週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのか?

「友達を救いたい!」クリスチャンがそう言うのをよく耳にします。クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのでしょうか?

 

 

▼友達を「救いたい」?

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 大学の時、あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「卒業までに1人でもいいから救いたいんだよね」「救い」とは、クリスチャンの専門用語で、誰かがイエスを信じるようになる状態を指す。簡単に言えば、「誰かを救いたい」というのは、「誰かをクリスチャンにしたい」という意味だ。つまり、友人は、「自分が卒業するまでに1人でもいいから、誰かをクリスチャンにしたい」と言っているのである。

 私はその時、「オカシイなぁ」と思いつつも、否定はしなかった。違和感の正体が、あまり掴めていなかったのである。今となっては、それはおかしいとハッキリ断言できるが、当時はまだ目がひらけていなかったのである。

 果たして、クリスチャンは誰かをクリスチャンにできるのか。エスを信じるようにさせられるのか。誰かを救えるのか。今回は、このポイントについて見ていこう。

 

 

▼「救い」とは?

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 まずは、前提となる「救い」について、もう少し詳しく解説する。聖書の言葉を順に見ていこう。これは、聖書の言葉で最も有名なものの一つである。

 

<イエスを信じれば、永遠のいのちを持つ>

神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ福音書 3:16)

 

 エスを信じる者は、一人として滅びず、永遠のいのちを持つ。これが、一番シンプルな良い知らせ、いわゆる「福音」である。クリスチャンの信仰は、この一言に要約できると言ってもいい。

 

 

<救いは「行い」ではなく「信仰」による

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書(≒旧約聖書)によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、エスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

(ローマ人への手紙 3:20~26)

 

 旧約時代は、神から与えられた律法を守ることが求められた。それゆえ、律法を守るユダヤ人が神の約束を受け継ぐと信じられていた。それは無駄だったわけではなく、イエスによる救いの「伏線」だったのだ。

 すべての人は、「罪を犯して」神との「関わり」が持てなくなっている。罪とは、神と共に歩まない状態であり、「すべての人」がその状態に、生まれながらにして陥っている。その状態を解決するのは、律法を守る「行い」ではなく、イエスを信じる「信仰」なのだ。イエスが十字架で、私たち人間の罪の報いを代わりに受けた。それを信じることだけで、私たちは「価なしに義と認められる」のである。

 

 

<救いとは、神との和解である>

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

(ローマ人への手紙 5:1~2)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(中略)しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

(ローマ人への手紙 5:5~11)

 

 これは、私がイエスを信じるキッカケとなった聖書の言葉である。私たち人間が「まだ」罪人だった時に、イエスが私たちのために死んでくださった。私たちが良い行いをしたからではなく、まだ生まれるはるか前から、イエスは「前払い」で、十字架で命を捨ててくださったのである。

 イエスの死と復活によって、何があったのか。それは、神の怒りからの救いである。神との和解である。神は完全な方なので、私たちが罪の状態を放置したまま、神と関係は持てない。しかし、イエスを信じさえすれば、「神との平和」があり、「神と和解」できるのである。これが、イエスに対する信仰であり、「救い」である。

 

 

<イエスによってのみ救われる>

皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。(中略)この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

使徒の働き 4:12)

 

 イエスを信じる以外の救いは、決してありえない。イエスだけが、唯一の救いの道なのである。

 

 

<「救い」とは、まとめ>

 まとめると、「救い」は、神の怒りからの救いである。私たち人間は、生まれながらにして、神のデザイン通りの生き方から逸れてしまう。それが罪である。例外はない。死んだ後、すべての人が「神のさばき」を受ける。例外はない。聖書にこう書いてある。

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

(ヘブル人への手紙 9:26~28)

 

 しかし、エスを信じれば、神の怒りから救われ、義と認められる。神と和解できる。良い行いをするかどうかは関係ない。ただ、シンプルにイエスを信じるかどうかが、「救い」である。イエスを信じれば救われる。イエス以外の救いはない。クリスチャンの信仰は、いたってシンプルである。

 だから、私は「救い」と言わずに、単純に「イエスを信じる」と言う方がしっくりくる。「私が救われた時」と言わずに、「イエスを信じた時」と言った方が腑に落ちる。「誰かを救いたい」ではなく、「誰かにイエスを信じてほしい」の方が心にストンと来る。信仰は、シンプルなものだから。

 では、クリスチャンは誰かを「救う」ことはできるのか? 本題に入っていこう。

 

 

▼クリスチャンは誰かを救えるのか?

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 私の友人が言ったように、「誰かを救う」ことはできるのだろうか。答えは簡単。NOである。3つのポイントで見ていこう。

 

▼1:救いは「恵み」である

 クリスチャンはなぜ「救われている」のか。それは、シンプルに、イエスを信じているからだ。では、なぜイエスを信じられるのか。それは「神の恵みによる」と書いてある。聖書を見てみよう。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。

(ローマ人への手紙 4:16)

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙 1:7)

 

 クリスチャンが救われるのは、決して信心深いからではない。それは、神の一方的な恵みによる。「救い」は、神の恵みによるプレゼントなのだ。よく、クリスチャンでない人から、「敬虔なクリスチャンなのか」と聞かれるが、私はいつも答えに詰まる。私が信心深いのではなく、神の一方的な憐れみ、お恵み、懐の深さによって、私の罪は赦されているのだ。

 救いは、決して誰か人間によるものではない。神が一方的な恵みで、先に死んでくださったからこそ、実現するのだ。あとはそれを信じるだけ。めちゃくちゃシンプル。そこに、人間が介在する余地などない。

 

 

▼2:救いは「選び」である

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 なぜイエスを信じられるのか。聖書にはこう書いてある。

神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。(中略)キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。

(エペソ人への手紙 1:3~11 聖書協会共同訳)

 

 聖書によれば、イエスを信じた者たちはみな、神に「選ばれた」存在である。エスを信じられるようになったのは、全て「神の計画」であり、人間の行いによるものではない。だから、「誰かを救いたい」などというのは、人間の傲慢以外の何物でもない。

 カルヴァンは、この言葉などを根拠に、「神は救われる人と滅びる人を、予め決めている」という、「予定説」(二重予定説)を唱えた。私はこれは言い過ぎだと思う。この言葉の文脈、強調している点をよく考えた方が良い。「エペソ人への手紙」で強調されているのは、「神の恵み」と「神の計画」である。「あなたがイエスを信じられているのは、全て神の恵みによるのだ、救いは行いではなく、信仰なのだ」というのがポイントだ。「神は救う人を予め選んでいる」というのはズレた解釈だ。

 究極的には、全ての人が救いに選ばれている。私はそう信じる。聖書の別の場所にはこう書いてある。

主は、ある人たちが(世の終わりが)遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

(ペテロの手紙第二 3:9)

 

 神はすべての人が、悔い改めて、イエスを信じるよう望んでいる。しかし、それは神が強制することではない。信じるのは、私たちの責任である。もし神が人間に信仰を強制したら、私たちは単なるロボットに過ぎない。

 また、カルヴァンが言うように、既に「救われる人」が決められているのだとしたら、イエスのことを伝える必要はどこにもなくなる。しかし、イエスはそうは命じなかった。イエスの最後の命令はこうである。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 

 イエスは、弟子をつくり、イエスのことを教えよと命じた。ペテロやパウロ、ピリポにステパノ、テモテにアポロ、ヤコブヨハネ・・・イエスに直接会った弟子たちも、会っていない弟子たちも、皆、イエスを宣べ伝えたのである。元々、滅びる人も救われる人も決まっていたら、彼らはそうしなかっただろう。

 エペソ人への手紙で語っているのは、「すべては神の手による」という、神の偉大さの強調であって、救いが既に全部決まっているという意味ではない。時を超える神の目では、既に全てが決まっているが、時を超えられない人間にとってできるのは、この素晴らしいイエスを伝えることである。

 聖書のほかの部分では、「いつでも信じるチャンスはある」というメッセージが書いてある。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取り除けられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

(コリント人への手紙第二 3:12~17)

 

 これは、旧約聖書時代に、モーセの律法の巻物に垂れ幕をかけて覆っていた伝統を用いた比喩である。モーセは、神と面会した時に、神のあまりの栄光のために顔が光った。モーセは顔に布をかけて覆った。それをふまえて、律法の巻物も布で覆われていたのだ。ユダヤ教では、現代でも律法の書に、象徴的に覆いをかけている。旧約聖書の律法が「伏線」として示している真理、すなわちイエスについては、その時が来るまでは「覆われて」いたのである。

 しかし、真理が明らかになった今、覆いは取り除かれた。人がイエスを信じるなら、いつでも誰でも心の覆いは取り除かれ、「救い」を受け取れる。それは全ての人に公平に差し出されている救いである。そして、それは元々神の計画である。大仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、人の行動は、全て神の意思による。神は時を超えるので、信じられたのは、常に神の「選び」によるのである。

 

 

▼3:救いは「聖霊」による

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 最後に、救いは「聖霊」の力によるという、最大のポイントを説明したい。聖霊とは、イエスが送ると約束した「助け主」であり、神ご自身の力の現れである。聖霊は、神ご自身である。聖書にはこう書いてある。

肉のうちにある者は神を喜ばせることはできません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなた方の死ぬべきからだも生かしてくださいます。

(ローマ人への手紙 8:9~11)

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

(エペソ人への手紙 1:13~14)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3) 

神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。エスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。

ヨハネの手紙第一 4:2~3)

 

 どんな人も、聖霊の力なしには、イエスを主と告白できない。聖霊によって、私たちは新しい「いのち」を得ている。聖霊は、救いを受け取っていることの証拠である。人がイエスを信じられるのは、信心深いからとか、大きな信仰を持っているからではない。それは全て、聖霊の働きによるのである。(聖霊の働きには、段階があるのだが、それはまた別の記事で書こうと思う)

 

 もし、クリスチャンが自分で誰かを救えると思っているとしたら、それは勘違いだ。神の恵み、選び、そして聖霊の力を軽んじている。私たちができるのは、ただただイエスを伝えるだけだ。信じるかどうかは、アナタ次第。信じたとしたら、それは神の恵みであり、計画であり、神が与えた聖霊の働きによるのである。

 

 

▼ただ神を自慢しよう

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 結局のところ、クリスチャンにできるのは、「イエスって最高だぜ!」と自慢しまくる生き方である。聖書にはこう書いてある。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

(コリント人への手紙第二 4:1~5)

 

 クリスチャンができるのは、イエスを伝えるところまで。それを信じるか信じないかは、聞いた人が決めるのだ。クリスチャンの目的は、キリスト教信者を増やすことでも、教会のメンバーを増やすことでも、キリスト教国家を増やすことでもない。ただただ、イエスを信じて神と一緒に生きるのを、楽しむのがクリスチャンの生き方である。ぶっちゃけ言うと、イエスと一緒に生きるの最高! 

 そんなクレイジーで楽しい人生を、あなたも体験してみてはどうだろうか。やり方はカンタン。イエスを信じるだけ。シンプル。何の義務もない。イエスを信じる人生、超最高。私に言えるのは、残念ながらここまで。信じるか信じないかは、アナタ次第。

 

(了)

【就活イエス11】意地でも神様に従う 浅井元規@経営者・コーチング

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第11弾は、浅井元規さん!

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【Profile】

名前:浅井元規(Motoki Asai)

生まれ:1990年

出身:愛知県名古屋市→神奈川県茅ヶ崎市

学歴:米テキサス州立大学卒業→CFNI(Christ For The Nations Institute)卒業

職業:経営者( pro.de.sign <プロデザイン>)、コーチ等

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20190424014849j:plain よろしく。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今は、どんな仕事をしているの? 

f:id:jios100:20190424014849j:plain 去年から、pro.de.sign」(プロデザイン)という事業を立ち上げてやっています。形としては自営業かな。プロデザインは、「あなたらしくあるために、いつも隣にいる仲間」という”タグライン”(企業理念的なもの)でやってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分で事業をやっているんだね。具体的にはどういう内容なの?
f:id:jios100:20190424014849j:plain プロデザインでは、「個人コーチング」「オンラインサロン」をメインに活動してるよ。
f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。カッチョイイ。もう少し具体的に何をやっているか教えてもらえますか?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 「個人コーチング」では、その人が抱えている課題や目標に一緒に向き合って、前進していけるようなサポートをやっているよ。

「オンラインサロン」では、インターネット上のコミュニティを作ってコーチングや自分らしく生きることに関心がある人たちがつながって、日常的に居場所として帰ってこられる場所を目指しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その2つを通して、「あなたらしさ」を追求するサポートをしているということ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そういうことだね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どこかの団体に所属したりしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain いや、全部自分でやっているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほええええ。今日はそのへんもゆっくり聞かせてください。

 

 

▼春のジャケットにつられて・・・ 

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↑高校時代。右下が元規さん。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 出身はどこ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 生まれたのは名古屋市なんだけど、物心ついたときから神奈川の茅ヶ崎市に住んでいたから、地元は茅ヶ崎かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやってイエスを信じようと思ったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ウチは元々、クリスチャンの家族ではなかったんだよね。だけど、2008年の9月、家に帰ったら、母親が突然「今日、クリスチャンになった」とか言い出して(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いきなり(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう(笑)母親は、元々、ずっと真理を求めていて、それまでもスピリチュアル系とかにハマってたりもしてたんだけどね。心理学とかも勉強したり。そこで行き着いたのが、アーサー・ホーランド牧師のメッセージで。これは真理だと思って、アーサーさんに「洗礼してください」とお願いしたら、アーサーがバケツで水を汲んできて、はい、洗礼、みたいな(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain むちゃくちゃやな(笑)母親がいきなりクリスチャンになって抵抗なかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 俺と兄は、「あ、そう・・・」みたいな感じで、全然興味なかったんだよね(笑)別に教会も行かなかったし。でも、次の年、2009年の3月、高校卒業した直後に、母親が「教会行ってみない?」って誘ってきて。「一緒に来たら、横浜で服を買ってあげるよ」と言われて、春先だし、ジャケット欲しいなって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 春ジャケットにつられたんだ(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。それで、「New Hope 横浜」っていう教会に行ったんだけどね。そこに一歩足を踏み入れたときに、自分が感じたことのない暖かさに包まれて、神様の存在を強く感じたんだよね。それで、賛美の歌が始まったら、心の内側から喜びが溢れて、めっちゃ涙があふれそうになって、なんだこれ? ってなった。集会の最後に、「今日、イエスさまを信じたい人、受け入れたい人」というアナウンスがあって、気がついたら手を挙げていたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain わお。教会にいった初日に。

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↑すぐにバプテスマを受けた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その1ヶ月後にバプテスマを受けたよ。自分は、昔から頭で納得できないと進めないタイプなんだけど。イエスさまについては、心の中で絶対に自分に必要なものだと分かっていた。頭で全部は理解できなかったけど、世界の造り主がいて、その造り主である神様が喜ぶ選択をしていきたいと思ったんだよね。それまでの自分は、八方美人的なところがあって優柔不断だった。信じてからは、自分の人生ではなくて、神様に選択肢を委ねることを決めたって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい人生の方向転換だね。家族はどう思っていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 実は、母親が信じてから1年以内に、家族全員が信じたんだよね。母の後、俺、兄、父親。そして、そこから3年以内に、両方の祖父母も信じたんだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ、すごいね。おじいちゃんもおばあちゃんも信じたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain まさに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」使徒の働き16:31)っていう聖書の言葉通りになったね。

 

 

▼スポーツの世界で活躍を夢見て

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アメリカ留学時代
f:id:jios100:20180905032057j:plain 信じた後は、どういう進路にいったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 元々、2009年の5月からアメリカへの留学が決まってたんだ。信じたちょうど40日後にアメリカに飛び立ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へええ! どこの大学?

f:id:jios100:20190424014849j:plain テキサス州立大学。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして留学を考えていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さい頃から、国際交流の団体のプログラムに参加していて。小学校のときはロシア、中学校のときはニューヨークにホームステイしたり、高校1年のときはモンタナ州に1年間留学してたりもしたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain モンタナ! またニッチなところに・・・

