き、男性に対して不信感を抱くだろう。一方で、男性側としては、女性があまりにも「身持ちが固い」と感じれば、「なぜ信頼してくれないのか」とフラストレーションが溜まる原因となり得る。もちろん、男性がガードが固めという場合だってある。

 境界線は、「キス」や「ハグ」のような身体的接触以外にも、「パートナー以外の異性と2人きりにならない」のような、人間関係の持ち方も含まれる。カップルによっては、「部屋で2人きりにならない」という境界線を決める場合もある。また、予定を立てる際に事前にどの程度相談するかも大切なポイントだ。

 大切なのは、2人の信頼関係である。どのような「境界線」を決めるのか、2人でしっかりと話し合い、基準を明確にした方がいい。溜め込んで、「実はイヤだった」などと後で爆発しないように、交際の初期段階でしっかりと境界線については決める必要がある。

 私の場合は、交際が始まったその日に、境界線を2人で決めた。まずは「手をつなぐ」も含めて、身体的な接触は完全に「無し」とした。パートナー以外の異性との食事は、事情に応じてOKとしたが、必ず事前に相談するようにした。身体的な接触は、婚約後に段階的に解禁していった。個人的には、全て良いタイミングで決められたと思うが、解禁する範囲が拡大するに伴って、セックスしたいという欲求は飛躍的に高まった。そのため、身体的接触を解禁した場合は、なるべく密室にならないようにするなどの、他の工夫が必要になってくると感じた。

 

 

▼3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう

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 交際がスタートしてから大切なのは、周囲への報告である。

 まずは家族。私は、できるだけ早い方が良いと思う。なぜなら、将来的に「結婚」を見据えるならば、家族との関係はとても大切だからだ。私の場合は、交際が決まったその時点で、すぐに家族にLINEや電話で報告をした。3ヶ月後には、妻(当時の交際相手)を実家に連れて行き、実際に顔と顔を合わせて紹介した。家族がクリスチャンであるならなおさら、その関係性のために祈ることができるので、報告は早い方が良いと思う。ただし、家族の関係性は人によって違うので、それぞれに合ったやり方とタイミングがあるだろう。

 そして、クリスチャン同士の交際ならば、教会の共同体や、信頼できる友人には、速やかに報告するのが良いと思う。なぜならば、共同体として、そのカップルのために祈れるからだ。よく、同じ教会内でお付き合いを始めたカップルに「内緒にしておきましょう」などとアドバイスじみた強制をする牧師たちがいるが、まさに愚の骨頂。そのカップルを悩ませ、罪の深みにいざなっている盲目の指導者である。もしそのような無能な者たちがいたら、言うことなど聞かず、facebookに「交際ステータス」をupしてやろう。

 私が通っていた韓国系の教会の牧師は、「内緒のお付き合い」を美談として語っていた。教会の集まりが終わった後、1人で帰るふりをして、別の出口から出て、町で落ち合っていたという。それを「美談」として自慢げに語っていたが、よくよく考えれば、内緒にする目的は何ひとつない。聖書にそのような記述もない。全く意味不明、ただの嘘つきである。詳しくは語らないが、その夫婦は後に少年の私がガッカリする結果となった。意味のない決まりで信者をしばり、偽りの美談を語り、結果として現実が伴わない姿を見せてガッカリさせるのはやめてもらいたい。

 教会の共同体の存在目的のひとつは、「お互いに励まし合うこと」である。であるならば、せっかく結婚に向けて準備を進めるべく「交際」を始めたカップルのために祈らなくてどうする。共同体にはお付き合いをオープンにし祈ってもらうようにしよう。しかるべき相手と話し合い、先輩カップルにメンターになってくれるよう依頼し、必要ならば結婚カウンセリングを受けるのがオススメだ(これについては後述)。

 私の場合は、交際を始めた次の日に、両親、兄妹、教会の共同体の仲間たち、牧師、親しいクリスチャンの友人に連絡をして、お付き合いを報告した。そして、彼らに自分たちのために祈ってもらうようにお願いした。きちんと報告した結果、多くの方に祝福してもらえた。よい判断だったと思っている。

 

 

▼4:メンターを依頼する、アカウンタビリティを持つ

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 クリスチャンのカップルにとって、「メンター」となる存在は欠かせない。適切な日本語が見つからないが、要するに「カップルの相談に乗り、アドバイスを授けたり、一緒に祈ったりする先輩カップル」を指す。定期的に会って、近況や関係性を報告し、互いのために祈り合い、必要な時は叱責も受ける。それがメンターとの関係だ。

 自分たちはうまくいく、と思っていても大体それはおとぎ話に終わる。自分たちがどのような交際をしているのか、ケアをする人たちが必ず必要である。誰に依頼するかも重要で、できる限り、「既婚の夫婦2人」にメンターになってもらうことをオススメしたい。一般化するのは難しいが、やはり男性は男性、女性は女性と話し合う関係が必要である。2人一緒に話すのも大切だし、夫婦それぞれが同性のメンターと話す必要もあると思う。

 もし、問題があった時は、メンターに包み隠さず共有するのが大切だ。これを「アカウンタビリティ(説明責任)と言う。問題や失敗、不和を隠す癖がつくのは、一番いけない。この人たちになら相談できるという、いわば「逃げ場」を作っておくのがとても大切だ。

 私たちの場合は、お付き合いを始めてしばらく経った後、この「メンター」の存在を痛感した。2人だけでは解決できない問題が多々あったからだった。そこで、尊敬する先輩カップルに「メンター」になってもらうように依頼した。快く引き受けてくださった彼らには感謝しかない。彼らとは、定期的に彼らの家で会い、男女について、交際について、結婚について、夫婦について、家族について、子育てなどについて話し合った。私たちにとって、なくてはならない特別な関係がそこにあった。

