週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】牧師だけが「献身者」ではない?!

クリスチャンたちは、牧師など、特定の人たちを「献身者」と呼びますが、その呼び方って謎じゃありませんか? 

 

 

▼「献身者」とは

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 教会に行くと、耳慣れない「クリスチャン用語」が様々飛び交っている。このブログは、そのようなクリスチャン用語の謎を種々取り上げてきた。今回は、「献身・献身者」というワードを見ていきたい。

 教会では、「将来は献身したい」といった言葉や、「献身者と結婚したい」などといった声が聞こえてくる。「献身・献身者」とはどのような意味なのか。その言葉の使われ方を見ていくと、どうやらクリスチャンたちの間で「献身」という言葉は、「フルタイムの牧師や宣教師になる」という意味らしい。

 言葉を論じるのだから、まずは日本語の意味を見なければならない。広辞苑の第六版によれば、「献身」とは以下のような意味である。

けんーしん【献身】

身を捧げて尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲。

 

 なるほど。クリスチャンがこの用語を使う場合は、「神に身を捧げて尽くすこと」「自己の利益を顧みないで、神のために力を尽くすこと」という意味と捉えて間違いないだろう。ここで、当然、「牧師や宣教師以外は献身者ではないのか?」という疑問が出てくるのは当然だ。牧師や宣教師にならなければ、「自分のために」生きていることになってしまうのだろうか。牧師や宣教師だけが「献身者」なのだろうか。今回はそのような疑問に迫っていきたい。

 

 

▼聖書のいう「献身」とは?

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 まず、「聖書のどこに牧師や宣教師だけが『献身者』である書いてあるのか?」というのが一番大切だ。このブログの賢明な読者なら、既にお分かりかと思うが、そんな記述は全くないのである。そもそも、「献身」という言葉自体、聖書に全くない。衝撃の事実。「献身、献身」と言っている人々は、聖書に記述が全くない言葉に騙されてしまっているのである。かわいそう!

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。いくつか「献げる」(ささげる)という言葉をキーワードとして、聖書の言葉をピックアップしてみた。

【1:あなた自身を神に献げよ】

あなたがたも、キリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。

(ローマ人への手紙 6:11~13)

【2:あなたのからだを神に献げよ】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

(ローマ人への手紙 12:1)

【3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ】

あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司(直訳:祭司団)となります。(中略)しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

(ペテロの手紙 2:5~9)

 

 いかがだろうか。これら全ての聖書の言葉に共通するのは、「あなたを神に献げよ」という言葉である。「牧師や宣教師が、神に人生を献げた人だ」とは一言も書いていないのである(※そもそも、「牧師」という単語自体、聖書に出てこない。「牧者」という単語だけ1回登場するが、なぜか「牧師」と意図的な意訳がされている)。

 それぞれの言葉を文脈からもう少し解説する。

1:あなた自身を神に献げよ

エスを信じる者は、イエスと同時に霊的に死んでいる。そしてイエスが蘇ったと同時に生きている。もはや新しい人生なのだから、今までのような自己中心的な生き方ではなく、神が喜ばれる生き方をせよ、という文脈である。

2:あなたのからだを神に献げよ

エスに信頼する者は、いつでも、どこでも、何をしていても、金太郎飴を切ったようにイエス大好きモードで生きるのである。その人の「生き方」が「礼拝」になる(※詳細は、こちらの記事を参照)。心も身体も神のために、目の前の一人の人のために生きるようになる。

3:祭司団として霊のいけにえを神に献げよ

これは、いわゆる「万人祭司」という考え方の根幹になっている聖書の言葉である。今までは、特定の部族に生まれた特別な人たちだけが、神にいけにえを捧げることができた。しかし、イエスが完全ないけにえとして死に、聖霊が信じる者たちに与えられて以降、イエスを信じる全ての人が「祭司」となった。エスを信じる全ての人が、聖霊によって神とつながり、神の素晴らしさをこの世に現すことができるようになったのだ。ゆえに「祭司団」と言うのである。

 

 このように、聖書が教えているのは、イエスを信じた者が、誰であれ、今までの生き方から方向転換すること。誰であれ、神に信頼する「生き方」をしなさいということ。誰であれ、神の素晴らしさを世に現せということである。決して、「牧師や宣教師などの特定のリーダーだけが、神に人生を献げよ」となど言っていない。エスを信じる人全員に対して、このように聖書は勧めているのである。クリスチャンは牧師や宣教師を目指すのみならず、むしろ、今のあなたの立場、仕事、生き方を通して、いかにイエスを喜び、伝えていくのかが求められているのではないだろうか。

 

 

▼あなたの人生は神のもの

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 先に挙げた3つの聖書の言葉から読み取れるのは、「イエスを信じた人は、その瞬間に一度死んで、生き返っているのだ」という価値観である。実は、もう一つ大切な価値観がある。それは、「イエスを信じた人の命は買い取られている」というものだ。次の聖書の言葉を見ていこう。

人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

(マルコの福音書 10:45)

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

(コリント人への手紙第一 6:19〜20)

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(コリント人への手紙第一 7:23)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

(テモテへの手紙第一 2:6)

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。

(テトスへの手紙 2:14)

 

 「贖う」という言葉は少し難しいが、辞書をひくと「あるものを代償にして手に入れる。買い取る」とある。つまり、私たちのいのちや人生は、イエスのいのちを「代価」として、買い取られたのである。聖書は、イエスを信じる者のいのちは、既に神のものであると教えている。なんとびっくり、クリスチャンは自分の意志で「献身」などできないのである。なぜなら、クリスチャンの人生は、既に神のものであり、自分のものではないからである。逆に言えば、牧師や宣教師だけでなく、全てのクリスチャンが、既に神に人生を捧げている献身者なのである。

 牧師や宣教師だけが「献身者」なのではない。職業は関係ない。全てのクリスチャンが「献身者」というマインドを持って、生きるべきなのである。

 

▼クリスチャンの責任は重大

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 全てのクリスチャンが「献身者」ーー。この事実は、クリスチャンの人生の責任を明示しているといっていい。多くのクリスチャンが、「牧師や伝道師」だけに責任を求め、あぐらをかいて生きている。とんでもない。あなたも、神に人生を買い取られた者として、責任を持って生きるべきなのである。

 クリスチャンは、いつでも、どこでも、何をしていても、神の素晴らしさを現す生き方をするよう、聖書はオススメしている。

心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 

 クリスチャンは、以下のようなマインドで生きるべきである。悩んだりクヨクヨせず、明るく、ハッピーに喜んで生きるよう聖書はオススメしている。また、聖霊を否定したり、神から語られた言葉を無視してはならない。あらゆる悪から離れる必要もある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:16〜22)

 

 クリスチャンは、聖書の言葉を伝え続ける必要がある。状況は関係ないし、立場も関係ない。聞くだけではなく、自らが学び、伝える必要がある。以下の聖書の言葉は、一義的にはテモテというリーダーの一人に語られた言葉であるが、こういう時代になるという指摘や、みことばを伝えよという命令は、現代の私たちが受け取っていい言葉だろう。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の努めを十分に果たしなさい。

(テモテへの手紙第二 3:2〜5)

 

 立場や職業に関係なく、聖書がオススメする生き方を実行する。それがクリスチャンにとって大切だ。どこにいても、何をしていても、神の素晴らしさを生き方を通して現す。それが、「献身者」たるクリスチャンの姿ではなかろうか。聞くだけで、何もしない者にならず、立場に言い訳をせず、どこを切っても金太郎飴のようなイエス大好き人間になろうではないか。

 

 

▼おまけ:「献身者」だから貧しいという嘘

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 一部の牧師や宣教師、またはそれらの職業を目指している人々の中には、「自分は献身者だから貧しい」、または「献身者は貧しくなければならない」という価値観を持っている人がいるように思う。ハッキリ言う。それは嘘だ。これについては、後日別途記事を書こうと思っている。

 確かにイエスは、「神にも仕え、富にも仕えることはできない」と言っている。しかし、それは、等しくクリスチャンは貧しくなければならないという意味なのだろうか。聖書を読むと、そうではないように思う。神によって経済的に祝福された者もいれば、貧しかった人もいる。それぞれに、神の定めた生き方がある。パウロは、「自分の手で骨折って働け」と命じているし、自分自身も人から金をもらうことなく、自費で生活していた。

 聖書は決して、「クリスチャン、特にリーダーたちは、貧しくなければならない」などと教えていない。いたずらに「教会リーダーは貧しくあるべき」という考え方が蔓延しているのは、カトリック「清貧」という間違った文化が根付いてしまっているからだろう。このような嘘に騙されず、自分の手で働き、生活を営み、持っている者は持っていない者を互いに支え合うべきである。詳しくは、近いうちに記事を書こうと思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】なぜ「牧師夫人」というわけのわからない役職があるのか

教会に行くと、牧師の妻は、「牧師夫人」と呼ばれる場合が多いのですが、その呼び方はどこから来ているのでしょうか。

 

 

▼「牧師夫人」って何?