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さな村で、幼稚園から高校まで100人ぐらいしかいない学校に行っていたよ。もちろんアジア人は村で1人。ジャッキー・チェンが来た!」とか言われたね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって、海外に興味を持っていたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。アメリカでは、みんな自分の価値観を持っていることに驚いたんだよね。それと比べて、自分は八方美人的だなぁと。しっかり自分の価値観を持ちたいと思って、はじめからアメリカの大学に行こうと思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain テキサス州立大学では何を勉強したの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 幼稚園の頃から、サッカーをやってて。ボランチのポジション。ずっとスポーツに関わっていたのと、人をサポートするのが昔から好きだったから、両方を活かせるスポーツ医療の世界で働きたいと思って、アスレティックトレーナー(AT)の勉強をしたよ。テキサス州立大学は、その分野では結構有名な大学なんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain アスレティックトレーナーとは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 怪我をした選手のリハビリや、体のサポートをする資格かな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 専門職って感じだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain ATの資格を取得するのには5年かかったよ。その頃の僕のビジョンは、クリスチャンがあまり入れないスポーツ業界やアスリートたちに福音を伝えるということだった。スポーツ選手が怪我をするっていうのは、それまでのアイデンティティを失うってこと。その選手たちに、リハビリで関わることによって、その人の価値をスポーツ以外のところに見出してもらえるようにって思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大切な働きだね。なかなか素人は入れない世界だもんね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。僕は将来の計画を立てるのが好きなんだけど、その頃は、アメリカでカイロプラクティックの医院で働きながら、勉強をしたいと思っていた。ATっていうのは、単体じゃなくて、他に別の資格があると強い資格なんだよね。だから、働きながら勉強して、カイロプラクティックの資格も取って、日本のサッカーチームのトレーナーになれたらなと思ってた。そのチームで認められて日本代表のチームに入って、誰かに気に入れられて専属トレーナーになる・・・っていうような未来を想像してたなぁ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そうならなかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうなんだよね。進路を祈り始めたら、神様が全く違うことを示して・・・

 

 

▼スポーツの世界から、聖書の世界へ

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↑神学校のミッショントリップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain 全く違うこととは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain スポーツの世界に行くように、5年もかけて勉強したのに、アメリカで就活を始めたら、どう祈っても、神様が「神学校(聖書学校)に行きなさい」と言っているように感じたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうことを通してそれを感じたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 就活をしていても、心の中に安心感がなかったり。あとは、いつも「神学校」っていうフレーズが頭にあったんだよね。両親からも、「神学校に行くことも選択肢に入れて、祈ってみてもいいんじゃないか」って言われて、それで祈っていた。極めつけは、当時、キャリー・ジョブっていう人の「フォーエバー」っていう賛美歌がヒットしていて、その曲を聞いたときに、神様に「私に人生を捧げなさい」と言われた気がしたんだよね。そこで、神学校に行こうと決めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 資格まで取ったのに、違う道に! それでも神様に従ったんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、「神様、国家資格を取って、最初っからそれをやらないって何?!」って思ったよ。さすがに。手に職の世界なのに、学んだ直後にやらなかったら忘れちゃうよね。最初は迷ったけど、祈っても、祈っても、気持ちは変わらなかった。教会の牧師が神学校を紹介してくれて、進学先も決まった。そしたら、その学校がさっきのキャリー・ジョブの卒業校だったんだよ。そこでも神の導きみたいなものを感じたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。祈っても気持ちが変わらなかったんだね。神様がそこに導いたのかもしれないね。神学校に入ってからはどう過ごしていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 神学校はめちゃめちゃ良かったなぁ。1年間のコースで、聖書の言葉と祈りを通して、日常の中で神様と共に歩むことを教えてくれる学校だったよ。授業は午前中だけだったから、午後はいつも、「神様、午後はどう過ごしたらいいですか」と祈ってから始めることにしていた。日によって、「カフェテリアに行って、あの人に話しかけてみよう」とか、「クラスメイトのあの人に会いに行ってみよう」とか、そういう気持ちになって。それは、全部神様の導きだと今でも思ってるよ。そうやって、聖霊を通して、”神の声を聞く”っていう訓練ができたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・! 生活の中で全ての行動を神様に聞きながらやっていたんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。聖書を読む時も、神様にどこを読めばいいか祈ってからいつも決めていたよ。神様に従うということを教えられた1年間だったな。

 

 

▼神の導きに従い続け・・・

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カリブ海の国、キュラソーにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後の進路も、もちろん神様に祈って決めたんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。神学校時代の夏休みに、神学校で知り合ったブラジル人の友達の故郷に2ヶ月間行ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、めちゃめちゃ面白い。

f:id:jios100:20190424014849j:plain その教会で勉強したいなぁと思っていた矢先に、「ここでインターンをしないか?」とお呼びがかかったんだよね。これこそ神様の導きだと思って、準備を始めた。ビザもその教会が準備してくれることになったんだけど、予定より時間がかかって、ひとまず日本に帰らないといけなくなったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 日本に帰ったら、状況が変わった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 2ヶ月、ビザの発行を待っていた間に、神様にもう一度聞いてみようと思って。今ある選択肢を全部放り投げて、神様に、「どれが残りますか?」と聞いてみることにした。そしたら、ブラジルへの思いはなくなっちゃって。別のミニストリーの思いだけが残ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。ブラジルの人もびっくりだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 申し訳なかったんだけど、ブラジルの教会には断りの連絡を入れたよ。その後で、働き始めたのが、7MEDIA」(セブン・メディア)という会社。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアは何をやっている会社なの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ソーシャルメディアを中心とした、様々なメディアを通して、次世代の宣教をしていくっていう会社かな。2016年から2017年の10月まで、2年弱働いていたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアというくらいだから、7つのメディアがあるんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。A〜Gの頭文字をとって、7つの領域に力を入れていたかな。

ART(芸術)

BUSINESS(ビジネス)

COMMUNICATIONS(コミュニケーション)

DISADVANTAGED(障害者の人々)

EDUCATION(教育)

FAMILY(家族)

GOVERNMENT(政府・政治)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この7つの領域だよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこで何をやっていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン(輝く)・コーディネーター」という肩書きで、いろいろな人間関係の構築を担当していたよ。日本の牧師やリーダーたちと話して、人や教会をつなげたりとか。一番やっていたのは、「シャイン・ジャパン」という働きで、いろいろなイベントを企画・実行したり。最後にやったのは、10カ国から100人ぐらいのチームが集まって、日本の教会と協力して、伝道の集会をやったりしていたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。その2年間で大変だったのは、どんなこと?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 人手が足りなかったことかな。会社といっても、フルタイムのスタッフは、僕と社長の2人しかいなくて、仕事量はかなり多かった。インターンが1人か2人いるときはあったんだけど、基本的にフルタイムは2人だけ。でも、逆に言えば、その経験を通して、自分の力ではできない仕事を、神様に頼って、神様が成し遂げてくださるということを学ばせてもらったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 番神様の働きかけを感じたのはいつ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン・ジャパン」の働きを、マレーシアでやったときかな。「シャイン・マレーシア」として、大きな集会をやったんだよね。現地のユース世代や、牧師たちが集まった。そこで、自分がそのコンセプトを説明したり、聖書の話を大勢の前でさせてもらう機会もあった。全然そんな経験もなかったし、絶対無理だって思っていたことも、神様の助けで乗り越えさせてもらって、実践の中で学ばせてもらったことはすごく大きかったよ。

 

 

▼さらに導きのままに・・・ 

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↑マレーシアの大会では、スピーカーも努めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そこも2年で辞めたんだよね。どうして?

f:id:jios100:20190424014849j:plain セブンメディアで働いている時に、ヨハネ福音書の言葉が心に迫ってきたんだよね。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ福音書 1:5)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この聖書の言葉を読んだときに、自分はもっと世の中に出ていくように導かれている気がしたんだよね。セブンメディアの仕事では、クリスチャンじゃない人との日常的な関わりが少なくて。俺は、もっとクリスチャンじゃない人と、日常的に関わって、聖書のこととか、イエスさまのことを話したいと思ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで、セブンメディアを辞めたと。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。2017年の10月いっぱいで辞めて、その後も神様にどうしたらいいか祈った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今度は何が示されたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そこで、頭の中に浮かんだのが、元々勉強していたアスレチック・トレーナーの世界のこと。正直いうと、神様に対して「今さらですか?」という思いだった。3年前に手放したものだから、完全に忘れているし、資格も失効してると思ってた。だけど、よくよく調べてみたら、60時間の講習を受けて、テストをクリアすれば、資格が復活することが分かって。でも、資格の失効期限まで、残り2ヶ月しかなかった。だから、あわてて取得し直したよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ギリギリの資格復活! その後は?

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その後は、FiNCという会社で、パーソナルトレーニングのジムで働いていたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain FiNC! LINEマンガのCMでめっちゃ出てくる(笑)巡り巡って、神様が元々学んでいた経験を活かしてくれたんだね。

 

 

▼行き着いた先は・・・

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↑マレーシアにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain そのジムの仕事も、辞めた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。半年ぐらいした頃に、また「違う」という気持ちになった。そこで、仕事はひとまず辞めると会社に伝えたよ。でも、神様に祈っても、なかなか具体的に示されずに、迷っている時期が続いたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 転機となったことはあったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今年の8月に、また聖書の言葉がから思うことがあったんだよね。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に善い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復習の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。

イザヤ書 61:1〜3)

エスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』これらよりも重要な命令はありません」

(マルコの福音書 12:29〜30)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この2つの聖書の言葉を読んで、この世の価値観に囚われている人に、真理を伝えたいと思ったんだよね。真理を知って、縛られているものから解放されていって欲しいなと思った。知力も、感情も、意思も。神様の愛が土台となっているプラットフォームの上で、心の開放やいやしが行われていくといいなと思って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その答えが、コーチングやオンラインサロンだったんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain はじめは、神様に具体的にどうしていいか祈っても、なかなか答えがなかった。徐々に、そういう道が開かれていった感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain コーチングはどうやって学んだの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain それも、たまたま、ジムトレーナーの時のお客さんが、コーチング界の有名な人で。その人が俺にすごくよくしてくれて、いろんなセミナーとか、コーチングの知識をつけるのに必要なものを紹介してくれたりしたんだよね。そういうのも、全部神様の導きだと思ってる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴイ。今までの経験も、全部次につながっている感じがするな。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうだね。今まで、「神様に従う」っていう選択をして、いろいろな経験をさせてもらってきているんだけどね。全部、次につながっていて。今まで歩んできた道があったから、今があるんだと強く感じるな。無駄なことは、何ひとつなかったと思う。

その導きの先に、今のpro.de.sign」(プロデザイン)の形が出来上がってきたっていう感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど・・・どこまでも神様に従う! っていう精神、尊敬します。

 

 

▼社会の中にプラットフォームを作りたい

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 気になるのは、今の仕事はどうやってお金にしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 正直いうと、お金をどう生み出そうかは、何も考えていないんだよね。お金が目的になると、進まなくなるから。そこも神様に委ねているよ。今は実家に住んでいるというのもあるけど、コーチングの仕事の収入や、オンラインサロンの会費などが主かな。あとは、前勤めていたFiNCから、業務提携の話ももらって、自分の好きなタイミングでその仕事もできる。それも、大学時代の知識とかも役立っているから、神様の導きに無駄はないと感じるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、収入は一本じゃなくて、複合的にやっているんだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンはどんなこと?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今やっているオンラインサロンが、「自分らしさって何だろう」という目線の会話が生まれるコミュニティになってほしいなと思っているよ。聖書の言葉が土台となった脳科学や心理学の言葉を伝えることで、クリスチャンだけではなく、クリスチャンでない人も自然に会話に入れるコミュニティを目指しているかな。聖書の勉強会もやりたいけどね。俺の目標としては、社会の中にプラットフォームを作っちゃって、その中で福音を語りたい。教会とかに「来てもらう」だけじゃなくて、こちらから社会の中にプラットフォームを作っちゃう。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる! 自分から出ていく、これすごく大事だよね!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 当面のビジョンは、オンラインサロンのコミュニティが、現実のコミュニティになることかな。そこで紅茶を飲んだりしながら、いつでも自分らしくいられる場所を作りたい。「家に帰ってきたような隠れ家」っていうのが目標かな。今は、コミュニティの仲間たちと、「コーヒー淹れ方ワークショップやりたい」とか、「レザークラフト体験」とか、趣味やビジネスでも、いろいろなことをやりたいと話しているよ。最終的には、そこが日曜日は教会になって、福音が語られて、祈りがあって・・・というようなコミュニティになったらなと思っているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 元規くんのコミュニティが、神様の計画通りに用いられるように、願っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも、元規くんが覚えている聖書の言葉を教えてください!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 黙示録の言葉です。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

(黙示録 2:10)

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、頑張って、神様に忠実でないといけないと思っていた。でも、だんだんと、この言葉は、「元規が私(神様)につながっていれば、この言葉があなた自身だ。あなたは死ぬまで忠実であるよ」と約束してくださっている感じがしたんだよね。「あなたは、私に忠実であるように造られている」と神様が語ってくださっているような感じがして。この命を、神様のために捧げる人生。それが俺のモットーです。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生の行動全てを神様にゆだねている、元規くん。これからの、ますますの活躍に期待します!!! 

 

(おわり)

【疑問】クリスチャンは「元号」を使ってはいけないのか?

クリスチャンは「元号」を使うべからず・・・そんな議論があるそうです。果たして本当にそうなのでしょうか・・・?

 

 

▼クリスチャンは元号を使ってはいけない?

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 「平成」が終わり、「令和」が始まった。5月1日、新しい時代の幕開けだ。

 菅官房長官が新元号を発表した4月1日、私は、総理官邸のエントランスで取材をしていた。臨時閣議が終わり、大臣たちのコメントを取るべく、今か今かと発表の時を待っていたのである。菅長官が「令和」と発表し、その文字を掲げた時は、なんだかしっくりこないような気もした。

 しかし、4月1日の新元号発表から1ヶ月。はじめは違和感のあった新しい元号も、耳に馴染んできたような気がする。「R」のサウンド。初の日本文学からの引用、かつ原典は中国の文学である点。「令」という新しい文字と「和」の組み合わせ。「昭和」の「和」を再び使うのは予想外だったが、決まってみれば「令和」はいい2文字ではないかと、個人的に思う。後に、「広至」「万和」「英弘」など、他の5つの案がスクープされたが、「令和」がやはり良いと感じた。

 元号が「令和」に決まった日、クリスチャン界隈では、ある聖書の言葉が話題となった。イザヤ書の言葉である。

わたし<神>があなたに与える命令平和。あなたを支配するものは恵みの業。

イザヤ書60:17 新共同訳聖書)

 

 神が平和を命じるという聖書の言葉の中に、「令」の文字と、「和」の文字がある。「令和」の言葉が、聖書の中にも隠されていたのである。

 もちろん、新元号は聖書を出典にしたわけではないが、面白いなとは思う。この日、多くのクリスチャンたちがこの事実をSNSにアップし、ちょっとしたブームとなった。クリスチャンたちも、新元号の制定を祝し、聖書の言葉に共通点を見つけ、神の言葉を宣言していたのである。(もっとも、聖書協会共同訳や新改訳聖書2017などは、「私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする」と訳している)

 

 しかし、このお祝いムードに待ったをかける声が、同じクリスチャンの中から上がっているようだ。一言で言えば、「クリスチャンは元号を用いてはいけない」という主張である。なぜか。元号は、天皇が時空を支配する象徴だから、クリスチャンは用いてはいけない。それは偶像礼拝である」というのが理由らしい。

 私は、初めてこの主張を耳にした時、驚いた。クリスチャンと元号の関係性を、考えてもみなかったのである。

 確かに、調べてみると、確かにいくつかのキリスト教団体が、公式に天皇の退位・即位、元号の改定に関する声明を発表していた。

日本基督教団

天皇の退位および即位の諸行事に関する声明 - 日本基督教団公式サイト

 

<日本バプテスト連盟>

元号法成立に対する反対の声明(1979年6月6日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

20190424 新天皇即位と元号改元に際しての私たちの信仰的表明(2019年4月24日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

 

日本聖公会

天皇の退位と即位に関する声明

  

 いずれも、「政教分離」の原則から、天皇の退位・即位に関する儀式や、新元号の改定に異議を唱える内容となっている。この内容の是非については、記事の最後で述べる。果たして、「クリスチャンは元号を用いるべからず」は、正しい主張なのだろうか。まずは、この点に絞って見ていきたい。

 

 

天皇が時空を支配する?

