週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンは「つまずく」という言葉を誤用している?

クリスチャンはよく「つまずきになる」という表現で、人の行動を規制しようとしますが、それは本当に正しい指摘なのでしょうか?

 

 

▼やたらと「つまずきになる」と言うクリスチャンたち

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 クリスチャンの人と話すと、やたらと「つまずく」という言葉を聞く。「その行為はつまずきになる」「つまずきになってはいけない」などと、教会で言われた人も多いのではないだろうか。クリスチャンではない人は、「なにそれ」といった感じだろうが、実によく聞く言葉である。

 「つまずき」という言葉は、「神を信じる妨げになる」といった意味で使われる。そして、多くの場合が、人の行為を戒める際に用いられる。教会で何か、新しいことを始めようとすると、「それは、つまずきになるからやめたほうがいい」と言ってくる人たちがいるのだ。「品行方正な生き方」をしていないと、すぐに「つまずきになるよ」と言われるのである。

 先日、友人Y氏と話をしていた。彼は、聖書を勉強している牧師のタマゴである。「勉強楽しい?」と私が聞くと、彼はこう言った。「勉強そものは楽しいけど、インターンをしている教会で、『つまずき』になってはいけないから、それが大変なんだよね」。なるほど。牧師のタマゴたるもの、「はみ出した言動」をせず、大人しく、品行方正に、清く正しく美しくあらねばならないというのだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか。牧師のタマゴは、「つまずき」になってはいけないのだろうか。果たして本当の意味で、「つまずき」になっているのだろうか。そもそも、現状使われている「つまずきになる」という表現は、本当に正しいのか。今回は、このやたらめったら使われている「つまずき」という言葉に迫っていく。

 

 

▼「つまずき」となったイエス

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 聖書で「つまずき」になったと書かれている人物がいる。驚くなかれ、それは他でもない、イエス自身である。聖書にはこうある。

しかし、イスラエルの2つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となりエルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。

イザヤ書 8:14)

 

 これは、旧約聖書で、メシア、つまりエスイスラエル人にとって「つまずきの岩」となるという預言である。逆に、イエスに信頼する者は揺らぐことがないということも明記されている(イザヤ書28:16参照)。この聖書の言葉は、新約聖書でも、このように引用されている。

信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は、失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

(ローマ人への手紙 9:32~33)

 

 つまり、「行いが救いにつながる」と信じていたイスラエル人、ユダヤ人にとっては、真逆の教えを唱えたイエスは「つまずき」だったのである。エスは、働いてはいけない「安息日」に、病気の人を癒やした。イエスは「きよめの習慣」に従わず、食事の前に手を洗わなかった。イエスは「いけにえ」用の鳥を売っている商売人の台をなぎ倒した。これら全ては、ユダヤ教」の大切な文化であり、決まりごとであった。それを守らなかったエスは、ユダヤ人の逆鱗に触れ、文字通り「つまずき」になったのである。

 では、イエスは間違っていたのだろうか。否。エスは、聖書の真理からそれてしまっていた人々に、正しい道を示したのであった。決まりごとや儀式に隠れて見えなくなってしまっていた、本来の神の愛の意図を説いたのであった。このことから、大切なのは、伝統や決まりごとではなく、その裏にある目的や意図だということが分かるだろう。

 現代の教会で、「つまずきになるから、やめなさい」という指摘は、ほとんどの場合が「決まりごとや伝統」を破ろうとしたときに起こる。本来は、「神の愛から遠ざける」「神への信頼を揺らがせる」行為が「つまずき」であるにもかかわらず、いつの間にか「伝統を変える」ことが「つまずき」になってしまっているのである。伝統や儀式を変えたのは、まさしくイエスその人だった。

 では、なぜやたらと「つまずきになる」という指摘が教会で横行しているのだろう。実は、そう言ったのはイエス自身なのである。その発言を見てみよう。

 

 

▼「つまずきになるな」と言ったイエス

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 クリスチャンがやたらと「つまずき」という言葉を使うのは、イエスの言葉に由来する。エス自身が、「つまずきになるな」と命じているのである。その場面を見てみよう。

わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

(マタイの福音書 18:6~8)

また、わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

(マルコの福音書 9:42)

 

