週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】どこからが「伝道」なのか?

クリスチャンはよく「伝道」と言いますが、何をしたら伝道なのでしょうか?

 

 

▼「伝道」という言葉の違和感

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 クリスチャンたちはよく、「伝道」と言う。「でんどう」と読む。電動モーターとか、熱伝導とかの「でんどう」ではなく、「道を伝える」という意味の「でんどう」である。一般的には、ほぼほぼ聞かない単語ではないだろうか。「伝道者<でんどうしゃ>」という言葉は、たまに耳にするのかもしれない。

 一般的に「伝道」は、神やイエスの救いについて伝えることを指す。日本人には「布教」といった方がなじみがあるだろうか。私個人としては、「伝道」と「布教」は違うニュアンスがあると感じる。「伝道」はイエスの救いを伝えること、「布教」は「キリスト教」という宗教の信者を増やすといったイメージがある。これは似て非なるものだ。

 「伝道」とはイエスの救いを伝えること。私はそう思っていたが、クリスチャンの世界では、どうも少し違うニュアンスでこの言葉を用いる人がいるらしい。根幹は同じなのだが、教会や団体によって、微妙に違うのだ。ある人たちは、「教会に誰かを連れて行く」のを「伝道」だと言う。ある人たちは、「道端にいる人に突然声をかけ、イエスの救いを、決められた手順で解説すること」を「伝道」だと言う。ある人たちは、「『神を信じなければ地獄へ行く』という黄色い看板を持って立つこと」が「伝道」だという。

 これでは、混乱してしまう。何が伝道で、何がそうではないのか、そもそも伝道とは何なのか。今一度考えてみようではないか。

 

 

▼「伝道」ってそもそも何?

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 まず、「伝道」とは何かハッキリさせる必要がある。実はなんとビックリ。「伝道」という言葉は、一度も聖書に登場しない。一度もだ。ただし、「伝道者」なら旧約聖書で7回、新約聖書で3回の、計10回登場する。では、それぞれの意味を見ていこう。

 

 旧約聖書の「伝道者」は、ヘブライ語「コヘレト」である。「コヘレト」は、旧約聖書に7回登場する。実は、この単語、7回全てが同じ本(※旧約聖書は39種類の本で成り立っている)で使われている。つまり、それ以外の聖書では全く出てこない、極めて特殊な単語なのである。その本の名前が、文字通り「伝道者の書」。翻訳によっては、「コヘレトの言葉」と呼ばれる、ソロモン王が書いたとされる本である。

 この「コヘレト」という単語が曲者だ。何しろ、この本でしか出てこない特殊な固有名詞で、確実な意味が分からない。日本語では「伝道者」となっているが、「コヘレトの言葉」という発音をそのままカタカナ表記した翻訳からも分かるように、本当のところは、なかなか分からないのである。英語だと、多くの翻訳が「Preacher」(説教者)と表記している。一部の翻訳(NIV)では「Teacher」(教師)と訳している。ヘブライ語辞書を見ると、「言葉を集める者」「教える者」「語る者」などの意味があるようだ。

 

 新約聖書はどうか。こちらはもっと少なく、「伝道者」は3回しか登場しない使徒21:8、エペソ4:11、テモテ第二4:5)。ギリシャ語の「伝道者」はユアンゲリテステイス」という単語で、日本人なら耳なじみのある「エヴァンゲリオン」の語源となっている単語だ。英語では、このギリシャ語から来て、evangelistsエヴァンジェリスト)と言う。

 この単語の意味は、辞書を見ると、「良い知らせを伝える人」となっている。この「良い知らせ」というのは、単純に言えば、イエスが何をしてくれたのかを指す。辞書の最後の項目には、「新約聖書使徒以外でイエスの救いを伝えた人たち」とも記されている。

 「伝道」という単語は、とても特殊で、意味を特定するのが難しい。しかし、シンプルに考えれば、「イエスのことを伝えること」が「伝道」であると定義して良い。

 

 ここまで出てきた内容をまとめると、以下のようになる。

・聖書に「伝道」という言葉は出てこないが、「伝道者」は出て来る。

・「伝道者」は10回しか登場しない特殊な単語である。

旧約聖書の「伝道者」は「語り、教える者」というニュアンスがあると考えられる。

新約聖書の「伝道者」は「良い知らせ=イエスの救いを伝える者」という意味。

・総合的に考えて、「伝道」=「イエスを伝えること」である。

 

 

▼「伝道」と「布教」は違う? ~「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない~

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 では、「伝道」と「布教」は違うのだろうか。まず日本語の辞書を見てみよう。

【伝道】

宗教的真理、または教義を伝達し広めること。特にキリスト教で、その教義を未信仰者に伝えて信仰に入ることをすすめること。ミッション。(デジタル大辞泉

教えを伝え、広めること。宗教、特にキリスト教において、その教えを未知・未信の人々にのべ伝えて、信仰を促すこと。布教。宣教。(大辞林第三版)

【布教】

・ある宗教を一般に広めること。「各地を回って布教する」「布教活動」(デジタル大辞泉

宗教を広めること。「~活動」「キリスト教を~する」(大辞林第三版)

 

 同じようだが、若干の違いが見受けられる。「伝道」は「教義」や「教え」に力点が置かれている。対して「布教」は「宗教」に力点が置かれている。ここに、日本人の無意識のうちの区別があるのだと思う。

 以下は私の意見だが、「伝道」と「布教」の違いを列挙すると以下だ。

【伝道】

・イエスがどういう存在で、イエスが何をしたか、そしてそれが個々にとってどのような意味があるか伝えること。

エスを知ってもらうことが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、どの教会に行こうが、あまり関係がない。 

【布教】

・「キリスト教」を伝えて、「キリスト教」に入信させること。

キリスト教の信者を増やすのが目的。さらに言えば、所属教会の会員数を増やすのが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、自分の教会や団体に所属してくれないと困る。

 

 おおざっぱだが、以下のような違いがあるだろう。「伝道」はあくまでも、イエスという素晴しい存在を知ってほしくて行う。その人がその後、どうしようと神のみぞ知る。対して「布教」は、所属団体や所属教会カトリックの場合は世界共通だが)の勢力拡大が目的だ。その人が会員になってくれないと、目的達成とは言えない。似ているようだが、目的は全く逆方向のベクトルだ。

 多くの日本人が、この「伝道」と「布教」を混同しているため、イエスの話は敬遠されることも多い。無意識に「入信しないといけないんでしょ」というプレッシャーを感じているからなのだろう。多くのクリスチャンは、そのようなモチベーションでイエスの話をしているのではないと、声を大にして言いたい。多くのクリスチャンは、イエスが大好きだから、この大好きなイエスについて少しでも知ってほしいのだ!!!

 あなたにも、好きな映画や漫画、ドラマ、芸能人、趣味がひとつやふたつ、あるだろう。それについて、語りたいと思ったことはないだろうか。自分が好きなモノや、ハマっているモノや、美味しいお店なんかを、「これめっちゃオススメ!」と言いたい気持ちになったことはないだろうか。それそれ。クリスチャンは決して「キリスト教」の信者を増やしたいわけじゃない。大好きなイエスを、大好きなあなたに知ってほしいだけなのだ!!

 「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない。そんなことはどうでもいい。大切なのは、イエスが誰で、あなたのために何をしたのか、あなたに知ってほしいということだ。

 

 

▼どこからが「伝道」?

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 では、どこからが「伝道」=「イエスを伝えること」になるのだろう。教会に友達を誘ったら? 聖書の話をしたら? マニュアルに沿った聖書の解説をしたら? 神を信じないと地獄行きという看板を持ったら? 聖書を配ったら? ・・・etc。

 私なりの答えは、「全てが伝道」である。こんなこと言ったら身も蓋もないが、本当にそうなのである。「私はクリスチャンだ」と言うことすら伝道だと思う。電車の中で聖書を読むことだって、伝道になりうる。ほんの少しでもイエスの存在を示す行為ならば、それは伝道になりうる。

 ある人たちは、「伝道」に対して、若干違う印象を持っているだろう。代表的なものは、「教会に誰かを連れて行く」ことだけを「伝道」だと思っている勘違いだ。もちろん、誰かを教会に連れて行くのは、とても良いと思う。教会に行くというのは、実際にイエスを信じている人たちと出会うキッカケになるし、多くの人は論理的に聖書を理解するのではなく、人間関係のあたたかさからイエスの愛を感じるからだ。これはイエスも言っている。

わたし<イエス>はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 

 しかし、ある教会は「教会に誰かを連れて来る」ことだけを「伝道」と表現している。これは間違っている。そのような教会は、往々にして「このイベントには何人連れてきましょう」というノルマがある。そうなると、危ない。エスの愛を伝えたいという、「伝道」のモチベーションが、いつの間にか「何人集めなきゃ!」という「布教」のモチベーションになってしまう。こうなると、もう「愛」はなくなってしまう。こういう教会は、黄信号。このような傾向が出てきたらもう危ない教会なので、一歩退くことをオススメする。

 ある人たちは、「道端で知らない人に突然声をかけ、イエスについて話す」ことだけを「伝道」だと言う。確かに、この世の中にイエスを必要としている人は大勢いる。道端にいる誰も彼もが、イエスを知ってほしい対象だ。それ自体は素晴しい。しかし、このような手法は往々にして、一回限りの出会いになりがちだ。中には、その場では「めんどくさい」から「はいはい、信じます」と言う人もいるかもしれない。しかし、その後が続かない。イエスを伝えた相手が、その後どこで何をしているかも分からない。道端で声をかける場合、その後の人間関係の構築が重要になってくる。

 また、ある人たちは「システマチックにイエスの救いを伝える」ことだけが「伝道」だと考える。このような人たちは、小さい冊子に、完結に聖書の話をまとめて、それを使って解説する。それ自体は素晴しい。とても有益だ。長い長い聖書の要点をまとめるには、ある程度そのようなシステムによって整理する必要がある。しかし、そのシステムに頼りすぎると、ロボットのようになってしまう。慣れてくると、「要点を伝える」ことだけが目的となり、相手の目が見えなくなってしまう。まずは目の前の相手に寄り添うという、大切な視点が抜け落ちてしまう。

 

 「伝道」のカギは、「人間関係の構築」である。エスは12人の弟子をはじめ、大勢の弟子をつくり、彼らと一緒に旅をし、食事を共にし、一緒に生活し、彼らを教えた。人は人間関係を通して成長する。神は、人間を、互いに関わり、つながる存在として造った。「人間」という単語が、「人のあいだ」と書くのは、「人はつながる存在」だという真理を意味しているようで、とても興味深い。

 様々な形で「伝道」はできる。イエスを信じていると大胆に言うこと。誰かと一緒に聖書を読むこと。イエスについて語ること。日常のシンプルな疑問に答えること。必要があればイエスについて教えること。一緒に祈ってみること。一緒に教会に行くこと。バプテスマをオススメすること。車にクリスチャンぽいシールを貼ること。イベントを企画すること。聖書を要約した冊子を配ること。神を賛美する歌をyoutubeに流すこと。クリスマスキャロルを歌うこと。全てが伝道になりうる。しかし、そこに人間関係がなければ、成功しないだろう。伝道とは、一筋縄ではいかないものである。人の人生は、その瞬間だけは終わらない。地続きなのである。誰かがキッカケを与え、誰かが教え、誰かが励ます。こうやってバトンを渡していく。一回で終わらない。それが伝道なのだ。

 

 

▼「伝道」はしなきゃいけないのか?

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 「伝道」の目的は、教会のメンバーを増やすことではなく、大切なあなたにイエスを知ってもらうことだと、先に述べた。では、この「伝道」はクリスチャンになったら必ずしなければいけないのだろうか。聖書を見てみよう。

私<パウロ>が福音<=良い知らせ、イエスの救い>を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙第一 9:16)

 

 そうせずにはいられない。ここにパウロの思いが込められている。エスを知ったら、その素晴らしさのゆえに、黙っていられない!!! これこそが、「伝道」の本当のモチベーションである。

 イエスはこの思いについて、面白い表現をしている。ユダヤ人の宗教指導者たちが、「人々があなたを神だと崇めている。神への冒涜だ。だから、あなたを称賛するのをやめさせよ」とイエスに命じたことがあった。その時、イエスはこう言った。

「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます

(ルカ19:40)

 

 イエスは、「俺スゴすぎて、もし人間が俺を称賛するのをやめたら、石ころが代わりに俺のスゴさを叫んじゃうぜ?!」とまで言ったのである。自信満々。イエス半端ない!!!

