週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教(イエスを愛する者のブログ)

【疑問】クリスチャンはタバコを吸っていいのだろうか?  

 

クリスチャンは、タバコを吸ってもOKなの?

 

▼「酒」よりハードル高そうな「タバコ」

f:id:jios100:20180411175216j:plain

 クリスチャンにとっての飲酒の是非は、既に記事を書いたので参考に読んでいただきたい(→飲酒の是非の記事はこちら)。さて、「酒」より「ハードル」が高そうなのは、「タバコ」である。喫煙はクリスチャンにとって、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

 インドネシアに伝道旅行に行った際、とある聖公会のチャプレンに出会った。キリスト教系の高校生の引率だった。彼は、教え子たちがいる前で、タバコをプカプカしていた。衝撃だった。私は、以前、クリスチャンにとって、喫煙は当然のように罪だろうという考えを持っていた。クリスチャンであれば、タバコなんぞに手を出さないのは当たり前で、そこに疑問の余地はないと考えていたのだ。しかし、目の前で教職者がタバコをファーッとふかしている。驚きを禁じ得なかった。ある意味、「喫煙」は「飲酒」よりショッキングな出来事であろう。

 

 

イスラエルでのパラダイム・シフト

f:id:jios100:20180411175445j:plain

 学生時代の留学先はイスラエルだった。イスラエルに行くと、私の狭い常識は、いっそう打ち砕かれた。ユダヤ人とドイツ人の信仰の友が、バイブルスタディーに誘ってくれた。喜んで行くと、皆の真ん中には、テーブルではなく、大きな水たばこがあった。彼らは、ヘブライ語「ナルギーラ」という水タバコの煙を、ブクブクと音をならして吸い込み、ファーッと煙を吐き出しながら、聖書の言葉を共に読みはじめた。はじめは戸惑ったが、留学中ということもあり、「ええい、ままよ」の精神で、僕もジョインしてみた。これが、結構ハマった。僕らの「ナルギーラ・バイブルスタディー」は、定期的な習慣となった。これまた、いい霊的教訓の場になったのである。

 

 僕は一度、ユダヤ人の友人、ジェイク(仮名)に尋ねてみた。「タバコやナルギーラはOKなのかい?」。ジェイクは、ユダヤ人だがイエスをメシア(救い主)だと信じている、「メシアニック・ジュー」だ。彼は、いつもの「ナルギーラ・バイブルスタディー」のメンバーだった。彼は非常に熱心な信者だった。そんな彼がタバコも水たばこもやっているのが不思議だったのである。

 彼は当然のように言った。「え? 聖書に全く書いてないからいいに決まってるでしょ」。なるほど。ユダヤ人にとっては聖書の律法が全て。それがハッキリ分かった。

 そんなジェイクは、イエスを信じている。彼は、ユダヤの律法は、もはや意味がないと知っていた。それでもなお、彼は、習慣的に律法を守っていた。肉と乳製品は一緒に食べないし、食器やスポンジも別。電子レンジも、肉用の電子レンジと乳製品用の電子レンジで分けている。安息日(土曜日)は出歩かないし、頭にはいつもユダヤ人が身につける小さな帽子、「キッパ」を被っている。そんな彼は、イエス(イェシュア)を心から、本気で、めちゃめちゃ信頼していた。彼とは、たびたび夜通し、イエスや聖書について、熱く語ったものだ。そんな彼も、パーティーの時は思いっきり酒も飲むし、ナルギーラもブクブクとやっていた。

 僕の「信者像」は、ガラガラと音を立てて崩れていった。酒やタバコをやらないといった、僕が「クリスチャンらしさ」だと思っていた部分は、イスラエルでは全く通用しなかった。逆に彼らにとっては、「安息日に出歩かない」とか、「肉と乳製品を分ける」とか、「豚肉を食べない」ことが、「信者らしさ」であった。このとき、私は初めて、「信仰って何だろう」と考えるようになった。パラダイム・シフトが起きた。イスラエル留学は、自分で聖書を吟味しようと思ったきっかけになった。

 

 さて、聖書はタバコについて何と教えているのだろうか。

 

 

▼タバコの記述、実はなし?!

f:id:jios100:20180411180114j:plain

 ジェイクの言うように、聖書には、タバコに関する記述が全くない。良いとも、悪いとも言われていないのである。どんなに探しても、ないのである。もっとも、中東経験のある人ならば、アブラハムとかイサクとかヤコブといった族長たちが、タバコをプカプカしながら、チャイを飲んでいた、といったような風景は、容易に想像できるだろう。しかし、明確な記述がない以上、それは想像の域を出ない。

 では、どう考えたらいいのか。まず、大前提として、飲酒の是非の記事でも述べたが、「それ事態でNGな行為は、もはやない」のである。私たちは、「これはやっていい」、「これはやってはダメ」といった、律法主義的な考えからは、既に解放されている。そのような律法の要求は、全てイエスが十字架の上で完結させたのだ。イエスによる「なだめの香り」によって、現在過去未来の全ての罪に対しての神の怒りは、既に鎮まっているのである。

 完全に自由であるといっても、何でもかんでもしていいわけではない。それはもう、「心の動機」に聞けば分かる。あなたは、あなたの行為の「結果」(consequences)を刈り取る。食べ過ぎれば太るし、寝不足になれば健康を害する。それと同じで、あなたと神様の関係を傷つける行為をすれば、当然、神様との距離は離れる。神が離れるのではない。あなたが自発的に離れていくのだ。あなたと信仰の友との関係を傷つける行為をすれば、当然、あなたと信仰の友との距離は離れる。では、「喫煙」という行為は、どういう影響を及ぼすのか。

 今回は、1:あなたと神の関係2:あなたと信仰の友の関係、の2つの視点から、喫煙について考えていきたいと思う。

 

 

▼あなたと神の関係(1) ~あなたは聖霊の宮である~

f:id:jios100:20180411180356j:plain

 喫煙をするとしないとでは、あなたと神の関係は変わるのだろうか。正直いうと、私はほとんど変わらないと思う。ある意味、お酒より変わらないと思う。

 よく、クリスチャンの間で、喫煙を避けるべきという人が引用するのは、以下の聖書の言葉である。

 

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

(コリント人への手紙第一 6:19)

 あなたは、聖霊の宮」なのだから、その宮を喫煙によって汚してはいけないという理論である。これは、2つの点から間違っている。

1:性的な失敗の文脈であり、喫煙について書いてある箇所ではない。

2:喫煙だけが「汚す」ものではない。

 この箇所は、「性的な失敗」について書いてある箇所だ。喫煙についてではない。聖書は、婚前交渉や近親相姦、同性愛などを明確に禁じており、それについての箇所である。少し前の箇所を見てみよう。

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」(※創世記2:24の引用)と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

(コリント人への手紙第一 6:16~18)

 「淫らな行い」というのは、「ポルネイア」(この部分は、ポルネオ)というギリシャ語で、「ポルノ」の語源となったと言われている。「ポルネイア」は、婚前交渉や近親相姦、同性愛や獣姦など、「正しくないセックス」を指す。異論はあるだろうが、今は議論は避ける。

 コリントの箇所は、「性的失敗」は、神との関係を阻害するものとして警告している。それらを避け、神と一つの存在となるべきと書いてあるのであって、喫煙や飲酒の是非と問うているわけではないのである。

 私たちは聖霊の宮である。だからこそ、毎日毎日、神を知り続け、神とのシンクロ率を高めていく必要がある。それが根本のメッセージであり、「神の宮だから禁煙!」というのは論点がズレている。

 

 

▼あなたと神の関係(2) ~喫煙はあなたを汚すのか~

f:id:jios100:20180411180549j:plain

 しかし、神とひとつのからだとなったのだから、タバコを吸ったらからだが汚れるのではないか、という指摘もあるだろう。これに対しては、イエスは明確な方針を示している。

 

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」

(マタイの福音書 15:10~20)

 当時、手を洗わないで食事をするのは、ユダヤの律法的にご法度だった。というか、現代でも手を洗わないで食事をするのは、ばっちいからヤメた方がいいが、ユダヤ的には清潔+清めの儀式としての意味合いもあったようである。パリサイ人たちは、手を洗わないで何かを食べれば、からだが汚れると心から信じていた。

 しかし、イエスは、「どうせ食ったものはウンコになるんだから、別にどうってことない。本当にヤバイのは、心の問題だ。食べるものより悪口を言わないように気をつけろバカヤロー!」と言ったのである。タバコも同じではないか。もちろん、健康には良くないだろう。しかし、霊的な目線では、飲酒よりも、喫煙よりも、悪口の方が100億倍悪いのだ。

 あなたがタバコを吸ったところで、せいぜい健康的影響は、微々たるものだろう。もちろん、両手を上げて健康に良いとは言わない。肺がんのリスクは高まるし、様々な身体への悪影響はあるだろう。妊婦は喫煙を避けるべきだし、ニコチンによる依存症もある。だから、お酒と同様、自分なりの「線引き」はした方がいいだろう。しかし、たばこを吸っても、吸わなくても、人はいつか死ぬのである。あなたはどんなに健康に気をつかっても、あなたの寿命を1秒たりとも長くすることはできないし、1秒たりとも短くすることもできない。それは、イエスがハッキリと言っている。

 「この世の健康」に気をつかい出すと、キリがない。無闇やたらなオーガニック主義、紫外線恐怖症、過度なダイエットなど、ある意味「偶像礼拝」に陥ってしまう危険性もある。気をつかい出すと、気楽に外食もできないし、外も安心して出歩けないし、食物を感謝して受け取ることもできなくなる。コリントの箇所に記述がある通り、「『食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある』が、神は、そのどちらも滅ぼされる」のである(コリント6:13)。

 

 むしろ、そのような健康に気をつかうより、「悪い考え」や「ののしり」に気をつけるべきと、イエスは教えている。さすがに、「殺人」はなくても、「不倫」や「婚前交渉」の罠には、意外と簡単に陥ってしまう。手癖が悪い人は「盗み」、ちょっと話に盛りグセがある人は「偽証」にも気をつけないといけない。教会の裏口でコッソリとタバコを吸っている人より、公然と牧師や教会スタッフ、他の教会メンバーの悪口を言う方が、100億倍危ないのである。あなたがもし、悪意のあるウワサ話をするなら、それはあなたの霊のからだを汚すことであり、あなたと神との関係を傷つけ、霊的成長を阻害することになる。タバコを吸っても、それは阻害されない。むしろ、上記のような心の問題に気をつけるべきである。

 

 

▼信仰の友との関係 ~喫煙は、あなたの信仰の友にとって「愛」となりうるか~

f:id:jios100:20180411180854j:plain

 喫煙は、「あなたと神の関係」においては、さほど影響がないと分かった。もちろん、依存症による悪影響は避けられない。だから、気をつける必要がある。しかしながら、「禁止」するべきかというと、そうではないと思う。

 では、「あなたと信仰の友との関係」においてはどうだろうか。喫煙が、決定的に「飲酒」などと違う点は、副流煙の存在である。これは、現代社会において大きな問題となっている。政府・与党は、日本においても基本的に店舗での喫煙を規制しようと動いている。東京都では、既に路上喫煙や店舗での喫煙が、条例によって規制されている。

 あなたが吸いたいと思っても、他の人がどうかは分からない。人によっては、匂いだけで嫌な気持ちになるし、服についたニオイもなかなか取れない。「副流煙」は、タバコを吸う人が吸い込む「主流煙」と比べて、ニコチンが2.8倍、タールが3.4倍、一酸化炭素が4.7倍も含まれている(出展:すぐ禁煙.jp)。

 タバコは、吸っている本人より、周りにいる人の方が、害を受けてしまうのだ。自分の意思とは関係なしに、吸い込んでしまい、健康は害されるし、嫌な気分になるわで、いいところが一つもない。がんや、脳卒中、呼吸系の病気、妊婦の出産のリスクなどが高まり、百害あって一利なしである。

 もちろん、リラックスしたり、気分転換するという意味で、タバコにも利点はある。しかし、「副流煙」を考えると、配慮は必要不可欠だ。クリスチャンは、「愛」の観点から、喫煙のマナーには、一層気をつける必要がある。

 

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

(マタイの福音書7:12)

 

 これは、イエス旧約聖書の教えを、ざっくり一言にまとめた箇所である。「律法」と「預言者」というのは、大まかに「旧約聖書」のことを指す。「人からしてもらいたいことは何でも、同じようにする」。言い換えれば、日本語でとても耳馴染みのある言葉、「他人の気持ちになって考えてみよう」ということである。

 もし、あなたがタバコを吸いたくなったら、他の人の気持ちになって考えてみよう。もしあなたがタバコが嫌いだったら? もしあなたの妻が妊婦だったら? もしあなたが喘息だったら? もしあなたの家族が肺がんで死んでいたら?

 

 そのような気持ちを考えたとき、「分煙」のマナーを守るのは、至極当然であろう。

 

 また、加えるならば、ニコチンはとても依存度が高い物質である。もしあなたの何気ない喫煙が、やっとこさ「禁煙」に成功した信仰の友の決意を、揺らがせることにならないだろうか。あなたの喫煙の習慣が、信仰の友との関係を阻害していないだろうか。喫煙事態は悪い行為ではないが、特段の配慮が必要なのは、言うまでもない。しかし、一人でカフェに行って、喫煙席に座り、一人でタバコを楽しむのは、全く問題ないと思う。むしろ、弱い人間にこのような嗜好品を与えた神に感謝して、これを受け取るべきだ。

 

 

▼リーダーはどうあるべきか

f:id:jios100:20180411181214j:plain

 最後に、リーダーたちがどうあるべきか書く。「飲酒」については、明確な注意喚起や基準が定められている。しかし、「喫煙」については、明確な記述がない。

 であるならば、根本的には「自由」だ。しかし、愛の原則を忘れてはならない。これはもう解説するまでもなく、ひとりの人間として当たり前のことである。もちろん、喫煙は国や文化の背景によって、常識がかなり違うので、その文化背景も尊重する。では、マリファナはどうか? 覚せい剤はどうか? という議論になるとラチがあかないので、ここでは避ける。

 とにかく、日本の文化背景では、「分煙」のマナーを守る。「ポイ捨て」をしない。これが最低限のマナーではなかろうか。そう考えると、高校生の引率で来ていた例の聖公会のチャプレンが子どもたちの前でプカプカやっていたのは、ちょっといかがなものかとも思う。

 

 あなたの考えている「信仰」は、実はただの「文化」かもしれない。僕は、イスラエルで自分の「信仰観」を打ち崩された。僕は、そこからやっと、しっかりと自分の足で歩き出すクリスチャンになれたのである。あなたはどうだろうか。自分の足で歩いているだろうか。

 

(了)

 

【疑問】クリスチャンはお酒・アルコールを飲んではいけないのか?!<後編>  

 クリスチャンは、お酒、アルコール飲料とどのように付き合っていけばいいのでしょうか?

