週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャンはギャンブルをしてはいけないのだろうか?

競馬、パチンコ、宝くじ・・・クリスチャンはこのような、いわゆる「ギャンブル」とどう付き合っていくべきなのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンはギャンブルをしてはいけない?

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 ギャンブルは、太古から人間を虜にしてきた営みである。ギャンブルの起源は明らかになっていないが、古代エジプトでは既に占いから派生したくじ引き的なものがあったようだし、古代ローマギリシャでも「貝合せ」やサイコロを使った賭博などが流行っていたようだ。現代の日本でも、競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじtoto)といった公営ギャンブルをはじめ、パチンコ、スロットなどの「私営ギャンブル」など、様々なギャンブルを楽しめる。他にも、トランプ、ルーレット、スポーツ賭博に賭け麻雀など、ギャンブルの種類には枚挙にいとまがない。

 もちろん、国によって法律は様々だ。比較的安易に楽しめる国もあるし、特別な地区のみで賭博を行える国もある。一方で、厳しく禁止している国も多く、社会的・司法的な制裁がかなり厳しいところも多い。日本では、賭博は基本的に禁止だが、先に挙げたようなものは「合法」とされている。

 さて、クリスチャンはこのギャンブルとどう付き合うべきなのだろうか。聖書は何と言っているのか、見ていこう。

 

▼聖書には明確な記述はない

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 残念な知らせがある。実は、聖書にギャンブルについての直接的な記述は全くといっていいほど無いのだ。では、どう考えれば良いのか。「言及がないのだから、何でもOK!」となるのだろうか。それでは議論が少し乱暴すぎるだろう。少しでも聖書の中にヒントを探し、聖書の「価値観」から答えを導き出す必要がある。

 もちろん、旧約・新約時代ともに、社会的にギャンブルは存在していた。例えば、旧約聖書ではヨナの話で出てくる。ヨナが乗っていた舟が難破しそうになり、神が怒っていると考えた乗組員たちは、犯人探しのためにくじを引いた。その結果、ヨナが選ばれ、海に投げ込まれ、かの有名な魚に呑み込まれる話となったのである。これは、お金よりももっと重い、命を賭けた、いわばギャンブルである。他にも祭司が「くじ」を引く記述も様々見られる。しかし、これらはギャンブルというより「占い」の側面が強いだろう。

 新約聖書では、ほとんど言及はないが、例えば「エスの下着を兵士たちがくじで分けた」という記述はある。しかし、これはただ事実を述べただけで、否定も肯定もしていないから、ここから論じるのは難しい。 

 また、イエスのたとえ話の中には、「貸してもらった財産を投資して増やした召使いが褒められ、失敗を恐れて土の中にその財産を隠した召使いが非難される」といったものがある(ルカの福音書19章参照)。これは、神から与えられた能力、経験、知識をどう用いるか、イエスの教えや福音そのものをどう用いるかという教訓を語るたとえ話だ。投資的なマインドが褒められてるという事実は、一目置く必要があるだろう。これについては後述する。

 兎にも角にも、聖書の価値観をベースに議論するのが基本である。聖書は、「富」について、こう述べている。 

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。(中略)だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

(マタイの福音書 6:19〜24)

(イエスは)そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人が有り余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです

(ルカの福音書 12:15) 

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙 4:28)

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。

(テサロニケ人への手紙 4:11〜12)

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に鎮める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

(テモテへの手紙第一 6:6〜10) 

 

 聖書は、明らかに「金が目的」となる人生を否定している。ルカの福音書16章14節で、パリサイ人たちを「金を愛するパリサイ人」と揶揄している事実からも、それは明らかだろう。もちろん、「金」がなければ、この社会で生きていくのは難しい。教会だって運営できない。聖書だって買えない。このブログの執筆も不可能だ。人間が生きていくのに「金」は必要だが、それは手段であって、目的ではないと、まずは覚えておく必要があるだろう。

