週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「明日、晴れますように」と祈るのは正しいのか?

クリスチャンの中で、たまに「明日は絶対晴れます!」と言う人がいますが、それは正しい姿勢なのでしょうか?

 

 

▼「なんで雨なんだよ!」と神にキレる先輩

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 大学時代、クリスチャンのサークルの新入生歓迎イベントに参加した。典型的な新歓バーベキューだった。駅で先輩たちと待ち合わせたのだが、当日はあいにくの雨。しかも、結構ザーザー降っていた。しかし、バーベキューは中止にはならず、決行された。

 バーベキュー場につくと、先輩たちが寒そうに傘をさして待っていた。すると、実行委員のとある先輩が、空に向かって何やら叫び出した。「神様! あんなに晴れるように祈ったのに、なんで雨なんだよ!! なんでだよ!!! ふざけんなよ!!!!」全身全霊で神に向かって怒りを表現している先輩に、私は唖然とした。まわりの新入生もドン引きだった。ご利益的な信仰と、その祈り通りにならならず神に対して怒っている姿に全力でツッコミたかった。結局、それがキッカケで、そのサークルに対して悪い印象しかなくなった。

 このように、「神様明日晴れにしてください」とか「神様に祈ったら絶対晴れるよ」といった言葉は、クリスチャン同士の会話でよく耳にする。一般的には、天気予報などを加味して、雨天時の予定を組んだりするのだが、クリスチャンの中には、「晴れるように祈ったから、絶対晴れるよ!」と楽観的な意見を述べる人がいる。そこまで強行的でなくとも、「晴れるように祈ろう」という人は多い。

 果たして、これは「信仰」と呼べるものなのだろうか。今回はその点を議論したい。

 

 

▼神には天気を左右する力がある

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 聖書は、「晴れるように」など、天気を左右する祈りについて、どう書いているのだろうか。実は、晴れや雨など天気について祈る行為の是非について、聖書には全く記述がない。禁止も推奨もされていないのである。

 当然、神が天気をつかさどっているという記述はある。神がこの世界のすべてを造ったのだから、当たり前なのだが、いくつかその例を挙げてみよう。

 

<エジプトでの雹>

「私(神)は明日の今頃、エジプト始まって以来、今までになかったような恐ろしく激しい雹を降らせる。それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう」ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。しかし、主の言葉に心を止めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。(中略)そこで、モーセは杖を天に向って差し伸ばした。こうして主は、エジプトの地の上に雹を降らせた。雹が降り、雹の間を炎が駆け巡った。その激しさは、エジプト全土で国が始まって以来ないほどのものであった。雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。

出エジプト記 9:18~26 聖書協会共同訳)

  これは、有名な「エジプトでの10の奇跡(災い)」の一部である。神がエジプトに猛烈な雹を降らせたという記述だ。ただし、イスラエル人が居住するエリアには雹が降らなかった。神が天気をコントロールしているのが分かる。

 

イスラエルの戦いでの雹>

主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、イスラエルはギブオンで彼らに大打撃を与え、さらにベト・ホロンの坂道を追い上げて、アゼカとマケダまで彼らを追撃した。彼らがイスラエルの前から逃れ、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主<しゅ>は天から大きな石(雹)を降らせた。それはアゼカに至るまで降り続いたので、多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。

ヨシュア記 10:10~11 聖書協会共同訳)

 イスラエルの民が、アモリ人と戦争した時、神が雹を降らせた。イスラエル人が戦争で殺した人より、神による雹に打たれて死んだ人の方が多かった。戦争に勝利するのは、人の力ではなく、神の力によるものだとハッキリ分かる出来事である。

 

<太陽が一日の間留まる>

こうして、主がアモリ人をイスラエルの人々の前に渡された日、ヨシュアイスラエルの見ている前で主に語った。「『太陽よ、ギブオンの上にとどまれ。月よ、アヤロンの谷にとどまれ』すると、太陽はとどまり、月は動きをやめた。民がその敵に報復するまで」これは『ヤシャルの書』に記されているとおりである。太陽は丸一日、中天にとどまり、急いで沈もうとはしなかった。この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。

ヨシュア記 10:12~14 聖書協会共同訳) 

 何とビックリ。太陽が一日中とどまり、沈まなかったとの記述である。神は、太陽の動きをコントロールする力を持っている。もっとも、近年の研究では、この記述は日食ではないかとの指摘もあるようだ。

 

<太陽が十度戻る>

 ヒゼキヤ(王)がイザヤ(預言者)に、「主が私を癒やされ、私が三日目に主の神殿に上ることができるというしるしは何でしょうか」と問うと、イザヤは、「これが主からのあなたへのしるしです。主は約束されたことを必ず実行されます。日影が十度進むか、十度戻るかです」と答えた。するとヒゼキヤは、「日影が十度伸びるのはたやすいことです。むしろ日影を十度後戻りさせてください」と頼んだ。そこで預言者イザヤが主に叫ぶと、主は、日時計、すなわちアハズの日時計に落ちた日影を十度後戻りさせられた。

(列王記下 20:8~11 聖書協会共同訳)

 ヒゼキヤ王は病気になった。ヒゼキヤは、神に熱心に祈って、癒やされることになった。ヒゼキヤは、預言者イザヤにその証拠を求めると、イザヤは「太陽が十度進むか、戻るか、どちらかを選べ」と提案する。ヒゼキヤは、太陽を十度戻すよう願うと、神は実際に太陽を十度戻したのであった。神は、太陽を止めるだけでなく、戻すこともできるのである。

 

<預言の中に見られる神の力>

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は雷雲をもたらし、人々に豊かな雨を与え、すべての人に野の草を与えられる。

(ゼカリヤ書 10:1 聖書協会共同訳)

 預言書の中には、神が自然をコントロールしている様が、よく描かれる。神は、雨も風も雷も支配している。季節も天気も、神が差配しているのが分かる。特にここは、雨が非常に貴重な中東ならではの、神が雨を与えるという約束である。

 

預言者エリヤの時の大雨>

ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤ(預言者)はアハブ(王)に言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年間の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(中略)それから多くの日を重ねて三年目のことである。主の言葉がエリヤに臨んだ。「さあ行って、アハブの前に姿を現しなさい。私はこの地に雨を降らせる

(列王記上 17:1~18:1 聖書協会共同訳)

 イスラエル王国のアハブ王の時代、長い期間の干ばつがあった。実は、信仰を捨てていたイスラエル王国を戒めるために、神が干ばつを起こしたのであったそして、3年語には大雨を降らせた。雨を降らせるのも、降らせないのも、神のさじ加減なのである。よくこの箇所を引用して、「預言者エリヤのように天気を祈るべきだ」という人がいるが、それは間違いである。天気を支配するのは、私たちの祈りではなく、神ご自身の主権と力である。

 

 このような例を見ると、神がいかに偉大な力を持っているか分かるだろう。神は天気を司っている。この点には、聖書の神を信じる人にとっては、全く異論のないところであろう。問題は、どんな理由で天気を祈るかという、そのモチベーションである。

 

 

▼「明日晴れますように」という自己中心

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 なぜ、天気について祈るのか。例えば、「明日、屋外で教会のイベントがあるから、天気になるように祈りましょう」というケースで考えてみたい。当然、その理由は、イベントが問題なく開催される為である。ということは、「自分たちが企画したものがうまくいくように、神様どうか天気を晴れにしてください」と祈っていることになる。

 この動機は、ハッキリ言って自己中心以外の何物でもない。例えば、「晴れになってほしい」と祈る際に、同じ地域で「雨が降るように」と祈っている人がいたら、どうなるのか。例えば、あなたが企画したイベントの裏で、「どうしてもマラソン大会に出たくない、神様どうか雨を降らせてください」と願っている、いたいけな少女がいるかもしれない。命をかけて練習してきた陸上選手が、たまたまその日体調が万全でなく、雨天順延を願っているかもしれない。

 クリスチャンだけが特別なのだろうか。「明日は絶対晴れます」とか断言してしまうクリスチャンは、他の人を慮る想像力がまるでない。ハッキリ言って、自己中心である。

 ましてや、同時に同じエリアで、2のクリスチャンのうち1人が「晴れにしてください」と祈り、もう1人が「雨にしてください」と祈っていたらどうなるのか。神はどちらの祈りを聞かれるのだろうか。より神に信頼している人の祈りを聞くのだろうか。そうではないだろう。

 結局、神が晴れにすれば晴れるし、雨にすれば雨が降るだけなのである。大事なのは、晴れになっても雨になっても神に感謝して生きる態度である。

 よく、雨天時の対応を考えると「不信仰だ」などと、わけのわからない指摘をしてくるクリスチャンがいるが、意味不明だ。屋外でイベントをやるなら、晴天時と雨天時の対応を考えるのは、当たり前である。不信仰などではない。

 

 

預言者エリヤの祈りはどうなるのか

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 こう言うと、聖書にこう書いてあるではないかと言う人もいるだろう。

預言者)エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、3年6ヶ月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。 

ヤコブの手紙 5:17〜18 聖書協会共同訳)

 

 これは、先に挙げた、神がイスラエル王国を戒めるために、預言者エリヤを通じて3年間の干ばつを起こした出来事の引用である。エリヤは、雨が降らないように祈ったではないか。だから我々も天気のために祈っていいのではないか。そう指摘する人は、前後の文脈を読んだ方が良い。

あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主(神)の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。エリヤは、私たちと同じ人間でしたが・・・

ヤコブの手紙 5:13~16 聖書協会共同訳)

 

 この部分で書いているのは、「イエスを信じるコミュニティの中で、お互いに祈り合いなさい」という勧めである。弱っている人を、祈りをもって互いに助け合いなさいという記述である。決して、雨が降るよう祈れとか、晴れになるよう祈れという意味ではない。天気が自分の思い通りになるという「信仰」は、果たして「信仰」なのか、アヤシイと私は思う。

 そもそも、エリヤが雨が降らないように祈ったのは、当時のイスラエルという国家への預言のためである。神が雹を降らせたり、大雨を降らせたり、太陽を戻したりしたのは、いずれも王や預言者など、イスラエルの民の国家的リーダーたちに対して示した「しるし」であった。決して、教会なイベントとか、新歓バーベーキューのような、チンケなものではない。スケールが全く違う。

 また、旧約聖書の時代の人々にとって、天気は暮らし、いのちをも左右する重要なものであった。しかし、現代の日本に生きる私たちは、たとえ天気がどうあろうと衣食住には困らないのだから、いちいち天気について心配したりする必要はない。ただ、例えば大地震とか、台風とか洪水のような、人のいのちにかかわるような災害が起こらないように祈るのは、私は全く問題ないと思う。むしろ、神を知る前に、そのような災害で多くの命が失われないよう、祈った方が良い。

 これは決して、神の主権を認めない話などではない。当然、神は天気をコントロールする力も主権も持っている。それを、自分の都合のために願うというのは、越権行為であり、自己中心ではないかという指摘だ。イエスもこう祈っているではないか。

(イエスは)少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この盃(十字架)を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに

(マタイによる福音書 26:39 聖書協会共同訳)

 

 イエスは、十字架という使命についてさえも、「どうか去らせてください」と祈った。興味深い。しかし、最後には「私の望むようにではなく、御心(神の計画)の通りになるように」と祈ったのである。

 私たちは、このイエスの姿勢に学ぶべきではないか。ましてや、私たちが祈る天気のことなど、十字架に比べたら100億倍も小さなこと。「天気がよくなるように」と祈ってもいいかもしれない。だけれども、結果はどうあろうと、神に感謝して生きることが大切なのだ。決して、「神様、なんで雨なんだよ!」とキレてはいけない。そもそも、バーベキューをやる前に天気予報が出ていたのだから、新入生の気持ちを考えたら、屋内に切り替えたほうが賢かった。例の先輩は、自分のプランに拘るあまり、皆をドン引きさせる結果となってしまったのだ。

 

 

▼結局はモチベーションが一番大事

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 結局のところ、「心の動機」が全てである。あなたが天気について祈るのは、どのようなモチベーションなのだろうか。「自分の信仰を宣言したまで」と言う人もいるが、本当にそう思っているのだとしたら、ちょっとその信仰は自己中心的かもしれない。聖書がいっているのは、私たちがどのような状況でも、神に従い、愛し合い、赦し合い、支え合い、神を自慢し、喜び、感謝する「生き方」なのである。晴れなら感謝しよう。雨でも感謝しよう。聖書にこう書いてある。

 

きょうだいたち(※イエスを信じる仲間たち※)、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主<しゅ>にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。あらゆる悪から遠ざかりなさい。

(テサロニケの信徒への手紙 5:12~22 聖書協会共同訳)

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【まとめ】クリスチャンの離婚・再婚についての考え方

離婚、再婚。社会においては、もはや「普通」のことになりましたが、クリスチャンはこのテーマについてどのような考え方をすれば良いのでしょうか。

 

 

▼デリケートなテーマにつき

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 「クリスチャンは、離婚や再婚についてどう考えているの?」ある友人からそう聞かれた。私は答えにつまった。自分の中で、ある程度の考えはあった。しかし、正直いって真剣に考えてこなかったテーマでもあった。離婚や再婚は、もはや現代社会においては珍しくない。それゆえ、実際に離婚した人、再婚した人、ご両親が再婚した人など、当事者の方が大勢いる。それはクリスチャンであってもそう変わりない。

 このような内容の記事を書くのを、私はためらっていた。当事者の方たちの人間関係やアイデンティティに関わる話であるし、何といっても私は結婚経験のない独身者だからである。私に離婚や再婚について書く権利はない。そう思っていた(筆者は2020年に結婚した)。

 けれど、友人からそのように聞かれ、少なからずこのテーマについて悩んでいる人がいると気がついた。そして、結婚、離婚、再婚は、人間の人生において非常に重要なテーマであると再認識した。その結果、ある程度このブログでもまとめておく必要があるだろうとの結論に至った。このような経過から、今一度聖書を調べ直し、私なりの考えをまとめてみた。読者の方々は、これはあくまでも、私の個人的意見であるという点をご理解いただいた上で、参考程度に読み進めていただければ幸いである。また、この記事で扱うのは「クリスチャンの離婚・再婚」であることを念頭に置いてほしい。

 

 

▼聖書の基準をどのように適応するか

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 聖書は、現代に生きる私たちにとって、どのようなものなのか。ある人は、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉だ」と言い、ある人は、「聖書はそのまま現代に適応できない」と言う。ある人は「聖書は人生のマニュアルだ」と言い、ある人は「聖書は人生の指南書ではない」と言う。

 私は、どちらかと言えば、「聖書は神の言葉」として捉える立場だ。当然、聖書の言葉は、生き方の基準になると、私は考える。だから、こんなブログを書いている。しかし、時代背景、言語や文化の違いを、よく踏まえた上で聖書を読む必要があると思う。特に、聖書は、一義的には昔のユダヤ人に対して語り継がれ、後に文字で記された書物であるという点を忘れてはならない。外国人である現代の私たちは、よくよくその点を理解し、聖書の文章を解釈する必要がある。当然、翻訳によって起こりうる弊害も考慮すべきだろう。

 そう考えれば、旧約聖書にある「律法」の規定のほとんどは、私たち外国人を直接的に縛るものではない。それは自明の理だろう。新約聖書はどうか。新約聖書には、イエスが示した基準、「使徒」たちが示した基準、現代の私たちにも当てはまる部分、当時の文化背景のみに適用すべき部分などが混在していて、どこで「ライン」を引くかは議論がある。もしかすると、聖書をソックリそのまま、「現代の人生マニュアル」のように読む読み方は、危険かもしれない。

 しかし、旧約・新約に関わらず、聖書の記述を通して、私たちが「いかに生きるか」をうかがい知ることはできる。聖書には、神がデザインした「生き方のヒント」がある。聖書は、私たちの心の動機を明らかにする。聖書は、人の過ちを浮き彫りにする。

 聖書がどんなものか、聖書自体が宣言している。

聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。

(テモテへの手紙第二 3:16~17 聖書協会共同訳)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル人への手紙 4:12)

 

 私の意見では、聖書はマニュアルではないが、「生きる基準」にはなりうる。では、今回のテーマ、「離婚・再婚」について、聖書は何と言っているのか、私なりにまとめたい。

 

 

▼聖書の「結婚観」について

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 「離婚・再婚」を語る前に、まず聖書の「結婚観」を語らないといけない。「結婚」は、旧約・新約にまたがる、聖書の一大テーマだ。その中でも、一番重要なのは、以下の言葉だろう。

それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記2:24)

 

 これは、神がアダムとエバの2人を創造したときの記述である。男は、女と結ばれ、その2人は「一体」となる。2つの別々の存在が、「結婚」という概念によって、「ひとつの存在」となるのである。これは、聖書の後々のメッセージの伏線でもある。

<2つのものが1つとなる例>

ユダヤ人 と 外国人(異邦人)が ひとつになる。(ローマ11章、エペソ2章)

・キリスト と 信者の集まり(教会)が ひとつになる。(エペソ5章・黙示録21章)

・聖書の神 と 人間が ひとつになる。(コリント人への手紙第一6章)

 

 新約聖書のエペソ人への手紙は、特にこの「結婚」の概念について解説している部分である。エペソ人への手紙の筆者であるパウロは、上に挙げた創世記の一部を引用し、結婚の概念について説明している。

私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

(エペソ人への手紙 5:30~33)

 

 また、「結婚」は聖書の最初の書物「創世記」で登場し、最後の書物「黙示録」でも描かれる。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(中略)また、最後の7つの災害で満ちた、あの7つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降ってくるのを見せた。

ヨハネの黙示録21:2~10)

 

 ここでは、キリストを「花婿」として、キリストを信じる者たち(≒新しいエルサレム)を「花嫁」として描いている。イエスは、福音書の中で何度も自分を「花婿」に例えて話していた(例:マタイ9章、25章など)。黙示録で描かれる「花婿」はキリストを指し、「花嫁」はイエスに信頼する者たちを指す。聖書の最初と最後に「結婚」が描かれているのである。

 

 まとめると「結婚」は、聖書が描く最も大切なもののひとつである。結婚は、「2つのものが、ひとつとなる」という概念であり、聖書の最初から最後まで示されている基準である。聖書の基準から言えば、「結婚」は、「両性による不可逆的な契約」である。

