週刊イエス

週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】牧師しか「メッセージ・説教」しちゃいけないってホント?!

教会で、「メッセージ・説教」を「牧師だけしかしてはいけない」と言われることがありますが、果たしてそれは本当なのでしょうか。

 

 

▼牧師しか語っちゃいけない?!

f:id:jios100:20190220032316j:plain

 私が高校生の時、教会でとあるイベントを企画した。何も特別なことはない、簡単なゲームがあり、プレゼント交換があり、ちょこっと聖書の話があり、映画を見て、お泊りして、次の朝バイバイ。そんな企画だった。この「ちょこっと聖書の話」がいけなかった。教会の牧師は、お世辞にも話が上手ではなかったので、牧師ではない人にこの「ちょこっと聖書の話」を依頼していたのだ。若者を対象にしたイベントゆえの作戦だった。しかし、これが誤算だった。それを知った牧師は大激怒。「牧師以外の人が、聖書の話をするのは、けしからん!!!」とまくし立てたのであった。

 当時の私は、「こいつは頭がおかしいんじゃないか」と本気で疑ったが、どうやら教会には、「牧師以外が聖書の話をしてはいけない」という暗黙のルールがあるらしいということを悟った。後々聞いてみると、教会や教団、教派によっては、「牧師しか教えてはいけない」と明文化されているところもあるという。

 この、「ちょこっと聖書の話」を、クリスチャン専門用語で「メッセージ」とか、「説教」とか言ったりする。果たしてこの「メッセージ・説教」は牧師しかすることが許されていないのだろうか。聖書はどう書いているのだろうか。今回は、この「聖書について語る権利」について書こうと思う。

 

 

▼メッセージ・説教とは何か

f:id:jios100:20190220031936j:plain

 そもそも、「メッセージ・説教」とは何なのだろうか。クリスチャンの世界で、この「メッセージ」「説教」というのは聖書の言葉についての講話を指す(※まぎらわしいので、この記事では一律に「メッセージ」と表記する)。

 聖書の文は何を意味するのか、それが自分の人生にどういった意味があるのかを話すというのが、一般的な「メッセージ」である。時間は、10分程度のものから、1時間ほどのセミナー形式のものまで様々だ。日曜日の礼拝会では、ほとんどの場合、この「メッセージ」がある(たいてい30分~45分ほどの場合が多い)。

 メッセージは、多くの場合、礼拝会や集会のメインディッシュ的な扱いをされている。なるほど、確かに聖書の言葉は、人間にとって人生の糧となる、非常に大切な言葉である。聖書は、はるか昔に、ヘブライ語ギリシャ語などで書かれた書物なので、時代的、文化的、言語的障壁を乗り越えなければ、正しく理解ができない。そのために、メッセージという形で、時代的、文化的、言語的障壁を取り除きながら、聖書の言葉を、現代の私たちに分かりやすい形で解説する。これがメッセージというものである。

 メッセージは、教会や話す人によって、スタイルはまちまちだ。聖書の文、1文(1節)だけについて深く話す場合もあれば、聖書の中の章や書物全体について語る場合もある。聖書をバランス良く読むために、「講解説教」(こうかいせっきょう)という形で、聖書を頭から順番に語るスタイルもある。「信仰について」「人間関係について」「家庭について」など、包括的なテーマに沿って語る「テーマ説教」というスタイルもある。毎回、分かりやすくポイントを整理する「ポイントメッセージ」のスタイルもあれば、教会によっては、一貫して「イエスの十字架と復活」という、いわゆる「福音」しか語らないところもある(個人的に、それもどうかと思うが)。

 様々なスタイルがあるが、今回の問題は、「メッセージは、牧師にしか許されていないのか」という問題である。では、毎度よろしく、聖書がどう語っているか見てみよう。

 

 

▼聖書に「メッセージ」などない?!

f:id:jios100:20190220032742j:plain

 聖書は、「メッセージ」についてどう書いているのだろうか。何とビックリ。書いていないのである。聖書に、「メッセージ」の「メ」の字も、「説教」の「せ」の字もないのである。こりゃあビックリ仰天。今の教会の牧師たちは、「メッセージに命を賭けている」タイプの人も多い。なんと、その人たちは、聖書に書いていないことを、一生懸命、命を賭けてやっているのである。めっちゃドンマイ。聖書はそうは書いていない。

 なぜか。聖書の時代は、必ずしも「牧師が教会でメッセージを語る」というスタイルではなかったのである。いくつか、聖書のケースを見てみよう。

 

【イエスの場合】

 イエスの場合はどうだったか。イエスは、「会堂」シナゴーグ)と呼ばれる、当時のユダヤ教の教会のようなものに行っていた。シナゴーグは、現代の教会とは違って、どちらかと言えば、「公民館・コミュニティーセンター」のような存在だった。地域行政、宗教行事、警察、裁判、自治、配給、などなど・・・生活の全てが、このシナゴーグ、会堂で行われていたのである。これは、その「会堂・シナゴーグ」にイエスが行った時のエピドードである。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。(イエス、巻物を朗読する。割愛)エスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。エスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。(ルカの福音書 4:16~22)

 

 エスは、この「会堂」に行き、旧約聖書の「イザヤ書」の巻物を朗読した。その箇所は、メシアについての預言の箇所である。イエスは、その部分を読み、「この言葉が実現した」と宣言したのである。すなわち、「私がメシアとして来た」と宣言したに等しかった。

 イエスの行動は、「会堂」という場で、「聖書のことば」を解説したという意味で、ある種の「メッセージ」である。当然、イエスは、この「会堂」の牧師ではなかった。係りに手渡されて、イザヤ書の巻物を読んだだけである。そこに一言加えただけである。その言葉に、人々は驚いたのである。 

 ここから分かるのは、当時は「会堂」で「牧師」が語るというスタイルではなかったということである。これは、次に書くペテロやパウロの話にも共通してくる。

 

 

【ペテロの場合】

 ペテロは、イエスの昇天後、人々に大胆にイエスを宣べ伝えた。使徒の働きには、以下のような記述がある。

翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、誰の名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日・・・(割愛)」彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスと共にいたのだということも分かってきた。

使徒の働き 4:5~13)

 

 ペテロは、おそらくこの時、「サンヘドリン」と呼ばれる「最高法院」(※エルサレムにあるという記述なので最高法院。地方にある場合は「地方法院」)で、「なぜイエスを宣べ伝えているのか」と尋問されたのであった。この時の特徴は、以下である。

・会堂ではなく法院での証言だった。

聖霊に満たされたペテロは、イエスについて証言した。

・人々は、ペテロとヨハネ「無学な普通の人」であると知って驚いた。

・その結果、2人がイエスと一緒にいたことが分かった。

 

  「聖書協会共同訳」では、この部分にご丁寧に「ペテロの説教」というタイトルまでついている。ここから分かるのは、メッセージ・説教は、場所に縛られず、教育や資格に縛られないということである。ペテロは、ただ聖霊に満たされて、イエスについて大胆に証言したのであった。

 ペテロは、神学校に行って、牧師になったわけではなかった。「ただの漁師」「無学な普通の人」であったペテロが、ただただ聖霊によって、知恵と言葉が与えられて、大胆にイエスについて語ったのである。それによって、ペテロが、イエスと深い関係にあることが分かったのだ。現代においても、メッセージを語る人が、どれだけ神と深い関係を築いているかがカギとなる。

 

 

パウロの場合】

 では、数々のメッセージを残したパウロはどうだろうか。いくつかの事例を見てみよう。

するとただちに、サウロ(パウロ)の目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いていくためではなかったか」

使徒の働き 9:18~21)

 

 パウロ(サウロ)は、イエスを信じた直後に、諸会堂でイエスを宣べ伝え始めた。それまで、パウロはイエスの信者たちを捕まえて牢屋に入れていたのだから、面白い。彼は、イエスの素晴らしさのゆえに、黙っていられなかったのだ。それまで敵だった人々の中で、それまでと真逆のことを宣言するのは、勇気が必要だっただろう。でも、彼は大胆にイエスを宣言するために、メッセージをしたのであった。

 他の事例も見てみよう。

律法と預言者たちの書(すなわち、旧約聖書)の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話ください」そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください・・・」

使徒の働き 13:15~16)

 

 以上の事例から分かるのは、当時の会堂のスタイルは、「奨励のことば」を示された人が語る、「オープンマイク型」だったということである。なるほど、これならかつて、イエスが会堂でいきなり語り出したのも頷ける。定められた「牧師」や「教師」だけでなく、神に感動し、イエスに人生を変えられた人々が、聖霊に突き動かされて、神の素晴らしさを語る。これが本来のメッセージであった。 

 このような実際の事例だけではなく、聖書には、具体的に「互いに教え合え」とも書いている。次は、それを見ていこう。

 

 

▼聖書は互いに教え合うように教えている

f:id:jios100:20190220033224j:plain

 聖書は、「教える」ことについてどう書いているだろうか。順次見ていこう。

 

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

(ローマ人への手紙 15:14)

 聖書は、「互いに訓戒し合う」ように教えている。

 

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。(中略)詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

(エペソ人への手紙 5:15~19)

 聖書は、「知恵のある者として、機械を十分に活かせ」と命じている。また、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合う」ようにも勧めている。メッセージは、言葉だけでなく、歌を通しても語れるのである。

 

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人の手紙 3:16) 

  互いに教えること、忠告し合うことを聖書は命じている。これは、牧師や教師だけに限った話ではない。

 

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、誰でも一人ずつ預言することができるのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~31)

 

 この部分は、新改訳3版では「すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができる」と表記している。「預言」の定義については諸説あるのだが、ここではひとまず広義に「神の啓示を語る」としよう。そうすると、「メッセージ」も広義の「預言」の一部である。まとめると、以下のようなことが分かる。

・メッセージは誰でも代わる代わるできる。

・メッセージは、皆で吟味すべきである。

・別の人に、別の啓示が与えられる可能性もある。

誰でも語ることを学べる

誰でも一人ずつ語れる

 

 「牧師」や「教師」だけがメッセージを語る資格があるというのは、聖書の教えと反している。聖書が語っているのは、むしろ、互いに教え合い、戒め合い、語り合うことである。聖書は、互いのメッセージを吟味するよう教えている。聖書は、誰でも語る術を学べると教えている。聖書は、メッセージを語る際、聖霊の働きが重要だと教えている。

 これらの聖書の言葉を読んだだけでも、「神学校に行って学んで、『正教師』にならなければ教えてはいけない」などという人間の作ったルールが、いかにくだらないか分かるだろう。くだらないどころか、聖書の教えと真っ向から反することをしているのであるから、改めた方が良いと私は思う。

 

 

▼人間のシステムを守るためだけの、くだらない内規

f:id:jios100:20190220033657j:plain

 現代の教会のほとんどは、「牧師」や「教師」といった役職がある人だけが教会で語れる仕組みになっている。ちゃんちゃらおかしい。そのようなシステムは、いたずらに聖書や神について語るハードルを高めるだけで、百害あって一理なしの、人間が勝手に作り出したシステムだ。聖書から、何も学んでいない。そのような勝手な人間の偶像礼拝は、いい加減やめたらどうか。

