週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【聖書】「マナ」に隠された助け合いのヒント

聖書には「マナ」という不思議な食べ物が出てきます。実は「マナ」には助け合いの精神のヒントが隠されていた?!

 

 

▼「マナ」という不思議な食物 

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 聖書に「マナ」という不思議な食べ物が登場する。私の友人に「マナ」という人がいるので以前、「あなたの名前がついている食べ物が、聖書に出てくるんだよ」と手紙を書いたことがあった。聞く話によると、日本語の古語に「真菜」<まな>という言葉があり、「美味しいごちそう」を意味するそうだ。これは、聖書の「マナ」という単語の発音が、がシルクロードから伝わって、「美味しいごちそう」という日本語の単語となった・・・と考えるとちょっと眉つばだが、ロマンがある。

 さて、この摩訶不思議な食べ物の「マナ」は、一体どんなものなのだろうか。聖書を見てみよう。これは、モーセイスラエルの民を導き、エジプトから脱出した後の話である。

朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。(中略)イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。

出エジプト記 16:11~31)

 

 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、荒野をさまよっていた。当然、食物などない。空腹になった民は、不満を言い始めた。「エジプトにいた方が良かった」と。そこで神は、この「マナ」という不思議な食べ物を与えたのであった。

 マナが実際にどんなものだったかは分からない。モーセは、マナを壺に入れて、後世のために保存した(出エジプト記16:33)が、現代には残っていない。私は、記述から見て、「赤ちゃんせんべい」みたいなものだったのではと、勝手に想像している。

 イスラエルの民は、「マナ」を見た時に、「これは何だろう」と言い合った。「何だこれは?」のヘブライ語が、そのまま「マナ」の語源となったという説もある。

 神は、イスラエルの民が約束の地、カナンに入るまで、40年間この「マナ」で民を養った。実は、このマナという不思議な食物の中に、神の面白い法則が見え隠れする。今回はこの「マナ」に迫っていく。

 

▼マナの不思議な法則1:不足を補い合う

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 マナには、主に2つの不思議な法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナは毎日降った。イスラエルの民は、降ったマナを集めて、それを調理して食べていた。欲張りの人間は、決められた量以上のマナをかき集めていた。私も、食べ放題の店に行くと、ついつい食べすぎてしまう。同じことだ。

 しかし、不思議なことに、このマナは「多く集めても少なく集めても、足りないことはなかった」と記述がある。つまり、どんな量を集めても、一定の量になってしまったのである。

モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメル(2.3リットル)ずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。

出エジプト記 16:15〜18)

 

 マナは、一人あたり、どんなにたくさん集めても、少なく集めても、全員が2.3リットルになってしまった。これは本当に不思議な話である。

 

 これは神のオチャメな伏線だと、私は思う。神は、「マナ」の性質を通して、私たちに「分け合う」ヒントを与えているのだ。

今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。

(コリント人への手紙第二 8:14~15)

 

 パウロは、この「マナ」の性質を引用して、不足を補い合うことを教えた。たくさん持っている者が、不足している者を補う。これが、神が「マナ」の性質を通して示した法則である。

 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。

使徒の働き 20:35)

 

 「受けるよりも、与える方が幸い」これは、聖書が示す、クリスチャンの生きる基準である。

 日本は世界の中では非常に豊かな国だ。豊かな人は、不足している人々の分を、どうにかして補う必要がある。

 ただ、日本は霊的には、圧倒的に貧しい。そこに自分の財産を使いたいという人もいる。また、NPONGOを通しての支援は、本当にニーズのあるところに支援が届いているのかという疑問もある。これは難しい問題だ。深く語るのは避けるが、各々が、各々のやり方、ポリシーに従って支え合えばいいと思う。 

 

 

▼マナの不思議な法則2:神への信頼

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 マナにはもう一つの法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナの第二の法則は、「次の日になると腐ってしまうが、『安息日』だけは例外」という一風変わったものである。以下のように書いてある。

モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。

六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり2オメル(4.6リットル)ずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主<しゅ=神>の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから、今日は、それを野で見つけることはできない。六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない

出エジプト記 16:19〜26)

 

 イスラエルの民は、欲張ってマナをたくさん集めて残しておいた。しかし、次の日には腐って食べられなくなってしまうのだった。野原に残ったマナも、昼になると溶けてなくなってしまった。

 ところが、安息日の前日だけは例外だった。安息日の前の日だけは、2日分集めても、腐らなかった。安息日には労働をしてはならないため、マナを集めてはいけなかったし、マナは安息日に降らなかったのである。

 これは何を意味するのだろうか。神はこのような不思議な形で、神が人を養うことを証明したのだ。安息日に働かないというのは、実は相当な神への信頼が必要だ。けれどもこれは、神が必要なものを与えてくださる、という信頼の訓練だった。