 しかし、これは真理で、エスを知ると本当に黙っていられないのである。それだけイエスは、人の人生を変える力を持っている。これが伝道の一番のモチベーションになっている。この「イエス素晴らしすぎ!! 黙ってられない!! 何とかして伝えたい!!」というモチベーションは、枯れることがない。逆に言えば、それ以外の、「信者を増やしたい」とか、「教会をでかくしたい」とか、「俺が目立ちたい」とか、”不純な”動機の人々は、いつか燃え尽きてしまう。

 

 最後に、聖書にはイエスの素晴らしさを伝えるモチベーションとなる言葉が、いくつかあるのでご紹介しよう。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことなのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

(ローマ人への手紙10:13~14)

 信じたくても、情報提供者がいなければ、イエスを知ることができない。クリスチャンには、「イエスを伝える責任」がある。しかし、「信じさせる責任」はない。あくまでも、信じる、信じないは個人の選択であり、神の力なしにはできないからだ。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

 いつもイエスを伝えられるわけではない。自分のコンディションが整わない場合もあるだろう。しかし、状況が良くても悪くても、伝える責任や喜び、自分の心の内側を突き動かす衝動はあるはずだ。この聖書の言葉を思い出し、シチュエーションは言い訳にならないことを覚えておこう。

 

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としてなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 この言葉は、「伝道」の少し意外な側面が見え隠れする。消極的伝道とも言おうか。「心の中でキリストを主とし」「説明を求める人には・・・弁明できる用意をしていなさい」とある。裏返せば、「説明を求めない人に、あえてする必要もない」とも読める。これは、消極的な日本人にとって救いでもあるのではないだろうか。

 しかし、これは同時に「だれにでも」「いつでも」説明できる用意をする必要があるという意味にもなる。クリスチャンは、常にイエスを伝える良いタイミングとチャンスに備え、心の準備をしておく必要がある。いつでも分かりやすく、イエスが誰なのか、何をしたのか、どんな存在なのか伝えられる知識的準備をしていく必要もある。何より、イエスが大好き! と胸を張って言える「生き方」をしている必要がある。

 

 あなたの「生き方」こそが、最大の伝道なのだから。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス7】「一度も営業したことがない」サムエル・リー@フォトグラファー・ビデオグラファー

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第7弾は、サムエル・リーさん!

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【Profile】

名前:サムエル・リー(Samuel Lee)

生まれ:1993年

出身:ハワイ→サイパン→米カルフォルニア州→北海道十勝地方

最終学歴:ホームスクール

職業:フォトグラファー / ビデオグラファー

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしく。 

f:id:jios100:20181212020714j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain やっと会えたね!(笑)

f:id:jios100:20181212020714j:plain ネット上で知り合ってから10年越しぐらいになりますね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 長い!(笑)サムエルはいろいろやりすぎているイメージがあるけど、今は何の仕事をしているの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 去年から、EL-Productions(エル・プロダクション)という会社を立ち上げて、フリーのカメラマンとして、写真と映像の仕事をしています。あとは音楽関係のこともいくつか。でも基本は映像と写真がメインです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain この間、北海道のコンテストで優勝してたよね?

f:id:jios100:20181212020714j:plain あれは、「北海道150年映像コンテスト」。全国から選びぬかれた5人のファイナリストの中で、グランプリをいただきました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いやぁ、もうとにかく映像の力がすごくて見とれちゃったよ。

 

【サムエルの作品がこちら】

f:id:jios100:20180905032057j:plain ・・・クオリティえげつねぇ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain この作品は、締め切りの前日から編集を始めたんですよ(笑)。

f:id:jios100:20180905032057j:plain マジかよ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain ほとんどの映像は北海道に来る外国の方を案内する仕事をしていたときに集めたものだったから、素材はあったんですよね。だから「間に合わなかったら仕方ない」くらいの気持でやってました。完成したのは締切の4時間前でしたよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain BGMも印象的だよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そう。メロディがない音楽というのにこだわって作ったんですよね。メロディもいいんですけど、音楽って感動を誘導できちゃうので。それはしたくなくて、映像で見せるためにビートだけの音楽にしました。テンポよく映像を見せたかったんですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain めちゃめちゃハイクオリティすぎて何から聞けばいいかわからんけど、ゆっくり話を聞かせてください。

 

 

▼引っ越し続きの人生 〜ハワイから十勝へ〜

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f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルはどこで生まれたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 生まれはハワイです

f:id:jios100:20180905032057j:plain 失礼だけど、ご両親は何人なの?? サムエルだし、リーだし(笑)

f:id:jios100:20181212020714j:plain ですよね(笑)。父親は韓国出身なんですけど、20歳の時に家族ごとアメリカに移住したから、もうアイデンティティアメリカ人。母親は日本人。父親は、ハワイでYAWAM(ワイワム)という団体で宣教師をしていて、母とそこで出会って、僕が生まれたって感じです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ハワイで育ったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、生まれてしばらくハワイで過ごした後は、サイパンに引っ越して、その後にカルフォルニア、そして4歳の時に札幌。その後も北海道内を転々として、今は帯広のあたりに住んでます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クレイジーライフだねぇ。サムエル自身は「地元」はどこだと思ってる?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 帯広ですかね。国籍のアイデンティティは日本人。故郷は十勝・帯広地方だと思ってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 家族は何語で話すの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 日本語ですね。これは父の方針で、現地の言葉を使うって決まりがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。尊敬できる宣教師マインドだね。サムエル自身はイエスを信じたのはいつ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain エスの救いが分かったのは多分3歳くらいのとき。ドラマチックなことはなかったんですけど、カルフォルニアに住んでいた時に、マクドナルドで友達をたたいちゃったらしくて・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain ケンカだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そう。いつもなら、そういうことをしたら、親にスパンク(お尻ペンペン)されてたんですけど。その時は家に帰ったら親が「今日はスパンクはしません」って。「イエスさまはサムエルの罪を取ってくれたんだよ~」と、親がその時教えてくれたんですよね。その時に素直にやった! と思ったのは覚えてます。その後も、いつも神様が近くにいると感じる環境で育ちました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 素敵なご両親のもとで、小さい時から神様の話を聞けたのは最高だね!

 

 

▼ホームスクールって?!

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f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルは学校に行かずに、ずっとホームスクールをしていたの?

(ホームスクール:学校に通わず、家で勉強すること)

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、小学校5年までは学校に通ってました。それ以降はホームスクール。学校にはそれ以来通ってないですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。ホームスクールにしたのは親の方針だったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、決めたのは僕自身です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! どうして? どんなキッカケがあったの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain いろいろあるけど、一番は価値観が違うっていうことですかね。友達と遊んでもゲームとかが中心で、僕はそういうものを買ってもらえなかったので。学校もワンパターンで、みんな同じような言動を求められてつまらないなと思っていました。あとは、自分が二重人格になっていたのが嫌だったからかなぁ・・・。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 二重人格?

f:id:jios100:20181212020714j:plain  学校にいるときは友達と話を合わせるんですけど、家に帰ってきたら親の喜ぶ態度に変える。そうこうしているうちに、本当の自分って何なんだろうと考えるようになったんですよね。そこにちょっと嫌気がさしていたのもあって、ホームスクールっていう選択肢もあるなって思ったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ああなるほど。分かるなァ。「みんな違ってみんないい」と教えるくせに、本質は全く逆だよね。ホームスクールをやってどうだった? 寂しくなかった?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ホームスクールは本当に自分に合っていたと思います。逆にホームスクールじゃなければ、今の自分はなかったとも思います。毎年のように宣教師チームが来たり、人の出入りは多かったので、その時は寂しいとは感じなかったですね。ただ、父が新しい教会を始めていたというのもあって、日曜日に会えるクリスチャンの友達が全くいなかったので、それは今振り返ってみると寂しかったなと思います。

 

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↑ ホームスクール中のサムエル

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教材はどういうものを使っていたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ACE(エース)という英語の教材を使ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ英語ペラペラ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 今は英語できるけど、結構頑張って勉強したんですよね。ハワイ生まれだけど英語は全く覚えてないし、でもハワイ生まれなのに英語できないとダサいじゃん? と思って・・・(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど・・・。ホームスクールしてる人たちって、謎にみんな英語できるんだよなぁ。いかに日本の学校の英語教育がダメかっていうことの表れでもあるけどね・・・(笑)

 

 

▼刷り込まれた「自営業精神」

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↑ 普段の作業場

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ大学には行ってないの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 行ってないですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その期間は何をしていたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 勉強もしつつ、自分でできる仕事を始めてました。カメラマンをやる前は、インターネットで輸入転売のビジネスをやってましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 輸入転売??

f:id:jios100:20181212020714j:plain 例えば、海外のインターネット市場で、腕時計とかの雑貨を仕入れて、それを日本でヤフオクとかで売るんです。親の方針で、いわゆる普通の「アルバイト」はさせてもらえなかったので、自分でお金を稼ぐ方法を考えてやってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain お~。自分で考えてビジネスにしたんだ。どのくらい稼いでたの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain そこそこ(笑)。でも、普通のアルバイトとあまり変わらないぐらいだと思います。良かった時は1件の取引で利益が5000円くらいですかね。その時は、住所を入れるだけで自動的に入金されるシステムを作って、効率よくやってました。ただ、そういうふうに簡単に儲かる仕事っていうのはすぐに競合が増えちゃうから、今は同じことをやっても、そんなに儲からないかもしれません。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その頃はまだ10代だったよね? よく自分でそういうシステムを思いつくね!

f:id:jios100:20181212020714j:plain 父親は宣教師だったんですけど、ビジネスと宣教を両立することを目指していたので、塾を経営したり、基本的に自営業だったんですよね。だから「カネは自分で作るものだ」っていう自営業精神を刷り込まれたんです。よく、「若いのに起業してすごいね」とか言われるんですが、僕にとっては自分で何かを始めることは当たり前な環境でした。ホント、フリーランスの仕事が自分にはピッタリだと思いますね。

 

 

▼カメラの技術は全て独学

f:id:jios100:20181207143031j:plainf:id:jios100:20180905032057j:plain 転売ビジネスから、フォトグラファーに転身しようと思ったのはなぜ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 元々、写真や映像に興味はあったんですよね。最初の頃は転売も平行してやっていたんですけど、インターネットのビジネスは、相手の顔が見えなくて、やりがいを感じなかったんですよね。ただの作業でしかなかった。だから収入は減るけど、自分が本当に好きな写真をがんばってやろうと思って、去年から個人事業として、本格的にやり始めたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 好きなことを仕事にできるっていいね。カメラに興味を持ったキッカケは?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 父が良いカメラを持っていたっていうのが最初ですかね。当時、業務用レベルのカメラをなぜか持っていて(笑)。父はそのカメラで僕の成長を取り続けていたんです。で、17歳くらいの時に僕がそのカメラを独占して、写真を撮り始めました(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ははは(笑)じゃあ7年、8年やってるんだ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうなりますね。この写真を撮ってから、こんな写真が撮れるんだと思って、どんどん深入りするようになりました。これは自宅から徒歩3分くらいの場所ですね。

 

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f:id:jios100:20180905032057j:plain うわぁ・・・オレもこんな写真撮れたら夢中になっちゃうかも・・・じゃあお父さんが写真に興味を持つ最大の要因だったんだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain いや、父は、あくまで入り口でした。僕に影響を与えた人は3人います。1人は友達の堀井伊左久くん。

    f:id:jios100:20181212025622j:plain 

f:id:jios100:20180905032057j:plain おお。共通の友達。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 彼が僕の家に半年間ホームステイしていたことがあって。彼がその間、毎日カメラを持ち歩いて、楽しそうに写真を撮っている姿を見て、僕もやってみたいなと思うようになりました。今でもたまに見返しますが、うまいな~って思います。それが1人目。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 2人目は?

f:id:jios100:20181212020714j:plain  2人目は山岳写真家の市根井孝悦さん。

    f:id:jios100:20181212025653j:plain

f:id:jios100:20181212020714j:plain ずっと山を撮り続けている人で。1回お会いした時に、てっきり山の素晴らしさを熱弁されると思いきや、「結局美しいのは人なんですよね」と言われて、僕がポートレート(肖像写真)を撮ろうと思ったキッカケになりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 3人目は?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 3人目は僕のいとこの奥さんのウェンディ。彼女が撮るポートレートを見た時に、めっちゃ感動して・・・僕もこういう写真撮りたいな~って思ったのがキッカケですね。

  f:id:jios100:20181212025807j:plain

  ↑ サムエルのいとこの家族写真

f:id:jios100:20180905032057j:plain たくさんの人の影響があるんだね。カメラの技術はどこで学んだの? 学校とかは行ってないんだよね?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 特に習ったりはしていないですね。きちんと勉強したことはない。今はネットですごい人の写真がいくらでも見られるので、どうやったらこんな綺麗な写真が撮れるんだろうというのを見て、やって、やり直して、の繰り返し。これはホームスクールの延長線上ですね。自分でやりながら探りつつ学ぶというか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・学校に行っていたら身につかない発想かも。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 自分もこういう綺麗な写真撮ってみたい! っていうのが一番のモチベーションですね。すごい写真を見ると、好奇心は尽きません。

 

 

▼1回も営業したことがない?!

