週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「神のみこころ」は、どうやって見極めるのか?

クリスチャンはよく「神様のみこころだ」と言って物事を決めますが、本当に「神様のみこころ」なのでしょうか?

 

 

「みこころ」の乱用

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 クリスチャンと話していると、時々、耳慣れないフレーズが出てくる。「みこころ」というのもそのひとつだ。「御心」と書く。「みこころ」とは、神の御心、つまり、「神の計画」を意味する。それなら、神の計画と普通の言葉で言えばいいだが、なぜかクリスチャンはそういう特殊な用語が大好きで、このような言葉をよく使う。

 クリスチャンは、神の計画通りに生きていきたい、という考えを持っている。クリスチャンにとって、この「みこころ」を知り、それに従うというのは、人生の至上命題だ。進学、就職、結婚、子育て、転職、などなど・・・。人生の分岐点で、「みこころ」を求めるのは、クリスチャン人生の常である。

 本当に神の計画に従いたいというモチベーションを持っているのであれば、それは素晴らしい。しかし、時としてこの「みこころ」という言葉は、人が道を間違える原因にもなったりする。どのようにしてか。それは、自分の決断を、「みこころだ」と言って正当化する時である。本当は、自分勝手な考えで決断しただけなのにも関わらず、「神のみこころだ」と言って、自分自身を納得させる。または、他の人の忠告を聞き入れない理由にする。神から何の語りかけも、促しもないのに、「これは神のみこころだ」と言って、正当性を作り出そうとする。または、全力を出さない言い訳に使われる。信じられないかもしれないが、これはクリスチャンの世界のあるある話なのだ。

 クリスチャンでない人は、これを聞いて、「えっ、それって神への冒涜じゃないの?」と思うかもしれない。その通り。完全に冒涜だ。私は、この「みこころ」を利用する行為が大嫌いで、神の計画だと語る際は、慎重にならないといけないなと思っている。しかし、残念ながら「みこころ」という言葉は、乱用されているように感じる。では、どんなケースがあるのか、簡単に見ていこう。

 

 

それ、「みこころ」じゃなくて「おこころ」じゃないの?

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 いくつかの例を紹介する。

 私が韓国系の教会に通っていた時に、いきなり、何人かの大人たち(女性たち)が、「神のみこころだ」と言って、教会に学校を作った。いわゆる、「チャーチスクール」というものである。長い話を短くすると、この「みこころ」で始まったチャーチスクール、2年と持たずにつぶれた。「みこころ」ではなかったのだ。(※つぶれることも含めて「みこころ」だったのかもしれないが、それはひとまず置いておこう)

 状況を見れば、当たり前だった。「みこころ」と言って始めたのにも関わらず、先生は誰ひとり確保できていなかった。カリキュラムも教科書もなかった。結局、子どもたちは、ほったらかし状態。まともな教員も確保できず、だんだんとその女性たちの間に争いが起き、そして分裂した。結局、子どもたちはロクな教育も受けられず、親の暴走の犠牲者となったのであった。私もその一人である。

 彼女たちは、「本当はみこころではない」と分かっていたのだろう。もし、本当に「みこころ」だと思っていたのなら、もっと本気で準備をしたはずである。神の計画に対して、本気で、全力でやらなければ、神に対して失礼だ。単純明快。彼女たちは、本音では、「神のみこころ」じゃなくて、「自分のおこころ」だと分かっていたのである。

 お国柄か、お隣の国の教会では(短絡的な一般化をゆるしてほしいが、本当に実体験なので・・・)、このような「みこころ暴走」が起こりがちだ。クリスチャンは、このよな暴走に巻き込まれないように、「みこころ」かどうか、慎重に吟味しなければならない。

 

 もうひとつ、よくある「みこころ暴走」の例が、男女のお付き合い、そして結婚である。本当によくある。あるあるすぎて笑える。「みこころの結婚相手は存在するのか?」という視点で、以前、記事を書いたので、詳しくはそちらを参照してほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 簡単に言えば、「運命の赤い糸」のような「みこころの相手」は存在しない。しかし、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」は「みこころの相手」である。人間の好き嫌いの感情で結婚するのではなく、決断としてその人と一生寄り添うというのが、「みこころ」である。具体的に言えば、クリスチャン同士が結婚するのであれば、それは「みこころの相手」になり得る。

