週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンが食べてはいけないものは存在するのか?

クリスチャンですと自己紹介すると、「食べちゃいけないものはあるのか?」とよく聞かれます。聖書には何と書いてあるのでしょうか?

 

 

▼食べてはいけないものがある?

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 クリスチャンではない人に、「私はクリスチャンです」と自己紹介すると、必ずいくつかの質問をされる。「酒は飲んでいいのか」「婚前交渉はいいのか」「日曜に教会に行くのか」「カトリックプロテスタントか」「洗礼名はあるのか」などなど・・・。その中で、たまに聞かれるのが「食べちゃいけないものはあるの?」という質問だ。

 正直いって、私はクリスチャンとして生きている上で「食べてはいけないものが存在する」と考えてこなかったので、この手の質問にはいつも驚く。日本人にとって信仰は「行動を制限するもの」なのだ。確かに、仏教でも坊主が肉や魚を食べるのはご法度。ユダヤ教やイスララム教徒も豚を食べない。そう聞くと、クリスチャンも食べてはいけないものがあるのではないか、と考えるのも無理はない。

 クリスチャンにとって食べてはいけないものは存在するのか。今回は、そんな素朴な疑問に答えたい。おそらく素朴すぎて、きちんと検証されて来なかったであろうトピックかもしれない。旧約聖書ユダヤ教)においてはどうだったか。イエスは何といったか。「外国人」である現代の日本人にとってはどうか。聖書の記述を元に考えてみたい。

 

 

ユダヤ教の食べ物の決まり

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 ユダヤ教徒は豚を食べない。これは常識だが、実は豚に限らず、ユダヤ教には、他にもたくさんの規定がある。この食物の規定を「コーシェル」(英語では「コーシャー」)と言う。現代のユダヤ教徒は、人によって程度はあるが、この「コーシェル」を基本的には固く守っている。宗教的なユダヤ人は、豚肉もエビもイカもウナギも食べない。それどころか、使う食器やスポンジまで区別する人もいる。

 その決まりの根本は、聖書の記述である。旧約聖書には、様々な食べ物の規定が書いてある。まずは、それを見てみよう。レビ記11章に細かな記述がある。「ポケモン」ではないが、地上の動物、水の中の動物、鳥、昆虫、爬虫類などに分けて細かく規定されている。あまりに長いので、今回は代表的なものだけ記述する。興味がある方はレビ記11章または申命記14章を読んでみると、オモシロイのでおすすめだ。

 

<地上の動物の規定>

主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

レビ記 11章1~8節)

 

レビ記の記述に基づけば、以下のような規定になる。

<食べて良い動物まとめ>

・反芻する動物 かつ ひづめが完全に分かれている動物

 これによれば、牛や鳥、羊やヤギは食べて良い。一方で、ラクダは食べてはいけないことになる。反芻はするが、ひづめが分かれていないからだ。逆に、豚はひづめが分かれているが反芻しない。ユダヤ教は「豚がNG」という印象が強いが、これを読めば別に「豚」が特別なのではなく、あくまで「反芻し、ひづめが完全に分かれている動物は食べてOK」という規定に豚が当てはまらないだけである。

 また、動物に限らず、魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定もある。

 

<魚についての規定>

水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。海でも川でも水の中にいるもので、ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。しかし海でも川でも、すべて水に群がるもの、またはすべて水の中にいる生き物のうち、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。これらは、あなたがたには忌むべきものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸を忌むべきものとしなければならない。水の中にいるもので、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章9~12節)

 

<鳥についての規定>

また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べることはできない。すなわち、禿鷲、禿鷹、黒禿鷹、鳶、隼の類、烏の類すべて、だちょう、夜鷹、かもめ、鷹の類、ふくろう、鵜、みみずく、白ふくろう、森ふくろう、野雁、こうのとり、鷺の類、やつがしら、こうもりである。

レビ記11章13~20節)

 

<昆虫についての規定>

羽があって群がり、四本の足で歩き回るものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。ただし、羽があって群がり、四本の足で歩き回るもののうちで、それらの足より高い二本の跳ね足を持ち、それで地上を飛び跳ねるものは食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類。しかし羽があって群がり、足が四本あるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。

レビ記11章21~23節)

 

<爬虫類等についての規定>(もぐらやねずみは哺乳類)

地に群がるもののうち次のものは、あなたがたにとって汚れたものである。すなわち、もぐら、跳びねずみ、大トカゲの類、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオンである。

レビ記11章29~30節)

 

 魚や鳥、昆虫、爬虫類などについての規定は、まとめると以下になる。 

<食べても良い魚まとめ>

・ひれがあり かつ ウロコがある魚(シンプル)

 

<食べても良い鳥まとめ>

・ハゲワシ、ハゲタカ、クロハゲタカ、トビ、ハヤブサ、カラス、だちょう、よだか、カモメ、タカ、ふくろう、う、ミミズク、白ふくろう、森ふくろう、のがん、こうのとり、サギ、ヤツガシラ、コウモリ以外の鳥(なんだそりゃ)

 

<食べても良い昆虫まとめ>

・羽があって、4本足の昆虫はNG

・ただし、イナゴ、毛がないイナゴ、コオロギ、バッタはOK(まあわかる)

 

<食べても良い爬虫類などまとめ>

モグラ、跳びねずみ、大トカゲ、ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオン以外(なんだそりゃ)

 

 ・・・いかがだろうか。正直、ほとんどが現代であっても「ゲテモノ」とされるもので、正直「そんな事言われなくても食べないよ」と思う動物もいるのではないか。誰もねずみやカメレオン、コウモリなど食べようとも思わないだろう。長野県出身の私は、イナゴは食べるが・・・。

 しかし、それは食べ物が豊富にある現代の話。おそらく日々食べるものにも困っていたと想像される何千年も前の中東は、動き回る動物、昆虫、魚、すべてが「食べ物」に見えていた時代だったかもしれない。上に挙げたような生き物の中には、当然、食べるに適していないものも存在した。病原菌を媒介したり、保存に適していなかったり、健康に悪影響を与える生き物も多かったのではないか。それらを区別するための一定の基準が、レビ記申命記の食物の規定ではないだろうか。

 私は個人的に、このようなユダヤ教の「食物の規定」は、古代の社会において社会的に病気の蔓延や食中毒を防ぐための知恵だったのではないかと思っている。しかし、それは神の存在を否定するものではない。神がこのような知恵を預言者を通して、イスラエルの民に与えたのだと、私は信じている。しかし、この時代にとって必要だったものが、必ずしも現代も必要だとは限らない。

 レビ記は神がモーセを通じて、イスラエルの民に与えた「律法」のひとつである。モーセは、今からさかのぼって、約3500年ほど前の時代の人物だと言われている。では、約2000年前のイエスは何と言ったのか、聖書を見てみよう。

 

 

▼イエスは何と言ったのか?

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 今から約2000年前、イエスは「食べ物」について何を語ったのか。以前もブログで紹介したが、改めて見てほしい。

エスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」(中略)イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません

(マタイの福音書 5章1~20節)

 

 何を食べるか、何を飲むか、当時のユダヤ人たちが人生をかけて守っていた「言い伝え」を、イエスはバッサリ切った。「食べた物はどうせウンコになるのだから、気にするな」。それがイエスの言葉であった。「それよりも、心の中から出てくるものが大事だ」・・・それがイエスの教えであった。

 当時の人々は食事の前に必ず手を洗うのが、宗教的な決まりだった。しかし、イエスの弟子たちは手を洗わずに食事をしていたようである。先のイエスの言葉の前段には、実はこんなやり取りがあった。

そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません

(マタイの福音書 5章1~2節)

 

 もちろん、現代においても食事の前には手を洗った方が清潔だ。しかし、当時は、清潔というよりも、宗教的な意味合いにおいて食事の前に手を洗うのが決まりであった。しかし、イエスは「手なんか洗わなくてもオッケー。むしろ大切なのは、心の中から出てくるものだ」と教えていたのである。

 弟子たちが手を洗っていなかった点からも、イエスは普段からそのように教えていたのではないかと推測できる。または、イエスの弟子たちがただ野蛮で粗暴だっただけかもしれないが・・・(笑)。普段から、野宿の生活をしていたイエス一行にとっては、手を洗う「水」すらも贅沢だったのかもしれない。

 

 

▼イエスの弟子たちは何と教えたか

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 イエスの弟子たちは食べ物についてどう考えていたのか。弟子のペテロは、イエスが死んで復活した後も、食べ物に気をつかっていたようである。しかし、神はこの「食物」を用いてペテロに啓示をした。このようなエピソードが「使徒の働き」にある。

彼(ペテロ)は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥(※ユダヤ人にとっては汚れた動物)がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」

使徒の働き 10章10~15節)

 

 これは、神がペテロに幻を見せたシーンである。ユダヤ人にとって「汚れた物」を神が「食べなさい」という、この一連のシーンは、「異邦人」(外国人)も神・イエスを信じれば「神の民」に入れられるということを象徴している。象徴なので、直接「食べ物」を論じたシーンではないが、「神がきよめた物」がきよい、という真理が伝わってくるエピソードだ。

 この経験のあと、ペテロは「外国人であっても神を信じた者は信仰の仲間だ」と考えるようになった。「ユダヤ人かどうか」ではなく、「神を信じるかどうか」で考えるようになったのである。食べ物においても、「きよい・きよくない」ではなく「神がきよいと言っているかどうか」という基準で考えたらよいというヒントが、ここにあるのではないか。

 

 「神がきよめたもの」という視点で見ると、以下の言葉も思い浮かんでくる。使徒パウロが書いたとされる手紙の一部である。

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

(テモテへの手紙第一 4章1~5節)

 

 「食物は感謝して受けるように、神が造ったもの」「感謝して受けるとき、捨てるべきものは何ひとつない」それがパウロの教えだった。何を食べて良いか、何を食べてはいけないかを気にするのではなく、どんな心で食べて、飲んでいるのかが大切だ・・・エスパウロも、そう言いたいのではないか。とすると、クリスチャンはこれこれを食べてはいけないという議論そのものがナンセンスになる。

 人間は、すぐに「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」という「縛り」を儲けようとする。その決まりを守って、安心しようとするからだ。決まりを守っているから安心だという安心感のために、人間は自分勝手なルールを設ける。しかし、イエスは人の心の内側こそが大切であると説いたのであった。とどのつまり、クリスチャンにとって「食べてはいけないもの」は存在しないのである。

 

 

▼“外国人”である私たちはどうすべきか

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 最後に、ユダヤ人ではない“外国人”である日本人、とりわけ現代の日本人は、現実問題どう食べ物と向き合っていけばいいのか、簡単に考えてみたい。

 まず、我々“外国人”が、ユダヤ人のように「コーシェル」を守る必要があるかというと、その必要は全くない。たまに、日本人の中にも「ユダヤ人のように律法を守ろう」という人たちがいるが、私の意見では全くのナンセンスである。ユダヤ人の方々にも失礼だし、彼らからしても「何してんの?」と失笑を買うだろう。そもそも、“外国人”である日本人は、ユダヤ教徒になる資格すらないので、ユダヤ人のための律法を守る意味はないのである(※ただし、リベラルな派閥のユダヤ教には日本人であっても改宗できるため、そのような人たちにとっては意味があるかもしれない)。

 イエスをメシアと信じるユダヤ人たちもいる。彼らの中には、人によって厳しく「コーシェル」を守る人たちもいれば、あまり気にしない人もいる。あるイエスを信じるユダヤ人に話を聞いたところ、こんなことを話していた。

「別に宗教的意味でブタを食べないのではなくて、単純に気持ち悪いから食べていないだけです。日本人もゴキブリを食べたくないでしょう? それと同じで、私たちにとってブタは気持ち悪い存在なんですよ。食べたくないから食べないだけ。別に食べていても問題はないと思います」

(あるイエスを信じるユダヤ人の言葉)

 

 なるほど、ゴキブリはさすがに食べたくない。彼らの文化では、豚は食べてもいいと言われても、食べたくない生き物なのである。

 クリスチャンの中には、酒を飲まない人もいる。また、中にはベジタリアンだったり、食べ物について特定の主義・主張を持っている人もいるだろう(例えばクジラを食べない等)。そういう人々に対して、1世紀のパウロは、こう書いている。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

(中略)

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(中略)

食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14章1~23節)

 

 パウロの主張は明確である。 

・何を食べようと、食べまいと自由

それ自体で汚れているものは何ひとつない

・すべての食物はきよい

・しかし、それが汚れていると思う人にとっては汚れている。疑いを持って食べるなら、それは罪である

・自分の信仰は自分で保ち、他の人が何を飲むか、食べるかについて口出しすべきではない

 

 パウロの教えは単純明快。私は、21世紀の今も、この基準は適応できると思う。誰が酒を飲もうが、飲まないと決断しようが、それはその人と神との間での取り決めである。自分と神との関係において、自分を律するために、酒を飲まない、特定の食べ物を食べないと決めるのは大いに結構である。しかし、それは各々が神との関係の中で決めることであって、何か一律に「これを食べてはダメ」「これは食べてOK」と基準を定め、それを守るように強いるのはズレてしまっているのではないか。

 基本的にクリスチャンは何を食べても、何を飲んでも自由である。しかし、もし「本当にいいのだろうか」という疑いがあるのであれば、それは良くない行為である。もし、疑問があるならやめればいいし、疑問がないなら、堂々と神に感謝して食べたり、飲んだりすればよい。しかし、他の人がどうこうしようと、それはあなたが口出しする問題ではない。 

 クリスチャンになるというのは、「神のしもべ」になるという意味である。他のクリスチャンの人は、あなたの支配下でも、教会の支配下でも、牧師の支配下でもなく、神の支配下にある神のしもべである。その人が何を食べるか、何を飲むかは、神とその人の問題である。だから、もし暴飲暴食が問題だと思っても、私としては、その人のためにそっと陰で祈るようオススメする(※ただし、過食症、拒食症、中毒、アルコールなどの依存症などは、専門機関の治療が当然必要である)。

 結局のところ、イエスの教えによれば、大切なのは「何を体内に入れるか」ではなく、「心から何が出てくるか」である。あなたの心からは、何が出ているだろうか。あなたの口からは、何が出ているだろうか。今一度、吟味してみてはどうだろうか。

 

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

(コリント人への手紙第一 10章31節)

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス14】「両方やっていいんだ!」小口理英@音楽家・医師

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第14弾は、小口理英さん!

