週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【注意】「教会教」に気をつけろ!

キリストを信じるのが「クリスチャン」ですが、キリストよりも「教会」を大事にしてしまっている人がいます。どういうことでしょうか。

 

 

▼「教会教」の信者たち

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 上京した時、東京に知っている教会はなかった。仕方なく、家の近くの教会を巡ってみた。何週間か経ったある日曜日、訪れた教会で嫌な思いをした。礼拝会が終わると、私より2、3年上の若い男性が話しかけてきた。牧師の息子だという。「普段はどこの教会に行ってるの?」彼は言った。「上京したてなので、まだ教会探してます」僕は答えた。「まだ教会探してる? それはダメだよ」彼は強い口調で言った。「ウチの父親はそれ絶対許さないよ」と。

 おそらく、教団(教会のグループ)の教会に所属していた彼は「所属教団の教会に行くのが当然だろう、何を迷っているのか」という考えだったのだろう。「上京したばかりで、どんな教会に行けばいいか分からない」という人の気持ちが分からなかったのだ。私は呆然として、何も答えられなかったが、「もう二度とこの教会には来ないようにしよう」とだけ思った。

 今思えば、彼は牧師である父親に全ての判断を委ねて、自己判断ができない「父親依存」であり、「牧師依存」であり、「教会教」の信者だったのだ。今では彼に対して可哀想と思えるようになったが、当時は「なんて嫌なヤツなんだ」と思ったものだ。後日、別の知り合いから、彼の父親、つまり牧師が「あの若者は教会を決めていないらしい。けしからん」と言っていたと聞いた。上京したての田舎者の気持ちが、この牧師には理解できなかったようだ。「すぐに所属教会を決めないなんて、信者として失格だ」それがこの牧師の意見であった。この父親にして、この子あり。親子揃って「教会教」の信者だったのだ。

 また、ある時、とある牧師からこんなことを言われた。「あなたのブログは教会を否定している。”使徒信条”に『我は教会を信ず』とあるだろう。教会は信仰の対象なのだ。信仰の対象を否定してはいけない」彼は、「これは読者としてではなく、牧師として忠告する」とご丁寧にマウンティングをお取りになって、私にこう言ったのであった。「教会は信仰の対象」。彼の言葉に、私は驚きを禁じ得なかった。クリスチャンは、「イエスをメシアと信じる人」ではなかったのか。この人は「教会」を崇拝しているのか。本気で驚いた。私は「使徒信条」なるものを唱える文化の教会に集った経験はなかったので「ひぇ~~『使徒信条』ってそんなヤバいこと書いてあるの? 知らなくてよかったぁ~」と思ったものである。

 彼が引用した「使徒信条」というのは、多くの教会で伝統的に唱えられている文言である。もちろん、聖書からの引用ではない。4世紀〜5世紀にラテン語で完成したものとされる。いわば、人間が勝手に作り出した文言である。

 私は「使徒信条」が間違っていると言いたいのではない。本当の問題は、その一部を引用して「教会は信仰の対象だ」と牧師が言っているという事実だ。開いた口が塞がらなかった。エスではなく教会を信仰しているのなら、それは「クリスチャン」ではなく「教会教」の信者ではあるまいか。

 

 先ほどから述べている「教会教」とは一体何なのか。クリスチャンに見えて、実は違うものを信奉している者たちのことだ。「クリスチャン」とはその名の通り、キリストを信じる者である。聖書にこう書いてある。

それから、バルナバはサウロ(後のパウロ)を捜しにタルソに行き、彼を見つけて、アンティオキアにつれてきた。彼らは、まる一年の間教会(エクレシア)に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった。

使徒の働き 11:25〜26)

 

 つまり、エスをメシア(キリスト)と信じる者が、揶揄されて「キリスト・チャン」、つまり「キリスト者」と呼ばれるようになったのである。エスの言葉を信じ、イエスをメシアと信じる人がクリスチャンである。イエスが伝えた「言い伝えより神の言葉を優先せよ」(マルコ7章など)という教えも、当然クリスチャンの信仰の一つである。