※前編の記事はこちら

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼アルコールとどう付き合うべきか

f:id:jios100:20180409181541j:plain

 前編で述べたように、アルコールを飲むのは「悪」でも、「罪」でもない。大切なのは、酒とどう付き合うかだ。極論、たくさん飲んでも、コントロールできれば良いのだ。

 とはいえ、果たして、ぐでんぐでん、ベロンベロンの状態で、「御霊に満たされ続ける」のは可能なのか。私はとてもそうは言えないと思う。パウロは、アルコールをコントロールするために、たびたび厳しい指摘をしている。

 

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者(すなわち信者の中で)で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

(コリント人への手紙第一 5:11)

 このように、新改訳聖書2017では「酒におぼれる者」となっている。第3版では「酒に酔う者」となっているが、「おぼれる者」の方がニュアンスが伝わりやすい。パウロは、信者の中で、「酒におぼれる者」、つまり、「アルコール依存症の人」、「酒にコントロールされてしまっている人」とは一緒に食事もするなとまで言って注意している(※信じていない人が飲んでも、その人と一緒に食事をしてもそれは全く問題ない)。

 「酒におぼれる者」という表現は、不倫をしている人や、偶像礼拝をする人と同列で書いてある。これは2つの意味で重要だ。

1:飲酒は、それほど注意しなければならない人の弱さである。

2:飲酒は、性的な失敗や、偶像礼拝など、他の失敗につながりやすい。

 「酒をコントロール」と一言で言っても、それはとても難しい。聖書で飲酒は「禁止」されてはいないが、ハッキリと注意喚起はされているのである。また、前編でも取り上げたように、お酒による失敗談も数多く記述がある。飲酒に気をつけろというメッセージが聖書にあるのは、明らかであろう。

 私はまだ診断が必要なほどの依存症の自覚はないが、周りの依存症の人を見ていると、特徴として、他のどんなことよりアルコールを優先させる傾向にある。ある人は、私にビールを買いに行くよう言って、私が買いに行く間、ものの15分も我慢ができず、自分でコンビニに行ってビールを買って飲んでいた。そこまでの状態になると、もうアウトだ。

 また、アルコール依存症になると、もう家族や兄弟姉妹との会話とか、聖書を読むとか、祈りとか、大切なことより酒を優先するようになる。しまいには、仕事も家族も自分自身の健康もおろそかにしてしまうのである。アルコールとの付き合いは、知恵と自制が必要なのである。そのため、ある程度の「線引き」はとても大切である。ただ、人によって、どこが適切な線引きかは、個人差があると思う。

 

<認めたくない現実まとめ>

1:飲酒は、他の失敗ともつながりやすい。

2:飲酒の程度を自分でコントロールするのは、とても難しい。

3:依存症になると、他の何よりも酒が優先順位が高くなる傾向にある。

4:過度な飲酒は、あなたの家族、友人、人間関係を壊し、あなたの健康、そして人生も壊す可能性が高い。

 

 

▼リーダーたちへの基準

f:id:jios100:20180409181704j:plain

 また、パウロは、教会のリーダーたちには、さらに厳しい基準を示している。

 

ですから監督は、避難されることがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:1~4)

同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。

(テモテへの手紙第一 3:8~9)

 この「監督」「執事たち」が教会でどのような役目なのかは、いろいろな意見があるが、今回はざっくりとリーダーと捉える。パウロは、「酒飲み」でない人をリーダーにすべき、逆に言えば「酒飲み」はリーダーにふさわしくないと指導している。酒をコントロールできない人には、自分をコントロールできない。そういう人がリーダーに相応しくないのは、当然だろう。

 面白いのは、「監督」と「執事」で基準の差があるところだ。「監督」は「酒飲みでなく」なのに対し、「執事」は「大酒飲みでなく」とある。「執事」はある程度の飲酒は許容されているようである。「監督」はより厳しい選考基準があり、より重い責任があったことが、この記述からも読み取れる。

 もっとも、「たしなむ」程度なら、普通、「酒飲み」とは言わないから、「監督」であっても酒は飲んでいたと考えるのが素直な受け取り方であろう。この部分のギリシャ語は、「NOT・パラオイノス」。「横に・ともに」という意味の「パラ」と、「ワイン・ぶどう酒」の「オイノス」を結合させた形容詞だ。「常に酒が横にある状態」とでも言おうか。

 これは、単純に「飲酒をする人」よりかは、「一升瓶を腰につけている、いつも酔っ払ってる人」と捉えた方が、私は素直だと思う。タンタンの冒険のハドック船長とか、ドカベンの徳川監督とか、そういった類の人だ。だから、「監督」(大方、『牧師』に適用する)は、一切酒を飲んではいけないというのは、私は間違いだと思う。

 聞いた話では、教会員がお酒を飲んでいたら、教会内での役目をクビにする教会もあるという。ちゃんちゃらおかしい。もちろん、アルコール依存症と診断されたら、病気なのだから、しばらく休んでもらってもいいかもしれない。しかし、1回や2回の飲酒で、何か犯罪を見つけたように、即解任となるのは筋違いではないか。

 私は、牧師であっても、執事であっても、長老であっても、酒を飲んでもいいし、それを見ても私は何とも思わない。それで「つまずき」だという人は、信仰をカンチガイしていると思う(※クリスチャンが大好きな「つまずき」についても記事を書く予定)。

 もちろん、コントロールできないという可能性を謙虚に受け止め、一切飲まないという「線引き」をしている人を、私は心から尊敬する。

 

 

▼「集い」の中での飲酒はどうか

f:id:jios100:20180409182101j:plain

 いずれにせよ、いろいろな意見はあるが、「飲酒」そのものは悪いことではない。個人レベルでは飲酒は自由だ。では、「集い」の中での飲酒はどうだろうか。私は、一定の配慮が必要だと考える。この問題の答えは、ローマ人への手紙14章にあると考える。長いが、一部を抜粋する。

 

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。(中略)ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日と尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(中略)食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙14章)

 

 複雑だが、ポイントをまとめると以下のようになるだろう。

 

<ローマ14章まとめ>

1:それ自体でNGな食べ物、飲み物はない。

2:何を食べるか、何を飲むか、どの日を大切と考えるかは、人によって違う。

3:あなたは、あなた自身の信仰によって行動すべきである。

4:正しいと思う行動は正しい。しかし、「自分の信仰」に基づかない行動は良くない。

5:あなたの行動は自由であるが、信仰を持つほかの兄弟姉妹が、それによって傷ついているなら、それは愛ではない。また、あなたの行動によって彼らを信仰から遠ざけていないか、吟味が必要である。

6:イエスは、あなただけでなく、兄弟姉妹全員のために死んでくれたのだ。あなたの自由な行動によって、イエスが死んでまで愛した人を傷つけたり、信仰から遠ざけるべきではない。

 繰り返すが、酒を飲もうが、タバコを吸おうが、何をしようと、あなたが疑問を抱かず、信仰に基づいて行っているのなら、それは正しい。それ自体でダメなものはない。しかし、あなたのその行為が、まわりの兄弟姉妹を傷つけていないか。彼らを信仰から遠ざけていないか。吟味が必要である。

 私は、別に教会の集いの中で酒を飲んでもいいと思っている。礼拝堂がある建物の中でアルコールを飲んでもいいとも思っている。しかし、その集会の中に、やっとアルコール依存症から開放されたばかりの信者の仲間がいたら、どうだろうか。美味しそうに酒を飲むあなたたちを見て、彼はもう一度アルコール依存症に戻ってしまわないだろうか。もし、そういう人がいるのが明らかなら、集いの中での飲酒はヤメたほうがいい。

 もしかしたら、あなたの集会の中に、酒乱の両親に暴力をふるわれた人がいるかもしれない。あなたがお酒を飲む行為が、その人に過去のトラウマをフラッシュバックしてしまうかもしれない。その結果、その人が、礼拝会の集会に来にくい環境を作ってしまうかもしれない。もし、そういう人がいるのなら明らかなら、集いの中での飲酒はヤメた方がいい。

 もし、あなたの「飲酒」があなたの信仰の友を傷つけ、信仰から遠ざけると分かっていながらやめられないのであれば、それは愛ではない。あなたの愛は、「飲酒」を「ギブアップ」できる愛だろうか。イエスは自らの命までも「ギブアップ」して、その友を救ったのだ。

 

 もちろん、そんな細かなことまで気にし出すと、教会の集まりで何もできなくなってしまう。上っ面だけの、偽善者の集まりになってしまう。イエスはそれを一番批判した。パリサイ人や律法学者たちは、うわべと中身が違っているから批判を受けた。飲酒の間違いから遠ざかるために、「予防線」を張るのは大切だが、それにこだわりすぎると、すぐに「律法主義」の罠にハマる。

 私は、信仰の友と酒を飲むときは、こういう「線引き」をしている。もし、一緒に食事をする信仰の友の飲酒に対するスタンスが定かでない場合は、飲酒が「offensive」(不快な思いをさせる行為)でないか、いつも尋ねるようにしている。正直、「居酒屋」とかで集まった時点で、大丈夫かもと思うのだが、半ば儀式的に尋ねるようにしている。「空気」を読むのが日本人の得意技なのだから。

 何よりのオススメは、「相談相手」(Acountability)を作ることである。これは、飲酒に限ったことではない。「相談相手」とは、信仰の友同士で、お互いの霊的状況を相談し合う、「相互カウンセラー」のようなものだ。「霊的五人組」とでも言おうか。お互いに問題があれば、お互いに注意し合い、お互いに刺激し合い、お互いに励まし合う。もし飲酒が過剰になっていたら、ストレートに「気をつけろ」と言える仲間が、あなたの教会にいるだろうか。あなたの集いの中で、あなたの抱えている問題を分かち合える信仰の友はいるだろうか。もしいるなら、もっと親密になろう。もしいないなら、少しでも自分から心を打ち明けてみよう。それが一番の「予防線」になる。

 

 ただ、注意しないといけないのは、「自分の信仰を保つ」というポイントだ。何度も繰り返すが、飲酒そのものは悪い行為ではない。クリスチャン界には、「つまずき」をいたずらに警戒する悪しき文化がある。その「つまずき」は、正しい「つまずき」なのかも吟味の必要がある。本来聖書が自由としているものを、勝手に「ダメだ」と禁止したり、タブー視するような空気が、教会や集いの中にあるのなら、それは健全とは言えない。お互いに意見を交わし、お互いを尊重し合う文化の情勢が必要である。そうしないと、「つまずいた」という側の言い分が、なんでも正しいということになってしまう。それは、単なるワガママである。

 もし、あなたの価値観が、誰かに言われたことだけで作られているとしたら、問題だ。他人の言葉を鵜呑みにしているだけなら、それは信仰とは言えない。自分で聖書を読み、神と対話し、自分の生き方を決めていく必要がある。自分で考えた結果、飲酒をするもよし、やめるもよし、人に勧めるもより、勧めないもよしだ。大切なのは、自分で聖書を調べ、果たして本当かどうか吟味することである。やはりここで大切になってくるのは、「心の動機」である。

 あなたが酒を飲む、「心の動機」は何だろうか。「美味しいから?」、「辛いことを忘れたいから?」、「付き合い?」、もしかして、「誰かを酔わせたいから・・・?」

 あなたが酒を飲まない「心の動機」は何だろうか。「お酒が好きじゃないから?」、「別に飲む必要もないから?」、「教会の決まりだから?」、「罪悪感があるから?」、もしかして、「罪だとカンチガイしているから・・・?」

 

 あなたの心の動機は何だろうか。

 

 

▼酒は神からの恵み

f:id:jios100:20180409182501j:plain

 最後に、一番大切なポイントを指摘して終わりたい。

 

 私たちは行いによって救われるのではない。

 

 クリスチャンにとっては当たり前の話だが、この手の議論をするとき、多くの人が、この恵みによる救いを忘れがちだ。「飲酒」は罪ではない。私たちはもはや、全てのことに対して自由にされているのである。律法の要求は、イエスが完成させている。私たちは、神の恵みの中にあって自由にされている。だからこそ、「自分の信仰」が大切なのだ。なんでもかんでもしていいのとは違う。それは、あなたの「心の動機」に聞けば分かるだろう。だから、結局の所、本来はこんな「飲酒はいいのか悪いのか」みたいな議論には意味がない。エスを信じていれば、どうぞご自由に。以上。

 

 その上で、「酒は神の恵み」だと指摘しておきたい。いくつかの聖書の言葉を紹介する。

 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。

(テモテへの手紙第一 5:23)

 少量の酒は、良薬にもなる。実際、飲酒が程度によっては健康にいい効果をもたらすという研究データもあるそうだ。

 

ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えなさい。その人は飲んで自分の貧しさを忘れ、もう自分の労苦を思い出すことはない。

箴言31:6~7)

 飲酒は、時にこの世の労苦を忘れさせてくれる。ストレス発散のために酒を飲むのは、むしろ正しい行為だと思う。

 

あなたは、そこで(約束の地)その金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。

申命記14:26)

 ぶどう酒や強い酒は、主の前で食べ、家族とともに喜びを分かち合うためにある。神の、素晴らしい創造物である。家族の喜びの交わりの中に、お酒の存在はあるのだ。お酒は本来、神が作った恵みなのである。

 

 ほかにも、ネヘミヤが民が悲しんでいる時に上質なぶどう酒を飲めと勧めたり、ぶどう酒を捧げ物として用いたり、お酒のポジティブな面を表した箇所はたくさんある。

 私のオススメする生き方は、自分なりの節度とルールをもって、神が作ったアルコールという、素晴らしい創造物を、感謝して喜び楽しみ、それを分かち合うという生き方である。

 

(了)

【疑問】クリスチャンはお酒・アルコールを飲んではいけないのか?!<前編>  

 

クリスチャンになったら、お酒、アルコール飲料を飲んではいけないのでしょうか?

