週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか?

神学校を卒業した人は、すぐに「牧師」にならずに、「伝道師」となるケースが多いそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼「とりあえず伝道師」

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 「牧師になるには、どうすればいいの?」よくある質問のひとつだ。私は、「日本には牧師という国家資格はないので、今すぐにでもなれますよ」と答える。実は、牧師になる明確な条件、資格などない。団体に所属する牧師になりたいのであれば、各団体の基準があるだろう。特定の学校を卒業するのが条件だったり、特定のトレーニングを受けるのが条件だったりする団体もある。団体に所属しない教会などでは、独自の基準があったり、逆に全く基準がなかったりもする。

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。実は、何も書いていない。牧師の資格など、どこにも書いていない。もし、「牧師」を「監督者」や、「執事」と捉えるならば、明確な基準が聖書に書いてあるが、それは別の機会に書く。

 一般的なケースは、牧師になる前に、「神学校」という学校で一定期間、勉強をするというものだ。2~4年間くらい、神学校で勉強をする。卒業してから、さぁ牧師になろうというのが、よくあるパターンだ。

 しかし、神学校を卒業しても、すぐに牧師になるわけではない。どこかの教会に行って、「伝道師」となるケースが大半だ。この「伝道師」というポジションがクセモノで、別に「伝道」をするわけではない。牧師ではないのだが、なんちゃって牧師みたいな、サポート的な立場になるのが一般的だ。いわば、「ディレクター」になる前に、「AD」の仕事をやらないといけないような感じだ。

 「伝道師」は、牧師ではないが、牧師っぽい立ち位置になる。教会の若者たちの担当になる場合も多い。肩書は「伝道師」なのだが、伝道がメインの仕事ではない。私は、この伝道師を「とりあえず伝道師」と呼んでいる。

 この「とりあえず伝道師」は、すぐに牧師にならない。いや、すぐに牧師になってはいけない空気感がある。私は、この「とりあえず伝道師」はもう時代遅れだと思う。即刻やめた方がいいと思う。その理由を、これから簡潔に述べる。

 

 

▼そもそも牧師と伝道師は別の役割

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 「伝道師」は、「牧師」になる前のステップなのだろうか。言い換えれば、伝道師より牧師の方が格上なのだろうか。聖書が何と言っているか見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(エペソ人への手紙 4:11~12)

 (※少し横道にそれるが、そもそも、「牧師」という単語は、この部分の1回しか聖書に出てこない。しかも、「牧師」というのは意図的な誤訳で、本来は「牧する者」という意味であるから、「牧者」または「羊飼い」が正しい。「伝道者」は「師」ではなく「者」となっている。同様に、「教師」も本来は「教育者」とすべきである。当記事では、今後、「牧者」と「伝道者」と表記する)

 

 この箇所から、「教会」と名付けられた共同体には、大きく分けて5つの役割があるとされている。順番に、使徒」「預言者」「伝道者」「牧者」「教育者」である。これを、いわゆる「五職」と呼ぶ。

 ただ、最後の「牧者」と「教育者」はひとつの役割だという意見もある。「使徒」「預言者」「伝道者」「牧者+教育者」の「四職だとする見解だ。確かに、ギリシャ語を見ると、その主張には根拠がある。それぞれの役割をつなぐ接続詞には、全て「and」という意味での「デ(de)」という単語が用いられている。しかし、「牧者」と「教育者」をつなぐ部分のみが、「デ」ではなく、「カイ(kai)」という単語を使っている。「カイ」は「and(~も)」にもなるが、「also(~であり、また)」という意味もある。

 この部分のギリシャ語が全て並列の関係ならば、全て「デ」を用いれば良いのに、最後だけ「カイ」を使っているのである。その意図を考えると、「牧者であり、また教師でもある」と解釈した方が正しいかもしれない。

 

 話を元に戻すと、「五職」だろうが、「四職」だろうが、「牧者」と「伝道者」は、本来は違う役割なのである。「伝道者」は、「牧者」になるためのステップとしてのポジションではない。もしそう考えているならば、明確な間違いだ。

