週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンの「男女交際」はどのようなものなのか?

クリスチャンの「男女交際」は、一般的な「お付き合い」と違うのでしょうか? 聖書にはどう書いてあるのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンにとっての結婚とは?

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 ブログ筆者のコバヤシは、最近結婚した(おめでとう私!)。クリスチャン同士の結婚である。大勢の方の協力もあり、式や披露宴は無事、つつがなく行われ、良いスタートの1日となったと思う。

 結婚式の準備をしていると、「クリスチャンの結婚式って何が違うの?」「クリスチャンの“お付き合い”って何か違うの?」といった質問をよく受ける。日本でも結婚式のセレモニーを教会の建物でやる文化は定着しつつある。しかし、クリスチャンの「結婚の意味」「交際のあり方」などについては、あまり知られていない。果たしてクリスチャンの結婚式にはどんな意味が込められているのか、どんな準備をするのか。そんな「クリスチャンの結婚・男女交際」などについて、私の考えをまとめてみたいと思う。

 

 まず、大前提であるクリスチャンの結婚の価値観」を簡単に述べる。それは、以下の聖書の言葉に要約できる。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 2章24節)

 

 創世記は「男と女という2人の存在がひとつになる」という、結婚の価値観の根幹を示している。

 また、イエスは結婚の価値観を問われた際、先の創世記の言葉を引用した上で、このように述べている。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。

(マタイの福音書 19章6節)

 

 私の意見では、結婚は神が定めた創造の奥義の実現である。

 神は、この結婚という関係を「伏線」として、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義を用意している。使徒パウロはその奥義をこのように解説している。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

(エペソ人への手紙 5章31~32節)

 

 そして、使徒パウロは結婚した夫婦の関係について、このように述べている。

 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。 妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。 

(コリント人への手紙第一 7章2~4節)

 

 パウロは夫婦の関係をこのように描写した。これは、「セックスレスはいかんよ」という大胆な記述である。聖書にこのような記述があるのは驚きではないだろうか。ただ、この部分は一義的には肉体関係について書いてあるのだが、この勧めの根底には、「ふたりが一体になっているのだから、もはや自分のためだけに生きるのではなく、互いが相手を思いやるべきである」という価値観があるのだと、個人的に感じている。

 

 さて、聖書の結婚についての価値観を簡単にまとめると、以下である。

1:結婚は、神が創造のはじめから用意した奥義である

2:結婚は、(イシュ)と女(イシャー)がひとつになる奥義である

3:結婚は、2人の人間が一体となる奥義である

4:結婚は、キリストと信者の共同体(教会)がひとつになるという奥義の伏線である

 

 だから、クリスチャンにとって「結婚」とは特別な意味を持つ。そして、結婚式はそれを公にする特別な機会である。ただ、必ずしも儀式をしなければならないわけではない。神の前に、これから2人は夫婦となるという約束があればいい。実際の結婚関係が、式と前後してはいけないとか、そういった縛りもない。あくまでも、神と2人の間で、そして信者の共同体(教会)の中で「この2人は夫婦となる」という認識を持つのが大事なのだ。

 かなり簡単にだが、ある程度クリスチャンの結婚観をまとめてみた。さて、この価値観に基づき、「クリスチャンの交際」について、私の意見を示したい。クリスチャンの男女交際において、どのようなお付き合いをしたらいいのか、何をしておいたらいいのか、私なりのオススメをラインナップする。

 

 

▼議論の大前提

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 まず、「交際」を論じる前に、大前提となるポイントを4つにまとめた。これらについては、以前書いた以下の記事に詳細があるので、参考にしていただきたい。この記事では結論のみまとめる。

yeshua.hatenablog.com

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A:“男女交際”についての明確な記述は聖書にはない

 基本的に、聖書に「男女交際」についての記述はほとんどない。一部、ヤコブやサムソン、など、恋愛的な記述もなくはないのだが、その是非や、「あり方」などについては一切記述がない。だから、この記事にある「付き合い方」については、正解でも何でもなく、ただの「オススメ」である。その点をまずは強調しておきたい。

 

B:交際の目的は結婚

 クリスチャンの男女交際の目的は、結婚である。クリスチャンでなくとも一般的には「お付き合い」の先には「結婚」という段階があるのは、言うまでもない。結婚という目的に向かって、クリスチャンの恋愛的な交際はスタートする。

 私も、妻との交際をスタートした時、その場で「結婚が目的だ」という点をお互いに確認した。この点をおろそかにしてしまうと、どちらか一方が結婚を目指しているのに、どちらか一方はその気がないとなり、コミットや向き合い方に差が生じてしまう。2人の間で「交際の目的」をまずハッキリさせるのが重要だろう。

 

C:クリスチャン同士の交際が大前提

 クリスチャンにとって、付き合う相手が同じクリスチャンであるというのは大前提である。私は、「様々な意見がある」などという逃げ方はしない。クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との恋愛的な交際は論外である。ありえない。メリット・デメリットの話ではない。「ふたりが一体となる」という奥義を認めるならば、その前提に立たない「一体」は成り立たない。詳しくは、先に挙げた記事を参考にしていただきたい。

 

D:結婚までセックスはしない

 一体となるというのは、当然肉体における一体、つまりセックスも指す。セックスはクリスチャンにとっては、結婚した夫婦の間のみに与えられる、特別な祝福である。こちらも「異論はある」といった逃げ方はしない。私は強く信じ、主張する。結婚関係以外のセックスは神の創造からのデザインではない。

 聖書に根拠はいくつかある。基本的に婚姻関係以外のセックスは失敗として描かれ、ネガティブな結果をもたらしている(例:ロトと娘たちの近親相姦による子供が、イスラエルの敵対する民族の祖先となった。アムノンの近親相姦により兄弟殺しまでに発展した。ルベンが父のそばめと性的関係を持ち、長子の権利を剥奪された等)。ただし、ダビデやソロモンなど「王」の立場であった者は例外として描かれている。また、預言者サムエルの父も2人の妻がいたなど、一部例外もある。しかし、例外であっても妻の間にねたみが起こるなど、基本的にはネガティブな影響が記されている。

 また、新約聖書(新改訳2017)で「淫らな行い」と訳しているギリシャ語は「ポルネイア」という言葉である。これは、「結婚以外の性的関係」「婚約期間の裏切り」「近親相姦」などを指す。一方、いわゆる「不倫」は「モイケイア」という別の言葉を用いている。聖書は「ポルネイア」を明らかに「罪」として書いていることから、結婚以外のセックスは正しくない行為であると、私は思う。

 他にも根拠は様々あるが、詳しくは、上記の「離婚」についての記事を参考にさせていただきたいと思う。

 

 さて、以上の前提をふまえて、私なりの「オススメ」を簡潔に書きたいと思う。

 

 

▼1:カップル2人で祈る、聖書を読む

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 まず、「付き合う」となった時点で、2人で祈ることをオススメする。出会いに感謝し、特別な関係のスタートに感謝し、今後の導きと守りのために祈ってみよう。始めだけでなく、会うたびに、別れるたびに一緒に祈る習慣を持ったらいいと思う。また、会っていない時も、お互いのために祈るというのは、とても大切である。

 そして、何よりオススメしたいのが2人で聖書を読む習慣だ。できれば、同じ部分を毎日読み、その感想をシェアすると良いだろう。私の場合は、妻とお付き合いをする前から、毎日1章、同じ聖書の部分を読み、感想をfacebookメッセンジャーやLINEなどでシェアしていた。その習慣を、結婚した今も1日と欠かさず続けている。

 なぜ、一緒に聖書を読むと良いのか。様々なメリットはあるが、私なりには以下の点を挙げられると思う。

A:神について、より深く一緒に知ることができる

B:お互いに、聖書をどう読み、理解しているか認識を共有できる

C:一緒に時間を過ごしたり、コミュニケーションをとる助けになる

D:毎日、神について知るための時間を確保するよう、お互いに励まし合える

 お互いに忙しくとも、「相手と聖書を読む約束をしている」という認識があれば、自ずと続けられる。読む量や、感想のシェアのやり方は、それぞれのライフスタイルなどによって相談したら良いと思う。

 聖書をどのように読み、理解し、それを分かち合うのかは、人によって違う。その認識を早いうちからお互いに共有しておくのが大切である。

 

 

▼2:2人の境界線(バウンダリー)を決める

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 一般的には、男女交際の延長線上にはセックスがある。私は、クリスチャンではない女性の友人から「結婚するまでセックスしないのであれば、付き合う意味はどこにあるのか?」という質問も受けた。それほど、男女交際とセックスは密接に関わっている。

 クリスチャンの価値観に基づき、結婚前にはセックスをしないと決めるのであれば、「どこまでなら良いのか」という疑問が残る。もちろん、聖書はそんなに事細かく書いていない。結局のところ、「どこまで」かは、カップルが2人で話し合って決める事。これを「境界線」(バウンダリー)と呼んだりする。

 2人で「セックスをしない」という境界線を決めれば、逆に言えば「セックス以外は何でもOK」となる。もう少し「厳しめ」の境界線を決めるカップルもいる。「キスをしない」とか、「ハグをしない」とか、「手も繋がない」とか、様々なラインがある。

 この境界線の話に正解はない。ただ、2人の間に境界線の齟齬があると、トラブルのもとになる。例えば、男性側は「セックス以外は何をしても良い」と思っていたとする。一方で、女性側は「キスは当然NG。手をつないだり、2人きりになるのもNG」と思っているとする。この認識の差があると、例えば男性がキスを迫った時に、女性側は驚き、男性に対して不信感を抱くだろう。一方で、男性側としては、女性があまりにも「身持ちが固い」と感じれば、「なぜ信頼してくれないのか」とフラストレーションが溜まる原因となり得る。もちろん、男性がガードが固めという場合だってある。

 境界線は、「キス」や「ハグ」のような身体的接触以外にも、「パートナー以外の異性と2人きりにならない」のような、人間関係の持ち方も含まれる。カップルによっては、「部屋で2人きりにならない」という境界線を決める場合もある。また、予定を立てる際に事前にどの程度相談するかも大切なポイントだ。

 大切なのは、2人の信頼関係である。どのような「境界線」を決めるのか、2人でしっかりと話し合い、基準を明確にした方がいい。溜め込んで、「実はイヤだった」などと後で爆発しないように、交際の初期段階でしっかりと境界線については決める必要がある。

 私の場合は、交際が始まったその日に、境界線を2人で決めた。まずは「手をつなぐ」も含めて、身体的な接触は完全に「無し」とした。パートナー以外の異性との食事は、事情に応じてOKとしたが、必ず事前に相談するようにした。身体的な接触は、婚約後に段階的に解禁していった。個人的には、全て良いタイミングで決められたと思うが、解禁する範囲が拡大するに伴って、セックスしたいという欲求は飛躍的に高まった。そのため、身体的接触を解禁した場合は、なるべく密室にならないようにするなどの、他の工夫が必要になってくると感じた。

 

 

▼3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう

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 交際がスタートしてから大切なのは、周囲への報告である。

 まずは家族。私は、できるだけ早い方が良いと思う。なぜなら、将来的に「結婚」を見据えるならば、家族との関係はとても大切だからだ。私の場合は、交際が決まったその時点で、すぐに家族にLINEや電話で報告をした。3ヶ月後には、妻(当時の交際相手)を実家に連れて行き、実際に顔と顔を合わせて紹介した。家族がクリスチャンであるならなおさら、その関係性のために祈ることができるので、報告は早い方が良いと思う。ただし、家族の関係性は人によって違うので、それぞれに合ったやり方とタイミングがあるだろう。

 そして、クリスチャン同士の交際ならば、教会の共同体や、信頼できる友人には、速やかに報告するのが良いと思う。なぜならば、共同体として、そのカップルのために祈れるからだ。よく、同じ教会内でお付き合いを始めたカップルに「内緒にしておきましょう」などとアドバイスじみた強制をする牧師たちがいるが、まさに愚の骨頂。そのカップルを悩ませ、罪の深みにいざなっている盲目の指導者である。もしそのような無能な者たちがいたら、言うことなど聞かず、facebookに「交際ステータス」をupしてやろう。

 私が通っていた韓国系の教会の牧師は、「内緒のお付き合い」を美談として語っていた。教会の集まりが終わった後、1人で帰るふりをして、別の出口から出て、町で落ち合っていたという。それを「美談」として自慢げに語っていたが、よくよく考えれば、内緒にする目的は何ひとつない。聖書にそのような記述もない。全く意味不明、ただの嘘つきである。詳しくは語らないが、その夫婦は後に少年の私がガッカリする結果となった。意味のない決まりで信者をしばり、偽りの美談を語り、結果として現実が伴わない姿を見せてガッカリさせるのはやめてもらいたい。