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 去年からカメラマンの仕事を始めたんだよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 去年の1月から始めました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事はどうやって取ってくるの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 口コミか紹介がほとんど。僕、1回も営業したことないんですよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええええっ?! じゃあどうやって仕事取るの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain ありがたいことに、勝手に仕事が来るんですよ。これ、本当に不思議なことで、よくありえない! と言われるけど事実。最初は3年ぐらい仕事はないのかなと思ってたんですけどね。だって実績もコネもお金もないんだから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain だよね。ないないづくし。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 写真の値段の相場観すら分からなかったくらいです。でもやりはじめて分かったんですけど、意外と需要が多くて。写真や映像を専門でやっている人がそもそも少ないから、カメラマン自体が不足してるんですよね。特に僕が住んでる北海道の田舎では。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういう仕事が多いの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 元々は写真メインだったので、ブライダル系や、成人式の振り袖写真とかですね。でも、最近は、映像制作の依頼がとても多いです。最近はインスタ映えとかを意識する人も多いので、SNSに適した写真を撮れる若い20代のカメラマンの需要が高まっている感じがします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごいなぁ。この仕事がキッカケで仕事が増えたっていうことはあった?

f:id:jios100:20181212020714j:plain やはり、映像コンテストでグランプリをいただいた後は、連絡が結構来ました。でも、結局は人と人とのつながりで仕事が増えていっている感じです。フリーランスの仕事を始めて、仕事は人と人のつながりだって強く実感するようになりました。単純な名刺交換会というよりは、もっと濃いつながり。仕事だけじゃなくて、普段からの付き合いというか。特に田舎に住んでいるから、そういう普段からのつながりっていうのは大事なのかもしれないです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 地元の企業とか商店街のおっちゃんとか。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。そんな感じ。本当に頑張って勝ち取った人脈というよりは、普段の関わりからの広がりですね。カメラマンって、カメラを首からぶら下げてるだけで「写真やってます」って自己紹介しているような感じになるんですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 1件の仕事が次につながる。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。僕がカメラぶら下げて歩いていたら、「写真撮ってよ」とか言われたりして。例えば、全然知らない人だけど、道の駅で偶然会ったカップルの写真を撮ったら、それがキッカケで貸衣装屋さんと知り合ったりしたってこともあります。それでブライダル関係の仕事が入るようになったりしました。

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 ↑ 道の駅で偶然出会ったカップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごいなぁ。まだ1年でどんどんつながりが広がっていっているね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 本当に自分でもビックリしてます。営業もしていないし。自分1人じゃさばききれないぐらいの仕事が来てますね。先輩のカメラマンからは、「普通そこまでいくのに10年かかるよ!」ってよく言われます(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 本当に最高のスタートダッシュだね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 北海道っていう場所も良かったんだと思います。東京じゃ埋もれちゃって、こうは上手くいってないと思います。あのグランプリも、北海道の新聞で2回も取り上げてもらって。これは札幌出身じゃなくて、十勝の田舎出身だからっていうのが大きかったんですよね。東京だったらニュースにすらなっていない(笑)

 

 

▼クリスチャンのフォトグラファーとして

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f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンのフォトグラファーとして、何か他のカメラマンと違うことができているなぁと感じる部分はある?

f:id:jios100:20181212020714j:plain それはすごく感じますね。やっぱり、クリスチャンのカメラマンとしては、「神様があなたを高価で尊い存在として造ったんだよ。あなたは神様に愛されているよ」という目線で撮影できるんですよね。だから、その人のいい表情を撮れたら喜びだし、お互いにとって幸せを感じられている瞬間ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。クリスチャンだからこそ、「目の前の人は神様に愛されている存在だ」という認識が持てるよね。他のカメラマンを見ていて違うと思う?

f:id:jios100:20181212020714j:plain これは僕の感覚ですけど、他のカメラマンの人はめちゃめちゃ疲れてるっていう印象。仕事だから仕方なくやっているって感じがする時もありますね。特に結婚式場のカメラマンは「あ~、早く帰りてぇ。早く帰ってビール飲みてぇなぁ」っていう人が多い気がする(笑)。僕としては、「楽しくてカメラをやってるんじゃないのかなぁ」って思う時はありますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚式のカメラマンもやるんだ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 当日作成のムービーとかをやってます。結婚式は決まった角度から撮らなきゃいけないから大変。食事中の参列者の方に声をかけるのは、最初はめちゃくちゃ緊張ししました。知らない人に声をかけるのは慣れていなかったし、「お前も飲むか?」とか誘われたりするのも最初は戸惑いましたね。結婚式は一回限り。うまく撮れなかったとか、データがクラッシュしたりしても、「もう1回結婚式お願いします」とは言えないので、そこは本当に緊張するし、大変。

f:id:jios100:20180905032057j:plain サムエルの喜びながら仕事をしている姿を見て、他の人にも喜びが伝わるといいね!

f:id:jios100:20181212020714j:plain うん。仕事をやるのって本当に楽しい! っていうのを僕が仕事をしている姿を通して伝えたいと思ってます。

 

 

▼最近の葛藤

f:id:jios100:20181207143832j:plain f:id:jios100:20180905032057j:plain イエスを信じたくない! って思ったことはないの?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 個人的に信仰を捨てようって考えたことはないんですけど、実はここ数ヶ月は信仰のチャレンジがあって。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おおっ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕はクリスチャンの家庭で、温室育ちなんです。中学生時代から、親元にいることや、親がやっている教会開拓の働きを手伝うのが、僕の人生の目的だと思っていました。親からの期待も強かったし、子どもとして親に従って、親を喜ばせたいという思いも強かったですね。親の声=神の声とすら思っていました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かるなぁ。特にホームスクールの人たちは、親との結びつきが強いよね。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 実は、最近まで、僕は地元を離れちゃいけないとさえ思っていたんです。うちの父親が足が不自由だということもあって。(サムエルのお父さんは、20歳の時に、脊髄からの出血が原因で、ある日突然、歩けなくなってしまった)僕は一人っ子だし、父を助ける責任があると思っていて、親元を離れちゃいけないっていう思い込みがあったのかもしれません。もちろん、親からは、遠くへ行っちゃダメなんて言われてないんですが・・・親の近くにいて、親が僕に期待することをやるのが当然だと思ってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その考えが変わってきた。

f:id:jios100:20181212020714j:plain 最近は色々とあって、迷いもありますが、今目指している方向性としては、自分のスキルや情熱を仕事にするお手伝いができたらいいなと思っています。自分のスキルを活かして、ビジネス的にも、宣教的にも、最高にやりがいのある仕事ができるように、他の人を支援したいと思っています。あとは疲れている人に休みの場を提供したいですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはなぜ?

f:id:jios100:20181212020714j:plain やっぱり、神様を深く知るには、「時間」と「静けさ」が必要だと思うんです。北海道のどこまでも続く景色を見ながら、神様とゆっくりと時間を持つことのできる場を提供したいと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。僕も「時間」と「静けさ」が欲しい!

f:id:jios100:20181212020714j:plain 実は一人で北海道を離れて旅に出るのは、人生初めてなんですよ!

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! どう?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 東京は刺激が多い! ドヤ顔でPASMOをかざして改札通ってきました(笑)

 

 

▼ミッションとしてのビジネス

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f:id:jios100:20180905032057j:plain これからのビジョンは?

f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕はビジネスは神のミッションだと思ってやってます。仕事自体がもう宣教活動だと。これは神様が僕に示している道だと思います。働いている人のほとんどは、仕事が最優先。だからそこに出ていかないと、神様を信じる喜びも伝えにくいですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる。教会においで~じゃなくて、自分から出ていかないとダメだよなぁ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain そうそう。ほとんどのクリスチャンは、「聖職者」と言われる職業が最終的なゴールになっちゃうことが多いと思います。牧師とか宣教師とか。逆に、メディア関係の仕事には、クリスチャンが全然いない。でも、僕はこういう仕事でも神様は伝えられると思うし、信じるキッカケにはできると思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる。超ワカル。

f:id:jios100:20181212020714j:plain だから、僕のビジョンは、「自分のやりたいことを仕事にするやり方」をレクチャーすることなんです。フリーランスでやっていきたいっていう人にレクチャーして、こうすればあなたの興味があることを仕事にできますよっていうノウハウを広げていきたいと思ってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おおお。それすごくニーズあると思うよ。

f:id:jios100:20181212020714j:plain まだまだ経験も実績も足りないけど、だからこその気付きもあるから、そういうノウハウを伝えていけたらいいなと思います。思いがある人が一歩踏み出すキッカケを作れたらいいなと。自分だけ儲かってイェーイ! じゃなくてね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 僕もサムエルにいろいろ教えてほしい~~

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後にいつも心に覚えている聖書の言葉を

 

f:id:jios100:20181212020714j:plain サムエル記第一の、3章11節です。

 

お話しください。しもべは聞いております。

(サムエル記第一 3:11)

 f:id:jios100:20181212020714j:plain 僕の名前の「サムエル」は、ヘブライ語で「神様の声を聞く者」という意味なんです。だから、どんな時も神様の声を聞く姿勢を忘れず、聖書のサムエルという登場人物のように、神の声を聞いて、他の人のために祈って、他の人を励ます人になりたいなと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。神様に信頼してクリエイティブな人生を突き進んでいるサムエル、これからの活躍が楽しみ!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンに禁止事項はあるの?

クリスチャンになったら、「これはしちゃダメ」という禁止事項はあるのでしょうか?

 

 

▼「しちゃいけないコトあるの?」という質問

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 「私はクリスチャンです」と言うと、決まって聞かれる質問がある。「クリスチャンになったら、しちゃいけないことあるの?」という質問だ。日本では、信仰は人を縛るものというイメージがあるからか、多くの人が、「クリスチャンに禁止事項はないのか?」と聞いてくる。

 当然、聖書には、様々な生きる指針が書いてある。有名な「十戒」には、「神は唯一だ」「他の神を作ってはいけない」などの礼拝に関する教えのほか、「両親を敬え」「人を殺すな」「偽りの証言をするな」などの、人間関係に関わる教えもある。旧約聖書には613の律法があるという。しかし、旧約聖書の規定を全て守るのであれば、今でも動物のいけにえを捧げないといけないことになる。豚肉も食べられない。それらを守る必要はないと日本人なら思うだろう。では、どう考えれば良いのか。

 新約聖書にも様々な生きる基準が書いてある。イエスも、「互いに愛し合いなさい」という命令から、離婚にまつわることまで、様々なことを教えている。では、信じた人が、それらの教えを一度でも破ったら信仰者失格なのだろうか。クリスチャンは、どのように生きているのだろうか。今回は、リアルな生活の中の疑問に迫っていく。

 

 

▼信仰は人を縛るものではなく、自由にするもの

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 まず、大前提として、日本人の信仰に対するイメージは、完全に間違っている。信仰は、人を縛るものではなく、自由にするものだ。人を縛るものは「宗教」である。なぜなら、宗教は人をコントロールするという別の目的のために、信仰を悪用するものだからだ。だから、私は「キリスト教」という宗教に与しているつもりはない。一人の人間として、イエスを信頼しているクリスチャンである。しかし、「キリスト教」の信者ではない。詭弁のようだが、これはとても大切な違いだ。

 イエス自身が、信仰は規制ではなく、解放だと教えている。

エスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします

ヨハネ福音書 8:31~32)

 

 イエス自身が、真理であり、いのちである(ヨハネ14:6)。「あなたがたは真理を知り」というのは、「イエスを知り」と同義である。エスはあなたを自由にするのである。だからイエスは、「わたしのことばにとどまれ」と教えたのだ。このイエスのうちにこそ、本当の自由があり、解放がある。まずはその前提を知っていただきたい。

 

 

▼神のデザイン通りに生きられない人間

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 クリスチャンの信仰は、「神が自分たちを造った」という大前提がある。聖書にはこう書いてある。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

(創世記1:27)

 

 神は、人間をご自身に似せて造られた。人間は、神によってデザインされた存在である。そして、それはとても良いものだったと聖書に書いてある。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。

(創世記1:31)

 

 「非常に良かった」というヘブライ語は、極上のものを表す表現だった。神は、人を造るときに「さぁ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と、他にはない表現をしている。「さぁ!」という部分を見て、神様がめっちゃテンション上がっている!! と感じる人もいるだろう。人は、神の目には特別なデザインとして造られた存在なのである。

 

 しかし、人は神のデザイン通りに生きることはできなかった。聖書にこうある。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」

(ローマ人への手紙 3:9~12)

 

 人は、誰もが罪の下にある。この罪とは、犯罪のことではない。「神のデザイン通りに生きない」という意味だ。これは、全ての人がそうなのであって、逃れられる方法はない。残ながら、人は「神を求める者」には、自分の力だけではなれないのである。

 一方、神は完全に義なる存在である。神のデザイン通りに生きないままの人間は、この義という性質を持った神と関わることができない。こうして神と人は断絶してしまうのである。

 そんな。なぜ神と断絶しなきゃいけないのか。なぜ神は人を「言うことをきく」存在に造らなかったのだろうか。テキトーにしていても、神のデザイン通りに生きることができたら、どんなに楽だっただろうか。しかし、聖書には基本的な原則が書いてある。

すると、あなたは私(パウロ)にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に造る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~22)

 

 神は、私たちが自分の意志で、行動を選択できるように造った。神は、私たち人間が、「こう生きてほしい」という想いがありながらも、私たちが自発的に「生き方」を選択できるようにしてくださったのである。逆にいえば、神に従わない道を選んでいるのは、自分自身なのである。

 もし、神が私たち人間を、強制的に「神の生きる道」に従わせたとしたら、それは人間ではなくて、ただのロボットである。私たちには、本能に逆らう「意志」がある。本能に逆らう選択ができるからこそ、人間たりえるのである。

 

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 リチャード・ドーキンスという有名な学者がいる。彼は完全な無神論者で、進化論者だった。彼は有名な著作、利己的な遺伝子で、生物はすべて遺伝子が種を保存するための本能で生きていると解説している。しかし、人間だけが、この本能に逆らって生きる意志を持っていると、彼は語っている。人間だけが、意図的に誰か他の人のために命を捨てることができると彼は説明する。彼は、「ミーム」という分かりづらい言葉でそれを表現しているが、つきつめれば、人間は本能に逆らう選択ができる唯一の生物だと言っているのである。完全な無神論者である彼が、神がデザインした人間の特殊性に気がついているのは、とても興味深い。

 では、この「意志による選択」の結果、神と断絶してしまうこととなった人間は、一体どうすれば良いのだろうか。旧約聖書の人々にとっては、それは律法を守ることであった。

 

 

▼どんな罪でも同じ?!

