クリスチャンの「男女交際」は、一般的な「お付き合い」と違うのでしょうか? 聖書にはどう書いてあるのでしょうか?
- ▼クリスチャンにとっての結婚とは?
- ▼議論の大前提
- ▼1:カップル2人で祈る、聖書を読む
- ▼2:2人の境界線(バウンダリー)を決める
- ▼3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう
- ▼4:メンターを依頼する、アカウンタビリティを持つ
- ▼5:ビジョンや価値観を話し合う
▼クリスチャンにとっての結婚とは?
ブログ筆者のコバヤシは、最近結婚した(おめでとう私!)。クリスチャン同士の結婚である。大勢の方の協力もあり、式や披露宴は無事、つつがなく行われ、良いスタートの1日となったと思う。
結婚式の準備をしていると、「クリスチャンの結婚式って何が違うの?」「クリスチャンの“お付き合い”って何か違うの?」といった質問をよく受ける。日本でも結婚式のセレモニーを教会の建物でやる文化は定着しつつある。しかし、クリスチャンの「結婚の意味」「交際のあり方」などについては、あまり知られていない。果たしてクリスチャンの結婚式にはどんな意味が込められているのか、どんな準備をするのか。そんな「クリスチャンの結婚・男女交際」などについて、私の考えをまとめてみたいと思う。
まず、大前提である「クリスチャンの結婚の価値観」を簡単に述べる。それは、以下の聖書の言葉に要約できる。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
(創世記 2章24節)
創世記は「男と女という2人の存在がひとつになる」という、結婚の価値観の根幹を示している。
また、イエスは結婚の価値観を問われた際、先の創世記の言葉を引用した上で、このように述べている。
ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。
(マタイの福音書 19章6節)
私の意見では、結婚は神が定めた創造の奥義の実現である。
神は、この結婚という関係を「伏線」として、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義を用意している。使徒パウロはその奥義をこのように解説している。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
(エペソ人への手紙 5章31~32節)
そして、使徒パウロは結婚した夫婦の関係について、このように述べている。
淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
(コリント人への手紙第一 7章2~4節)
パウロは夫婦の関係をこのように描写した。これは、「セックスレスはいかんよ」という大胆な記述である。聖書にこのような記述があるのは驚きではないだろうか。ただ、この部分は一義的には肉体関係について書いてあるのだが、この勧めの根底には、「ふたりが一体になっているのだから、もはや自分のためだけに生きるのではなく、互いが相手を思いやるべきである」という価値観があるのだと、個人的に感じている。
さて、聖書の結婚についての価値観を簡単にまとめると、以下である。
1:結婚は、神が創造のはじめから用意した奥義である
2:結婚は、男(イシュ)と女(イシャー)がひとつになる奥義である
3:結婚は、2人の人間が一体となる奥義である
4:結婚は、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義の伏線である
だから、クリスチャンにとって「結婚」とは特別な意味を持つ。そして、結婚式はそれを公にする特別な機会である。ただ、必ずしも儀式をしなければならないわけではない。神の前に、これから2人は夫婦となるという約束があればいい。実際の結婚関係が、式と前後してはいけないとか、そういった縛りもない。あくまでも、神と2人の間で、そして信者の共同体(教会)の中で「この2人は夫婦となる」という認識を持つのが大事なのだ。
かなり簡単にだが、ある程度クリスチャンの結婚観をまとめてみた。さて、この価値観に基づき、「クリスチャンの交際」について、私の意見を示したい。クリスチャンの男女交際において、どのようなお付き合いをしたらいいのか、何をしておいたらいいのか、私なりのオススメをラインナップする。
▼議論の大前提
まず、「交際」を論じる前に、大前提となるポイントを4つにまとめた。これらについては、以前書いた以下の記事に詳細があるので、参考にしていただきたい。この記事では結論のみまとめる。
A:“男女交際”についての明確な記述は聖書にはない
基本的に、聖書に「男女交際」についての記述はほとんどない。一部、ヤコブやサムソン、など、恋愛的な記述もなくはないのだが、その是非や、「あり方」などについては一切記述がない。だから、この記事にある「付き合い方」については、正解でも何でもなく、ただの「オススメ」である。その点をまずは強調しておきたい。