 

 

▼「五職・四職」とは

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 「五職・四職の内容については、多少議論がある部分なので、詳細は語らないが、だいたい以下である。当然、異論があるところもあるが、参考にしていただきたい。

 

使徒

神の特使。狭義の使徒は、イエスの12人の弟子+マッテヤ。イエスが12人の弟子たちを、「使徒」と名付けたところが起源。12弟子ではないパウロは、自身を「使徒」だとした。広義としては、福音をあますところなく述べ伝え、リーダーを育成し、教会を生み出していく働き。現代用語では、起業家、開拓者、創始者、コーディネーター。

【預言者】

神のことばを伝える役割。未来を予知する「予言」とは違い、神の意思を地上で明らかにする役目。広義の預言は、聖書のことばを解説することも含むとされる。「預言」は唯一、誰もが行うことのできる賜物として聖書に明記されている(1コリント14:31)。

【伝道者】

聖書に直接の記述が少ないが、神の道を伝える人。福音を伝える人。エチオピアの宦官に聖書の解説をして、イエスの福音を伝えたピリポは、伝道者と形容された(使徒21:8)。

【牧者】

羊飼いの意味である。イエスは、ついてくる者たちを羊に例えた。そこから、教会の共同体においては、集っている一人ひとりのことを指す。その一人ひとりをケアし、正しい道へと導き、攻撃から守るのが牧者である。現代用語では、カウンセラーのような役割である。

【教育者】

共同体の中で、知識的に教育をする役割である。知識的な部分においても、霊性の部分においても、人間性の部分においても、共同体の一人ひとりを教え、訓練する役割である。多くの場合、「牧師」はこの「教育者」の役割にエネルギーを割いている。

 

 「五職・四職」の役割の違いは、だいたい、こんなところである。こう見ると、「牧師予備軍」の人々が「伝道師」として教会に飼い殺されるのは、ちゃんちゃらおかしい話なのである。この役割の違いすら分かっていない。「伝道師」となるならば、文字通り、「伝道者」の役割を果たさなければならない。それは決して、牧師への準備期間や、訓練期間、ステップアップのための期間、役割ではない。

 イエスを信じるクリスチャンが、もし職業として「牧者」や「伝道者」を目指すならば、この「五職・四職」の役割の違いを意識すべきだ。記者になりたい人は、記者の訓練をする。ドラマのプロデューサーになりたい人は、ドラマの現場で修行を積む。記者になりたい人は、ドラマのADはやらない。それぞれが目的に沿った訓練をしなければ、2テモテ2章に書かれるような、「熟練した者」にならない。

 

 ただ、パウロは自身を「宣教者、使徒、また教師として任命された」と語っている(2テモテ1:11)。このことから、複数の役割を1人が担うことも可能だと分かる。ゆえに、「伝道者でもあり牧者でもある」というのであれば、「とりあえず伝道師」は、あながち間違いではない。

 しかし、そんなパウロみたいなスーパーマン、そんなに存在しない。現実の教会を見ると、両方をしっかりやろうというモチベーションのある人が、どれだけいるだろうか。ほとんどの人が、牧師へのステップアップとして伝道師の役割を捉えているのではないだろうか。

 私は、完全に「教育者タイプ」の人が、無理をして「カウンセラー」をしているパターンや、逆に「カウンセラータイプ」なのに、無理をして「教育者」になろうとしているケースをたくさん見てきた。それは、リーダーにとっても、共同体の一人ひとりにとっても、全員不幸である。説教が下手でもいいが、下手なら他の上手な人にゆずって、カウンセラーとしての役割をまっとうすればいいのに、なぜ一人で全部やろうとするのだろうか。

 聖書が違う役割として説明しているものを、ないがしろにはしていないだろうか。

 

 