 

 

▼ギャンブルをする目的と中毒性

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 先に挙げた聖書の基本的な価値観を抑えた上で、「なぜギャンブルをするのか?」という点を考えたいと思う。どのギャンブルも、基本的には何かに「お金を賭けて」、その結果次第でそれに応じた「お金」がもらえる、という仕組みだ。賭けたお金以上の返金があれば、利益(勝利)となる。短絡的に見れば、「お金」がギャンブルの目的となっていると考えてもいいかもしれない。しかし、それ以上の目的・理由があるのは明白だろう。

 多くの人は、ギャンブルで一度勝つと、その経験を忘れられない。一度ギャンブルで勝つ経験をすると、その時の興奮が強烈に記憶に残る。その記憶があまりにも強烈なので、その後に負けて損をしても、「まだ取り返せる」「取り返さなくては」という気持ちになってしまう。例え、単発で勝ったとしても、トータルで見ると大損をしているのに、やめられないのである。これが、「依存症」である。

 厚生労働省の2013年の調査(もはや信用できないが・・・)によると、日本人の成人の4.8%がギャンブル依存症だという。これは、アメリカ(1.5%)や韓国(0.8%)などと比べても、極端に高い数字といえる。日本には、先に挙げた競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじといった「公営ギャンブル」と、明らかに違法なのになぜか許されている、パチンコ、スロットといった「私営ギャンブル」があり、それらがハマる原因となっているのは間違いない。

 依存症は、意志の強さや弱さに関係なく、誰でもなりうる。そして、依存症は意志の強さや弱さに関係なく、抜け出すのがとてもむずかしい。さらに依存症は、人の生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのもの、全てをぶち壊してしまう危険性がある。

 依存症は、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症から、人に対する依存、役割に対する依存など、その種類も様々である。ここで、「依存症は良くないのか」という議論をするつもりはない。クリスチャンであるなしに関わらず、依存症は絶対に良くないというのは、当たり前の話だ。私の友人がある時こう言っていた。「世界中で健康的な依存症はただひとつ。イエス依存症だ」と。

 そう。依存症の何が問題か。それは生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのものを台無しにしてしまうから・・・だけではない。依存症の一番の問題は、何よりも大切なイエスの姿が見えなくなってしまうところにある。クリスチャンの人生は、常に自分の中心にイエスを迎え入れる人生である。常にイエスを見続ける人生である。常にイエスを思い続ける人生である。それを阻害するものは、何だって良くはないだろう。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを自覚していないのですか。

(コリント人への手紙第二 13:5)

 

 

 

▼結局、ギャンブルはいいの? ダメなの?

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 話が少し逸れた。結局、クリスチャンはギャンブルをしていいのだろうか。聖書に明確な記述はないが、私の個人的な意見を述べたい。

 まず、先に挙げたが、以下の前提がある。

・聖書は、ギャンブルについて直接的に語っていない。

聖書は、「お金が目的」となる人生を否定している。

・お金は目的はなく、手段である。

・ギャンブルの一義的な目的は、「お金」である。

・しかし、依存症になると、お金以上にギャンブルそのものが目的化する。

・依存症になると、人生をぶち壊す。

依存症から抜け出すのは、その人の意志の強さに関わらず、非常に難しい。

依存症の一番の問題は、イエスが人生の中心でなくなること。

 

 以上の前提から、冷静に考えて、「ギャンブルはやらない方がいい」と私は考える。至極当たり前のことだが・・・。これは、決して「依存症にならなきゃいいよ」という生易しいものではない。なぜか。依存症になるかならないかは、意志の強さではコントロールできないからだ。依存症に苦しむ人々は、最初から依存症になるとは思っていない。「自分は大丈夫」「ちょっとだけだから」「のめり込みはしないから」と考え、手を出したら最後、抜け出せなくなってしまうのである。