B:交際の目的は結婚
クリスチャンの男女交際の目的は、結婚である。クリスチャンでなくとも一般的には「お付き合い」の先には「結婚」という段階があるのは、言うまでもない。結婚という目的に向かって、クリスチャンの恋愛的な交際はスタートする。
私も、妻との交際をスタートした時、その場で「結婚が目的だ」という点をお互いに確認した。この点をおろそかにしてしまうと、どちらか一方が結婚を目指しているのに、どちらか一方はその気がないとなり、コミットや向き合い方に差が生じてしまう。2人の間で「交際の目的」をまずハッキリさせるのが重要だろう。
C:クリスチャン同士の交際が大前提
クリスチャンにとって、付き合う相手が同じクリスチャンであるというのは大前提である。私は、「様々な意見がある」などという逃げ方はしない。クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との恋愛的な交際は論外である。ありえない。メリット・デメリットの話ではない。「ふたりが一体となる」という奥義を認めるならば、その前提に立たない「一体」は成り立たない。詳しくは、先に挙げた記事を参考にしていただきたい。
D:結婚までセックスはしない
一体となるというのは、当然肉体における一体、つまりセックスも指す。セックスはクリスチャンにとっては、結婚した夫婦の間のみに与えられる、特別な祝福である。こちらも「異論はある」といった逃げ方はしない。私は強く信じ、主張する。結婚関係以外のセックスは神の創造からのデザインではない。
聖書に根拠はいくつかある。基本的に婚姻関係以外のセックスは失敗として描かれ、ネガティブな結果をもたらしている(例:ロトと娘たちの近親相姦による子供が、イスラエルの敵対する民族の祖先となった。アムノンの近親相姦により兄弟殺しまでに発展した。ルベンが父のそばめと性的関係を持ち、長子の権利を剥奪された等)。ただし、ダビデやソロモンなど「王」の立場であった者は例外として描かれている。また、預言者サムエルの父も2人の妻がいたなど、一部例外もある。しかし、例外であっても妻の間にねたみが起こるなど、基本的にはネガティブな影響が記されている。
また、新約聖書(新改訳2017)で「淫らな行い」と訳しているギリシャ語は「ポルネイア」という言葉である。これは、「結婚以外の性的関係」「婚約期間の裏切り」「近親相姦」などを指す。一方、いわゆる「不倫」は「モイケイア」という別の言葉を用いている。聖書は「ポルネイア」を明らかに「罪」として書いていることから、結婚以外のセックスは正しくない行為であると、私は思う。
他にも根拠は様々あるが、詳しくは、上記の「離婚」についての記事を参考にさせていただきたいと思う。
さて、以上の前提をふまえて、私なりの「オススメ」を簡潔に書きたいと思う。
▼1:カップル2人で祈る、聖書を読む
まず、「付き合う」となった時点で、2人で祈ることをオススメする。出会いに感謝し、特別な関係のスタートに感謝し、今後の導きと守りのために祈ってみよう。始めだけでなく、会うたびに、別れるたびに一緒に祈る習慣を持ったらいいと思う。また、会っていない時も、お互いのために祈るというのは、とても大切である。
そして、何よりオススメしたいのが2人で聖書を読む習慣だ。できれば、同じ部分を毎日読み、その感想をシェアすると良いだろう。私の場合は、妻とお付き合いをする前から、毎日1章、同じ聖書の部分を読み、感想をfacebookのメッセンジャーやLINEなどでシェアしていた。その習慣を、結婚した今も1日と欠かさず続けている。
なぜ、一緒に聖書を読むと良いのか。様々なメリットはあるが、私なりには以下の点を挙げられると思う。
A:神について、より深く一緒に知ることができる
B:お互いに、聖書をどう読み、理解しているか認識を共有できる
C:一緒に時間を過ごしたり、コミュニケーションをとる助けになる
D:毎日、神について知るための時間を確保するよう、お互いに励まし合える
お互いに忙しくとも、「相手と聖書を読む約束をしている」という認識があれば、自ずと続けられる。読む量や、感想のシェアのやり方は、それぞれのライフスタイルなどによって相談したら良いと思う。
聖書をどのように読み、理解し、それを分かち合うのかは、人によって違う。その認識を早いうちからお互いに共有しておくのが大切である。
▼2:2人の境界線(バウンダリー)を決める
一般的には、男女交際の延長線上にはセックスがある。私は、クリスチャンではない女性の友人から「結婚するまでセックスしないのであれば、付き合う意味はどこにあるのか?」という質問も受けた。それほど、男女交際とセックスは密接に関わっている。
