週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】どこからが「伝道」なのか?

クリスチャンはよく「伝道」と言いますが、何をしたら伝道なのでしょうか?

 

 

▼「伝道」という言葉の違和感

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 クリスチャンたちはよく、「伝道」と言う。「でんどう」と読む。電動モーターとか、熱伝導とかの「でんどう」ではなく、「道を伝える」という意味の「でんどう」である。一般的には、ほぼほぼ聞かない単語ではないだろうか。「伝道者<でんどうしゃ>」という言葉は、たまに耳にするのかもしれない。

 一般的に「伝道」は、神やイエスの救いについて伝えることを指す。日本人には「布教」といった方がなじみがあるだろうか。私個人としては、「伝道」と「布教」は違うニュアンスがあると感じる。「伝道」はイエスの救いを伝えること、「布教」は「キリスト教」という宗教の信者を増やすといったイメージがある。これは似て非なるものだ。

 「伝道」とはイエスの救いを伝えること。私はそう思っていたが、クリスチャンの世界では、どうも少し違うニュアンスでこの言葉を用いる人がいるらしい。根幹は同じなのだが、教会や団体によって、微妙に違うのだ。ある人たちは、「教会に誰かを連れて行く」のを「伝道」だと言う。ある人たちは、「道端にいる人に突然声をかけ、イエスの救いを、決められた手順で解説すること」を「伝道」だと言う。ある人たちは、「『神を信じなければ地獄へ行く』という黄色い看板を持って立つこと」が「伝道」だという。

 これでは、混乱してしまう。何が伝道で、何がそうではないのか、そもそも伝道とは何なのか。今一度考えてみようではないか。

 

 

▼「伝道」ってそもそも何?

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 まず、「伝道」とは何かハッキリさせる必要がある。実はなんとビックリ。「伝道」という言葉は、一度も聖書に登場しない。一度もだ。ただし、「伝道者」なら旧約聖書で7回、新約聖書で3回の、計10回登場する。では、それぞれの意味を見ていこう。

 

 旧約聖書の「伝道者」は、ヘブライ語「コヘレト」である。「コヘレト」は、旧約聖書に7回登場する。実は、この単語、7回全てが同じ本(※旧約聖書は39種類の本で成り立っている)で使われている。つまり、それ以外の聖書では全く出てこない、極めて特殊な単語なのである。その本の名前が、文字通り「伝道者の書」。翻訳によっては、「コヘレトの言葉」と呼ばれる、ソロモン王が書いたとされる本である。

 この「コヘレト」という単語が曲者だ。何しろ、この本でしか出てこない特殊な固有名詞で、確実な意味が分からない。日本語では「伝道者」となっているが、「コヘレトの言葉」という発音をそのままカタカナ表記した翻訳からも分かるように、本当のところは、なかなか分からないのである。英語だと、多くの翻訳が「Preacher」(説教者)と表記している。一部の翻訳(NIV)では「Teacher」(教師)と訳している。ヘブライ語辞書を見ると、「言葉を集める者」「教える者」「語る者」などの意味があるようだ。

 

 新約聖書はどうか。こちらはもっと少なく、「伝道者」は3回しか登場しない使徒21:8、エペソ4:11、テモテ第二4:5)。ギリシャ語の「伝道者」はユアンゲリテステイス」という単語で、日本人なら耳なじみのある「エヴァンゲリオン」の語源となっている単語だ。英語では、このギリシャ語から来て、evangelistsエヴァンジェリスト)と言う。

 この単語の意味は、辞書を見ると、「良い知らせを伝える人」となっている。この「良い知らせ」というのは、単純に言えば、イエスが何をしてくれたのかを指す。辞書の最後の項目には、「新約聖書使徒以外でイエスの救いを伝えた人たち」とも記されている。

 「伝道」という単語は、とても特殊で、意味を特定するのが難しい。しかし、シンプルに考えれば、「イエスのことを伝えること」が「伝道」であると定義して良い。

 

 ここまで出てきた内容をまとめると、以下のようになる。

・聖書に「伝道」という言葉は出てこないが、「伝道者」は出て来る。

・「伝道者」は10回しか登場しない特殊な単語である。

旧約聖書の「伝道者」は「語り、教える者」というニュアンスがあると考えられる。

新約聖書の「伝道者」は「良い知らせ=イエスの救いを伝える者」という意味。

・総合的に考えて、「伝道」=「イエスを伝えること」である。

 

 

▼「伝道」と「布教」は違う? ~「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない~

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 では、「伝道」と「布教」は違うのだろうか。まず日本語の辞書を見てみよう。

【伝道】

宗教的真理、または教義を伝達し広めること。特にキリスト教で、その教義を未信仰者に伝えて信仰に入ることをすすめること。ミッション。(デジタル大辞泉

教えを伝え、広めること。宗教、特にキリスト教において、その教えを未知・未信の人々にのべ伝えて、信仰を促すこと。布教。宣教。(大辞林第三版)