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 教会の中で、牧師の妻を「牧師夫人」と呼ぶところがある。その名の通り、「牧師の夫人」を指す用語だ。教会によっては、この「牧師夫人」が特別な役職になってしまっているところがある。

 こんな話を聞いたことがある。いくつかあるので、引用のようにまとめた。

とある牧師のタマゴがいた。友人が、彼に「どういう女性を結婚相手として望むか」と尋ねると、彼はこう答えた。「牧師になりたいから、『牧師夫人』になるのにふさわしい女性かな」

とある牧師のタマゴがいた。彼には、結婚を前提にお付き合いしていた女性がいたが、ある日、その女性に「私は『牧師夫人』になれません。別れてください」と言われた。自分は「牧師夫人」にふさわしくないと、彼女自身が判断したのである。

とあるキリスト教団体があった。その団体に、新しいリーダーがやってきた。新リーダー自身の資質には、何の問題もなかった。しかし、ひとたび問題が起こると、そのリーダーではなく、「夫人」の資質を疑問視する声があがり、結局そのリーダーは、団体を去ることとなった。

 

 どれも、クリスチャンではない人が聞くと、とんでもないような話だが、全て実話である。果たして、この「牧師夫人」たる役職は、聖書に書いてあるのだろうか。もう答えはほぼ見えているのだが、今回はこの謎の「牧師夫人」問題に迫っていく。

 ちなみに書くが、「牧師夫人にふさわしい女性と結婚したい」と言った男性の将来の妻は、本当に苦労するだろう。可愛そうに・・・。世の女性に、そんな男とは絶対に結婚しないようアドバイスしたい。

 

 

▼もちろん聖書に記述などない

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 さて、この「牧師夫人」という用語は、もちろん聖書に記述は一切ない。私の記憶違いだと困るので、実際に「牧師夫人」というキーワードで検索してみたが、ヒットはなかった。また、丁寧に「牧師」と「夫人」という2つのキーワードでも検索してみたが、こちらもヒットはなかった。聖書には、「牧師夫人」などという役職はおろか、記載さえ一切ないのである。

 では、「牧師夫人」という用語は使っていなくとも、リーダーの資質として、夫人の資質は問われているのだろうか。こちらも調べてみたが、強いて、強いて、強いて言うなら、ひとつだけ記述がある。それは以下である。

ですから、監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

(テモテへの手紙第一 3:1~6)

 

 これは、監督者、すなわち牧師をはじめとした教会のリーダーたちに対しての資質である。つまり、夫人の資質ではない。しかし、太字にした「家族を治める」という点に関しては、夫のみの責任ではないから、妻にもその資質の一旦は問われる、と考えられなくもない。相当無理があるが。

 この聖書の言葉を適用するのであれば、「牧師夫人」に問われる資質はただひとつ。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」ということになる。

 しかし、現状、「牧師夫人」に求められている資質は多い。以下、私が考える、「世の中の教会・クリスチャンたちが『牧師夫人』に求めている資質」である(※太字は筆者が特に重要だとされていると思うポイント)。断っておくが、これは私が考えている資質ではなく、「世の中の教会・クリスチャンたちが求めている資質」である。お間違えのないよう。

【『牧師夫人』に求められている資質】

・クリスチャンである。

・聖書に精通している。

・ピアノが弾けることが望ましい。

・人の愚痴や相談を黙って聞いてくれる。たまに問題の仲裁に入ることができる。

・人あたりが良く、教会に来る人をもてなすのが上手。

・全ての生活において模範的である。

・黙って教会堂の掃除をしてくれる。

・料理上手。

・夫と運命的な出会いをしていて、その馴れ初めを模範的なストーリーとして語れる。

・何事においても適切なアドバイスができる。

・どこに住んでもやっていける精神力がある。フットワークが軽い。

・「教会に仕える」というマインドを持っている(わけがわからない)。

・24時間365日、教会メンバーの問題に対処可能。

・家庭、特に子育てに問題を抱えていない。

・いつも笑顔。

・精神的にも、肉体的にも健康である。

 

 ・・・いかがだろうか。こんなことを求められたのでは、確かに、例の女性が「私はふさわしくない」と辞退するのもうなずける。こんな人いねぇよ。

 「ピアノが弾ける」という項目に笑った人もいるかもしれないが、これはガチでよく言われるポイントである。教会の礼拝会で、オルガンやピアノ伴奏が必要だからである。ピアノができる人を条件に挙げる牧師のタマゴたちも少なくない。本当に笑ってしまう条件である・・・。

 安心してほしい。「牧師夫人」というものは、聖書に全く記述のない、人々が勝手に考え出した幻想なのである。男性も女性も、教会メンバーのクリスチャンたちも、「牧師夫人」に何か資質があるとか考える方がおかしい。むしろ、そう呼ぶことすら、ただの文化なのである。上に挙げた例は、全く「いわれのない」条件なのだ。

 

 

▼「牧師夫人」におんぶにだっこのクリスチャンたち

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 ここまで書くと、まるで「牧師夫人」が悪いように聞こえるかもしれないが、実際は違う。実は、勘違いしているのは、いわゆる「教会メンバー」の方なのである。

 教会メンバーのクリスチャンたちは、何かと問題があると、「牧師」や「牧師夫人」に頼りがちだ。悩みを聞いてほしい。教会メンバー同士のいざこざを解決してほしい。どうしたらいいか、教えてほしい。そういった人間の弱さが、いつしか「牧師夫人はこうあるべき」という虚像を作り出しているのである。

 映画「パウロには、こんなシーンがある。舞台は、イエスの時代の少し後、イエスを信じるクリスチャンたちが大勢殺されていたローマである。当時のクリスチャンたちは、街から出るか、それとも留まるのか迷っていた。答えが出ない彼らは、牢屋に閉じ込められていたパウロに助言を求めた。スパイを牢屋に送り込み、パウロに次の行動を示してほしいと頼んだのである。しかし、パウロはこう言った。「神に祈れ。どうすればいいかは神が示す」と。

 おいおい、パウロさん、そりゃないよ。そうツッコミを入れたくなる場面だが、実はとても重要な教えがここに示されている。「人より、神に頼れ」という教えだ。パウロは一貫して姿勢を変えなかった。「答えは私が与えるものではなく、神が与えるものだ」。パウロは筋を通したのであった。

 クリスチャンたるもの、人ではなく神に答えを求めるべきだ。「牧師」や「牧師夫人」に頼りきりの人々の中には、果たして神に祈っているのだろうか。というか、いい大人なんだから、なんでもかんでも人に頼るのはいかがなものか。クリスチャンは神という、絶対に変わらず、ずっとそばにいてくださる、いや、心の中に住んでくださる絶対的な存在を知っているはずだ。であるならば、その神に祈り、答えを求め、たとえ明確な示しがなくとも、神に信頼して自分で決断して歩むことはできないものなのだろうか。何も分からない子どもじゃないんだから、神に頼りつつ、自分の足で歩め! と、私は言いたくなる。

 結局のところ、このクリスチャンの弱さ自体が、「牧師」や「牧師夫人」、ひいては教会や団体のリーダーたちに、いらないプレッシャーや責任感を与え、がんじがらめにしてしまっているのである。頼るだけならまだしも、「こいつは牧師にふさわしくない」とか「牧師夫人にふさわしくない」とか言い始めたら、ただの小姑である。「だったらお前がやれよ」と言いたくなる。

 聖書の教えはこうではないか。「互いに愛し合いなさい」。そこに、「牧師」だとか、「牧師夫人」だとかいう役職は、全く何も関係ない。

 

 

▼聖書は共同体に何を求めているのか

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 では、共同体の中では、みながどのように行動したら良いのか。聖書の記述から、私のオススメをいくつか紹介する。

 

1:自分で聖書を読む

 このブログで何度か紹介しているが、聖書に「ベレア」という町が紹介されている。以下のように書かれている。

この町(ベレア)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことば(聖書の言葉)を受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き 17:10~11)

 

 この人々は、使徒パウロの言葉でさえも、ある意味で「疑い」、「非常に熱心に」、「毎日聖書を調べた」のである。権威のあるリーダーの言葉を、そのまま丸呑みするのではなく、聖書の言葉にその真理を見出そうとしたのだ。

 クリスチャンは、ベレアの人々に倣うべきである。自分で聖書の言葉を読み、自分で考えるべきだ。幸い、宗教改革以降、たくさんの言語に聖書は翻訳され、ほとんどの人が自分の母語で聖書を読むことが可能になった。もはや聖書学校に行かなければ聖書を学べないというのは、幻想である。私はよく「聖書学校(神学校)に通っていたの?」と聞かれるが、全く行ったことはない。このブログの記事程度のことは、自分で聖書を読めば分かることだ。

 21世紀を生きる私たちは、自分の言語で聖書を読み、自ら学ぶことができる。自分の言語で聖書が読める。いくつもの翻訳が出ている。索引がついている聖書もある。疑問があれば、インターネットで無限に調べられる。無料のアプリで、聖書の注解が読むことができるし、単語が何回使われているかも調べることができる。

 クリスチャンは、自分自身で聖書を読み、そこから学ぶべきである。

 

2:互いに教え合う

 自分で学ぶだけでなく、互いに教え合うのも重要である。「教会」という名の共同体があるのは、そのためだと言っても過言ではない。聖書にはこうオススメされている。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:11)

 

 牧師から一方的に教えを受けるのではない。あなた自身が学び、そして、互いに「知恵を尽くして教え、忠告し合う」必要がある。互いに教え合い、励まし合うのが、共同体の目的である。これは、「牧師」や「牧師夫人」だけに命じられたことではない。イエスに信頼する全員に語られた言葉である。

 

3:互いに愛し合う

 教え合うだけでは物足りない。イエスの教えは何だったか。今一度振り返ってみよう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 

