週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教(イエスを愛する者のブログ)

【個人エッセイ】本当の「安息日」とは何か  

 本当の「聖地」、本当の「安息日」とはどんなものなのでしょうか?

▼わたしの証

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 「証<あかし>」という言葉を知っているだろうか。英語でtestimonyといって、クリスチャン界ではよく聞く言葉だ。神が人生の中でどう働いたか、それぞれのエピソードを語るのが「証」だ。口頭の場合もあるし、文章の場合もある。よく、「証」と称して、自分の自慢話をするだけの人もいるが、本来は神の素晴らしさを証言するのが証である。

 これは、私がイスラエルに留学していた2012年に書いた証である。しばらく忘れていたのだが、つい先日、思い返すタイミングがあり、一部を修正し、ここに再掲する。いつもと趣向は違うが、どうぞお読みいただきたい。

 

 

▼証・本当の「安息日」とは何か

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 僕は、イスラエルに留学している。通っている大学は、イスラエル北部にあるハイファ大学だ。ハイファは、イスラエルでも指折りの「世的」な街だ。「安息日」つまり土曜日は、完全な休みの日。イスラエル中が休む日だ。お店は全て定休日。交通機関もすべて凍結。しかし、ハイファだけは、1時間に1本はバスが走っている。

 大学には、ユダヤ人もいれば、アラブ人もいる。留学生も大勢いる。大学のキャンパスは、預言者エリヤが活躍したカルメル山の頂上にあって、僕の寮の部屋からは、ハイファの街並みが一望できる。

 僕は、ハイファの生活が好きだ。時間が空いた時は、キャンパスにいる韓国人、アメリカ人、ドイツ人のクリスチャンの友達と一緒に、賛美をしたり、祈り合ったりしている。 安息日には、全てが文字通り「ストップ」する。僕はよく、安息日に、キャンパスの端にある芝生のところに行く。ルームメイトから1万円で買ったギターを手に、ひとりで賛美し、聖書を読み、祈る。祈りと賛美に夢中になって、気づいた頃には、4時間以上経っていたときもあった。1日、ゆっくり神様と時間を過ごす。そのゆとりが、僕は大好きだ。

 

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 ハイファはいい街だが、イスラエルと言えば、やっぱりエルサレム。僕は、この3か月で、10回ほどエルサレムに足を運んだ。あるときは学校の課外学習で。あるときは日本から来た友人を案内するために。あるときはクリスチャン集会に招待されて。ハイファの大学から、700円くらい払って、3時間弱ほどバスに揺られれば、エルサレムの街につく。「聖地」に足を運ぶには、近すぎる距離だ。僕は、イエスが十字架を持って運んだルートや、ゴルゴダの丘にある教会、イエスの墓に、足しげく通った。

 けれども、エルサレムから戻る度に感じたのは、いつも、空しさだった。僕の心は、エルサレムの空気のように渇いていた。嘆きの壁の前に立っても、十字架の場所に行っても、ダビデの墓を訪れても、心から祈ることはできなかった。そこで激しく祈ろうとしても、祈りの言葉が枯れてしまったようだった。金色に飾られた十字架や、神々しく描かれたイエスの絵が、僕の心にひっかかっていた。僕は、ひざまずいて、涙を流して祈っている大勢の人々を、どこか外側から眺めていた。

 エルサレム旧市街の通路は、細くて暗い。迷路のように入り組んでいる。そこは、小さな露店で溢れかえっている。木製の十字架が、プラスチック製のかごに積み上げられ、イエスを描いたマグネットや、彼をかたどった木製の置物が、露店の棚に所狭しと並べられている。人間は、どの時代も同じだ。商売人の台を倒したイエスの絵を描いて、同じ場所で、同じように売り買いしている。2000年前、いけにえの売買が盛んに行われていたところは、今や人類のいけにえとなったイエスの像を売り買いする場所になっている。僕は、4000円で、創世記の場面の絵が描かれた巻物を買った。今思うと、ぼったくりだった。

 

 

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 一度、エルサレムの課外学習を途中で抜けて、友達と死海に遊びにいった。僕たちは、金曜日の4時半、安息日に入るギリギリ前の最後のバスに乗って、死海に向かった。バスドライバーは、伝えた目的地と違う所で、僕たちを降ろした。仕方がなく呼んだタクシーは、アラブ系の若い男が運転する乗用車だった。大阪から来た女の子が、彼と交渉して、10分のドライブを2000円から1500円に値切った。

 死海のビーチに着いた時は、もう夜だった。死海の水の中で、体の力を抜くと、本当に浮いた。死海に体を委ねながら、上を見ると、今まで見たことのない、美しい星空が広がっていた。日本では見たことがない、多くの星の輝きが、そこにはあった。僕は、ふと、アブラハムはこの星を見ながら、神様からの約束を受け取ったのだと、思い出した。死海の中では、何もしなくていい。身を委ねれば、自分の体は自然と浮かぶ。無数の星が、頭上にきらめいている。無理に動こうとすると、塩水が目に入って、この世のものとは思えないほど痛かった。自分で動かない方が、逆にいいのだ。いのちのない死海の中で、僕は神様の守りの中にいるように感じた。僕は、ただ、神様に身を委ねるだけでいいのだ。そこには、本当のいのちがあった。安らぎがあった。賛美と祈りが、自然と口から出て来た。

 

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 神がそばにいると僕に教えてくれたのは、聖地・エルサレムではなく、ハイファでの、のんびりとした日常や、死海や、そのまわりの砂漠だった。死海のまわりは、完全に砂漠で、人の手でつくったものは、何もない。僕は、エンゲディの崖をのぼり、崖の上の小さな泉を見つけた。泉の中に足を踏み入れ、目を閉じて、静かに神様のことを考えた。イェシュア(イエス)は、この砂漠で断食をしたのだろうか。試練を受けたのだろうか。イェシュアが祈ったのは、エルサレムの神殿ではなかった。人のいない、寂しげな山や砂漠だった。

 結局、すごいのは聖地ではなくて、イェシュア自身なのだ。ハイファの芝生の上で、ひとりで木に寄りかかって、ギターで賛美しているときは、自然と賛美と祈りが口から溢れて止まらなかった。

 

(了)

【疑問】牧師が間違っていると思った時どうすればいいのか <後編>

牧師や教会のリーダーに意見するのは気が引ける・・・一体どうしたらいいのでしょうか。

 

▼「指摘」はどんどんしよう

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 <前編>でも既に述べたが、「裁く」と「指摘する」は根本的に違う。イエスは「さばいてはいけません」と言ったが、「指摘してはいけない」とは言っていない。イエスの言葉のポイントは「まず自分自身を点検せよ」「そうすれば他人のズレを指摘できる」というところにある。聖書はむしろ信仰の仲間のズレを指摘することは推奨している。

 教会の共同体のかしらはイエスご自身であり、その他の信仰の仲間は、それぞれの部分である。牧師であれ、伝道者であれ、他のどのようなリーダーであれ、それぞれは教会の共同体の働きの部分である。どれかひとつだけがより重要とか、より特別とかいう区別はない。

 聖書の中には、プリスキラやアキラ、パウロカナン人の女など、相手が権威あるリーダーであっても勇気を持って「ズレ」を指摘した例が多くある。そして、そのような勇気ある行動は、良い結果をもたらしている。クリスチャンは、相手の顔色やその場の空気をうかがわず、「裸の王様」を指摘する勇気を持つ必要がある。

 とはいえ、実際問題、今すぐ「牧師のズレを指摘する」のはなかなか気が引ける、どうすれば「賢く」指摘できるのか分からない、という意見が大半であろう。「伝え方の批判」に終始してはいけないが、当然、「伝え方」を全く考えなくていいわけではない。では、どのように伝えればいいのだろうか。今回は具体的な「伝え方」について書く。

 

 

▼まずは「心の動機」をチェック ~ミリアムの失敗例~

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 誰かに何かを「指摘」したい。そう思う時は、まず「心の動機」のチェックが必要である。ここまで「指摘しよう!」と言っておいて何なのだが、たいていは、実はあまり相手に問題はなく、自分の心の中に問題がある場合が多い。過去に受けた苦い経験や傷が、あなたの心を蝕み、まっすぐに相手の言葉や行動を受け取れなくなっている時がある。そのような場合、あなたの「指摘」は相手やまわりにとっては「言いがかり」「被害妄想」になってしまう。それではもったいない。だからこそ、イエスは「まず自分の目から梁を取り除きなさい」と教えたのである。

 聖書の中で、間違った「心の動機」で指摘してしまったがゆえに、失敗してしまった例を挙げよう。

 

【ミリアムの失敗例】

 モーセとアロンには、ミリアムという姉妹(新改訳聖書では「姉」となっているが、必ずしもそうとは限らない)がいた。モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーだったが、ミリアム自身も女預言者であり、イスラエルの民の賛美をリードする者であった。現代の教会ならば、いわゆる「賛美リーダー」のような感じ。このミリアム、モーセを「非難」したために、神に怒られる。該当箇所を見てみよう。

 

そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難したモーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか」主はこれを聞かれた。モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

主は突然モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出ていった。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出ていくと、主は言われた。

「聞け、わたしのことばを。(中略)なぜあながたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか」主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。

雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアト(重い皮膚病と考えられている)に冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。

民数記 12:1~10)

 この事案の首謀者がミリアムであるのは明らかだ。ミリアムはアロンと共謀して、モーセを非難した。モーセは反論しなかった。すると、神が突然三人を呼び、ミリアムとアロンを叱った。そして、ミリアムは罰として重い皮膚病になってしまった。こういう話である。

 この場面は、ミリアムの「心の動機」が透けて見えて面白い。ミリアムがモーセを非難した「大義名分」は、モーセが外国人の妻をめとっていた点だった。しかし、よく考えてほしい。イスラエルの民の「選民思想」というのは、まだ後代のように確立していなかった。実は、彼女の非難の「心の動機」は別の所にあったのだ。

 「主はただモーセとだけ話されたのか」というのが、ミリアムの本当の動機だった。ミリアムは、モーセだけが神と直接話す特権を与えられたのを見て、悔しかったのだろう。「私だって預言者なのに、なんでモーセだけ!」「私だって神の預言者だ!」そういう感情に支配されてしまったのだ。

 だからミリアムは、「外国人の妻がいる」という「大義名分」をおっ立てた。人間というのは不思議な存在で、はじめは「大義名分」でも、言い続けるうちに、まるでそれが本当の理由のように思えてくる。はじめはどうでもいい理由でも、考え続けるうちに、それが本当の理由になってしまう。だから、「指摘」する前に「本当にそれが問題なのか?」と、自分の「心の動機」のチェックが必要不可欠である。

 また、ミリアムはモーセと個人的に話すことをせず、アロンという「後ろ盾」をつけた。だからミリアムの「指摘」は指摘とならず、「非難」となってしまった。もし、正当な理由での指摘だったら、アロンと一緒になって言う必要はなかった。心のどこかに自信がないから、アロンを後ろ盾として、自分の心を安心させていたのである。

 神は、ミリアムの心なんてお見通しだった。だから、怒った。神の怒りで、皮膚病にかかってしまったミリアム。やさしいモーセは彼女が癒やされるように神に祈った。ミリアム、赤っ恥。それから後は、二度と同じ過ちは繰り返さなかったことだろう。

 この例から、以下のような教訓が得られると思う。誰かに何か「指摘」する前に、以下のような点を鑑み、自分の心をチェックしてみてはどうだろか。

【ミリアムの失敗例から学ぶ教訓・3つのチェックポイント】

1:あなたの「指摘」の動機は、別のところにあるのではないか。

2:あなたの「指摘」は「非難」になっていないか。

3:あなたは誰かを「後ろ盾」にしようとはしていないか。

 

 もう一点、「心の動機チェック」のオススメのやり方がある。単純だ。誰か信頼している信仰の仲間に相談すればいい。「今、こういう問題を抱えてるんだけど」「牧師がこう言っていて、私は違うと思うんだけど、どうかな?」と、信頼している人に聞いてみよう。きっと、あなたが考えつかなかったアイディアをくれるだろう。

 問題を抱えている時は、往々にして視野が狭くなりがちだ。まずは、相談し、セカンドオピニオンを聞いて、「心の動機」をチェックしよう。ただ、相談する相手の意見に同調しすぎてしまうと、「怒りの増幅」「ゴシップ、ウワサ話になりやすい」という副作用があるので、注意しよう。

 

 

▼あなたは毎日聖書を調べているか?

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 さて、「心の動機」をチェックした後、もうひとつ、何よりも大切なポイントがある。それは、あなたの「指摘」は聖書の言葉に基づいているか? という点だ。一番重要、かつ必要不可欠なポイントである。

 もし牧師や他のリーダーたちの意見が、「何か違うな?」と思ったら、まずは聖書を調べよう。そして、具体的にどの聖書の言葉とズレているのか、整理しよう。ここで、聖書の言葉が動機になっていないのであれば、もしかしたらあなたの動機は別の所にあるのかもしれない。

 聖書の中にも、こんな箇所がある。

 

この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。

使徒の働き 17:11~12)

 ベレヤという町の人々は、パウロとシラスの言葉を、ただ受け入れて信じたわけではなかった。彼らは、新しい意見に耳を傾け、その上でそれが本当かどうか、「毎日」「聖書を調べた」のである。これが、いわゆる「クリティカル・シンキング」である。

 現代のクリスチャンたちも、ベレヤの人々のような姿勢で生きるべきだ。牧師の言うことを鵜呑みにしてはいけない。果たしてその通りかどうか、聖書を調べまくって、自分の頭で考えよう。そうして、聖書をベースにして初めて「指摘」ができ、「健全な話し合い」ができる。

 牧師や宣教師の言うことを、ただ鵜呑みにするのでは三流。それが本当かどうか、毎日聖書を調べて二流。それを自分の言葉で伝えられて初めて一流。このようなマインドが当たり前になってほしいと、私は思う。

 

 

▼「私メッセージ」と「受け入れる素地」

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 さて、「指摘」の具体的なやり方のオススメは、「私メッセージ」である。「私は正しい、あなたは間違ってる」という言い方ではなく、「私はこう思うんですが、どう考えますか?」という言い方だ。クリスチャンの中には、「聖書にこう書いてあるんだから、あなたは間違っている」と言ってしまう人もいる。それだと、「間違い」という「結果」を押し付けていることになる。それはまさに<前編>で言った「裁く」になってしまう。

 「私の」オススメは、「私は、聖書にこう書いてあるのを読んで、あなたの意見に違和感を覚えるのですが、どう考えますか?」という問いかけ方だ。これなら、「一緒に考える」という相互のやりとりに持っていきやすい。

 聖書を根拠とし、「私はこう思うが、どう考えるか?」という私メッセージを、個人的に投げかける。これをされたら、まぁ「できた大人」なら、意見を聞き入れて、一緒に考える時間を持てくれることだろう。そこから、問題の解決が始まる。個人的に、それから複数人で、それでもダメなら共同体で、という<前編>で書いたイエスの基準を忘れずに。

 たいていの場合、リーダーたちはシッカリ聖書を読み込んでいる(・・・そう信じたい)。だから、あなたが「聖書にこう書いてある」と言った時、「そうだね。でも別の場所にはこうとも書いてあるよね」と柔軟な対応をしてくれるだろう。そして、あなたに新しい視点を与えてくれるだろう。そうなっても、その「指摘」はムダにならず、あなたの視野を広げてくれる。だからこそ、「指摘」して、「話し合う」のはとても良い作用をもたらす。