 ちなみに、「メンター」は同じ教会の共同体でなくとも構わない。私たちは、あえて違う共同体の夫婦にメンターをお願いした。その方が、私たちの関係を、より客観的に見てもらえると思ったからだった。

 

 

▼5:ビジョンや価値観を話し合う

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 最後に、これはクリスチャンであるかは関係ないかもしれないが、お互いのビジョンや価値観を共有しておくのはとても大切である。以前、「みこころ」の記事や、「コーリング」の記事でも書いたが、クリスチャンは神の計画に従って生きたいと願っている。自分にとっての「神の呼びかけ」が明確であればあるほど、パートナーとのビジョンの一致が重要になってくる。

 例えば、パートナーの片方が、「医療宣教師となってアフリカに行きたい」と思っているとする。一方で、もう一人は「日本の地域教会のスタッフとして働きたい」と思っているとする。その2人は、果たして結婚できるだろうか。一緒に住まなくとも、一緒にいなくとも、心はつながっているなら大丈夫。そう考えるのであれば可能かもしれない。しかし、現実的には難しい決断だとは思う。

 別の例も挙げてみよう。パートナーの片方が、「名前も知られていない部族のところに行って、聖書翻訳をしたい」と思っているとする。もう片方が、「アメリカで、日本人留学生にイエスを伝えたい」と思っているとする。この2人は、果たして結婚が可能だろうか。率直に難しいとは思う。

 私の妻の両親は、パプア・ニューギニアで15年間、宣教師として聖書翻訳に励んだ。義父の熱意で未開の地に飛び込んだ挑戦だったそうだ。義母は本心では海外に行くのは本意ではなかったが、結婚するからには夫の熱意を支えるのが自分の務めだと信じて、ついていったという。このように、夫か妻、どちらかが片方のビジョンを支える決意があれば、違う思いがあっても夫婦として成り立つ可能性はある。

 大切なのは、2人がどのような将来を描いているのか、予め話し合っておくことだ。恋愛感情だけでは、人間関係は安定して続けられない。お互いがどこに向かっているのか、人生の方向性を初期段階で確認するのが大切である。

 

 

 ・・・いかがだろうか。最後にまとめる。

<クリスチャンの交際にあたって筆者がオススメするポイント>

1:カップル2人で祈る、聖書を読む

2:2人の境界線(バウンダリー)を決める

3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう

4:メンター、アカウンタビリティを持つ

5:ビジョンや価値観を話し合う

 

 以上が、私の具体的な「クリスチャンの交際」にあたってのオススメである。書いてみて、「うわ~~こいつ偉そう~~」と自分でも思った。「全部当たり前じゃん・・・」とも思った。とても恥ずかしいし、「この記事必要?」とも思った。しかし、同時にとても大切な内容だとも思ったので、自分の経験を基に書かせていただいた。ブログ開設以来、聖書とはあまり関係ない記事になってしまったが、ご容赦願いたい。

 

(了)

【疑問】神の「コーリング」を受け取る5つのポイント

神の「コーリング」はどうやって受け取り、見分ければよいのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」は誰にでもある

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 神の「コーリン」とは、神が人間に対して「生きる目的」や「役割」、神が定めている「計画」などを知らせる「神のお告げ」のようなものである。クリスチャンたちは、神の「コーリング」に従い、神の計画のとおりに歩み、生きたいと願う。コーリングは、究極的には「神を信じること」によって、「神の子ども」となる呼びかけである。私個人の考えでは、神の「コーリング」は誰にでもあるが、それが「どこで、どのタイミングで、どんな仕事をするか」など、超個別具体的なものとは限らないと思う。そしてそれが、超自然的な形で奇跡のように示されるとも限らないと思う。詳しくは前回の記事を参照していただきたい。

 とあるアメリカの牧師が、こんなことを言っていた。「神のコーリングは、カーナビのようなものだ」と。カーナビは、正しい道を直進している時は、何も語らない。しかし、方向転換する時や、道を間違えてUターンすべき時などにアナウンスが入る。それと同じように、神もまた、人間が神の計画どおりに歩んでいる時は沈黙を保つかもしれないというのだ。なるほど、いつも「神の計画」が具体的に示され続けるとは限らない。むしろ、正しい道を歩んでいる時は、神は沈黙を保つ・・・という説は、一理ある。

 また、ある別のクリスチャンがこう語っているのを聞いたことがある。「神の計画は平均台のようなものではなく、広い道のようなものだ」と。神の計画は、いつ、どこで、何を、どうやってやるかという細かく、超具体的に人間を縛るものではない。または、その道を一歩でも踏み外せば、奈落の底に落ちてしまうようなものではない。むしろ、どこで何をしていようとも、神に信頼し、神に従う心持ちで進めば、おのずと神の計画が達成されるというような、「広い道」である・・・という意見だ。クリスチャンの人生と神の計画の関係は、大仏の手のひらで踊っている孫悟空のようなのかもしれない。

 

 さて、以上をふまえて、私の「コーリング」についての意見をまとめる。

1:コーリングは神が、何らかの形で人間に神の計画を示すものである

2:コーリングは、常に明確で具体的な形で示されるとは限らない

3:コーリングは、いつも示され続けるとは限らない

4:コーリングは、誰にでも超自然的な奇跡を伴って示されるとは限らない

5:しかし、コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性はある

 

 コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性がある。私はそう信じる。では、一体コーリングはどんな形で感じるものなのだろうか。どうやって真偽を見極めたら良いのだろうか。今回は、簡単に5つのポイントに絞って「コーリングの受け取り方」をまとめたいと思う。

 

 

▼何よりも「聖霊の導き」が大切

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 はじめに断っておくが、これから述べる5つのポイントが全てではない。人それぞれの受け取り方があるだろう。また、5つ全てが合致しなければならないというものでもない。1つのポイントだけ強烈に語られる場合もあるだろうし、5つ全てがそれぞれ小さな形で示されるケースもある。大切なのは、それぞれのバランスを見ながら、「心の動機」を見極め、神に祈り、神の計画のとおりに生きたいと願う姿勢である。