 しかし、昨今のクリスチャンたちを見渡すと、どうもエスの教えより教会組織を優先してしまっている人たちが大勢いるように感じる。彼らは「クリスチャン」ではなく「教会チャン」になっているのだ。教会の伝統や言い伝え、教会のルールに縛られ、神の教えをないがしろにしている人たち。私は彼らを「教会教の信者」と呼ぶことにした。

 今回の記事では、「教会」の定義とは何か。「教会教」に陥っている人の特徴は何か。クリスチャンにとって「教会」は重要か。この三点について見ていきたいと思う。

 

 

▼「教会」という単語の意味

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 「教会教」を議論する前に、「教会」の定義をハッキリさせておく必要がある。まずは「教会」という単語に注目してみよう。「教会」という単語は、新改訳聖書3版では118回出てくる。なるほど「教会」は重要らしい。しかしこの「教会」という単語、旧約聖書には一度も出てこない。当然だ。旧約では「教会」にあたる単語は、「教会」と訳さず「集会」「集まり」「会衆」などと訳しているのだ。実は新約聖書でも「教会」にあたる単語を場合によっては本来の意味の「集会」「集まり」などと訳している(申命記31:30など)。

 まとめてみよう。

<”教会”にあたる単語>

旧約聖書

「カハル」:動詞で39回、名詞で123回、変化系の名詞で4回登場。主な訳し方は、「群れ」「集会」「集まり」など。現代のイスラエルの信者たちは、自身の共同体を「教会」(クネシア)と言わずに、「集会」(ケヒラー)と言う。

 

新約聖書

「エクレシア」:114回登場。主な訳し方は「教会」が109回。そのほか5回は「集会」「集まり」など。本来は「人の集まり」の意味。旧約聖書の引用の際は、ヘブライ語「カハル」が、ギリシャ語「エクレシア」と翻訳されている。

 

 新約聖書において旧約聖書を引用する際、「カハル」の部分を「エクレシア」としていることから、この2つの語が対応するのは明らかである。

 さて、この「カハル」と「エクレシア」が出てくる聖書の言葉をいくつか見てみよう。該当の単語部分は太字にしてある。まずは旧約聖書の「カハル」から見てみよう。

全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。

(創世記 28:3)

(前略)この集団全体を餓死させようとしている。

出エジプト記 16:3)

モーセイスラエル集会全体に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

申命記 31:30)

主よ、天はあなたの奇しいみわざをほめたたえます。まことにあなたの真実を、聖なる者の集いで。

詩篇 89:5)

 

 旧約聖書の「カハル」は「群れ」「集団」「集会」「集い」などと翻訳されている。「教会」という単語は一度も出てこない。

 

 では、新約聖書はどうだろうか。「エクレシア」を見てみよう。

また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

使徒の働き 7:38) 

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。

使徒の働き 19:32)

もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。

使徒の働き 19:39)

今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動を弁護できません」こう言って、その集まりを解散させた。

使徒の働き 19:40)

「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう」

(ヘブル人への手紙 2:12)

 

 太字の部分が「エクレシア」である。このように「集会」や「集まり」というのが本来の意味だ。しかし、この5つの部分意外はすべて「教会」と訳されている。本来は「人の集まり」という意味の単語なのに、なぜか「教会」となっているのである。 

 「教会」というのは、そもそも中国語を流用した誤訳なのだが、現代まで何の疑問も持たれず「教会」という単語が日本にも定着してしまっている。以前の記事(教会籍の謎)でも書いたが、広辞苑ですら「教会」とひくと「教会堂」と建物を指す語として定義している。本来は「人の集まり」を意味する単語「エクレシア」が間違って捉えられ、日本語の辞書にまで載ってしまっているのだ。

 こう見ると「エクレシア」を「教会」と表すのは、かなり意図的な翻訳であると分かる。素直に「集会」と訳せば良いものを、意図的に「教会」という造語に変えてしまっているのだ。広辞苑の勘違いを見ても、「教会」というのは日本人に共同体の本質を誤解させる、悪影響極まりない誤訳といえよう。