 おおかた、そのような決まりは、「間違った教え」を予防するために組織の中で人間が作ったのだろう。笑止。くだらない人間の知恵だ。そのようにハードルを作ってしまったせいで、現代のクリスチャンは、自ら学ぶことをやめてしまった。勝手に「聖書学校」を作り、そこを卒業しなければ語れないという「内規」を作ってしまったがために、人々が自分で聖書から学び、語り、戒め合い、メッセージを吟味する術を失ってしまったのである。必要なのは、誰でも語り、誰でも教え合い、誰でも吟味できるシステムである。

 現代の教会は、「教会を守るため」の、必要ない決まりが多すぎる。しかも、クリスチャンたちが、それを「絶対的な権威」として守りすぎている。そんなくだらないハードルを設けるから、日本中の教会で、「教師不足」が頻発しているのだ。大切なのは、「教会を守る」ではなく、「イエスを宣べ伝える」ことではないか。自分たちで語れるようになれば、「教師不足問題」は一気に解決する。「牧師しかメッセージしてはいけない」という決まりは、人間が勝手に作り出してしまった文化、伝統、内規に過ぎない。クリスチャンならば、そのような人間が作った内規ではなく、聖書を基準に生きるべきではないか。

 クリスチャンは、誰もが聖霊によって、聖書を通して学ぶことができる。誰もが語ることができる。現代の教会に必要なのは、いたずらなハードルではなく、誰もが自分で学び、吟味し合うためのシステムづくり、空気づくりだろう。もっと教会に互いに教え合い、互いに戒め合うことをバシバシやっていったらいいではないか。聖書を自分の言語で学び、教えられるのがプロテスタントの特徴である。司祭しか教えてはいけないというなら、どうぞ、カトリックに入会し直せば良い。

 

 そんな、教師でない人が聖書を語ったら、間違った教えが横行する・・・と心配する人には、プリスキラとアキラ(アクラ)が、アポロを戒めたエピソードをぜひ読んでほしい。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり、教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに読んで、神の道をもっと正確に説明した。アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18:24〜28)

 

 これは、プリスキラとアキラという教会コミュニティのスタッフが、アポロというメッセージを語りまくる男に、もっと正確に聖書を説明した、というエピソードである。アポロは、その後、さらに活躍し「信者たちを大いに助けた」とある。

 どのような立場であれ、互いに教え、指摘し合うことで、メッセージが磨かれていくのが、このエピソードから分かるだろう。必要なのは、互いに吟味することであって、制限をかけることではない。

 私が参加している教会コミュニティでは、牧師だけではなく、教会に集う人々もメッセージを語っている。名簿に名前を書き込み、語りたい人が語る、「サインアップ・スタイル」だ。奇しくも、次の日曜日は私が語る予定となっている。さて、何を話そうか。神が与えた聖霊に聞きながら、準備したいと思う。

 

 

▼おまけ1:良いメッセージと、そうでないメッセージの見分け方

f:id:jios100:20190220034616j:plain

 良いメッセージと、そうでないメッセージは、どう見分ければいいのだろうか。簡単に、あくまで私の主観で特徴を挙げたいと思う。

【良いメッセージ】

・内容が聖書に基づいている。

自分が語りたいことではなく、聖書が教えていることを教えている。

・聖書の一部分を、文脈を無視して抜き出すのではなく、聖書全体の文脈を捉えている。

エスの十字架の、恵みによる救いのエッセンスがある。(cross centered、十字架中心)

聞く人の心を、神・イエスに向けさせる。

・聞いている人たちに向かって話している。

長すぎない(超重要)

 

【良くないメッセージ】

・内容が聖書に基づいていない。特に、メインテーマが聖書全体の教えとズレている。

・自分が語りたいことを、聖書を利用して話している。

・自分の語りたいことを補足するために、聖書の一部分を、文脈を無視して抜き出している。

・イエスの十字架の、恵みによる救いのエッセンスが全くない。

・聖書のストーリーを、比喩的に捉えすぎて、聖書全体の文脈と関係ない解釈をしている。

・聞く人の心を、神ではなく、話者自身に向けさせる。

・原稿丸読み。萎える。

長い、長すぎる(ほとんどのメッセージがこれ)

 

 世の中には、意外と「聖書を使って、自分の言いたいことを言っている」タイプのメッセージが多い。聞く人は、よくよく吟味し、神が語ることをしっかり捉えられるようにしよう。

 

 

▼おまけ2:メッセージを作るコツ

f:id:jios100:20190220034920p:plain

 語弊を恐れず言えば、「メッセージ・説教」など誰でもできる。超簡単だ。聖書を読んで、聖霊を通じて受け取ったことを話すだけ。イエスは、弟子たちに「何を語るか案じるな。何を話せばいいかは、聖霊がその時教える」(ルカ12:12)と教えている。これについては、また別記事を書く予定だが、以下、簡単に私が考えるメッセージづくりのコツを挙げる。以下、あくまでも私のオススメである。

【メッセージ作りのコツ】

祈る。

とにかく毎日聖書を読み、神との時間を過ごす。たいていメッセージの内容のほとんどはそこがベースとなる。

・そこから語られた言葉をメモする。

・それを噛み砕いて、シンプル化して、テーマを作る。

関連の聖書の言葉の索引をひきまくる。別の翻訳や言語でも読んでみる。

正解を言おうと思わない。失敗を恐れないで、神に頼る。

・慣れないうちは、プレゼンの小手先に頼らず、完全原稿を作ってみる。

祈る。とにかく祈る。聖霊の導きを求める。前日になって原稿全部差し替えっていうこともよくあるんだな、これが。 

 

 安心していい。何を語ればいいかは、聖霊が教える。心配せずに、大胆に語っていこう。

 

しかし、助け主、すなわち、父がわたし(イエス)の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書 14:26)

 

 恐れずに言えば、メッセージで人の人生など、そうそう変わらない。あなたは、先週、教会で聞いたメッセージを覚えているか? ・・・メッセージなど、そんなものなのだ。

 人が本当に変わるのは、神の愛と恵みを体験して感動し、聖書の言葉から学び、聖霊によって神のキャラクターに変えられていく時だけなのである。 

【提起】意味わからんクリスチャン専門用語10選! もうやめません?  

クリスチャンは自分たちにしか分からない専門用語を使いすぎです。排除の論理なの?!

 

▼専門用語が大好きなクリスチャンたち

f:id:jios100:20190212230955j:plain

 クリスチャンほど、「専門用語」が大好きな人たちはいないだろう。教会に初めて来る人たちにとっては、「は???」と思う用語が飛び交っているのだから、疎外感を覚えるに違いない。私が初めて「教会」に足を踏み入れたのは小学校4年生の時だが、あまりにも意味不明な言葉を乱用する教会の文化に、うんざりしたものである。物心ついた時から教会に通っている人を除けば、はじめは誰もがそのような違和感を覚えたはずだ。それなのに、いつのまにか「内輪の言語」に慣れてしまったクリスチャンたちは、そのような「専門用語」ばかりを使って生活している。

 専門用語に慣れてしまうと、その言葉の本来の意味や由来を考えずに生活してしまえる。それが専門用語の罠である。また、専門用語の知識がない人を無意識に排除してしまう要因にもなる。教会に来る人が減って当たり前だ。イエスは、一般の人々に分かりやすいように、全てを「たとえ話」で語った。弟子たちにのみ、その真理や奥義を明らかにしたのである。イエスは、その人の理解の度合いに合わせて語ったのである。しかし、今日のクリスチャンたちは、自分たちだけが理解できる「専門用語」に溺れ、クリスチャンでない人が教会に来てはいけないような空気を作ってしまっている。

 私が働くテレビ業界も、専門用語が横行する業界だ。

「ADさん、明日ミックスするから、ハコ、バミっといて」

「夕方は、昼の白を完パケしてマルサイね」

「このOA素材、イエロー許諾とったから、緑山から来たらカマタキしておいて」

 などなど・・・読者のみなさんのほとんどにとっては、チンプンカンプンだろうが、この業界ではいたって普通の会話である。しかし、業界外の人には通じない会話だ。それと同じように、クリスチャンの人々の「専門用語による会話」は、クリスチャンでない人から見たら、このように聞こえるのである。

 ただ分からないだけならまだしも、このように意味不明な用語を使って会話をしているの聞くと、まるで怪しい宗教のように思える。エスの素晴らしい教えが、このような「専門用語」に阻害されてしまっては、もったいないではないか。今回の記事では、この意味不明な「専門用語」の代表例を10挙げ、「こう言ったらどうだろう」という私なりの提案をしたいと思う。

 

 

▼専門用語1:「みことば」

f:id:jios100:20190212231553j:plain

 「みことば」。おそらく、最も多く使用されるクリスチャンの専門用語かと思われる。漢字で書けば、「御言葉」で、神の言葉の意味である。つまり、神の言葉とされる、「聖書の言葉全体」を「みことば」と言う。聖書は神の言葉なのだから、ただの言葉では失礼だ、「御」をつけようという意味なのだろうが、今の時代の人々にとっては、何がなんだか分からない。

 こんな、ヘンテコな言葉を使わずに、普通に「聖書の言葉」とか、「聖書にはこう書いてある」と言えば良いのではないだろうか。このブログでは、一貫して「聖書の言葉」としている。

【使用例】

現状  :「みことばにより頼みましょう」

おすすめ:「聖書の言葉を読んで、学び、それをベースに生きましょう」

 

  

▼専門用語2:「みこころ」

f:id:jios100:20190212231805j:plain

 「みこころ」。また「み」がつくシリーズである。漢字で書けば「御心」で、「神のこころ」という意味である。ただ、文字通りの「神のこころ」ではなく、意味としては「神の計画」という意味である。クリスチャンは、神の計画に従って生きたいと願っているため、この「みこころ」が何か、常に気にしている。その姿勢は良いが、この「みこころ」という言葉がどうにも引っかかる。「みこころ」とか言っているひとは大抵、自分の「おこころ」なのである。

 こんな、まどろっこしい言葉を使わずに、普通に、「神の計画」と言えばいいのではないだろうか。「運命」でもいい。神が全てを司っていると信じるならば、だ。クリスチャンでない人が神さまの言うとおりと言っている方が、よっぽど「みこころ」を求めていると思う。

 ところで、この「みこころ」という言葉は、「神が定めた結婚相手」のことを指す場合もある。それについては過去に記事を書いたので参考にしてほしい(記事はこちら)。

【使用例】

現状  :「この人はみこころの相手でしょうか。教えてください」

おすすめ:「全てにおいて、神の計画を求めます。従えるように助けてください」

 

 

▼専門用語3:「教会」

f:id:jios100:20190212232135j:plain

 「教会」という言葉は、中国語からの造語である。元々の言葉は、ヘブライ語では「ケヒラー」ギリシャ語では「エクレシア」という。本来の意味は「集会・共同体」。つまり、「教会」とは「教会堂」の建物を指すのではなく、コミュニティそのもの、その人間関係そのものを指すのである。

 そもそも、互いに助け合うクリスチャンのコミュニティが「ケヒラー・エクレシア」だったのにも関わらず、それを「教える会」としてしまった翻訳者は罪深い。当時の聖書翻訳者たちは、中国語の聖書を過信しすぎていた。翻訳者がなまじ漢文に精通してしまったばかりに、中国語の用語をそのまま日本語に転用してしまったのである。その結果、本来の意味が失われてしまった用語は他にもたくさんある。教会、洗礼、悪魔、愛、神、などなど、実は聖書の根幹に関わる用語は、ほぼ全て中国語からの転用で、しかも意味合いとして間違ってしまっているのである・・・(※これについては別途記事を書く予定)。