 教会の共同体の存在目的のひとつは、「お互いに励まし合うこと」である。であるならば、せっかく結婚に向けて準備を進めるべく「交際」を始めたカップルのために祈らなくてどうする。共同体にはお付き合いをオープンにし祈ってもらうようにしよう。しかるべき相手と話し合い、先輩カップルにメンターになってくれるよう依頼し、必要ならば結婚カウンセリングを受けるのがオススメだ(これについては後述)。

 私の場合は、交際を始めた次の日に、両親、兄妹、教会の共同体の仲間たち、牧師、親しいクリスチャンの友人に連絡をして、お付き合いを報告した。そして、彼らに自分たちのために祈ってもらうようにお願いした。きちんと報告した結果、多くの方に祝福してもらえた。よい判断だったと思っている。

 

 

▼4:メンターを依頼する、アカウンタビリティを持つ

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 クリスチャンのカップルにとって、「メンター」となる存在は欠かせない。適切な日本語が見つからないが、要するに「カップルの相談に乗り、アドバイスを授けたり、一緒に祈ったりする先輩カップル」を指す。定期的に会って、近況や関係性を報告し、互いのために祈り合い、必要な時は叱責も受ける。それがメンターとの関係だ。

 自分たちはうまくいく、と思っていても大体それはおとぎ話に終わる。自分たちがどのような交際をしているのか、ケアをする人たちが必ず必要である。誰に依頼するかも重要で、できる限り、「既婚の夫婦2人」にメンターになってもらうことをオススメしたい。一般化するのは難しいが、やはり男性は男性、女性は女性と話し合う関係が必要である。2人一緒に話すのも大切だし、夫婦それぞれが同性のメンターと話す必要もあると思う。

 もし、問題があった時は、メンターに包み隠さず共有するのが大切だ。これを「アカウンタビリティ(説明責任)と言う。問題や失敗、不和を隠す癖がつくのは、一番いけない。この人たちになら相談できるという、いわば「逃げ場」を作っておくのがとても大切だ。

 私たちの場合は、お付き合いを始めてしばらく経った後、この「メンター」の存在を痛感した。2人だけでは解決できない問題が多々あったからだった。そこで、尊敬する先輩カップルに「メンター」になってもらうように依頼した。快く引き受けてくださった彼らには感謝しかない。彼らとは、定期的に彼らの家で会い、男女について、交際について、結婚について、夫婦について、家族について、子育てなどについて話し合った。私たちにとって、なくてはならない特別な関係がそこにあった。

 ちなみに、「メンター」は同じ教会の共同体でなくとも構わない。私たちは、あえて違う共同体の夫婦にメンターをお願いした。その方が、私たちの関係を、より客観的に見てもらえると思ったからだった。

 

 

▼5:ビジョンや価値観を話し合う

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 最後に、これはクリスチャンであるかは関係ないかもしれないが、お互いのビジョンや価値観を共有しておくのはとても大切である。以前、「みこころ」の記事や、「コーリング」の記事でも書いたが、クリスチャンは神の計画に従って生きたいと願っている。自分にとっての「神の呼びかけ」が明確であればあるほど、パートナーとのビジョンの一致が重要になってくる。

 例えば、パートナーの片方が、「医療宣教師となってアフリカに行きたい」と思っているとする。一方で、もう一人は「日本の地域教会のスタッフとして働きたい」と思っているとする。その2人は、果たして結婚できるだろうか。一緒に住まなくとも、一緒にいなくとも、心はつながっているなら大丈夫。そう考えるのであれば可能かもしれない。しかし、現実的には難しい決断だとは思う。

 別の例も挙げてみよう。パートナーの片方が、「名前も知られていない部族のところに行って、聖書翻訳をしたい」と思っているとする。もう片方が、「アメリカで、日本人留学生にイエスを伝えたい」と思っているとする。この2人は、果たして結婚が可能だろうか。率直に難しいとは思う。

 私の妻の両親は、パプア・ニューギニアで15年間、宣教師として聖書翻訳に励んだ。義父の熱意で未開の地に飛び込んだ挑戦だったそうだ。義母は本心では海外に行くのは本意ではなかったが、結婚するからには夫の熱意を支えるのが自分の務めだと信じて、ついていったという。このように、夫か妻、どちらかが片方のビジョンを支える決意があれば、違う思いがあっても夫婦として成り立つ可能性はある。

 大切なのは、2人がどのような将来を描いているのか、予め話し合っておくことだ。恋愛感情だけでは、人間関係は安定して続けられない。お互いがどこに向かっているのか、人生の方向性を初期段階で確認するのが大切である。

 

 

 ・・・いかがだろうか。最後にまとめる。

<クリスチャンの交際にあたって筆者がオススメするポイント>

1:カップル2人で祈る、聖書を読む

2:2人の境界線(バウンダリー)を決める

3:家族、共同体など周囲に報告し、祈ってもらう

4:メンター、アカウンタビリティを持つ

5:ビジョンや価値観を話し合う

 

 以上が、私の具体的な「クリスチャンの交際」にあたってのオススメである。書いてみて、「うわ~~こいつ偉そう~~」と自分でも思った。「全部当たり前じゃん・・・」とも思った。とても恥ずかしいし、「この記事必要?」とも思った。しかし、同時にとても大切な内容だとも思ったので、自分の経験を基に書かせていただいた。ブログ開設以来、聖書とはあまり関係ない記事になってしまったが、ご容赦願いたい。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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【疑問】神の「コーリング」を受け取る5つのポイント

神の「コーリング」はどうやって受け取り、見分ければよいのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」は誰にでもある

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 神の「コーリン」とは、神が人間に対して「生きる目的」や「役割」、神が定めている「計画」などを知らせる「神のお告げ」のようなものである。クリスチャンたちは、神の「コーリング」に従い、神の計画のとおりに歩み、生きたいと願う。コーリングは、究極的には「神を信じること」によって、「神の子ども」となる呼びかけである。私個人の考えでは、神の「コーリング」は誰にでもあるが、それが「どこで、どのタイミングで、どんな仕事をするか」など、超個別具体的なものとは限らないと思う。そしてそれが、超自然的な形で奇跡のように示されるとも限らないと思う。詳しくは前回の記事を参照していただきたい。

 とあるアメリカの牧師が、こんなことを言っていた。「神のコーリングは、カーナビのようなものだ」と。カーナビは、正しい道を直進している時は、何も語らない。しかし、方向転換する時や、道を間違えてUターンすべき時などにアナウンスが入る。それと同じように、神もまた、人間が神の計画どおりに歩んでいる時は沈黙を保つかもしれないというのだ。なるほど、いつも「神の計画」が具体的に示され続けるとは限らない。むしろ、正しい道を歩んでいる時は、神は沈黙を保つ・・・という説は、一理ある。

 また、ある別のクリスチャンがこう語っているのを聞いたことがある。「神の計画は平均台のようなものではなく、広い道のようなものだ」と。神の計画は、いつ、どこで、何を、どうやってやるかという細かく、超具体的に人間を縛るものではない。または、その道を一歩でも踏み外せば、奈落の底に落ちてしまうようなものではない。むしろ、どこで何をしていようとも、神に信頼し、神に従う心持ちで進めば、おのずと神の計画が達成されるというような、「広い道」である・・・という意見だ。クリスチャンの人生と神の計画の関係は、大仏の手のひらで踊っている孫悟空のようなのかもしれない。

 

 さて、以上をふまえて、私の「コーリング」についての意見をまとめる。

1:コーリングは神が、何らかの形で人間に神の計画を示すものである

2:コーリングは、常に明確で具体的な形で示されるとは限らない

3:コーリングは、いつも示され続けるとは限らない

4:コーリングは、誰にでも超自然的な奇跡を伴って示されるとは限らない

5:しかし、コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性はある

 

 コーリングは誰にでも示され、誰でも受け取れる可能性がある。私はそう信じる。では、一体コーリングはどんな形で感じるものなのだろうか。どうやって真偽を見極めたら良いのだろうか。今回は、簡単に5つのポイントに絞って「コーリングの受け取り方」をまとめたいと思う。

 

 

▼何よりも「聖霊の導き」が大切

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 はじめに断っておくが、これから述べる5つのポイントが全てではない。人それぞれの受け取り方があるだろう。また、5つ全てが合致しなければならないというものでもない。1つのポイントだけ強烈に語られる場合もあるだろうし、5つ全てがそれぞれ小さな形で示されるケースもある。大切なのは、それぞれのバランスを見ながら、「心の動機」を見極め、神に祈り、神の計画のとおりに生きたいと願う姿勢である。

 「みこころ」(神の思い)だと思う場合、たいていは「おこころ」(自分の思い)であるケースが多いので、注意が必要だ。特に、人生を左右する大きな決断は慎重にすべきである。今ある想いが、神の計画、いわゆる「みこころ」かどうかを判断する秘訣は、以前、記事を書いたので参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 一番大切なのは、「聖霊の導き」である。聖霊の導きは、これから述べる5つのポイント全てに渡って大切な要素だ。人間としてのイエスは、今は私たち人間と共にはいない。しかし、イエスが「聖霊」を、助け主として私たち人間に与えているのである。イエスはこう言っている。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書 14章26節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章13~15節)

 

 聖霊は、神の力の現れであり、また神ご自身だとクリスチャンは信じる。「聖霊」は信じている者に神について教え、神の計画を知らせ、神と共に歩めるように導いてくださる力である。その神の霊が、イエスの時代以降、クリスチャンに、そしてクリスチャンの集まりである教会の共同体に与えられている。その聖霊が、クリスチャンに神ご自身について教え、導き、また何を言うかさえ伝えるのだと聖書は書いている。

 そのほか、聖霊について聖書が何と書いているか見てみよう。

聖霊は何を話すか教える>

人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

(マルコの福音書 13章11節)

 

聖霊は神を知るための知恵である>

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

(エペソ人への手紙 1章17節)

 

聖霊は神の深みさえも探り、啓示する>

神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

(コリント人への手紙第一 2章10節)

 

聖霊は人間に祈りを教え、また人間のために祈る>

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです

(ローマ人への手紙 8章26~27節)

 

 だからこそ、聖霊による導きは、コーリングを受け取る上で、何よりも重要である。聖霊が大前提である。これから述べる5つのポイントは、全て聖霊の導きを求めつつ実行するものだと覚えてもらいたい。神に祈り、聖霊の導きを求めた上で、5つのポイントに入っていきたい。

 

 

▼1:志があるかどうか(心の動機)

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 まずひとつ目のポイントは、「」である。やりたいという意志があるかどうか。それがまず、「これが神の導きかどうか」見極めるポイントである。聖書にはこう書いてある。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

(ピリピ人への手紙 2章13節)

 

 何か行動を起こす時に、「志」がなくては始められない。新しいミニストリーを始めるにしろ、事業を起こすにしろ、牧師としての働きを始めるにしろ、宣教師の団体にアプライするにしろ、転職するにしろ、結婚するにしろ、傘を持っていこうかどうか決めるにしろ、きのこの里かたけのこの里か決めるにしろ、まずは「志があるかどうか」というのが大前提である。

 志、というと自分勝手に聞こえる可能性があるが、もちろんその中には、いわゆる「聖霊の導き」も含まれる。聖霊の導き」を求めて祈りつつ、与えられた志に従って決断していけば、一定の方向性は見えてくるだろう。「志・意志」、つまり、何をしたいか、何に情熱を抱くか、何が得意か、何がやりたいコトなのかを吟味すれば、おのずと「コーリング」が聞こえてくるかもしれない。

 「やりたい」という意志が、教会の共同体の管理者になる大前提の条件でもある。聖書には「監督者」の条件として以下のように書いてある。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである」ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

(テモテへの手紙第一 3章1~7節)

 

 「監督」としての条件が様々書いてあるが、その前に、「監督の職に就きたいと思うなら・・・」との記述がある。これは「やりたい」という「意志」が大前提だという意味ではないかどんなに能力があっても、やりたいという意志がなければ始まらないのだ。

 

 私自身は、この「やりたいこと」に素直になる姿勢も、クリスチャンには必要だと思う。一部のクリスチャンたちは、やりたいことに忠実に突き進むのを「悪いこと」だと決めつけている傾向にあるのではないか。自分のパッションに素直になるのは、そんなに悪いのだろうか。否。その熱い思いは、神が与えた可能性もあるのだ。考えなしに突っ込むのも危険だが、よく吟味し、慎重になり、聖霊の導きを祈った上で湧き上がってくる「志」は、神が与える「コーリング」だと考えていいのではないだろうか。

 

 また、やりたいという「意志」に加え、「情熱」も重要である。志があっても、情熱が伴わなかったり(2つは似ているようで異なる)、好きになれなかったり、楽しめなかったりしたら、もしかすると違う道を模索した方が良いのかもしれない。

 「才能」も同じように重要である。クリスチャン用語では「賜物」と言ったりもする。歌がうまくなければ歌手にはなれない。文才がなければ作家にはなれない。外国語ができなければ通訳にはなれないし、背が高くなければバレーボール選手にはなれない。もちろん例外はあるし、神は不可能を可能にする方である。また、今現在できないことも、練習したり才能を磨けばできるようになるかもしれない。才能だけで見切ってしまうのも良くない。しかし、全く才能がないのに非現実的な夢を抱き続けるのも問題である。

