週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「祝祷」は牧師だけの権利なのか?!

教会の「礼拝会」に行くと、最後に牧師が両手を広げて「仰ぎこい願わくは・・・」とか言い出します。これって何?!

 

  

▼「祝祷」とは?

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 クリスチャンの教会の礼拝会に行くと、集会の最後に、牧師が前に出て来て、両手を広げてこう言う。

 

「仰ぎこい願わくは、われらの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなた方の上に、豊かにあらんことを アーメン」 

 これは、いわゆる「祝祷」(しゅくとう)と呼ばれるものだ。英語でbenediction(ベネディクション)とも言う。表現や、やり方は教会やグループなどによって多少は違うだろうが、おおむねこのような表現で行う。集会に集った人たちを祝福する、祝福の祈りである。

 根拠となっている聖書の言葉は、新約聖書の第二コリントにある。

 

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

(コリント人への手紙第二 13:13)

 なるほど、ほとんどソックリそのままだが、多少のアレンジが加わっていると分かる。この言葉は、コリント人への手紙の一番最後に記されている。最後のあいさつ代わりの、祝福の言葉である。エス・神・聖霊という、いわゆる「三位一体」と呼ばれる神の性質にも触れつつ、神の恵みと愛が共にあるよう祈る、素晴しい言葉だ。

 現代のプロテスタント教会は、礼拝会の終わりに、たいていこの言葉を用いた「祝祷」を行う。この「祝祷」自体は、素晴しい行為であり、人々が集った時に聖書の言葉を用いてお互いに祝福し合うのは、とても良い習慣だと思う。

 素晴しいと思ったので、私はある時、祈り会の最後に「じゃあ、祝祷の言葉で祈ろう」と提案した。自分ではナイスな提案だと思ったのだが、そのうちの一人がこう言った。「祈れません」と。

 なぜ? と聞いてみると、「私の教団では、牧師以外の人は『祝祷』を祈ってはいけないという決まりがあるのです」と言う。驚いた。祈りを禁じるとは。一体聖書のどこに書いてあるのだろうか。今回は、この「祝祷」問題を考えたい。

 

 

▼根底にある「祭司」との混同

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 不思議に思ったので、私は、その一人に聞いてみた。「ねぇ、なんで牧師じゃないと『祝祷』を祈っちゃいけないの?」

 彼は答えた。「理由はよく分かりませんが、教団の決まりなのです。祝祷を祈るのが赦されるのは牧師だけで、伝道師や宣教師にも許されていません」

 なるほど、明確な根拠はないらしい。話を聞くうちに、私はある事実に気がついた。「あ、なるほど。祭司と牧師を混同しているから、こういう勘違いが起きるのか」

 このブログの読者なら、結論は既にお気づきかもしれない。その通り。聖書のどこにも「『祝祷』ができるのは牧師だけ」とは書いていない。そもそも、「祝祷」という言葉自体が聖書に書いていない。ただ、第二コリントの聖書の言葉をアレンジして祈りの言葉にしただけである。ただの文化である。それを「牧師しか祈ってはいけない」というのは、全くのデタラメ、ウソもいいとこだ。恥を知った方がいい。

 なぜこのような嘘偽りのデタラメが横行してしまうのか。それは、祭司と牧師を混同しているからである。牧師は神の言葉を取り次ぐ「祭司」ではない。一旦、両方の役割を整理しよう。

 

【祭司】

・祭司の役割は、「神と人との仲介」である。

・聖書で一番始めに「祭司」と呼ばれているのは「メルキゼデク」である(創世記14:18)

広義の「祭司」は、イスラエルの民である。イスラエルの民は「祭司の王国」と呼ばれる(出エジ19:6)

狭義の「祭司」は、イスラエルの民のうち、レビ族から任命された。レビ族は、幕屋の移動や設置、きよめの儀式を司式などを担った。服装や儀式については、細かく厳しい、具体的な決まりを守る必要があった。(出エジ28章など参照)

ダビデはレビ族ではなかったが、例外的に、「王であり祭司」であった。これはイエスの伏線(型)である。

エスは、「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」である(ヘブル6:20)

エスは、「新しい契約の仲介者」である(ヘブル12:24)

・よって、現代においてもイエスが私たちの祭司である。エスが仲介者となることにより、私たちは神との永遠の交わりを与えられる。

 

【牧師】

・牧師の本来の意味は、「羊飼い」である。

・牧師は、教会という共同体のひとつの役割に過ぎない。

牧師の役割は、共同体の管理と教育である(エペソ4:11)

・「神と人との仲介」は、祭司の役割であって、牧師の役割ではない。

エスが神と人との仲介者である。牧師ではない。

<過去記事参考>

yeshua.hatenablog.com

 