 

▼お酒はダメよというクリスチャン

f:id:jios100:20180406124610j:plain

 私はクリスチャンですと言うと、よく、「お酒を飲んじゃいけないの?」と聞かれる。クリスチャン=禁酒のメージがあるのだろう。確かに、クリスチャンの中には、「飲酒は罪」と考える人もいる。教会の中や、クリスチャンの集まりではお酒の話はタブーのような雰囲気がある。「お酒を飲んでいる」と教会の中で言うのは、少しはばかられるし、ましてや、「お酒が好き」なんて言える空気ではない。私も、かつては、「大人になってもお酒は絶対飲まない」と公言していた。それは、儚い夢となったのだが・・・。

 それはさておき、立ち止まって考えてみよう。なぜ、クリスチャンにとって、「お酒」はタブーなのか。その根拠はどこにあるのか。もしくはないのか。私は、「お酒を飲むことも、飲まないことも良いこと」だと考えるが、そもそも、聖書はお酒を飲むことに関して、どう教えているのか。順を追って見ていこう。

 

▼聖書の「お酒」エピソード

f:id:jios100:20180406124918j:plain

 「酒」は、意外と聖書によく出てくる単語である。「ぶどう酒」は特によく出てきており、日本語で検索(新改訳3版)したところ、少なくとも旧約・新約合計で197回も登場する。

 日本語では「ぶどう酒」、「酒」となぜか分けて書いてあるが、旧約のヘブライ語では、ほとんどが「ヤイン」(ワイン・ぶどう酒)で、旧約では140回登場する。「酒・強い酒・酔う」の意味の「シャカル」は23回。新約では、ギリシャ語の「オイノス」(ワイン・ぶどう酒)が33回登場する。なるほど、「酒」の話は聖書になじみが深いものなのだ。

 なじみが深い割に、飲酒の是非を書いてある箇所は意外と少ない。実は、旧約聖書には、一般人に対して「禁酒」を定める律法は存在しない。新約聖書には、「飲酒」を勧めない記述はいくつかあるが、明確に「酒を飲んではいけない」という命令はない。

 聖書には飲酒を禁じる記述はない。その前提で、「お酒・ぶどう酒」のエピソードには、どんなものがあるのか。いくつか例をあげて紹介する。

 

 

▼ノアの場合

f:id:jios100:20180406124933j:plain

 聖書で一番はじめに「酒」が登場するのは、ノアのエピソードである。

 

彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。

(創世記 9:21)

 これは、いわゆる「ノアの箱舟」の後の話だ。新しくなった地でノアはぶどうを育て、ワインを作っていた。ノアは、そのワインを飲んで酔っぱらい、テントの中で裸になってしまう。3人の息子のうち、2人の息子は父親ノアの裸を見ないようにして助け出し、1人の息子は見ただけで、何もしなかった。その結果、助けなかった1人はノアに呪われることになる。酔っ払ったのはノアなのに、呪われるとは、とばっちりのように感じるが・・・。とにかく聖書で初めての「酔っぱらいエピソード」は、様々な解釈はあるが、「失敗を招いたエピソード」と捉えていいだろう。

(※ちなみに映画「ノア 約束の舟」では、ノアがヤケ酒したことになっているが、それはいくらなんでも・・・という気がする)

 

 

▼ロトの場合

f:id:jios100:20180406125100j:plain

 次に挙げたいのは、ロトの娘たちの例である。とんでもねぇ話がここにある。

 

姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう」。その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。

(創世記19:31~33)

 ロトの娘たちは、実のオヤジに酒を飲ませて、記憶が飛んでる間にセックスして子作りをしたのである。とんでもねぇ話だ。次の日に、姉だけでなく、妹も同じことをして、2人とも子どもを産んだ。2人の娘は、ソドムとゴモラを離れ、山の上に住んでいた。彼女らは、周りに人間がいなかったので、このままでは子孫を残せないと焦ったのだろう。でも、それは神に喜ばれる方法ではなかった。

 その結果どうなったか。姉の子どもは、モアブ人の祖先となった。妹の子どもは、アンモン人(アモン人)の祖先となった。モアブ人もアンモン人も、イスラエルの敵となる人々である。アブラハムの子孫であるイスラエルは、本来ロトの親戚で、敵対する民族ではないはずだ。しかし、「正しくないヤリ方」で子孫を作ってしまった挙げ句、イスラエルを迫害する民族が生まれてしまったのである。

 ロトのケースも、ノア同様、お酒を飲んだ本人の直接的な失敗ではない。ただ、「お酒」によって理性が失われ、娘たちの間違った行動を止められなかったのは事実である。ロトの事例は、「お酒による失敗エピソード」と捉えていいだろう。

 

 

▼祭司たちの場合

f:id:jios100:20180406125205j:plain

 旧約聖書には、一般人たちに酒を禁じる律法はない。しかし、祭司たちなど、特別な人々への禁酒の勧めは、記述がある。祭司を例にとって見てみよう。

 

主はアロンにこう告げられた。「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが世々守るべき永遠の掟である」

レビ記10:8~9) 

 これは、祭司たちへの特別な命令の中のひとつである。祭司たちは、天幕で仕え、様々ないけにえや清めの儀式を行っていた。触れていいもの、いけないもの、香油の精密な調合の割合、服装やお風呂の入り方、等々・・・それは細かく、気の遠くなるような繊細な作業だった。ひとつでも間違えれば、即、死亡。祭司ってヤバイ職業だったのである。

 実際、「異なった火」を捧げたアロンの息子、ナダブとアビフは、すぐに神の火によって焼かれて死んだ(レビ記10章参照)。彼らに悪意があったかなかったかは明確ではないが、それだけ繊細で、聖なる作業だったのである。そんな大切な仕事を、酒を飲んだ状態でできるだろうか。「あなたがたが死ぬことのないようにするため」と書いてるのは、それを考えれば納得だろう。

 他にも、「ナジル人の誓い」という特別な誓願を立てた人や、レカブ人やサムソンの母のように、神に直接酒を飲まないように命じられた者はいる(民数記6章、エレミヤ35章、士師記13章など参照)。バプテスマのヨハネも、一切酒を飲まなかったとされている(ルカ1:15、7:33など参照)。

 しかし、それはどれも神から何らかの目的があって、特別に命令された人への教えであって、我々個人への教えではない。従って、聖書の登場人物たちが、「酒で失敗した例」や「特別な人たちへの禁酒の命令」はあるものの、一概に「聖書は禁酒を定めている」とは言えない。

 

 

▼大酒飲みと言われたイエス

f:id:jios100:20180406125342j:plain

 では、神であり、救い主であり、永遠の大祭司であり、完璧な模範であり、罪のない、神のひとり子、イエスはどうだったのか。よく分かる記述がある。

 

バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、人の子(イエス)が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。

(ルカの福音書7:33~34)

 イエスは、よく取材人や罪人と食事をともにした。その姿を、パリサイ人や律法の専門家たちは、「大食いの大酒飲み」(3版だと「食いしんぼうの大酒飲み」)となじったのである。これは、悪口だが、少なくともイエスはぶどう酒を飲んでいたと分かる。しかも、おそらく結構頻繁に飲み食いしていたと思われる。

 エスが最初に行った奇跡も、ぶどう酒にまつわる話である。「カナの婚礼」と呼ばれるエピソードだ(ヨハネ福音書2章参照)。イエスは、およそ700リットル(80~120リットル入りの瓶が6つ分)もの水を、ワインに変えた。一般的なワインボトルが750mlだから、およそ900本分以上! とんでもねぇ酒の量である。

 イエスが、酒を飲み、酒を作ったのであれば、それは「罪」ではない。イエスに罪はないのだから、飲酒そのものには何ら罪はない。

 さらに、イエスは、十字架で死ぬ前、過ぎ越しの食事をした後にこう言った。

 

神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実でできた物を飲むことは、もはや決してありません(マルコ14:25)

 裏を返せば、それまでは飲んでいたということだ。ワインを飲む「聖餐式」の伏線となった、「過ぎ越しの食事」は、ワインを4杯(ないしは5杯)飲む。グラスの縁まで波々注ぐのが、ユダヤ人の伝統だ。イエス時代にどうだったか分からないが、おそらく飲んでいただろう。弟子たちがその後、オリーブ山で起きていられなかったのは、酔っ払っていたからだというジョークもあるくらいだ。

 しかも、神の国で新しく飲むその日まで」とある。この記述によれば、神の国でもぶどう酒を飲む」のである。神の国で新しく、喜びのぶどう酒を、イエスと共に飲む。想像しただけで身震いするほど、待ち遠しい約束ではないか。

 

 

▼「禁酒」の最大の根拠<エペソ5章>

f:id:jios100:20180406125446j:plain

 イエスは酒を作ったし、酒を飲んだ。そして、神の国で共に飲むと宣言した。ではなぜ、あるクリスチャンたちは「お酒を飲んではいけない」と言うのか。その最大の根拠は、次の聖書の言葉だろう。

 

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

(エペソ人への手紙5:18)

 確かに、「ぶどう酒に酔ってはいけない」と書いてある。この部分の解釈が、鍵だ。新改訳聖書第3版では、この部分は「酒に酔ってはいけない」と訳してあるが、これは誤訳だ。

 該当部分の「オイノス」というギリシャ語は、「ぶどう酒」を指す。英語の翻訳も「wine」。おそらく、翻訳者が無意識のうちに「禁酒」の価値観を翻訳に織り交ぜたのだろう。「酒に酔ってはいけない」と言われると、「アルコールを飲む行為」がダメだと捉えてしまう。しかし、「ぶどう酒」だと違ってくる。どういう意味か。

 当時、「ぶどう酒」は必需品だった。水を浄化する技術が発達しておらず、きれいな水を見つけるのは、特に都市部では困難だったと想像できる。実際、旧約聖書にも泉の水が悪く、病気や流産が起こっていたという記述がある(列王記第二2章など)。「ぶどう酒」は、発酵飲料として、安全な飲み物だったのだ。

 よく、この事実を盾に、

 

「当時はぶどう酒は普通の飲み物だったし、アルコール度数も低かった」

  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「今のアルコールとは違うのだから、ワイン以外のアルコールは禁止」

 

という理論を展開する人がいるが、それはいくらなんでも無茶苦茶だ。いくら度数が低くても、アルコールはアルコールである。その理論が通じるなら、「ほろよい」や「のんある気分」はいいけど、「ウオッカ」や「テキーラ」はダメだということになる。そうなると、アルコール度数5%くらいのビールは? となり、答えのない線引論争が始まる。律法主義的な考えにどんどんハマってしまうのだ。

 また、「酔ってはならない」のだから、「酔わない程度で飲めばいい」、転じて、「酔わなければOK、酔ったら罪」という考えの人もいる。これも間違った律法主義だ。そうなってくると、「どこからが酔っているのか」という線引きの問題になってしまう。

 ぶっちゃけ、少しでも飲んでから運転したら、それは飲酒運転になる。それは誰もが知っている常識だ。飲んだのに「酔っていない」というのは詭弁である。だからこの議論はそもそも成り立たない。そういう細かな律法主義的論争は、既にイエスによって否定されている。

 

 

▼エペソ5章の解釈は?

f:id:jios100:20180406125319j:plain

 では、「ぶどう酒に酔ってはならない」との箇所は、どう解釈したらいいのか。エペソ5章を読む際は、ギリシャ語の命令形の種類に注目する必要がある。ギリシャ語の命令形には2種類ある。「今やれ」という単発の命令形と、「やり続けよ」という命令形だ(前者が過去形<アオリスト>、後者が現在形)。エペソ5章にある命令形は、ほぼ全て「やり続けよ」の命令形なのである。とすると、「ぶどう酒に酔ってはいけません」は、本来は「ぶどう酒に酔い続けてはいけません」になる。こうなると、解釈が変わってくる。

 ここで、先に記した当時の情景を思い浮かべよう。当時は、水のようにぶどう酒を飲んでいた。中には、飲み過ぎて、朝っぱらから酔っ払っている人もいた。教会の中でも酔っ払っている人々がいたようである(コリント人への手紙11:21参照)。「酔い続けてはならない」というギリシャ語の意味や、このような状況で書かれたという背景などを鑑みれば、エペソ5章の箇所は、「酒を一滴も飲んではいけない」のではなく、「いつでもどこでも酒で酔っ払ってる状態は良くない」「お酒にコントロールされたらあきまへんで」と解釈するのが自然だろう。

 エペソの箇所の根幹は、「禁酒」ではない。むしろ、その後にある。この箇所は、「ぶどう酒に酔い続ける」のではなく「御霊に満たされ続けよ」と教えているのである。そこがキーポイントであり、メインメッセージなのだ。

 

 

▼まとめ

f:id:jios100:20180406125532j:plain

 聖書には、「飲酒は罪だ」という記述はない。飲酒そのものは悪いことではない。もし、あなたがお酒が好きで、神に感謝して受け取るならば、決して罪悪感を感じる必要はない。

 

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。(テモテへの手紙第一 4:3)

 イエスがそうされたように、私は神が作ったアルコールを喜んで受け取り、楽しみたいと思う。自分の信仰によって、お酒を飲まないという決断をするのも、これまた素晴らしい。しかし、酒にコントロールされるのは、良くない。私たちは、御霊によってコントロールされる生き方を選びたい。

 次回、後編は、どのようにアルコールと付き合っていくべきなのか。飲酒と御霊に満たされる生き方は両立可能なのか。そのような視点で見ていこうと思う。

 

↓↓↓↓後編はこちら↓↓↓↓

 

yeshua.hatenablog.com

 

 

【疑問】「みこころの相手」は存在するのか?  