クリスチャンの価値観に基づき、結婚前にはセックスをしないと決めるのであれば、「どこまでなら良いのか」という疑問が残る。もちろん、聖書はそんなに事細かく書いていない。結局のところ、「どこまで」かは、カップルが2人で話し合って決める事。これを「境界線」(バウンダリー)と呼んだりする。
2人で「セックスをしない」という境界線を決めれば、逆に言えば「セックス以外は何でもOK」となる。もう少し「厳しめ」の境界線を決めるカップルもいる。「キスをしない」とか、「ハグをしない」とか、「手も繋がない」とか、様々なラインがある。
この境界線の話に正解はない。ただ、2人の間に境界線の齟齬があると、トラブルのもとになる。例えば、男性側は「セックス以外は何をしても良い」と思っていたとする。一方で、女性側は「キスは当然NG。手をつないだり、2人きりになるのもNG」と思っているとする。この認識の差があると、例えば男性がキスを迫った時に、女性側は驚き、男性に対して不信感を抱くだろう。一方で、男性側としては、女性があまりにも「身持ちが固い」と感じれば、「なぜ信頼してくれないのか」とフラストレーションが溜まる原因となり得る。もちろん、男性がガードが固めという場合だってある。
境界線は、「キス」や「ハグ」のような身体的接触以外にも、「パートナー以外の異性と2人きりにならない」のような、人間関係の持ち方も含まれる。カップルによっては、「部屋で2人きりにならない」という境界線を決める場合もある。また、予定を立てる際に事前にどの程度相談するかも大切なポイントだ。
大切なのは、2人の信頼関係である。どのような「境界線」を決めるのか、2人でしっかりと話し合い、基準を明確にした方がいい。溜め込んで、「実はイヤだった」などと後で爆発しないように、交際の初期段階でしっかりと境界線については決める必要がある。
私の場合は、交際が始まったその日に、境界線を2人で決めた。まずは「手をつなぐ」も含めて、身体的な接触は完全に「無し」とした。パートナー以外の異性との食事は、事情に応じてOKとしたが、必ず事前に相談するようにした。身体的な接触は、婚約後に段階的に解禁していった。個人的には、全て良いタイミングで決められたと思うが、解禁する範囲が拡大するに伴って、セックスしたいという欲求は飛躍的に高まった。そのため、身体的接触を解禁した場合は、なるべく密室にならないようにするなどの、他の工夫が必要になってくると感じた。
▼3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう
交際がスタートしてから大切なのは、周囲への報告である。
まずは家族。私は、できるだけ早い方が良いと思う。なぜなら、将来的に「結婚」を見据えるならば、家族との関係はとても大切だからだ。私の場合は、交際が決まったその時点で、すぐに家族にLINEや電話で報告をした。3ヶ月後には、妻(当時の交際相手)を実家に連れて行き、実際に顔と顔を合わせて紹介した。家族がクリスチャンであるならなおさら、その関係性のために祈ることができるので、報告は早い方が良いと思う。ただし、家族の関係性は人によって違うので、それぞれに合ったやり方とタイミングがあるだろう。
そして、クリスチャン同士の交際ならば、教会の共同体や、信頼できる友人には、速やかに報告するのが良いと思う。なぜならば、共同体として、そのカップルのために祈れるからだ。よく、同じ教会内でお付き合いを始めたカップルに「内緒にしておきましょう」などとアドバイスじみた強制をする牧師たちがいるが、まさに愚の骨頂。そのカップルを悩ませ、罪の深みにいざなっている盲目の指導者である。もしそのような無能な者たちがいたら、言うことなど聞かず、facebookに「交際ステータス」をupしてやろう。
私が通っていた韓国系の教会の牧師は、「内緒のお付き合い」を美談として語っていた。教会の集まりが終わった後、1人で帰るふりをして、別の出口から出て、町で落ち合っていたという。それを「美談」として自慢げに語っていたが、よくよく考えれば、内緒にする目的は何ひとつない。聖書にそのような記述もない。全く意味不明、ただの嘘つきである。詳しくは語らないが、その夫婦は後に少年の私がガッカリする結果となった。意味のない決まりで信者をしばり、偽りの美談を語り、結果として現実が伴わない姿を見せてガッカリさせるのはやめてもらいたい。
教会の共同体の存在目的のひとつは、「お互いに励まし合うこと」である。であるならば、せっかく結婚に向けて準備を進めるべく「交際」を始めたカップルのために祈らなくてどうする。共同体にはお付き合いをオープンにし祈ってもらうようにしよう。しかるべき相手と話し合い、先輩カップルにメンターになってくれるよう依頼し、必要ならば結婚カウンセリングを受けるのがオススメだ(これについては後述)。
私の場合は、交際を始めた次の日に、両親、兄妹、教会の共同体の仲間たち、牧師、親しいクリスチャンの友人に連絡をして、お付き合いを報告した。そして、彼らに自分たちのために祈ってもらうようにお願いした。きちんと報告した結果、多くの方に祝福してもらえた。よい判断だったと思っている。