 そもそも、「公営ギャンブル」や「私営ギャンブル」は、興行として成り立つから存在している。つまり、ほとんどの人が損をするから、ビジネスとして成り立っているのである。例えばパチンコ市場は、1990年代には30兆円もあったと言われている。それだけの人がパチンコに依存し、パチンコ屋の利益の元となってしまっているのである。はじめから損をする確率が高いものを、オススメするわけがない。

 しかし、「ギャンブルは罪」と考えると、多少行き過ぎである。何度もこのブログにも書いたが、信仰は人を縛るものではなく、解放するものである。何をしていい、何をしちゃダメといった「宗教」ではなく、ただイエスによって自由になるというのが、イエスに対する信仰である。

 私の個人的意見は、ギャンブルは基本やらない方が良い。例外はある。例えば馬が大好きで、お金ではなくレースそのものに魅力を感じているというのなら、別に楽しんでもいいのではないかと、私は考える。しかし、ギャンブルは、ゲーム性とギャンブル性のどちらに魅力を感じていようと、先に挙げたように依存症になる確率が非常に高いので、オススメはしない。また、日本では賭博行為は基本的には禁止なので、法律を守るというのも、基本中の基本である。個人的な賭け事、例えば賭け麻雀などは、完全な違法行為である。

 結局のところ、クリスチャンがどういう態度を取るべきかは、以下の聖書の言葉に要約できる。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14:22〜23)

 

 もしあなたがギャンブルに興じることに罪悪感を覚えるなら、絶対にやめた方がいいだろう。

 

 

▼投資はどうなのか?(株、FX、仮想通貨、その他の投資)

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 さて、多少具体的な話題に入る。ギャンブルが危険な行為なら、投資はどうなのだろうか。近年は、不動産や株取引に始まり、FXや仮想通貨など、様々な投資の方法がある。クリスチャンは、これらに手を出してはいけないのだろうか・・・?

 まず、「ギャンブル」と「投資」は根本的に違うという点を抑えておきたい。「ギャンブル」は先に挙げたように、経営側が経営できうるシステムになっている。つまり、圧倒的に負ける確率が高いのである。長くやればやるほど、トータルで見れば損をするシステムになっているのがギャンブルだ。しかし、「投資」はその限りではない。様々な情報をもとに、自分の判断で、自分のシステムで投資をするのである。負けが前提でないという点で、「投資」は「ギャンブル」と全く違う行為といえる。

 「投資」だって先行きが分からないのだから、ギャンブルじゃないかという指摘もあろう。「投資もお金が目的じゃないか」という意見もあろう。その通り。しかし、それを言ってしまえば、人はみな先のことは分からないのだから、人生そのものがギャンブルになってしまう。また、この世の経済活動だって全てお金が目的ということになってしまう。

 プロテスタントが起こるまでは、乱暴に言えば、自由な経済活動も罪とされていた。しかし、カルバン派を中心に、プロテスタントでは自由な経済活動は是とされた。マックス・ウェーバーが「資本主義はキリスト教から生まれた」という趣旨の主張をしたのは、有名である。先に言ったように、「お金は目的ではなく手段であり、お金は社会で生きていくのに必要なもの」である。だから、私はクリスチャンは「投資」をしても良いと思う。それが自分の生き方ならば、どんどんやったらいいのではないか。

 先に触れたが、エスも積極的に投資した召使いを褒めたというたとえ話をしたのである(ルカの福音書19章参照)。これは、自分に与えられた才能をどう活かすか、神の福音をどう用いるかという視点で語られた寓話だ。私たちは、今与えられた人生を、どう「投資」して神のために生きるのか。目の前の一人の人に生きるのか、よく考えたらいいのではないだろうか。

 

 

公営ギャンブルの場合(競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ) 

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 公営ギャンブルの中でも、特に競馬、競輪、競艇オートレースについて議論したい。日本の公営ギャンブルは、それぞれが独自の論理をもって「合法」とされている。 