 実に神は、イスラエルの民が約束の地「カナン」に入るまで、40年間、毎日マナを降らせてイスラエルの民を養った。神はこのような方法で、イスラエルの民に、「オレが君たちを養う、心配するな!」という事実を、体験をもって記憶に刻み込んだのだ。

 イエスも当然このマナの知識を持っていた。それゆえ、このように教えている。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6:34)

 

 神に信頼する人は、神が養ってくださる。神は、必ず必要なものを与えてくださる(※「主の祈り・後半」の記事参考)。クリスチャンは、神への全幅の信頼をもって、日々、明るく前向きに人生を送れるのである。

 

▼いのちのパンであるイエス

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  神は私たちを養ってくださる。しかし、人とは弱いもので、このような奇跡で養われても、感謝もせずぶつくさ言うものである。私にとって、とても印象的な、イスラエルの民の不平不満をご紹介しよう。

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ」

民数記 11:4~6)

 

 イスラエルの民は、マナという不思議な、奇跡的な食べ物を与えられてなお、このようにぶつくさ文句を言っていたのだ。

 現代の私たちにとって、「きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにく」がそれほど魅力的だとは思わないので、このシーンを読むとつい笑ってしまう。でも、確かに40年間、毎日同じものを食べろと言われたら、こう言いたくなるのも無理はない。一方で、豊かな国が食べ物に不満を言う中で、食べ物が得られず、苦しむ人たちもいる。私たちは、どうすればいいのだろうか。

 私なりの答えは、先に書いたように「各々が、各々のポリシーに従って、できる限りの助け合いをする」という、当たり前の解決方法だ。この問題に特効薬はない。ただ、その人たちのために祈ることは、誰でもできる。まずは、祈るという小さな一歩から始めてみてはどうだろう。

 しかし、この「食べ物」よりも、もっと大切なのは、「いのちのパン」であるイエスに出会うことである。

 食べ物を求める人たちに対して、イエスはこう言った。

エスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません

ヨハネ福音書 6:26~35)

 

 イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである、永遠のいのちのために、自分を信じよ!」と言ったのであった。神は、「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「いのち」を与えてくださるのである。

 クリスチャンは、食べ物に困っている人たちのために、祈り、自分ができることを通して助け合う必要がある。しかし、それ以上に、彼らが「いのちのパン」であるイエスを知るように祈りたい。イエスに出会わなければ、たとえどんなに食べ物で豊かになっても、虚しいからだ。どんなに健康で長生きしても、イエスを知らないまま死んでしまったら何の意味もない。食べ物などの必要の満たしを祈る以上に、本当に必要なイエスとの出会いを、もっと力を込めて祈ろうではないか。

 

 

▼おまけ:「5つのパンと2匹の魚」の奇跡

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 余談だが、5000人以上に人を腹いっぱいにした奇跡、いわゆる「5つのパンと2匹の魚の奇跡」(ルカ9章、ヨハネ6章など)には、様々な解釈がある。どうやって5000人が腹いっぱいになったのか、詳しい記述がどこにもないのである。

 聖書から分かる事実は以下である。

・イエスが弟子たちに大勢の人に食べ物をあげろと言った。

・少年が5つのパンと2匹の魚を持ってきた。

・イエスがそれを持って神に感謝した。

・それを分けると、大勢の人が満腹になった。

・めっちゃ食べ物が余った。

 肝心のどうやって満腹になったのかが、どこにも書いていないのである。

 ある人たちは、イエスが奇跡的にこのパンを増やして、人々を満腹させたと信じる。ある人たちは、そうではなく、人々が隠し持っていたパンを、皆、差し出して分け合ったと解釈する。少年がパンを持ってきたのを見て、食べ物を隠し持っていた人たちは、恥ずかしくなって分け合ったとする解釈だ。これは主に、イエスが奇跡を行わなかったと考える人達が行き着く解釈といって良いかもしれない。

 私自身は、よく分からないというのが正直なところだ。聖書に書いていないのだから、そこから先は想像しかできない。私は、イエスが実際に奇跡を行ったと考えている。しかし、この場面では人々が食べ物を出し合って、分け合ったと考えるのも、またロマンがあるとも思う。実は、マナの「一定量の法則」も、「たくさん集められる人が、集められない弱い人のために集めてあげて分け合っていた」という意味かもしれない!

 しかし、大切なのは、そこではなく、イエスが「いのちのパン」であるという事実である。クリスチャンはこのイエスによって救われ、新しい存在へと変えられ、本当のいのちを獲得しているのだ。この素晴しい「いのちのパン」に出会う人が、1人でも多くなったら、私は嬉しい。

 

(了)