 牧師の役割は、共同体の管理と教育であって、神と人との仲介ではない。それは祭司の役割である。イエスは、たった一人の、永遠の大祭司となった。私たちは、個人的に大祭司であるイエスを信じ、救いを受ける。これがクリスチャンの信仰である。牧師を通して祈るのではなく、イエスの名前を通して神に祈るのである。

 これを混同してしまうと、間違いが起きる。祭司は「レビ族」だけの特権的役割だった。牧師をこれと同じに考えてしまうから、「その資格がない、牧師でない人は、その祈りは赦されていない」という考えにつながってしまうのだ。

 ハッキリいって、これは大間違いだ。とても傲慢な、間違った教えである。牧師は祭司ではない。共同体の役割の、ほんの一部分である。それなのに、牧師を祭司と勘違いし、「牧師でない人はこの祈りはしてはいけない」などと言うなんて、一体何様なのだろうか。牧師を通してでないと神に祈れないと、一体聖書のどこに書いてあるのだろう。

 

 

▼「主の祈り」はOKなのに「祝祷」はダメ?!

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 原点に戻ろう。「祝祷」は、第二コリントにある聖書の言葉をアレンジした文言である。このように、現代のキリスト教の文化では、聖書の言葉通りに祈ることが多い。本来、祈りの言葉は個人の自由な言葉でいいのだが、聖書の言葉で祈るのは、とてもいいガイドとなる。

 聖書の言葉を用いた祈りとして、最も有名なのは、やはり「主の祈り」だろう。クリスチャンではない人も、耳にしたことがあるかもしれない。マタイの福音書とルカの福音書に記述があるが、マタイの方を紹介しよう。

 

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 イエスが、このように祈れと命じたのである。もっとも、文脈を見れば明らかだが、この文言通りという意味ではなく、「こういう内容のことを祈ったらいいよ」というオススメである(※これについては別記事を書く予定)。現代の教会では、訳は様々だが、この祈りを繰り返し暗唱するところも多い。

 

 さて、問題は、なぜ「主の祈り」は推奨されているのに、「祝祷」になると牧師だけしかダメなのかという点である。この疑問の答えはない。なぜなら、そもそも「牧師だけしか祝祷できない」という考えが間違っているからである。この疑問に答えられるなら、意見を募集したい。

 何度も言うが、「祝祷」は第二コリントの聖書の言葉をアレンジしたものであり、それ自体に何ら拘束力もないし、神聖なものでもない。ただ、素晴しい文言だというだけだ。もし、「祝祷」は牧師だけしか唱えてはいけないとするならば、それは聖書の言葉を唱えることを禁じていると同じ意味になる。聖書の言葉を唱えるのを禁じる?! 誰が何の権利があって、そんな横暴なことができるのだろうか! ハッキリ言う。そんなのは只の人間が作ったまやかしだ。ごまかしだ。ウソだ。聖書の言葉を唱えるな、なんてそんなバカな決まりは、即刻無くしたほうがいい。呆れてものが言えない。

 聖書そのものが、私たちに祈るように勧めていないだろうか。お互いを祝福することを、勧めていないだろうか。

 

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。

(ローマ人への手紙 15:30)

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。

(コロサイ 4:2~3)

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

(ペテロの手紙第一 3:8~9)

 

 牧師でなければ、他の人を祝福できない、なんていうのはキリスト教の文化が作ってしまった大ウソであり、ごまかしである。聖書に基づいて、お互いをバンバン祝福し合おうではないか。

 

 

▼オススメの「祝祷」のやり方

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 では、「祝祷」はどうすれば良いのか。私は、ずっと牧師だけが両手を広げて、まるで自分がイエスになったのかのように会衆を祝福するスタイルに、疑問を感じていた。そして、最近、自分なりの答えに出会った。

 今、私が集っている教会の礼拝会に、初めて参加したときのことだ。司会者が、こう言った。「それではみなさんで、『祝祷』を捧げましょう」そして、全員が立ち上がり、全員の口で祝祷を用いて祈った。

 

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」 

 

 正直、目からウロコだった。「そうか。お互いに祝福しあえばいいのか!」これが、私の「祝祷」に対する答えになった。お互いに、「私たちの間に、神の愛と恵みと交わりが豊かにありますように」と祈り、祝福し合う。これが、互いに愛し合う共同体のひとつの形だと、私は感じた。 

 もちろん、「祝祷」の文言を用いない、というのもひとつの方法ではある。しかし、先に述べたように、聖書の文言を用いて祈り、互いを祝福するというのは、とても素晴しいことだ。

 祈りの言葉は、本来は自由である。しかし、自分の語彙はたかが知れている。だいたい、いつも同じような表現になりがちだ。クリスチャンの世界にいると、毎回同じような祈りを聞く。「~本当に、~~本当に、~~~~本当に・・・」というふうに、何度も「本当に」というフレーズを聞いたことがあるという人も多いだろう。