 異論はあるだろう。しかし、この部分は譲れない。創世記は、ハッキリと「男と女」の関係として「結婚」を表している。また、先に挙げ「違う性質の2つのものが、ひとつになる」という「結婚」の特性を鑑みれば、やはり「両性による」と考えた方が、私はしっくりくる。それが「神のデザイン」だと思う。「不可逆的な」と「契約」の部分は、次の議論と重なってくるので後で議論する。

 ひとまず結婚は定義できた。さて、今回のメインテーマである、「離婚・再婚」について見ていこう。

 

 

旧約聖書の「離婚」の基準

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 聖書は「離婚」について何と言っているのか。旧約聖書の「モーセの律法」にその記述がある。

人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出ていって、ほかの人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻として、あとの夫が死んだ場合には、彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。

申命記 24:1~4)

 

 これは、直接的に離婚を許可した規定ではない。しかし、離婚が前提となっている規定である。

 旧約聖書の価値観では、この箇所を根拠に「離婚」は許容されていた。しかし、男性のみに許された限定的な権利であった。それは、当時の価値観で、女性は男性の所有物のように見なされていたからだと考えられる。例えば、聖書で人口を数える時、特に断りのない場合は、基本的に男性の人数のみの記述になる。現代人が聞くと「なんて不条理な」と思うかもしれないが、それが当時の価値観だったのだ。

 離婚は、基本的には限定的な規定であった。上記の聖書の言葉のように、離婚できたとしても、一定の成約があったと考えられる。離婚した相手が別の人と再婚した場合には、同じ相手との再婚は禁じられていた。旧約聖書の世界で「離婚」は許容されていたが、元々は、例外的な規定だったと考えた方が良い。   

 しかし、それが次第に、「男性の権利」と捉えられ、簡単に離婚できるようになってしまったのだろう。新約聖書の人々の反応を見ると、男性側が妻を気に入らなくなった場合、すぐに離婚してしまうような社会だったのだと想像される(※現代にソックリ)。例えば、子どもができないとか、家事をサボるとか、料理がマズいとか、態度が悪いとか、そんなささいな理由もあったのかもしれない。この状況に対して、イエスは物申すのであった。

 

 

▼イエスが示した「離婚」の新基準

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 さて、そんな社会に対して、エスは全く違う基準を示した。エスは、聖書本来の基準を示したのである。聖書の言葉を見てみよう。

また、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

(マタイの福音書 5:31~33)

だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。

(ルカの福音書 16:18)

 

 以上が、イエスが言った言葉である。エスはハッキリと、「妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになる」と言っている。「姦淫」とは、ギリシャ語で「モイケイア」。不倫の意味である。このように「離婚」は、神によるデザイン通りの人間の生き方ではないと、イエスはハッキリ示している。

 

 少し長いが、他のイエスの言葉も見てみよう。

パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、初めの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです」弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受けいられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい

(マタイの福音書 19:3~12)

すると、パリサイ人たちがやって来てイエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか」彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです

(マルコの福音書 10:2~12)

 

 いかがだろうか。イエスが引用したのは、先に挙げた「創世記」や「申命記」の旧約聖書の基準である。エスは、旧約聖書を用いて、「離婚は姦淫である」という明確な基準を示した。「淫らな行い以外の理由で」とあり、不倫が理由なら離婚できるようにも読めるが、これについては諸説あるので後述する。

 ポイントは「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という部分である。エスの言ったことをベースに、コンセプトをまとめてみよう。

・神は人を男と女とに造った。

男と女は結婚によって、一体となる。

・結婚した瞬間に、2人がひとつの存在となる。

・肉体の接触においてひとつとなる(性交・婚姻関係・肉体的な段階)

・そして、霊的な概念においてもひとつとなる(霊的な段階)

結婚は、「神が結び合わせるもの」である。

神が結び合わせたものを人が引き離してはならない。

・霊的段階において、人は、神が結び合わせたものを引き離せない。

・妻を離縁することは姦淫(≒不倫)である。

・別の女と結婚することは姦淫(≒不倫)である。

 

 イエスの示した基準に対して、弟子たちは「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と反応した。これは驚くべき反応である。この部分は、当時「離婚」が男性だけの権利だった社会状況を如実に示している。当時の男性にとって、女性は「パートナー」というより「財産」に近かったのだ。子どもを産み、子孫繁栄するというのが、もっぱら当時の女性の役割だった。

 イエスの言葉は、そんな当時の社会常識に対して一石を投じたもので、離婚を禁じたものではないという解釈もある。一定程度、その解釈も理解はできる。確かに、私もイエスの力点は「離婚を禁じる」方ではなく、「簡単に離婚するなよ」という方に置かれていると思う。

 しかし、「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」という言葉が、私にはどうも引っかかる。この言葉は、「神が結び合わせた2人を、人間によって引き離すことは、”本質的にはできない”」とも理解できる。詳しくは後述する。

 私個人は、「結婚は、霊的にひとつとなる契約である」と考える。神の前に、霊的にひとつとなった2人は、もはや人によっては引き離せないと、私は考える。それは、「不可逆的な契約」だからである。

 ちなみに「淫らな行い以外の理由」でなら離婚はOKなのか、という疑問が残っている。これについては諸説ある。ある人たちは、この基準をもって、「相手が不倫をした場合は離婚してもOK」と捉える。

 しかし、イエスの言った「淫らな行い」のギリシャ「ポルネイア」は、本来「不倫」を示す言葉ではない点に注目したい。「不倫」を表すギリシャ語は先に挙げたように「モイケイア」である。「ポルネイア」は、むしろ「婚前交渉」などの「正しくない性行為」を指す言葉である。イエスが「ポルネイア」という単語を、ここであえて使っているのには、意味があるのではないか。このことから、ある人たちは、イエスが言ったのは婚約時代の裏切り行為」を指すのだと解釈する。確かに、聖書協会共同訳の注釈では、「不法な結婚」との記載もある。

 私は、どちらかと言えば後者に近い立場である。なぜなら、先に挙げたように人の力で神が引き合わせた2人を引き離すことは、不可能だからだ。たとえ「不倫」という過ちを犯しても、夫婦関係の修復は可能である。霊的概念では、一度結婚という契を結んだ2人は引き裂けない。一度「ひとつ」となった2人を引き裂けるとすれば、それは「死別」のみである。そしてそれは、神ご自身だけの権威である。使徒パウロは、その点を明確に示した。では、見ていこう。

 

 

パウロが示した「離婚・再婚」の基準

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 使徒パウロは、イエスの発言をベースとした基準を示した。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。

(コリント人への手紙第一 7:10~16)

 

 パウロの手紙の中には「これは神ではなく、私の勧めだ」と断っている部分もある。しかし、この部分は「命じるのは私ではなく主(神)です」と明言している。ここは、注目すべきポイントだ。だから、この部分を指して「この箇所は、この時代におけるパウロ個人の意見である」という指摘はしにくい。

 興味深いのは、パウロがこの箇所で、夫と妻の双方に命じている点である。イエスが新基準を示すまでは、「女性は男性の財産」として扱われた。しかし、イエスはその常識に物申した。パウロは、ユダヤ教の常識ではなく、イエスの言葉をベースに、「男も女も、離婚してはならない」という基準を示したのである。いわゆる「男女平等の権利と義務」を示したのである。

 

 パウロは、この箇所で「再婚」についても基準を示している。パウロの示したオプションは2つである。

<既に離婚している場合の基準>

1:再婚せずに、独身のままでいる。

2:離婚した相手と和解し、その相手と再婚する。

 

 パウロが示した「再婚」の基準はこの2つである。つまり、「再婚」したい場合は、あくまでも、離婚した相手との和解を目指すべきであって、他の相手は想定されていないのである。さもなければ、独身のままでいるべきだと書いてある。

 これは、正直いって、とても難しく、厳しい基準である。一度離婚に至った相手との再婚は、並大抵の覚悟ではできない。しかし、そのありえない和解が実現するのが、神の人知を超えた働きである。

 し再婚を考えているクリスチャンの方がいるなら、まずは別れた相手との和解を第一に考えて、祈り、行動するのをオススメする。茨の道だが、その先には大きな神の計画の道があると、私は思う。「人にはできないことも、神ならできる」のである。

 また、「信者でない方が離れて行くなら、離れて行かせなさい」というのは、イエスの言葉にはなかった新しい基準だ。信者である人と、信者でない人が結婚している場合、信者である方から離婚は切り出せないが、信者でない側からは離婚ができるとも読める。私はある程度、その考えを支持する。しかし、これは決して「再婚の容認」ではない。パウロが示したのは、あくまでも例外的な規定である。

 

▼再婚できるもうひとつのケース

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 再婚についての規定は、明らかである。聖書は、最初に結婚した相手以外との再婚について、基本的にネガティブだ。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。

(コリント人への手紙第一 7:10~11)

 

 しかし、例外の規定もある。以下の聖書の言葉を見てみよう。

結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男の物となっても姦淫の女とはなりません。

(ローマ人への手紙 7:2~3)

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。

(コリント人への手紙第一 7:39~40)

ですから、私が願うのは、若いやもめ(60歳以下)は結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。

(テモテへの手紙第一 5:14)

 

 この部分を読むと分かるのは以下である。

・初婚の相手とは、どちらかが死ぬまで結ばれている。

どちらかが死んだら、結婚する自由がある。

・ただし、「主にある結婚」(相手が信者と解釈するのが素直であろう)に限る。

・しかし、どちらかが死んだ後でも、結婚せずにそのままでいられるなら、その方が良い。

  

 パウロは、自身の考えを明確に示した。初婚の相手とは、相手が死ぬまで結ばれているのだ。私が、先ほど「霊的にひとつである」「不可逆的な契約」と書いたのは、そのためである。それを解除できるのは、どちらかが死んだときのみ。すなわち、生死を司る天の神だけが、その権限を持っているのである。

 パウロは、独身のままでいるよう勧めている。これについては議論があるが、パウロが再婚の規定を話している部分で「私のように独身でいられるなら・・・」という趣旨の話をしているのは興味深い。この再婚規定の部分をもって、パウロは配偶者との死別経験者だという人もいる。既婚者男性だけが「サンヘドリン」(最高法院・地方法院)のメンバーになれたというのが、ひとつの根拠となっている。

 パウロは、もしかすると配偶者との死別を経験し、覚悟を持って独身のままでいる生き方を選んだのかもしれない。

 

 

▼聖書で「再婚」した例

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 聖書で「再婚」した人たちを挙げてみよう。全てではないが、主な人物は以下である。

【タマル】

 再婚というより、死んだ兄の跡継ぎを産むために、再婚させられた。長兄である配偶者が死んだため、当時の習慣によって、夫の弟オナンと再婚した。しかし、オナンは、いわゆる「外出し」をしたため、神の怒りを買って死んでしまった(※「オナニー」の語源とも言われる)。タマルは、売春婦のフリをして、元夫の父ユダを騙し、肉体関係を持って子どもを産んだ。このときの子どもが、イエスの祖先となる。 

【サムソン・サムソンの最初の妻】

 結婚式の後に、サムソンの妻は、別の男に妻として与えられた。結局、ペリシテ人によってその女は殺されてしまった。サムソン自身は、その後デリラと結婚するが、彼女はサムソンが命を落とす原因となった。一応、サムソンは、妻の死後に再婚したケース。双方がネガティブな結果を迎えている。

【ルツ】

 ナオミの息子に嫁いだが、夫に先立たれてしまった。ナオミの勧めで、ボアズと再婚する。ダビデの祖先となる。夫との死別後に再婚したケース。

 【ミカル】

 ダビデの妻となったが、サウル王が取り上げて別の男に与えていた。サウルの死後、ダビデはサウルの側近だった将軍アブネルと交渉して、ミカルを妻として取り返した。しかし、ミカルはダビデをバカにしたので、子どもができなかった。政略結婚させられ、破棄され、また戻るという、非常に特殊な再婚のケース。また、王の妻である。

【バテシェバ】

 元々、ヘテ人ウリヤの妻だったが、ダビデと不倫をして、妊娠してしまう。夫のウリヤはダビデの策略により戦死。その後、ダビデの妻となる。ソロモンの母。イエスの祖先となる。一応、夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。ちなみにバテシェバは、息子ソロモンに対抗してクーデーターを起こし、失敗したアドニヤの肩を持つなど、人格的にも問題があったと考えられる。

 【アビガエル】

 ナバルという悪者の妻だった。しかし、ナバルがその悪さのために死んだ後、ダビデの妻となった。夫の死後に再婚したケース。また、王の妻である。こう見ると、ダビデの妻はほとんど再婚である。

【ホセア】

 神から、預言者の特別な使命として、預言のために売春婦の女と結婚する。その女が自分を捨てて、去ってしまっても、預言のために神に命じられて、再びその女を愛するようになる。神の使命による超例外的な再婚のケース。

 

 以上、聖書に記述のある代表的な再婚のケースを挙げた。いずれも、例外的なケースである。しかも、預言者や士師(民族のリーダー)、国家の王、王の妻といった特殊な立場の人間ばかりであった。それでもなお、ほとんどのケースは、「配偶者の死後」というのがひとつの基準となっている。

 長くなったが、以上のイエスパウロの示した基準から、私は、以下の2つのケース以外の離婚・再婚は、決して望ましくないと思う。

<離婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者が信者ではなく、かつ信者でない方が離婚を望む場合。

2:配偶者が不倫した場合。ただし関係修復に努力するようオススメする。

 <再婚が考えられる2つのケース>

1:配偶者と死別した場合。

2:配偶者と離婚し、後にその相手と和解して再婚する場合。

 

 結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。それは神の計画である。私はそれを信じる。それが神のデザインだと思う。

 それゆえ、クリスチャンの離婚はありえないと考える。ありえないというのは、離婚してしまったらダメという意味ではない。実務的に離婚はできても、霊的には切り離すことはできないのではないか、という意味である。

 信者でない人との結婚は、新約聖書では基本的に想定されていない。信じたときに、配偶者が既にいて、その人が信者でなかった場合のみ、信者でない方が離婚したいと言うなら、例外的に離婚はできる。しかし、それは例外規定」であるのを忘れてはいけない。それ以外の再婚は好ましくないし、もし再婚しても、昔の「結びつき」が消えることはない。

 相手と死別した場合は、自由に再婚できる。しかし、独身のままでいられるなら、もっと良い。これが、聖書の言葉がから読み取れる(と私が思う)基準である。

 しかし、既に再婚しておられる方もいるだろう。その場合は、離婚する必要はどこにもないと、私は思う。パウロも「今ある状態に留まれ」と勧めている。今ある「不可逆的な契約」を、ぜひ大切にしてほしい。今目の前にいる人を、どうか幸せにしてほしい。それに、力と思いを注いでほしいと思う。

 

<私の考えまとめ>

・結婚は、2人がひとつになるという、両性による不可逆的な契約である。

・それゆえ、クリスチャンの離婚はありえない。これはイエスが明言している。

・イエスを信じた時点で既に未信者と結婚している状態で、かつ相手から離婚を望む場合に限って離婚できる。

・不倫も離婚の理由になり得るという解釈もあるが、私はその立場ではない。まずは関係修復に努力するようオススメしたい。

・もし離婚してしまって、相手が存命中に再婚したいのであれば、初婚の相手との関係改善、和解につとめ、その人との再婚を目指すことをオススメしたい。大変つらい茨の道だが、その先の喜びは大きいと思う。人には不可能なことも、神ならできる。

・それ以外の再婚は好ましくないし、新たな相手とは霊的に結ばれることはできない。なぜなら、霊的には、既に初婚の相手と結び合わされており、それが解かれるのは死別した場合のみだからである。

神が結び合わせた結婚を、人が引き離すことは良くないし、そもそもできない。それができるのは、神のみであって、その方法は「死」だけである。

相手と死別した場合は、自由に再婚することが可能。しかし、独身のままでいられるなら、その方が好ましい。

既に再婚している人は、ぜひ今の相手を愛してほしい。大切にしてほしい。再び離婚しないように努めてほしい。

・既に肉親が離婚・再婚している方は、「間違いだ」と言うのではなく、家族をぜひ大切にしてほしいと思う。もし、この記事で誰かを傷つけてしまったら申し訳ない。

 

 

▼当然ありうる反論

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 以上、聖書から読み取れる基準を羅列した。しかし、実際問題、この原則を突きつけるだけでは解決しないケースがたくさんある。

 現実として、やむを得ない離婚も数多く発生しうる。暴力・DV(ドメスティック・バイオレンス)、度重なる不倫、犯罪、多額の借金、ドラッグ依存、アルコール依存、脳の病気、相手の気が狂う、結婚詐欺、子どもへの暴力やネグレクト、相手がイエスを否定するようになる、相手がクリスチャンだと思っていたら実は違った、相手が勝手に不倫をした挙げく別の人と結婚する、等々・・・。この世の結婚観は既に、めちゃめちゃに崩壊していて、修復不可能だ。人間は罪深いので、そのような間違いは、どんなに気をつけていても、誰にでも起こりうる。

 特に、家庭内暴力(DV)やドラッグ依存などは、離婚しないと命が危ないケースもある。特にDVに関しては、結婚前に見抜けない場合も多い。また、結婚後に相手がイエスを信じるのを「やめてしまう」場合、「実はイエスを信じていなかった」という場合も結構ある。これは、クリスチャンにとっては想像を絶するほど辛いことだ。

 そういう人たちに対して、あくまでも「原則」を突きつけ、「離婚は罪だ」とは、私はとても言えない。今までの記述を否定するようだが、上記はあくまでも「聖書が示す生き方の基準」である。例外は当然ある、と私は思う。イエスがもし現代社会にいたら、あまりにも簡単に離婚や不倫をする世の中に対して一石を投じるだろう。しかし、それと同時に、離婚して傷ついている人に寄り添い、慰めるというのもまた、イエスの姿ではなかろうか。

 教会の共同体・コミュニティにとって大切なのは、現実的にそういう問題が起こったときにどう仲間を勇気づけ、慰め、支えるかだと思う。「聖書の原則はこうだ」と突きつけ、相手を傷つけてしまうのは、同時に「互いに愛し合え」「さばいてはいけない」というイエスの言葉を無下にしてしまうことになる。離婚が「当たり前」になってはいけないと、私は思う。しかし、もし離婚せざるを得ないケースがあったら、その後どうしていくか、皆で支え、サポートし、寄り添うというのが、イエスを信じるコミュニティのあり方ではないだろうか。

 

 

▼結局は、神に従って生きるのが基本

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  以上、私の考えをまとめてきた。私は、クリスチャンの離婚に対してネガティブだ。その理由は、これ以上述べるつもりはないが、ここまで読んでいただけた方には理解してもらえると思う。もし離婚の危機にいるカップルがいらっしゃるなら、まず相手との関係改善のために、何ができるか考えてほしいと思う。

 しかし、現実的に離婚は起こりうるし、そうしないと命が危ないケースもある。もし離婚がコミュニティ内で起こった場合は、皆でその人を支え、励まし、慰め、勇気づけ、寄り添うというのが大切である。 「離婚歴」があるからといって、特定の立場になるのを制限したり、特定のコミュニティ内の役割を制限するのは、もってのほかだと思う。

 また、既に離婚してしまった方はいるだろうか。私は、大変言いにくいのだが、再婚するなら、元の相手を前提に考え、関係修復に全力を挙げることをオススメしたい。しかし、もし私自身が離婚してしまったと考えると、関係修復に努力したり、そのまま独身で居続ける自信は、正直言って無い。もしあなたが、再婚できないことで傷つきすぎて、イエスに信頼できなくなってしまうのであれば、元も子もない。その場合は「再婚」も一考していいと、私は思う。しかし、それが本来の神のデザインではないと知っておく必要はあると思う。

 結局のところ、神に従うというのが一番の基本である。そのためには「心の動機」を調べるのが重要である。自分はなぜ離婚したいのか。なぜ再婚したいのか。今一度、胸に手を当てて考えてみてはどうだろうか。究極的には、神に従う選択が一番なのだ。自信を持って、神に従っていると言えれば、それで良し。もし言えないのであれば、自分の「心の動機」がどこにあるのか、考えてみよう。おのずと、答えは見えてくるのではないだろうか。

 

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。

(伝道者の書12:13〜14)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【比較】「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比べてみた!