【布教】

・ある宗教を一般に広めること。「各地を回って布教する」「布教活動」(デジタル大辞泉

宗教を広めること。「~活動」「キリスト教を~する」(大辞林第三版)

 

 同じようだが、若干の違いが見受けられる。「伝道」は「教義」や「教え」に力点が置かれている。対して「布教」は「宗教」に力点が置かれている。ここに、日本人の無意識のうちの区別があるのだと思う。

 以下は私の意見だが、「伝道」と「布教」の違いを列挙すると以下だ。

【伝道】

・イエスがどういう存在で、イエスが何をしたか、そしてそれが個々にとってどのような意味があるか伝えること。

エスを知ってもらうことが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、どの教会に行こうが、あまり関係がない。 

【布教】

・「キリスト教」を伝えて、「キリスト教」に入信させること。

キリスト教の信者を増やすのが目的。さらに言えば、所属教会の会員数を増やすのが目的。

・伝えた相手が、信じた後に、自分の教会や団体に所属してくれないと困る。

 

 おおざっぱだが、以下のような違いがあるだろう。「伝道」はあくまでも、イエスという素晴しい存在を知ってほしくて行う。その人がその後、どうしようと神のみぞ知る。対して「布教」は、所属団体や所属教会カトリックの場合は世界共通だが)の勢力拡大が目的だ。その人が会員になってくれないと、目的達成とは言えない。似ているようだが、目的は全く逆方向のベクトルだ。

 多くの日本人が、この「伝道」と「布教」を混同しているため、イエスの話は敬遠されることも多い。無意識に「入信しないといけないんでしょ」というプレッシャーを感じているからなのだろう。多くのクリスチャンは、そのようなモチベーションでイエスの話をしているのではないと、声を大にして言いたい。多くのクリスチャンは、イエスが大好きだから、この大好きなイエスについて少しでも知ってほしいのだ!!!

 あなたにも、好きな映画や漫画、ドラマ、芸能人、趣味がひとつやふたつ、あるだろう。それについて、語りたいと思ったことはないだろうか。自分が好きなモノや、ハマっているモノや、美味しいお店なんかを、「これめっちゃオススメ!」と言いたい気持ちになったことはないだろうか。それそれ。クリスチャンは決して「キリスト教」の信者を増やしたいわけじゃない。大好きなイエスを、大好きなあなたに知ってほしいだけなのだ!!

 「伝道」の目的は教会のメンバーを増やすことではない。そんなことはどうでもいい。大切なのは、イエスが誰で、あなたのために何をしたのか、あなたに知ってほしいということだ。

 

 

▼どこからが「伝道」?

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 では、どこからが「伝道」=「イエスを伝えること」になるのだろう。教会に友達を誘ったら? 聖書の話をしたら? マニュアルに沿った聖書の解説をしたら? 神を信じないと地獄行きという看板を持ったら? 聖書を配ったら? ・・・etc。

 私なりの答えは、「全てが伝道」である。こんなこと言ったら身も蓋もないが、本当にそうなのである。「私はクリスチャンだ」と言うことすら伝道だと思う。電車の中で聖書を読むことだって、伝道になりうる。ほんの少しでもイエスの存在を示す行為ならば、それは伝道になりうる。

 ある人たちは、「伝道」に対して、若干違う印象を持っているだろう。代表的なものは、「教会に誰かを連れて行く」ことだけを「伝道」だと思っている勘違いだ。もちろん、誰かを教会に連れて行くのは、とても良いと思う。教会に行くというのは、実際にイエスを信じている人たちと出会うキッカケになるし、多くの人は論理的に聖書を理解するのではなく、人間関係のあたたかさからイエスの愛を感じるからだ。これはイエスも言っている。

わたし<イエス>はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:34~35)

 

 しかし、ある教会は「教会に誰かを連れて来る」ことだけを「伝道」と表現している。これは間違っている。そのような教会は、往々にして「このイベントには何人連れてきましょう」というノルマがある。そうなると、危ない。エスの愛を伝えたいという、「伝道」のモチベーションが、いつの間にか「何人集めなきゃ!」という「布教」のモチベーションになってしまう。こうなると、もう「愛」はなくなってしまう。こういう教会は、黄信号。このような傾向が出てきたらもう危ない教会なので、一歩退くことをオススメする。

 ある人たちは、「道端で知らない人に突然声をかけ、イエスについて話す」ことだけを「伝道」だと言う。確かに、この世の中にイエスを必要としている人は大勢いる。道端にいる誰も彼もが、イエスを知ってほしい対象だ。それ自体は素晴しい。しかし、このような手法は往々にして、一回限りの出会いになりがちだ。中には、その場では「めんどくさい」から「はいはい、信じます」と言う人もいるかもしれない。しかし、その後が続かない。イエスを伝えた相手が、その後どこで何をしているかも分からない。道端で声をかける場合、その後の人間関係の構築が重要になってくる。