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 旧約聖書の時代、神はモーセを通じてイスラエルの民に律法を与えた。ユダヤの律法は613あると言われているが、そこには様々な生き方の基準が書いてある。細かくここで解説することはしないが、いけにえや、生理を迎えた女性を隔離するなど、中には現代的にはちょっと・・・というものから、「殺人」「窃盗」「偽証」など、現代においても犯罪にあたるものまで様々である。「過失致死」を犯してしまった人は、一定期間、遺族の怒りから逃れるために、「のがれの町」に逃げられるという面白い規定もある。

 旧約聖書の人々にとっては、この律法を細かく守り、いけにえを捧げて、諸々の規定を守って行うものが礼拝であり、神とつながる方法だった。これにより神を知り、神の力を受け、神に守られ、生きていたのである。

 しかし、旧約聖書の律法は、後の時代の「伏線」だったのである。伏線なので、もちろん完全ではない。聖書にはこう書いてある。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

(ローマ人への手紙 3:20)

 

 旧約聖書の律法を完全に行える人は誰もいないし、それによっては神の義には近づけない。聖書はそう明言している。そういうと、真面目な日本人は、「そんな! 自分は真面目にきちんと生きている!」と思うかもしれない。

 しかし、聖書はより厳しい基準を突きつけている。なんと、「どんな罪でも同じ罪」だと書いてあるのである。

律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。

ヤコブの手紙 2:10)

 

 神の目には、「殺人」も「盗み」も「えこひいき」も「ウソ」も全て同じ罪なのである。きれいな水に、たった一滴でも毒を垂らしたら飲めなくなるように、私たち人間も、一つの点で過ちを犯したら、すべての責任を負うのである。

 

 では、どうすれば良いのだろうか。ここで、考えが止まってしまうと、「清く、正しく、美しく生きなければ!」という宗教になってしまう。聖書はそうは教えていない。何のために律法があったのかにヒントがある。聖書にはこうある。

しかし(旧約)聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

(ガラテヤ人への手紙 3:22~25)

 

 律法は、人をキリストに導く養育係である。律法があるから、キリストが理解できるのである。律法がなければ、罪の意識が生まれることはない(ローマ3:20)。律法によって、神の示す生き方が分かる。しかし、人は完璧にその生き方ができない。その解決方法が、キリストなのである。律法は、イエスを知るために示された、イエスの伏線だったのである。エスにこそ答えがある。では、イエスは何をしたのか見ていこう。

 

 

▼イエスの「先払い」の十字架の犠牲

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 私たち人間は、神のデザイン通りに生きられない。そのままの生き方だと、神と一緒に生きられない。ではどうすれば良いのか。イエスがその解決のカギだ。唯一の道だ。

 エスは、私たち不完全な人間の身代わりとなって、十字架で死んだ。そして葬られ、3日後に死を打ち破ってよみがえった。これによって、「罪」が清算され、私たちは神の前に正しい者とされるのである。これが救いであり、良い知らせ、「福音」である。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと・・・

(コリント人への手紙 第一 14:3~4)

 

 イエスは、十字架で死に、私たちの「身代わり」となった。イエスの「伏線」である律法の中にこんな言葉がある。

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。<中略>すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。

レビ記 17:11~14)

 

 エスが十字架の上で、血を流したので、私たちの罪は赦された。これにより、神との関係が回復し、神と一緒に生きていくことができるのである。

 真面目な日本人は、「そんなの、こんな私が受け入れていいものなのだろうか」と思うかもしれない。「何もしていないのに、どうして赦されたといえるのだろう」と思うかもしれない。しかし、イエスの十字架の救いは、信じるだけで与えられるのである。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

(ローマ人への手紙 3:21~24)

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあながたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

 

 イエスの救いを信じるのに、条件はいらない。ただ、それを信じればいいのだ。誰であっても、そこに差別はない。イエスを信頼すれば、誰でも価なしに義と認められるのである。この救いは、条件付きの救いではない。イエスの十字架の犠牲は、「先払い」なのである。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 

▼「しなきゃいけない」じゃなくて「そうしたい」

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 私たちは、この「先払い」のイエスの救いを、ただ信じるだけで救われる。全ての罪はゆるされ、神の前に義とされ、神と一緒に生きられるようになる。

 日本人にこの説明をすると、よく言われるのが、「じゃあ何でもしていいんだ?」という言葉だ。確かに、イエスによって罪から自由にされた私たちは、もはや律法が示すような生き方の規定に縛られない。酒を飲んでも、タバコを吸っても、それは自由である。

 しかし、何でもかんでもしていいというのは間違いだ。自己中心的な生き方、神のデザイン通りではない生き方は、神とあなたの関係を傷つける。神と一緒に生きられるようになったのに、神のデザイン通りに生きないというのは矛盾している。それは同時にはできないことである。聖書にもこう書いてある。

信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。<中略>あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。<中略>からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブの手紙 2:17~26)

 

 これは、行いがなければ救われないという意味ではない。

 たとえ話にしたらわかりやすい。友人Aさんが、車がビュンビュン走っている道路の真ん中に突っ立っているとしよう。あなたは「危ない!」と必死で声をかける。Aさんは、あわてて歩道に戻る。Aさんのいのちは助かる。この場合、Aさんが、あなたの「危ない」という声を聞き入れ、「歩道に戻る」という「行動」をとったから、いのちが助かったのである。

 もし、Aさんが「危ない」という声を聞いて、「知ってるよ」と答えても、そのまま道路に突っ立っていたら、車にひき殺されてしまう。「危ない」というのを知っているのに、その道から戻らないのは、自殺するのと同じである。同じように、イエスという救いを頭で知っていても、神のデザイン通りの生き方をしていなかったら、それは信じていないのと同じだ。

 

 信じた人の生き方は、「こう生きなければならない」という枠から解放されて、「こう生きたい」というモチベーションに変わるのである。ただ概念的にイエスを信じていても、生き方が変わらなければ、それはただの宗教である。虚しい。本当にイエスを信じ、神と一緒に生きられるようになった人は、もはや神のデザイン通りではない生き方に魅力を感じなくなる。それは自分の力ではなく、神が与える聖霊によって変えられていくのである。

 しかし、弱い人間である私たちは、信じた後も、たびたび間違いを犯す。したくないことをしてしまう。間違っていると分かっているのに、ウソをついてしまう。知ったかぶりをしてしまう。他の人の悪口を言ってしまう。キレてしまう。暴力をふるってしまう。お金をちょろまかしてしまう。エロ動画を見てしまう。不倫をしてしまう。プライドを捨てきれない。栄誉や称賛を捨てきれない。すぐ調子にのってしまう。頭では分かっていても、間違えてしまう。それが人間だ。

 神に人生を180度変えられたパウロでさえ、このように告白している。

 

私には、自分のしていることがわかりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているのです。<中略>私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

(ローマ人への手紙 7:15~24)

 

 パウロは、このように大胆に自分の弱さを告白している。頭では神のデザイン通りの生き方をしたいと願っているのに、からだがそれについていかない。自分のしたくない選択をいつもしてしまう。自分のしたくないリアクションをいつもしてしまう。「私は本当にみじめな人間です」という、パウロの大胆かつストレートな告白は、罪と葛藤してもだえている多くの人を励ますだろう。

 イエスを信じ、クリスチャンになった人は、常にこの葛藤と戦いながら、生きていくのである。一見、辛いように見えるかもしれない。しかし、心の中でキリストが生きている。聖霊が働く。たとえ、完全に神のデザイン通りに生きられなくとも、エスを知り、解放された後の喜びは、半端じゃない。こればっかりは、体験しないと分からない。イエスを信じれば、解放されて、たとえ間違ってしまっても、また立ち上がって生きていけるのだ。

 エスは、たった一度、十字架の死を通して、私たちの現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださっている。

しかしキリストは、<中略>ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。<中略>キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。<中略>しかし今、キリストはただ一度だけ世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

(ヘブル人への手紙 9:11~26)

 

 イエスはたった一度、十字架で死んだことによって、私たちの、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださったのだ。一度信じただけで、全ての罪が赦されている。もう心配することはない。もちろん、間違ってしまった時は、素直に神に謝る必要がある。でも、それでクヨクヨする必要がない。エスがずっと一緒にいるからだ。

 

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

(ガラテヤ人への手紙 5:1)

 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】こんな牧師・リーダーには気をつけろ!

牧師だからといって、安易に信用してはいけません。いや、リーダーたちの言うことこそ、一番気をつけなければいけないのかも?!

 

 

▼牧師の言うことこそ、吟味しなければならない?

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 教会に行くと、たいてい牧師という人がいる。礼拝会の「説教」もこの牧師が行っている場合が多い。教会に通ううちに、何やらこの牧師という人が、教会の中で教える立場であり、リーダーなのだと、徐々に感じていく。

 しかし、忘れてはならない。牧師はただの人間であり、神ではない。神と人をとりつぐ祭司でもない。牧師は聖書の全てを知っているわけではない。牧師の言うことは、神のことづてではない。お隣の国の教会の多くは、牧師の言うことは神の言葉だという、明らかに間違った教えをしている。聖書を読み直したほうがいい。牧師が言うことが、全て正しいとは限らないのだ。

 いや、むしろ牧師の言うことだからこそ、注意深く吟味しなければならない。人間は弱い。人は権力や立場を手にした瞬間に、間違ったベクトルへと走り出す傾向がある。牧師になれば、ある程度の信頼と尊敬を人から集める。自分でも気が付かないうちに、高慢になり、自分が正しいと思い込み始める。この罠にハマっている牧師・リーダーたちが何と多いことか。クリスチャンは、牧師や諸々のリーダーたちの発言こそ、気をつけてチェックし、吟味する必要がある。

 今回は、こんな牧師・リーダーは危ないぞ! という例をいくつか挙げる。心当たりの人が周りにいたら、要注意だ。自分の霊、たましいを守るためにも、程よい距離感が必要である。同時に、ぜひ、その人たちのために祈っていこう。

 

 

▼悪い牧者の特徴

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 エスが一番批判したのは、当時の宗教的リーダーたちだった。彼らはパリサイ派とか、パリサイ人とか呼ばれていた。長年の宗教儀式から、彼らは聖書の基準からそれてしまっていた。イエスは、高慢ちきになった彼らを、徹底的に批判した。イエスは、彼らと話す中で、こんなたとえ話をして、悪いリーダーたちの特徴を挙げている。

そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。わたしの前<以前に>に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり、散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。

ヨハネ福音書 10:7~13)

 

 イエスは、自分を「羊の門」「良い牧者」になぞらえて、他の宗教的リーダーたちとの違いを鮮明にした。わかりやすくまとめてみよう。

<イエスの特徴>

・イエスは羊の門である。(比喩として)

・イエスを通してでなければ救われない。

・イエスは私たちにいのちを与える。

・イエスは良い牧者である。(比喩として)

・イエスは私たちのためにいのちを捨てた。

<悪いリーダーたちの特徴>

・盗人であり強盗。

・盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするのが目的。

・困難が来ると、他の人を見捨てて逃げる。

・羊のころを心にかけず、一番大切なのは自分自身。

 

 このイエスのたとえ話を聞くと、上のような点にまとめられる。悪いリーダーが求めているのは自分の利益であり、他の人々の利益ではない。

 逆に、良いリーダーの特徴は、本当の「羊の門」であり、「良い牧者」であるイエスの下に他の人々を導くという性質である。エスのことがより分かるようになる。イエスの姿をクリアにする。それが良いリーダーの役割であり、しなければならないことである。これができていない人は、どんなに深い知識を持っていようが、有名な学校で神学の教育を受けていようが、全く意味がない。むしろ、悪影響である。

 では、どうやって良いリーダーと悪いリーダーを見分けていけばいいのだろう。今回は、思い当たる「悪いリーダー」の特徴を挙げていく。

 

 