 才能がないのにも関わらず、やり続ける行為は、他の人に迷惑をかける場合もある。例えば、いわゆる「説教」がクソ下手くそなくせに、長々と語る牧師が多すぎる。信者にとっては我慢しなければいけない退屈な時間で、拷問以外の何物でもない。先に挙げた聖書の言葉にも、「教える能力があり」という条件がある。教える能力がない場合は、「説教」は能力のある人に任せ、自分は他の役割を模索したらどうか。「牧者」の役割は、何も「説教」だけではない(むしろ説教ではない・・・)のだから。

 もちろん、モーセやギデオンのように、元々「口下手」だったり「臆病な者」が民を導くリーダーになるケースもある。自分が得意でないこと、情熱を抱いていないことが、神の「コーリング」である可能性もある。だから、「志」だけで決めつけず、様々なポイントで吟味する必要がある。他のポイントを見ていこう。

 

 

▼2:聖書の言葉と合致しているか

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 聖書の言葉、聖書の価値観は、「コーリング」を受け取る際に重要な判断材料となる。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

(テモテへの手紙第二 3章15~16節)

 

 聖書は神について、イエスについて教え、戒め、矯正し、義の訓練のために役立つ。聖書を読むと、自分の心に響く言葉に出会う。一度読んで最初は何も感じなかったとしても、時によって人生を変えるような衝撃になる場合もある。

 クリスチャンは、多かれ少なかれ、聖書の言葉に感動し、突き動かされたという経験があるだろう。私は、個人的に聖書を読んで感動し、人生の方向性が変わった体験を何度もしている。イエスを信じたキッカケも、聖書の言葉だった。宣教師団体に就職しようとインターンをした際も、1日に3度聖書の言葉に感銘を受け、人生の計画を白紙に戻した。その結果、今は民間企業で働いている。詳細は後日ブログに書こうとも思う。

 聖書は人生のマニュアル本ではない。占いの答えが書いてある本でもない。一部だけを切り取り、適用するのは危険である。全体の文脈、聖書全体の価値観と合致しているか注意しながら、聖書の言葉を解釈する必要がある。極論だが、旧約聖書で神がイスラエルの民に「敵の民族を滅ぼせ」と命じている部分をとって、「クリスチャン以外を殺そう」という発想になるのは避けなければいけない。バカみたいだが、それと同じレベルの曲解が、個人、または地域教会のレベルで実際に起こっている。

 しかし、聖書の言葉を自分のために「利用」するのではなく、聖書の言葉から神のメッセージを汲み取ろうとする動機で読めば、必ずや良い教訓を得られるだろう。聖書は、イエスの言葉や生き様を綴っている。他の登場人物の模範、反面教師的な教訓、旧約聖書の律法、歴史、詩、預言、使徒たちの生き様や手紙などから様々な学びを得られる。教訓がある。インスピレーションがある。人生を変えるような衝撃がある。

 聖書を読んでいると、同じ場所でも気になる部分が変わってくる。ある時は愛についての記述が目につくようになる。ある時は赦しについての記述が。ある時は恵みが。ある時は悔い改めが。ある時は罪が示され、ある時は勇気が与えられる。ある時は奉仕へと突き動かされ、ある時は静まりへと招き入れられる。人それぞれ、その時々に、異なったメッセージを語る。それが聖書という書物である。

 大切なのは、日々、毎日毎日聖書を読み、神からのメッセージを受け取ろうという姿勢ではないか。日々聖書の言葉を観察し続ければ、何か人生についての発見がある。それが神からの「コーリング」の一部であると思う。

 また、聖書の言葉は自分の思いを「見分ける」ために役立つ。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4章12節)

 

 聖書の言葉そのものが、自分の「心の動機」を見分ける剣となるのだ。

 

 

▼3:周辺の助言を受け入れられるか

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 以前「みこころ」についての記事でも書いたが、自分が果たして神の計画通りに歩んでいるだろうかと判断する際に、「周辺の助言」に耳を傾ける姿勢が大切である。預言者モーセは、外国人であるしゅうとのイテロの助言を素直に受け入れた。一方で、ユダの王であったウジヤは、祭司たちの助言を無視し、資格がないにも関わらず自らいけにえを献げようとして、神の怒りをかった。

 人間が戒めの助言を受けて怒ってしまうのは、たいてい図星だからである。自分でも心のどこかで悪いと分かっているのに、その事実を他人に突きつけられると、プライドが発揮し、怒ってしまうのだ。周辺の助言を素直に受け入れ、吟味できるかどうかで、ある程度自分の「思い」が「コーリング」なのかどうか判断できるだろう。

 「これはコーリングかもしれない」という思いが湧いてきたら、自分の信頼する複数の人にアドバイスを求めるというのが、私の個人的なオススメだ。カギは、1人だけではなく、複数に聞くという点だ。1人だけではなく、複数に意見を求めれば、おのずとバランスのとれたアドバイスが得られるだろう。

 ただ、他人の意見はあくまでも他人の意見である。それによって、必要以上に「やっぱり正しかったんだ!」と歓喜したり、逆に「やっぱり違ったんだ」と落胆してしまうのは良くない。あくまでも、自分にはない視点を求めるためのアドバイスである。他人の言葉の奴隷になる必要はない。一番大切なのは、人の言葉よりも神の言葉なので、周辺に意見を聞いた上で、神に祈り決めるべきである。

 一方で、聖書には間違った人のアドバイスに従った結果失敗してしまったケースも多々書かれている。ソロモンの息子、レハブアムがその最たる例だろう。彼は自分の取り巻きの若者の意見を重んじ、重税に苦しむ民にさらに重税をかけてしまった。長老たちは、税を軽くするよう助言したが、レハブアムは聞く耳を持たなかった。その結果、内乱が起きて、国が2つに分裂してしまうのであった(列王記第一12章など参照)。

 ここから得られる教訓は、愚かなアドバイスに従うと、悪い結果を招くという当たり前の話である。私は、このような間違いが起こる原因・パターンは2つあると思う。

 ひとつは、「間違った心の動機」である。冷静な判断力のもと、純粋にアドバイスを求めているのであれば、重税に重税を重ねる愚かな施策は打たなかったであろう。しかし、自分にとって都合のいいアドバイスを得たがために、「彼らの助言があったから」と自分に言い訳をして、愚かな行動をとったとは考えられないだろうか。

 これは他人事ではない。同じように「あの人だってこう言っていたから」という言い訳を、自分自身にしていないだろうか。人間、ある程度の判断力はあるので、自らの判断で愚かな行動を取ってしまうケースは稀だろう。しかし、誰か他の人が助言したからという「言い訳」を獲得すると、途端に愚かな道に歩みだす。それが人間の弱さである。

 エバの失敗は何だったか。蛇に耳を貸したからではないか。アダムの失敗は何だったか。エバに耳を貸したからではないか。しかし、どちらも「心の動機」では自分がずっとやりたいと思っていた行為だったのではないか。「やりたい、でも悪い行為だと分かっている」というものを、何か自分ではない他の人の発言によって「正当化」していないだろうか。誰か他の人のせいにしても、自分の行動の結果を刈り取るのは、結局自分自身なのだ。

 

 もうひとつは、アドバイスを求める前から結論が決まっているパターンである。このような人たちは、アドバイスの中身を求めていない。彼らは、アドバイスに決して耳を傾けない。自分の結論に自信がないため、自分と同じ意見を探しているだけなのだ。こういう人たちは、自分と同じ意見で自分を肯定してくれる人に出会うまで、ずっと意見を聞きまくる。こういう場合は、大抵うまくいかない。

 やはり、周辺の意見を聞く際は、以下のポイントが重要になってくる。

1:複数の信頼できる人に意見を聞く

2:意見の中身はあくまで判断材料として吟味する。その意見に縛られる必要はない

3:予め自分の中で結論が出ていないか、人のアドバイスを言い訳にしていないか「心の動機」を吟味する

4:その上で、神に祈り、決断する

 

 ただ、聖書には親族、家族が「気が狂った」と思い、連れ戻しに来たにも関わらず、聞く耳を持たずに活動を続けたイエスという人の記述もある。周辺も何か別の意図を持っていたり、間違ったアドバイスをする可能性があるので、あくまで「吟味するための一要素」と考えたらいいと思う。

 

 

▼4:イエスの模範と合致しているか

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 4つ目は、少し気が付かない視点かもしれない。「エスの模範」という視点である。英語で「What would Jesus do?」(イエスならばどうするか)という表現を、聞いた経験のある人もいるだろう。

 クリスチャンはエスの生き様に注目すべきだ。彼がどのように生きて、何に注目し、何を語り、教えたのかを考える必要がある。イエスの姿を思い浮かべて、2000年後の自分の人生に当てはめ、自分はどのように生きたらいいのか考える。その思考の先に神の「コーリング」はある。

 イエスはたびたび、自分を「模範」として語っている。イエスの生き様を見て、クリスチャンはどのように生きるのか学ぶのである。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

ヨハネ福音書 13章15節)

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

(ペテロの手紙第一 2章20~24節)

 

 イエスは、当時の曲がってしまっていた宗教的考えにパラダイム・シフトを与えた。旧約聖書の律法を間違って適用し、本当に大事な心の問題をなおざりにしていた。弱い人を助けるはずの律法を用いて、弱い人を差別し、虐げ、軽んじていた。そんな社会の中で、イエスは弱い人、社会的に見捨てられている人、罪人だと蔑まれた人、病気の人、外国人、女性、障害がある人、気が狂ったと恐れられた人などに寄り添った。そのようなイエスの姿勢から学ぶ生き方があるのではないか。

 また、イエスは当時の宗教的指導者たちと論争した。彼の語り方は、「権威ある者のよう」だったと書いてある。当時の宗教指導者たちは、自分たちの知識をひけらかすような語り方で、民衆もうんざりしていたのであろう。イエスの語り方は、他の指導者たちとは違った。彼は当時の凝り固まった文化を否定し、常に聖書の記述を用いて民を諭した。

 エスは、人からの栄誉を求めなかった。世間から見捨てられた人に寄り添った。イエスは本質から逸れてしまった伝統や言い伝えを否定した。イエスは山奥で1人で祈り、いつも神と共に歩んだ。イエスが語る言葉は、すべて天の神が伝えた通りの言葉であった。

 自分の人生の道に悩んだ時、「自分のコーリングは何なのだろう」と迷った時、イエスがどのように生きたか思い巡らしてみよう。エスならばどうするか。その思考が、現状を打破するための一歩なのかもしれない。

 

 

▼5:状況はそれを許しているか

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 最後のポイントは「状況」である。これは、意外と重要な要素である。例えば、私がアメリカで出会ったアメリカ人の牧師はこんな体験談を語っていた。彼は、ずっとアジアに関心があった。中国に宣教師として行きたいと願い、聖書学校に入り、学んだ。中国語も勉強した。宣教師になるための訓練を受け、いよいよ中国に派遣されると決まった。その時に、中国で毛沢東政権による文化大革命が起こった。宣教師は中国に入れなくなってしまった。「状況」が、彼が目指していた「中国に宣教師として行く」という夢を閉ざしてしまったのだ。

 しかし、今振り返ってみると、彼は自分の人生に満足しているという。彼は、そのまま地元イリノイ州に戻り、地域教会の牧師として働いた。彼は教会で、アジアへの宣教の重要性を語り、教会のメンバーに大きな影響を与えた。彼自身は宣教師として中国には行けなかったが、未来の宣教師のたまごを育てたのであった。

 このように、「状況」によって道が閉ざすというケースはいくらでもあると思う。ビザがおりない。支援金が打ち切られる。大病を患う。大怪我をする。うまくいきそうな商談が突如破断になる。破産する。スキャンダルが出る。訴訟が起こされる。情熱を失う。火事で家を失う。家族にトラブルが起こる・・・等々。それは一見悲しい出来事であり、時になぜそういった問題が起こるのか分からないときもある。

 しかし、神は全世界の全てを知り、治め、思いの通り実現されるお方である。人間にとっては、到底理解できないところまで、神は知っている方である。人間に理解できなくとも、何らかの理由で神が許しているトラブル・不幸がある。理由は分からない。しかし、必ずや意味がある。聖書の「ヨブ記」は、現代の私たちにふりかかる不幸への慰めの書物でもある。

 信仰と無謀を履き違えてはいけない。一部の教会では、「無理をすることが信仰だ」といった間違った価値観が流布しているように思う。無理をするのは信仰ではない。実際、聖書にも「神が共におられないのにも関わらず、カナン人と無理に戦い、イスラエルの民は惨敗する」というエピソードもある(民数記14章参照)。神が明確なGOサインを出した場合は、勇気を持って踏み出せばいい。しかし、本当に神が示しているのか曖昧なまま、状況も整っていないのに突き進むのは「信仰」ではなく、「無謀」という。