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【Profile】

名前:小口理英(Rie Oguchi)

生まれ:1984

出身:東京都

学歴:昭和大学医学部医学科卒業

→Berklee College of Music Professional Music Major卒業
(米バークリー音楽大学卒業)

職業:楽家・医師

音楽事業HP:https://roguchi.wixsite.com/rieoguchi

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain はじめまして。今日はよろしくお願いします。

f:id:jios100:20191108105220j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おそらく読者の方は、経歴を見て「えっ、説明求む」状態だと思うので、今何をなさっているのかご説明いただけますか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですよね。今やっているのは音楽の会社です。ライブ、イベントの企画をしたり、CDを出したり、曲のカバーや作曲もします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どんな曲を作るんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ジャンルでいうとジャズですね。こんな感じです。

youtu.be

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。すごい癒やされるような音楽ですね。ライブではご自身も演奏されるんですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain もちろん演奏しますよ。専門はアルトサックスです。そういった興行の他に、音楽のレッスンや、「リトミック」という子供にリズムを教える教室をやったりしています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain リトミック・・・それやると音痴じゃなくなるんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ははは(笑)。効果あると思いますよ!

f:id:jios100:20180905032057j:plain やっておけばよかった・・・それと、もうひとつ気になるのは「医師」という方ですが・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 音楽の仕事を本格的にやる前は、麻酔科医として働いていました。実は今もアルバイトとしてやっていますよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え! 麻酔科医ってアルバイトなんてあるんですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 結構あるんですよ。病院によっては毎日手術をしないところもあったり、お医者さんが少数しかいないところもあって、そういったところは常駐の麻酔科医がいないんです。そういう病院から、手術をやる時に結構需要があるんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド・・・楽家と医師という2つの職業を両立している方って、ものすごく珍しいと思います。今日はたっぷりお話聞かせてください!

 

 

▼医学部で初めてサックスを吹いた?!

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↑ 研修医時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽をはじめたキッカケは何だったんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 小さい頃から、ずっとピアノは習っていました。クラシック。でも、ずっと自分はピアノのセンスがないと思っていました。自分より上手な人はいくらでもいるし、自分の演奏に満足できてなかったんです。音楽は好きだけど、これは趣味なんだろうなと思ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最初はサックスじゃなかったんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain アルトサックスに出会ったのは18歳のときですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え?! 18歳?

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。医学部に入って、音楽サークルの見学に行ったんです。ビックバンドって言って、ジャズのバンド形式のひとつなんですけど。音楽は好きだったので、見に行ってみたんですね。その時、アルトサックスを持った瞬間に「これ、吹けるかも」と思ったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain つまり、大学に入って初めてサックスを吹いて、プロになっちゃったんですか?!

f:id:jios100:20191108105220j:plain そういうことになりますね。そこからは、毎日、地道な練習の繰り返し。毎日1フレーズずつ反復練習を重ねる毎日でした。実は、音楽の練習って、勉強と似てるんです。英単語を毎日1単語覚えるみたいに、毎日1フレーズずつ繰り返し、繰り返し覚えていく。そうしていくと、だんだんと曲が演奏できるようになってくるんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゲー! 飽き性のワタシにはとてもできません!(笑)医大に行った人に聞くのも野暮ですが、勉強は好きだったんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 勉強は好きでしたね。コツコツ何かを積み重ねるのは、昔から好きでした。楽家の仲間の中には、普段の地味な練習が嫌いという人もいるんですけど、私は嫌じゃないんです。そこは勉強の習慣が役に立ったんだと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 勉強ができたから、医大に行こうと?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今思えばそれはプライドですよね。ある程度成績が良くて、理系コースだったら、先生や親や周辺が「医者になれば?」と勧めるじゃないですか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain あるあるですよね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 例にもれず、私の場合もそうでした。周りも勧めるし、親の期待もあるし、自分は当然医者を目指すんだと思ってました。それで、現役で医大に受かって、医者になるレールに乗っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まさかその医大で、アルトサックスに出会ってしまうとは・・・運命ですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうなんです。そこから、「音楽」と「医師」という2つの道で悩むようになりました・・・。

 

 

▼研修医から音楽大学

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アメリカの音楽大学

f:id:jios100:20180905032057j:plain 医大を卒業した後はどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 卒業した後は、2年間「研修医」として働きました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 研修医! 「ブラックジャックによろしく」で読みました・・・大変そうですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者としての仕事は楽しかったですよ。ただ、めちゃめちゃ忙しいんです。一週間、ずっと病院にいるような生活でした。その当時はクリスチャンではなかったので、別に日曜日教会に行きたいという悩みはなかったんですが、単純に忙しかったです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽は続けていたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 続けていました。研修医をやりながら、空いた時間でライブ活動をしたりしてました。DJさんと一緒にライブハウスでサックスを演奏したり・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain めちゃめちゃ忙しい中で、音楽も研修医も両立するって・・・体力オバケですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 研修医も楽しかったんですが、音楽をやるためには1人の時間が足りませんでした。音楽って、演奏して、フィードバックして、その反省を活かしてまた練習して・・・っていう作業の繰り返しなんですね。1人になる時間が必要なんです。でも、仕事が忙しすぎてそんな時間ありませんでした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そのあたりから、音楽と医師の2つの道で悩むようになったと。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。私の中では「やっぱり音楽がやりたい」という気持ちがあったので、音楽大学への進学を考え始めました。そんな時に、アメリカ・ボストンの「バークリー音楽大学」の入学オーディションが東京であると知って「申し込むしかない」と思って、申し込みました。実は、それを知ったのは本番の1週間前だったんですよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんと!! オーディションの1週間前?! 申し込みよく間に合いましたね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 本当に。申し込みも締め切り前日とかのギリギリでした。しかも、音楽業界では申込みに「推薦状」を書いてもらうのが当たり前なんですが、当然そんな常識も知らずに応募したんです。推薦状ゼロ枚状態で(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 推薦状ゼロ枚状態で、ギリギリに応募して、本番1週間前で・・・!!!

f:id:jios100:20191108105220j:plain でも、そんな状態で受験したんですが、合格しました。奨学生にも選ばれたので、奨学金もゲットできたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えーーっ! すごい!! 大学からはじめて、音大の奨学生に受かるって並大抵じゃないですね・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今思うと、「そこしかない!」というタイミング。神様の計らいだったと思います。

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↑ 大学のバンドで活躍。映画「セッション」のよう?

f:id:jios100:20180905032057j:plain それですぐ留学したんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain タイミングよく2年間の研修医を終えていたので、問題なく留学できました。ただ、親には音楽の道に行くのを反対されました。せっかく医者になれるのに、って。なので、お金は自分で工面しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、研修医のお給料って厳しいんではないですか?(ブラックジャックによろしくの知識)

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。奨学金をもらったとはいえ、アメリカの大学の学費ってものすごく高いんですよね。持っているだけでは足りなかったので、ローンを組みました。そのローンも、私が医者じゃなかったら組めなかったので、それまでの道は全く無駄ではなかったと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。医師免許をゲットしたからこそ、音大への道が拓けたんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain ただ、アメリカにいる間は、本当に本当に貧乏でした。お金がなかったので、ストリートでサックスを吹いて、投げ銭をもらって生活費にしていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 1日どのぐらい稼げるんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 日によってバラつきあるんですけど、少なくても15ドルぐらいですね。アメリカにいる間は、毎日お腹がすいていたのを覚えてます。

 

 

▼音楽と医師の道の間で揺れて・・・

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↑ ストリート演奏でお金を集めた

f:id:jios100:20180905032057j:plain アメリカの大学生活はどうでしたか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 英語は元々できたので、その面では苦労しませんでした。逆に、人間関係、特に日本人との人間関係で苦労しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語できたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 高校時代に、イギリスに3週間ほど留学したんですよね。その時、現地の人とコミュニケーションが取れないのが悔しくて、2日徹夜で英語の本を読みふけりました。それから、「自分がこう言ったら、相手はこう返してくるだろう、それに対してはこう返答しよう」という会話のシュミレーションをしていました。その期間で、ある意味のブレイクスルーみたいなものがあって、英語ができるようになりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ・・・(只者じゃねぇ・・・)!!!

f:id:jios100:20191108105220j:plain なので、アメリカ時代も、英語では苦労しませんでした。でもその分、現地の人とのつながりが深くなって、日本人の友人とうまくいきませんでした。深くお互いの心を分かち合ったり、支え合える人もいなかったんですね。それが私にとっては辛くて。現地の人と仲良くしている分、日本人とは、ふとしたことからすれ違いがあったり、嫌な思いをすることもありました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、僕も海外にいた経験がありますが、海外にいる時に日本人とどう関わるかって意外と大きいですよね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。日本人との関係で悩んでいた頃、たまたまクリスチャンの日本人の友達がいて。彼女は日本にいたんですけど、相談したところ、毎日聖書の言葉を送ってくれたんですよね。当時、私はクリスチャンではなかったんですが、嬉しかったですね。日本人に応援してもらっているんだという感覚になりました。彼女の励ましで、自分の音楽を貫こうと思えるようになりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは心強いですね。

f:id:jios100:20191108111611j:plain

f:id:jios100:20180905032057j:plain 帰国してからはどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 2014年に日本に帰国しました。その後は、2年間麻酔科医として、病院で勤務しました。フルタイムで。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音大を出て、また医者の道に戻ったんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。自分の中では音楽をやりたいという気持ちはあったんですけど、「医者なのに、音楽をやるなんてどうなんだろう」という感覚も当時はありました。もちろん、周囲と話しても「音楽は趣味なんでしょう?」とか「いつ医者に専念するの?」と言われる方が圧倒的に多かったんですね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 音楽と医者を天秤にかけると、日本の常識ではそういう感覚があるのは分かりますね・・・どうしても医者の方が安定しているふうに見えるというか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者として生きるのか。音楽で生きるのか。私にとってはいつも悩んでいたことでした。社会的に認められて、安定して食べていけるのはもちろん医師の道。だけど、自分が心から楽しんでできるのは音楽。どちらか一つ選ばなきゃいけないと、ずっと思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 究極の2択ですね・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain 次第にその気持は、「音楽をやっちゃいけないのではないか」という思いに変わっていきました。音楽を諦めれば、医師として生きていける。自分は音楽をしちゃいけないのかもしれない・・・。そう思うようになっていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。悩むうちに、音楽をやること自体がダメだと感じてしまっていたんですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain その時は、医者として生きるのが、ものすごくストレスでした。今思えば、それは「導き」ではなかったからだと思います。神様が備えている方向ではない方に向かっているから、心のどこかでそれが分かっていて辛い。ストレスになる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「導き」ではない方向に行くと、ストレスになる・・・確かにそうかもしれませんね。僕も心当たりあります。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私にとって、受験勉強も音楽の勉強・練習も苦じゃなかったんですね。それはなぜかと考えたときに、「音楽が導きだからだ」と素直に思えるようになったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして、その迷いから脱出できたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私にとって、音楽と医者の道で迷ったことと、自分の信仰は切り離せないことなんです。それは・・・