最近刊行した、新しい聖書翻訳、「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」はどう違うのか、比べてみました。

 

 

▼「新改訳」と「共同訳」

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 日本語の聖書の翻訳は、主に3種類ある。ひとつは、「明治元訳・大正改訳」を源流とする、「文語訳聖書」。文語訳聖書を現代流の日本語に改定したのが「口語訳」である。

 ふたつめは、1970年に初版を刊行した新改訳聖書である。新改訳聖書は、いわゆる「福音派」というグループを中心に、プロテスタントの一部に強く支持されている。

 最後は、カトリックプロテスタントが共同で翻訳した「共同訳」。1987年に刊行した「新共同訳聖書」は、現在、日本で最も読者が多いとされる翻訳である。

 近年、「新改訳」と「共同訳」の新しい翻訳が、相次いで発表となった。2017年秋には、新改訳聖書2017」が刊行。直近の2018年12月には、「聖書協会共同訳」が出版された。

 私は、それぞれの新しい翻訳を手にとって読んでみた。面白い。今まで見えなかった聖書の言葉が、浮き出てくるようだった。また、イエスを信じて以来基本的に「新改訳」を読んできた私にとって、「共同訳」に触れるのは、全く新しい体験であった。感動した。新しい翻訳を通じて、神の知らない姿を感じ取れた気がした。

 世の中に完璧な翻訳などない。それぞれに良さ、弱点があるのは言うまでもない。私も、「新改訳」には新改訳の良さがあり、「共同訳」には共同訳の良さがあると思う。そこで、今回、具体的に「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比較し、その違いを示したいと思う。

 

▼自然な日本語

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 翻訳の評価は、何に主眼を置いたかによって基準が変わる。「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」の双方の翻訳ポリシーを読んでみると、どちらも「自然な日本語」を目指すというものが、要素のひとつのようである。

 では、どちらの方がより自然な日本語なのか。こればかりは、好みの問題も入ってくるので、一概に優劣はつけられない。しかし、読んでみた私の感覚で申し上げれば、こと「自然な日本語」に限って言えば、「聖書協会共同訳」に軍配が上がると思う。個人的感覚で言えば、スラスラ読めるのは、聖書協会共同訳の方だ。参考に、聖書の一部分を取り出して、比較してみよう。

 

<1:「私はある・いる」>

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 聖書の神は、トリッキーな自己紹介をする。その部分を見てみよう。

新改訳聖書2017>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣われた、と」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:14〜15)

<聖書協会共同訳>

神はモーセに言われた。「私はいる、という者である」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました』これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

出エジプト記 3:14〜15)

  

 これは、神がモーセに自己紹介をした有名なシーンである。ヘブライ語では「エヒエ・エセル・エヒエ」(אהיה אשר אהיה)という。「現在・過去・未来」、時を超えて存在するという意味である。英語では、ほとんどの訳が「I AM WHO I AM」と表現している。神が、「俺は俺だ」とおちゃめな自己紹介をしたという解釈もある。「ここにいるよ」という、神からのメッセージでもある。

 日本語では、伝統的にこの名前を、「私はある」と訳してきた。新改訳はそれに倣っている。しかし、聖書協会共同訳は今回、大胆にもこの訳を「私はいる」に変更した。

 よくよく考えたら、当たり前なのだが、日本語で「人・生き物」の存在は「いる」と表現する。逆にモノは「ある」と表現する。「私はいる」「お父さんがいる」「ワンちゃんがいる」とは言うが、「パソコンがいる」「ポテトチップスがいる」「聖書がいる」とは言わない。逆に、「私はある」「お父さんがある」「ワンちゃんがある」とは言わないが、「パソコンがある」「ポテトチップスがある」「聖書がある」とは言う。日本語は、命あるものと、ないものの存在を明確に区別しているのだ。

 そう考えると、神については「私はいる」と表現した方が適切だろう。むしろ、なぜ今まで「わたしはある」という表現に甘んじていたのか分からない。大方、「神は人ではない」というような、もっともらしい理由があったのだろう。しかし、それは分かりづらいだけだ。今回の聖書協会共同訳の英断を、私は歓迎したい。

 他にも、細かいが表現の違いに注目してみよう。

新改訳聖書2017>

イスラエル子ら

・あなたがたの父祖の

・これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

<聖書協会共同訳>

イスラエル人々

・あなたがたの先祖の

これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

 いかがだろうか。「子ら」より「人々」の方が民族を指すと分かりやすい。「父祖の神」とは日常会話では言わないので、やはり「先祖の神」の方がシンプルだろう。最後は、これは好みだが、個人的には聖書協会共同訳の方が、「これこそ」と揃えて、体言止めで2つの文を揃えることで、詩的にパリっとまとまっており、読みやすいと思う。

 

<2:主語と述語をそろえる>

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 日本語は、主語が非常に大切な言語である。よく「日本語は主語を省略できる」と勘違いしている人がいるが、間違いだ。日本語ほど主語にこだわる言語は少ない。お手元の小説なんかを手にとって、主語にマルを付けてみよう。その多さに驚くだろう。

 日本語の基本は、「主語から書く」というものだ。そして、「主語を揃える」というのもまた読みやすくするテクニックの一つである。以下の聖書の言葉を読み比べてみよう。

新改訳聖書2017>

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ー主のことばー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ書 55:8〜9)

<聖書協会共同訳>

私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。 ー主の仰せ。 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。

イザヤ書 55:8〜9)

  いかがだろうか。上の文は、太字で主語を示している。主語をまとめよう。

 <新改訳聖書2017>

・わたしの思いは、

あなたがたの道は、

・わたしの道は、

・わたしの思いは、

 

<聖書協会共同訳>

・私の思いは、

・私の道は、

・私の道は、

・私の思いは、

  実はこれ、同じ内容を繰り返す、ヘブライ語によくある表現方法である。

 「A・B・B'・A'」というふうに、同じ内容の順番を入れ替えて、最初と最後で同じ意味合いのものを強調する。これは聖書でよく見かけるヘブライ語文法だ。

 この場合、日本語としては、同じ主語で並べた方が分かりやすい。しかし、新改訳聖書2017では、なぜか二番目だけが「あなたがたの道」となっており、主語にズレが生じている。

 原語をチェックすると、確かに直訳的には、新改訳の方が正しい。しかし、私の限られたヘブライ語知識で恐縮だが、流れ的には重要なのは語順ではなく、むしろ「A・B・B'・A'」の用法だと感じる。それをふまえると、やはり聖書協会共同訳のように、「私の〜」で4つの文の主語を揃えた方が、きれいにまとまっているように見える。

 

<3:代名詞の省略>

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 日本語は、「代名詞」をあまり用いない。そのため、「あなた」「彼」「彼女」などの代名詞は、極力省いた方が自然な日本語になる。では、その観点で次の箇所を見てみよう。

新改訳聖書2017>

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきて言った。あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:1〜4)

<聖書協会共同訳>

さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきてエスに言った。神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

  いかがだろうか。新改訳聖書2017では、「あなたが神の子なら・・・」と、「あなた」を用いている。一方、聖書協会共同訳は、「神の子なら・・・」と、代名詞を省いている。私は、聖書協会共同訳の方が好みだ。欲を言えば、その後の「これらの石に」の部分の「これらの」も必要ないと思う。「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」このくらいシンプルで良いと思う。

 また、太字で示した両者の違いも興味深い。悪魔が誰に話しているのか、共同訳の方が明確である。他の部分も、共同訳の方が、「生きるもの」「言葉によって」など、丁寧な言葉づかいで、自然な日本語のように感じる。

 また、悪魔のセリフにも違いがある。新改訳はあくまでも丁寧な命令口調。一方、共同訳の方は「命じたらどうだ」と、いかにも誘惑する口調である。ここも面白い違いではないか。

 

 <4:一文の長さ>

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 日本語は、一文が短い方が圧倒的に読みやすい。以下、比べてみた。

新改訳聖書2017>

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

イザヤ書 61:1〜2) 

<聖書協会共同訳>

主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み、囚われ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。

イザヤ書 61:1〜2)

  新改訳の方は、一文が長い。一方、共同訳の方は、一文が短く訳され、読みやすい。また、新改訳は、一文に「わたしに」と「わたしを」などが混在していて、文章が伝えたい内容がわかりにくい。共同訳の方は、「私に」と「私を」が違う文に挿入され、目的を述べる文なのか、対象を述べる文なのか、明確である。

 一方、新改訳は、文の途中で日本語が迷子になってしまい、何を述べたい文なのか、イマイチ分からなくなっている。これは、新改訳の悪い癖だ。そのため、上記のように抜き出すと、「囚人には釈放を告げ・・・」と、途中で文章が尻切れトンボになってしまう。一文が長いと、主語と述語が離れがちになる。主語と述語が離れていると、読んでいて文章の趣旨がよく分からなくなってしまう。その点、まだまだ共同訳の方が、文章が短く、パリっとしていて読みやすい。

 

 

▼聖書協会共同訳の優れた原語解説

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↑聖書協会共同訳は、様々な形で原語・用語を解説している。

 聖書協会共同訳の優れたところに、詳細な原語解説がある。解説自体は、新改訳聖書にもあるのだが、聖書協会共同訳の方が、数で圧倒している。特に、「言葉遊び・ライム(韻)」「用語補足」においては、聖書協会共同訳が圧倒的に優れている。例を2つ挙げよう。

 

<1:言葉遊び・ライム(韻)>

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↑聖書協会共同訳。マルの部分に注目してほしい。

 まず、以下の聖書の言葉を比べてみてほしい。

新改訳聖書2017>

万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴

<聖書協会共同訳>

万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに、そこには、流血正義を待ち望んだのに、そこには、叫び

イザヤ書 5:7)

  一見、何の変哲もない翻訳に見えるが、ポイントは原語の解説にある。新改訳聖書2017には、何の注釈もない。しかし、聖書協会共同訳には、以下のような注意書きがある。 

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 お分かりいただけただろうか。これは、ヘブライ語の言葉遊びなのである。韻を踏んでいるのである。まとめると、以下だ。

公正:ミシュパト

流血:ミスパハ

正義:ツェダカ

叫び:ツェアカ

  このようなヘブライ語の言葉遊びは、日本語に翻訳した途端に失われる。聖書協会共同訳では、この問題を欄外に注釈を付けることで解決した。このような言葉遊びは、実は聖書に多く見られる(例:創世記21:22〜31、エレミヤ1:11など)。この言葉遊びをあぶり出す工夫は見事だ。私は10年以上聖書を読んでいるが、恥ずかしながら、このイザヤの箇所の言葉遊びに気がついたのは、今回が初めてだった。ここだけではなく、聖書協会共同訳には、様々な注釈がついている。

 

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↑聖書協会共同訳は、詩篇で「いろは歌」である旨を明記している。

 他の工夫もある。例えば、聖書で一番長い箇所として有名な、詩篇119編は、実はヘブライ語の「いろは歌」になっている。新改訳聖書ではその点が明記されていない。しかし、聖書協会共同訳には、きちんと以下のように「アルファベットによる詩」と明記した上で、「アレフ」(א)(※ヘブライ語の一番最初のアルファベット)や「ベート」(ב)(※二番目)というように、いろは歌の頭文字を区分けしている。この点では、圧倒的に聖書協会共同訳の方が、良い工夫をしている。

 

 

<2:用語補足>

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 また、聖書協会共同訳には、用語の補足がある。例えば、以下を見てみよう。

<聖書協会共同訳>

ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢、洗礼(※「バプテスマ」のルビ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。(中略)その手にはがある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。

(マタイによる福音書 3:7〜12)

  この「毒蛇」や「箕」を指す言葉は何なのか。毒蛇といっても、様々である。マムシかもしれないし、ハブかもしれない。否。当時のイスラエルには日本にあるマムシなどいないだろう。では、実際に指すものは何なのか。聖書協会共同訳の欄外には、以下の注釈がある。

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毒蛇:クサリヘビ

箕:農用フォーク

 なるほど。これなら分かりやすい。「クサリヘビ」とネット検索してみれば、画像が一発で出てくる。自然な日本語で示すために、本文では「毒蛇」と表記し、欄外に実際に示す用語を記載する。良い工夫である。

(※ただし、聖書協会共同訳で「毒蛇」に「どくじゃ」とルビを振っているのはどうかと思う。音読みと訓読みのルビが混在していると、違和感がある。両方、訓読みで統一した「どくへび」の方が良いのではないか)

 面白いのは、同じ「蛇」でも、マタイ3:7の「毒蛇」は「クサリヘビ」、ローマ3:13の「蛇」はコブラと欄外に書いてある点だ。当然、ギリシャ語も違い、前者が「エキドゥノン」、後者が「アスピドン」である。ちなみに新改訳聖書2017は、前者も後者も「まむし」となっていて、翻訳としては少し心もとない。

 他に同じような欄外解説の例を挙げれば、

「恋なすび」 → 「マンドレイク

「乳香」   → 「フランキンセンス

「岩狸」   → 「ハイラックス」

「かもしか」 → 「ガゼル」

 などがある。

 確かに、イスラエルニホンカモシカが居るわけないので、納得だ。 

 

 

▼アガパオー・フィレオー問題

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新改訳聖書2017のヨハネ福音書21章

 ここまで書くと、聖書協会共同訳が圧倒的、と見えなくもない。頑張れ、新改訳! と思うかもしれないが、新改訳聖書の方が良いと思われる部分も、ちゃんとある。私が一読した上で、一番最初に指摘したいのは、次の箇所である。

新改訳聖書2017>

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロ(※シモンはペテロの本名)に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」ペテロは答えた「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい」

エスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい」

エスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」

ヨハネ福音書 21:15~17)

<聖書協会共同訳>

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。

二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛してるか」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい」

ヨハネによる福音書 21:15~17)

 

 これは、イエス三度「知らない」と言って裏切ったペテロ(ペトロ)を、死から復活したイエス三度「私を愛するか」と言って赦したという、非常に心温まり、イエスの懐の深さに胸打たれる、有名なエピソードである。話の構成はシンプルで、イエスが三回「私を愛するか」と問い、ペテロが「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるものだ。とてもシンプルだ。

 しかし、ここに重要なカギが隠れている。実は、「愛している」のギリシャ語に違いがあるのだ。「アガパオー」の「愛」と「フィレオー」の「愛」が混在しているのである。日本語は、どちらも「愛する」だが、ギリシャ語には微妙なニュアンスの差がある。「アガパオー」は「無条件の愛」を表し、「フィレオー」は「友情の・条件付きの愛」を示している。流れをまとめてみよう。

<一度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<二度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<三度目>

エス:フィレオー

ペテロ:フィレオー

 

 お分かりいただけただろうか。イエスが二度「私をアガパオーの愛で愛するか?」と聞いたのに対し、ペテロは「はい、フィレオーの愛で愛します」と答えているのである。これは、ペテロが「私は、あなたを無条件の愛では愛せません。ただ友情の愛でしか愛せません」と告白しているに等しい。エスを三度裏切ってしまったペテロが、いまだその罪悪感から逃れられていない証左である。

 しかし、イエスは、三度目に「私をフィレオーの愛で愛するか」とペテロに問う。これは、エスが「お前が友情の愛でしか私を愛せないのは分かっている。それでもいいんだ」と、言って、ペテロの頭をなでるような、温かく優しい言葉だ。エスが、弱い人間のところまでへりくだって降りてきて、あらん限りの愛でペテロを抱きしめたのである。

 さて、この「アガパオー・フィレオー」のくだりは、当然、ギリシャ語の原語を見ないと違いが分からない。日本語では両方とも「愛する」になるからだ。翻訳に注釈が絶対に必要なのは、このような重要な違いを表現するためだ。

 

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 新改訳聖書2017は、きちんと欄外の注釈に、どの部分が「アガパオー」で、どの部分が「フィレオー」なのか明記してある。しかし、聖書協会共同訳には、あろうことかこの部分の注釈が全くない。あれだけ細かな原語の注釈があるにもかかわらず、この重要な部分に限って、何の記述もないのである。

 聖書協会共同訳の底本も確認したが、原文のギリシャ語も、この「アガパオー」「フィレオー」の違いはきちんとある。なぜ「聖書協会共同訳」の方にはこの解説がないのか、理由は分からないが、これは見逃せない。この点においては、新改訳聖書2017の方が優れている。

 私が書いた解釈は、あくまでも解釈の一つにすぎない。しかしその意味合いは各自が考えるとしても、原語がわざわざ違う表現で書いてあるのだから、それを翻訳の際に読み手に伝えるのは翻訳者の大切な役目だろう。

 もっとも「アガパオー」と「フィレオー」の意味を知らない人にとっては、そもそも、新改訳2017の表記でも分からない。せめて、「アガパオー・フィレオー」の簡単な意味くらいは、注釈に書いてほしいものである。