 韓国の某教会は、2007年に無理やり渡航禁止になっているアフガニスタンに突進した。その結果、牧師がテロリストによって惨殺されるという事件が起こり、社会問題となった。彼らは「神の導き」だと主張したが、それならば、なぜ現地の言葉や、宗教言語のアラビア語を勉強しなかったのか。なぜ、イスラム教について学ぼうとしなかったのか。理解に苦しむ。政府はアフガニスタンへの渡航を禁止していて、「状況」もそれには見合っていなかった。結局、その事件はキリスト教全体への批判を招いてしまったのであった。

 「状況」は、現状から一歩踏み出そうとする時の、最後の判断材料になる。思いや情熱があり、聖書の言葉による動機もあり、周囲からの後押しや修正があり、イエスの模範に照らし合わせて、なおその道に突き進もうという時に、最後に「状況はどうか」と確認する必要がある。もちろんこれら全てを、聖霊の導きに従い、神に祈った上で行動するのが重要だ。これら全てを、バランスよく見つつ検討して、「コーリング」を見極める必要がある。

 

 

▼まとめ:方向転換したっていい

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 前回の記事でも述べたが、クリスチャンは「コーリング」にこだわりすぎる傾向がある。しかも、その「コーリング」が個別具体的な「細い道」だと勘違いしている。否、神の計画は、もっと大きな壮大な「広い道」ではないか。私たち小さな人間が、何をしようとも、自分の力ではどうにもできない。ただこれだけは言える。心が神に向いていて、神の計画の道を歩みたいと願い、神と共に生きたいと願うのであれば、おのずとその生き様が神の計画となるのではないか。私はそう思う。

 また、クリスチャンの中には、「一度この道に進んだのだから、もはや引き返せない」と悩む人もいると聞く。そうではない。神が定めた人生の道、可能性は一本道ではないと、私は思う。もし突き進んで、「違う」と思ったら、引き返したっていい。方向転換したっていい。違う道に行ったっていい。それは恥ずかしい生き方ではない。日本人はとかく「一筋信仰」の傾向が強い。しかし、聖書は一言もそんなことは言っていない。モーセは40歳でエジプトを追われ、80歳でようやく神からの使命を受け取った。ただ、モーセは神と共に生きた。神を見続け、神と共に生き続ける覚悟だけは、「一筋」である必要がある。

 結局のところ、神の「コーリング」はシンプルなのだ。

そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」

(マタイの福音書 22章35~40節)

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネ福音書 13章34節)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4章2節)

 

 いつでも、どこでも、どんな時でも神を愛し、神と共に生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもイエスを宣べ伝える。いつでも、どこでも、どんな時でも聖霊の導きに従って生きる。いつでも、どこでも、どんな時でもそばにいる人を愛する。これが、神の「コーリング」である。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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【疑問】神の「コーリング」を絶対待たなければいけないのか?

クリスチャンはよく「神のみこころ」とか「コーリング」という言葉によって自分の人生を決めようとします。それらは、絶対に待たなければいけないものなのでしょうか?

 

 

▼神の「コーリング」とは?

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 クリスチャン用語にコーリング」というものがある。「コーリング」とは、英語の「Calling」から来ていて、直訳すれば「(神の)呼びかけ」という意味である。日本語で最も分かりやすい表現をすれば「神のお告げ」とでも言うのが適切かと思う。

 クリスチャンは神の計画通りに生きたいと願う。それゆえ、「神の計画」(みこころ)を知りたいと願う。だから、適切な時に「神からの呼びかけ」があれば、それに従いたいというのが、クリスチャンの性なのだ。「神の計画」、いわゆる「みこころ」を知るための何らかのキッカケなどを「コーリング」と呼ぶのである。

 この「呼びかけ」は、何についての呼びかけなのか。内容については様々な考え方がある。

<“コーリング”で示されるもの>

◆神から示される「将来の目標」

◆神から示される「仕事や役割」

◆神から示される「時期」

◆神から示される「路線変更」

 

・・・などなど

 

 クリスチャンはよく、「将来やるべきこと」や「特殊な役割・ミッション」について神から示された、という時にコーリングを受けた」などと説明する。「神に牧師になるよう示された」とか「神に宣教師としてアフリカに行くように示された」などというのは、よく聞く話だ。人によっては、牧師や宣教師になるときには「コーリング」が必ず必要だとする意見もある(※私はそうは思わないが。後述)。また、今やっている仕事や事業、ミニストリーなどの「変化の時期」についても「コーリングがあった」などと説明する人もいる。

 一番気になるのは、この「コーリング」は一体どういう形で分かるのか、という問題だろう。摩訶不思議だが、「耳で声が聞こえた」という人もいる。またある人は「夢で幻を見た」という人もいる。そういう場合は、たいていただの夢ではなく、やけにハッキリしていたり、同じ夢を何度も連続で見たり、異なる場所にいる複数の人が同時に全く同じ夢を見たりする。他にも、聖書の言葉からピンと来たとか、周りの人にアドバイスを受けた体験を、「神からのコーリング」として捉えるケースもある。様々な形で、クリスチャンたちは「神のコーリング」を受け取るのである。これについては、次回の記事で詳しく書きたいと思う。

 クリスチャンたちは、時にこの「コーリング」を「待ちすぎる」傾向がある。「まだ神のコーリングを受け取っていないから」と言って、人生において足踏みしてしまっているケースをよく見る。ここでひとつの疑問が出てくる。クリスチャンならば、必ず神のコーリングがあるのだろうか? それはどんな形で聞こえるのだろうか。そして、必ずそのコーリング通りに生きなければいけないのだろうか。ひとつひとつ見ていこう。

 

 

▼全員が「神の声」を耳で聞けるわけではない

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 まず端的に私の意見を述べたい。「誰しもが神の声を、耳で聞けるわけではない」というのが、私の意見である。誤解を恐れずに言えば、神の声が耳(の鼓膜の振動)で聞こえたとか、幻が見えたとか、奇跡を体験するなんていうのは、むちゃくちゃ激レアさんなケースだと思う。ほとんどの場合は、神の声は耳では聞こえないし、幻なんて見えないし、死んだ人が生き返るレベルの奇跡を目の前で体験することなどない。そんな超奇跡的な「コーリング」を期待していたら、もしかすると間違いかもしれない。

 誰もが神からの劇的なコーリングの体験をする・・・そんな勘違いは、皮肉にも聖書の様々なエピソードが原因だろう。聖書の登場人物は、あらゆる形で劇的な「コーリング」を体験する。聖書の中から、いくつか例を挙げてみよう。

アブラハム(神の声を聞く)

→神から「生まれ故郷を出て、私が示す土地へ行け」というお告げを受ける

(創世記12章参照)

モーセ(“燃える柴”の不思議な奇跡を体験、神の声を聞く)

→燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見つけ、それに近づいたところ、神の声がした。神の声で「わたしがあなたを遣わす」と約束された

出エジプト記3章参照)

◆サムエル(神の声を聞く)

→「サムエル、サムエル」という神の声を3度聞いた。預言者エリの助言により、「ここにおります」と答えると、神の声でお告げを受けた

(サムエル記第一3章参照)

◆ギデオン(天使のお告げを受け、神の奇跡を体験する)

→神の御使い(天使)が突然現れて、「神があなたを遣わす」というお告げを受ける。その証拠として、ギデオンが献げた肉とパンは一瞬で燃え尽きてしまった。しかし、まだ信じられないギデオンは「羊の毛皮」の奇跡を証拠として要求する。そして神はギデオンが望んだ通りの奇跡を二度に渡って見せたのであった

士師記6章参照)

◆ダニエル(幻を見る、聖書の記述から悟る)

→ダニエルはこの世のものとは思えない幻を見た。それは終末についてのお告げだと考えられている。また、ダニエルは預言書の記述から、イスラエルが捕囚状態から解放される未来を悟った

(ダニエル書参照)

パウロ<サウロ>(イエスの姿を見る、声を聞く、奇跡を体験する)

→イエスの信者を迫害していたパウロは、道中に突然、光に包まれたイエスの姿を見る。イエスは死んだはずであった。そして「サウロ(パウロの元の名前)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞く。その後、一時的に目が見えなくなるが、「目からウロコが落ちる」体験をして、目が見えるようになるという奇跡を体験する。神はパウロを「わたしの選びの器」であり「どれほど苦しまなければならないか示すつもりだ」と宣言する

使徒の働き9章)

 

 ・・・いかがだろうか。聖書の登場人物たちは、実に様々な形で「神のお告げ」、「コーリング」を受け取っている。詳細は省くが、サムエルやサムソン、イエスのように、本人ではなく、親にコーリングが与えられるケースもある。

 このような記述を見ると、ついつい自分も神の声が聞こえたり、幻が見えたり、ありえない奇跡を体験するのではないか・・・と期待してしまう。ある意味で、自然な成り行きだろう。聖書の記述が、クリスチャンたちに「自分にも奇跡的なコーリングがあるのでは・・・」と勘違いさせてしまっているのである。

 しかし、そういった、あえて言えば「過剰なコーリング待ちの状態」が、クリスチャンの中で横行していないだろうか。起こるはずのない「コーリング」を待ち続ける行為は、裏を返せば「何もせず口をあけて待っている」だけの行為に等しい。コーリング」にこだわりすぎる姿勢が、クリスチャンの人生選択を、がんじがらめにしてしまっているのである。

 大胆に私個人の意見を言えば、聖書にあるような、とてつもない奇跡を伴うコーリングは、特別な使命を持った人々だけに与えられるものではないかと思う。アブラハムイスラエルの民全体の父祖である。モーセは民全体のリーダーであり、神と顔と顔を合わせて語り合うことのできた唯一の預言者である。サムエルは親の代から神に預言され、聖別された預言者である。ギデオンは他民族から迫害されていたイスラエルの民を救い出した勇士だった。ダニエルはバビロンの高官であり、イスラエルの民の中で政治的に最も力を持つ人物であった。パウロは神によって特別に選ばれた使徒だった。

 そんな特別な役割があった彼らと、現代の私たち1人ひとりを比較した時、果たして全く同じだと言えるだろうか。私たちはイスラエルの民のリーダーだろうか。預言者だろうか。勇士だろうか。国の高官だろうか。そして、使徒時代の迫害を生き抜き、新約聖書に多くの手紙を残すような「使徒」だろうか。もしかすると、当てはまる人はいるかもしれない。しかし、私たちの多くはそれらに当てはまらない。いわば「モブキャラ」なのだ!

 もしかすると、そのような聖書のリーダーたちと、現代に生きる私たちが、同じような「コーリング」を受けると「期待しすぎる」のは、間違いかもしれない。誤解なきようお願いしたいが、私は個人的に聖書にあるような「神の声」が聞きたいと願っている。幻が見えたり、夢でお告げを受けたり、奇跡を体験したりできたらいいなと期待している。むしろ、積極的にそれらを認めるし、そういう体験談を聞いたら素直にすごいと思う。それに、現代でもそのような奇跡は起きると信じている。

 ただ、同時に「過剰な期待」は、クリスチャンの人生選択をゆがめ、狭め、不自由にするのではないかと危惧している。聖書にあるようなとんでもない奇跡を待つあまり、人生の選択が滞っていないだろうか。次のステップに踏み出す勇気を、くじいてはいないだろうか。聖書にあるような大きな奇跡を伴う「コーリング」は、それと同じように大きな使命を背負う人に示されるべきものなのかもしれない。私は奇跡的なコーリングを否定しない。しかし、それにこだわりすぎるのは危険だと思っている。

 

 

▼牧師や宣教師になるには「コーリング」が必要?