 石臼を首につけられて、海に沈められるなんて、まるで「東京湾に沈めたろうか?!」と言う、どこかの極道のような恐ろしい話である。その方がマシだというから、いかに「つまずき」となってしまう言動を避けなければいけないかが分かる。

 しかし、果たしてこの言葉は、「品行方正に、清く正しく美しく生きなさい」という意味なのだろうか。エスの意図は、何だったのだろうか。そのためには、文脈を見る必要がある。マタイの少し前の部分を見てみよう。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたにいいます。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

(マタイの福音書 18:1~6)

 

 「誰が一番偉いか」というしょうもない議論をしていた弟子たちに対して、イエス「この子どものような人が一番偉い」と言ったのである。弟子たち、赤っ恥。子どものような人とは、どのような人か。それは、子どものように純粋無垢に、神を信じる人である。子どものように、真っ直ぐに聖書の言葉を信じる人である。子どもが親を信頼するように、イエスを信頼する人である。その上で、イエスは、「この小さい者たちの一人をつまずかせる者は・・・」と言ったのである。つまり、エスは「純粋に神を信じる人たちの邪魔をするんじゃねえぞ!」と言っているのである。

 しかし、現状、教会で言われているのはどのようなことだろうか。ほとんどが、「あなたの行為は、他の信者たちのいい模範にならないから、やめなさい」という指摘である。エスの愛と恵みに感動して、突き動かされた人の気力をへし折る行為である。これは、本来の意味からズレてはいないだろうか。

 こんな話を聞いた。ある人、A氏が、家庭で聖書の勉強会を始めた。クリスチャンでない人も招いて、聖書の勉強会を、A氏なりにリードしていた。すると、それを聞きつけた牧師が、「何を勝手なことをやっているんだ。つまずきになるからやめなさい」と言ってきた。「聖書の勉強会をやるのなら、私を呼びなさい。教会のメンバーが一人も来ていないなら、やってはいけない」と牧師は言ったのであった。

 しかし、A氏は、ただただイエスの愛と恵みに感動して、自分にも何かできないかと必死で考えて、自宅での聖書勉強会を始めたのである。それをいたずらに邪魔をして、「つまずき」になっているのは、実はこの牧師の方である。ああ、愚かな牧師よ。お前は白く塗った壁だ! お前こそ石臼を結び付けられて、海に投げ込まれた方がマシだ。猛省せよ。

 このように、「お前の方がつまずきだ馬鹿野郎パターン」が、後を絶たない。教会で何か新しいことを始めようとする人たちを、やたら邪魔するリーダーたちがいる。イエスの愛に感動して突き動かされた人たちを邪魔をするのはやめていただきたい。実は、そっちの方がつまずきである。

 イエス自身が、気をつけるべきは他者ではなく、自分自身であると教えていないだろうか。

エスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したらなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

(ルカの福音書 17:1~3)

 

 愚かなキリスト教のリーダーたちよ。あなたたちこそが、自分自身が他のクリスチャンたちを縛りつけ、「つまずき」になっていないか気をつけるべきである。エスは、そのような「縛りつけるリーダー」たちにこう言っている。

しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない

(ルカの福音書 11:46)

 

 クリスチャンはあれをしてはいけない、これをしてはいけないと、やたらに縛りつける行為こそが、実は「つまずき」なのである。エスの愛に感動して、突き動かされてする行為を止める権威があるのは、神ご自身だけである。

 エスの十字架の真理は、「信仰による救い」なのにも関わらず、「クリスチャンたるもの、品行方正に、清く正しく美しく生きなきゃ」のような「行いによる救い」に人々を導いていることこそ、実は「つまずき」なのだ!

 

 

▼反論:ローマ書の記述はどうなる?

