週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】ローマ教皇という立場は、聖書で定められたものなのか

ローマ教皇が38年ぶりに来日し、プチブーム的に沸いていますが、そもそも教皇という存在そのものは聖書で決められているものなのでしょうか?

 

 

ローマ教皇に興味などない

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 ローマ教皇・フランシスコが、38年ぶりに来日している。クリスチャンが1%にも満たない日本でも、教皇の来日には多少沸いているようだ。先日、会社の上司から「クリスチャンのコバヤシ君は、やっぱり教皇の来日楽しみなの?」とか、「東京ドームのミサに出席するの?」などと聞かれた。正直言って私は、ローマ教皇に1ミリも興味がなかったので答えに困った。「いいえ、全く興味ありません。むしろ悪魔の親玉ぐらいに思っています」と答えておいた。

 横道に逸れるが、「ローマ法王」なのか、それとも「ローマ教皇」なのか、という議論があるらしい。日本では元々「ローマ法王」の方の呼び名が浸透していたが、「法王」という用語が適切なのか議論があった。カトリック中央協議会は「ローマ教皇」の方をオススメしているらしく、外務省も今回の来日に合わせて「ローマ法王」から「ローマ教皇」に呼び方を変更した。私が勤める会社も、それに倣って最近呼び名を変更したようだ。その際、上司が「クリスチャンであるコバヤシ君も以前から『ローマ教皇』と言っていたので、より実態に近くなったのでしょう」と言っていたのだが、私は申し訳ないがローマ教皇に1ミリも興味がないので、正直なところ無意識であった。スンマセン。

 

 さて、ローマ教皇は、カトリックの親玉である。NHKは、ローマ教皇はこのように説明している。

ローマ教皇は、13億人の信者を持つローマ・カトリック教会の最高指導者で、「キリストの代理人」とも位置づけられています。

初代教皇とみなされているのは、イエス・キリスト使徒聖ペテロで、現在は266代目です。

(中略)

教皇の主な仕事は、ミサなどの宗教的な行事のほか、カトリックの布教活動です。また、バチカン市国の立法、司法、行政の全権を行使します。ローマ教皇は、世界で起きる紛争や災害の犠牲さなどにも目を配り、テロへの非難など積極的に発言することで国際世論に強い影響力をもっています。

(引用:NHK記事

 なるほど、ローマ教皇ローマ・カトリックの最高指導者であり、「キリストの代理人」なのだという。ペテロが初代で、その権利を受け継ぎ続けているのが教皇というわけだ。教皇を選ぶ選挙は「コンクラーベ」と呼ばれ、決まらない場合は黒い煙が、決まった場合は白い煙が上がる面白いイベントになっている。なかなか決まらない場合もあり、まるで本当に「根比べ」のようだ。カトリックの信者は、次の教皇が誰になるか、今か今かと待っているのである。

 しかし、プロテスタントである私にとって、教皇なんていうものは「どうでもいい存在」である。むしろ、「なぜ教皇が必要なのか」「そもそも教皇の存在は聖書の記述から見て適切なのか」という疑問があるくらいだ。今回は、それらの疑問に加え、エスが権利や権力に対して何と言っているのか確認してみたい。

 断っておくが、この記事は、カトリックが正しいとか間違っているとか論じるものではない。あくまでも「教皇」という存在に絞って、聖書の記述と照らし合わせて考えてみる試みである。

 

 

▼東京ドーム5万人ミサの“違和感”

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↑写真はベネディクト16世

 ローマ教皇来日にあわせて、25日、東京ドームに約5万人がつめかけ、大規模ミサを行った。テレビのニュースを見ると、東京ドームの外にも人が溢れ出すほどであったようだ。中には、フィリピンなど海外からわざわざ来た人たちもいたという。38年ぶりの来日だから、人が殺到するのも無理はない。しかし、ここで疑問なのは、「なぜそこまでしてローマ教皇を見たいのか」という点である。

 映像を見ると、車の上に乗った教皇に、大勢の人が旗や手を振り、歓迎している。まるでジャニーズのコンサートのように、教皇の来日に熱狂している様子がうかがえる。教皇という人物の人格まで否定するつもりはない。しかし、ただ一人の人間に、なぜここまで熱狂するのか疑問である。