 

 

▼「主」(しゅ)の書き方について

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 聖書の神は、世界を造った創造主であり、唯一絶対の神である。神は、徐々に自信の名前について明らかにしている。神は、モーセに対しては、「私はある・私はいる」と、おちゃめな自己紹介をした。しかし、神にはきちんと名前がある。その名前は「YHVH」(יהוה)の4文字で表わされる。正確な読み方は分かっておらず、ヤハウェとか「エホバ」とか言われる。ユダヤ人は、神の4文字の名前を発音せず、「アドナイ」(אדוני)(私の主人)とか、「ハシェム」(השם)(その名前)とか言って、読み替えている。日本語の聖書は、伝統的にこの神の名前を「主」(しゅ)と呼んできた。

 聖書の中には、神を示す言葉が何種類もある。「エル・エロヒーム」(אל,אלוהים)(神・神の複数形)、アドン・アドナイ」(אדון,אדוני)(主人・私の主人)など様々である。その中に、当然「YHVH」(יהוה)の4文字もある。また、その4文字を(書くのさえ恐れて?)省略した「YH」(יה)という表記もある。さらに、表記上は「YHVH」だが、わざわざ「エロヒーム」と読めるように、ふりがなを振っている場合もある。

 こんなにバリエーションがある「主」の名前が、日本語にすると、どの文字も「神」とか「主」とかになってしまう。これだと、原語の違いがいまいち伝わらない。

 「YHVH」をどのように表記するか。これは、聖書翻訳の中でも重要な要素のひとつである。ちなみに英語の場合は、「YHVH」を「LORD」と大文字で表記し、それ以外を「Lord」と小文字で表記するなどの工夫がある。 

 

 そこで、新改訳聖書2017では、「YHVH」を他と区別して表現するために、ある工夫をしている。それは、「YHVH」を、太文字の「主」と表記するというものである。

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新改訳聖書は、「主(YHVH)」の名前を太文字で区別している。

 「アドナイ」など「YHVH」ではない「主」は通常の太さで表記する。また、省略形の「YH」は、太文字の「」とし、欄外に「ヤハ」と読みを明記する。さらに、「YHVH」に「エロヒーム」と読み仮名がふられている場合(※ヘブライ語は、文字を読み替えることがよくある)は、太文字で「」としている。いずれも、明確に「YHVH」と区別しているのである。これが新改訳聖書2017の工夫なのだ。

 一方、聖書協会共同訳は、「YHVH」の「主」と、それ以外の「主」に明確な区別がない。比較してみれば、違いは一目瞭然だ。太文字などは聖書の表記そのままにしてある。

 

<ケース1>

新改訳聖書2017>

アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである」アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 <聖書協会共同訳>

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である」アブラムは尋ねた。「主なる神よ。私がそれを継ぐことを、どのようにして知ることができるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

  ここには、様々な「主」が登場するが、それぞれ全く違う表記である。違いをカッコ付で書くと以下のようになる。

新改訳聖書2017>

アブラムは主(YHVH)を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主(表記なし・動詞の形で判別)は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主(YHVH)である」アブラムは言った。「神(YHVHだが、「エロヒーム」の読み仮名つき)、主(アドナイ)よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 

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↑聖書協会共同訳では、どの「主」も同じ表記で、違いが不明確。

 ご覧の通り、新改訳聖書は、太文字や表現の違いを用いて、日本語のままでも原典の単語の違いが鮮明に分かる。しかし、聖書協会共同訳では、全て「主」となってしまっており、判別ができない。この点で、新改訳聖書の方が丁寧である。 

 また、ここまで読んでお気づきになった方は、相当鋭いが、実は「私・わたし」の表記にも違いがある。

 新改訳聖書2017では、神が主体の場合は「わたし」とひらがなで表記し、それ以外は「私」と漢字で表記している。先に挙げた聖書の言葉でも、神のは「わたし」、アブラムは「私」というふうに区別してある。

 一方、聖書協会共同訳の方は、両方、漢字の「私」である。これでは、主体が神か、神以外か、違いが分からない。この部分においても、新改訳聖書の方に軍配が上がるだろう。

 (※私は、某学生会の先輩に、漢字の「私」は「わたくし」と読むのだ、そんなことも知らないのか愚か者! と言われたことがあるが、新改訳聖書2017の「あとがき」を読むと、読む際は一般的に「わたし」を想定していると書いてあった・・・笑)

 

<ケース2>

 神の名前、「YHVH」には、「YH」という短縮形がある。

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↑「YHVH」の短縮形、「YH」は、欄外に「ヤハ」と示している。

新改訳聖書2017>

私は言った。私は*主を、生ける者の地で*主を見ることはない。(中略)私は機織りのように自分のいのちを巻いた。主は私を、機から断ち切られる。

(欄外の表記 *「ヤハ」)

イザヤ書 38:11〜12)

<聖書協会共同訳>

私は言った。私は主を見ることはない、主を生ける者の地で。(中略)私は機を織る者のように自分の命を巻き終わった。主は、織り糸から私を切り離された。

イザヤ書 38:11〜12)

  この場合、「主」という日本語は、いずれも3回登場する。3回のうち、原典のヘブライ語は、順番に、「YH」「YH」「表記なし」である。ヘブライ語は、日本語と違い、動詞の形で動作の主体が分かる。そのため、その性質が薄い日本語に翻訳する際、主体を補わなければならない。神を「彼は〜」とするわけにはいかないので、どうしても「主は〜」と補う必要がある。つまり、日本語の聖書は、原典よりはるかに多くの「主」が登場するのである。こればかりは、太文字か否かで見分けるしかない。

 この問題を解決するため、新改訳聖書2017は、「YHVH」、その短縮形「YH」、「エロヒームの読み仮名があるYHVH」、それ以外の「主」を、明確に区別して訳出している。一方、聖書協会共同訳は、すべて「主」となっていて、原典が透けて見えない。日本語への翻訳で補った「主」と、原典にある「YH」が混在してしまい、違いが明確ではない。この点においても、新改訳聖書2017の方が丁寧な仕組みと言えるだろう。

 ★「主」の表記まとめ★

 

新改訳聖書2017>

「YHVH」:太文字の「

「アドナイ」:普通文字の「主」

「YH」:太文字の「」と表記し欄外に「ヤハ」と明記

「エロヒームのふりがながあるYHVH」:太文字の「

 

<聖書協会共同訳>

すべて普通文字の「主」

 

 

▼持ち運びやすさなどについて

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↑手前が「新改訳聖書2017」、中央が「聖書協会共同訳」

 さて、内容ではなく、物質そのものを見てみよう。「聖書協会共同訳」の最も大きな弱点がここにある。

 

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 ・・・そう、ハードカバーなのである!!!

 

 なぜハードカバーにしたのだろうか。なんでやねん。なんでハードやねん。

 これは、聖書協会共同訳の製作者たちが、「聖書は持ち運ぶもの」という認識が全くないことを示している。彼らにとって聖書は、「教会の礼拝で使うもの」であり、「教会堂で使うもの」なのである。「聖書を持ち運んで読み歩く」という想定が、全くできていない。これが、カトリックとの合同翻訳の限界なのか。そうか、あなたたちは、日曜日しか聖書を読まないのか・・・。まことに残念である。

 私は、聖書は常に持ち歩き、地下鉄の移動など、暇さえあれば聖書をひらき、読むようにしている。もちろん、昨今はアプリの聖書などがあるので、スマホで読めればそれで良い。しかし、注釈の有無、書き込みができる、紙の聖書の方が頭に入ってくる、縦書きが好きなどの理由で、私自身は、紙の聖書を持ち運んでいる。これは好みの問題なので、優劣はない。

 しかし、このように「聖書を持ち運ぶ」人にとって、ハードカバーの聖書協会共同訳は重いし、デカイし、めちゃくちゃ使いにくい。満員電車で、隣の人にぶち当たらないようにするのが、精一杯である。しかも、2ヶ月持ち運んだだけで、既にカバーがはがれそうになっている。耐久性にも問題がありそうだ。聖書協会共同訳は、より小さなサイズで、ハードではないカバーのバージョンを、早く刊行してほしい。 

 

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 一方、新改訳聖書2017は、ラバー状のカバーである。大きさも、写真を見ていただければ分かる通り、聖書協会共同訳より一回り小さく、持ち運びに便利だ。この大きさで、きちんと注釈も付いているので、申し分ない。持ち運びやすさの点においては、新改訳2017の方が、圧倒的に分がある。

 

 なお、これは意外と重要なのだが、両方の聖書の紙質が違う。新改訳2017は若干の厚みがあり、聖書協会共同訳の方がより薄い紙を用いている。これにより、ページのめくりやすさに圧倒的な差が生まれている。いわゆる「ぬめり感」。ぬめり感が高いほど、ページがめくりやすく、低ければめくりにくい。

 では、この両翻訳は、どちらが「ぬめり感」があるのか。ページのめくりやすさの軍配は、圧倒的に新改訳2017に上がる。

 というか、聖書協会共同訳のページが、ものすごくめくりにくい。圧倒的にめくりにくい。20代の私でさえ、めくりにくいと感じるのだから、教会参加者の大半を占めるご老人の方々は、もっとめくりにくいだろう。いや、めくれないのでは? 年賀状仕分けアルバイトで使う、指ゴムサックが必須である。私も、地下鉄で指をペロッとなめてから聖書をめくるのは、恥ずかしいからやめたいものだ。

 神の言葉を紡ぐ、聖書の出版なのだから、聖書出版団体のみなさんは、もっと紙質にもこだわってほしいものである。舟を編む」で、主人公たちが辞書の紙質にこだわって帆走したシーンを、ふと思い出した筆者であった・・・。

 

 

▼新しい翻訳の名前について

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 双方ともダサい! ダサすぎる!! 長いわ!!! 覚えにくいわ!!!! 

 なんやねん、「新改訳2017」って。なんで2017やねん。何やその数字。宗教改革から何年かしらんけど、そんなん自己満足以外の何物でもない。2017という数字を見て、「あー宗教改革から500年ねー」と察することができるのは、宗教オタクぐらいで、一般人にとっては何の価値もない。内向き傾向が強い、「福音派」の悪い癖。自己満足でしかない。「キリスト教」に関心がない人が聖書を読む想定をしていない。

 「聖書協会共同訳」って、何なの? 長い名前つけるの流行ってるの? 覚えさせる気がないの? 浸透させる気がないの? 「新共同訳」がなまじ「新」ってついちゃっているだけに、苦労したのだろうが、「聖書協会共同訳」って、これじゃあ「新共同訳」とどっちが新しいか分からない上に、覚えにくいし、言いにくいし、何のメリットもない。まだ候補だった「標準訳」の方がマシである(まぁ「標準訳」もひどいと思うが・・・)私は、いつもこの説明に苦労していて、「新しい新共同訳」とか、訳のわからない説明をしている。もうちょっと良いネーミングはなかったものか。

 日本の聖書翻訳者たちには、過去の用語を捨てる勇気と、新しいものを導入するセンスを求めたい。「新改訳聖書2017」も「聖書協会共同訳」も、浸透させようという気概を、全く感じない。

 しかも、以前記事を書いたように、「神」「愛」「教会」「洗礼」「牧師」などの悪しき翻訳ミスは、一向に改善されないまま、従来の翻訳を踏襲している。これは、「明治元訳・大正改訳」からの悪しき伝統である。いい加減にしてほしい。早くここから脱却してほしいものである。「神」や「愛」は、日本語そのものに定着してしまったから仕方がないとして、「教会」「牧師」だけでも何とかならないものだろうかと、個人的には思っている。

 ただし、表紙のデザインは両方とも、結構オシャレでGOOD。

 

 

▼いろいろな翻訳で読んでみよう!

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↑聖書協会共同訳には、このような詳細な地図も挿入されている。

 例にもれず長文記事となってしまった。ここらで筆を置こうと思う。私が最も伝えたいのは、「聖書は違う翻訳で読んでみると、さらに面白いよ!」というメッセージだ。今回挙げたように、どの翻訳も一長一短。良いところもあれば、改善すべきところもある。

 しかし、どの翻訳も、エキスパートたちが、考え、考え、考え抜いて翻訳している。私が今回挙げた点など、いくらでも論破されてしまうだろう。大切なのは、違う翻訳を通して、自分が知らない神の姿を、少しでも見出そうとする姿勢である。

 もし、聖書にマンネリを感じたら、違う翻訳を手に取って読んでみよう。神の違う姿が、イエスの違う姿が、聖霊を通して語られるに違いない。新改訳で。共同訳で。口語訳で。リビングバイブルで。現代訳で。岩波訳で。その他諸々の私訳で。もし英語ができるなら、英語の多数の翻訳で。他の外国語ができるならその原語で。ヘブライ語ができればヘブライ語で。ギリシャ語ができればギリシャ語で。聖書の冒険、探求は、限りなく続いていくのだ。

 

 聖書って、面白い。あなたにも、そう感じて欲しいと願う。

 

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↑聖書協会共同訳には、このような用語解説も付録で付いている。

 

<参考リンク> 

www.gospelshop.jp

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス10】「先生、『イエスの十字架』歌って!」能城黎@中学・高校教師

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第10弾は、能城黎さん!

f:id:jios100:20190317012637j:plain

【Profile】

名前:能城黎(Rei Noshiro)

生まれ:1991年

出身:東京都八王子市

学歴:東京学芸大学卒業

職業:中学・高校教師

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしー(のしろ、なのでのっしー)久しぶり。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 久しぶり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 改めて、今はどんな仕事をしてるの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分の母校でもある、都内の私立の中高一貫校で教員をしているよ。今年で6年目。

 f:id:jios100:20180905032057j:plainへぇー! 母校で教えるって感慨深いね。国語の先生だっけ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、ちょっと特殊で。今勤めている学校は、「国際学級」というのがあってね。帰国子女とか、外国籍の生徒を授業から「取り出し」て、国語を教えているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「取り出す」とは?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 生徒一人ひとりの言語レベルに応じて、個別に教材を渡してるんだ。普段は普通のクラスにいる生徒さんも、言語レベル的に個別指導が必要な教科は、「国際学級」で個別に対応してるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain つまり、一人ひとりに個別の時間割があるっていうこと?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain その通り。うちの学校は、国語、数学、理科、社会、英語の授業で「取り出し授業」に対応してる。理科や社会までやっている学校は珍しいんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ~~、電車のダイヤみたいに複雑な時間割になりそう・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、日常会話が分からない子たちのための日本語コースもあるよ。日常会話が問題ないレベルの子たちのためは、もう少しハイレベルな国語のコースもあって、僕はその国語のコースの担当。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語を教えてるんだね。今日はじっくり話を聞かせてください。

 

 

▼教えるのが好きだった

f:id:jios100:20190317013248j:plain

↑高校時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、なぜ先生になろうと思ったの?

 f:id:jios100:20190317013034j:plain クリスチャンだからとか全然関係なくて、単純に「教える」っていうのが昔から好きだったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain シンプル。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。例えば、テスト前に勉強についていけていない友達のために、黒板を使ってミニ授業をやっていたときもあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 生まれついての先生体質・・・! じゃあずっと先生になりたかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、本格的に教員になろうと思ったのは、高校2年生から3年生ぐらいかな。進路を決めなきゃいけない時期。それまでは、野球とか、スポーツをずっとやっていたから、スポーツ学科とかに行って、整体とかマッサージの世界に行こうかなとも思っていた。でも、その時期に「自分は教えるのが好きなんだ」と気がついて、本格的に教師を目指そうと思ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語が得意なんじゃなかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、英語はむしろ嫌いだったんだよね(笑)小学校の時にアメリカに2年住んでいたから、一般の日本人よりは英語ができたんだけど、僕が通っていた中高は、帰国子女ばっかり。しかも、入学時のクラス分けテストで思いがけずいい点を取っちゃったから、ハイレベルな英語のクラスに入れられてしまって。まわりは中学校で英検1級とか、そもそも家庭では英語でしゃべっているとか、海外に10年住んでましたみたいな人ばっかり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはきっちいなぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain どう頑張っても5段階評価の3しか取れない。だから英語は好きになれなかったんだよね(笑)。だから、最初は社会科の教師を目指そうと思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語じゃないんだ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。社会科が好きだったから。それで、部活の顧問の先生に相談したら、その先生には、「社会科の教員は、なりたい人が多いから狭き門だよ」と言われてね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員の採用って、そのポジションに空きが出ないと採用がないんだよね。確かに社会科は人気だから厳しいなと思って。たまたま野球部の顧問の先生が2人とも国語の教員だったというのもあって、「国語はどうだ?」と勧められたのがキッカケで、国語教師もアリだなぁと考え始めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで進路を決めたんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。その先生の1人が、東京学芸大学に、小学校の日本語教育コースが新しくできるってことを教えてくれた。「推薦入試にトライしてみないか?」と背中を押してくれたんだよね。

 

 

▼心配ないよ、絶対大丈夫だよ  

f:id:jios100:20190317013807j:plain

↑大学のサークル(CCC)時代。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 推薦入試は、どんな内容だったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 小論文と面接。それまでは私立文系を目指していたから、急な方今転換だったんだよね。だけど、ひたすら論文書いて対策したよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何人ぐらい受かったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 合格枠は2人だった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 2人?! それって実は社会科教師になるより狭き門なんじゃぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain だよね(笑)。途中でそれに気がついて間違えたなぁって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain その通りすぎる(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分は学校の成績は良かったんだけど、もっと高いレベルの高校はたくさんあるし、そこからも受験生がいるだろうから厳しいかなとは思ってたんだよね。だけど、海外で暮らしたことがあるっていう自分の人生には、その日本語学科のコースはピッタリだったし、アピールできるなっていう点もあった。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、新しいコースだったら狙ってくる人もいそうだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 倍率は3.5倍ぐらいだったんだよね。だけど、受験が終わった後、本当に不思議なんだけど、自分の人生の中で初めて根拠のない自信に満ち溢れたんだよね。心配ない。絶対大丈夫だっていう気持ちになった。これは神様がくださった安心感だなって思ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほ~~。面白いね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain だけど、結果が出る前に自信満々で大丈夫とか言って、違ったらイヤだからおおっぴらには言わなかったんだ。結局、心配していたのは母親だけ(笑)そのときに、「ああ、これが神様が一緒にいるという、心の平安なんだ」という確信をしたよ。これは自分の中ではすごい体験。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって大学に入って、どういう大学生活を過ごしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 大学時代は、ひたすらクリスチャンの集まりを企画したり、参加したり。CCC(※キャンパス・クルーセード・フォー・クライスト)っていう団体や、「超教派」(※教団や教派、グループなどの枠組みを超えたクリスチャンたちの集まり)の集会に、これでもかっていうほど参加したよ。音楽をやっていたから、集会でギターをひいて賛美の歌を歌うことも多かったな。あとは聖書をじっくり学んだり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、のっしーは大学時代、クリスチャンとしての活動をしまくってたイメージがあるな。