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 ここまで述べて、聖書の知識が少しばかりある人は、こう反論するだろう。「では、ローマ書の記述はどうなるのか」。さて、そのローマ書の記述を見てみよう。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。(中略)

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟(クリスチャンの仲間)が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

(ローマ人への手紙 14:1~14)

 

 ローマ人の手紙14章の主眼は、主にユダヤ教の律法をどの程度守るのかという議論である。作者(パウロ)の主張は、「何を食べてもいいし、どの日も大事である」というものである。だが、当時のユダヤ教になじんだ人々にとって、イエスを信じてクリスチャンになったからといって、ユダヤの習慣をいきなり捨てるのは難しかった。ユダヤ教では、食べてはいけないものや、儀式の日が、細かく厳しく決められていたのである。それらは、ユダヤ人にとっては当たり前に守らなければいけない決まりだった。

 だから、パウロは、古い習慣を捨てきれない人々を、「信仰の弱い人」と表現し、「その意見をさばいてはいけない」と言ったのである。なるほど、ここを読むと、自分は良いと思っても、他の人が良いと思わないことは、全てしてはいけないように感じる。

 ここで、現代の私たちが留意しなければならない点が3つある。

1:これは、ユダヤ教の背景がある人々に、「どれだけ律法を守るか」という視点で向けられた言葉である。全く関係ない現代の、しかも外国人である私たちにとって、「食べてはいけないもの」や「(ユダヤ教の)儀式の日」は、もはや存在しない。

 

2:この言葉は、「さばき合わないように」「兄弟を妨げるな」というのが主なポイントである。「他の人に、『それはつまずきだ』と指摘せよ」という教えではない。「各々が、しっかりと基準を保って、互いに受け入れ合いなさい」という教えである。

 

3:そもそも、この部分は、「食べ物」「飲み物」「儀式(祭り)の日」についての議論であり、家庭で聖書勉強会をひらくかどうかや、政治的スタンスや、他の諸々の生き方についての議論ではない。

 

 もし、仮に「信仰の弱い人の基準に合わせて生きなさい」というのがこの聖書の言葉のポイントであるなら、私たちは電気を使わず、車に乗らず馬に乗り、家庭集会を行うアーミッシュのような生活をしなければならないだろう。しかし、現実にそうしているクリスチャンは誰もいない(アーミッシュ以外)。

 この言葉のポイントは、「各々が神様に対して誠実に向き合っている事柄を、いいか悪いか判断せず、互いに違いを認めて受け入れ合おうではないか」というものである。酒を飲んでもいいと思う人にとって、酒は良いものであり、たばこを吸ってもいいと思う人にとっては、たばこは良いものなのである(ただし、副流煙については疑問だが)。

 結局のところ、問われるのは「心の動機」である。果たして、自分の行為が、神の愛に感動して、突き動かされたものなのか、それとも自己中心的な思いから来るものなのか、吟味する必要がある。ローマ14章の続きには、こうある。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(ローマ14:19)

私たちの力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

(ローマ人への手紙 15:1)

 

 あくまでも、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」というクリスチャンは、「信仰が弱い」のである。だから、「信仰が強い」自由な人たちは、その自由へと、縛られている人たちを導く必要がある。

 誰も、人の生き方に口出すする権利はない(ただし、「罪」を犯していたら別である。それは指摘するようにと聖書に書いてある)。もし、教会のリーダーたちにいろいろ言われたら、彼らは「信仰が弱い」のである。その事実を教えて差し上げよう。

 

 

▼「模範」になれとプレッシャーを感じている人へ

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 牧師のタマゴや、教会やミニストリーのリーダーになろうとしている人たちへ。聖書学校や、教会などで、何度も「模範になれ」「つまずきになるな」と言われ、プレッシャーを感じているだろう。その際、よく用いられるのがこの聖書の言葉である。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 

 この言葉は、一見、品行方正な生き方をしないといけないように感じる。しかし、ここのメインポイントは、「若くてもしっかりやれ」という部分である。言い換えれば、「若さを言い訳にするな」という意味である。しっかりやるのであれば、聖書の言葉により忠実に生きなければならないだろう。聖書に書いていない、「酒を飲むな」「たばこを吸うな」「毎週教会に来い」「十分の一献金をしろ」「牧師を先生と呼べ」といった間違った教えを、むしろ奉じない方が、「模範」になりうるのである。詳しくはこれらの記事を読んでほしい。

 

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 教会のメンバーや、牧師、教師たちが与えるムダなプレッシャーなんて、クソくらえ。先のローマ14章の続きには、こう書いてある。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。

(ローマ人への手紙 14:22)

 

 あなたが、イエスの愛と恵みに感動して、突き動かされたことで文句を言われても、自分はダメだと思わないでほしい。神は、あなたのハートをご覧になっている。まわりの人の評価ではなく、神自身に、神の言葉に真実に生きようではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。