くまさんの書庫

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【疑問】「Cornerstone」は「隅石」or「礎石」or「要石」?

 

新改訳3版は「礎の石」、口語訳は「隅のかしら石」、新共同訳は「隅の親石」、新改訳2017年版では「要の石」。適切なのは?!

 

▼2017版を読んでいると・・・?

 最近、読む聖書を、新改訳聖書の2017年版に変えた。面白い。私は新改訳3版で育ったので、読むたびに違和感を覚える。いい違和感だ。細かい翻訳の違いが、脳細胞を喜ばせる。読み覚えのない単語は、特に目につく。

 

 先日、2017版でマタイを読んでいると、明らかに読み覚えのない単語が出てきた。「要の石」(かなめのいし)という単語だ。新改訳3版では、「礎の石」(いしずえのいし)となっている(マタイ21章)。英語では、調べた限り全ての翻訳で、教会の名前にもよく用いられる、「Cornerstone」(=コーナーストーン)という単語だ。

 

『家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』(マタイ21:44)

 

 気になったので他の翻訳も調べてみた。すると、面白いことに、全ての翻訳で違いがあった。マタイ21:42の部分だ。

・文語訳                →「隅の首石」

・口語訳          →「隅のかしら石」

・新共同訳         →「隅の親石」

・新改訳3版        →「礎の石」

・新改訳2017版 →「要の石」

 

 このような違いがある。マタイの箇所の引用元は詩篇118篇なので、そこも比べてみた。

・文語訳                →「すみの首石」

・口語訳          →「隅のかしら石」

・新共同訳         →「隅の親石」

・新改訳3版        →「礎の石」

・新改訳2017版 →「要の石」

 

 文語訳がひらがなになっていただけで、ほぼ同じだった。

 

 

▼「隅石」、「礎石」、「要石」の違いとは?

 翻訳によって単語が違うので、それぞれの単語の意味を調べてみた。すべて広辞苑の第六版による。また、英訳は広辞苑の記述をそのまま書いた(※隅石の英訳は広辞苑では”quoin”となっているが、”cornerstone”とほぼおなじ意味である。”cornerstone“ は、”quoin”の中の特別な石のことを指す)

 

・すみ-いし【隅石】

(quoin)石造・れんが造などの建物の出隅(ですみ)部分に積んだ石。隅角(ぐうかく)の補強を目的とし、大きめの石が用いられる。

 

・そせき【礎石】

建物の基礎となる石。いしずえ。転じて、物事の土台となるもの。

 

・かなめ-いし【要石】

(keystone) れんが・意思などで組み立てたアーチの中央、最上部に差し入れ、他の石を固定する役割を果たす、くさび形の石。剣石。くさび石。

 

 それぞれ、似ているようで、微妙に意味が違う。分かりにくいので、図を検索した。

 

●隅石(灰色の部分)

f:id:jios100:20180213175116j:plain

引用元:http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/kansui2/harigaya/takioka/index2.html

 

●礎石

f:id:jios100:20180213174805j:plain

引用元:https://goo.gl/images/eTo4iV

 

●要石 

f:id:jios100:20180213174659j:plain

引用元:https://goo.gl/images/4pK2XU

 

 図を見ると、違いが明確になると思う。こうも違うと、どれが原語に近いか気になる。調べてみた。

 

詩篇118の原語は?!

 マタイ21章で、イエスが引用したのは詩篇118篇である。当然、詩篇の翻訳がマタイの翻訳につながるはずなので、まずは詩篇の原語を調べる(当然右から読む)。

  אֶ֭בֶן מָאֲס֣וּ הַבֹּונִ֑ים הָ֝יְתָ֗ה לְרֹ֣אשׁ פִּנָּֽה׃

(エベン マアスー ハ・ボニーム ハイータ ラ・ローシュ ピナー)

 

 1単語ごとに解説するとこうなる。

 

エベン  =石

マアスー =見下す、拒否する

ハ    =THE

ニーム =建てる人たち、大工たち

ハイータ =~になった(男性単数過去)

ラ    =(~になるを補助する文法的に必要な語)

ローシュ =かしら、あたま

ピナー  =角(かど)、隅(すみ)

 

 かみくだいて適当に訳すと、「大工たちが、必要ないと判断した石が、角の石の一番大切な部分になった」とでもなるだろう。こう見ると、「隅のかしら石」がふさわしい訳のように見える。

 

▼マタイ21の原語は?!

 では、マタイ21章の原語はどうなっているのだろうか。僕はギリシャ語はほとんど勉強したことがないので、アプリで調べてみた。該当部分は、ギリシャ語では「ケファレー・ゴーニアス」。訳すと、「主要な隅石」となる。こちらも、「隅のかしら石」が適当に思える。

 

 

▼「ピナー」のヘブライ語の意味

 原語を見ると、「隅のかしら石」が適当な翻訳に思える。しかし、本当にそうなのだろうか。ヘブライ語「ピナー」は、文字通り、「角の」、「隅の」と訳していいのだろうか。実は、同じ単語の他の箇所を見てみると、「ピナー」に隠された、もうひとつの意味が見えてくる。

 

例えば、士師記20:2を見てみよう。

イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、四十万の剣を使う歩兵が神の民の集まりに出た。(士師記20:2・新改訳3版)

 

ピノット」(ピナーの複数形)が「(イスラエルの全部族、民全体の)かしらたち」と訳されている。1サムエル14:38は、同じ単語が「民のかしらたち」と訳されている。

 

★つまり、「ピナー」は、一義的には「隅の」という意味だが、「重要な部分」という裏の意味が転じて「主要な人物」、「要人」と訳せるのだ。2017年版の「要の石」という訳出は、この裏の意味、「ピナー」の持つ比喩的な意味を重視しての結果といえるだろう。

 

 

▼建築の時代背景は?!

 

 時代背景を考慮するのも重要である。そもそも、「隅石」は当時のイスラエルの建築にあったのだろうか。イエスの時代、イスラエルを支配していたのはローマだった。建築も、ローマ式のものが多数取り入れられていたのだろう。

 

 残念ながら、私は建築の歴史の専門家ではないので、詳しいことは分からない。検索しても、しっくり来るものはヒットしなかった。しかし、参考になるものはいくつか見つけた。総合すると、「古代ローマ建築の特徴はアーチである」といえるだろう。確かに、エルサレムの旧市街に残っている数少ない当時の建築は、アーチ状のものが有名だったと記憶している。レンガづくりの建物も、当時からあったようだが、上に載せた写真のような立派な「隅石」があったかは疑問である。調べる限り、そのような建築がメジャーになったのは、中世からのようだ(※建築の専門家の方、教えてください)。

(※もっと厳密にいうと、引用された詩篇の時代の建築も調べないといけないが、さらっと検索しただけではヒットせず、断念・・・教えて詳しい人)

 

 「ピナー」の比喩的な意味、当時の建築様式を考えると、どうも詩篇118、そしてマタイ21の問題の単語は、「要の石」が適訳に思えてくる。「ピナー」には比喩的に「要」の意味があるし、当時のローマの建築の主流であった「アーチ」を中央で支える「要石」の両方の意味があるからだ。2017版では、「要石」とせず、「要の石」としている。「の」を挿入することで、「ピナー」の比喩的意味がより際立つ。また、ヘブル語、ギリシャ語どちらにもある「かしら」という意味も、「要」で補足することができる。一鳥三石の翻訳なのである。

★とどのつまり、「コーナーストーン」は、「アーチの頂上部にあるくさび形の石」を指すのだろう。

 

 

▼「コーナーストーン」の意味

 

 単純に、「要の石」の翻訳が適当だ、という分析だけでは終わらない。その意味を考えなければいけない。「要石」は、2方向から積み上げたアーチを中央で支える、重要な部分だ。★「要石」は、2つの別々のものをつなぎ合わせる、重要な役目を持っているのである。

 

 2つのバラバラのものを、つなぎ合わせる。

 

 まさにイエスそのものである。

 

 この役割は、「隅石」も同様である。2つの壁を中央でつなぎ合わせているのが、「隅石」なのだ。しかし、「隅」という日本語には、「隅に置けない」という言葉からも分かるように、ヘブル語のような「主要な」というニュアンスはない。

 新改訳3版の「礎の石」は、「土台」というニュアンスは伝わりやすい。日本建築的にも「礎石」は分かりやすい。「定礎」の文字もよく見かける。しかし、「礎の石」では、原語からはすこし離れた意味合いになる上に、「2つのバラバラのものをつなぎ合わせる」という一番重要な意味が失われてしまう。

 やはり、比喩的意味から見ても、建築の時代背景から見ても、神学的意味合いからしても、「要の石」はベターな翻訳だろう。

 

 私達は、罪によって神から断絶してしまった。しかし、イエスが私達を、ふたたび神と結び合わせてくださった。「要の石」、「コーナーストーン」(キーストーン)、という言葉から、改めてイエスの愛、恵みを感じる。「要石」は、アーチをつなげるだけでなく、そのアーチの象徴ともなる。家や建物を象徴する紋章が、要石に刻まれる。私達の要石はイエスだ。

 

 「これは誰の銘ですか」

 

 私たちには、イエスの名前が刻まれているのである。

 

(了)

【個人デボ】 聖霊に逆らうことを言ったら赦されないのか? <マタイ12章>

 

聖霊に逆らうことを言う者は赦されないとは?】

 

聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」

 

マタイ12章に、そう記述がある。ここを読むと、誰もが心にひっかかりを覚えるだろう。「赦されない」という言葉が、モヤモヤするのである。当該の箇所は以下だ。

 

ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

(マタイ12:31~32)

 

確かに、「赦されない」と書いてある。

私たちの福音の理解では、「悔い改め、イエスを受け入れれば赦される」はずなのに、「赦されない」とはどういうことなのか。

また、『「人の子=イエス」に逆らっても赦される』とはどういうことか。

「イエスなしでも赦される」のか。

さらに、「どんな罪も冒涜も赦していただける」とはどういうことか。

そもそも、「三位一体」のはずなのに、なぜ聖霊だけ違う扱いなのか。

二重、三重、四重の疑問が、このひとつの箇所でわいてくるのである。

 

エスがこう語った時、当然、まだペンテコステは起こっておらず、今の私達のような「聖霊」の理解はなかったと考えられる。「三位一体」はなおさらだ。

「三位一体」の理解を前提として、この箇所だけをポイントで読むと、混乱を生む。大切なのは文脈だ。

 

 

【マタイ12章前半まとめ】

▼1~8節

弟子たちが安息日に畑の穂を摘んで食べ始めた。パリサイ人がそれを見て非難した。イエスは、それを受けて、ダビデが「臨在のパン」(=3版では「供えのパン」)を食べた例を出し、ホセア6章を引用して「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」と言う。イエスは「安息日のために人があるのではない」(マルコ2章)と教える。

 

▼9~14節

エスは、会堂に行った。パリサイ人たちは、「安息日に癒やすのは律法にかなっているか」と質問した。イエスは、安息日に良いことをするのは律法にかなっている」と言い、片手が萎えた人を癒やした。

 

▼15~30節

エスは、大勢の群衆を癒やした。それを見た群衆は「この人がダビデの子(=メシア)ではないか」と言った。しかし、パリサイ人たちはイエスの力を「悪霊のかしらの力だ」と言った。それを受けてイエスは、例え話で自分の力は悪霊由来ではないと教えた。

 

▼31~37節

ここでイエスは、★「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されない」と言う。また、イエスは「心に満ちていることを口が話す」、「人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければならない」という。

 

 

【文脈から分かる流れ】

流れは以下である。

1:安息日に対する論争があり、イエスは全く新しい教えを示した。また大勢の病気などを癒やした。

2:群衆はイエスを「来るべきメシア」だと言った。

3:パリサイ人たちはねたみから「メシアではなく悪霊の力だ」と言った。

4:イエスはそれを例え話で否定し、「聖霊に逆らうことを言う者は、赦されない」と教えた。

5:さらにイエスは、「心にあることが口から出る」、「自分のことばによって義とされ、不義とされる」と教えた。

 

この流れを見れば明らかなように、31節、32節の議論の中心は、「口から出ることば」なのだ。さらに突き詰めれば、その奥にある「心」、すなわち「動機」である。

 

パリサイ人の動機は、「神の正当化」ではなく、「自分たちの正当化」であった。自分たちの神学を覆すようなことを言い、群衆から「メシアかもしれない」と思われたイエスを「殺そう」(14節)としていたのである。彼らは、肉的な殺人の前に、「ユダヤ教の世界でのラビとしての死」を狙ったに違いない。ゆえに、「悪霊だ」と批判したのだ。イエスの力の権威そのものを否定したのだ。

 

エスは、彼らの心を見抜いて、彼らが軽はずみにイエスを悪魔扱いした言葉を、痛烈に批判した。「次に来る世」とわざわざ挿入し、死後のさばきを強調したのは、彼らに本当の動機を悟らせるためである。目の前で奇跡が行われているのに、イエスをメシアと認めない彼らの本音を、彼ら自身に悟らせるための発言なのである。

 

パリサイ人は、サドカイ人と違い、「復活」と「死後のさばき」を信じていた。サドカイ人との論争を見ていると、復活の神学がパリサイ人にとって非常に大切なものだったと分かる。イエスの教えを聞いて、自分たちの心の動機を見抜かれ、自分たちにとって大切な「死後のさばき」で赦されないと図星を突かれたパリサイ人たちは、ぐうの音も出なかっただろう。

 

つまり、イエスの「聖霊に逆らう言葉は赦されない」という言葉は、当時のパリサイ人への反論のために語られたものであって、「イエスを信じている我々」に直接向けた言葉でないのは、一目瞭然である。

それを知らないと、次のような誤解が生まれる。

 

 

【よくある誤解】

文脈を無視し、「この部分は自分宛てだ」という認識で読むと、次のような誤解が生まれる。

▼誤解1:聖霊に暴言を吐かなければ、どんな罪も赦される。

 

まず、「どんな罪も冒涜も赦していただける」というのは正しい。しかし、その条件は、「聖霊に暴言を吐かなければ」ではない。

 

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」とうことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私(パウロ)はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

(1テモテ1:15)

 

「罪人のかしら」であるパウロが「先例」となったのだから、「どんな罪も赦される」というのは正しい。(※ここで、いわゆる「赦されない罪」についての議論は避ける)

 

しかし、「条件なしに」というのではない。条件は「キリスト・イエス」である。パウロはハッキリと「キリスト・イエスが」と、その条件を明らかにしている。

マタイ12:31~32の「赦されます」は、日本語だと分かりづらいが、英語では"shall be "、"will be"と訳される(※要・ギリシャ語のテンス確認。教えて詳しい人)。

「暴言を吐かなければ」という消極的理由で赦されるのではなく、「悔い改め、イエスを受け入れれば、赦していただける」という、未来の状況を言っているのである。

 

 

▼誤解2:イエスを認めなくても、聖霊を認めれば罪が赦される。

また、「人の子(=メシア=イエス)」に逆らうことばを口にする者でも赦されます」とあるので、極端な解釈をすれば、「イエス抜きでも聖霊を認めれば罪が赦される」とも読める。これは、「今の自分」に当てはめる間違った読み方をするために生まれる誤解だ。

 

ローマ書にはこうある。

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ10:9~10)

 

私たちが救われるのは、「心で信じ」、「口でイエスを主と告白」するからだ。

★イエスがマタイ12章で述べたように、「心にあることが口から出てくる」のである。心で信じなければ、口で告白もできないのである。

 

★また、聖霊の力なしでは、誰もイエスを主と告白できない。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、★聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(1コリント12:3)

 

聖霊だけ認めれば救われるのではなく、聖霊がなければイエスを主と認めることは不可能なのだ。だから、「聖霊に逆らうことを言う者は赦されない」のである。「次に来る世」でも、イエスを信じていなければ、火の海に投げ込まれるのである。

 

パリサイ人は、イエスが神の霊で行った奇跡を、「悪霊のかしらの力だ」とバカにした。イエスは、そのパリサイ人たちに、「自分を汚しても、父の聖霊をけがす者は赦されない」と語り、彼らの心の内側をあらわにしたのであって、今の私達に直接語ったわけではない。聖書を読む際は、直接今の自分に当てはめて読まないよう、注意が必要だ。

 

★しかし、神は時を超えるので、今の私達に同時に語る。今の私達には、「聖霊がなければイエスを主と告白できない」のだから、「聖霊に逆らったまま」、「イエスが主だ」とは言えないのである。

 

 

▼誤解3:聖霊をけがす言葉を一度でも言えば、罪は赦されない。

この箇所を読むと、「聖霊に逆らうことを、一度でも言ってはいけない」と感じてしまう。これもまた誤解である。

マルコの福音書の同じ議論の箇所(3章)に「聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」と書いてあるので、これは一見正しいように見える。

 

しかし、聖書の他の箇所を見れば、それは誤解だと明らかである。

 

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。

ヤコブ5:19~20)

 

一度でも聖霊をけがす言葉を口にしたら、絶対赦されないのであれば、パウロは赦されなかったはずだ。しかし、現に赦されているのだ。この誤解は、イエスの犠牲を無にしてしまう誤解である。

 

マルコでいう「永遠の罪」というのは、世の終わりの「死後のさばき」で定められる罪を指す。第二の死(黙示録)で罪に定められた、「いのちの書」に名前がない者は、例外なく永遠の炎で焼かれると書いてある。それが「永遠の罪」なのだ。

聖霊によって」、「イエスを主と告白しない」者はすべてこの「永遠の罪」に定められるのである。 

また、この「永遠の罪」は、イスラエルに対しての宣言でもある。というより、こっちが本質だ。

エスの発言は、パリサイ人に向けたものだ。イエスを受け入れないと決めたのは、宗教的リーダーであったパリサイ人だった。そして、そのまま今日までイスラエルは国家としてイエスを約束のメシアとして受け入れていない。

イスラエルは、「赦されない」 状況にあるのだ。

 

 

【最大の誤解】

誤解が3つある、いや、4つある。

 

★最後、かつ最大の誤解は、「神はイスラエルを見捨てた」という誤解である。

 

「誰でも聖霊によるのでなければ、イエスを主と告白できない」の箇所の後には、こう書いてある。

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

(1コリント12:13)

 

ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、他の異邦人であっても、どんな身分を持っていても、イエスを告白する聖霊はひとつだけだ。ユダヤ人も、我々と同じ聖霊によってイエスを信じるのである。

 

イスラエルの救いは、最後の最後まで取っておかれている。

 

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。(ローマ11:25~26)

 

★「異邦人の満ちる時」が来て、「こうして、イスラエルはみな救われる」とある。異邦人に福音が伝わり切った時、イスラエルの時が来る。そして、「イスラエルはみな救われる」と約束されている。

 

イスラエルの国家的な救いは、神の最後の時代の計画なのである。

 