▼4:メンターを依頼する、アカウンタビリティを持つ
クリスチャンのカップルにとって、「メンター」となる存在は欠かせない。適切な日本語が見つからないが、要するに「カップルの相談に乗り、アドバイスを授けたり、一緒に祈ったりする先輩カップル」を指す。定期的に会って、近況や関係性を報告し、互いのために祈り合い、必要な時は叱責も受ける。それがメンターとの関係だ。
自分たちはうまくいく、と思っていても大体それはおとぎ話に終わる。自分たちがどのような交際をしているのか、ケアをする人たちが必ず必要である。誰に依頼するかも重要で、できる限り、「既婚の夫婦2人」にメンターになってもらうことをオススメしたい。一般化するのは難しいが、やはり男性は男性、女性は女性と話し合う関係が必要である。2人一緒に話すのも大切だし、夫婦それぞれが同性のメンターと話す必要もあると思う。
もし、問題があった時は、メンターに包み隠さず共有するのが大切だ。これを「アカウンタビリティ」(説明責任)と言う。問題や失敗、不和を隠す癖がつくのは、一番いけない。この人たちになら相談できるという、いわば「逃げ場」を作っておくのがとても大切だ。
私たちの場合は、お付き合いを始めてしばらく経った後、この「メンター」の存在を痛感した。2人だけでは解決できない問題が多々あったからだった。そこで、尊敬する先輩カップルに「メンター」になってもらうように依頼した。快く引き受けてくださった彼らには感謝しかない。彼らとは、定期的に彼らの家で会い、男女について、交際について、結婚について、夫婦について、家族について、子育てなどについて話し合った。私たちにとって、なくてはならない特別な関係がそこにあった。
ちなみに、「メンター」は同じ教会の共同体でなくとも構わない。私たちは、あえて違う共同体の夫婦にメンターをお願いした。その方が、私たちの関係を、より客観的に見てもらえると思ったからだった。
▼5:ビジョンや価値観を話し合う
最後に、これはクリスチャンであるかは関係ないかもしれないが、お互いのビジョンや価値観を共有しておくのはとても大切である。以前、「みこころ」の記事や、「コーリング」の記事でも書いたが、クリスチャンは神の計画に従って生きたいと願っている。自分にとっての「神の呼びかけ」が明確であればあるほど、パートナーとのビジョンの一致が重要になってくる。
例えば、パートナーの片方が、「医療宣教師となってアフリカに行きたい」と思っているとする。一方で、もう一人は「日本の地域教会のスタッフとして働きたい」と思っているとする。その2人は、果たして結婚できるだろうか。一緒に住まなくとも、一緒にいなくとも、心はつながっているなら大丈夫。そう考えるのであれば可能かもしれない。しかし、現実的には難しい決断だとは思う。
別の例も挙げてみよう。パートナーの片方が、「名前も知られていない部族のところに行って、聖書翻訳をしたい」と思っているとする。もう片方が、「アメリカで、日本人留学生にイエスを伝えたい」と思っているとする。この2人は、果たして結婚が可能だろうか。率直に難しいとは思う。
私の妻の両親は、パプア・ニューギニアで15年間、宣教師として聖書翻訳に励んだ。義父の熱意で未開の地に飛び込んだ挑戦だったそうだ。義母は本心では海外に行くのは本意ではなかったが、結婚するからには夫の熱意を支えるのが自分の務めだと信じて、ついていったという。このように、夫か妻、どちらかが片方のビジョンを支える決意があれば、違う思いがあっても夫婦として成り立つ可能性はある。
大切なのは、2人がどのような将来を描いているのか、予め話し合っておくことだ。恋愛感情だけでは、人間関係は安定して続けられない。お互いがどこに向かっているのか、人生の方向性を初期段階で確認するのが大切である。
・・・いかがだろうか。最後にまとめる。
<クリスチャンの交際にあたって筆者がオススメするポイント>
1:カップル2人で祈る、聖書を読む
2:2人の境界線(バウンダリー)を決める
3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう
4:メンター、アカウンタビリティを持つ
5:ビジョンや価値観を話し合う
以上が、私の具体的な「クリスチャンの交際」にあたってのオススメである。書いてみて、「うわ~~こいつ偉そう~~」と自分でも思った。「全部当たり前じゃん・・・」とも思った。とても恥ずかしいし、「この記事必要?」とも思った。しかし、同時にとても大切な内容だとも思ったので、自分の経験を基に書かせていただいた。ブログ開設以来、聖書とはあまり関係ない記事になってしまったが、ご容赦願いたい。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。