クリスチャンたちのいう「みこころの相手」、いわゆる「定められた結婚相手」なるものは、存在しているのか?

f:id:jios100:20180328230827j:plain

 

 

▼「みこころの相手」とは?

f:id:jios100:20180328230803j:plain

 クリスチャン同士で話していると、よく「みこころの相手」というフレーズを聞く。いわゆる「みこころの相手」とは、「神が定めた結婚相手」を指す。クリスチャンの中では、「みこころの相手が与えられるよう神に祈っている」とか、「この人が好きなんだけど、『みこころの相手』でしょうか」とか、「好きという感情はあるけど、『みこころの相手』かどうか分からないから一歩踏み出せない」どなどという声をよく聞く。なるほど、自分の思いより、神の思いの方が大切というわけだ。

 ここでちょっと立ち止まって考えてみたい。そもそも、「みこころの相手」なるものは、本当に存在するのだろうか。もし、いないとしたら、上記のようなクリスチャンたちは、存在しない相手を待ち続け、存在しない相手のために祈っているのである。聖書は、「みこころの相手」についてどう書いているのだろうか。見ていこう。

 

 

▼神が結婚相手を定めたケースは圧倒的少数

f:id:jios100:20180328230736j:plain

 まず、聖書には「みこころの相手」というフレーズは存在しない。では、クリスチャンの間にどうしてそのような考えが生まれたのか。私は、聖書に登場する人物たちのモデルから、そのような価値観が生まれていると考える。

 そこで、聖書に登場する夫婦を全てまとめてみた。1人でざっと調べただけなので、抜けや間違いがあるとは思うが、おおよそこんなところである。めちゃ多いので飛ばしてもらっても構わない。 

【聖書のカップル一覧】
※男性が先、名前の表記は新改訳聖書3版による。また、列王記と歴代誌などで、別名が記載されている場合があるが、検証が面倒なのでそのへんは適当である。
※順序はできる限り旧約聖書の創世記から順序登場する順番にしているが、一部名前を揃えたほうが見やすいため、入れ替えている。
※結婚していることが明らかでも、妻の名前や存在が明記されていない者は省いた。系図に記されているだけのような人物は省いたが、入れているケースもある。また、一部、婚姻関係はないが肉体関係はあるというケースも入れている。
※神がその相手を結婚相手として直接示したケースには★マークをつけている。

  1. ★アダムとエバ(→そもそもエバしかいない)
  2. カインとその妻
  3. レメクとアダ
  4. レメクとツィラ
  5. 神の子らと人の娘たち
  6. ノアと妻
  7. セムと妻
  8. ハムと妻
  9. ヤペテと妻
  10. ナホルとミルカ
  11. アブラハム(アブラム)とサラ(サライ
  12. アブラハムとハガル
  13. アブラハムとケトラ
  14. ロトと妻
  15. ロトの娘たちとその婿
  16. ロトと2人の娘たち
  17. ★イサクとリベカ(→イサクが求めたのではなく、父のアブラハムがしもべに命じた)
  18. エサウとヘテ人エフディテ
  19. エサウとヘテ人バセマテ
  20. エサウとネバヨテの妹マハラテ(※エサウの妻たちは違う名前も出てくる)
  21. ヤコブとレア
  22. ヤコブラケル(→ヤコブが結婚しようとした)
  23. ヤコブとジルパ
  24. ヤコブとビルハ
  25. シェケムとディナ
  26. ハダルとメヘタブエル
  27. ユダの長子とタマル
  28. オナンとタマル
  29. ユダとシュアの娘
  30. ユダとタマル(→遊女だと思った。元々息子の嫁)
  31. ヨセフの主人のエジプト人とその妻
  32. ヨセフとアセナテ(→パロが与えた)
  33. ヤコブの息子たちとその妻たち
  34. アムラムとヨケベデ
  35. アロンとエリシェヴァ
  36. エルアザルとプティエルの娘
  37. モーセとチッポラ
  38. モーセとクシュ人の女
  39. モーセの息子の妻
  40. テニエルとアクサ
  41. ラピドテと女預言者デボラ
  42. ケニ人へべルとヤエル
  43. ギデオンと大ぜいの妻
  44. ギルアデとその妻
  45. イブツァンの30人の息子と30人の妻
  46. マノアとその妻
  47. サムソンとティムナの女(→神がペリシテ人と事を起こそうとされたとの記述がある。しかし、そもそもサムソンが一方的に惚れたのである)
  48. サムソンと遊女
  49. サムソンとデリラレビ人とベツレヘムの女(→バラバラ死体にされる)
  50. ベニヤミン族の男たちとシロの娘たち
  51. エリメレクとナオミ
  52. マフロン・キルヨンとオルパ・ルツ(→どちらがどちらの夫、妻か分からない)
  53. ボアズとルツ(→ナオミが命じた)
  54. エルカナとハンナ、ペニンナ
  55. ピネハスと妻
  56. サウルとアヒノアム
  57. メホラ人アデリエルとメラブ
  58. ライシュの子パルティとミカル
  59. イシュ・ボシェテとミカル
  60. ウリヤとバテシェバ
  61. ナバルとアビガイル
  62. ダビデとミカル
  63. ダビデとアビガイル       
  64. ダビデとイズレエルの出のアヒノアム
  65. ダビデとバテシェバ
  66. ダビデとマアカ
  67. ダビデとハギテ
  68. ダビデとアビタル
  69. ダビデとエグラ
  70. ダビデとシュネム人アビシャグ
  71. アビナダブの子とタファテ
  72. ソロモンとパロの娘
  73. ソロモンと700人の妻と300人のそばめ
  74. アヒアマツとバセマテ
  75. カレブとエフラテ
  76. ヘツロンとマキルの娘
  77. メレデとビテヤの子
  78. キシュの子らとエルアザルの娘たち
  79. ハダデと王妃タフペネス
  80. ヤロブアムとその妻
  81. アハブとイゼベル
  82. 預言者のともがらとその妻
  83. ナアマンとその妻
  84. ヨラムとアハブの娘
  85. 装束係シャルムと女預言者フルダ
  86. ハダデとメヘタブエル
  87. カレブとアズバ、エリオテ
  88. ヘツロンとアビヤ
  89. アラフメエルとアタラ
  90. アビシュルとアビハイル
  91. ヤルハとシェシャンの娘
  92. アシュフルとヘルア
  93. アシュフルとナアラ
  94. メレデとビテヤ
  95. メレデとユダヤ人の妻
  96. ボディヤの妻
  97. フピムとその妻
  98. シュピムとその妻
  99. マキルとマアカ
  100. エフライムとその妻
  101. シャハライムとフシム
  102. シャハライムとバアラ
  103. シャハライムとホデシュ
  104. ギブオンとマアカ
  105. エイエルとマアカ
  106. エリモテとアビハイル
  107. レハブアムとマハラテ
  108. レハブアムとその妻たち
  109. レハブアムとそばめたち
  110. レハブアムとマアカ
  111. レハブアムの子らと多くの妻たち
  112. アビヤと14人の妻
  113. エホヤダとエホシェバ
  114. ヨアシュとふたりの妻
  115. バルジライとギルアデ人バルジライの娘
  116. エズラの時代の人々と外国人の女たち
  117. トビヤとシェカヌヤの娘
  118. ヨハナンとメシュラムの娘
  119. アハシュエロス王とワシュティ
  120. アハシュエロス王とエステル
  121. ハマンとゼレシュ
  122. ヨブとその妻
  123. レカブ人とその妻
  124. エゼキエルとその妻(→預言のために妻は死んだ)
  125. ベルシャツァル王とその妻、そばめたち
  126. ★ホセアと姦淫の女ゴメル(→明確に神がこういう女と結婚しろと命じた)
  127. ★ヨセフとマリヤ(→御使いのお告げがある前に婚約していたが、一応結婚しろと言ったので)
  128. ピリポとヘロデヤ
  129. ヘロデ王とヘロデヤ
  130. ザカリヤとエリサベツ
  131. ヘロデの執事クーザとヨハンナ
  132. クロパとマリヤ
  133. アナニヤとサッピラ
  134. アクラとプリスキラ
  135. ペリクスとドルシラ
  136. ケパ(ペテロ)と信者の妻
  137. 番外編:子羊とその妻である花嫁(→黙示録)

 聖書に登場する夫婦は、ざっとこんなところだ。番外編を除けば、136ケースある(※たぶん探せばもっとある。ご指摘募集!)。その中で、神が明確に「この人と結婚せよ」と命じたケースは、たったの5件しかない。しかも、その5件とも、単純に神が「みこころの人」として妻を示したというケースとは言い難い。以下の5ケースである。 

1:アダムとエバ

2:イサクとリベカ

3:サムソンとティムナの女(デリラではない)

4:ホセアとゴメル

5:ヨセフとマリヤ

 アダムの場合は、ほかの女性がエバしかいなかったのだから、ある意味で当然である。ただ、この5件の中では一番明確な「みこころの相手」であろう。

 ヨセフとマリヤは、聖書に登場した時点で婚約関係にあった。しかし、まだ処女のマリヤが妊娠したことが分かると、ヨセフは一旦はその婚約を破談にしようとした。ところが、神の御使いが表れ、聖霊によって妊娠したので、安心して結婚せよと命じたので、2人は結婚した。これも、神が結婚を示したケースだが、元々2人は婚約関係にあったので、いわゆる「みこころの相手」と言えるかどうかは微妙だ。

 このように、「神が定めた特定の結婚相手」、いわゆる「みこころの相手」の記述は、厳密に見れば聖書には存在しないと分かる。聖書にある5つのケースも、特別な条件付きであって、現代の人が待っている「運命の赤い糸の人」とは違うのは明らかだ。ではなぜ、そのような誤解がクリスチャンたちの間に生まれてしまったのか。

 私は、イサクのケースが、大きな影響を与えていると考える。サムソンとホセアのケースとあわせて、順番に見ていこう。

 

 

▼実例1:イサクのケース<単なる棚ぼた野郎>

f:id:jios100:20180328230708j:plain

 イサクとリベカの出会いが、クリスチャンたちに間違った「赤い糸信仰」を生んでいる原因だ。2人のエピソードは創世記24章に記述がある。要約するが、知っている人は読み飛ばしてもらって構わない。

 

【創世記24章要約】

神「アブラハム、お前の子孫をめっちゃ増やすで! お前の子孫を通して世界中の人々が祝福されるんやで! 約束な!」

アブラハム「ありがたや、ありがたや。いや、しかし、神様、俺の息子はイサクだけや。このままイサクが独身だと、神様の命令が実現できない。どうしたもんか・・・せや! しもべのエリエゼルに息子の結婚相手を見つけてもらう。おい、エリエゼル」

エリエゼル「ははーっ」

アブラハム息子のイサクに嫁はん見つけてくれへんかな。外国人はダメや。ウチらの親戚のところに行ったらええ。そんでもってこの土地に連れて帰ってくるんや」

エリエゼル「ははーっ。でももし断られたらどないしましょ」

アブラハム「もし断られたら、おまえの責任やないから、その場合はあきらめて大丈夫やで。安心していきんさい」 

エリエゼル「ははーっ」(・・・でも不安やな。神様に祈っとこ)

エリエゼル「ああ神様。もしあなたがご主人様の息子のイサクはんにいい嫁はんを下さるなら、こういう人にしてください。井戸の水を私とラクダに飲ませてくれる人がいたら、その人があなたが定めておられる方だと信じます」

エリエゼル「あれ? なんかおなごが来とるやんけ。おーいそこのあなた、水を飲ませてくれまへんか」

リベカ「はいよろこんで!」

ラクダ「グビグビ」 

エリエゼル(さっき祈った通りの人やんけ! しかもめちゃめちゃかわええ! 神様サンキュー! あとは外人じゃなきゃOKや)「娘さん、娘さん、あんたどこの人?」

リベカ「ラバンの妹でございます」

エリエゼル「マジ? アブラハムご主人様の親戚やんけー! パーフェクト! 娘さん、実はかくかくしかじかで、イサクさんと結婚してくれまへんか?」

リベカ「はいよろこんで!」

エリエゼル「マジ?! やったー! 神様サンキュー!」

イサク「なんかようわからんけど、結婚できた! わーい!」

 ・・・と、まぁざっくりこんな感じである。ここに出てくるように、エリエゼルが祈った通りの女性が表れて、見事イサクの妻となった。確かに、「神が定めた結婚相手」に見える。しかし、イサクのケースは、単純にそうとは言えない。以下の点が理由である。 

1:神様はアブラハム特別な約束・契約を与えていた。私たちとは違う。

2:「みこころ」を祈ったのではイサクではなく、家来のエリエゼルである。イサクはなんもしていない、ただの棚ぼた野郎である。

3:エリエゼルは自分のためではなく、主人のアブラハムが神からもらった契約を守るために祈った。

4:つまり、神の約束・契約を守ろうとしたアブラハムのために、ふさわしい嫁が与えられた、という話なのであって、私たち個人のために「みこころの相手」が備えられているという話ではない。リベカは神の特別な計画の一部なのである。

 イサクの例から、「自分にも『みこころの相手』がいる」と考えるのは、少し短絡的だろう。

 

 

▼実例2:サムソンとティムナの女のケース<ドロドロ愛憎劇>

f:id:jios100:20180328230630j:plain

 サムソンとティムナの女の例はどうか。聖書にこのような記述がある。

 

サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる一人の女を見た。彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムナで一人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください」。父と母は言った。「あなたの身内の娘たちの中に、また、私の民全体の中に、女が一人もいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人から妻を迎えるとは」。サムソンは父に言った。「彼女を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです」。彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのこと、ペリシテ人イスラエルを支配していた。(士師記14:1~4)

 確かに、「それが主(神)によること」と書いてある。神がこの結婚を定めたと読めるかもしれない。しかし、そもそもは、「彼女が気に入った」との記述の通り、サムソン自身がティムナの女に一方的に惚れただけなのである。彼は、親の反対を押し切って結婚したのだ。しかし、彼女は違う男性の妻となってしまい、その後に殺されてしまうという悲惨な結果になった。

 悲惨な結果とはいえ、それが神様の計画だった。「気に入る」という感情も、神が与えるもので、ただ「好き」という感情も神からのものである。これについては後述する。ただ、忘れてはならないのは、サムソンは「士師」という特別な存在だったという事実だ。彼は神の計画のために、通常喜ばれない外国人の女との結婚を、「許容」されたのである。イサクのケース同様、私たち個人にそのまま当てはまるケースではない。

 

 

▼実例3:ホセアとゴメルの女のケース<かわいそうなホセア>

f:id:jios100:20180328230608j:plain

 ホセアのケースを見てみよう。彼ほどの信仰を見習いたいものである。

 

主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ」。彼は行って、ディブライムのの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。(ホセア書1:2~3)

 神は、突然、ホセアに「姦淫の女を引き取れ」と命令する。ホセアは、その命令に従う。彼は、息子に「イズレエル」(悪い町の名前)、娘に「ロ・ルハマ」(愛されない、あわれまれない、の意)、「ロ・アンミ」(私の民ではない、の意)という最悪の名前をつける。それも神の命令だった。ひどい命令だが、ホセアは従う。また、ゴメルは何度もホセアを裏切り、不倫を繰り返す。しかし、ホセアは神の命令に従い、彼女を買い戻す。

 なぜ、こんな命令を神はするのか。それは、イスラエルを愛して、愛してやまなかった神様が、何度もイスラエルに裏切られたことを象徴するためだった。ホセアの辛い人生は、預言者としての使命だった。ホセアは、人間の知恵では理解できない命令にも尚、従ったのである。

 神様は、最後にこう約束する。

 

イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。言え。あなたがたの兄弟には「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者(愛される者)」と。(中略)その日、わたしは応えて言う。ー主のことばーわたしは天に応え、天は地に応え、地は穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたは私の民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。

(ホセア書1:10~2:1、2:23)

 

 「愛されない子」が「愛される子」になり、「わたしの民でない子」が「わたしの民」と呼ばれるようになる。神様の計画は、時に逆説的で美しい。

  話が少しそれたが、重要なのは、神様は「ゴメルと結婚せよ」とは命じなかったという点だ。あくまで、「姦淫の女を引き取れ」としか命じていない。ホセア自身がゴメルを妻としてめとったのである。どう選んだのかは明確な記述はないが、喜ばしい結婚ではなかったであろう。

 

 