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 まず、「クリスチャンは元号を用いるべからず派」の人々の主張を見ていこう。断っておくが、私はこの主張に賛同しているわけではない。だから、今から列挙するのは、私が「こういう主張がある」と聞いたり、またはネットで検索して「クリスチャン」と言っている人が主張していたものである。それゆえ、かなり精度が低い無理矢理な主張になっているが、ご容赦願いたい。なにしろ、私は元号廃止論者ではないので、自分で論理的にこのアイディアをサポートできないのである。 

<クリスチャンは元号用いるべからず論者の主張>

元号は古来、中国の皇帝が、時空を支配する思想に基づいて作られた。

元号は現在、天皇が時空を支配するという思想に基づいている。

・つまり、元号を使用すると、天皇が時空を支配していると認めることになる。

・クリスチャンが元号を使うのは、天皇の支配を認めることになるから、それは偶像礼拝である。

 

 いかがだろうか。確かにナルホド、一応、論理的ではある。「時空を支配??」という謎はあるが(笑)。

 聞くところによると、元号を使うのは良くない」と教えている牧師もいるようだ。あるクリスチャンの人は、「令和」に関する話をしていたら、牧師から「しないように」と指導を受けたという。あるクリスチャンの人は、役所の手続きで「平成」や「昭和」にマルをせず、二重線で元号を消して西暦を記入するようにしているという(運転免許証はどうするのだろうか・・・)。自分がそうするのは勝手だが、他の人にも同じようにするよう勧める人もいると聞く。

 そこまでする必要があるのだろうか。私の考えでは、全くないと思う。では、私がどう考えるのか、順番に述べたい。

 

 

▼時空を支配しているのはサタンである

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 天皇は時空を支配していない。聖書を見てみよう。

エスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」

ヨハネ福音書 12:30~31)

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

(コリント人への手紙第二 4:4)

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

(エペソ人への手紙 2:1~3) 

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ人への手紙 6:11~12)

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:19)

 

 これらの言葉から、悪魔、すなわちサタンがこの世を支配しているのだと、ハッキリ分かる。サタンは、「空中の権威を持つ支配者」なのである。しかし、これは神が負けてしまったという意味ではない。サタンは、神が許可した範囲でしか動けない。ヨブ記を読めば、それは明らかである。詳しくは、以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 天皇は人間であるから(もはやこれに異論はないだろう)、時空の支配者などではない。今、この世を自己中心で、罪で満たしているのはサタンである。しかし、それは神の許可した範囲内でのことである。全てが神の権威の下に、神のコントロールの下で動いているのだ。つまり、時空の支配者は狭義ではサタンであり、広義では神ご自身である。天皇が時空の支配者となってしまうなどというのは、クリスチャンにとっては妄想であり、妄言である。

 

 

▼クリスチャンは神の支配の中にいる

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 エスを信じ、クリスチャンとなった人は、もはやこの世の支配、サタンの支配の下にはいない。神の支配の下にいる。聖書を見てみよう。

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(中略)私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:4~19)

御父は、私たちの暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

(コロサイ人への手紙 1:13~14)

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

(コロサイ人への手紙 1:16~17)

 

 実は、地上に存在する支配や権威は、全て神、イエスによって造られたものなのである。天皇が時空を支配しようが、サタンが支配しようが知ったこっちゃない。本当に支配しているのは、神ご自身なのだ。そして、イエスを信じたクリスチャンは、この世の支配から抜け出し、全く新しい存在として、神の支配の中へと移っているのである。

 

 イエスが、税金を納めるかどうかについて語ったエピソードをご存知だろうか。

彼ら(イエス一行)がカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生(イエス)は神殿税を納めないのですか」彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン(ペテロ)、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」

(マタイの福音書 17:24~27)

 

 イエスは、自分たちを「神の子」とした。これは、「神こそが王である」と宣言している部分でもある。この世界を本当に支配しているのは神なのだ。その子どもである私たちは、地上の王へ税金を納める義務は、本来はない。しかし、それだと信仰を勘違いされてしまう恐れもあるので、しっかりこの世の義務である税金は納めようではないか。これがイエスの教えである。

 本来、クリスチャンにとってこの世の支配者が誰だろうが、実はどうてもいいのである。本当に支配しているのは神なのだから。その神に信頼して、この世の義務も果たすのが、イエスが教えた「生き方」である。

 

 

▼聖書は人間の支配や暦を受け入れている

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 また、聖書はこの世の権威に対して、このように書いている。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は、自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びていないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7) 

そこで、私(パウロ)は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

(テモテへの手紙第一 2:1~4)

 

 聖書は、権威のために祈るよう勧めている。時の支配者は、ローマ帝国であった。また、イスラエルを支配していたのは、本来、外国人だったヘロデなどの王たちであった。支配者たちが、イエスを信じるクリスチャンを迫害していた、そんな時代である。

 そんな中であっても、聖書は「上に立つ権威に従うべき」「王たちと高い地位にある人のために祈りなさい」と教えているのである。非常に興味深い。聖書は、この世の支配を認めず逆らえとは教えていない。むしろ、彼らに従い、法を遵守し、彼らのために祈るよう教えているのである。

 であるならば、天皇であろうが、総理大臣であろうが、日本という国が様々な歴史を経て、象徴なり三権の長とした「人間」に対して、クリスチャンが敬意を払い、彼らのために祈るのは至極当然である。民主主義の国において、国民主権の価値観のもと、公正な選挙で選ばれたリーダーをリスペクトし、彼らのために祈るのは、クリスチャンにとって推奨されるべきことである。

 

 また、聖書はユダヤ暦以外の暦も使用している。例えば、以下のような箇所もある。

 

アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき・・・

(ネヘミヤ記 2:1) 

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第2年まで中止されたままになった。

エズラ記 4:24)

クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で、王座に着いていたころ、その治世の第3年に、彼はすべての主張と家臣たちのために宴会を催した。

エステル記 1:1~3)

ユダの王ゼデキヤの第10年、ベブカドネツァルの第18年に、主からエレミヤにあったことば。

エレミヤ書32:1) 

ペルシアの王キュロスの第3年に、ベルテシャツァルと名付けられていたダニエルに、あることばが示された。

(ダニエル書 10:1)

 

 聖書は、思いっきり他の国の王の治世の「年号」を用いている。エレミヤ書に至っては、ユダヤの王と他の国の王の治世の年号を併記までしている。もし、他の国の王の治世で年月を表すのが、「悪いこと」なのであったら、聖書記者たちはユダヤの暦で換算し直して表記しただろう。しかし、このようにありとあらゆる他の国の王の治世で年月が記されている。つまり、年号を使おうが使うまいが、結局のところどうでもいいのである。あなたが元号を使っても、使わなくても、神がこの世界を支配している事実は変わらないのだから。

 

 

▼結局、どっちでもよくね?

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 とどのつまり、元号を使ってもいいし、使わなくてもいいのである。それは、聖書からみれば、どっちでも良い。元号を使っても、使わなくても、サタンは神の許可する範囲内でこの世を支配している。神の権威は、そのはるか上にある。クリスチャンにとって大切なのは、元号を使わないことではなく、この世の支配者のために祈り、自分の義務を果たすことである。エネルギーを裂く方向を間違えてはいけない。

 結局のところ、今回の結論は、次の聖書の言葉に要約できる。

ある日を別の日より大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(ローマ人への手紙 14:5~14)

 

 「元号」そのものには、何の効力もない。「それ自体で汚れているものは何一つない」のである。しかし、「元号」を使うのは偶像礼拝だと考える人にとっては、それは偶像礼拝になる。「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」のが大切だ。

 私個人の意見では、「クリスチャンは元号は使うべからず」は、行き過ぎた主張だと思う。そして、信者たちに行政的な手続きのやり方まで指導し、他の人にそれを強制することは、たとえ牧師であっても「やりすぎ」だと思う。こと「元号」に関しては、個々人が自分で聖書を読み、神の前で正しいと思うようにすれば良いと、私は思う。

 

 

▼おまけ1:天皇制の是非という別の問題

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 「元号」については、述べた通りだ。この手の議論をすると、必ず天皇制の是非」について話題が及ぶが、これは全くの別問題である。この議論に深入りするのは避けるが、私個人の意見を簡単にまとめたい。

 まず、天皇は、「日本国の象徴」であり、「国民統合の象徴」である(憲法第1条)。皇位世襲であり、国会の決議した皇室典範により継承する(憲法第2条)。これらは全て、日本国憲法で規定されている。つまり、天皇憲法の規定に基づいた「象徴」なのである。

 天皇制には神道という宗教的なバックグラウンドがある。だから、クリスチャンは天皇を認めるべきでないという人もいる。私は、それには懐疑的な立場だ。そもそも「神道」自体が、極めて曖昧な、後の時代に「作り出された」宗教である。その儀式や伝統には、ユダヤ教ペルシャの宗教の影響が色濃く見える。おそらく、シルクロード、中国経緯で伝わったものだろう。西洋で破門された「ネストリウス派キリスト教」の影響もあると考えられる。天皇自体も、最初から文献があるわけではなく、後の時代にさかのぼって「こういう感じでした」という記述を、あえていえば「作り出した」のである。

 これは極めて日本的だ。「古事記日本書紀が作成されたのは8世紀。イスラム教の誕生が7世紀なので、それより後である。当時の日本は、文献がなかった。中国へ渡った大使たちが、中国の発展に追いつこうと、日本独自の「神話」を「作り出した」のである。同時に「天皇」という存在も、有り体に言えば「作り出した」のである。これは議論のあるところだろうが、私はそう考えている。極めて日本人らしい、「そういうことにした」という典型例である。

 以来、天皇は、ハッキリ言って「政治利用」され続けてきた。天皇は神と言いながら、歴史の中の権力者に利用されまくっていたのである。矛盾することをできてしまうのが、本当に日本人らしい。私は、取材する中で、「生物学的には、男系だけで子孫が保てるのは4代が限界」との声も聞いた。天皇はずっと同じ家系ではなく、養子や隠し子など、様々な、あの手この手を使って維持されてきたのである。これは、誰もが認める歴史的事実であろう。

 

 日本中が天皇を「神」だと考えていた時代でさえ、天皇は軍に利用されていた。GHQ天皇を尋問した際、昭和天皇が「私が止められる空気ではなかった」と供述したことに、西洋の人々は驚きを隠せなかった。「あなたは神ではないのか」。「決める権限はあなたにあるのではないか」。そう思ったことだろう。日本を支配しているのは、実は天皇でも政府でもなく、「空気」なのである(by山本七平)。

 そして、戦後、日本中の人々が、すぐに「天皇」を「人間」であり「象徴」だとして受け入れた。終戦が1945年8月で、憲法の交付が1946年11月である。この間、わずか1年3ヶ月。1年余りの間に、日本人は全く違う考え方を受け入れたのである。「そういうことにした」のである。これが日本人のサガであり、西洋の人々には決して理解できないだろう。

 

 まとめると、天皇日本国憲法で制定された立場である。これを否定するならば、憲法を変えないといけない。同時に、憲法には政教分離の規定もあり、天皇が形上、内閣総理大臣を任命したり、国会の開会を宣言したりするのは、憲法と矛盾する。実は、憲法には矛盾する内容が含まれていて、これを受容しているのも、また日本人的と言えよう。結局のところ、私は天皇制は無くならないと思っているし、無くならないなら騒いでも仕方ないと思っている。

 ただ、基本的人権」の観点から、天皇制を疑問視する声はあって当然だと思う。天皇は、生まれながらにして、職業選択の自由がない。信仰の自由もない。プライバシーもない。男子は一生皇族である。女性だって、結婚しようと思えば、週刊誌やワイドショーの標的になる。かわいそすぎないか。天皇だって、公務が詰め込まれ、ほぼブラック企業状態である。生まれた瞬間に自分の未来が決まっているというのは、基本的人権を主張する民主主義国家として、いかがなものか。そういう指摘はあって当然だとは思う。

 

 

▼おまけ2:キリスト教団体の主張について・憲法と聖書どちらが大切なのか

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 最後に、先に挙げたキリスト教団体の主張について、私なりのコメントをしたいと思う。上記の団体の声明は、いずれも憲法の「政教分離」の規定を根拠に、天皇皇位継承の儀式に税金を使うのはオカシイ、元号も使わないし、祝日も認めない、といった類のものである。

 別に、どんな要請をしたり、どんな声明を発表したりするのかは、個々の団体の自由である。ただ、私としては、これらの団体の主張を見て、憂慮する部分が2つある。

 ひとつ目の懸念は、これらの団体が、憲法をまるで聖書よりも大切かのように扱っている点だ。私たちクリスチャンが信じるのは、聖書の記述であって、憲法ではない。「憲法守れ!」と言う前に、聖書の記述に照らし合わせて、物事を捉えた方が良いのではないだろうか。これらの主張は、まるでクリスチャンが聖書を信じる人たちではなく、憲法を遵守する人たちに見えてしまうような気がしてならない。

 特に、聖光会の「かつて、天皇を 中心とした国家神道のもとで、植民地支配と侵略戦争をした反省の上に作られた憲法を守ることは、わたしたちの責任だといえます」という主張は、いささか行き過ぎだと思う。クリスチャンが守るべきは、神の言葉であって、人間が作った憲法ではない。しかも、憲法を守ることが責任ならば、その第1条、第2条で定められた「天皇」の存在を認めることになるが、それはいいのか。矛盾するのではないだろうか。憲法を守れと言いながら、主張そのものが憲法と矛盾しているのである。

 もう一つは、日本のキリスト教団体の中に、日本共産党の思想が入り込んでいるのではないか、という懸念である。例えば、「天皇が時空を支配する」などといった表現は、共産党特有の表現であり、これらが牧師たちの口から出てくること自体、私にとっては驚きである。

 参考までに、共産党・志位委員長の公式見解を掲載する。(参考URL)

慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対するーー新元号の発表にさいして

2019年4月1日 日本共産党委員長 志位和夫

 一、元号は、もともとは中国に由来するもので、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づくものである。それは日本国憲法国民主権の原則になじまないものだと考えている。

一、わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではない。
 同時に、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する。

一、政府は、これまでも「一般国民にまで(元号の)使用を強制することにはならない」ことを「政府統一見解」として明らかにしている。
 この立場を厳格に守ることを、あらためて求める。

 いかがだろうか。元号反対派の牧師たちが口にする言葉と、驚くほど似ていないだろうか。 

 共産党の思想が、良いか悪いかを論じるつもりはない。彼らはれっきとした公の政党である。しかし、同時に公安調査庁が、破壊活動防止法に基づき、調査対象団体に指定している団体でもある事実は、バランスの面から述べなければならない。

 個々の政治的思想は自由なので、別にクリスチャンが共産党員になっても構わない。しかし、本来、クリスチャンの信仰と共産党の思想は、完全に別物である。全く別の考えが、キリスト教団体に入り込んではいないか。近年、共産党は「宗教団体との対話」と称して、キリスト教団体との交流を進めている。私は、この動きに対して、懸念を持っている。

 クリスチャンの信仰は聖書に基づくものである。クリスチャンの信仰は、憲法に基づくものでも、共産党の思想に基づくものでもない。エスを信じて生きることと、共産党の思想は、全く関係がない。教会や団体のリーダーたちには、自分の政治的思想と、聖書を教えることや、教会の共同体を牧会することを、きちんと区別していただくよう、願うばかりである。

 

(了)

【疑問】「明日、晴れますように」と祈るのは正しいのか?

クリスチャンの中で、たまに「明日は絶対晴れます!」と言う人がいますが、それは正しい姿勢なのでしょうか?