▼人手不足の牧師業界

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 私が、「とりあえず伝道師」をやめようというのには、もうひとつ理由がある。それは、圧倒的な牧師不足の現状である。2014年の国際宗教研究所の統計によると、日本の牧師の42%が65歳以上。23%が71歳以上である。つまり、2018年の今、少し乱暴に数えれば、約65%の牧師が70歳以上なのだ。日本人の平均寿命は83歳。あと10年、15年もすれば、半分以上の牧師がいなくなってしまうのである。(参考:国際宗教研究所「現代宗教2014」)

 日本基督教団の教会は日本全国で約1700。そのうち担当牧師が1500。すでに教会の数より、牧師の数が少ない。そのうち半数以上があと10年~15年でいなくなる。日本のキリスト教会は、絶望的な牧師不足に陥っているのである。

 そんな人手不足の中、なぜ、「とりあえず伝道師」にならなければいけないのか。準備が必要? その準備のために、神学校で2年も3年も4年も勉強するのではないか? 神学校は、大学院的な位置づけのところが多い。大学卒業して22歳。その後、神学校に2~4年行ったとして、24~6歳。その後、一体何年「とりあえず伝道師」をすれば牧師になるのだろうか。結局、牧師になる頃には、30代。家族がいる。飯を食わさなければならない。現実的に、牧師にならない、なれない。こうして、人手はどんどんどんどん不足していくのである。

 人手不足なのに、牧師になろうとすると、やれ、「神学校行かないといけない」、やれ、「何年、伝道師やらなきゃいけない」と周りが言う。そこまでハードルを上げられると、「じゃあ別の道に行こうかな」となる。牧師不足の現状を生み出しているのは、なりにくい制度そのものなのではないだろうか。人手がほしいなら、ハードルを下げる。条件をよくする。世の中では当たり前の話が、なぜクリスチャン界では通用しないのか。理解に苦しむ。

 

 

▼完璧な牧師などいない

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 ここまで言うと、「訓練されていない人が、いきなり牧師になるなんてありえない!」というヒステリックな声が聞こえてきそうだ。ちょっと待ってほしい。そんなことは言っていない。私も、共同体の中の重要な役割を担う人は、それなりの訓練が必要だと思う。

 聖書には、こう書いてある。

 

あなたは努めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

(テモテへの手紙第二 2:15)

 先にも述べたが、「ふさわしいと認められる人」の部分が、新改訳聖書第三版では、「熟練した者」となっている。これは、パウロが弟子であるテモテに対して送った手紙の内容だ。テモテは、まだ若手のリーダーだった。若いなりに、苦労があったのだろう。パウロは、こんな励ましの言葉をテモテに送っている。

 

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 パウロは、「若さを不完全さの言い訳にするな。むしろ、熟練した者として、みんなの模範になれ!」と、厳しい言葉で、テモテのケツを叩いたのであった。これを見ると、答えは明瞭だ。リーダーにとって、若いとか年寄りとか、年齢が重要なのではなく、知識において、人間性において、どれだけ訓練され、練達しているかが重要なのである。

 だから、教会の中の役割を担う人々に、訓練は必要なのである。問題は、「神学校がその訓練となっているのか?」「とりあえず伝道師になることが、訓練になるのか」というポイントである。私の個人的な意見では、全く訓練になっていないと思う。ただただ、眠たい授業を我慢する、自分の意見を飲み込んで我慢する、無駄な時間になっているのではないだろうか。(我慢の訓練にはなっているのかもしれないが・・・)

 ほとんどの場合が、「まだ若いから」という理由で、牧師ではなく、伝道師として飼い殺されてしまっているのではないか。若い時の情熱やエネルギーが削がれ、牧師になる頃には、すっかりツマラナイ人間になってしまう。そんなケースを、私は何度も目にしてきた。

 どのようにして、人は練られていくのだろうか。どのようにして人は成長するのだろうか。人は、人との関係の中で成長するのである。「五職・四職」を神が立てたという箇所の続きは、こうなっている。

 

キリストによって、からだ全体(教会の共同体のこと)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 共同体の中で、「五職・四職」のリーダーたちが、一人ひとりをそれぞれの役割に従って「整える」。そうすれば、「キリストのからだ」と例えられる共同体が、その中の一人ひとりが働き合い、支え合っていくことで、お互いに成長していくのである。