・競馬:元々は軍馬育成のため。今は畜産振興のため。農林水産省の管轄。

・競輪:自転車競技産業の発展のため。経済産業省の管轄。

競艇船舶の発展のため。また利益は、日本財団の福祉事業に使用される福祉のため。国土交通省の管轄。

オートレース産業発展のため。経済産業省の管轄。

 

 公営ギャンブルは、それぞれが、地方自治体や産業の発展、そして福祉のためという名目で運営されている。確かに、例えば福祉事業を行う日本財団の資金元は競艇である。人々が競艇で使ったお金が福祉事業に使われているのである。みなさんも、町中を走る日本財団の障害者施設の送迎車などを見たころがあるだろう。ギャンブルのお金が福祉に回っているとは、少し皮肉ではあるが、うまいシステムを考え出したものだ。だから、そのお金は、ある意味では「良いこと」に使われているのである。

 名目があるとはいえ、ギャンブルには変わりないのだから、競馬、競輪、競艇オートレースにハマるのはオススメしない。しかし、それぞれが産業であり、一種のスポーツである。競馬を見るのが趣味でも、全く問題はないと、私は思う。クリスチャンが競馬を見たり、競輪という「競技」を楽しむのは、何の問題もない。例えば、私は北海道に旅行に行った際、帯広の「ばんえい競馬」を見に行った。ただ見るだけではツマラナイので、200円だけを適当な馬に賭けて楽しんだ。値段が低ければ良いと言うつもりはないが、自分なりの「依存にならない工夫」は必要だろう。私の場合は、完全に観光目的だったので、そもそものモチベーションが違った。

 なり手になるのはどうか。それこそ、問題はないだろう。ジョッキーになりたい、競輪選手になりたい、ボートレーサーになりたいなどの夢は、素晴らしい夢だと思う。クリスチャンのジョッキー、クリスチャンの競艇選手がいても良いではないか。

 自分自身がなり手になるのを、「人をギャンブルに依存させている」という指摘もあるかもしれない。しかし、私の意見では、それは個人の責任の範疇を超えている。そう言い出したら、例えばコンビニ店員をやれば「人の健康を害する」となるのだろうか。ケータイ会社で働けば「スマホ依存を作り出している」となるのだろうか。出版社で働けば、「漫画依存を作り出している」となるのだろうか。私はテレビ局で働いているが、「テレビ依存を作り出している」となるのだろうか。それはサービスをどう使うかの問題であって、そこまで言い出すとキリが無くなる。

 そもそも、なぜサッカー選手が良くて、ジョッキーがダメ、となるのだろうか。同じスポーツなのに、それはオカシイだろう。

 

 では、宝くじはどうか。クリスチャンが宝くじを買うのは良いのだろうか。結論から言えば、「個人のモチベーション次第」である。宝くじも、先に挙げたように、各省庁が運営するものである。

・宝くじ:地方自治体の発展公共事業のため。総務省が管轄。

スポーツ振興くじTOTO):スポーツ振興が目的。文部科学省が管轄。

 

 宝くじやスポーツ振興くじも、そのお金が公共事業などに使われている。その意味では、「良いこと」に使われているのだから、いちいち目くじらを立てる必要もないだろう。しかし、先に何度も挙げたように、その「依存性」には注意すべきである。

 筆者個人は、宝くじが当たると思っていない人間なので、全く魅力を感じたことはない。それよりも、そのお金で何か有益な投資をした方が良いと思うクチだ。しかし、これも各個人の判断なので、クリスチャンがどうすべきかなど議論するまでもないだろう。

 

 

▼パチンコという脱法ギャンブル

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 さて、パチンコやスロットなどの「私営ギャンブル」はどうか。これは、先に挙げた公営ギャンブルとは全く毛色が違う。日本では、先に挙げた公営ギャンブル以外の賭博は一切禁止されている。しかし、パチンコ・スロットはなぜか容認されているのである。