 ただ、中には、残念ながら根本からズレてしまっている牧師やリーダーたちも多くいる。あなたが、「聖書にこう書いてあって、あなたの意見は違うと思うんですけど」と指摘した時、「ウチの教団ではこうなんだ」とか、「キリスト教の伝統ではこうなんだ」とか、「●●の本にはこう書いてある」とか言ってきたら、黄信号。その人は「聖書」よりも「伝統」や「教団の決まり」を重視してしまっているのである。アチャー・・・。

 イエスは、聖書より伝統を重視したパリサイ派を批判した。覚えているだろうか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(中略)このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。

(マルコの福音書 7:9~13)

 聖書を土台に議論をしたいのに、そういう「伝統ではこうだ」とか「●●先生はこう言っている」とか、抽象的な議論に引っ張ってくる人がいる。残念でならない。私は、聖書の言葉と聖書の言葉で議論をぶつけ合いたいのだ! (タルムードの議論のように・・・)

 

 残念ながら、反対意見を言われると、すぐに態度を硬化させたり、意見を無視したり、その人の悪いウワサを触れ回る、残念な大人が大勢いる(しかも、牧師もいっぱい!)。イエスの教えにならい、まずは個人的なメッセージを送ってみて、何度無視されたことだろう。一度、若者の意見(それも素晴らしい意見)を無視しているリーダーがいたので、個人的に「リーダーが若手の意見を無視するのは、おかしいんじゃないですか」と指摘してみた。するとその人は、「ああ、アイツの言うことは偏っているから相手にしなくていい」と言ったのだ。呆れて物も言えなかった・・・。私は、そんな大人にはならないと決意している。いい大人なら、冷静で、論理的な議論をしてほしいものである。

 ただ、そういう残念な大人と鉢合わせてしまっても、悩まない方がいい。逆ギレして非難されても、あなたが気にする必要はない。アッチの問題なのだ。そういう時は、「かわいそうな人やなぁ」とでも思って、あわれみ、祈ってあげよう。あなたの怒りがもったいない。

 イエスも、パリサイ派は相手にしたが(まだパリサイ派は議論の余地が1ミリぐらいあったのだろう。)、サドカイ派なんて相手にもしなかった。全部を相手にしていると、心が疲れる。頑固な態度を取られたら、ササッと身を引くのがいいかもしれない。ただ、相手の悪いウワサ話だけはしないように気をつけよう。

 

 

▼教え合うコミュニティになれるか

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 聖書は「互いに教え合え」と勧めている。

 

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

 あなたがクリスチャンならば、ただ黙って傍観者になるのではなく、知恵を尽くして互いに教え合おうではないか。「心の動機」をチェックした上で、相手が誰であっても、相手を大切する思いで「指摘」し、「忠告」し合おうではないか。「責め合う」のではない。互いに、寝ても覚めてもイエスと一緒に生きるために、お互いにチェックしあうのだ。そしてお互いを高め合おうではないか。プライドを捨て、イエスにピントを合わせ、ますます喜びに満ちた人生を歩もうではないか。

 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

 

(了)

【疑問】牧師が間違っていると思った時どうすればいいのか <前編>  

牧師が言っていることに納得できない。そんな時はどうすればいいのでしょうか?

▼牧師に意見できない風潮f:id:jios100:20180604155757j:plain

 友人のA君が、久しぶりに電話をかけてきた。「ご飯に行こう」と言う。会ってみると、驚いた。待ち合わせの店に来た彼は、ひどく落ち込んでいた。いつも明るかった彼が、うつむき加減で、ぼそぼそと話している。話を聞くと、彼は、教会の中で人間関係の問題を抱えていた。

 彼は、ある日曜日の牧師のメッセージ(説教)が、納得できなかったのだという。それをつい口にしてしまったために、まわりの信者たちから「牧師に反抗するなんて、とんでもない」と言われ、責められた。村八分にされた。奉仕も辞めさせられたという。「教会に居場所がない」というので別の教会へ移るよう勧めた。「でも、教会を裏切れない」と彼はガックリ肩を落として語った。

 彼の気持ちは、痛いほどよく分かる。私もかつて、韓国系の教会に通っていた。儒教の影響が強い韓国の教会では、牧師の権限は絶大。牧師の言うことに意見するなど、とんでもないご法度だった。何か言おうもんなら、もう非難の集中攻撃。でも、みんな影ではコソコソ牧師の悪口を言っていたのだった。

 確かに、教会の中では牧師に意見するなど、とてもできないといった風潮がある。韓国ほどではないが、日本もその傾向が強い。牧師の言うことはみな正しくて、従うべきで、疑問を抱いてはならないのである。表立って牧師に意見する人は少ない。でも、不満は当然あって、それが悪口、うわさ、ねたみ、苦々しい思いとなって教会の人間関係を壊していく・・・。

 日大のアメフト監督やコーチの指示による、反則タックルが問題となっている。誰もが間違っていると思いながらも、異論を唱えられない空気があったという問題だ。教会の中にも、同じような問題がないだろうか。そもそも、牧師の言うことは全て正しいのだろうか。全て従うべきなのだろうか。疑問を一切抱いてはいけないのだろうか。それを口にしてはいけないのだろうか。今回はそんな観点から記事を書く。

 

 

▼牧師ってそんなに偉いの?

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 牧師とは、そもそもどのような存在なのだろうか。聖書を見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(中略)

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:11~16)

  実は、「牧師」という単語は聖書にたった1回、この箇所にしか登場しない。そもそも、ギリシャ語を直訳するなら「牧者・羊飼い」で、この箇所は意図的に訳を変えてあるだけ。そもそも「牧師」は中国で作られた造語なのだ。明治、大正時代の翻訳者たちがそれを考えなしに輸入してしまっただけなので(参考:「聖書の日本語」鈴木範久)、「牧師」なんていう言葉は意味はないし、聖書に登場すらしないのである。

 また、牧師は教会のトップと考えられがちだが、それは間違いだ。ハッキリと、「かしらであるキリストに向かって成長する」と書いてある。教会のトップはイエスだ。牧師ではない。また、文脈からも分かるように、牧師はイエスを頭とした共同体の「働きの一部分」であって、他よりも重要だとか、特別な役職ではない。「牧師」は、使徒、預言者、伝道者、教師と並列で並んでいる役目の一部分なのである。

 教会という共同体は、ただイエスだけがトップであり、あとは全員互いにキリストのからだの一部分だ。そこに優劣はない。

 

ですから、あなたがたは偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

(エペソ人への手紙 4:25)

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

(中略)

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。人つの部分が苦しめば、全ての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

(コリント人への手紙第一 12:22~27)

 クリスチャンは、キリストのからだの一部分である。牧師はその働きの一部分である。その中で誰が偉いとか偉くないという議論は、やれ、目が大事か、右手が大事か、肝臓が大事かと言って争っているようなものである。働きや機能は違えど、からだは、どの部分も大切なのである。

 牧師が特別ではないというのは、少し間違いかもしれない。というのも、どの働きも特別だからである。クリスチャンは、それだけで、キリストのからだにとってたった一人の特別な存在なのだ。

 

 

▼信仰の仲間に間違いを「指摘」していいのか

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 牧師は教会という共同体のトップではなく、それだけが特別な役職ではないと分かった。共同体のトップはイエスであり、他の働きはそれぞれがキリストのからだの一部分である。つまり、牧師も伝道者も使徒も教師も預言者も、信仰の仲間の一人なのだ。

 では、信仰の仲間に「あなたの言っていることは違うんじゃないか」と意見していいのだろうか。奥ゆかしい日本人は、人に意見するのをためらいがちである。「私なんかが意見していいのだろうか」と、ためらってしまうのだ。しかし、それは間違った謙遜である、と私は思う。

 聖書はどう勧めているのだろうか。イエスはこのように言っている。

 

また、もしあなたの兄弟(=肉親の兄弟ではなく、信仰の仲間のこと)があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(集会)に伝えなさい。教会(集会)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

(マタイの福音書 18:15~17)

 なんとびっくり、イエスはきちんと罪を指摘するように勧めている。余談だが、「新改訳聖書第3版」では「責めなさい」と訳してあるところが、「新改訳聖書2017」では「指摘しなさい」になっている。個人的に「指摘」の方がマイルドで好き(笑)。名訳。

 さて、ここで面白いのは、

→「まずは2人だけで解決」

→「ダメなら3人か4人で解決」

→「それでもダメなら共同体で解決」

という順番をイエスが明確に示している点だ。個人的な問題は、まず個人個人の関係の中で解決すべきだ。だから、例えば牧師の言うことが「違うな」と思ったら、まずはその人との個人的関係の中で問題を解決した方がいい。具体的な言い方のオススメは<後半>で書く。

 二つ目の「ほかに1人か2人、一緒に連れて行け」というのも、なかなか面白い。旧約聖書の律法では、裁判の証言は「2人か3人の証言」が必要だった(参照:申命記17:6、ローマ9:1など)。1人のみの証言では、裁いてはいけなかったのである。だからパウロも、ローマ9章で「キリストと聖霊によって証する」と2人の(最強の)証人を示している。エスは、まずは個人的に解決を試み、それでもダメなら旧約聖書の常識に当てはめ、3、4人で解決するよう教えた。確かに、1人だけに言われると、言いがかりな気もするが、2、3人に同じ指摘を受けたら、ある程度高慢ちきな人でも思い直すだろう。イエス・グッドアドバイス

 しかし、それでもダメというコウマンチキを極める人もいる。その場合は、「教会(集会)に伝えなさい」とある。これを逆手にとって、牧師に意見する人を、教会が断罪するという愚かなことを正当化しているところもある。しかし、それは間違いだ。よく考えてみよ。エスの時代には、まだ今のような「教会」はなかった。聖書では「会堂」と翻訳されている、ユダヤ教の「シナゴーグ」があったのみである。イエスが「教会」と言う際に、そのまま今の「教会」に当てはめてはいけない。そのような時制的違和感を持つのは、聖書を読む時には重要だ。

 「シナゴーグ」は、当時、社会的に裁判所のような役目も担っていた。日本のお寺が、地域の行政的役割を担っていたように、当時の「シナゴーグ」は宗教的役目に留まらず、民事裁判を行う役目も担っていたのだ。イエスがいわんとしていたのは、「個人的、複数人でも解決できなければ、あとは共同体の裁定に委ねなさい」ということである。至極まっとう、当然のことである。

 では、現代において、どのように適用すればいいのだろうか。聖書には「信者の中の問題を一般社会に持ち込むな」ともある(参照:コリント人への手紙第一6章)。よっぽどのことでない限り、裁判沙汰位にするのもどうかと思う。ここは難しいところだが、具体的なやり方のオススメは後述する。まずは、「信仰の仲間同士の問題は、まずは個人的、それでもダメなら、小さいグループの中で解決しよう」という点を覚えておいてもらいたい。

 聖書は、信仰の仲間の間違いやズレ(「罪」のギリシャ語の意味は「ズレる・的外れ」である)を指摘するのは、とても重要だと教えている。相手のポジションは関係ない。いや、教える立場にある人が、間違っているなら、その影響力を考えるならば、むしろそういう人たちにこそ、「指摘」は必要だ。

 

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。

ヤコブの手紙 5:19~20)

 

 

▼「裁く」と「指摘」の違い

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 人の間違いやズレを指摘した方がいい。こう言うと、必ずこの言葉を引用して「それは違う!」という人がいる。このイエスの言葉だ。

 

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

(マタイの福音書 7:1~4)

 この聖書の言葉を引用し、人のズレを指摘する人を、「ほら、さばいてる!」とか、「さばかないで!」とか言う人がいる。こういう人は、日本語の理解がちと足りない。

 「裁く」を日本語の辞書で調べてみた。

 

さば・く【裁く】<広辞苑第6版>

理非(道理から外れていること)を裁断する。裁判する。

さいだん【裁断】<広辞苑第6版>

理非・善悪を判断してさばくこと。

 「さばく」とは、「不完全である人間」が、「善悪を判断して、裁断を下すこと」である。人間の社会の中においては、法律というルールにのっとって、裁判官が裁く。言い換えれば、「罪にあたるかそうでないか判断する」ということである。これは、「ズレを指摘する」と全く違うとうのは、明らかであろう。

 

裁く  →罪であるか断定し、その結果を一方的に宣告する。

指摘するそれズレてない? と声をかける。結果は話し合って相互に考える。

 罪かそうでないか裁く権利と正当性を持っているのは、唯一完全である神だたひとりである。だから「さばいてはいけません」というイエスの言葉はもっともだ。しかし、それは「間違いやズレを指摘するな」という意味ではない。

 「さばく」については、別記事を書くつもりなので、ここまでに留める。「さばく」と「ズレを指摘する」というのは全く別物である。いたずらに「さばくな!」と「さばき返し」しないでほしい。

 また、前述のイエスの言葉は、続きがある。

 

偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟(=信仰の仲間)の目からちりを取り除くことができます。

(マタイの福音書 7:5)

 イエスの言葉は、「さばくな」ではなくて、「まず自分の姿を見直せ」「そうすれば他の人の間違いもただすことができる」という点にポイントがある。至極まっとうな教えである。イエスは、「人の間違いを指摘してはいけない」などとは、一言も言っていない。「人の間違いをただす」という目的のために、「まず自分の姿を見直せ」と言っているのだ。イエスの教えを捻じ曲げて捉えてはならない。

 

 

▼聖書で「指摘」をした人々

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 聖書でも、その身分に関わらず、人の間違いやズレを指摘したケースが数多くある。3つ紹介しよう。

 

【プリスキラとアキラ→アポロ】

 プリスキラとアキラという夫婦がいた。プリスキラが妻で、アキラが夫である。普通、夫の名前を先に書くが、この2人は初登場時こそアキラ・プリスキラの順で書かれているが、それ以降はずっとプリスキラ・アキラの順で書かれている。それほど妻・プリスキラの存在感が大きかったという解釈もある。面白い。

 この2人はコリントに住む天幕職人だったが、パウロと出会い、一緒にエペソにやって来ていた。パウロはそこからカイサリア→エルサレム→アンティオキアと移動したが、この2人はしばらくエペソにとどまったようである。さて、そのエペソにアポロという口のうまい男がやって来る。

 

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、おおいに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18:24~28)

 アポロは、聖書に相当詳しかったであろう。「主の道について教えを受け」とあるから、おそらくユダヤ教のラビの教えを受けたか、バプテスマのヨハネの弟子たちや、イエスの弟子たちから直接教えを受けたと考えられる。

 一方、プリスキラとアキラはただの天幕職人。一般信徒であった(※のちに「執事」になるようだが)。プリスキラとアキラは、アポロが大胆にイエスのことを語っているの聞いて、関心したことだろう。しかし、同時に、「ちょっと違うな」と思ったのに違いない。「彼をわきに呼んで」というのは、後日ゆっくりというのではなく、おそらく「すぐに」と考えた方が自然だ。彼らは、すぐにアポロに「ちょいちょい、アポロさん、あんたの弁論はすごいけど、実はちょっと足りない点がありまっせ」と言ってアドバイスしたのである。

 プリスキラとアキラは、大胆な指摘をした。アポロも、謙遜にその意見を受け入れ、より深い知識を身に着けた。その結果、アカイアにいる信仰の仲間の大いなる助けになった。プリスキラとアキラの行動力、アポロの謙遜な心によって、福音の働きがさらに拡大したのである。

 クリスチャンの方々。あなたは、牧師が何か物足りないことを言ったとき、すぐに指摘できるだろうか。牧師やリーダーの方々。あなたは、信徒から何か指摘されたときに、謙遜な心で受け入れることができるだろうか。Get Away プライド~!