 

 

▼「なんで雨なんだよ!」と神にキレる先輩

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 大学時代、クリスチャンのサークルの新入生歓迎イベントに参加した。典型的な新歓バーベキューだった。駅で先輩たちと待ち合わせたのだが、当日はあいにくの雨。しかも、結構ザーザー降っていた。しかし、バーベキューは中止にはならず、決行された。

 バーベキュー場につくと、先輩たちが寒そうに傘をさして待っていた。すると、実行委員のとある先輩が、空に向かって何やら叫び出した。「神様! あんなに晴れるように祈ったのに、なんで雨なんだよ!! なんでだよ!!! ふざけんなよ!!!!」全身全霊で神に向かって怒りを表現している先輩に、私は唖然とした。まわりの新入生もドン引きだった。ご利益的な信仰と、その祈り通りにならならず神に対して怒っている姿に全力でツッコミたかった。結局、それがキッカケで、そのサークルに対して悪い印象しかなくなった。

 このように、「神様明日晴れにしてください」とか「神様に祈ったら絶対晴れるよ」といった言葉は、クリスチャン同士の会話でよく耳にする。一般的には、天気予報などを加味して、雨天時の予定を組んだりするのだが、クリスチャンの中には、「晴れるように祈ったから、絶対晴れるよ!」と楽観的な意見を述べる人がいる。そこまで強行的でなくとも、「晴れるように祈ろう」という人は多い。

 果たして、これは「信仰」と呼べるものなのだろうか。今回はその点を議論したい。

 

 

▼神には天気を左右する力がある

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 聖書は、「晴れるように」など、天気を左右する祈りについて、どう書いているのだろうか。実は、晴れや雨など天気について祈る行為の是非について、聖書には全く記述がない。禁止も推奨もされていないのである。

 当然、神が天気をつかさどっているという記述はある。神がこの世界のすべてを造ったのだから、当たり前なのだが、いくつかその例を挙げてみよう。

 

<エジプトでの雹>

「私(神)は明日の今頃、エジプト始まって以来、今までになかったような恐ろしく激しい雹を降らせる。それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう」ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。しかし、主の言葉に心を止めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。(中略)そこで、モーセは杖を天に向って差し伸ばした。こうして主は、エジプトの地の上に雹を降らせた。雹が降り、雹の間を炎が駆け巡った。その激しさは、エジプト全土で国が始まって以来ないほどのものであった。雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。

出エジプト記 9:18~26 聖書協会共同訳)

  これは、有名な「エジプトでの10の奇跡(災い)」の一部である。神がエジプトに猛烈な雹を降らせたという記述だ。ただし、イスラエル人が居住するエリアには雹が降らなかった。神が天気をコントロールしているのが分かる。

 

イスラエルの戦いでの雹>

主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、イスラエルはギブオンで彼らに大打撃を与え、さらにベト・ホロンの坂道を追い上げて、アゼカとマケダまで彼らを追撃した。彼らがイスラエルの前から逃れ、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主<しゅ>は天から大きな石(雹)を降らせた。それはアゼカに至るまで降り続いたので、多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。

ヨシュア記 10:10~11 聖書協会共同訳)

 イスラエルの民が、アモリ人と戦争した時、神が雹を降らせた。イスラエル人が戦争で殺した人より、神による雹に打たれて死んだ人の方が多かった。戦争に勝利するのは、人の力ではなく、神の力によるものだとハッキリ分かる出来事である。

 

<太陽が一日の間留まる>

こうして、主がアモリ人をイスラエルの人々の前に渡された日、ヨシュアイスラエルの見ている前で主に語った。「『太陽よ、ギブオンの上にとどまれ。月よ、アヤロンの谷にとどまれ』すると、太陽はとどまり、月は動きをやめた。民がその敵に報復するまで」これは『ヤシャルの書』に記されているとおりである。太陽は丸一日、中天にとどまり、急いで沈もうとはしなかった。この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。

ヨシュア記 10:12~14 聖書協会共同訳) 

 何とビックリ。太陽が一日中とどまり、沈まなかったとの記述である。神は、太陽の動きをコントロールする力を持っている。もっとも、近年の研究では、この記述は日食ではないかとの指摘もあるようだ。

 

<太陽が十度戻る>

 ヒゼキヤ(王)がイザヤ(預言者)に、「主が私を癒やされ、私が三日目に主の神殿に上ることができるというしるしは何でしょうか」と問うと、イザヤは、「これが主からのあなたへのしるしです。主は約束されたことを必ず実行されます。日影が十度進むか、十度戻るかです」と答えた。するとヒゼキヤは、「日影が十度伸びるのはたやすいことです。むしろ日影を十度後戻りさせてください」と頼んだ。そこで預言者イザヤが主に叫ぶと、主は、日時計、すなわちアハズの日時計に落ちた日影を十度後戻りさせられた。

(列王記下 20:8~11 聖書協会共同訳)

 ヒゼキヤ王は病気になった。ヒゼキヤは、神に熱心に祈って、癒やされることになった。ヒゼキヤは、預言者イザヤにその証拠を求めると、イザヤは「太陽が十度進むか、戻るか、どちらかを選べ」と提案する。ヒゼキヤは、太陽を十度戻すよう願うと、神は実際に太陽を十度戻したのであった。神は、太陽を止めるだけでなく、戻すこともできるのである。

 

<預言の中に見られる神の力>

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は雷雲をもたらし、人々に豊かな雨を与え、すべての人に野の草を与えられる。

(ゼカリヤ書 10:1 聖書協会共同訳)

 預言書の中には、神が自然をコントロールしている様が、よく描かれる。神は、雨も風も雷も支配している。季節も天気も、神が差配しているのが分かる。特にここは、雨が非常に貴重な中東ならではの、神が雨を与えるという約束である。

 

預言者エリヤの時の大雨>

ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤ(預言者)はアハブ(王)に言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年間の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(中略)それから多くの日を重ねて三年目のことである。主の言葉がエリヤに臨んだ。「さあ行って、アハブの前に姿を現しなさい。私はこの地に雨を降らせる

(列王記上 17:1~18:1 聖書協会共同訳)

 イスラエル王国のアハブ王の時代、長い期間の干ばつがあった。実は、信仰を捨てていたイスラエル王国を戒めるために、神が干ばつを起こしたのであったそして、3年語には大雨を降らせた。雨を降らせるのも、降らせないのも、神のさじ加減なのである。よくこの箇所を引用して、「預言者エリヤのように天気を祈るべきだ」という人がいるが、それは間違いである。天気を支配するのは、私たちの祈りではなく、神ご自身の主権と力である。

 

 このような例を見ると、神がいかに偉大な力を持っているか分かるだろう。神は天気を司っている。この点には、聖書の神を信じる人にとっては、全く異論のないところであろう。問題は、どんな理由で天気を祈るかという、そのモチベーションである。

 

 

▼「明日晴れますように」という自己中心

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 なぜ、天気について祈るのか。例えば、「明日、屋外で教会のイベントがあるから、天気になるように祈りましょう」というケースで考えてみたい。当然、その理由は、イベントが問題なく開催される為である。ということは、「自分たちが企画したものがうまくいくように、神様どうか天気を晴れにしてください」と祈っていることになる。

 この動機は、ハッキリ言って自己中心以外の何物でもない。例えば、「晴れになってほしい」と祈る際に、同じ地域で「雨が降るように」と祈っている人がいたら、どうなるのか。例えば、あなたが企画したイベントの裏で、「どうしてもマラソン大会に出たくない、神様どうか雨を降らせてください」と願っている、いたいけな少女がいるかもしれない。命をかけて練習してきた陸上選手が、たまたまその日体調が万全でなく、雨天順延を願っているかもしれない。

 クリスチャンだけが特別なのだろうか。「明日は絶対晴れます」とか断言してしまうクリスチャンは、他の人を慮る想像力がまるでない。ハッキリ言って、自己中心である。

 ましてや、同時に同じエリアで、2のクリスチャンのうち1人が「晴れにしてください」と祈り、もう1人が「雨にしてください」と祈っていたらどうなるのか。神はどちらの祈りを聞かれるのだろうか。より神に信頼している人の祈りを聞くのだろうか。そうではないだろう。

 結局、神が晴れにすれば晴れるし、雨にすれば雨が降るだけなのである。大事なのは、晴れになっても雨になっても神に感謝して生きる態度である。

 よく、雨天時の対応を考えると「不信仰だ」などと、わけのわからない指摘をしてくるクリスチャンがいるが、意味不明だ。屋外でイベントをやるなら、晴天時と雨天時の対応を考えるのは、当たり前である。不信仰などではない。

 

 

預言者エリヤの祈りはどうなるのか

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 こう言うと、聖書にこう書いてあるではないかと言う人もいるだろう。

預言者)エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、3年6ヶ月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。 

ヤコブの手紙 5:17〜18 聖書協会共同訳)

 

 これは、先に挙げた、神がイスラエル王国を戒めるために、預言者エリヤを通じて3年間の干ばつを起こした出来事の引用である。エリヤは、雨が降らないように祈ったではないか。だから我々も天気のために祈っていいのではないか。そう指摘する人は、前後の文脈を読んだ方が良い。

あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主(神)の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。エリヤは、私たちと同じ人間でしたが・・・

ヤコブの手紙 5:13~16 聖書協会共同訳)

 

 この部分で書いているのは、「イエスを信じるコミュニティの中で、お互いに祈り合いなさい」という勧めである。弱っている人を、祈りをもって互いに助け合いなさいという記述である。決して、雨が降るよう祈れとか、晴れになるよう祈れという意味ではない。天気が自分の思い通りになるという「信仰」は、果たして「信仰」なのか、アヤシイと私は思う。

 そもそも、エリヤが雨が降らないように祈ったのは、当時のイスラエルという国家への預言のためである。神が雹を降らせたり、大雨を降らせたり、太陽を戻したりしたのは、いずれも王や預言者など、イスラエルの民の国家的リーダーたちに対して示した「しるし」であった。決して、教会なイベントとか、新歓バーベーキューのような、チンケなものではない。スケールが全く違う。

 また、旧約聖書の時代の人々にとって、天気は暮らし、いのちをも左右する重要なものであった。しかし、現代の日本に生きる私たちは、たとえ天気がどうあろうと衣食住には困らないのだから、いちいち天気について心配したりする必要はない。ただ、例えば大地震とか、台風とか洪水のような、人のいのちにかかわるような災害が起こらないように祈るのは、私は全く問題ないと思う。むしろ、神を知る前に、そのような災害で多くの命が失われないよう、祈った方が良い。

 これは決して、神の主権を認めない話などではない。当然、神は天気をコントロールする力も主権も持っている。それを、自分の都合のために願うというのは、越権行為であり、自己中心ではないかという指摘だ。イエスもこう祈っているではないか。

(イエスは)少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この盃(十字架)を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに

(マタイによる福音書 26:39 聖書協会共同訳)

 

 イエスは、十字架という使命についてさえも、「どうか去らせてください」と祈った。興味深い。しかし、最後には「私の望むようにではなく、御心(神の計画)の通りになるように」と祈ったのである。

 私たちは、このイエスの姿勢に学ぶべきではないか。ましてや、私たちが祈る天気のことなど、十字架に比べたら100億倍も小さなこと。「天気がよくなるように」と祈ってもいいかもしれない。だけれども、結果はどうあろうと、神に感謝して生きることが大切なのだ。決して、「神様、なんで雨なんだよ!」とキレてはいけない。そもそも、バーベキューをやる前に天気予報が出ていたのだから、新入生の気持ちを考えたら、屋内に切り替えたほうが賢かった。例の先輩は、自分のプランに拘るあまり、皆をドン引きさせる結果となってしまったのだ。

 

 

▼結局はモチベーションが一番大事

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 結局のところ、「心の動機」が全てである。あなたが天気について祈るのは、どのようなモチベーションなのだろうか。「自分の信仰を宣言したまで」と言う人もいるが、本当にそう思っているのだとしたら、ちょっとその信仰は自己中心的かもしれない。聖書がいっているのは、私たちがどのような状況でも、神に従い、愛し合い、赦し合い、支え合い、神を自慢し、喜び、感謝する「生き方」なのである。晴れなら感謝しよう。雨でも感謝しよう。聖書にこう書いてある。

 

きょうだいたち(※イエスを信じる仲間たち※)、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主<しゅ>にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。あらゆる悪から遠ざかりなさい。

(テサロニケの信徒への手紙 5:12~22 聖書協会共同訳)

  

(了)

【まとめ】クリスチャンの離婚・再婚についての考え方

離婚、再婚。社会においては、もはや「普通」のことになりましたが。クリスチャンはこのテーマについてどのような考え方をすれば良いのでしょうか。

 

 

▼デリケートなテーマにつき

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 「クリスチャンは、離婚や再婚についてどう考えているの?」ある友人からそう聞かれた。私は答えにつまった。自分の中で、ある程度の考えはあった。しかし、正直いって真剣に考えてこなかったテーマでもあった。離婚や再婚は、もはや現代社会においては珍しくない。それゆえ、実際に離婚した人、再婚した人、ご両親が再婚した人など、当事者の方が大勢いる。それはクリスチャンであってもそう変わりない。

 このような内容の記事を書くのを、私はためらっていた。当事者の方たちの人間関係やアイデンティティに関わる話であるし、何といっても私は結婚経験のない独身者だからである。私に離婚や再婚について書く権利はない。そう思っていた。

 けれど、友人からそのように聞かれ、少なからずこのテーマについて悩んでいる人がいると気がついた。そして、結婚、離婚、再婚は、人間の人生において非常に重要なテーマであると再認識した。その結果、ある程度このブログでもまとめておく必要があるだろうとの結論に至った。このような経過から、今一度聖書を調べ直し、私なりの考えをまとめてみた。読者の方々は、これはあくまでも、私の個人的意見であるという点をご理解いただいた上で、参考程度に読み進めていただければ幸いである。また、この記事で扱うのは「クリスチャンの離婚・再婚」であることを念頭に置いてほしい。

 

 

▼聖書の基準をどのように適応するか

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 聖書は、現代に生きる私たちにとって、どのようなものなのか。ある人は、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉だ」と言い、ある人は、「聖書はそのまま現代に適応できない」と言う。ある人は「聖書は人生のマニュアルだ」と言い、ある人は「聖書は人生の指南書ではない」と言う。

 私は、どちらかと言えば、「聖書は神の言葉」として捉える立場だ。当然、聖書の言葉は、生き方の基準になると、私は考える。だから、こんなブログを書いている。しかし、時代背景、言語や文化の違いを、よく踏まえた上で聖書を読む必要があると思う。特に、聖書は、一義的には昔のユダヤ人に対して語り継がれ、後に文字で記された書物であるという点を忘れてはならない。外国人である現代の私たちは、よくよくその点を理解し、聖書の文章を解釈する必要がある。当然、翻訳によって起こりうる弊害も考慮すべきだろう。

 そう考えれば、旧約聖書にある「律法」の規定のほとんどは、私たち外国人を直接的に縛るものではない。それは自明の理だろう。新約聖書はどうか。新約聖書には、イエスが示した基準、「使徒」たちが示した基準、現代の私たちにも当てはまる部分、当時の文化背景のみに適用すべき部分などが混在していて、どこで「ライン」を引くかは議論がある。もしかすると、聖書をソックリそのまま、「現代の人生マニュアル」のように読む読み方は、危険かもしれない。

 しかし、旧約・新約に関わらず、聖書の記述を通して、私たちが「いかに生きるか」をうかがい知ることはできる。聖書には、神がデザインした「生き方のヒント」がある。聖書は、私たちの心の動機を明らかにする。聖書は、人の過ちを浮き彫りにする。

 聖書がどんなものか、聖書自体が宣言している。

聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。

(テモテへの手紙第二 3:16~17 聖書協会共同訳)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12)

 

 私の意見では、聖書はマニュアルではないが、「生きる基準」にはなりうる。では、今回のテーマ、「離婚・再婚」について、聖書は何と言っているのか、私なりにまとめたい。

 

 

▼聖書の「結婚観」について

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 「離婚・再婚」を語る前に、まず聖書の「結婚観」を語らないといけない。「結婚」は、旧約・新約にまたがる、聖書の一大テーマだ。その中でも、一番重要なのは、以下の言葉だろう。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記2:24)

 

 これは、神がアダムとエバの2人を創造したときの記述である。男は、女と結ばれ、その2人は「一体」となる。2つの別々の存在が、「結婚」という概念によって、「ひとつの存在」となるのである。これは、聖書の後々のメッセージの伏線でもある。

<2つのものが1つとなる例>

ユダヤ人 と 外国人(異邦人)が ひとつになる。(ローマ11章、エペソ2章)

・キリスト と 信者の集まり(教会)が ひとつになる。(エペソ5章・黙示録21章)

・聖書の神 と 人間が ひとつになる。(コリント人への手紙第一6章)

 

 新約聖書のエペソ人への手紙は、特にこの「結婚」の概念について解説している部分である。エペソ人への手紙の筆者であるパウロは、上に挙げた創世記の一部を引用し、結婚の概念について説明している。

私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

(エペソ人への手紙 5:30~33)

 

 また、「結婚」は聖書の最初の書物「創世記」で登場し、最後の書物「黙示録」でも描かれる。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(中略)また、最後の7つの災害で満ちた、あの7つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降ってくるのを見せた。

ヨハネの黙示録21:2~10)

 

 ここでは、キリストを「花婿」として、キリストを信じる者たち(≒新しいエルサレム)を「花嫁」として描いている。イエスは、福音書の中で何度も自分を「花婿」に例えて話していた(例:マタイ9章、25章など)。黙示録で描かれる「花婿」はキリストを指し、「花嫁」はイエスに信頼する者たちを指す。聖書の最初と最後に「結婚」が描かれているのである。

 

 まとめると「結婚」は、聖書が描く最も大切なもののひとつである。結婚は、「2つのものが、ひとつとなる」という概念であり、聖書の最初から最後まで示されている基準である。聖書の基準から言えば、「結婚」は、「両性による不可逆的な契約」である。

 異論はあるだろう。しかし、この部分は譲れない。創世記は、ハッキリと「男と女」の関係として「結婚」を表している。また、先に挙げ「違う性質の2つのものが、ひとつになる」という「結婚」の特性を鑑みれば、やはり「両性による」と考えた方が、私はしっくりくる。それが「神のデザイン」だと思う。「不可逆的な」と「契約」の部分は、次の議論と重なってくるので後で議論する。

 ひとまず結婚は定義できた。さて、今回のメインテーマである、「離婚・再婚」について見ていこう。

 

 

旧約聖書の「離婚」の基準

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 聖書は「離婚」について何と言っているのか。旧約聖書の「モーセの律法」にその記述がある。

人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出ていって、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻として、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

申命記 24:1~4)

 

 これは、直接的に離婚を許可した規定ではない。しかし、離婚が前提となっている規定である。

 旧約聖書の価値観では、この箇所を根拠に「離婚」は許容されていた。しかし、男性のみに許された限定的な権利であった。それは、当時の価値観で、女性は男性の所有物のように見なされていたからだと考えられる。例えば、聖書で人口を数える時、特に断りのない場合は、基本的に男性の人数のみの記述になる。現代人が聞くと「なんて不条理な」と思うかもしれないが、それが当時の価値観だったのだ。