 互いに愛し合う。これがイエスの教えである。繰り返す。これは決して、「牧師」や「牧師夫人」だけに語られた言葉ではない。イエスに信頼する者、全員に語られた言葉である。

 誰が、「牧師」だけに教える役目を命じたのだろうか。誰が「牧師夫人」が悩み相談を受けることを命じたのだろうか。誰が、「牧師夫人」を調停人に定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」をお掃除メイドに定めたのだろうか。誰が「牧師夫人」を完璧超人ロボットに定めたのだろうか。それはあなたが勝手にイメージしたことであって、神が定めたものではない。

 教会という名の共同体は、「キリストのからだ」という比喩で語られている。からだで要らない部分はない。あなたという存在は、共同体になくてはならないものである。さあ今、共同体の中で、愛を実践しようではないか。

 

 

 ・・・いかがだろうか。他にも挙げればキリがないが、まずはこの3つを心に留めて、行動してみたらどうだろうか。それに加えて、「牧師」や「牧師夫人」などという、くだらないラベリングはもうやめたらどうだろうか。

 私の妻は、「テレビ局政治記者夫人」と呼ばれるのだろうか。この世で「●●夫人」と呼ばれるのは「首相夫人」くらいのものであって、他の職業や役割に「夫人」をつけたらこっけいだ。「公務員夫人」「システムエンジニア夫人」「弁護士夫人」「大学教授夫人」「消防士夫人」「警察官夫人」「ケーキ屋夫人」「本屋の店主夫人」「野球選手夫人」「医者夫人」「作業療法士夫人」「トラック運転手夫人」などとは呼ばないだろう。まさか「フリーター夫人」と呼ぶ人はいまい。職業に貴賤がないのなら、なぜ呼び名を変えるのか。

 結局、これはくだらない人間のラベリングなのだ。そんなものは無視して、一人のイエスに信頼する者として歩もうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「つまずく」という言葉を誤用している?

クリスチャンはよく「つまずきになる」という表現で、人の行動を規制しようとしますが、それは本当に正しい指摘なのでしょうか?

 

 

▼やたらと「つまずきになる」と言うクリスチャンたち

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 クリスチャンの人と話すと、やたらと「つまずく」という言葉を聞く。「その行為はつまずきになる」「つまずきになってはいけない」などと、教会で言われた人も多いのではないだろうか。クリスチャンではない人は、「なにそれ」といった感じだろうが、実によく聞く言葉である。

 「つまずき」という言葉は、「神を信じる妨げになる」といった意味で使われる。そして、多くの場合が、人の行為を戒める際に用いられる。教会で何か、新しいことを始めようとすると、「それは、つまずきになるからやめたほうがいい」と言ってくる人たちがいるのだ。「品行方正な生き方」をしていないと、すぐに「つまずきになるよ」と言われるのである。

 先日、友人Y氏と話をしていた。彼は、聖書を勉強している牧師のタマゴである。「勉強楽しい?」と私が聞くと、彼はこう言った。「勉強そものは楽しいけど、インターンをしている教会で、『つまずき』になってはいけないから、それが大変なんだよね」。なるほど。牧師のタマゴたるもの、「はみ出した言動」をせず、大人しく、品行方正に、清く正しく美しくあらねばならないというのだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか。牧師のタマゴは、「つまずき」になってはいけないのだろうか。果たして本当の意味で、「つまずき」になっているのだろうか。そもそも、現状使われている「つまずきになる」という表現は、本当に正しいのか。今回は、このやたらめったら使われている「つまずき」という言葉に迫っていく。

 

 

▼「つまずき」となったイエス

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 聖書で「つまずき」になったと書かれている人物がいる。驚くなかれ、それは他でもない、イエス自身である。聖書にはこうある。

しかし、イスラエルの2つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となりエルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。

イザヤ書 8:14)

 

 これは、旧約聖書で、メシア、つまりエスイスラエル人にとって「つまずきの岩」となるという預言である。逆に、イエスに信頼する者は揺らぐことがないということも明記されている(イザヤ書28:16参照)。この聖書の言葉は、新約聖書でも、このように引用されている。

信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は、失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

(ローマ人への手紙 9:32~33)

 

 つまり、「行いが救いにつながる」と信じていたイスラエル人、ユダヤ人にとっては、真逆の教えを唱えたイエスは「つまずき」だったのである。エスは、働いてはいけない「安息日」に、病気の人を癒やした。イエスは「きよめの習慣」に従わず、食事の前に手を洗わなかった。イエスは「いけにえ」用の鳥を売っている商売人の台をなぎ倒した。これら全ては、ユダヤ教」の大切な文化であり、決まりごとであった。それを守らなかったエスは、ユダヤ人の逆鱗に触れ、文字通り「つまずき」になったのである。

 では、イエスは間違っていたのだろうか。否。エスは、聖書の真理からそれてしまっていた人々に、正しい道を示したのであった。決まりごとや儀式に隠れて見えなくなってしまっていた、本来の神の愛の意図を説いたのであった。このことから、大切なのは、伝統や決まりごとではなく、その裏にある目的や意図だということが分かるだろう。

 現代の教会で、「つまずきになるから、やめなさい」という指摘は、ほとんどの場合が「決まりごとや伝統」を破ろうとしたときに起こる。本来は、「神の愛から遠ざける」「神への信頼を揺らがせる」行為が「つまずき」であるにもかかわらず、いつの間にか「伝統を変える」ことが「つまずき」になってしまっているのである。伝統や儀式を変えたのは、まさしくイエスその人だった。

 では、なぜやたらと「つまずきになる」という指摘が教会で横行しているのだろう。実は、そう言ったのはイエス自身なのである。その発言を見てみよう。

 

 

▼「つまずきになるな」と言ったイエス

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 クリスチャンがやたらと「つまずき」という言葉を使うのは、イエスの言葉に由来する。エス自身が、「つまずきになるな」と命じているのである。その場面を見てみよう。

わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

(マタイの福音書 18:6~8)

また、わたし(イエス)を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

(マルコの福音書 9:42)

 

 石臼を首につけられて、海に沈められるなんて、まるで「東京湾に沈めたろうか?!」と言う、どこかの極道のような恐ろしい話である。その方がマシだというから、いかに「つまずき」となってしまう言動を避けなければいけないかが分かる。

 しかし、果たしてこの言葉は、「品行方正に、清く正しく美しく生きなさい」という意味なのだろうか。エスの意図は、何だったのだろうか。そのためには、文脈を見る必要がある。マタイの少し前の部分を見てみよう。

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたにいいます。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。

(マタイの福音書 18:1~6)

 

 「誰が一番偉いか」というしょうもない議論をしていた弟子たちに対して、イエス「この子どものような人が一番偉い」と言ったのである。弟子たち、赤っ恥。子どものような人とは、どのような人か。それは、子どものように純粋無垢に、神を信じる人である。子どものように、真っ直ぐに聖書の言葉を信じる人である。子どもが親を信頼するように、イエスを信頼する人である。その上で、イエスは、「この小さい者たちの一人をつまずかせる者は・・・」と言ったのである。つまり、エスは「純粋に神を信じる人たちの邪魔をするんじゃねえぞ!」と言っているのである。

 しかし、現状、教会で言われているのはどのようなことだろうか。ほとんどが、「あなたの行為は、他の信者たちのいい模範にならないから、やめなさい」という指摘である。エスの愛と恵みに感動して、突き動かされた人の気力をへし折る行為である。これは、本来の意味からズレてはいないだろうか。

 こんな話を聞いた。ある人、A氏が、家庭で聖書の勉強会を始めた。クリスチャンでない人も招いて、聖書の勉強会を、A氏なりにリードしていた。すると、それを聞きつけた牧師が、「何を勝手なことをやっているんだ。つまずきになるからやめなさい」と言ってきた。「聖書の勉強会をやるのなら、私を呼びなさい。教会のメンバーが一人も来ていないなら、やってはいけない」と牧師は言ったのであった。

 しかし、A氏は、ただただイエスの愛と恵みに感動して、自分にも何かできないかと必死で考えて、自宅での聖書勉強会を始めたのである。それをいたずらに邪魔をして、「つまずき」になっているのは、実はこの牧師の方である。ああ、愚かな牧師よ。お前は白く塗った壁だ! お前こそ石臼を結び付けられて、海に投げ込まれた方がマシだ。猛省せよ。

 このように、「お前の方がつまずきだ馬鹿野郎パターン」が、後を絶たない。教会で何か新しいことを始めようとする人たちを、やたら邪魔するリーダーたちがいる。イエスの愛に感動して突き動かされた人たちを邪魔をするのはやめていただきたい。実は、そっちの方がつまずきである。

 イエス自身が、気をつけるべきは他者ではなく、自分自身であると教えていないだろうか。

エスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したらなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

(ルカの福音書 17:1~3)

 

 愚かなキリスト教のリーダーたちよ。あなたたちこそが、自分自身が他のクリスチャンたちを縛りつけ、「つまずき」になっていないか気をつけるべきである。エスは、そのような「縛りつけるリーダー」たちにこう言っている。

しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない

(ルカの福音書 11:46)

 

 クリスチャンはあれをしてはいけない、これをしてはいけないと、やたらに縛りつける行為こそが、実は「つまずき」なのである。エスの愛に感動して、突き動かされてする行為を止める権威があるのは、神ご自身だけである。

 エスの十字架の真理は、「信仰による救い」なのにも関わらず、「クリスチャンたるもの、品行方正に、清く正しく美しく生きなきゃ」のような「行いによる救い」に人々を導いていることこそ、実は「つまずき」なのだ!