 

 

▼「神の子ども」というアイデンティティ

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↑ 教会のインドの支部

f:id:jios100:20191108105220j:plain 日本に帰ってきて、友達が「教会に遊びにおいでよ」と誘ってくれたんですね。私は日曜日は仕事で行けなかったので、別の日にやっている「アルファコース」という勉強会に参加しました。たまたま、その曜日だけ定時で上がれる日だったので、参加できました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうふうに誘われたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain バイリンガルで聖書の話ができるよ~みたいな感じだったと思います。ずっとクリスチャン系の学校に通っていたので、クリスチャン系の集まりに抵抗はそれほどありませんでした。むしろ馴染みがありました。でも、その集まりに行ったとき、初対面の人に「愛とは何だと思いますか」と聞かれて。「初対面なのに、“愛”とか語っちゃうの?!」とビックリしたのを覚えています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 初対面で愛とか語っちゃうの、ウケますね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 最初はビックリしましたけど、教会の礼拝でも、ピアノを弾かせてもらうことになったんですね。だんだんと、教会の集まりが、自分にとって「音楽ができる居場所」になっていったんです。それがキッカケで教会に行く機会が増えました。その時は、医師としてフルタイムで働いていて、まるで自分が音楽をやってはいけないと言われている気持ちになっていました。誰にも推薦状も貰えず、親にも応援してもらえず、寂しかったんです。自分は音楽をやってはダメなのかなって思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そんなときに、教会で音楽ができた。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。「音楽をやっていい」と言われたような気がしました。そんな時、2015年ですけど、教会のパスター(牧師)から「バプテスマを受けないか?」と聞かれたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。なんて答えたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 自分としては、まだまだ聖書などの勉強が必要だと思っていたので、まだ先かなぁと思っていたんですね。しかも、牧師の提案は一週後の集まりでバプテスマを受けないかというものでした。「えっ、そんなにすぐ?」とは思って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain オーディションの時もそうですが、いつも急転直下なんですね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうなんです(笑)。でも、自分のアイデンティティを考えて、答えが出ました。私はずっと「医者」か「音楽」かって考えていたんです。それで迷っていたんです。でも、本当に大事なのは「神の子どもとして生きる」ってことだと思ったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど! イエスを信じる「神の子ども」というアイデンティティに出会ったわけですね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そう思った時に、解放された気がしました。「自分はクリスチャンです」と堂々と言いたいなという気持ちもありました。それで、バプテスマを受ける決心をしました。2015年のゴールデンウィークのときですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どこでバプテスマ受けたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain ディズニーランドのそばの、葛西臨海公園です。たまたまそこでキャンプをしたので(笑)私の教会で葛西臨海公園バプテスマをやったのはその時だけなんですよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain エスを信じた後で、変わったことはどんなところですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain それまでは、基本的にネガティブでした。周りの人にどう思われるかが、すごく気になっていました。その上、周りの人は自分のことを否定的に見ているのではないかという不安、恐れがいつもありました。でも、エスを信じてから「人からどう見られるかを基準にするのではなく、神がどう見るかという目線で決める!」と思えるようになりました。それからは、人生楽になりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かります。僕もそうですね。イエスを信じたら、人の目が気にならなくなって、大胆に生きられるようになりました。

 

 

▼両方やっていいんだ!

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トライアスロンの救護班としても活動

f:id:jios100:20180905032057j:plain 信じた後は、仕事はどうしたんですか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 2015年にバプテスマを受けて、その年のうちに務めていた病院を辞めました。実は、一定期間病院に勤務すると、「標榜医」(ひょうぼうい)という厚労省の資格と、「認定医」という医師会の資格が取れるんです。この両方の資格がないと、独立しようと思っても、なかなか難しいんですね。私の場合は、両方の資格が取れたので、次のステップに進むことができました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 次のステップというのは、今のように音楽と医師と両輪で働くっていうことですか。

f:id:jios100:20191108105220j:plain そうですね。元々、「音楽」か「医師」かどちらか一方しかできないと思い込んで、悩んでいたんですね。でも、お世話になったパスター(牧師)の働き方がとても参考になりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain と、いいますと?

f:id:jios100:20191108105220j:plain パスターは職業としては「国際弁護士」をやっていたんです。彼の意見は「お金のために牧師をやってはいかん」というものでした。「何かミニストリー(クリスチャンの働き)をするのであれば、それとは別に生活のための仕事があった方が良い」というのが、彼の主張でした。現に、彼は国際弁護士として生活費を稼いで、そのお金で世界中を飛び回って、聖書のこと、神のこと、イエスのことを伝える働きをしています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごく共感します! 僕も、この時代、職業は一つだけという考えに囚われずにやった方がいいと思います。特に牧師だけじゃ食べていけませんから。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 私は彼の生き様を見たときに、「両方やっていいんだ!」と思えたんですね。ずっと「いつ医者に戻るの?」とか、「中途半端」とか言われるのが怖くて、悩んでいました。そんな私にとって、「どっちもやっていんだ」と思えたのは、ある意味パラダイムシフトでした。その時に、「せっかく医者という資格を持っているんだから、それを活用して働きながら、音楽も同時にやっていこう」と思えるようになったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。医師の資格を最大限活用した上で、音楽もやっていくと。

f:id:jios100:20191108105220j:plain はい。それで、2016年から今のような活動をはじめて、会社は2017年に立ち上げました。今は、本当に自分のライフスタイルに合った働き方ができていると思います。週に1~2回、麻酔科医として働いて、残りの時間は音楽の活動に充てられています。医師の仕事があるから、最低限の生活費、音楽活動の資金、時間、場所を確保できているっていう形ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最高の働き方ですね。

 

 

▼人を助けて、音楽を奏でる

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↑ 現在は医療と音楽の2つの道で活躍している

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「音楽」と「医師」を両輪でやるようになって、フルタイムの医師の時と、気持ちは変わりましたか?

f:id:jios100:20191108105220j:plain 気持ちにも余裕が出てきました。フルタイムの医師として働いていた時は、とにかく忙しくて・・・患者さんが来ても「また来たよ」とか思ってしまう時もあったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かります。僕も記者なので、なにか事件や政治の動きがあると「またかよ」と思ってしまう時ありますね。

f:id:jios100:20191108105220j:plain それは本当に良くないと思んですね。本来、患者さんのためにやっている仕事なのに、人を助ける仕事なのに、助けを必要としている人を見て「また来たよ」と思ってしまう自分が嫌でした。感謝がなくなった仕事はしたくない、っていう強い思いは常にありました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい・・・(私はそんな高尚な思いがない・・・)。

f:id:jios100:20191108105220j:plain でも今は、時間も資金も場所も、音楽の仕事も全て与えられているんです。神に感謝しかありません。また、派遣されて病院に行くと、病院に勤務していた時より感謝してもらえるんですね。「来てくださってありがとうございます!」といった感じで。それを通して、自分が今与えられている環境も、当たり前じゃないって気が付きました。自分も人に感謝しようって改めて思えるようになりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい・・・(私はそんな高尚・・・略)。

f:id:jios100:20191108105220j:plain あと、ひもじい時って、寂しい曲しか出てこないんですよ(笑)。おなかすいちゃってるので(笑)。そんな状態だと、どうやって人を愛する歌なんか作れるんだ! っていうような思いにもなりますし、何より歌えないんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「お腹が空いてると寂しい曲しか出てこない」っていうのはリアルすぎまる・・・切実な思いですね(笑)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 医者として人を助けて、それで得た糧で音楽を奏でるっていうのが今のスタイルになってます。それが、自分にも合っているって感じますね。

 

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 理英さんの今後のビジョンを教えて下さい。

f:id:jios100:20191108105220j:plain 音楽としては、今は日本を中心に活動していますが、ゆくゆくは世界に焦点を持っていきたいと思っています。世界に作曲する人は大勢いるので、その中で競い合って、認められるように競争を勝ち抜いていきたいと思っています。認められないと、曲を作っても聞いてもらえないので。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 世界に通用する曲作りですか・・・

f:id:jios100:20191108105220j:plain そういうコンペティション(競争)の中で通用する音楽を作りたいと思っています。かつては、自分は「演奏者」と思っていたんですが、今は「作曲者」でもあると思っています。曲を作れば、自分ではない他の人が演奏しても、その音楽は広がると気がついたんです。演奏者によって表現も違うので、同じ曲でも多様性が出るなと。自分が作った曲が色々な形で演奏され、歌われるようになりたいと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ありがとうございます。最後に、いつも握っている聖書の言葉を教えて下さい。

f:id:jios100:20191108105220j:plain マタイ7章ですね。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

(マタイの福音書 7:7~8 新改訳聖書2017)

f:id:jios100:20191108105220j:plain 今までの道も、不思議なタイミング、不思議な備えで、神様がひらいてきてくださいました。これからも、神様に求め続けたいと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain りえさんの今後の道も、神様によって拓かれていきますように!!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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【提起】「人の目」が気になる人に送る、聖書の言葉

ついつい他人にどう見られているか気になるのが人間ですが、聖書は何と言っているのでしょうか?

 

 

▼「人の目」が気になる?

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 人間は、弱い生き物だ。基本的に、自信がない。外側は自信に満ちあふれているような人も、実は自信のなさの裏返しだったりもする。認めてほしい。愛してほしい。褒めてほしい・・・。どうしようもない自己承認欲求が、人間にはある。それが人間のサガというものだ。

 だからこそ、人は常に「他の人にどう見られているか」を気にする。自分が他人にどう評価されているか。他人にとって自分は有益な存在になっているか。自分は嫌われてはいないか。人によって差こそあれ、どんな人もこのような不安と、日々戦っているのではないだろうか。

 私は、正直いってあまり人の目を気にする性格ではない。しかし、やっぱりブログに付くコメントは気になるし、悪口を言われたらヘコむ。だから、私も「人の目」を気にはしているのだろう。

 人によっては、「他者の目」を気にするあまり、何が自分の本当の心なのか、分からなくなってしまっているケースもあると聞く。他の人の意見に合わせるあまり、自分がなくなってしまうのである。「空気を読んでばかりいたら、自分が空気のようになってしまった」なんて、よく聞く話だ。特に日本人は島国独特の「むら社会」の文化の影響もあり、世界的に見ても「人の目」を気にする傾向は強いのではないか。

 「人の目」からは、ある意味では一生逃れられない。しかし、自分の気持ちの持ちようは変えられる。聖書は、「他の人にどう見られるか」という問題について、どう書いているのだろうか。今回は、「人の目」が気になる人に対して、聖書の言葉を送る。

 

 

▼イエスは何と言ったのか

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 イエスは、他者からどう見られるかという問題について、どのような発言をしているのだろうか。こんな言葉がある。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

(マタイの福音書 5章11~12節)

人々があなたがたを憎むとき、人の子(イエス)のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

(ルカの福音書 6章22~23節)

 

 クリスチャンの中では、他の人の目を気にするあまり、「自分がクリスチャンである」と大胆に言えない人も少なくない。クリスチャンであると公言することによって、自分にマイナスの影響があるのではないかと恐れているのである。しかし、イエスは上のように「わたしのゆえに排除され、ののしられ、けなされるとき、あなたがたは幸いだ」と教えているのである。「わたしのために・人の子(イエス)のゆえに」迫害されるのであれば、飛び上がって喜べとまで教えているのだ。

 このことから、「人の目」を気にしすぎる姿勢は、イエスの教えとは合致しないと分かる。クリスチャンである以上、もはや人に何を言われようが気にしなくて良いのである。ただイエスが神であり主<しゅ>であると告白すれば良い。聖書にこう書いてある。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。

(ルカの福音書 12章8節)

 

 

▼イエスは何と言ったのか、その2

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 イエスの言葉を別のアングルから検証してみよう。当時のユダヤ教には「律法学者」や「パリサイ派」と呼ばれる指導者たちがいた。彼らは、尊敬される宗教指導者だった。しかし、イエスは彼らはこのように痛烈に批判した。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

(中略)

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

(中略)

あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

(中略)

(マタイの福音書 6章1~16節)

 

 パリサイ派に対して、イエスは強い批判を繰り返している。その根源は、彼らが「人に見せるために」善行を見せびらかしていた点にある。彼らは、聖書に書いていないような部分まで強調し、「いかに自分が信仰深いか」を見せびらかして、尊敬を集めていたのだ。そうやって自尊心を満たしていたのだ。