 

パウロ→ペテロ】

 パウロは、自らを「使徒」と自称しているが、実はかなり図々しい話である。使徒」とは、そもそもイエスが12弟子のみに命名した、「イエス軍団」のようなネーミングだ。例えて言うなら、「たけし軍団」的な。イエスが弟子たちに「岩(ペテロ)」とか「雷の子(ヨハネ)」とか「馬好き(フィリポ)」とか、ふざけたニックネームをつけてるのも、たけし軍団っぽい・・・。

 とにかく、ペテロやヤコブヨハネらは、「俺たちは特別だぜ。イエス軍団の使徒だぜ!」と思っていたことだろう。ユダが裏切り、マッティアが補充され使徒となったが、原則、使徒はこの12人のみである。

 しかし、パウロは勝手にこの「使徒」を自称した。ペテロたちは「何やねん!」と思ったことだろう。「イエス親分に会ったこともないくせに!」というのが12弟子たちの素直な気持ちだったのではないか。

 さて、このパウロ、「使徒」を自称するのみならず、元祖使徒の中核的存在、ペテロ(ケファ)にさえ物申す。こんな聖書の箇所がある。

 

ところが、ケファ(ペテロ)がアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私(パウロ)は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れていったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。彼らが福音の心理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこういいました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか」

(ガラテヤ人への手紙 2:11~14)

 ペテロは、神から幻まで示され、「ユダヤ人ではなく、異邦人(外国人)にも救いが開かれている」という事実を学んだ(参照:使徒の働き10章)。それにもかかわらず、ペテロはユダヤ人の顔色をうかがって、だんだんと外国人と関わらなくなってきたのである。なんたる体たらく! 

 パウロは、「おい、ペテロ。何やっとんじゃ!」とかなり厳しく指摘したのである。面と向かって。しかも、他の人々の面前で。ある意味、ペテロの顔に泥を塗るような辱めである。ペテロ、赤っ恥。でも正論だから何も言い返せない。こればっかりはパウロが正しすぎる。日本人は「何も皆の前で言わなくても・・・」とパウロの「やり方」を批判するだろう。しかし、聖書にはそう書いていない。「やり方批判」の前に、問題の深刻さに目を向けるべきである。

 使徒」に勝手に後乗りしたパウロは、勇気を持って、大胆に「使徒」の中心的人物であるペテロを批判した。クリスチャンも、このパウロの姿勢に倣うべきではないか。誰かが聖書からズレてしまっているとき、それを指摘するのは、むしろ推奨されるべき行為だと思う。

 

カナン人の女→イエス

 イエスに意見した女さえいる。しかも、ユダヤ人ではない、外国人だ。しかも、当時は弱い立場にあった女性。外国人の女性は、イエスに何と言ったのか。

 

エスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます」

エスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」

しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください」

すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです

しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」

彼女の娘は、すぐに癒やされた。

(マタイの福音書 15:21~28)

 イエスは、この女の受け答えを「あなたの信仰は立派です」と褒めた。実は、聖書の中でイエスが信仰を「立派」とほめたのは、この女とローマの百人隊長の2人しかいない。エスは、なぜ彼女をほめたのだろうか。

 実は、女の「主よ、そのとおりです」というのは誤訳だと私は思う。これは、よくある日本語と英語などの外国語の文法の違いによる誤訳だ。日本語と英語では、「Yes」と「No」の使い方が違う。簡単な例で見てみよう。

 

<日本語の文法>

Q:ケンジ君に彼女はいないよね?

(いる場合) →A:いいえ。います。

(いない場合)→A:はい。いません。

 

<英語の文法>

Q:ケンジ君に彼女はいないよね?(Kenji does not have a girlfriend, right?)

(いる場合) →A:はい。います。(Yes, he does)

(いない場合)→A:いいえ。いません。(No, he does not)

 おわかりだろうか。日本語は、質問を基準に「はい」、「いいえ」と答える。しかし、英語は、質問の答えを基準に「はい」、「いいえ」と答えるのだ。

 つまり、「AはBではないですよね?」という否定の問いかけに対して、日本語で「はい」と答えれば「AはBではない」という意味になるが、英語の「Yes」だと、「AはBである」という意味になる。英語初心者の日本人が、よく戸惑う文法の違いである。

 さて、このYesーNo文法において、ギリシャ語の文法は、おおむね英語と同じだそうだ。そこで、この「主よ、そのとおりです」のギリシャ語を見ると、「ナイ(Yes)」となっている。イエスの問いかけとの関係を整理しよう。

 

エス「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは『良くない』(エイミ・オウ→英語のit is not)ことです」

 

女「『ナイ』(英語のYes)『ガール』(英語のfor~)、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」

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エス「小犬にパンをあげるのはよくないよね?

 

女「いえ、よいことです。 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから

 おわかりいただけただろうか。イエス「NOT GOOD, is it?」という否定の問いかけに対して、女の答えは、「Yes, for~(順接)」なのだ。

 だから、この部分は、

「主よ、そのとおりです。ただ~」

と訳すべきではなく、

 

 「主よ、とんでもございません! ~なのだから」

と訳すべきなのである。

 そもそも、日本語で「主よ、そのとおりです。ただ~」と訳されている「ただ」も誤訳だ。該当部分のギリシャ語は「ガール」で、英語でいうと順接の「for」だ。日本語にすると「~なのだから」になる。日本語訳にある「ただ」という逆説(but)の意味には、どう考えても取れない。なぜかこの部分は、現代に至っても誤訳されたままなのである。

 ちょっと再度、整理してみよう。以上を鑑みると、本文はこうなる。

 

すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」

しかし、彼女は言った。「主よ、とんでもございません! 小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのですから

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」

 こう翻訳した方がスッキリするのではないか。今までの翻訳だと、なぜか外国人であるだけで差別された女が、謙遜にもそれを受け入れたことをほめた・・・という話になってしまう。そんな理不尽なことをイエスが本当に言うだろうか。

 ではなく、「イエスの問いかけに勇敢にも信仰を持って、『とんでもございません!』と言った女をほめた」と考えれば、この話がスッと腑に落ちる話ではないか。

 どうやら、英語など他の言語の翻訳だと、全部この誤訳の方が採用されているようである。しかし、ヒエロニムスのラテン語訳だけが、上記のような「とんでもございません!」訳になっているという(参照:「イチジクの木の下で」山浦玄嗣)。さすがヒエロニムス。

 想像するに、「イエスに意見したなど、とんでもない」という先入観から、このような誤訳が生まれしまったのであろう。しかし、イエスも本気でこんなことを言っていたのであろうか。だとしたらイエス、ひどすぎないか?! イエスはそんな人種によって差別するような方ではない(ただし、アブラハムと神の契約、イスラエルと神の契約は変わらない)。私は、イエスのこのいじわるな問いかけは、周りにいたユダヤ人、とりわけ律法主義的な人々への皮肉だったのではないかと思う。だとしたら、このいじわる質問にも納得がいく。

 イエスは、「なぁ、外国人のおまえに奇跡はもったいないだろ?」と、あえて言った。まわりのユダヤ人は心の中で「そうだそうだ!」と思ったかもしれない。しかしカナン人の女は引き下がらなかった。イエスは女をほめた。さっきまで心の中で「そうだそうだ」と思っていたユダヤ人はどうだろう。赤っ恥である。イエスは見事に、彼らの心の中の差別意識をあぶり出したのだ。ユダヤ人しか神に選ばれていない」という当時の常識の中で、「いえ、とんでもございません!」と言えた女の信仰、素晴らしいではないか。

 

 

▼「指摘」のすすめ

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 いかがだろうか。アポロを教えたプリスキラとアキラ。ペテロを「ふざけんな!」と批判したパウロ。イエスに「とんでもございません!」と意見した外国人の女。どれも、立場を超えて、それでも自分の信仰に確信を持って、相手に「指摘」をした例である。同様の例は、他にも、モーセに意見したしゅうとのイテロ(出エジ18章)、ダビデ王に意見した将軍ヨアブ(第二サムエル14、24など)や預言者ナタンなど、枚挙にいとまがない。

 牧師は特別ではない。教会という共同体のひとつの働きだ。そんな立場で遠慮することはない。牧師が言っていることが聖書と違う、聖書とズレている、と感じたら、勇気を持って踏み出してみよう。イエスは、「まず個人的に」、「それから複数人で」、「その後で共同体全体で」という「指摘」の仕方をオススメしている。「裁く」と「指摘」は違う。勇気を持って、信仰に確信を持って、さぁ、今一歩、踏み出してみようではないか。

 

 ・・・とはいえ、実際難しいというのはよく分かる。後半は、具体的にどうしたらいいのか書こうと思う。実は、勇気を持って踏み出したが、「心の動機」が間違って、神に叱られたケースもある。次回はその教訓から学ぼう。当然、「判断基準は聖書」でという点も忘れずに。

 

(了)

【疑問】「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?<後編> ~奉仕で燃え尽きないために~

「奉仕」で燃え尽き症候群になってしまうクリスチャンが大勢います。何が問題なのでしょうか。

 

「奉仕とは何かf:id:jios100:20180529012334j:plain

 前回の記事<前編>では、奉仕とは何かまとめた。聖書において、「奉仕は、様々な場面で登場する単語である。奉仕は教会の中のピアノの奏楽や案内係、といった小さな枠には収まらない。あなたの人生そのものが「奉仕」なのだ。

 日本語の「奉仕」には「君主のそばにいて働く」という意味がある。あなたは君主たるイエスのそばにいるだろうか。また、「国のために働く」という意味もある。あなたは「神の国」のために生きているだろうか。

 「奉仕・仕える」といった日本語には「無償でする」という概念はない。報酬を目的とせず、誠実に相手に尽くすというモチベーションに力点が置かれている。

 日本のクリスチャンは、奉仕の天才だ。多くのクリスチャンが、教会で何かしらの「奉仕」をしてる。もはや奉仕のために教会に行っていると言ってもいいくらいだ。しかし、これまた多くの人が、奉仕が負担になり、次第に疲れ、燃え尽きてしまうというのも事実だ。なぜ日本のクリスチャンたちの多くが、教会の奉仕で疲労感を覚えるのだろうか。なぜ多くのクリスチャンが、「燃え尽き症候群」、いわゆる「バーンナウト」してしまうのだろうか。なぜ教会での奉仕が「仕事」になり、クリスチャンは奉仕の奴隷になってしまうのだろうか。今回はその問題点を指摘し、改善策を提案する。

 

 

あなたの居場所は「奉仕」ではない

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 奉仕をしまくるクリスチャンは、いずれエネルギーを失い、いわゆる燃え尽き症候群・バーンナウト」に陥る。燃え尽きた結果、人と関わるのを避けるようになる。教会の集まりに来るのをヤメてしまう人も多い。あんなに奉仕に熱心だった人がなぜ・・・というケースも少なくない。なぜそのようなケースが多発してしまうのか。

 私は、その原因はモチベーションにあると考える。あなたが奉仕をするのはなぜだろうか。一生懸命奉仕をする人は、たいてい「教会に仕える」とか、「神に仕える」とか言っている。本当だろうか。あなたの脳裏に「牧師」や「伝道師」「教会のリーダー」「婦人会のおばちゃん」の顔がチラついていないか。あなたの脳裏に「人からの評価」を気にする心はないか。

 人に認められたい。誰かの力になりたい。お世話になった人に恩返しをしたい。そういったモチベーション自体は素晴らしいものだ。しかし、それは永久に続くモチベーションではない。人は絶対ではない。人間は完全ではないから、変化する。良くも悪くも。エスではない誰かに、全幅の信頼を寄せると、いずれ裏切られる。絶望する。その人は変わっていなくても、自分が勝手に思い込んで、人間関係が壊れたりもする。逆もまた然り。やがて、自分の中のエネルギーは尽きてゆく・・・

 奉仕に夢中になる人を見ていると、どうも、奉仕の中に「自分の居場所」を見出している場合が多いような気がする。一生懸命奉仕をして、安心感を感じようとしているのだ。自分には価値があるのだと。奉仕をすればするほと、神に愛されていると錯覚してしまうのだ。または、奉仕をすればするほど、「信仰にアツい」と証明できると思っているパターンもある。

 とんでもない。あなたはそのままで、本当に本当に価値がある存在なのだ。あなたは、神が自分のひとり子を殺してまで愛した大切な存在なのだ。だから、もう奉仕を「居場所」にしなくていい。あなたの「居場所」は、イエスそのものなのだ。

 

わたし(イエス)はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

(中略)

父(神)がわたし(イエス)を愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(中略)わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

ヨハネ福音書 15:5~9)

 イエスの愛の中にとどまれば、そこが居場所になる。エスを居場所にすれば、あなたは喜びで満ち溢れる。そうイエスは約束している。

 では、イエスを「居場所」と感じるには、どうしたらいのだろうか。聖書は、困難が起こった時に、「イエスを見よ」「イエスのことを考えよ」とアドバイスしている。

 

こういうわけで、このように多くの証人たち旧約聖書でイエスについて預言した様々な人たち)が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙 12:1~3)

 この聖書の言葉には、あなたの「奉仕=人生」のモチベーションを決定づける要素が凝縮されれている。私たちは、なぜ人生という奉仕を走り続けるのか。あなたの目線の先には誰がいるのか。それはイエスだ。イエスは自分のいのちをてをかなぐり捨てて、あなたに寄り添ってくださったのだ。あなたに手を伸ばしてくださったのだ。どんなに大きな喜びだろうか。人は変わる。しかし、イエスは変わらない。いつも変わらず、ずっとあなたのそばにいる。

 走り疲れ、もう自分の力では動けない、という時、イエスが何をしてくださったか考えてみよう。きっと、あなたの心は元気を失わず、疲れない。

 

「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ

(中略)

若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

イザヤ書 40:6~31)

 エスの存在こそが、クリスチャンの奉仕の目的であり、モチベーションである。エスの愛は無条件の愛である。どんなに清く正しく生きたかは関係ない。だって、生まれる前に十字架で死んでいるのだから。

 

 

「御恩と奉公」が奉仕の理由

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 奉仕は「無報酬」ではないと前回述べた。ではクリスチャンの「報酬」とは何だろう。実は、クリスチャンの「報酬」は、既に「前払い」で払われている。それは、イエスのいのちだ。私たちが生まれる、ずーーーーっと前から、イエスが自分のいのちを差し出してくださったのだ。イエスが何をしてくれたか。考えるだけで喜びにあふれる。これが、「奉仕=人生」のモチベーションなのだ。人ではない。唯一の救い主、イエスこそが、あなたの奉仕のモチベーションだ。

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 「御恩と奉公」という言葉を聞いたことがあるだろうか。歴史の授業で習ったと思う。「御恩と奉公」とは、鎌倉時代室町時代の日本にあった制度で、以下のようなものである。

 

