週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか?

神学校を卒業した人は、すぐに「牧師」にならずに、「伝道師」となるケースが多いそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼「とりあえず伝道師」

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 「牧師になるには、どうすればいいの?」よくある質問のひとつだ。私は、「日本には牧師という国家資格はないので、今すぐにでもなれますよ」と答える。実は、牧師になる明確な条件、資格などない。団体に所属する牧師になりたいのであれば、各団体の基準があるだろう。特定の学校を卒業するのが条件だったり、特定のトレーニングを受けるのが条件だったりする団体もある。団体に所属しない教会などでは、独自の基準があったり、逆に全く基準がなかったりもする。

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。実は、何も書いていない。牧師の資格など、どこにも書いていない。もし、「牧師」を「監督者」や、「執事」と捉えるならば、明確な基準が聖書に書いてあるが、それは別の機会に書く。

 一般的なケースは、牧師になる前に、「神学校」という学校で一定期間、勉強をするというものだ。2~4年間くらい、神学校で勉強をする。卒業してから、さぁ牧師になろうというのが、よくあるパターンだ。

 しかし、神学校を卒業しても、すぐに牧師になるわけではない。どこかの教会に行って、「伝道師」となるケースが大半だ。この「伝道師」というポジションがクセモノで、別に「伝道」をするわけではない。牧師ではないのだが、なんちゃって牧師みたいな、サポート的な立場になるのが一般的だ。いわば、「ディレクター」になる前に、「AD」の仕事をやらないといけないような感じだ。

 「伝道師」は、牧師ではないが、牧師っぽい立ち位置になる。教会の若者たちの担当になる場合も多い。肩書は「伝道師」なのだが、伝道がメインの仕事ではない。私は、この伝道師を「とりあえず伝道師」と呼んでいる。

 この「とりあえず伝道師」は、すぐに牧師にならない。いや、すぐに牧師になってはいけない空気感がある。私は、この「とりあえず伝道師」はもう時代遅れだと思う。即刻やめた方がいいと思う。その理由を、これから簡潔に述べる。

 

 

▼そもそも牧師と伝道師は別の役割

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 「伝道師」は、「牧師」になる前のステップなのだろうか。言い換えれば、伝道師より牧師の方が格上なのだろうか。聖書が何と言っているか見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(エペソ人への手紙 4:11~12)

 (※少し横道にそれるが、そもそも、「牧師」という単語は、この部分の1回しか聖書に出てこない。しかも、「牧師」というのは意図的な誤訳で、本来は「牧する者」という意味であるから、「牧者」または「羊飼い」が正しい。「伝道者」は「師」ではなく「者」となっている。同様に、「教師」も本来は「教育者」とすべきである。当記事では、今後、「牧者」と「伝道者」と表記する)

 

 この箇所から、「教会」と名付けられた共同体には、大きく分けて5つの役割があるとされている。順番に、使徒」「預言者」「伝道者」「牧者」「教育者」である。これを、いわゆる「五職」と呼ぶ。

 ただ、最後の「牧者」と「教育者」はひとつの役割だという意見もある。「使徒」「預言者」「伝道者」「牧者+教育者」の「四職だとする見解だ。確かに、ギリシャ語を見ると、その主張には根拠がある。それぞれの役割をつなぐ接続詞には、全て「and」という意味での「デ(de)」という単語が用いられている。しかし、「牧者」と「教育者」をつなぐ部分のみが、「デ」ではなく、「カイ(kai)」という単語を使っている。「カイ」は「and(~も)」にもなるが、「also(~であり、また)」という意味もある。

 この部分のギリシャ語が全て並列の関係ならば、全て「デ」を用いれば良いのに、最後だけ「カイ」を使っているのである。その意図を考えると、「牧者であり、また教師でもある」と解釈した方が正しいかもしれない。

 

 話を元に戻すと、「五職」だろうが、「四職」だろうが、「牧者」と「伝道者」は、本来は違う役割なのである。「伝道者」は、「牧者」になるためのステップとしてのポジションではない。もしそう考えているならば、明確な間違いだ。

 

 

▼「五職・四職」とは

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 「五職・四職の内容については、多少議論がある部分なので、詳細は語らないが、だいたい以下である。当然、異論があるところもあるが、参考にしていただきたい。

 

使徒

神の特使。狭義の使徒は、イエスの12人の弟子+マッテヤ。イエスが12人の弟子たちを、「使徒」と名付けたところが起源。12弟子ではないパウロは、自身を「使徒」だとした。広義としては、福音をあますところなく述べ伝え、リーダーを育成し、教会を生み出していく働き。現代用語では、起業家、開拓者、創始者、コーディネーター。

【預言者】

神のことばを伝える役割。未来を予知する「予言」とは違い、神の意思を地上で明らかにする役目。広義の預言は、聖書のことばを解説することも含むとされる。「預言」は唯一、誰もが行うことのできる賜物として聖書に明記されている(1コリント14:31)。

【伝道者】

聖書に直接の記述が少ないが、神の道を伝える人。福音を伝える人。エチオピアの宦官に聖書の解説をして、イエスの福音を伝えたピリポは、伝道者と形容された(使徒21:8)。

【牧者】

羊飼いの意味である。イエスは、ついてくる者たちを羊に例えた。そこから、教会の共同体においては、集っている一人ひとりのことを指す。その一人ひとりをケアし、正しい道へと導き、攻撃から守るのが牧者である。現代用語では、カウンセラーのような役割である。

【教育者】

共同体の中で、知識的に教育をする役割である。知識的な部分においても、霊性の部分においても、人間性の部分においても、共同体の一人ひとりを教え、訓練する役割である。多くの場合、「牧師」はこの「教育者」の役割にエネルギーを割いている。

 

 「五職・四職」の役割の違いは、だいたい、こんなところである。こう見ると、「牧師予備軍」の人々が「伝道師」として教会に飼い殺されるのは、ちゃんちゃらおかしい話なのである。この役割の違いすら分かっていない。「伝道師」となるならば、文字通り、「伝道者」の役割を果たさなければならない。それは決して、牧師への準備期間や、訓練期間、ステップアップのための期間、役割ではない。

 イエスを信じるクリスチャンが、もし職業として「牧者」や「伝道者」を目指すならば、この「五職・四職」の役割の違いを意識すべきだ。記者になりたい人は、記者の訓練をする。ドラマのプロデューサーになりたい人は、ドラマの現場で修行を積む。記者になりたい人は、ドラマのADはやらない。それぞれが目的に沿った訓練をしなければ、2テモテ2章に書かれるような、「熟練した者」にならない。

 

 ただ、パウロは自身を「宣教者、使徒、また教師として任命された」と語っている(2テモテ1:11)。このことから、複数の役割を1人が担うことも可能だと分かる。ゆえに、「伝道者でもあり牧者でもある」というのであれば、「とりあえず伝道師」は、あながち間違いではない。

 しかし、そんなパウロみたいなスーパーマン、そんなに存在しない。現実の教会を見ると、両方をしっかりやろうというモチベーションのある人が、どれだけいるだろうか。ほとんどの人が、牧師へのステップアップとして伝道師の役割を捉えているのではないだろうか。

 私は、完全に「教育者タイプ」の人が、無理をして「カウンセラー」をしているパターンや、逆に「カウンセラータイプ」なのに、無理をして「教育者」になろうとしているケースをたくさん見てきた。それは、リーダーにとっても、共同体の一人ひとりにとっても、全員不幸である。説教が下手でもいいが、下手なら他の上手な人にゆずって、カウンセラーとしての役割をまっとうすればいいのに、なぜ一人で全部やろうとするのだろうか。

 聖書が違う役割として説明しているものを、ないがしろにはしていないだろうか。

 

 

▼人手不足の牧師業界

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 私が、「とりあえず伝道師」をやめようというのには、もうひとつ理由がある。それは、圧倒的な牧師不足の現状である。2014年の国際宗教研究所の統計によると、日本の牧師の42%が65歳以上。23%が71歳以上である。つまり、2018年の今、少し乱暴に数えれば、約65%の牧師が70歳以上なのだ。日本人の平均寿命は83歳。あと10年、15年もすれば、半分以上の牧師がいなくなってしまうのである。(参考:国際宗教研究所「現代宗教2014」)

 日本基督教団の教会は日本全国で約1700。そのうち担当牧師が1500。すでに教会の数より、牧師の数が少ない。そのうち半数以上があと10年~15年でいなくなる。日本のキリスト教会は、絶望的な牧師不足に陥っているのである。

 そんな人手不足の中、なぜ、「とりあえず伝道師」にならなければいけないのか。準備が必要? その準備のために、神学校で2年も3年も4年も勉強するのではないか? 神学校は、大学院的な位置づけのところが多い。大学卒業して22歳。その後、神学校に2~4年行ったとして、24~6歳。その後、一体何年「とりあえず伝道師」をすれば牧師になるのだろうか。結局、牧師になる頃には、30代。家族がいる。飯を食わさなければならない。現実的に、牧師にならない、なれない。こうして、人手はどんどんどんどん不足していくのである。

 人手不足なのに、牧師になろうとすると、やれ、「神学校行かないといけない」、やれ、「何年、伝道師やらなきゃいけない」と周りが言う。そこまでハードルを上げられると、「じゃあ別の道に行こうかな」となる。牧師不足の現状を生み出しているのは、なりにくい制度そのものなのではないだろうか。人手がほしいなら、ハードルを下げる。条件をよくする。世の中では当たり前の話が、なぜクリスチャン界では通用しないのか。理解に苦しむ。

 

 

▼完璧な牧師などいない

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 ここまで言うと、「訓練されていない人が、いきなり牧師になるなんてありえない!」というヒステリックな声が聞こえてきそうだ。ちょっと待ってほしい。そんなことは言っていない。私も、共同体の中の重要な役割を担う人は、それなりの訓練が必要だと思う。

 聖書には、こう書いてある。

 

あなたは努めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

(テモテへの手紙第二 2:15)

 先にも述べたが、「ふさわしいと認められる人」の部分が、新改訳聖書第三版では、「熟練した者」となっている。これは、パウロが弟子であるテモテに対して送った手紙の内容だ。テモテは、まだ若手のリーダーだった。若いなりに、苦労があったのだろう。パウロは、こんな励ましの言葉をテモテに送っている。

 

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 パウロは、「若さを不完全さの言い訳にするな。むしろ、熟練した者として、みんなの模範になれ!」と、厳しい言葉で、テモテのケツを叩いたのであった。これを見ると、答えは明瞭だ。リーダーにとって、若いとか年寄りとか、年齢が重要なのではなく、知識において、人間性において、どれだけ訓練され、練達しているかが重要なのである。

 だから、教会の中の役割を担う人々に、訓練は必要なのである。問題は、「神学校がその訓練となっているのか?」「とりあえず伝道師になることが、訓練になるのか」というポイントである。私の個人的な意見では、全く訓練になっていないと思う。ただただ、眠たい授業を我慢する、自分の意見を飲み込んで我慢する、無駄な時間になっているのではないだろうか。(我慢の訓練にはなっているのかもしれないが・・・)

 ほとんどの場合が、「まだ若いから」という理由で、牧師ではなく、伝道師として飼い殺されてしまっているのではないか。若い時の情熱やエネルギーが削がれ、牧師になる頃には、すっかりツマラナイ人間になってしまう。そんなケースを、私は何度も目にしてきた。

 どのようにして、人は練られていくのだろうか。どのようにして人は成長するのだろうか。人は、人との関係の中で成長するのである。「五職・四職」を神が立てたという箇所の続きは、こうなっている。

 

キリストによって、からだ全体(教会の共同体のこと)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 共同体の中で、「五職・四職」のリーダーたちが、一人ひとりをそれぞれの役割に従って「整える」。そうすれば、「キリストのからだ」と例えられる共同体が、その中の一人ひとりが働き合い、支え合っていくことで、お互いに成長していくのである。

 つまり、何が言いたいか。神学校に行くことや、伝道師の肩書きを持つことが、人を成長させるのではない。机にかじりつくことが人を成長させるのではない。人から「先生」と呼ばれることが人を成長させるのではない。人と人の人間関係において、人は成長していくのである。それは、教会の中でも同じである。

 私は、年が若くても、どんどん「牧者」になればいいと思う。同じように「預言者」「伝道者」「教育者」になればいいと思う。完璧な牧者などいない。完璧な伝道者などいない。知識は、やりながら増し加えられる。人と関わっていけば、おのずと成長していく。何事も、トライ&エラー。なぜ、足踏みをしているのか。神学校に行って、信仰的に落ち込む人をどれだけ見てきたか。「とりあえず伝道師」になって、素晴らしかった情熱を失ってしまい、イヤミな人間になってしまった人を、どれだけ見てきたか。なんと悲しいことだろうか。

  もちろん、何でもかんでもOK! となってしまうリスクがあるという指摘はある。その懸念は分かる。しかし、「とりあえず伝道師」を卒業して「牧師」になった人も、失敗はするし、完全ではない。だったら、早いウチに始めた方がいいのではないだろうか。教会のリーダーの役割を担う人々は、よく自分の心を見張り、ほかのクリスチャンの仲間や、リーダーの仲間たちの心をチェックし合う必要がある。

 現行の牧師になるシステムは、少しハードルが高すぎると思う。教会の中に人が何千人もいて、人手が余って余ってしょうがないのであれば、今のシステムは分かる。経済的援助も楽だろう。アメリカや韓国ではうまくいくのかもしれない。