 

 

▼「気づかなかった」と「もうふりむかない」

f:id:jios100:20190317013514j:plain ↑高校時代の仲間たち(いまの奥様も・・・)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、のっしーはどうやってイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 僕の父親は牧師で、ずっとクリスチャンの環境で育ってきたんだよね。アメリカに住んでる時も、クリスチャンが多い町だったというのもあって、クリスチャンっていうのは普通のことだった。でも、日本に帰ってきたときに、「クリスチャンだから」とか、「牧師の息子だから」という理由で、友達から軽くイジられることもあった。その時に初めて、日本って違うところなんだと感じたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、日本だと完全アウェーだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、通っていた教会も小さな教会だったから、途中まで、日本には若いクリスチャンが全くいないと思い込んでもいたんだよね(笑)高校に入って、「Hi-ba」(ハイビーエー)という高校生のクリスチャンの集まりに行って、初めて同世代のクリスチャンに会って、ビックリしたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 聖書に出てくる預言者エリヤみたい(笑)

(※預言者エリヤは、神様に従う人が全くいない状況で、うつ病的になってしまった)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうそう。そんな感じ。その頃から、初めて自発的に神様のことをもっと知りたいと思うようになったかな。自分で聖書を読むようになって、初めて全部読んだ。それで、高校3年生の時に行ったクリスチャンのキャンプで、2つの賛美の歌を歌って、それが衝撃的で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんていう曲?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 「気づかなかった」「もうふりむかない」っていう曲。その2曲をエンドレスでひたすら繰り返して歌ったんだけど、その歌の中で、自分がどれだけ神様の愛に気がついていなのか思い知って。どれだけ神様の呼びかけに、自分がふりむいてこなかったのかと感じた。その歌を歌っている中で、神様の愛に気が付かされたし、もう過去を振り返らないと思ったんだよね。そしたら、人生で初めてぐらいの勢いで号泣して。自然と涙が溢れて。これが神様の愛なんだと感じた。それが自分の中で一番印象に残っている出来事かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 文化としては触れていたけど、そこで初めて、神様の愛を「体感」したんだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。もうバプテスマも受けていたし、教会にもずっと通っていたけど、その時に初めて個人的に神様の存在を強く感じたかな。

 

 

▼神様からの幻を見て

f:id:jios100:20190317013951j:plain

↑大学卒業のとき

f:id:jios100:20180905032057j:plain ところで、気になっていることがあるんだけど。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 何?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学では、小学校の日本語教育コースに行ったんだよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ、なぜ今は中高一貫校の先生をしているの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain コース自体は小学校教育だったんだけど、追加で単位を取れば、中高の免許も取れたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは、母校で働くために?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、どうせならと思って。母校で働きたいと思ったのは、大学3年生のとき。実は、その頃、進路選択で、本当に教師になるか、神学校(聖書などを学ぶ大学院)に行くか迷っていて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやって決断したの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 祈りの集会の時に、「神学校に行くように神に導かれていると感じる人は、前に出てきてください」と言われた時に、前に出ていこうと思ったんだけど、なんとなく「違うな」と感じて、行かなかったんだよね。それで、「神様、僕はどのような進路に行けばいいですか」と真剣に祈ったんだよね。その時に、ある幻が見えて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まぼろし~?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。目をつぶっているときに、自分が通っていた学校が、上からフカンするように見えた。最初は暗かった学校に光が灯って、それがだんだんと広がっていく・・・そんな幻、ビジョンが見えたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい。かなり具体的な幻だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain その意味はなんだろうと考えながら、聖書をひらいたら、「もし一粒の麦が落ちて死ねば・・・」という言葉を見つけたんだ。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

ヨハネ福音書 12:24〜25)

f:id:jios100:20190317013034j:plain その時に、自分がその学校に赴任して、そこで一粒の麦となるという未来を感じ取ったんだ。そこで、母校で教師になるっていう決心をしたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ワオ。ビジョンを見て、聖書の言葉に導かれたら、もう従うしかないね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、実は、4年生になるまでまだ迷ってた。そうこうしているうちに、これは本当に僕のミスなんだけど、気がついたら都立の教員採用試験の申し込みの締め切りが過ぎていたんだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain あら(笑)でも、母校は私立だよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。だからまだ残っていたんだけど、私立はポストに空きが出ないと募集がかからない。大学卒業間近になっても、まだ募集がかかっていなかった。だから、また神学校に行くか迷ってね。今度は、別の集会で、また同じように「神学校に行きたい人は、前に出てきてください」と言われたときに、前に行こうとした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そしたら、立ち上がった瞬間に、ものすごい心理的なプレッシャーを感じたんだよね。直感で、違うというのが分かった。それで、座って、神様の前に反省して、今度こそ神様に従いますと決心した。その後は、心に安心があったかな。

 

 

▼必要だった回り道

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↑同僚の先生方と

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後はどうしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうやって、決心したタイミングで、なんと卒業する直前の3月の半ばに、母校の教員採用の募集が出たんだよね。これは行くしかないと思って、受けた。絶対受かる自信があったんだよね。このタイミングで、決心して、道が開かれて。これは神の計画だろうと確信があった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結果は・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そこまで自信があったのに、落ちた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まじか。どんな気持ちだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 神様、なんで? っていう気持ち。その後は、他の私立も全然募集がかからなくて、卒業して、4月になっても就職が決まってなかった。臨時の教員採用の募集に登録して、最初は所沢の学校に週に1回だけ教えに行っていたかな。だけど、それだけじゃもちろん食べていけなかったから、空いている日は、アーク引越センターでアルバイトをしてたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様に従うって決心した直後に、そんな苦しんだらキツイよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うーん。まぁ、ポジティブすぎるのかもしれないけど、神様は何か理由があってこの道を通らせているのかなとも思ったかな。むしろ、今の妻、当時の彼女だけど、彼女の方が僕の将来を心配してたかも(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚を考えていたら、相手の仕事の状況は気になるよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 結局、その後で、東京都のあきる野市ってところの公立中学校で、非常勤で働けることになった。産休の先生の代わりで1年限定でね。自分が学んできたのは小学校だし、ビジョンは母校でっていうことだったけど、その時はこだわっていられなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 挫折って感じでもなかった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、それはあるよ。人生で初めての挫折を味わったって感じだったかな。高校入試も帰国子女枠だし、大学も推薦。順調な人生で、初めての挫折だった。でも、今思うと、教師として働く上で、挫折した経験がなかったら、人の辛さにより添えなかったと思う。最初は、「神様、なんで?」と思っていたけど、実は必要な回り道だったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに。でもそれにしても大きな挫折だよね。辛いよなァ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今思うと、あきる野市での公立学校の経験も、埼玉の私立の学校の経験も、絶対必要だったと思う。神様は、やっぱり理由があって、この回り道をさせたんだと今になっては感じるかな。

 

 

▼母校に再チャレンジ

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↑学校の礼拝の式の日

f:id:jios100:20180905032057j:plain 東京の公立の学校で1年、埼玉の私立で2年働いたんだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。仕事も慣れてきて、経済的にも安定してきたから、正直いって、このままでもいいのかなとも思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこから、また一歩踏み出して母校の採用を受けた理由は?

f:id:jios100:20190317013034j:plain なんかね、さっき話した幻・ビジョンがなくならなかったんだよね。かつて、牧師をしている父親に、「神様からのビジョンか、そうでないか、どうやったら分かるのか」と質問したことがあるんだけどね。父親は、「一概には言えないけど、神様からのビジョンは、何年経ってもなくならないよ」って言ってたんだよね。その通りに、母校に行って働くというビジョンは、ずっと心の中にあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。神から与えられた思いは、なくならない・・・か。いいアドバイスだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 母校からの募集は、落ちてからは1回も出てなかったんだけど、3年後の2017年に出た。そこですぐに受けて。試験では落ちた時と全く同じ古文の模擬授業をやったんだけど、すんなり受かった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 母校に行ってどうだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain もちろん、すべて順風満帆ではなかったかな。正直言うと、給料面でも以前の方が良かったし、今の学校は土曜日も授業があるから仕事は忙しくなった。妻も、当時、僕の仕事にあわせて土日休みの仕事を選んでくれていたから、「なんでもっと深く考えなかったの?!」と言われたしね(苦笑)あとは、埼玉の田舎の学校と、東京都内の学校の雰囲気の違いもあって、その違いに最初は戸惑ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事環境の変化は、すぐには慣れないよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。だけど、遠回りした3年間は無駄じゃなくてね。経験という意味でもそうなんだけど、僕が遠回りをしていた3年間、母校は経営陣が変わったり、いろんな先生たちが辞めていったり、移行期で大変な時期だったらしいのね。その難しい時期を避けられたという意味合いもあるのかなと思ってるよ。

 

 

▼「先生、イエスの十字架歌って!」

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↑クラスの生徒たちと

f:id:jios100:20180905032057j:plain 先生の仕事は楽しい?

f:id:jios100:20190317013034j:plain めっちゃ楽しいよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain やりがいはどんなところ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 子どもたち1人ひとりの人生に関われるというところかな。その子の成長や変化を、間近で見られる。あとは、キリスト教主義の学校だから、毎週月曜日に礼拝があって、そこで学期に1~2回くらい、聖書の話をさせてもらう機会もあったんだよね。堂々と、ストレートに聖書の話ができるっていうのはいい機会かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その立場は最高だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あとは、子どもたちを励ませることかな。帰国子女の子とか、外国籍の子は、アイデンティティに苦しんだりもしているんだよね。「なんで自分が生きているのか分からない」とか相談してくれた子もいて。そういう時は、「そうだよね、迷うよね」と受け止めてから、「僕もそういう時があったけど、聖書を通して生きている意味を見いだせたんだ」といって話せる。落ち込んでいる子とかにも、お祈りしてるねとか言ったりもできるかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 中学、高校生ぐらいの子って割と素直だよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。結構質問してくるよ。「十字架にかかったら何日ぐらいで死ぬんですか?」とか。一番おもしろかったのは、「なんでイエスは十字架にかかったんですか?」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音そのもの(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。そこから福音の話ができる。いつも意識しているのは、これまたヨハネ福音書だけど、この言葉。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ヨハネ福音書 15:16)

f:id:jios100:20190317013034j:plain もしかしたら、僕がこの子が人生の中で出会う、最後のクリスチャンかもしれない。そう思ったら、僕の言動が全てこの子の人生の中に「残る」んだろうなと思って接しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音を隠さず、賢く伝えているのっしーの姿、励まされるな。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あと、面白かったのは、今の中高生は、先生の名前で検索かけるんだよね。そしたら、学生時代にアップしてた賛美の歌を歌っている動画を、生徒がyoutubeで見つけたらしくて。その歌のタイトルが、「イエスの十字架」っていうんだけどね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain うわ。めっちゃキラーワード。

f:id:jios100:20190317013034j:plain すごくない?! イエスだけでも、十字架だけでもなくて、「イエスの十字架」だよ?!(笑)一番大切なメッセージが伝わった。で、その動画見つけた子が、廊下で大きな声で、「先生! 『イエスの十字架』歌って~!!」って叫んだりしてね(笑)それで、生徒にも先生にも僕がクリスチャンってことが堂々と伝わった。向こうはからかってるつもりなんだろうけど、いい効果を生んだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いじられたはずが、結果として、のっしーがクリスチャンであることが、学校中に伝わったんだね(笑)

 

 

▼夫婦としてのフィールドを求めて

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↑ご夫婦で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分がクリスチャンだから、できているなと思うことはある?

f:id:jios100:20190317013034j:plain あまり意識したことはないけど、聖書の話になったときに、いろいろと聞かれることは多いかな。最近嬉しかったのは、自分が高校時代にお世話になった先生に、「能城先生の聖書の話、いつも楽しみです」と言われたことかな。こういう形でも、聖霊様が働かれるなんだなと感じたよ。先生によっては、「スピリチュアルなものと、キリスト教はどう違うんですか」と聞かれたりね。そういう話ができる機会があるのは嬉しいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。堂々と語れるのは素晴らしいことだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンを教えてください。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員として、今の学校に努めている以上、学校で福音が伝わっていくのが見たいな。どういう形で実現するかは分からないけど、それが僕が見たビジョンだから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうだよね。のっしーを通して、学校でイエスのことが伝わるといいなと思います。

f:id:jios100:20190317013034j:plain もうひとつ祈っているのは、夫婦としての働き。夫婦としての共通のビジョンのこと。学校は、自分自身の働きのフィールドだけど、夫婦としてのフィールドは何か、これから求めていきたいなと思ってる。妻と僕が共通しているのは、人と関わることが好きっていうこと。今までは、目の前のことに必死だったけど、結婚して3年になるので、これから夫婦として何ができるか考えていきたいなと思うよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚したら、2人で1人、だもんね。これからのっしーの人生を神様が導いてくださるように、祈っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉があれば。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今年のテーマはこれかな。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」

(ローマ人への手紙 10:11)

 

 f:id:jios100:20190317013034j:plain ただただ、神様に信頼するしかないなと思います。社会人になると、忙しくなるし、結婚すると、夫婦の時間もある。だけど、改めて神様との時間が大切で、神様に信頼していきたいなと思う1年です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしーのこれからの夫婦としての活躍も期待してます! 今日はありがとう。

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【聖書】聖書の日本語、実は翻訳ミスだった?!

愛、神、教会・・・日本語に影響を与えた聖書用語ですが、実は翻訳間違いだった可能性があるのです。どういうことでしょう・・・?!

 

 

▼聖書は日本語に影響を与えている

f:id:jios100:20190326150104j:plain

 日本人のクリスチャンは、とても少ない。人口の、約0.4~1%(40万人~100万人)がクリスチャンだと言われている。これは、世界でもかなり少ない水準である。しかし、多くの日本人が、知らず知らずのうちに、聖書が語源の言葉を使っている。神、天使、悪魔、愛、教会、などなど・・・実は元々日本語にはなかった単語が、聖書翻訳の過程で生み出されていったのである。そして、それらの単語は、現在、自然な形で日本人の会話、文章の中に定着している。聖書は、日本語に多大な影響を与えているのである。

 さて、この翻訳の過程で、日本人の翻訳者たちが参考にしたのが、中国語の聖書だ。中国語の影響を語らずして、日本語の聖書翻訳は語れない。聖書が初めて日本語に翻訳されたのは、江戸末期~明治時代と言われている。その時代の知識層の人々にとって、「漢文」をマスターするのは必須条件だった。つまり、当時のエリートたちは、中国語ができたのである。だから、聖書を翻訳する際に、彼らが中国語の影響を強く受けていたのは間違いない。

 実は、この中国語の「聖書用語」が、日本語になった際に、そのニュアンスを分かりづらくしてしまっている原因なのである。日本人が聖書を読んでもピンと来ないのは、中国語の影響による翻訳ミスが大きな原因のひとつなのだ。聖書が語っている本来の意味から、ニュアンスのズレが生じているのである。今回は、簡潔に聖書の翻訳過程をまとめ、特に齟齬が大きいと思われる「聖書用語」を3つ紹介する。

 なお、今回の記事を書くにあたり、いくつかの本を参考にした(記事最後を参照)。今回の記事は、これらの書籍をベースにした、私の個人的意見であることをご留意願いたい。尚、聖書の翻訳課程はものすごく細かい経緯があり、それだけで何冊も本が書けてしまうほどだ。今回は、その中核だけを抜き出し、要約した「入門編」だとご理解いただきたい。

 

 

▼聖書はどのように翻訳されたのか

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 日本語で最初の本格的に翻訳された聖書は、「明治元訳」である(※以後、「明治訳」と記載する)。「明治訳」は、新約聖書部分が1879年に完成し、1887年に旧約聖書部分が完成した。これが、初めての日本語の完全な新旧訳聖書である。その前にも、1830年代から、シンガポールや台湾にいた宣教師や日本人たちが、部分的に福音書を翻訳してはいたのたが、一部分のみであったし、中国語やポルトガル語に翻訳された聖書を、再度日本語にするといった類のものであった。

 明治訳が、大正時代に入り、より身近な日本語に改善された。これが「大正訳」。「大正訳」はたいへん評判が良く、今の「文語訳」と呼ばれる聖書として今でも使用されている。この「明治・大正訳」が日本語の聖書のベースとなっている。

日本語に与えた聖書語の骨格は「明治元訳」で形成され、「大正改訳」でほぼ定まったということができる。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.175)

 

 戦後、この聖書の見直しがなされ、「明治・大正訳」をより現代的な表現に直したものが「口語訳聖書」である(※詳しくは後述)。その後、1978年に、カトリックプロテスタントが共同で翻訳し、発行したのが「共同訳」だ。「共同訳」は1987年に改良が加えられ、「新共同訳聖書」となった。「新共同訳聖書」は現在、最もメジャーな日本語訳といっていいだろう。

 一方、プロテスタントの「福音派」と呼ばれるグループは、1960年代に翻訳委員会(新改訳聖書刊行会)を設立。本格的に聖書翻訳をやり直し、1970年に発行したのが新改訳聖書である。「福音派」グループのほとんどは、この翻訳を用いている。「新改訳聖書」はその後、2版、3版と翻訳を繰り返し、2017年には新改訳聖書2017」が刊行された。

 「共同訳」側も、近年、新しい翻訳を行った。それまでは各章ごとに翻訳者がバラバラだった「新共同訳聖書」を改め、統一された翻訳委員会が再翻訳を試み、2018年冬に「聖書協会共同訳」を出版した。私は、最近この翻訳を主に読んでいるが、「新共同訳聖書」と比べると、かなりの改善が見られ、また解説や注釈も手厚く、重宝している。