「御恩」将軍が、契約した武士の領地を保護したり、報酬を与える。

「奉公」武士が、契約した将軍に忠誠を誓う。戦争に出陣する。

 「御恩と奉公」は、将軍と武士との「契約」だ。武士は、将軍から「御恩」を受けるから「奉公」するのであって、その逆は成り立たない。そこがポイントだ。

 奉仕のマインドは、まさにこの「御恩と奉公」だ。クリスチャンは、イエスが十字架で罪を背負って死に、よみがえったことを信じる。クリスチャンは、神に信頼し、「契約」を結ぶ。信じれば救われるという契約だ。クリスチャンは、この恵みを受けるので、喜びを持って仕える。逆はありえない。必ず神の御恩が先に来る。 

 たくさん「奉公」したから神に認めらるとか、神に愛されるというのは間違いだ。また、「奉公していないから御恩を受けていない=奉仕していないから信仰が足りない」というのは、間違いだ。逆説は成立しない。この基本を忘れてはならない。

 

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方(イエス)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1:4~5)

 神の救いを実際に体感した人は、人生が変わる。生き方が変わる。この、「御恩と奉公」が身にしみてくると、奉仕を仕事と思わなくなるだろう。あなたのライフスタイルそのものが、自然と奉仕になってくるのである。

 

 

教会の実態に見合わない奉仕

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 これまでは、一人ひとりのモチベーションの話をしたが、もう少し実際の組織の話をしたい。日本の教会の多くが「身に合わない奉仕」が設定されてしまっている。実態よりも過剰な奉仕があるのだ。これは問題だ。

 日本の教会は、世界的に見たら圧倒的に小さい。アメリカでは「普通の教会」といえば、だいたい100~400人くらいの教会をイメージする。1000人以上の教会だってザラだ。韓国には何万人という教会もある。しかし、日本では50人いれば、大きな教会として数えていいだろう。

 その人数で、教会の様々なアクティビティを回そうとするから、大変だ。日曜の礼拝会の司会、賛美のリード、楽器の奏楽、案内係、子どもたちの日曜学校の教師、祈り会や聖書勉強会の運営、説教、式次第(週報と呼ばれる)の印刷、チラシの作成、掃除、受付、献金の管理、などなど・・・。教会の運営というのは数々の役割がある。全員でやればいいのだが、たいてい、50人くらいのメンバーがいると、中心的になるのは多くて10人ぐらい。この10人に圧倒的な負荷がかかる。牧師がこのほとんどを1人でやっているところもある。これでは潰れてしまうのは当たり前だ。

 こうなってくると、次第に、一緒に神に感謝し、祈り、歌い、もっと神のことを知るために聖書を読み、お互いに教え合う、といったような共同体の本来の目的がどこかにいってしまう。いつの間にか、日曜の礼拝会をうまく回すことが優先となり、教会の組織、運営、形を保つことが重要になってしまう。

 そのためには、教会メンバーを「執事」なり、「奉仕者」なり「スモールグループリーダー」なりの役職に任命して、奉仕を「押し付ける」しかなくなる。空気を読む日本人。依頼された奉仕を断りきれず、喜びのないまま続けてしまう。だんだんと日曜がおっくうになってくるという負のスパイラルが始まる。いつの間にか、「私が支えなきゃダメだ」「私がやらないと誰がやるんだ」といった感情に支配されてしまう。

 こうして、奉仕が、いつの間にか神や人を愛するためではなくて、組織を維持するためになってしまうのである。エスが「安息日」に関するやりとりで言ったことを思い出す。

 

そして(イエスは)言われた。安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」

(マルコの福音書 2:27)

 まさに今の日本の教会の奉仕の現状は、「人のため」ではなく、「教会のため」になってしまっているのではないか。私たちは教会という組織のために造られたのではない。私たちのために、教会という共同体があるのだ。というか、私たち一人ひとりが教会の一部分なのだが・・・。

 何のための日曜の礼拝会か。何のための奉仕か。もう一度見直すべき時が来ているのではないか。

 

 私は、日本の教会は、ほとんどがムリをしていると感じる。少ない人数で、フルバンドの賛美。相当なムリをしてやっと維持している今流行りの「祈りの家」。水曜日の祈り会。聖書勉強会。イベントの数々。教会の修養会。カフェの経営。バザー。などなど・・・教会の活動は多岐にわたる。

 本当にそれらの活動は、必要なのか。需要と供給がマッチしてるか。必要なスタッフはいるのか。経済的余裕はあるのか。器に見合わない仕事を設定していないか。ムリをしていないか。

 神が100の能力を与える人もいるが、50の人もいる。30の人もいる。大切なのは、どれだけやるかではない。これはイエスの有名なタラントのたとえ(マタイ25章など)でも明らかだ。大切なのは、もらった能力、人数、時間、経済力などに応じて、どれだけ誠実に奉仕するかだ。大切なのは結果より、モチベーションだ。

 そう考えた時に、私はどうしても日本の多くの教会が器に合わない活動を広げてしまっているように感じてならない。集った仲間通しで助け合い、もてなし合い、お互いがさらにイエスに近づいていく、お互いに愛し合い、祈り合い、助け合う、という本来の目的を見失ってしまっているように思えてならない。聖書にもこう書いてある。

 

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

(ペテロの手紙第一 4:8~11)

 「神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい」とある。ふさわしく、というのは、もちろん一生懸命やるという意味もあるが、同時に「過剰でない」という意味もある。過剰にやりすぎているのは、「ふさわしい」奉仕ではない。神が備えてくださる力以上のことを、自分の力でやろうとしていないか。今一度立ち止まり、「やりすぎていないか?」「本来の目的からそれていないか?」と考えてみようではないか。

 

 

あきらめる勇気

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 私は、日本人のクリスチャンに対して、「あきらめ」をオススメする。教会のサイズに見合った奉仕を設定するのが良いと思う。もう自転車操業はやめたらいい。いずれつぶれてしまう。永遠に残る教会などない。いずれなくなる。だったら、教会の体裁を保つのに、そんなに頑張らなくていいではないか。

 例えば、ピアノをひける人がいなければ、アカペラでやればいいのだ。少しピアノができる人に無理強いしてやらせる必要はない。私が10代の頃通っていた長野の田舎の教会は、日曜の礼拝会出席者が5、6人しかいない時代があった。楽器ができる人がいないので、賛美はなんと、なつかしのミニディスク=MDでやっていた。MDを流して、それに合わせて歌うのである。もう歌の繰り返しのパターンも決まっているから、だんだんと覚えてしまう。しかも、パソコンもプロジェクターもないから、歌詞はOHPでアリモノしかない。MDも4曲くらいしか入っていないものが2種類しかなかった。つまり私たちは、8曲の賛美をヘビーローテーションして賛美していたのである。毎週、毎週、同じ賛美。一体、何度「主はアルファでオメガ~」と歌ったことだろう(笑)。

 しかし、そのMD賛美には、確かに喜びがあった。5、6人が大声張り上げて、感謝と喜びをもって歌い上げていた。東京に上京したとき、フルバンドのクオリティ高い音楽を聞いても、傍観者のようにしていたクリスチャンたちを見た時は、なんだか違和感を覚えたものだった。

 週報の印刷もそうだ。そもそもアレは必要なのか? 労力の割に誰も見ていない気がするのだが・・・。目次ならホワイトボードに書いて置いておけば済む。紙もムダだし、時代遅れだ。ヤメたほうがいい。

 案内係、必要か? そもそも、一人ひとりの出席者が自発的に初めて来た人に話しかければ済む。あなたの教会ポスト、必要か? 日曜学校という形、必要か?

 教会の修養会を、びっちりスケジュールで埋める必要はあるのか? 計画だけに一生懸命になって、「開催すること」自体が目的化していないか?

 今流行りの「祈りの家」、本当に必要か? 韓国のメガチャーチの体力、人数、経済力に騙されていないか? イエスサマリアの女に「どこでも礼拝できる」と言ったのではないか。どこでもかしこも祈れることを教えた方が、100倍いいのではないか。教会を24時間無理して開放するより、教会の仲間がいつでもどこでも祈る、祈りの戦士になった方がいいのではないか。

 別に、週報がいらないとか、案内係がいらないとか、祈りの家がいらないと言いたいのではない。そこは誤解なきようお願いしたい。それぞれ、素晴らしい働きだと思う。ただ私は、一旦立ち止まって考えてみようと言いたいのだ。何が目的で、その奉仕を設定しているのか。そして、現状は目的にマッチしているか。全ての奉仕を意図的にしてみたら、きっと今より効果的になることは間違いない。できることからはじめよう。

 

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

箴言 15:17)

 イベントや教会を大きくするより、大切なことがある。

 日本の教会は、アメリカや韓国の影響を受けているところも多い(自分調べ)。彼らのアドバイスは、とても貴重だ。しかし、教会のサイズも文化もまるで違うのだから、そのまま鵜呑みにしてはいけない。特に、韓国系の教会にいた私の経験からすると、韓国の教会や宣教師は、「無理してやる」ことを勧めがちだ。彼らは、「信仰があるなら、やるでしょ?!」「仕事より家族より、まずは神様でしょ?」と言ってくる。彼ら自身のモチベーションに私は賛同こそしないが、彼らの心自体は純粋で素晴らしいと思う。しかし、それは韓国の儒教文化、加えて、何百人、何千人いるメガチャーチだから成り立つし、うまくいく。数十人、多くてもせいぜい100人程度しかいない日本の教会で同じことをやろうとすると、つぶれてしまう。声を大にして言いたいが、「神のために」といって仕事や家族や人生を放り投げるのは、「奉仕」とは言わない。「無謀」と言う。エスは「わたしのために家族を捨てる者は報いを受ける」と確かに言ったが、これは意味が少し違う。別の記事をいつか書きたいなと思っている。簡単に言えば、イエス一派と一緒にいたら親子もろとも殺されるようなヤバイ政治状況だったということ)

 日本には、日本に合った教会のあり方、奉仕のあり方があると思う。すべてをかなぐり捨てて教会のために人生を使うのもいいかもしれない。しかし、あなたの人生すべてを通して、仕事も遊びも家族団らんも、イエスといつも一緒にいるという生き方を、私はオススメしたい。いつでもどこでも、イエスを宣言するという生き方を、私はオススメしたい。

 

 

奉仕を辞める勇気

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 また、奉仕を喜びをもってやっていたが、様々な事情で続けるのが難しくなる状況にある人もいる。私のオススメとしては、ちょっとでも「負担」だと感じたら、奉仕をストップしてほしい。その勇気を持ってほしい。神に信頼する仲間を愛せなくなり、お互いを憎しみ合うようになってしまった時点で、ズレてしまっているからだ。

 日本人は、責任感が強い。今やっている奉仕を辞めるのは、無責任と考える人がいる。とんでもない。本来の目的と心がズレてしまっている状態で、奉仕を続ける方こそ無責任だ。ハッキリ言う。その状態で奉仕を続けられるのは、他の人にとって迷惑だ。

 人生いろいろ。仕事で大失敗することもあるだろう。仕事で大炎上したり、クビになってしまうかもしれない。夫婦仲がハイパー険悪になってしまうかもしれない。子供が病気になったり、グレたりするかもしれない。心身が病気になることもある。単純に他の教会スタッフの人と合わないこともある。聖書を読めなくなる時だってあるだろう。

 でも、あなたがその責任を感じる必要はない。あなたのせいじゃない。そういう困難は、神が与えるものだと聖書に書いてある。

 

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 苦しみでさえ恵み! ワオ! 聖書は面白いことを言う。なぜ、神はこのように私たちを苦しめるのか。また後日、「苦しみと成長のらせん階段スパイラル」についても記事を書くが、今回はヘブル12章の聖書の言葉を紹介するに留める。

 

肉の父(実際の父親)はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙 12:10~11)

 だから、奉仕を辞めたいと内心思っている人にオススメしたい。奉仕を辞める勇気を持とう。「私がやめたらどうなるの」と思うかもしれない。実は、意外とどうにかなるものだ。私も、「全部自分でやりたい」という性格なので、懸念はよく分かる。しかし、自分が手放した方が、実はいい結果になる場合も多いのだ。

 奉仕者を抱える教会スタッフにオススメしたい。辞めたいという声を敏感に察知してほしい。そして、快く休ませてあげてほしい。組織をまわすことより、一人の苦しみに寄り添ってほしい。苦しんでいる人に、さらに重い荷物を乗せないでほしい。イエスは、そのようにしているパリサイ派の人々を批判したのではないか。一緒に奉仕している仲間の心の状態に、お互いに敏感になれたらいいなと、私は思う。

 

 

 

「無償」は当たり前ではない

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 奉仕は無償のものだと思っていないだろうか。既に述べたように、「奉仕」という日本語に「無償」という意味合いはない。実は、ヘブライ語ギリシャ語でもそうだ。

 しかし、クリスチャンは「イエスのいのち」を前払いされているので、既に報酬は受け取っている。では、クリスチャンは教会のために、何でも「タダ働き」しなければならないのだろうか。

 旧約聖書で「奉仕」という言葉が使われているのは、ほとんどがレビ族や祭司が幕屋や聖所といった聖なる場所で仕事をする場面だ。レビ族や祭司は、「相続地」の割り当てがない代わりに、イスラエルの民が献上する「いけにえ」を報酬として受け取っていた。現代において、公務員が税金から給料をもらっているのと、構図は似ているので、そんなイメージでいいだろう。とすると、レビ族や祭司は給料をもらって「奉仕」していたのだ。

 新約聖書時代はどうだろうか。パウロはこんなことを言っている。

 

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる者を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 7~14)

 パウロは、レビ族や祭司が報酬をもらっていることを引き合いに出し、福音の働きをする人も、生活のための収入をもらうのは当然だと語った実は私は以前、これは、「牧師」や「宣教師」などの、いわゆる「フルタイム奉仕者」の人が給与をもらうべきだと解釈していた。しかし、他の奉仕をする人だって、福音のための働きをしているわけなのだから、「生活の支え」を得ていいのではないか。

 クリスチャンは、何にも代えがたいイエスのいのちをもらっている。だから、それに感謝して奉仕する。それは大大大原則だ。しかし、なぜ牧師や宣教師は「有料」でやっていることを、他の信者は「タダ働き」が当たり前になっているのか。ちょっとおかしくないだろうか。

 私は、大胆な提案をしたい。教会は、できたら「奉仕者」に報酬を出したらどうか。バイト代程度でいい。もちろん、これは実務的に教会の規模や経済力にもよるだろう。難しいのは分かっている。牧師の給与ですら雀の涙程度しか出せないのが日本の教会の現状だ。私が言いたいのは、「無料奉仕は当たり前ではない」というマインドを持ってほしいということだ。

 最低でも、教会に賛美アーティストやメッセンジャーパフォーマーなどを呼ぶときは、報酬ありきで考えよう。働きをしている人に、報酬を払うのは当然ではないか。これは、聖書だけではなく、一般社会の常識でもある。 

 

 

支え合うコミュニティ

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 教会は、お互いに、お互いを大切にし合うコミュニティだ。その中心はイエスだ。互いにイエスの方を向き、神に近づくのが目的だ。そうやって、その共同体が神の取り仕切りの中で、ひとつに繋がっていく。それが神にある共同体だ。

 

キリストによって、(キリストの)からだ全体(=教会)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

  まず、教会の一人ひとりが、組織や人からの評価ではなく、イエスに向かっているか。「行い」ではなく、「恵み」が原動力となっているか、チェックしよう。教会がうまく回ること、礼拝会が滞りなく進むこと、イベントが成功することより、それを通して一人の人がイエスにより近づけるか、考えよう。