 

 

▼反論:ローマ書の記述はどうなる?

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 ここまで述べて、聖書の知識が少しばかりある人は、こう反論するだろう。「では、ローマ書の記述はどうなるのか」。さて、そのローマ書の記述を見てみよう。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。(中略)

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟(クリスチャンの仲間)が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

(ローマ人への手紙 14:1~14)

 

 ローマ人の手紙14章の主眼は、主にユダヤ教の律法をどの程度守るのかという議論である。作者(パウロ)の主張は、「何を食べてもいいし、どの日も大事である」というものである。だが、当時のユダヤ教になじんだ人々にとって、イエスを信じてクリスチャンになったからといって、ユダヤの習慣をいきなり捨てるのは難しかった。ユダヤ教では、食べてはいけないものや、儀式の日が、細かく厳しく決められていたのである。それらは、ユダヤ人にとっては当たり前に守らなければいけない決まりだった。

 だから、パウロは、古い習慣を捨てきれない人々を、「信仰の弱い人」と表現し、「その意見をさばいてはいけない」と言ったのである。なるほど、ここを読むと、自分は良いと思っても、他の人が良いと思わないことは、全てしてはいけないように感じる。

 ここで、現代の私たちが留意しなければならない点が3つある。

1:これは、ユダヤ教の背景がある人々に、「どれだけ律法を守るか」という視点で向けられた言葉である。全く関係ない現代の、しかも外国人である私たちにとって、「食べてはいけないもの」や「(ユダヤ教の)儀式の日」は、もはや存在しない。

 

2:この言葉は、「さばき合わないように」「兄弟を妨げるな」というのが主なポイントである。「他の人に、『それはつまずきだ』と指摘せよ」という教えではない。「各々が、しっかりと基準を保って、互いに受け入れ合いなさい」という教えである。

 

3:そもそも、この部分は、「食べ物」「飲み物」「儀式(祭り)の日」についての議論であり、家庭で聖書勉強会をひらくかどうかや、政治的スタンスや、他の諸々の生き方についての議論ではない。

 

 もし、仮に「信仰の弱い人の基準に合わせて生きなさい」というのがこの聖書の言葉のポイントであるなら、私たちは電気を使わず、車に乗らず馬に乗り、家庭集会を行うアーミッシュのような生活をしなければならないだろう。しかし、現実にそうしているクリスチャンは誰もいない(アーミッシュ以外)。

 この言葉のポイントは、「各々が神様に対して誠実に向き合っている事柄を、いいか悪いか判断せず、互いに違いを認めて受け入れ合おうではないか」というものである。酒を飲んでもいいと思う人にとって、酒は良いものであり、たばこを吸ってもいいと思う人にとっては、たばこは良いものなのである(ただし、副流煙については疑問だが)。

 結局のところ、問われるのは「心の動機」である。果たして、自分の行為が、神の愛に感動して、突き動かされたものなのか、それとも自己中心的な思いから来るものなのか、吟味する必要がある。ローマ14章の続きには、こうある。

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(ローマ14:19)

私たちの力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

(ローマ人への手紙 15:1)

 

 あくまでも、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」というクリスチャンは、「信仰が弱い」のである。だから、「信仰が強い」自由な人たちは、その自由へと、縛られている人たちを導く必要がある。

 誰も、人の生き方に口出すする権利はない(ただし、「罪」を犯していたら別である。それは指摘するようにと聖書に書いてある)。もし、教会のリーダーたちにいろいろ言われたら、彼らは「信仰が弱い」のである。その事実を教えて差し上げよう。

 

 

▼「模範」になれとプレッシャーを感じている人へ

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 牧師のタマゴや、教会やミニストリーのリーダーになろうとしている人たちへ。聖書学校や、教会などで、何度も「模範になれ」「つまずきになるな」と言われ、プレッシャーを感じているだろう。その際、よく用いられるのがこの聖書の言葉である。

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 

 この言葉は、一見、品行方正な生き方をしないといけないように感じる。しかし、ここのメインポイントは、「若くてもしっかりやれ」という部分である。言い換えれば、「若さを言い訳にするな」という意味である。しっかりやるのであれば、聖書の言葉により忠実に生きなければならないだろう。聖書に書いていない、「酒を飲むな」「たばこを吸うな」「毎週教会に来い」「十分の一献金をしろ」「牧師を先生と呼べ」といった間違った教えを、むしろ奉じない方が、「模範」になりうるのである。詳しくはこれらの記事を読んでほしい。

 

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 教会のメンバーや、牧師、教師たちが与えるムダなプレッシャーなんて、クソくらえ。先のローマ14章の続きには、こう書いてある。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。

(ローマ人への手紙 14:22)

 

 あなたが、イエスの愛と恵みに感動して、突き動かされたことで文句を言われても、自分はダメだと思わないでほしい。神は、あなたのハートをご覧になっている。まわりの人の評価ではなく、神自身に、神の言葉に真実に生きようではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

このブログについて

「週刊イエス」について。

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このブログが何のためにあるのか、以下のようにまとめました。

必要であればご覧ください。随時追記していきます。

 

【ブログの目的】

・私は、クリスチャンとして生きていて、「教会」や「キリスト教」の中に、聖書に基づかない「文化」や「しきたり」があまりにも多いことに苛立ちを覚えていました。

・そのため、今一度クリスチャンの方に、聖書がどう語っているか感じてほしいと考え、このブログを始めました。

・読者がこの記事を読み、「教会」や「キリスト教」の「文化・しきたり」から開放され、励まされることを望みます。またご自身で聖書を読む習慣をつけてもらえたら最高です。

・また、クリスチャンではない方も読者として想定しています。キリスト教」の正しいイメージを持ってもらおうというのが、そのねらいです。

・そのため、クリスチャン用語(例:みこころ、みことば、など)はなるべく用いず、平たい表現にしています。また、聖書の言葉の背景を、なるべく分かりやすく説明することを心がけています。

異論、反論、疑問、質問、大歓迎です。ぜひコメントください。ただ、コメントに気が付かず返信が遅い場合があります。ご容赦ください。

・また、寄稿も大歓迎です。ぜひご連絡ください。(連絡先:israelkuma★(アットマーク)gmail.com

 

【ブログの注意点】

・このブログは、あくまでも私が日々感じたことを基に着想し、聖書を調べて、それを基にまとめたものです。

・それゆえ、このブログの記事は、私の個人的な考えです。オススメであり、強制ではありません。また、どこかの教会や団体を代表する意見でもありません。

・私の願うところは、このブログを読んた方が、文化やしきたりから開放され、励まされることです。読者が自分で聖書を読み、自分の足で、キリストという土台にしっかり立たれることを願います。

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【ブログの引用】

・聖書の言葉の引用は、特に断りがない場合は、新改訳聖書2017版」を用いています。<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

・理由は、私が普段読んでいる翻訳だからです。それ以上でも、それ以下でもありません。強いて言えば注釈が便利です。

・文脈や意図から、より適切であると判断した場合は、「新改訳聖書3版」「新共同訳」「口語訳」など、他の翻訳を用いる場合もあります。その場合は、引用元を明記します。

・引用はなるべく聖書のみにしようと考えています。しかし、用いた方が分かりやすい、適切であると判断した場合に、他の書籍などの引用をする場合があります。

 

【筆者のプロフィール】

・小林拓馬(クラウドチャーチ牧仕)(クラウドチャーチHP)

・長野県在住の20代男性です。イエスを信頼するクリスチャンです。

・異端ではないことを証明するために書きますが、立場としては、プロテスタントのクリスチャンです。また、「教会」にも通っています。

・長野県の山奥出身。

・住んだ場所は、長野→アメリカ→長野→カナダ、アメリカ→長野→東京→イスラエル→東京

・高校は行かずにカナダやアメリカでフラフラしてました。

・16歳の頃にローマ5:8の聖書の言葉からイエスに出会い、クリスチャンに。

早稲田大学国際教養学部卒業 

→TBSテレビ政治部記者として安倍首相、自民党・谷垣幹事長、二階幹事長、立憲民主党・枝野代表らを取材 

→「news23」ディレクター

クラウドチャーチ牧仕

・何度も聞かれますが、聖書学校には行ったことがありません。聖書学校に行かなければ聖書は学べないというのは、宗教改革までの常識であり、現代では非常識です。

21世紀を生きる私達は、(ほとんどの場合)自分の母語で聖書を読むことができます。また、インターネットでいつでも参考意見を学ぶことができます。その場合は、英語ができた方がリソースが何倍にも増えるので、英語を学ぶことをオススメします。

・もちろん、英語では読めないリソースもあります。ヘブライ語アラム語ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語などを学ぶ必要があるでしょう。その場合は、専門の学校や教師から学ぶ必要がありますが、このブログ程度のことは学校に通わずとも聖書から学ぶことができます。

 

 

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【聖書】イエスが受けた3つの誘惑とは?

エスが荒野で悪魔から受けた3つの誘惑があります。そこから得られる教訓とは?