 日本人が「教会」と聞くと、まっさきに「教会堂」を思い浮かべてしまう。広辞苑をひいても、「教会」は「教会堂」のこととされている。全く違う。本来は共同体を指すのだから、例えるなら、「教会」は「自治会」であり、「教会堂」が「公民館」である。自治会に行く」とは言わない。「自治会の集まりに行く」と言う。「教会に行く」というのは、本来、日本語として間違っているのだ。「教会の集まりに行く」と言えば良い。英語はそのへんの区別がしっかりできていて、「church」は「共同体」を指し、「the church」は「教会堂」を指す。

 そんなカンチガイをただすためにも、私は「集会」とか「教会の共同体」とか「チャーチ」とか呼ぶようにしている。「教会」という言葉が定着してしまっている以上、言葉を完全に変えるのは、なかなか困難だが、「コミュニティ」こそ教会の本質だと知っていただきたい。

【使用例】

現状  :「教会に行く」

おすすめ:「教会の集まりに行く」「教会の共同体の集まりに行く」「チャーチに行く」

 

 

▼専門用語4:「賛美」

f:id:jios100:20190212232437j:plain

 「賛美」という言葉は、おそらくクリスチャンの会話以外では、ほとんど出てこないだろう。一般の日本人は「賛美歌」は知っていても、「賛美」は知らないからややこしい。クリスチャンではない人から、よく聞かれる質問として、「教会で何をするの?」というものがある。その際、私は「賛美歌をみんなで歌ったり、一緒に祈ったり、聖書の話を聞いたり、教会の仲間とグダグダしたりするよ」と説明する。「賛美歌」は、どうしてもクリスマスキャロルのようなイメージがあるため、「賛美歌といっても、最近はギターとかドラムを使ったバンドっぽい賛美歌もあるんですよ」と説明する。非常にややこしい!!!

 これは、百聞は一見にしかずなので、一度来てもらった方が分かりやすいだろう。私も、「賛美」に代わる単語は開発できていない。「賛美歌」なら日本人は分かるので、いわゆる「ワーシップソング」を説明したい場合は、「賛美歌だけど、ちょっと現代的バージョン」とか、「ゴスペルに近いけど、ちょっと違うパターンのやつ」とか、言葉で説明するしかあるまい。ただ、言えるのは、「賛美」という単語だけでは、クリスチャンではない人は、一言では分からないのだ。

【使用例】

現状  :「さぁ、みんなで賛美しましょう!」

おすすめ:「さぁ、みんなで神様スゲー、イエス半端ない! って言うために、賛美の歌を歌いましょう!」

 

 

▼専門用語5:「感謝だねぇ」「恵みだねぇ」

f:id:jios100:20190212232800j:plain

 「感謝だねぇ」「恵みだねぇ」。クリスチャンの中には会話の中身をほとんどこの言葉で終わらせてしまう人も少なくない。

 クリスチャンではない会社の同期に、こう質問されたことがある。「なぁ、”クリスチャンあるある”言って」。困った私はとっさに、「何か良いことがあったら、『こんなことがありました。感謝です』って言って、その受けとして『感謝だねぇ』って言うんだよ」と伝えた。一同、大爆笑。「感謝だねぇ」という言葉が、同期内で一時期、流行した。

 クリスチャンでない人にとって、これは笑える話なのかもしれない。しかし、クリスチャンの間では、本当に頻繁に耳にするやりとりだ。神が私の人生に働いてくれた。だから、神に感謝したい。その気持を込めての「感謝です」である。 それを聞いた人も、「それは真に感謝なことだ」と同意を示す。結構なことだと思う。神の権威を認め、それに感謝を示す、とても良いやりとりだと思う。

 問題は、この本来良いもののはずのやりとりが、クリスチャンでない人から見ると、とっても気持ちが悪いという点である。どうも偽善者っぽい。使われ方を見れば、さしずめ、「感謝だねぇ」は「良かったねぇ」と同義なのある。クリスチャンでない人から見たら、それはただの偽善か無関心と映るだろう。大切なのは、「感謝」の一言で会話を終了せず、「なぜクリスチャンはこの状況で感謝したのか」と丁寧に説明する姿勢なのだと思う。

 「感謝だねぇ」より意味が分かりづらいキラーワードが、「恵みだねぇ」である。意味として、「神様が働いた結果、そうなったのだ。神様は恵み深いお方だ」と言えば間違いないだろう。

 この言葉を使うのは、「感謝だねぇ」同様に、神の主権を認めているという点で、とても良いことだと思う。しかしながら、なんでもかんでも「恵みだねぇ」「感謝だねぇ」と言い続けてしまうと、簡単に思考停止してしまう。なぜそれを恵みだと感じたのか、常に言葉にするのも大切なのではないだろうか。

 何より、一番の「恵み」は、イエスが十字架で私たちのために死んだことである。それより大きな恵みなどない。その本質からずれないためにも、何が「恵み」なのか、きちんと言語化し、把握することが必要であろう。

【使用例】

現状  :「こんなことがありました。感謝です」「感謝だねぇ」

おすすめ:「こんなことがありました。神様の助けがあってのことだと僕は思います。神様に感謝したいです」「本当に良かったですねぇ。神様に感謝しましょう」

 

 

▼専門用語6:「交わり」

f:id:jios100:20190212233137j:plain

 「交わり」。クリスチャンではない人が聞いたら、ドキリとするのではないだろうか。中には、「性的な交わり」のニュアンスで捉える人もいるかもしれない。クリスチャンの世界で、「交わり」とは、簡単に言えば、「一緒に時間を過ごして、おしゃべりすること」である。まぁ、「お話すること」と言っちゃえば間違いない。

 この「交わり」という言葉がどこから着ているのか、甚だ疑問だが、とにかくそういう単語が定着している。英語ではfellowshipフェローシップ)とも言う。教会の共同体で、人々が集まる最大の目的は、この「交わり」である。この「交わり」を通して、お互いの知らない神の姿を知る。お互いの知らない聖書の知識を共有する。誰かが人生でつまずいた時に、手を取り合って支え合う。お互いに戒め合って、人生の照準を神に合わせていく。それが、この「交わり」の目的であり、クリスチャンが共同体を必要とする理由である。

 それほど大切なものなのだから、やはりその意図が言葉から伝わらないのはもったいない。かといって、これも別の言葉が見つからない。いや、あえて名付けなくて良いのではないか。「ぐだぐだしようぜ」「おしゃべりしようぜ」「お話しましょ」「ご飯いきましょ」「お茶飲みましょ」でいい。大切なのはその会話の中身であって、「交わり」という言葉ではない。

【使用例】

現状  :「礼拝の後に、交わりの時間を持ちましょう」

おすすめ:「礼拝会終わったら、昼飯いこーよ」 

 

 

▼専門用語7:「ノンクリスチャン」

f:id:jios100:20190212233417j:plain

 「ノンクリスチャン」。これは文字面からだいたい分かるかもしれないが、「クリスチャンではない人」を指す。しかし、このラベリングはとても危険だと私は思う。「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」の二元論に陥る危険性があるからだ。まだイエスを信じていない人を「ノンクリスチャン」と呼び分けることで、無意識の壁が両者の間に生まれてしまう。

 また、この呼び方は、非常に愛がない呼び方だと思う。「あなたは違う」と言われて、良い気がする人はいないだろう。また、「クリスチャンにしてやろう」と狙われている気もする。ここは、こんな英語を使わず、普通に「クリスチャンでない人」とか、「●●さん」とか呼べばいいのではないだろうか。

【使用例】

現状  :「ノンクリスチャンの友達が言ってたんだけどね・・・」

おすすめ:「友達の●●君が言ってたんだけどね・・・」

 

 

▼専門用語8:「兄弟姉妹」

f:id:jios100:20190212233649j:plain

 教会に行くと、メンバーのことを「兄弟」とか「姉妹」と呼ぶ場合がある。教会によっては、「佐藤兄」とか、「鈴木姉」といったように呼ぶところもある。正直マジ気持ち悪くない? 初めて教会に足を踏み入れた人は、この教会は一体何人家族なんだろうと思うだろう。

 詳しくは別記事を各予定だが、これは、同胞(聖書の場合はユダヤ人)のことを「兄弟」と呼ぶ中東特有の文化を理解できない人たちが、誤って解釈してしまったヘンテコ文化だ。エスを信じたクリスチャンたちは、精神的、霊的にイエスとつながっているので、その意味では、精神的な「兄弟姉妹」ではある。イエス自身も、「わたしの思いを成し遂げる者が兄弟である」と述べている。

 しかし、教会の文化を知らない人が、教会の人々を「兄弟」とか言うのを聞いたら、少なくとも日本の文化背景においては、とても奇妙な感じがするだろう。教会によっては男性の信者を「兄弟」女性の信者を「姉妹」と呼ぶが、気持ち悪いので止めたほうがいい。一人ひとりに素敵な名前があるのだから、敬意を込めて「佐藤さん」「鈴木さん」で良いじゃあないか。牧師だろうが宣教師だろうが、「~さん」でいいだろう。その呼び名が日本の文化に最も適切に当てはまる呼び方だと、私は思う。

【使用例】

現状  :「それでは、礼拝の司会は兄弟に努めていただきましょう。佐藤兄がいいですね。」

おすすめ:「それでは、礼拝会の司会は、誰か男性に努めていただきましょう。佐藤さんがいいですね」

 

 

▼専門用語9:「アイスブレイク」

f:id:jios100:20190212234012j:plain

 「アイスブレイク」。これはクリスチャン特有の用語ではないが、よく使われる言葉なのでピックアップした。クリスチャンの集会などに行くと、たいていのケースでは冒頭に先程の「賛美の歌」を何曲か歌って、その後で「はい、次はアイスブレイクで~す」というケースが多い。この「アイスブレイク」とは何だろう。Wikipediaにはこう書いてあった。

【アイスブレイク】

アイスブレイクとは、初対面の人同士が出会う時、その緊張をときほぐすための手法。

 そう。アイスブレイクとは集会の始めに、「みんなで仲良くなりましょうね~」というイベントなのである。文字通り、お互いの心にある「アイス」(氷)を「ブレイク」(壊す)のである。自己紹介ゲームなど、簡単なゲームなどを行う場合が多い。確かに、初めて会った人同士で、いきなり深い話をするのは難しいから、そういったゲーム等で緊張をほぐすのは良いアイディアだ。

 問題は、わざわざ「これからアイスブレイクやります」って言う必要があるのか? という点だ。これは、「みんなあんまり仲良くないので、仲良くなるためのゲームをします」と言っているようなものだ。そんな発言をわざわざする必要が、どこにあるのか。企画段階はともかくとして、本番で言う必要がどこにある。ここは素直に、「今から●●ゲームしま~す!」と言えばいいだけの話だろう。

【使用例】

現状  :「これからアイスブレイクします!」(すなわち、「今ボクたちは仲良くないので、少しでも仲良くなるためのゲームをします!」と、言っているのと同義)

おすすめ:「これから●●ゲームしま~す!