 また、コンサート会場ではたくさんの教皇関連グッズを販売していたことも話題となった。別にグッズを販売する行為自体は罪でも何でもないから咎めたくはない。しかし、私はその様子をテレビで見て、宮でいけにえの動物を売買していた人々に対し怒り、商売台を倒しまくったイエスの姿が思い浮かんだ。

それから、エスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」

(マタイの福音書 21章13~14節)

 

 一体、何のためのミサなのか。教皇を見るためのミサなのか。それとも神に出会うためのミサなのか。教皇グッズを売り買いする商売のためのミサなのか。それとも、神をたたえるためのミサなのか。率直に何のために集まっているのか疑問だった。

 また、東京ドームの定員は約5万人である。報道によれば、参加者はカトリック教会関係者などから抽選で選ばれたという。「キリストの代理人(この表現の是非は後述)を一目みたいと思っても、抽選で外れたら叶わなかったのである(そして本当に「抽選」なのか・・・?)。参加者を見る限り、有名人などは「招待」されているようで、まるで「キリスト教版・桜を見る会」を見ているようでもあった。

 「代理人」に会うのには抽選が必要だ。しかし、イエスに会うのに抽選は要らない。エスを信じる者たちは、もう一度イエスとお会いすると約束されている。そこには「抽選」はない。聖書にはこう書いてある。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたし<イエス>の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたし<イエス>が行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」

ヨハネ福音書 14章1~4節)

 

 これは、「結婚する前に花婿が家を準備する」というユダヤの習慣を念頭に、キリストと教会が結婚するという比喩になぞらえてイエスが語った言葉である。なんとロマンチックだろうか。エスは、私たちのために家を備えて、そして迎えに来てくれるのである。そこには「住む所がたくさんある」。抽選はない。抽選で選ばれた人しか会えなかったローマ教皇とは対照的である。

 もちろん、ローマ教皇は人間なのだから、物理的に東京ドームに呼べる人に制限があるのは仕方がない。人間は遍在ではない。人間は一時、一か所にしか存在できない。しかし、神は時を超えて存在するお方である。神が「わたしはある(存在する)」と名乗ったように、現在、過去、未来すべてに存在するのが神である。イエスは、多くの人に同時にお会いになることのできるお方である。教皇」などとは比べられないほどの存在、それが神であり、イエスである。

 

 

▼なぜ教皇が存在するのか?

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 そもそも、なぜ「教皇」が存在するのだろうか。私はカトリックの信者ではないので、正直いってあまり内情は分からない。高校レベルの歴史で学ぶのは、ペテロ以降、時間が経つにつれて徐々に制度が確立していったというものである。ローマ・カトリックの歴史を見ると、信仰と政治が一体の時代も長く、教皇の持つ権力は絶大なものであったというのが分かる。現代においても、教皇の発信力、権限、権力、影響力は計り知れないものがある。

 カトリックの考えでは、教皇の存在の根拠となっているのは以下の聖書の言葉である。

エスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ(ヨナの子の意)・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩の意)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」

(マタイの福音書 16章 15~19節)

 

 カトリックは、「この岩の上に、わたしの教会を建てる」「あなた(ペテロ)に天の御国の鍵を与える」という聖書の言葉を用いて、エスが「教会」の権威をペテロ個人に与えたという解釈をしている。ペテロに与えられた権威が、脈々と引き継がれ、現代の教皇にまで至るというのである。

 しかし、以前ブログでも言及したように、エスのこの言葉は「『イエスがメシアである』とのペテロの宣言が、教会の基礎となる」という意味であって、決してペテロ個人に権威が与えられたわけではない。それは、新約聖書のペテロやヤコブ、そしてパウロのやりとりを見ても明らかであろう。ペテロは決して絶対的な権力とは考えられていない。むしろ新参者の使徒パウロなどは、ペテロに対して公然と叱責までしている(ガラテヤ人への手紙2章)。今のカトリックだったら考えられない出来事である。このような点を見ても、教皇がペテロの後継者、といった考えは後付けの伝説にすぎず、根拠に乏しいと思われる。

 

 

▼イエスは何と教えたか

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 さて、イエスはこのような権力を持った「教皇」についてどんなことを教えているのだろうか。残念ながら「教皇」という言葉は聖書にはないため(後付けなのだから当たり前だが)、エスが「権力」について何と言っているか見てみよう。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 20章25~28節)