 しかし、イエスは「戸を閉めて、隠れたところにいる父に祈れ。そうすれば、隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言った。「人の目」を気にするのではなく、「隠れたところに存在する神」に対して行動せよ。それがイエスの言葉である。

 現代の教会においても、同じように「パリサイ派」のような状態に陥っている人はいないだろうか。「毎週来て偉いね」と言われるために日曜日に教会に行ってはいないだろうか。「自分の信仰深さ」を見せびらかすために、教会で「奉仕」をしていないだろうか。また、「あの人より、自分は教会に来ている」「あの人より奉仕をしている」「あの人よりマシだ」と思ってはいないだろうか。人間は弱い。すぐ人と自分を比較する。しかし、聖書にはこう書いてある。

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る

(サムエル記第一 16章7節)

 

 

パウロは何と言ったのか

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 では、イエス以外の人物たちはどのように言っているのだろうか。使徒パウロの場合を見てみよう。彼が書いた教会への手紙の中には、こんな告白がある。

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

(コリント人への手紙第一 4章1~5節)

 

 使徒パウロにとって、イエスに従い、イエスを伝えることの他に、大切なものはなかった。「他人の評価は、私にとって非常に小さなことだ」これは、パウロの「俺はお前らに何言われても気にしないぞ!」という大胆な告白である。パウロは、若い頃はイエスの信者を迫害していた。彼は、信者を見つけては牢に引きずっていくほど、激しく迫害した。

 しかし、イエスと劇的な出会いを果たしたパウロは、とたんにイエスを述べ伝え始める。その上、彼は「もうモーセの律法は必要ない」と言わんばかりの「信仰義認」の考え方を、至るところで述べ伝えていた。外国人からは恐れられ、ユダヤ人からも批判された。パウロほど命を狙われ、批判され、さげすまれていた使徒はいなかっただろう。彼のこんな告白がある。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。

(コリント人への手紙第二 11章23~27節)

 

 それほどの極限の状態にあっても、パウロは「俺は、人にどう思われようとも、全く気にしない!」と断言したのであった。なんと強い姿勢だろうか。私も、パウロのようなブレない心を持ちたい。そう思う。「イエス以外のことなんで、ゴミクズだ!」そうパウロは言い放っている。

 

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

(ピリピ人への手紙 3章8節)

 

 

▼神はエリヤに何と言ったのか

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 旧約聖書ではどうか。預言者エリヤのケースを見てみよう。預言者エリヤは、主に北イスラエルで活躍した預言者である。彼は、イスラエルの神、【主】(しゅ)に従わず、バアルという異邦の神に仕えた王たちと戦った。彼は立派にその勤めを果たし、勝利したのだが、いわゆる「燃え尽き症候群」のようになってしまう。「私のいのちを取って下さい」と言っていることから、現代でいえば「うつ病」のような状態だったのかもしれないという人もいる。

 さて、そのエリヤが「燃え尽きた」シーンを見てみよう。

自分(エリや)は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

(中略)

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

(中略)

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。

主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。(中略)しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。

(列王記第一 19章4~18節)

 

 いかがだろうか。エリヤは絶望の状態にあった。「死にたい」と願うが死ねず、どこを探しても神を見つけられなかった。まさに、希望がないとはこのことである。しかし、神はエリヤにこのように宣言する。「わたしは、7000人を残してある」

 これは、「私の味方は誰もいない」と嘆いたエリヤへの答えである。「7000」という数字は、ヘブライ語において完全数「7」の千倍。圧倒的な量を表す数だ。「まだ見えない仲間を、たくさん残しているよ」。これが神の答えであった。

 「人の目」を気にしている人にありがちなのは、「私だけだったらどうしよう」という不安である。「こんなことしているのは私だけ」「他の人はみんな違う」「私だけ異質だ」。「一人ぼっちだ」。それが人間の根本的な恐怖である。

 しかし、神の言葉は違う。「私はあなたのために仲間を残している」それが神の約束である。私は、これは個人的にいわゆる「サイレント・マジョリティ」をも示唆した言葉でもあるのではないかなと受け取っている。

 新約聖書は、このエリヤのエピソードを、このように解説している。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。

(ローマ人への手紙 11章2~5節)

 

 イスラエルの民は見捨てられていない。神は必ずイスラエルに対する恵みを残されている。エリヤの話はその「型」である・・・これがローマ人への手紙の解説である。エリヤが「私だけが残った」と言ったが、神はその先々の時代までも含めて、「いや、まだ7000人を残している」と言ったのかもしれない。

 自分が一人ぼっちに思える時がある。しかし、神はその孤独感を知っておられる。そして、必ずその心に応じて報いてくださる。神は、そういうお方だ。

 

 

▼まとめ:人の目より、心に注目しよう

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 いかがだろうか。聖書は、現代の私たちにとっても励ましの言葉に溢れている。以下、今回紹介した事例をまとめてみよう。

<イエスの言葉>

他人が、イエスを信じる信仰をバカにしてきた時こそ喜ぶべきだ。

パリサイ派は人の目ばかり気にしているが、人からどう見られるかではなく、隠れたところにおられる神こそに気を配るべきだ。

パウロの言葉>

人にどんなに批判されようが、知ったこっちゃない。

・それどころか、自分で自分を評価することさえくだらない。

エスを信じる信仰に比べたら、他のどんなものもゴミクズ同然だ

<神のエリヤに対する言葉>

あなたは一人じゃない

・わたしは、「わたしのために」、他の仲間を残している

 

 あなたは一人じゃない。他の人にどう思われるか、気にしすぎるのは良くない。それは、裏を返せば、究極の自己中心だ。そうではなく、隠れたところに存在する神に気を配ってみてはどうか。神が見ている、「他者の心」に寄り添ってみてはどうだろうか。自分の「関心のベクトル」の方向が、自分から他者へと向きが変わる時、不思議とあなたの恐れや不安は、なくなっているかもしれない。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは土葬じゃないとダメなのか?

クリスチャンの埋葬は、どのようにすべきなのか? クリスチャンではない人に聞かれたので考えてみました。

 

 

▼クリスチャンの埋葬方法とは?

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 「クリスチャンって死んだ後、死体の埋葬はどうするの? 土葬じゃないといけないの?」ある日、友人からこんなことを聞かれた。「埋葬の方法」は、20代の私にとって、正直言って、あまり考えてこなかったテーマだ。しかし、人間いつ死ぬか分からない。自分の考えを、今のうちにまとめておくのも悪くはない。果たしてクリスチャンは土葬すべきなのか、それとも火葬がよいのか。はたまた別の方法があるのか・・・。

 「土葬」とは、死体をそのまま土に埋める行為を指す。日本語の法律用語では単純に「埋葬」というらしい。死体を火で焼いてから取り出した骨を埋葬する行為を「火葬」という。言わずもがな、日本では仏教の影響から「火葬」が主流となっている。

 さらっと法律を調べると、一応、日本でも「土葬」は可能のようだ。しかし、現実的には様々な許可を取らないといけないため、日本での「土葬」は、ほとんど不可能、というのが実態のようだ。東京や大阪などの大都市では、そもそも土葬を条例で禁止しているところも多い。

 一方、アメリカなどでは土葬が主流と聞く。土地が広大だから、という理由もあるだろうが、キリスト教の影響も否定できない。また、ユダヤ教は土葬である。これについては後で述べる。

 クリスチャンは、自分が死んだ後、どのような埋葬方法をとるのがふさわしいのだろうか。火葬でもよいのか。いや、土葬でなければいけないのか。聖書は何と言っているのか。今回は、少しデリケートな「埋葬」の方法について考えてみる。

 

 

▼クリスチャンの復活についての基本的信仰

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 クリスチャンは土葬するべきだ、という意見がある。なぜなのか考えてみよう。これは、ユダヤ教の考え方も大きく影響している。以下、クリスチャンの基本的な考え方をまとめてみた。もちろん、細かい点は諸説あるが、今回は大枠で考えていただきたい。

<クリスチャンの基本的な信仰>

・いつの日か、メシアであるイエスがこの地上に帰ってくる

・その時、死んでいる者たちはみな復活する

・その際、タイミング・方法・場所などについては諸説あるが、信じる者たちはメシアたるイエスと会う

・一人残らず最後のさばき(評定)を受け、イエスを信じる者たちはいつまでも主たる神・イエスと共にいるようになる

 

 このような考え方は、以下の聖書の言葉からも分かる。

<イエスの再臨>

そのとき人々は、人の子(イエス)が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

(ルカの福音書 21章27節)

こう言ってから、イエス使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります

使徒の働き 1:9~11節)

 

<人間の復活とさばき>

神は主(イエス)をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

(コリント人への手紙第一 6章14節)

しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。(中略)また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

(コリント人への手紙第一 15章35~44節)

ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

(ダニエル書 12章2節)

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように

(ヘブル人への手紙 9章27節)

 

<復活した後に新しい存在となる>

兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

(コリント人への手紙第一 15章50~52節)

エスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(テサロニケ人への手紙第一 4章14~17節)

 

 ・・・以上は、クリスチャンの基本的な復活についての信仰である。細かい点は、解釈が分かれる部分が多いが、概ねこんなところだろう。

 死んだ後に復活するのだから、そのために死体をできるだけそのまま保存しておくべきだ。・・・このような考え方に基づき、ある人々は「クリスチャンは土葬すべき」と考えている。一定程度は理解はできるが、「果たしてそうなのか?」という疑問も残る。死体は、土葬であれ、火葬であれ、腐ったりしてしまったら、同じではないだろうか。であるなら、土葬でも火葬でも同じではないか? という疑問は拭えない。

 ここで一旦、ユダヤ教ではどういう考えなのか、見てみよう。

 

 

ユダヤ教の復活についての信仰

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エルサレム東部・オリーブ山のユダヤ教墓地(筆者撮影)

 ユダヤ教は「復活」についてどう考えているのか。実は、「メシアが来る時に死者が復活する」という考えは、ユダヤ教キリスト教も基本的には同じである。一部のユダヤ教の考え方では、メシアはエルサレム東部の「オリーブ山」に到来する。その際、復活して一刻も早くメシアに会えるようにと、オリーブ山には大量のユダヤ教墓地がある。聞くところによれば、この墓地は最高級の墓地で、偉業を成し遂げた指導者や、多額の献金をした人しか入れないのだという(ユダヤ教ツアーガイド談)。目覚めた時に、メシアと同じ場所にいるために、この墓地に入るのは最高の栄誉なのだとか。

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ユダヤ教徒の墓の上には、このような小石が置かれている場合が多い(筆者撮影)

 ユダヤ教には、誰かが死亡した後、24時間以内に埋葬しなければならない決まりがある。これは、おそらく中東の暑い気候によって、死体が早く腐敗してしまうからだろう。それゆえ、日本のような壮大な葬式は営まれない場合が多いという。

 ユダヤ教の墓の上には、たくさんの小石が積まれている。これは、死後30日は死者の霊が浮遊しているという迷信から、「自分は墓泥棒ではなく、お墓を大事にしに来たんですよ」という敬意を示すための行為だそうだ(ユダヤ教ツアーガイド談)。現代でも、この習慣は引き継がれている。ユダヤ教にとって、死体は丁寧にスピーディーに、敬意を持って扱うべきものである。自分の死体を粗末に扱われるのは、ユダヤ教徒にとっては最大級の屈辱なのだそうだ。

 

 話が少しそれたが、埋葬の方法は、ユダヤ教にとっても、キリスト教にとっても信仰と直結する大切なものである。「復活」という信仰がある以上、死体を焼かずにそのまま埋葬するのは、論理的には正しいように思える。

 しかし、先述のとおり、死体をいくら保存しても、埋めれば腐ってしまう。ミイラのようにすれば一応は残るかもしれないが、シワシワのまま復活するわけにもいかないだろう。一方で、焼いてしまえば死体は灰になってしまうので残らない。一体、どこまでが「復活」できる範囲になるのだろうか。ここで、イエスが何と言っているか見てみよう。

 

 

バプテスマのヨハネは何と言ったのか

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 エスの時代にも、この「復活」をめぐる論争はあったようだ。詳細は、以前の記事を参考にしていただきたい。イエスは「復活はある」と明言した。では、その死体の扱いについて、イエスは何と言ったのだろうか。実は、イエスは直接「死体は土葬すべき」とか「火葬でもよい」などとは言っていない。しかし、それにつながるような発言は別の人物から出ている。バプテスマのヨハネである。見てみよう。

あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

(マタイの福音書 3章9節)

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

(ルカの福音書 3章8節)

 

 当時のユダヤ人たちは、「自分はアブラハムの子孫だから、既に救われている」と考えていた。「救い」の定義の議論は避けるが、簡単に言えば、ユダヤ人として生まれた段階で神に愛されている。だからユダヤ人として生まれただけで神の国の一員となれる、そう考えていたのだ。