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 クリスチャン界で流布している嘘の中に、「牧師や宣教師には、特別なコーリングを受けないとなってはいけない」というものがある。完全な間違いである。私は、このごまかしを本気で信じ、「自分にそのコーリングがいつあるのか」、今か今かと待っていた時期もあった。しかし、成長するにつれ、こんな疑問が浮かんできたのである。「あれ、『牧師や宣教師になるために、特別なコーリングが絶対に必要だ』って、聖書のどこに書いてあるんだろう・・・?」そして今ハッキリ言えるが、そんな記述はどこにもなかったのだ。ただの欺瞞だったのである。

 さて、聖書はどのように書いているのだろうか。少しだけ見てみよう。まず、いわゆる「牧師」についての唯一の記述を見てみよう。

しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

(中略)

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(中略)

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4章7~16節)

 

 ここから分かるのは、以下である。

1:信者は一人ひとり、それぞれの賜物(わかりやすく言えば、才能)が与えられている

2:キリストご自身が、その賜物に従い、それぞれ別の役割に人を任命している

3:それは信者たちを整え、教会(キリストのからだ)をひとつとするためである

4:キリストにあって一人ひとりが役割を全うすることにより、教会の共同体は成長する 

 

 これだけを見ると、「それぞれの役割に任命されている」のだから、特別な「コーリング」が必要にも感じるだろう。しかし、「どんな役割がどうやって分かるのか」については書いていない。では、他の聖書の部分を見てみよう。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1章4~5節) 

 

 いかがだろうか。神の特別なコーリングとは、実は牧師や宣教師になるためのものではなく、「イエス・キリストによって神の子となる」ためのものなのである。信者は、既に「イエスを信じること」に「呼ばれている」のである。これこそが、神のコーリングである。牧師とか宣教師になるとか以前に、エスを信じるということそのものが、神からの特別なコーリングなのだ。

 コーリングを受け、神の子となり、イエスの弟子となった者たちは、イエスによってこのように命じられた。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28章18~20節)

 

 あらゆる国の人々を弟子とせよ。命じたすべてのことを守るよう教えよ。これがイエスの命令であった。これは、当時の弟子たちだけに語られた言葉だろうか。私は、イエスの弟子の弟子の弟子の弟子の・・・弟子である私たちにも、同じように語られた言葉だと信じたい。

 まとめると、私の意見では神の特別なコーリングは必ずある。しかし、それは「聖霊を受け、イエスを信じ、神の子となる」ための特別なコーリングだと思う。牧師や宣教師になるといった個別具体的なものではない。強いて言うならば、クリスチャンはみな「王である祭司」として選ばれている。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙第一 2章9節)

 

 教会の共同体の中では、それぞれに見合った役割がある。それははじめからイエス自身が、私たちに定めている役割である。ある人は牧者または教育者としての役割がある。ある人は預言者として。ある人は伝道者として。ある人は使徒として。それぞれが、「違う役割」であって、優劣はない。ただ、役割が違うのである。どの役割を担うかについて、特別なコーリングが必要だと聖書は書いていない。ただ、「キリストの賜物の量りにしたがって」とある。

 私は、それぞれが持っている「志」や「情熱」、「的確な才能」や「経験」がコーリングの一部に値するのではないかと思っている。それが恵みによって与えられた「キリストの賜物」であると思う。聖書が「神の特別なコーリングがないと牧師になってはいけない」などと言っていない以上、「必ずコーリングが必要だ」と断言するのは根拠に乏しい。牧師になりたいと思ったらそのために努力すればいいし、宣教師になりたいと思ったら、そのために動けば良いと思う。誰しもが、かならず明確に神の声を耳の鼓膜で聞こえるわけではないのだから。

 

 

▼誰でも「コーリング」を受け取れる

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 ここまで強調した上で、私の意見を述べよう。どんな人でも、神のコーリングは受け取れる。それが私の意見である。矛盾するように感じるかもしれない。しかし、これが私の本音である。ただ、それは聖書にあるような「神の声が聞こえる」といった形ではないかもしれない。「もっと小さな何か」によって示される可能性もある。

 クリスチャンは、イエスを信じた時点で、「神の子」として呼ばれている。既に特別なコーリングを受け取っているのである。クリスチャンは、誰しもが王である「祭司」として、イエスのことを伝える使命がある。そして、イエスの命令を教える役目がある。これが「コーリング」である。

 牧師や宣教師などというのは、その大きな使命の中の「小さなひとつの役割」に過ぎない。それについて、必ずしも明確なコーリングが必要だとは、聖書は書いていない。しかし、それぞれに役割があり、適切な才能が与えられ、それぞれの役割を果たすことによって、教会の共同体はキリストのうちにひとつとなり、成長していくとは書いてある。

 もし、あなたが神に祈り、「これをやりたい!」という情熱が湧いてきたら、その情熱こそが神からの「コーリング」かもしれない。あなたが持っている才能がその役割に適切ならば、それこそが「コーリング」の可能性がある。あなたが読んだ聖書の言葉から、強い思いが湧き上がってきたらならば、それこそが「コーリング」と言えるかもしれない。周りの人たちの助言が、神からの「コーリング」かもしれない。

 しかし、ただのカンチガイの可能性もある。そのため、「コーリングかも?」と思ったら、少し立ち止まって吟味することをオススメしたい。では、どうやったら「コーリング」が本物かどうか、ハッキリ分かるようになるのだろうか。その「見分け方」については、次回の記事で5つのポイントにまとめたいと思う。今回の記事は、ここで閉じる。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【お知らせ】しばらく休載します

※追記:次回更新は2020年1月22日の予定です

 

こんにちは。

ブログ主のコバヤシタクマです。

 

当ブログは2年間、毎週水曜日に更新し続けてきましたが、

ここで初の「休載」としたいと思います。

 

理由は前回の記事でも書いたように、来月に結婚式を控えているためです。

今まで騙し騙しやってきましたが、正直、仕事をやりながら、結婚式の準備をしつつ、ブログを毎週更新するのはさすがに限界でした。

結婚式が終わるまで、しばらく休載させていただきたく思います。

 

次回更新は、2020年1月15日を予定しています。

次回更新は、2020年1月22日にします。スミマセン。

 

記事を楽しみにしてくださっている方がいらっしゃるのであれば、大変申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

 

(以上)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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【疑問】いわゆる「独身の賜物」は存在するのか?!

クリスチャン業界には摩訶不思議な「独身の賜物」という言葉が存在します。一体どういう意味なのでしょうか?

 

 

▼「独身の賜物」とは?

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 先週、「ネタ切れ」と書いたところ、早速アイディアをいただいた。「独身の賜物」について書いてくれとの要望だった。クリスチャン業界になじみのない方は、おそらく初めて聞いた言葉だろうが、クリスチャンの間では「独身の賜物」という摩訶不思議な言葉がある。どういう意味なのだろう。これは、イエス使徒パウロが言った言葉に由来する。まずは、それぞれを見てみよう。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」

(マタイの福音書 19章3~12節)

 

 これはイエスの言葉である。イエスは「母の胎から独身者として生まれた人たちがいる」と言った。また、「人から独身者にさせられた人たち」もいるし、「天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいる」とした。

 使徒パウロはこの言葉を受けて、このように勧めている。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

(コリント人への手紙第一 7章7節)

 

 パウロは、「すべての人が私のように独身であることを願う」「しかし、一人ひとりが賜物(神から受けた才能)があるので、人それぞれの生き方」があるとした。これについては、パウロがどのような主張をしている中での発言なのか、文脈を見るのが非常に重要だが、詳しくは後述する。

 以上のイエスパウロの言葉を由来として、クリスチャンの世界には「独身の賜物」という言葉が存在する。例えば、教会で適齢期を過ぎても結婚しない人がいると「『独身の賜物』があるかもしれないね」とか言うわけである。または、適齢期が来ても結婚できないと、「私には『独身の賜物』が与えられているのかもしれない」などと考えたりする。このように、「独身の賜物」という言葉の裏には、「はじめから独身と定められた運命にいる人」といったニュアンスが含まれている。

 しかし、一度立ち止まって考えてみたい。クリスチャン業界で言うような、いわゆる「独身の賜物」というものは、本当に存在するのだろうか。今回は、イエスパウロの言葉の真意は何だったのか。そもそも神が結婚を創造したのではないか。聖書の言葉の適切な適用はどんなものか、考えてみたい。

 

 これから先を読む前に注意してほしいが、この記事は「結婚」という、人によってはとてもデリケートなテーマを扱う。この記事を読んで「傷つく」人も、もしかするといるかもしれない。私は私なりに「配慮」して記事を書くが、配慮しすぎて適切な記事が書けないのも問題であるから、率直に書いている部分もある。なので、ここから先を読む場合は、そういった「率直」な内容がある点をふまえて読んでいただきたい。

 また、この記事を読んで、事実関係に間違いがあればご指摘はつつしんで受けるが、読んで上で「傷つきました!」「誰かが(誰だよ)傷つく可能性があります!」という批判は批判にすらなっていないのでお断りしたい。これは「様々ある中のひとつの意見」だという当たり前の事実が分かる方だけ、これから先を読むことをオススメする。たとえ心が痛くても、事実や真実には目を向けるべきだと、私は思う。

 

 

▼イエスの真意は何か

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 さて、エスの言葉の真意は何だったのか。一にも二にも、聖書は旧約聖書の前提と、文脈を見た上で理解する姿勢が大切である。まずはもう少し広げてイエスの言葉を見てみよう。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか

エスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。

あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです

しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」

(マタイの福音書 19章3~12節) 

 

 これは、パリサイ派とイエスの「離婚・再婚」議論の中で出た言葉である。パリサイ派は「離婚は律法にかなっているか」とイエスに質問した。これはイエスのあげ足をとるためであった。パリサイ派の理解では、離婚は「合法」であった。それは聖書の申命記の言葉に由来する。

人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

申命記 24章1~4節)

 

 これは、一義的には「離縁した妻が既に他の男と再婚し、その後離婚している場合であっても再び再婚はできない」という規定である。直接的に離婚を認めた記述ではない。聖書の「結婚」の価値観は「ふたりがひとつの存在となる」というものであるので、離婚した後に他の男に嫁いだ女は、他の男とひとつとなっているので、取り戻せない。それは不倫と同じである。それがモーセの言葉の意味であった。

 しかし、パリサイ派は「この記述は離婚が前提となっている。だからモーセは離婚を許容したのだ」と解釈していた。無茶苦茶な気がするが、これが当時の価値観であった。しかし、この無茶苦茶な論法に疑問の声が上がるのは当然なので、おそらくパリサイ派の間でも議論の分かれるポイントであったのだろう。だからこそ、意見の分かれる難しい議論をイエスにふっかけたのである。

 当然イエスは、神の創造の本来の意味を語り、ハッキリと離婚した後に再婚する者は不倫と同じであると断言した。離婚・再婚については以前、詳しく記事を書いたので参照いただきたい。

 

 当時の価値観としてもっと驚くべきは、その議論の後の弟子たちの反応である。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しない方がマシ」。これが弟子たちの言葉だった。

 当時の価値観では、女性はいわば「男性の所有物」であった。律法の解釈では「離婚はOK」だった上に、どうやら正式に離婚を決められるのは男性だけだったようである。当時の男性にとって妻は所有物でしかなく、気に入らなくなったら簡単に「ポイ捨て」できてしまっていたのである。例えば、料理が下手だとか、裁縫で失敗したとか、容姿が気に入らなくなったとか、そんな理由であっても簡単に離縁、そして再婚できてしまっていたのである。現代で言えば、コロコロ彼女を変える男みたいなものである。

 そんな彼らからすれば、「再婚は不倫と同じ」と断言したイエスの言葉は衝撃だっただろう。だからこそ、「それなら結婚しない方がマシ」とイエスに訴えたのであった。

 

 前置きが長くなったが、この弟子たちの言葉を受けて、イエス「独身者」について語り始める。この際、「独身者」という言葉が何を指すのか調べる必要がある。ギリシャ語を見てみよう。

<聖書のギリシャ語>

「独身者」= ユノーコス

 

 「独身者」という翻訳は、実は正確ではない。この部分のギリシャ語は「ユノーコス」で、直訳すれば「去勢された者」という意味になる。「ユノーコス」は本来「寝床を守る者」という意味であり、転じて「去勢された者=宦官(かんがん)」という意味になった。

 宦官とは、宮廷で仕える召使いのことで、王妃を襲ったりしないように去勢されていた。家畜を去勢するのと同じで、人間を去勢して召使いにしていたのである。現代では許されないような残虐な制度だと、私は思う。不思議なことに、思春期以前に去勢すると男性は性欲を失う(らしい)。

 多くは、戦争によって捕虜となった奴隷だったり、犯罪者が罰として去勢されて奴隷となったりしたケースだったと想像される。ユダヤ人たちは「去勢された者」は汚れた者とみなし、集会には加えなかった。このような記述がある。

睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。

申命記 23章1節)

 

 そんな「去勢された者=宦官」という言葉を用いて、イエスは弟子たちに話しているのである。「独身者」と「去勢された者」は明らかにニュアンスが違う。「独身者」という翻訳は、「去勢された者」よりも広い意味になってしまう。もちろん宦官はもれなく独身だったわけだが、独身者がみな去勢された者ではない。まるで、「すべての日本人は人間である」から「日本人」という言葉を「人間」と読み替えているようなものである。

 よく考えてほしい。「去勢された者」に通常女性は含まれないが、「独身者」には女性は含まれてしまう。意味が変わってしまっているのである(卵巣除去は一応去勢ではあるが、通常は男性の陰茎を切り取る行為を「去勢」と呼ぶため)「すべての日本人は人間である」という文章は成立するが、「すべての人間は日本人である」という言葉は成立しない。あくまで「独身者」という大きな枠の中に、「去勢された者」が入っているだけである。大きな範囲を指す言葉と、その中の小さな範囲を指す言葉はイコールではない。