 

 

▼荒野の3つの誘惑とは

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 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けた。その後、メシアとしての公の活動を始める前に、荒野で悪魔の試みを受けたというエピソードがある。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書にそれぞれ記述がある。

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

(マタイの福音書 4:1)

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。エスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。

(マルコの福音書 1:13)

さて、イエス聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔の試みを受けられた。

(ルカの福音書 4:1~2)

 

 これらの誘惑を、イエスはなぜ受ける必要があったのか。面白いことに、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書に共通しているのは、「御霊に導かれて」という表現である。神の霊、聖霊がイエスを導き、この荒野での悪魔の誘惑を体験させたのだ。つまり、イエスにとって、通らなければいけなかった道だということである。

 マルコの福音書にはこの記述しかないが、マタイの福音書とルカの福音書には、さらに詳細な記述がある。エスは、悪魔から3つの誘惑を受ける。マタイとルカでは、誘惑の順番が違うが、内容はほぼ同じ。マタイをベースに簡単にまとめると以下である。

【イエスが受けた誘惑】

1:石をパンに変えてみよ。

2:神殿の屋根から飛び降りてみよ。

3:私を拝んでみよ。そうすれば、この世の王国と栄華をあげよう。

 

 この3つの誘惑は、果たしてどんな意味があったのか。そして、そこから得られる教訓は何か。今回は、このイエスと悪魔のやり取りについて考えてみよう。

 

 

▼1:奇跡を乱用する誘惑

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 最初の悪魔の誘惑を見てみよう。今回はマタイの福音書をベースにする。

そして40日40夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者(悪魔)が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:2~4)

 

 荒野で40日間断食をしたイエスは、超絶空腹の中、悪魔から「そこの石ころを、パンに変えてみよ」と誘惑を受ける。この誘惑はどのようなものだったのか。イエスの返答を見ると、その本質がわかる。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる

 

 イエスは、ユダヤ人にとっての律法の大元である、申命記の記述を引用して悪魔に答えた。聖書の言葉を使って、悪魔に対抗したという姿勢は、我々も学ぶべきところだ。エスが引用した聖書の元の記述はこうである。

それで主(神)はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなた(イスラエル)も知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

申命記 7:3)

 

 主のことばで生きる。これが神がイスラエルに命じたことであり、イエスの生きる姿勢だった。実際、イエスは何度もこう言い、自分の意志ではなく、神の計画に従って生きる姿勢を強調している。

子(イエス)は、父(神)がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

ヨハネ福音書 5:19)

わたし(イエス)は、自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方(神)のみこころを求めるからです。

ヨハネ福音書 5:30) 

わたし(イエス)があなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父(神)が、ご自分のわざを行っておられるのです。

ヨハネ福音書 14:10)

 

 エスの生き方は、「神が思う通りに思い」「神が行う通りに行い」「神が話す通りに話す」というものであった。その心に、悪魔はこうささやいたのだ。「自分のために奇跡の力を使ってみろよ」と。神の計画通りに全てのことを行う。これがイエスの目的だった。自分のためではなく、神が定めた通りに、現在、過去、未来全ての人のために死ぬ。これが、イエスの目的だった。そのイエスの力を、「自分のため」に使ってみよという、自己中心的な行動へのいざない。これが、1つ目の誘惑の本質である。

 

 それだけではない。実は、もうひとつ、この誘惑のポイントがあるのだ。カギは誘惑のタイミングである。この時はどんな時だったか。40日間断食をした後、空腹状態で・・・というのも、もちろん重要なのだが、実はさらに大切な点がある。それは、この誘惑が、エスが宣教を開始する直前だったという事実である。

 イエスは、神と同一の存在で、神の心も知っていたので、この後、メシア(救い主)として様々な奇跡を行い、宣教をし、さらには十字架で死ぬという、自分の人生の目的も知っていただろう。さあ、いよいよ人生のクライマックスを始めるぞ! というタイミングになって、悪魔がささやいてきたのである。「さあ、奇跡の力を試してみないか・・・?」と。

 イエスが、この前に奇跡をバンバン、魔法のように使っていたとは考えにくい。となると、宣教を始める直前のタイミングに「お試し」をしたくなるのもうなずける。悪魔は、人間誰もが覚えるであろう、「心の不安」に漬け込んできたのである。

 メシアとしての公の活動を始める直前に、「これはほんのお試しだから」と、神への信頼を試した上で、「自分のために力を使ってみよ」という、自己中心的な思い、行動への誘い。これが最初の誘惑の本質である。

 

 

▼2:聖書の言葉を乱用する誘惑

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 2つ目の誘惑は何だろう。その部分を見てみよう。

すると悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある

(マタイの福音書 4:5~7)

 

 ここで、悪魔は攻め方を変えてきている。1つ目の誘惑の際、イエスが聖書の言葉で対抗してきたため、なんと悪魔も同じように聖書の言葉を使って誘惑してきたのである。悪魔の引用した聖書の文章は、以下である。

わざわいは、あなたに降りかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。彼ら(御使いたち)はその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。

詩篇 91:10~12)

 

 悪魔が聖書の言葉を使うのを、意外だと思う人もいるのではないか。実は、悪魔は神の存在を認め、その恐ろしさのゆえに身震いしているし、神の言葉である聖書の中身も知っているのである。この詩篇の言葉は、「神に信頼する者は守られる」という文脈で語られている。決して、屋上から飛び降りても、天使が飛んできてスーパーマンのように助けてくれるという意味ではない。明らかな曲解である。

 ここで学ぶべきは、聖書の言葉でさえも悪用できてしまうという事実である。悪魔は、巧みに聖書の言葉を曲解させ、人に間違った判断をさせようとする。実は、アダムとエバも、この方法で騙され、失敗してしまったのであった。悪魔はエバに、神が命じた言葉の詳細を捻じ曲げてささやき、食べてはならない木の実を食べさせることに成功した(創世記3章参照)。

 同じように、私たち現代の人間も、聖書を曲解してしまう危険性がある。だから、常に「心の動機」に注意し、文脈や背景などを踏まえた上で聖書を読むべきだ。また、背景を知りながら、聖書の言葉の一部だけを抜き出し、曲解させようとする牧師や教師が後を断たない。神の言葉を軽んじるのは止めたほうがいいと、いつ分かるのだろうか。

 そのような人にだまされないように、普段から聖書の言葉を読み、親しみ、文脈を理解しておくことが大切だ。10分の1献金の強制や、安息日を日曜日に当てはめる教えなどは、その最たるものである。それらの教えを奉じている人々は、完全にこの「聖書の言葉を乱用する誘惑」に負けてしまっている。

10分の1献金や、安息日については過去の記事を参考)

 

 イエスはどう答えたか。またも、聖書の言葉によってである。

あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。

申命記 6:16~17)

 

 聖書を曲解する者に対しては、同じく聖書の言葉を突きつけるしかない。神の言葉を曲げて、神を試み、冒涜する者に対しては、適切な聖書の言葉を差し入れしてあげよう。

 知人に、旧約聖書に感化されて、「安息日に出歩くな」という記述から、「日曜日」に一切家から出ない、という極端な信仰を持っている人がいた。その人には、「安息日は土曜日ですよ」と伝えてあげたかったのだが・・・。

 

 

▼3:十字架を通らせない誘惑

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 さて、最後の誘惑である。これが最大の誘惑だったのではないかと考える。該当部分を読んでみよう。

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある

(マタイの福音書 4:8~10)

 

 聖書の言葉曲解攻撃も効かなかったので、悪魔は最終手段に出る。「私を拝め」と言うのである。一見、これは、「そんなの拝むわけねぇじゃん」と思うような誘惑である。しかし、イエスにとっては違ったのだ。

 上にも書いた通り、イエスには自分がメシアという自覚があった。「人間イエス」が、自分はメシアという認識を完全に持っていたのか、部分的になのかは、議論がある所ではある。しかし、彼がメシアという使命を帯びていたのは事実である。

 メシアは、「救い主」と翻訳されるが、「王」でもあった。ユダヤ人の王」と書かれて十字架で死んだのは有名である。メシアたるイエスは、ユダヤ人だけでなく全人類の王、王の王である。いつかイエスはこの地上に帰ってきて、完全に王として君臨するとクリスチャンは信じている。私もそう信じている。

 つまり、悪魔が見せた「この世のすべての王国とその栄華」というのは、メシアたるイエスが、「いずれ手にするはずのもの」だったのである。しかし、それは、イエスが再び地上に帰ってくる時に得るものであり、まだその時は来ていなかった。

 実は、この誘惑は、ただの「悪魔崇拝」の誘惑ではない。なんとこれは、十字架を省略してしまえという誘惑だったのである。メシアたるイエスに、いずれ手にするはずの栄華を見せて、悪魔はこうささやく「ほら、キツイ十字架なんかやらなくたって、たった一度俺にひれ伏せば、この栄光と誉れを全部おまえにやるよ。俺のものだから、どうしようと俺の自由だ。なあに、簡単さ・・・十字架なんてめんどくさいもの、やらなくてもいいじゃないの」。こうして悪魔は、十字架での死、そして復活という、イエスの最大の目的を奪おうとしたのである。

 ルカの福音書の記述を見ると、悪魔は、「それら(この世の栄華)は、私に任されている」と語っている。面白い。本来、栄光は神のものであり、イエスのものである。それを、「私に任されている」と話している。私たち人間も、心のどこかで、「自分が賢いから」「才能があったから」「努力したから」と、自分自身に栄光を帰していないだろうか。常に、主権は神にあるということを忘れないことが大切だ。

 

 もちろん、我らがイエスはこんな誘惑に負けたりはしなかった。イエスは、またも聖書の言葉で対抗した。

あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。

申命記 6:13)

 