 つまり、何が言いたいか。神学校に行くことや、伝道師の肩書きを持つことが、人を成長させるのではない。机にかじりつくことが人を成長させるのではない。人から「先生」と呼ばれることが人を成長させるのではない。人と人の人間関係において、人は成長していくのである。それは、教会の中でも同じである。

 私は、年が若くても、どんどん「牧者」になればいいと思う。同じように「預言者」「伝道者」「教育者」になればいいと思う。完璧な牧者などいない。完璧な伝道者などいない。知識は、やりながら増し加えられる。人と関わっていけば、おのずと成長していく。何事も、トライ&エラー。なぜ、足踏みをしているのか。神学校に行って、信仰的に落ち込む人をどれだけ見てきたか。「とりあえず伝道師」になって、素晴らしかった情熱を失ってしまい、イヤミな人間になってしまった人を、どれだけ見てきたか。なんと悲しいことだろうか。

  もちろん、何でもかんでもOK! となってしまうリスクがあるという指摘はある。その懸念は分かる。しかし、「とりあえず伝道師」を卒業して「牧師」になった人も、失敗はするし、完全ではない。だったら、早いウチに始めた方がいいのではないだろうか。教会のリーダーの役割を担う人々は、よく自分の心を見張り、ほかのクリスチャンの仲間や、リーダーの仲間たちの心をチェックし合う必要がある。

 現行の牧師になるシステムは、少しハードルが高すぎると思う。教会の中に人が何千人もいて、人手が余って余ってしょうがないのであれば、今のシステムは分かる。経済的援助も楽だろう。アメリカや韓国ではうまくいくのかもしれない。

 しかし、日本は状況が違う。圧倒的にマンパワー、経済力が足りない。私は、今のような「牧師」の考え方では、いずれこのシステムは破綻してしまうと思う。しかも、相当近い将来に。職業としての牧師や伝道師のあり方、教会のあり方を、見つめ直さなければならない時代になっているのではないだろうか。

 

 

▼牧師とか伝道師とかいう肩書きはオマケ

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 では、どういうあり方がいいのだろうか。私が個人的にオススメしたいのは、「もう肩書なんてオマケだよ」と思うことである。どんな仕事をしていても、どんな立場であっても、「牧者」としての働きはできる。「伝道者」としての働きはできる。それが当たり前になれば、人手不足は解消する。「献身者」と「一般信徒」、「直接献身」と「間接献身」、「伝道師」と「信徒伝道者」などという、くだらないラベリングは、もういい加減やめたらどうだろうか。

 クリスチャンは、それぞれが神から与えられた能力がある。よく、「賜物」とか「ギフト」とか言うのがそれだ。それぞれが、自分がどのタイプか考えて、神のために生きていく。自分が「使徒タイプ」だと思えば、教会やミニストリーや会社、団体をどんどん立ち上げていけばいい。「預言者タイプ」だと思えば、神からの示しを求めたり、聖書の難解な箇所を解説すればいい。「伝道者タイプ」だと思えば、イエスの素晴らしさ、恵みの福音を、会う人、会う人にどんどん伝えていけばいい。「牧者タイプ」だと思えば、人の話をよく聞いて、導くカウンセラーになればいい。「教育者タイプ」だと思えば、いいカリキュラムを作ったり、教壇に立って教えればいい。

 この素晴らしい福音、イエスの素晴らしさを、共に喜び、ともに建て上げていく。肩書きなんてオマケだ。大切なのは、その中身の働きなのだ。別に、他の仕事をしていても、その働きはできる。

 最後に、私が感動した、ある人の言葉を紹介しよう。詳細は、来週アップする予定の職業インタビュー記事(就活イエス)でご覧いただきたい。

 

エスさまは、人々を癒やすことを通して、当時の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らの心を解放した。

僕は、自分の会社を立ち上げることによって、社会の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らを解放したい。

(ー株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長 大原昌人)

 

 人の心に触れるのは、別に「牧師」という職業でなくともできるのだ。

 

(了)