 離婚は、基本的には限定的な規定であった。上記の聖書の言葉のように、離婚できたとしても、一定の成約があったと考えられる。離婚した相手が別の人と再婚した場合には、同じ相手との再婚は禁じられていた。旧約聖書の世界で「離婚」は許容されていたが、元々は、例外的な規定だったと考えた方が良い。   

 しかし、それが次第に、「男性の権利」と捉えられ、簡単に離婚できるようになってしまったのだろう。新約聖書の人々の反応を見ると、男性側が妻を気に入らなくなった場合、すぐに離婚してしまうような社会だったのだと想像される(※現代にソックリ)。例えば、子どもができないとか、家事をサボるとか、料理がマズいとか、態度が悪いとか、そんなささいな理由もあったのかもしれない。この状況に対して、イエスは物申すのであった。

 

 

▼イエスが示した「離婚」の新基準

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 さて、そんな社会に対して、エスは全く違う基準を示した。エスは、聖書本来の基準を示したのである。聖書の言葉を見てみよう。

また、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

(マタイの福音書 5:31~33)

だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。

(ルカの福音書 16:18)

 

 以上が、イエスが言った言葉である。エスはハッキリと、「妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」と言っている。「姦淫」とは、ギリシャ語で「モイケイア」。不倫の意味である。このように「離婚」は、神によるデザイン通りの人間の生き方ではないと、イエスはハッキリ示している。

 

 少し長いが、他のイエスの言葉も見てみよう。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、初めの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受けいられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい

(マタイの福音書 19:3~12)

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです

(マルコの福音書 10:2~12)

 

 いかがだろうか。イエスが引用したのは、先に挙げた「創世記」や「申命記」の旧約聖書の基準である。エスは、旧約聖書を用いて、「離婚は姦淫である」という明確な基準を示した。「淫らな行い以外の理由で」とあり、不倫が理由なら離婚できるようにも読めるが、これについては諸説あるので後述する。

 ポイントは「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という部分である。エスの言ったことをベースに、コンセプトをまとめてみよう。

・神は人を男と女とに造った。

男と女は結婚によって、一体となる。

・結婚した瞬間に、2人がひとつの存在となる。

・肉体の接触においてひとつとなる(性交・婚姻関係・肉体的な段階)

・そして、霊的な概念においてもひとつとなる(霊的な段階)

結婚は、「神が結び合わせるもの」である。

神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。

・霊的段階において、人は、神が結び合わせたものを引き離せない。

・妻を離縁することは姦淫(≒不倫)である。

・別の女と結婚することは姦淫(≒不倫)である。

 

 イエスの示した基準に対して、弟子たちは「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と反応した。これは驚くべき反応である。この部分は、当時「離婚」が男性だけの権利だった社会状況を如実に示している。当時の男性にとって、女性は「パートナー」というより「財産」に近かったのだ。子どもを産み、子孫繁栄するというのが、もっぱら当時の女性の役割だった。

 イエスの言葉は、そんな当時の社会常識に対して一石を投じたもので、離婚を禁じたものではないという解釈もある。一定程度、その解釈も理解はできる。確かに、私もイエスの力点は「離婚を禁じる」方ではなく、「簡単に離婚するなよ」という方に置かれていると思う。

 しかし、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という言葉が、私にはどうも引っかかる。この言葉は、「神が結び合わせた2人を、人間によって引き離すことは、”本質的にはできない”」とも理解できる。詳しくは後述する。

 私個人は、「結婚は、霊的にひとつとなる契約である」と考える。神の前に、霊的にひとつとなった2人は、もはや人によっては引き離せないと、私は考える。それは、「不可逆的な契約」だからである。

 ちなみに「淫らな行い以外の理由」でなら離婚はOKなのか、という疑問が残っている。これについては諸説ある。ある人たちは、この基準をもって、「相手が不倫をした場合は離婚してもOK」と捉える。

 しかし、イエスの言った「淫らな行い」のギリシャ「ポルネイア」は、本来「不倫」を示す言葉ではない点に注目したい。「不倫」を表すギリシャ語は先に挙げたように「モイケイア」である。「ポルネイア」は、むしろ「婚前交渉」などの「正しくない性行為」を指す言葉である。イエスが「ポルネイア」という単語を、ここであえて使っているのには、意味があるのではないか。このことから、ある人たちは、イエスが言ったのは婚約時代の裏切り行為」を指すのだと解釈する。確かに、聖書協会共同訳の注釈では、「不法な結婚」との記載もある。

 私は、どちらかと言えば後者に近い立場である。なぜなら、先に挙げたように人の力で神が引き合わせた2人を引き離すことは、不可能だからだ。たとえ「不倫」という過ちを犯しても、夫婦関係の修復は可能である。霊的概念では、一度結婚という契を結んだ2人は引き裂けない。一度「ひとつ」となった2人を引き裂けるとすれば、それは「死別」のみである。そしてそれは、神ご自身だけの権威である。使徒パウロは、その点を明確に示した。では、見ていこう。

 

 

パウロが示した「離婚・再婚」の基準

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 使徒パウロは、イエスの発言をベースとした基準を示した。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。

(コリント人への手紙第一 7:10~16)

 

 パウロの手紙の中には「これは神ではなく、私の勧めだ」と断っている部分もある。しかし、この部分は「命じるのは私ではなく主(神)です」と明言している。ここは、注目すべきポイントだ。だから、この部分を指して「この箇所は、この時代におけるパウロ個人の意見である」という指摘はしにくい。

 興味深いのは、パウロがこの箇所で、夫と妻の双方に命じている点である。イエスが新基準を示すまでは、「女性は男性の財産」として扱われた。しかし、イエスはその常識に物申した。パウロは、ユダヤ教の常識ではなく、イエスの言葉をベースに、「男も女も、離婚してはならない」という基準を示したのである。いわゆる「男女平等の権利と義務」を示したのである。

 

 パウロは、この箇所で「再婚」についても基準を示している。パウロの示したオプションは2つである。

<既に離婚している場合の基準>

1:再婚せずに、独身のままでいる。

2:離婚した相手と和解し、その相手と再婚する。

 

 パウロが示した「再婚」の基準はこの2つである。つまり、「再婚」したい場合は、あくまでも、離婚した相手との和解を目指すべきであって、他の相手は想定されていないのである。さもなければ、独身のままでいるべきだと書いてある。

 これは、正直いって、とても難しく、厳しい基準である。一度離婚に至った相手との再婚は、並大抵の覚悟ではできない。しかし、そのありえない和解が実現するのが、神の人知を超えた働きである。

 し再婚を考えているクリスチャンの方がいるなら、まずは別れた相手との和解を第一に考えて、祈り、行動するのをオススメする。茨の道だが、その先には大きな神の計画の道があると、私は思う。「人にはできないことも、神ならできる」のである。

 また、「信者でない方が離れて行くなら、離れて行かせなさい」というのは、イエスの言葉にはなかった新しい基準だ。信者である人と、信者でない人が結婚している場合、信者である方から離婚は切り出せないが、信者でない側からは離婚ができるとも読める。私はある程度、その考えを支持する。しかし、これは決して「再婚の容認」ではない。パウロが示したのは、あくまでも例外的な規定である。

 

▼再婚できるもうひとつのケース

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 再婚についての規定は、明らかである。聖書は、最初に結婚した相手以外との再婚について、基本的にネガティブだ。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。

(コリント人への手紙第一 7:10~11)

 

 しかし、例外の規定もある。以下の聖書の言葉を見てみよう。

結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男の物となっても姦淫の女とはなりません。

(ローマ人への手紙 7:2~3)

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

(コリント人への手紙第一 7:39~40)

ですから、私が願うのは、若いやもめ(60歳以下)は結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。

(テモテへの手紙第一 5:14)

 

 この部分を読むと分かるのは以下である。

・初婚の相手とは、どちらかが死ぬまで結ばれている。

どちらかが死んだら、結婚する自由がある。

・ただし、「主にある結婚」(相手が信者と解釈するのが素直であろう)に限る。

・しかし、どちらかが死んだ後でも、結婚せずにそのままでいられるなら、その方が良い。

  

 パウロは、自身の考えを明確に示した。初婚の相手とは、相手が死ぬまで結ばれているのだ。私が、先ほど「霊的にひとつである」「不可逆的な契約」と書いたのは、そのためである。それを解除できるのは、どちらかが死んだときのみ。すなわち、生死を司る天の神だけが、その権限を持っているのである。

 パウロは、独身のままでいるよう勧めている。これについては議論があるが、パウロが再婚の規定を話している部分で「私のように独身でいられるなら・・・」という趣旨の話をしているのは興味深い。この再婚規定の部分をもって、パウロは配偶者との死別経験者だという人もいる。既婚者男性だけが「サンヘドリン」(最高法院・地方法院)のメンバーになれたというのが、ひとつの根拠となっている。

 パウロは、もしかすると配偶者との死別を経験し、覚悟を持って独身のままでいる生き方を選んだのかもしれない。

 

 

▼聖書で「再婚」した例

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 聖書で「再婚」した人たちを挙げてみよう。全てではないが、主な人物は以下である。

【タマル】

 再婚というより、死んだ兄の跡継ぎを産むために、再婚させられた。長兄である配偶者が死んだため、当時の習慣によって、夫の弟オナンと再婚した。しかし、オナンは、いわゆる「外出し」をしたため、神の怒りを買って死んでしまった(※「オナニー」の語源とも言われる)。タマルは、売春婦のフリをして、元夫の父ユダ騙し、肉体関係を持って子どもを産んだ。このときの子どもが、イエスの祖先となる。 

【サムソン・サムソンの最初の妻】

 結婚式の後に、サムソンの妻は、別の男に妻として与えられた。結局、ペリシテ人によってその女は殺されてしまった。サムソン自身は、その後デリラと結婚するが、彼女はサムソンが命を落とす原因となった。一応、サムソンは、妻の死後に再婚したケース。双方がネガティブな結果を迎えている。

【ルツ】

 ナオミの息子に嫁いだが、夫に先立たれてしまった。ナオミの勧めで、ボアズと再婚する。ダビデの祖先となる。夫との死別後に再婚したケース。

 【ミカル】

 ダビデの妻となったが、サウル王が取り上げて別の男に与えていた。サウルの死後、ダビデはサウルの側近だった将軍アブネルと交渉して、ミカルを妻として取り返した。しかし、ミカルはダビデをバカにしたので、子どもができなかった。政略結婚させられ、破棄され、また戻るという、非常に特殊な再婚のケース。また、王の妻である。

【バテシェバ】

 元々、ヘテ人ウリヤの妻だったが、ダビデと不倫をして、妊娠してしまう。夫のウリヤはダビデの策略により戦死。その後、ダビデの妻となる。ソロモンの母。イエスの祖先となる。一応、夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。ちなみにバテシェバは、息子ソロモンに対抗してクーデーターを起こし、失敗したアドニヤの肩を持つなど、人格的にも問題があったと考えられる。

 【アビガエル】

 ナバルという悪者の妻だった。しかし、ナバルがその悪さのために死んだ後、ダビデの妻となった。夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。こう見ると、ダビデの妻はほとんど再婚である。

【ホセア】

 神から、預言者の特別な使命として、預言のために売春婦の女と結婚する。その女が自分を捨てて、去ってしまっても、預言のために神に命じられて、再びその女を愛するようになる。神の使命による超例外的な再婚のケース。

 

 以上、聖書に記述のある代表的な再婚のケースを挙げた。いずれも、例外的なケースである。しかも、預言者や士師(民族のリーダー)、国家の王、王の妻といった特殊な立場の人間ばかりであった。それでもなお、ほとんどのケースは、「配偶者の死後」というのがひとつの基準となっている。

 長くなったが、以上のイエスパウロの示した基準から、私は、以下の2つのケース以外の離婚・再婚は、決して望ましくないと思う。

<離婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者が信者ではなく、かつ信者でない方が離婚を望む場合。

2:配偶者が不倫した場合。ただし関係修復に努力するようオススメする。

 <再婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者と死別した場合。

2:配偶者と離婚し、後にその相手と和解して再婚する場合。

 

 結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。それは神の計画である。私はそれを信じる。それが神のデザインだと思う。

 それゆえ、クリスチャンの離婚はありえないと考える。ありえないというのは、離婚してしまったらダメという意味ではない。実務的に離婚はできても、霊的には切り離すことはできないのではないか、という意味である。

 信者でない人との結婚は、新約聖書では基本的に想定されていない。信じたときに、配偶者が既にいて、その人が信者でなかった場合のみ、信者でない方が離婚したいと言うなら、例外的に離婚はできる。しかし、それは例外規定」であるのを忘れてはいけない。それ以外の再婚は好ましくないし、もし再婚しても、昔の「結びつき」が消えることはない。

 相手と死別した場合は、自由に再婚できる。しかし、独身のままでいられるなら、もっと良い。これが、聖書の言葉がから読み取れる(と私が思う)基準である。

 しかし、既に再婚しておられる方もいるだろう。その場合は、離婚する必要はどこにもないと、私は思う。パウロも「今ある状態に留まれ」と勧めている。今ある「不可逆的な契約」を、ぜひ大切にしてほしい。今目の前にいる人を、どうか幸せにしてほしい。それに、力と思いを注いでほしいと思う。

 

<私の考えまとめ>

・結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。

・それゆえ、クリスチャンの離婚はありえない。これはイエスが明言している。

・イエスを信じた時点で既に未信者と結婚している状態で、かつ相手から離婚を望む場合に限って離婚できる。

・不倫も離婚の理由になり得るという解釈もあるが、私はその立場ではない。まずは関係修復に努力するようオススメしたい。

・もし離婚してしまって、相手が存命中に再婚したいのであれば、初婚の相手との関係改善、和解につとめ、その人との再婚を目指すことをオススメしたい。大変つらい茨の道だが、その先の喜びは大きいと思う。人には不可能なことも、神ならできる。

・それ以外の再婚は好ましくないし、新たな相手とは霊的に結ばれることはできない。なぜなら、霊的には、既に初婚の相手と結び合わされており、それが解かれるのは死別した場合のみだからである。

神が結び合わせた結婚を、人が引き離すことは良くないし、そもそもできない。それができるのは、神のみであって、その方法は「死」だけである。

相手と死別した場合は、自由に再婚することが可能。しかし、独身のままでいられるなら、その方が好ましい。

既に再婚している人は、ぜひ今の相手を愛してほしい。大切にしてほしい。再び離婚しないように努めてほしい。

・既に肉親が離婚・再婚している方は、「間違いだ」と言うのではなく、家族をぜひ大切にしてほしいと思う。もし、この記事で誰かを傷つけてしまったら申し訳ない。

 

 

▼当然ありうる反論

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 以上、聖書から読み取れる基準を羅列した。しかし、実際問題、この原則を突きつけるだけでは解決しないケースがたくさんある。

 現実として、やむを得ない離婚も数多く発生しうる。暴力・DV(ドメスティック・バイオレンス)、度重なる不倫、犯罪、多額の借金、ドラッグ依存、アルコール依存、脳の病気、相手の気が狂う、結婚詐欺、子どもへの暴力やネグレクト、相手がイエスを否定するようになる、相手がクリスチャンだと思っていたら実は違った、相手が勝手に不倫をした挙げく別の人と結婚する、等々・・・。この世の結婚観は既に、めちゃめちゃに崩壊していて、修復不可能だ。人間は罪深いので、そのような間違いは、どんなに気をつけていても、誰にでも起こりうる。

 特に、家庭内暴力(DV)やドラッグ依存などは、離婚しないと命が危ないケースもある。特にDVに関しては、結婚前に見抜けない場合も多い。また、結婚後に相手がイエスを信じるのを「やめてしまう」場合、「実はイエスを信じていなかった」という場合も結構ある。これは、クリスチャンにとっては想像を絶するほど辛いことだ。

 そういう人たちに対して、あくまでも「原則」を突きつけ、「離婚は罪だ」とは、私はとても言えない。今までの記述を否定するようだが、上記はあくまでも「聖書が示す生き方の基準」である。例外は当然ある、と私は思う。イエスがもし現代社会にいたら、あまりにも簡単に離婚や不倫をする世の中に対して一石を投じるだろう。しかし、それと同時に、離婚して傷ついている人に寄り添い、慰めるというのもまた、イエスの姿ではなかろうか。

 教会の共同体・コミュニティにとって大切なのは、現実的にそういう問題が起こったときにどう仲間を勇気づけ、慰め、支えるかだと思う。「聖書の原則はこうだ」と突きつけ、相手を傷つけてしまうのは、同時に「互いに愛し合え」「さばいてはいけない」というイエスの言葉を無下にしてしまうことになる。離婚が「当たり前」になってはいけないと、私は思う。しかし、もし離婚せざるを得ないケースがあったら、その後どうしていくか、皆で支え、サポートし、寄り添うというのが、イエスを信じるコミュニティのあり方ではないだろうか。

 

 

▼結局は、神に従って生きるのが基本

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  以上、私の考えをまとめてきた。私は、クリスチャンの離婚に対してネガティブだ。その理由は、これ以上述べるつもりはないが、ここまで読んでいただけた方には理解してもらえると思う。もし離婚の危機にいるカップルがいらっしゃるなら、まず相手との関係改善のために、何ができるか考えてほしいと思う。

 しかし、現実的に離婚は起こりうるし、そうしないと命が危ないケースもある。もし離婚がコミュニティ内で起こった場合は、皆でその人を支え、励まし、慰め、勇気づけ、寄り添うというのが大切である。 「離婚歴」があるからといって、特定の立場になるのを制限したり、特定のコミュニティ内の役割を制限するのは、もってのほかだと思う。

 また、既に離婚してしまった方はいるだろうか。私は、大変言いにくいのだが、再婚するなら、元の相手を前提に考え、関係修復に全力を挙げることをオススメしたい。しかし、もし私自身が離婚してしまったと考えると、関係修復に努力したり、そのまま独身で居続ける自信は、正直言って無い。もしあなたが、再婚できないことで傷つきすぎて、イエスに信頼できなくなってしまうのであれば、元も子もない。その場合は「再婚」も一考していいと、私は思う。しかし、それが本来の神のデザインではないと知っておく必要はあると思う。

 結局のところ、神に従うというのが一番の基本である。そのためには「心の動機」を調べるのが重要である。自分はなぜ離婚したいのか。なぜ再婚したいのか。今一度、胸に手を当てて考えてみてはどうだろうか。究極的には、神に従う選択が一番なのだ。自信を持って、神に従っていると言えれば、それで良し。もし言えないのであれば、自分の「心の動機」がどこにあるのか、考えてみよう。おのずと、答えは見えてくるのではないだろうか。

 

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。

(伝道者の書12:13〜14)

 

(了)

【比較】「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比べてみた!