 もし、完全なイベントをしても、そこで語られたメッセージや気持ちの盛り上がりは、やがて忘れてしまう。しかし、段取りがダメダメなイベントでも、一人の人が、誰かとの個人的な会話で、「はっ」と気付いたことは、人生の糧となる。だったら、そっちの方が魅力的じゃないか。

 その意味で、「奉仕」を存分に利用しようではないか。「ギター上手いね! 今度一緒にやってみない?」「スモールグループ、リードしてみない? 楽しいよ!」「イベントの準備、一緒にやってみない?」と、誘ってみよう。そうやって誘うのと、「メンバーなんだから奉仕してよね」「そろそろ受けるより流す側にならないとね」というのでは、だいぶニュアンスが違ってくる。どうせなら、楽しく、トムソーヤ少年が楽しそうにペンキを塗ったように、奉仕に誘ってみようではないか。「それぞれの分に応じた働き」を通して、愛の中に建てられていこうではないか。

 

 

マルタとマリアの話

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 奉仕をたくさんする人が偉いわけではない。最後に、有名な、マルタとマリアの話を紹介する。

 

さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせていてるのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」主(イエス)は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」

(ルカの福音書 10:38~42)

 このエピソードでは、姉妹とされているマルタとマリアが対比されている(どちらが姉か妹かはハッキリしない)。イエスのためを思って、あくせく給仕する、文字通り「奉仕した」マルタ。一方、イエスの足もとに座って、ただ話を聞いていたマリア。対照的である。「何よあいつ、私ばっかりに仕事させて。何もしてないじゃない」。マルタは、何も手伝わないマリアに腹がたったのだろう。イエスに訴える。「イエスさま、コイツになんとか言ってくださいよ!」と。しかし、イエス「マリアが良い方を選んだ」と言う。マルタ、赤っ恥。

 しかし、私は、どうしてもマルタが嫌いになれない。だって、あのイエスさまが来たんだから、精一杯のもてなしをしなきゃと思うのは当然ではないか。美味しいものを作らなきゃ。あっ、お茶は出したかしら。部屋は片付いているかしら。村のみんなを呼んできた方がいいかしら。飾り付けは・・・など、考えることでいっぱいだっただろう。「心が乱れている」のは当然だ。一般常識では、一生懸命働いているマルタの方が、ただイエスの話を聞いていたマリアより偉いに決まっている。

 しかし、イエスは逆だという。イエスは、「聞き入る」のが大切だと言ったのだ

 多くの日本人は、マルタ・タイプ。教会のほとんどの人は、マルタ・タイプ。一生懸命、神のために、イエスのために、そして教会のために働いている。その働き自体は素晴らしい。しかし、そうやって「心が乱れて」くると、「私はこんなにやっているのに、あの人はやっていない」「私はこんなに尽くしているのに、あの人はチャランポランだ」という思いに支配される。エスは、マルタのそのような心の中の思いを指摘したのではないか。

 あなたは、マルタのような心になっていないか。「あの人は何もしていない」「あの人は全然礼拝会に顔を出さない」「あの人は金持ちなのに献金してない」とか思い始めたら黄信号。目線がイエスからずれてしまっているかもしれない。

 「聞く」というヘブライ語の単語は「シェマ」。単純に「聞こえる」だけでなく、「聞いて、従う」という意味がある。旧約の一番大切な教え「心を尽くし神を愛せよ」の一番最初は、「聞け、イスラエル」である。

 イエスは、「聞き入る」のが大切だと言う。イエスは何と言ったか。「互いに愛し合いなさい」ではないか。わたしたちは、教会をまわすことより、奉仕をたくさんすることより、互いに愛し合うことを、第一にしようではないか。

 

主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一 15:22)

 

 奉仕をたくさんする人が偉いのではない。イエスはこう言っている。

 

まことに、あなたがたにいいます。(生き方の)向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

(マタイの福音書 18:3~4)

 

(了)

【疑問】「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?<前編> ~奉仕とは何か~

教会に通いだすと、「奉仕」をやらないかと勧められる。たくさん「奉仕」をした人は偉いのだろうか?

 

「奉仕」の奴隷となっているクリスチャン

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 あるクリスチャンの友人が、体験談を話してくれた。彼は、以前所属していた教会でリーダー的な役目を担っていた。イベントの企画、教会の中のグループの取りまとめ、ピアノの奏楽など、様々な活動があった。クリスチャンではない人を、何人以上教会に誘うといったノルマまであったのだという。彼は「奉仕」に疲れ、教会に行くのが嫌になったと語った。

 こうした様々な活動を、クリスチャンの世界では、「奉仕」と呼ぶ。そして、多くのクリスチャンが、この「奉仕」のために教会に通っている。イエスを信じ、最初は希望に溢れて教会に通い出す。しかし、ある程度教会に通うと、この「奉仕」の一旦を担うよう打診される。はじめは、自分が共同体の一体となったように感じ、「自分でいいのかしら」という思いも持ちながら、引き受ける。始めた頃は楽しい。しかし、だんだんと最初の気持ちを忘れ、「奉仕」が「仕事」に変化する。次第に、クリスチャンはこの「奉仕」の奴隷となる。毎週日曜日がおっくうになる。教会が喜びの場所ではなく、息苦しい場所になる。

 このように、「奉仕」の奴隷になってしまっている人を、私は大勢見てきた。ただでさえ働きすぎの日本人が、月曜から金曜、人によっては土曜まで働き、そして日曜日も教会で「労働」しているのである。これでは潰れてしまう。

 「奉仕」が「仕事」になってしまったら本末転倒だ。しかし、教会によっては、「奉仕をしなければ信仰がない」というようなことまで教えられるところもある。そのような教会は、いわば、「神の恵みを感じるなら、奉仕をするはずだ」といって、信者をタダで働かせまくるのである。ブラック企業ならぬ、ブラック教会。とんでもない話だ。

 前半の今回は、「奉仕」とは何かという視点でまとめる。

 

 

「奉仕」「仕える」とは何か1 ~日本語の意味~

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 そもそも、「奉仕」とは何だろうか。聞き慣れない日本語である。私が、小学校6年生の時に転校した学校には、「奉仕委員会」なる委員会があったのだが、意味が分からなかった。聞くと、「ボランティア」という意味だという。本当にそうなのか。辞書をひいてみた。

ほうーし【奉仕】<広辞苑6版>

1:つつしんでつかえること。奉事。

2:献身的に、国家・社会のためにつくすこと。「社会奉仕」

3:商人が客のために特に安価に売ること。サービス。

ほうーし【奉仕】<新明解国語辞典

1:報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと「無料奉仕」

2:商人が安い値段で品物を売ること。サービス。

 日本語の「奉仕」は主に1:つつしんでつかえる 2:国家につくす という意味合いがあるようだ。商売関連の「奉仕」は、現代ではあまり聞かないし、特殊なので今回は省く。

 「奉仕」には、意外にも「無報酬」という意味合いがないのがポイントだ。新明解国語辞典」には「採算を度外視して」とあるが、「無報酬」という意味ではない。同項目に「無料奉仕」という熟語が例示されていることから分かるように、「奉仕」は通常、「無報酬」で行うものではない。もし奉仕が無料のものだったら、「無料奉仕」は、「無料無料」という熟語になってしまい、意味の重複だ。

 奉仕はあくまでも、「なにかのために、誠心誠意、利益を気にせず働く」という意味である。今の国家公務員が、ほとんど残業代が出ない中、昼夜問わず働いているのは、まさに「国家のための奉仕」といえよう。

 一方、英語の「volunteer<ボランティア>」は、英英時点で調べてみると、意味合いの力点が「自発的」かつ「無報酬」というところにある。有料だったらボランティアではなく、バイトである。だから、「奉仕」と「ボランティア」は明確に違う。また、「servie<サービス>」という単語は、公的機関での「仕事」というニュアンスが強いように受け取れる。

 

 ついでに聖書に「奉仕」とあわせて、よく出てくる「仕える」も調べてみた。

つか・える【仕える】<広辞苑6版>

1:目上の人の身近にいてその用を足す。かしずく。奉仕する。

2:宦などについて職を行う。

つか・える【仕える】<新明解国語時点>

1:主君・主人などのそばに居て、不自由が無いように働く。「病床の親に仕える」「神に仕える<奉仕する>身」

2:<身分・俸給を得るために>(役人として)勤める。

おまけ

かしず・く【傅く】<広辞苑6版>

1:子どもを大切に育てる。

2:人につかえて、世話をする。貢献する。 

 「仕える」はより明確で、1:主君のそばにいて働く 2:役人が国のために職務を遂行する の2つの意味である。どちらも「有償」なところがポイントだ。「仕える」は無報酬に力点がおかれているのではなく、1:その人のそばにいてうやうやしく働く2:国家・社会のために働いているというモチベーションに力点が置かれているのである。

 「奉仕」「仕える」は、どちらとも、基本的に対象は「人」だ。概念は対象にならない。「国」や「社会」は概念に近いが、特殊な用例である点と、公務員は「国民」のために仕えているのだから、不自然ではない。人間は、「殿様に仕える」とか「両親に仕える」とはいっても、「パソコンに仕える」とか「哲学に仕える」とかは言わないのである。

 こう見ると、よく例の「ブラック教会」などで聞かれる、「教会に仕える」という言葉は、どうも日本語として違和感を覚える。私たちは、「神に仕える」、「イエスに仕える」、「信仰の仲間に仕える」ことはできても、「教会(組織)に仕える」というのは、モチベーションとしてはもちろん、日本語としてもなんだかオカシイ話なのである。

 もちろん「国会」「社会」と同じように「教会」に所属する「人」に仕えているのだ、という主張もあろう。しかし、「教会に仕える」という際に、あなたが思い浮かべているのは誰だろうか。たいてい、「教会という漠然とした組織」または「牧師や伝道師など教会のリーダーたち」を思い浮かべているのではないだろうか。もしあなたが組織に仕えているとしたら、あなたは実態のない、空虚な「組織」というシロモノにあなたのエネルギーと時間を使っているのである。それは、ハッキリ言って虚しい。

 

 まとめると・・・

・日本語の「奉仕」「仕える」に、「無償」の意味はない。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「対象者のそばにいて働く」という意味である。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「役人が国のために職務を遂行する」という意味もある。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「人」が対象であって「モノ・概念」は対象とはなりえない。(国家、社会、会社などは、所属する人が対象になる)

 日本語の「奉仕」「仕える」の意味は、ある程度整理できた。では、聖書の大元、ヘブライ語ギリシャ語ではどうなのだろうか。

 

 

「奉仕」「仕える」とは何か2 ~ヘブライ語ギリシャ語の意味~

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 日本語の「新改訳聖書3版」では、「奉仕」が128回(旧約102回・新約26回)、「仕える」は181回(旧約139回・新約42回)登場する。無視できない、非常に重要な単語だといえる。

 「奉仕」にあたるヘブライ語は、「アボダー」で、これは「仕事」という意味である。「労働」や「奴隷の労働」を指す語である。旧約には141回登場し、そのうち102回が「奉仕」となっている。英語(KJV)でもほとんど同じ回数「serivce」と翻訳されている。「work」と翻訳されている回数は意外に少なく、10回のみ。後述するが、この語が使用されているのは、ほとんどが神殿や幕屋での役目を担っていたレビ族や祭司の役割を説明する時のものだ。祭司やレビ族は、当然無報酬ではなく、対価をもらっていた、れっきとした、生まれながら割り当てられる仕事だった。

 「仕える」は単純に「アボダー」の動詞形「アボッド」で290回登場する。英語ではほとんどが「serve」と翻訳されている。これも同じく、ほとんどが祭司やレビ族が幕屋や神殿で仕事をする時に使われている。

 「奉仕」、「仕える」にあたるギリシャ語は、「ラトネオー」(働く)、「ドゥーレノー」(奴隷として服従する)や、「ディアコネオー」(役に立つ・お世話をする・給仕する)など、様々だ。このうち、「ディアコネオー」は最も多く、37回登場する。

 

 

「奉仕」「仕える」の単語の使われ方

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 単純に単語だけを見ても分からない部分が多いので、聖書で「奉仕」と「仕える」という単語がどのように使われているか調べてみた。ざっと以下である。

 

●「奉仕」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:幕屋、聖所の奉仕全般(レビ族、祭司)<出エジ全般>

2:いけにえを献上する(イスラエルの民)<出エジ36:5>

3:主の宮で歌を歌う、賛美(レビ族)<1歴代6など>

4:天幕などの門番(コラ人)<1歴代9、26など>

5:立琴で預言する(アサフ、へマン、エドトン)<1歴代25>

6:王に奉仕する地区長の役割(レビ族、ヘブロン人)<1歴代26>

7:いけにえをささげる(レビ族、祭司)<2歴代35など>

 

【新約】

1:神が望むことを行う(ユダヤ人)<ヨハネ16>

2:祈り・みことばを語る(マッテヤを含む新十二弟子)<使徒6>

3:宣教の活動(パウロ)<使徒21、26など>

4:共同体の中で働く(信者たちへのすすめ)<ローマ12、エペソ4>

5:献金、支援物資を運ぶ(パウロ)<ローマ15>

6:献金をする、支援物資を送る(異邦人信者たち)<ローマ15>

7:神の命令を守って生きる(信者へのすすめ)<1コリ7>

8:宮で仕える(祭司やレビ人)<1コリ9>

9:いろいろな種類がある(一般論)<1コリ12>

10:もてなすこと(ステパノの家族)<1コリ16>

11:福音を伝える(3とほぼ同じ)(テモテ)<ピリピ2>

12:自由であることを教える(テモテ)<1テモテ4>

13:主人に仕える(奴隷)<1テモテ6>

14:旧約の預言者たちの預言(預言者たち)<1ペテロ1>

15:信仰の仲間と助け合う(信者全般)<1ペテロ4>

 

◎「仕える」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:働く(エサウ)<創世記25>

2:王のもとで働く(ヨセフ)<創世記41>

3:神にいけにえをささげる(イスラエルの民)<出エジ10>

4:奴隷、雇い人として働く(イスラエルの民)<出エジ14>

5:異邦の神々を崇拝する(イスラエルの民)<出エジ23>

6:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<出エジ35>

7:神に従う(イスラエルの民)<ヨシュア24>

8:お供をする(預言者エリシャに仕えたゲハジ)<2列王8>

 

【新約】

1:誰かの下で働く(しもべ、雇い人、奴隷)<マタイ6>

2:給仕する、お世話する(イエス)<マタイ20>

3:神のことばの働きをする(聖書筆者たち)<ルカ1>

4:神を礼拝する(信者全般)<ルカ1>

5:お供をする(イエスの弟子たち)<ヨハネ12>

6:食事を提供する(弟子たち)<使徒6>

7:星を拝む(イスラエルの民)<使徒7>

8:いけにえをささげる(レビ人・祭司)<1コリ9>

9:(新しい)契約を守る(信者全般)<2コリ3>

10:福音を宣べ伝える(パウロ)<エペソ3>

11:共同体のために働く(パウロ)<コロサイ1>

12:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<ヘブル13>

 

 旧約と新約での「奉仕」、「仕える」の概念をまとめると以下のように絞れると思う。

【聖書の「奉仕」「仕える」の種類】

1:祭司やレビ族が幕屋や聖所に関する職務を行う。その全般。幕屋の建設、運搬、いけにえ、賛美、門番など。

2:王や主人など、誰かのもとで働く。雇われて働く。

3:神、異邦の神々を崇拝する。神に従う。神の命令を守る。

4:祈りやみことばを語る。宣教の活動。福音を伝える。

5:共同体の中で仲間を助ける。もてなす。給仕する。

6:献金をする。支援物資を運ぶ。

 