 「みこころ」(神の思い)だと思う場合、たいていは「おこころ」(自分の思い)であるケースが多いので、注意が必要だ。特に、人生を左右する大きな決断は慎重にすべきである。今ある想いが、神の計画、いわゆる「みこころ」かどうかを判断する秘訣は、以前、記事を書いたので参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 一番大切なのは、「聖霊の導き」である。聖霊の導きは、これから述べる5つのポイント全てに渡って大切な要素だ。人間としてのイエスは、今は私たち人間と共にはいない。しかし、イエスが「聖霊」を、助け主として私たち人間に与えているのである。イエスはこう言っている。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書 14章26節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章13~15節)

 

 聖霊は、神の力の現れであり、また神ご自身だとクリスチャンは信じる。「聖霊」は信じている者に神について教え、神の計画を知らせ、神と共に歩めるように導いてくださる力である。その神の霊が、イエスの時代以降、クリスチャンに、そしてクリスチャンの集まりである教会の共同体に与えられている。その聖霊が、クリスチャンに神ご自身について教え、導き、また何を言うかさえ伝えるのだと聖書は書いている。

 そのほか、聖霊について聖書が何と書いているか見てみよう。

聖霊は何を話すか教える>

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

(マルコの福音書 13章11節)


聖霊は神を知るための知恵である>

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

(エペソ人への手紙 1章17節)


聖霊は神の深みさえも探り、啓示する>

神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

(コリント人への手紙第一 2章10節)


聖霊は人間に祈りを教え、また人間のために祈る>

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです

(ローマ人への手紙 8章26~27節)

 

 だからこそ、聖霊による導きは、コーリングを受け取る上で、何よりも重要である。聖霊が大前提である。これから述べる5つのポイントは、全て聖霊の導きを求めつつ実行するものだと覚えてもらいたい。神に祈り、聖霊の導きを求めた上で、5つのポイントに入っていきたい。

 

 

▼1:志があるかどうか(心の動機)

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 まずひとつ目のポイントは、「」である。やりたいという意志があるかどうか。それがまず、「これが神の導きかどうか」見極めるポイントである。聖書にはこう書いてある。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

(ピリピ人への手紙 2章13節)

 

 何か行動を起こす時に、「志」がなくては始められない。新しいミニストリーを始めるにしろ、事業を起こすにしろ、牧師としての働きを始めるにしろ、宣教師の団体にアプライするにしろ、転職するにしろ、結婚するにしろ、傘を持っていこうかどうか決めるにしろ、きのこの里かたけのこの里か決めるにしろ、まずは「志があるかどうか」というのが大前提である。

 志、というと自分勝手に聞こえる可能性があるが、もちろんその中には、いわゆる「聖霊の導き」も含まれる。聖霊の導き」を求めて祈りつつ、与えられた志に従って決断していけば、一定の方向性は見えてくるだろう。「志・意志」、つまり、何をしたいか、何に情熱を抱くか、何が得意か、何がやりたいコトなのかを吟味すれば、おのずと「コーリング」が聞こえてくるかもしれない。

 「やりたい」という意志が、教会の共同体の管理者になる大前提の条件でもある。聖書には「監督者」の条件として以下のように書いてある。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである」ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

(テモテへの手紙第一 3章1~7節)

 

 「監督」としての条件が様々書いてあるが、その前に、「監督の職に就きたいと思うなら・・・」との記述がある。これは「やりたい」という「意志」が大前提だという意味ではないかどんなに能力があっても、やりたいという意志がなければ始まらないのだ。

 

 私自身は、この「やりたいこと」に素直になる姿勢も、クリスチャンには必要だと思う。一部のクリスチャンたちは、やりたいことに忠実に突き進むのを「悪いこと」だと決めつけている傾向にあるのではないか。自分のパッションに素直になるのは、そんなに悪いのだろうか。否。その熱い思いは、神が与えた可能性もあるのだ。考えなしに突っ込むのも危険だが、よく吟味し、慎重になり、聖霊の導きを祈った上で湧き上がってくる「志」は、神が与える「コーリング」だと考えていいのではないだろうか。

 

 また、やりたいという「意志」に加え、「情熱」も重要である。志があっても、情熱が伴わなかったり(2つは似ているようで異なる)、好きになれなかったり、楽しめなかったりしたら、もしかすると違う道を模索した方が良いのかもしれない。

 「才能」も同じように重要である。クリスチャン用語では「賜物」と言ったりもする。歌がうまくなければ歌手にはなれない。文才がなければ作家にはなれない。外国語ができなければ通訳にはなれないし、背が高くなければバレーボール選手にはなれない。もちろん例外はあるし、神は不可能を可能にする方である。また、今現在できないことも、練習したり才能を磨けばできるようになるかもしれない。才能だけで見切ってしまうのも良くない。しかし、全く才能がないのに非現実的な夢を抱き続けるのも問題である。

 才能がないのにも関わらず、やり続ける行為は、他の人に迷惑をかける場合もある。例えば、いわゆる「説教」がクソ下手くそなくせに、長々と語る牧師が多すぎる。信者にとっては我慢しなければいけない退屈な時間で、拷問以外の何物でもない。先に挙げた聖書の言葉にも、「教える能力があり」という条件がある。教える能力がない場合は、「説教」は能力のある人に任せ、自分は他の役割を模索したらどうか。「牧者」の役割は、何も「説教」だけではない(むしろ説教ではない・・・)のだから。

 もちろん、モーセやギデオンのように、元々「口下手」だったり「臆病な者」が民を導くリーダーになるケースもある。自分が得意でないこと、情熱を抱いていないことが、神の「コーリング」である可能性もある。だから、「志」だけで決めつけず、様々なポイントで吟味する必要がある。他のポイントを見ていこう。