 「教会」という単語に正当性がないのは分かった。では「教会」の定義を見てみよう。

 

 

▼イエスが示した「教会」の定義

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 そもそも「エクレシア」と最初に言ったのは誰なのか。他でもない、イエス自身である。その言葉を見てみよう(この部分は、以前の記事の一部を加筆・修正したものである)。

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子(イエス)をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」エスは彼ら(弟子たち)に言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉(人間)ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリスト(メシア)であることをだれにも言ってはならないと命じられた。

(マタイの福音書 16:13~20)

 

 イエスは、弟子のペテロに「わたしはこの岩の上に、わたしの教会(エクレシア)を建てます」と宣言した。もちろんこれは、物理的にペテロの上に教会堂を建築するという意味ではない。ペテロが死んでしまう。これは、「あなたは神の子キリスト(メシア)です」というペテロの宣言を土台とした、「イエスの信者たちの集い」が形成されるという意味ではないか。

 イエスの存命中、イエスがメシアだと宣言できた者は、ペテロ以外にはいなかった。みな口々に「バプテスマのヨハネの生き返りだ」とか「預言者エリヤの再来だ」とか「預言者エレミヤの再来だ」とか「新しく来た預言者だ」とか言っていたのである。しかし、ペテロは「あなたはメシアだ」と大胆にも宣言した。それは誰にも悟れるものではない、特別な奥義だった。それゆえイエスは「自分がメシアであることを誰にも言ってはならない」と命じられたのであった。これが「エクレシア」が初めて聖書で登場するシーンだ。エスがメシアだと告白する者の集まり、それがエクレシアである。

 

 さて、その次に「エクレシア」が登場するのはマタイの福音書18章だ。またもイエスの言葉である。エスは、ペテロに「あなたの(信仰告白)上にわたしの教会(エクレシア)を建てる」と宣言した。その後の会話である。

また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがた(弟子たち)に言います。何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。2人か3人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18:15~20)

  

 イエス時代は、まだ後代のような組織的な「教会」などなかった。イエスが「エクレシア」と言った時、「組織的教会」を指したはずがない。存在しなかったからだ。エスが言った「エクレシア」は確実に「人の集まり」を指す言葉である。実は、イエスが「エクレシア」という言葉を使ったのは、4つの福音書の中で、この2度のみである(回数は3回)。

 私は、この18章の言葉は、16章の言葉に対応していると考える。まとめてみよう。

<16章>

エスをメシアだと告白する宣言を基礎として、信者たちの「集い」が形成される。

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。

<18章>

・あなた(イエスをメシアと告白する者)が許容することは、天でも許容されている。(★16章との対応を示す)

2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる。それが「エクレシア」である。

 

 この際、「天の御国の鍵」については、別記事を書くのでスルーしたいと思う。大切なのは、それを結合の根拠として見た際の、前後のつながりだ。「イエスをメシアと告白する者(ペテロ)を基礎として、信者たちの『集い』が形成される」と宣言した。そして、「何でもあなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」という言葉を「つなぎ」として語った。何をつなぐのか。「まことに(アメン)もう一度言う」と強調した上で述べた言葉がポイントである。それは、「2人か3人がイエスの名前で集うところには、イエスもその中にいる」というメッセージである。

 これは、ユダヤ人にとってはパラダイムシフトだった。ユダヤ教は、元来「10人」を一単位として「集会」を形成していた。シナゴーグでの儀式は、10人集まらないと開始できなかった。これは、アブラハムが神と交渉した際、10人を最小単位とした故事に由来する(創世記18章参照)。

 しかし、イエスは「2人か3人の”人間関係”が集いを形成する」と述べたのであった。これは革命だ。結論を述べれば、「イエスを信じる者が2人以上集まれば、それは”教会”であり、イエス自身もその中にいる」とイエス自身が宣言しているのである。

 また、ユダヤ社会においては「証言には必ず2人か3人の証人が必要」との文化もあった。それは旧約聖書の律法に由来する(申命記17:6など参照)。イエスの「2人でも3人でも・・・」の発言の裏には、この律法との関連性もあるだろう。共同体の最小単位を2~3人としたのは、この影響もあるかもしれない。