 イエスは、こうして完全に悪魔の誘惑に打ち勝ったのである。この3つの誘惑に対して、イエスが全て「申命記」の記述をもとに対抗したのは、とても興味深い。申命記」は、いわゆる「トーラー」(律法)と呼ばれる5つの書物の最後にあたる。イスラエルの民に対して、神が様々な規範や決まりごとなどの「律法」をまとめている書物である。

 悪魔の誘惑に対し、イエスは完全に「律法」を用いて対抗した。この律法は、後にイエスが示す「愛し合う」という律法の伏線となっているのであった。

 

 イエスの揺れ動かない姿勢に、悪魔は離れ去った。

 

すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

(マタイの福音書 4:11)

 

 聖書の言葉を堅く握って話さない人は、誘惑に打ち勝つことができるのである。

 

 

▼なぜイエスは誘惑を受けたのか

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 最後に、なぜイエスが誘惑を受けなければいけなかったのかを述べる。イエスはメシアなのだから、こんなめんどくさい誘惑など受けずに、さっさと宣教を始めればよかったのではないか。否。明確な目的があったのだ。聖書にこう書いてある。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

(ヘブル人への手紙 4:14~15)

 

 なんと、イエスは、私たちの気持ちを体験するために、誘惑を受けたのである。しかも、この3つだけではない。「すべての点において」である。エスは、そこまでして、私たちと同じ目線にまで、身をかがめてくれたのである。

 

 それなら、私たちは、ここまでしてくれたイエスに目を留めようではないか。聖書の言葉をしっかり握って、心の中にある自己中心的な思いと戦おうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】なぜクリスチャンはすぐ「サタン」のせいにするのか

クリスチャンの人に悩みを相談すると、「それ、サタンだね」とドヤ顔で言ってくるのですが、本当にそうなのでしょうか。

 

 

▼「それ、サタンだね」って何?

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 クリスチャンの人に悩みを相談すると、よく返ってくる答えがある。

 「それ、サタンだね」

 耳なじみのない人はビックリするだろう。どういう意味なのだろうか。

 「サタン」とは、言わずと知れた"悪魔"の通称である。旧約聖書には「サタン」と翻訳される言葉は、19回登場する。そのうちの16回「ヨブ記」で登場する。つまり、「サタン」は、ヨブ記独特の特殊な固有名詞である。他にも「サタン」という発音のヘブライ語旧約聖書に9回ほど登場するが、いずれも文脈などの理由から「敵対する者」と訳されている。新約聖書ではそれよりも多く、36回登場する。

 イエスが荒野でサタンの誘惑を受けたのは有名な話である(マタイ4章参照)。イエスは最後にこう言った。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある」

(マタイの福音書 4:10)

 

 イエスでさえも、サタン(悪魔・敵意)の誘惑を受けたのだから、私たち人間はなおさらである。だから、クリスチャンが言う、「それ、サタンだね」というのは、その人が直面している困難は、「サタンのせいだ」「サタンの影響だ」という意味なのだ。

 言い換えれば、「あなたが難しい状況にいるのは、サタンがあなたを邪魔しようとしているからだ」という意味になる。言われた人は、ドキッとするだろう。でも、この指摘、的を得ているのだろうか。本当に、サタンという悪魔みたいな存在がウヨウヨ飛び回って、人間の邪魔をしているのだろうか。今回は、この「サタンだね」発言の是非について問うていきたい。

 

 

▼サタンじゃねぇよ、お前だよ

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 結論から言ってしまえば、「サタンじゃねぇよ、お前だよ」というのが私の意見である。なんでもかんでもサタンのせいにするクリスチャンは、責任転嫁をしていると、私は思う。そういう人たちは、いつまでたっても自分の言動に責任を持たない、フワフワした無責任な人間になってしまう。クリスチャンでない方の中には、「だからクリスチャンは信用できない」と思っている人もいるのではないだろうか。

 日曜日になると体調が悪くなって、教会に行けない? じゃあ行かなきゃいいじゃない! そんなのサタンでもなんでもない、ただの疲れである。だったらきちんと睡眠をとって休もう。教会の人間関係が嫌だから、精神的につらくて行きたくないのかもしれない。じゃあ、その人間関係をなんとかするために、自分から歩み来れることは何か考えて行動すればいい。

 聖書読みたくない気分? 甘えんな。サタンのせいにするな。忙しくてもメシは食うだろう。じゃあ霊のメシを食わなくてどうする。意地でも読みやがれ。読めないのは習慣がついていないからであって、サタンが邪魔しているからじゃない(大体、読まないから私はダメだという思考も間違っているのだが・・・)。

 結局、「それ、サタンだね」というのは、「思考停止」なのである。サタンのせいにして思考停止している暇があったら、現状を真正面から見つめて、具体的な解決策を練って、行動すればいい。そうすれば、たいていの問題は解決する。ウジウジしている暇があったら行動しよう。

 

 私は別に、サタンの存在を否定しているわけではない。前述した通り、「サタン」という表現は聖書に55回登場する。これは、「天の御国」(35回)や、「復活」(41回)よりも多い。何より、イエスが「下がれ、サタン」という表現をしているのだから、サタンというものがどういう形状であれ、その存在は否定できない。

 しかし、疑問なのは、「その困難は、本当にサタンの仕業なのか?」という点である。実は、聖書の中で、サタンが、直接的に人間の人生に介入したと明記してあるケースは、ほとんどない。かなり稀である。後述するが、サタンが誘惑したのは、どれもイスラエルの王レベルの指導者に対してである。しかもそれは、国の行く末を決める決断など、大きな岐路にたった時の話であって、細かい一人ひとりの人間の困難の原因がサタンだという記述は、実は全くと言っていいほど無い。

 私は大胆にこう言おう。あなたが教会の人との人間関係に難しさを抱えているのは、実はサタンが原因ではないかもしれない。普段のコミュニケーション不足が原因ではないか。自己中心的な、あなたの心が原因かもしれない。今一度、自分の胸に手をおいて考えてほしい。

 あなたが神からのビジョンだと思って突き進んだプロジェクトが上手くいかないのは、実はサタンのせいではない。そのビジョンは、実は神からの召しではなく、承認欲求を満たすための自己実現になっているのではないか。ただの準備不足から起こるエラーではないのか。チームワークを乱しているのは、サタンではなく、マネジメントができていない、あなた自身ではないのか。 

 そもそも、「全てうまくいく」のが神の計画とは限らない。使徒パウロは神に従ってから、命を狙われ続け、囚人にまでなった。イエスの弟子たちは、ほとんどが処刑された。信仰心にあついステパノは石打ちで死んだ。これは、サタンの仕業なのだろうか。否、聖書にはこう書いてある。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 

 なぜ苦しまなければならないのだろうか。詳細は過去記事を参考にしてほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 ひとつだけ、別の聖書の部分を紹介したい。

苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。

詩篇 119:71)

 

 神をもっと知るためには、ある程度の苦しみは必要なのである。

 

 

▼聖書で「サタン」が人に影響を及ぼしたケース

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 さて、サタンが実際に人間の人生に影響を及ぼしたことが明記されているケースは、聖書の中で意外と少ない。「サタン」と明記されていないものを含めても、アダムとエバダビデ、ヨブ、イエス、ペテロ、イスカリオテのユダ、アナニヤぐらいだろう(他にあればご指摘願う)。

1:アダムとエバ

「蛇」にそそのかされて、神に食べてはいけないと言われていた実を食べてしまった(創世記3章)。

2:サウル王

「主の霊が彼を離れ、『わざわいの霊』が彼をおびえさせた」との記述がある。(しかし、注意して読むと、この部分は「主<しゅ・神の意>からのわざわいの霊」とある。つまり、サウルを惑わしたのは、サタンではなく、神が送った霊によるのである。<サムエル記第一16章>)

3:ダビデ

「サタン」にそそのかされて、イスラエルの人口調査をしてしまったとの記述がある(歴代誌第一21章)。しかし、サムエル記第二の同じ部分の記述(24章)によると、「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして・・・」とあり、ダビデをそそのかしたのは「サタン」ではなく、「主(神)の怒り」となっている。いずれにせよ、神の権威の範疇で行われたことである(※また、「人口調査」が悪いことなのか否かは議論があり、それについては、この記事に詳しく記載がある。ツイッターでご指摘いただいたアシェラさん、感謝)。

 4:ヨブ

「サタン」が神にヨブを貶める許可を求め、神が許可したという、有名なストーリーである。はじめに、神はヨブの財産をサタンが自由にするよう許可した。サタンにより、ヨブは10人の子どもを含む、全財産を失った。それでもヨブが信仰を捨てなかったので、ヨブの体をサタンが自由にするよう許可した。しかし、ヨブのいのちを取ることは許さなかった。結局、すべては神の権威の範疇で行われていたヨブ記1~2章)。

5:イエス

荒野で「悪魔」の試みを受けた。「石をパンに変えてみろ」「神殿の屋根から飛び降りてみよ」「私をひれ伏して拝め」という3つの誘惑をしたが、イエスは負けなかった。「下がれ、サタン」という有名な文言がある。このイエスと悪魔のやり取りについては、非常に興味深いので、これについては別途記事を書く予定(マタイの福音書4章)。

6:ペテロ

エスが、自分が殺され、3日目によみがえることを明示し始めると、弟子のペテロはイエスをわきに連れて、「そんなことが起こるはずがない」といさめた。師匠がヤバイことを言い出したので、静止しようとしたのである。すると、イエス「下がれ、サタン」と言い放った。ペテロびっくり。ペテロはイエスから唯一、「サタン呼ばわり」された人間である(マタイの福音書16章)。