 だから「ユノーコス」を「独身者」と訳す翻訳は、明らかな間違いだと、私は考える。ちなみに英語はもれなく「ユニック」(Eunichs、男性名詞。もちろんユノーコスが由来)という「去勢された者、宦官」という言葉になっている。日本語の聖書の翻訳は、おかしくなってしまっているのである。

 「ユノーコス」の意味、そして文脈を見れば、イエスの言葉はこのように捉えられるのではないだろうか(※基本的に、結婚関係以外の性交渉は罪という前提に立っている)

<イエスの言葉の個人的解釈>

「再婚が不倫と同じなら、結婚しない方がマシ? はっ(笑)言ったね? でも、それは、『言うは易く行うは難し』だよ。ハッキリ言うけど、結婚しないで独身のままでいられる人は少ないんだ。神が独身のままでいられるようにした人だけが、独身でいられるんだ。生まれつき去勢された人は独身でいても性欲は抑えられるかもしれない。不運な事故でイチモツを失ったり、犯罪者として去勢されたり、戦争で捕虜になって去勢された人も、独身のままでも性欲は爆発しないかもしれない。そして、神に仕えるために自発的に去勢する人もいるかもしれない(いるのか?! イエスの皮肉か?)。君たちが、性欲を抑えて一生独身でいられるなら、そうしてごらんなさいよ!(というイエスの皮肉?)。でもね、それは誰にでもできるわけじゃない。独身のままでいるのは、難しいことなんだよ。だから神が造った結婚という関係を大切にしなさい。女性は所有物じゃない。大切なパートナーなんだよ」

 

 私には、イエスの言葉はこう聞こえる。イエスは、女性を所有物のように扱い、気に入らなくなったら「ポイ捨て」していたユダヤ人たちに、「違うでしょ。神は男女がひとつになるために結婚を創造したんだよ」と教えたのではないか。「結婚しない方がマシ」と虚勢をはる弟子たちに、「何が結婚しない方がマシだよ。バカか。お前たちは性欲抑えられるのか。虚勢はやめなさい。だったら神のために去勢してみろ」と一括したのではないか。

 だから、イエスの言葉をもって「生まれつき独身でいる運命の人もいる。それが『独身の賜物』だ。適齢期なのに結婚できないのは、『独身の賜物』があるからだ」などと言うのは、明らかな間違いであると、私は思う。

 

 

パウロの真意は何か

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 では、パウロの真意は何だったのか、見てみよう。パウロの言葉を再掲する。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

(コリント人への手紙第一 7章7節)

 

 これもまた、文脈を見る必要がある。やや長いが、もっと広い範囲を見てみよう。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。

(中略)

未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。

(コリント人への手紙第一 7章1~28節)

あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。

ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

(コリント人への手紙第一 7章32~40節)

 

 パウロは大胆にも「夫も妻も自分のからだについて権利は持っていないのだから、お互いに義務を果たせ」「相手を拒んではならない」と言っている。つまり、「セックスレスはよろしくない」と勧めているのである。男も女もそれぞれ結婚し、セックスしなさい。それがパウロの「譲歩」としての意見であった。

 では、「譲歩」ではない「理想」は何だったのか。それが、先の「すべての人が私のように独身であること」であった。しかし、その後すぐに「しかし、人それぞれの生き方がある」と補足している。これはあくまでも「パウロの理想論」であり、「結婚するな」という神の命令ではないと、パウロはわざわざ何度も強調している。例えば再婚については「命じるのは私ではなく主(神)です」と強調した後で、未婚の人たちの処遇については「主の命令を受けてはいないが、(個人的な)意見を述べる」とわざわざ区別している。

 パウロは、むしろ「自制できないなら結婚しなさい」「情欲に燃えるより、結婚するほうがよい」と勧めている。性欲を抑えられずに、独身でいながらオナニー漬けになるよりも、結婚してセックスした方がいいとパウロは言っているのである(そこまでは言っていないか笑)。

 ここで、先のイエスの言葉を思い出す。「性欲を抑えられる奴なんて基本的にはいない」というのが私の意見である。「俺はそんなことない」なんて虚勢をはるのはよそう。チンチンを切ってしまったら、そりゃ性欲はなくなるかもしれない。現代の日本に宦官はいないが、例えば性的なトラウマを抱えていて、性行為自体を望まない人もいるかもしれない。けれども、それはごく一部の特殊なケースであって、ほとんどの人がセックスしたいし、そうやって人類は増え広がってきた。それが神の創造のデザインなのである。性欲を抑えるなんて、基本的には不可能なのである。もっと人間、謙虚になった方がいい。

 

 では、なぜパウロは「独身でいるように」と勧めたのだろうか。2つのポイントがある。

 ひとつ目のポイントは、「差し迫っている危機のゆえ」という言葉である。当時、イエスを信じる人々は、激しい迫害の下にあった。中には捕らえられ、むち打たれ、死刑になる者たちもいた。そのような激しい迫害の中にあって、結婚して守る家族ができるよりも、独身でいた方が「身軽」である。

 また、パウロは、いわゆる「世の終わり」が人間的な尺度でもっと早く来るだろうと予測していたように見受けられる。イエスも預言しているように、いわゆる「世の終わり」には激しい苦難がある。信者がその「患難」を体験するかしないかは諸説あるが、深入りは避ける。とどのつまり、そのような苦しい時代を結婚して通るよりも、独身の方が簡単だと、パウロは言いたいのである。

 しかし、繰り返すがこれはパウロの「オススメ」であって、命令ではない。だからパウロも何度も「結婚は罪ではない」「結婚は良いことだ」と何度も強調しているのである。

 

 2つ目のポイントは、独身の方が「主(神)に仕えやすい」からである。もちろんパウロが言うように、「結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるか心を配るが、未婚の女は主のことに心を配る」(男女で比較されているのが興味深い)という側面がある。パウロは、既婚者と未婚者を対比し、未婚者の方が主に奉仕できると言っている。主にひたすら仕えるために、未婚の者は未婚のままでいた方が良いと、パウロは主張しているのである。

 しかし、大先輩パウロに意見するのも恐縮だが、これは100%その限りではないと、私は思う。人によっては、結婚してパートナーとチームになった方が主に奉仕できるケースは、いくらでもある。もちろん「身軽」ではなくなるだろう。しかし、夫婦が「ひとつ」となり、良いチームとして神のための働きをするのは可能である。そして、チームになった方がより神に仕えられる人は、実は大勢いると、私は考える。もちろん大先輩パウロもそれは分かっていて、だからこそ結婚は良いものだと何度も強調しているのだと思う。

 これは私の個人的観測に過ぎないが、パウロ自身、こんなことを言っておいて、人一倍結婚にこだわりがあったようだ。もしかすると、パウロは一度結婚した経験があるのではないか。パウロは、「サンヘドリン」という地方評議会のメンバーであったとされているが、歴史的にはサンヘドリンのメンバーになるには、既婚者の男性という条件があったので、パウロは少なくとも一度は結婚していたのではないかと考えられる。

 個人的にはそれ以上に、パウロによるセックスレスの記述などがあまりにも生々しいので、とてもパウロが「童貞」だとは思えない。また、「ケパ(ペテロ)のように妻を連れて歩く権利がないのか!」という感情的な記述(コリント人への手紙9章5節)からも、パウロの結婚に対する渇望、しかし現実にならない葛藤が見て取れる。

 先に引用したコリント人への手紙7章40節を見ても、パウロは配偶者と死別した者の再婚について論じる流れで、「主にある(信者同士という意味か)再婚はしてもよい。そのままでいられるなら、その方が幸いだ。私も、神の御霊をいただいていると思う」と述べている。「私も」という言葉から、パウロも同じく「配偶者と死別し、それ以降は独身でいた」と考えるのが自然であろう。しかし、これは推測の域を出ない。

 パウロのあまりの結婚へのこだわりと、それでもなお独身を貫いた姿勢から、「パウロは実は同性愛者で、結婚したが女性を性的に愛せないと気がついたのではないか。それで死別か離縁か分からないが、独身の道を選び、以後独身を貫いたのでは・・・」と推測する人々もいる。私個人としては、その可能性は否定できない面白い説だなという程度にとどめている。

 

 まとめると、パウロの「オススメ」は以下である。

1:苦難の時代においては、独身の方が「身軽」であるパウロの個人的意見)

2:独身の方が神にひたすら仕えることができるパウロの個人的意見)

3:しかし、自制できないなら結婚した方がよい。結婚はよいものである

 

 ほとんどの人は性欲がある。多かれ少なかれ、ある。ほとんどの人が「自制できない」し、「情欲に燃える」のである。だとすれば、パウロの言葉から「独身の賜物」がまるで多くの人にあるように解釈するのは、少しズレていると、私は感じる。ほとんどの人が3番の「結婚した方が良い」という言葉に当てはまるのではないだろうか。そう私は思う。

 しかし、断っておきたいが、これは何も「結婚できない人はおかしい」と言いたいのではない。むしろ結婚せずに独身を保ち、ひたすら神に仕える人を、私は尊敬する。ただ、これは、あくまでも「性欲」との現実的な向き合い方についての意見である。性欲を抑えられないなら、結婚して夫婦の間でのセックスを楽しみなさい。結婚は良いものである。それがイエスの言葉であり、パウロの真意であると、私は思う。私は性欲が我慢できないので、結婚したいと思う。

 

 

▼結婚は神が創造した「良いもの」

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 そう、結婚は神が創造した「良いもの」である。聖書の一番初めの書物、「創世記」にはこう書いてある。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」。

(中略)

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

(創世記 1章27節~31節)

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 2章24節)

 

 男と女が結ばれ、ふたりは一体となる。それが神の創造であった。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」。それが神の計画であった。そして、「それは非常に良かった」のである。ヘブライ語の「良い」は「トーブ」といい、日本語の「良い」よりもさらに「とてつもなく素晴らしい」というニュアンスのある言葉である(例えば、「神は素晴らしい」という表現も、「神はトーブ」という。英語でいうと” God is good” )。

 この男女の関係、結婚という関係、セックスという関係は、神の創造である。神の素晴らしい創造である。それは「非常に良かった」のである。

 それを、イエスパウロの言葉を曲解し、まるで「結婚は汚らわしいもの」のように扱う人たちがいる。「結婚は人生の墓場」だという嘘が、蔓延している。カトリックなどは、聖職者は独身でなければいけないなどと、聖書が教えてもいない嘘を強制している。むしろ、聖書にはこう書いてある。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。

(テモテへの手紙第一 4章1~4節)

 

 これは、他でもないパウロ大先輩の手紙である。この言葉から、パウロには「結婚を禁じる意図」は全くなかったと分かる。むしろ「結婚を禁じる行為」は、「良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善」だとバッサリ切っている。それは「悪霊の教えに心を奪われている」のである。

 つまり、カトリックのように(※言っておくが、カトリックの「人」を批判するつもりはない。「制度」を批判しているのである)、制度的に、一律に聖職者に独身を強制するような制度は明らかに聖書の記述に反している。結婚を牧師が禁じたり、「あなたは『独身の賜物』があるから、結婚はやめなさい」などと牧師や牧師の妻が信者に強制する、頭のおかしいプロテスタントの教会もある。そのような人々は、神が創造した結婚の素晴らしさを全く分かっていない。全くのデタラメ。嘘である。

 むしろ旧約聖書の律法には、妻を大切にするよう、このような規定すらある。

人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。

申命記 24章5節)

 

 何度も言うが、結婚は神の素晴らしい創造である。「独身の賜物」という言葉で、間違った解釈を押し付けてくるような人々に、惑わされないようにしようではないか。

 

 

▼「独身の賜物」があるかないか考えるのはヤメよう

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 結びに、私もパウロ大先輩に倣って、僭越ながら個人的な「オススメ」を書きたい。

 まず、結婚したいなら結婚したらいいと思う。「結婚したい」と思ったり、「結婚」を考えている時点で、いわゆる「独身の賜物」はないと私は思う。もっと端的に言うならば、性欲があるなら「独身の賜物」などない。結婚した方が良い。私はそう考える。

 性欲は神が人間に与えた良いものである。ただ、それを男女の結婚という特別な関係の中で享受するかが大事である。性欲が抑えられないなら、結婚した方が良い。それがシンプルな聖書の教えだと思う。

 適齢期になっても結婚しない・できない人がいる。そういう人は、教会で聞いたことのある「独身の賜物」という言葉が頭にチラつくのではないだろうか。「私は、もしかすると『独身の賜物』があるのではないか」、そう考えるのではないだろうか。それは、言い換えれば「私は結婚できない運命なんだわ」となる。そういった「運命論」に対して、私は明確に「NO」と言いたい。結婚したいのに運命的に結婚してはダメなどということがあって良いだろうか。「もうあなたは結婚できない運命です」などと、信仰の友に向かって言っていいだろうか。それでも相手がいないんですという人たちもいる。言いにくいが、それは選り好みしてるだけなのではないだろうか・・・(私も以前そう言い続けていた・・・)。