 それに対し、バプテスマのヨハネは上のように指摘した。「神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫(イスラエル)を起こすことがおできになる」。それがバプテスマのヨハネの教えだった。これは、直接的に死体の埋葬方法を指示した言葉ではない。あくまでも、「ユダヤ人として生まれた者ではなく、神の計画に沿った者が神の国に入るのだ」と述べたのが本質的な意図である。

 しかし、この言葉から、「神は人間をどんな状態からも復活させることができる」とも読み取れる。石ころひとつからでも、アブラハムの子孫、つまりはすべての歴史上のイスラエル人を復活させることさえ、神の力をもってすれば可能なのである。であるならば、神に信頼して、一旦は死んだ人がどのような状態であろうとも、神の力によれば復活できると考えるのは、当然ではないか。もしかすると、ヨハネの「石ころ」という言葉は、先に述べた「ユダヤ教の墓の上の石ころ」から着想を得ているのかもしれない。もしかするとイエスも、墓の上にある石ころをつまんで、「神はこの石ころからでも、イスラエルを再興できるのだ」と言ったかもしれない・・・。

 そもそも、思い出してほしい。神は最初の人間アダムを、「ちり」から造ったのであった。「ちり」に「神の息」を吹き込むと、それは人(アダム)となった。それが土葬のように人の形をしていなくとも、またミイラのように保存されていなくとも、神の力をもってすれば復活するのだ。神は人間を「ちり」から造ることができる存在なのだ。

 神の力、そしてバプテスマのヨハネの「石ころひとつ」の言葉を信じるならば、土葬であろうが、火葬であろうが、どんな状態であっても「復活」できる。つまり、結論としては、クリスチャンは「土葬でも火葬でもどっちでもいい」のである。それぞれが、神に信頼して決断した方法で埋葬すれば良い。それが私の結論である。

 しかしながら、先述のとおり、日本では法的に「火葬」以外の埋葬方法はかなりハードルが高い。一部のキリスト教施設では土葬のような形が可能とも聞く。しかし、個人的にはそこまで無理をして土葬にこだわらなくとも良いと思う。日本の制度上、「火葬」が一番シンプルで、スムーズなやり方であろう。しかし、どんな形であっても、神は人をよみがえらせることがおできになる。埋葬の方法は、各々の信仰に従って選択すれば良いと思う。

 

 

▼オマケ:ひからびた骨からよみがえる

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 イエス時代以外にも、旧約聖書の預言の中で、「ひからびた骨が復活する」という描写がある。それは、エゼキエル書にある。少し長いが見てみよう。

主<しゅ>の御手が私<エゼキエル>の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る』」

私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ』」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──主のことば』」

エゼキエル書 37章1~14節)

 

 これは、一度滅ぼされたかのように見えたイスラエルの国が、また再興するという預言である。打ちのめされたイスラエルの民を「ひからびた骨」にたとえている。その骨に肉が生じてまた復活する描写は、イスラエルの国が、ボロボロの状態からまた再興する様子を表している。

 この聖書の部分は、一義的にはイスラエルの国家的再興の預言だ。そして、それは現実のものとなっている。神はこのように、何もないところから偉大なものを生み出すことのできる方である。無から有を生み出せる、唯一の存在である。その神に信頼するならば、たとえ自分の肉体が死後どのような状態になっていようとも、復活はできる。そこから肉を生じ、皮膚を生じ、また肉体としてよみがえることなど、神にとってはたやすいこと。クリスチャンにとって、埋葬方法は、悩むようなイシューではないと分かるだろう。

 

 興味深いことに、イスラム教では死後、魂は肉体を離れると考えているため、死体の扱いは粗雑である。エルサレムにあるイスラム教のお墓を見たことがあるが、ユダヤ教の墓とは違い、かなり汚く、丁寧な扱いを受けていない印象だった。

 このように、信仰と死体の扱いは、かなり密接につながっている。クリスチャンとしても、自分の死後、肉体をどう扱うか、今一度考えてみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、神は石ころ一つからでも、アブラハムの子孫を起こすことができるのだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【聖書】『新改訳2017』で、何がどう変わったのか?

新改訳聖書」は2017年に新しい翻訳が出ました。何が、どう変わったのでしょうか?

 

 

▼47年ぶりの「大改訂」をした「新改訳」

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 日本語の聖書には、いくつかの種類がある。最も古い本格的な翻訳は「明治元訳」と呼ばれ、のちに「大正訳」となり、現代の「文語訳聖書」となった。文語訳聖書を現代風に改定したものが「口語訳」である。日本で最もメジャーな翻訳は「共同訳」であろう。「新共同訳聖書」にさらに手を加えた「聖書協会共同訳」が2018年に出版されている。

 もうひとつ有名な聖書の翻訳がある。「新改訳聖書」である。1970年に初版が発行。2008年には第3版が出された。そして、2017年には47年ぶりの「大改訂」を行い、「新改訳聖書2017」が刊行となった。

 「大改訂」というのだから、大幅な変更があるはずだ。しかし、分厚い聖書を手にとっても、イマイチどこが変わったのか分からない。一体、何が変わったのだろうか。細部の変更に気がついても、「なぜそう変えたのか」という理由までは分からない。かくいう私も「新改訳聖書2017」を手に取り読んでみたところ、様々な変化には気がついたものの、その理由までは分からずにモヤモヤしていた。

 しかし、2019年1月に、このような本が出版された。

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「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]

 

 この本は新改訳聖書2017」をどういう意図をもって翻訳したのか、文字通り「何を、どう変えたのか」を検証し、明らかにする本である。

 今回は、この「聖書翻訳を語る」の本を読んだ上で、私が「オモシロイ」と思った3つのポイントを紹介する。

 

 

▼1:いけにえの名称

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 「新改訳聖書2017」を読んで、まず気になった変化が「いけにえ」の名称である。聖書には、主ないけにえの種類が5つある。まとめてみよう(レビ記1~5章参照)

 

【いけにえの名称】

新改訳聖書第3版>ヘブライ語

1:全焼のいけにえ(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:和解のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のためのいけにえ(ハッタート)

5:罪過のためのいけにえ(アーシャーム)

新改訳聖書2017>ヘブライ語

1:全焼のささげ物(オーラー)

2:穀物のささげ物(ミンハー)

3:交わりのいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:罪のきよめのささげ物(ハッタート)

5:代償のささげ物(アーシャーム)

 

 どうだろうか。2番目の「穀物のささげ物」以外の名称は、大胆に変更となっている。どうして、このような変更が行われたのか。「聖書翻訳を語る」によると、概ね以下が変更の理由である。

ヘブライ語「ゼバハ」をどう訳すか>

・「いけにえ」を表すヘブライ語「ゼバハ」は、3番の「和解のいけにえ」を指し、他の4つとは明確に違う

・それゆえ、3番の「和解のいけにえ」と他の4つを区別する必要がある

・「ゼバハ」は単体でも「いけにえ」という意味である。またほとんどの場合が「ゼバハ」だけでも、実質的には「ゼバハ・シュラミーム」=「和解のいけにえ」と同じ意味であるから、3番から「いけにえ」という単語を外すわけにはいかない

・また「和解のいけにえ」は、神にささげた動物を、後に調理して、仲間同士で食事を一緒にするという意味も含まれていた

・このような点から、より仲間内の人間関係を強調するために「和解のいけにえ」から「交わりのいけにえ」(fellowship=交わり)と訳を変更した

<日本語の「いけにえ」の意義>

・一方、日本語の「いけにえ」は「動物」をささげる場合に限って用いる

・しかし、「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」には、動物以外の小麦粉などをささげる記述もある

・また、「全焼のいけにえ」のヘブライ語オーラー」は「いけにえ」と訳す「ゼバハ」とは完全に違う概念であるので、別の日本語を充てる方が望ましい。

・よって、3番以外の「いけにえ」については、「ささげ物」と統一されることになった

<まとめると・・・>

よりヘブライ語のニュアンスに近い名称となった(「ゼバハ」とそれ以外を区別)

「オーラー」と「ゼバハ」を区別した名称となった

一緒に食事をする「交わり」が強調された名称となった

・日本語の「いけにえ」の意味を狭める名称となった(「ゼバハ」のみが「いけにえ」となった)

 

 いかがだろうか。多少難しいかもしれないが、個人的には納得のいく解説だった。特に、聖書を読むと、「いけにえ」は神の前で動物を燃やすだけではなく、その後の食事が重要でもあったので、神と仲間同士の人間関係を強調する「交わり」という言葉が入ったのは、評価に値すると思う。

 

 ちなみに、「聖書協会共同訳」では以下のようになっている。

<聖書協会共同訳の”いけにえ”>

1:焼き尽くすいけにえ(オーラー)

2:穀物の供え物(ミンハー)

3:会食のいけにえ(ゼバハ・シュラミーム

4:清めのいけにえ(ハッタート)

5:償いのいけにえ(アーシャーム)

 

 

▼2:「偽りの証言」について

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 ヘブライ語については、新改訳聖書の翻訳チームのリーダーである津村俊夫氏が、詳細な解説を書いている。中には「マニアックすぎやろ・・・」というマイナーチェンジや解説もある。「SO WHAT感」が否めないものも正直ある。しかし、その中には、根本的なクリスチャンの価値観を変える変更もある。今回は、私が特に重要・オモシロイと思った2つを紹介する。

 

 有名な「十戒」のひとつ、「偽りの証言をしてはならない」について、「新改訳聖書2017」では大きな変更が加えられた。見てみよう。

新改訳聖書第3版>

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

新改訳聖書2017>

あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

出エジプト記 20章16節)

 

 いかがだろうか。「隣人に対し」という部分が、「隣人について」に変わっている。これについて、「聖書翻訳を語る」の本はこのように語っている。

出エジプト記20章16節は、第3版までは「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と訳されてきた。これでは「隣人を目の前にして」嘘を言うということに理解されてしまう。しかし、ここで禁止されていることは、第一義的には、法廷において「隣人のことで」偽りの証言をしてはならないということである。原文を直訳すれば、「あなたの隣人のことで、偽りの証言で(副詞的大正)答えてはならない」となる。英訳はほとんどすべて、”You shall not bear false witness against your neighbor”(「あなたはあなたの隣人に対する偽りの証言をしてはならない」)であるが、英語の”against”に影響されて「~に対し、偽りの証言をする」と訳されたではないかと思われる。しかし、ヘブル語の前置詞 b(ב)は「について、において」という意味もあるから、新改訳2017では「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と改訳している。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]106-107頁)

 

 いかがだろうか。この部分を用いて、クリスチャンは「嘘はNG」のような思い込みがあるが、実は違う。これは、コミュニティ内の「裁判」で「隣人についての偽証」を禁じた部分である。実は、聖書は「嘘」が全て悪いとは言っていないのだ。

 余談だが、私は、入社面接の際に、当時の社長に「聖書には嘘をついてはいかんと書いてあるだろう」と前置きされた上で、「競合とウチどっちに来るんだ」と問いただされたことがあった。聖書をダシに使うとは、社長もヤリ手である。「もちろん御社です」という言葉が真になってしまった結果、今の会社で働いている。

 

 

▼3:ヘブライ語独特の文法

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 聖書ヘブライ語の文法は、ややこしいものが多く、現代の日本人にとって理解するのは困難な部分もある。この本では、特に「談話文法」についての解説が詳しく書いてある。見てみよう。

ロングエーカー等による最近のヘブル語「談話文法」(文を越えた文章の文法)の理論によれば、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は、従来のように①「現在・未来」(非過去)のテンスを意味するだけではなく、文脈によっては、②「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW)それが起こったのかを述べる。

それゆえ、(サムエル記第二7章)9節後半で(B]「接続詞+完了動詞」が用いられているのは、①テンスが過去から現在・未来に変化したのではなく、②直前までの出来事が「どのようにして」起こったのかを説明しているだけである。

(中略)

ヘブル語の動詞は、英語のようなインド・ヨーロッパ語とは違って、「テンス」(時制)というよりは、どちらかというと、「アスペクト」(相)で考えたほうが良いということになる。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]126-127頁)

 

 ・・・書いた人(津村氏)の頭が良すぎて、何のこっちゃ分からないが、具体例を見ると良く分かる。サムエル記第一17章38節を見てみよう。まずは、新改訳2017以前の主な翻訳を比べてみる。少年ダビデが、かの有名なゴリアテを倒す直前に、サウル王に接見し、よろいやかぶとを着せられるシーンである。