 

【まとめ】

・書かれた当時の文脈に注意して読むべきである。

・文脈を無視すると、「どんな罪も赦される」、「イエスを冒涜してもいい」、「聖霊を一度でも冒涜したら赦されない」、「イスラエルはもう救われない」などの誤解が生まれる。

・人が口にする言葉は心の状態を表す。

・人は、イエスを心で信じ、イエスを主と告白して救われる。

・人は、聖霊によらなければイエスを主と告白できない。

・だからイエスは「聖霊に逆らう言葉を言う者は赦されない」と言った。

・当時のイスラエルは多くの人がイエスを主と信じず、今も国家体にイエスを信じていない。

・しかし、神はイスラエルを見放したのではない。

・異邦人の満ちる時が来て、「こうして、イスラエルはみな救われる」。

 

(以上)

【比較】衆院予算委・各テレビ局はどう報じたか

 

会計検査院の調査結果が出て、再び国会で議論となっている「森友問題」

 

きのう、きょうの2日間の衆議院予算委員会でも議論となったが、

その議論を、テレビニュースではどのように扱っているのだろうか。比べてみた。

 

この日(11月28日)の予算委は、各局の報道内容が大きく違った。

まずは、NHK、民放4局(日本テレビ、TBS、テレビ朝日、フジテレビ)のお昼のニュースの原稿を、順不同、無記名で並べた。

 

みなさんには、ニュース原稿を読みつつ、

・どのニュースがどのテレビ局のものか

・各局が注目した点、ニュースの核は何か

・どのニュースが28日のお昼の時点で、一番いい原稿と思うか

 

を、考えながら読んでもらいたい。

 

ちなみに、テレビ報道にとって「昼ニュース」とは、その社の夕方、夜のニュースの土台となり、その局の方向性を定める、報道にとって「勝負の時間帯」である。夕方や夜のパッケージモノとは違い、ストレートニュースをいかに充実させるかが、その社の報道の価値を決めるといってもいい。

特に、予算委員会のニュースは、毎回時間がギリギリになる上、議論の中から必要な部分を抜き出す作業が必要で、その社の価値観や実力が如実に出る、比較すると非常に興味深い題材なのである。

 

青字の部分は、ナレーションではなく、実際にそのやり取りを放送した部分である。「ですます」調と、「である」調が混在しているが、あえてその社のネット上の表記のままにする。実際は、「ですます」調で放送される。

 

▼【テレビ局1】

 衆議院予算委員会は28日、2日目を迎えた。森友学園への国有地売却を巡り、立憲民主党の逢坂議員は安倍首相に対し、小学校の名誉校長に就任していた昭恵夫人の影響をただした。

 追及に対して安倍首相は、「議論を聞いていれば妻がかかわりがないことは普通にわかる」と強調した。

 立憲民主党逢坂誠二議員「いわゆる総理の奥様がかかわっていたのではないか。意思決定過程の不透明さ、ここにこの問題の根深さを感ずるわけでありますけれども」

 安倍首相「今までの(籠池理事長らと財務省側の)やりとり聞いておりますと、相当当然そう(意思決定過程の不透明)感じるのは当たり前なんだろうと思うわけですが、そこについてもこれは全く私の妻がかかわりようがないということは議論を聞いていただければ普通にわかることではないかと」

 これに対して逢坂議員は、昭恵夫人の国会招致を求めた。安倍首相は、国会の決定には従うとしつつも「新しい議論はないだろうと思う」と否定的な考えを示した。

 また、逢坂議員は財務省に対して、森友学園への国有地売却について「今でも法にのっとって適切に対処したと言い切れるか」とただした。太田理財局長は「その時点では、最善だと思ってやったことが、振り返ってみると必ずしも適切でないということがある」と釈明した。

 

 

【テレビ局2】

国会では衆議院予算委員会が2日目を迎え、野党側は27日に引き続き、「森友学園」問題で政府側を追及しています。国会記者会館から報告です。

 

最初に質問に立った、立憲民主党の川内議員は国が「森友学園」に対して行った国有地売却をとりあげ、取り引きの特殊性を浮き彫りにしました。

 

 「分割払いで良いよという特約を付してるわけですけども、その特約を付して売却契約をした件数を教えていただきたい」(立憲民主党 川内博史 衆院議員)

 「(平成24年度から28年度の間に)売却を行った契約の件数は1214件。このうち委員御指摘の延納の特約を付して売却した事例、これは本件のみ」(太田充 理財局長)

 「契約金額を非公表にした事例の件数、非公表にした事例の件数、これも契約件数と非公表にした事例の件数を教えていただきたい」(立憲民主党 川内博史 衆院議員)

 「件数は972件でございまして、そのうち非公表にした件数というのは本件のみ」(財務省 太田充 理財局長)

 

 また、立憲民主党の逢坂議員は、森友学園との土地取引が適切になされたとのこれまでの政府の答弁について追及しました。

 

 「これまでの答弁の中で総理自身が森友学園との土地の取引について、ご自身の考えとして『適正だと言ったということはない』ということで、よいかということを確認している」(立憲民主党 逢坂誠二 衆院議員)

 「財務省国土交通省から『適切に処理していた』との答弁があったところであり、私もそのように報告を受けていたところであります」(安倍首相)

 

 28日午後も野党側は「森友学園」や「加計学園」の問題について追及する予定です。

  

 

▼【テレビ局3】

衆議院予算委員会は2日目の28日、27日に続き、野党側が、森友・加計学園問題を中心に、安倍首相を厳しく追及している。
森友・加計学園問題への関与を重ねて否定する安倍首相に対し、野党側は、28日も昭恵夫人など関係者の国会招致を要求している。

立憲民主党・逢坂政調会長代理「なぜこれほどまでに、国会で、この問題は議論されていると思うか」
安倍首相「森友学園については、妻も私も、今回の価格交渉、値引きには一切関わっていない。また、加計学園の問題についても、私からの指示等を受けたものは1人もいないということは、委員会の審議で明らかになっている。それが問題の核心だろうと、本来であれば」

 午前の質疑で、立憲民主党の逢坂政調会長代理は、森友学園をめぐる問題の真相を解明するため、昭恵夫人の国会招致を求めた。
 これに対し、安倍首相は、「私が妻の役割についても全て知り得る立場だ」と述べ、否定的な考えをあらためて示したうえで、昭恵夫人を仮に国会招致しても、「新しい議論はあまりないと思う」と述べた。
 また、野党の質疑の中で、財務省の太田理財局長は、近畿財務局の担当者が森友学園側と土地取引で具体的な価格を含む会話を交わしたとみられる音声データを認め、その時期について、「2016年5月半ばごろのものだ」との認識を示した。

 

 

▼【テレビ局4】

 国会は衆議院予算委員会の2日目が始まりました。28日はすべて野党側の質問で、森友学園の問題を巡り、野党側は安倍政権への追及を強めています。

 トップで質問に立った立憲民主党の2人は、ほぼすべての質問時間を森友学園の問題に費やしました。
 

 立憲民主党逢坂誠二議員:「総理の奥様が関わっていたのではないか、総理の親しい友人が理事長だから、そこが何か不都合なことがあるのでは。いわゆる行政の私物化と言ってよいかもしれないが、その問題がある」
 安倍総理大臣:「私が指示したという証拠があるといって議論して頂かないと、反論のしようがない。全く(指示など)そういうことはしていないとしか言えない」


 そして、安倍昭恵夫人ら関係者の国会招致を求めましたが、実現の見通しは立っていません。野党側は政権を追い詰めるほどの決定打に欠くのも事実です。ある希望の党の幹部は「新しい証拠が出ない限り“モリカケ問題”は年内で限界だ」と手詰まり感をにじませています。さらに、「同じ質問を続けていても逆に批判をくらうだけだ」といった声もあり、質問時間の配分にこだわる野党がどこまで充実した審議ができるのかも問われています。

 

 

▼【テレビ局5】

安倍総理大臣は衆議院予算委員会で、森友学園への国有地売却問題をめぐる会計検査院の検査結果を受け、関係省庁に過去の国会答弁が適切だったかどうか検証させるとしたうえで、国有財産の売却手続きの見直しを進める考えを重ねて示しました。

 

立憲民主党川内博史議員「報告書を細かく聞くとさまざまな問題点が浮かび上がる。(過去の答弁などを)きちんと検証し、適切でないものがあれば真摯(しんし)に対応する考えはあるか」

安倍総理大臣「会計検査院の報告を受けて各省で対応するので、答弁との整合性は各省でしっかり検証してもらいたい」「私としても、国有財産の売却について業務の在り方の見直しが必要と考えており、財務省国土交通省にしっかり対応させる」


また、石井国土交通大臣は、国土交通省大阪航空局が行った売却された国有地のごみの撤去費用の算定について、「一部、慎重な検討が必要だった部分があると思う」と述べました。

一方、財務省の太田理財局長は、森友学園の前の理事長が公表した国有地売却をめぐる音声記録について、「先方が一方的に録音したものだが、去年の5月半ばごろのものだと承知している」と延べ、音声記録の存在を改めて認めました。

そのうえで、太田局長は「これが最善だと思ってやったことが、現時点で振り返ってみると、必ずしも適切でないということがあると思う。改めるべきは改めなければならない」と述べました。

さらに、太田局長は、平成25年度から28年度までに財務省が実施した公共性が高い随意契約972件のうち、契約した金額を非公表としたのは森友学園の事案だけだと説明しました。