▼「みこころの相手」は「赤い糸で結ばれた相手」ではない

f:id:jios100:20180328230458j:plain

 聖書にある数少ない結婚の示しのケースは、以下のように全て特殊なものだ。

1:アダム→最初の人間

2:イサク→アブラハムの契約を受け継ぐため

3:サムソン→士師の役割として

4:ホセア→預言者の役割として

5:ヨセフ→メシアの父親として

 これらのケースを、私たちが直接自分たちに当てはめるのは、賢い解釈とは言えない。つまり、あなたがもし「みこころの相手」を「運命の赤い糸の相手」と考えているとしたら、その考えは根拠レスだ。それは、ただの迷信にすぎない。まとめると以下だ。

1:聖書に「みこころの相手」の明確な記述はない

2:神が結婚を示したケースはいずれもスーパー特例

3:「みこころの相手」は「運命の赤い糸の人」ではない

 しかし、だからといって、「みこころの相手」は存在しないのだろうか。私は、そうではないと考える。どういう意味か、次に書く。

 

 

▼感情も神から与えられるもの

f:id:jios100:20180328230310j:plain

 私は、神の「みこころ」というのは好きではない。神の「計画」とか、神の「取り仕切り」と言ったほうがしっくりくる。なぜなら、神の「こころ」なんて、人間には簡単に分からないからだ。もし簡単に分かる人がいたら尊敬する。私は、神の「こころ」なんてドンピシャで分からない。分からないことだらけだ。

 私は、この世で起こっていること全てが、人間の目に良いことも、悪いことも「神の計画」であり、「神の取り仕切り」であると思う。人間の目に悪いことがあっても、それは何らかの理由で神が「許容」しているのだ。ヨブ記の冒頭のサタンと神のやりとりや、マタイ10章の記述を見れば、この世の全てのものの「運命」を取り仕切る権利は神のみにあると分かる。命も、たどる道も、運命は全て神の「取り仕切り」による。

 であるならば、今私が抱いているこの「感情」も、神が与えたものと考えられる。神は、サムソンがティムナの女を好きになったその感情さえも、自身の計画のために用いた。私は、純粋な感情で、好きになった人を(または感情で好きでなくとも)、どんなに辛いことがあっても、神の愛で愛すると選択した人と結婚し、(足りない愛であっても)愛し合うのは素晴らしいことだと思う。それは、「神の計画」であり、本当の「みこころの相手」であると思う。

 神がこの世の全てを支配し、知っているのであれば、「みこころの相手」は当然存在する。しかし、それは「運命の赤い糸の人」や「白馬の王子様」ではない。究極的には、あなたが選んだ相手が「みこころの相手」なのである。もっと言えば、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」が「みこころの相手」なのである。神はあなたの選択を、全て先回りして知っているのである。では、それはどう分かるのか。簡単だ。あなたが好きになった人、一緒にいて落ち着く人、一緒にいるともっと神様を知りたくなる人、あなたが「ピン」と来た人が「みこころの相手」かもしれない。人それぞれ「ピン」とくる人は違うだろう。でも、その感情、その気付き、その「ピン」とくる直感は、神が与えたものだと、私は信じる。もしその「ピン」が「違うな」になったら、それはただの気のせいだったのだ。気にせず次にいけばいいのだ。

 ただ、気をつけなければいけないのは、「感情」だけに支配されることだ。ときに、「感情」には、裏の「心の動機」がある。あなたが「みこころ」だと思っている人は、実は「おこころ」ではないか。自分のコンプレックスを満たすのが本当の理由ではないか。自分が相手を支配しようとしていないか。誰かを見返すために、その人を求めていないか。寂しさを、神ご自身ではなく、人間で満たそうとしてはいないか。常に、「心の動機」のチェックが必要である。「この人はみこころだ」、「このビジョンは神のみこころだ」とあなたが言う時、本当の「心の動機」は何か、常にチェックするのをオススメする。

 私たちは、「神の取り仕切り」の中で生きている。しかし、現状この世界で人間は、「神の道」からそれる生き方も選択できる。神は、人間が「神の取り仕切り」に逆らう生き方をすることも、現段階では「許容」している。その代わり、その行動の「結果」(consequence)も、全てその人間が被るのである(※これは本来イエスが負ってくださったはずの罪の結果の「死」と似ているが、ビミョーに違う。この記事での言及は避ける)

 大切なのは、結婚相手とする人を、意思をもって、信仰を持って愛すると選択することだ。そうすれば、その人が結果的に「みこころの人」になるのである。「結婚」の契約を結んだ後は、「違うな」は許されない。一生かけて愛する契約を守る決意が必要だ。

 

 

▼結婚は聖書のはじめから終わりまで記されている神の奥義

f:id:jios100:20180328230422j:plain

 終わりに、「結婚」は聖書のはじめから終わりまでの神の奥義だという点を指摘したい。聖書の一番はじめに、結婚がある。

 

神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」。それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記2:22~24)

 また、聖書の一番最後にも、このような記述がある。

 

「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」。御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。(中略)

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

ヨハネの黙示録19:6,7,8~21:2)

 聖書のはじめ、アダムとエバを通して、人間の男女の結婚という神の奥義が示された。そして、聖書の最後に、イエスと信者の集いの結婚という奥義が示されるのである。「結婚」は、神が定めた、尊い契約のしるしなのである。

 

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:31~32)

 

(了)

【疑問】クリスチャンになったら「お布施」をしなきゃいけないの? <「十分の一献金」はマストなのか?>  

 

クリスチャンになったら、「お布施」、いわゆる「十分の一献金」は義務なのだろうか?

 

▼「お布施」は義務? 「十分の一献金」とは?

f:id:jios100:20180323072713j:plain

 「クリスチャンになったら、『お布施』をしないといけないの?」「教会にお金を払わないといけないんじゃないの?」クリスチャンではない人にされる質問ランキング上位だ。宗教はお金を搾り取る、というイメージがあるのだろうか。そのような質問に、私は「何の義務もありません」と答える。「十分の一献金は義務」との考えは間違いであると、私は考える。

 しかし、教会に行くと、しばしば、「十分の一献金という言葉を耳にする。「収入の十分の一を献金しましょう」というものだ。収入が20万円なら2万円を、30万円なら3万円を、といった具合だ。教会によっては、牧師から教会メンバーに電話がきて、「まだ今月の10分の1献金が振り込まれていません。至急、支払うように」という督促までするところもあるという。ヨーロッパでは、「教会税」として、一般の税金として徴収されるところもあるそうだ。何の義務もないはずなのに、どうして「十分の一」が義務化されているのだろうか?

 「十分の一献金」の根拠は何なのか。順を追って見ていこう。

 

▼「十分の一」の起源

f:id:jios100:20180323072939j:plain

 「十分の一」という表現が聖書で初めて出てくるのは、創世記である。

アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に与えた。

(創世記14:20)

 

 アブラハムは、まだモーセの律法も何もない時代に、「すべての物の十分の一」をメルキゼデクに捧げた。メルキゼデクって誰やねんという人は、ヘブル人への手紙に詳細が書いてあるので、後述する。

 ここでのキーポイントは、アブラハムは、十分の一を自ら捧げたという点である。誰かに強いられてではなく、律法でもなく、ただ自らの意思で捧げたのである。

 

 「十分の一」という表現が2回目に出てくるのは、次の箇所だ。 

ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」。

(創世記 28:22)

 

 これは、ヤコブが神に対して誓ったものである。ヤコブは、石を枕にして眠り、夢の中で幻を見て、神から祝福を約束される。その後で、記念として枕にした石で柱を立てて、この誓いをする。誓いの中に、「すべてあなたが私に下さる物の」とある。彼は、自分が持っているものは、全て神から与えられたと告白しているのだ。そして、その「十分の一」を神に献げると宣言している。これは、彼の自発的な感謝と誓いであり、誰かが決めた規定ではない。

 

▼「十分の一」の規定の成り立ち

f:id:jios100:20180323073249j:plain

 では、「十分の一」が「決まり」になったのはいつだろう。言うまでもなく、モーセの律法」である。

地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。

レビ記27:30)

 

 モーセの律法は、まず「十分の一」が神の取り分であると宣言する。そして、次に「十分の一」の用途について書かれている。

さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。

(中略)

それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。

民数記 18:21)

 

 神に捧げられた「十分の一」は、天幕で奉仕をする「レビ族」の取り分、生活費として与えられた。「生活費」といっても、当時はお金ではなく、「家畜の肉」や「穀物」などの産物そのものが、いわゆる「年貢」として納められていたのである。

 そのかわり、レビ族には「相続地」が与えられなかった。「神ご自身がレビ族の相続地」だったのである。彼らには、放牧や耕作をするかわりに、天幕で奉仕をする役目があった。「レビ族」もとい、「レビ人」は民の「十分の一」の「年貢」によって生活していたのであった。

 

 さらに、モーセの律法は、「レビ人」が捧げる「十分の一」にも言及している。

あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として捧げなさい。(中略)こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。(民数記18:26)

 

 「レビ人」にも「十分の一」を納める義務があった。ちょうど、公務員が税金によって得る収入から税金を払っているのと同じである。さしずめ、「レビ人」は現代の「公務員」のようであったと言ってもいいだろう(違うけど)。

 

 まとめると、「十分の一」の成り立ちは以下である。

1:アブラハムヤコブは、自発的に神への誓い、感謝を表し、財産の十分の一を神に捧げた。

2:モーセの律法では、イスラエルの民に対して、「地の産物の十分の一」は全て主のものだと定義づけた。

3:イスラエルの民が捧げた「十分の一」は、レビ人のものとなった。

4:レビ人も、得たものの「十分の一」を神に捧げる義務があった。

 

 こう見ると、「十分の一」は確かに、旧約聖書の律法に明確に書いてある。「安息日」同様(※安息日の記事はこちら)、旧約聖書の律法や習慣を踏襲し、現代の教会にも「十分の一」という基準ができたのは、一定程度うなずける。しかし、ここには重大な論理の欠陥がある。

 

▼「十分の一」は「いけにえ」であって「お金」ではない

f:id:jios100:20180323073815j:plain

 律法にも「十分の一」をささげる習慣があるから、私たちも「十分の一献金」をしようという理論には欠陥がある。なぜか。「十分の一」は「お金」ではないからだ。上記の聖書の言葉のように、「十分の一」は、「いけにえ」や「収穫」の「十分の一」を指すのである。「お金」ではない。

 申命記にも、十分の一についての記述が複数あるが、どれも「いけにえ」や「収穫」に関するものである。ひとつだけ引用しよう。

あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず献げなければならない。主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。

申命記14:22~23)

 

 イスラエル人たちの「礼拝」は、「いけにえ」を捧げることであった(※「礼拝」に関しても後日別記事を書こうと思う)。「いけにえ」や「ささげ物」には、「罪の代償」の意味のほかに、収穫したものや所有する家畜の一部を、神に返し、感謝の気持ちを示すという意味合いもあった。

 重要なのは、「十分の一」を捧げるべきものは規定されていて、「財産の全ての十分の一」ではないという点だ。いけにえの羊や牛、収穫した穀物など、「十分の一」を取り分ける対象は決まっていたのである。

 余談だが、モーセの律法はよくできていて、「いけにえ」を雄牛や雄羊でまかなえない人は、鳩のいけにえでもゆるされ、鳩もまかなえない貧しい人は、その代わりに穀物の捧げ物でも赦された(レビ5章参照)。

 

 つまり、「十分の一」は以下のようにまとめられる。

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定だった。

2:「十分の一」は、「お金」や「全財産」ではなく、「いけにえ」や「収穫物のささげ物」の一部であった。

3:レビ人、祭司たちは、その「十分の一」を得て生活していた。

 

 以上の点から、「収入の十分の一を教会に支払う義務」は間違っているといえる。その理由をまとめると・・・ 

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定であって、私たちへの規定ではない。

2:モーセの律法の要求は、既にイエスが十字架の上で支払い、「完了」している。ゆえに、現代の私たち異邦人クリスチャンに、その義務はない。

3:そもそも、「十分の一」は「お金・全財産」を指すものではない。「十分の一」は「いけにえ」と「収穫物のささげ物」の一部である。

4:イエス以降の時代は、イエスただ一人が「大祭司」であり、他に祭司やレビ人はもはや存在しない。

 

 他にも、「十分の一」への言及はサムエル記第二8章(→王の徴税の権利として)、歴代誌第二31章(→ヒゼキヤの時代に民が十分の一のささげ物をした)、ネヘミヤ記10章(→レビ人に対しての「十分の一」の規定)などに登場する。まとめると、「十分の一」の規定には、 

1:イスラエルの民への徴税

2:イスラエルの民による感謝の表明

3:レビ人への給料

 という側面が読んで取れる。いずれも、現代のクリスチャンに「献金」として当てはめるには、根拠が薄弱だと言わざるを得ない。思いっきり律法で禁止されているブタやエビを食べている私たちが、「十分の一献金」だけ義務化されるのは、おかしい話である。

 

▼反論1:マラキ3章の記述

f:id:jios100:20180323074501j:plain

 さて、もちろん「十分の一」は義務だと唱える人もいる。彼らが根拠とする聖書の言葉のひとつに、マラキ3章の記述がある。「十分の一献金」を義務化しようとする教会が、よくこの箇所を根拠に信者たちを脅すのだが、さて、どんな言葉なのか見てみよう。

人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。―万軍の主は言われる- わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ書 3:8-10)

 

 「十分の一献金義務派」の教会では、「十分の一献金」をしない信徒に対して、この聖書の言葉で対抗する。「あなたが十分の一献金を教会に捧げなければ、あなたは神のものを盗んでいる」と脅すのである。同時に、「あなたが十分の一献金」を捧げたら、「あなたはもっと祝福される」と教えるのだ。えええ、それじゃあモチベーションは、「ご利益信仰」じゃないの? と思うのは私だけだろうか。

 「あなたが献金すればするほど、神はあなたを祝福される」というメッセージは、意外にも多くの教会で語られる。私がかつて通っていた韓国系の教会では、それが当たり前の常識として語られていた。しかし、私はそれは間違いだと断言する。神の恵みは、そんな因果報応的な、簡単なものではない。

 日本人にとっては、神社に行って、5円玉のお賽銭でお祈りするより、1万円のお賽銭の方が祈りが聞かれそうな感じはするだろう。しかし、イエスの恵みはあなたがいくら払ったかは関係ない。私たちが生まれるはるか前に、既にイエスは十字架の上であなたのために「いけにえ」となって死んでくださったのである。神が死んでまであなたを愛してくださったのに、その恵みを「お金」と等価交換しようとする心持ち自体が、既に冒涜だと、私は思う。

 そもそも、マラキ書の預言は、現代の私たちに直接語ったものではない。マラキ1章1説を読んでみよう。

宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。(マラキ書1:1)

 