<口語訳>

そしてサウルは自分のいくさ衣ダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。

<新共同訳>

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。

<新改訳第3版>

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。

フランシスコ会訳>

ダビデに自分の衣服を着せ、頭に青銅の兜をかぶらせ、鎧を着せた。

<岩波訳>

サウルは、ダビデに自分のを着せた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、[身には]よろいを着けさせた。(注:後半部分は七十人訳に欠ける)

 

 最後の岩波訳が「(ギリシャ語翻訳の)七十人訳には欠ける」と書いてあることから分かるように、後半部分をどう翻訳するかは、古くから難題であったようだ。

 この文章には2つの部分がある。

(A):サウルはダビデに自分の武具(装束)を着せた

(B):青銅のかぶとを彼(ダビデ)の頭にのせ、よろいを彼(ダビデ)に着せた

 

 まず、新改訳以外の翻訳は(A)の部分を「装束」などと訳している。よろいの前に着る、下着のような物だ。一方、新改訳は「よろいかぶと」と武具を指す用語を使っている。これは、ヘブライ語では「マド」という単語で、辞書をひくと「よろい」または「上着」のようなものを指すようだ。英語は「tunic」(ギリシャ兵の上着)や「armor」(よろい)が多数派である。下着のような「装束」は少しニュアンスが違うかもしれない。

 しかし、ここで問題が発生する。(A)を行っていたら、すでに「よろいかぶと」は装着しているはずなのだ。しかし、(B)で「かぶと」と「よろい」をもう一度装着してしまっている。同じ行為を、二度も描写するだろうか。それゆえ、日本語のほとんどの翻訳は、矛盾しないように(A)の方の「マド」を「装束」と訳しているのだと想像される。

 だが、「聖書翻訳を語る」はこう解説する。見てみよう。

この箇所も、(A)「接続詞+未完了動詞」(過去)が「何」(WHAT)が起こったかという出来事(EVENT)そのものについて述べるのに対して、(B)「接続詞+完了動詞」は「出来事の手順ないし手続き」、すなわち「どのようにして」(HOW))それが起こったのかを述べるという、上の原則を当てはめて考えるとよいのではないか。

 

(WHAT)サウルはダビデに自分の武具を着けさせた

(HOW)頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである

 

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]128頁)

 

 いかがだろうか・・・。つまり、この(A)も(B)も、同じ出来事を描写しているのである。(A)で何が起こったのかを説明し、(B)で、「どうやってその出来事が起きたか」の詳細を説明しているのである。日本風に例えれば、こんなところだ。

(A):太郎くんはおつかいに出かけて大根を買った。

(B):玄関のドアを出て、八百屋に行き、150円を払って大根を買ったのである。

 

 つまり、上記のサムエル記第一の場面では、(A)サウル王が少年ダビデに自分のよろいを着せた、という事実を、(B)先にかぶとをかぶらせて、その後によろいを着せた、という説明で補足しているのである。(A)と(B)の間に「どうやってやったかと言うと・・・」という文が省略されているのである。省略というか、この文法の組み合わせがあると、自然とそういう意味になる言語なのである。

 ふつう、よろいを着る際は、かぶとより先によろいを着るものである。かぶとを先にかぶってしまったら、それからよろいは着られない。よろいを着るためには、かぶとを脱がなければならない。二度手間である。そんなサウル王の様子を、「聖書翻訳を語る」の本はこう書いている。

この後半の、まず「かぶと」をかぶらせ、次に「よろい」を着けさせるという、通常の順序とは反対のことを行ったサウルの慌て振りを、さりげなく揶揄しているのであろう。

(「聖書翻訳を語る『新改訳 2017』何を、どう変えたのか」新日本聖書刊行会[編]129頁)

 

 その研究の結果、「新改訳聖書2017」では以下のような翻訳になっている。

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。

(サムエル記第一 17章38節 新改訳聖書2017)

 

 聖書は、ヘブライ語ギリシャ語で書かれている(+一部アラム語)。より細かく、正しく理解できるよう、日々研究は進んでいる。その研究の成果が、新しい翻訳に反映されている。このような細かい違いだが、全くニュアンスが変わってしまうような表現が、新しい翻訳にはたくさん隠れている。ぜひ、読者の皆様も、「新改訳聖書2017」を読む機会があれば、読んでいただきたい。そして、「あれ?」と違和感を覚えたら、ぜひ今まで使っていた翻訳と比べてみてほしい。

 

 

▼おまけ:「新改訳」の権利問題と「聴くドラマ聖書」の登場

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 最後に、「新改訳聖書2017」の誕生には、多くのドラマがあったと述べておきたい。実は、「新改訳聖書」は、近年まで権利をアメリカの財団が保有していた。しかも、日本人の翻訳者たちには詳細が知らされない形で、勝手に権利がアメリカの財団のものになっていたようである。

 あろうことか、さすがは訴訟大国アメリカ。なんと聖書の翻訳をめぐって、「著作権侵害」だとの訴訟が起こってしまったのである。新改訳聖書著作権は、日本人の手を離れる危険さえもあったのだ。それゆえ、「新改訳聖書」は権利の問題がややこしく、アプリ開発などが自由にできなかったと耳にする。確かに、アプリなどで出てくるのは口語訳や共同訳ばかりで、新改訳のものは圧倒的に少ない。

 紆余曲折を経て、多額の(本来払う義務がない)賠償金を払い、2008年にようやく著作権が日本側に戻ってきた。そして、その10年後の2017年に、初版から47年ぶりの「大改訂」が行われたのであった。詳細は下記のリンクに書いてあるが、察するに想像を絶する戦いと、裁判の実務と、超多額の賠償金と、祈りが積まれた結果、現在の「新改訳聖書2017」が存在するのだと知った。私は裁判の当事者ではないし、つぶさに詳細を知っているわけではない。多くを語るのは避けよう。しかし、多くの方々の努力の上に聖書の翻訳が成り立っている事実は、明記しておきたい。

▼参考リンク

 https://www.seisho.or.jp/archives/about-ssk/#

 

 また、これは著作権と関連があるかは分からないが、つい先日「聴くドラマ聖書」というアプリがローンチされた。

graceandmercy.or.jp

 これは、日本の俳優陣が聖書を朗読したものを聞ける、いわゆる「オーディオバイブル」である。なんと、無料。朗読のクオリティや、BGM、インターフェースなど、これまでのモノに比べて、かなりクオリティが高いので、筆者もそこそこ満足している。まだβ版なので、使用感はイマイチな部分もあるが、これから改善されるだろう。

 この「聴くドラマ聖書」は、「新改訳聖書2017」を使用している。つまり、今まで「新改訳聖書」のアプリは、これまで3000円ほどかかっていたところ、このアプリをダウンロードすれば、なんと「無料」で聖書が読めてしまうのである!

 「聴くドラマ聖書」を「聴かない」という裏技ではあるが、縦書きモードもあるので、縦書き派の方々も満足できる仕様になっている。もし聖書に興味がある方がいれば、ぜひこのアプリをダウンロードして、今日から聖書を読んでみてはいかがだろうか。このような自由のアプリ開発も、翻訳の著作権が戻ってきたことによる影響が大きいのではないだろうか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンが求めるべきものとは?

求めよ、さらば与えられん・・・有名な言葉ですが、クリスチャンが本当に求めるべきなのは、どんなものなのでしょうか?

 

 

▼何を求めたらいいのか・・・?

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 クリスチャンでなくとも、一度は聞いたであろう、有名な言葉がある。「求めよ、されば与えられん」。他でもない、イエスの言葉である。現代的な翻訳では、このようになっている。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

(マタイの福音書 7章7節)

 

 イエスの教えはシンプルだ。「求めれば、与えられる」。しかし、肝心の「何を求めるのか」という点については直接の言及はない。一体、何を求めよというのだろう。何と、この言葉は日本語の辞書にも載っている。調べてみた。

【求めよさらば与えられん】

新約聖書「マタイ伝」から》「神に祈り求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。

小学館デジタル大辞泉

【求めよさらば与えられん】〔マタイ福音書七章〕

信仰の主体的決断を説いたイエスの言葉。転じて、与えられるのを待つのではなく、何事にも自分から求める積極的な姿勢が必要であることをいう。

三省堂大辞林第三版)

 

 なるほど、日本の一般的な辞書は、「信仰を求めよ」という意味で捉えているらしい。確かに、そう考えれば合点がいくように思える。しかし、本当にそう言い切っていいのだろうか。

 同じ場面を、ルカの福音書ではこう書いている。

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます

(ルカの福音書 11章9~13節)

 

 これを見ると、エスは「聖霊」についての話をしているようにも思える。信仰を与えるのは聖霊の働きだが、果たしてそれだけを求めればいいのだろうか。

 また、マタイの福音書の前の部分では、こうも書いている。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6章33節)

 

 この流れから「求めなさい」と言っていると考えた場合、求めるべきは「神の国」になるのではないか? という考え方も、不自然ではない。

 人によっては、「何でも求めていいのだ」という人もいる。「経済的な祝福を求めれば与えられる」と解釈する人たちもいる。また「神の導きを求めれば道が拓かれる」と解釈する人もいる。「いや、聖霊だけを指すのだ」という人たちもいる。一体、イエスはどんな意図でこの発言をしたのだろうか。クリスチャンが本当に求めるべきものは、一体何なのだろうか。

 今回は、聖書に出てくる4人の人物が求めたものに注目し、これらの疑問を紐解いていきたいと思う。

 

 

▼例1:エサウは何を求めたか

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 私が「求めた」という単語から、まず思い出したのが「エサウ」である。エサウは、イサクの長男。双子の兄であり、弟はヤコブであった。アブラハムの孫にあたる。エサウは、一体何を求めたのだろうか。聖書をひらいてみよう。

イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために」父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう」エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった」エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか」エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も」エサウは声をあげて泣いた。

(創世記 27章 30~39節)

 

 エサウは、「長子の権利の祝福」を求めた。アブラハムが神と契約を交わしたその祝福を、イサクは受け継いでいた。そのイサクの祝福は、本来は長男であるエサウが引き継ぐものと思われていた。しかし、あるとき、エサウは空腹だったので、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに、弟のヤコブにその権利を売ってしまった。この部分を読んでいただきたい。

さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。エサウヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。

(創世記 25章29~34節)

 

 さて、エサウの軽率な言動の結果、エサウが引き継ぐはずの「祝福」は、弟ヤコブに与えられてしまった。もちろん、母リベカと弟ヤコブの策略もあったのだが、本質的にはエサウが権利を売ってしまったのが原因である。エサウは「私も祝福してください」と懇願したが、彼のための祝福は残されていなかった。彼の状況を、新約聖書はこう描写している。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

(ヘブル人への手紙 12章16~17節)

 

 彼が求めたものは「祝福」であった。しかし、彼にはその祝福は与えられなかった。もし、イエスの言葉が「何でも求めてよい、そうすれば与えられる」という意味であれば、エサウは与えられてよいはずである。しかし、彼には祝福が残されてはいなかった。なぜなのだろうか。

 私は、このヘブル人への手紙を読んだとき、率直に「エサウがかわいそう」と思った。なぜか。元はといえば彼のものであった祝福を、母リベカと弟ヤコブが騙して奪ったかのように思えたからである。それなのに、騙されたエサウは祝福を受け継げなかった。涙を流してさえも、彼の願いは叶わなかった。その上、「俗悪な者」とまで書かれている。なぜなのだろうか。

 ここでやはり、エサウの言動を細かくチェックする必要がある。私は、彼の言葉の「私を祝福してください。私」(創世記27章34、38節)という部分に注目した。ヘブライ語では「バラケニー・ガム・アニー」。「ガム」は文字通り、「私も祝福してください」という意味である。「私も」ということは、ヤコブへの祝福に、自分も加えてくれという意図がある。

 しかし、エサウは本質を見失っている。彼は、自分自身で、たった一つの権利を売ったのである。しかも、一杯のレンズ豆のスープと引き換えに。もし、彼が本当に「悔い改めて」、反省して涙を流したのであれば、最初に「軽率なことをしてしまった」という反省の弁が出るはずである。しかし、彼は「私も祝福してください」と懇願したのであった。彼が望んだのは、祝福だけだった。反省せずに、ただ貰えるはずのものを貰えなかったので、懇願しただけであった。36節では「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」と、父イサクのせいにしている。彼は祝福がもらえなかったので大声で泣き叫んで、ダダをこねただけだった。エサウの心は変わっていなかったのだ。 

 ヘブル人の手紙にはこう書いてある。エサウは、「心を変えてもらう余地がなかった」(新改訳3版)と。新改訳聖書2017では「彼には悔い改めの機会が残っていなかった」と書いてある。ここに本質がある。