 

 

▼2:聖書の言葉と合致しているか

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 聖書の言葉、聖書の価値観は、「コーリング」を受け取る際に重要な判断材料となる。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3章15~16節)

 

 聖書は神について、イエスについて教え、戒め、矯正し、義の訓練のために役立つ。聖書を読むと、自分の心に響く言葉に出会う。一度読んで最初は何も感じなかったとしても、時によって人生を変えるような衝撃になる場合もある。

 クリスチャンは、多かれ少なかれ、聖書の言葉に感動し、突き動かされたという経験があるだろう。私は、個人的に聖書を読んで感動し、人生の方向性が変わった体験を何度もしている。イエスを信じたキッカケも、聖書の言葉だった。宣教師団体に就職しようとインターンをした際も、1日に3度聖書の言葉に感銘を受け、人生の計画を白紙に戻した。その結果、今は民間企業で働いている。詳細は後日ブログに書こうとも思う。

 聖書は人生のマニュアル本ではない。占いの答えが書いてある本でもない。一部だけを切り取り、適用するのは危険である。全体の文脈、聖書全体の価値観と合致しているか注意しながら、聖書の言葉を解釈する必要がある。極論だが、旧約聖書で神がイスラエルの民に「敵の民族を滅ぼせ」と命じている部分をとって、「クリスチャン以外を殺そう」という発想になるのは避けなければいけない。バカみたいだが、それと同じレベルの曲解が、個人、または地域教会のレベルで実際に起こっている。

 しかし、聖書の言葉を自分のために「利用」するのではなく、聖書の言葉から神のメッセージを汲み取ろうとする動機で読めば、必ずや良い教訓を得られるだろう。聖書は、イエスの言葉や生き様を綴っている。他の登場人物の模範、反面教師的な教訓、旧約聖書の律法、歴史、詩、預言、使徒たちの生き様や手紙などから様々な学びを得られる。教訓がある。インスピレーションがある。人生を変えるような衝撃がある。

 聖書を読んでいると、同じ場所でも気になる部分が変わってくる。ある時は愛についての記述が目につくようになる。ある時は赦しについての記述が。ある時は恵みが。ある時は悔い改めが。ある時は罪が示され、ある時は勇気が与えられる。ある時は奉仕へと突き動かされ、ある時は静まりへと招き入れられる。人それぞれ、その時々に、異なったメッセージを語る。それが聖書という書物である。

 大切なのは、日々、毎日毎日聖書を読み、神からのメッセージを受け取ろうという姿勢ではないか。日々聖書の言葉を観察し続ければ、何か人生についての発見がある。それが神からの「コーリング」の一部であると思う。

 また、聖書の言葉は自分の思いを「見分ける」ために役立つ。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4章12節)

 

 聖書の言葉そのものが、自分の「心の動機」を見分ける剣となるのだ。

 

 

▼3:周辺の助言を受け入れられるか

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 以前「みこころ」についての記事でも書いたが、自分が果たして神の計画通りに歩んでいるだろうかと判断する際に、「周辺の助言」に耳を傾ける姿勢が大切である。預言者モーセは、外国人であるしゅうとのイテロの助言を素直に受け入れた。一方で、ユダの王であったウジヤは、祭司たちの助言を無視し、資格がないにも関わらず自らいけにえを献げようとして、神の怒りをかった。

 人間が戒めの助言を受けて怒ってしまうのは、たいてい図星だからである。自分でも心のどこかで悪いと分かっているのに、その事実を他人に突きつけられると、プライドが発揮し、怒ってしまうのだ。周辺の助言を素直に受け入れ、吟味できるかどうかで、ある程度自分の「思い」が「コーリング」なのかどうか判断できるだろう。

 「これはコーリングかもしれない」という思いが湧いてきたら、自分の信頼する複数の人にアドバイスを求めるというのが、私の個人的なオススメだ。カギは、1人だけではなく、複数に聞くという点だ。1人だけではなく、複数に意見を求めれば、おのずとバランスのとれたアドバイスが得られるだろう。

 ただ、他人の意見はあくまでも他人の意見である。それによって、必要以上に「やっぱり正しかったんだ!」と歓喜したり、逆に「やっぱり違ったんだ」と落胆してしまうのは良くない。あくまでも、自分にはない視点を求めるためのアドバイスである。他人の言葉の奴隷になる必要はない。一番大切なのは、人の言葉よりも神の言葉なので、周辺に意見を聞いた上で、神に祈り決めるべきである。

 一方で、聖書には間違った人のアドバイスに従った結果失敗してしまったケースも多々書かれている。ソロモンの息子、レハブアムがその最たる例だろう。彼は自分の取り巻きの若者の意見を重んじ、重税に苦しむ民にさらに重税をかけてしまった。長老たちは、税を軽くするよう助言したが、レハブアムは聞く耳を持たなかった。その結果、内乱が起きて、国が2つに分裂してしまうのであった(列王記第一12章など参照)。

 ここから得られる教訓は、愚かなアドバイスに従うと、悪い結果を招くという当たり前の話である。私は、このような間違いが起こる原因・パターンは2つあると思う。

 ひとつは、「間違った心の動機」である。冷静な判断力のもと、純粋にアドバイスを求めているのであれば、重税に重税を重ねる愚かな施策は打たなかったであろう。しかし、自分にとって都合のいいアドバイスを得たがために、「彼らの助言があったから」と自分に言い訳をして、愚かな行動をとったとは考えられないだろうか。

 これは他人事ではない。同じように「あの人だってこう言っていたから」という言い訳を、自分自身にしていないだろうか。人間、ある程度の判断力はあるので、自らの判断で愚かな行動を取ってしまうケースは稀だろう。しかし、誰か他の人が助言したからという「言い訳」を獲得すると、途端に愚かな道に歩みだす。それが人間の弱さである。