 

私たちにとって「奉仕」とは

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 上記の6つの「奉仕・仕える」は私たちにとってどのような意味があるのだろうか。

 

1:祭司としての奉仕

 1番は、一見、旧約聖書時代だけの話に見える。しかし、今や私たちはメシアであるイエスによって、「王であり祭司」である。

 

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

(1ペテロ 2:9)

 クリスチャンは、イエスにあって王であり、祭司である。神の栄誉を告げ知らせるのが、祭司の役目。つまり、1番は2~6番全てにかかる、「自分は神の祭司である」というモチベーションにかかってくる。「王である祭司」は、自分の人生全てを通して、神の栄誉を告げ知らせるのである。

 

2:雇い人としての奉仕

 2番は、主に「奴隷」に関することである。「奴隷」といっても、聖書に出てくる「奴隷」は、南北戦争の際のアメリカ南部で使役された奴隷とは少しニュアンスが違う。「住み込み雇い人」とでも言おうか。単純化すれば「雇い人・エンプロイー」である。

 サラリーマンならば、会社のために働く。公務員なら公共機関に。自営業なら自分の事業のために。それぞれが、それぞれの仕事をして生活している。聖書は、誠実に働くよう勧めている。

 

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙4:28)

 クリスチャンは、「教会での自分」、「職場での自分」という区別をつけるべきではない。TPOにふさわしく振る舞うのと、裏表があるのは違う。あなたは、いつでもどこでも100%イエスを愛して、イエスに自信を持って、イエスを堂々と宣言して生きているだろうか。あなたは、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス大好きな姿勢で、仕事をしているだろうか。

 仕事の仲間に誠実に、仕事の相手に誠実に、そして仕事でかせいだお金に誠実に生きる。これが「雇い人」としての奉仕である。

 

3:イエスの弟子としての奉仕

 クリスチャンは、もちろん、この世界を創った唯一の神に信頼する、神のしもべである。そして、イエスの弟子である。イエスが十字架で犠牲となっため、旧約聖書の律法を守る必要は既になくなった。今の私たちは、イエスの新しい教えを生きる指針として、生きる。イエスの最大の教えは以下である。

 

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 互いに愛し合う。これがイエスの新しい戒めである。お互いを大切に思い、思いやりを持って支え合って生きる。その生き方が、イエスの弟子としての生き方である。当然、神を大切に思い、神に従うのは、その大大大前提である。

 

4:宣教者としての奉仕

 クリスチャンは、どこにいても、何をしていても、福音を伝える宣教者である。あらゆる聖書の言葉が、福音を伝えるよう教えている。

 

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

(マタイの福音書 28:19~20)

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙 第一 9:16)

 信徒全般へのすすめもあれば、パウロからテモテへのすすめ、パウロ自身の思いなど、ざまざまな形で、福音を伝えよと命じられている。クリスチャンは、牧師、宣教師などにかかわらず、全員がその生き方すべてを通じて、イエスの十字架と復活の福音を伝える役目を追っているのだ。実際、何の役職もないプリキラとアキラは、宣教者であるアポロに聖書のことを教えた。

 

この人(アポロ)は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを性格に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18:25~26)

 

 

5:共同体の仲間としての奉仕

 教会というのは、信者の共同体である。組織ではない。教会という組織をうまく回すための働きが奉仕なのではなく、共同体の仲間を支え合い、助け合うのが奉仕である。聖書の中には、様々な助け合い、もてなしの奉仕があった。

 

信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

使徒の働き 2:44~47)

 はじめの頃の共同体は、財産を分け合い、富んでいる者も、貧しい者も一緒に助け合って生活していた。食事を作る者も、片付ける者もいただろう。それぞれが、それぞれの役割を果たして助け合っていたのだ。

 

またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の子の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。(中略)やもめたちはみな彼(ペテロ)のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

使徒の働き 9:36~39)

 ドルカスという女性は、得意技の裁縫で、仲間に服を作ってあげていた。貧しく、服も満足に繕えない人々にとって、彼女の存在は、どれほど優しく、あたたかみのあるものだっただろうか。

 

あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと行っています。彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。

(コロサイ人への手紙 4:12)

 エパフラスという人は、離れた場所にいた信仰の仲間のために祈っていた。当時は、スカイプはおろか、ケータイも何もない時代である。名前も知っていたかどうか怪しい。エパフラスは、顔も知らない人々のために、いつも祈っていたのであった。

 他にも、食事を作って給仕をしたり、献金や支援物資を運んだり、聖書のことばを教え合ったりと、一人ひとりが、自分の得意技で、できることを、できるペースで、できる量を共同体の中でやっていた。それぞれの働きが尊く、大切で、優劣がないのは言うまでもない。

 

 

6:捧げる者としての奉仕

 自分の持っているものを捧げるのは、とても大切な「奉仕」である。「自分が所属する教会にたくさん献金を捧げる」なんていうケチケチした考えではない。それはカンチガイだ。献金についての記事はこちら)

 最初の頃の共同体は、お互いを支え合っていた。現に、遠くにある共同体が、エルサレムにいる信仰の仲間のためにお金や物資を拠出し、パウロたちはそのお金や物資を運んでいたのである。

 

しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私(パウロ)はエルサレムに行きます。それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。(援助)私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。

(ローマ人への手紙 15:25~31)

 最初の頃の信者たちは、自分が何人か、どこの共同体に所属しているかに関わらず、お互いを金銭的に、物質的に援助しあっていたのだ。なんと寛大な心、壮大な連帯であろうか!

 

 

まとめ:「奉仕」はあなたの「生き方」である

 「奉仕」とは何かを、細かくみてきた。「奉仕」は、あなたの所属する教会の中で、ピアノをひいたり、子どもクラスをリードしたり、案内係をすることだけではない。もちろん、そういった一つ一つの教会の役割も大切だ。優劣などない。しかし、本来「奉仕」とは、あなたの生き方そのものなのだ。あなたの生き方を通して、イエスの素晴らしさを示す。あなたの置かれている場所で、誠実に働く。あなたの口で、神を賛美し、福音を伝える。共同体の中で、自分に何ができるか、神に聞き、小さな助け合いを実行する。なけなしのこづかいで、遠く貧しい信仰の仲間に献金をする。それら一つ一つが、「奉仕」だ。あなたの生き方が奉仕になるのである。

 ステージの上で聖書の言葉を語る牧師や、ステージの上で歌う賛美リーダーだけが偉大な奉仕者ではない。朝、誰も来ていない教会に来て、人知れずトイレ掃除をする。誰も見向きもしない人に話しかける。誰も手をつけない皿洗いを人知れず、こっそりやっている。そのような人が、偉大な奉仕者ではないか。

 もっと大きな「奉仕」のスケールを持とう。日本語の「仕える」は、「主君のそばにいる」という意味がある。あなたは、あなたの主君、ただ一人の神のそばにいるだろうか。あなたが仕えているのは、教会組織だろうか。それとも、目の前の一人にだろうか。あなたは、目の前の一人の人の瞳の中に、イエスを見出しているだろうか。

 

 後編は、「奉仕でつぶれないために」、「奉仕のモチベーション」について書く。

 

(了)

【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<後編> ~洗礼は救いの条件でも、牧師の特権でもない~

「洗礼」は救いの条件なのだろうか。

▼洗礼とは何か

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 前回の記事では、洗礼とは何かをまとめた。簡単にポイントだけ挙げる。

 

1:「洗礼」は、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエス「霊」バプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 さて、以上の点をふまえた上で、次回は以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

 この3つについて、順番に見ていこう(※本来、「洗礼」は「バプテスマ」と表記すべきであるが、分かりやすさを優先し、この記事では基本「洗礼」と記する)。

 

▼「洗礼」はクリスチャンになる条件ではない

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 「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」の儀式である。これは前編で述べた。では、洗礼は救いのための条件なのだろうか。言い換えれば、「洗礼を受けた時にクリスチャンになる」のだろうか。「洗礼を受けなければ、たとえイエスを信じていてもクリスチャンではない」のだろうか。色々な意見があると思うが、私の個人的見解は、完全にNOである。聖書にはこう書いてある。

 

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(中略)では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある」。これは、私たちが述べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙 10:3~10)

 ハッキリと、「人は心に信じて義と認められ」「口で告白して救われる」と書いてある。洗礼の「せ」の字もそこにはない。私たちは、ただメシアであるイエスを信じ、受け入れ、宣言することによってのみ救われるのだ。洗礼は、救いとは全く関係がない。私たちは洗礼によって救われるのではなく、「イエスを主と告白するなら救われる」のである。

 また、別にハッキリと「洗礼は救いではない」と書いてある箇所がある。先の、ノアの箱船の箇所だ。

 

この水(ノアの洪水の水)はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

(ペテロの手紙第一 3:21)

 洗礼は、良心をもって、イエスを信じる告白をした後に行う「誓約」である。いわば、「信仰を公に表明する儀式」といってもいいだろう。よく「洗礼式」は「神との結婚式」とも言われるが、この「誓約」という文言から来た発想であろう。

 洗礼の「水」は、罪を取り除く象徴ではない。罪を取り除く象徴は、キリストの血である。「水」は生まれ変わりの象徴であり、誓約の証である。

 洗礼は救われる条件ではなく、救われたことを宣言する儀式なのだ。順番を整理しよう。

 

1:福音を聞き、イエスを信じる

2:救われる。義と認められる。

3:その誓約として、洗礼を受ける。信仰を公に表明する。

 こういう順番である。決して、洗礼を受けたから救われるのではない。だから、洗礼を受けていなければクリスチャンではないという考えは、間違っている。エスを救い主として信じる人がクリスチャンなのだ。

 

 

▼考えうる反証「バプテスマを受ける者は救われる?」

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 あえてカウンターアーギュメントをあげるとすれば、以下の言葉が引用できるだろう。

 

信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

(マルコの福音書 16:16)

 これは、イエスの言葉である。「バプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」という文言は、「受けなければ救われない」といったようにも受け取れる可能性がある。

 しかし、それは間違いだ。後段を読めばよく分かる。後段は、「バプテスマを受けない者は罪に定められる」とは書いていない。「信じない者は罪に定められる」と書いてあるのだ。この箇所は「バプテスマを受ける」が対比されているのではない。あくまでも、「信じる」と「信じない」が対比されている箇所なのだ。信じる者は、その証明として、その誓約として、洗礼を受ける。ただそれだけだ。信じる者は救われ、信じない者は救われない。やはり、この箇所を根拠に「洗礼を受けないと救われない」と論じるのは間違っている。

 

 

▼洗礼に「学び」は必要なのか

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 2つ目のポイントに移ろう。洗礼に「学び」、「洗礼準備コース」たるものは必要なのだろうか。私の意見では、全くもって必要ない。しかし、シンプルな福音の理解と宣言は必要と考える。聖書の洗礼が行われた人々の例を5つ挙げる。

 

【1:バプテスマのヨハネと民衆】

そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを述べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。(中略)そのころ、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

(マタイの福音書3:1~6)

ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえか彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。

(ルカの福音書 7:29)

 ヨハネは大勢の民衆にバプテスマを授けた。ヨハネの弟子たちも授けていたであろう。周辺地域から大勢の人が来て、「悔い改めなさい」というヨハネのメッセージを受け取り、バプテスマ=洗礼を受けていた。ヨハネは、この大勢の群衆一人ひとりに、「洗礼準備コース」たるものを受講させたのだろうか。ハッキリ言って、物理的に不可能である。ヨハネが洗礼に提示した条件はただひとつ。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言ったのみであった(マタイの福音書3:8)。

 

【2:ペンテコステの3000人の信者】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(中略)彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

使徒の働き 2:37~41)

 使徒の働き2章には、イエスの昇天後、初めて「聖霊」が下り、神の力が如実に現れた「ペンテコステ」の日の記述がある。詳細は別の機会にするが、一同に介したイエスの信者たちが、突然、外国語で神の素晴らしさを語りだしたのである。びっくりした周辺の人々に対して、ペテロはハッキリと、「イエスがメシアであり、お前たちはそのメシアを十字架につけたんだ」と宣言する。それを聞いた人々は心を刺され、3000人もの人々が洗礼を受けたのであった。

 3000人の人は、「その日」に洗礼を受けた。6ヶ月もの「洗礼準備コース」なんて受けやしなかった。その場でペテロのメッセージを受け入れ、イエスをメシアとして信じ、証明として洗礼を受けたのである。彼らは、「イエスを十字架につけろ!」と叫んでいたユダヤ人である。それが即日悔い改めて、洗礼を受けたのだ。なんとシンプルで簡単な救いだろうか。

 

【3:ピリポと宦官】

そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピアがいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。(中略)そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。(中略)ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、エスの福音を彼に伝えた。道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。

使徒の働き 8:27~38)

 このエチオピア人の宦官も、信じたその場でバプテスマを受けた。「洗礼準備コース」など受講していない。彼は、エチオピア人と書いてあるが、おそらくソロモンの時代に交易関係にあったエチオピアに移民したユダヤ人の子孫であろう。だからイザヤ書を読んでいたのだ。ちなみに、今日のイスラエルには白人のユダヤ人も黒人のユダヤ人も、様々なバックグラウンドの人がいる。

 彼が、ユダヤ教の素養があったことから、「一定の学び、旧約聖書の理解が必要だ」という意見もあるだろう。しかし、エチオピア人の宦官は、肝心のメシアについては旧約の内容ですら何も分かっていなかった。だから、ピリポがイザヤ書(53章)の内容は、イエスについての預言なのだと解説する必要があったのだ。宦官は、福音を聞いてすぐに「洗礼を受けたい」と申し出た。ピリポは、すぐさま宦官に洗礼を授けた。宦官は「勉強をして知識がついたから」洗礼を受けたのではなく、「福音を聞いて信じたから」洗礼を受けたのであった。

 

【4:ペテロとコルネリウス

割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから」ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。

使徒の働き 10:45~48)

 コルネリウスは、カイサリアという場所にいたイタリア隊という部隊の100人隊長だった。彼は夢で、ペテロのところに行けと神のお告げを受けた。ペテロも同時に夢で、神からお告げを受けて、カイサリアに行き、コルネリウスと彼の家族に会った。そして、そこで洗礼を受けるよう命じたのであった。興味深いことに、この書き方を見ると、ペテロ自身が洗礼を授けたのではないようだ。誰が授けるかは重要ではないことがうかがえる。

 コルネリウスは神を信じていたが、外国人であった。彼は、外国人で初めて洗礼を受けた人となった。コルネリウスは外国人であったが、ユダヤ教訓練コース」なんか受けなかった。ただ彼は、イエスを救い主、メシアを信じただけであった。

 

【5:看守と家族】

目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。二人(パウロとシラス)は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。

使徒の働き 16:29~33)

 パウロとシラスは、言いがかりで逮捕され、牢屋に入れられていた。すると、地震が起こり、牢屋の扉もひらき、鎖も外れた。この箇所は、その時看守が、責任を感じて自殺しようとしたシーンである。

 この看守は完全に外国人である。ほぼ確実にユダヤ人ではない、ローマの兵隊だ。その彼も、彼の家族もすぐに信じてバプテスマを受けたのだ。ユダヤ教訓練コース」はおろか、「洗礼準備コース」など受けていない。外国人であるから、旧約聖書の素養もほとんどないだろう。ただ、彼らは、「主イエスを信じた」のみであった。それですぐに洗礼を受けたのであった。

 

 どうだろうか。これらの例を見れば、「洗礼に学びが必要」とはとても思えない。共通しているのは、「イエスを救い主、メシアと信じる」という事実である。「イエスを信じる」というのが、たった一つの洗礼を受ける条件なのだ。細かい神学的なことは、その後学べばいいのだ。イエスを信じ、洗礼を受ける。その後で、大好きなイエスのことを、もっと学んでいけばいいのだ。

 もちろん、「当時の人は神の存在を当たり前に信じていたのだから、そもそものベースが現代の日本人とは違う」という意見もあるだろう。確かにそうだ。だから、私は、洗礼を受けるならば以下のような点を信じる必要があると思う。

1:神は唯一であり、この世界、そしてあなたを創った。

2:あなたは神と一緒でないと、本当の意味で生きられない。

3:神と一緒になるためには、あなたはあまりにも不完全な存在である。

4:あなたの努力によって、神と一緒に生きるにふさわしい者になるのは不可能である。

5:あなたがあまりにも大切な存在なので、神はあなたと一緒に生きるために、イエスを地上に送った。

6:イエスはあなたのために十字架で死んだ。そしてよみがえった。

7:イエスを信じれば、あなたはいつまでも神と一緒に生きることができる。

 あえて細かく羅列したが、福音はもっとシンプルだ。単純に言えば、あなたは「イエスを救い主」と信じれば洗礼を受ける資格がある。細かい神学は後でいい。「洗礼準備コース」なんてくだらない。どうせ覚えていやしない。私はそんなものは受けていない。意味がない。でもイエスが大好きだ。だから洗礼を受けるのだ。一体、日本の教会はいつになったら「洗礼を受けたい人を妨げる」のをヤメないのか。この意味のない「洗礼準備コース」が、いたずらに洗礼のハードルを上げているのは間違いない。エスを信じたい人の気持ちをくじくのは、やめていただきたい!