 

 他にも根拠は様々あるが、簡単にまとめると、私が定義する「教会」とは以下のようになる。

<”教会”の定義>

エスをメシアと告白する者が集まる「集い」が「教会」である。

・最少人数は2~3人。人が複数集まり、信者同士の人間関係が「教会」である。

その中にイエスの存在がある。

・「教会」は誤訳であり、漢字の意味合いから誤解を招きやすいので「集い」とか「集会」とか「集まり」とかがふさわしい。現代の日本文化に照らし合わせれば、「チャーチ」もギリギリ許容範囲かもしれない。

・もっとも、今から日本語を変えるのは相当難しいので「教会」という表現は仕方ないとは思う。このブログでも便宜上「教会」という単語は使用している。

・これはあくまで「普遍的な教会」の概念である。もちろん「コリントの教会」のような「地域教会」(ローカル・チャーチ)という小さな概念は存在する。この記事ではあくまでも「普遍的な教会」を扱う。

 

 「教会」の定義はできた。では、教会の目的とは何なのか、簡単に見ていこう。

 

▼「教会」の目的とは何か

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 「教会」は何のために存在するのか。イエスをメシアと告白する者たちの集まり、それが教会(エクレシア)だが、その目的は一体何なのだろう。全てではないが、あえて4つ特出しでまとめてみる。

 

1:互いに間違いを指摘するため

 イエスは、「わたしの教会を建てる」と宣言した。それは何のためと言っているか。もう一度、先に挙げた聖書の言葉を見てみよう。

また、もしあなたの兄弟(信者の仲間)があなたに対して罪を犯したなら、行って2人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに1人か2人、一緒につれて行きなさい。2人または3人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会(エクレシア)に伝えなさい。教会(エクレシア)の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人(外国人)か取税人のように扱いなさい。

(マタイの福音書 18:15〜17)

  イエスは、「もし信者の仲間が、あなたに対して罪を犯したら、個人的に指摘せよ」「しかし、聞き入れないなら複数人で」「複数人で指摘しても聞き入れなかったら、信者の集いに報告せよ」と言っている。エスご自身が「教会の目的は、互いに間違いを指摘すること」だと明言しているのだ。むしろ、イエスが教会(エクレシア)の役割に言及したのは、先に挙げたように、この部分のみなのだ。

 よく、「間違いを指摘し合おう」と私がブログで書くと「裁くな」「魔女狩りにつながる」などとの指摘をいただく。しかし、あえて言おう。イエス自身が、「罪を指摘し、聞き入れない場合は教会に報告せよ」と言っているのだ。それをなぜ「裁くな」といって咎めるのか。「間違っているんじゃないの」と言うだけの「指摘」と、「お前は間違っているからこのような罰を受ける」と断定・断罪する「裁き」は完全に違う。その違いを理解しなければいけない。

 もちろん、当時のユダヤ教の文化背景も無視してはならない。ユダヤ教シナゴーグユダヤ教の教会のようなもの)には、教会的な機能だけでなく、地域の簡易裁判所のような役割もあった。常日頃から、宗教的集まりが、「争い事の調停」の役割を担っていたのだ。イエスの発言の裏には、そのような当時の世相も反映されているだろう。

 しかし、だからといって教会がその役割を担うことの否定にはならない。実際、コリント人への手紙第一の6章には、教会(エクレシア)が日頃の争い事の調停を行うという当然の価値観が示されている(ただし、現代において裁判所の役割を否定するものではない)。

 教会は、互いに互いの間違いを愛を持って指摘できる集まりなのだ。

 

2:互いに励まし合うため

 聖書の別の場所には、このように書いてある。

 約束してくださった方(神)は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10:23〜25)

 

 聖書には「集まりをやめたりせず、励まし合え」と書いてある。何をもって励ますのか。エスがもう一度帰ってくるという希望を告白して、励まし合うのである。それは、イエスと空中でもう一度会えるという希望である。イエスが地上に戻ってきて、王として君臨する希望である。天と地が新しくされ、新しいエルサレムが造られる希望である。この希望を告白し合うために、クリスチャンは「教会」という集まりを形成するのである。