 その理由は、パチンコのセコいシステムにある。パチンコでは、お金を直接的に賭けず、お金と引き換えにもらったパチンコ玉を元手にゲームをする。その玉を打ち込み、玉が減ったり、減ったり、たまに増えたりするのだが、最終的な出玉に応じて、景品がもらえる。しかし、目的はその景品ではない。その景品をパチンコ屋の隣の「引換所」に持っていくと、景品の種類に応じてお金がもらえるのだ。つまり、実質的にはお金を賭けているのに、一回引き換えていることにより、「パチンコ屋はお金じゃなくて、あくまで景品をあげてるだけだから、ギャンブルではない」と主張しているのである。これこそ、ちゃんちゃらおかしい! 普通に賭博やろ?! 普通に犯罪でしょ?! 公営ギャンブルは百歩譲ってOK。しかしパチンコ、お前はダメだ。

 パチンコは明らかな違法行為である。しかし、それを皆が黙認している。なぜか。あまりにもビジネスが大きくなってしまったために、パチンコ業界の利権も大きくなってしまったのだ。そのため、政治で動かそうにも、動かせない事態になってしまっているのである。なんたる体たらく! しかし、パチンコを違法にしようものなら、必ずや利権が働いて、その人は消されてしまうであろう。 

 私は、パチンコは明らかに違法だと思っている。そして、そのバックグラウンドには某国が絡んでいる。これは、皆が知っている明確な事実なのに、誰も言わない「タブー」となってしまっている。日本のパチンコ屋のほとんどが「“外国人”の経営」だと言われている。私が大人になったとき、「ああ、だからあのクラスのあの子のウチはお金持ちだったのか」と納得したものである。みなさんも、心のどこかではそれを知っているのに、それが人種差別になるからと、目を伏せているのではないか? でも犯罪はダメだ。こんな犯罪がまかり通っている日本社会はダメだ。誰かが変えないといけない。私は、小さな声だが、この主張はずっと続けていきたい。

 今までパチンコが、何人の人生を潰してきたことか。パチンコは、「公営ギャンブル」とは違い、名目すらない、ただの屁理屈の上に成り立っているセコい賭博だ。私は、クリスチャンがパチンコを楽しむのは、大変危険だと思う。そのお金は、公共事業や福祉に使われないどころか、ただの会社の利益となっている。もしかすると、北の国にそのお金が流れているかもしれない・・・。パチンコ・スロットに関しては、私は比較的、厳しい対応を取るスタンスである。

 

 

▼おまけ:ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか?

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 最後に、少しセンシティブな話題だ。ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか? という問題である。これは非常に難しい。なぜなら、経済活動のどこで「これOK」「これはダメ」と線引きするのか、明確な基準がないからだ。それゆえ、それぞれの教会や宣教団体、宣教者が各々の基準や信念に従って個別に判断するしかないと思う。

 私個人の意見としては、線引きをするなら「違法行為かどうか」でしたらいいと思う。そうした場合、「公営ギャンブル」はOKだが、パチンコは「違法」だと私は思っているので、パチンコ屋経営者からの献金はお断りするだろう。もし自分のまわりに、クリスチャンになったパチンコ経営者がいたら、足を洗うようオススメするとも思う。

 しかし、世の中にはもっと悪い、信者からお金を搾り取る「カルト的教会」もあるので注意が必要である。人々を洗脳し、お金を巻き上げるカルトほど厄介なものはない。クリスチャンは、コリント人への手紙第一、第二に記述があるパウロのように、献金はしっかりと「脇を締めて」管理すべきである。

 ギャンブルは、簡単に依存性になる危険性がある。しかし、同時にスポーツであり、娯楽でもある。私たちは、自分の心を吟味しながら、これらの娯楽に付き合った方が良い。そして何よりも、イエスを心の中心に迎える人生を歩もうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。