希望の党・長島政策調査会長「圧力をかけまくったときに北朝鮮が暴発するのではないかというリスクがあるが、どう考えるか」

安倍総理大臣「暴発するかもしれないとたじろげば彼らの思うつぼになる。常に詳細な分析を行い、国民の生命と暮らしを守る責任を果たすためにどのような戦略をとるか考え抜いていきたい」

 

 

 

・・・いかがだっただろうか。

 

▼答え

実は、この順番は、28日に放送された時間順である。

・テレビ局1→日本テレビ(11時半ごろ)

・テレビ局2→TBS(11時半すぎ)

・テレビ局3→フジテレビ(11時40分ごろ)

・テレビ局4→テレビ朝日(11時50分ごろ)

・テレビ局5→NHK(12時すぎ)

 

 

民放はすべて記者が読む、中継原稿であり、NHKはアナウンサーがスタジオで読む原稿となっている。

 

原稿に正解はない。

 

今回の各局はどう報道したのか。あくまで私見を書く。

 

 

▼「昭恵夫人」に着目した日本テレビとフジテレビ

 日本テレビとフジテレビのニュースは、野党側が「昭恵夫人が関わったのではないか」と問い、安倍総理が「関与していない」と答える部分を使用している。

 「昭恵夫人が関与したのか」という議論は、これまで何度も国会で議論されている。根本の議論だ。なぜ「森友学園」が問題となっているか、基本に戻った着眼点だと思う。

 しかし、ニュースの基本は「新しい話」である。この予算委員会と、前の国会とで、決定的に違う要素は、「会計検査院の調査結果」である。以前とは違う情報のもとに議論が行われているわけである。当然、ニュースも新しい情報から議論され、出てきた新しい答弁に着目すべきである。

 その点から見ると、「昭恵夫人が関与したのではないか」、「いや、していない」というやり取りをニュースにする必要性は、高くない。ましてや、質問される側である総理の、「新しい議論はあまりないと思う」という答弁だけを原稿の中で付け加えるのは、ニュースの公平性から見ても、適切とは言い難い。聞かれたくない政府側が「新しい議論はない」というのは当たり前だし、新しい議論は、会計検査院の調査結果が出た以上、できるはずだからである。

 おそらく、両局は、あまりにこの議論が細かくなりすぎているので、短い時間でキャッチーなニュースを出すために、「昭恵夫人」の部分を取り上げたのだろう。民放のお昼のニュースは、1項目あたり1分~多くても2分程度だ。その中で全てを説明するのは難しく、どうしてもキャッチーな部分を取り上げがちである。両局のニュースは、その意味で、印象としてはわかりやすくまとまっている。弱点は、イメージだけという点だ。「昭恵夫人」の部分だけでは、重要な議論の中身について触れられきれておらず、具体性に乏しい。

 また、フジテレビの後段、「音声データは5月半ばのものだ」という内容は、27日の予算委の議論で既に出ており、特筆する話ではない。一方で、日本テレビの原稿、後段にある理財局長の釈明は、新しい内容であり、遠回しだが財務省側が「適切ではなかった」と認める重要な一言であると言えるだろう。

 

 

▼「もう森友やめようよ」というテレビ朝日

 この原稿だけを読んで、「テレビ朝日だ」と思った人は少ないだろう。局のイメージとは真逆の原稿内容である。テレビ朝日は政権批判の色が強い、と思っている人もいるだろうが、こういった「野党批判」的な原稿も出しているのである。

 一言で言えば、この原稿は「もう森友学園の議論やめませんか?」という内容である。「もう森友はいいよ。いい加減にしてくれ」という、記者(デスクかもしれないが)の思いが透けて見える。一番エッジのきいた原稿である。「決定打に欠く」「手詰まり」との指摘は、記者の日頃の取材の賜物なのだろう。しかし、その指摘の根拠は原稿内には書かれていない。

 今回の予算委員会は、会計検査院の調査結果で、「十分な根拠が確認できない」と指摘されてから、初めての予算委員会だ。このニュースが放送されてた後も、希望の党無所属の会共産党などの質問は続いた。全ての質疑が終わる前に、「手詰まり」と断ずるのは、報道機関として、やや決めつけではないか。「関係者の国会招致の見通しは立っていない」との表現も、実際は与党側が拒否しているため実現しないのであり、ややミスリードだ。

 最後の一文も、やや公平性に欠ける。「質問時間の配分にこだわる野党が~」という表現は、暗に「審議が充実していない」という皮肉が込められている。質問時間にこだわっているのは、むしろ与党側である。最近の慣例では、「与党2」対「野党8」の割合だったのだが、与党側の要求で、「与党5」対「野党9」と、与党の配分が増えたのが事実である。審議を充実させる責任は、与党にも野党にもあるのである。

 上記の2つの局と同様、この原稿も「昭恵夫人」を争点とするような書きぶりだ。「昭恵夫人」は本当に今回の議論の中核だったのか。会計検査院の調査結果で、既に財務省の過失は証明され、議論は終了したと断定するのであれば、「昭恵夫人」は論点になりうる。財務省の過失が確定すれば、その後は、不適切な土地の取引をしたのは、昭恵夫人の口ききがあったからか、それとも財務省が勝手に「そんたく」してズルをしたのかが焦点だからだ。しかし、会計検査院の調査結果では、値引きの「根拠が確認できない」となっている。調査に必要な文書を事務省が全て捨ててしまったからだ。つまり、調査結果により分かったのは、財務省がいい加減な取引をしたかもしれないが、本当のところは財務省がずさんな文書の管理をしたためよく分からない、ということなのである。争点は、事実関係と、公文書管理と、今後の行政のあり方である。「昭恵夫人」の関与については、既に先の国会でかなりの議論がされている。

 また、リード(最初の部分)で、「安倍総理を追及」となっているが、野党側は安倍総理だけではなく、財務省国交省も追及しているので、厳密には、「政府を」である。

 

 

▼分かりやすさを捨て、議論の要点を見せたTBS

 TBSは、他の民放と全く違う視点を示した。この原稿は2部構成になっており、主に立憲民主党の2人の議員による質疑の要点を見せる構成になっている。

 前半は、他が取り上げなかった立民・川内議員の質問の部分だ。川内議員の細かい質問から、国と森友学園の契約は、異例中の異例だったと明かす。「分割払い」や、「契約金額を非公表」にしたのは、1000件程度の例の中で森友学園だけである、という内容だ。以前も同様の議論はあったが、会計検査院の調査結果が出る前、財務省は「適切に処理した」と答弁するのみで、ここまでキッパリ「本件のみ」と答弁したことはなかった。違法性とは別に、森友学園がかなり特殊な契約をしたと分かる。

 後半は、立民・逢坂議員の質問から、政府の従来の答弁について取り上げた。政府は、これまで「適切に処理した」と説明してきた。それが、会計検査院の調査結果で、間違いだったと明らかになった。今はどういう認識なのか。ニュースとして取り上げるのは至極当然である。

    安倍総理は、簡単に言えば、「財務省国交省が適切と言ってたからそう思った」と、まるで子どものような言い訳をしている。都合のいい時は、「行政府の長」というのだが、間違いがあったときは、「そう聞いていたから」と、現場のせいにする。この姿勢を指摘するのは当然であり、民放ニュースの中では、議論の中身を一番盛り込んでいたのはこの原稿だろう。

 弱点は、原稿の大部分が議論のやりとりの音そのままになっており、パッと見ただけでは分かりづらい点だ。特に、後半部分は、やりとりの表現がストレートではないので、理解するのが難しい。「分かりやすく伝える」のが報道の役割の一つなのであれば、その点は民放ニュースの中では一番弱いだろう。本来、尺が許せば、後半は、実際のやり取りの後に、「安倍総理はこのように、財務省国交省から報告を受けた通りに答弁し、自分の口で『適切に処理』したと言ったことはないと説明しました」などの解説文が必要だ。分かりやすさを捨て、議論の要点を見せることを優先した形だ。

 また、この原稿には、日本テレビの後段にあった、財務省側の釈明が入っていない。安倍総理も、上のような言い訳をした後で、「過去の答弁が適切だったか関係省庁に検証させる」「国有財産の売却手続きの見直しをする」などの答弁をしており、それらの主張を入れ込めれば、よりフェアであったであろう。しかし、限られた尺の中に全てを収めるのは難しいのも事実である。

 

 

▼長い尺に必要な要素を詰め込み、まとめたNHK

 一番、議論の内容を的確に要約しているのは、やはりNHKである。民放とNHKでは、やはり尺が段違いだ。民放ニュースがどれも1分半~2分ほどの尺なのに対して、NHKは3分15秒ほどの長さがあった。時間があれば、当然、入る要素も多くなる。なので、民放と単純比較するのは難しい。

 NHKは、まず主語を「安倍総理大臣」として、総理がどのような認識を国会で示したかを報じた。このため、結論が分かりやすくなっている。また、他になかった石井国交省の「一部、慎重な検討が必要だった部分がある」との発言も盛り込んでいる。また、財務省側(太田理財局長)の釈明にも言及し、さらにはTBSの冒頭にあった「森友の事案だけ」という点も言及している。

 おまけに、後段では希望の党の長島議員の質問部分も入れ込んでいる。政党のバランスを考えると適切だが、中身は安保関連で、唐突感があるし、それほど新しいもでもない。この部分が必然だったかと言われると、必ずしもそうでなかったように思う。

 このNHKのニュースは、非常に広い範囲をカバーしている。その半面、事象のパッチワークになりがちで、何が重要なのかという点が、分かりづらい部分も否定できない。

 