 昨今、教会では「愛し合いなさい」ということなどが語られるばかりで、「イエスが帰ってくる」という希望が告白されていないのではないか。イエスが再び戻ってくることを語るのが、タブーとなっていないだろうか。実は、この希望を告白し、励まし合うことこそ、教会の目的なのである。何度も言うが、政治的主張を繰り広げることが、「希望を告白すること」ではない。

 

3:傷んでいる人を慰め、励まし、育てるため

 もちろん「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」と書いてあるとおり、愛を促す励まし合いも大切である。落ち込んでいる人、傷ついている人を慰め、励ますのも教会の役割である。聖書にこう書いてある。

異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。

(コリント人への手紙第一 14:2〜4)

 

 この言葉から読み取れば、「預言」とは「人を育て」「勧め(励まし)」「慰め」を人に向かって話すことである。細かい定義はひとまず置いておくが、それが預言の特徴である。そして、預言は教会を成長させる。つまり、教会という集まりの目的のひとつとして、「教育・激励・慰め」が想定されていると考えてよい。

 イエスは、こう言っている。

エスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです

(マタイの福音書 9:12〜13)

 

 またイエスは、「重荷を負った人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)とも言った。心が傷んでいる人。悩みを抱えている人。居場所がない人。そのような人々にこそ、イエスは「わたしのところへ来なさい」と言っているのである。エスを信じる者の集まりが教会なのだから、教会とは傷んでいる人が集まり、互いに慰め合い、励まし合い、育て合う、そんな集まりなのである。

 

4:それぞれの役割を果たし、イエスに向かって成長するため

 エペソ人の手紙は、「教会」(エクレシア)について語っている部分が多い。一部を抜粋しよう。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師(牧者)、また教師(教育者)としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ(エクレシア)を建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストのみちみちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

(エペソ人への手紙 4:11〜15)

 

 この部分は「それぞれの役割をしっかり果たして、イエスに向かって成長するために教会の共同体がある」という趣旨で捉えてよいと思う。教会には様々な人が集まる。それぞれが、整えられ、役割を果たし、その人の集まりが成熟して、ともに成長する(もちろん、「奉仕」しなければダメだという意味ではない)。そのためには、互いに教え合う必要がある。牧師のありがたい御高説を聞いていれば成長できるわけではない。それでは「教えの風」にもてあそばれてしまう。互いに「愛を持って真理を語り合う」必要がある。

 人は、集まらなければ独りよがりになってしまう。もちろん、様々な事情があって教会の集会には集えない人もいるだろう。それは全く問題ない。しかし、様々な方法で人間関係を構築することはできる。必要なのは、人間関係なのだ。その人間関係の中心にイエスがいる。教会の共同体は、この中心にいるイエスに向かって成長するためにある。それぞれの良さ、役割を果たして、支え合いながら、このイエスに似た存在となる。ミニ・イエスとなっていく。それが、エクレシアの目的である。

 

 さて、長くなったが、教会の単語、定義、目的について整理できた。さて、いよいよ「教会教」とは何か、今回の本題に入っていく・・・。

 

▼聖書の言葉VSキリスト教の伝統  

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 さて、「教会教」を今一度定義しよう。

<教会教の特徴>

・イエス自身よりも、キリスト教の教会組織を重んじる人

・イエスの言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

・イエスが大切だと教えた聖書の言葉よりも、キリスト教の教会の伝統、文化、しきたり、ルールを重要視する人

 

 この「教会教」のワナについて、イエスは既に警告している。パリサイ人たちとの議論から、それは明らかである。

さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」エスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:1〜13)

 