 まとめると、日本語の聖書は江戸~明治時代に、西洋の宣教師の知識的、金銭的援助を受けながら成立した「明治訳」がベースとなっている。その翻訳過程において、中国語の聖書用語による影響が色濃く残っているのは、異論のない事実である。この四半世紀でかなりの翻訳がなされているといえ、「愛」「神」「教会」などの聖書用語は、そのまま明治時代の翻訳を踏襲している。それらの用語は、既に一般の日本語として定着してしまっており、もはや再定義は不可能に近いが、実はこの「聖書用語のニュアンスのズレ」が、日本人が聖書を読む際に、非常に大きな障壁となっているのである。では、なぜそのような「ズレ」が生じてしまったのか、見ていこう。

 

 

▼西洋の宣教師VS日本の知識人たち

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 日本で最初の本格的な翻訳である「明治訳」の聖書は、西洋の宣教師と日本の代表者(いずれも知識層)の混合チームが行った。この際、力関係的には西洋側が圧倒的優位(地位的にも、知識的にも)に立っていた。あくまでも西洋の宣教師たちが「翻訳者」であり、日本人たちは「助手」に過ぎなかった。しかし、日本側もプライドがあり、かなりの抵抗をしたようである。

 この際、両者の決定的な溝となったのが、ヘブライ語ギリシャ語から翻訳するのか」(西洋側)、「漢語(中国語)の聖書を基調とするのか」(日本側)という両者の考えの違いである。無論、前者の方が圧倒的に正しいのだが、日本側にヘブライ語ギリシャ語の知識がある人材が当時いなかった為、どうしても中国語の聖書に引っ張られる傾向があった。当時の聖書翻訳に関わった井深梶之助氏は、こう述べている。

せっかく聖書を日本語に翻訳しても、ただ少数の学者だけに読めて、普通の人に読めるようでは、何の利益があるのかと、(西洋宣教師)の先生はしばしば繰返した。また、翻訳の補佐役の日本人が、「漢文はこうだ」と言うと、「漢文は原文じゃない」と力説されたことが何度もあった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.99 <※表現を現代風にしている>)

 

 当時の日本人は、たとえ知識層であっても、中国語に加え、オランダ語や英語を知ってるというのが関の山で、ラテン語はおろか、ヘブライ語ギリシャ語が分かる人材はいなかった。だから、当時の日本語聖書は、外国語、とりわけ中国語と英語に翻訳された聖書を再度、日本語に翻訳し直すという「二重の翻訳」によって出来上がったのである。

 当然、西洋の宣教師たちの助けで、原語のニュアンスはある程度加味したのだろう。しかし、当時日本に来ていた宣教師は、ほとんどが中国で実績をあげてから日本に来た人々だった。これは、違和感なく中国語の用語が受け容れられてしまった一つの要因にもなった。

あえていうならば、日本のキリスト教の受容は、聖書語に関する限り、儒教や仏教の経典と同じく、中国経由なのである。たとえば「神」や「愛」という重要な言葉は、その訳語をめぐり中国で激しい論争があったにもかかわらず、日本ではあたかも「原語」として、ほとんど論争ひとつ起こらずに受け容れられてしまった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.220)

 

 「聖書用語選定」の過程で、最終決定をするのは常に日本側であった。これは、当時の西洋の宣教師が謙遜に日本人たちの決定を尊重したからでもある。結構なことだが、その結果、知識層の日本人たちは、ほとんどの聖書用語を漢文から引用してしまった。こうして、「神」「愛」「洗礼」「教会」などの、あえて言えば「間違った翻訳用語」を転用してしまったのであった。

 中国語や英語の聖書から、日本語への「二重翻訳」の結果、中国語では、まだギリギリ残っていたそのニュアンスが、全く違うものになってしまったのである。結局、日本語の聖書のベースとなった「文語訳」の正体は、以下のようなものである。

文語訳(明治・大正訳)は、宣教師が和英辞書を用いて翻訳作業をしたものの、既に漢文聖書が存在したため、日本人側の助手と共にその翻訳には漢文の語彙を当て、訓読みにして、描き下ろし翻訳された聖書である。(中略)文語訳は学識的だったため主に知識層に受け入れられた。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 当時の日本人知識層の漢文への過剰な信頼とプライド。宣教師たちの中国での経験。ヘブライ語ギリシャ語から直接翻訳できる人材の不在。これらが、日本語の聖書用語に、決定的な「分かりづらさ」を生み出してしまったのだ。

 では、「中国語」の影響で、どのようなニュアンスの違いが生まれてしまったのか。具体的に3つの単語を挙げる。

 

▼用語1:愛

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 「愛」は最も日本人に想像し難い言葉のひとつである。そもそも、日本語で「Love」を表す言葉は、本来は「愛」だけではなかった。以下をご覧いただきたい。

「愛」:上の者が下の者を憐れむ愛。君主がしもべを愛する。親が子を愛する。また、性的な「エロス」の愛の意味。

「忠」:しもべが君主に忠義を尽くす愛。忠誠心。

「孝」:子どもが親に対して孝行する愛。親孝行。

「悌」:年上のきょうだいを愛する愛。

「敬」:部下が上司を敬う愛。敬愛。

「仁」:他人を憐れみ、大切に思う愛。仁義。仁愛。

 

  なるほど、日本語では、立場や相手によって「愛」の用語が違うのである。「忠義を尽くす」「親孝行をする」「敬愛を示す」「仁義を切る」どれも自然な日本語である。だから、簡単に「この用語」と決めつけるのは、至難の業である。

 そもそも聖書の「愛」は、ギリシャ語の「アガペー」(無条件の愛)、「フィレオー」(友情の愛)、「エロス」(性的な愛)など様々な用語がある。ヘブライ語も「愛」や「慈しみ」や「憐れみ」など様々あり、用語を統一するのは不可能である。というより、ふさわしくない。

 初期の翻訳者たちは、この「愛」をどう訳出するか、相当苦労したようである。初期の翻訳で、「Love」は、「御大切にする」と翻訳されている。宣教師ヘボンは、「Love」を「いつくしみ」と訳している。やはり「愛」は、友情や親の愛情、そして性的なニュアンスもあったために、避けられたのだろう。当初は避けられた「愛」が、これまた中国語聖書の影響で、「明治訳」の際に定着し、今日に至っている。

 私は、「愛」の訳は、ケース・バイ・ケースで訳出したらいいと思っている。例えば、「神は愛です」というギリシャ語風表現は、「天の主はやさしい神様です」や「天の主は憐れみ深いお方です」というように訳出した方が良いと思う(日本語は「私は道である」というような、「生き物=モノ」という構文を用いない)。「互いに愛し合いなさい」は、「お互いに、思いやりの心を持ちなさい」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、「まわりの人を、あなた自身のように大切にしなさい」としたら、心にシックリくるのではないだろうか。

 私の個人的な意見では、あえて「愛」を一言で訳すなら「仁」または「仁愛」の方が良かったと思う。場合によっては、「大切にする」「思いやる」「受け入れる」「いつくしむ」「あわれむ」などの言葉が適切なように思う。現代においては、聖書用語の影響で「愛」の意味合いそのものが変わってきている。だから、無理して単語を変える必要はもはやないのだが、「仁」が採用されていれば、日本人の神の愛に対する理解は、さらに深まっていたのではないかと思う。

 究極的には、「そばいいるよ」「ここにいるよ」というのが、日本語の最大限の愛情表現ではないかと、私は思う。そう考えると、神がモーセに名前を尋ねられたときに「私はここにいる者だ」(I am who I am)と答えた(出エジプト3:14)のも、シックリ来るのではないだろうか。

 

 

▼用語2:神

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 「神」は、数多くの聖書用語の中で、最も翻訳についての議論があった用語であろう。英語でいえば「God」。ヘブライ語では「エロヒーム」、そして有名な「ヤハウェ」などとされる、「4文字(IHVH)」の神の名前である。

 この「God」をどう訳すかは、中国で激しい議論となった。「神」「天」「上帝」「天主」「天皇」「神主」などの数多くの候補から、最終的には「神」(シン)を採用するか、「上帝」を採用するかで大きな対立となった。アメリカ系の宣教師は「神」を主張し、イギリス系の宣教師は「上帝」を主張した。

 「神」採用論には、大きな問題があった。そもそも、「神」は、「山の神」のような精霊・スピリット的な用語で使われていた単語だった。明らかに、天地万物を創造した唯一の神というニュアンスとは違っていた。

 しかし、「上帝」にも問題があった。中国で「上帝」は国の王、つまり「皇帝」を指す用語だった。アメリカ系宣教師たちは、唯一の神と皇帝が混同されるのを嫌った。政治的ニュアンスを避けたかったのである。その結果、最終的には「神」に落ち着いたのであった。

 しかし、カトリックは「神」の使用を嫌い、新しい造語である、「天主」(てんしゅ)を採用した。この影響は今でも残っていて、例えば韓国語ではカトリックを「天主教」(チョンジュキョ)、プロテスタントを「基督教」(キドッキョ)といってハッキリ区別する。

 

 さて、中国語の聖書が「神」を採用したため、日本語への翻訳の際も、「神」(カミ)が重視された。初期の翻訳の中には、「上帝」や「真神」(真の神という意味)、中には「ゴクラク」と訳したものもあった。しかし、徐々に「神」が主な用語となっていった。

 いわずもがな、これは非常に悪い翻訳であった。日本語の「神」(カミ)は、ご存知の通り、中国語以上に「唯一の天地万物の創造主なる神・ヤハウェ」とは意味がかけ離れている。「八百万の神」というように、日本では、そこらへんの木も「カミ」、岩も「カミ」、そよ風も、虫も、鳥も、何もかもが「カミ」だったのである。中国語でも意味が離れていたのに、日本語にしたらさらにニュアンスが変わり、全く違う意味になってしまったのである。どちらかと言えば、「天使・御使い」の方が、本来の「神」の意味に近い。

 初期の聖書翻訳に多大なる貢献をした宣教師のヘボンも「神」採用には前向きではなかったようである。

ヘボンは、同じ「神」の語を使う際の中国と日本における相違に触れ、中国で「神」の語を採用した訳者も、もし日本にいたら「神」の語は使わなかったであろうと述べている。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.201)

 

 初期の日本聖書翻訳者たちが、「神」と「God・ヤハウェ」の違いを、言葉によって定義づけできなかったため、このような誤解が生じてしまった。中には、「上帝」「天父」「真神」などの用語を主張した人もいたが、その声はかき消されてしまった。カトリックは「天主」を使い続けたが、1959年に「神」に変更してしまった。そのまま「天主」を使っていればよかったものを・・・。

 では、どう言えば良かったのか。私は「天」または「天主」を支持する。有名な「敬天愛人」という西郷隆盛の言葉にもあるように、日本人にとって自らの運命を握っているのは、「神」でも「仏」でもなく、「天」であった。「天のカミサマの言う通り」という歌を子どもが歌っているのを見たこともあるだろう。「お天道様は見ている」と言うだろう。「神」より「天・天主」の方がよっぽど、「唯一」「天地万物を創造した」「力がある」「誰に対しても神である」存在として人々に広まったのではないだろうか。しかし、残念ながら、時すでに遅しではある。「愛」と同じく、聖書用語によって日本語の「神」のニュアンスも変わりつつある。

 

 

▼用語3:教会

f:id:jios100:20190327012525j:plain 「教会」。こればかりは今すぐにでも変更した方が良い訳である。そもそも、「教会」と訳された、ギリシャ語の「エクレシア」、ヘブライ語の「ケヒラー」は、いずれも「人の集まり」という意味である。素直に訳すなら「集会」が正しい。

この語(エクレシア)は一般に「教会」と約される。しかしその際私たちは、だいたいにおいて「教会」という建物を想像するのではないだろうか。だが「教会」という固有の建物が建つのは、早くて三世紀末から四世紀初頭である。それまでは皆、個人の家に集まって礼拝等を行っていたのである。これを「家の教会」(house church)などと言っているが、いずれにせよekklesia(エクレシア)とは、新約聖書に関する限り、建物を指してはいず、むしろ人々のコミュニティの謂(いい・「意味」)なのである。したがって日本語としては、「集会」と言った方が正しい。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.26)

 

  「教会」は、それまでの日本語になかった、全く新しい用語である。言わずもがな、中国語からの借用である。中国語でなぜ「エクレシア」を「教会」と訳したのは不明だが(※詳細求む)、日本語への翻訳の際、中国語の単語を用いたのは明らかである。

 実は、ヘボンの最初の翻訳では「エクレシア」は「集会」となっていた。それが、「明治訳」の際に、やはり中国語を重視したためか、「教会」に変わってしまったのである。これは、当時の翻訳委員会の最大の過ちと言えるかもしれない。

 本来の「エクレシア」は、「イエスに信頼する者たちの集まり」というふうに、「人」に焦点が置かれていた。しかし、それが「教える会」となってしまった。「教会」は、何かを学ぶ場所となってしまったのである。その結果、「学ぶこと」「組織」に焦点が置かれてしまい、本来の「お互いを思いやる」「励まし合い、支え合う」という集会の目的がブレブレになってしまった。そして、現代の日本の多くのクリスチャンが陥っている、「教会教信者」を生み出すこととなってしまったのである。

 私は、「集会・集い」に今からでも訳語を変更すべきだと思っている。

 

 

▼その他の用語(洗礼・聖霊

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 他にも、ヘンテコな聖書用語、議論のあった用語 は様々ある。例えば、「バプティゾー」(洗礼・せんれい)をどのように訳すかは、日本語聖書作成の際、激しい議論があったようである。「洗礼(せんれい)」にするか、バプテスマにするか、はたまた「しづめ(沈め)」にするか。聖書を気仙沼の方言で訳した山浦玄嗣氏は、「お水くぐり」と訳出している。「洗礼」のニュアンスがいかに間違っているかの詳細は当ブログの過去記事を参照していただきたい。やはり「洗う」「きよめる」というニュアンスがある「洗礼」は上手い翻訳とは言えない。個人的には「沈め」「浸し」「お水くぐり」などが良い訳語かと思う。

 また、聖霊も誤解のある表現だ。聖霊」とは、神の力の現れ、神の息吹である。ギリシャ語では「プネウマ」。ヘブライ語では「ルアフ(風)」である。これをとって、初期の翻訳では、「神風(しんぷう)」という案もあったようだ。山浦氏は、「神さまの息」としている。「霊」という単語は、「精霊」や「幽霊」を連想させる。こちらも、例に漏れず(霊だけに)、中国語からの借用である。

 私は、「プネウマ・ルアフ」の訳語として、「神風(かみかぜ)」が良いと思うが、どうも「神風特攻隊」と重なってしまうのでダメだ。「神の息吹」などはどうだろう。当初は、「聖気」という案もあったようである。「神通力」はどうだろう。ダメ?

 他にも「天使」「悪魔」「義」など、翻訳過程で議論があった単語は数え切れない。気になったものは、一度調べてみてはどうだろうか。

 

▼おまけ:口語訳と共同訳系・新改訳系の決定的違い

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 最後に、「口語訳聖書」と「共同訳聖書」「新改訳聖書」の決定的な違いについて書く。何度も言っているように、日本語の聖書のベースとなっているのは「明治・大正訳」、のちの「文語訳聖書」である。その際、参考になっているのは主に中国語(漢文)の聖書である。

 さて「口語訳」と他の翻訳の決定的違いは何か。実は、「口語訳」は、「文語訳」を現代版にした、「日本語→日本語」の翻訳なのである。

文語体の改訳試訳版と、「口語訳」をくらべてみると、後者は新訳というよりは、国語改革にしたがい、文語体の試訳をそのまま口語体に置き換えた感が否めない。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.152)

口語訳聖書は、聖書原点と英語聖書を照らし合わせながら文語訳聖書を改訳したものである。原語からの翻訳と、新国語表記に沿いつつ義務教育を終えた者が読める漢字を使用して頒布された。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 つまり、「口語訳聖書」は、原文からの翻訳作業を経ておらず、「文語訳聖書」を現代的日本語に改良しただけなのだ。

 一方で、「共同訳」「新改訳」は、日本語ではなく原語から、時代とともに改訳が繰り返されている。個人的には、日常的に使用するなら、「共同訳系」か「新改訳系」がオススメである。それも、新しい翻訳(「聖書協会共同訳」「新改訳2017」など)をオススメする。なぜなら、聖書研究の積み重ねによって改良されているし、現代の日本語により近い形で翻訳されているからである。

 もっとも、イエスの言葉は、本当の意味での「原語」で残されているわけではない。それもそうだ。イエスヘブライ語アラム語で話したとされている。それなら、ギリシャ語で書かれている福音書のイエスの言葉は、既にギリシャ語へと「翻訳」されていることになる。ここまで書いておいて恐縮だが、ギリシャ語の原語でさえも、「原語ではない」という認識で聖書を読むことが、一番大切なのだ。だから、聖書を読む際には、その時代、文化、原語、背景、対象、筆者を念頭に置きながら読む必要がある。

 

私たちは、イエスの生の言葉をもはや持っていないのである。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.18)

 

 (了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

▼参考図書

・鈴木範久「聖書の日本語」岩波書店、2006年

・佐藤研「聖書翻訳の難しさ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

・渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

山浦玄嗣ケセン語訳聖書からセケン語訳聖書へ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

山浦玄嗣「いちじくの木の下で 上下巻」イー・ピックス、2015年

【疑問】クリスチャンはギャンブルをしてはいけないのだろうか?

競馬、パチンコ、宝くじ・・・クリスチャンはこのような、いわゆる「ギャンブル」とどう付き合っていくべきなのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンはギャンブルをしてはいけない?

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 ギャンブルは、太古から人間を虜にしてきた営みである。ギャンブルの起源は明らかになっていないが、古代エジプトでは既に占いから派生したくじ引き的なものがあったようだし、古代ローマギリシャでも「貝合せ」やサイコロを使った賭博などが流行っていたようだ。現代の日本でも、競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじtoto)といった公営ギャンブルをはじめ、パチンコ、スロットなどの「私営ギャンブル」など、様々なギャンブルを楽しめる。他にも、トランプ、ルーレット、スポーツ賭博に賭け麻雀など、ギャンブルの種類には枚挙にいとまがない。

 もちろん、国によって法律は様々だ。比較的安易に楽しめる国もあるし、特別な地区のみで賭博を行える国もある。一方で、厳しく禁止している国も多く、社会的・司法的な制裁がかなり厳しいところも多い。日本では、賭博は基本的に禁止だが、先に挙げたようなものは「合法」とされている。

 さて、クリスチャンはこのギャンブルとどう付き合うべきなのだろうか。聖書は何と言っているのか、見ていこう。

 

▼聖書には明確な記述はない

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 残念な知らせがある。実は、聖書にギャンブルについての直接的な記述は全くといっていいほど無いのだ。では、どう考えれば良いのか。「言及がないのだから、何でもOK!」となるのだろうか。それでは議論が少し乱暴すぎるだろう。少しでも聖書の中にヒントを探し、聖書の「価値観」から答えを導き出す必要がある。

 もちろん、旧約・新約時代ともに、社会的にギャンブルは存在していた。例えば、旧約聖書ではヨナの話で出てくる。ヨナが乗っていた舟が難破しそうになり、神が怒っていると考えた乗組員たちは、犯人探しのためにくじを引いた。その結果、ヨナが選ばれ、海に投げ込まれ、かの有名な魚に呑み込まれる話となったのである。これは、お金よりももっと重い、命を賭けた、いわばギャンブルである。他にも祭司が「くじ」を引く記述も様々見られる。しかし、これらはギャンブルというより「占い」の側面が強いだろう。

 新約聖書では、ほとんど言及はないが、例えば「エスの下着を兵士たちがくじで分けた」という記述はある。しかし、これはただ事実を述べただけで、否定も肯定もしていないから、ここから論じるのは難しい。 

 また、イエスのたとえ話の中には、「貸してもらった財産を投資して増やした召使いが褒められ、失敗を恐れて土の中にその財産を隠した召使いが非難される」といったものがある(ルカの福音書19章参照)。これは、神から与えられた能力、経験、知識をどう用いるか、イエスの教えや福音そのものをどう用いるかという教訓を語るたとえ話だ。投資的なマインドが褒められてるという事実は、一目置く必要があるだろう。これについては後述する。

 兎にも角にも、聖書の価値観をベースに議論するのが基本である。聖書は、「富」について、こう述べている。 

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。(中略)だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

(マタイの福音書 6:19〜24)

(イエスは)そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人が有り余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです

(ルカの福音書 12:15) 

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙 4:28)

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。

(テサロニケ人への手紙 4:11〜12)

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に鎮める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

(テモテへの手紙第一 6:6〜10) 

 

 聖書は、明らかに「金が目的」となる人生を否定している。ルカの福音書16章14節で、パリサイ人たちを「金を愛するパリサイ人」と揶揄している事実からも、それは明らかだろう。もちろん、「金」がなければ、この社会で生きていくのは難しい。教会だって運営できない。聖書だって買えない。このブログの執筆も不可能だ。人間が生きていくのに「金」は必要だが、それは手段であって、目的ではないと、まずは覚えておく必要があるだろう。

 

 

▼ギャンブルをする目的と中毒性

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 先に挙げた聖書の基本的な価値観を抑えた上で、「なぜギャンブルをするのか?」という点を考えたいと思う。どのギャンブルも、基本的には何かに「お金を賭けて」、その結果次第でそれに応じた「お金」がもらえる、という仕組みだ。賭けたお金以上の返金があれば、利益(勝利)となる。短絡的に見れば、「お金」がギャンブルの目的となっていると考えてもいいかもしれない。しかし、それ以上の目的・理由があるのは明白だろう。

 多くの人は、ギャンブルで一度勝つと、その経験を忘れられない。一度ギャンブルで勝つ経験をすると、その時の興奮が強烈に記憶に残る。その記憶があまりにも強烈なので、その後に負けて損をしても、「まだ取り返せる」「取り返さなくては」という気持ちになってしまう。例え、単発で勝ったとしても、トータルで見ると大損をしているのに、やめられないのである。これが、「依存症」である。

 厚生労働省の2013年の調査(もはや信用できないが・・・)によると、日本人の成人の4.8%がギャンブル依存症だという。これは、アメリカ(1.5%)や韓国(0.8%)などと比べても、極端に高い数字といえる。日本には、先に挙げた競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじといった「公営ギャンブル」と、明らかに違法なのになぜか許されている、パチンコ、スロットといった「私営ギャンブル」があり、それらがハマる原因となっているのは間違いない。

 依存症は、意志の強さや弱さに関係なく、誰でもなりうる。そして、依存症は意志の強さや弱さに関係なく、抜け出すのがとてもむずかしい。さらに依存症は、人の生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのもの、全てをぶち壊してしまう危険性がある。

 依存症は、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症から、人に対する依存、役割に対する依存など、その種類も様々である。ここで、「依存症は良くないのか」という議論をするつもりはない。クリスチャンであるなしに関わらず、依存症は絶対に良くないというのは、当たり前の話だ。私の友人がある時こう言っていた。「世界中で健康的な依存症はただひとつ。イエス依存症だ」と。

 そう。依存症の何が問題か。それは生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのものを台無しにしてしまうから・・・だけではない。依存症の一番の問題は、何よりも大切なイエスの姿が見えなくなってしまうところにある。クリスチャンの人生は、常に自分の中心にイエスを迎え入れる人生である。常にイエスを見続ける人生である。常にイエスを思い続ける人生である。それを阻害するものは、何だって良くはないだろう。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを自覚していないのですか。

(コリント人への手紙第二 13:5)

 

 

 

▼結局、ギャンブルはいいの? ダメなの?

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 話が少し逸れた。結局、クリスチャンはギャンブルをしていいのだろうか。聖書に明確な記述はないが、私の個人的な意見を述べたい。

 まず、先に挙げたが、以下の前提がある。

・聖書は、ギャンブルについて直接的に語っていない。

聖書は、「お金が目的」となる人生を否定している。

・お金は目的はなく、手段である。

・ギャンブルの一義的な目的は、「お金」である。

・しかし、依存症になると、お金以上にギャンブルそのものが目的化する。

・依存症になると、人生をぶち壊す。

依存症から抜け出すのは、その人の意志の強さに関わらず、非常に難しい。

依存症の一番の問題は、イエスが人生の中心でなくなること。

 

 以上の前提から、冷静に考えて、「ギャンブルはやらない方がいい」と私は考える。至極当たり前のことだが・・・。これは、決して「依存症にならなきゃいいよ」という生易しいものではない。なぜか。依存症になるかならないかは、意志の強さではコントロールできないからだ。依存症に苦しむ人々は、最初から依存症になるとは思っていない。「自分は大丈夫」「ちょっとだけだから」「のめり込みはしないから」と考え、手を出したら最後、抜け出せなくなってしまうのである。

 そもそも、「公営ギャンブル」や「私営ギャンブル」は、興行として成り立つから存在している。つまり、ほとんどの人が損をするから、ビジネスとして成り立っているのである。例えばパチンコ市場は、1990年代には30兆円もあったと言われている。それだけの人がパチンコに依存し、パチンコ屋の利益の元となってしまっているのである。はじめから損をする確率が高いものを、オススメするわけがない。

 しかし、「ギャンブルは罪」と考えると、多少行き過ぎである。何度もこのブログにも書いたが、信仰は人を縛るものではなく、解放するものである。何をしていい、何をしちゃダメといった「宗教」ではなく、ただイエスによって自由になるというのが、イエスに対する信仰である。

 私の個人的意見は、ギャンブルは基本やらない方が良い。例外はある。例えば馬が大好きで、お金ではなくレースそのものに魅力を感じているというのなら、別に楽しんでもいいのではないかと、私は考える。しかし、ギャンブルは、ゲーム性とギャンブル性のどちらに魅力を感じていようと、先に挙げたように依存症になる確率が非常に高いので、オススメはしない。また、日本では賭博行為は基本的には禁止なので、法律を守るというのも、基本中の基本である。個人的な賭け事、例えば賭け麻雀などは、完全な違法行為である。

 結局のところ、クリスチャンがどういう態度を取るべきかは、以下の聖書の言葉に要約できる。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14:22〜23)

 

 もしあなたがギャンブルに興じることに罪悪感を覚えるなら、絶対にやめた方がいいだろう。

 

 

▼投資はどうなのか?(株、FX、仮想通貨、その他の投資)

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 さて、多少具体的な話題に入る。ギャンブルが危険な行為なら、投資はどうなのだろうか。近年は、不動産や株取引に始まり、FXや仮想通貨など、様々な投資の方法がある。クリスチャンは、これらに手を出してはいけないのだろうか・・・?

 まず、「ギャンブル」と「投資」は根本的に違うという点を抑えておきたい。「ギャンブル」は先に挙げたように、経営側が経営できうるシステムになっている。つまり、圧倒的に負ける確率が高いのである。長くやればやるほど、トータルで見れば損をするシステムになっているのがギャンブルだ。しかし、「投資」はその限りではない。様々な情報をもとに、自分の判断で、自分のシステムで投資をするのである。負けが前提でないという点で、「投資」は「ギャンブル」と全く違う行為といえる。

 「投資」だって先行きが分からないのだから、ギャンブルじゃないかという指摘もあろう。「投資もお金が目的じゃないか」という意見もあろう。その通り。しかし、それを言ってしまえば、人はみな先のことは分からないのだから、人生そのものがギャンブルになってしまう。また、この世の経済活動だって全てお金が目的ということになってしまう。

 プロテスタントが起こるまでは、乱暴に言えば、自由な経済活動も罪とされていた。しかし、カルバン派を中心に、プロテスタントでは自由な経済活動は是とされた。マックス・ウェーバーが「資本主義はキリスト教から生まれた」という趣旨の主張をしたのは、有名である。先に言ったように、「お金は目的ではなく手段であり、お金は社会で生きていくのに必要なもの」である。だから、私はクリスチャンは「投資」をしても良いと思う。それが自分の生き方ならば、どんどんやったらいいのではないか。

 先に触れたが、エスも積極的に投資した召使いを褒めたというたとえ話をしたのである(ルカの福音書19章参照)。これは、自分に与えられた才能をどう活かすか、神の福音をどう用いるかという視点で語られた寓話だ。私たちは、今与えられた人生を、どう「投資」して神のために生きるのか。目の前の一人の人に生きるのか、よく考えたらいいのではないだろうか。

 

 

公営ギャンブルの場合(競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ) 

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 公営ギャンブルの中でも、特に競馬、競輪、競艇オートレースについて議論したい。日本の公営ギャンブルは、それぞれが独自の論理をもって「合法」とされている。 

・競馬:元々は軍馬育成のため。今は畜産振興のため。農林水産省の管轄。

・競輪:自転車競技産業の発展のため。経済産業省の管轄。

競艇船舶の発展のため。また利益は、日本財団の福祉事業に使用される福祉のため。国土交通省の管轄。

オートレース産業発展のため。経済産業省の管轄。

 

 公営ギャンブルは、それぞれが、地方自治体や産業の発展、そして福祉のためという名目で運営されている。確かに、例えば福祉事業を行う日本財団の資金元は競艇である。人々が競艇で使ったお金が福祉事業に使われているのである。みなさんも、町中を走る日本財団の障害者施設の送迎車などを見たころがあるだろう。ギャンブルのお金が福祉に回っているとは、少し皮肉ではあるが、うまいシステムを考え出したものだ。だから、そのお金は、ある意味では「良いこと」に使われているのである。

 名目があるとはいえ、ギャンブルには変わりないのだから、競馬、競輪、競艇オートレースにハマるのはオススメしない。しかし、それぞれが産業であり、一種のスポーツである。競馬を見るのが趣味でも、全く問題はないと、私は思う。クリスチャンが競馬を見たり、競輪という「競技」を楽しむのは、何の問題もない。例えば、私は北海道に旅行に行った際、帯広の「ばんえい競馬」を見に行った。ただ見るだけではツマラナイので、200円だけを適当な馬に賭けて楽しんだ。値段が低ければ良いと言うつもりはないが、自分なりの「依存にならない工夫」は必要だろう。私の場合は、完全に観光目的だったので、そもそものモチベーションが違った。

 なり手になるのはどうか。それこそ、問題はないだろう。ジョッキーになりたい、競輪選手になりたい、ボートレーサーになりたいなどの夢は、素晴らしい夢だと思う。クリスチャンのジョッキー、クリスチャンの競艇選手がいても良いではないか。

 自分自身がなり手になるのを、「人をギャンブルに依存させている」という指摘もあるかもしれない。しかし、私の意見では、それは個人の責任の範疇を超えている。そう言い出したら、例えばコンビニ店員をやれば「人の健康を害する」となるのだろうか。ケータイ会社で働けば「スマホ依存を作り出している」となるのだろうか。出版社で働けば、「漫画依存を作り出している」となるのだろうか。私はテレビ局で働いているが、「テレビ依存を作り出している」となるのだろうか。それはサービスをどう使うかの問題であって、そこまで言い出すとキリが無くなる。

 そもそも、なぜサッカー選手が良くて、ジョッキーがダメ、となるのだろうか。同じスポーツなのに、それはオカシイだろう。

 

 では、宝くじはどうか。クリスチャンが宝くじを買うのは良いのだろうか。結論から言えば、「個人のモチベーション次第」である。宝くじも、先に挙げたように、各省庁が運営するものである。

・宝くじ:地方自治体の発展公共事業のため。総務省が管轄。

スポーツ振興くじTOTO):スポーツ振興が目的。文部科学省が管轄。

 

 宝くじやスポーツ振興くじも、そのお金が公共事業などに使われている。その意味では、「良いこと」に使われているのだから、いちいち目くじらを立てる必要もないだろう。しかし、先に何度も挙げたように、その「依存性」には注意すべきである。

 筆者個人は、宝くじが当たると思っていない人間なので、全く魅力を感じたことはない。それよりも、そのお金で何か有益な投資をした方が良いと思うクチだ。しかし、これも各個人の判断なので、クリスチャンがどうすべきかなど議論するまでもないだろう。

 

 

▼パチンコという脱法ギャンブル

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 さて、パチンコやスロットなどの「私営ギャンブル」はどうか。これは、先に挙げた公営ギャンブルとは全く毛色が違う。日本では、先に挙げた公営ギャンブル以外の賭博は一切禁止されている。しかし、パチンコ・スロットはなぜか容認されているのである。

 その理由は、パチンコのセコいシステムにある。パチンコでは、お金を直接的に賭けず、お金と引き換えにもらったパチンコ玉を元手にゲームをする。その玉を打ち込み、玉が減ったり、減ったり、たまに増えたりするのだが、最終的な出玉に応じて、景品がもらえる。しかし、目的はその景品ではない。その景品をパチンコ屋の隣の「引換所」に持っていくと、景品の種類に応じてお金がもらえるのだ。つまり、実質的にはお金を賭けているのに、一回引き換えていることにより、「パチンコ屋はお金じゃなくて、あくまで景品をあげてるだけだから、ギャンブルではない」と主張しているのである。これこそ、ちゃんちゃらおかしい! 普通に賭博やろ?! 普通に犯罪でしょ?! 公営ギャンブルは百歩譲ってOK。しかしパチンコ、お前はダメだ。

 パチンコは明らかな違法行為である。しかし、それを皆が黙認している。なぜか。あまりにもビジネスが大きくなってしまったために、パチンコ業界の利権も大きくなってしまったのだ。そのため、政治で動かそうにも、動かせない事態になってしまっているのである。なんたる体たらく! しかし、パチンコを違法にしようものなら、必ずや利権が働いて、その人は消されてしまうであろう。 

 私は、パチンコは明らかに違法だと思っている。そして、そのバックグラウンドには某国が絡んでいる。これは、皆が知っている明確な事実なのに、誰も言わない「タブー」となってしまっている。日本のパチンコ屋のほとんどが「“外国人”の経営」だと言われている。私が大人になったとき、「ああ、だからあのクラスのあの子のウチはお金持ちだったのか」と納得したものである。みなさんも、心のどこかではそれを知っているのに、それが人種差別になるからと、目を伏せているのではないか? でも犯罪はダメだ。こんな犯罪がまかり通っている日本社会はダメだ。誰かが変えないといけない。私は、小さな声だが、この主張はずっと続けていきたい。

 今までパチンコが、何人の人生を潰してきたことか。パチンコは、「公営ギャンブル」とは違い、名目すらない、ただの屁理屈の上に成り立っているセコい賭博だ。私は、クリスチャンがパチンコを楽しむのは、大変危険だと思う。そのお金は、公共事業や福祉に使われないどころか、ただの会社の利益となっている。もしかすると、北の国にそのお金が流れているかもしれない・・・。パチンコ・スロットに関しては、私は比較的、厳しい対応を取るスタンスである。

 

 

▼おまけ:ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか?

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 最後に、少しセンシティブな話題だ。ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか? という問題である。これは非常に難しい。なぜなら、経済活動のどこで「これOK」「これはダメ」と線引きするのか、明確な基準がないからだ。それゆえ、それぞれの教会や宣教団体、宣教者が各々の基準や信念に従って個別に判断するしかないと思う。

 私個人の意見としては、線引きをするなら「違法行為かどうか」でしたらいいと思う。そうした場合、「公営ギャンブル」はOKだが、パチンコは「違法」だと私は思っているので、パチンコ屋経営者からの献金はお断りするだろう。もし自分のまわりに、クリスチャンになったパチンコ経営者がいたら、足を洗うようオススメするとも思う。

 しかし、世の中にはもっと悪い、信者からお金を搾り取る「カルト的教会」もあるので注意が必要である。人々を洗脳し、お金を巻き上げるカルトほど厄介なものはない。クリスチャンは、コリント人への手紙第一、第二に記述があるパウロのように、献金はしっかりと「脇を締めて」管理すべきである。

 ギャンブルは、簡単に依存性になる危険性がある。しかし、同時にスポーツであり、娯楽でもある。私たちは、自分の心を吟味しながら、これらの娯楽に付き合った方が良い。そして何よりも、イエスを心の中心に迎える人生を歩もうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「占い」をしちゃいけないの?

よく見る「占い」ですが、クリスチャンは見るのもやるのもダメなんでしょうか?