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・・・いかがだっただろうか。

 

たった数時間の質疑の内容、たった数分間のニュースでも、放送局によって大きく違う切り口で報道している。

どの原稿も、実際の議論に基いて書かれており、間違いではない。正解もない。長所も短所もある。

 

ニュースの受け取り方もまた、様々であり、正解などないのだ。

 

同じニュースを、いろんな局で比べてみるのも、面白いだろう。

私的読書(1) ▼「生き方の問題なんだ。」[著]大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人

【読書感想文】

▼「生き方の問題なんだ。」[著]大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人、を読んだ。

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https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%82-%E5%A4%A7%E5%B6%8B-%E9%87%8D%E5%BE%B3/dp/4264036208

 

私はかつて様々な本の感想を書いていた。あんまり香ばしいつぶやきが多いと、Facebookおじさんになってダセェなと思って、最近は控えていた。

しかし、この本の著者である佐藤氏、吉村氏は大学時代のサークル・KGKの同期であり、友人だ。友人の著書は読んだ上でコメントせにゃあ失礼でしょ。早速Amazonで取り寄せて読んだので、ここに感想を載せる。

 

この本については、先に尊敬してやまない神戸くんが見事な書評を書いている。僕は彼のような文章力も知識もない。読書量も圧倒的に足りない。デリカシーもない。彼のようにバランスがとれて、的確な指摘ができたらと、心から思う。妬ましいくらいに。

 

でも、開き直って、僕は僕なりの表現で書いてみた。ぼかぁやっぱりテレビマンなので(一度テレビマンと言ってみたかっただけ)、分かりやすく伝えるのがモットーだ。分かりやすくするためには、オブラートを取らないといけない。厳しい指摘もする。けれども、知る人だからこそ、あえてそうしたい。佐藤氏と吉村氏は友人、大嶋氏とも何度か個人的に話したことがある。桑島みくに氏は、直接の会話こそないが、集会に同席したことはあるし、人となりは伝え聞いている。みくに氏の兄、大志氏は同じサークルの同期であり、友人である。著者全員とそんな関係だからこそ、あえて厳しい表現で感想を書きたい。

 

自分の名前で本を出したからには、当然どんな批判も受けると、覚悟の上だろうから。

 

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【はじめに】

▼率直な感想
本が届いて、1時間で読み終わった。

 

率直な感想は、「中身がない・・・」だった。この本に、1296円(税込)の価値があるかと言われたら、残念ながらないと思う。

 

なぜか。ハッキリ言って、タイトル詐欺だからだ。「生き方の問題なんだ。」というタイトルで期待して読むと、騙される。帯もウソだ。本の帯にこうある。

 

「この国でクリスチャン『らしく』歩むって、どういうこと? 教会、学校、職場、家庭、政治― 『生きる』ことと『信じる』ことに葛藤しつつも向き合ってきた、若者たちの等身大の声を綴る」

 

帯にある、「教会、学校、職場、家庭」の話は、ほとんどない。いや、全くない。あるのは「政治」のみ。タイトルと帯に騙されてこの本を読むと、神戸くんが言うように、「あまりに内容が政治的なので面食らってしまう」のである。

 

この本は、左翼・・・といったら怒られるので、「いわゆるリベラル」の目線から書いたエッセイ集だ。それを前提に読まないと、間違える。「生き方」を論じているのでもなければ、「クリスチャンらしさ」を語っているのでもない。「リベラル」な方々の、個人的な訴えだ。内容的には同人誌の域を出ない。自分の思いをツイートしただけの本であって、これが「クリスチャンらしさ」を語っている本とは、私はとても思えない。

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【構成の妙】

▼全体の構成について

本書の構成は、意図的な仕込みがある。

 

この本は、5部構成だ。

1:大嶋氏の序論

2:吉村氏のエッセイ

3:佐藤氏のエッセイ

4:桑島氏のスピーチに加筆したもの

5:大嶋氏の論文

 

詳しい内容は神戸くんの書評で見てもらうとして、僕なりの超簡単要約は以下である。

 

1:大嶋氏「クリスチャンの役目は、この世に『神の国』を実現することだよね!」

                                                          

2:吉村氏「クリスチャンは何をするにしても、信仰がないとダメだよね! クリスチャンは、日曜だけじゃなくて、全領域でクリスチャン! だから政治も語るよ。でも何が正しいかは、罪人である人間は判断できないからね! 批判だけ上手になったらダメだよね。そこんとこヨロシク」

 

3:佐藤氏「SNSとかで一方的な主張する、政治的思想の違う学生と分かり合えんかったわ~。キリストの体だから受け入れ合う議論をしないとね! でもじっくり話したら、学生は僕の意見を聞いてくれたよ! 良かった良かった!」

 

4:桑島氏「安保法制絶対反対! 憲法守れ!! クリスチャンたるもの、敵のために祈るべし!!! だからアベのためにも祈るよ!!!!」

 

5:大嶋氏「過去の日本の教会は、神社参拝に妥協した! 正しい歴史認識を! だから自民党改憲草案はヤバイ! なんとか食い止めないと! 道徳の教科化もヤバイ! 右翼的な教師だと左翼は成績下げられる! このままじゃ教会が運営する学校が税金貰えなくなったり、神社参拝や君が代斉唱を強制させられるよ! ヤバイよ!」

 

・・・おわかりいただけただろうか。

 

1,2,3章は、意図的に政治色が抑えられている。本音を言う前の、準備運動だ。この3章全てを使って、予防線を張っているのだ。「若者たちの等身大の声」という免罪符を盾に、「この後の主張に対して、批判しないでね!」と暗に訴えているのだ。批判されぬよう、いや、批判した側が悪者になるよう、1~3章で予防線を張りに張りまくった上で、4章、5章の主題へと続いていく。それが、この本の意図的に仕組まれた構成なのである。巧妙~!

 

 

【各章の感想まとめ】

▼全体として

この本の主張に、特別新しい内容はない。ちょっとがっかりした。

 

私は、政治記者だ。担当は野党全体だ。野党の取材中、この本と同じ主張をよく耳にする。正直、耳タコの話なのである。

 

本書が言いたいことは、とどのつまり「安保反対」であり、「憲法改正反対」なのである。その主張は、共産党の会見の内容と全く変わらない。

 

 

▼大嶋氏の序章

簡潔に言えば、「クリスチャンはこの世界に『神の国』を実現させるのが使命だ」。という内容。「神の国」の実現こそが、生きる目的であり、「クリスチャンらしく」生きることだ、というのである。

 

神の国は、イエスさまの十字架と復活により、すでに始まっています。しかしいまだ完成はしていない。私たちは『やがて』完成するあの希望の神の国の完成を待ちわびながら、憧れながら、指さしながら、『すでに』と『いまだ』の間<ルビ:はざま>で、葛藤しつつ、祈りつつ神の国建設をするのです」(21P)

 

まぁ、おおむね同意。

 

しかし、「神の国」を実現させるとは、どんな生き方か。具体的な言及はない。「平和とは関係性だ」(23P)というカッコイイ主張はある。その通り。では、それはどういう「生き方」なのか。記述が全くない。大大大前提である「神の国」が何なのかの定義づけもしていない。

 

そう。この1章は、ただふんわり、やんわり、「クリスチャンらしく、この世に神の国をもたらそう~!」といってるだけ。中身がまるでない。そりゃそうだ。曖昧な表現の理由は、この1章が本論ではなく、5章で本音を言いたいがための、予防線だからである。

 

実は、この1章には決定的な認識のズレが隠されているのだが、それは後述する。ここでボタンがかけちがった読者は、「あれ? 何かがおかしいぞ」と違和感を覚えながら読み進めることになる。

 

大嶋氏が、やんわりと「クリスチャンらしさ」を語った後に、吉村氏のエッセイが続く。

 

<※ちなみに、昨今の情勢の中、現実問題として安全保障どうするのよとの問いに、「本物の外交をすればいいんだ」(27P)とあったのは呆然とした。あじゃぱー。じゃあ、やってみろよ、と。どれだけ外交が難しいか、分かった上での発言なのか・・・。ここで知らない著者の本だったら流し読み決定だょ・・・>

 

 

▼吉村氏のエッセイ

吉村氏の記述を見てみよう。

この章の要約は一言「批判しないで!」。

 

「よく考えてみれば“正しい”とはだれが判断するのだろう。この意見が正しく、この意見は間違っている、と私たちはほんとうに判断できるのだろうか。罪人である私たちが振りかざす“正しさ”には限界がある。『だからこそ聖書根拠を!』というのはそのとおりであるし、聖書から正しさを語ることは大切であると思う。クリスチャンは何よりも聖書(みことば)によって生かされ、基準はそこにあるべきである。

 しかし、この類の話題で聖書根拠の話が持ち出される場合、信仰を抜きにし、自分の主張の論理づけのために用いられていることが多いように思う。『聖書にこう書かれているから私の主張は正しいのだ!』というのである。このアプローチは魅惑的である。聖書的根拠を持ち出せば『クリスチャンとして正しい』かのように思えるからである。正しいと自信がもてれば安心できるのだ」

「『私は全領域でクリスチャンである』というのは、政治の領域でも、自己理解においても、である。真の主権者であられる神さまを抜きにして、自分や自分の論理的正しさが神にならぬよう、慎重な吟味が必要であると思う

「クリスチャンにとって問題なのは信仰である。そこに信仰はあるのか。そこにキリストはおられるのだろうか。信仰を抜きにしてこの事柄を考えるとき、意見の合わない相手への不満は募り、怒りで心が支配される。そして相手を裁き、対話は消え、批判することだけ上手になっていく」