 

 

▼専門用語10:「伝道集会」

f:id:jios100:20190212234243j:plain

 「伝道集会」。これも、アイスブレイクと似たものだ。しかし、もっと深刻なものである。「伝道集会」とは、まだイエスを信じていない人たちを招待して、少しでもイエスを知ってもらおうという催しである。大抵の場合、音楽の演奏や、ダンスや寸劇の披露、聖書の簡単な話があったりする。大好きなイエスを伝えようとして、このようなイベントを開催するのは、とても良いことだ。

 しかし、そのネーミングが問題である。「伝道集会」と銘打ったイベントに、誰が参加したいのだろうか。クリスチャンの文化に慣れていない人たちにとって、「あなたにイエスを伝えます!」という意思バリバリの人たちは怖いだけだ。このようなネーミングをつけたイベントに誘われた人は、「入信させられるの?」と不安になるだろう。このようなネーミングでは、来たいと思うのはクリスチャンだけである。なんて内向きな業界だろうか。

 集会のネーミングなど、キャッチーなものなら何でも良いが、この「伝道集会」だけはいただけない。イベントにふさわしい、キャッチコピーをつけたらどうだろうか。ちなみに、巷では誰も知らない牧師たちの顔をチラシに並べても逆効果だから、即刻止めたほうがいい。クリスチャンを集めたいのなら、話は別だが。

 

 

▼内向きはやめようね

f:id:jios100:20190212234546j:plain

 いかがだろうか。今回は、簡単に10の言葉だけ紹介した。他にも、「アーメン」「ハレルヤ」「救われる」「長老」「執事」「説教」「信仰告白」「異邦人」等々・・・例を挙げれば枚挙にいとまがない。

 言葉の使い方なんでどうでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。否。そんなのどうでもいいからこそ、その言葉の意味が分からない人に寄り添う必要があるのではないか。専門用語ばかり使っているのは、実はその実情が分からない人たちにとっては、冷たい行為なのである。クリスチャン界の人々は、そのような「内向きの姿勢」から、立ち直り、方向転換する必要があると、私は思う。共通の言語を使わなければ、お互いの間に壁ができてしまうのは必至である。

 

ですから、もしその言語の意味が分からないなら、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人ということになります。

(コリント人への手紙第一 14:11 聖書協会共同訳)

 

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?!

クリスチャンたちは、牧師など、特定の人たちを「献身者」と呼びますが、その呼び方って謎じゃありませんか? 

 

▼「献身者」とは

f:id:jios100:20190130002146j:plain

 教会に行くと、耳慣れない「クリスチャン用語」が様々飛び交っている。このブログは、そのようなクリスチャン用語の謎を種々取り上げてきた。今回は、「献身・献身者」というワードを見ていきたい。

 教会では、「将来は献身したい」といった言葉や、「献身者と結婚したい」などといった声が聞こえてくる。「献身・献身者」とはどのような意味なのか。その言葉の使われ方を見ていくと、どうやらクリスチャンたちの間で「献身」という言葉は、「フルタイムの牧師や宣教師になる」という意味らしい。

 言葉を論じるのだから、まずは日本語の意味を見なければならない。広辞苑の第六版によれば、「献身」とは以下のような意味である。

けんーしん【献身】

身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲。

 

 なるほど。クリスチャンがこの用語を使う場合は、「神に身を捧げて尽くすこと」「自己の利益を顧みないで、神のために力を尽くすこと」という意味と捉えて間違いないだろう。ここで、当然、「牧師や宣教師以外は献身者ではないのか?」という疑問が出てくるのは当然だ。牧師や宣教師にならなければ、「自分のために」生きていることになってしまうのだろうか。牧師や宣教師だけが「献身者」なのだろうか。今回はそのような疑問に迫っていきたい。

 

 

▼聖書のいう「献身」とは?

f:id:jios100:20190130002320j:plain

 まず、「聖書のどこに牧師や宣教師だけが『献身者』である書いてあるのか?」というのが一番大切だ。このブログの賢明な読者なら、既にお分かりかと思うが、そんな記述は全くないのである。そもそも、「献身」という言葉自体、聖書に全くない。衝撃の事実。「献身、献身」と言っている人々は、聖書に記述が全くない言葉に騙されてしまっているのである。かわいそう!

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。いくつか「献げる」(ささげる)という言葉をキーワードとして、聖書の言葉をピックアップしてみた。

【1:あなた自身を神に献げよ】

あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。

(ローマ人への手紙 6:11~13)

【2:あなたのからだを神に献げよ】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

【3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ】

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司(直訳:祭司団)となります。(中略)しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙 2:5~9)

 

 いかがだろうか。これら全ての聖書の言葉に共通するのは、「あなたを神に献げよ」という言葉である。「牧師や宣教師が、神に人生を献げた人だ」とは一言も書いていないのである(※そもそも、「牧師」という単語自体、聖書に出てこない。「牧者」という単語だけ1回登場するが、なぜか「牧師」と意図的な意訳がされている)。

 それぞれの言葉を文脈からもう少し解説する。

1:あなた自身を神に献げよ

エスを信じる者は、イエスと同時に霊的に死んでいる。そしてイエスが蘇ったと同時に生きている。もはや新しい人生なのだから、今までのような自己中心的な生き方ではなく、神が喜ばれる生き方をせよ、という文脈である。

2:あなたのからだを神に献げよ

エスに信頼する者は、いつでも、どこでも、何をしていても、金太郎飴を切ったようにイエス大好きモードで生きるのである。その人の「生き方」が「礼拝」になる(※詳細は、こちらの記事を参照)。心も身体も神のために、目の前の一人の人のために生きるようになる。

3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ

これは、いわゆる「万人祭司」という考え方の根幹になっている聖書の言葉である。今までは、特定の部族に生まれた特別な人たちだけが、神にいけにえを捧げることができた。しかし、イエスが完全ないけにえとして死に、聖霊が信じる者たちに与えられて以降、イエスを信じる全ての人が「祭司」となった。エスを信じる全ての人が、聖霊によって神とつながり、神の素晴らしさをこの世に現すことができるようになったのだ。ゆえに「祭司団」と言うのである。

 

 このように、聖書が教えているのは、イエスを信じた者が、誰であれ、今までの生き方から方向転換すること。誰であれ、神に信頼する「生き方」をしなさいということ。誰であれ、神の素晴らしさを世に現せということである。決して、「牧師や宣教師などの特定のリーダーだけが、神に人生を献げよ」となど言っていない。エスを信じる人全員に対して、このように聖書は勧めているのである。クリスチャンは牧師や宣教師を目指すのみならず、むしろ、今のあなたの立場、仕事、生き方を通して、いかにイエスを喜び、伝えていくのかが求められているのではないだろうか。

 

 

▼あなたの人生は神のもの

f:id:jios100:20190130003405j:plain
 先に挙げた3つの聖書の言葉から読み取れるのは、「イエスを信じた人は、その瞬間に一度死んで、生き返っているのだ」という価値観である。実は、もう一つ大切な価値観がある。それは、「イエスを信じた人の命は買い取られている」というものだ。次の聖書の言葉を見ていこう。

人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

(マルコの福音書 10:45)

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

(コリント人への手紙第一 6:19〜20)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(コリント人への手紙第一 7:23)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

(テモテへの手紙第一 2:6)

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。

(テトスへの手紙 2:14)

 

 「贖う」という言葉は少し難しいが、辞書をひくと「あるものを代償にして手に入れる。買い取る」とある。つまり、私たちのいのちや人生は、イエスのいのちを「代価」として、買い取られたのである。聖書は、イエスを信じる者のいのちは、既に神のものであると教えている。なんとびっくり、クリスチャンは自分の意志で「献身」などできないのである。なぜなら、クリスチャンの人生は、既に神のものであり、自分のものではないからである。逆に言えば、牧師や宣教師だけでなく、全てのクリスチャンが、既に神に人生を捧げている献身者なのである。

 牧師や宣教師だけが「献身者」なのではない。職業は関係ない。全てのクリスチャンが「献身者」というマインドを持って、生きるべきなのである。

 

▼クリスチャンの責任は重大

f:id:jios100:20190130002947j:plain

 全てのクリスチャンが「献身者」ーー。この事実は、クリスチャンの人生の責任を明示しているといっていい。多くのクリスチャンが、「牧師や伝道師」だけに責任を求め、あぐらをかいて生きている。とんでもない。あなたも、神に人生を買い取られた者として、責任を持って生きるべきなのである。

 クリスチャンは、いつでも、どこでも、何をしていても、神の素晴らしさを現す生き方をするよう、聖書はオススメしている。

心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 

 クリスチャンは、以下のようなマインドで生きるべきである。悩んだりクヨクヨせず、明るく、ハッピーに喜んで生きるよう聖書はオススメしている。また、聖霊を否定したり、神から語られた言葉を無視してはならない。あらゆる悪から離れる必要もある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:16〜22)

 

 クリスチャンは、聖書の言葉を伝え続ける必要がある。状況は関係ないし、立場も関係ない。聞くだけではなく、自らが学び、伝える必要がある。以下の聖書の言葉は、一義的にはテモテというリーダーの一人に語られた言葉であるが、こういう時代になるという指摘や、みことばを伝えよという命令は、現代の私たちが受け取っていい言葉だろう。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の努めを十分に果たしなさい。

(テモテへの手紙第二 3:2〜5)

 

 立場や職業に関係なく、聖書がオススメする生き方を実行する。それがクリスチャンにとって大切だ。どこにいても、何をしていても、神の素晴らしさを生き方を通して現す。それが、「献身者」たるクリスチャンの姿ではなかろうか。聞くだけで、何もしない者にならず、立場に言い訳をせず、どこを切っても金太郎飴のようなイエス大好き人間になろうではないか。

 

 

▼おまけ:「献身者」だから貧しいという嘘

f:id:jios100:20190130003446j:plain

 一部の牧師や宣教師、またはそれらの職業を目指している人々の中には、「自分は献身者だから貧しい」、または「献身者は貧しくなければならない」という価値観を持っている人がいるように思う。ハッキリ言う。それは嘘だ。これについては、後日別途記事を書こうと思っている。

 確かにイエスは、「神にも仕え、富にも仕えることはできない」と言っている。しかし、それは、等しくクリスチャンは貧しくなければならないという意味なのだろうか。聖書を読むと、そうではないように思う。神によって経済的に祝福された者もいれば、貧しかった人もいる。それぞれに、神の定めた生き方がある。パウロは、「自分の手で骨折って働け」と命じているし、自分自身も人から金をもらうことなく、自費で生活していた。

 聖書は決して、「クリスチャン、特にリーダーたちは、貧しくなければならない」などと教えていない。いたずらに「教会リーダーは貧しくあるべき」という考え方が蔓延しているのは、カトリック「清貧」という間違った文化が根付いてしまっているからだろう。このような嘘に騙されず、自分の手で働き、生活を営み、持っている者は持っていない者を互いに支え合うべきである。詳しくは、近いうちに記事を書こうと思う。

 

(了)

【就活イエス8】「法律で人を助ける」中山基義@弁護士

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第8弾は、中山基義さん!

f:id:jios100:20190121164120j:plain

【Profile】

名前:中山基義(Kiyoshi Nakayama)

生まれ:1993年

出身:埼玉県さいたま市

学歴:ホームスクール→一橋大学卒業→一橋大学法科大学院

職業:弁護士

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしく!

 f:id:jios100:20190121170749j:plain よろしく~。

f:id:jios100:20180905032057j:plain きよしには、「ホームスクーラー」(※学校に通わず、家庭などで勉強する人たちのこと)の仲間として、たくさん聞きたいことがあります!

f:id:jios100:20190121170749j:plain もちろん。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いきなりだけど、学校行ってないのに、一橋大学入って、弁護士になるってスゴイね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain まあまあ。神様のおかげです。ほんと。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日は、どうして弁護士目指したのかとか、ホームスクールでどうやって勉強していかとか、いろいろ聞かせてください!