 

 

▼洗礼のすすめ

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 さて、イエスを信じてはいるが、まだ洗礼を受けていない人にオススメする。洗礼を受けよう。受けない理由はどこにあるのだろうか。「準備コース」が必要? くだらない。そんなくだらないことを強要する教会に参加するのはやめてしまえ(!)・・・というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、あなたが洗礼を受けたいと思うなら、教会の人に相談してみてはどうだろうか。

 もし、教会が「絶対に準備コース受けなきゃダメ!」と言うなら仕方がない。付き合ってあげようじゃないか。あなたが信じたい、大好きなイエスのことをタダで教えてもらえるのだ。ラッキー! 結構なことじゃないか。存分に牧師とか、教会スタッフの時間を使ってもらおうじゃないか。すぐに洗礼を受けなくても、あなたは既に救われている。焦る必要はない。大好きなイエスのことを、もっと知れると思って、洗礼に一歩踏み出そう。

 あなたが洗礼を受けるのをためらっているとしたら、何か理由があるのだろう。その理由をしっかり考えてみよう。今、心に浮かんだことは、言い訳ではないだろうか。洗礼を受けていなくても、あなたはイエスを信じていればクリスチャンである。よく、「クリスチャンか」と聞くと、「洗礼“は”受けていない」と答える人がいる。では、受けない理由は何か。自分の心に聞いてみよう。「家族がクリスチャンじゃない?」「お墓どうする問題?」「まだ信心深くない?」・・・それらは、本当にあなたが大好きな(大好きになろうとしている)イエスより大事なのだろうか。イエスは、あなたがどんなに「いい人」なのかは全く気にしていない。さぁ、イエスの腕の中に飛び込もう!

 あなたがイエスを信じ、イエスと一緒に生きたい! と思うのであれば、私はすぐにでも洗礼を受けることをオススメしたい。

 

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方(イエス)の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。

使徒の働き 22:15)

 もちろん、まだ踏み出せない、という方もいらっしゃるだろう。ゆっくりでもいい。洗礼は救いの条件ではない。しかし、信じる決心ができたなら、すぐに受けることをオススメしたい。

 

 

▼「洗礼」は牧師の特権なのか

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 さて、本記事のメインディッシュ。洗礼は牧師の特権なのか。洗礼はその大切さが強調されるあまり、ほとんどの教会では、洗礼を授けるのは牧師だけの特権となっている。牧師でなければ洗礼を授けてはいけないというのは、本当だろうか。聖書の中の例を見ていこう。

 

【聖書の中で洗礼を授けた人リスト】

※(?)付きの人物は、その人が授けたという明確な記述がないが、文脈からほぼ明らかに授けたと分かる人々。

バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネの弟子たち(?)

・イエスの弟子たち

・ペテロ(?)(使徒2章)

・12弟子やほかの弟子たち(?)(使徒2章)

・ピリポ

・アナニア(?)(使徒9章・サウロ<パウロ>に授けた?)

・ペテロに同行した人々(?)(使徒10章・コルネリウスと家族に授けた?)

パウロ(1コリ1章)

・シラス(?)(使徒16章・看守に授けた?)

・アポロ

 洗礼を授けたと明確に記述がある人は、意外に少ない。では、彼らは「牧師」だったのだろうか。実は、ただの1人も牧師ではないのである(※というか、牧師っていう職業自体ほとんどなかったのだが、またこれは別の機会に)

 バプテスマのヨハネは祭司の息子だから、それなりの教養はあったであろう。しかし、ペテロは、イエスの弟子だったが、神学教育は全く受けていない、ただの田舎の漁師だった。ヨハネやイエスの弟子たちも、ほとんどが田舎者であった。取税人出身者もいた。右翼活動家もいた。ピリポは、使徒ですらない、教会の事務職だった人物である使徒6章参照)。

 アナニアに至っては、単に「アナニアという弟子がいた」と書いてあるだけ(使徒9章参照)。そのアナニアが、あのパウロに洗礼を授けたのであった(※「パウロは立ち上がってバプテスマを受けた」としか書いていないので、もしかすると洗礼を授けたのはアナニヤではない可能性はあるが、十中八九アナニヤが授けたのであろう)。アポロなんかは、イエスの弟子でもないし、「聖霊」の理解もないのに、勝手に洗礼を授けていたのである。

 これらの例を見ると、「牧師でないと洗礼を授けてはいけない」という考えは、全く根拠がない。アナニヤはどうなのか。ピリポはどうなのか。アポロはどうなのか。私たちは、イエスの弟子である。エスの弟子であるなら、誰でも洗礼を授ける資格がある。その資格は神から来るものだ。「牧師」という称号がその資格を与えるのではない。

 パウロは、洗礼=バプテスマについてこう言っている。

 

あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。(中略)キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が虚しくならないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 1:12~17)

 コリントの教会では、「誰に洗礼を受けたか」によって争いがあった。パウロはそれを「バカじゃねぇのお前ら」と一蹴したのである。彼は、はっきりと「私はバプテスマを授けるためではなく、福音を述べ伝えるために遣わされた」と宣言した。よく、クリスチャンの中に「私は●●先生から洗礼を受けました」と言う人がいるが、このコリントの箇所を読んだことがないのだろうか。誰が洗礼を授けたかは、全く意味がない。

 パウロに倣うのであれば、牧師ならむしろ、洗礼を授けないべきだ。洗礼を何人授けたかが重要ではなく、どれだけ福音を述べ伝えたかが重要なのである。

 

 

▼洗礼を授けることはイエスの命令

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 まだ納得できない方がいるのならば、イエスのこの命令を読んでいただきたい。

 

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 これは、イエスの最後の命令で、大宣教命令(The Great Commission)と呼ばれるものだ。有名な箇所である。大宣教命令の内容をまとめると以下だ。

 

1:私(イエス)には一切の権威がある、ですから・・・(権威の宣言)

2:行け(派遣・拡散)

3:あらゆる国の人々を弟子とせよ(弟子化)

4:バプテスマを授けよ(洗礼)

5:命令を守るよう教えよ(教育)

6:私はずっと一緒にいる(約束)

 これは有名な箇所で、よく宣教をせよという内容で、一般の信徒に語られる箇所だ。これは、11人の弟子たちに語られたことだが、現代の私たち一人ひとりに語られていると受け取って異論はないだろう(※11人だけであらゆる国の人々を弟子とするのはそもそも不可能である・・・)。なぜこの「大宣教命令」のうち、「バプテスマ」だけは牧師だけの権利なのだろうか。イエスはそんなこと、一言も言っていない。

 であるとするならば、エスの命令を実行しようとする人を、なぜとがめるのか。エスの教えは、あなたの教会の伝統より価値がないのだろうか。あなたは、教会や教団の伝統を、イエスの命令より優先するのか。エスは、そのようにしていたパリサイ人を批判したのではないのか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物はコルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら-』と言って、その人が、父または母のために何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:9~13)

 エスの命令を無視し、あなたの教会や教団、「キリスト教」の伝統を優先させるならば、あなたは神のことばを空文化しているのである。あなたは、イエスの教えを無下にしているのである。

 洗礼は、イエスを信じる、イエスの弟子、クリスチャンであるならば、誰でも授けることができる。むしろ、そうせよというイエスは命令している。そして、それは名誉とはならない。名誉と栄誉を受けるのはただ一人、イエスご自身である。

 

 

▼おまけ1:「滴礼」と「全浸礼」はどちらが望ましいか

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 さて、最後に2つだけ付け足したい。まず前編の最初に記述した、「滴礼<てきれい>」「全浸礼<ぜんしんれい>」の是非について述べる。

 

 「滴礼」と「全浸礼」どちらが望ましいのか。聖書を読むと、バプテスマのヨハネや、イエスの弟子たちは、川や泉で洗礼を授けていた。ピリポは宦官に「水のあるところ」で洗礼を授けた。また、洗礼の語源、「バプテゾー」は「浸す」という意味である。これらを素直に受け入れれば、前身が水に浸る、「全浸礼」が望ましいとも取れる。

 ただ、パウロの場合はどうか。アナニヤは、パウロが泊まっていた家でパウロのために祈った。そのとき、パウロの目からうろこが落ちて、見えるようになった。そして、パウロは「立ち上がってバプテスマを受けた」と書いてある。それがその家だったのか、それとも泉や川に行ったのかは不明だ。家の中で、そのまま「滴礼」または「灌水礼<かんすいれい:頭に水を注ぐ>」のように行った可能性もある。ほかにも、一日に3000人が洗礼を受けたりしていたことから(使徒2章)、「全浸礼」は難しかったのでは、という指摘もある。

 私は、別にどっちだっていいと思う。それでケンカするくらいなら、しない方がいい。大切なのは儀式の意味合いで、形ではない。大切なのは、洗礼の方式ではなく、イエスに対する信仰だ。

 個人的好みを言えば、全浸礼の方が好きである。なぜなら、イエスを信じ抜くという人生の大きな決断を、水でチョロチョロっと頭を濡らしただけでは、どうも物足りなく感じるからだ。人生で一番大きくて、大切な決断なのだから、全身ザブンと水に入って出る儀式をした方が、それっぽいだろう。記憶にも残る。全身が生まれ変わる。「バプテゾー」の意味は「浸す」。それら全てを総合的に考えて、個人的な好みは「全浸礼」である。

 私が洗礼を受けた時に参加していた教会は、「滴礼」が基本だったが、頼み込んで川での「全浸礼」にしてもらった。牧師は快く受け入れてくれたし、同時に洗礼を受けた仲間もそうした。思い出に残る式だった。でも、別に好みなので、あなたが信仰を持って選んだやり方が正しいと思う。

 

 

▼おまけ2:「幼児洗礼」の是非

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 では、生まれたばかりの赤ん坊に洗礼を授ける「幼児洗礼」はどうだろうか。これは、「滴礼・全浸礼」の議論とは少し違う。私の意見では、幼児洗礼はオススメしない。なぜか。以下のような点が理由である。

 

1:幼児は、洗礼の大大大前提である、福音の理解とイエスを信じる判断ができない。

2:エスを信じていない洗礼に意味はない。頭が濡れるだけ。

3:将来的に、「幼児洗礼を受けた」という事実が「言い訳」となり、「自分の意思での洗礼」から遠ざける危険性がある。

4:聖書に幼児洗礼をした例はない。

 幼児洗礼をする人たちの心境は、以下の2点であろう。

 

1:幼児がすぐ死んでしまったら救われないかもしれない。洗礼を受けさせれば救われる。

2:親が子どもを神に捧げる意思を示す。

 1については、今までさんざん述べたように、洗礼について全く間違った解釈をしているので、改めて論評するに値しない。もし1のようなモチベーションで幼児洗礼を受けさせるのであれば、間違っている。

 2については、その心情は理解できる。旧約聖書で、サムエルの母ハンナが子どもを捧げる宣言をしたように(1サムエル1:11)、そのような宣言を両親がするのは良いことであると思う。しかし、そうしたいのであれば、ただその宣言を公にすればいい話であって、幼児洗礼をする理由にはならない。

 いたずらに幼児洗礼をしてしまうと、3で示したように、「幼児洗礼を受けたから」というのが「言い訳」となってしまい、「自分の意思での洗礼」を阻害してしまう可能性がある。もし、あなたの決断があなたの子どもを信仰のスタートである洗礼から遠ざけてしまうのであれば、あなたの幼児洗礼の決断は、害悪以外の何物でもない。あなたの自己満足のために、イエスが死んでまで愛してくださった、あなたの子どもを滅ぼさないでいただきたい。幼児洗礼はオススメしない。子どもを捧げるのであれば、洗礼ではない別の儀式や宣言によって示すべきである。

 ただ、既に幼児洗礼を受けた人は、悩む必要はない。それはただ頭が濡れるだけの儀式なのであるから、意味はない。あなたがイエスを信じたいのであれば、洗礼を受ければ良いと思う。ぜひ!