(50~52P)

 

 

吉村氏の主張は、正しい。それだけ見れば。まさに正論だ。彼の主張に反対する人はいないだろう。私だって反対しない。その通りだと思う。共感する。感銘も受ける。

 

しかし、この本全体の流れを見た場合、私はどうしてもウラの意図を感じてしまう。言葉のウラを読むのは、記者の悲しい性なのだ。

 

吉村氏の主張は、

→「罪人の正しさは限界があるよね」

→「聖書を根拠にする人はたいてい、自分の主張を理論武装したいだけ」

→「自分の主張、正しさが一番にならないように注意しなきゃね」

→「信仰抜きにすると、批判だけ上手になるよね」

となる。

そう、この章を読むと、まるで批判そのものが悪で、信仰がない行為のように感じるのだ。聖書を根拠に批判する行為は、まるで罪かのように書かれている。

 

いやいや、ちょっとまってよ。そうじゃないでしょ。

 

批判する行為は、一切許されないのだろうか。聖書はそう教えているだろうか。パウロはズレてしまった兄弟姉妹を戒めたのではないか。彼は、ユダヤ人を優遇したペテロを恐れず批判したではないか。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルはどうか。ヤコブの手紙は例外なのか。イエス自身も言ったではないか。「ああ、白く塗った壁」と。

 

ともすると、聖書の先人たちはみな痛烈な批判をしているのである。もちろん、愛を持って。聖書から、神の言葉からズレてしまった言動を兄弟姉妹がしていると判断するとき、信仰を持って、兄弟姉妹を戒めるのは、愛のある、当然の行為ではないか。

 

だから、私は信仰を持って、愛を持って、確信を持って、同意することは同意し、違うと思うことは違うと言う。見て見ぬふりは、私にはできない。

 

 

▼佐藤氏のエッセイ

次に、佐藤氏の主張を見てみよう。一言要約「待て、話せばワカル」。

 

「そういう学生(※右寄りの考えを持つ学生)は、『政治思想が違う』と言って、そのような集会(「キボコク」のような左寄りの集会)にはあまり来ようとしない。★その代わりにSNSなどで自らの意見を主張したりします。主事として、私がほんとうに悩んだことは、そういった学生たちとの関わり方です・・・(中略)・・・私が何よりもまず受け取ったこと。それは、その学生が傷ついている、ということでした。多くの学生たちが『安保法制反対!』と『盛り上がる』(あえてそういう言葉を使います)中、自分の政治思想とそれが相容れない、ということに気づき、葛藤してきた・・・(中略)・・・その結果、その学生は間違いなく傷ついていたのです。

 主事として、私は彼の政治思想云々の前に、まず、彼が交わりの中で傷ついているということを認める必要がありました。対話の橋を焼き落とされたかような<※誤植ママ※>感覚を味わっている、ということと向き合う必要がありました。SNSなどではとても強気で、一見乱暴にすら見えるコメントを交わす彼ら。老若男女問わず、そういう人はいます。けれども、その彼らをいかに説得するかと考えるよりもまず先に、そこには傷があるということを、私は主事としてその学生と関わる中で知りました」(67~68P)

 

 

友人だからあえて言う。この記述は偽善ではないか。

 

「来ようとしない」、「SNSで自分の意見を主張する」、「葛藤してきた」、「その学生は傷ついていた」、「SNSなどではとても強気で、一見乱暴にすら見える」、「そこには傷がある」、etc…

 

これらの表現から、読み取れるのは何か。

明らかにこの学生(「彼」となっているのでおそらく一人の男性でしょう)を蔑視する筆者の心理ではないか。「傷ついている」という見せかけの優しさを前面に出しているものの、本心はその逆。「彼の間違った行為は、傷ついていることが理由だ」という理論なのだ。少数派の意見を持ち、「葛藤する」のが当然というのは、哀しい日本人の思い込みだ。

 

また、ここでSNSのやり取りを例に出すことで、SNSで異なる政治信条を書き込むことが、悪い行為であるような印象を与えているのも、巧みな印象操作である。

 

そして、佐藤氏のエピソードは、こうも続く。

 

「その学生は、対話の中で『そりゃあ、人が一人も縦断で死なない世界のほうがいい。殺し合わない世界の方がいい。軍は、ないに越したことはないんだ、ほんとうは』というような趣旨のことまで言うようになりました。その意見で、私たちは心から同意することができました。『政治思想が違う』二人でも、神さまの御前に一緒に出るなら、ちゃんと対話できるということを噛みしめた経験でした」(71P)

 

この文章を見れば、学生の意見を聞こうという姿勢がまるでないのは明々白々である。佐藤氏は、学生を説得し、「心から同意することができた」と言う。「神さまの御前に一緒に出るなら、ちゃんと対話できる」と言う。

 

ちゃんちゃらおかしい。言い換えたら、「神様を認めたら、やっぱり自分の主張が正しかった。やっと相手が認めてくれた。良かったわ~」でしょ? そう思えるのは、私だけだろうか。考え過ぎだろうか。私には、相手の主張を聞こうとする姿勢が、まるで見えないのだが。「オレが粘り強く話したら、学生は成長したよ!」という議論なのだ。

 

張りに張りまくった「批判予防線」が1~3章で終わり、ついに本論へと突入していく。

4~5章では、この本の主な主張、「安保法制反対!」とか、「憲法改正反対!」とか、そんなものだ。当然、批判が出そうな内容だが、もう大丈夫。この1~3章でバッチリ批判対策は済んでいる。

 

批判したくなった読者は、罪悪感にかられる。それが、この本の構成の罠なのである。これが意図的になされているのである。

 

私は、本書を読んでいる途中、この構図に気がついた。身震いした。背筋が凍った。

この批判を許さない空気こそが、戦時中の教会組織ではなかったか。

まさにこの本は、今の日本の教会組織の縮図なのだ。KGKという団体の縮図だ。

親分が言うことに、一切の批判は許されない。批判する者は村八分にする。桑島氏が敵と表現する「安倍政権」のうつし鏡だ。

 

前言を撤回しなければいけない。1296円(税込)を出す価値はあった。今の教会組織の縮図を知るのに、安すぎる値段だった。

 

さて、4章の桑島氏のスピーチ原稿から、いよいよ本書の本格的主張が始まる。

順に見ていこう。

 

 

▼桑島氏のスピーチ原稿

一言要約「私は怒ってるぞ! 桑島・魂の叫び」。

 

桑島氏のスピーチ原稿からは、ものすごい情熱を感じる。本人の叫び、怒りが耳を通り過ぎて、心も刺し通す。

 

特に、この部分は本当に素敵だ。

 

「イエスさまは特に、敵のために祈ることを教えられました。

 クリスチャンの友人と共に祈るとき、世との違いを決定的に感じるのは、権力者、政治家のために祈ることができるということです。安保法案に反対しながら、安倍首相をはじめとする政治家のために祈る人、その背後にいる地上の権力者のために祈る人、脅威とされている周辺諸国やテロリストのために祈る人が、どれだけいるでしょうか」(93P)

 

 

私もさすがに、テロリストのために祈った経験は、ほとんどない。この熱い想いは、感動する。すごく素直で素敵な信仰だなぁと思う。率直に。

 

ただ残念がら、桑島氏の主張は、一定の価値観でしか語られていない。正直、視野が狭い。逆サイドの人間にとっては、「言いたいことはわかるんだけど、俺はそうは思わないなぁ」で終わってしまうのである。一端の「リベラル活動」をしている学生とほぼ変わらない。

 

もうここまで来ると、「きのこ派」と「たけのこ派」の争いレベルなのである。どっちも譲れないのである。そして、どっちも美味しいのである。

 

また、詳しくは述べないが、「世の権力者より、真の権力者の神様に従うべきだ」との、桑島氏のローマ13章の解釈についても、異論があるところだろう。そうした、価値観の違いを乗り越えられる余地が、残念ながら見当たらない。桑島氏には、違う立場の人間と、もっとコミュニケーションを取ってみることをおすすめしたい。感情だけでなく、論理的に語る訓練をしたらいいと思う。あくまで、コウマンチキな僕からのおすすめである。

 

 

▼「平和」の概念がそもそも違う。

私は桑島氏の主張には賛成できない。なぜか。

 

「平和」の概念が根本的に違うからだ。どう違うかというと・・・

 

・桑島氏の「平和」

→人が死なない。武器がなくなる。戦争がなくなる。自由が認められる。人の手で成就可能。

 

・私の「平和」

→2つの対立し、関係が断絶していたものが、関係性を回復、または創始する。死と罪の原理から開放され自由になる。人ではなく、イエスの犠牲、聖霊の働きにより成就可能。

 

私は、イエスを唯一の救い主、メシアと信じる。彼が私達の罪を背負い、死に、葬られ、そして3日目に蘇り、死を打ち破ったことを信じる。彼が天にのぼり、私達の場所を準備していることを信じる。そして、私達には助け手である聖霊が与えられていると信じる。聖霊によって、イエスを知り、信じ、日々、新しくされると信じる。もはや死の法則に縛られないと信じる。それでもなお自分は不完全だと認める。だからこそ日々新しくされたいと願う。聖霊によって、一日でも早くイエスが帰ってくることを信じ、願う。マラナタ・帰ってきて下さいと祈る。イエスが、オリーブ山に足をつけて帰ってくると信じる。新しいエルサレムの創造を信じる。王の王、主の主が君臨する新しい天と地こそが、真の平和の完成であると信じる。私達は、聖霊によって、その前の一部分を味わい、実践できると信じる。