 私はやはり「何でも求めれば、望み通り与えられる」という主張には、納得できない。現に与えられない人もいるからである。その大きな要因のひとつに、「心の動機」があるのではないか。エサウの心の動機は「祝福がほしい」だった。しかし、彼には軽率にその祝福を手放してしまった。しかも、その過失に対する反省がなかった。そして、彼はひとつしかない祝福を逃してしまったのであった。

 イエスはこう言っている。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

ヨハネ福音書 15章7節)

 

 

▼例2:ソロモンは何を求めたか

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 「求めた」というキーワードで、次に思い出すのはソロモン王である。有名なエピソードだが、見てみよう。

ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え」ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

(列王記第一 3章 5~10節)

 

 ソロモン王は、神に「何が欲しいか」と問われ、「民をさばくための聞き分ける心」を求めた。よくソロモン王は「知恵」を求めたと言われているが、厳密に言えば「判断力」「統治力」が正しい。ソロモンの願いは、父ダビデの時代に強大になったイスラエル王国を治めるための、王としての矜持が感じられる。

 実際に、ソロモンには適切な判断力が与えられたようだ。列王記第一3章にあるエピソードは、彼の知恵を示す代表的なものである。簡単に説明すれば、ある日、2人の女が1人の赤子をソロモンのもとに連れてきた。2人とも、その子は自分の子だと主張する。「私の子だ」「いや、私の子だ」という、水掛け論を、ソロモンはこのように治めた。「生きている子を2つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」。サイコパスにも程がある。

 しかし、これが上手くいった。実の母親は、子どものかわいさあまり、子どもが真っ二つにされることよりも、むしろ自分の手を離れて生きる道を望んだ。本当の母親でない方は、真っ二つにするよう望んだのである(これ自体がサイコパスだが・・・)。もちろん、本物の母親は前者であった。

 ソロモンは素晴らしい判断力でイスラエルの国を統治した。では、ソロモンは完璧な判断力を持った王となったのであろうか。いや、そうではない。彼は政治においては力を発揮したかもしれない。しかし、神に対して忠実ではなかった。彼は、力が強くなるにつれ、諸外国の女性を妻としてめとるようになった。彼には700人の妻と、300人のそばめがいたという。その多くが政略結婚だったのだろうが、諸外国の女たちを妻にした結果、ソロモンは諸外国の神々をも崇拝するようになってしまったのだ。彼は、外国の神々を崇拝する儀式や伝統、文化を取り入れてしまったのであった。聖書にはこう書いてある。

彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11章3節)

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。

(ネヘミヤ記 13:26)

 

 ソロモンが、なんと失敗した例として言及されているのである。偉大な王であるはずのソロモンが、実は後の時代に、こんなにもこき下ろされているのである。彼は本当に知恵のある王だったのだろうか。否。彼は失敗し、その失敗を修正できなかった王である。彼は本当に識別力のある王だったのだろうか。否。彼は神に対して忠実ではなかった。

 ソロモンが「判断力」を求めたエピソードは、クリスチャンの間でよく「模範解答」として紹介される。しかし、本当にそうなのだろうか。私は、ソロモンの答えは、「長寿」「敵の失墜」「富」を求めなかったという意味では「及第点」だとは思う。しかし、決して「ベスト」ではなかったと思っている。では、何がベストだったのか。彼の父、ダビデを見てみよう。

 

 

▼例3:ダビデは何を求めたか

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 ダビデは何を求めたのだろうか。聖書を見てみよう。

まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

詩篇 23篇6節)

一つのことを私は主に願った。 それを私は求めている。 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。 主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

詩篇 27篇4節)

 

 ダビデは、神と共に生きる人生を求めた。ダビデは、いくつもの失敗をした。自分の部下を殺して、その妻を略奪した。おそらくは自分の力を誇示するために、神の意思を聞かずに人口調査をした。そして、自分の子どもたちを正しく教育できなかった・・・。

 しかし、ダビデはこのように評価されている。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

(列王記第一 11章4節)

彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。(中略)それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。

(列王記第一 15章3~5節)

 

 いかがだろうか。これ以上ない、絶賛の嵐。最高の称賛を、ダビデは受けている。ダビデは「心が主とひとつになっていた」のである。

 ダビデは、あらゆる意味で失敗をした。しかし、彼はその度に神の前に反省し、深く自分の行いを悔いて、「歩み」を改めた。その結果、彼は「主と共に歩んだ」「彼の心は一生涯主とひとつであった」と評価されているのである。

 実は、この「主と共に歩む」「心が主とひとつになる」という点で、共通している人物がいる。他でもない、イエスである。

 

 

▼例4:イエスは何を求めたか

 イエスは自分自身を、どのように表現したか。見てみよう。

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10章30節)

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5章18節)

 

 どうだろうか。エスは、自分の言葉も、行いも、そして心も、全て父(神)とひとつだと宣言したのである。ダビデが神と共に歩んだのと同じ、いや、それ以上にイエスは神と共に歩み、神と心ひとつになっていたのである。

 そして、イエスは自分だけではなく、自分を信じる者たちが、神とひとつになれるように、祈った。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

ヨハネ福音書 17章20~23節)

 

 「彼らが父よ、あなたに留まるように」それがイエスの切実な祈りであった。エスは、何よりも、クリスチャンが神と心ひとつになり、神と共に生きるように祈ったのである。

 イエスは、クリスチャンが毎週日曜日に教会に通えるように祈っていない。イエスは、クリスチャンが聖書を学問的に学ぶ知識が与えられるようには祈っていない。イエスは、クリスチャンが「奉仕」をするように祈っていない。エスは、クリスチャンたちが「すべての人が父なる神のもとにひとつになる」ように祈ったのである。

 

▼神と共に生きること

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 本題に戻ろう。「求めよ。されば与えられん」。この言葉は、何を求めよと言っているのか。私は、クリスチャンが本当に求めるべきは、「神と共に歩むこと」そして「神と心ひとつになること」、この2つに尽きると思う。実は、その2つに神が定める「生き方」が内包されていると言っても過言ではない。

 昨今、「求めよ。されば与えられん」を用いて、「何でも神様に求めなさい」という教えを、よく耳にする。確かに、神には何だって求めてもよいとは思う。経済的祝福であれ、自分の昇進であれ、高級な車であれ、日々の必要なものであれ、人間関係の改善であれ、病気の癒やしであれ、晴天であれ、彼氏や彼女であれ、それを求めたければ何だって神に求めればよいとは思う。

 しかし、その際に3つのことを念頭に置く必要がある。

1:エサウのように「心の動機」が問われる(参考:ヤコブの手紙4章3節)

2:それが必ず自分の思い通りのタイミングや方法、見える形で与えられるとは限らない

3:全てを決定し、実行するのは神である

 

 モーセは、約束の地に入りたいと願った。しかし、神は「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」と言った(申命記3章26節)。パウロは、「自分にあるとげ」を抜いてくださいと3度も神に願った。しかし、神の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である」(コリント人への手紙第二12章9節)だった。どちらも、彼らが願う方法では願いは叶えられなかった。

 イエスは、こうも言っている。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6章29~34節)

 

 このようなイエスの言葉を信じれば、いたずらに「富を求める」行為は、必ずしも神に喜ばれる願いではないような気が、私はしてしまう。大切なのは、やっぱり心の動機であるのは、間違いないだろう。富を得た結果、何に使いたいのか。それを、神を見ている気がする。

 

 求めるものは求め、願うものは願ったらいいと思う。与えるも、与えないも、神の計画次第。大切なのは結果を神に委ねること。そして、何よりも「神と共に歩む」こと、「神と心ひとつ」にされるよう求めること。これは聖霊の助けなしにはできない生き方である。だからこそ、「聖霊の助け」を求める。これが、イエスが語ったことの真髄ではないか・・・と、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。 

【疑問】牧師は「礼拝会」を休んじゃダメなのか?

牧師たるもの、毎週日曜日の「礼拝会」を休んじゃいけないんだそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

▼牧師の子どもはカワイソウ?

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 牧師の子どもはかわいそうだ。こんな意見をツイッターで見かけた。なぜかというと、「牧師の子どもは日曜日のイベント、例えば運動会や、部活の試合の応援などに来てくれないから」だという。確かに、子どもの晴れ舞台に親が臨場できなければ、子どもにとっては寂しいだろう。

 なぜ牧師は日曜日のイベントに来られないのか。「牧師は必ず日曜日の礼拝会に出席しなければならない為」だという。なぜ日曜日の礼拝会に出席しなければいけないかと聞くと、「多くの教会が牧師の欠席を許さないから」だという。

 ここまで聞いて、私はひとつ疑問に思った。「聖書には何と書いてあるのだろう」。SNSなどで散見される意見を見ると、多くの牧師たちは、「日曜日の礼拝会を休んではいけない」と思っているようだ。しかし、その根拠は何なのか。

 クリスチャンたるもの、その信仰の基盤になっている聖書の言葉から根拠を見つけなければならない。「みんながそう言っているから」では、ちょっと根拠に乏しいと感じる。では、聖書はどう書いているのか。「礼拝会」は、休んではいけないものなのか? 牧師は教会を導く「船頭」なのか? 教会の目的は何なのか? そして、現代の教会に必要な姿とは、どんなものなのか。簡潔にまとめたい。

 なお、この記事は「礼拝」の価値観や、「教会」の価値観についての、これまでの記事の内容に多分に依拠するものである。私のこれまでの主張は、下記の記事を参考にしていただきたい。それでは、始めよう。

 

<参考リンク>

【疑問】クリスチャンになったら「毎週日曜日」に教会に行かなければならないのか? - 週刊イエス

【疑問】日曜日の「礼拝」は本当に「礼拝」なのか?! - 週刊イエス

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?! - 週刊イエス

【疑問】「礼拝を守る」という表現は適切なのか? - 週刊イエス

 

 

▼「礼拝会」は休んではいけないものなのか?

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 ほとんどの教会が、毎週日曜日に行っている「礼拝」と称する集会がある。私の今までの記事を読んでいただければわかるが、それらは「礼拝」ではない。日曜の集会は、「礼拝」ではなく、ただ一堂に会するための「礼拝会」である。「礼拝」とは、「神に自分自身をささげる生き方」であって、集会を指すのではない。

 では、この「礼拝会」は休んではいけないものなのだろうか。結論から言えば、絶対にNOである。詳しくは、以下の記事を参考にしていただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 日曜日に集まる習慣は、ヨーロッパの土着信仰とミックスした結果の、ただの合理的なルーティンである。そこに聖書による根拠はない。イエスの復活や、ペンテコステは日曜に起こったが、その日に集まる根拠としては弱いように思われる(※安息日の7日目の次の時代、すなわち「8日目の時代」に入ったという面白い視点はあるが、この記事では言及は避ける)。日曜に必ず集まるべしとの考えは、金曜の日没から土曜の日没までにかけてを「安息日」として、厳しくルールを守っているユダヤ教の考えに影響を受けたものである。

 むしろ、聖書を読めば、クリスチャンにとっては「毎日が安息日」であり、「集まれるなら毎日集まるべき」であるし、「24時間365日が礼拝」なのである。それが筆者の基本的な考えである。したがって、クリスチャンは毎週必ず日曜日に教会の「礼拝会」に出席しなければならないという考えは誤りである。

 

 では、「牧師」という立場に限って考えてみよう。なぜ「牧師は日曜日の礼拝会を欠席してはならぬ!」と考える人がいるのだろうか。疑問に思ったので、とある人に聞いてみたところ、こんな返事が返ってきた。

ひとつの群れ(教会)を導く導き手は、1人の方が良いんです

 どういうことだろうか。これは簡単に言えば、「リーダーは1人でないと、正しいゴールにたどり着けない」という意味である。リーダーが何人もいると、意見がバラバラになって、結果的にメンバーもバラバラになってしまう。確かにその主張は一見、論理的に思える。ワントップで動く集団の方が、目標設定も明確だし、意思決定も早いし、動きやすい。逆にそれぞれがバラバラの意見のまま進んでいくと、いつまでたってもまとまりのない集団になってしまう。良し悪しはさておき、まるでどこかの与党と野党のようである。

 この考えのベースには、前提がある。それは、「牧師が教会のリーダーである」という考えだ。牧師が教会のリーダーであるのならば、日曜の礼拝会に牧師が出席しなければ、「導き手」が存在しないことになり、確かにそれはよろしくない。もっと言えば、多くの場合、牧師が行う「説教・メッセージ」が礼拝会のメインディッシュと考えている人もいる。そして、多くの人が「説教は牧師だけの特権である」と考えている。その場合、牧師がいなければ「説教」を行う人がいなくなってしまう。だから、牧師が礼拝会を欠席すると、困ってしまう。こういうロジックだ。