 しかし、たまに暴走して、相手のこともよく知らないのに「みこころだ」と言って結婚してしまうカップルがいる(向こう見ず・暴走)。または、単純に相手のことが好きなだけなのに、「みこころだ」と言って結婚してしまうケース(感情や行動の正当化)。または、「感情では好きではない」のに、「みこころだから」と自分を納得させて結婚してしまうケース(感情の無視)。または、未婚というコンプレックスから逃れるために、「みこころだ」と言って、よく考えず結婚してしまうケース(結婚自体の目的化)。いずれも、後々上手くいかなくなるケースが多い。

 

 特に、男性側が、「あなたが『みこころの相手』だと示されました。結婚してください」と、突然迫ってくるケースを、本当によく聞く。どこからともなく現れたその男が、「みこころだから結婚して」と言うのである。一般の世界だったら、ただのストーカーだが、クリスチャンの世界ではこれが通じてしまうから、恐ろしい。

 また、牧師たちが、「この人と結婚したらどうだろう」という紹介をするケース。これも本当に多い。私は、紹介による結婚を否定しない。私が違和感を覚えるのは、「牧師に言われたから『神のみこころ』に違いない」という考えだ。これが、本当によく耳にするケース。声を大にして言いたい。そんなわけ、ねーだろ!!! ・・・言い過ぎた。「そうかもしれないし、違うかもしれない」。これが適切な表現だ。

 こうして、感情や「心の動機」にフタをしたまま結婚した人たちはどうなるのだろうか。その結果は、悲惨だ。人間関係を壊し、信頼を壊し、家庭を壊してしまうことになる。一番悲惨なのは、その結婚により、神への信仰を失ってしまうケースである。

 「みこころ」を履き違えると、暴走する。客観的に見ていて、「ありえない」「やりすぎ」「ちょっとおかしい」、そんな行動が正当化されてしまう。その結果は、破滅の道である。

 

 

聖書で「みこころ」を履き違えた人たち

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 聖書にも、この「みこころ」を履き違えてしまった人たちがいる。ひとつの例を紹介しよう。私の聖書の中の好きなキャラの一人、カレアハの子ヨハナンである。

 背景を少し紹介すると、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂していた時代。南ユダは、バビロンに攻められ、多くの者がバビロンに補修された。しかし、南ユダに残っていた者たちもいた。バビロンは、この地域を治めるために、ゲダルヤという人を総督として、その地域を治めようとした。

 ゲダルヤは結構イイやつだったが、イシュマエルという人のクーデターによって殺されてしまう。軍の高官だったヨハナンは、イシュマエルたちを恐れ、残っている民全員を連れて、エジプトに逃げようと画策する。そんな時の話である。聖書をすべて書くと長いので、簡単に流れを紹介する。

 

●カレアハの子ヨハナンたち

「預言者エレミヤさん。神が私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくれくれるように、神様に祈ってくれや。」

●預言者エレミヤ

「承知した。神様に祈ってみるけんね。神様に言われたことは、全部言うけんね」

●カレアハの子ヨハナンたち

「私たちは必ず、あなたを通して神様がお告げになることを行います。それが良いことでも悪いことでも、必ず従います」

<10日後・・・>

●預言者エレミヤ

「お、10日後に返事が来たぞ。おーい、ヨハナンたち、神様から返事が来たぞ!」

●カレアハの子ヨハナンたち

「おおっ、どないです?」

●預言者エレミヤ

「もしこのユダの土地に残るなら、神様はあなたたちを守ります。もし、エジプトに逃げようとするなら、必ずそこで死にます。だからエジプトに行っちゃダメよ」

●カレアハの子ヨハナンたち

「・・・ウソや! あんたウソついてるやろ! それは神様の計画じゃない! そんなこと言うて、俺たちをバビロンに連れて行こうっていう算段なんやろ。俺たちはエジプト行くもんね!