 

それが私の信仰である。

 

私は、日本共産党が主張する「平和」を、「平和」とは思わない。残念ながら思わない。それが私の信仰である。

 

神はいる。でも、人は毎日ボンボン死ぬ。子どもが餓死する。交通事故である日突然、両親がいなくなる。妹が誘拐される。親友が病気で死ぬ。台風でおばあちゃんが死ぬ。真面目なサラリーマンが痴漢冤罪で捕まり、家族が崩壊する。女子高生がレイプされ、殺される。ラーメン屋が起こしたボヤで街が焼ける。教会が銃撃されて、礼拝していた人たちが全員死ぬ。世の中は、不条理だ。

 

現在、この空中を支配するのはサタンであるのは事実だ。死は罪の結果である。

 

しかし、神は圧倒的な権威をもって尚、なぜか不条理をゆるすのである。これは、人間が最後まで完全に理解できない、「創造主の不条理」である。ソロモンも言っているではないか。

 

「むなしいことが地上で行われている。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい」(伝道者の書8:14)

 

しかし、エレミヤやローマに記述があるように、造られた側の陶器は、陶器師に文句は言えないのである。ソロモンは、上の言葉の次に、こう語っている。

 

「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない」(伝道者の書8:17)

 

すべては神のみわざであり、人にはそれを見きわめられないのだ。

 

誤解を恐れずに言おう。毎日、国会で取材している私からすれば、「議会制民主主義」も「立憲主義」も「資本主義」も、信じるに値しない。そんなの、所詮、不完全な人間が考えだした制度なのだ。「パクス・ロマーナ」をマジで信じてた時代もあった。「社会主義」が理想と思っていた時代もあった(まだ信じている人もいる)。そんなものは全部クソ食らえ、とさえ思っている。大体、「立憲主義」なんちゅーモノが流行っていたのはせいぜい明治、大正くらい。時代遅れだ。大体、そんなのは先進国の常識であって、まだまだ独裁が当たり前の国だって腐るほどあるのだ・・・。民主主義が至高と思っている人は、視野が狭い。

 

私は、再臨がもっと遅ければ、「資本主義」や「民主主義」だって終わりが来ると思う。「歴史の終わり」はウソだと思う。「アラブの春」が証明している。フランシス・フクヤマの信者がいたら謝る。私は、どちらかというと「ブラック・スワン」派なので(トランプの登場とかマジでそうでしょ)。

 

これはもはや、「たい焼き、頭と尻尾どっちから食べる?」論争なので、これでヤメる。ま、そういうわけでいろんな考えがあるけど、イエスの再臨を待ち望んで、聖霊によって新たにされ続け、ミニ・イエス化していけば、それでええんやないかい? 方法は何でも。

 

桑島さん、あなたの情熱は素晴らしい。主にあってがんばってください。私はあなたと考え方は違うけど、主にあって応援しますよ、というのが私の感想である。

 

 

▼大嶋氏の論文

さぁて、本番キマシタ。

5章の論文。これが書きたいがために、この本を書いたといっても過言じゃない。

 

前段は、日本の教会の歴史の振り返り。ぶっちゃけ、もうそろそろ書くの疲れてきたので、簡潔に書くと、

 

→かつて日本は全体主義で、国全体が神道になったよ!

→教会は認められるためにめっちゃ妥協したよ!

→そのせいで、多くの教会が文化とかいって神社参拝をしてしまったよ! 内村鑑三は頑張ってたけど、そのせいで教会から仲間外れにされちゃったよ!

→ニッキの冨田とかいう牧師は神社参拝を自分がしただけじゃなくて、わざわざ韓国まで行って神社参拝を強制したよ! マジキチだね! 

→でも当時はそれが普通になっちゃってたんだよ!

→もう二度とこういうことはしないようにしようね!(←ここまではワカル)

→だから安保法制絶対反対!(←は?)

自民党改憲草案反対!!(←へ?)

→道徳の教科化も反対!!!(←ほぇ?)

→正しい歴史認識を!!!!(←パククネかな?)

→ジジイになっても孫に「俺は戦った」と自慢しようね!(←ほぇ~~~ cv.丹下桜

 

と、こんな感じ。

 

いや、わかる。わかるよ。わかるんだけれども。

 

「もう二度とこういうことはしないようにしようね!」(←ワカル。2回目)

 

うんうん。その通り。

 

神社参拝はクソだし、妥協したやつらは情けないよね。完ペキ偶像礼拝やんけ。特に冨田とかいうニッキの牧師は何考えてたんやろ。ありえへんわ。韓国にまで行って神社参拝オススメしてまうなんてもう精神トチ狂っとるやろ。そら韓国人に恨まれるのも当然やわ。そら韓国に行けば、「日本の教会は悔い改めてないから信者が増えないんだ」とか言われるわ。そらあかんわニッキさん。反省して、もう二度とやらないようにするべきですわ・・・・・・。

 

でも! でもよ?

 

それが何で「安保法制反対!」になるの? それが何で「憲法改正反対!」になるの?

 

意味がわかりません。

 

「正しい歴史認識を!」「アジアの学生と話せ!」というのも意味分かんないっす。

 

いや、広い視野を持つことは大切よ? そらもちろん。人生勉強でっせ。ただ、昔日本の教会がしたことを謝罪しろ、っちゅうのは意味が分かりまへんねん。当時妥協した人が生きていて、「あの時は悪かった」ちゅううならワカル。それならワカル。

 

でもさ~~~俺マジで生まれてすらないし、ウチの家族は元々ノンクリスチャンだしなー。ウチの祖父は戦時中まだ10歳にもなってなくて戦争も行ってないし、唯一行った祖父の兄は派遣されたの朝鮮半島じゃなくて沖縄だし。むしろそこで戦死しとるんですが。なんで全然関係ない韓国の教会に謝らなきゃあかんねん。イミフやわ。

 

聖書に、「先祖の罪では裁かれない」と書いてないっけ? イエスさまも、「この人に罪があるから盲目なのか?」と聞かれて、「いや、神の栄光が現れるためだ」と言わなかったっけ?

 

なんで当時のニッキとかがやったことを俺が謝らなきゃいけないの?! 意味ワカラン。100歩譲って、俺がニッキのメンバーならまだギリ理解可能だけど、全く関係ないしな・・・。クリスチャンだから謝るの? クリスチャンだったら自分の関係ない人の戦争責任も負わなきゃいけないの? アメリカ人のクリスチャンから原爆ゴメ~ンって言われたことないんだけど? そのロジック成り立つなら、元寇謝れや~。エゲレス人もインド人と中国人に土下座しろや~。アメリカ人はベトナム人朝鮮半島の人、シリアの人、イラクの人、そもそもネイティブアメリカン、その他いろいろな民族に謝らなきゃいけないね! そう言うと、トンデモ主張っていうことが、よく分かるでしょ?

 

ま、勉強して、過去の過ちを繰り返さないのは大事です。人間として当たり前。

 

でも、でもよ? Again、なぜそれが「安保法制反対!」になるんだ? なぜそれが「憲法改正反対!」になるんだ? なぜそれが「道徳の教科化反対!」になるんだ? そこのロジックがぶっ飛びすぎててもう・・・。

 

コメントするに値しません!

 

ま、分かってもらえたと思うけど、最終章は、全く理解できないロジックなんですな。ただの一個人の叫び、みたいに受け取ったらええんかな。

 

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【大嶋ロジックの非現実さ】

 

▼妄想をベースにした妄想

大嶋氏の最後の論文のロジックはめちゃめちゃ。

極端な想像がベースとなった上での予想・妄想なのである。仮定の上に重ねられた仮定を前提に話が進んでいく。議論がどんどん現実離れしていく。

 

短い章なので、ひとつずつ簡潔に見ていく。

 

靖国と教科書問題

何が問題なのか提起していない。事実をつらつらと書いているのみ。「自虐史観」からの脱却を目指す教科書の変更がなぜ問題なのか論じていない。そもそも「自虐史観は間違っている」という「いわゆる右翼的思想」は、最初から受け入れる気がないのである。

 

▼国歌斉唱問題

なぜ「君が代」を歌うのがダメなのか。言及がない。ええやん。国家ぐらい堂々と歌ったら。別にそんなん個人の自由やろ。ま、たしかに教員が起立せえへんかったらクビになるっちゅうんは、やりすぎやと思うで。それはさすがにアカンわ。日本の学校の常識はほんと毎回ド肝抜かれるで。

でもなんで問題なんか、ここでも触れとらん。「君が代」は天皇へ捧げる歌であってクリスチャンたるもの歌うべきではない、という前提がここにもあるんやな。

僕はエホバから入り、プロテスタントの信仰を持ったケースやけど、エホバの頃は確かに、国家とか校歌とか歌ったらあかんかったわ。だから口パクしてたわ。同じ穴のムジナやね~。

 

▼信教の自由

はいでました。妄想その1。引用が2002年の官房長官会見て。笑えるわ。昔か! 