最近刊行した、新しい聖書翻訳、「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」はどう違うのか、比べてみました。

 

 

▼「新改訳」と「共同訳」

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 日本語の聖書の翻訳は、主に3種類ある。ひとつは、「明治元訳・大正改訳」を源流とする、「文語訳聖書」。文語訳聖書を現代流の日本語に改定したのが「口語訳」である。

 ふたつめは、1970年に初版を刊行した新改訳聖書である。新改訳聖書は、いわゆる「福音派」というグループを中心に、プロテスタントの一部に強く支持されている。

 最後は、カトリックプロテスタントが共同で翻訳した「共同訳」。1987年に刊行した「新共同訳聖書」は、現在、日本で最も読者が多いとされる翻訳である。

 近年、「新改訳」と「共同訳」の新しい翻訳が、相次いで発表となった。2017年秋には、新改訳聖書2017」が刊行。直近の2018年12月には、「聖書協会共同訳」が出版された。

 私は、それぞれの新しい翻訳を手にとって読んでみた。面白い。今まで見えなかった聖書の言葉が、浮き出てくるようだった。また、イエスを信じて以来基本的に「新改訳」を読んできた私にとって、「共同訳」に触れるのは、全く新しい体験であった。感動した。新しい翻訳を通じて、神の知らない姿を感じ取れた気がした。

 世の中に完璧な翻訳などない。それぞれに良さ、弱点があるのは言うまでもない。私も、「新改訳」には新改訳の良さがあり、「共同訳」には共同訳の良さがあると思う。そこで、今回、具体的に「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比較し、その違いを示したいと思う。

 

▼自然な日本語

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 翻訳の評価は、何に主眼を置いたかによって基準が変わる。「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」の双方の翻訳ポリシーを読んでみると、どちらも「自然な日本語」を目指すというものが、要素のひとつのようである。

 では、どちらの方がより自然な日本語なのか。こればかりは、好みの問題も入ってくるので、一概に優劣はつけられない。しかし、読んでみた私の感覚で申し上げれば、こと「自然な日本語」に限って言えば、「聖書協会共同訳」に軍配が上がると思う。個人的感覚で言えば、スラスラ読めるのは、聖書協会共同訳の方だ。参考に、聖書の一部分を取り出して、比較してみよう。

 

<1:「私はある・いる」>

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 聖書の神は、トリッキーな自己紹介をする。その部分を見てみよう。

新改訳聖書2017>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣われた、と」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:14〜15)

<聖書協会共同訳>

神はモーセに言われた。「私はいる、という者である」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました』これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

出エジプト記 3:14〜15)

  

 これは、神がモーセに自己紹介をした有名なシーンである。ヘブライ語では「エヒエ・エセル・エヒエ」(אהיה אשר אהיה)という。「現在・過去・未来」、時を超えて存在するという意味である。英語では、ほとんどの訳が「I AM WHO I AM」と表現している。神が、「俺は俺だ」とおちゃめな自己紹介をしたという解釈もある。「ここにいるよ」という、神からのメッセージでもある。

 日本語では、伝統的にこの名前を、「私はある」と訳してきた。新改訳はそれに倣っている。しかし、聖書協会共同訳は今回、大胆にもこの訳を「私はいる」に変更した。

 よくよく考えたら、当たり前なのだが、日本語で「人・生き物」の存在は「いる」と表現する。逆にモノは「ある」と表現する。「私はいる」「お父さんがいる」「ワンちゃんがいる」とは言うが、「パソコンがいる」「ポテトチップスがいる」「聖書がいる」とは言わない。逆に、「私はある」「お父さんがある」「ワンちゃんがある」とは言わないが、「パソコンがある」「ポテトチップスがある」「聖書がある」とは言う。日本語は、命あるものと、ないものの存在を明確に区別しているのだ。

 そう考えると、神については「私はいる」と表現した方が適切だろう。むしろ、なぜ今まで「わたしはある」という表現に甘んじていたのか分からない。大方、「神は人ではない」というような、もっともらしい理由があったのだろう。しかし、それは分かりづらいだけだ。今回の聖書協会共同訳の英断を、私は歓迎したい。

 他にも、細かいが表現の違いに注目してみよう。

新改訳聖書2017>

イスラエル子ら

・あなたがたの父祖の

・これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

<聖書協会共同訳>

イスラエル人々

・あなたがたの先祖の

これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

 いかがだろうか。「子ら」より「人々」の方が民族を指すと分かりやすい。「父祖の神」とは日常会話では言わないので、やはり「先祖の神」の方がシンプルだろう。最後は、これは好みだが、個人的には聖書協会共同訳の方が、「これこそ」と揃えて、体言止めで2つの文を揃えることで、詩的にパリっとまとまっており、読みやすいと思う。

 

<2:主語と述語をそろえる>

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 日本語は、主語が非常に大切な言語である。よく「日本語は主語を省略できる」と勘違いしている人がいるが、間違いだ。日本語ほど主語にこだわる言語は少ない。お手元の小説なんかを手にとって、主語にマルを付けてみよう。その多さに驚くだろう。

 日本語の基本は、「主語から書く」というものだ。そして、「主語を揃える」というのもまた読みやすくするテクニックの一つである。以下の聖書の言葉を読み比べてみよう。

新改訳聖書2017>

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ー主のことばー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ書 55:8〜9)

<聖書協会共同訳>

私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。 ー主の仰せ。 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。

イザヤ書 55:8〜9)

  いかがだろうか。上の文は、太字で主語を示している。主語をまとめよう。

 <新改訳聖書2017>

・わたしの思いは、

あなたがたの道は、

・わたしの道は、

・わたしの思いは、

 

<聖書協会共同訳>

・私の思いは、

・私の道は、

・私の道は、

・私の思いは、

  実はこれ、同じ内容を繰り返す、ヘブライ語によくある表現方法である。

 「A・B・B'・A'」というふうに、同じ内容の順番を入れ替えて、最初と最後で同じ意味合いのものを強調する。これは聖書でよく見かけるヘブライ語文法だ。

 この場合、日本語としては、同じ主語で並べた方が分かりやすい。しかし、新改訳聖書2017では、なぜか二番目だけが「あなたがたの道」となっており、主語にズレが生じている。

 原語をチェックすると、確かに直訳的には、新改訳の方が正しい。しかし、私の限られたヘブライ語知識で恐縮だが、流れ的には重要なのは語順ではなく、むしろ「A・B・B'・A'」の用法だと感じる。それをふまえると、やはり聖書協会共同訳のように、「私の〜」で4つの文の主語を揃えた方が、きれいにまとまっているように見える。

 

<3:代名詞の省略>

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 日本語は、「代名詞」をあまり用いない。そのため、「あなた」「彼」「彼女」などの代名詞は、極力省いた方が自然な日本語になる。では、その観点で次の箇所を見てみよう。

新改訳聖書2017>

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきて言った。あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:1〜4)

<聖書協会共同訳>

さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきてエスに言った。神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

  いかがだろうか。新改訳聖書2017では、「あなたが神の子なら・・・」と、「あなた」を用いている。一方、聖書協会共同訳は、「神の子なら・・・」と、代名詞を省いている。私は、聖書協会共同訳の方が好みだ。欲を言えば、その後の「これらの石に」の部分の「これらの」も必要ないと思う。「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」このくらいシンプルで良いと思う。

 また、太字で示した両者の違いも興味深い。悪魔が誰に話しているのか、共同訳の方が明確である。他の部分も、共同訳の方が、「生きるもの」「言葉によって」など、丁寧な言葉づかいで、自然な日本語のように感じる。

 また、悪魔のセリフにも違いがある。新改訳はあくまでも丁寧な命令口調。一方、共同訳の方は「命じたらどうだ」と、いかにも誘惑する口調である。ここも面白い違いではないか。

 

 <4:一文の長さ>

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 日本語は、一文が短い方が圧倒的に読みやすい。以下、比べてみた。

新改訳聖書2017>

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

イザヤ書 61:1〜2) 

<聖書協会共同訳>

主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み、囚われ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。

イザヤ書 61:1〜2)

  新改訳の方は、一文が長い。一方、共同訳の方は、一文が短く訳され、読みやすい。また、新改訳は、一文に「わたしに」と「わたしを」などが混在していて、文章が伝えたい内容がわかりにくい。共同訳の方は、「私に」と「私を」が違う文に挿入され、目的を述べる文なのか、対象を述べる文なのか、明確である。

 一方、新改訳は、文の途中で日本語が迷子になってしまい、何を述べたい文なのか、イマイチ分からなくなっている。これは、新改訳の悪い癖だ。そのため、上記のように抜き出すと、「囚人には釈放を告げ・・・」と、途中で文章が尻切れトンボになってしまう。一文が長いと、主語と述語が離れがちになる。主語と述語が離れていると、読んでいて文章の趣旨がよく分からなくなってしまう。その点、まだまだ共同訳の方が、文章が短く、パリっとしていて読みやすい。

 

 

▼聖書協会共同訳の優れた原語解説

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↑聖書協会共同訳は、様々な形で原語・用語を解説している。

 聖書協会共同訳の優れたところに、詳細な原語解説がある。解説自体は、新改訳聖書にもあるのだが、聖書協会共同訳の方が、数で圧倒している。特に、「言葉遊び・ライム(韻)」「用語補足」においては、聖書協会共同訳が圧倒的に優れている。例を2つ挙げよう。

 

<1:言葉遊び・ライム(韻)>

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↑聖書協会共同訳。マルの部分に注目してほしい。

 まず、以下の聖書の言葉を比べてみてほしい。

新改訳聖書2017>

万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴

<聖書協会共同訳>

万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに、そこには、流血正義を待ち望んだのに、そこには、叫び

イザヤ書 5:7)

  一見、何の変哲もない翻訳に見えるが、ポイントは原語の解説にある。新改訳聖書2017には、何の注釈もない。しかし、聖書協会共同訳には、以下のような注意書きがある。 

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 お分かりいただけただろうか。これは、ヘブライ語の言葉遊びなのである。韻を踏んでいるのである。まとめると、以下だ。

公正:ミシュパト

流血:ミスパハ

正義:ツェダカ

叫び:ツェアカ

  このようなヘブライ語の言葉遊びは、日本語に翻訳した途端に失われる。聖書協会共同訳では、この問題を欄外に注釈を付けることで解決した。このような言葉遊びは、実は聖書に多く見られる(例:創世記21:22〜31、エレミヤ1:11など)。この言葉遊びをあぶり出す工夫は見事だ。私は10年以上聖書を読んでいるが、恥ずかしながら、このイザヤの箇所の言葉遊びに気がついたのは、今回が初めてだった。ここだけではなく、聖書協会共同訳には、様々な注釈がついている。

 

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↑聖書協会共同訳は、詩篇で「いろは歌」である旨を明記している。

 他の工夫もある。例えば、聖書で一番長い箇所として有名な、詩篇119編は、実はヘブライ語の「いろは歌」になっている。新改訳聖書ではその点が明記されていない。しかし、聖書協会共同訳には、きちんと以下のように「アルファベットによる詩」と明記した上で、「アレフ」(א)(※ヘブライ語の一番最初のアルファベット)や「ベート」(ב)(※二番目)というように、いろは歌の頭文字を区分けしている。この点では、圧倒的に聖書協会共同訳の方が、良い工夫をしている。

 

 

<2:用語補足>

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 また、聖書協会共同訳には、用語の補足がある。例えば、以下を見てみよう。

<聖書協会共同訳>

ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢、洗礼(※「バプテスマ」のルビ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。(中略)その手にはがある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。

(マタイによる福音書 3:7〜12)

  この「毒蛇」や「箕」を指す言葉は何なのか。毒蛇といっても、様々である。マムシかもしれないし、ハブかもしれない。否。当時のイスラエルには日本にあるマムシなどいないだろう。では、実際に指すものは何なのか。聖書協会共同訳の欄外には、以下の注釈がある。

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毒蛇:クサリヘビ

箕:農用フォーク

 なるほど。これなら分かりやすい。「クサリヘビ」とネット検索してみれば、画像が一発で出てくる。自然な日本語で示すために、本文では「毒蛇」と表記し、欄外に実際に示す用語を記載する。良い工夫である。

(※ただし、聖書協会共同訳で「毒蛇」に「どくじゃ」とルビを振っているのはどうかと思う。音読みと訓読みのルビが混在していると、違和感がある。両方、訓読みで統一した「どくへび」の方が良いのではないか)

 面白いのは、同じ「蛇」でも、マタイ3:7の「毒蛇」は「クサリヘビ」、ローマ3:13の「蛇」はコブラと欄外に書いてある点だ。当然、ギリシャ語も違い、前者が「エキドゥノン」、後者が「アスピドン」である。ちなみに新改訳聖書2017は、前者も後者も「まむし」となっていて、翻訳としては少し心もとない。

 他に同じような欄外解説の例を挙げれば、

「恋なすび」 → 「マンドレイク

「乳香」   → 「フランキンセンス

「岩狸」   → 「ハイラックス」

「かもしか」 → 「ガゼル」

 などがある。

 確かに、イスラエルニホンカモシカが居るわけないので、納得だ。 

 

 

▼アガパオー・フィレオー問題

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新改訳聖書2017のヨハネ福音書21章

 ここまで書くと、聖書協会共同訳が圧倒的、と見えなくもない。頑張れ、新改訳! と思うかもしれないが、新改訳聖書の方が良いと思われる部分も、ちゃんとある。私が一読した上で、一番最初に指摘したいのは、次の箇所である。

新改訳聖書2017>

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロ(※シモンはペテロの本名)に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」ペテロは答えた「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい」

エスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい」

エスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」

ヨハネ福音書 21:15~17)

<聖書協会共同訳>

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。

二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛してるか」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい」

ヨハネによる福音書 21:15~17)

 

 これは、イエス三度「知らない」と言って裏切ったペテロ(ペトロ)を、死から復活したイエス三度「私を愛するか」と言って赦したという、非常に心温まり、イエスの懐の深さに胸打たれる、有名なエピソードである。話の構成はシンプルで、イエスが三回「私を愛するか」と問い、ペテロが「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるものだ。とてもシンプルだ。

 しかし、ここに重要なカギが隠れている。実は、「愛している」のギリシャ語に違いがあるのだ。「アガパオー」の「愛」と「フィレオー」の「愛」が混在しているのである。日本語は、どちらも「愛する」だが、ギリシャ語には微妙なニュアンスの差がある。「アガパオー」は「無条件の愛」を表し、「フィレオー」は「友情の・条件付きの愛」を示している。流れをまとめてみよう。

<一度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<二度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<三度目>

エス:フィレオー

ペテロ:フィレオー

 

 お分かりいただけただろうか。イエスが二度「私をアガパオーの愛で愛するか?」と聞いたのに対し、ペテロは「はい、フィレオーの愛で愛します」と答えているのである。これは、ペテロが「私は、あなたを無条件の愛では愛せません。ただ友情の愛でしか愛せません」と告白しているに等しい。エスを三度裏切ってしまったペテロが、いまだその罪悪感から逃れられていない証左である。