 

▼おまえはもう死んでいる

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 今回の記事の概要をまとめたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

→違う。洗礼はイエスを信じた人の誓約式である。救いの条件は水ではなく、イエスの血である。

 

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

→違う。洗礼に必要なのは、福音の理解とイエスへの信仰だ。学びはその後で良い。

 

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

→全く違う。むしろ、洗礼を授けるのはイエスの命令である。エスを信じる者ならば、誰でも洗礼を授けて良い。

 洗礼を受けたあなたは、既にこの世では死んでいる。しかし、イエスを信じるなら、神の息、神の霊があなたの中にある。イエスによって、あなたは新しい存在として生まれ変わったのだ。その生まれ変わりを象徴し、あなたの信仰を宣言する儀式が「洗礼」である。生まれ変わったあなたは、他の人にもその祝福、「良い知らせ(福音)」を伝える特権が与えられている。目の前の友達が、イエスを受け入れる準備ができたなら、さぁ、父、子、聖霊の名前によって洗礼を授けようではないか。

 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

(ローマ人への手紙 6:4)

 

私たちは、新しいいのちを歩んでいるのである。

【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<前編>  ~洗礼はきよめではない~

 「洗礼」を受けないとクリスチャンにはなれないのでしょうか。

▼ハードルが高い「洗礼」

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 クリスチャンになるには、「洗礼<せんれい>」を受けないといけない。多くの日本人がそう思っていることだろう。ハッキリ言う。それは間違いだ。

 イエスを信じている友人が相談してきた。「牧師に洗礼を受けたいと言ったら、『じゃあ洗礼準備コースを受講してください」と言われたとのことである。準備コースの期間を聞くと、6ヶ月だという。それを終えないと洗礼は受けられないということだった。

 彼は、「今すぐにでもクリスチャンになりたいのに、あと6ヶ月待たなければいけない」とガッカリしていた。私は、憤りを抑えて彼に言った。「イエスを信じているなら、キミはもうクリスチャンだよ」と。クリスチャンである母に聞いてみると、やはり「6ヶ月の洗礼準備コースを受けさせられた」とのことだった。理解ができなかった。

 ちなみに、私は16歳のときにイエスを救い主として信じ、受け入れた。しかし、当時の長野県内の教会の牧師が心底嫌いだったので、洗礼は受けなかった。1年後、ようやく「洗礼は人から受けるものではない」と思えるようになり、同じ牧師から洗礼を受けた。新潟では「信濃川」と呼ばれる「千曲川」での洗礼式だった。

 

 

▼「洗礼」の意味とは

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 「洗礼」とは何か。現代のプロテスタント教会で行われる「洗礼」には、大きくわけて2種類ある(※この是非については後述)。

 

「滴礼」<てきれい>

牧師が手に水をとり、信者の頭にふりかける。たいてい教会堂の中で行われる。

 

「全浸礼」<ぜんしんれい>

川や池、湖などに、信者の全身を沈める。室内プールでやる場合もある。

※追記※
「灌水礼」<かんすいれい>というものもあるらしい。水を頭に注ぐのだそうな。筆者は見たことはないし、滴礼と変わるのは水の量くらいだろう。

 いずれも、通常、エスを救い主として受け入れた人のための儀式として、人生1回こっきりで行われる。中には、生まれたばかりの新生児に洗礼を授ける、「幼児洗礼」たるものを行う教会もある(※詳細、是非については後編で述べる)。

 「洗礼<バプテスマ>」という単語は、旧約聖書には1度たりとも登場しない。ただしその起源は、いわゆるノアの箱舟、そしてモーセの海割り」であろう。その後も、エッセンスとしては、祭司の「ミクバ」でのきよめの儀式などとして登場する(※これらも後述する)。

 洗礼が本格的に登場するのは、新約聖書福音書からだ。ギリシャ語では、「バプテゾー」という単語で出てくる。転じて「バプテスマ」、または「洗礼」といわれる。この単語の意味も、改めて後述する。

 「洗礼」は、イエスを救い主と信じた人のための特別な儀式なのは間違いない。では、聖書は、洗礼がどのようなものだと説明しているのか。新約聖書から見ていこう。

 

 

新約聖書の「洗礼」

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 聖書で一番はじめに洗礼を授けたのは、言わずと知れたバプテスマのヨハネである。彼は、ヨルダン川バプテスマを授けていた。人々がヨハネのもとに集い、罪を告白し、おそらくヨルダン川にザブンと入って、新生を象徴する儀式を行っていたと想像される。

 歴史を学んだ人は、バプテスマのヨハネの「エッセネ派」特有の儀式だと言うだろうが、今回のテーマからは逸れるので割愛する。さて、このバプテスマのヨハネが登場するシーンを見よう。

 

バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを述べ伝えた。ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。(中略)

そのころ、エスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けられた。

(マルコの福音書 1:4~9)

 ヨハネ、めちゃ突然の登場である。彼は突然、荒野に現れ、バプテスマを授けだした。実は、イエス自身もヨハネからバプテスマを受けたのであった。「正しいこと」とイエスが言ったことから(※マタイ3章参照)、「バプテスマ」行為そのものは肯定的に受けてとめて良い。

 同時に、王の王であるイエスが人間のヨハネから洗礼を受けたことから、誰が授けるかは重要ではないとも受け止められる。ヨハネ自身、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要がある」とイエスに言ったのに、イエスはそれを諌めて、ヨハネから洗礼を受けたのであった。

 では、イエスは誰かに洗礼を授けたのだろうか。

 

パリサイ人たちは、イエスヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが― ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

ヨハネ福音書 4:12)

 エスご自身は誰にも洗礼を授けなかった。少なくとも記述はない。ただ、イエスの弟子たちは洗礼を授けていた。詳細な記述はないが、おそらくバプテスマのヨハネと同じように、「罪の赦しに導く、悔い改めのバプテスマ」だったと考えられる。

 バプテスマの際に、必ず伴ったのは「罪の告白」と「悔い改め」だった。また、パウロ(サウロ)、コウネリウス、エチオピアの宦官、パウロとシラスに自殺を止められた兵士など、新約聖書には「洗礼」が信仰告白とともに行われている。このことから、「洗礼」は、信仰のスタートに関わる、重要な儀式であると分かる。

 ヨハネはイエスについて、「水のバプテスマを授ける人だとは説明しなかった。ヨハネは、イエスはこんな方だと言う。

 

バプテスマのヨハネの言葉)私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方(イエス)は聖霊によってバプテスマをお授けになります。

(マルコの福音書 1:8)

 聖霊によるバプテスマ。ぶっちゃけ、パッと読んだだけでは、何のことだかわからないだろう。新約聖書旧約聖書の知識を前提として書いているので、「バプテスマ」の意味については記述が足りないのだ。では、「バプテスマ」とは何なのか、旧約聖書の視点もふまえながら考えていこう。

 

 

▼洗礼はきよめの儀式ではない ~よくあるカンチガイ~

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 「洗礼・バプテスマ」の元々のギリシャ語、「バプテゾー」は、本来は「浸す」とか、「沈める」という意味だ。北海道の方言では「うるかす」とか言うらしい。

 ゆえに「洗う」という意味の「洗礼」という単語は間違いだ。前回の記事(※記事はこちら)で書いたように、中国訳をそのまま日本に輸入してしまったのが原因である。中国語への翻訳過程そのものが間違いだらけだった。それを日本語に無理やり導入したのだから、さらに本来の意味と離れてしまった。

 「洗礼」は誤訳――これは現代キリスト教の世界では常識である。その証拠に、多くの日本語訳が「洗礼」ではなく「バプテスマ」としている。たとえ「洗礼」という漢字があっても、「バプテスマ」のルビをふっているパターンがほとんどだ。「ガリラヤのイェシュー」の著者、山浦玄嗣は「バプテスマ」を「お水くぐり」と翻訳している。

 日本人は、神道などの文化から、水をかぶる行為を「きよめ」としてイメージしてしまいがちだ。「洗う礼=洗礼」という誤訳も相まって、洗礼は「罪をきよめる儀式」と考えられがちだ。しかし、それは間違いだ。旧約聖書の「水」は「きよめ」とは少しニュアンスが違う。

 どう違うのか。イエスは、パリサイ派のラビ、ニコデモとこんな議論を交わしている。これもまた奇妙なやりとりだが、ここにヒントがある。

 

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。

ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」。

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風(プネウマ)は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」

ヨハネ福音書 3:3~8)

 この箇所は、「水」「霊」「肉」「風」といった単語の旧約聖書の意味合いを知らないと正しく解釈できない。旧約聖書ヘブライ語の「水」「霊」「肉」「風」という単語には、どのような意味合いがあったのであろうか。簡単に見ていこう。

 

【水】

ヘブライ語の文脈で「水<マイム>」は、羊水を意味する。または「いのち」を表す。「水よって新しく生まれる」というのは、文字通り、「肉体が新しく母の胎から生まれる」ことを意味した。水に一回入って、出て来るという行為は、「きよめ」ではなく「生まれ変わり」を意味した。

【霊】と【風】

ヘブライ語「ルアフ」は、「風・息・霊・生命」など、様々な意味がある。上記の箇所で「風」と翻訳されているギリシャ語の「プネウマ」も、「風・息・霊・生命」などを意味する。アダムに神が吹き入れた「息」も「ルアフ」である。「霊によって生まれる」とは、神の息が吹き込まれるという意味である。「神の息」が吹き込まれると、いのちが満ち溢れるのだ。そしてその「息」がどこから来るかは、神のみぞ知る。この認識を持つと、最後の段落が少し理解しやすくなるだろう。

【肉】と【霊】

日本語の「肉」は、「肉欲」といった「性的」「世的」「金銭的」なニュアンスで使われがちだが、ヘブライ語の「肉」は少しニュアンスが違う。ヘブライ語の世界の「肉」は、「有限」を意味する。「いつか腐ってなくなるもの」「朽ち果てるもの」という意味合いがある。

「肉」の対語としてるのが、「霊」だ。「霊」は永遠に続くもの。日本語の「霊」は「お化け」とか「死んだ人の魂」のようなイメージがあるが、上記のようにヘブライ語の「霊」は「神の息」の意味であって、永遠を象徴するものである。

 

 これらを総合すると、イエスがニコデモに伝えた内容は以下である。

 

1:人は、有限の「肉」によって生きている。人はいつか必ず朽ち果てる有限の存在だ。

2:人は、「水」をくぐって、もう一度「生まれ変わる」ことができる。

3:人は、「水」をくぐった後、「神の息(霊・風)」によって満たされ、有限の「肉」の存在ではなく、永遠の「霊」の存在になる。

4:「水」をくぐり、「神の息」に満たされ「生まれ変わる」。そうすれば、「神の国」すなわち、神の完全な支配を体験できる。その人は、神の基準で生きるようになる。有限の「肉」のからだではこれは体験できない。

 ニコデモは、この「生まれ変わり」を理解できなかった。エスは、「肉」→「霊」の生まれ変わりを論じた。しかし、ニコデモは「肉」→「肉」の生まれ変わりでしか考えられなかった。だから、「年取ってるのに、また母ちゃんのお腹にもどれっちゅうんか?!」と、トンチンカンなリアクションをしたのである。  

 このエピソード、「からだのよみがえり」を信じていたパリサイ派のラビのニコデモでさえ、理解できなかったというのが面白い。おそらく、パリサイ派の信じる「からだのよみがえり」は、自分の肉体が墓場からゾンビのように復活することだったのだろう。現に、エルサレムのオリーブ山には無数のユダヤ人の土葬のお墓がある。オリーブ山は、お墓の一等地。有名なラビでも相当なお金を積まないと入れない高級墓地なのだとか。なぜか。彼らはメシアがオリーブ山に来ると信じているからだ(※イエスの再臨もオリーブ山だと言われている)。メシアが来ると、死者は復活する。彼らはそう信じている。だから体がよみがえった時、すぐにメシアに会えるように、オリーブ山にお墓を作るのだ。

 そういう理由で、「水をくぐって生まれ変わる」というのが、ニコデモには理解できなかった。ニコデモの言葉は、「輪廻転生するとでもいうのか」とでも訳せるだろう。輪廻転生の発想がある日本人には、あまりピンとこないが、「霊的な復活」の概念が、ニコデモには分からなかったのだ。

 復活を論じた箇所でも、このような言葉がある。

 

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった」。しかし、最後のアダム(イエス)はいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。

(コリント人への手紙第一 15:44~46)

 話が少し逸れたが、これらを総合的に考えれば、「洗礼」は「きよめ」の儀式ではないと分かる。「洗礼」は「生まれ変わり」を示す儀式だ。「肉」のからだから、「霊」のからだへと作り変えられるための、「生まれ変わり」の儀式なのである。

 

 

旧約聖書の「洗礼」の伏線

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 「洗礼」という単語こそ、旧約聖書には1度も出てこない。しかし、その伏線はたくさん張り巡らされている。何といってもその起源は、ノアの箱船だ。新約聖書にも、ハッキリこう書いてある。

 

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

(ペテロの手紙第一 3:19~21)

 ノアとその家族は、大洪水の中、箱舟を通して生き延びた。「水を通って生きる」という伏線である。また、「イエス」という箱舟を通して救われるという伏線でもある。

 

 その後も、様々な伏線がある。ひとつは、いわゆる「モーセの海割り」だ(※「モーセ十戒」とカンチガイしている人がたまにいるが、モーセが海を渡ったのと、十戒とは別のエピソードである)。

 知らない人のために、エピソードを簡単に説明する。アブラハムの孫、ヤコブの一族は、ききんのためにエジプトに下った。はじめは良かったのだが、そのうち、悪いファラオの時代になり、イスラエル人は奴隷に成り下がってしまった。そこに登場したのがモーセ。紆余曲折を経て、神はモーセをリーダーとして、イスラエルの民をエジプトから脱出させる。エジプトからカナンの地を目指すイスラエルの民。しかし、目の前には紅海が。後ろからは、エジプトの軍勢が追ってくる。

 そこで、神の命令通り、モーセが紅海に杖を向けると、一晩中強い風が吹いて、紅海が真っ二つに割れた。イスラエルの民は急いで海が割れた間のかわいた地面を通って、紅海を渡った。後を追ってきたエジプトの軍勢が、海の間を通っているときに海が元に戻った。エジプトの軍勢は、全員溺れ死んでしまい、イスラエルの民は助かった。これがいわゆる「モーセの海割り」である(※出エジプト記14章参照)。

 

 イスラエルの民は、神の導きによって、海を通って命を救われた。「モーセの海割り」は、何度も何度もイスラエルの民が口ずさみ、祈り、歌い、記憶している感動的なエピソードなのだ。詩篇などで何度も登場する。実は、このエピソード、「水を通って命が救われる」というところが、後の「バプテスマ」の「伏線」となっているのだ。

 新約聖書も、それについて解説している。

 

兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくはありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中でモーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

(コリント人への手紙第一 10:1~4)

  海とはもちろん、「モーセの海割り」の紅海のことである。「雲の下」「雲の中」というのは、イスラエルの民が荒野で40年間放浪した時、民を導いた神の雲の柱のことを指す。「霊的な食べ物」はマナ(出エジ16章参照)、「霊的な飲み物」はメリバの岩から出た水(出エジ17章参照)のことである。それらが全て、バプテスマ、そしてイエスの伏線なのである。

 

 他にも、イスラエルの民がいよいよ約束のカナンの地に入る時、民がヨルダン川を渡って約束の地に入るシーンもある。祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れると、水が積止まり、川を渡ることができた。これも「水を通る」という伏線である(※ヨシュア記4章参照)。

 また、祭司が幕屋で奉仕する前の準備として、「ミクバ」という一種の「お風呂」のようなものに入る儀式がある。今でもイスラエルに「ミクバ」の遺跡はたくさんある。よくわからない人は、プールに入る前に通る消毒槽みたいなものをイメージしてもらえばいいと思う。これこそ、まさに「お水くぐり」といった感じだ。これも、「きよめ」の儀式というより、一度「生まれ変わり」新しい状態で神の前に出るという意味合いがあった。旧約聖書の文脈では、「生まれた状態」のものはすべて「良い」ものなのである。神が創造の際に「すべて良かった」と宣言したからである(※創世記1章参照)。

 「洗礼」は、決して軽んじていい儀式ではない。旧約から何度も伏線がはられ、バプテスマのヨハネによって行われ、イエスも受けた上で本当の「生まれ変わり」を示すものとして説明した。「洗礼」はイエスによって「生まれ変わる」ための大切な、大切な儀式なのである。

 

 今回の記事のポイントをまとめると、以下である。

 

1:「洗礼」は、悔い改め、罪の告白をして、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエスは「霊」のバプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には、「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 

さて、以上の点をふまえた上で、次回は、以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには、「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのか。

3:洗礼を授けるのは、牧師だけの権利なのだろうか。

 

 この3つについて、次回の記事で詳細に考えていく。

 

(続く!)