 当時のユダヤ教は、長年の積み重ねによって、本来守るべき聖書の教えから離れてしまっていた。本来、聖書の教えを守るために設定された、伝統、文化、しきたり、ルールを守るために力を注ぐあまり、どんどん本質からそれてしまっていたのだ。彼らは、聖書の言葉よりも、伝統・文化を優先してしまったのだ。しかし、イエスはパリサイ人たちを批判し「伝統・文化によって聖書の言葉をないがしろにしてはならない」と断言したのであった。

 現代の私たちも、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。エスよりも、キリスト教の文化を重要視していないだろうか。エスの言葉よりも、教会の伝統を優先していないだろうか。

 私は、教会を否定しない。「エクレシアを建てる」と言ったのは他でもないイエスだからだ。キリスト教の伝統、文化、しきたりを全て否定はしない。それらは、聖書の言葉を守るために、先人たちが議論、工夫の末に作ったものだからだ。彼らの議論や知恵は、勉強すれば現代においてもかなり参考になるのは間違いない。

 しかし、先人たちが作った伝統が、必ずしも正しいとは限らない。先人たちの議論が、必ずしも正しい結論に帰結したとも限らない。伝統、文化が現代に適応しうるものとも限らない。人はみな間違える。ユダヤ教の様々なしきたりも、元はといえば聖書を守るために作られたのだ。しかし、それが本質から逸れてしまっていたのだ。

 現代の教会も、同じ過ちを繰り返してはいないだろうか。聖書から全くそれてしまった、伝統、文化はないだろうか。今一度、自分たちが無意識に守っている伝統、文化を見直す必要がある。今の教会は「~信仰告白」だとか「~信条」だとか「~宣言」だとか、人間が作った信仰基準ばかりを大切にしているように、私は感じる。決して、そのような「~宣言」は無駄とは言わないが、その内容が果たして正しいのか、現代でも重要視する必要があるのか、吟味する必要がある。「先人たちが作ったものだから、必ず正しい」というのは、思考停止である。

 なぜ毎週日曜日に教会に行かなければならないのか。なぜ牧師を先生と呼ぶのか。なぜ教会で奉仕をするのか。なぜ「教会籍」があるのか。バプテスマと救いは関係があるのか。聖餐式をする資格は存在するのか。酒は飲んではいけないのか。タバコは吸ってはいけないのか。なぜ聖書を読むのか・・・等々。それは、聖書に書いてあるのか? イエスはそう教えているのか? 常に考えるのをやめてはいけない。

 このブログは、「教会教」に対抗するために書いていると言っても過言ではない。「ここがヘンだよキリスト教」のタグの記事を見ていただければ、個別の事案についてはまとめているので、参考にしていただきたい。

 

 ひとつだけ「教会教」の典型例を聞いたので、ご紹介しよう。ある知人が、とある教会でバプテスマ(洗礼)を受けた。その時、牧師がこう言ったそうだ。

「いいですか。あなたは今、この教会で私からバプテスマを受けました。あなたは、クリスチャンになったのですから、これから毎週日曜日に、この教会に来なければなりません。他の教会はダメです。この教会の信徒になったのですから。それから、私のことはもう~さんと呼んではいけません。先生と呼びなさい」

(某牧師のコメント 知人A氏談)

 

 この牧師は、典型的な「教会教」の信者である。間違いだらけで、ツッコむ気力もわかないが、一応指摘しておく。

・私からバプテスマを受けてクリスチャンになった

→間違い。イエスを信じる者がクリスチャンである。バプテスマを授ける人は、誰であってもその人の救いとは関係がない。

 

・クリスチャンになったら毎週日曜日に教会に来なければならない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。

 

・他の教会に行ってはいけない

→間違い。聖書のどこにもそのような記述はない。イエスを信じる者の集まりが教会なので、どこの地域教会に行こうと差し支えない。その人の自由である。教会のメンバーを減らさないためにこういう嘘を言っているのである。

 

・先生と呼びなさい

→間違い。イエスは明確に「先生と呼ばれてはならない」と命じている。クリスチャンにとっての「先生」(ラビ)はイエスただ1人である。

 

 このようなトンデモナイ教会教の教えが、実はクリスチャンの世界では至るところで横行している。本当に悲しいが、事実である。教会に行って、「あれ、ヘンだな。聖書のどこに書いてあるのかな」と思ったら、ぜひ聖書を調べてほしい。