 むしろ「独身の賜物」という発想は、人生を振り返った際に、「ああ、私は『独身の賜物』を頂いていたのだ」と解釈する、慰めのためのものでもあるのではないか。「みこころ」と同じようなものではないか。私にはそう思える。

 断っておくが、「独身の賜物」というものは、私は個人的には存在すると思う。激レアさんだが、たまに性欲が全くなかったり(去勢してないのに!)する人もいる。また結婚に対する憧れや渇望がなかったり、セックスしたいと思わない人がいる(個人的にはマジで信じられない! けど実在する)。激レアだが、存在するのである。そういう方々を、私は尊敬するし、パウロが言うように独身である方が「身軽」であり、「ひたすら神に仕える」ことが可能である。

 しかし、そのような激レアさんではないのに、「私には『独身の賜物』がある」と思い込み、性欲があるのに、結婚したい願望があるのに、子供が欲しいのに、結婚しないと決めつけて(または決めつけられて)しまう人の人生は、辛いものになる。私は、教会や牧師が独身を強制するようなことは、あってはならないと考える。もしそのような教えが教会でなされているようなら、即刻縁を切ったほうが良いと、私は思う(その教会と縁を切るという意味であり、イエスと縁を切ってはダメ、絶対。あと他のクリスチャンにはいい人もいるからクリスチャンと縁を切るのもオススメはしない)。

 結婚は良いものである。少しでも結婚したいと思ったり、セックスしたいと思ったり、性欲があると思うなら、「独身の賜物」はないと、私は思う。だったら、堂々と結婚するために動いたらいいと思う。自分を磨き、相手がいそうなコミュニティに飛び込み、コミュニケーションを学び、気になる相手を思いやってアプローチする。そういった行動をとればいいと思う。何もせずに、何も起こらないから「独身の賜物」と考えるのは安直である。「独身の賜物」を受け取らなきゃいけないのだろうか、などと不安に思う時点で、それは「独身の賜物」ではないから、安心したらいいと、私は思う。すぐに「『独身の賜物』があるかもしれない」と諭される場合は、ただのインチキなので気にしない方がいい。

 自分の容姿や境遇、経済力や経歴、コミュニケーション力に悩む人もいると思う。正直いる思う。私もそうだ。26歳まで一度も交際相手ができなかった。コンプレックスだった。そんな私も、一ヶ月後に結婚する。人生、どうなるか誰も分からない。出会って数ヶ月で結婚した知人もいる。結婚したいのであれば、まずは神に祈り求め、行動したらいいのではないだろうか。

 親や親族が結婚相手を見つけてきた時代とは違い、現代の日本は自由恋愛が主流となってしまい、結婚に至るまでに努力が必要になっているのは事実だと思う。晩婚化が進み、適齢期に結婚しないのが社会的に「普通」になっているのもまた事実だと思う。しかし、そういった社会的要因は「独身の賜物」とは関係ないと、私は思う。結婚したいのであれば、そのために行動する。「独身の賜物」があるかないか考えて迷うよりも、まずは自分を磨く。神に祈る。そして行動する。それが、私のオススメである。

 

 ただ、一言付け加えれば、重い障害があったり、難病に苦しんでいたり、また様々な理由で異性に性的関心を持たない・持てない人もいる。そういった人々に対して、私は「結婚の賜物」があるとは言い切れない。しかし一方で、「絶対結婚できますよ」なんて無責任なことも言えない。結局言い切れないのがこの問題の歯がゆさであり、デリケートさであり、議論を難しくしているのだ。正直に言えば、私はそういったケースにどう対応していいか分からない。まだ青二才なのである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【体験】「あの人を変えてください」という祈りで自分が変えられた話

今回はネタ切れのため、私個人の体験談をつづります。

 

 

▼バイト先の嫌な先輩

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 バイト先に嫌な先輩がいた。飲食店のバイトだった。表では山田さん(仮名)と言っていたが、裏ではコッソリ山田くんと呼んでいた。

 山田くんは偉そうな奴だった。僕のような新人から、パートのおばちゃんまでお構いなしにタメ口で指示を出して、失敗するとお客の前でも怒鳴るような輩だった。ご飯の盛り方が汚いと、お腹を殴られた。小麦粉と水の分量がなってないと、何度も足を蹴られた。初日から「嫌なバイト先を選んでしまった」と思ったが、僕はこのバイト先が見つかるまで8回も面接に落ちていたので、もう他のところを探す余裕もなかった。ファストフードのチェーン店で、私は厨房で慣れない手付きで料理を続けるしかなかった。

 山田くんは、僕よりも1つか2つだけ年上の先輩だったが、実際はバイト先の店長のようなポジションだった。僕が来たときは既に、彼が新人教育、シフト作成、材料の発注など、重要な業務をすべて担当するようになっていた。彼の憎らしいところは、偉そうなだけではなく、誰よりも仕事ができる所だった。だからこそ、反論も許される雰囲気ではなかった。

 僕はいつも「彼と仕事が被らないように」と願っていたが、週8でシフトに入る彼と鉢合わせないのは不可能だった。それどころか、何でも「はい、はい」ということを聞く僕の存在が都合が良かったのか、必ず彼と一緒のシフトに入れられた。「勘弁してくれよ」と思いつつも、バイトをしないと生活できないので、やめるわけにもいかなかった。

 

 

▼神に「あの人を変えてください」と祈る

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 僕はイエス・キリストを信じるクリスチャンだ。クリスチャンにできるのは、真実な祈りである。僕はバイト先に向かう自転車のペダルをこぐ前に、神に祈るようになった。「神様、今日バイトで殴られませんように」「神様、僕が忍耐をもって山田くんに接することができますように」「神様、どうか山田くんの心を変えてください。彼の人格を優しく変えてください」そんな祈りをしながら、高田馬場のバイト先まで自転車をこいで出勤した。

 しかし、現実は甘くなかった。祈って他人の人格が変わるならば、こんな楽なことはない。現実の山田くんは、相変わらずの傍若無人ぶりで手のつけようがなかった。僕の後に入った後輩バイトもすぐに辞めてしまって、僕はいつまで経っても一番下っ端だった。しばらく経っても、閉店後の片付けが遅いだの、仕込みがなっていないだの何かと目をつけられては、叩かれたり、怒鳴られたりした。

 まともな人ならば、店長に相談するのだろう。当然、僕だってそうしようと思った。ところが厄介なことに、店長は山田くんを気に入っていたのだ。なぜなら、彼は人一倍働くし、シフト作成や材料発注などの手間のかかる業務を、彼が一手に引き受けていたからである。店長にとっては、問題を大きくして彼がいなくなっても困るし、彼自身の責任になっても困る。見ても見ぬふり。これが店長の処世術だった。一アルバイトでしかない僕は、泣き寝入りという処世術を使うしかなかった。

 

 

▼山田くんが終電を逃す

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 年が明けて1月になった。大学3年生の冬、僕は相変わらず同じ店でバイトをしていた。夜の5時間だけのシフトが、いつまで経っても永遠に思えていた。

 その日は、長く勤めたバイトの先輩が退職するので、11時の閉店の後、近くの店に飲みに行く流れになった。「小林も行くよな?」山田くんが誘ってきた。下っ端の僕は、当然逆らえない。味のしないビールを2時間半も飲む羽目になった。

 やっと帰れると思った矢先、山田くんが僕に言った。「俺、終電ないからお前ん家泊まるから」。なんと彼は千葉の柏から高田馬場まで通っていたのである。当然終電はなかった。死ぬほど嫌だったが、帰れない先輩を前に断るわけにもいかず、山田くんが僕の家に泊まるという、1ミリも望んでもいないイベントが発生したのである。

 嫌なバイトの後に、嫌なやつが自宅に泊まるなどという、考えたくもない嫌な夜を過ごした。当然、彼はベッドで寝て、僕は床で寝る羽目になったのであるが、無事朝を迎えた。家のwifiのパスワードを勝手に変えられたのと、シャワーを浴びている間にお湯の温度を50℃にされて火傷しそうになったの以外は平和な夜だった。肩透かしを食らった気分だった。

 それから、山田くんは頻繁に僕の家に泊まりに来るようになった。店を閉めるのは夜11時だったのだが、「発注が終わっていない」とか、「冷蔵庫のドアを掃除しておけ」とか、「シフト作成が終わっていない」とか、普段しないはずの仕事まで命じたりして、何かと理由をつけて終電を逃すようになった。女の子の家でもないのに、なぜ「わざと」終電を逃すのか、疑問だった。毎回家に来られるのは心から嫌だったので、本当にやめてほしいと願ったが、泊めれば泊めるほど、彼は僕の家に来るようになった。

 そのうち、本当は廃棄の時期が来ていない食材を横流ししてくれたり、シフトに融通をきかせてくれるようになったり、ご飯の盛り方にグチグチ言わなくなったり、山田くんは少し優しくなったように見えた。相変わらず僕のベッドで寝るし、シャワーの温度を勝手に上げてくるのはやめないし、僕の水タバコの部品を勝手に買い替えたりしたけれども、なんとなく以前の関係とは違ってきたように思えた。

 それでも山田くんは、まだ「嫌な奴」で、僕の神に対する祈りは聞かれていないように思えた。

 

 

▼山田くんの家で見えた人生

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 「柏の俺の家に泊まりに来いよ。4月1日な」。バイト終わりに、山田くんはいきなりこう言ってきた。彼の家に呼ばれたのは初めてだった。僕は、本心では嫌だったが、またいつもの断れない悪い癖で、第一志望の出版社の面接をサボって、彼の家に泊まりに行った。

 彼の家は、柏駅から歩いて20分ほどの公営住宅だった。2LDKの間取りは、彼の私物で埋め尽くされ、どう見ても「家族で」住んでいるようには見えなかった。「親父と住んでるんだよ」。そう彼は言った。おふくろは? の問いに、彼は、「親父と離婚はしていないがずっと前から別居している」と話した。

 しばらくは何もすることもなく、かといって話す話題もなく、ただテレビを見ていた。すると、彼は突然テレビを消した。「親父が録画している番組があるから。テレビ見てるとちゃんと録画されないんだよね」と彼は言った。部屋は、いつもの彼の傍若無人ぶりとは打って変わってキレイだった。僕が飲んでいた爽健美茶のペットボトルを捨てようとすると、「おい、ちゃんとラベルとフタを分別しろよ。親父がうるさいから」という声が聞こえた。僕はペットボトルをゴミ箱には捨てず、そっとかばんにしまった。

 彼の家に行って、彼の人生が見えた。納得した。なぜ彼がご飯の盛り方に厳しいのか。閉店時の掃除に厳しいのか。ごみの分別に厳しいのか。なぜ細かい言葉遣いに厳しいのか。なぜ彼がすぐ手を出すのか。なぜ出来ない人を罵倒しても、褒められないのか。すべてに合点がいった。彼の背後には、父親がいた。父親から受けた、「愛情」。それが彼の人格を形造っていたのだった。

 すべてが見えた気がした。母親のいない寂しさが。父親の容赦ない厳しさが。友達のできない辛さが。居場所がない怖さが。山田という人間は、孤独と恐怖で出来上がっていたのだ。部屋の住みにあった古びた抱き枕も。愛情が金に変換された最新のパソコンも。日焼けしたマンガも。傾いたタペストリーも。すべてが彼の人生を物語っているように思えた。

 その日、何をして、何を話したのか、もはや覚えていない。しかし、その日を境に、僕が山田くんを見る目が変わった。「彼を変えてください」とずっと祈っていたのに、変えられたのは、僕の心の方だったのだ。

 

 

▼誰が隣人になったか

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 変えられたのは自分の方だった。ずっと「彼が変わるように」と神に祈っていたのに、自分が変わってしまう体験をしたのである。彼が変わったのではなく、彼を見る僕の心が変わったのである。彼との関係性が変わったのである。

 僕はふと、こんな聖書のエピソードを思い出した。

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」

エスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」

すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

エスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」

 

しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか」

エスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。

彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です」

するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい」

(ルカの福音書 10章25~37節)

 

 これは、イエスのたとえ話である。イエスは「誰がこの人を愛しましたか」と聞かなかった。「誰がこの人の隣人になったか」と聞いたのであった。「隣人」とは本来、日本語では「同胞」のような意味で、ユダヤ人を指す言葉だ。しかし、僕にとってはその瞬間、その言葉は「友人」のように読み取れた。そうだ。友達を愛するなんて大それたことを言う前に、その人と友達にならなきゃいけないんだ。そう気が付かされた。

 僕は、山田くんの友人になったのだろうか。分からない。未だに彼は嫌な奴であるのは変わらない。相変わらず叩いてくるし、家でのイタズラはやめないし、人の家のwifiのセキュリティを勝手に強化するし、彼のやっている行為は変わっていない。

 けれども、明らかに僕の気持ちは変わった。もはや、彼の行動が気にならなくなった。むしろ、いじらしいと感じるようになった。可愛そうだと思うようになった。可愛いと思うようになった。彼は変わっていない。けれども、僕らの関係性が変わったのである。

 「彼を変えてくれ」と神に祈った。神が変えたのは、僕らの関係だった。その結果、変えられたのは自分の心の方だった。僕らは大学を卒業して、それぞれ就職した。バイトも辞めた。それ以来、彼とは連絡を取っていない。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】ローマ教皇という立場は、聖書で定められたものなのか

ローマ教皇が38年ぶりに来日し、プチブーム的に沸いていますが、そもそも教皇という存在そのものは聖書で決められているものなのでしょうか?