 しかし、日本は状況が違う。圧倒的にマンパワー、経済力が足りない。私は、今のような「牧師」の考え方では、いずれこのシステムは破綻してしまうと思う。しかも、相当近い将来に。職業としての牧師や伝道師のあり方、教会のあり方を、見つめ直さなければならない時代になっているのではないだろうか。

 

 

▼牧師とか伝道師とかいう肩書きはオマケ

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 では、どういうあり方がいいのだろうか。私が個人的にオススメしたいのは、「もう肩書なんてオマケだよ」と思うことである。どんな仕事をしていても、どんな立場であっても、「牧者」としての働きはできる。「伝道者」としての働きはできる。それが当たり前になれば、人手不足は解消する。「献身者」と「一般信徒」、「直接献身」と「間接献身」、「伝道師」と「信徒伝道者」などという、くだらないラベリングは、もういい加減やめたらどうだろうか。

 クリスチャンは、それぞれが神から与えられた能力がある。よく、「賜物」とか「ギフト」とか言うのがそれだ。それぞれが、自分がどのタイプか考えて、神のために生きていく。自分が「使徒タイプ」だと思えば、教会やミニストリーや会社、団体をどんどん立ち上げていけばいい。「預言者タイプ」だと思えば、神からの示しを求めたり、聖書の難解な箇所を解説すればいい。「伝道者タイプ」だと思えば、イエスの素晴らしさ、恵みの福音を、会う人、会う人にどんどん伝えていけばいい。「牧者タイプ」だと思えば、人の話をよく聞いて、導くカウンセラーになればいい。「教育者タイプ」だと思えば、いいカリキュラムを作ったり、教壇に立って教えればいい。

 この素晴らしい福音、イエスの素晴らしさを、共に喜び、ともに建て上げていく。肩書きなんてオマケだ。大切なのは、その中身の働きなのだ。別に、他の仕事をしていても、その働きはできる。

 最後に、私が感動した、ある人の言葉を紹介しよう。詳細は、来週アップする予定の職業インタビュー記事(就活イエス)でご覧いただきたい。

 

エスさまは、人々を癒やすことを通して、当時の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らの心を解放した。

僕は、自分の会社を立ち上げることによって、社会の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らを解放したい。

(ー株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長 大原昌人)

 

 人の心に触れるのは、別に「牧師」という職業でなくともできるのだ。

 

(了)

【旅行記】イスラエルで見た聖書<ナザレ村>

イスラエルに一度足を踏み入れてみてください。聖書の世界がビビットになりますよ。

 

▼なぜイスラエル

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 読者のみなさんは、イスラエルに行った経験はあるだろうか。イスラエルに行く前と後では、聖書の読み方が変わる。イスラエルには、聖書にある地名がそのまま残っている。読み飛ばしていた片仮名の地名が、目につくようになる。その情景、温度、空気、匂い、地理感覚が分かるようになる。曖昧模糊だった聖書の世界が、ビビットになる。まだイスラエルに足を踏み入れていない方には、ぜひその一歩を踏み出すよう、オススメしたい(実は飛行機、10万円前後で行ける)。

 先週、私は1週間ほどイスラエルに旅行に行った。1年の留学をしていた頃から、実に5年ぶりだったが、やはり何度行っても面白い。今回は、新たなに訪れた「ナザレ村」について書く。

 

 

▼ナザレ村って一体何?!

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 ナザレというと、キリスト教をかじったことがある人は、ナザレのイエスというフレーズを思い出すだろう。そう、ナザレとはイエスの出身地である。あれ? 生まれたのはベツレヘムでは? と思う人がいるかもしれないが、生まれた町と「出身地」は違う。例えば、私は、長野県立科町で生またが、幼少期に育ったのは同県小谷村。現在、実家は東御市というところにある。同じようにイエスベツレヘムで生まれたが、実は幼少期をエジプトで過ごし、その後、家族とともにナザレに住んだ。イエスは生涯の大半をこのナザレで過ごしたのであろう。当時は名字はなかったため、「どこどこの誰々」というのが通称だった。さしずめ「ナザレ村のイエスさん」ということであろう。

 このナザレという町、今でも存在する。イスラエルの北部に位置する町だ。実は、今はアラブ人の町となっていて、8万人ほどが住んでいる、ムスリムもいれば、クリスチャンもいる、比較的多様な町である。

 ナザレの中心部から10分ほど歩いたところに、「ナザレ村」という場所がある。え? ナザレが2つあるの? そういうことではない。1世紀頃、ちょうどイエスがこのナザレにいた頃を再現した、いわば「博物館」のようなものだ。このナザレ村、今回始めて訪れたのだが、驚くほど聖書、キリスト教のエッセンスが詰まっている。いくつか、面白かったものを紹介しよう。

 

 

▼ロバの道 〜ナビとしてのロバの存在〜

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 ナザレ村に入ると、まずロバたちが出迎えてくれる。

 ナザレに限らず、イスラエルは山の斜面の上に町が建てられていることが多い。エルサレムやハイファも、山の町だ。車で行くと、細い坂道ばかりで、「なんでこんなところに道を作ろうと思ったの?!」と不思議になる。実は、ロバが道を作ったのである。

 そのような山の町々は、古代から建てられていた場合が多い。その際に、欠かせなかったのはロバだった。ロバは、本能的に山の斜面で、登りやすく、一番合理的な道を見つけ出す名人だ。いわば、ロバはその時代の「グーグルマップ」だった。人々は、ロバに導かれ、山の上に町を作ったのであった。

 ロバが道案内をしたという、面白い記述が民数記22章にある。説明を聞きながら、その情景を思い出した。バラムという預言者が、バラクという王様(ややこしい。私は「オバマが王様」と覚えている)に、イスラエルの民を呪ってほしいと依頼される。はじめは断っていたが、贈り物など、次々と好条件を出された預言者バラムは、ついにロバに乗ってバラク王に会いに行く。その道中で、ロバは神の使いが道をふさいでいるのを見て、止まろうとする。神の使いが見えなかった預言者バラムは、「なぜ行かないのか」とロバを叩く。するとロバが喋りだし、「なぜ私を打つのですか」と叫ぶ。その後で、神がバラムの目を開き、バラムはロバが正しく、自分が間違っていたことを知る。そんなストーリーである。そのようなエピソードは、きっとロバが人の道案内をするという常識から生まれたのであろう。他にも、イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入場する象徴的なシーンなど、ロバは何回か聖書に登場する重要な動物である。

 

 少し進むと、今度は羊たちと出会う。

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 羊は、聖書の中で最も言及が多い動物ではないだろうか。よく、エスは「羊飼い」に、信者たちは「羊」に例えられる。羊は、目が悪い動物だ。ほとんど見えない。盲目である。その代り、耳が発達していて、よく聞こえる。イエスは、こういうたとえ話をしている。

 

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

ヨハネ福音書 10:26~27)

 エスは、自分の教えに従う人々を、羊飼いの声に従う羊になぞらえた。そのとおり、羊は目が見えない弱い動物だが、羊飼いの声を聞き分けられるのだ。良い羊は、羊飼いのそばにいることが一番安全だと知っているのである。他の人間が声マネをしても、ついていかないというから驚きである。

 また、聖書の中の「詩篇」にはこんな台詞もある。

 

主(神)は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。(中略)たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖。それが私の慰めです。

詩篇 23:1~4)

 なるほど、イエスはこの詩篇の記述を念頭に、先のたとえ話をしたのかもしれない。

 しかし、ひとつ疑問がある。「ムチと杖」が慰めとはどういうことだろうか。まさか、これを歌った詩篇の作者に「Mの気」があったわけではあるまい。この疑問は、羊飼いがどのように羊を導き、守ったかを知ればすぐに解決する。

 羊は目が見えない。では、羊飼いはどうしたかというと、道からそれそうになった羊を、杖をつかって矯正し、正しい道に導いたのだ。杖は、羊を正しい道に導き、崖から落ちないように守った道具だった。

 ムチはどうだろうか。ムチは、羊を襲う動物を追い払うための道具だった。敵を追い払い、羊を守るムチ。危険から守ってくれるムチは慰めであった。なるほど、しっくりくる。

 

 ナザレ村には、残念ながらヤギはいない。なぜなら、ヤギは言うことを聞かず、飼うのが難しいからだそうだ。エスが従順な人を「羊」に、強情な人を「ヤギ」にたとえた話を思い出す。

 他にも、動物を使ったたとえ話は枚挙にいとまがない。ロバや羊などの動物は、この時代の人たちの生活に、密接に関わる動物だった。聖書の中で何度も登場するのは、その時代の人々にとって、とても身近な、イメージしやすい存在だったからである。現代の私たちは、聖書をより深く理解するために、その動物の特徴や性格をよく知り、学ぶ必要がある。

 

 さて、町といっても、当時のナザレは数百人が住む小さな村だったと考えられている。そんな小さな村で、人々は何をしていたのだろうか。

 

 

▼ワイン踏み場と物見やぐら 〜イエスのたとえ話のリアリティ〜

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 羊とバイバイすると、大きな岩場が見えてくる。実は、この岩、1世紀の「ワイン・プレス」の遺跡なのだという。ワイン・プレスとは、「ぶどう踏み場」とも訳せばよいだろうか。ぶどうの実を収穫し、それを足で踏みつけて、ワインを作るための果汁をしぼるための場所である。1世紀は機械などもちろんないので、岩場にくぼみを作り、人の足で踏みつけて果汁を採っていた。

 その隣には、ワインづくりを見守る「物見やぐら」がある。当時の人々にとってはワインは、水と同じくらい大切なものだった。日常的に飲んでいたと考えられている。聖書の中でも、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」(テモテへの手紙第一 5:23)と書いてあるくらいだ。

 そのワインづくりを見守り、泥棒や野生の動物から、ぶどうを守る役目を担っていたのが、「見張り人」であった。彼らは、交代で「物見やぐら」にのぼり、ぶどう畑や、ぶどう踏み場を監視していたのだった。

 ナザレ村にある畑は、ぶどう踏み場の遺跡以外は再建したレプリカだ。しかし、当時の様子をイメージするのに役立つ。イエスのたとえ話でも、このような記述がある。

 

それからイエスは、たとえで彼らに話始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした・・・

(マルコの福音書 12:1~2)

 垣根、踏み場、見張りやぐら。全て、ワインづくりに欠かせない、当たり前の畑の風景だった。なるほど、こうして見ると、エスのたとえ話は、いかに当時の人たちの生活になじんだものだったのかが分かる。エスは、実際に自分が目にしたもの、じっと見つめ、自分の手で触ったもの、体験したものを中心に、ストーリーを組み立てていったのであろう。

 

 

▼コミュニティセンターとしてのシナゴーグ

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 さらに奥に進んでいくと、ひとつの建物がある。シナゴーグだ。日本語の聖書では、「会堂」と翻訳されている。ヘブライ語では「ベイト・ハ・クネセト」という。

 ナザレ村にあるシナゴーグは、そんなに大きくない。バスケットコートの半分くらいの広さだ。このシナゴーグは、今日のように土曜日(安息日)の集会にも使われたが、それ以外にも、教育や裁判など、地域のあらゆる行事のために使われていた。いわば、コミュニティセンターのような役目を担っていたのだ。

 イエス自身も、このコミュニティセンターとしてのシナゴーグで何度も教えた。山上の説教などが有名だが、実はイエスはほとんどの教えをこのシナゴーグで行ったと考えられている。パウロなど使徒たちも、基本的にはこのシナゴーグで教えていた。

 写真にある巻物は、イエスが読んだある箇所を想起させる。この場所である。

 

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

(ルカの福音書 4:16~22)

 

 イエスが読んだのは、旧約聖書の「イザヤ書」の61章の記述である。イエスは、土曜日(安息日)にこの聖書の巻物を皆の前で読み、「私が旧約聖書で預言されていたメシア(救い主)である」と宣言したのであった。

 ナザレの人々は、「これは素晴らしい教えだ」と最初は受け入れた。しかし、イエスがすぐ後に、ユダヤ人だけでなく、外国人にも神の恵みがあると言い始めた途端、ナザレの人々は怒り、イエスを殺そうとした。「崖から突き落とそうとした」とルカの福音書4章にある記述は、当時よくある処刑のスタイルだったらしい。両手を縛って、逆さにして頭を打ちつけるように落とす。崖といっても、身長より少し高いくらいの低い崖だったようだ。それでも死なない場合、上から岩を落としてトドメをさす。これがいわゆる「石打ち」である。この説明を聞くまで、いくつもの石を投げつけて殺すのかと思っていたので、少しイメージが変わった。

 イエスは、彼らからどうにかして逃れて、ガリラヤ湖畔のカペナウムという村に行った。そこで、またシナゴーグに入って人々を教えたのであった。今回の旅では、ナザレからガリラヤ湖まで運転したのだが、意外に遠くて、1時間弱かかった。その道を歩いていくのは、結構な労力だったであろう。

 

 また、このシナゴーグの天井を見ると、いわゆる「からぶき屋根」になっている。

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  イエスがカペナウムという町の家にいたとき、群衆が押し寄せて、あまりの人の多さに入れなかったため、人々が屋根をはがして病人をイエスのもとに吊り降ろしたという有名な話がある(マルコの福音書2章)。日本の瓦屋根の常識からいうと、「屋根をはがすなんてえらいこっちゃ!」と思うのだが、この当時の屋根は、このような「からぶき屋根」で、土とワラを混ぜて作ったようなものだった。イスラエルは乾燥地帯だが、秋から冬にかけては雨も降るので、土が固まって、いい屋根になるのだそうだ。このような福音書の記述も、当時の常識で考えないと、深い理解ができないのかもしれない。

 

 