7:イスカリオテのユダ

言わずと知れた、イエスを売った「裏切り者のユダ」である。彼に「サタンが入った」という明確な記述がある。しかし、これも、イエスの十字架での死と復活という、神の計画を実現させる一助となってしまった。サタンの働きが、かえって神の働きを実現してしまったのである(ルカの福音書22:3、ヨハネ福音書13:27など)。

8:アナニヤ

彼は、初期の教会のメンバーであった。その頃の教会では、各々が自分の財産を売って、分配し、コミュニティを形成していた。しかし、彼は売上金の一部をちょろまかして、金額をごまかして報告していた。ペテロが「アナニヤ、どうしてあなたはサタンに心を奪われ・・・」と言っているので、このリストに追加する(使徒の働き5章)

 

 人間が「サタン」と思われる存在にそそのかされた記述は、この8つしかない(と、思われる、追加あればご指摘願う)。

 これらを見て分かる教訓はいくつかあるが、まとめると以下である。

 

●サタンは神の許可がないと何もできない。

●全ては神の権威の範疇で行われている。

●サタンが働いても、結局神の計画が実現してしまう。

 

 つまり、サタンがどうそそのかそうが、全ては神の権威の範疇で行われているのである。仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、サタンも神の手のひらで踊らされているのである。

 であれば、神を信じたクリスチャンたちが、「サタン」といった小さな存在は恐るに足りず。気にする方が無粋である。それよりも、汚い自分自身の心に気をつけたほうが100倍いい。

 おそらく、エスがペテロに対して言い放った「下がれ、サタン」という言葉が強烈すぎて、多少聖書を読んだことのあるクリスチャンは、悪いことがあると全て、自分の中に悪魔がヒッヒッヒと高笑いしながら入り込んで悪さをするイメージが脳裏にこびりついてしまっているのだろう。そこから来る、「それ、サタンだね」である。

 しかし、これは全くの大間違い。サタンはあなたなんか見向きもしてない。勝手に自滅するような人間を、サタンは狙わない。サタンが狙うのは、イエスダビデやヨブやペテロといった「強敵」である(失敗してるけど)。私たちは、まず、自分の胸に手を当てて、自分自身の言動に気をつけようではないか。

 

 

▼サタンには注意、でも自己中心にはもっと注意!

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 もちろん、サタンには注意しなければならない。その「サタン」が、自己中心的な心を指すのか、はたまたフワフワと空中に浮いている黒くて尖ったしっぽを持っている悪魔を指すのかは、一旦置いておきたい。ただ明確なのは、聖書が明確に「サタン」に対して注意喚起をしていることだ。聖書を見てみよう。

(夫婦関係において)互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのあらかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 7:5)

あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

(コリント人への手紙第二 2:10~11)

ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。

(テモテへの手紙第一 5:14~15) 

 

 このように、特に新約聖書では、「サタン」に気をつけるように明確に指示をしている。「悪」にまで範囲を広げると、もっとわかりやすい。

主を愛する者たちよ。悪を悪め。

詩篇 97:10)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。

(ローマ人への手紙 12:9) 

あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙 5:22)

 

 聖書は、私たちに「サタンの策略に注意せよ」、「悪から離れよ」と教えている。確かに、人間はすぐ道を外してしまう、弱い存在だ。注意するにこしたことはない。

 しかし、聖書は同時にこうも言っている。

しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:14~15)

 

 サタンは、巧妙に変装して「クリスチャンのふりをして」近づいてくる。牧師とかが案外一番危ないので注意! (以前の記事を参照)

yeshua.hatenablog.com

 しかし、そうであっても、ぶっちゃけ「大したことではない」のである。サタンは、神に許可をもらわないと動けないような、小さな存在である。自分が神から離れさえしなければ、サタンは私たちに何もできない。サタンを恐れる前に、神を恐れよ!!!

 

 

▼サタンに注目するのか、神に注目するのか

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 イエスはペテロに対した何と言ったか、もう一度見てみよう。

下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

(マタイの福音書 16:23)

 

 エスが問題にしたのは、ペテロが「神の計画より、人からどう思われるか」を優先したからである。言い換えれば、神に目を向けず、人に目を向けていたからである。

 私たちが一番注意しなければいけないのは、実はサタンの攻撃ではなく、「自分の心のズレ」である。自分の目線が、神から逸れていないか。これが一番重要なのである。

 実は、「それ、サタンだね」とか、「神様、サタンからお守りください」とギャーギャー騒いでいる人たちほど、神ではなくて、サタンに注目してしまっているのである。ビジネスの世界でも、目的を達成することがフォーカス(焦点)で、リスクヘッジ(トラブル回避)はその目的を達成するためにするものである。目的がボヤボヤで曖昧なくせに、ありもしないリスクを心配して、騒いでどうするの? といった感じだ。そういうのを、「杞憂」という。

 サタン、サタンと騒ぐ人に限って、サタンに焦点が言ってしまっている。こうなると、もうサタンの策略にハマっている。クリスチャンが語るべきは、「サタン」というリスクではなく、どうやったら神をもっと知れるのかだ。どうやったら神の愛で人を愛せるか。それを実行できるか。どうやったらこの素晴らしいイエスをより明確に伝えられるのか・・・etc。

 クリスチャンが語るべきは、イエスマジすごくね?! ということであって、サタンについてではない。サタンなぞ気にせず、ゴールであり、目的であり、全てであるイエスについてもっと語り合おうではないか。心にあることが、口から出てくるのだから。

 

 私たちに必要なのは、「サタンに攻撃される」と怯えることではない。自分の「心の動機」が、「神」に向いているのか、それとも「自分」に向いてしまっているのか、いつも吟味することこそ、本当に必要なことなのである。

 あなたがミニストリーをする、本当の「心の動機」は何だろうか。たまに、ミニストリーが「居場所」となっている人を見かけるが、それは危うい。ミニストリーは、あなたの自己実現をする場所ではない。神の福音を伝える場所だ。勘違いしないでほしい。そんなの、「サタンの攻撃」以前の問題である。有名な牧師や宣教団体のリーダーほど、この「自己承認欲求」が目的となってしまっているケースを、本当によく見かける。あぁ・・・。

 あなたが教会に集う理由は何だろうか。あなたが聖書を読む理由は何だろうか。あなたが長々と祈る理由は。あなたが献金をする理由は。あなたが福音を伝える理由は。あなたが賛美を歌う理由は。あなたが作曲をする理由は。あなたが宣教旅行に行く理由は。あなたがキリスト教団体の職員になる理由は。あなたが牧師になる理由は。あなたが教会役員になる理由は・・・etc。

 

 問うていけばキリがない。

 

 実は、ほとんどが「サタンの攻撃」以前の問題だったりするのだ。

 

(了) 

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】なぜ神を「父」と呼ぶのか

キリスト教では、「父なる神」とよく表現しますが、神は男性なのでしょうか。なぜ神を「父」と呼ぶのでしょうか。

 

 

▼神は男性なのか?

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 キリスト教の世界では、よく神を「父なる神」と表現する。「父・子・聖霊」の「三位一体」<さんみいったい>という言葉も、なじみがあるだろう。祈りでも、「愛する天の父よ・・・」と始める場合も多い。

 ここでひとつの疑問が生まれる。神は男性なのだろうか。神は性別を超越した存在ではないのだろうか。なぜ神を「父」と呼ぶのだろうか。そこに意味はあるのか。遠藤周作は「母なる神」とも表現した。神を「母」と呼んではいけないのだろうか。

 今回は、神の「父」という呼び名について書く。

 

 

▼「父」という単語の使用例

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 旧約聖書で、神を直接父と呼ぶシーンは、ほとんどない。「父」という意味の「アブ」は、旧約聖書に1215回も登場するが、その中で神に対して用いられているのは、ほんの数回だ。旧約聖書で「父・アブ」は主に次のような意味で用いられる。

1:肉親の父親

2:自分たちの先祖(例:アブラハムヤコブなど)

3:王や民にとっての助言者・預言者(例:ヨセフ、預言者エリヤなど)

4:自分の主君(例:サウル王、ナアマン将軍など)

5:イスラエルの神

 

 1番は言わずもがな、日本語の「父親」と同じ意味だ。もちろん、この意味で用いられているケースがほとんどである。

 2番は日本語としては特殊だが、先祖を指す意味だ。英語でも「ピルグリム・ファーザーズ」というように、同様の表現がある。特に、イスラエルの民の先祖である、アブラハム・イサク・ヤコブを指して使われる場合が多い。これは新約聖書でも変わらない。

「私たちの父はアブラハム」(ヨハネ8:39)

「私たちの父イサク」(ローマ9:10)

「私たちの父はヤコブ」(ヨハネ4:12)

「私たちの父であるダビデ」(使徒4:25)

 

 3番の「助言者・預言者」に対してというのは、特殊な用法だ。実際の使用例を見てみよう。

ですから、私(ヨセフ)をここ(エジプト)に遣わしたのは、あなたがた(ヨセフの兄弟たち)ではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

(創世記 45:8)

 

 これは、ヨセフがエジプトでファラオに次ぐ権力者になった時のセリフである。権力No.1はファラオだったが、実際の政治を行っていたのはヨセフだった。ヨセフはファラオにとっての「助言者」だったのだ。一番の権力を持っているのはファラオだったが、全ての政治はヨセフのさじ加減で動いていた。だから大胆にもヨセフは「神は私をファラオにとって父とした」と言えたのだ。これは3番の用法である。