 しかし、イエスは、三度目に「私をフィレオーの愛で愛するか」とペテロに問う。これは、エスが「お前が友情の愛でしか私を愛せないのは分かっている。それでもいいんだ」と、言って、ペテロの頭をなでるような、温かく優しい言葉だ。エスが、弱い人間のところまでへりくだって降りてきて、あらん限りの愛でペテロを抱きしめたのである。

 さて、この「アガパオー・フィレオー」のくだりは、当然、ギリシャ語の原語を見ないと違いが分からない。日本語では両方とも「愛する」になるからだ。翻訳に注釈が絶対に必要なのは、このような重要な違いを表現するためだ。

 

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 新改訳聖書2017は、きちんと欄外の注釈に、どの部分が「アガパオー」で、どの部分が「フィレオー」なのか明記してある。しかし、聖書協会共同訳には、あろうことかこの部分の注釈が全くない。あれだけ細かな原語の注釈があるにもかかわらず、この重要な部分に限って、何の記述もないのである。

 聖書協会共同訳の底本も確認したが、原文のギリシャ語も、この「アガパオー」「フィレオー」の違いはきちんとある。なぜ「聖書協会共同訳」の方にはこの解説がないのか、理由は分からないが、これは見逃せない。この点においては、新改訳聖書2017の方が優れている。

 私が書いた解釈は、あくまでも解釈の一つにすぎない。しかしその意味合いは各自が考えるとしても、原語がわざわざ違う表現で書いてあるのだから、それを翻訳の際に読み手に伝えるのは翻訳者の大切な役目だろう。

 もっとも「アガパオー」と「フィレオー」の意味を知らない人にとっては、そもそも、新改訳2017の表記でも分からない。せめて、「アガパオー・フィレオー」の簡単な意味くらいは、注釈に書いてほしいものである。

 

 

▼「主」(しゅ)の書き方について

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 聖書の神は、世界を造った創造主であり、唯一絶対の神である。神は、徐々に自信の名前について明らかにしている。神は、モーセに対しては、「私はある・私はいる」と、おちゃめな自己紹介をした。しかし、神にはきちんと名前がある。その名前は「YHVH」(יהוה)の4文字で表わされる。正確な読み方は分かっておらず、ヤハウェとか「エホバ」とか言われる。ユダヤ人は、神の4文字の名前を発音せず、「アドナイ」(אדוני)(私の主人)とか、「ハシェム」(השם)(その名前)とか言って、読み替えている。日本語の聖書は、伝統的にこの神の名前を「主」(しゅ)と呼んできた。

 聖書の中には、神を示す言葉が何種類もある。「エル・エロヒーム」(אל,אלוהים)(神・神の複数形)、アドン・アドナイ」(אדון,אדוני)(主人・私の主人)など様々である。その中に、当然「YHVH」(יהוה)の4文字もある。また、その4文字を(書くのさえ恐れて?)省略した「YH」(יה)という表記もある。さらに、表記上は「YHVH」だが、わざわざ「エロヒーム」と読めるように、ふりがなを振っている場合もある。

 こんなにバリエーションがある「主」の名前が、日本語にすると、どの文字も「神」とか「主」とかになってしまう。これだと、原語の違いがいまいち伝わらない。

 「YHVH」をどのように表記するか。これは、聖書翻訳の中でも重要な要素のひとつである。ちなみに英語の場合は、「YHVH」を「LORD」と大文字で表記し、それ以外を「Lord」と小文字で表記するなどの工夫がある。 

 

 そこで、新改訳聖書2017では、「YHVH」を他と区別して表現するために、ある工夫をしている。それは、「YHVH」を、太文字の「主」と表記するというものである。

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新改訳聖書は、「主(YHVH)」の名前を太文字で区別している。

 「アドナイ」など「YHVH」ではない「主」は通常の太さで表記する。また、省略形の「YH」は、太文字の「」とし、欄外に「ヤハ」と読みを明記する。さらに、「YHVH」に「エロヒーム」と読み仮名がふられている場合(※ヘブライ語は、文字を読み替えることがよくある)は、太文字で「」としている。いずれも、明確に「YHVH」と区別しているのである。これが新改訳聖書2017の工夫なのだ。

 一方、聖書協会共同訳は、「YHVH」の「主」と、それ以外の「主」に明確な区別がない。比較してみれば、違いは一目瞭然だ。太文字などは聖書の表記そのままにしてある。

 

<ケース1>

新改訳聖書2017>

アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである」アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 <聖書協会共同訳>

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である」アブラムは尋ねた。「主なる神よ。私がそれを継ぐことを、どのようにして知ることができるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

  ここには、様々な「主」が登場するが、それぞれ全く違う表記である。違いをカッコ付で書くと以下のようになる。

新改訳聖書2017>

アブラムは主(YHVH)を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主(表記なし・動詞の形で判別)は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主(YHVH)である」アブラムは言った。「神(YHVHだが、「エロヒーム」の読み仮名つき)、主(アドナイ)よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 

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↑聖書協会共同訳では、どの「主」も同じ表記で、違いが不明確。

 ご覧の通り、新改訳聖書は、太文字や表現の違いを用いて、日本語のままでも原典の単語の違いが鮮明に分かる。しかし、聖書協会共同訳では、全て「主」となってしまっており、判別ができない。この点で、新改訳聖書の方が丁寧である。 

 また、ここまで読んでお気づきになった方は、相当鋭いが、実は「私・わたし」の表記にも違いがある。

 新改訳聖書2017では、神が主体の場合は「わたし」とひらがなで表記し、それ以外は「私」と漢字で表記している。先に挙げた聖書の言葉でも、神のは「わたし」、アブラムは「私」というふうに区別してある。

 一方、聖書協会共同訳の方は、両方、漢字の「私」である。これでは、主体が神か、神以外か、違いが分からない。この部分においても、新改訳聖書の方に軍配が上がるだろう。

 (※私は、某学生会の先輩に、漢字の「私」は「わたくし」と読むのだ、そんなことも知らないのか愚か者! と言われたことがあるが、新改訳聖書2017の「あとがき」を読むと、読む際は一般的に「わたし」を想定していると書いてあった・・・笑)

 

<ケース2>

 神の名前、「YHVH」には、「YH」という短縮形がある。

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↑「YHVH」の短縮形、「YH」は、欄外に「ヤハ」と示している。

新改訳聖書2017>

私は言った。私は*主を、生ける者の地で*主を見ることはない。(中略)私は機織りのように自分のいのちを巻いた。主は私を、機から断ち切られる。

(欄外の表記 *「ヤハ」)

イザヤ書 38:11〜12)

<聖書協会共同訳>

私は言った。私は主を見ることはない、主を生ける者の地で。(中略)私は機を織る者のように自分の命を巻き終わった。主は、織り糸から私を切り離された。

イザヤ書 38:11〜12)

  この場合、「主」という日本語は、いずれも3回登場する。3回のうち、原典のヘブライ語は、順番に、「YH」「YH」「表記なし」である。ヘブライ語は、日本語と違い、動詞の形で動作の主体が分かる。そのため、その性質が薄い日本語に翻訳する際、主体を補わなければならない。神を「彼は〜」とするわけにはいかないので、どうしても「主は〜」と補う必要がある。つまり、日本語の聖書は、原典よりはるかに多くの「主」が登場するのである。こればかりは、太文字か否かで見分けるしかない。

 この問題を解決するため、新改訳聖書2017は、「YHVH」、その短縮形「YH」、「エロヒームの読み仮名があるYHVH」、それ以外の「主」を、明確に区別して訳出している。一方、聖書協会共同訳は、すべて「主」となっていて、原典が透けて見えない。日本語への翻訳で補った「主」と、原典にある「YH」が混在してしまい、違いが明確ではない。この点においても、新改訳聖書2017の方が丁寧な仕組みと言えるだろう。

 ★「主」の表記まとめ★

 

新改訳聖書2017>

「YHVH」:太文字の「

「アドナイ」:普通文字の「主」

「YH」:太文字の「」と表記し欄外に「ヤハ」と明記

「エロヒームのふりがながあるYHVH」:太文字の「

 

<聖書協会共同訳>

すべて普通文字の「主」

 

 

▼持ち運びやすさなどについて

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↑手前が「新改訳聖書2017」、中央が「聖書協会共同訳」

 さて、内容ではなく、物質そのものを見てみよう。「聖書協会共同訳」の最も大きな弱点がここにある。

 

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 ・・・そう、ハードカバーなのである!!!

 

 なぜハードカバーにしたのだろうか。なんでやねん。なんでハードやねん。

 これは、聖書協会共同訳の製作者たちが、「聖書は持ち運ぶもの」という認識が全くないことを示している。彼らにとって聖書は、「教会の礼拝で使うもの」であり、「教会堂で使うもの」なのである。「聖書を持ち運んで読み歩く」という想定が、全くできていない。これが、カトリックとの合同翻訳の限界なのか。そうか、あなたたちは、日曜日しか聖書を読まないのか・・・。まことに残念である。

 私は、聖書は常に持ち歩き、地下鉄の移動など、暇さえあれば聖書をひらき、読むようにしている。もちろん、昨今はアプリの聖書などがあるので、スマホで読めればそれで良い。しかし、注釈の有無、書き込みができる、紙の聖書の方が頭に入ってくる、縦書きが好きなどの理由で、私自身は、紙の聖書を持ち運んでいる。これは好みの問題なので、優劣はない。

 しかし、このように「聖書を持ち運ぶ」人にとって、ハードカバーの聖書協会共同訳は重いし、デカイし、めちゃくちゃ使いにくい。満員電車で、隣の人にぶち当たらないようにするのが、精一杯である。しかも、2ヶ月持ち運んだだけで、既にカバーがはがれそうになっている。耐久性にも問題がありそうだ。聖書協会共同訳は、より小さなサイズで、ハードではないカバーのバージョンを、早く刊行してほしい。 

 

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 一方、新改訳聖書2017は、ラバー状のカバーである。大きさも、写真を見ていただければ分かる通り、聖書協会共同訳より一回り小さく、持ち運びに便利だ。この大きさで、きちんと注釈も付いているので、申し分ない。持ち運びやすさの点においては、新改訳2017の方が、圧倒的に分がある。

 

 なお、これは意外と重要なのだが、両方の聖書の紙質が違う。新改訳2017は若干の厚みがあり、聖書協会共同訳の方がより薄い紙を用いている。これにより、ページのめくりやすさに圧倒的な差が生まれている。いわゆる「ぬめり感」。ぬめり感が高いほど、ページがめくりやすく、低ければめくりにくい。

 では、この両翻訳は、どちらが「ぬめり感」があるのか。ページのめくりやすさの軍配は、圧倒的に新改訳2017に上がる。

 というか、聖書協会共同訳のページが、ものすごくめくりにくい。圧倒的にめくりにくい。20代の私でさえ、めくりにくいと感じるのだから、教会参加者の大半を占めるご老人の方々は、もっとめくりにくいだろう。いや、めくれないのでは? 年賀状仕分けアルバイトで使う、指ゴムサックが必須である。私も、地下鉄で指をペロッとなめてから聖書をめくるのは、恥ずかしいからやめたいものだ。

 神の言葉を紡ぐ、聖書の出版なのだから、聖書出版団体のみなさんは、もっと紙質にもこだわってほしいものである。舟を編む」で、主人公たちが辞書の紙質にこだわって帆走したシーンを、ふと思い出した筆者であった・・・。

 

 

▼新しい翻訳の名前について

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 双方ともダサい! ダサすぎる!! 長いわ!!! 覚えにくいわ!!!! 

 なんやねん、「新改訳2017」って。なんで2017やねん。何やその数字。宗教改革から何年かしらんけど、そんなん自己満足以外の何物でもない。2017という数字を見て、「あー宗教改革から500年ねー」と察することができるのは、宗教オタクぐらいで、一般人にとっては何の価値もない。内向き傾向が強い、「福音派」の悪い癖。自己満足でしかない。「キリスト教」に関心がない人が聖書を読む想定をしていない。

 「聖書協会共同訳」って、何なの? 長い名前つけるの流行ってるの? 覚えさせる気がないの? 浸透させる気がないの? 「新共同訳」がなまじ「新」ってついちゃっているだけに、苦労したのだろうが、「聖書協会共同訳」って、これじゃあ「新共同訳」とどっちが新しいか分からない上に、覚えにくいし、言いにくいし、何のメリットもない。まだ候補だった「標準訳」の方がマシである(まぁ「標準訳」もひどいと思うが・・・)私は、いつもこの説明に苦労していて、「新しい新共同訳」とか、訳のわからない説明をしている。もうちょっと良いネーミングはなかったものか。

 日本の聖書翻訳者たちには、過去の用語を捨てる勇気と、新しいものを導入するセンスを求めたい。「新改訳聖書2017」も「聖書協会共同訳」も、浸透させようという気概を、全く感じない。

 しかも、以前記事を書いたように、「神」「愛」「教会」「洗礼」「牧師」などの悪しき翻訳ミスは、一向に改善されないまま、従来の翻訳を踏襲している。これは、「明治元訳・大正改訳」からの悪しき伝統である。いい加減にしてほしい。早くここから脱却してほしいものである。「神」や「愛」は、日本語そのものに定着してしまったから仕方がないとして、「教会」「牧師」だけでも何とかならないものだろうかと、個人的には思っている。

 ただし、表紙のデザインは両方とも、結構オシャレでGOOD。

 

 

▼いろいろな翻訳で読んでみよう!

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↑聖書協会共同訳には、このような詳細な地図も挿入されている。

 例にもれず長文記事となってしまった。ここらで筆を置こうと思う。私が最も伝えたいのは、「聖書は違う翻訳で読んでみると、さらに面白いよ!」というメッセージだ。今回挙げたように、どの翻訳も一長一短。良いところもあれば、改善すべきところもある。

 しかし、どの翻訳も、エキスパートたちが、考え、考え、考え抜いて翻訳している。私が今回挙げた点など、いくらでも論破されてしまうだろう。大切なのは、違う翻訳を通して、自分が知らない神の姿を、少しでも見出そうとする姿勢である。

 もし、聖書にマンネリを感じたら、違う翻訳を手に取って読んでみよう。神の違う姿が、イエスの違う姿が、聖霊を通して語られるに違いない。新改訳で。共同訳で。口語訳で。リビングバイブルで。現代訳で。岩波訳で。その他諸々の私訳で。もし英語ができるなら、英語の多数の翻訳で。他の外国語ができるならその原語で。ヘブライ語ができればヘブライ語で。ギリシャ語ができればギリシャ語で。聖書の冒険、探求は、限りなく続いていくのだ。

 

 聖書って、面白い。あなたにも、そう感じて欲しいと願う。

 

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↑聖書協会共同訳には、このような用語解説も付録で付いている。

 

<参考リンク> 

www.gospelshop.jp

www.wlpm.or.jp

www.bible.or.jp

www.amazon.co.jp

 

(了)

【就活イエス10】「先生、『イエスの十字架』歌って!」能城黎@中学・高校教師

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第10弾は、能城黎さん!