▼オリーブ搾り機 〜3度祈る意味〜

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 イエスは、「良い麦と毒麦」のたとえ話もしている。良い麦に毒麦が混ざってしまったので、収穫の時まで待てという話である。これは、世の終わりを示したたとえ話である。

 毒麦と良い麦は、成長しないと違いがわからない。写真の手前が、実がなる良い麦。奥の茶色いのが毒麦だ。良い麦は、実を結ぶと、その重さで頭を垂れる。実を結ぶと、おのずと頭を垂れて、謙遜な姿になることの証とされている。早稲田のシンボルマークもそんなような意味だったような・・・(笑)。

 

 さて、ナザレ村の奥の方に、作業場がある。作業場の隅には、私が個人的に一番印象的だったものがある。オリーブ絞り機だ。

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 この機械の奥に、オリーブを袋につめて置く。オリーブは一気に絞るのではなく、重さを変えつつ、3回に渡って絞るという。面白い。

 1度目は、優しく、少ない力で絞る。このとき採れる油は、とても上質な油。イエスが女性に油を注がれたシーンがあるが、その時の油である。イスラエルでは、王様に任命する際に、この油を頭から注ぐ習慣があった。そのような儀式で使う油が1つ目の油である。

 2度目は、手前の3つの重りをつけて、ある程度の負荷をかけて絞る。その時採れた油は、食用の油になる。オリーブオイルは、当時の生活にはなくてはならないものだった。

 3度目、最後は、もっと重りを重くして、かなりの力をかけて絞る。オリーブはカスカスになっているが、まだまだ油は絞れる。このときの油は、イメージするような輝く緑色ではなく、赤黒い色をしているという。この油は、灯りをともす燃料の油になる。イエスのたとえ話でも、この油を持って花婿が来るのを待っていた侍女たちが登場する(マタイ25章)。

 

 面白いのが、この3度という回数だ。イエスは、ゲッセマネの園で、神に3回祈った。十字架で死ぬことから免れるよう、祈っていたのである。3度目に祈ったときに、血のような汗が流れたと聖書に記述がある。オリーブを3度目に絞るときは、赤黒い油が採れるというから、興味深い。しかも、ゲッセマネという単語は、「オリーブ絞り機」(ガット・シュムニームという単語が由来だというから、さらに面白い。

 実は、この3度という数字は、聖書では大切な意味がある。何度も登場する。ペテロは、イエス3度「知らない」と言った。イエスは、ペテロに3度「わたしを愛するか」と聞いた。パウロは「自分のとげ」を取り去ってくださいと神に3度願った。ペテロは3回ユダヤ人が食べてはいけない食物を入れた風呂敷が下がってくる幻を見た。サムエルは3回神様からの呼びかけを聞いた。ルツはナオミに3回「帰りなさい」と言われたが拒んだ。ユダヤ人は3回まで他人の間違いを許せと言われていた、などなど・・・。3回という数字は、聖書の中にたくさん出てくる。

 この3回という回数が、数学的な量を表す3回なのか、それとも聖書でよくある、ある一定の「繰り返し・段階」を意味する、意味合い、象徴としての3回なのか。これについては、様々意見がある。しかし、このように当時の文化の中にあった3回という数字を、聖書の中の数字と関連付けて考えてみると、興味深い事実がたくさん見えてくる。

 

 

ミニストリーとしてのナザレ村

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 このように、「ナザレ村」では、1世紀当時の暮らしを、耳で聞いて、目の前でじっと見て、触って、体験することができる。ただ、このナザレ村、イスラエルにある他の博物館とは少し、毛色が違う。ガイドのお姉さんが、最後にこんな台詞を言っていたのが印象的だ。

 

この「ナザレ村」は、ただの博物館としてやっているわけではありません。ビジネスでもありません。これは、ミニストリーとしてやっているのです。 〜ナザレ村のお姉さん〜

 

 ミニストリーというのは、イエスのことを少しでも伝えたい、という思いからなされる様々な活動のことを指す。このナザレ村の目的は、1世紀の暮らしをそのまま伝えることではなく、聖書をより深く理解して体験するため、なのだ。ゆえに、ナザレ村の多くがレプリカであり、本物の遺跡ではない。本物なのは、ぶどう踏み場と動植物だけだ。あとは、体験のためのレプリカである。正直、ビジネスとしての博物館的なクオリティを期待していくと、物足りないかもしれない。しかし、ガイドの解説は、他のどこよりも聖書の記述に基づいている。ひとつひとつは細かいことかもしれない。しかし、聖書の細かなニュアンスが、よく分かるようになる。だから、「ミニストリー」という言葉がしっくりくる。

 聖書の世界を、耳で聞いて、実際にじっと目で見て、自分の手で触って、体験できる。そんなナザレ村に、ぜひ足を運んでみてはどうだろうか。

 

www.tripadvisor.jp

 

(了)

【就活イエスNo.2】「仕事場はミッションフィールド」ユジナ・ファング@医療機器の輸入販売会社勤務

「就活イエス」第二弾!

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの「就活」、「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

 

シリーズ第2弾は、ユジナ・ファングさん!

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Profile

名前:ユジナ・ファング(Eugena Fung)

生まれ:1987年

出身:アメリカ合衆国インディアナ州

最終学歴:米コーネル大学経済学部卒業・鍼灸の専門学校卒業

職業:漢方薬会社・安全管理

医療機器の輸入販売会社・安全管理責任者

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしく!

f:id:jios100:20180729110848j:plain よろしくー。ワタシ、話長いから。気をつけて! 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そんな感じしてました(笑)。長いストーリーを短くするのは僕の仕事なのでおまかせを!

f:id:jios100:20180729110848j:plain さすが~。でも悪口は書いちゃダメだよ!!

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。モチのロン。早速、仕事についてだけど、今は、医療機器の輸入販売の会社で働いてるんだよね?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。でも実はこの春に転職したばかりで。以前は漢方薬の会社に9年勤めてたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そうなの?! そこも聞かないと・・・

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぁまぁ、そう焦んないで聞いておくんなせえ。

 

 

▼激動の幼少期

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f:id:jios100:20180702131349j:plain そもそも、ユジナはどこの人なの? 何なの?笑

f:id:jios100:20180729110848j:plain 変な人だよね、ワタシ。笑 

バックグラウンドから話すと、お父さんがアメリカに帰化した香港の人。お母さんは日本に帰化した台湾の人なんだよね。母親は、結局アメリカが長いからアメリカ人みたいなもんだけど。

 しかも、ワタシのひいひいひいひいおばあちゃんはオランダから台湾に来た宣教師の娘なんだよ。ひいおばあちゃんはクオーターだからすごい西洋人ぽい。ワタシは32分の1オランダ人(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ますますアイデンティティがよくわかんなくなってきた(笑)。家族のコミュニケーションは何語?

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぜまぜかな。お父さんとは英語だけど、お母さんや弟は英語と日本語まぜまぜ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 日本にはどういうつながりが? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain えっとね、母方の親戚のおじさんが全員日本に住んでいるっていうものあるし。生まれたのは、ユタ州で、その後、幼稚園の頃は福岡。カトリックの幼稚園だったな。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこで日本語を学んだの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや・・・そうでもないかな。ワタシ、昔は無口だったから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えっ・・・想像できない・・・今と正反対(笑)。

f:id:jios100:20180729110848j:plain  はは。今でも日本人の中にいるとおしゃべりだけど、アメリカ人の中にいるとみんなうるさいから黙ってるよ(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 福岡の後は?

f:id:jios100:20180729110848j:plain その後は、またアメリカに戻って、メリーランド州。その後、ペンシルバニア州。で、小学校4年生のときにインディアナ州に引っ越して、そこでやっと落ち着いたって感じかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひえーー。クレイジー引っ越しライフ。子供のころから勉強好きだったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、勉強自体全く好きじゃなかった(笑)。母親はものすごく勉強が好きな人なんだけど、そこは遺伝しなかった・・・笑

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。でも、結局かなり勉強したんじゃない?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 親からの勉強しろっていうプレッシャーはものすごくて。中国系の教育方針だから、98点でも、「なんであと2点取れなかったの?」ってなるんだよね。もう相当涙を流したよ・・・。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、猛勉強の甲斐あって、めちゃくちゃ頭の良い大学に入れたんだよね。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシ、頭悪そうに見えるから、よく意外って言われる(笑)。

 

 

▼闇の? 大学時代

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 猛勉強の末、ニューヨークにあるコーネル大学に。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。

f:id:jios100:20180702131349j:plain コーネル大学といえば、アイビーリーグのひとつだよね?! すごい! 専攻は何だったの?

(「アイビーリーグ」というのは、ハーバード大学コロンビア大学など、アメリカ東部の8つの超名門私立大学のことだゾ!)

f:id:jios100:20180729110848j:plain 学部は経済学部だったよ。理由は簡単で、一番授業数が少ないから(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ウケるwww 

f:id:jios100:20180729110848j:plain まぁ、ヒマだった分、ほかのことも勉強してたからね。でも、大学の授業はほとんど人間関係で解決してた。レポートとかやってもらったり・・・(笑)何もわかんなかったもん。まわりの人たちが頭良すぎてショックだったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学で一番力を入れたことは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain オーケストラに入っていて、ヴァイオリンをやってた。それを一番頑張ってたかな。単位も一応もらえたしね。音楽以外はゲームばっかりしてた(笑) 

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは。プレステとか?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、いろいろあったけど、特に当時、ギターヒーローっていうゲームが流行ってて。太鼓の達人のギター版みたいなやつ。めちゃくちゃドハマリしちゃって。もう中毒。めっっっっちゃ上手いよ、ワタシ。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain それ自慢されても・・・(笑)

f:id:jios100:20180729110848j:plain はは(笑)。ゲームしてる時って、何も考えなくていいから楽なんだよね。ワタシ、こう見えて病み症だから、いろいろ考えちゃって。

 ちなみに当時は、名前ばかりのクリスチャンでね。小さい頃から教会には連れて行かれたりしてたから、聖書のストーリーは情報としては知っていたけど、神様との関係は全くなかったな。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain そうだったんだ。いつイエスを信じたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain それは就職した後なんだよね。ま、おいおい・・・。

 

 

リーマン・ショックで就職難、そして日本へ

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ギターヒーロー中毒時代

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学を卒業したのは何年?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 大学に入ったのが2005年で、卒業が2009年。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 就活はアメリカでしたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain もちろんしたよ。しないと親に怒られるし(笑)。当時付き合ってた彼氏もアメリカにいたからね。でも、当時ガッツリ、リーマン・ショックの時代で・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain あっ、そうだね。めちゃくちゃ大変だったんじゃない?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 本当に大変だったよ。完全に就職氷河期もう全くと言っていいほどチャンスがなくて。最初はマーケティング系で探してたんだけど、全く引っかからなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そうか。アメリカの就活って「会社」じゃなくて「職種」で選ぶもんね。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。最初は名刺の会社とか受けてたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でもダメで。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。それでボストンのキャリアフォーラム(日本企業が海外の学生を採用するためのフォーラム)とかも行ったりしたけど、大学時代に日本語全く使ってなかったから、日本語が相当怪しくなってて、笑われたりした。

 それで、全く興味ねぇけど、内定なさすぎても辛いから、銀行系とかも受けてた。ファイナンスの専攻してた友達にキーワードを聞いて、いかにも知ってる風に面接受けたり。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 対応力ハンパないな・・・。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実は、その作戦で、大手の投資銀行とかかも、ほとんど内定直前まで行ってたんだよ。だけど、なぜかキャンセルになっちゃったり。ことごとく道が閉ざされていったんだよね。今思うと、リーマン・ショックじゃなかったら就職できた会社はたくさんあったと思うし、実際にそう言われたこともある。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、日本へ来ることに?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。最後に残ったのが2つの就職先しかなくて。1つはJET(ジェット)プログラムっていって、日本で英語を教える仕事。2つ目は、この春まで働いてた漢方薬の会社。この2つしか内定がなくて、2つとも日本だった。それで日本に来ることになったんだよね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 漢方薬の会社にしたキッカケは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 単純に、東京に来たかったから(笑)。JETプログラムの方は、栃木じゃないとダメっていう感じで。栃木かよって(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 栃木の人に失礼(笑)

f:id:jios100:20180729110848j:plain でも、マジで、せっかく日本に来るなら、人が多い東京に来たかった。ワタシ、人と関わっていないとすぐ病んじゃうから。生きていけない。人のために生きていないと、生きる意味を見いだせないんだよね。

 

 

漢方薬の会社に入社 ~失恋からのイエスとの出会い~

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f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、漢方薬の会社(クラシエ)に入社したんだ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。でも、1年で辞めようと思ってた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なぜ?!

 f:id:jios100:20180729110848j:plain さっきも言ったけど、当時付き合っていた彼氏がアメリカにいたから、長く離れ離れでいたくなかったんだよね。アメリカに戻りたかった。でも、1年も持たなかった(笑)もう、仕事はじめて3ヶ月で辞めようと思ったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは(笑)。早い! それはなんで?

f:id:jios100:20180729110848j:plain やっぱりプライドがあったんだよね。せっかくアメリカのいい大学出たからには、もっといい会社で勤めたい、もっと責任ある仕事がしたいっていう思いはあったかな。仕事の内容も、漢方薬の安全管理って、お客様からあった報告をまとめて、入力したり、ヤバイ副作用とかあったやつは国に報告するために、その内容をまとめるっていう。もう本当に単純作業ばっかりで。「ワタシはこんなことをしてる場合じゃない」って本当に思ってた。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain どうやって乗り越えたの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 乗り越えられなかった(笑)。会社の中にもすごく嫌いな女性がいてね。もう触れられるどころか、見るだけでもイヤで。心の中がどす黒くなっていくのがもう見えるくらい。自分の心黒っっっ! って思ってた(笑)。