 教会に行くと「毎週日曜に来なきゃダメだ」だとか「奉仕をしないやつは二流」だとか「牧師の家族であっても『先生』と呼びなさい」だとか、「バプテスマを受けていない人は役割がもらえない」だとか、聖書に書いてもない文化が、いかにも「信仰」かのように扱われている。そして、その文化を大切にするよう、押し付けられる。

 そんな「教会教」の圧力に負けてはいけない。そういう文化を押し付けてくる人には、「聖書のどこに書いてあるんですか」と聞いてみよう。答えられまい。聖書に書いていないのだから。「牧師を先生と呼ぶ文化」に至っては、書いていないどころか、「呼ばれるな」とイエス自身が命令している。それにも関わらず、誰もかれもが全くやめようとしない。おかしい。そんな教会教の文化には、負けてはいけない。

 クリスチャンは「イエスをメシアと信じ、告白する者」である。教会を信じる者ではない。教会とは「イエスをメシアと信じ、告白する者の集まり」である。教会の組織が教会そのものではない。人の集まりが教会なのである。

 

 

▼「教会教」に陥らないために

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 最後に、「教会教」に陥らないために、いくつかオススメの方法を書こう。これは、あくまでも私のオススメであって「こうしなければならない」という強制ではない。

 

1:自分で聖書を読む

 牧師や教師たちの教えだけを丸呑みではいけない。自分で聖書を読み込んでみよう。分からないことがあったら、自分で調べ、聞き、リサーチしてみよう。積み重ねれば、必ず面白くなってくる。「教会教」を判別できるようになる。

 

2:神に対して、聖霊の助けを祈る

 間違った教えに惑わされないよう、神に祈ってみよう。そうすれば、神から与えられた「聖霊」によって、真理とそうでないものを見分け、悟れるようになるだろう。

 

3:牧師を過剰に信頼しすぎない

 クリスチャンの中には、「教会教」の成れの果ての「○○先生教」の信者もいる。特定の牧師の教えが全て正しいと勘違いし、イエスではなく、その牧師を崇め奉ってしまう人たちだ。目も当てられない。「牧師先生様教」ともいえるだろう。カルト宗教の温床である。健全に見える団体でも、内実は「牧師教」である場合も結構多い。だから注意が必要だ。

 ただ、そういった牧師たちも、必ずしも間違いばかりを教えていないという点は留意しておきたい。教えは正しくとも、周辺がその牧師を祭り上げてしまうケースもある。だから、「誰が」ではなく「中身」で物事を判別するクセをつける必要がある。このブログの内容も、必ず間違っている。それを、読者のみなさんには、判別して読んでほしいと願っている。

 

4:完全な教会はないと認識する

 完全な教会などない。人の集まりが教会だ。人は不完全な存在だ。だから人の集まりである教会が完全であるはずがない。教会が完全になるのは、イエスが返ってきて、イエスと教会が完全にひとつとなる時のみである。それまでの教会は、不完全であると知る必要がある。永遠に続く教会も、これまた存在しない。聖書時代の教会で、現代まで残っている「地域教会」は存在しない。所属している教会は、イエスが返ってこなければ、いつかなくなる。自分が今集っている集まりに愛着があっても、それだけに固執しすぎないよう、注意が必要である。

 

 いかがだろうか。おそらく、「教会教」の信者がこの記事を読むと、過剰に反撃するだろう。しかし、それは想定内である。読者のみなさんには「教会教」に陥らないように、ぜひ自分の心を見張っていただきたいと思う。自戒も込めて、この記事を書いている。決して「キリストのからだ」たる教会を否定するつもりはない。私がしたいのは、「今の教会組織の中心にイエスはいるのか?」という問いかけである。

 読者のみなさんには、ぜひ自分で聖書を読み、イエスが何と言ったのか、聖書には何と書いているか調べてほしい。そして、集まりをやめず、互いに励まし合う、本来の教会の目的を果たしてほしい。そう願っている。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。