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【Profile】

名前:能城黎(Rei Noshiro)

生まれ:1991年

出身:東京都八王子市

学歴:東京学芸大学卒業

職業:中学・高校教師

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしー(のしろ、なのでのっしー)久しぶり。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 久しぶり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 改めて、今はどんな仕事をしてるの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分の母校でもある、都内の私立の中高一貫校で教員をしているよ。今年で6年目。

 f:id:jios100:20180905032057j:plainへぇー! 母校で教えるって感慨深いね。国語の先生だっけ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、ちょっと特殊で。今勤めている学校は、「国際学級」というのがあってね。帰国子女とか、外国籍の生徒を授業から「取り出し」て、国語を教えているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「取り出す」とは?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 生徒一人ひとりの言語レベルに応じて、個別に教材を渡してるんだ。普段は普通のクラスにいる生徒さんも、言語レベル的に個別指導が必要な教科は、「国際学級」で個別に対応してるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain つまり、一人ひとりに個別の時間割があるっていうこと?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain その通り。うちの学校は、国語、数学、理科、社会、英語の授業で「取り出し授業」に対応してる。理科や社会までやっている学校は珍しいんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ~~、電車のダイヤみたいに複雑な時間割になりそう・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、日常会話が分からない子たちのための日本語コースもあるよ。日常会話が問題ないレベルの子たちのためは、もう少しハイレベルな国語のコースもあって、僕はその国語のコースの担当。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語を教えてるんだね。今日はじっくり話を聞かせてください。

 

 

▼教えるのが好きだった

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↑高校時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、なぜ先生になろうと思ったの?

 f:id:jios100:20190317013034j:plain クリスチャンだからとか全然関係なくて、単純に「教える」っていうのが昔から好きだったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain シンプル。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。例えば、テスト前に勉強についていけていない友達のために、黒板を使ってミニ授業をやっていたときもあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 生まれついての先生体質・・・! じゃあずっと先生になりたかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、本格的に教員になろうと思ったのは、高校2年生から3年生ぐらいかな。進路を決めなきゃいけない時期。それまでは、野球とか、スポーツをずっとやっていたから、スポーツ学科とかに行って、整体とかマッサージの世界に行こうかなとも思っていた。でも、その時期に「自分は教えるのが好きなんだ」と気がついて、本格的に教師を目指そうと思ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語が得意なんじゃなかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、英語はむしろ嫌いだったんだよね(笑)小学校の時にアメリカに2年住んでいたから、一般の日本人よりは英語ができたんだけど、僕が通っていた中高は、帰国子女ばっかり。しかも、入学時のクラス分けテストで思いがけずいい点を取っちゃったから、ハイレベルな英語のクラスに入れられてしまって。まわりは中学校で英検1級とか、そもそも家庭では英語でしゃべっているとか、海外に10年住んでましたみたいな人ばっかり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはきっちいなぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain どう頑張っても5段階評価の3しか取れない。だから英語は好きになれなかったんだよね(笑)。だから、最初は社会科の教師を目指そうと思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語じゃないんだ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。社会科が好きだったから。それで、部活の顧問の先生に相談したら、その先生には、「社会科の教員は、なりたい人が多いから狭き門だよ」と言われてね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員の採用って、そのポジションに空きが出ないと採用がないんだよね。確かに社会科は人気だから厳しいなと思って。たまたま野球部の顧問の先生が2人とも国語の教員だったというのもあって、「国語はどうだ?」と勧められたのがキッカケで、国語教師もアリだなぁと考え始めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで進路を決めたんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。その先生の1人が、東京学芸大学に、小学校の日本語教育コースが新しくできるってことを教えてくれた。「推薦入試にトライしてみないか?」と背中を押してくれたんだよね。

 

 

▼心配ないよ、絶対大丈夫だよ  

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↑大学のサークル(CCC)時代。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 推薦入試は、どんな内容だったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 小論文と面接。それまでは私立文系を目指していたから、急な方今転換だったんだよね。だけど、ひたすら論文書いて対策したよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何人ぐらい受かったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 合格枠は2人だった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 2人?! それって実は社会科教師になるより狭き門なんじゃぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain だよね(笑)。途中でそれに気がついて間違えたなぁって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain その通りすぎる(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分は学校の成績は良かったんだけど、もっと高いレベルの高校はたくさんあるし、そこからも受験生がいるだろうから厳しいかなとは思ってたんだよね。だけど、海外で暮らしたことがあるっていう自分の人生には、その日本語学科のコースはピッタリだったし、アピールできるなっていう点もあった。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、新しいコースだったら狙ってくる人もいそうだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 倍率は3.5倍ぐらいだったんだよね。だけど、受験が終わった後、本当に不思議なんだけど、自分の人生の中で初めて根拠のない自信に満ち溢れたんだよね。心配ない。絶対大丈夫だっていう気持ちになった。これは神様がくださった安心感だなって思ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほ~~。面白いね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain だけど、結果が出る前に自信満々で大丈夫とか言って、違ったらイヤだからおおっぴらには言わなかったんだ。結局、心配していたのは母親だけ(笑)そのときに、「ああ、これが神様が一緒にいるという、心の平安なんだ」という確信をしたよ。これは自分の中ではすごい体験。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって大学に入って、どういう大学生活を過ごしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 大学時代は、ひたすらクリスチャンの集まりを企画したり、参加したり。CCC(※キャンパス・クルーセード・フォー・クライスト)っていう団体や、「超教派」(※教団や教派、グループなどの枠組みを超えたクリスチャンたちの集まり)の集会に、これでもかっていうほど参加したよ。音楽をやっていたから、集会でギターをひいて賛美の歌を歌うことも多かったな。あとは聖書をじっくり学んだり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、のっしーは大学時代、クリスチャンとしての活動をしまくってたイメージがあるな。

 

 

▼「気づかなかった」と「もうふりむかない」

f:id:jios100:20190317013514j:plain ↑高校時代の仲間たち(いまの奥様も・・・)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、のっしーはどうやってイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 僕の父親は牧師で、ずっとクリスチャンの環境で育ってきたんだよね。アメリカに住んでる時も、クリスチャンが多い町だったというのもあって、クリスチャンっていうのは普通のことだった。でも、日本に帰ってきたときに、「クリスチャンだから」とか、「牧師の息子だから」という理由で、友達から軽くイジられることもあった。その時に初めて、日本って違うところなんだと感じたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、日本だと完全アウェーだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、通っていた教会も小さな教会だったから、途中まで、日本には若いクリスチャンが全くいないと思い込んでもいたんだよね(笑)高校に入って、「Hi-ba」(ハイビーエー)という高校生のクリスチャンの集まりに行って、初めて同世代のクリスチャンに会って、ビックリしたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 聖書に出てくる預言者エリヤみたい(笑)

(※預言者エリヤは、神様に従う人が全くいない状況で、うつ病的になってしまった)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうそう。そんな感じ。その頃から、初めて自発的に神様のことをもっと知りたいと思うようになったかな。自分で聖書を読むようになって、初めて全部読んだ。それで、高校3年生の時に行ったクリスチャンのキャンプで、2つの賛美の歌を歌って、それが衝撃的で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんていう曲?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 「気づかなかった」「もうふりむかない」っていう曲。その2曲をエンドレスでひたすら繰り返して歌ったんだけど、その歌の中で、自分がどれだけ神様の愛に気がついていなのか思い知って。どれだけ神様の呼びかけに、自分がふりむいてこなかったのかと感じた。その歌を歌っている中で、神様の愛に気が付かされたし、もう過去を振り返らないと思ったんだよね。そしたら、人生で初めてぐらいの勢いで号泣して。自然と涙が溢れて。これが神様の愛なんだと感じた。それが自分の中で一番印象に残っている出来事かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 文化としては触れていたけど、そこで初めて、神様の愛を「体感」したんだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。もうバプテスマも受けていたし、教会にもずっと通っていたけど、その時に初めて個人的に神様の存在を強く感じたかな。

 

 

▼神様からの幻を見て

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↑大学卒業のとき

f:id:jios100:20180905032057j:plain ところで、気になっていることがあるんだけど。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 何?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学では、小学校の日本語教育コースに行ったんだよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ、なぜ今は中高一貫校の先生をしているの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain コース自体は小学校教育だったんだけど、追加で単位を取れば、中高の免許も取れたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは、母校で働くために?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、どうせならと思って。母校で働きたいと思ったのは、大学3年生のとき。実は、その頃、進路選択で、本当に教師になるか、神学校(聖書などを学ぶ大学院)に行くか迷っていて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやって決断したの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 祈りの集会の時に、「神学校に行くように神に導かれていると感じる人は、前に出てきてください」と言われた時に、前に出ていこうと思ったんだけど、なんとなく「違うな」と感じて、行かなかったんだよね。それで、「神様、僕はどのような進路に行けばいいですか」と真剣に祈ったんだよね。その時に、ある幻が見えて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まぼろし~?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。目をつぶっているときに、自分が通っていた学校が、上からフカンするように見えた。最初は暗かった学校に光が灯って、それがだんだんと広がっていく・・・そんな幻、ビジョンが見えたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい。かなり具体的な幻だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain その意味はなんだろうと考えながら、聖書をひらいたら、「もし一粒の麦が落ちて死ねば・・・」という言葉を見つけたんだ。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

ヨハネ福音書 12:24〜25)

f:id:jios100:20190317013034j:plain その時に、自分がその学校に赴任して、そこで一粒の麦となるという未来を感じ取ったんだ。そこで、母校で教師になるっていう決心をしたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ワオ。ビジョンを見て、聖書の言葉に導かれたら、もう従うしかないね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、実は、4年生になるまでまだ迷ってた。そうこうしているうちに、これは本当に僕のミスなんだけど、気がついたら都立の教員採用試験の申し込みの締め切りが過ぎていたんだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain あら(笑)でも、母校は私立だよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。だからまだ残っていたんだけど、私立はポストに空きが出ないと募集がかからない。大学卒業間近になっても、まだ募集がかかっていなかった。だから、また神学校に行くか迷ってね。今度は、別の集会で、また同じように「神学校に行きたい人は、前に出てきてください」と言われたときに、前に行こうとした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そしたら、立ち上がった瞬間に、ものすごい心理的なプレッシャーを感じたんだよね。直感で、違うというのが分かった。それで、座って、神様の前に反省して、今度こそ神様に従いますと決心した。その後は、心に安心があったかな。

 

 

▼必要だった回り道

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↑同僚の先生方と

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後はどうしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうやって、決心したタイミングで、なんと卒業する直前の3月の半ばに、母校の教員採用の募集が出たんだよね。これは行くしかないと思って、受けた。絶対受かる自信があったんだよね。このタイミングで、決心して、道が開かれて。これは神の計画だろうと確信があった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結果は・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そこまで自信があったのに、落ちた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まじか。どんな気持ちだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 神様、なんで? っていう気持ち。その後は、他の私立も全然募集がかからなくて、卒業して、4月になっても就職が決まってなかった。臨時の教員採用の募集に登録して、最初は所沢の学校に週に1回だけ教えに行っていたかな。だけど、それだけじゃもちろん食べていけなかったから、空いている日は、アーク引越センターでアルバイトをしてたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様に従うって決心した直後に、そんな苦しんだらキツイよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うーん。まぁ、ポジティブすぎるのかもしれないけど、神様は何か理由があってこの道を通らせているのかなとも思ったかな。むしろ、今の妻、当時の彼女だけど、彼女の方が僕の将来を心配してたかも(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚を考えていたら、相手の仕事の状況は気になるよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 結局、その後で、東京都のあきる野市ってところの公立中学校で、非常勤で働けることになった。産休の先生の代わりで1年限定でね。自分が学んできたのは小学校だし、ビジョンは母校でっていうことだったけど、その時はこだわっていられなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 挫折って感じでもなかった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、それはあるよ。人生で初めての挫折を味わったって感じだったかな。高校入試も帰国子女枠だし、大学も推薦。順調な人生で、初めての挫折だった。でも、今思うと、教師として働く上で、挫折した経験がなかったら、人の辛さにより添えなかったと思う。最初は、「神様、なんで?」と思っていたけど、実は必要な回り道だったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに。でもそれにしても大きな挫折だよね。辛いよなァ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今思うと、あきる野市での公立学校の経験も、埼玉の私立の学校の経験も、絶対必要だったと思う。神様は、やっぱり理由があって、この回り道をさせたんだと今になっては感じるかな。

 

 

▼母校に再チャレンジ

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↑学校の礼拝の式の日

f:id:jios100:20180905032057j:plain 東京の公立の学校で1年、埼玉の私立で2年働いたんだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。仕事も慣れてきて、経済的にも安定してきたから、正直いって、このままでもいいのかなとも思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこから、また一歩踏み出して母校の採用を受けた理由は?

f:id:jios100:20190317013034j:plain なんかね、さっき話した幻・ビジョンがなくならなかったんだよね。かつて、牧師をしている父親に、「神様からのビジョンか、そうでないか、どうやったら分かるのか」と質問したことがあるんだけどね。父親は、「一概には言えないけど、神様からのビジョンは、何年経ってもなくならないよ」って言ってたんだよね。その通りに、母校に行って働くというビジョンは、ずっと心の中にあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。神から与えられた思いは、なくならない・・・か。いいアドバイスだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 母校からの募集は、落ちてからは1回も出てなかったんだけど、3年後の2017年に出た。そこですぐに受けて。試験では落ちた時と全く同じ古文の模擬授業をやったんだけど、すんなり受かった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 母校に行ってどうだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain もちろん、すべて順風満帆ではなかったかな。正直言うと、給料面でも以前の方が良かったし、今の学校は土曜日も授業があるから仕事は忙しくなった。妻も、当時、僕の仕事にあわせて土日休みの仕事を選んでくれていたから、「なんでもっと深く考えなかったの?!」と言われたしね(苦笑)あとは、埼玉の田舎の学校と、東京都内の学校の雰囲気の違いもあって、その違いに最初は戸惑ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事環境の変化は、すぐには慣れないよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。だけど、遠回りした3年間は無駄じゃなくてね。経験という意味でもそうなんだけど、僕が遠回りをしていた3年間、母校は経営陣が変わったり、いろんな先生たちが辞めていったり、移行期で大変な時期だったらしいのね。その難しい時期を避けられたという意味合いもあるのかなと思ってるよ。

 

 

▼「先生、イエスの十字架歌って!」

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↑クラスの生徒たちと

f:id:jios100:20180905032057j:plain 先生の仕事は楽しい?

f:id:jios100:20190317013034j:plain めっちゃ楽しいよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain やりがいはどんなところ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 子どもたち1人ひとりの人生に関われるというところかな。その子の成長や変化を、間近で見られる。あとは、キリスト教主義の学校だから、毎週月曜日に礼拝があって、そこで学期に1~2回くらい、聖書の話をさせてもらう機会もあったんだよね。堂々と、ストレートに聖書の話ができるっていうのはいい機会かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その立場は最高だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あとは、子どもたちを励ませることかな。帰国子女の子とか、外国籍の子は、アイデンティティに苦しんだりもしているんだよね。「なんで自分が生きているのか分からない」とか相談してくれた子もいて。そういう時は、「そうだよね、迷うよね」と受け止めてから、「僕もそういう時があったけど、聖書を通して生きている意味を見いだせたんだ」といって話せる。落ち込んでいる子とかにも、お祈りしてるねとか言ったりもできるかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 中学、高校生ぐらいの子って割と素直だよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。結構質問してくるよ。「十字架にかかったら何日ぐらいで死ぬんですか?」とか。一番おもしろかったのは、「なんでイエスは十字架にかかったんですか?」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音そのもの(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。そこから福音の話ができる。いつも意識しているのは、これまたヨハネ福音書だけど、この言葉。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ヨハネ福音書 15:16)

f:id:jios100:20190317013034j:plain もしかしたら、僕がこの子が人生の中で出会う、最後のクリスチャンかもしれない。そう思ったら、僕の言動が全てこの子の人生の中に「残る」んだろうなと思って接しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音を隠さず、賢く伝えているのっしーの姿、励まされるな。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あと、面白かったのは、今の中高生は、先生の名前で検索かけるんだよね。そしたら、学生時代にアップしてた賛美の歌を歌っている動画を、生徒がyoutubeで見つけたらしくて。その歌のタイトルが、「イエスの十字架」っていうんだけどね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain うわ。めっちゃキラーワード。

f:id:jios100:20190317013034j:plain すごくない?! イエスだけでも、十字架だけでもなくて、「イエスの十字架」だよ?!(笑)一番大切なメッセージが伝わった。で、その動画見つけた子が、廊下で大きな声で、「先生! 『イエスの十字架』歌って~!!」って叫んだりしてね(笑)それで、生徒にも先生にも僕がクリスチャンってことが堂々と伝わった。向こうはからかってるつもりなんだろうけど、いい効果を生んだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いじられたはずが、結果として、のっしーがクリスチャンであることが、学校中に伝わったんだね(笑)

 

 

▼夫婦としてのフィールドを求めて

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↑ご夫婦で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分がクリスチャンだから、できているなと思うことはある?

f:id:jios100:20190317013034j:plain あまり意識したことはないけど、聖書の話になったときに、いろいろと聞かれることは多いかな。最近嬉しかったのは、自分が高校時代にお世話になった先生に、「能城先生の聖書の話、いつも楽しみです」と言われたことかな。こういう形でも、聖霊様が働かれるなんだなと感じたよ。先生によっては、「スピリチュアルなものと、キリスト教はどう違うんですか」と聞かれたりね。そういう話ができる機会があるのは嬉しいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。堂々と語れるのは素晴らしいことだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンを教えてください。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員として、今の学校に努めている以上、学校で福音が伝わっていくのが見たいな。どういう形で実現するかは分からないけど、それが僕が見たビジョンだから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうだよね。のっしーを通して、学校でイエスのことが伝わるといいなと思います。

f:id:jios100:20190317013034j:plain もうひとつ祈っているのは、夫婦としての働き。夫婦としての共通のビジョンのこと。学校は、自分自身の働きのフィールドだけど、夫婦としてのフィールドは何か、これから求めていきたいなと思ってる。妻と僕が共通しているのは、人と関わることが好きっていうこと。今までは、目の前のことに必死だったけど、結婚して3年になるので、これから夫婦として何ができるか考えていきたいなと思うよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚したら、2人で1人、だもんね。これからのっしーの人生を神様が導いてくださるように、祈っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉があれば。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今年のテーマはこれかな。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」

(ローマ人への手紙 10:11)

 

 f:id:jios100:20190317013034j:plain ただただ、神様に信頼するしかないなと思います。社会人になると、忙しくなるし、結婚すると、夫婦の時間もある。だけど、改めて神様との時間が大切で、神様に信頼していきたいなと思う1年です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしーのこれからの夫婦としての活躍も期待してます! 今日はありがとう。

 

(おわり)