 思いっきり分かりやすい形で、著者と対象者が書いてある。対象はイスラエルであって、異邦人である私たちではない。

 私たちが聖書を読むとき、それが「いつの時代」、「誰に」、「どういう目的」で書かれたものか、注意する必要がある。もちろん、神は時を超えるので、旧約のイスラエルへの預言がそのまま適用できる部分もなくはない。「殺してはならない」、「隣人を愛しなさい」という普遍的な教えもある。

 しかし、このマラキの記述は明らかに、「イスラエルヤコブ)」を対象に書かれたものだ。これは、まだ旧約の時代、モーセの律法が有効だった時代に書かれたものであって、その律法をないがしろにしていたイスラエルの民に向けて書かれたものだ。現代の私たちに宛てて書かれたものではない。残念ながらマラキ書の記述をもとに、「十分の一献金義務化」を唱えるのは、全く説得力に欠ける。

 

 

▼反論2:イエスは「十分の一もおろそかにするな」と教えた

f:id:jios100:20180323074829j:plain

 もっと説得力がある反論がある。それは、エスが「十分の一もおろそかにしてはならない」と教えたというものだ。該当箇所を見てみよう。2つある。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(マタイの福音書23:23)

だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(ルカの福音書11:42)

 

 なるほど、確かにイエスは「十分の一もおろそかにしてはならない」と言っている。しかし、このメッセージの中心は、「これこそ(正義とあわれみと誠実・正義と神への愛)しなければならないことだ」という点なのだ。

 律法学者やパリサイ人は、本来、律法で規定されていない、「ミント・イノンド・クミン・うん香・あらゆる野菜」などの「十分の一」もささげていた。あらゆるハーブ類や、野菜などの、取るに足りない小さなものさえも、厳密に「十分の一」を納めていたのである。「俺たちは、こんなに厳密に、本来やらなくていい『十分の一』でさえもささげているんだぜ!」という感じだったのだろう。現代の私たちにあてはめれば、「手取り」ではなく「額面」の十分の一じゃなきゃダメだとか、「ボーナス」も「十分の一」ささげないとダメだとか、そんな感じだろうか。

 イエスは、そんな彼らの「心の動機」、いわばモチベーションが間違っていると指摘したのだ。外見だけしっかりやっているようでも、その実はただの見栄っ張りだった。彼らは、貧しい人やみなしごたちを、全く無視していた。イエスはそんなパリサイ人たちに向かって、「十分の一のいけにえも大切だが、もっと大切なのは正義とあわれみと誠実だ」と言ったのである。

 イエスの教え、指摘をまとめると以下である。

1:「十分の一」はおろそかにしてはならない。なぜなら、それは「モーセの律法」の規定だから。しかし、「モーセの律法」はイエスが十字架で完成したので、現代の私たちは行う必要はない。(→同じように、イエスは、ツァラアトからきよめられた人に、律法に従って祭司に報告するように教えた)

2:一番大切なのは、「心の動機」、モチベーションである。

3:正義とあわれみと誠実、神への愛こそが、しなければならないことである。

 

 実は、イエスの指摘は新約時代の新しいものではない。旧約聖書にも同じような記述はたくさんある。いくつか紹介しよう。

あなたは いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは お求めになりませんでした。(詩篇40:6)

まことに、私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17) 

サムエルは言った。「主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一15:22)

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め』

(エレミヤ7:22~23)

 

 他にもいろいろ同様の箇所はある。旧約聖書にも、「いけにえ」は本質ではないと書かれているのだ。パリサイ人たちは、その真理を見抜けずに、形だけの「十分の一」を行っていたのである。

 もちろん、「自分が今持っているものは、全て神に与えられたもの」という認識は正しい。「神から与えられたのだから、それを神にお返ししたい」というモチベーションも、素晴らしいと思う。しかし、正義と公正こそしなければならないことだとしたら、「教会に収入の十分の一を献金する」は正しいのだろうか? 私は、それはもちろん素晴らしいことだとう思うが、「貧しい人へのサポート」、「支援が必要な人への支援」も同様に大切だと思う。

 その意味で、サラリーマンであれば、自分の給料から自動的にお金が差し引かれ(それも十分の一以上の結構な額が)、その税金で「ODA発展途上国援助」や「生活保護」、「被災地復興」がされている点から鑑みれば、実感はないかもしれないが、かなりの献金を既にしているのである(年収350万の人なら、原則、所得税20%+住民税10%で既に十分の三もささげているのである!! ワオ!)。

 

 

▼「完全ないけにえ」はイエスご自身

f:id:jios100:20180323083010j:plain

 もうひとつ、忘れてはならない大切な事実がある。それは、エスご自身が完全ないけにえであるということである。ヘブル人の手紙に記述がある。

律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する(※ここからも、「礼拝=いけにえを捧げる」という価値観が読み取れる)人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

ですからキリストはこの世界に来てこう言われました。「あなたはいけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした」

(中略)このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

(ヘブル人への手紙10:1~10)

 

 この太字のカギカッコの部分は、先ほどの詩篇40編の引用である。詩篇は、完全ないけにえのイエスご自身を表す預言だったのである。なるほど、「いけにえ」も「ささげ物」も「十分の一」も、全ては「完全ないけにえ」である「イエスご自身」の「伏線」だったのである。

 ここで、記事の序盤で出てきた、「メルキゼデク」が意味をなしてくる。創世記に、何の前触れもなくアブラハムの前に登場した「メルキゼデク」とは一体誰なのか。ヘブル人への手紙に詳細な記述がある。一部をご紹介しよう。

エスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。

(中略)

さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。

(中略)

言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

(中略)

エスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙6:20~7:25)

 

 この「メルキゼデク」という人は、創世記に突如現れる。メルキゼデクは、「大祭司イエス」の「伏線」なのである(※「メルキゼデク≒イエス」という人もいる。私もその考えに賛同する)。つまり、アブラハムもレビも、その他の全ての「十分の一」をささげた人は、このメルキゼデク、すなわちイエスご自身に「十分の一」を捧げたのだ。

 私たちは、この「永遠の大祭司」であるイエスご自身が、「完全ないけにえ」になることによって、完全に救われている。「いけにえ」も「十分の一」も全てはその「伏線」なのである。何千年も前から、計画されていた、神の神秘なのだ。ああ、神の計画はなんと深いことか。

 

 

▼「十分の一」ではなく「十分の十」捧げる

f:id:jios100:20180323083814j:plain

 勘違いしてほしくはないが、私は、「献金しなくていい」と言っているのではない。「十分の一献金」などという概念は聖書にない、それは義務ではない、たくさん献金したからご利益があるわけではない、と言っているのだ。しかし、献金」は大切である。聖書にもこのような記述がある。

彼らは喜んでそうする(金銭的援助をする)ことにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

(ローマ人への手紙 15:27)

 

 パウロは、異邦人クリスチャンたちに、エルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちを支援するよう要請した。カンチガイしてほしくないのは、「霊的なものにあずかった」というのは、「聖書を教えてもらった」という意味ではない。よくこの箇所を引用し、「だから牧師を支援すべきだ」という人がいるが、それは間違いだ。この箇所は、あくまでも、イスラエル人のみ開かれていた救いが、異邦人にも開かれたのだという意味である。また、エルサレムにいるユダヤ人信者たちは、激しい迫害の中にあったことも覚えておく必要がある(→ただ、コリント人への手紙には同じ表現で働き手に対しての献金の要請が書かれている。後述)。

 

加えて、パウロは、ガラテヤの教会、コリントの教会に、献金を命じている。

さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。私がそちらに言ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。

(コリント人への手紙第一 16:1~2)

 

 ガラテヤやコリントは、比較的裕福な教会であった(特にコリント)。パウロは、彼らに、「聖徒たちのため」に献金を準備しておくよう伝えたのである。私たち日本人は、世界的に見ればメチャクチャ裕福なのであるから、他の国の兄弟姉妹を支援するのは大切である。しかし、「日本の教会」という意味ではメチャクチャ貧しいのは事実で、その意味では、裕福な西欧の教会や、規模の大きい韓国の教会に支援を要請するのは、理にかなっているとは思う。

 

 また、現実問題として、教会運営にお金は必要である。教会会堂の家賃や維持費、会堂建築費の返済、牧師やスタッフの給料、教会のイベント事の予算等々、「教会」の運営にはどうしても結構なお金がかかる。教会開拓にもお金は必要だ。

 パウロは、そのような働きに対して、働き手が信者から収入を得るのは当然だと論じている。

モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠<くつこ>をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

(中略)

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 9:9~14)

 

 パウロは、この「権利」を自分たちは用いなかった。すなわち、自分たちは教会からの献金を受けずに、「自活」していたと主張する。しかし、原則として、「福音を述べ伝える者」が「福音の働きから生活の支えを得る」のは当然の定めである。「十分の一」は義務ではないが、「牧師や教会スタッフの生活費・給料」は、何らかの形で支払えるようにするのが理想だ。そのために、信者たちの「自発的な献金」は望ましい。

 その意味で、「十分の一」は、するのは簡単ではないが、できなくはないギリギリのラインの指標として、非常に有効である。手取り20万円の人が、2万円の献金をするのは、結構大変だ。決して楽ではない。しかし、できなくはない。神様は現代の私たちの生活に当てはめてもなお、ドンピシャでギリギリの指標を与えてくださっているのだ。その意味で、「自発的に収入の十分の一を献金する」のは、とても良いことだと思う。

 大切なのは、「心の動機」、モチベーションだ。イエスは、こう言っている。 

それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:41~44)

 

 やもめが入れたレプタ銅貨2枚は、ほんの少しのお金だった。日給1万円で計算すれば、たったの156円分である。しかし、彼女にとってそれは全てだった。イエスは、彼女こそが一番の献金をしたと言う。

 この箇所から、「献金は額ではなく、割合が大切だ」という人もいるが、私は違うと思う。私は、大切なのは、「心の動機」、すなわちモチベーションであると思う。彼女は、なぜ「生きる手立てのすべて」を投げ入れられたのか。それは、彼女が神に信頼していたからである。彼女こそ、イエスの教えを実践した人であった。 

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

(マタイの福音書6:27~31)

 

 私たちは、神によって養われている。仕事も、経済も、健康も、肉体も、時間も、命も、持っているものは全て神から与えられたものである。その認識に至るとき、もはや私たちは「十分の一」などという概念に縛られない。

 まことの礼拝者は、自分自身を、「生きた供え物」としてささげる。「十分の一」ではない。「十分の十」捧げるのである。

 

 本当に神の霊に満たされ、神に自分自身を捧げるならば、もはや「自分のもの」は何ひとつない。最後に、聖霊に満たされた人々が、どうリアクションしたか、そして、神がどのように彼らを満たされたか見てみよう。

 さて、信じた大勢の人々はこころと思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。

使徒の働き 4:32~35)

 

【疑問】なぜ牧師は「先生」と呼ばれるのか?!

教会に行くと、牧師が「先生」と呼ばれている。なぜ?

▼牧師に資格は必要?

f:id:jios100:20180307164044j:plain

 とある教会に遊びに行くと、牧師の娘が父親を「小林先生」と呼んでいた。ビックリした。「お父さんなのに、なんで先生って呼ぶの? おかしくない?」と、僕は彼女に尋ねた。「牧師は先生と呼ぶものでしょ?」彼女は当たり前のように言った。ほう、牧師は先生と呼ばなきゃアカンのか。カルチャーショックだった。確かに、教会に行くと集まった人たちは牧師を「先生」と呼んでいる。牧師は先生と呼ばなきゃいけない。初めて教会に来た人はそう思うだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。

 「先生」と呼ばれる職業は、世の中にたくさんある。教師、医者、弁護士、政治家、大学教授…etc。どれも、資格が必要な職業ばかりだ。その職に就くだけでも、相当の労力、勉強、お金をかけて試験に臨み、合格してやっとその資格が得られる。政治家の場合は、何万人もの人に名前を書いてもらって、当選して初めて「先生」となる。

 牧師には資格が必要なのか。否。牧師は国家資格ではない。教会や教団によっては、この神学校を卒業しなきゃいけないとか、このくらいの経験を積まなければいけないという決まりがある。しかし、それは聖書に書いてあるわけではない。ただの内規だ。それは、あくまで自分たちで決めた勝手なルールであって、普遍的なルールではない。牧師になるには神学校に行かないといけないなどという決まりは、聖書のどこにも書いていない。もしあなたがそう思っているとしたら、勘違いだ。牧師になるのに、資格は必要ないのである。

(※なお、聖書には「監督者」と「執事」の資格について記述がある。「監督者」、「執事」は、本来「牧師」とイコールではないと私は考える。ただし、現代の教会においては「牧師」が実質的な「監督者」であり「執事」の役目を担ってしまっている場合が圧倒的に多い。この点はまた別の記事を書こうと思う)

 

▼牧師は先生ではない

f:id:jios100:20180307202220j:plain

 私達は、医者や弁護士などを先生と呼ぶ。資格や知識に敬意を払ってそう呼ぶ。牧師に対してはどうか。本来資格が必要ないとはいえ、やはり立場や知識に敬意を払って「先生」と呼ぶのは、礼儀的にも正しく見える。

 しかし、イエスは「先生呼ばわれ」を禁じている。エスはこのように言っている。

彼ら(律法学者たちやパリサイ人たち)がしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイの福音書23:5~8)

 

 イエスは、これだけハッキリと「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」と命じている。言い訳の余地はない。ここで留意したいのは、「呼んではいけない」ではなく、「呼ばれてはいけない」と命じている点だ。重大なポイントだ。「呼ぶ方」をダメだと言っているのではなく、「呼ばれる方」にダメだといっているのである。

 つまり、あなたがどこかの牧師を「~先生」と呼ぶとき、あなた自身はイエスの教えを破っていないが、呼ばれた牧師がイエスの教えを破っていることになる。あなたが、「~先生」と呼ぶとき、あなたは知らず知らずのうちに、牧師にイエスの教えを破らせているのだ。ビックリ!