 

 

▼大学まで「学校」に行ったことがない

f:id:jios100:20190121164147j:plain

↑7歳のころの可愛いきよしくん。

f:id:jios100:20180905032057j:plain きよしは、ホームスクールはいつからやっていたの?

f:id:jios100:20190121170749j:plain 僕は大学に入るまでは、「学校」というものに行ったことないんだよね

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ。マジで。それは親の方針で?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そうだね。姉が小学校2年生のときにそういう方針に決まって。当時僕は幼稚園に通う年齢かな。でも、そもそも幼稚園も行ってなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へええ。学校に行かないことには疑問は抱かなかったの?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そうだねぇ。自然な成り行きだったね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 学校に行きたいと思ったことはないの?

f:id:jios100:20190121170749j:plain 多少はあったかなぁ。小学校の頃は夕方に、学校が終わった友達と遊んだりしてたんだけど、中学に入る年齢になると、友達はみんな部活が始まって遊べなくなったんだよね。その時は、友達に会いたいから、学校に行きたいなぁと思ったりはしたな。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、親に従って文句は言わなかった。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain あからさまに反抗したことはないかな。夏休みじゃない期間、つまり学校に行っていれば行けない時期に、アメリカとか海外に行かせてもらったりもしたから、いろんな経験をさせてくれた親には感謝してるよ。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain 勉強はどうやっていたの? 学校行かないで一橋に入れると思わないじゃんフツー(笑)。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain ははは。小学校2年までは、アメリカのテキストを使ってたよ。でも英語だから、母親の負担が結構大きくて、結局それはやめた。途中から小学校の教科書とかテキストを使っていたよ。あとは「進研ゼミ」

f:id:jios100:20180905032057j:plain 出た。「これがテストに出るよ!」ってやつね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain (笑)。進研ゼミは高校1年まで続けたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それ以降は?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 高校1年はテキトーにやってた。高校2年から、ギアを上げるために東進ハイスクールに入会したよ。まぁビデオなんだけどね。自習室が使えるから、家で勉強するより集中できるかなと思って通ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そっかぁ。僕は高校の数学でつまずいたんだけど、発展問題も難なくできたの?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain いや、国公立の試験は8割方、基本さえできてれば大体受かるから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 頭のいいやつの反応だコレ!

 f:id:jios100:20190121170749j:plain ははは。まぁ、過去問を使って随時学んでいくようにしていたかな。とにかく基本を大切にしてた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語ではつまずかなかったの?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 大受験用の難しい問題は分からなかったなぁ。そういう意味ではつまずいたのかも。

 

 

▼弁護士を目指して ~法律は人を助ける~

f:id:jios100:20190121164432j:plain

f:id:jios100:20180905032057j:plain 一橋を受験した理由は?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 国立大学に行きたいというのはあったね。家庭の事情で、私大よりは学費のかからない国公立の大学を目指してた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最初から一橋志望?

f:id:jios100:20190121170749j:plain いや、最初は地元の埼玉大学を目指していたんだけど、模試の結果とか見て、もっと上に行けるかなと思って。それで、東大を目指して頑張ってたんだけど、センター試験の結果が思ったより伸びなくて。いわゆる「足切り」には届いていたから、行けなくはなかったんだけどね。もっと上の人たちがいる中で、正直、東大は五分五分だった。だから確実なラインの一橋にしようと。家庭の事情もあって浪人は避けたかったんだよね。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain 堅実だなぁ・・・(みなさん、この人楽勝で受かったみたいに言ってますけど、中学校の年の頃から常に単語帳を持ち歩いて勉強していた、勉強の鬼です・・・)。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 弁護士になりたいと思ったキッカケは?

f:id:jios100:20190121170749j:plain 元々、祖父が弁護士だったというのが大きいかな。小さい頃から、「弁護士」という職業には馴染みがあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇええ。僕は逆転裁判(というゲーム)で初めて知ったよ、弁護士という職業。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 異議あり!」でしょ(笑)。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それそれ(笑)。きよしには身近な職業だったんだ。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そうだね。おじいちゃんがよく弁護士の漫画みたいなのをくれたりとかもしていたんだよね。祖父は古い人間だからというのもあるけど、「仕事をするなら弁護士か医者だ」という考えの人だった(笑)。最初は、「ふーん」ぐらいに思っていたけど、小学校6年生ぐらいに、「民法」の本を読んで、「面白いな」と思って、だんだん弁護士を本気で目指すようになったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで法学部を目指した。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そう。でもその頃はまだ弁護士もアリかもしれないなあってぐらいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 本気になったのはいつ?

f:id:jios100:20190121170749j:plain 高校3年の時、進路を決めなきゃいけなくなって。自分はホームスクールで、学校に行ってないから、何か資格を取った方がいいなと思って。それで、弁護士か公認会計士になろうかなと思った。それで、勉強していったら、会計士より法律の方が、自分にとっては面白いなと。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 法律が自分に向いていると。

f:id:jios100:20190121170749j:plain そう。法律と会計、両方の基礎的な本を読んで、数字より言葉を扱う方が面白いなって思ったんだよね。それで法学部に入った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学の勉強はどうだった?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 大学で法律を勉強していく中で、「法律は人を助けるツールになるんだ」と感じたよ。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生を左右するもんね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain どういう手段で人を助けるかにもよるけど、「法律で人助けができる」と思ったんだよね。それが弁護士を目指した最終的な理由かな。

 

 

▼「予備試験」に合格 ~挫折を乗り越えて~ 

f:id:jios100:20190121165813j:plain
f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学のときに「予備試験」に受かったんだよね?

(※予備試験:法科大学院修了程度の知識・能力があるかを判定する試験。本来弁護士になるための試験、「司法試験」は、大学院を修了しないと受験できないが、「予備試験」に合格すれば大学院を修了しなくても受験できる。大学在学中に受かるのはめちゃんこムズいぞ!)

f:id:jios100:20190121170749j:plain たまたまね(笑)。正確には大学院1年のときね。大学のときも予備試験は受かるつもりだったんだよ。予備試験の模試で全国2位だったんだよね。こりゃ絶対受かるなと。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すご。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain でも、慢心したのがいけなかった。本番は3点差で落ちてしまった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain げげげ。絶対に受かると思ってたのに落ちたらショックだよねぇ。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain うん。でも、これが、神様の前にへりくだるキッカケになったよ。1年後、大学院のときに再チャレンジして、合格。大学院にはもう行く必要がなかったから、卒業せずに途中でやめた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ひょえ~~~。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 神様はいつも、人をへりくだるようにしてくれる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そっかぁ・・・ところでさ、「名探偵コナン」で、小五郎のおっちゃんの奥さんが弁護士じゃん?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain うん(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「六法全書を全部覚えてる」って設定なんだけど、きよしも覚えてるの?(笑)

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そんなことないよ(笑)。基本的な法律の、基本的な概念は覚えるけどね。大体の場合は、事件が来たら、関連する法律や、判例を勉強して対応するっていうのが現実かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そっか。さすがに全部暗記してたら、コナンくんもびっくりだわな。

 

 

▼受験当日に激痛が・・・ 〜へりくだるキッカケ〜 

f:id:jios100:20190121164550j:plain

↑勉強机からは、努力の跡がうかがえる

f:id:jios100:20180905032057j:plain きよしの家族はみんなクリスチャン?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そうだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain イエスの存在を疑ったことはない?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そこまではないかなぁ。予備校に通っているときに、いろんな世界観を知る中で、「キリスト教もひとつの考え方だ」と言われてね。ひょっとしたらそうなのかなと思ったことはあった。受験っていうのも、自分の力で努力するっていうのが当たり前の世界だから、受験勉強中は、神様の存在が、自分の中でそこまで大きくなくなってしまっていたのは事実かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分の人生は自分次第だと。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain うん。振り返ると、当時は「自分の努力次第じゃん」っていう考え方に陥っていたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それが変わったのはいつ?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain それがね、受験の当日。大学受験で、一橋の二次試験の当日の朝に、起きた瞬間に、めちゃくちゃな腹痛に襲われた。目が見えなくなるくらい。視界がブラックアウトして、バタンと倒れたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まじで?!

 f:id:jios100:20190121170749j:plain うん。マジで経験したことない痛み。激腹痛。親はあわてて救急車を呼ぼうと。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そりゃそうだ。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain その時は受験当日なのに、なぜ今、、、って考えたね。親も多分そう思ってた。本当にヤバイ状況。僕はもうパニックになってた。

 f:id:jios100:20180905032057j:plain パニック以前に命の危険が・・・

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 本当にそう。まじでヤバイ状況だったんだけど、その時に、母親に「まずはお祈りしよう」って言われてね。それで、そばでずっと祈ってくれてた。そしたら、30分後ぐらいにだんだんと痛みが引いてきてね。救急車も結局乗らなくてよくなった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジか。祈りが聞かれたんだね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そう。しばらくしたら受験会場に行けるくらい回復した。その時に、また母親が祈ろうって言ってくれて。僕も素直に祈った。その時めっちゃ感じたのは、「自分の力で何かを成し遂げようとしていたな」ということ。そのとき、結局、神様の力がなければ何もできないんだと確信したよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 文字通り、「痛感」したんだね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain ・・・その時に、本当に悔い改めた。自分の努力、自分の力に依り頼んできてしまったことに対して、神様に赦しを祈った。腹痛が癒やされた後に、「これは神様が与えてくださったチャンスだ」と思って、受験も神様の力に委ねた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まさに身をもって体験したんだね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そう。実際、痛い経験だったけど、それを通して神様が語ってくれて、神様の存在を感じることができた。神様に頼って生きていくということを、身をもって知ったっていうのは大きいかな。

 

 