 もうすぐに会社辞めたくなって、転職活動をしようとしたんだけど、日本の会社だと、入社して3ヶ月で転職活動なんかしてる人を雇ってなんかくれないじゃん? 当然だけど。ズルズルと1年が経っちゃってね。それでもう無理! と思って、アメリカにいる彼氏に会いに行ったんだよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そしたら。

f:id:jios100:20180729110848j:plain これめっちゃウケるんだけどね、「ユジナとの将来を想像できない」とか言われて、フラれた(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ガビーーン。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain まじでガビーーンだよ。そうでなくとも、仕事のことで落ち込んでたのに、最後にとどめを刺された感じ。

 その頃のことはもう闇の時代すぎてあんまり覚えてない。仕事もミスが多くなって、当時は自分の仕事は自分の責任だったから、後日チェックしている時に「なんだこれ、誰がやったんだ?」と思ったら自分のミスだったり。鬱状態だった。ご飯も大好きなのに何も食べられなくなったり。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 想像できへん。

f:id:jios100:20180729110848j:plain もう自分でもやばいと思った。で、心配したのか母親と弟が日本に遊びに来てね。で、母親がワタシを見かねて、「聖書とか読んでみたら?」ってアドバイスしてくれて。今思うと「アンタも読んでないやろうが」って感じなんだけど、なぜかその時は素直に受け入れられたんだよね。当時はまだ2010年でガラケーだったから、ガラケーiモードとかezwebみたいなやつで聖書を読んでた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なつかし〜〜。俺はezwebだったな・・・。聖書を読み始めて何か変化はあったの?  

f:id:jios100:20180729110848j:plain それが大アリでね・・・フラれた1ヶ月後に、彼氏とやっぱりヨリを戻そうかなと思って。スカイプしたんだよね。そしたら、そのスカイプで、彼が共通の男友達の彼女といい感じになってたことが発覚して。あ、もうこいつとはヨリ戻らないと思った。それ以降は連絡取ってない。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それはショックだね。

f:id:jios100:20180729110848j:plain でもね、これが本当に不思議なんだけど。普通だったら、その元彼のことも、共通の男友達の彼女のことも、責めたり、嫌いになったりするじゃない? ワタシは特に、人のことを評価しがちな性格だったし。

 だけど、だんだんと「あれ? ワタシ怒ってないぞ・・・?」って気がついたんだよね。あれ、なんで怒ってないんだろう。なんでなんで? と、そうやって考えているうちに「ああ、彼も人間だし、失敗もするよな。なんだゆるせるじゃん」と気がついた。「アレ? これなに? これイエス様の心じゃん!」ってその時初めて気がついたんだよね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 後々気がついた。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。なぜ自分がゆるせたのか考えたら、自分の心の中に勝手にイエス様が入っていたことに気がついたんだよね。ああ、これがみんなが教会とかで言ってる「イエス様との個人的な関係」なのかって気がついた。その後、今行っている渋谷の教会の土曜日の礼拝に行って、すぐに洗礼受けたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ! すぐに洗礼!

f:id:jios100:20180729110848j:plain ウチの教会のフィリピン人の牧師に洗礼を受けたいと言ったら、「どうして洗礼受けたいの?」って確認されて。そしたら、とっさに「長い間、神様から離れていました」っていう言葉が出てきて、「えっ! ワタシって神様から離れていたんだ!」ってその時初めて自分で認識したの。もう本当にこれは自分の言葉じゃなくて、聖霊がワタシの口から語ったことだと思う。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 洗礼受けて何か職場で変化はあった?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 奇跡的に、さっきも言った会社にいた女性との関係が改善したんだよね。これは本当に奇跡。自分の心持ちが変わったから、相手が変わらなくても、平気になった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様を信じると、なぜだか心がどんどん変えられていくよね。分かるなァ~。

 

 

▼”仕事はミッションフィールド”

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f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、結局、仕事はどうなったの?

 f:id:jios100:20180729110848j:plain 本当は3ヶ月で辞めようと思っていたんだけど、神様を信じてから、「仕事場はミッションフィールドだ」って分かって。

 f:id:jios100:20180702131349j:plain 仕事場はミッションフィールド。カッコいい・・・

f:id:jios100:20180729110848j:plain 社会人1年目で神様を信じたから、もうその後は、「神様がいてほしいと思う間、この会社で働きます」という気持ちで、出ていいと神様から言われたと思うまで頑張って。で、結局9年間その会社で働いてたなー。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 前の仕事場で学んだことは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain やっぱり、プライドが砕かれたことが一番大きいかも。9年間ずーーっと同じ部署で、ずーーっと単純作業。はじめはプライドが邪魔をして辛かったけど、神様を信じてからは、心を無にして単純作業ができるようになった。でも、人生そんな楽じゃなくてね・・・ 

f:id:jios100:20180702131349j:plain え、まだあるんすか。闇の時代。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain あるよ(笑)。

 

 

鍼灸師の学校へ 

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f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシの中で、母親との関係で難しさを覚えることが多くて。いつもケンカばっかり。でも、ある日めずらしく母親がワタシに鍼灸師になることを勧めてきたんだよね。で、ワタシとしてもいろいろ考えながら、シャワー浴びて祈ったりしてたんだよね。そしたら、鍼灸師の専門学校に行こうという気持ちになった。で、社会人4年目になってから、仕事と学校の二足のわらじ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain え! 仕事をやりながら学校に行ったの?! 

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。職場も融通を利かせてくれて、時短にしてもらったんだよね。16時半まで働いて、18時から21時過ぎまで授業。この生活を続けていた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~。僕は絶対無理っす。大丈夫だったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain ワタシはプライド高いからイケると思っていて。ワタシはできる、できる、できる・・・できない! ってなったの(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ははは(笑)。どのくらい続けられたの? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 専門学校1年目まではなんとかできたけど、2年目から体調を崩しちゃって。過呼吸とかになった。あとテストに全く受からなくなって、それでまた鬱になって、ブラックホール状態。仕事もろくにできなくなって、週3に減らしたり。あとは勉強しようとすると、急におなかが痛くなったり、頭が真っ白になったりして、全く勉強ができなくなった。不思議なんだけどね。

 もう、無理して勉強して、プライドがズタズタになって。罪の渦。ヤバすぎて言えないやつ。痛み止めだよね。罪を行うことで頭をごまかすというか。心の傷を直視しないために、何かでごまかすって感じで。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも学校は卒業したの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain なんとか専門学校は2016年の3月に卒業できたんだけど。それから国家試験は連敗に次ぐ連敗でまだ受かってない。去年の2月も落ちた。補講も受けたりしているけど、なかか大変。だけど、ここまで続けられているっていうのは、何か意味があると思うから。あとはめげずにどれだけ辛抱強く続けられるかがポイントだと思ってる。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが転職するキッカケだったの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain いや、それは全然別の話でさ・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain (なんやねんこの人の人生・・・)

 

 

▼9年働いた会社を転職 ~新しいステージ~

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 ↑以前の職場の仲間が描いてくれた似顔絵

f:id:jios100:20180702131349j:plain 9年間も働いた会社から転職しようと思ったキッカケは?

 f:id:jios100:20180729110848j:plain なんかね、去年ぐらいから転職する気がしてたんだよね。あるじゃんたまにそういう時。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ないです。

f:id:jios100:20180729110848j:plain あるんだよ。なんか感じたんだよね。去年の後半くらいから。実は、今勤めている会社の社長は、同じ教会のおじさんで。地元がインディアナ州っていう共通点もあって、関わりはあったんだよね。向こうがワタシのことを気にかけてくれていたというか。彼は、折に触れて「転職したいなら協力するよ!」と言っていてくれたんだけど、ワタシとしては「まぁそのうち」とか言ってペンディングしていたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どういうタイミングで動き始めたの?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実は、アメリカの高校の時のカウンセラーの旦那さんが、社長と同級生で。で、社長が「今度あなたのカウンセラーだった人と一緒にディナー行くけど、どう?」と言われて。14年ぶりだったから、「覚えてるかなー」と思ったけど、向こうは覚えててくれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこでまた「働かない?」と? 

f:id:jios100:20180729110848j:plain 言われたけど、ワタシとしては「今年じゃなくて、来年からだと思います」って素直に言ったかな。そうこうしてるうちに、1月に胃腸炎になって、会社をずっと休まなきゃいけなくなっちゃって。有給を全部使っちゃったんだよね。半年間有給ナシになって。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain えええ。それは大変。

f:id:jios100:20180729110848j:plain もう半年間有給使えないとか無理じゃん?(笑)だから、「もう明日半休とって辞めるしかない」と決めて、回復した時に、前の会社の上司にメールしたんだよね。そしたら、今の会社の社長にもう一回ご飯に誘われて。「今、安全管理の仕事ができる人を探してる」って。ワタシがずっとやってきたことだったから、もう神様の導きを感じて。今の社長も、「今夜、履歴書を出しなさい」って。で、次の日に「今夜面接してください」ってなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain もうトントン拍子。

 f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。面接もいい感触でね、これはイケたと。でも、社長からメールが来て、「残念だけど、違う50代の人が採用になりました」って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ガッカリ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain 残念だったね。でも、その後すぐに、これまたお風呂入ってた時なんだけど、「そういえば、大学の時も”ウェイトリスト”(補欠合格)に入ってたなー」って思い出して。「あっ、これはもしかして受かる流れだ」って直感で思ったんだよね。80%くらいの確信があった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そしたらやっぱり。

f:id:jios100:20180729110848j:plain そう。最初の人がオファーを蹴ったから、ワタシが受かった。すぐ転職になったよ。3月20日に前の会社を辞めて、その月の22日からもう働いてた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain はやっ。

f:id:jios100:20180729110848j:plain 新しい冒険からしょうがない。前の職場は大好きだったし、「なんで辞めるんですか」ってめっちゃ言われたけど。ワタシにとってはすごくステップアップさせられた。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 前の会社と違うところは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain クラシエは大きい会社だったから、自分の責任の範囲が狭かった。今の会社は15人くらいしかいない小さな会社だから、問題は紛れてくれないし、自分がカバーしなきゃいけない範囲も大きい。大変だけどいい経験になってるよ。

 

 

▼転職のポイント 〜船に飛び乗れ!〜

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に聞きたいんだけど、転職先を決めたポイントは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 実はないんだよね。「ジャンプシップ」という英語の表現があるんだけど、

f:id:jios100:20180702131349j:plain 来た船に飛び乗れ! って感じ?

f:id:jios100:20180729110848j:plain そうそう。本当は海に飛び込んじゃうところに、神様が別の船を用意してくれて、そこに飛び移れたって感じ。まぁ、社長が同じ教会の人っていうのもあったし。神様の導きっていうものを感じたのは事実かな。目の前の扉が開いたら、そこに突き進むしかないよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain さっきも、仕事はミッションフィールドと。クリスチャンだから作れた違いはある?

f:id:jios100:20180729110848j:plain 奇跡的な人間関係を神様がプレゼントしてくれたと感じるかな。この前も、会社を辞めた後なのに、前の職場の仲間が誕生日会に26人も来てくれて。よく「ユジナは太陽みたい」と言われるけど、それはワタシの中のイエス様が輝いているからであって。本来のワタシは病んでることが多いんだけどね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンは?

f:id:jios100:20180729110848j:plain うーん。ワタシは見通しを立てられないタイプだから(笑)。毎日、毎日、一歩一歩神様に人生を委ね続けていきたいと思っているよ。これ、意外と難しいから。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 本当それはよくワカル。それが一番難しいんだよね。また違う船にジャンプする?

f:id:jios100:20180729110848j:plain それは神様次第。今の職場は勉強させてもらってばっかりだから、1~2年は絶対いると思う。小さい会社だからこそ学ぶことも多いし。地味だけど、細かくて大事な仕事。大きな会社だとわからないことも学べるし。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも心にとめている聖書の言葉を。 

f:id:jios100:20180729110848j:plain これはワタシの人生の聖書のフレーズ(Life Verse)。マタイの福音書22章。

 

エスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

(マタイの福音書 22:37~39)

 

 

f:id:jios100:20180729110848j:plain いつも、この心がけで人生歩んでいきたい!

f:id:jios100:20180702131349j:plain ユジナらしい最後のシメ! 仕事場はミッションフィールド。本当にそう思います! ありがとうございました!

 

(終わり)

【疑問】クリスチャンになったら全てがハッピーなのか? ~ヘブル12章「成長のらせん階段」セオリー~

クリスチャンになったら人生全て上手くいってハッピー? そんなわけ!

 

▼全てがハッピー・ハッピー?

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 私がイエスを信じたばかりの16歳の頃、こんな賛美の歌を知った。

 

"Jesus(イエス)あなたと出会えた日から、

 全てがハッピー・ハッピー!"