 もしこの記事を読んでいるあなたが牧師だとすれば、「先生呼ばわれ」は今後一切やめた方がいいとオススメしたい。もしあなたが、イエスの教えに耳をふさぎ、知らないふりをするなら・・・それはイエスから目をそむけることである。

 聖書の別の箇所ではこう書いてある。

だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私(パウロ)があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

(コリント人への手紙第一 14:37~38)

 

 ここは、教会で「異言」(いげん)をどう扱うかパウロが指導した箇所だ。一義的にはその指導を守れときつく命じている部分である。「先生」の部分とは関係ない。しかし、パウロが命じたことを守らないとダメなのであれば、なおさら神自身であるイエスの教えを守らないとダメなのではないか。

 私は、「この教えを守らないと救われない」という律法主義的な話をしているのではない。イエスを信じる者として、イエスの教えを大切にすべきだと言っているのである。大切なのは、「心の動機」である(後述)。

 

▼私たちはみな兄弟である

f:id:jios100:20180307202946j:plain

 もう一度、先ほどのマタイの箇所を見てみよう。

しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

(マタイの福音書23:8)

 

 イエスは、律法学者たちやパリサイ人たちが、人からの栄誉を受けたいがために、威張り、見栄を張っていたと指摘した。その後で、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」と命じた。パリサイ人らとイエスの弟子、信者たちを対比しているのである。イエスは、教師たる存在は「神・イエス自身ひとりだけだ」と諭している。

 それと当時に、イエス「あなたがたはみな兄弟だ」と教えている。先生は神だけで、信者たちはみな上下関係なく、兄弟だと言っているのだ。また、イエスは別の箇所でもこう言っている。

大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。するとイエスは彼らに応えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「御覧なさい。わたしの母、私の兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです

(マルコの福音書 3:32~35)

 

 イエスの親族は、イエスが預言者のような行動を始めたので、これはヤバイと思って連れ戻しに来たのである。しかし、イエスは、「神のみこころを行う者がわたしの兄弟姉妹、母だ」と言う。ルカの福音書では、「神のことばを聞いて行う人たち」と言っている。

 教会に初めて行く人は、礼拝会の式次第に「~兄弟」とか「~姉妹」とか書いてあるのをみて、驚くだろう(※そうでない教会もある)。「えっ? みんな兄弟なの?」となるのである。もちろん違う。なるほど、肉体的な「兄妹」ではなく、精神的、霊的な兄妹姉妹なのだ。エスの教えがベースになっているのである。

 ともすると、牧師だろうが、長老だろうが、司祭だろうが、執事だろうが、伝道師だろうが、宣教師だろうが、教会スタッフだろうが、礼拝会に参加するだけの一般信徒であろうが、子どもだろうが、赤ん坊だろうが、大学生だろうが、独身だろうが、既婚者だろうが、どんな人であれ、エスを信じ、神の言葉に耳を傾ける人ならば誰もが「兄弟姉妹」なのである。そこに優劣はない。もし、そうでないと考える人は、イエスの言葉で反証してもらいたい。イエスの言葉によれば、偉いのは牧師でも長老でもなく、「一番えらいのは子どもたちのような者」なのである。

 また、イエスのこの言葉を忘れてはならない。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の共のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、なたがたはわたしの友です。ヨハネ福音書 15:12~14)

 

 この世界を作った、王の王であるイエス自身が、弟子たち、そして広い意味では私たちを指して、「わたしの友」だと宣言したのである。私たちはイエスの友達なのだ。エスまでが友達と呼んでくださったのに、どうして同じ人間である牧師は「先生」になるのか。意味が分からない。

 

 

▼「牧師」という言葉は、聖書に1回しか出てこない?!

f:id:jios100:20180307203152j:plain

 教会に行くと、「牧師」は切っても切り離せない、重要なポジションに思える。しかし、実は「牧師」という単語は、聖書に1回しか出てこない。1回こっきりのこの単語は、エペソ人への手紙4章に登場する。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

(エペソ人への手紙4:11)

 

 なるほど。「教会」の中の様々な役割の中のひとつとして、「牧師」が紹介されている。英語の翻訳でも、ほとんどが、「Pastors(パスターズ)=牧師たち」となっている。

 もっとも、「牧師」と翻訳されているギリシャ語の「ポイメイン」は、1回だけではなく、何回か聖書に登場する。キングジェームズ・バージョン(欽定訳)では、18回出て来る。そのうち、「パスター・牧師」と翻訳されているのは、エペソの1回だけで、他の箇所では、「シェパード・羊飼い、羊を飼う者」と訳されている。エペソだけ、なぜか「牧師」と訳出しているのである。

 これは、「教会中の役目を説明しているのだから、『羊飼い』よりも『牧師』が適切だろう」という考えに基づいた意訳だ。人の解釈が介入した、意図的で特殊な翻訳なのである。しかし、本当にそれは適切な翻訳だろうか。岩波版の聖書を翻訳した立教大教授の佐藤研氏は、著書でこう述べている。

(今までの一般訳は)教会内で礼拝に使うことを大前提にした、キリスト教徒に対する訳で、いわば内向きの翻訳で言って良いであろう。その意味では聖書学的性格さをぎりぎり追及した訳ではなかったと言える。(中略)「学問的」正確さの追究は、場合によっては、これまでのキリスト教的言語と齟齬をきたし、またはなはだしい衝突を起こすことにもなり得るということである。しかし、そのような翻訳作業が現代の日本においては意味があり、また必要なものではないかと考えている。

<佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」P12~32『日本における聖書翻訳の歩み』上智大学キリスト教文化研究所編 2013.>

 

 佐藤氏が指摘するように、一般の翻訳の聖書は、「教会で使うことを前提」とした意図的な翻訳なのであろう。本来、翻訳作業の原則は、同じ単語は出来る限り同じ単語で訳出すべきだ。その原則に基づけば、エペソ4章の箇所は、本来「羊飼いor牧者」と訳すべきである。私は最低でも「牧者」が適切であると思う。英語の翻訳、イングリッシュ・スタンダード・バージョン(ESV)は、この原則にのっとり、「シェパーズ=羊飼いたち」と訳している。

 結局のところ、「牧師」という役職は、後代の文化によって作られた虚像である。聖書に1回しか出てこないのではない。ゼロ回しか出てこないのである!!! 

 しかも、エペソ4章には、「使徒」、「伝道者」(伝道ではない!)、「教師」など、他の役目も並列的に書いてある。牧師だけが特別なのではない。

(※この教会の中の役目についても、また別の記事を書く予定。「とりあえず伝道師っておかしくない?!」というタイトルで)

 

 

▼反論1:「ラビ」は「先生」と違う?

f:id:jios100:20180307204916j:plain

 よくある反論が、「ラビと先生は違う」というものだ。私は一度、「なぜあなたは先生を呼ばれることを許容しているのか」と、ある牧師に尋ねた。彼は、「イエスが言ったのは、『ラビ』でしょ。『ラビ』は日本語の『先生』とは違うからOKなんだよ」と言った。

 確かにイエスが、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」と言った部分の「先生」の原語は、「ラビ」である。この、「ラビ≠先生論」を唱える人は、思いのほか多い。この主張は正しいのだろうか。

 いや、全くのこじつけだと断じていい。確かに、「ラビ」は、ユダヤ教の宗教指導者を指す、特別なヘブライ語だ。日本語の、「先生」が教室で教える人を示すのとは、明らかに違う。「ラビ」は宗教指導者であり、聖書の解釈の幅を決める権限さえ持っている。ユダヤ教の人々にとっては、「どのラビにつくか」が非常に重要だ。パウロも、「私はガマリエルの弟子だ」と、パリサイ人としての自分のアイデンティティーを語った。

 現代のユダヤ教徒の間でも、「あなたのラビは誰?」という会話をよく耳にする。その人の信仰スタンスをはかる目印になるからだ。これは、プロテスタントの人が、「あなたはどこの教団?」、「どこの教会?」と聞くのと似ている。どこの教団や教派に属し、どの牧師の教えを受けているかで、その人のスタンス、アイデンティティーがはかれるのである。

 であるならば、ユダヤ教の「ラビ」と、プロテスタントの「牧師先生」は全く同じではないか。その人の教えが、その人の信仰のスタンスを決め、その人の生き方に影響を及ぼす。まさに、「宗教指導者」の意味で全く同じ意味合いなのである。

 しかし、私達のアイデンティティーは、ラビでもなく、牧師でもない。私達のアイデンティティーはイエスただ一人である。唯一のラビがイエスなのである。私達の信仰スタンスを形作っているのは、牧師ではなく、イエスなのである。この事実を知ってはいても、日々意識している人が、どれほどいるだろうか。

 

 また、言語的にも「ラビ」と現代の「先生」は完全に違うとは言えない。「ラビ」はヘブライ語なので、ギリシャ語聖書では訳出する必要がある。こういう箇所がある。 

エスは振り向いて、彼ら(アンデレと誰かもう一人)がついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか」。彼らは言った。「ラビ(訳すと先生)、どこにお泊りですか」

ヨハネ福音書1:38)

 

 聖書そのものに、ヘブライ語「ラビ」は、ギリシャ語の「ディダスカロス=先生」だと紹介されている。「ディダスカロス」は、同じ単語が使われている他の箇所を見ると、「先生」の箇所もあれば、「師匠」とも翻訳されている。宗教指導者としてのラビと、そうでない、黒板に板書をするような一般の「先生・師匠」との差が確かにあることはある。しかし、ありこそすれ、尊敬する対象で、教えを受け、言動にならう対象には変わりはない。本質的には意味合いは同じだと、聖書そのものが明示しているのである。よって、「ラビ≠先生論」は、根拠に乏しいと言わざるを得ない。

 

 

▼反論2:「先生」がダメなら「父」もダメ?

f:id:jios100:20180307205648j:plain

 もうひとつの反論は、「ではあなたは父親を『父』と呼ばないのか?」という指摘である。その理由は、マタイの「先生と呼ばれるな」箇所のすぐ後ろにあるこの記述だ。 

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

(マタイの福音書23:9)

 

 つまり、「先生」と呼ばれてはいけないの後に、「父」と呼んでもいけないと書いてあるので、その教えは同等の命令であるはず。しかし、現実には、肉体的な父親を「父」と呼んでいるのだから、牧師を「先生」と呼んでもいい、という理論である。

 これは、全く的外れな指摘だ。エスはAとBを守れと言った。だけど現実としてBは守ってないからAも守る必要がない、というトンデモナイ理論である。論理構成そのものが論評に値しないが、Bを守っていないという指摘も、実は間違っている。

 これは、日本人が複数形を理解できないために起こりがちな誤解だ。よく箇所を読んでみよう。「自分たちの父」と書いてある。「自分」ではない。「自分たち」だ。つまり、肉体的な「父親」ではなく、どちらかというと、自分のルーツとなる「先祖たち」、「父祖たち」を指しているのである。

 ユダヤ人にとって、家系図は今日に至っても、非常に重要なアイデンティティーのひとつである。家系図がないと、正式なユダヤ人とは認められない。彼らにとっては、「父祖たち」、つまり、アブラハム、イサク、ヤコブ」の系図であることがアイデンティティーなのである。

 しかし、バプテスマのヨハネも別の箇所でもこう教えている。

『我々の父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

(ルカの福音書3:8)

 

 イエスは、肉体的な先祖には、本当の意味はないと教える。よく、「いつイエス様に出会ったの?」と聞くと、「いや、僕の親は牧師だから」と答える人がいる。とんでもない。あなたが牧師様の息子だろうが、娘だろうが、救いには全く関係はない。ただイエスを信じるのみだ。ユダヤ人は、ユダヤ人というだけで、悔い改めずとも救いに入れると思っていた。ヨハネは、そのような帰属意識を持ったユダヤ人たちを厳しく戒めたのだ。

 イエスは、「自分たちの父と呼んではいけない」と言い、もはや信者のアイデンティティーは「ラビ」でもなく、「先祖」でもなく、イエス自身だと教えているのだ。私たちのアイデンティティーは、「牧師」でも、「所属」でもない。私たちのアイデンティティーは、イエスご自身、神そのものなのである。私たちの国籍は天にあるのだ。

 

 

▼ではどう呼べばいいのか。「さん」という日本語の推奨

f:id:jios100:20180307210419p:plain

 以上のことから、マタイ23章を否定できる根拠は全くないと言っていい。牧師に限らず、兄弟姉妹の間では「先生」と呼ぶことはオススメできない。

 では、どう呼べばいいのか。英語圏などでは、「Pastor ○○=パスター○○」といった感じで、「○○牧師」と呼ぶ。私が行ったことのあるイスラエルのメシアニック・ジュー(=イエスをメシアと信じるユダヤ人)の集会では、牧師に敬称はつけず、名前で呼び捨てだった。韓国は、逆に最上級の敬称で、「モクサニム=牧師様」と呼ぶ。

(※神様は「ハナニム=唯一様」で、神様と牧師に同じ敬称が使われているのだから驚きである。あるユダヤ人宣教師は、韓国のキリスト教を「三位一体ではなく、父子聖霊牧師の四位一体だ」と批判した。今回はこれ以上の言及は避ける)。

(追記:上記の韓国語の旨、韓国語に詳しい方から「ニムは『様』だが、韓国語では役職名そのもので敬称になりえないので、言語として必要な用語であって、神様の『様』と単純比較できない。また、『最上級の表現』でもない」とのご指摘いただきました。訂正します。ただし、「モクサニム」には「先生」のニュアンスが日本語以上に厳格にあるそうです。)

 

 日本語ではどうか。「~牧師」でもいいかもしれない。しかし、言葉の細かい点を指摘すれば、「師」という言葉自体に「師匠・先生」の意味が含まれる。マタイ23章で、イエスはこうも教えている。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

(マタイの福音書23:10)

 

 この「師」と訳出されている単語は、ギリシャ語では「カセギテイス」。すべて、「師匠・マスター」と訳されている(3回しか出てこない)。ゆえに、「先生・師匠」の意味が文字自体にある「師」がつく「牧師」は適切でないように思う。

 何より、「~牧師」と日本語で呼ぶのは、堅苦しくて、兄弟姉妹らしさがない。元々、「羊飼い」の意味であった、「牧師」という言葉も、現代の文化では、「先生」の意味を持つ特別な言葉になってしまっている。「牧者」ならまだぎりぎりアリかもしれないが。

 とはいえ、イスラエルのように呼び捨ても違和感がある。日本の文化では、年上の人や、尊敬する人を呼び捨てにするのは失礼にあたる。年も近く、友達関係であるなら、相手が牧師であっても呼び捨てでいいかもしれない。教会によっては、牧師に愛称があるところもある。素晴らしい文化だ。しかし、そうはしにくいケースも多いと思う。やはり、一定の敬意は示したいものである。

 

 ではどうすればいいのか。私は、「~さん」を強く推奨する。「さん」は日本語のとても便利素晴らしい、尊敬を表す言葉だ。それでいて、「先生」の意味はない。これ以上便利な敬称はない。韓国語の「~シ=~氏」は、少し堅苦しく適切でないかもしれないが、日本語の「さん」は何の違和感もない。

 私は、牧師に敬称を付けるなら、尊敬も親しみも込められる、「さん」付けを、強くオススメする。何も、牧師を尊敬するなといっているわけではない。むしろ、同じ兄弟姉妹として、愛し合い、戒め合い、支え合い、互いにキリストに似た者とされていこうと言っているのだ。時に、相手が牧師であっても、間違いを愛を持って指摘することは、絶対に必要であると思う。