 

 

ローマ教皇に興味などない

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 ローマ教皇・フランシスコが、38年ぶりに来日している。クリスチャンが1%にも満たない日本でも、教皇の来日には多少沸いているようだ。先日、会社の上司から「クリスチャンのコバヤシ君は、やっぱり教皇の来日楽しみなの?」とか、「東京ドームのミサに出席するの?」などと聞かれた。正直言って私は、ローマ教皇に1ミリも興味がなかったので答えに困った。「いいえ、全く興味ありません。むしろ悪魔の親玉ぐらいに思っています」と答えておいた。

 横道に逸れるが、「ローマ法王」なのか、それとも「ローマ教皇」なのか、という議論があるらしい。日本では元々「ローマ法王」の方の呼び名が浸透していたが、「法王」という用語が適切なのか議論があった。カトリック中央協議会は「ローマ教皇」の方をオススメしているらしく、外務省も今回の来日に合わせて「ローマ法王」から「ローマ教皇」に呼び方を変更した。私が勤める会社も、それに倣って最近呼び名を変更したようだ。その際、上司が「クリスチャンであるコバヤシ君も以前から『ローマ教皇』と言っていたので、より実態に近くなったのでしょう」と言っていたのだが、私は申し訳ないがローマ教皇に1ミリも興味がないので、正直なところ無意識であった。スンマセン。

 

 さて、ローマ教皇は、カトリックの親玉である。NHKは、ローマ教皇はこのように説明している。

ローマ教皇は、13億人の信者を持つローマ・カトリック教会の最高指導者で、「キリストの代理人」とも位置づけられています。

初代教皇とみなされているのは、イエス・キリスト使徒聖ペテロで、現在は266代目です。

(中略)

教皇の主な仕事は、ミサなどの宗教的な行事のほか、カトリックの布教活動です。また、バチカン市国の立法、司法、行政の全権を行使します。ローマ教皇は、世界で起きる紛争や災害の犠牲さなどにも目を配り、テロへの非難など積極的に発言することで国際世論に強い影響力をもっています。

(引用:NHK記事

 なるほど、ローマ教皇ローマ・カトリックの最高指導者であり、「キリストの代理人」なのだという。ペテロが初代で、その権利を受け継ぎ続けているのが教皇というわけだ。教皇を選ぶ選挙は「コンクラーベ」と呼ばれ、決まらない場合は黒い煙が、決まった場合は白い煙が上がる面白いイベントになっている。なかなか決まらない場合もあり、まるで本当に「根比べ」のようだ。カトリックの信者は、次の教皇が誰になるか、今か今かと待っているのである。

 しかし、プロテスタントである私にとって、教皇なんていうものは「どうでもいい存在」である。むしろ、「なぜ教皇が必要なのか」「そもそも教皇の存在は聖書の記述から見て適切なのか」という疑問があるくらいだ。今回は、それらの疑問に加え、エスが権利や権力に対して何と言っているのか確認してみたい。

 断っておくが、この記事は、カトリックが正しいとか間違っているとか論じるものではない。あくまでも「教皇」という存在に絞って、聖書の記述と照らし合わせて考えてみる試みである。

 

 

▼東京ドーム5万人ミサの“違和感”

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↑写真はベネディクト16世

 ローマ教皇来日にあわせて、25日、東京ドームに約5万人がつめかけ、大規模ミサを行った。テレビのニュースを見ると、東京ドームの外にも人が溢れ出すほどであったようだ。中には、フィリピンなど海外からわざわざ来た人たちもいたという。38年ぶりの来日だから、人が殺到するのも無理はない。しかし、ここで疑問なのは、「なぜそこまでしてローマ教皇を見たいのか」という点である。

 映像を見ると、車の上に乗った教皇に、大勢の人が旗や手を振り、歓迎している。まるでジャニーズのコンサートのように、教皇の来日に熱狂している様子がうかがえる。教皇という人物の人格まで否定するつもりはない。しかし、ただ一人の人間に、なぜここまで熱狂するのか疑問である。

 また、コンサート会場ではたくさんの教皇関連グッズを販売していたことも話題となった。別にグッズを販売する行為自体は罪でも何でもないから咎めたくはない。しかし、私はその様子をテレビで見て、宮でいけにえの動物を売買していた人々に対し怒り、商売台を倒しまくったイエスの姿が思い浮かんだ。

それから、エスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」

(マタイの福音書 21章13~14節)

 

 一体、何のためのミサなのか。教皇を見るためのミサなのか。それとも神に出会うためのミサなのか。教皇グッズを売り買いする商売のためのミサなのか。それとも、神をたたえるためのミサなのか。率直に何のために集まっているのか疑問だった。

 また、東京ドームの定員は約5万人である。報道によれば、参加者はカトリック教会関係者などから抽選で選ばれたという。「キリストの代理人(この表現の是非は後述)を一目みたいと思っても、抽選で外れたら叶わなかったのである(そして本当に「抽選」なのか・・・?)。参加者を見る限り、有名人などは「招待」されているようで、まるで「キリスト教版・桜を見る会」を見ているようでもあった。

 「代理人」に会うのには抽選が必要だ。しかし、イエスに会うのに抽選は要らない。エスを信じる者たちは、もう一度イエスとお会いすると約束されている。そこには「抽選」はない。聖書にはこう書いてある。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたし<イエス>の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたし<イエス>が行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」

ヨハネ福音書 14章1~4節)

 

 これは、「結婚する前に花婿が家を準備する」というユダヤの習慣を念頭に、キリストと教会が結婚するという比喩になぞらえてイエスが語った言葉である。なんとロマンチックだろうか。エスは、私たちのために家を備えて、そして迎えに来てくれるのである。そこには「住む所がたくさんある」。抽選はない。抽選で選ばれた人しか会えなかったローマ教皇とは対照的である。

 もちろん、ローマ教皇は人間なのだから、物理的に東京ドームに呼べる人に制限があるのは仕方がない。人間は遍在ではない。人間は一時、一か所にしか存在できない。しかし、神は時を超えて存在するお方である。神が「わたしはある(存在する)」と名乗ったように、現在、過去、未来すべてに存在するのが神である。イエスは、多くの人に同時にお会いになることのできるお方である。教皇」などとは比べられないほどの存在、それが神であり、イエスである。

 

 

▼なぜ教皇が存在するのか?

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 そもそも、なぜ「教皇」が存在するのだろうか。私はカトリックの信者ではないので、正直いってあまり内情は分からない。高校レベルの歴史で学ぶのは、ペテロ以降、時間が経つにつれて徐々に制度が確立していったというものである。ローマ・カトリックの歴史を見ると、信仰と政治が一体の時代も長く、教皇の持つ権力は絶大なものであったというのが分かる。現代においても、教皇の発信力、権限、権力、影響力は計り知れないものがある。

 カトリックの考えでは、教皇の存在の根拠となっているのは以下の聖書の言葉である。

エスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ(ヨナの子の意)・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩の意)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」

(マタイの福音書 16章 15~19節)

 

 カトリックは、「この岩の上に、わたしの教会を建てる」「あなた(ペテロ)に天の御国の鍵を与える」という聖書の言葉を用いて、エスが「教会」の権威をペテロ個人に与えたという解釈をしている。ペテロに与えられた権威が、脈々と引き継がれ、現代の教皇にまで至るというのである。

 しかし、以前ブログでも言及したように、エスのこの言葉は「『イエスがメシアである』とのペテロの宣言が、教会の基礎となる」という意味であって、決してペテロ個人に権威が与えられたわけではない。それは、新約聖書のペテロやヤコブ、そしてパウロのやりとりを見ても明らかであろう。ペテロは決して絶対的な権力とは考えられていない。むしろ新参者の使徒パウロなどは、ペテロに対して公然と叱責までしている(ガラテヤ人への手紙2章)。今のカトリックだったら考えられない出来事である。このような点を見ても、教皇がペテロの後継者、といった考えは後付けの伝説にすぎず、根拠に乏しいと思われる。

 

 

▼イエスは何と教えたか

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 さて、イエスはこのような権力を持った「教皇」についてどんなことを教えているのだろうか。残念ながら「教皇」という言葉は聖書にはないため(後付けなのだから当たり前だが)、エスが「権力」について何と言っているか見てみよう。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 20章25~28節)

彼ら(パリサイ派たち)がしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。 宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです」

(マタイの福音書 23章5~8節)

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」

(マタイの福音書 18章 1~4節)

  

 ・・・いかがだろうか。イエスは、ハッキリとクリスチャンが権力を追及するべきではないと教えている。「上に立ちたい者は皆に仕える者になれ」「あなたがたはみな兄弟(仲間)である」とイエスは教えている。エスによれば、クリスチャンに上下関係はなく、みな兄弟である。誰かが神の取り次ぎをするという考えは、イエスの言葉を見ると、ハッキリ間違っている。この視点で「教皇」の現状を見ると、イエスの言葉には合致していないのではないかと思う。

 教皇の立場になり、少しでも慢心しない人がいるだろうか。教皇という立場の人を見ても、「兄弟」として接することのできる信者がいるだろうか。とても自信を持ってYESと言えるとは思えない。

 エスが現代の教皇と、彼をまるでスターのように扱う信者たちを見たら、どう思うだろうか。私は、どうもまた怒りをもって東京ドームのグッズ販売コーナーで暴れまわり、ローマ教皇に「ああ白く塗った壁」と言うイエスの姿しか思い浮かばないのだ・・・。

 このように、一人の人間に権力や尊厳が集中してしまい、半ば「偶像礼拝化」してしまう現象は、カトリックに限らず、プロテスタントでも起こり得る。プロテスタントにおいても、一部の牧師やリーダーたちが、尊敬されすぎてしまい、権力化してしまうケースはままある。一部の教会では、牧師の発言に異議を唱えてはいけないとか、牧師の「何回忌記念礼拝」をやったりしているところもある。エスを信じているのか、牧師を信じているのか分からなくなってしまっているのである。カトリックプロテスタントに限らず、このような「人間崇拝」の危険性はある。だからこそ注意が必要なのだ。

 

 

▼本物の「代理人」は誰か

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 さて、NHKによると、ローマ教皇は「キリストの代理人」だという。果たして、それは本当なのだろうか。そもそも、今の私たちにとって、「キリストの代理人」というものは存在しているのだろうか。聖書を見てみよう。

そしてわたし<イエス>が父<神>にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

(中略)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

ヨハネ福音書 14章16~28節)

わたし<イエス>が父<神>のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

ヨハネ福音書 15章26節)

しかし、わたし<イエス>は真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

(中略)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章15節)

 

 いかがだろうか。イエスは、ハッキリと次のように述べた。

<イエスの言葉まとめ>

・イエスはもうすぐいなくなる。

・しかし、その代わり「助け主」を遣わす

・「助け主」というのは、聖霊のことである

・イエスは、また帰ってくる

聖霊はイエスの栄光を現す 

聖霊は信じる人を心真理に導く

聖霊はイエスが神から受けたものを、そのまま人に与える

 

 つまり、一義的にはイエスはもはや我々人間と「一緒には」いない。その代わり、イエスは「助け主」である「聖霊」を我々人間に遣わしたのである。この「聖霊」こそが我々にとっての「キリストの代理人」なのである。

 では、「キリストの代理人」である「聖霊」の働きとはどのようなものか。簡単に説明して、この記事を閉じたい。聖書を見よう。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

(ローマ人への手紙 5章5節)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12章3節)

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

(ユダの手紙 1章20節)

 

 いかがだろうか。聖霊によって、私たち人間はキリスト(イエス)の存在を知ることができる。聖霊によって、私たちには愛が注がれている。聖霊によって、私たち人間はイエスの存在を告げ知らせる。聖霊によって、私たち信者の集まり教会はひとつとなる。聖霊によって、私たち人間は神の言葉を理解できる。今や、大胆に言えばイエスは私たちと共にはいない。しかし、聖霊が「イエス代理人」として私たちと共にいてくださるのである。

 いかがだろうか。私は一プロテスタントのイエスを信じる者として、カトリックの教義に文句をつけるつもりはない。しかし、以上の点から鑑みて、私は個人として教皇の存在を積極的に支持はできない。違和感しかない。イエスが怒る姿しか想像できない。そして、何よりも、私たちにとっての「イエス代理人」は他でもない「聖霊」である。教皇という人間に、その役割りは担えないと、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。