▼人の上に立とうするリーダー

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 牧師の中には、他の人より自分は偉いのだと、マウンティングしてくる人たちがいる。残念ながら、これは明らかにイエスの教えと違うベクトルに走ってしまっている、一番ダメなパターンだ。イエス自身が、何度もこう教えている。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人(外国人)の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうではあってはなりません。あなたがたの間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」

(マタイの福音書 19:25~27)

一行(イエスの弟子たち)はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい

(マルコの福音書 9:33~35)

さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです

(ルカの福音書 9:46~48)

 

 お分かりだろうか。人間は、自分が他の人よりも偉くなろうと競争してしまう性質を持っている。エスの弟子たちもそうだった。家族でも、会社でも、サークルでも、時には教会の共同体の中でも、人は他の人の上に立とうとして、躍起になって競争するのである。

 しかし、イエスは、全く違う法則を示した。「皆のしもべになれ」「皆に仕える者になれ」「一番小さい者が一番偉い」という、この世の中と真逆のベクトルを示したのである。これが神の法則である。

 クリスチャンは、王の王であり、神であり、唯一の救い主であるイエス自身が、自分のいのちを捨ててまで愛してくれた事実を知るべきである。神である方が、見を低くして、人間になってまで地上に来てくださったのだ。それなのに、なぜ人間の間で誰が上だとか下だとか、くだらない争いをするのだろうか。牧師になってまで、こんな基本的なことも分かっていない人は、クリスチャンの風上にも置けない。猛省せよ。

 

 人の上に立とうとするリーダーの特徴として、自分が期待したような尊敬を得られないと、かんしゃくを起こすというのがある(※怒る人の性質については、別記事を参照)。

 彼らは、自分の自尊心が満たされず、怒るのだ。そのため、教会の共同体の人たちに対して、怒りをぶつける。「なぜあなたたちはもっと聖書を読まないのか」「なぜ自分の説教を理解しないのか」「なぜ神に対して真剣にならないのか」と、共同体のメンバーを責めだす。自分が上手に導けていないのを、他人のせいにするのである。

 この手のリーダーについては、かつて、「牧師はなぜ先生と呼ばれるのか?」の記事で詳細に書いたので、ぜひ参考にしていただきたい。「先生」と呼ばれないと怒るなんていうリーダーは即失格だ。私たちの教師はイエスただ一人であり、私たちクリスチャンはお互いに、皆兄弟なのである。そこに上とか下はない。

yeshua.hatenablog.com

 もし、あなたの周りの牧師が、偉そうにふるまっていたら、その人は良いリーダーとは言えないだろう。彼、または彼女のために祈って差し上げよう。その人は、人からの承認欲求が満たされていない、可愛そうな人なのだ。世の中に認めてもらえず、せめて教会の共同体の中では尊敬されたくてされたくて仕方のない、小さな人なのだ。かわいそうな仲間だと思って、神によってその人の自尊心が満たされるように、祈ってあげよう。

 

 

▼人をコントロールしようとするリーダー

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 人の上に立つリーダーとちょっと違う種類に、「人をコントロールしようとするリーダー」がいる。どういうことか。人の人生の選択や行動を、自分の思い通りに操作しようというリーダーだ。特に教会の牧師や、宣教団体のリーダーにありがちなパターンである。

 いくつか例を挙げよう。知人のY氏は、とある大学に進学しようとしていた。そのために猛勉強していた。しかし、ある日、突然進学をやめたという話を聞いた。不思議に思って色々聞いてみると、某クリスチャン団体のリーダーが、「あなたは世の中に出ていく準備ができていない」と、Y氏の進学に反対したという。結局、Y氏はそのリーダーの主張を聞き入れ、進学を断念してしまった。

 知人M氏は、クリスチャンになってから、とあるリーダーに出会った。そのリーダーは、M氏の進学先、就職先まで指定してきた。M氏は、それに従った。そこに選択の余地はあったのだろうか。私は、「牧師のメンツを立てなければ」という動機のように思えてならなかった。断れるような空気感が、共同体の中になかったのかもしれない。

 知人Y氏は、付き合っている相手がいた。結婚まで考えた真剣な付き合いだったが、牧師がその相手を気に入らなかった。「相手と別れなければ、教会から出ていってもらう」と言われ、泣く泣く、相手とお別れすることになった。

 

 このような例は、残念ながら枚挙にいとまがない。クリスチャンではない方がこの話を聞くと、「宗教って怖い」と思うことだろう。恐ろしいし、残念だが、これは本当に事実なのである。このような人のコントロールが、教会の中にまかり通っている。これでは、「キリスト教」はカルト宗教と全く変わらなくなってしまう。残念ながら、牧師たちの中には、このように人の人生や選択を、自分の思い通りにコントロールしようとする人が、本当に多い。

 実は、使徒パウロでさえも、この誘惑に負けてしまったことがあった。それは、マルコという人物をめぐって仲間のバルナバと争った時だった。

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒につれて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。

使徒の働き 15:37~39)

 

 マルコは、以前の旅を途中で脱落してしまった。パウロは「そんなやつは今度の旅も連れて行けない」と主張した。しかし、マルコのいとこであり、「慰めの子」とも呼ばれたバルナバは、マルコを連れて行こうとしたのだった。そこで激しい議論になり、今までずっと一緒に働いていたバルナバパウロは分裂してしまうのであった。

 パウロは、この後、バルナバとマルコと和解したと見られている。パウロの手紙の中にこのような記述がある。

私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに言ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。

(コロサイ人への手紙 3:10)

ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は輪足の努めのために役に立つからです。

(テモテへの手紙第二 4:11)

 

 このような記述から、パウロがマルコを排除しようとした、排除の論理をとったのは、正しいモチベーションでなかったことが想像される。パウロは後々反省し、このような告白ができた。しかし、果たして現実の牧師たちはどうだろうか。

 他人の人生をコントロールしようとするなどということは、神の支配を自分のものにしようとする、もってのほかの愚行である。聖書のメッセージを理解できていない。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れ(教会の共同体)を牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

(ペテロの手紙第一 5:2~3)

 

 私たちが求められているのは、支配することではなく、模範となることである。

 

 

▼神・イエス以外に目を向けさせるリーダー

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 最後に紹介したいリーダーの特徴は、「神やイエス以外に目を向けさせる」というものである。これが一番やっかいで、極悪なパターンである。

 先に挙げた2つの例のように、偉ぶったり、人を自分のコントロール下に置こうとするリーダーは、まだ可愛げがある。しかし、人の目線をイエスから逸らさせようとすることほど、悪いことはない。あろうことか、これを牧師や宣教団体のリーダーたちが行ってしまっているのである。

 例えば、社会活動に熱心な人たちがいる。立派なことだ。宗教的儀式を熱心に行うより、実際に困っている人たちを助けることが大切だというのが、イエスの教えだ。親がいない子どもへの援助、介護、自殺防止の支援など、社会的にとても大切な働きはいくつもある。このように、イエスの教えを実際に実行している人たちには、頭が下がるばかりだ。

 しかし、その中心にイエスはいるだろうか。ある団体は、社会福祉活動に熱心になるあまり、スタッフをボロ雑巾のようにこき使っていると聞く。いわゆるブラック企業だ。今日び、ブラック教会や、ブラック宣教団体が多くはびこっている。働きそものは大切だが、その中心にイエスの愛がなかったら、何の意味もない。働いている人たちが、働きに影響されている人たちが、イエスを知るきっかけがなければ、何の意味もない。

 

 また、先日とあるキリスト教団体の職員さんにお話を聞いた。その団体は、イスラム教国での学習支援を行っているという。イスラム圏での働きは、難しさを極める。頭が下がった。「それで、どうやって働きを通してイエスのことを伝えるんですか?」私は聞いた。働きの説明を聞いて、どうも腑に落ちなかったのだ。「伝えません」。職員さんは断言した。イスラム圏でイエスの話をすると危険だからだという。下手に伝えると、その地域での活動が制限されるからだという。

 私はあいた口が塞がらなかった。目的と手段を取り違えていないか。イエスを伝えるために、イスラム圏に入ったというのが元々の目的だ。しかし、いつの間にか、「この地域で活動を続けるために、イエスを伝えない」となってしまっているのだ。目的と手段が逆転してしまってるのだ。

 

 他にも、ある牧師やリーダーたちは、自分たちの「平和活動」や「政治活動」に大変熱心である。結構なことだ。しかし、私の目には、それが彼らの「目的」になってしまってるように思えてならない。彼らは、自分たちが熱心なだけならまだしも、他の人にまで自分の政治的思想を「伝道」し、多大な影響を与えている。その中心にイエスはいるのか。聖書の言葉が根拠になっているのか。甚だ疑問である。

 彼らの活動は、本当に人々をイエスの方へと導いているのだろうか。彼らが聖書を読み、神のことを知り続けることを励ましているのだろうか。聖書の勉強をよそに、憲法の勉強をさせていないだろうか。イエスのことを知らせる前に、政党の政策を知らせようとしていないだろうか。

 私自身、政治の記者として働いている。働きながら思うのは、政治に正解はないということだ。ただ一つ正解があるとすれば、それは「イエスが道であり、真理であり、いのちである」という事実である。エスを知らなければ、どんなに良い政治をしても、平和活動をしても、無意味なのである。牧師やリーダーに求められるのは、政治的立場を叫ぶことではなく、イエスの福音を叫ぶことである。

 

 この手の、「神・イエス以外に目を向けさせるリーダー」にありがちなのは、自分の目的のために、他者を利用するという特徴だ。この手のリーダーたちは、自分に都合のいい人々だけを周りに置く傾向がある。考えが合う人ばかりと付き合い、洗脳し、自分の目的のために人々を利用する。考えが合わなくなったら、バッサリ切り捨てる。経営者的な目線で見れば、考えが合わない人と一緒にやるより、目指す方向が同じ人と組んだ方が効率的ではある。しかし、そこに神の愛はあるのか。その進む道の先には、イエスがいるのだろうか。それとも、別の目的があるのだろうか・・・。

 

 

▼イエスを知らない牧師もいる?!

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 最後に、大胆に宣言したい。あなたの知っている牧師は、イエスを知らないかもしれない。宣教団体のリーダーは、イエスの福音を理解していないかもしれない。えっ、嘘! と思うかもしれないが、実は、その可能性は大いに有り得る。

 そんな、ウチの牧師は、●●神学校を卒業して、聖書の知識をたくさん持っている。まるで歩く聖書辞典だ。説教も面白いし、毎回学ばされる。そんな●●牧師が、イエスを知らないわけがない。イエスの救いを受け取っていないはずがない! ・・・そう思う方もいるかもしれない。そこに落とし穴がある。

 聖書に何と書いてあるか見てみよう。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3)

 

 そう。イエスに出会うというのは、知識的に知るという意味ではない。神が与える「聖霊」の力がなければ、「イエスは主だ」と知ることはできないのである。聖霊の力なしには、イエスを見ることはできないのである。

 どんなに聖書の知識を持っていようが、関係ない。実際に、パウロは知識的には右に出る者がいないほどの律法学者だった。パウロは、知識だけでなく、行いにおいても完璧な人間だった。パウロはこう言ってる。

ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目の割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

(ピリピ人への手紙 3:4~6)

 

 パウロは、きっすいのイスラエル人だった。律法に精通していて、右に出る者はいないほどだった。しかし、彼はイエスを受け入れられなかった。パウロはイエスを知らなかった。イエスを知った後のパウロは、こう述べている。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのもの(律法など)を、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。

(ピリピ人への手紙 3:7~9)

 

 どんなに聖書の知識を持っていても、有名な学校で教育を受けていても、それはイエスを知っている判断基準にはならない。むしろパウロは、「すべてを損と思っている」と告白しているのだ。同じように、ユダヤ律法学校の校長だったニコデモ(ヨハネ3章参照)も、知識ではトップ中のトップだったが、はじめはイエスを信じることができなかった。かえって、何の知識もない罪人、外国人たちがイエスを信じることができたのであった。

 

 私も同じだった。私がイエスに出会ったのは、16歳の時だった。その時に、ローマ書5章8節の「しかし、私たちが ”まだ” 罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた・・・」という部分を読んで、初めてイエスが何をしてくれたか頭と心で理解した。腹の奥底から喜びがわきあがった。聖霊が働いた瞬間だった。

 実はそれまで、私は自分がクリスチャンだと思っていた。10歳の頃に教会に通い始め、それなりの聖書の知識は持っていた。優等生的な気質だったので、何をすれば、何を言えば大人が自分を「立派なクリスチャン」と認めてくれるか、なんとなく分かっていた。無意識に「立派なクリスチャン」を演じていたのである。

 しかし、イエスの十字架が何を意味するのか、イエスが何をしてくれたのか、その福音の全貌を全く理解していなかった。恥ずかしながら、そんな状態でも「立派なクリスチャン」を演じきって、カナダ留学中には、「最もイエスの性質に近い生徒」(The Most Christlike Award)の賞まで受賞してしまったのである。本当の意味でイエスと出会っていない人でも、「立派なクリスチャン」を演じるのは、実はたやすいのである。それだけでなく、エスに本当に出会っていなくても、「それっぽい説教」「それっぽいメッセージ」はできてしまうのである。それが怖いところなのだ。

 

 もしかすると、あなたの知っているあの牧師や、あのリーダーは、本当の意味でイエスに出会っていないかもしれない。その可能性は、実は思ったより高い。実は私は、そのような人々にたくさん出会ってきた。実は、大きい団体のリーダーをしている牧師や、有名な人ほど、その傾向がある。人に認められ、人を引きつけるカリスマ性がある人ほど、イエスの力ではなく、自分の力で生きてきてしまいがちなのだ。もし心当たりがあれば、その人たちのために、ぜひ祈ってほしい。本当の意味で神に、イエスに出会えるように。

 聖書は、「弱さを誇れ」「誇る者は主を誇れ」と書いてある。自分の弱さを大胆に告白し、皆でイエスの方へ向いていこうというベクトルを作れる人こそが、実は良いリーダーなのである。良いリーダーは、実は目立たない、小さな群れを率いているのかもしれない。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知ってると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

(コリント人への手紙第一 8:1~3)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【聖書】「マナ」に隠された助け合いのヒント

聖書には「マナ」という不思議な食べ物が出てきます。実は「マナ」には助け合いの精神のヒントが隠されていた?!