 ちょっと考えを整理してみよう。

<前提条件>

1:リーダーは1人であるべきだ

2:牧師は教会のリーダーである

3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ

4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである

5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない 

<以上の条件から導き出される結論>

・教会の唯一のリーダーであり、礼拝会のメインディッシュである「説教」を行う権利を持つただ一人の存在、すなわち「牧師」が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである。

 

 以上が、「牧師は日曜日の礼拝会を休んではいけない」と考える人のロジックである。

  さて、聖書はどう言っているのだろうか。順番に見ていこう。

 

 

▼「牧師」が群れを導くなどという妄想

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 いくつかの前提をもとに導き出した結論か正しいか判断するためには、まずその前提が正しいか検証する必要がある。順番に見ていこう。

 

<前提1:リーダーは1人であるべきだ>

 リーダーは1人であるべきなのか。これは聖書の記述とは直接関係ないかもしれないが、私個人の意見を言うならば、「YES & NO」である。

 確かに、意思決定プロセスはひとつに定めていた方が良い。意思決定の早さ、確実さ、一貫性を保つためにも、意思決定プロセスの明確さは必要である。教会によっては、最終的な意思決定を牧師がするところもある。または、リーダーシップをとるチームで判断する場合もある。また、教会によってはメンバー全員の多数決で決めるところもある。カトリックなどは、本部の決定が全てであり、組織的な意思決定プロセスが明確になっている。

 この意思決定プロセスが明確ではないと、必ず意見の相違が出た場合に争いが起きる。今回は、どのプロセスが優れていると論じるつもりはない。それぞれにメリットとデメリットがある。

 しかし、聖書はこう教えてはいないだろうか。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)

 確かに、意思決定プロセスは、ひとつに絞り、明確であった方が合理的かもしれない。しかし、人間の目に見えることが、必ずしも正しいとは限らない。聖書にはこう書いてある。

人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

箴言 14章12節・16章25節)(全く同じ文)

 これは、「人間の目に合理的・正義に見えるものが、必ずしも正しいとは限らない」とも読めないだろうか。その点から見ても、「リーダーは1人」という点に固執する必要はないのではないか。意思決定プロセスは明確にしつつも、同じ教会の中では、互いに仕え合い、互いの意見を尊重して平和を保つのが重要である。

 

<前提2:牧師は教会のリーダーである>

 これは明確に間違っている前提だ。聖書をひらこう。

キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

(エペソ人への手紙 5章23節)

また、御子(イエス)はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

(コロサイ人への手紙 1章18節)

 教会のリーダーは「牧師」ではなく「イエス・キリスト」である。エスの言葉は聖書に書いてある。イエスの性質・神の性質は、旧約聖書新約聖書の両方に書いてある。教会が一番に聞くべきは、牧師の「説教」ではなく、聖書の言葉、すなわち「神の言葉」である。牧師は教会のリーダーなどではなく、教会の役割の一つである。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

(エペソ人への手紙 4章11節)

 だから、「牧師が教会のリーダー」と考えている人は、今すぐその考えを改めた方がよい。

 

<前提3:日曜日の礼拝会は毎週行うべきだ>

 これも明確な間違いである。この価値観については、何度もこのブログで取り上げたので、今回はいちいち論じるのはやめる。上に述べたように、クリスチャンにとっては毎日が礼拝である。礼拝会は便宜上、クリスチャンたちが「励まし合い」「教え合い」「支え合い」「愛し合う」ために集まっているものである。集まりをやめるのは得策ではないが、「必ず毎週日曜日」というルールは聖書のどこにも記述はない。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10章25節)

 

<前提4:日曜日の礼拝会のメインディッシュは牧師の説教・メッセージである>

 これも明確な間違いである。礼拝会の目的は多岐にわたる。むしろ、新約聖書を読むと、集まりの主眼は「励まし合うこと」であるようにも見える。また「食事を一緒にする」というのも、その大きな目的のひとつのように思える。私個人としては、礼拝に必ず「説教」が不可欠だとは思わない。むしろ、聖書に記述のある教会は、多くの者が語り、互いに教え合っていたように思える。

ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。

(コリント人への手紙第一 11章33節)

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3章16節) 

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

(ヘブル人への手紙 10節24節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙 5章16節)

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

(ペテロの手紙第一 4章8~10節)

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

ヨハネの手紙第一 3章23節)

 いかがだろうか。聖書には、一言も「牧師の説教が教会の目的」だとは書いていない。むしろ、「一緒に食事をし」「互いに教え、忠告し合い」「互いに注意を払い」「互いに罪を言い表し」「互いのために祈り」「互いに熱心に愛し合い、もてなし合い、仕え合い」「互いに愛し合うこと」これが神の命令である。 牧師の説教など命じられていはいない。ただ、イエスを神と信じる者同士の愛の関係を持つように命じられているのである。

 

<前提5:日曜日の礼拝会の説教・メッセージは牧師しか行ってはいけない>

 これも明確な間違いである。聖書のどこにもそのような記述はない。「牧師」という言葉そのものが、本来「羊飼い」という単語であるにも関わらず、一度だけ「牧師」という言葉に捏造されている(エペソ4章11節)。この一語のみが聖書に登場する「牧師」であって、それは捏造なのだから、本来「牧師」という言葉は聖書には登場しないのだ。聖書に根拠がないのだから、「牧師しか教えてはいけない」という考えは、明確な誤りである。

 ただ、このような記述も、確かに聖書にある。

兄弟たち、あなたがたにお願いしますあなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5章12~13節)

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節)

 確かに、指導者を敬う必要は大いにある。人への尊敬は、適切な関係性を構築する。同時に、教える立場の者には大きな責任が伴う。勝手に聖書に記述のないものを教え、間違った教えを広めてしまう危険性があるからだ。現に、近年、有名な牧師たちが今までの自分たちの教えは間違っていたと告白するケースが、多々起きている(※例えば、「繁栄の神学」で有名なベニー・ヒン氏のケースなど)。このことから、教える側だけの問題ではなく、聞き手の判断力も必要な時代になっているのは間違いない。

 しかし、そのような状況を鑑みても、「牧師だけに教える権利がある」との考えは、根拠に乏しい。聖書の時代の教会では、「牧師」ではない立場の者も、互いに教え合っていた。

さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

使徒の働き 18章24~26節)

  プリスキラとアキラは、現代でいえば「執事」のような、教会の行政部分(お金の管理、貧しい人の支援など)を担っていた人たちであったと想像できる。彼らは「牧師」ではなかった。しかし、彼らは人々を教えていたアポロに対し、彼の神学的間違いを指摘したのであった。

 アポロもそれを受け入れ、新しい教えを教えていった。その結果どうなったのだろうか。

アポロはアカイアに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、彼を歓迎してくれるようにと、弟子たちに手紙を書いた。彼はそこに着くと、恵みによって信者になっていた人たちを、大いに助けた。聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。

使徒の働き 18章27~28節) 

 「牧師」ではなかったが、プリスキラとアキラはアポロに聖書を教えた。彼らは分を超えていたのだろうか。否。彼らの指摘は正しいものであった。その結果、アポロによってより正確な教えが広がっていったのであった。

 

 ・・・いかがだろうか。1は部分的には正しい前提だ。しかし、2~5に関しては完全に間違った前提となっている。間違った前提から導き出された「解」は、当然間違った答えになるのは言わずもがな。以上の点から、「牧師が礼拝会を欠席してはいけない。なぜなら、牧師がいなくなると、リーダーも説教をする人も存在せず、教会の「群れ」が露頭に迷ってしまうからである」という考えは、完全に間違っているといえる。

 教会の唯一のリーダーはイエスである。礼拝会の主目的は、「励まし合うこと」にある。イエス・キリストが再び帰って来る希望を告白しあい、一緒に食事をし、互いに助け合うのが教会の目的である。牧師でなくとも説教やメッセージはできる。それが聖書から学べるポイントである。

 最後に、私は、さらに大きな視点での指摘をしたいと思う。

 

 

▼教会のゴールは神であり、中心はイエスであり、船頭は聖霊である

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 教会の究極的な目的を、大胆に述べよう。それは「神ご自身」である。聖書にはこのように書いてある。

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主<しゅ>はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

(コリント人への手紙第一 1章2節) 

 「神の教会」「神の諸教会」という言葉は、新約聖書に12回登場する。教会は神のものであり、また、教会が目指すべき目的・ゴールは、唯一の創造主である神ご自身である。日曜日の礼拝会が目的ではない。神につながり、神と共に歩むこと。それを励まし合うこと。これが教会の真の目的である。

 

 また、教会の中心にいるのは誰だろうか。それは他でもないイエスである。聖書にこう書いてある。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙 1章23節)

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

(エペソ人への手紙 1章22節)

 教会には、イエス・キリストその人が与えられている。教会のリーダーはイエスその人であり、教会の中心はイエスご自身である。教会の人間関係の中心には、イエスがいる。それは紛れもない事実だ。

2人か3人がわたし(イエス)の名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

(マタイの福音書 18章20節)

 

 また、教会を導くのは誰なのだろうか。牧師なのだろうか。否。教会を導く「船頭」は「聖霊」である。聖書にこう書いてある。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

使徒の働き 20章28節)

 クリスチャンを導くのは「牧師」ではなく「聖霊」である。その基本を忘れて、「牧師」という人間だけに頼るようになると、黄信号。各々が、日々、聖霊の導きを求める必要がある。 

 

 ・・・いかがだろうか。いかに「教会には牧師がいなければダメだ」という考えが、人間的なものであるか分かるだろう。2人でも3人でも、イエスが中心にいて、神に向かっていて、そして聖霊の導きによって進んでいくコミュニティ。それが教会なのである。

 

 

▼おまけの提言:休んだっていいじゃない! 

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 さて、この記事のタイトル「牧師は休んじゃダメなのか」に対して、私なりの答えを書いて記事を閉じようと思う。単刀直入に言えば、「休んだっていいじゃない!」というのが私の答えだ。

 牧師を、聖書のいう「監督者」と捉えるならば、これが牧師の資格である。

ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3章2~5節) 

 

 自分の家庭を治める、子どもを従わせる、という面では、以下のような言葉もある。

父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

(コロサイ人への手紙 3章21節)

 

 子どもを気落ちさせないためにも、日曜日のイベント事には、どうぞ出席なさったらいいのではないか。子どもの晴れ舞台を見に行ってあげたらいいではないか。それが子どもに「愛を示す」という行為ではないのだろうか。

 子どもだけではない。愛する妻とデートをしているだろうか? 愛する家族と時間を過ごしているだろうか? 近所の人と関係を保っているだろうか? 困っている人を助けているだろうか? 

 私は一度、日曜日に友人に引っ越しの手伝いを頼まれたので、礼拝会を欠席して引っ越しの手伝いをした。手前味噌で恐縮だが、クリスチャンではないその友人にとっては、愛を感じる行為だったのではないだろうか。日曜日の礼拝会という儀式的なものより、優先するべきことが、この人生たくさんある。日曜日の礼拝会を保つよりも、本当に大事なものを見失っていないか、チェックする必要がある。

 

 その上で、「礼拝会」のスタイルを維持するために、私なりの提言がいくつかある。

1:「牧師」的な存在を複数設けて、交代で休めるようにする。イスラエルの祭司だってシフト制だったのだから、良いではないか。私が集っていたコミュニティでは、それを実践していた。人材不足? ならば、「神学校」などの過剰な負担を強いる登竜門や、「とりあえず伝道師」という時間ばかり消費するシステムで下積みさせるのをやめたらいいと、私は思う。

2:牧師的な存在以外の人でも、いわゆる「説教・メッセージ」をできるように訓練する。また、その機会を設ける。メッセージなど、実は誰でもできる。現に、私が集っているコミュニティでは、それを実践している。それをやらなければならないほど、クリスチャン界の人材不足の状況は逼迫している。

3:日曜日にこだわらず、様々な形の「教会」を模索したらどうか。昨今では、土曜日に集まる集会も増えていると聞く。月曜でも水曜でもいい。また、現代のテクノロジーでは物理的な距離を乗り越え、オンラインでも人間関係を持つことができる。私は、教会の定義を「2人以上のイエスを中心として人間関係が発生するもの」と捉えているので、インターネット上でも教会は十分存在し得ると考えている。

 

 ・・・いかがだろうか。もしこのブログの読者であるあなたが「牧師」の場合、あなたのライフスタイルを見直してみてはいかがだろうか。働き方改革」が叫ばれている今、牧師だって働き方改革をしてもいいのではないだろうか。本質は変えず、スタイルは時代にふさわしいものがあると、私は思う。現代にふさわしい「教会の」あり方が、きっとあるはずだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。