▼企業弁護士を選んだ理由

f:id:jios100:20190121164507j:plain

↑今年1月から正式に弁護士としてデビュー

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今は、何の専門の弁護士をしているの? 弁護士といってもいろいろあると思うけど。

f:id:jios100:20190121170749j:plain そうだね。刑事事件を担当する弁護士もいれば、一般民事を専門にする弁護士もいるし、企業内弁護士もいる。僕は、企業関連の案件を専門に担当する法律事務所で働いているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。企業側の仕事を選んだ理由は?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 元々、英語に関わる仕事をしたかったんだよね。英語を活かす仕事をしたかった。一般の民事裁判の仕事で、英語を活かす仕事はなかなかできない。だったら、企業側の仕事がいいのかなと。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。企業ではなく、一般の方向けの弁護士をやることは考えなかったの?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 個々の弱い人を助ける一面もあるから、それもちょっと考えたんだけどね。でも、訴訟できる一般の人ってなかなかいないんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに。訴えてやる! って言っても、実際に実行する人は少なそうだね。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 企業側の仕事は、企業の利害関係と個人の利害関係が直接結びついていないから、冷静な話し合いをしやすいんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・なかなか難しい話だね。司法試験に受かったら、いきなり弁護士なの?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain いや、1年、「司法修習生」として研修をするよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほう。1年も! 研修の内容は?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 法律に関わる仕事、「法曹」と呼ばれる仕事は基本的に3種類。「弁護士」「検察官」「裁判官」の3つ。この全ての研修を受けなきゃならない。検察だと、取り調べ。実際にやったりもするよ。捜査みたいなことを、検察官と連携してやったりもする。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジか! 取り調べもやるんだ。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そう。裁判所だと、さすがに研修生が裁くわけにもいかないから、法廷で傍聴が主かな。あとは、裁判の「打ち合わせ」にも参加したりもするよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ドラマのシーンとかであるやつだ!

 f:id:jios100:20190121170749j:plain そうそう。あとは、訴訟の訴状を書いたり。その他にも、講義をしたり、試験もあったりするよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へええ。司法試験に受かって、はい万歳! ってわけじゃないんだね。

 

 

▼クリスチャンとしての葛藤

f:id:jios100:20190121165727j:plain

司法修習生としての研修中

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今まで、働く中で、クリスチャンとして葛藤したことはあった?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 企業法務弁護士の中には、ビジネスに成功して、経済的に恵まれた人たちがいるんだよね。そういった人たちを見ていると、どうしても憧れが生じてきて、お金のために働く誘惑に駆られることがある。いつも人を助けるマインドで働く。それが神様の栄光を現すことになるという目的を忘れないようにしたいな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。お金に目がくらまないようにするのは、なかなか難しいよね。きよしのこれからのビジョンは何ですか?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain これは仕事と直接関係ないんだけど、結婚したので、イエスさまを中心にした幸せな家庭を築きたいかな。教会の共同体では、神様に仕える。仕事としては、どう神様の栄光を現すことができるか考えながらやっていきたいな。「人を助ける仕事」として、誠実に仕事をしていきたいと思っているよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうでした。ところで、きよしはこの若さ(25歳)で結婚したんだけど、お相手とはどう出会ったの?

 

f:id:jios100:20190121164641j:plain

↑奥様のゆみかさんと。左側は前回の「就活イエス」登場のサムエルさん。 

 

f:id:jios100:20190121170749j:plain 実は、妹の紹介で(笑)。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 紹介なんだ!

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 実はそうなんです(笑)。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごいね。でも、クリスチャンの友達に、「紹介しようか?」というと、ほとんどの人が乗り気じゃない感じがするなぁ。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 別に時期は人それぞれだけど、プライドが原因で出会えるはずの人に出会えなくなってしまったら悲しいなぁと思う。プライドがいろんなチャンスを無駄にしがちだよね。プライドがなければもっと社会で生きるの楽だろうなって思う。結婚に限らずね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain みなさん、聞こえますか・・・既婚者の格言が・・・

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 子どもができたらホームスクールしたいと思う?

 f:id:jios100:20190121170749j:plain 夫婦の相談次第だよね。妻はずっと学校に通っていたんだけど、子どもはホームスクールしたいとも言っているので、できるかもしれない。これからの課題だね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 僕は、父親があまり賛同しない中で無理やりホームスクールが始まったから、やっぱり苦労したなあ。両親ともに「やるぞ!」っていう意志があるのは大切だよね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後にいつもきよしが握っている聖書の言葉を教えてください。

 f:id:jios100:20190121170749j:plain いっぱいあるんだけど、この2つかな。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

(コリント人への手紙第一 8:2~3)

自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。

箴言 26:12)

 

f:id:jios100:20190121170749j:plain この聖書の言葉を覚えていないと、すぐ愚かな者になってしまうと思ってます!

f:id:jios100:20180905032057j:plain 謙遜という意味で、すごく大事な言葉だね。きよしのこれからの活躍に期待してます!

【疑問】なぜ「牧師夫人」というわけのわからない役職があるのか

教会に行くと、牧師の妻は、「牧師夫人」と呼ばれる場合が多いのですが、その呼び方はどこから来ているのでしょうか。

 

▼「牧師夫人」って何?

f:id:jios100:20190115222829j:plain

 教会の中で、牧師の妻を「牧師夫人」と呼ぶところがある。その名の通り、「牧師の夫人」を指す用語だ。教会によっては、この「牧師夫人」が特別な役職になってしまっているところがある。

 こんな話を聞いたことがある。いくつかあるので、引用のようにまとめた。

とある牧師のタマゴがいた。友人が、彼に「どういう女性を結婚相手として望むか」と尋ねると、彼はこう答えた。「牧師になりたいから、『牧師夫人』になるのにふさわしい女性かな」

とある牧師のタマゴがいた。彼には、結婚を前提にお付き合いしていた女性がいたが、ある日、その女性に「私は『牧師夫人』になれません。別れてください」と言われた。自分は「牧師夫人」にふさわしくないと、彼女自身が判断したのである。

とあるキリスト教団体があった。その団体に、新しいリーダーがやってきた。新リーダー自身の資質には、何の問題もなかった。しかし、ひとたび問題が起こると、そのリーダーではなく、「夫人」の資質を疑問視する声があがり、結局そのリーダーは、団体を去ることとなった。

 

 どれも、クリスチャンではない人が聞くと、とんでもないような話だが、全て実話である。果たして、この「牧師夫人」たる役職は、聖書に書いてあるのだろうか。もう答えはほぼ見えているのだが、今回はこの謎の「牧師夫人」問題に迫っていく。

 ちなみに書くが、「牧師夫人にふさわしい女性と結婚したい」と言った男性の将来の妻は、本当に苦労するだろう。可愛そうに・・・。世の女性に、そんな男とは絶対に結婚しないようアドバイスしたい。

 

 

▼もちろん聖書に記述などない

f:id:jios100:20190115223052j:plain

 さて、この「牧師夫人」という用語は、もちろん聖書に記述は一切ない。私の記憶違いだと困るので、実際に「牧師夫人」というキーワードで検索してみたが、ヒットはなかった。また、丁寧に「牧師」と「夫人」という2つのキーワードでも検索してみたが、こちらもヒットはなかった。聖書には、「牧師夫人」などという役職はおろか、記載さえ一切ないのである。

 では、「牧師夫人」という用語は使っていなくとも、リーダーの資質として、夫人の資質は問われているのだろうか。こちらも調べてみたが、強いて、強いて、強いて言うなら、ひとつだけ記述がある。それは以下である。

ですから、監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3:1~6)

 

 これは、監督者、すなわち牧師をはじめとした教会のリーダーたちに対しての資質である。つまり、夫人の資質ではない。しかし、太字にした「家族を治める」という点に関しては、夫のみの責任ではないから、妻にもその資質の一旦は問われる、と考えられなくもない。相当無理があるが。

 この聖書の言葉を適用するのであれば、「牧師夫人」に問われる資質はただひとつ。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」ということになる。

 しかし、現状、「牧師夫人」に求められている資質は多い。以下、私が考える、「世の中の教会・クリスチャンたちが『牧師夫人』に求めている資質」である(※太字は筆者が特に重要だとされていると思うポイント)。断っておくが、これは私が考えている資質ではなく、「世の中の教会・クリスチャンたちが求めている資質」である。お間違えのないよう。

【『牧師夫人』に求められている資質】

・クリスチャンである。

・聖書に精通している。

・ピアノが弾けることが望ましい。

・人の愚痴や相談を黙って聞いてくれる。たまに問題の仲裁に入ることができる。

・人あたりが良く、教会に来る人をもてなすのが上手。

・全ての生活において模範的である。

・黙って教会堂の掃除をしてくれる。

・料理上手。

・夫と運命的な出会いをしていて、その馴れ初めを模範的なストーリーとして語れる。

・何事においても適切なアドバイスができる。

・どこに住んでもやっていける精神力がある。フットワークが軽い。

・「教会に仕える」というマインドを持っている(わけがわからない)。

・24時間365日、教会メンバーの問題に対処可能。

・家庭、特に子育てに問題を抱えていない。

・いつも笑顔。

・精神的にも、肉体的にも健康である。

 

 ・・・いかがだろうか。こんなことを求められたのでは、確かに、例の女性が「私はふさわしくない」と辞退するのもうなずける。こんな人いねぇよ。

 「ピアノが弾ける」という項目に笑った人もいるかもしれないが、これはガチでよく言われるポイントである。教会の礼拝会で、オルガンやピアノ伴奏が必要だからである。ピアノができる人を条件に挙げる牧師のタマゴたちも少なくない。本当に笑ってしまう条件である・・・。

 安心してほしい。「牧師夫人」というものは、聖書に全く記述のない、人々が勝手に考え出した幻想なのである。男性も女性も、教会メンバーのクリスチャンたちも、「牧師夫人」に何か資質があるとか考える方がおかしい。むしろ、そう呼ぶことすら、ただの文化なのである。上に挙げた例は、全く「いわれのない」条件なのだ。

 

 

▼「牧師夫人」におんぶにだっこのクリスチャンたち

f:id:jios100:20190115223930j:plain

 ここまで書くと、まるで「牧師夫人」が悪いように聞こえるかもしれないが、実際は違う。実は、勘違いしているのは、いわゆる「教会メンバー」の方なのである。

 教会メンバーのクリスチャンたちは、何かと問題があると、「牧師」や「牧師夫人」に頼りがちだ。悩みを聞いてほしい。教会メンバー同士のいざこざを解決してほしい。どうしたらいいか、教えてほしい。そういった人間の弱さが、いつしか「牧師夫人はこうあるべき」という虚像を作り出しているのである。

 映画「パウロには、こんなシーンがある。舞台は、イエスの時代の少し後、イエスを信じるクリスチャンたちが大勢殺されていたローマである。当時のクリスチャンたちは、街から出るか、それとも留まるのか迷っていた。答えが出ない彼らは、牢屋に閉じ込められていたパウロに助言を求めた。スパイを牢屋に送り込み、パウロに次の行動を示してほしいと頼んだのである。しかし、パウロはこう言った。「神に祈れ。どうすればいいかは神が示す」と。

 おいおい、パウロさん、そりゃないよ。そうツッコミを入れたくなる場面だが、実はとても重要な教えがここに示されている。「人より、神に頼れ」という教えだ。パウロは一貫して姿勢を変えなかった。「答えは私が与えるものではなく、神が与えるものだ」。パウロは筋を通したのであった。

 クリスチャンたるもの、人ではなく神に答えを求めるべきだ。「牧師」や「牧師夫人」に頼りきりの人々の中には、果たして神に祈っているのだろうか。というか、いい大人なんだから、なんでもかんでも人に頼るのはいかがなものか。クリスチャンは神という、絶対に変わらず、ずっとそばにいてくださる、いや、心の中に住んでくださる絶対的な存在を知っているはずだ。であるならば、その神に祈り、答えを求め、たとえ明確な示しがなくとも、神に信頼して自分で決断して歩むことはできないものなのだろうか。何も分からない子どもじゃないんだから、神に頼りつつ、自分の足で歩め! と、私は言いたくなる。