 

 

▼「マナ」という不思議な食物 

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 聖書に「マナ」という不思議な食べ物が登場する。私の友人に「マナ」という人がいるので以前、「あなたの名前がついている食べ物が、聖書に出てくるんだよ」と手紙を書いたことがあった。聞く話によると、日本語の古語に「真菜」<まな>という言葉があり、「美味しいごちそう」を意味するそうだ。これは、聖書の「マナ」という単語の発音が、がシルクロードから伝わって、「美味しいごちそう」という日本語の単語となった・・・と考えるとちょっと眉つばだが、ロマンがある。

 さて、この摩訶不思議な食べ物の「マナ」は、一体どんなものなのだろうか。聖書を見てみよう。これは、モーセイスラエルの民を導き、エジプトから脱出した後の話である。

朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。(中略)イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。

出エジプト記 16:11~31)

 

 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、荒野をさまよっていた。当然、食物などない。空腹になった民は、不満を言い始めた。「エジプトにいた方が良かった」と。そこで神は、この「マナ」という不思議な食べ物を与えたのであった。

 マナが実際にどんなものだったかは分からない。モーセは、マナを壺に入れて、後世のために保存した(出エジプト記16:33)が、現代には残っていない。私は、記述から見て、「赤ちゃんせんべい」みたいなものだったのではと、勝手に想像している。

 イスラエルの民は、「マナ」を見た時に、「これは何だろう」と言い合った。「何だこれは?」のヘブライ語が、そのまま「マナ」の語源となったという説もある。

 神は、イスラエルの民が約束の地、カナンに入るまで、40年間この「マナ」で民を養った。実は、このマナという不思議な食物の中に、神の面白い法則が見え隠れする。今回はこの「マナ」に迫っていく。

 

▼マナの不思議な法則1:不足を補い合う

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 マナには、主に2つの不思議な法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナは毎日降った。イスラエルの民は、降ったマナを集めて、それを調理して食べていた。欲張りの人間は、決められた量以上のマナをかき集めていた。私も、食べ放題の店に行くと、ついつい食べすぎてしまう。同じことだ。

 しかし、不思議なことに、このマナは「多く集めても少なく集めても、足りないことはなかった」と記述がある。つまり、どんな量を集めても、一定の量になってしまったのである。

モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメル(2.3リットル)ずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。

出エジプト記 16:15〜18)

 

 マナは、一人あたり、どんなにたくさん集めても、少なく集めても、全員が2.3リットルになってしまった。これは本当に不思議な話である。

 

 これは神のオチャメな伏線だと、私は思う。神は、「マナ」の性質を通して、私たちに「分け合う」ヒントを与えているのだ。

今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。

(コリント人への手紙第二 8:14~15)

 

 パウロは、この「マナ」の性質を引用して、不足を補い合うことを教えた。たくさん持っている者が、不足している者を補う。これが、神が「マナ」の性質を通して示した法則である。

 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。

使徒の働き 20:35)

 

 「受けるよりも、与える方が幸い」これは、聖書が示す、クリスチャンの生きる基準である。

 日本は世界の中では非常に豊かな国だ。豊かな人は、不足している人々の分を、どうにかして補う必要がある。

 ただ、日本は霊的には、圧倒的に貧しい。そこに自分の財産を使いたいという人もいる。また、NPONGOを通しての支援は、本当にニーズのあるところに支援が届いているのかという疑問もある。これは難しい問題だ。深く語るのは避けるが、各々が、各々のやり方、ポリシーに従って支え合えばいいと思う。 

 

 

▼マナの不思議な法則2:神への信頼

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 マナにはもう一つの法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナの第二の法則は、「次の日になると腐ってしまうが、『安息日』だけは例外」という一風変わったものである。以下のように書いてある。

モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。

六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり2オメル(4.6リットル)ずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主<しゅ=神>の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから、今日は、それを野で見つけることはできない。六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない

出エジプト記 16:19〜26)

 

 イスラエルの民は、欲張ってマナをたくさん集めて残しておいた。しかし、次の日には腐って食べられなくなってしまうのだった。野原に残ったマナも、昼になると溶けてなくなってしまった。

 ところが、安息日の前日だけは例外だった。安息日の前の日だけは、2日分集めても、腐らなかった。安息日には労働をしてはならないため、マナを集めてはいけなかったし、マナは安息日に降らなかったのである。

 これは何を意味するのだろうか。神はこのような不思議な形で、神が人を養うことを証明したのだ。安息日に働かないというのは、実は相当な神への信頼が必要だ。けれどもこれは、神が必要なものを与えてくださる、という信頼の訓練だった。

 実に神は、イスラエルの民が約束の地「カナン」に入るまで、40年間、毎日マナを降らせてイスラエルの民を養った。神はこのような方法で、イスラエルの民に、「オレが君たちを養う、心配するな!」という事実を、体験をもって記憶に刻み込んだのだ。

 イエスも当然このマナの知識を持っていた。それゆえ、このように教えている。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6:34)

 

 神に信頼する人は、神が養ってくださる。神は、必ず必要なものを与えてくださる(※「主の祈り・後半」の記事参考)。クリスチャンは、神への全幅の信頼をもって、日々、明るく前向きに人生を送れるのである。

 

▼いのちのパンであるイエス

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  神は私たちを養ってくださる。しかし、人とは弱いもので、このような奇跡で養われても、感謝もせずぶつくさ言うものである。私にとって、とても印象的な、イスラエルの民の不平不満をご紹介しよう。

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ」

民数記 11:4~6)

 

 イスラエルの民は、マナという不思議な、奇跡的な食べ物を与えられてなお、このようにぶつくさ文句を言っていたのだ。

 現代の私たちにとって、「きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにく」がそれほど魅力的だとは思わないので、このシーンを読むとつい笑ってしまう。でも、確かに40年間、毎日同じものを食べろと言われたら、こう言いたくなるのも無理はない。一方で、豊かな国が食べ物に不満を言う中で、食べ物が得られず、苦しむ人たちもいる。私たちは、どうすればいいのだろうか。

 私なりの答えは、先に書いたように「各々が、各々のポリシーに従って、できる限りの助け合いをする」という、当たり前の解決方法だ。この問題に特効薬はない。ただ、その人たちのために祈ることは、誰でもできる。まずは、祈るという小さな一歩から始めてみてはどうだろう。

 しかし、この「食べ物」よりも、もっと大切なのは、「いのちのパン」であるイエスに出会うことである。

 食べ物を求める人たちに対して、イエスはこう言った。

エスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません

ヨハネ福音書 6:26~35)

 

 イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである、永遠のいのちのために、自分を信じよ!」と言ったのであった。神は、「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「いのち」を与えてくださるのである。

 クリスチャンは、食べ物に困っている人たちのために、祈り、自分ができることを通して助け合う必要がある。しかし、それ以上に、彼らが「いのちのパン」であるイエスを知るように祈りたい。イエスに出会わなければ、たとえどんなに食べ物で豊かになっても、虚しいからだ。どんなに健康で長生きしても、イエスを知らないまま死んでしまったら何の意味もない。食べ物などの必要の満たしを祈る以上に、本当に必要なイエスとの出会いを、もっと力を込めて祈ろうではないか。

 

 

▼おまけ:「5つのパンと2匹の魚」の奇跡

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 余談だが、5000人以上に人を腹いっぱいにした奇跡、いわゆる「5つのパンと2匹の魚の奇跡」(ルカ9章、ヨハネ6章など)には、様々な解釈がある。どうやって5000人が腹いっぱいになったのか、詳しい記述がどこにもないのである。

 聖書から分かる事実は以下である。

・イエスが弟子たちに大勢の人に食べ物をあげろと言った。

・少年が5つのパンと2匹の魚を持ってきた。

・イエスがそれを持って神に感謝した。

・それを分けると、大勢の人が満腹になった。

・めっちゃ食べ物が余った。

 肝心のどうやって満腹になったのかが、どこにも書いていないのである。

 ある人たちは、イエスが奇跡的にこのパンを増やして、人々を満腹させたと信じる。ある人たちは、そうではなく、人々が隠し持っていたパンを、皆、差し出して分け合ったと解釈する。少年がパンを持ってきたのを見て、食べ物を隠し持っていた人たちは、恥ずかしくなって分け合ったとする解釈だ。これは主に、イエスが奇跡を行わなかったと考える人達が行き着く解釈といって良いかもしれない。

 私自身は、よく分からないというのが正直なところだ。聖書に書いていないのだから、そこから先は想像しかできない。私は、イエスが実際に奇跡を行ったと考えている。しかし、この場面では人々が食べ物を出し合って、分け合ったと考えるのも、またロマンがあるとも思う。実は、マナの「一定量の法則」も、「たくさん集められる人が、集められない弱い人のために集めてあげて分け合っていた」という意味かもしれない!

 しかし、大切なのは、そこではなく、イエスが「いのちのパン」であるという事実である。クリスチャンはこのイエスによって救われ、新しい存在へと変えられ、本当のいのちを獲得しているのだ。この素晴しい「いのちのパン」に出会う人が、1人でも多くなったら、私は嬉しい。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<後編>

「主の祈り」は祈りのガイドラインです。その後半を見ていきましょう。

 

 ★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「主の祈り」は祈りのガイドライン

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 「主の祈り」は、イエスが教えた、祈りのガイドラインだ。エスは、「ただ同じ言葉を繰り返して唱えるのでは意味はない」と教えた。その後で、「だから、このように祈りなさい」と言って、祈りのガイドラインを与えた。それが「主の祈り」である。

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 

 この「主の祈り」の内容を8つに分割すると、以下のようになる。

【主の祈りの8つの要素】

1:神への呼びかけ

2:神の名を賛美する

3:御国の到来を願う

4:神の計画の成就を願う

5:必要の満たしを願う

6:罪の赦しを願う

7:赦しを受けた後のリアクション

8:悪からの救済を願う

 

 前半部分は、「神への呼びかけ」「神への賛美」、そして「神の国と到来を願い」「神の意思の実現を願う」というものだった。詳細は前回の記事を参考にしてもらいたい。

yeshua.hatenablog.com

 前半の祈りは、あえて日本後らしく言えば、「タテマエの祈り」だ。あえて言えば、「きれいごと」である。もちろん、心から神への賛美、神の計画の実現を願えたら、それに越したことはない。しかし、人間そんなに強い存在ではない。人間は、どうしても自分に必要なモノを願ってしまう生き物である。

 後半部分は、いよいよリアルな人間らしい「願い」の部分に突入していく・・・。ひとつずつ見ていこう。

 

 

▼5:必要の満たしを願う <いのちのパンであるイエス

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 神への呼びかけ、賛美、そして神の計画の実現を願った後に、いよいよ人間らしい「お願いごと」のパートに入る。それは、「必要の満たし」の願いである。

 究極的には、人間は、神の存在なくして生きられない。だからはじめに神の国の到来と神の計画の成就を願う。それと同時に、現実的に食っていかないと、この地上では死んでしまう。衣・食・住は人間にとって不可欠である。そこで、イエスはこう祈るよう教えている。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 

 人間、メシを食わなければ死んでしまう。「日ごと」「今日も」というのがミソだ。やっかいなことに、人間は「食いだめ」ができない。動物のように栄養をしっかり蓄えて、冬眠できれば、どんなに楽だろう。しかし、毎日必要な栄養を摂らなければ、健康を損なう。人は、毎日、必要なものを神に願い、神から与えられ、生きていくのだ。

 旧約聖書には、神が、天から「マナ」というパンのようなものを降らせて、イスラエルの民を養った場面がある。イスラエルの民が、エジプトから脱出した時である。神は「マナ」という不思議な食物によって、「神が人間を養う」という原則を示した。この「マナ」が、のちに「いのちのパン」となるイエスの伏線となっている(※「マナ」については別記事を書く予定)。