 エバの失敗は何だったか。蛇に耳を貸したからではないか。アダムの失敗は何だったか。エバに耳を貸したからではないか。しかし、どちらも「心の動機」では自分がずっとやりたいと思っていた行為だったのではないか。「やりたい、でも悪い行為だと分かっている」というものを、何か自分ではない他の人の発言によって「正当化」していないだろうか。誰か他の人のせいにしても、自分の行動の結果を刈り取るのは、結局自分自身なのだ。

 

 もうひとつは、アドバイスを求める前から結論が決まっているパターンである。このような人たちは、アドバイスの中身を求めていない。彼らは、アドバイスに決して耳を傾けない。自分の結論に自信がないため、自分と同じ意見を探しているだけなのだ。こういう人たちは、自分と同じ意見で自分を肯定してくれる人に出会うまで、ずっと意見を聞きまくる。こういう場合は、大抵うまくいかない。

 やはり、周辺の意見を聞く際は、以下のポイントが重要になってくる。

1:複数の信頼できる人に意見を聞く

2:意見の中身はあくまで判断材料として吟味する。その意見に縛られる必要はない

3:予め自分の中で結論が出ていないか、人のアドバイスを言い訳にしていないか「心の動機」を吟味する

4:その上で、神に祈り、決断する

 

 ただ、聖書には親族、家族が「気が狂った」と思い、連れ戻しに来たにも関わらず、聞く耳を持たずに活動を続けたイエスという人の記述もある。周辺も何か別の意図を持っていたり、間違ったアドバイスをする可能性があるので、あくまで「吟味するための一要素」と考えたらいいと思う。

 

 

▼4:イエスの模範と合致しているか

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 4つ目は、少し気が付かない視点かもしれない。「エスの模範」という視点である。英語で「What would Jesus do?」(イエスならばどうするか)という表現を、聞いた経験のある人もいるだろう。

 クリスチャンはエスの生き様に注目すべきだ。彼がどのように生きて、何に注目し、何を語り、教えたのかを考える必要がある。イエスの姿を思い浮かべて、2000年後の自分の人生に当てはめ、自分はどのように生きたらいいのか考える。その思考の先に神の「コーリング」はある。

 イエスはたびたび、自分を「模範」として語っている。イエスの生き様を見て、クリスチャンはどのように生きるのか学ぶのである。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

ヨハネ福音書 13章15節)

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

(ペテロの手紙第一 2章20~24節)

 

 イエスは、当時の曲がってしまっていた宗教的考えにパラダイム・シフトを与えた。旧約聖書の律法を間違って適用し、本当に大事な心の問題をなおざりにしていた。弱い人を助けるはずの律法を用いて、弱い人を差別し、虐げ、軽んじていた。そんな社会の中で、イエスは弱い人、社会的に見捨てられている人、罪人だと蔑まれた人、病気の人、外国人、女性、障害がある人、気が狂ったと恐れられた人などに寄り添った。そのようなイエスの姿勢から学ぶ生き方があるのではないか。

 また、イエスは当時の宗教的指導者たちと論争した。彼の語り方は、「権威ある者のよう」だったと書いてある。当時の宗教指導者たちは、自分たちの知識をひけらかすような語り方で、民衆もうんざりしていたのであろう。イエスの語り方は、他の指導者たちとは違った。彼は当時の凝り固まった文化を否定し、常に聖書の記述を用いて民を諭した。

 エスは、人からの栄誉を求めなかった。世間から見捨てられた人に寄り添った。イエスは本質から逸れてしまった伝統や言い伝えを否定した。イエスは山奥で1人で祈り、いつも神と共に歩んだ。イエスが語る言葉は、すべて天の神が伝えた通りの言葉であった。

 自分の人生の道に悩んだ時、「自分のコーリングは何なのだろう」と迷った時、イエスがどのように生きたか思い巡らしてみよう。エスならばどうするか。その思考が、現状を打破するための一歩なのかもしれない。

 

 

▼5:状況はそれを許しているか

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 最後のポイントは「状況」である。これは、意外と重要な要素である。例えば、私がアメリカで出会ったアメリカ人の牧師はこんな体験談を語っていた。彼は、ずっとアジアに関心があった。中国に宣教師として行きたいと願い、聖書学校に入り、学んだ。中国語も勉強した。宣教師になるための訓練を受け、いよいよ中国に派遣されると決まった。その時に、中国で毛沢東政権による文化大革命が起こった。宣教師は中国に入れなくなってしまった。「状況」が、彼が目指していた「中国に宣教師として行く」という夢を閉ざしてしまったのだ。

 しかし、今振り返ってみると、彼は自分の人生に満足しているという。彼は、そのまま地元イリノイ州に戻り、地域教会の牧師として働いた。彼は教会で、アジアへの宣教の重要性を語り、教会のメンバーに大きな影響を与えた。彼自身は宣教師として中国には行けなかったが、未来の宣教師のたまごを育てたのであった。

 このように、「状況」によって道が閉ざすというケースはいくらでもあると思う。ビザがおりない。支援金が打ち切られる。大病を患う。大怪我をする。うまくいきそうな商談が突如破断になる。破産する。スキャンダルが出る。訴訟が起こされる。情熱を失う。火事で家を失う。家族にトラブルが起こる・・・等々。それは一見悲しい出来事であり、時になぜそういった問題が起こるのか分からないときもある。

 しかし、神は全世界の全てを知り、治め、思いの通り実現されるお方である。人間にとっては、到底理解できないところまで、神は知っている方である。人間に理解できなくとも、何らかの理由で神が許しているトラブル・不幸がある。理由は分からない。しかし、必ずや意味がある。聖書の「ヨブ記」は、現代の私たちにふりかかる不幸への慰めの書物でもある。