彼ら(パリサイ派たち)がしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。 宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです」

(マタイの福音書 23章5~8節)

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」

(マタイの福音書 18章 1~4節)

  

 ・・・いかがだろうか。イエスは、ハッキリとクリスチャンが権力を追及するべきではないと教えている。「上に立ちたい者は皆に仕える者になれ」「あなたがたはみな兄弟(仲間)である」とイエスは教えている。エスによれば、クリスチャンに上下関係はなく、みな兄弟である。誰かが神の取り次ぎをするという考えは、イエスの言葉を見ると、ハッキリ間違っている。この視点で「教皇」の現状を見ると、イエスの言葉には合致していないのではないかと思う。

 教皇の立場になり、少しでも慢心しない人がいるだろうか。教皇という立場の人を見ても、「兄弟」として接することのできる信者がいるだろうか。とても自信を持ってYESと言えるとは思えない。

 エスが現代の教皇と、彼をまるでスターのように扱う信者たちを見たら、どう思うだろうか。私は、どうもまた怒りをもって東京ドームのグッズ販売コーナーで暴れまわり、ローマ教皇に「ああ白く塗った壁」と言うイエスの姿しか思い浮かばないのだ・・・。

 このように、一人の人間に権力や尊厳が集中してしまい、半ば「偶像礼拝化」してしまう現象は、カトリックに限らず、プロテスタントでも起こり得る。プロテスタントにおいても、一部の牧師やリーダーたちが、尊敬されすぎてしまい、権力化してしまうケースはままある。一部の教会では、牧師の発言に異議を唱えてはいけないとか、牧師の「何回忌記念礼拝」をやったりしているところもある。エスを信じているのか、牧師を信じているのか分からなくなってしまっているのである。カトリックプロテスタントに限らず、このような「人間崇拝」の危険性はある。だからこそ注意が必要なのだ。

 

 

▼本物の「代理人」は誰か

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 さて、NHKによると、ローマ教皇は「キリストの代理人」だという。果たして、それは本当なのだろうか。そもそも、今の私たちにとって、「キリストの代理人」というものは存在しているのだろうか。聖書を見てみよう。

そしてわたし<イエス>が父<神>にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

(中略)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

ヨハネ福音書 14章16~28節)

わたし<イエス>が父<神>のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

ヨハネ福音書 15章26節)

しかし、わたし<イエス>は真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

(中略)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

ヨハネ福音書 16章15節)

 

 いかがだろうか。イエスは、ハッキリと次のように述べた。

<イエスの言葉まとめ>

・イエスはもうすぐいなくなる。

・しかし、その代わり「助け主」を遣わす

・「助け主」というのは、聖霊のことである

・イエスは、また帰ってくる

聖霊はイエスの栄光を現す 

聖霊は信じる人を心真理に導く

聖霊はイエスが神から受けたものを、そのまま人に与える

 

 つまり、一義的にはイエスはもはや我々人間と「一緒には」いない。その代わり、イエスは「助け主」である「聖霊」を我々人間に遣わしたのである。この「聖霊」こそが我々にとっての「キリストの代理人」なのである。

 では、「キリストの代理人」である「聖霊」の働きとはどのようなものか。簡単に説明して、この記事を閉じたい。聖書を見よう。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

(ローマ人への手紙 5章5節)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12章3節)

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

(ユダの手紙 1章20節)

 

 いかがだろうか。聖霊によって、私たち人間はキリスト(イエス)の存在を知ることができる。聖霊によって、私たちには愛が注がれている。聖霊によって、私たち人間はイエスの存在を告げ知らせる。聖霊によって、私たち信者の集まり教会はひとつとなる。聖霊によって、私たち人間は神の言葉を理解できる。今や、大胆に言えばイエスは私たちと共にはいない。しかし、聖霊が「イエス代理人」として私たちと共にいてくださるのである。

 いかがだろうか。私は一プロテスタントのイエスを信じる者として、カトリックの教義に文句をつけるつもりはない。しかし、以上の点から鑑みて、私は個人として教皇の存在を積極的に支持はできない。違和感しかない。イエスが怒る姿しか想像できない。そして、何よりも、私たちにとっての「イエス代理人」は他でもない「聖霊」である。教皇という人間に、その役割りは担えないと、私は思う。

 

(了)

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。