 さて、イエスの時代も、人々にとって一番の関心事は、やはりこの「食べ物」だった。当時、イスラエルの地域の人々は、ローマの圧政に苦しんでいた。二重、三重の税に苦しみ、貧しく、飢えていたのだった。だから、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上を満腹にさせた奇跡を行うと、人々は大勢ついてきた(ルカ9章、ヨハネ6章など)。彼らはイエスを救い主と信じていたのだろうか。もしかしたら、信じていた人もいたかもしれない。しかし、多くの人は、イエスに救いを求めたのではなく、「パンをくれ!」というモチベーションだった。

 

 そのように、「パン」を求める人たちに対して、イエスはこう言った。

エスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません

ヨハネ福音書 6:26~35)

 

 イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである私を信じよ!」と言ったのであった。神が「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「永遠のいのち」を与えてくださるのである。

 しかし、かといって現実的にメシは必要だし、暮らしていくにはお金は必要だ。しかし、イエスは、これについても「心配無用!」と言い切る。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。(中略)野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。(中略)あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくて良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6:25~34)

 

 素晴しい約束ではないだろうか。もちろん、これは、「働かなくても食っていけるぜベイビー」なんて言っているのではない。「明日のことを心配するな」と言っているのである。現実的に、衣食住や、他にも必要なものはある。それらのものを求めつつ、毎日、毎日、「今日も生かされている」と認識し、感謝しながら生きていこうではないか。今日を精一杯生きていこうではないか。

 

<祈りの例>

●今日も、必要なものをお与え下さい・・・

●@@@も@@@も必要です、与えてください。しかし、まず神の国と神の義を第一に求めることができますように・・・

●世界中で、食べ物がなくて困っている人たちの必要が満たされますように。何より、「いのちのパン」である、イエスさま、あなたに出会えますように・・・

●今日も生かされました! 感謝します。私が何を必要としているかは、あなたが全てご存知です。必要なものを与えてください・・・

 

 

▼6:罪の赦しを願う

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 前のパートは、肉体的に必要なものだった。次は、霊的に必要なものについての祈りに入る。

私たちの負い目をお赦しください。

 

 「負い目」という部分のギリシャ語は、2ヶ所しか出てこない特殊な単語だ。この部分と、ローマ4:4の「支払い」と訳されている部分しかない。総合的に考えて、「負債」というイメージが適切かと思われる。

 一方、ルカの福音書の「主の祈り」では、「罪」に相当するギリシャ語の単語が使われている。ギリシャ語の「罪」には、「的外れ」というニュアンスがある。神は、人間が愛し合うようにデザインしている。しかし、人間は神のデザイン通りに生きることができない。人間はどうしても、神のデザインからそれた、「的外れ」な生き方をしてしまう。これを聖書では「罪」と表現する。

 人は、神に「負い目」を感じている。人は、神から「良心」という基準を与えられているからだ。だから、たとえ聖書を読んだことがなくとも、何が罪で、何がそうでないか、心の奥底では、なんとなく分かっているのである。そして、この「負い目」から逃れられる人は一人もいない。罪を犯さない人間は、ただの一人もいないのである。

次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない

(ローマ人への手紙 3:10~12)

 

 人は自分で勝手に「基準」を作ることはできない。何が、正しくて、何が間違っているか、その基準を作るのは神である。なぜなら、神が「人間の生き方」をデザインしているからである。神が正しいとしたものは正しく、間違っているとしたものは間違っている。

 人は、自分の力では、自分自身の罪を赦すことができない。どんなに良い行いをしても、善行を積んでも、人は自分の罪をなかったことにはできない。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

(ローマ人への手紙 3:20)

 

 では、人はどうすれば良いのだろうか。自分の力で罪を打ち消せないのであれば、どのようにして希望を持つことができるのだろうか。心配ご無用! 神は、私たちのために、素晴しい処方箋を用意してくださっている。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けとることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

(ローマ人への手紙 3:23~24)

 

 私たちの罪は、私たちの善行によって打ち消されるのではない。ただ一度、神であり、王の王であるイエス・キリストが十字架で死んだことによって、全ての罪が赦されるのである。エスを信じれば、その瞬間に、現在、過去、未来の全ての罪が赦される。一度、罪の対価は、イエスのいのちという形で支払いが既にされている。もう人間は、神に対して「負い目」を感じる必要はない。

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

(テトスの手紙 3:5)

 

 私たちの罪は、既に赦されている。その代価となったイエスに、いつも感謝しようではないか。人間は、そう簡単に生き方を変えられない。デザイン通りでない生き方をしてしまうのが人の性である。そのたびに、軌道修正、軌道修正、軌道修正の日々なのだ・・・。罪が赦されたことを覚え、感謝し、またこれから犯してしまう罪も赦していただけるよう(それも既に赦されているのだが)、毎日覚えて祈りたいものである。

 

<祈りの例>

●私の罪を、十字架の犠牲で赦してくださり、ありがとうございます・・・

●赦されたのに、また同じ過ちを犯してしまう私を、どうかお赦しください・・・

●私の負い目をお赦しください。弱い私をお救いください・・・

●十字架の上で、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださった、あなたの大きな恵みに感謝します・・・

 

 

▼7:赦しを受けた後のリアクション

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 7つ目は、赦された後の人間が、どのようにリアクションをとるのか、という部分だ。イエスは、このように祈るよう教えている。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 赦された私たちは、当然他の人も赦す必要がある。エスは、罪を赦された人の責任を、このようなたとえ話で語っている。

<イエスのたとえ話・要約>

・王様に多額の借金をしている男がいた。

・彼は返済ができなかったので、王に赦しを懇願した。

王様は、彼をかわいそうに思い、彼の負債を免除してあげた。

・借金がチャラになった男は、他の人に金を貸していた。

・彼は、その人に借金の返済を催促した。

・その人は、借金が返せなかったので、男に赦してもらうよう懇願した。

男は、その人を赦さず、厳しい取り立てをした。

・王様は、その話を聞きつけ、「自分は借金をチャラにしてもらったのに、自分が貸した金は取り立てるとは何事か!」と怒り、男を牢屋にぶちこんだ。

(マタイの福音書18章)

 

 このたとえ話だけ聞けば、「なんてひどい話だ!」と憤りを覚えるかもしれない。しかし、よく考えてほしい。実際に私たち人間も、男と同じ過ちを犯しているのである。これは、かのダビデ王も犯してしまった間違いであった(2サムエル12章参照)。

 このたとえ話の「負債」は、私たちの「罪」を指している。男が、負債を払えなかったように、人間は罪の代償を払えないのである。しかし、王の王であるイエスは、この罪を赦すだけでなく、自分自身のいのちを代償として捧げてくださったのだ。それほどまでして、私たちは赦されたと知る必要がある。

 しかし、人間はいとも簡単に「自分は赦していただいた存在だ」という事実を忘れてしまう。そして、すぐに他の人が間違いを犯しているのを見て、「赦すまじ・・・!」となってしまうのだ。

 あなたも、そのような覚えはないだろうか。ある牧師が納得のいかない教えをしている、教会の他のメンバーが全然奉仕をしてくれない、教会の若者は喋ってばかりで全く手伝わない、教会のおじさんおばさんは世話焼きばかりでうっとおしい、あのミニストリーは人をつまずかせている・・・etc。赦された自分が、他の人を赦せていないのに気が付かないだろうか(そっくりそのまま私にブーメランで返ってくるので、痛い指摘である・・・)・

 もちろん、他の人が罪を犯していたら、「指摘」する必要はある。しかし、赦された私たちには「裁く(判決を下す)」資格はない。私たち人間は、まず自分が赦された存在であること、そして他の人に判決を下す資格はないことを知る必要がある。

 

 だから、イエスは祈りの中で、赦された者が取るべきリアクションはどのようなものか教えているのだ。どのようにリアクションすべきか。それは、「相手が何か自分に不利益なことをしてきても、愛を持って赦す」というリアクションだ。まさにイエスが教えた、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」の精神である。

 「赦す」対象は他者だけではない。自分自身を赦すのも、大事なことだ。現代の人間は、「自分を赦す」のがどうも苦手なようである。「こんな私なんて・・・」という声を聞く。とんでもない! あなたは、イエスが自らのいのちを差し出すほどに、価値がある存在だ! エスが死んでまで愛そうとしたあなた自身を、受け入れよう。あなたは、大切な存在だ。まずは、自分を赦そう。自分を赦さなければ、他者を赦すなど、とてもできない。

自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。

(コロサイ人への手紙 2:18)

 

 余談だが、伝統的な日本語の祈り方では、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」となっている。私は、これでは順番が逆ではないかと思う。「私たちが他者を赦す。だから私たちの罪も赦してくれ」では、おかしいのではないか。神は、私たちが生まれる遥か前に、既にイエスの十字架での死と復活を実現させてくださったのだ。罪の赦しは「先払い」である。あとは、私たちがそれに信頼するかどうかだ。「私は赦された」→「だから自分も他者を赦せる」という順番の方が、私はしっくりくる。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(ローマ5:8)

 

<祈りの例>

●赦されたので、私も他の人を赦したいです。どうかお助けください・・・

●赦したいですが、@@さんだけはどうしても赦せません。あなたの愛の心をください・・・

●赦してもらったくせに、他の人を赦せない私をお赦しください・・・

●あなたが死んでまで愛してくださった自分に、価値があると思えるようにしてください・・・

 

 

▼8:悪からの救済を願う

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 最後の祈りは、「悪からの救済」の願いである。イエスはこう祈るように教えている。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 

 最後は、守りの願いだ。これほど赦されても、人は弱い存在である。常に、心を張り、自分が「的外れ」になっていないかチェックする必要がある。

 気をつけたいのは、「成長のための試練」と「試み」は別のものであるという点だ。神を信じれば、人生全てウキウキハッピー! というわけではない。神は、「成長のための試練」は与える。

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(中略)霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

(ヘブル人への手紙 12:5~10)

 

 成長とは、より神を知り、神の姿に似せられていく様を指す。神を知ったら、神を求めずにはいられない。もし、全く神を知らなくて良いのなら、試練を通らなくてもいいだろう。しかし、一度神を知ったら、もう止められない。神を知りたくて知りたくて、仕方がなくなってしまうはずだ。

 「試み」とは、神から目をそらさせるものだ。それは、人によって違うだろう。名誉、栄誉、財産、仕事、諸々の誘惑・・・神から目をそらしてしまうキッカケは、いくらでもある。時には、家族や愛する人さえも、そのキッカケになりうる。聖書を読む行為さえ、心が神に向いていなければ、それは立派な「試み」になりうる。

 人は、すぐに道からそれてしまう、弱い生き物だ。だからこそ、「試みにあわせず、悪からお救いください」と祈る必要がある。心のベクトルを、神に向けるために。自分の目線を、自分自身ではなく、神に向けるために。今日も神に頼る必要があるのだ。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙12:2~3)

 

<祈りの例>

●私が神様から目をそらす原因になるものから遠ざけてください・・・

●あらゆる誘惑から守ってください・・・

●神様、あなたの道からそれる原因になっているものは何か教えてください・・・

●内心では薄々分かっています。どうかそれをギブアップできるように助けてください・・・

 

 

▼おわりに:シンプル&チョコチョコ祈りのすすめ

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 イエスは基本的な祈りを教えてくれた。たった8つの要素の、シンプルな祈りだが、そこには奥深い真理が隠されていると、分かっていただけたと思う。さっそくこの祈りを実践しよう。もちろん、この内容以外のことを祈っていけないわけではない。あくまでこれはガイドラインだ。この祈りをベースに、様々な形で祈ってみたらいいと思う。

 では、どう祈ればいいのか。私のオススメは、「シンプル祈り」である。エスが教えた祈り方は、とてもシンプルなものだった。「彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」とイエスが言っているのを忘れてはいけない。長々と偉そうな言葉を並べ連ねても、祈りがきかれるわけではない。シンプルでいいのだ。単純な言葉でいい。素朴な言葉でいい。神様は、父親が子どもの話を聞くように、私たちに耳を傾けてくださる。

 もう一つは、「チョコチョコ祈り」である。「どのくらい祈ればいいのだろう」と考える人もいるだろう。私のオススメは、「気がついた瞬間に、チョコチョコっと祈る」という方法である。私は、「祈りで大切なのは長さではない。心の向きと頻度だ」と考える。聖書にはこう書いてある。

絶えず祈りなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:17)

 

 絶えず! 1年365日24時間!! 文字通り、「絶えず」祈っていたら、他のことは何もできなくなってしまう。どういう意味か。

 この箇所を引用した上で、「10分の1献金」になぞらえて「1日の10分の1の時間を祈りましょう」という説教を聞いたことがある。計算すると、1日の10分の1は、144分!!! 2時間24分である・・・。こんな長い時間毎日祈れるのは、せいぜい牧師や教会スタッフくらいである。社会人には無理!!! 彼らは、日本で働くサラリーマンの気持ちが全く分かっていない。そんなに時間捻出するためには、寝ないしか方法がないよ!!!