  その軽快なリズムや曲調が好みで、よく歌っていたのだが、その歌詞に少しばかり違和感があった。それは、「イエスを信じたら、その後の人生は全てうまくいくのか?」という疑問である。

 そんなわけない、という答えは最初から分かっていた。聖書を読めば明らかである。イエスの弟子たちは、ヨハネ以外、軒並み殺された。パウロはいつも命を狙われ、何度もむち打ちの刑を受け、貧しい人生を送った。旧約聖書のヨブの例もある。彼は神を堅く信じる敬虔な人だったが、理由なしに大病を患うことになり、子どもが全員死に、おまけに全財産を失うといった壮絶な人生を送るハメになった。ヨブは最終的には報われたのだが、その苦しみが消えるわけではない。

 極めつけは、この聖書の言葉だ。

 

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 新改訳聖書第3版では「信仰だけでなく、苦しみをも賜った」とある。驚くべきことに、聖書は「信仰だけではなく、苦しみさえも神からのプレゼントだ」と言っているのだ。

 

 聖書の様々な人物モデルや、このような記述から、「クリスチャンになったら全てが上手く行ってハッピー・ハッピー」なのではなく、むしろ「クリスチャンになったら苦しむ」のだと分かる。えっ、神を信じたら、苦しむ? 神はなぜそんな仕打ちをするのだろう。当然の疑問である。

 私も、かつて同じ疑問から抜け出せなかった時期があった。しかし、ある聖書の言葉と出会い、自分なりの回答を得た。それは、ヘブル人への手紙12章の記述である。今回は、その記述をもとに、私の生きる糧となった、「苦しみと成長のらせん階段」について書く。

 

 

▼ポイント1:試練を乗り越える秘訣

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 まずヘブル12章の冒頭部分を見ていこう。この部分は、人生の中で直面する試練を、どうやって乗り越えていけばいいのか。その秘訣が書いてある。(ヘブル11章は旧約聖書の人物モデルを挙げ、「昔の人々は神の約束を信じた」というアプローチから、「信仰の大切さ」について語っている。その文脈からの12章である。)

 

1:こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2:信仰の創始者であり、完成者であるエスから、目を話さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

3:あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方(すなわち、イエス)のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 

 人生の中の困難に対して、どのように向き合うべきか。その答えがここに凝縮されている。「イエスから目を離さず、イエスのことを考え続ける」。これこそが、試練を乗り越える秘訣なのである。

 イエスは、自分自身は何も落ち度がないのに、十字架で死ぬことを選んだ。不完全な私たちの「身代わり」として死んだ。それを自発的に選んだのである。イギリスの聖書学者、リチャード・ボウカムは、イエスが十字架の上で、麻酔薬である「没薬(もつやく)をまぜたぶどう酒」の受け取りを拒否した事実を指摘し、こう述べている。

 

このようにイエスは社会の最も悲惨な人々、その悲惨が耐え難い人々と自らをひとつにされた。同時にその飲み物(没薬をまぜたぶどう酒)を断ることで、エスは単に彼らの一員ではなく、環境による無力な犠牲者ではなく、自発的に彼らの苦しみを共有し、明確な意識を持って、彼らにとって耐え難いことを、彼らのために耐えられた。このようにイエスは王であり、無力な人々と深く連帯し、無力な人々のために責任を果たすためにぶどう酒を控えられた。

(リチャード・ボウカム著「『聖書と政治』社会で福音をどう読むか」P.112 岡山英雄 訳)

  イエスは、神ご自信であり、王の王である方だ。その王の王であるイエスが、自発的に、自分の選択で、私たちのような弱い人間のために、苦しみ、死ぬことを選んだのである。

 そのイエスのことを見続け、エスのことを考えると、不思議なことに、力が湧いてくる。試練を試練と思わなくなる。もはや私たちは、「疲れ果ててしまうことがない」のである(本当に!)。

 

▼イエスという希望を抱く 

 なぜ、イエスのことを考えるだけで、力が湧いてくるのか。学生のバイブル、「夜と霧」に、関連するエピソードがある。

       f:id:jios100:20180725013655j:plain

(ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」訳1956. みすず書房

 「夜と霧」は、精神科医だった著者フランクルの、ナチス強制収容所での実体験に基づいた作品だ。日本では多くの人が一度は手にしたことがあるであろう、ロングセラーである。未読の方は是非一読を。

 詳細は割愛するが、本の中で、特に印象的なエピソードがある。それは、強制収容所でのある日を巡る出来事。強制収容所での生活は、想像を絶するものだったが、それでも人間の生命力というものはすさまじく、多くの人々が生き残っていた。

 しかし、ある日を境に、バタバタと人が倒れて死んでいく。ある日というのは、クリスマスだった。その年のクリスマスを境にして、年が変わるのも待たずに、大勢の人が息を引き取っていった。別に、クリスマスが終わったから処刑が始まったわけではなかった。明確な理由なしに、クリスマスが過ぎたら、大勢が亡くなっていったのである。

 なぜか。それは、多くの強制収容所にいた人たちが、「クリスマスまでには、きっと戦争が終わって、解放される」という希望を抱いていたからだ。何か根拠があったわけではない。ただ、クリスマスというのが、希望を抱くには、あまりにもピッタリな日だったというだけだ。しかし、無情にも何も状況が変わらないまま、クリスマスが終わった。人々は、希望を失った。失望した人たちは、生きる気力を失い、バタバタと死んでいったのである。

 このエピソードから、「人は希望がなければ生きられない」という教訓を得られる。フランクルが伝えたかったことのひとつは、この教訓ではないか。クリスマスまでには、きっと解放される。フランクルがいた強制収容所の人々は、そんな希望を失い、絶望して死んでいったのであった。

 

 逆に言えば、「人は希望がある限りは生きていられる」のである。

 

 クリスチャンの希望は、イエスだ。エスが十字架で身代わりとなって死に、自分たちは赦されているという希望。イエスが、死を打ち破ってよみがえり、天にのぼり、やがて帰ってくるという希望。クリスチャンが抱く希望は、そんな希望である。

 ヘブル書の別の場所には、「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4:15)という記述もある。イエスは、弱い私たちに寄り添ってくださる方である。人は、そのイエスがどんなことをしてくれたか。そのイエスの優しい心、懐の深さを見て、思い出すたびに、言いようもない安心感と力を得ることができるのである。

 イエスを見続け、イエスのことを考え、イエスのことを思い出し続ける。イエスという希望を、握りしめ続ける。これが、最良の試練を乗り越える方法である。

 

 

▼ポイント2:試練は何のためにあるのか

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 すると、もう一つの疑問がわいてくる。「そもそも、試練は何のためにあるのか」という疑問である。当然だろう。なぜ人は苦しまなくてはならないのか。辛い思いをするなら、なぜ、神を信じなければならないのか。神を信じるメリットはどこにあるのだろうか。ヘブル書の続きの箇所を、見てみよう。

 

4:あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

5:そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

6:主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから

7:訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

8:もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

9:さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

10:肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

11:すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。

 

 ここは、神を「父親」になぞらえて、なぜ試練があるのか説明している箇所だ。現実の父親を「肉の父」、神を「霊の父」として、対比している。ヘブル書は、私たちが体験する試練は「神からの訓練」だと言う。神は私たちを「子ども」とみなしている。ゆえに、神は子どもである私たちの成長のために、試練を与えて訓練する、とこういう塩梅である。

 もちろん、ほとんどの「肉の父親」は、息子をいい方向に育てようと、愛情を持って厳しく叱ったり、指導したりする。「『巨人の星』の星一徹の顔が思い浮かぶ人もいるだろう。良い結果が出れば、子どもは成長する。しかし、時に悪い動機で叱る親もいる。そのような場合は、子どもを苦しめるだけで、何の成長も生まないことも多い。

 神の試練は、人間の父親の与える試練とは違う。神が与える試練の目的は、「私たちが神の聖さにあずかり、平安の義の実を結ばせる」ことである。これを、キリスト教の用語で「聖化」と言う。または、「キリストの似姿に近づく」とも言う。聖書の別の箇所には、こう書いてある。

 

確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いがかかっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

(コリント人への手紙第二 3:15~18)

 私たち人間は、神が与える試練を通じて、成長し、「主と同じかたちに姿を変えられていく」のである。これが「聖化」である。聖化には、試練が伴う。苦しみが伴う。それは、楽ではない。「苦しく思われる」ものである。しかし、ポイント1で述べたように、主(イエス)を見続けることによって、私たちはその試練に耐えることができる。

 鏡は、光の方向に向いていなければ、光を反射できない。私たちが「主に立ち返るなら」いつでも、「覆いは取り除かれる」。そして、光の方角、すなわち、光であるイエスの方を向き続けるなら、その光を反射し、輝くことができる。そうして、徐々に、徐々に、変えられ続けていくのである。これは、努力で勝ち取るものではない。「まさに、御霊なる主の働き」によるのである。

 筋トレすると、なぜ筋肉がつくのか。それは、筋肉を一度痛めつけ、破壊したものが「超回復」して、元の筋肉より肥大するからだ。筋トレをしている時、身体は辛い。しかし、一度砕かれた身体は、元の身体より大きくなる。私たちの人間性霊性も同様に、試練を乗り越えることを通して、成長する。

 試練を通っている時は苦しく、辛い。孤独を感じ。時に、絶望する。しかし、その中で神の光、イエスの光り輝く姿のほんの少しのカケラが見えたとき、隣でずっと寄り添ってくれていたイエスの存在に気がつく。そうして私たちは、成長し、徐々にイエスの姿に近づき、変えられていくのだ。

 

 

▼ポイント3:ひとつの疑問 聖くなければ主を見られない?

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 試練を乗り越える秘訣は、イエスを見続けること。試練は、私たちが成長し、イエスの姿に似ていくためにある。ここまではロジカルだ。しかし、ヘブル書の続きの箇所を見ると、ある疑問が出てくる。

 

12:ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

13:また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道をつくりなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

14:すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

 私は、初めてここの最後の部分を読んだ時に、ある矛盾が気になった。これまでの理論をシンプルにして、整理しよう。

 

1:イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる。

2:試練を乗り越えれば、神の聖さにあずかり、成長する。

3:聖さがなければ、だれも主(イエス)を見ることができない。

 この3番が問題なのである。「聖さがなければ主を見ることができない」のであれば、そもそも1番の「イエスを見続ければ、試練を乗り越えられる」が成立しないではないか! 

 言い換えれば「聖くされるために試練がある」のに、その試練を乗り越える条件が、「聖い人しか見ることのできないイエスを見る」ことというのは、一体どういうことなの?! という疑問である。これは矛盾している。

 これでは、試練を乗り越えるのは不可能ではないか! 私は困惑した。まるで矛盾している。私は、しばらくの間混乱した。しかし、すぐに聖書のほかの場所を読んでいて、この疑問が解決し、腑に落ちた。

 

 

▼「聖化」のらせん階段

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 私が読んだのは、このような聖書の言葉である。

 

日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰っていく。

(伝道者の書 1:5~7)

 この箇所は、直接、試練について語っている場所ではない。しかし、「巡り巡る」という表現が示唆するものが、私に気づきを与えた。

 

 そうか、「巡り巡る」のだ。成長は1度だけではない。成長し続け、聖くなり続けるのだ。

 

 そう気づいた瞬間、ただの「円」だった成長サイクルのイメージが、急に立体的になった。「らせん階段」のイメージが私の脳裏に浮かんだ。

 そうか。人間は、試練を通して、挫折を経験する。その中で、イエスの姿を見出し、成長して、聖くなる。より聖くなれば、今まで見えなかった別のイエスの姿が見えてくる。そうすれば、より大きな試練に耐えうる力を得られる。そして、また次、またその次の試練へと続いていく・・・その繰り返しなのだ。

 そう気がついた時、に、一気にこのヘブル12章の3つのポイントがつながった。私たちは、遠いむかしから現代、また未来に至るまで、このサイクルを続けていく。水が巡り巡るように。風が巡り巡るように。時が巡り巡るように。繰り返し、しかし、着実に変化していく。「*遠い過去と遠い未来をつなげるために。そのためにオレはいるんだ」というわけだ。 *「ヒカルの碁」23巻より

 

 聖書のほかの場所にも、このように書いてある。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

(ローマ人への手紙 12:1~2)

 

 心を新たにし続け、神のちからによって変えられ続ける。そうすれば、何が神の道なのか、「見分け続ける」ことができる。私は、その成長、聖めのプロセスを「苦しみと成長のらせん階段」と呼ぶことにした。鉄が熱され、叩かれ、鍛えられるように、「鉄は鉄によって研がれ、人は友によって研がれる」(箴言27:17)。人は、他の人との人間関係を通して、苦労し、成長するのかもしれない。

 人は、同じことで悩み、苦しみ、また同じ失敗をしてしまう。そのたびに、落ち込む。見える景色は同じかもしれない、しかし、同じところをグルグルと回りながら、着実に人は成長していくのだ。

 

 この永遠に続くサイクルの中に、神はいる。だからこそ、神は、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」(黙示録4:8)と呼ばれる。神は自分の名前を、「わたしはある」という名前だと名乗った(出エジ3:14)。「わたしはある」というのは、ヘブル語で、過去も現在も未来も「ここにいるよ」とささやき、存在される方という意味がある。まさに、「今いまし、昔いまし、後に来られる方」なのである。

 

 今、あなたはどのような試練の中にいるだろうか。どのような困難にぶち当たっているだろうか。または、どのような苦難の道を通ってきただろうか。そこで得たものは何か。今一度考えてほしい。

 聖書の神は、「耐えられない試練はない」と約束している。イエスは、いつも、いつまでも、あなたのそばで、ずっとあなたに「ここにいるよ」とささやいている。

 

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

(コリント人への手紙第一 10:13)

 

【疑問】清く正しく生きることが「証<あかし>」になるのでしょうか?

教会で悩み相談をすると、よく「そんなの証し<あかし>にならないよ!」と言われます。どういう意味でしょうか?

 

▼証しにならない?!