 結局のところ、このクリスチャンの弱さ自体が、「牧師」や「牧師夫人」、ひいては教会や団体のリーダーたちに、いらないプレッシャーや責任感を与え、がんじがらめにしてしまっているのである。頼るだけならまだしも、「こいつは牧師にふさわしくない」とか「牧師夫人にふさわしくない」とか言い始めたら、ただの小姑である。「だったらお前がやれよ」と言いたくなる。

 聖書の教えはこうではないか。「互いに愛し合いなさい」。そこに、「牧師」だとか、「牧師夫人」だとかいう役職は、全く何も関係ない。

 

 

▼聖書は共同体に何を求めているのか

f:id:jios100:20190115224127j:plain

 では、共同体の中では、みながどのように行動したら良いのか。聖書の記述から、私のオススメをいくつか紹介する。

 

1:自分で聖書を読む

 このブログで何度か紹介しているが、聖書に「ベレア」という町が紹介されている。以下のように書かれている。

この町(ベレア)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことば(聖書の言葉)を受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17:10~11)

 

 この人々は、使徒パウロの言葉でさえも、ある意味で「疑い」、「非常に熱心に」、「毎日聖書を調べた」のである。権威のあるリーダーの言葉を、そのまま丸呑みするのではなく、聖書の言葉にその真理を見出そうとしたのだ。

 クリスチャンは、ベレアの人々に倣うべきである。自分で聖書の言葉を読み、自分で考えるべきだ。幸い、宗教改革以降、たくさんの言語に聖書は翻訳され、ほとんどの人が自分の母語で聖書を読むことが可能になった。もはや聖書学校に行かなければ聖書を学べないというのは、幻想である。私はよく「聖書学校(神学校)に通っていたの?」と聞かれるが、全く行ったことはない。このブログの記事程度のことは、自分で聖書を読めば分かることだ。

 21世紀を生きる私たちは、自分の言語で聖書を読み、自ら学ぶことができる。自分の言語で聖書が読める。いくつもの翻訳が出ている。索引がついている聖書もある。疑問があれば、インターネットで無限に調べられる。無料のアプリで、聖書の注解が読むことができるし、単語が何回使われているかも調べることができる。

 クリスチャンは、自分自身で聖書を読み、そこから学ぶべきである。

 

2:互いに教え合う

 自分で学ぶだけでなく、互いに教え合うのも重要である。「教会」という名の共同体があるのは、そのためだと言っても過言ではない。聖書にはこうオススメされている。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:11)

 

 牧師から一方的に教えを受けるのではない。あなた自身が学び、そして、互いに「知恵を尽くして教え、忠告し合う」必要がある。互いに教え合い、励まし合うのが、共同体の目的である。これは、「牧師」や「牧師夫人」だけに命じられたことではない。イエスに信頼する全員に語られた言葉である。

 

3:互いに愛し合う。

 教え合うだけでは物足りない。イエスの教えは何だったか。今一度振り返ってみよう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 

 互いに愛し合う。これがイエスの教えである。繰り返す。これは決して、「牧師」や「牧師夫人」だけに語られた言葉ではない。イエスに信頼する者、全員に語られた言葉である。

 誰が、「牧師」だけに教える役目を命じたのだろうか。誰が「牧師夫人」が悩み相談を受けることを命じたのだろうか。誰が、「牧師夫人」を調停人に定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」をお掃除メイドに定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」を完璧超人ロボットに定めたのだろうか。それはあなたが勝手にイメージしたことであって、神が定めたものではない。

 教会という名の共同体は、「キリストのからだ」という比喩で語られている。からだで要らない部分はない。あなたという存在は、共同体になくてはならないものである。さあ今、共同体の中で、愛を実践しようではないか。

 

 

 ・・・いかがだろうか。他にも挙げればキリがないが、まずはこの3つを心に留めて、行動してみたらどうだろうか。それに加えて、「牧師」や「牧師夫人」などという、くだらないラベリングはもうやめたらどうだろうか。

 私の妻は、「テレビ局政治記者夫人」と呼ばれるのだろうか。この世で「●●夫人」と呼ばれるのは「首相夫人」くらいのものであって、他の職業や役割に「夫人」をつけたらこっけいだ。「公務員夫人」「システムエンジニア夫人」「弁護士夫人」「大学教授夫人」「消防士夫人」「警察官夫人」「ケーキ屋夫人」「本屋の店主夫人」「野球選手夫人」「医者夫人」「作業療法士夫人」「トラック運転手夫人」などとは呼ばないだろう。まさか「フリーター夫人」と呼ぶ人はいまい。職業に貴賤がないのなら、なぜ呼び名を変えるのか。

 結局、これはくだらない人間のラベリングなのだ。そんなものは無視して、一人のイエスに信頼する者として歩もうではないか。

 

(了)

【疑問】クリスチャンは「つまずく」という言葉を誤用している?

クリスチャンはよく「つまずきになる」という表現で、人の行動を規制しようとしますが、それは本当に正しい指摘なのでしょうか?

 

 

▼やたらと「つまずきになる」と言うクリスチャンたち

f:id:jios100:20190115191124j:plain

 クリスチャンの人と話すと、やたらと「つまずく」という言葉を聞く。「その行為はつまずきになる」「つまずきになってはいけない」などと、教会で言われた人も多いのではないだろうか。クリスチャンではない人は、「なにそれ」といった感じだろうが、実によく聞く言葉である。

 「つまずき」という言葉は、「神を信じる妨げになる」といった意味で使われる。そして、多くの場合が、人の行為を戒める際に用いられる。教会で何か、新しいことを始めようとすると、「それは、つまずきになるからやめたほうがいい」と言ってくる人たちがいるのだ。「品行方正な生き方」をしていないと、すぐに「つまずきになるよ」と言われるのである。

 先日、友人Y氏と話をしていた。彼は、聖書を勉強している牧師のタマゴである。「勉強楽しい?」と私が聞くと、彼はこう言った。「勉強そものは楽しいけど、インターンをしている教会で、『つまずき』になってはいけないから、それが大変なんだよね」。なるほど。牧師のタマゴたるもの、「はみ出した言動」をせず、大人しく、品行方正に、清く正しく美しくあらねばならないというのだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか。牧師のタマゴは、「つまずき」になってはいけないのだろうか。果たして本当の意味で、「つまずき」になっているのだろうか。そもそも、現状使われている「つまずきになる」という表現は、本当に正しいのか。今回は、このやたらめったら使われている「つまずき」という言葉に迫っていく。

 

 

▼「つまずき」となったイエス

f:id:jios100:20190115191250j:plain

 聖書で「つまずき」になったと書かれている人物がいる。驚くなかれ、それは他でもない、イエス自身である。聖書にはこうある。

しかし、イスラエルの2つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となりエルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。

イザヤ書 8:14)

 

 これは、旧約聖書で、メシア、つまりエスイスラエル人にとって「つまずきの岩」となるという預言である。逆に、イエスに信頼する者は揺らぐことがないということも明記されている(イザヤ書28:16参照)。この聖書の言葉は、新約聖書でも、このように引用されている。

信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は、失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

(ローマ人への手紙 9:32~33)

 

 つまり、「行いが救いにつながる」と信じていたイスラエル人、ユダヤ人にとっては、真逆の教えを唱えたイエスは「つまずき」だったのである。エスは、働いてはいけない「安息日」に、病気の人を癒やした。イエスは「きよめの習慣」に従わず、食事の前に手を洗わなかった。イエスは「いけにえ」用の鳥を売っている商売人の台をなぎ倒した。これら全ては、ユダヤ教」の大切な文化であり、決まりごとであった。それを守らなかったエスは、ユダヤ人の逆鱗に触れ、文字通り「つまずき」になったのである。

 では、イエスは間違っていたのだろうか。否。エスは、聖書の真理からそれてしまっていた人々に、正しい道を示したのであった。決まりごとや儀式に隠れて見えなくなってしまっていた、本来の神の愛の意図を説いたのであった。このことから、大切なのは、伝統や決まりごとではなく、その裏にある目的や意図だということが分かるだろう。

 現代の教会で、「つまずきになるから、やめなさい」という指摘は、ほとんどの場合が「決まりごとや伝統」を破ろうとしたときに起こる。本来は、「神の愛から遠ざける」「神への信頼を揺らがせる」行為が「つまずき」であるにもかかわらず、いつの間にか「伝統を変える」ことが「つまずき」になってしまっているのである。伝統や儀式を変えたのは、まさしくイエスその人だった。

 では、なぜやたらと「つまずきになる」という指摘が教会で横行しているのだろう。実は、そう言ったのはイエス自身なのである。その発言を見てみよう。

 

 

▼「つまずきになるな」と言ったイエス

f:id:jios100:20190115191551j:plain

 クリスチャンがやたらと「つまずき」という言葉を使うのは、イエスの言葉に由来する。エス自身が、「つまずきになるな」と命じているのである。その場面を見てみよう。

わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

(マタイの福音書 18:6~8)

また、わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

(マルコの福音書 9:42)

 

 石臼を首につけられて、海に沈められるなんて、まるで「東京湾に沈めたろうか?!」と言う、どこかの極道のような恐ろしい話である。その方がマシだというから、いかに「つまずき」となってしまう言動を避けなければいけないかが分かる。

 しかし、果たしてこの言葉は、「品行方正に、清く正しく美しく生きなさい」という意味なのだろうか。エスの意図は、何だったのだろうか。そのためには、文脈を見る必要がある。マタイの少し前の部分を見てみよう。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたにいいます。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

(マタイの福音書 18:1~6)

 

 「誰が一番偉いか」というしょうもない議論をしていた弟子たちに対して、イエス「この子どものような人が一番偉い」と言ったのである。弟子たち、赤っ恥。子どものような人とは、どのような人か。それは、子どものように純粋無垢に、神を信じる人である。子どものように、真っ直ぐに聖書の言葉を信じる人である。子どもが親を信頼するように、イエスを信頼する人である。その上で、イエスは、「この小さい者たちの一人をつまずかせる者は・・・」と言ったのである。つまり、エスは「純粋に神を信じる人たちの邪魔をするんじゃねえぞ!」と言っているのである。

 しかし、現状、教会で言われているのはどのようなことだろうか。ほとんどが、「あなたの行為は、他の信者たちのいい模範にならないから、やめなさい」という指摘である。エスの愛と恵みに感動して、突き動かされた人の気力をへし折る行為である。これは、本来の意味からズレてはいないだろうか。

 こんな話を聞いた。ある人、A氏が、家庭で聖書の勉強会を始めた。クリスチャンでない人も招いて、聖書の勉強会を、A氏なりにリードしていた。すると、それを聞きつけた牧師が、「何を勝手なことをやっているんだ。つまずきになるからやめなさい」と言ってきた。「聖書の勉強会をやるのなら、私を呼びなさい。教会のメンバーが一人も来ていないなら、やってはいけない」と牧師は言ったのであった。

 しかし、A氏は、ただただイエスの愛と恵みに感動して、自分にも何かできないかと必死で考えて、自宅での聖書勉強会を始めたのである。それをいたずらに邪魔をして、「つまずき」になっているのは、実はこの牧師の方である。ああ、愚かな牧師よ。お前は白く塗った壁だ! お前こそ石臼を結び付けられて、海に投げ込まれた方がマシだ。猛省せよ。

 このように、「お前の方がつまずきだ馬鹿野郎パターン」が、後を絶たない。教会で何か新しいことを始めようとする人たちを、やたら邪魔するリーダーたちがいる。イエスの愛に感動して突き動かされた人たちを邪魔をするのはやめていただきたい。実は、そっちの方がつまずきである。

 イエス自身が、気をつけるべきは他者ではなく、自分自身であると教えていないだろうか。

エスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したらなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

(ルカの福音書 17:1~3)

 

 愚かなキリスト教のリーダーたちよ。あなたたちこそが、自分自身が他のクリスチャンたちを縛りつけ、「つまずき」になっていないか気をつけるべきである。エスは、そのような「縛りつけるリーダー」たちにこう言っている。

しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない

(ルカの福音書 11:46)

 

 クリスチャンはあれをしてはいけない、これをしてはいけないと、やたらに縛りつける行為こそが、実は「つまずき」なのである。エスの愛に感動して、突き動かされてする行為を止める権威があるのは、神ご自身だけである。

 エスの十字架の真理は、「信仰による救い」なのにも関わらず、「クリスチャンたるもの、品行方正に、清く正しく美しく生きなきゃ」のような「行いによる救い」に人々を導いていることこそ、実は「つまずき」なのだ!