 同じように、「助言者、預言者を父と呼んだ他の例としては、「ミカが若いレビ人に対して」士師記17:10)、預言者エリシャが預言者エリヤに対して」(2列王記2:12)、イスラエルの王が預言者エリシャに対して」(2列王記6:21)などがある。イスラエルの王が、自分より権力がないはずの預言者に対して、「わが父よ」と言ったのは非常に興味深い。

 

 これとほとんど同じだが、若干違う用法がある。4番の「自分の主君」に対して用いる場合である。ダビデは、サウル王を「わが父よ」と呼んだ。

わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください・・・

(サムエル記第一 24:11)

 

 ダビデは、自分のいのちを狙っているサウル王に向かって、「わが父よ」と親密な形で呼びかけた。こうしてダビデは、サウルの心を、たとえ一時的であっても溶かすことに成功している。敵意がないことを示すために、怒っている相手に対して、あえて親密な表現を用いているのだ。

 以前、別の記事でも紹介したナアマン将軍の家来たちも、同じようにナアマンに対して「わが父よ」と呼びかけている。

そのとき、彼(ナアマン将軍)のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」

(列王記第二 5:13)

 

 ナアマン将軍は「助言者」や「預言者」ではなかった。しかし、家来たちはナアマンを「わが父よ」と呼んだ。自分が仕えている人に向かって敬意を示す呼び方だったのだろう。この時も、ナアマンは自分の期待通りに物事が進まず、激怒していた。怒っている将軍をなだめるために、この家来たちも、あえて親密な表現を用いたのだろう。

 他にもヨブが、自分自身を「貧しい者の父」と呼んでいる(ヨブ29:16)。ヨブは大富豪であり、他の人々の生活を支えていたのかもしれない。

 旧約聖書において、「父・アバ」は、通常の「肉親の父」以外に、「助言者」や「預言者」、また「主君」を指す意味で用いられる。しかし、それは特殊な用法だ。ましてや、神自身を「父」と呼んでいる例は極端に少ない。それでは、その数少ない例。5番の「イスラエルの神」の考え方を見てみよう。 

 

 

▼神を「父」と呼ぶシーン

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 そもそも、旧約聖書で誰かに対して「わが父よ」と呼びかけた例は少ない。見てみよう。

<「わが父よ」と呼びかけた例>

1:ダビデがサウル王を「わが父よ」と呼んだ(1サム24:11)

2:ナアマン将軍のしもべがナアマンに「わが父よ」と呼びかけた(2列王5:13)

3:イスラエルの王(ヨラム)が預言者エリシャを「わが父よ」と呼んだ(2列王6:21)

 

 実は、旧約聖書の中では、王や預言者などに対して「わが父よ」と呼びかけることはあっても、神に対して「わが父よ」と呼びかけた例はない。

 

 「わが父よ」とは呼ばずとも、神を「私たちの父」と呼んだ例は主に3つある。

<神を「私たちの父」と呼んだ例>

1:ダビデイスラエルの神を「私たちの父」と呼んだ(1歴代29:10)

2:イザヤが神を「私たちの父」と呼んだ(イザヤ63:16) 

 

 この場合の「父」は、あくまでも、「民族の神」としての「父」である。同じような表現がエレミヤ3章にもあるが、これは神自身が「あなたがたがわたしを父と呼び」と言っている部分で、「私たちの父」と呼んだわけではない。

 神を「私たちの父」と呼ぶ。これは、旧約聖書の中の律法に根拠がある考え方だ。

主<しゅ>はあなた<イスラエル>を造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。

申命記 32:6)

 

 たしかに、旧約聖書の律法の中に、「神はイスラエルを造った父」との記述がある。しかし、これは個人的な「私の父」という呼びかけではない。あくまでも「民族の神としての父」だ。神に対して、「わが父」などとは、とても言えない時代だったのである。 ダビデやイザヤが神に対して「私たちの父」と言ったのは、超例外的な大胆な告白として、もうひとつは、後の時代を預言してのことであった。

 

 「神はイスラエル民族の父」、これはイエスの時代も常識だったようだ。ユダヤ人たちも、イエスに対してこう言っている。

すると、彼ら(ユダヤ人)は言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます

ヨハネ福音書 8:41)

 

 ユダヤ人たちは、あくまでも、「私たち、ユダヤ人の神はひとりだ」と言っているのであって、個人的な「父」と呼んでいるわけではない。彼らにとっては、あくまでもイスラエル民族として生まれることが、「神の子ども」なのであり、神はイスラエル民族の父」であったのだ。

(蛇足だが、「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではない」・・・この言葉は、結婚前のヨセフとマリアから生まれたイエスを皮肉っているのかもしれない・・・)

 

▼イエスによるパラダイムシフト

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 しかし、イエスは、これらとは全く違う概念を示した。エスは、神を「わたしの父」と呼んだ。何度も何度も、神を「わたしの父」と呼び、「自分は神の子である」と同時に、「自分は神と同一だ」と宣言したのである。

エスは彼らに答えられた。「わたしの父(神)は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」

ヨハネ福音書 5:18)

わたしと父とは一つです。

ヨハネ福音書 10:30)

 

 イエスがこのように、神を父と呼び、神を自分を同一かのように言ったために、ユダヤ人はイエスを殺そうとするほど迫害した。

そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。エス安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

ヨハネ福音書 5:18)

 

 ユダヤ人にとって、「神を自分の父と呼ぶ」という行為は、殺そうとするほどまでのタブーだったのである。しかし、イエスは何度も何度も、神を「わたしの父」と呼んだ。エスは、それまでのタブーを打ち破る、パラダイムシフトを起こしたのであった。

 それだけではない。イエスは私たちを「兄弟」と呼んでくださるのだ。

それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです

(マタイの福音書 12:49~50)

 

 兄弟・・・つまり。私たちはイエスと共に、神を「わたしの父」と呼べる権利を頂いたというわけだ。パウロがこの衝撃の事実を、以下のように解き明かしている。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子供であるなら、相続人でもあります。私たちは、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(中略)神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

(ローマ人への手紙 8:14~29)

 

 イエスが長子(長男)となり、私たちはイエスとともに、「神の子ども」とされたのである。これは、イスラエル人にとっては衝撃的な事実であった。それまでは、イスラエル民族に生まれることが、「神の民」となることだったのだから。

 しかし、イエス「神の霊を受ける者」「神のみこころ<思し召し>を行う者」は全て、「神の子ども」だ! というとんでもないパラダイムシフトを起こしたのだった。文脈を読み取ると、この際の「神のみこころ(思し召し)」とは、「互いに愛し合う」という意味である。愛を実行に移す者は誰でも・・・イスラエル人であっても、外国人であっても、等しく神の子どもになれる特権が、イエスによって与えられたのである。

 私たちは、このイエスを信じるだけで、神の子どもとされる特権が与えられている。信じられない、途方もない特権である。この事実によってのみ、私たちは神を「私の父」と呼ぶことができるのである。

 もちろん、イスラエルがなくなり、私たちが「霊的イスラエル」になったわけではない。イスラエルと外国人の「区別」はある。ローマ書11章を読めば明らかである。そこだけは誤解なきようお願いしたい。

 

  

▼おまけ:実は「神の母性」の言及が聖書にある?!

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  イエスを信じる者たちが、「神のこども」とされる特権を得たのは分かった。それでは、「神は男性」なのか? という疑問が残る。答えはシンプルにNOだ。神は霊的な存在なので、性別を超越している。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ福音書 4:24)

 

 世の終わりの神の国では、人間もこのように、「男」や「女」という区分から超越するのかもしれない。このような記述がある。

復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

(マタイの福音書 22:30)

 

 また、聖書には神の母性を感じるような部分もある。

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたし<神>は、あなたを忘れない

イザヤ書 49:15)

 わたし<イエス>は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえ<エルサレム>の子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

(マタイの福音書 23:37)

 

 神やイエスが、自身の母性を感じるような発言をしているのは、驚きである。しかし、よく考えると当然だ。神は性別を超越している存在なのだから、父的な性質も、母的な性質も、様々なキャラクターを持ち合わせているのである。

 では、なぜイエスは神を「父」と表現しているのだろうか。これだけでまた別記事が書けてしまうが、理由はいくつかある。ひとつは、神の性質を表すのに男性の性質を用いた方がより適切だったのだ。文化的にも、言語的にも、習慣的にも。それは、多かれ少なかれ、現代でも同じだろう。これは、決して女性が軽んじられているという意味ではない。神が男性だという意味でもない。あくまでも、神の性質を父親に例えて示しているにすぎない。

 もうひとつは、当時の異邦の神々に「女神」が多かったので、それらと区別するという意味があった。女性は子どもを産むことからか、五穀豊穣の神々は、「女神」の場合が多かった。神の「父性」を強調した背景には、天地を創造した唯一の神を、それらの神々と明確に区別するという意味合いがあったのだろう。

 

 イエスは、神を「わたしの父」と呼んだ。神の存在は、常に、ヘブライ語でもギリシャ語でも男性系の文法で示された。私自身は、これに意味がないとは思えない。私はどうも遠藤周作のように「母なる神」と呼ぶのは違和感はある。しかし、大切なのは「神が男か女か」ではない。

 男も女も、「神のかたち」になぞらえて造られた存在なのだから。

 

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を想像し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:26〜27)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。