 また、ある人たちは「システマチックにイエスの救いを伝える」ことだけが「伝道」だと考える。このような人たちは、小さい冊子に、完結に聖書の話をまとめて、それを使って解説する。それ自体は素晴しい。とても有益だ。長い長い聖書の要点をまとめるには、ある程度そのようなシステムによって整理する必要がある。しかし、そのシステムに頼りすぎると、ロボットのようになってしまう。慣れてくると、「要点を伝える」ことだけが目的となり、相手の目が見えなくなってしまう。まずは目の前の相手に寄り添うという、大切な視点が抜け落ちてしまう。

 

 「伝道」のカギは、「人間関係の構築」である。エスは12人の弟子をはじめ、大勢の弟子をつくり、彼らと一緒に旅をし、食事を共にし、一緒に生活し、彼らを教えた。人は人間関係を通して成長する。神は、人間を、互いに関わり、つながる存在として造った。「人間」という単語が、「人のあいだ」と書くのは、「人はつながる存在」だという真理を意味しているようで、とても興味深い。

 様々な形で「伝道」はできる。イエスを信じていると大胆に言うこと。誰かと一緒に聖書を読むこと。イエスについて語ること。日常のシンプルな疑問に答えること。必要があればイエスについて教えること。一緒に祈ってみること。一緒に教会に行くこと。バプテスマをオススメすること。車にクリスチャンぽいシールを貼ること。イベントを企画すること。聖書を要約した冊子を配ること。神を賛美する歌をyoutubeに流すこと。クリスマスキャロルを歌うこと。全てが伝道になりうる。しかし、そこに人間関係がなければ、成功しないだろう。伝道とは、一筋縄ではいかないものである。人の人生は、その瞬間だけは終わらない。地続きなのである。誰かがキッカケを与え、誰かが教え、誰かが励ます。こうやってバトンを渡していく。一回で終わらない。それが伝道なのだ。

 

 

▼「伝道」はしなきゃいけないのか?

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 「伝道」の目的は、教会のメンバーを増やすことではなく、大切なあなたにイエスを知ってもらうことだと、先に述べた。では、この「伝道」はクリスチャンになったら必ずしなければいけないのだろうか。聖書を見てみよう。

私<パウロ>が福音<=良い知らせ、イエスの救い>を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙第一 9:16)

 

 そうせずにはいられない。ここにパウロの思いが込められている。エスを知ったら、その素晴らしさのゆえに、黙っていられない!!! これこそが、「伝道」の本当のモチベーションである。

 イエスはこの思いについて、面白い表現をしている。ユダヤ人の宗教指導者たちが、「人々があなたを神だと崇めている。神への冒涜だ。だから、あなたを称賛するのをやめさせよ」とイエスに命じたことがあった。その時、イエスはこう言った。

「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます

(ルカ19:40)

 

 イエスは、「俺スゴすぎて、もし人間が俺を称賛するのをやめたら、石ころが代わりに俺のスゴさを叫んじゃうぜ?!」とまで言ったのである。自信満々。イエス半端ない!!!

 しかし、これは真理で、エスを知ると本当に黙っていられないのである。それだけイエスは、人の人生を変える力を持っている。これが伝道の一番のモチベーションになっている。この「イエス素晴らしすぎ!! 黙ってられない!! 何とかして伝えたい!!」というモチベーションは、枯れることがない。逆に言えば、それ以外の、「信者を増やしたい」とか、「教会をでかくしたい」とか、「俺が目立ちたい」とか、”不純な”動機の人々は、いつか燃え尽きてしまう。

 

 最後に、聖書にはイエスの素晴らしさを伝えるモチベーションとなる言葉が、いくつかあるのでご紹介しよう。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことなのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

(ローマ人への手紙10:13~14)

 信じたくても、情報提供者がいなければ、イエスを知ることができない。クリスチャンには、「イエスを伝える責任」がある。しかし、「信じさせる責任」はない。あくまでも、信じる、信じないは個人の選択であり、神の力なしにはできないからだ。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

 いつもイエスを伝えられるわけではない。自分のコンディションが整わない場合もあるだろう。しかし、状況が良くても悪くても、伝える責任や喜び、自分の心の内側を突き動かす衝動はあるはずだ。この聖書の言葉を思い出し、シチュエーションは言い訳にならないことを覚えておこう。

 

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としてなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

 この言葉は、「伝道」の少し意外な側面が見え隠れする。消極的伝道とも言おうか。「心の中でキリストを主とし」「説明を求める人には・・・弁明できる用意をしていなさい」とある。裏返せば、「説明を求めない人に、あえてする必要もない」とも読める。これは、消極的な日本人にとって救いでもあるのではないだろうか。

 しかし、これは同時に「だれにでも」「いつでも」説明できる用意をする必要があるという意味にもなる。クリスチャンは、常にイエスを伝える良いタイミングとチャンスに備え、心の準備をしておく必要がある。いつでも分かりやすく、イエスが誰なのか、何をしたのか、どんな存在なのか伝えられる知識的準備をしていく必要もある。何より、イエスが大好き! と胸を張って言える「生き方」をしている必要がある。

 

 あなたの「生き方」こそが、最大の伝道なのだから。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。