 

 この後、カレアハの子ヨハナンたちがエジプトでどうなったか、言うまでもあるまい。結局彼らは、口では「良いことでも悪いことでも従います」と格好いいことを言っておきながら、心の中では既に決断をしていたのである。彼らは、「神のみこころを求める」というポーズはとったが、本心では「エジプトに逃げよう」と決心していたのである。

 カレアハの子ヨハナンは、有能な将軍だった。その有能さが仇となった。神のことばより、自分の判断の方が正しいと思ってしまったのだった。

 

 このエピソードから、何が神の「みこころ」で、何が「みこころでなかった」かを判断する時は、慎重に自分の心をチェックしなければならないことが分かる。

 

 

「みこころ」かどうか見分けるポイント

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 では、どうすれば「みこころ」と、そうでないものを見分けられるのだろう。一番カンタンなのは、「みこころ」と言わないことである。どんなことでも神に信頼して、自分のベストを尽くす。これがシンプルかつ最善の方法だ。

 しかし、そうも問屋がおろさない。クリスチャンにとって「みこころ」は超大事。無視できないものである。なので、3つほど、私なりのオススメのやり方を下に示してみた。

 

1:心の動機をチェック

 やはり鍵になってくるのは、「心の動機」である。本当の自分のモチベーションである。

 この「心の動機」は、いわば自分の「良心」である。自分の良心は、本当の心の動機をよく知っている。パウロもこう述べている。

 

律法を持たない異邦人(外国人)が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

(ローマ人への手紙 2:14~15)

 あなたが、「神のみこころだ」と言う時、あなたの「良心」は、チクリとあなたの心を刺してはいないだろうか。または心の中で言い訳をしていないだろうか。自分の心の動機に素直になれば、意外と人間は正しい判断ができるのだ。神はそのように自分の心を判別できるように、人間を造っている。

 

2:聖書の本質からそれていないか

 聖書の言葉は、自分の心を判別する一番のツールである。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル 4:12)

 神のことばは、あなたの霊を刺し通し、本当の「心の動機」を見分けることができる。あなたが言う、「みこころ」は、聖書の言葉に基づいているだろうか。もしそれがなければ、少し危ないかもしれない。

 また、あなたが言う「みこころ」は、聖書の本質から外れていないだろうか。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」申命記6:5)、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタイ7:12)、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34)という、聖書の本質を実行できているだろうか。もしそうであれば、「みこころ」という印籠を手に、人をこき使ったりはしない。

 教会の中には、「みこころ」を免罪符に、信者たちを奴隷のごとくこき使うところも多い(特にお隣の・・・略)。それは、この聖書の本質から、明らかに外れている。いつも、聖書と実態がズレていないか、チェックが必要だ。

 この際、聖書の言葉を見つけて、「この言葉が与えられた」といって、自分の意見を正当化する人がいる。これは非常に厄介。本物と見分けにくいからだ。聖書の言葉を使っているからといって、「みこころ」だとは限らない。悪魔でさえ、聖書の言葉を使って、イエスを誘惑した事実を忘れてはいけない(マタイ4章)。

 この時もやはり、1番目の「心の動機」が重要になってくる。時系列がカギだ。聖書の言葉を読んで、悟りを得たのか。それとも、自分の思いが先にあって、後から聖書の言葉を取ってつけたのか。この2つは似て非なるもので、本人の「良心」は必ずどちらか分かっている。結局、判別も決断も、最終的には自分の心でしかできないのである。

 

3:怒りなど、「忠告を受け入れない」反応が出ていないか

 周辺が判別できるとしたら、「忠告を受け入れるか」であろう。客観的に見ていて、明らかに「暴走」している場合、周辺の人は当然忠告をする。忠告に対して、どのように反応するかで、相手の「心の動機」を判別できる。

 以下、忠告を受け入れた王様と、受け入れなかった王様の反応の違いを例として挙げる。

 