15年前の話をよく見つけて引っ張ってきたな~ちゅう感じ。じゃあ今の内閣も同じ認識か聞いたらええよ。長官会見は、金曜の午後ならフリージャーナリストでも誰でも申請すれば入れる。そこで聞いてみたら? ただ、具体的に「プロテスタント教会は該当しますか?」ってね。長官が「はい」って言ったら、トップニュースですね。言うわけないやろ。全く現実的じゃない妄想レベルの話。

 

憲法改正

妄想その2。ナチスて。共産党の会見でよく聞く論法ですね。別に共産が悪いんじゃないけど、そういうレベルの話、ということをご認識いただきたい。

 

そして、この小節の最も重大な欠点は、「勉強不足」ということ。

 

新聞読んでれば分かるレベルだが、この自民党改憲草案ができたのは、自民党が野党に転落した時の時代。この草案は、正直超絶右寄り。そりゃそうだよ。野党なんだから、「色」を出さないと、支持は回復しない。

 

当時の総裁は谷垣総裁。自身は「宏池会」という、自民党の中のリベラルと言われる派閥。谷垣総裁自身の意見だったら、こんな超右寄り改憲草案は出てこない。自分の意思にフタをしてまで、何とか自民党の支持を回復しようと、思いっきり右に振り切れたのが、この自民党改憲草案。野党・自民党の「苦肉の策」であり、実現しないことは分かった上でのアピールなのだ。だから安倍総裁は、絶対に「谷垣総裁時代の憲法草案」と言う。自分は違いますよと言いたいのだ。野党の政策は、実現するつもりで作っていないというのは、永田町の常識だ。

 

しかも、自民党は安倍総裁の指示で、党内の憲法調査会で、年内に新しい改憲草案を作るべく動いている。年内はさすがに厳しいと思うが、年明け、春ごろには新しい改憲草案が出来ているだろう。全く違うものができるかもしれない、というか、できる。それを見極めてから、「自民党改憲草案が~」と言ってほしい。実現するのは、与党の政策なのだから。

 

今年5月の安倍総理のメッセージビデオを見れば、安倍さんがやりたいのは「憲法9条」なのは明々白々。それなのに、「20条」とか「89条」とか、全く議論にもなっていない部分の、しかも草案を部分を取り出して、「このままじゃヤバイ!」とか叫んでいるのは、正直哀れにすら感じる。今、自民党改憲派の議員に「20条とかどうですか?」と言っても、絶対に「は? 何言ってんの?」というリアクションされるに決まっている。

 

この小節の議論は、「野党時代の草案」という実現しない妄想をベースに語っている上に、「議論にすらならない20条や89条」を取り上げて「信教の自由が脅かされる!」と騒いでいるにすぎない。妄想の上の妄想で、実現するとはとても思えない、夢物語なのだ。夢を語るなら、ポジティブな夢がいいと思うのは、私だけだろうか。

 

憲法改正には、まず衆参両院で3分の2以上という、とんでもなく高いハードルがある。衆院は自民が大勝したが、それでも衆参両院となると、公明党や維新の党などの協力は、絶対必要になる。両党とも9条改憲は積極的ではない。

その上で、国民投票過半数という、これまたむちゃくちゃ高いハードルが待っている。国民投票で否決されたら、安倍政権はおろか、自公政権がピンチになる。それだけリスクのある試みなのだ、憲法改正というのは。

 

というか、大前提として、「憲法改正」は悪ではない。改正派もいれば、非改正派もいる。護憲派もいれば、護憲的改憲派(今の憲法が現状に合わなくなってきているので、現行憲法の精神を保ちながらあなわい部分を変えるべき)もいる。それすら許さないという前提で本が書かれてるから、正直偏りすぎている。

 

私は、自分が生きている間は、憲法改正は難しいと思っている。戦争になったら別だけどね。

 

 

▼信教の自由と教育の問題

見逃せない表現がある。

 

「そして道徳の成績の結果で、通知表の評定平均値が上がるか下がるかが問われるようになったら、クリスチャンホームであっても『もう、しょうがないよ、形だけやっておけば』と親も、あるいは子ども自身も、教会もそう言う日が来るかもしれません。愛国心の強い、右翼的な教師が担任になれば、それはそんなに遠くない先のことになります」(134P)

 

ちょ、どこから突っ込んでいいのか・・・。大嶋氏の頭の中では、「文科省の認定する教科書の価値観」が、「右翼的」だと決めつけている。そして、クリスチャンであるなら右翼的価値観は間違っていると決めつけている。非常に大きな問題だ。愛国心を抱くクリスチャンは間違っているのか? そうではないだろう。ここまで自分の価値観でしかモノを語れないとなると、もうちょっと呆れて物が言えない。

 

 

▼5章まとめ

結局、第5章で示されている懸念は、以下のようにまとめられるだろう。

・大嶋氏の価値観が大前提としてある。

・ほぼすべてが実現可能性の低い、「想像」であり、「妄想」である。

・現実とかみ合わない記述が多く、勉強不足の点が多々見られる。特に、今の永田町の情勢を知らないようだ。

 

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神の国の概念】

▼大嶋氏の「神の国」と、私の「神の国」のイメージの違い

神の国」について、そもそも大嶋氏と私は、前提が違うようである。

 

大嶋氏の1章にある、「神の国の建設はすでに始まり」は、私のイメージとは少し異なる。ニュアンスレベルだが。

 

私は、「聖霊によってその前の香りの一部を味わっている」と信じる。私のできる「神の国建設」は、もっとミクロなものだ。しかし、聖霊が働きまくったら別。国も歴史も変わる。それを恐縮ながら、マジで望んでたりする。でも、マクロな変化は、ミクロな変化から起こっていく。イエスはそういうリーダーだった。

 

基本的に、私の思う「神の国建設」は、ヒカルの碁でいえば、北島さんが碁会所でヘボ碁を打つ程度のものである(伝わる人にだけ伝われば良し)。大嶋氏のいう「神の国建設」は、我々人間が頑張って「神の国」を建設し、それがやがてイエスの再臨で完成するという認識である。細かいけど伝わるかな~コレ。ニュアンス大分違うんだけどね~。語彙力なくてムズいわ。

 

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↑これが北島さん。「ヒカルの碁(21)」<ジャンプコミックス

 

私は、自分の力を信用していない。聖霊のとんでもない力は信じる。イエスを信じる信仰も聖霊。日々新しく自分を変えるのも聖霊。壊れた関係を回復するのも聖霊。社会・コミュニティが大変化するほどの奇跡も聖霊である。

 

私は、「神の国とその義を求めよ」とは、一部は「イエスの再臨を待ち望め、その準備をせよ」と読み替えも可能だと思っている。しかし、「神の国」については、様々な意見があり、それを聞くたびに、新しい発見がある。

 

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【終わりに】

▼方向性の違い

本書は、私の価値観と、大きく2つの点が異なる。

「前提」と「適用」だ。

 

 

▼前提の違い

大嶋氏はじめ、本書の前提は以下だ。

・クリスチャンの生きる目的は「神の国」の建設。

・「神の国」建設は既にクリスチャンの手により始まっていて、頑張ってそれを成就して、いつか終わりが来て完成する。

・だからクリスチャンは平和を作らなければならない。

愛国心、右翼的思想はすべて平和的ではなく、悪である。

 

私の価値観の前提は、以下だ。

・クリスチャンの生きる目的は「神の国」建設計画の一部となること。

・「神の国」はイエスを中心とする私たちのただなかにある。聖霊の力によってその香りを味わい、「神の国建設計画」の一部となれる。イエスが帰ってきて完成する。

・だからクリスチャンは「本当の平和」のエッセンスを知っている。

愛国心、右翼的思想は、そもそも意見の別れるところであるし、各々の自由である。その中で、クリスチャンは壊れた関係を修復できる力が与えられている。

 

 

▼適用(行動ベクトル)の違い

大嶋氏はじめ、本書の「適用」は以下だ。

全体主義が進めば、教会はまた妥協し、国家宗教のえじきになり、偶像礼拝の罪を繰り返す。

・社会的情勢がそうならないよう、全力で食い止める行動こそが「クリスチャンらしい生き方」であり、「信仰」だ。

 

私の「適用」は、以下だ。

全体主義が進んでも、教会は妥協しない選択肢がある。

・どんな迫害や不利益があっても、それに耐えるのが「クリスチャンらしい生き方」であり、「信仰」だ。

 

大嶋氏は、「もし、信仰が理由で私学助成が得られなくなったらどうするんだ」と心配する。「道徳の授業で、成績を下げられたらどうする?」と、心配する。

いいじゃないか。私学助成と信仰、どっちを取るのか。成績と信仰、どっちを取るのか。答えは明白ではないか。例え貧しくても、迫害されても、成績が下がっても、いいじゃないか。イエスの犠牲に比べたら、安すぎてお話にならない。一度与えられ、握った信仰を手放さない。それが本当の信仰ではないのか。そんな熱い、まっすぐな信仰を期待してはいけないのか。「この世」の成功が、成功なのだろうか。私は違うと思う。

 

 

▼まとめ

長々と書いてしまった。悪い癖だ。気を悪くしたら謝る。申し訳ない。

 

しかし、黙って見過ごせるほど、私は大人じゃなかった。

 

前提となる「神の国」の定義から、そもそも認識が違う著者たちの本だった。ボタンがかけちがって当然である。

しかし、たとえ信教の自由が脅かされても、負けずに、戦えばいいのだ。戦うベクトルとタイミング、方向を間違えてはいけない。

 

重大な懸念を持って指摘したいのは、「批判した者が悪者になる」という、本書の構成である。意図的な仕組みに気が付き、戦慄した。批判を許さない空気、これこそが、今の日本の教会組織、KGKという組織の縮図である。日本の信者たちが、自分と違う意見を受け入れられるようになる未来を願う。

 

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:35、38~39)

 

 

このような信仰を持ちたいものである。

 

(了)