 信仰と無謀を履き違えてはいけない。一部の教会では、「無理をすることが信仰だ」といった間違った価値観が流布しているように思う。無理をするのは信仰ではない。実際、聖書にも「神が共におられないのにも関わらず、カナン人と無理に戦い、イスラエルの民は惨敗する」というエピソードもある(民数記14章参照)。神が明確なGOサインを出した場合は、勇気を持って踏み出せばいい。しかし、本当に神が示しているのか曖昧なまま、状況も整っていないのに突き進むのは「信仰」ではなく、「無謀」という。

 韓国の某教会は、2007年に無理やり渡航禁止になっているアフガニスタンに突進した。その結果、牧師がテロリストによって惨殺されるという事件が起こり、社会問題となった。彼らは「神の導き」だと主張したが、それならば、なぜ現地の言葉や、宗教言語のアラビア語を勉強しなかったのか。なぜ、イスラム教について学ぼうとしなかったのか。理解に苦しむ。政府はアフガニスタンへの渡航を禁止していて、「状況」もそれには見合っていなかった。結局、その事件はキリスト教全体への批判を招いてしまったのであった。

 「状況」は、現状から一歩踏み出そうとする時の、最後の判断材料になる。思いや情熱があり、聖書の言葉による動機もあり、周囲からの後押しや修正があり、イエスの模範に照らし合わせて、なおその道に突き進もうという時に、最後に「状況はどうか」と確認する必要がある。もちろんこれら全てを、聖霊の導きに従い、神に祈った上で行動するのが重要だ。これら全てを、バランスよく見つつ検討して、「コーリング」を見極める必要がある。

 

 

▼まとめ:方向転換したっていい

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 前回の記事でも述べたが、クリスチャンは「コーリング」にこだわりすぎる傾向がある。しかも、その「コーリング」が個別具体的な「細い道」だと勘違いしている。否、神の計画は、もっと大きな壮大な「広い道」ではないか。私たち小さな人間が、何をしようとも、自分の力ではどうにもできない。ただこれだけは言える。心が神に向いていて、神の計画の道を歩みたいと願い、神と共に生きたいと願うのであれば、おのずとその生き様が神の計画となるのではないか。私はそう思う。

 また、クリスチャンの中には、「一度この道に進んだのだから、もはや引き返せない」と悩む人もいると聞く。そうではない。神が定めた人生の道、可能性は一本道ではないと、私は思う。もし突き進んで、「違う」と思ったら、引き返したっていい。方向転換したっていい。違う道に行ったっていい。それは恥ずかしい生き方ではない。日本人はとかく「一筋信仰」の傾向が強い。しかし、聖書は一言もそんなことは言っていない。モーセは40歳でエジプトを追われ、80歳でようやく神からの使命を受け取った。ただ、モーセは神と共に生きた。神を見続け、神と共に生き続ける覚悟だけは、「一筋」である必要がある。

 結局のところ、神の「コーリング」はシンプルなのだ。

そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」

(マタイの福音書 22章35~40節)

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ福音書 13章34節)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4章2節)

 

 いつでも、どこでも、どんな時でも神を愛し、神と共に生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもイエスを宣べ伝える。いつでも、どこでも、どんな時でも聖霊の導きに従って生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもそばにいる人を愛する。これが、神の「コーリング」である。

 

(了)

【疑問】神の「コーリング」を絶対待たなければいけないのか?

クリスチャンはよく「神のみこころ」とか「コーリング」という言葉によって自分の人生を決めようとします。それらは、絶対に待たなければいけないものなのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」とは?

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 クリスチャン用語にコーリング」というものがある。「コーリング」とは、英語の「Calling」から来ていて、直訳すれば「(神の)呼びかけ」という意味である。日本語で最も分かりやすい表現をすれば「神のお告げ」とでも言うのが適切かと思う。

 クリスチャンは神の計画通りに生きたいと願う。それゆえ、「神の計画」(みこころ)を知りたいと願う。だから、適切な時に「神からの呼びかけ」があれば、それに従いたいというのが、クリスチャンの性なのだ。「神の計画」、いわゆる「みこころ」を知るための何らかのキッカケなどを「コーリング」と呼ぶのである。

 この「呼びかけ」は、何についての呼びかけなのか。内容については様々な考え方がある。

<“コーリング”で示されるもの>

◆神から示される「将来の目標」

◆神から示される「仕事や役割」

◆神から示される「時期」

◆神から示される「路線変更」

 

・・・などなど

 

 クリスチャンはよく、「将来やるべきこと」や「特殊な役割・ミッション」について神から示された、という時にコーリングを受けた」などと説明する。「神に牧師になるよう示された」とか「神に宣教師としてアフリカに行くように示された」などというのは、よく聞く話だ。人によっては、牧師や宣教師になるときには「コーリング」が必ず必要だとする意見もある(※私はそうは思わないが。後述)。また、今やっている仕事や事業、ミニストリーなどの「変化の時期」についても「コーリングがあった」などと説明する人もいる。

 一番気になるのは、この「コーリング」は一体どういう形で分かるのか、という問題だろう。摩訶不思議だが、「耳で声が聞こえた」という人もいる。またある人は「夢で幻を見た」という人もいる。そういう場合は、たいていただの夢ではなく、やけにハッキリしていたり、同じ夢を何度も連続で見たり、異なる場所にいる複数の人が同時に全く同じ夢を見たりする。他にも、聖書の言葉からピンと来たとか、周りの人にアドバイスを受けた体験を、「神からのコーリング」として捉えるケースもある。様々な形で、クリスチャンたちは「神のコーリング」を受け取るのである。これについては、次回の記事で詳しく書きたいと思う。

 クリスチャンたちは、時にこの「コーリング」を「待ちすぎる」傾向がある。「まだ神のコーリングを受け取っていないから」と言って、人生において足踏みしてしまっているケースをよく見る。ここでひとつの疑問が出てくる。クリスチャンならば、必ず神のコーリングがあるのだろうか? それはどんな形で聞こえるのだろうか。そして、必ずそのコーリング通りに生きなければいけないのだろうか。ひとつひとつ見ていこう。