 余談だが、私は普段、政治の記者の仕事をしている。政治家は、ふつう、「先生」と呼ばれる。しかし、政治家と記者の立場は、本来対等である。よって、私たち記者は、政治家を「先生」と呼ぶんではいけないと、徹底的に教えられる。記者は、政治家を「~さん」(または衆院議員に限れば「~代議士」)と呼ぶのだ。ただの記者でさえ、呼び方に気を使っているのだから、イエスに命を救われたクリスチャンが、イエスの教えを守るのは、当然ではないだろうか。

 

 

▼大切なのは「心の動機」

f:id:jios100:20180307211203j:plain

 私は、言葉の論争をしようとしているのではない。聖書にこう書いてある。 

これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神のみ前で厳かに命じなさい。(テモテへの手紙2:14)

 

 大切なのは、言葉ではなく、「心の動機」である。あなたの心が、どこに向いているかである。人は、何か釈明するとき、理由を探すとき、必ず「心の動機」がある。ペテロが「イエスを知らない」と言ったのを、「イエスの預言だから」というのは簡単である。しかし、本質は、彼の心の中の恐れであった。彼はイエスより、自分の命を大切にしたのである。

 人は、論理的な説明をする前に、何か本質の心の動機を持っている。「疲れたから」といって誘いを断った本当の理由は、「その人に会いたくない」からかもしれない。「新しい可能性のために転職したい」という本当の理由は、「イヤな上司に耐えられない」からかもしれない。誰しもが、行動の根本にある、心の理由がある(※たいてい、それはコンプレックスが理由のことが多い)。私がこの記事を書く心の動機は、恐れずに書けば、聖書を読んだときに、教会の現状に違和感を覚えたからだ。誰も疑問を持たず、牧師を「先生」と呼んでいることに我慢ならなかったのだ。

 

 あなたの心の動機は何だろうか。あなたが牧師を「先生」と呼ぶのはどういう理由だろうか。あなたが「先生」と呼ばれるとき、どういう気持ちだろうか。律法学者やパリサイ人が、イエスに指摘されたのは、「心の高ぶり」であり、「見栄を張る心」であった。あなたが「先生」と呼ばれるとき、「人からの栄誉」を感じていないか。神の前で、本当に、1ミリも感じていないと誓えるか。あなたが「先生」と呼ばれるとき、自分が相手より上だと思っていないか。あなたが「先生」と呼ぶとき、相手が自分より上だと思っていないか。

 

 イエスはこう言っている。

あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

(マタイの福音書23:11~12)

 

 私は、「牧師」より、つかえるしもべ、「僕仕」になりたい。

 

(了)

【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか?  

 クリスチャンは、毎週日曜に教会に行かなければならないのか? 

▼ある友人の疑問

f:id:jios100:20180301002445j:plain

 イエスを救い主とは信じていない友人が、こんなことを言っていた。「別にクリスチャンになってもいいとは思うけど、クリスチャンなったら毎週日曜日に教会行かなきゃいけないんでしょ? それは無理だわ~」。彼の場合は、「毎週はキツイ」というのを言い訳に、信仰に踏み出していなかっただけだが、もし仮に、今この記事を呼んでいるあなたが、クリスチャンは毎週日曜日に教会に行かなければならないと思っているのだとしたら、ハッキリ言いたい。それは大きな誤解だ。

 

 

▼なぜ日曜日なのか

f:id:jios100:20180301002607j:plain

 残念だが、多くの自称クリスチャンたちが、この点を誤解している。クリスチャンならば毎週日曜日に教会に行くべきだと思っているのである。それを信仰だと思っている。彼らにとっては、毎週ちゃんと教会の『礼拝』に出席する人が、信仰にアツい人なのである。ちゃんちゃらおかしい。イエスが何を言ったかを、まるで学んでいない。「なぜ日曜なのか」という疑問すら持たない。聖書を調べていない。彼らが持っているのは、ただ伝統を疑わずに信じている、盲目な信仰である。

 

 

▼日曜の根拠1:安息日

f:id:jios100:20180301002702j:plain

 「日曜礼拝」の根拠となっている最たるものが、安息日である。ユダヤ教では、毎週の「安息日」をとても大切にしている。ユダヤ教の最も大切なライフスタイルといってもいい。

 ユダヤ教では、安息日を守る」という表現を使う。「守る」は「ショメル」という単語で、文字通りの意味だ。警備員、ガードマンのことも同じ、「ショメル」という単語で表す。ガードマンが大切なものを守るように、ユダヤ人にとっては安息日は何が何でも守らなければいけない、大切な日である。何を守るのか。彼らが守るのは、要人でもなく、家族でもなく、金でもなく、思い出でもない。安息日のルールを必死で守っているのである。

 安息日のルールを守るのは大変だ。日本人にはまず無理だ。電気を一切使ってはいけない。歩ける距離も決まっている。物を運んでもいけない。勉強をしてもいけない(※ユダヤ教の勉強ならOK)。ケータイをいじってもいけない。彼らは、安息日のために、前日から食べ物を作り置きし、手を洗う水をため、電気をつけっぱなしにし(※前日にスイッチを入れておけばいいのだ! それでいいのかよ!笑)、あらゆる準備をする。それだけ必死で守っているのである。「礼拝を守る」という発想は、そもそもユダヤ教からきていると分かる。

 「キリスト教」のオリジナルは「ユダヤ教」だ。イエスも、ある意味では「ユダヤ教の教師」だった。故に、この「安息日」の考えを踏襲し、「キリスト教」でも安息日を大切にしよう! ということで「日曜礼拝を守る」とするならまだ論理的に理解できる。しかし、そこには大きな勘違いがある。

 

★「安息日」は「日曜日」ではなく、「土曜日」なのだ!!!

 

 ワオ! ビックリ!

 

 ユダヤ教は現代もなお、金曜日の日没から土曜日の日没までを、「安息日」として固く守っている(程度は人によるが)。もし、「安息日」的な発想で日曜日に必ず教会に行かねばならないと思っているとしたら、それはもうカンチガイ甚だしいのである。単なる曜日のカンチガイである。

 勘違いだけならまだマシだが、「土曜日」から「日曜日」への変節には意図がある。それは、キリスト教」を拡大しやすくするという作為だ。エスへの信仰が、「キリスト教」という「宗教」に変節してしまった時に、時の指導者(罪深きヘレナやコンスタンティヌス・・・)たちが、「キリスト教」が定着しやすいように作為した。当時、ヨーロッパ地方では太陽信仰が盛んだった。異教徒たちにとっては、日曜が特別な日だった。だから「キリスト教」拡大のためにそれを利用したのだ。土着信仰とミックスしたのである。経緯からして、日曜日信仰は、「異教の信仰」なのである。

 

 そもそも、私達は安息日にしばられる必要はない。イエスは、安息日機械的に守ることだけに目を奪われ、その信念を忘れていたパリサイ人や律法学者たちを批判した。安息日の闘争が、イエスユダヤ人たちの最大のあつれきだったと言ってもいい。イエスはこう言っている。

 

安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。

(マルコの福音書2:27~28)

 

 もしあなたが、日曜に教会に行かない人はクリスチャンではない、または日曜に教会に行かない人は信仰が弱いと思っているとしたら、それは間違いだ。そういうあなたは、日曜日に働いている人がいるから運行できる電車に乗って教会に行き、日曜も働いている店員がいるコンビニで昼飯を買い、日曜も働いている人たちが作っているテレビ番組を見て、あなたの大切な「日曜日」を過ごしているのだ。

 

(※尚、ヘブル4章を読むと、今は「毎日が安息日」だと分かるはず。別の記事を書く予定)

 

 

▼日曜の根拠2:イエスの復活

f:id:jios100:20180301002726j:plain

 「いやいや、安息日とは違うよ」と、日曜礼拝を主張する人たちは言う。

 

 ではなぜ日曜日が大切なのか。彼らの主張のひとつは、「イエスが日曜日に復活したから」というものだ。なるほど確かにイエスは、「3日目」によみがえったと聖書にある。十字架にかかったのが金曜日だったので、金、土、日。数えで3日目は、確かに日曜日だ。

 この考えから、韓国などある一定の教会では、日曜日のことを主日(しゅじつ)と言ったりする。「日曜礼拝」のことも主日礼拝」などといい、「日曜日」を聖なる日のように扱っている。

 しかし、この主張はこじつけだ。イエスは復活した後、「私が復活した日を祝い、この日を聖なる日とせよ」とか、「私の復活を祈念して、毎週集まり、祝え」などと、一言も言っていない。現に言っているとすれば、弟子たちはその後、日曜日に集まったはずである。もしそうなら、その記述があるはずだ。しかし、聖書のどこを見てもその記述はない。ゆえに、イエスはそのように命じていないのは明らかだ。

 もちろん、「復活」はイエスを信じる者にとって、非常に大切である。「復活」抜きの信仰は意味はないと、イエスはサドカイ人に言っている。しかし、イエスの復活と、「日曜礼拝」は別物である。2つを一緒に考えるのは、論理的に無理がある。

 

 

▼日曜の根拠3:ペンテコステ

f:id:jios100:20171128214850j:plain

 イエスの復活に加え、もうひとつ、日曜礼拝論者が根拠にしている日がある。それはペンテコステだ。いわゆる「五旬節」。「五旬」というのは、50の訳語で、「過ぎ越しの祭り」から50日目の祭りだからだ。

 ヘブライ語では「シャブオット(7週の祭り)」といい、小麦の刈り入れを祝う収穫祭、並びにモーセの律法の授与を記念する祭りでもある。「シャブオット」は、有名な「過ぎ越しの祭り」、「大贖罪日」、「仮庵の祭り」などと並ぶ、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとってもで非常に大切な日である。

 旧約聖書の祭りは、新約では新しい意味として成就している。「過ぎ越しの祭」は、「イエスの十字架」として成就した。同じように、「五旬節・シャブオット」は「聖霊が下る」という形として実現した。これが「ペンテコステ」である。「ペンテコステ・シャブオット」は、聖書で以下のように祝うよう命じられている。

 

あなたがたは、(過ぎ越しの祭の)安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満7週間を数える。7回目の安息日の翌日まで50日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。

レビ記23:15)

 

 なるほど。「過ぎ越しの祭」から7週間を数えて、その次の日、つまり7週間=49日の次の日、50日目が五旬節になる(「シャブア」はヘブライ語で「7」という意味なので、その複数形で「シャブオット」となる)。

 「過ぎ越しの祭り」は安息日、つまり土曜日。「シャブオット」は過ぎ越しの祭から50日目。49日目は同じ曜日になるので、シャブオットの前日は土曜日。つまり、シャブオットは日曜日になる。

 

 イエスは天に昇り、次には聖霊が下った。今は聖霊の時代だ。だからその日を記念するために、ペンテコステを祝うべきだ。この主張は合理的だ。ペンテコステもとい、シャブオットは盛大に祝う必要がある。イエスは天に昇ったが、「助け手」として、イエスそのもの、父なる神そのものの聖霊が働く。今はそういう時代だ。

 しかし、だからといって、「毎週日曜日」を祝う根拠にはならない。もし、聖霊が下ったことを記念するのなら、「日曜日」ではなく、「シャブオット」を祝うべきである。しかし、今、日本のほとんどの教会ではシャブオットを祝っていない。「ペンテコステ」としては、ちょろっと祝っていても、それはカトリックカレンダーで日にちがズレてしまっているので、その日付自体には何も意味はない。主張と行いが矛盾している。まさにイエスが批判した、パリサイ人、律法学者と全く同じ偽善である。

 

 

▼「日曜礼拝」は根拠レス

f:id:jios100:20180301001832j:plain

 これまで述べたように、「日曜日は聖なる日である」、「日曜には必ず教会に行かなければならない」、「日曜を主日と呼ぶ」などの「日曜礼拝信者」たちの主張には、根拠が全くない。うわべだけで塗り固められた、嘘、偽り、偽善、だましごと、文化で塗り固められた欺瞞である。

 そもそも、「礼拝」の定義が間違っている。これについては、別の機会に詳しく書くが、「教会に行くこと」が「礼拝」ではない。これだけはハッキリ書いておく。

 もしあなたが、「日曜礼拝に必ず参加しなければ、私には信仰がない」と思っているとしたら、あなたは騙されている。それは、イエスへの信仰が、「キリスト教」になったときに造られた嘘の文化だ。単なる文化に騙されていはいけない。イエスはそんなことは命じていない。

 

 

▼集まることをやめてはいけない

f:id:jios100:20171128214946j:plain

 日曜信仰は、根拠がないと分かっていただけたと思う。しかし、「教会」での「礼拝式・礼拝会」に出席しなくてもいいと言っているのではない。聖書にはこう書いてある。

 

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(ヘブル10:23~25)

 

 聖書は、信者同士で集まることを推奨している。何のためか。それは、「励まし合う」ためである。別の箇所も参考になる箇所がたくさんある。「励まし合う」、「教え合う」、「戒め合う」、「捧げ合う」、「助け合う」、「愛し合う」ために、「教会」の集まりはある。エスを信じる者同士で集まり、そのように愛の実践を行うことは非常に重要だ。

 別に集まるために、特定の曜日を決める必要はない。しかし、現代社会では日曜日が休日である。日曜に仕事が休みの人が多く、現実的に集まりやすいのは日曜日だ。そのため、日曜日に教会の「礼拝会・礼拝式」の集会をセットするのは、ある意味合理的ではある。しかし、日曜に仕事の人もいる。その人たちのために、土曜の礼拝会、月曜の礼拝会、金曜の礼拝会があっていいじゃないか。大切なのは、集まり、愛し合うことなのだ。

 また、集まる曜日を決める必要はなくとも、決めた方が集まりやすいのも事実だ。人の意思は弱く、明確なスケジュールや習慣がないと、すぐに心が離れてしまう。自分は弱いと自覚し、常に神に目を向け、心を神と同期し、互いに励ますことを忘れないために定例日を決める。そのために、集まる曜日を決めるというのは、有効な方法なのは確かだ。

 

 最後に、イエスの時代に生きていた人たちは、どうしていたか。

 

信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

使徒の働き2:44~47)

 

 ある人たちは、使徒2章の記述で、ペンテコステ、すなわち日曜日に信者たちが集まっていたことから、「イエスの後の時代は、日曜日に集まり礼拝していた」と解釈する。間違いだ。それは、「ペンテコステ=シャブオット」という常識を理解していないために起こる誤解だ。イエスの信者たちは、毎日心を一つにして宮に集まっていたのだ。日曜日ではない。毎日だ。毎日。私達は、1年365日、24時間礼拝しているのである。

 

 結局のところ、結論は以下の聖書のことばに要約される。

 

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ14:5~6)