 

 

▼日本人は占いが大好き

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 日本で生活すると、あらゆるところに占いがある。日本人は占いが大好きだ。朝の情報番組では、必ず占いコーナーがある。星座占い。血液型占い。手相占い。神社のおみくじ。姓名判断。タロット占い、などなど・・・。名前の画数まで気にするのは、世界でも珍しい風習ではないだろうか。

 この占いをどの程度信じているかも、人によって様々である。私はクリスチャンの家庭ではなかったのだが、自分からおみくじを引きに行ったことはないし、テレビの星占いを関心を持って見た覚えはない。一方で、占いをある程度本気で信じている人もいる。画数で名前を変えたり、ラッキーアイテムを必ず身につける、という人もいるのではないだろうか。コワモテのお兄ちゃんが意外と、大切にお守りをいつも身につけている、というのも割と「あるある」だろう。

 さて、日本では日常的に身の回りにある「占い」だが、クリスチャンはどう占いと付き合っていくべきなのだろうか。ある人は、絶対関わってはいけないと言うし、そこまで深く考えなくても良いという人もいるだろう。見るのはOK? やるのはOK? それとも、全部ダメ? さて、聖書は占いについて何と書いてあるのか、見ていこう。

 

 

▼イエスへの信仰は、「縛り」ではなく「解放」するもの

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 議論の大前提として覚えておいてもらいたい。基本的に、イエスへの信仰は、誰かを縛るものではなく、解放するものである。信仰は、人を自由にする。それについては以前、別記事を書いたので、詳しくはそちらを参考願いたい。
yeshua.hatenablog.com

 まとめると、クリスチャンに「禁止事項」は基本的にはないのである。だから、この記事の主眼は「クリスチャンは占いやったらダメ」というものではなく、「聖書は占いについて何と語っているか」という点である。

 もちろん、イエスの教えをどのように受け取るかによって、それぞれが判断する生き方の基準はあるだろう。自由だからといって、なんでもしていいわけではない。自由にされたからといって、すぐに人を殺しまくるのはオカシイ。それは誰でも分かる。

 福沢諭吉が英語の「freedom」「自由」「御免(ごめん)」のどちらに訳すかで迷ったというのは有名な話だが、私は「御免」の方が本来の「自由」のニュアンスを的確に捉えていると感じる。神の許可する範囲での自由、といったニュアンスがあるからだ。

 聖書は、人は基本的に自由だが、全てが益となるわけではないと語る。

「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

(コリント人への手紙第一 6:12) 

 

 問題は、どこにその基準を置くかなのだが、その基準を作るのに、大切なのは聖書の価値観を知るという一点に尽きる。では、「占い」について聖書を見ていこう。

 

 

▼聖書は「占い」について何と言っているか

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 「占い」に類する言葉は、意外と多く登場する。以下、まとめてみた。

旧約聖書

「カサム」:占う。動詞。20回登場。

「ケセム」:占い。名詞。11回登場。

「ナハシュ」:まじないをする、占う。動詞。11回登場。

「ナハシュ」:まじない、占い。名詞。2回登場。

「アナン」:占い。卜占(ぼくせん)。動詞。「雲」が語源。「雲」によって天気を予報することから派生した単語。11回登場。

※なお、新改訳聖書第三版では、「カサム・ケセム」を「占い」、「ナハシュ」を「まじない」と区別して訳出しているが、新改訳聖書2017版では「カサム・ケセム」を一部、「占い」に変更している(出エジプト44:5節、15節)。他の箇所では「まじない」のままである。その2節の訳出に、どのような意図があったのか分からないが、原語が違うのだから、やはり従来どおり「まじない」とした方がいいのではと個人的には思う。ちなみに聖書協会共同訳は新改訳三版のような区別となっている。

新約聖書

「プソン」:占い。動詞。1回のみ登場(使徒16:16)

「マントゥオマイ」:予言。動詞。1回のみ登場。(使徒16:16)

 

 聖書に「占い」に類する単語は、合計で57回登場することになる(※もっとあったらご指摘願う)。割と多いなぁという印象だ。つまり、それほど重要ということである。

 他にも、「呪術者」や「霊媒師」などと訳出される単語もあるが、今回は「占い」に限る。さて、占いについて代表的な聖書の言葉を見てみよう。

 
イスラエルへの掟>

まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神が何をなさるかは、時に応じてヤコブに、すなわちイスラエルに告げられる。

民数記23:23)

 この箇所の強調点は、イスラエルと他の民を区別する」という点である。同様の記述は、実に多い(第二列王記17:17、エレミヤ27:9、など)。この時代、占いやまじないは、よくある宗教的な行為だった。神は、他の宗教とイスラエルの神への信仰を明確に区別するために、このような指示をしたのだろう。他の民族は、占いによって未来を知るが、イスラエルには神ご自身が何をするか示すという点が強調されている。

 

イスラエルの祭司たちへの掟>

あなた(イスラエル)の神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなた(イスラエル)は、その異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねてはならない。あなた(イスラエル)のうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。(中略)あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがたがそうすることを許さない。

申命記 18:9~14)

 これは、占いなどに関する、一番基本的な聖書の言葉である。神は、イスラエルの民、とりわけ預言者や祭司たちに対しては、明確に占いやまじない、霊媒や口寄せを禁止した。神は一貫して、「自分が先に何が起こるか決定するのだ」と強調している。大切なのは、これは当時のイスラエルへの命令であり、外国人である現代の私たちへの直接的な命令ではないという点だ。それを忘れてはならない。ただ、神に聞くという姿勢は参考になる。

 

<偽預言者たちへの非難>

彼ら(偽預言者)はむなしい幻を見、まやかしの占いをして、「主<しゅ>のことば」などと言っている。主が彼らを遣わしたのではないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなたがたが見ているのはむなしい幻、あなたがたが語るのはまやかしの占いではないか。「主<しゅ>のことば」などと言っているが、わたし(神)が語っているのではない。

エゼキエル書 13:6~7) 

 これは、他の宗教との対比ではなく、同じイスラエル人たちの中での対比である。神の声を聞いて、そのまま預言していた預言者たちと、自分勝手に預言していた偽預言者たちが、比較対象だ。神は、偽預言者たちの預言を「まやかしの占い」と言い、厳しく非難した。神の声を聞く行為と、それ以外の行為が「占い」とされ対比されているのが、ここのポイントである。

 <まとめ>

・「占い」は「未来を知る」ための宗教的行為だった。

イスラエルにとって「未来を知らせる」のは神ご自身であった。

神は、イスラエルの民に対して、占う行為を明確に禁止している。

・ただし、この命令はイスラエルに対するものであって、外国人に対するものではない。

・ニセの預言をする行為も「占い」と呼ばれ、神に批判された。

神は「私こそが未来に何が起こるか決め、そして知らせる存在なのだ」と強調している。

 

 

▼聖書の代表的な占いエピソード

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 さて、もっと大きなスケールで聖書を見てみたい。占いに関する代表例を3つ挙げよう。占い師バラム。霊媒をしたサウル。そして、エペソの信者たちのリアクションから学びたい。

 

<バラクとバラム>

 旧約聖書で最も有名な占い師は、バラムであろう。簡単に箇条書きで説明する。

1:バラクという王様がいた。バラクイスラエルが勢いづいていているのでビビりまくり、何とかして、イスラエルを滅ぼせないかと、占い師バラムに使者を遣わした。(※なぜこんなややこしい名前を並べたのかと、神に文句を言いたくなるが、オバマ大統領が王様」と覚えれば簡単だ。バラク・オバマだから。オススメの覚え方である)。

 

2:ロバが喋るなど、紆余曲折を経て(※民数記22~24章参照)、占い師バラムは、バラク王のところへ行く。

 

3:占い師バラムは、バラク王にせがまれ、3回イスラエルを呪おうとするが、その度に神からお告げを受け、逆にイスラエルを祝福してしまう。(※実は、先述した民数記23:23の言葉は、直接的にはバラムの言葉だが、これは神が彼に告げた託宣である)

 

4:結果的に、バラム王はイスラエルを呪うことはできなかった。

 

5:占い師バラムは、結局あっさりと殺されてしまった(ヨシュア記13:22)。 

 占い師バラムは、イスラエルを呪おうとしたが、結局のところ出来なかった。そして殺されてしまった。バラムは、その後も聖書の中で「反逆の象徴」として描かれている。まさに不名誉な称号を得てしまったわけだ。

 

<サウル王と霊媒師>

 さて、イスラエルのリーダーの中で、占い・霊媒をした人がいる。それはサウル王である。簡単にまとめてみた(※詳細はサムエル記第一28章を参照)。

1:ペリシテ人(当時、イスラエルの最大の敵)たちが攻めてきた。

 

2:預言者サムエルは既に死んでいた。ほかの祭司たちが預言しようとしても神からの応えがなかった。為す術がないサウル王は、恐れて震えた。

 

3:どうにもならないので、サウル王は霊媒師に頼った。サウルは霊媒師たちを国外追放していたので、ばつが悪く、こっそり変装して出かけた。

 

4:変装したサウルは、霊媒師に預言者サムエルの霊を召喚するよう願う。サムエルの霊は出てきたが、サウルは「神に見捨てられた」という事実を知っただけであった。

 

5:結局、サウル王は、ペリシテ人との戦いで、息子たちもろとも戦死してしまう。その後、王位はダビデに引き継がれたのであった。 

 サウル王が霊媒師たちを国外追放していたことから、占いや霊媒は決して正しい行為と言えなかったと分かる。しかし、預言者サムエル亡き今、サウル王に残された選択肢は霊媒師に頼るというものだけだった。結局、サウルは自分が神に見捨てられたと知っただけで、死んでしまったのであった。この故事は、占いがネガティブに扱われていると同時に、当時の人々が禁止された占いという習慣をやめられなかったという事実も示している。

 

<エペソの信者たち>

 新約聖書の時代の信者たちは、占いにどのような対応をしていたのだろうか。エペソ(今のトルコ)の信者たちについて、以下のような記述がある。

このこと(※使徒パウロのマネをして霊を追い出そうとした人たちが、えらい目にあった)がエペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持ってきて、皆の前に焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。

使徒の働き 19:17~19)

 エペソにいた信者たちは、イエスを信じた。その結果、それまでやっていた宗教的行為を離れ、魔術書を焼き捨てたと記録がある。つまり、イエスを信じた後は、そのような占いに頼らなくなったのである。使徒の働き」は、他にも魔術師エルマ(エリマ)との対決(使徒13章)や、占いをする女の霊を追い出す(使徒16章)などの記述もある。

 

 これら3つのエピソードで分かるのは、「聖書は占いについて否定的なニュアンスで語っている」という事実である。占いはいつも悪者の象徴として描かれ、その人たちの行く末は破滅である。エペソの信者たちは、外国人も含めて、占いや魔術などの行いを捨てた。それは、イエスへの信仰を持つようになったからである。

 

 

▼実はイスラエルの祭司も占いをやっていた?

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  聖書は「占い」について否定的である。しかし、聖書をよく読むと、実はイスラエルの民も、「占いチック」なことをやっていたという衝撃の事実が分かる。それは、祭司の儀式に関わる部分である。

さばきの胸当てにはウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの息子たちのさばきを胸に担う。

出エジプト記 28:30)

 

 ウリムとトンミムというのは、謎も多いのだが、どうやら「YES/NO」を決めるための「くじ」のようなものだったと言われている。ウリムは「光」の意味。トンミムは「完全」を意味する。おそらく、特別な石のようなものを、祭司のポケットに入れて、くじびきのような形にし、「白か黒か」「是か非か」「半か丁か」的な形で、未来を占っていたのではないだろうか。

 前述したサウル王も、預言者サムエルの死後は、祭司のウリムとトンミムで神のお告げを知ろうとしていたようである。

サウルは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても預言者によってもお答えにならなかった。

(サムエル記第一 28:6)

 

 ウリムとトンミムによる「さばき」は、祭司およびレビ人の特権であったようだ(民数記27:21、申命記33:8など)。そして、少なくとも紀元前450年頃、エズラやネヘミヤの時代までは使用されていた方法だと分かる(エズラ2:63、ネヘミヤ7:65)。

 他にも、ユダヤ人たちには「プル」という「くじ」で物事を決める習慣があった。また、先述の使徒の働きの記述からも、当時の人々がまじないや占いを(してはならないと命じられているにも関わらず)し続けていたのは、明白である。

 では、これらの習慣は、現代の私たちが占いをしていい理由になるのだろうか。ポイントは、占いをする動機にある。

 

 

▼そもそも、なぜ占いをするのか?

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 そもそも、なぜ占いをするのだろうか。その理由を考えてみると、スッキリする。占いとは、未来に起こりうることを、事前に知る行為である。なぜ知りたいのだろうか。それは、人間は先に起こることが分からないからである。先に何が起こるか分かれば、悪いことを避けられる。

 要するに、人間、先のことが分からないと不安なのだ。なぜ占いをするのか。その理由は、「不安や恐れ」が根底にあると言っていい。言い換えれば、自分の運命や運勢、行く末を知って安心したいというのが、占いをする最大の理由だろう。ラク王も、サウル王も、不安で不安で仕方がなかった。だから占いをするのだ。

 そう考えるとき、クリスチャンが占いをするという行為は、聖書の価値観とは、少しズレているのではないだろうか。聖書は恐れについてこう言っている。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちに留まっておられます。(中略)愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

ヨハネの手紙第一 4:16~18)

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ人への手紙 8:38~39)

 

 クリスチャンにとって、自分の未来がどうなろうが、死のうがどうしようが、それを恐れる必要はないのである。むしろ、「恐れには罰が伴う」とさえ書いてある。神という存在は、愛そのものだ。その愛が心のうちにあるのであれば、自分の未来を心配する必要はない。ゆえに、エスを心の中で信じるクリスチャンは、占いに頼らなくていいのである。クリスチャンは、自分の未来について、不安になる必要はないのだ。

 これが、クリスチャンの魅力である。クリスチャンになったら、もう未来のことで不安になる必要はない。どんな災難が起ころうと、神の愛から私たちを引き離せはしない。だから、堂々と神・イエスに信頼して人生を謳歌すれば良いのだ。

 

 もう一つ大切なのは、「神の主権」を認識することだ。未来を決めるのは神であり、この世の中のすべてを動かしているのも神である。その「のり」を占いという行為で、超えてはいけない。

 イスラエルの人々の「ウリムとトンミム」に始まる占いチックな行為も、元をただせば、「神の指示を仰ぐため」である。行動はどうあれ、彼らのモチベーションは「神の声を聞く」というものだった。それは自分勝手な「占い」という行為とは、少し毛色が違うのではないだろうか。聖書において、神は一貫して、神が未来を定めると強調している。物事を成すのも神、そしてそれを告げるタイミングや方法を決めるのも神ご自身である。

 

 

▼クリスチャンにとって変わらない未来は?

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 人間は、先に何が起こるか分からない。クリスチャンであっても、預言という特別な能力を神から与えられている場合でない限り、明確な未来は分からない。預言者であっても、その預言は「本当かどうか吟味すべきもの」である(コリント人への手紙第二14章を参照)。本当に未来がどうなるのかは、神のみぞ知るのだ。エス自身でさえも、世の終わりがいつ来るか知らないという記述もあるくらいだ。

 しかし、クリスチャンが確信を持って宣言できる未来がある。それは、イエスがいつの日か、この地上に戻ってくるという希望である。エスは十字架で私たちの罪のために死に、三日目に蘇り、弟子たちに現れ、天に上った。エスは、私たちのために天に場所を用意し、またこの地上に迎えに来て下さる。私たちは終わりのラッパの合図とともに復活する。そしてイエスと会う。エスはその後また帰ってきて王となる。その後、新しい天と地が創造される。私たちは、イエスと永遠を喜ぶ。これがクリスチャンが持っている希望である。これは、信じるだけで与えられる希望である。聖書は、この希望について、様々な形で約束している。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方(イエス)に信頼する者は、だれも失望させられることがない

(ローマ人への手紙 10:9~11)

わたし(イエス)の父(神)の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14:2~3)

エスが昇っていかれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ。白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、そうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります

使徒の働き 1:10~11) 

私(パウロ)があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。(中略)死が一人の人(アダム)を通してきたのですから、死者の復活も一人の人(イエス)を通して来るのです。(中略)しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。

(コリント人への手紙第一 15:3~24)

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響とともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主<しゅ=イエス>と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

(テサロニケ人への手紙 4:16~18)

 

 クリスチャンは、このような変わらない希望を持っているのだから、占いに頼る必要は、もとよりないのである。

 

 

▼「占い」との付き合い方

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 さて、以上、聖書の価値観を述べたが、最後に、現実的に日本に満ち溢れる「占い」とどう付き合っていけばいいのか、私なりの考えを述べたいと思う。

 まず、何度も述べたように、クリスチャンは未来を恐れる必要もないし、恐れてはいけない。だから、恐れから未来を知ろうとする「占い」に頼る必要はないし、頼らない方が良い。これは明確である。だから、占いを見たりするのはオススメできない。自分からタロット占いをやったり、星座占いを他の人を対象にクリスチャンがやってあげたりっていうのは、もっとオススメしない。 

 クリスチャンの中には、「預言」の賜物(≒神からの才能)を持っている人がいる。この「預言」については、いつか記事を書きたいと思っているが、これはノストラダムスの「予言」とは違い、神の言葉や思いを取り次ぐ、「預言」である。だから、「言葉を預かる」と書く。これは、少々デリケートな話題なので、深入りは避けるが、巷には「●●カフェ」とかのたまって、この預言を占いチックなものにしてしまっている不届き者もいるようだ。懸命な読者は、そのようなキリスト教ビジネスに騙されぬよう、気をつけるようオススメしたい。

 

 占いは避けたほうが賢明だが、人間関係上、避けられないケースもある。例えば、一緒に神社でおみくじを引こうと誘われた場合などである。おみくじは、信じない人にとってはただの紙切れなので、霊的な効果は全くない。ただ友達と「大吉だった」「凶だった」と言って、楽しみたいというのだけが理由であれば、全く問題ないだろう。私だったらやらないと思うが。

 テレビの占いなんて、インチキもいいところだ。以前「日付を間違えて放送してしまいました」などと訂正放送をやっていたのも見たことがある。有名な脚本家の三谷幸喜さんは、売れない放送作家だった時代に占いコーナーを担当したそうだが、その際、毎日、広辞苑の適当なページをひらいて、そこに書いてあったものをラッキーアイテムに指定していた・・・なんていう馬鹿みたいな話もある。

 つまり、テレビの占いや血液型占い、星座占いなんていうものは、もとよりほとんどの人が本気で信じていない、ただのお楽しみクイズなのだから、別に気にする必要はないだろうというのが、私の意見だ。しかし、占いや魔術、オカルト系のものというのは厄介なもので、一度のめり込むと、どんどん深みにハマってしまう魔力がある。だから、私のオススメとしては、そういう類のものからは、一歩距離を置いた方が良い。何にしても「心の動機」が一番である。

 占いなどというもので、いちいち心が盛り上がったり、沈んだりしていたら、人生ツマラナイ。変わらない神に希望を置く人生の方が、1億倍楽しいと、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。