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 「それは証し<あかし>にならないよ」。教会でよく言われる言葉だ。「証し<あかし」という単語にピンとこない人も多いかもしれない。要するに、「そんな生き方を他人に見せたら、クリスチャンらしくないからやめなさい!」という意味である。例えば、酒を飲むとか、テストでいい点をとらないとか、きちんと働かないとか、失敗してくよくよ悩んでいるとか、そういう姿である。そういう人たちに対して、教会のオバちゃんたちは、「そういうのは証しにならないわよ」とバッサリ言うのである。教会で、仕事の悩みなどを相談すると、絶対にこの言葉を聞くことになる。そういう経験を一度すると、教会で本音の話ができなくなってしまう。

 「証しにならない」と言う人たちの頭の中には、「クリスチャンたるもの、常に清く正しく美しく生きなければならない」という考えがあるのだろう。または、「クリスチャンは常に成功していなければならない」という想いがあるのかもしれない。でも、その考えは本当に正しいのだろうか。

 今回の記事は、「そもそも証しって何?」「本当の証しとは何か」という視点で書いていこうと思う。

 

 

▼「証し」の言葉の意味

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 教会で聞く「証し<あかし>」または「証し<あかし>をする」という耳慣れない表現は、どこから来た表現なのか。実は、聖書にはこの「証し」という表現がたくさんある。その例を見てみよう。

 

彼(バプテスマのヨハネ)は光ではなかった。ただ光(イエス)について証しするために来たのである。

ヨハネ福音書 1:8)

もしわたし(イエス)自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。

ヨハネ福音書 5:31)

 このように、「あかし」という言葉は聖書のいたるところに出てくる。では、「●●が●●を証しする」というのは、どういう意味なのだろうか。「ガリラヤのイェシュー」を書いた山浦玄嗣氏は、このように解説している。

 

 聖書には「証し」とか「証しする」という言葉がよく出てきます。国語辞典にはこうあります。

 

 証し=①証拠・証明。 

    ②後ろ暗くないことの証明。

 

 普通、世間では「証しする」という言い方はしません。「証し」は、「身の証しを立てる」とか、「生きている証しだ」という言い方で用います。「証し」は「あかす」という動詞の連用形から派生した名詞です。クリスチャンと名乗る方はよく「聖書の学びをする」という奇妙な言い方をします。「聖書を学ぶ」と言えばいのに、なぜでしょう。これはキリスト教特殊語法です。「証しする」も、この類です。

 ところで、聖書で「証しする」という意味は、前後関係から見て、「証し=証明・証拠」と説明する国語辞典の意味とは趣が違います。(中略)

 「犬が哺乳類であることを証明する」という文は意味が通りますが、「犬を証明する」は何のことやら見当もつきません。証明とは常に「AがBであることを」が内容として示されなければなりません。A、Bどちらを省いても証明になりません。

 「証しする」と訳された「マルテュレオー(ギリシャ語)」の意味は、辞書によると「証言する、証人である、証しする」です。日本語の「証言」の意味は次のようです。

 

  証言=①事実を証明すること。

     ②証人の陳述。

 

出展:山浦玄嗣「イチジクの木の下で 上」P:224-227 2015.

  

 山浦氏によれば、聖書の「証しする」は、「証人として●●を証言する」、言い換えれば「ああ、いかにもそうだなぁ、と思わせる」ということだそうだ。

 若干補足すれば、福音書の著者たちの宗教的な思考言語であったであろう、ヘブライ語の「あかし」は、「エイド」という言葉で、こちらも「証人・証言」という意味である。つまり、ヘブライ語的にも、「証しする」という言葉は、「証拠・証明」というよりは、「証言する」「証人となる」という意味なのだ。わかりやすく言い換えれば、「明らかにする」「確からしくする」という意味と考えられる。

 以上のようなことから、先に示したヨハネ福音書の内容を、山浦氏は以下のように訳した。

 

その人(バプテスマのヨハネ)はその光ではなくて、光(イエス)についてあまねく世に知らせようとして来た人だ。

ヨハネ福音書 1:8)

もし俺(イエス)が、俺の言うことは本当なんだと自分でいくら言い立てたとて、そんな言葉は信用できまい。

ヨハネ福音書 5:31)

 

 「証しをする」というのは、「『ああ、●●って本当なんだなぁ』と思わせるように、証言する行為」と言えるだろう。

 

 

▼クリスチャンたちが言う「証し」とは?

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 では、クリスチャンたちが「証しする」と言う時、何を「本当なんだなぁ」と思わせようとしているのか。無論、「神の存在」「イエスの存在」である。もっと踏み込めば、「神がどれだけ偉大な方か」「イエスの懐がいかに深いか」を明らかにするのが「証し」である。

 よく、クリスチャンの集会に行くと、「証し」と称して誰かの過去話を聞かされる場合がある。「証し」は、神やイエスの素晴らしさを明らかにするものだが、時々この重要なポイントを忘れてしまっている人がいる。そういう人たちの「証し」は、「私はこれだけ頑張って、これだけ成功しました!」という、ただのサクセスストーリーだ。そういう人たちの証しは、一見、「神」という言葉は使っているが、その結論がしょうもない。「たくさん献金したら、もっとお金が入ってお金持ちになりました!」とか、「神様のおかげで一流大学に合格しました!」という、「神、関係なくない?」といった話が多いのである。これでは、「証しではなく」ただの「深イイ話」である。これらは、驚くべきことに、全て私が教会で聞いたことのある実話だ。

 今まで聞いた証しで一番しょうもなかったのは、某国の自称クリスチャン・アーティストが、「神様はボクをこんなにカッコよく造ってくれました。だからこうしてみんなの前で歌えます」と言って、上着を脱ぎ、タンクトップ姿になった証しだ。えっ・・・神の素晴らしさではなく、結局ただの自慢じゃん・・・と思ったのだが、会場は「キャー」という黄色い声援に包まれていた・・・。

 

 「神を信じたら、人生うまくいった」

 「神にお願いしたら、お願い事が叶った」

 

 クリスチャンの「証し」って、そんな程度のものなのだろうか。努力で勝ち得るものなのだろうか。否。本物の証は違う。

 私が考える、本物の証しは、「神がどれほど憐れみ深い方か」明らかにするものである。クリスチャンは、自分が清く正しく生きたから、救われるのではない。イエス自身が、まだ私たちが生まれるはるか前に、十字架で死ぬことを選び、私たちに寄り添うことを選んだのである。自分たちの努力によらない、一方的な救いである。クリスチャンはこれを「恵み」と呼ぶ。

 努力によらず、行いによらず、ただ「恵み」による救いを信じるのが、クリスチャンだ。であるならば、その神の「懐の深さ」を証明するには、「清く正しい生き方」ではなく、「どんなに自分がしょうもない人で、だけどそんな自分を神が見つけてくれた」という話が「証し」なのではないか。もっと単純に、「俺が信じてる神ってすごいんだぜ?!」というのが証しなのではないか。

 「そんなの証しにならないよ」と言われても、クヨクヨ悩まなくてもいい。そんなあなたの等身大の姿を、イエスは愛してくれたのだから、それを思いっきり誇ればいいのだ!

 

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(中略)「誇る者は主(神)を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙第一 1:26~31)

 

 

▼「良い行い」を備えるのは神

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 「証しにならない」と言う人々が、おそらく「でもこう聖書に書いてありますよ」と、主張する聖書の言葉がある。以下の言葉だ。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 これは、有名なイエスの言葉である。ここだけを読むと、「ああ、自分の良い行いを見て、他の人の証しにならなくちゃ」と思うわけである。でも、果たしてそうなのだろうか。聖書の別のところには、こうも書いてある。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

(エペソ人への手紙 2:8~10)

 

 この聖書の言葉によれば、以下の2つは明らかである。

 

1:行いではなく、恵みによって与えられる信仰で救われる。

2:良い行いは、自分のものではなく、神があらかじめ備えたもの

 

 「良い行い」は、自分が頑張ってするものではなく、神が備えるものなのである。

 

 

▼弱い時こそ強い

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 「良い行い」は、自分の力ではなく、神の備えであると分かった。すると、もう一つの疑問が浮かんでくるだろう。「良い行いができていないのは、神が働いていないからだ。自分は、神の力が働くに値する者ではないのだろうか」という疑問である。本当にそうなのだろうか。別の聖書の言葉を見てみよう。

 

しかし主(神)は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私(パウロ)は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

(コリント人への手紙第二 12:9~10)

 

 パウロは、「弱いときにこそ、強い」と断言している。このパウロの姿勢から、以下のことが分かる。

 

1:自分が弱い時にこそ、神・キリストの力が完全に働く。

2:人間の弱さは、実は神の強さである。自分の弱さのうちに神の力が働くので、その弱さを誇ることができる。

 

 クリスチャンは、もはや自分の力で歩まなくて良い。また、等身大の自分を隠して、「オモテムキ」の自分を作る必要もない。なぜなら、神が弱いままの自分を愛し、その弱さの中に働いてくださるからだ。

 だから、本当の「証し」というのは、この自分の「『弱さ』の中に、神がどのように働いてくださったか」というものだと思う。クリスチャンにとっては、もはや弱さは「自慢」なのだ。

 カンチガイしてほしくないが、「弱さをそのままにしていいや~好き勝手やっておくんなせぇ」と言っているわけではない。詳しくはまた別記事を書くが、クリスチャンは「神のきよさ」に向かって、「変えられ続ける」必要がある。しかし、それは、この世の中で「活躍」することだったり、「成功」することだけを指すのではない。それだけが「証し」ではない。人の心をゆさぶるのは、「サクセスストーリー」ではなく、「失敗や挫折、弱さのその先にあるもの」なのである。

 

 

▼「地の塩、世の光」とは?

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 では、イエスの言う「地の塩、世の光」とは、どういう意味なのだろうか。もう一度見てみると、スッキリすると思う。

 

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

(マタイの福音書 5:13~16)

 クリスチャンは、自分で輝けるのだろうか。否。クリスチャンは自ら輝けない、月のような存在である。月が輝くには、方法はただ一つ。光の方を向くことだ。クリスチャンにとっての光は誰か。それは、神であり、イエスである。エスが、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1:9)なのである。

 つまり、イエスは、「俺を信じることをハズカシイと思うなよ。俺をシッカリと見て、俺の光を受けて輝け! 俺についてこい!」と言っているのである。イエスを信じる人は、もはや「弱さ」を隠さない。なぜなら、その弱さのうちにイエスの力が働くからである。

 「証しにならない」と言っている人はどうか。むしろ、その人たちは、「自分がもっとシッカリしていないとダメだ」と考え、そこにイエスが働くことを忘れていないか。「もっと清く正しく美しく生きなければ」という考えに支配されると、いつのまにか、ありのままの自分を愛してくれたイエスを忘れていく。だんだんと、「こんな自分がクリスチャンだと言ったら、悪影響だ」という言い訳を自分に作って、「クリスチャンであること」「イエスを信じていること」を隠していく。まさにそれは、「塩気をなくした塩」「升の下に置かれた明かり」ではないか。

 クリスチャンは、堂々とありのままの自分をアピールしていい。「俺はイエスを信じているんだ! イエスはすごいよ?! そりゃ毎日大変なこともあるけど、でもイエスが自分の中で働いてくれるんだ! こんな喜びに満ちた人生ないよ?」と、イエスを自慢しよう。それが、一番の「証し」ではないだろうか。

 「証言をする」のが「証し」なのであれば、ありのままの弱い自分に寄り添って、そっと抱きしめてくれたイエスの姿を、明らかにしていこうではないか。

 「クリスチャンたるもの、こうでなければならない」「クリスチャンはこれをしてはいけない」という考え方ではなく、「クリスチャンだからこんなことができる!」という考え方になろうではないか。

 

ですから、だれでも人々の前でわたし(イエス)を認めるなら、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

(マタイの福音書 10:32~33)

【疑問】なぜ教会は「クリスマス」は祝うのに聖書の祭りは祝わないのか

クリスマスもイースターも聖書に書いてないって知ってましたか?