 

 

▼反論:ローマ書の記述はどうなる?

f:id:jios100:20190115192008j:plain

 ここまで述べて、聖書の知識が少しばかりある人は、こう反論するだろう。「では、ローマ書の記述はどうなるのか」。さて、そのローマ書の記述を見てみよう。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。(中略)

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟(クリスチャンの仲間)が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

(ローマ人への手紙 14:1~14)

 

 ローマ人の手紙14章の主眼は、主にユダヤ教の律法をどの程度守るのかという議論である。作者(パウロ)の主張は、「何を食べてもいいし、どの日も大事である」というものである。だが、当時のユダヤ教になじんだ人々にとって、イエスを信じてクリスチャンになったからといって、ユダヤの習慣をいきなり捨てるのは難しかった。ユダヤ教では、食べてはいけないものや、儀式の日が、細かく厳しく決められていたのである。それらは、ユダヤ人にとっては当たり前に守らなければいけない決まりだった。

 だから、パウロは、古い習慣を捨てきれない人々を、「信仰の弱い人」と表現し、「その意見をさばいてはいけない」と言ったのである。なるほど、ここを読むと、自分は良いと思っても、他の人が良いと思わないことは、全てしてはいけないように感じる。

 ここで、現代の私たちが留意しなければならない点が3つある。

1:これは、ユダヤ教の背景がある人々に、「どれだけ律法を守るか」という視点で向けられた言葉である。全く関係ない現代の、しかも外国人である私たちにとって、「食べてはいけないもの」や「(ユダヤ教の)儀式の日」は、もはや存在しない。

 

2:この言葉は、「さばき合わないように」「兄弟を妨げるな」というのが主なポイントである。「他の人に、『それはつまずきだ』と指摘せよ」という教えではない。「各々が、しっかりと基準を保って、互いに受け入れ合いなさい」という教えである。

 

3:そもそも、この部分は、「食べ物」「飲み物」「儀式(祭り)の日」についての議論であり、家庭で聖書勉強会をひらくかどうかや、政治的スタンスや、他の諸々の生き方についての議論ではない。

 

 もし、仮に「信仰の弱い人の基準に合わせて生きなさい」というのがこの聖書の言葉のポイントであるなら、私たちは電気を使わず、車に乗らず馬に乗り、家庭集会を行うアーミッシュのような生活をしなければならないだろう。しかし、現実にそうしているクリスチャンは誰もいない(アーミッシュ以外)。

 この言葉のポイントは、「各々が神様に対して誠実に向き合っている事柄を、いいか悪いか判断せず、互いに違いを認めて受け入れ合おうではないか」というものである。酒を飲んでもいいと思う人にとって、酒は良いものであり、たばこを吸ってもいいと思う人にとっては、たばこは良いものなのである(ただし、副流煙については疑問だが)。

 結局のところ、問われるのは「心の動機」である。果たして、自分の行為が、神の愛に感動して、突き動かされたものなのか、それとも自己中心的な思いから来るものなのか、吟味する必要がある。ローマ14章の続きには、こうある。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(ローマ14:19)

私たちの力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

(ローマ人への手紙 15:1)

 

 あくまでも、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」というクリスチャンは、「信仰が弱い」のである。だから、「信仰が強い」自由な人たちは、その自由へと、縛られている人たちを導く必要がある。

 誰も、人の生き方に口出すする権利はない(ただし、「罪」を犯していたら別である。それは指摘するようにと聖書に書いてある)。もし、教会のリーダーたちにいろいろ言われたら、彼らは「信仰が弱い」のである。その事実を教えて差し上げよう。

 

 

▼「模範」になれとプレッシャーを感じている人へ

f:id:jios100:20190115192547j:plain

 牧師のタマゴや、教会やミニストリーのリーダーになろうとしている人たちへ。聖書学校や、教会などで、何度も「模範になれ」「つまずきになるな」と言われ、プレッシャーを感じているだろう。その際、よく用いられるのがこの聖書の言葉である。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 

 この言葉は、一見、品行方正な生き方をしないといけないように感じる。しかし、ここのメインポイントは、「若くてもしっかりやれ」という部分である。言い換えれば、「若さを言い訳にするな」という意味である。しっかりやるのであれば、聖書の言葉により忠実に生きなければならないだろう。聖書に書いていない、「酒を飲むな」「たばこを吸うな」「毎週教会に来い」「十分の一献金をしろ」「牧師を先生と呼べ」といった間違った教えを、むしろ奉じない方が、「模範」になりうるのである。詳しくはこれらの記事を読んでほしい。

 

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

yeshua.hatenablog.com

 

 教会のメンバーや、牧師、教師たちが与えるムダなプレッシャーなんて、クソくらえ。先のローマ14章の続きには、こう書いてある。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。

(ローマ人への手紙 14:22)

 

 あなたが、イエスの愛と恵みに感動して、突き動かされたことで文句を言われても、自分はダメだと思わないでほしい。神は、あなたのハートをご覧になっている。まわりの人の評価ではなく、神自身に、神の言葉に真実に生きようではないか。

 

(了)

このブログについて

「週刊イエス」について。

 

このブログが何のためにあるのか、以下のようにまとめました。

必要であればご覧ください。随時追記していきます。

 

【ブログの目的】

・私は、クリスチャンとして生きていて、「教会」や「キリスト教」の中に、聖書に基づかない「文化」や「しきたり」があまりにも多いことに苛立ちを覚えていました。

・そのため、今一度クリスチャンの方に、聖書がどう語っているか感じてほしいと考え、このブログを始めました。

・読者がこの記事を読み、「教会」や「キリスト教」の「文化・しきたり」から開放され、励まされることを望みます。またご自身で聖書を読む習慣をつけてもらえたら最高です。

・また、クリスチャンではない方も読者として想定しています。キリスト教」の正しいイメージを持ってもらおうというのが、そのねらいです。

・そのため、クリスチャン用語(例:みこころ、みことば、など)はなるべく用いず、平たい表現にしています。また、聖書の言葉の背景を、なるべく分かりやすく説明することを心がけています。

異論、反論、疑問、質問、大歓迎です。ぜひコメントください。ただ、コメントに気が付かず返信が遅い場合があります。ご容赦ください。

・また、寄稿も大歓迎です。ぜひご連絡ください。(連絡先:israelkuma★(アットマーク)gmail.com

 

【ブログの注意点】

・このブログは、あくまでも私が日々感じたことを基に着想し、聖書を調べて、それを基にまとめたものです。

・それゆえ、このブログの記事は、私の個人的な考えです。オススメであり、強制ではありません。また、どこかの教会や団体を代表する意見でもありません。

・私の願うところは、このブログを読んた方が、文化やしきたりから開放され、励まされることです。読者が自分で聖書を読み、自分の足で、キリストという土台にしっかり立たれることを願います。

ブログの記事リンクは、自由に「シェア」してください。中身の引用についてはオープンなスタンスですが、ご相談ください。

 

【ブログのタグ】

・ブログには「タグ」があり、関連記事を見やすくしています。以下のような基準でタグ付けをしています。

「ここがヘンだよキリスト教キリスト教や教会の文化などで、聖書に根拠がないもの、または間違った経緯で定着してしまった分野などに切り込んでいく記事です。(例:【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか? - 週刊イエス

「就活イエス:働くクリスチャンたちの、インタビュー記事です。クリスチャンとして、どのような経緯で今の仕事をしているのか、どのようなモチベーションで仕事をしているのかなどに迫ります。(例:就活イエス カテゴリーの記事一覧 - 週刊イエス

「聖書」:疑問点というよりは、聖書の言葉から私自身が受け取ったメッセージを解説しています。(例:【聖書】「マナ」に隠された助け合いのヒント - 週刊イエス

「人気記事」:過去の記事の中で、特にアクセスの多かった記事をまとめました(インタビュー記事は除く)。(例:人気記事 カテゴリーの記事一覧 - 週刊イエス

「提起」:疑問点というよりは、教会などのあり方を、こう変えてみたらどうでしょう? という提案です。(例:【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか? - 週刊イエス

 

【ブログの引用】

・聖書の言葉の引用は、主に新改訳聖書2017版」を用いています。

・理由は、私が普段読んでいる翻訳だからです。それ以上でも、それ以下でもありません。強いて言えば注釈が便利です。

・文脈や意図から、より適切であると判断した場合は、「新改訳聖書3版」「新共同訳」「口語訳」など、他の翻訳を用いる場合もあります。その場合は、引用元を明記します。

・引用はなるべく聖書のみにしようと考えています。しかし、用いた方が分かりやすい、適切であると判断した場合に、他の書籍などの引用をする場合があります。

 

【筆者のプロフィール】

・東京都内在住の男性です。イエスを信頼するクリスチャンです。

・異端ではないことを証明するために書きますが、立場としては、プロテスタントのクリスチャンです。また、「教会」にも通っています。

・平成、長野県の山奥出身。

・住んだ場所は、長野→アメリカ→長野→カナダ、アメリカ→長野→東京→イスラエル→東京

・高校は行かずにカナダやアメリカでフラフラしてました。

・16歳の頃にローマ5:8の聖書の言葉からイエスに出会い、クリスチャンに。都内の大学を卒業し、現在はテレビ局で政治記者の仕事をしています。

・何度も聞かれますが、聖書学校には行ったことがありません。聖書学校に行かなければ聖書は学べないというのは、宗教改革までの常識であり、現代では非常識です。

21世紀を生きる私達は、(ほとんどの場合)自分の母語で聖書を読むことができます。また、インターネットでいつでも参考意見を学ぶことができます。その場合は、英語ができた方がリソースが何倍にも増えるので、英語を学ぶことをオススメします。

・もちろん、英語では読めないリソースもあります。ヘブライ語アラム語ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語などを学ぶ必要があるでしょう。その場合は、専門の学校や教師から学ぶ必要がありますが、このブログ程度のことは学校に通わずとも聖書から学ぶことができます。