 

 

▼全員が「神の声」を耳で聞けるわけではない

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 まず端的に私の意見を述べたい。「誰しもが神の声を、耳で聞けるわけではない」というのが、私の意見である。誤解を恐れずに言えば、神の声が耳(の鼓膜の振動)で聞こえたとか、幻が見えたとか、奇跡を体験するなんていうのは、むちゃくちゃ激レアさんなケースだと思う。ほとんどの場合は、神の声は耳では聞こえないし、幻なんて見えないし、死んだ人が生き返るレベルの奇跡を目の前で体験することなどない。そんな超奇跡的な「コーリング」を期待していたら、もしかすると間違いかもしれない。

 誰もが神からの劇的なコーリングの体験をする・・・そんな勘違いは、皮肉にも聖書の様々なエピソードが原因だろう。聖書の登場人物は、あらゆる形で劇的な「コーリング」を体験する。聖書の中から、いくつか例を挙げてみよう。

アブラハム(神の声を聞く)

→神から「生まれ故郷を出て、私が示す土地へ行け」というお告げを受ける

(創世記12章参照)

モーセ(“燃える柴”の不思議な奇跡を体験、神の声を聞く)

→燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見つけ、それに近づいたところ、神の声がした。神の声で「わたしがあなたを遣わす」と約束された

出エジプト記3章参照)

◆サムエル(神の声を聞く)

→「サムエル、サムエル」という神の声を3度聞いた。預言者エリの助言により、「ここにおります」と答えると、神の声でお告げを受けた

(サムエル記第一3章参照)

◆ギデオン(天使のお告げを受け、神の奇跡を体験する)

→神の御使い(天使)が突然現れて、「神があなたを遣わす」というお告げを受ける。その証拠として、ギデオンが献げた肉とパンは一瞬で燃え尽きてしまった。しかし、まだ信じられないギデオンは「羊の毛皮」の奇跡を証拠として要求する。そして神はギデオンが望んだ通りの奇跡を二度に渡って見せたのであった

士師記6章参照)

◆ダニエル(幻を見る、聖書の記述から悟る)

→ダニエルはこの世のものとは思えない幻を見た。それは終末についてのお告げだと考えられている。また、ダニエルは預言書の記述から、イスラエルが捕囚状態から解放される未来を悟った

(ダニエル書参照)

パウロ<サウロ>(イエスの姿を見る、声を聞く、奇跡を体験する)

→イエスの信者を迫害していたパウロは、道中に突然、光に包まれたイエスの姿を見る。イエスは死んだはずであった。そして「サウロ(パウロの元の名前)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞く。その後、一時的に目が見えなくなるが、「目からウロコが落ちる」体験をして、目が見えるようになるという奇跡を体験する。神はパウロを「わたしの選びの器」であり「どれほど苦しまなければならないか示すつもりだ」と宣言する

使徒の働き9章)

 

 ・・・いかがだろうか。聖書の登場人物たちは、実に様々な形で「神のお告げ」、「コーリング」を受け取っている。詳細は省くが、サムエルやサムソン、イエスのように、本人ではなく、親にコーリングが与えられるケースもある。

 このような記述を見ると、ついつい自分も神の声が聞こえたり、幻が見えたり、ありえない奇跡を体験するのではないか・・・と期待してしまう。ある意味で、自然な成り行きだろう。聖書の記述が、クリスチャンたちに「自分にも奇跡的なコーリングがあるのでは・・・」と勘違いさせてしまっているのである。

 しかし、そういった、あえて言えば「過剰なコーリング待ちの状態」が、クリスチャンの中で横行していないだろうか。起こるはずのない「コーリング」を待ち続ける行為は、裏を返せば「何もせず口をあけて待っている」だけの行為に等しい。コーリング」にこだわりすぎる姿勢が、クリスチャンの人生選択を、がんじがらめにしてしまっているのである。

 大胆に私個人の意見を言えば、聖書にあるような、とてつもない奇跡を伴うコーリングは、特別な使命を持った人々だけに与えられるものではないかと思う。アブラハムイスラエルの民全体の父祖である。モーセは民全体のリーダーであり、神と顔と顔を合わせて語り合うことのできた唯一の預言者である。サムエルは親の代から神に預言され、聖別された預言者である。ギデオンは他民族から迫害されていたイスラエルの民を救い出した勇士だった。ダニエルはバビロンの高官であり、イスラエルの民の中で政治的に最も力を持つ人物であった。パウロは神によって特別に選ばれた使徒だった。

 そんな特別な役割があった彼らと、現代の私たち1人ひとりを比較した時、果たして全く同じだと言えるだろうか。私たちはイスラエルの民のリーダーだろうか。預言者だろうか。勇士だろうか。国の高官だろうか。そして、使徒時代の迫害を生き抜き、新約聖書に多くの手紙を残すような「使徒」だろうか。もしかすると、当てはまる人はいるかもしれない。しかし、私たちの多くはそれらに当てはまらない。いわば「モブキャラ」なのだ!

 もしかすると、そのような聖書のリーダーたちと、現代に生きる私たちが、同じような「コーリング」を受けると「期待しすぎる」のは、間違いかもしれない。誤解なきようお願いしたいが、私は個人的に聖書にあるような「神の声」が聞きたいと願っている。幻が見えたり、夢でお告げを受けたり、奇跡を体験したりできたらいいなと期待している。むしろ、積極的にそれらを認めるし、そういう体験談を聞いたら素直にすごいと思う。それに、現代でもそのような奇跡は起きると信じている。

 ただ、同時に「過剰な期待」は、クリスチャンの人生選択をゆがめ、狭め、不自由にするのではないかと危惧している。聖書にあるようなとんでもない奇跡を待つあまり、人生の選択が滞っていないだろうか。次のステップに踏み出す勇気を、くじいてはいないだろうか。聖書にあるような大きな奇跡を伴う「コーリング」は、それと同じように大きな使命を背負う人に示されるべきものなのかもしれない。私は奇跡的なコーリングを否定しない。しかし、それにこだわりすぎるのは危険だと思っている。

 

 

▼牧師や宣教師になるには「コーリング」が必要?