 エスは、十字架という世紀のいち大イベントの前に、どのくらい祈ったのだろうか。なんとびっくり、おそらく1時間x3セットである(マタイ26章、マルコ14章参照)。3時間はそれなりに長い時間だが、それでも人生のクライマックスでの3時間である。普段の生活で、2時間以上も祈らなければならないかと言われたら、私は疑問符がつくと思う。

 もちろん、長く祈るのは大切だ。神の前に、長い時間をかけて心を注ぎだすのも祈り方のひとつである。否定はしない。でも、それよりも、常に神に祈る生き方の方が大切ではないだろうか。 

 ある時、私はパソコンが不調でイライラしていた。すると、宣教師のオジサンが「直るように祈った?」と声をかけてきたのである。私はビックリした。それまで、「パソコンが直るように」と祈る発想が自分になかったのだ。私はその時、「ああ、この人は人生の全てのことを神様に委ねて生きているだ」と感じたのである。パソコンが直るように祈る是非は、この際おいておこう。大切なのは、「とっさの時に祈っているか?」ということである。

 だから私は、思いついたらすぐシンプルに祈るようにしている。「神様、ありがとう」「神様、助けて!」「神様、疲れたよー」「神様、あなたは素晴しい!」などなど・・・。祈りは神様とのコミュニケーションとよく言われる。LINEのチャット気分でいい。生活のふとした瞬間、瞬間に、神様に祈ってみたら、あなたの生活は変わるかもしれない。

 

 こんなことを言ったら、この記事が無駄になるかもしれないが、正直、祈り方や内容なんて、どうでもいい。神はあなたが祈る前に、全てあなたの祈りをご存知なのだから。

あなたがたの父(神)は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

(マタイの福音書 6:8) 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<前編>

教会で繰り返し唱える「主の祈り」、同じ言葉を繰り返して唱えるのに意味はあるのでしょうか?

 

 

▼「主の祈り」が矛盾しちゃってる問題

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 「主の祈り」は、現代でも多くの信者が唱える有名な祈りの文言だ。礼拝会で、毎回「主の祈り」を暗唱する教会も多い。これは、イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りだ。マタイの福音書とルカの福音書に記述がある。マタイの方を紹介しよう。

 

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 なるほど。確かに、エスはこのように祈れと命じている。だから、今日でも教会で、クリスチャンたちがこの言葉を繰り返し暗唱しているのだ。

 どうしてイエスは「こう祈りなさい」と教えたのだろうか。ちょっと立ち止まって、前の文脈も見てみよう。

 

(以下、全てイエスの言葉)
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父(=神)に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい・・・

(マタイの福音書 6:5~9) 

 

 違和感を覚えないだろうか。「祈る時、同じことばをただ繰り返してはいけません」とある。イエスは、その後で、「こう祈りなさい・・・」と教えているのである。それならば、「主の祈り」を繰り返し唱える習慣こそが、「同じことばをただ繰り返している」状態ではないだろうか。私は、子どもの頃からこの矛盾が心にひっかかり、ずっとオカシイな・・・と思っていた。 今回は、この「主の祈り」の矛盾について書く。

 

 

▼「主の祈り」の本質は、その中身にある

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 イエスは、「同じ言葉を繰り返すな」と言ったあとに、「このように祈れ」と命じた。この言葉をただ繰り返し唱えるだけでは、イエスの命令と矛盾してしまう。

 では、どう考えたらいいのか。答えはシンプルだ。発想の転換をしてみよう。イエスは、「この言葉を繰り返し唱えよ」ではなく、「このような内容で祈ってごらんなさい」と言ったと考えればよいのだ。つまり、「主の祈り」の文言は、ただそのまま繰り返すためのものではなく、自分の言葉で祈るためのガイドラインと捉えるのだ。こう考えれば、「同じ言葉をただ繰り返す」ことにはならない。

 主の祈りは、基本的な祈りのポイントを抑えた、とても大切なものである。そのポイントを抑えるために、主の祈りを暗唱するのは良いことだと思う。ただ、呪文のようにこの言葉を繰り返すのではいけない。「主の祈り」の中身をしっかりふまえた上で、心から祈る必要がある。

 では、主の祈りの中身とはどんなものだろうか。今回は「主の祈り」を以下の8つに分割して考えてみる(前半は1〜4について書く)。

 

【主の祈りの8つの要素】

1:神への呼びかけ

2:神の名を賛美する

3:御国の到来を願う

4:神の計画の成就を願う

5:必要の満たしを願う

6:罪の赦しを願う

7:赦しを受けた後のリアクション

8:悪からの救済を願う

 

  

1:神への呼びかけ

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 最初の一文は、いつも見逃されがちな、大切な祈りの要素だ。「主の祈り」はこう始まる。

天にいます私たちの父よ。

 これこそ、大切な祈りの要素である。祈りのはじめに、神を「私たちの父」と呼んでいるのだ。これは、ユダヤ人にとっては、びっくり仰天のパラダイムシフトだった。彼らにとって神は「イスラエルの父」であっても、「わが父」とはとても呼べるような存在ではなかった(※筆が進みすぎたので詳しくは別記事で)。
 しかし、神は、私たちを「子ども」としてくださったのである。

 

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

(ローマ人への手紙 8:14~15) 

  本来、イスラエルの民ではない、外国人の私たちは「神の子ども」ではなかった。しかし、イエスを通して、神は私たちへの愛を示してくださった。そして、聖霊を与え、外国人である私たちさえも「子ども」としてくださったのである。神が私たちを「子ども」としてくださったからこそ、私たちは神を「わが父」と呼べるのである。

 また、「天にいる」という部分も大切だ。私たちの神は天におられる、全てを治めている神である。神の偉大さ、そのキャラクターを宣言し、そして「私たちの父よ」と呼びかける。これが、祈りの始まりなのである。

 実際に、こう祈ってみたらどうだろうという、例をいくつか挙げる。あくまで、例であって、いろいろな形があって良い。

<祈りの例>
●天にいるお父さん・・・

●この世界の全てを造った神様・・・

●愛する天の主よ・・・

●王の王である天の父よ・・・

 

 

▼2:神の名を賛美する

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 「主の祈り」は、以下のように続く。

御名が聖なるものとされますように。

 

 「呼びかけ」の次の要素は、「賛美」である。しかも、単純な賛美ではない。伝統的な言い方では、「願わくは、御名を崇めさせたまへ」と祈る。この表現には、「あなたを賛美します」以上の、奥ゆかしさが表れていると思う。

 本来、人間は神を賛美することすら値しない存在である。ちっぽけで、神様に向かって言葉を発するのすらためらわれる弱い存在、それが人間だ。旧約聖書の時代は、神の顔を見ただけで「死んでしまう」とされていた(士師記13:22、イザヤ6:5)。それほど神は恐るべき存在なのだ。だから、せめて「願うことなら、あなたの名前が崇められますように」と言うのだ。

 もちろん、「神を賛美してはいけない」とはならない。ただ、神はそれほど恐れ多い存在なのだと知らないといけない。神への恐れを理解すればするほど、その神ご自身が、人(イエス)となって地上に下り、死んでまで愛してくれたというのが、どれほど、めちゃんこスゴイのか、理解できるようになるからだ。

 

<祈りの例>

●神様、あなたの名前が聖なるものとされますように・・・

●全世界で、あなたの名前が崇められますように・・・

●あなたの素晴らしさを、賛美させてください・・・

●あなたはどれほど恐れ多い方でしょうか。あなたの前にひれ伏します・・・

 

 

3:御国の到来を願う

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 さて、「呼びかけ」、「賛美」の次は、「願い」に入る。しかし、自分の満たしを祈るのではない。3番目は、「御国の到来を願う」祈りだ。

 「御国」というのは、言い換えれば「天国」のことだ。「天国」といっても、大方の読者の方々が想像するような天国とは、少しニュアンスが違うと私は思っている。天国は「行く」ところではなく、「来る」ものなのである。もっと日本語的に言えば、「天国は実現するもの」なのだと、私は思っている。だから、イエスも、「天国に行けますように」と祈れと言っていない。イエスは、こう祈れと教えている。

御国が来ますように。

 

 詳しくは別記事を書く予定だが、この世の終わりに、イエスは再び地上にやって来る。そして、「新しい天と新しい地」を創造する。これが完全な「御国」、福音書では神の国と表現する状態である。では、「御国」は、いわゆる「世の終わり」まで実現しないのだろうか。私は、違うと思う。

 イエスはこうも言っている。

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです

(ルカの福音書 17:20~21)

 

 もし「御国・神の国」が、世の終わりまで実現しないのであれば、神の国はあなたがたのただ中にある」というのは矛盾してしまう。では、どういうことなのか。

 こう考えてみたらどうだろう。神の国の完全な実現は、イエスがこの地上に帰ってきて、新しい天と地を創造するときだ。しかし、そのエッセンス、その状態は、この地上でも実現可能である。神の国は、人と人との人間関係の間に実現する」と。

 「あなたがたのただ中にある」というのは、とても重要な言葉だ。人間がひとり、どんなに正しく生きても、そこに「神の国」は生まれない。人と人との人間関係の間に、「神の国」は実現する。私たち人間は、一人ひとりが「ミニ・イエスとなり、人と人が個人的に愛によってつながる時、そこに「神の国」の状態が現れる。一瞬かもしれない。不完全かもしれない。しかし、確かに「神の国」のエッセンスはそこに実現する。

 だから、「御国が来ますように」というのは二重の意味があると思う。

 ひとつは、イエスが帰ってくるのを待ち望むこと。これは、聖書にも書いてある。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 もうひとつは、今生きている地上で、「神の国」のエッセンスが実現すること。互いに愛し合うという、イエスの教えによってそれは実現する。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:24~25)

 

 何より、神の国は第一に求めるべきものである。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6:33)

 

 他の何よりも、まず「御国」を願う。そうすれば、その他の「願い」は全て与えられるのだ。だから、一番最初に祈るべき、一番重要な願いは、この「御国」なのである。

 

<祈りの例>

●あなたの御国が、早く来ますように・・・

●イエスさま、早く帰ってきてください・・・

●あなたの「御国」の一部でも、この地上で実現しますように・・・

●「神の国」が来ますように。そのために互いに愛し合えますように・・・

 

 

▼4:神の計画の成就を願う

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 ここで、不思議な言葉が出て来る。「みこころ」だ。本来の日本語にはない。簡単に言えば、「神の計画」を指す。聖書を気仙沼の方言で翻訳したことで有名な山浦玄嗣氏は、この「みこころ」を、「神様のお取り仕切り」と訳した。山浦氏がおじいちゃんなので、ちょいとばかり古めかしいが、名訳である。現代風に訳せば、「神様のご意向」とでも言おうか。「天の思し召し」でもいい。要するに、「神様の計画通りに物事が進みますように」という意味だ。

 その上で、今一度イエスの言葉を見よう。

 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 

 まず、この祈りの前提として、「天では神の計画通りに物事が進んでいる」という考えがある。未だかつて天に昇った者はいない(ヨハネ3:13)、それゆえに、天の実情は誰もわからない。しかし、かつて天にいたイエスが言うのであれば、真実なのだろう。

 問題は、この地上での神の計画の成就だ。この地上でも、神の意向がなるように、祈る必要がある。だからイエスは、「地でも行われますように」と祈るよう教えたのだ。

 日本人は、これにピンとこないようである。「神がいるなら、どうして世界に戦争があるのか」「神がいるなら、どうしてこんなひどいことが私の人生に起きるのか」・・・よく聞く疑問である。詳しくはまた別記事を書くが、神がこの世の中の基準で、何か自分に良いことをしてくれる存在だと思ったら、大間違いである。神はご利益をくれる、都合のいい存在ではない。そんなスケールで神を考えること自体が間違っている。

 聖書そのものが、神が真実であり、人のスケールで神に物申すのが、いかに的外れかを指摘している。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二 2:13)

ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師(神)を粘土(人)と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

イザヤ書 29:16)

すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」といえるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~21)

 

 人は、常に神の方向とは違う方へ進みたがる性質を持っている。世の中、なぜかそういう方向にベクトルが働いているのだ。だから、「神の計画が、天で完璧に遂行されているように、この地上でも、どうかそうなりますように。人間は神の意思とは違うベクトルに進みがちです。どうか神の計画が成就するようにしてください」という祈りが必要なのである。

 

<祈りの例>

●どうか、あなたの計画が実現しますように・・・

●自分の思いではなく、神の思いを行えますように・・・

●天では完璧な愛が満ちているように、愛がない自分が愛を実行できますように・・・

●自分にベクトルを向けるのではなく、神に、目の前の一人の人にベクトルを向けられますように・・・

 

 

▼「主の祈り」前半まとめ

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 「主の祈り」の順番は、とても精巧だ。まず、1:神に呼びかけ、2:神を賛美し、3:神の国の実現を願い、4:神の計画の実現を願う・・・。

 「主の祈り」の前半に、「自分のお願いごと」は、ほぼ入っていない。もちろん、「神の国の実現」や「神の計画の実現」が、心から自分のお願いごとになっているのであれば、素晴しい。でも、現実、人間は弱い存在だ。なかなかそうはならない。そんな弱い人間のために、イエスは、「こう祈ったらブレないぜよ」とガイドラインを与えてくれたのだ。

 次回は、「主の祈り」の後半に入る。後半の祈りは、より生活に迫る、現実的に人間が必要とする祈りの内容になる。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。