▼ウソと偽りのクリスマス

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 キリスト教といえば、クリスマスにイースター。誰もが思い描くイメージだろう。「普段は教会行かないけど、クリスマスとイースターだけは行くんです」・・・よく聞くセリフだ。はっきり言っておく(イエス風に)。クリスマスも、イースターも聖書には記述がない。ええっそんなばかな、と思うかもしれないが、本当だ。

 ウソだと思うならば、聖書を調べてほしい。確かに、イエスが生まれた記述や、復活した記述はある。しかし、「クリスマス」「イースター」などという単語はどこにもない。実は、両方とも後代に作られたただの文化なのである。そもそも、イエスが12月25日に生まれたという記述はどこにもないし、「イースター」という日に復活したという記述もない。

 しかし、聖書には、「これを覚えて行え」と命じられている大切な7つの祭りが書かれている。しかし、ほとんどの教会がこれを行っていない。なぜか。今回は、「祭り」についての記事を書く。

 

 

▼クリスマスのウソ

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 クリスマスが12月25日だというのは、大ウソだ。エスが生まれた際、羊飼いたちが外で寝ずの番をしていたという記述がある。イスラエルといえど、冬はかなり寒い。体感では東京と同じくらい。私が留学していた時は、大雪が降ったくらいだ。外で寝ずの番をしたら、凍え死んでしまう。

 このことなどから、イエスは冬ではなく、春頃か秋頃に生まれたというのが通説である。しかし、聖書に具体的な日にちかが書かれていない以上、ハッキリとはわからない。

 それなのに、なぜ12月25日がイエスの誕生を記念するクリスマスとなったのか。それは、ローマ帝国が「キリスト教」を公式に認めた頃、その地域で盛んだった「ミトラ教」の太陽神の祭りがその頃だったからだ。つまり、クリスマスは元々「異教の祭り」なのだ。これを未だに大真面目に祝っているのは、ちゃんちゃらおかしい話である。

 イエスがいつ生まれたかわからない以上、365分の1の確率で、12月25日に生まれた可能性も否定できない。だから、12月25日をその日だと決めて、世界中みんなで祝うのは、良いことだと思う。今さら違うと声をあげても、もうほぼ世界中で認められた祭日となってしまったのだから、それを覆すエネルギーを使うより、利用するエネルギーにした方がいい。聖書にダメと書いてない以上、それを否定する必要はない。

 とはいえ、聖書には、覚えておくべき大切な祭りについて記述がある。私が問題だと思うのは、クリスマスやイースターなどという、あえて言えば「どうでもいい」祭りばかりに力を注いで、本来聖書が命じている大切な祭りをおろそかにしている点だ。では、その祭りとは何なのか、見ていこう。

 

 

▼聖書の7大祭り

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 聖書には、7つの大切な祭りが書かれている。そして、それぞれが重要な意味を持っている。以下の祭りだ。

 

【聖書の7大祭り】(時期はユダヤ暦のため毎年ズレる)

1:過ぎ越しの祭り(ペサハ)<春・3月~4月頃>

2:種なしパンの祭り(ハグ・ハ・マツォット)<春・3月~4月頃>

3:初穂の祭り(ヨム・ハ・ビクリーム)<春・3月~4月頃>

4:7週の祭り(シャブオット)<春・5月~6月頃>

5:ラッパを吹き鳴らす祭り、ユダヤ新年(ヨム・テルーア、ロシュ・ハ・シャナー)<秋・9月頃>

6:大贖罪日(ヨム・キプール)<秋・9月頃>

7:仮庵の祭り(スコット)<秋・9月~10月頃>

 

 これに加えて、毎週土曜日の「安息日」が大前提の祭りとしてある(毎週お祭りイスラエル!) 

 これらひとつひとつを解説していると、日が暮れてしまうので、今回は割愛するが、どれも聖書の中で命じられている、大切な祭りだ。(興味がある方はレビ記23章を参照)

 なぜ大切なのか。ユダヤ人のための祭りであって、我々外国人には関係ないのではないのか。とんでもない。聖書には、様々な「伏線」がある。これらの祭りは、全て大切な「伏線」になっているのである。詳しくは省くが、だいたい、以下である。

 

<春の祭り>

1:過ぎ越しの祭り →イエスの十字架

2:種なしパンの祭り →イエスの十字架と復活全体

3:初穂の祭り →イエスの復活

4:7週の祭り →ペンテコステ聖霊が下った日)、教会の共同体の誕生

<秋の祭り>

5:ラッパ(角笛)を吹き鳴らす祭り、ユダヤ新年 →イエスの再臨? 携挙(けいきょ)?

6:大贖罪日 →大艱難時代? 最後のさばき?

7:仮庵の祭り →千年王国? 新しいエルサレム? 新しい天と地?

 

 1~3の祭りは、実は1週間のうちに凝縮されている。全てが、エスの十字架の死と復活の伏線となっている。この3つの祭りは、有名なモーセの時代に、イスラエルの民がエジプトから脱出する時の話が元ネタとなっている。この過ぎ越し、種なしパンの祭りの意味を学べば学ぶほど、全てがイエスにつながってくる。興味がある人はぜひgoogle先生で検索して学んでみてほしい。

 現代の教会に行くと、ふかふかのパンとワインが出されて、「これがキリストのからだです」とか言ってみんなで食べる儀式がある。いわゆる聖餐式<せいさんしき>だ。イエスが弟子たちとメシを食いながら、「これを覚えて行え」と命じた、有名な最後の晩餐のシーンである。この食事、実はタダの食事ではなく、この「過ぎ越しの祭り」の食事なのである。だから、本来はイースト菌でふくらんだパンではなく、イースト菌が入っていない「種なしパン」(マッツァ)で聖餐式をやるのが正しい。マッツァは、パサパサしたクラッカーのような味。正直美味しくない。興味がある人は、一度食べてみては。アマゾンとかコスコとかで買える。

 7週の祭り、(シャブオット)は、新約聖書にも記述がある(使徒の働き2章)。ギリシャ語では、「ペンテコステ」ともいう。過ぎ越しの祭りから7週間経った次の日、つまり50日目なので、ギリシャ語の50日目を表す言葉が由来だ(7x7=49+1=50日目。ペンタゴンというのを思い出せば覚えやすい)。

 この日に、イエスが約束した「助け主」である「聖霊」が弟子たちの上に下った。この時から、弟子たちは、イエスの福音を大胆に伝えるようになった。福音が世界中に広がっていったのだ。この時が、教会の共同体の誕生である。7週の祭りは、この聖霊の働きと、共同体の誕生の伏線となっているのである。

 

▼まだ未回収の「伏線」 

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 秋の3つの祭りは、未だにが未回収の伏線である。

 秋の祭りは「ラッパの祭り」から始まるが、新約聖書には、「ラッパ」と書いてあるが、これは金管楽器のラッパではなく、「角笛」を指す。イスラエルでは、進軍の合図や、集合の合図、神殿での賛美などの用途に使われた。新約聖書では、この「ラッパの音」の合図で、イエスが地上に戻って来るという記述がある。それとともに、イエスを信じる者が一気に引き上げられるとある。

 

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身(イエス)が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主(イエス)と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(テサロニケ人への手紙第一 4:16~17)

 この箇所は、「イエスの再臨」だとか、「携挙(けいきょ)」とか言われる。ただ、伏線が未回収なので、具体的にどういうタイミングで、どういう形で実現するかは、誰もわからない。残念ながら神の計画のネタバレサイトはない。推理している人たちは大勢いるが、本当のところは誰も知らない。知り得ない。ただ、この世界の筆者である神のみぞ知っている。実は、驚くことに、イエス自身も知らないと言っているのだ。

 

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子(イエス)も知りません。ただ、父(神)だけが知っておられます。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らにはわかりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

(マタイの福音書 24:36~39)

  イエス自身も知らないというのだから、私達人間が深入りするのはよしておこう。まさに、神のみぞ知るセカイなのである。もしあなたの身の回りに「イエスはもう来た」とか、「いついつに来る」とか言っている人がいたら要注意。某隣国には、何百人とそういう人がいるという。推理するのは楽しいが、エスの信者に必要なのは、いつ来てもいいように、絶えず目を覚まして準備しておくことなのである。この未回収の伏線が、いつ実現するのか、楽しみに待とうではないか。

 

 

▼聖書の祭りを祝おう!

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 現代の教会は、なぜ聖書の祭りをやらないのか。実は、カトリックが大きな間違いを犯している。キリスト教が国教として認められると、教会組織は、「こういうユダヤ教の祭りなんかを祝ったら、教会から除名するからな!」というおふれを出してしまったのだ。なんという暴挙。なんという間違い。なんとういう愚かな行為だろうか。彼らは、この偉大な「伏線」を理解できなかった。新約聖書にガッツリ伏線が回収されているのに、それに気がつけなかったのだ。

 今からでも遅くない。私は、現代の教会にこれらの祭りを祝うようにオススメしたい。勘違いしてほしくないが、別に外国人である私たちに祭りを行う義務はない。ユダヤ教のようにマジで安息日を守って働くなとか、1kmしか歩いちゃいけないとか、ケータイ使うなとか言っているわけじゃない。余談だが、ホンマモンのユダヤ教徒の人は、大贖罪日などの例祭には、歯も磨かないそうだ(ばっちい!)。

 大切なのは、その祭りの節々に隠されている伏線を学び、思い出すことだ。1年に7回ある祭りを祝い、経験し、神がどんなに大きいスケールで伏線を隠し、それを成就したのか、毎年思い返そう。そして、神がどれだけの計画を私達のために用意しておられるのか、知り、感謝しようではないか。そのために、これらの祭りを、たとえ日本人であっても祝おうではないか。

 クリスマスやイースターも大切だ。ペンテコステを祝う教会もある。大切な文化だ。でも、それは「キリスト教」という宗教の文化になっていないか。もう一度、聖書にどう書いてあるか、その伏線はどう実現したのか、基本に戻ろう。文化の祭りを祝うのならば、なおさらのこと、聖書で大切と書いている祭りを祝おう。私は、この7つの祭りは、日本の教会でもおおいに活用できると思う。

 別に、本当に種なしパンを用意したり、ワインでやる必要はない。ビスケットでもクッキーでも、ぶどうジュースでもコーラでもいい。別に、仮庵を作らずとも、かまくらを掘って、その中でモチを焼いてもいい。季節は違うが。大切なのは、そこに込められた意味なのだ。

 でも、できれば「形」も大切にしてほしい。なぜなら、その儀式の一つ一つには、隠された意味があるからだ。例えば、ユダヤの伝統では、過ぎ越しの祭りの食事の際に、種なしパンを3つ重ねる。祈りをした後に、そのパンの真ん中の1つだけを割る。これは、イエスを信じる人々の間では、「父・子・聖霊」のいわゆる「三位一体」の真ん中、「イエス」が犠牲となった象徴だとされている。モーセの時代からの伏線が、ここで回収されたのである。

 そのように、祭りの細かい指示のひとつひとつに、実は意味が隠されている。外国人である私達が、そこまでやるのはマストではないが、実際にやってみると、意外に面白い。仮庵の祭りの際に、実際にテントを作ってみるのも面白いだろう。そこで星を見上げて、神を思い起こしてみたら、意外とその場所があなたのイスラエルになるかもしれない。イスラエルの民の疑似体験ができるかもしれない。聖書の祭りを、あなたも体験してみてはどうだろうか。

 聖書がせっかく伏線のヒントを提供しているのに、それを無視してクリスマスとイースターだけやっているのは、どうも勿体無いと思うのだ。

 

あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが「この儀式には、どういう意味があるのですか」と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。「それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ」すると民はひざまずいて礼拝した。

出エジプト記 12:24~27)

これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記 23:43)

 

(了)

【参考リンク集】

過越の祭り | 聖書入門.com

種なしパンの祭り | 聖書入門.com

初穂の祭り | 聖書入門.com

七週の祭り | 聖書入門.com

ラッパの祭り | 聖書入門.com

贖罪の日 | 聖書入門.com

仮庵の祭り | 聖書入門.com

 

主の例祭についての預言的意味 - 牧師の書斎

三つの主の例祭 - 牧師の書斎

春の四つの主の例祭の真意 - 牧師の書斎

秋の三つの主の例祭の真意 - 牧師の書斎


ユダヤの7つの例祭(英語)7Jewish Holidays

www.hebrew4christians.com


 

【就活イエスNo.1】「絵は人を喜ばせられる」大鍔ひとみ@似顔絵会社勤務

 今回の週刊イエスはスピンオフ

「就活イエス

エスを信じる人たちの「就活」、「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

 

シリーズの第一回は、大鍔ひとみさん!

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Profile

名前:大鍔ひとみ(Hitomi Ohtsuba)

生まれ:1992年

出身:パプアニューギニアラバウル

最終学歴:SYME(School of Youth Ministries in English)

World of Life Bible Institue Jeju

職業:大手似顔絵会社勤務

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702132810j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひとみちゃんの人生マジクレイジーすぎて、どこからツッコめばいいのか・・・

f:id:jios100:20180702132810j:plain そうかも(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 似顔絵の会社に勤めてるんだよね? 普段はどんな仕事をしているの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。今は本当にいろいろ。アーティスト養成コースをサポートしたり、印刷物を準備したり、出席簿をつけたり、スタンプカードを準備したり、大人のコースをサポートしたり、最近は子供にアートを教えたりしてるよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~マルチタスクゥ~。

f:id:jios100:20180702132810j:plain テキトーじゃない?(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実は、僕のアイコンもひとみちゃんが描いてくれたんだよね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain イスラエルにいた頃の変顔写真を見て、つい描いちゃった(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あまりにもいい出来だったので勝手に拝借しました。スンマセン。

 

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 ↑ひとみさん作、宣教師のおじさんの似顔絵。力作だ!