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 クリスチャン界で流布している嘘の中に、「牧師や宣教師には、特別なコーリングを受けないとなってはいけない」というものがある。完全な間違いである。私は、このごまかしを本気で信じ、「自分にそのコーリングがいつあるのか」、今か今かと待っていた時期もあった。しかし、成長するにつれ、こんな疑問が浮かんできたのである。「あれ、『牧師や宣教師になるために、特別なコーリングが絶対に必要だ』って、聖書のどこに書いてあるんだろう・・・?」そして今ハッキリ言えるが、そんな記述はどこにもなかったのだ。ただの欺瞞だったのである。

 さて、聖書はどのように書いているのだろうか。少しだけ見てみよう。まず、いわゆる「牧師」についての唯一の記述を見てみよう。

しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

(中略)

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(中略)

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4章7~16節)

 

 ここから分かるのは、以下である。

1:信者は一人ひとり、それぞれの賜物(わかりやすく言えば、才能)が与えられている

2:キリストご自身が、その賜物に従い、それぞれ別の役割に人を任命している

3:それは信者たちを整え、教会(キリストのからだ)をひとつとするためである

4:キリストにあって一人ひとりが役割を全うすることにより、教会の共同体は成長する 

 

 これだけを見ると、「それぞれの役割に任命されている」のだから、特別な「コーリング」が必要にも感じるだろう。しかし、「どんな役割がどうやって分かるのか」については書いていない。では、他の聖書の部分を見てみよう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1章4~5節) 

 

 いかがだろうか。神の特別なコーリングとは、実は牧師や宣教師になるためのものではなく、「イエス・キリストによって神の子となる」ためのものなのである。信者は、既に「イエスを信じること」に「呼ばれている」のである。これこそが、神のコーリングである。牧師とか宣教師になるとか以前に、エスを信じるということそのものが、神からの特別なコーリングなのだ。

 コーリングを受け、神の子となり、イエスの弟子となった者たちは、イエスによってこのように命じられた。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

 

 あらゆる国の人々を弟子とせよ。命じたすべてのことを守るよう教えよ。これがイエスの命令であった。これは、当時の弟子たちだけに語られた言葉だろうか。私は、イエスの弟子の弟子の弟子の弟子の・・・弟子である私たちにも、同じように語られた言葉だと信じたい。

 まとめると、私の意見では神の特別なコーリングは必ずある。しかし、それは「聖霊を受け、イエスを信じ、神の子となる」ための特別なコーリングだと思う。牧師や宣教師になるといった個別具体的なものではない。強いて言うならば、クリスチャンはみな「王である祭司」として選ばれている。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙第一 2章9節)

 

 教会の共同体の中では、それぞれに見合った役割がある。それははじめからイエス自身が、私たちに定めている役割である。ある人は牧者または教育者としての役割がある。ある人は預言者として。ある人は伝道者として。ある人は使徒として。それぞれが、「違う役割」であって、優劣はない。ただ、役割が違うのである。どの役割を担うかについて、特別なコーリングが必要だと聖書は書いていない。ただ、「キリストの賜物の量りにしたがって」とある。

 私は、それぞれが持っている「志」や「情熱」、「的確な才能」や「経験」がコーリングの一部に値するのではないかと思っている。それが恵みによって与えられた「キリストの賜物」であると思う。聖書が「神の特別なコーリングがないと牧師になってはいけない」などと言っていない以上、「必ずコーリングが必要だ」と断言するのは根拠に乏しい。牧師になりたいと思ったらそのために努力すればいいし、宣教師になりたいと思ったら、そのために動けば良いと思う。誰しもが、かならず明確に神の声を耳の鼓膜で聞こえるわけではないのだから。

 

 

▼誰でも「コーリング」を受け取れる

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 ここまで強調した上で、私の意見を述べよう。どんな人でも、神のコーリングは受け取れる。それが私の意見である。矛盾するように感じるかもしれない。しかし、これが私の本音である。ただ、それは聖書にあるような「神の声が聞こえる」といった形ではないかもしれない。「もっと小さな何か」によって示される可能性もある。

 クリスチャンは、イエスを信じた時点で、「神の子」として呼ばれている。既に特別なコーリングを受け取っているのである。クリスチャンは、誰しもが王である「祭司」として、イエスのことを伝える使命がある。そして、イエスの命令を教える役目がある。これが「コーリング」である。

 牧師や宣教師などというのは、その大きな使命の中の「小さなひとつの役割」に過ぎない。それについて、必ずしも明確なコーリングが必要だとは、聖書は書いていない。しかし、それぞれに役割があり、適切な才能が与えられ、それぞれの役割を果たすことによって、教会の共同体はキリストのうちにひとつとなり、成長していくとは書いてある。

 もし、あなたが神に祈り、「これをやりたい!」という情熱が湧いてきたら、その情熱こそが神からの「コーリング」かもしれない。あなたが持っている才能がその役割に適切ならば、それこそが「コーリング」の可能性がある。あなたが読んだ聖書の言葉から、強い思いが湧き上がってきたらならば、それこそが「コーリング」と言えるかもしれない。周りの人たちの助言が、神からの「コーリング」かもしれない。

 しかし、ただのカンチガイの可能性もある。そのため、「コーリングかも?」と思ったら、少し立ち止まって吟味することをオススメしたい。では、どうやったら「コーリング」が本物かどうか、ハッキリ分かるようになるのだろうか。その「見分け方」については、次回の記事で5つのポイントにまとめたいと思う。今回の記事は、ここで閉じる。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。