【忠告を受け入れた王・アマツヤ

(アマツヤは、敵と戦うために、軍隊を招集して、賃金を払った。その時・・・)

すると、神の人(預言者)が彼(アマツヤ)のもとに来て言った。「王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。しかし、もしあなたが行くのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神はあなたを敵の前につまずかせられます。神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからです」

マツヤは神の人に言った。「では、イスラエルの部隊に与えた100タラント(お金)はどうしたらよいのか」

神の人は答えた。「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます」

そこでアマツヤは、エフライムから彼のもとに来た部隊を、もとのところに帰すために切り離した。

(歴代誌第二 25:7~10)

【忠告を受け入れなかった王・ウジヤ】

(ウジヤは元々、神に従う、良い王様だったが・・・)

しかし、彼(ウジヤ)が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。

すると、彼の後から祭司アザルヤが、主に仕える80人の勇敢な祭司たちとともに入ってきた。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である主の誉れは与えられません」

ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。

(歴代誌第二 26:16~19)

 

 この2人の反応は、対照的である。忠告を受け入れたアマツヤ王は、冷静に、「では、どうしたらよいのか」と預言者に訪ねた。そして、預言者の言葉にすぐに従った。彼は、忠告を受け入れる心があったのである。

 忠告を受け入れなかったウジヤ王は、激しく怒った。祭司たちの忠告は、正しいものだったのにもかかわらず、激高したのである。その結果、「ツァラアト」という皮膚病になってしまい、もはやそれまでの王としての威厳を失ってしまったのであった。

 私たちの心には「良心」がある。「図星を突かれると人は怒る」とはよく言ったものだ。良心が「みこころではなく、自分で決めたことだ」と分かっている場合、「違うんじゃないの」という忠告の声ほど痛いものはない。結果、激しく怒ったりなど、過剰に、感情的に反応することが多い。冷静に人の忠告を聞けない状態の人の「みこころ」は、どうもアヤシイと言えるだろう。

 

 

「みこころだ」ではなく「みこころだった」と言おう

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 私は「これはみこころだ」という言い方はしない。なぜなら、この地上で起こっていることは、全て「神のお取り仕切り」の中にあるからである。聖書にこう書いてある。

 

だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙 11:34~36)

 この世の全てのことが、「神のみこころ」なのだ! アラ、簡単。私たち人間は、まるで大仏の手のひらで踊る孫悟空のようなものである。全ては神の手うち。この世で起こっている「悪いこと」も、実は神の計画のうちなのである。聖書にはこうある。

 

すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。

箴言 16:4)

 理由はよく分からないが、戦争、飢餓、殺人、事故、災害など、この世の不条理も含めて、全て「神の計画」なのである。

 とはいえ、人間が何もできないわけではない。神は人間に「自由意志」も与えている。私たちは、良いことばかりするロボットではない。人間は、常に決断し続け、行動し続けている。私たちは、自分の行動の報いを受ける。夜にラーメンを食べれば太るし、運動すれば痩せるのである。

 であるなら、私は、未来の話に「みこころ」を用いるのは適切ではないと思う。むしろ、「思い返せば、これはみこころだった」と、過去の出来事に対して使う方が、「みこころ」の使い方として適切だと思う。

 「ああ、あの時は辛かったけど、今思えば、その経験が活きている。あれは、神様の計画だったんだ」「ああ、あの時は絶望していたけど、その経験がなければ、この人には出会えなかった。全て神様の計画だったのだ」。このようなメンタルが、クリスチャンには求められているのではないだろうか。

 クリスチャンは、常に、「イエスならどうするか」を基準に、自分の頭で考え、行動する必要がある。いつも、「神様、あなたの道に従いたいです。聖霊様、助けてください」というマインドで、全力を尽くす必要がある。人事を尽くして天命を待つ、とはちょっと違う。天命にゆだねて、人事を尽くす。これこそが、クリスチャンに求められているマインドではないだろうか。

 

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。こういうわけで、なすべき良いことを知っていながらそれを行わないなら、それはその人には罪です。

ヤコブの手紙 4:13~17) 

 

(了)