 

パプアニューギニアでの生活

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f:id:jios100:20180702131349j:plain まず生まれがパプアニューギニアっていうのがもうね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。両親が宣教師で、パプアニューギニアで聖書を翻訳してたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その頃は何をして遊んだりしてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 意外と結構普通で、ブランコとかかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ブランコ(笑)

f:id:jios100:20180702132810j:plain 家の中にもブランコがあって、学校でもよくブランコの取り合いをしてたよ。あとは、雨が降った日は、マッドスライディングっていって、坂道を泥だらけにになりながら滑るっていう・・・私は親に禁止されてやらせてもらえなかったけど。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それ絶対楽しいやつやん。・・・いつまでパプアニューギニアに?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 小学校2年生が終わるまで。その後は、青森に少しだけいて、その後はずっと北海道。高校卒業するまでいたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 絵は小さい頃から描いてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そうだね。両親も兄弟も絵が好きだし、上手だったから。その影響もあって物心ついた時からずっと何かしらの絵は描いていたなぁ。

 

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パプアニューギニアにいた頃

 

▼聖書学校へ ~信仰のターニングポイント~

f:id:jios100:20180702131349j:plain その後の進路は?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それが、その頃はずっと日本から出て行きたくて。それでTOEFL(※英語圏に留学するための英語力テスト)を受けようとしたんだけど、買った参考書があまりにも厳しすぎて嫌になっちゃって(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 難しすぎて逆にやる気なくなるみたいな。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。それで、いろんな人に相談したんだけど、結局自分がどうしたいか分からなくなっちゃって。そんな時に、一番上の兄と電話で話して。

f:id:jios100:20180702131349j:plain お兄さんは何と?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 兄が、「ひとみなぁ、人生なんてそう計画通りにいかないものなんだ。水の流れに自分を任せるように肩のちからを抜け」って。それが本当に腑に落ちて、「あ、そうか。神様が私に行ってほしいと思っている道に行きたいです」と素直に祈れるようになったんだよね。それで、祈り始めたすぐ後に、SYME((School of Youth Ministries in English)のことを知って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain SYME<エスワイエムイー>とは?

f:id:jios100:20180702132810j:plain Word of Life(ワードオブライフ)っていう団体の、聖書と英語を学ぶ短期の学校。軽井沢にあるんだけどね。NHKの社員寮の跡地ですっごいいいところ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain またいいところを抑えたもんですな。

f:id:jios100:20180702132810j:plain 学校から浅間山がきれいに見えるよ~

 

f:id:jios100:20180702134818j:plain

↑SYME時代

f:id:jios100:20180702131349j:plain SYMEには何年いたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 元々1年のコースで、その後は大体みんなもっと本格的な聖書学校に行くんだよね。私も1年軽井沢で学んだ後、韓国のチェジュ島にある聖書学校に通ったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その時期に聖書のことを学んだんだ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。両親は宣教師だったから、聖書の話は知ってはいたけど、ほとんど表面的にしか読んではいなかった。SYMEに入ってから、もっと深く、本格的に聖書を読むようになったんだよね。軽井沢とチェジュ島での2年間が、私の信仰のスタート地点な気がする。初めて親元を離れて、親の信仰から自分の信仰になったというか。その頃が実は信仰のターニングポイントで、今までずっと日本から離れたいという気持ちがなくなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 僕もそういうことあったなぁ。それはどういうきっかけで?

f:id:jios100:20180702132810j:plain チェジュ島の学校のプログラムで、タイに宣教旅行に行ったんだけどね。その時に、日本がアジアでも最もイエス様のことが伝わっていない国のひとつだと知って。ずっと外国で、親の苦労する姿を見ていたから。現地の言葉を学んで、文化を知って、それから聖書翻訳をするっていう。だから、「私はなぜ日本語も日本の文化も知っているのに、海外にいるんだろう」って思って。その時から、逆に日本に対する思いを持つようになった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その頃も絵をたくさん描いてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それが、SYMEにいた頃から、絵を全く喜んで描けなくなっちゃった時期があって・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そんな時があったの?!

 

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 ↑この頃はTammy<タミー>と呼ばれていた。

 

▼絵が描けない?! ~スランプを乗り越えて~

f:id:jios100:20180702131349j:plain 絵が描けないってどういうこと?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 理由は自分でもよく分からないんだけどね。その時も、クラスメイトの似顔絵なんかを描いていたんだけど、絵を描くのが全然楽しくなくなっちゃって。本当に不思議。自分の得意なことのはずなのに、なぜか喜んでできない。むしろ虚しさがあって。ただ楽しくなくなっちゃったっていうより、もっと深いスランプ。絵を描くのをもうやめようと思った。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えーーっ! もったいない!!

f:id:jios100:20180702132810j:plain もう、絵が描けるってことを誰にも知られたくなかったくらいなんだよね。だから、軽井沢からチェジュ島の学校に移った時は、自己紹介でも全く絵のことは言わないで、ナイショにしてた。もう虚しさが苦しいし、そういう気持ちで描いてるってことも知られたくないし。韓国で新しい人間関係の中に入ったから、これはいいタイミングだと思って、絵は封印したんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、今は絵を描いてるよね? どうやって乗り越えたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり、隠そうとしても、情報っていうのはどこからか漏れ伝わるもので(笑)。どうやって伝わったか知らないけど、ある日、小学生の男の子が、「似顔絵描いてよ~」って言ってきて。私は「え~~、今そういうコンディションじゃないんだけどな・・」と思いつつ、小学生相手だったから断れなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで・・・

f:id:jios100:20180702132810j:plain 似顔絵を描いたら、その子がものすごく喜んでくれて。私も素直にすごく嬉しかったんだよね。その時に、「ああ、似顔絵って人を喜ばせられるんだ」って気づいた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど。似顔絵のスランプを脱したきっかけも、またその似顔絵そのものだったんだね。

 

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↑チェジュ島の学校

 

▼絵を描くことが、神の愛への応答

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、韓国の学校が終わって、日本に帰ってからは何をしてたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 北海道に戻ってから、さぁこれからどうしようってバイトしたりしてたんだけど、やっぱり絵のことが忘れられなくて。絵に関わる仕事をしたいなぁって。そんな時に、たまたま今の会社のお店に行ったことを思い出して。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 東京のお店?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。浅草の店舗で。その時にお店で少し話した似顔絵師さんが今の上司なんだよね(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 稀有なこともあるもんや。

f:id:jios100:20180702132810j:plain (笑)。で、その時にその似顔絵師さんに、「似顔絵師養成コースがあるよ」っていうのを聞いて。それが、北海道に戻ってもずっと頭に残ってたんだよね。その後もウェブサイトとかいろいろ調べていたりはして。でも、神様がその会社で働くことを私に望んでるかどうか確信が持てなかった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どうやってそこから受験に至ったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 実は、お世話になってる牧師さんに相談したら、「ひとみちゃん、僕たちには自由意思があるんだよ」って。「自由があることは神の愛だ。それを拒絶する自由もあるし、その愛を受け取って、愛する自由もあるんだよ」って言ってくれて。ああそうか、私は自由なんだって素直に思えたんだよね。そう考えたら、私がその神様の愛に自由に応答することは何かと思ったら、もう絵を描くことしかなかったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ナルホド。その言葉が一歩踏み出すキッカケになったんだね。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain その後、その似顔絵の会社を受けたの? 

f:id:jios100:20180702132810j:plain いや、英会話教室の先生をしばらくやってた。お金をためつつ、似顔絵の会社を受験する準備を進めてて。それも普通の就活とは違ってね・・・ 

 

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 ↑英会話教室

 

▼一本釣りの就活 ~挫折と転機~

f:id:jios100:20180702131349j:plain 普通の就活とは違う?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 全く違ったよ。今働いている似顔絵の会社は、まず2ヶ月間集中で「プロ養成コース」を受ける。もうひたすら課題が出て、描いて描いて描きまくる。それで、講師からレビューをもらって、また描き直す。その繰り返し。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが終われば採用?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そんな生易しいものじゃなくて、養成コースの最終試験で成績が良ければ、その後の「特別コース」にはいれて、そこでまた課題漬け。その後でやっと正社員になるための試験を受けられるんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひぇ~~長い道のり。他の会社は受けなかったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 受けなかった。もうこの会社でアーティストになりたいって決めてたから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain まさに一本釣り! 会社はどういうポイントで選んだの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 3つのポイントがあって。1つはやっぱり自分がやりたいこと。私にとってはさっきも言ったように、それが絵だったから、絵に携われる会社。

2つ目は、その会社のリーダーシップがどうか。言い換えれば、社長がどんな人か。インターネットで会社の情報を集める過程で、社長のブログや講演のビデオがたくさん出て来て。それで、ああ、熱い想いを持っていて、リーダーシップに優れている人だなァって。それだけじゃなくて、私が好きな絵とスポーツ両方の経験と情熱を持っているっていう点も惹かれたかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へ~~。僕は最終面接の直前まで社長の名前知らなかったヨ・・・(笑)

3つ目は?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 3つ目はやっぱり給料面かな。奨学金の返済もあって、それに十分な待遇を得られるっていうのは必要な条件だった。そういう意味では、この会社は好きな絵で、きちんと正社員として雇ってくれるっていう意味で、これ以上ない条件だったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain やっぱり背に腹はかえられないんだぜ。

 

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↑会社の先輩と

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、最終的にはアーティストにはならなかった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。私の時は、「プロ養成コース」に15人の受講者がいて、その中の上位3位だけが次のコースに進めることになってたんだ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain え、順位をつけるの?!

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。描いた絵が壁にはられて、自分以外の人に順位をつけていくの。講師がつける点数は価値が高いんだけどね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そういうもんなのか。その中で3位以内に入らないといけないなんて、めちゃくちゃ狭い門だね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。それで、1位から3位まで発表されたんだけど、私の名前は呼ばれなかった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えーーっ! ちなみに何位?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 気になって何位だったか聞いてみたら、4位だった・・・。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うわ~~。ギリギリ・・・。ベルギー戦くらい悔しいわ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり悔しかったよね。小さい時から絵に関しては誰にも負けたことがなかったから。でも、私より上の3人は、やっぱりすごく上手かったし。絵って悔しいんだけど、大体この人の方が上手いとか下手とかすぐ分かっちゃうんだよね。何よりその3人は覚悟が違った。2回までしか受験できなくて、後がない人や、毎週東北から通ってくる人もいて、本気度が私と違ったなという感じ。だから、結果には納得してたかな。やっぱりプロになるっていうのは、生半可な気持ちじゃダメなんだと痛感したよ。

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain じゃあ、その後どうやってその会社で働くことになったの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 今の会社とは、それっきりだと思ってた。でも、その後2ヶ月ぐらいしたら、急に連絡があって。「本社で事務職として働かないか」ってオファーが来たんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 縁が切れたと思ったら復活。

f:id:jios100:20180702132810j:plain そう。私としては、奨学金を払い戻さないといけないし、英会話教室の仕事だけでは経済的に厳しかった。想像していたアーティストとしての仕事ではなかったけど、それでも絵に携わりながらお金を稼げるなんて、これ以上ない条件だったんだよね。ただ、英会話教室の仕事との兼ね合いもあって、1年間は非正規で働いて、その後に正社員にしてもらった。

 

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社に入ってからは、どんな仕事をしていたの?

f:id:jios100:20180702132810j:plain まずは営業を知れっていうことで、営業部。似顔絵の受注を電話やインターネットで受けて、それを整理してアーティストさんに依頼を流していくっていう感じの仕事をしてた。店舗に来られないお客さんもいっぱいいるから。ネットとか電話とかでお問い合わせ対応をして。写真を複数枚送ってもらうんだけど、プリクラとかSNOWはダメ(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain アーティスト目指していた身からすると、「ああ、自分も描きたい~~」ってならなかった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain それは意外とあんまり。仕事を覚えるの精一杯だったし。自分でちょこちょこ描いてはいたからね。

 

▼これから目指していること

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今は子供にアートを教えているんだよね。

f:id:jios100:20180702132810j:plain 去年の12月から部署が変わって、教育部署になった。いろいろな仕事があるけど、子どもたちに英語でアートを教えるクラスを担当したりしているよ。子どもたちは、集中するものはものすごく集中するけど、逆にそれだけになっちゃったりして、カリキュラムを円滑を進めるのが、結構難しかったり。でも、子どもたちの目の輝きを見ていると、やってよかったなぁと思うし、アートを好きになるきっかけになってもらえたら嬉しいな。

 

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 ↑ 子供のアート教室

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後もアートに携わっていく?

f:id:jios100:20180702132810j:plain 具体的な形は見えていないけど、絵はずっと描いてきたし、これからも描いていくつもり。友人に発信も大事だと言われて、ちょこちょこインスタに描いた絵をアップとかもしてるよ。まだまだやりはじめたばっかりだけど、フォロワーが増えたり、「いいね」がもらえたりすると、素直に自信になるよね。でも、同時に絵で生計を立てる難しさも知っているし。あとは、やっぱり神様のために直接、宣教師とか、伝道師とか、形は分からないけど、何かをしたいという気持ちもやっぱり強くあって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 正直、僕もやりたいこといっぱいあるなぁ。

f:id:jios100:20180702132810j:plain やっぱり、それは日本に戻ろうと思った時から強く思っていて。今は、一生懸命働きながら、将来のことを模索している感じかな。目の前の一つひとつのステップのために祈りながら。

 

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タブレットには、今まで描いた作品がズラリ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスを信じる者として働いていて、職場で何か変わったこととかあった?

f:id:jios100:20180702132810j:plain うーん。何かあったかなぁ。特別なことは思いつかないけど、ある上司に「大鍔さんは一番ポジティブだよね」と言われて。自分では全くそんな自覚はなくて、むしろ落ち込んでいる時もあったんだけどね。もしかしたら、エスさまに赦されているっていう気持ちが、自然と前向きな姿勢につながっているのかなとは思うかな。

 あとは何を信じているかって話しになったときに神様の話ができるのは嬉しい。いずれは違いをもたらすんじゃないかなと。会社だけにとどまらず。その人の人生に違いをもたらすことはできるんじゃないかなって。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うーん。まさに地の塩、世の光、ですな!

f:id:jios100:20180702132810j:plain テキトーじゃない?(笑)

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 ↑ コバヤシのイチオシ作品。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、ひとみちゃんイチオシの聖書の言葉を教えてください。

f:id:jios100:20180702132810j:plain いつも心に覚えたい聖書の言葉が2つあるので紹介します。

詩篇16:8「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません」

箴言16:3「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」

 

f:id:jios100:20180702132810j:plain いつも、自分ではなく、主権は神様にあることが分かっていたら、揺れ動くことはないっていう点で、この2つは共通点があるかなと思って。正直、常にこの言葉を覚えてそのとおり生きられるわけじゃないけど、いつも神様のもとに引き戻される言葉です。

f:id:jios100:20180702131349j:plain いつも、自分ではなく、神に人生を委ねていきたいね! 今日は、お時間いただきありがとうございました。

 

(終わり)