 別に、語彙力がなかったり、「本当に」と繰り返すのが悪いと言うつもりはない(私自身がそうなので・・・)。しかし、聖書の言葉を用いて祈れば、さらに祈りの言葉が広がる。表現が広がる。祈りが豊かになる。実際、カトリックの人や、イエスを信じたユダヤ人たちは、「祈祷文」を使って、決まった文言で祈っている。私はそれを否定はしない。私個人としては、聖書の言葉も、自分の言葉も用いて祈るのがオススメである。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」

 このような表現を使って、お互いに「祝祷」してみては、どうだろうか。

 

 

▼おまけ:実際に祈りに使えそうな文言集

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 以下は、私がよく祈りで用いる聖書の言葉だ。高校生の頃は、これらの聖書の言葉を印刷して、壁に貼って祈っていたりもした。また、ここに書いてはいないが、全ての詩篇は祈りに活用できる。とてもオススメなので、ぜひともアレンジしながら活用してほしい。

 

こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなた方の心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

(エペソ人への手紙 3:14~21)

 

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(中略)どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

(ローマ人への手紙 15:5~13)

 

どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない物としてくださいますように。アーメン。

(テサロニケ人への手紙第一 3:11~13)

 

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を癒やし、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。

詩篇 103:1~5)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンになったら、「神社・お寺」に入っちゃいけないの?  

 クリスチャンは、神社やお寺に入ってはいけないのでしょうか? 「初詣」に行くのはどうでしょう?

 

 

▼どこからが偶像礼拝?

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 イエスを信じ、クリスチャンになると、ふとした疑問がわいてくる。「神社やお寺に入っちゃいけないのだろうか」という疑問だ。もし、宗教的でない日本の家庭で生まれ育っていれば、「初詣」や「お盆の墓参り」などは、当たり前に行ってきた「文化」であろう。では、ひとたびクリスチャンになった場合、これらの行為は、禁止されるのだろうか。

 確かに、聖書は「偶像礼拝」を禁じている。このような箇所がある。

 

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

出エジプト記 20:3~6)

 確かに、聖書にはハッキリと、「わたし以外にほかの神があってはならない」「偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」と書いてある。旧約聖書も、新約聖書も、この偶像礼拝や、ほかの神々を信じる行為を、最大の悪のように書き、忠告している。イスラエルやユダの王たちが失敗した多くの理由は、この「偶像礼拝」である。

 では、現代の日本に住むクリスチャンが、「神社・仏閣」に行く行為は、果たして「偶像礼拝」なのだろうか。お祭りは? お神輿は? 初詣は? お盆は? お焼香は? お墓参りは? どこまでが良くて、どこからが悪いのか。今回は、日本人が直面する、現実的な問題に焦点を当てて考えてみたい。

 

 

▼将軍ナアマンの姿勢

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 聖書に、「ナアマン」という将軍が登場する。彼のエピソードは、日本人にとって、とても参考になる。長いので、簡単に説明する。

 

▼ナアマンは、イスラエル人ではなく、外国の将軍だった。彼は重い皮膚病を患っていた。ある日、召使いの少女が、こんなふうに言った。「イスラエルにいる預言者なら、きっとその皮膚病を治してくれるでしょう」。ナアマンは、ワラをもつかむ思いで、仕えている外国の王を通して、イスラエルの王に手紙を書いた。

▼こうしてナアマンは、預言者エリシャのもとにやって来る。預言者エリシャは「ヨルダン川で7回、体を洗いなさい」と命じる。

▼ナアマンは、馬鹿にされたと思って、激怒して帰ろうとする。ナアマンの部下たちが、必死でなだめ、ナアマンはなんとか「念の為やってみるか」という思いで、ヨルダン川で7回、体を洗った。

▼すると、どんなことをしても治らなかった皮膚病が、たちまち治ってしまった。ナアマンは驚き、イスラエルの神、主を信じた。

 と、まぁこんな話である。このナアマンが唯一の神を信じた後に言った言葉が、非常に印象的だ。

 

ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人(預言者エリシャ)のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。(中略)しもべはこれからはもう、主(神)以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモン(外国の神)の神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように

エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。

(列王記第二 5:15~19)

 ナアマンは、外国の将軍だった。しかし、奇跡的な体験をして、イスラエルの神である「主」を信じた。彼は、自分が信じてきた外国の神(リンモン)に、自分からはいけにを献げないと決心する。

 しかし、ひとつの懸念があった。それは、彼が仕える王様が、外国の神、リンモンを信じていたからだ。ナアマンは、そこで王の腕を支える役目があった。リンモンの神殿にも入るし、膝もかがめる。ナアマンは、誠実に、大真面目に、リンモンの神殿で膝をかがめることを告白し、赦しを求めた。そして、預言者エリシャは「安心して行きなさい」と、ナアマンに告げた。これがことの顛末である。

 

 つまり、「外国の神の神殿に入ること」「そこで膝をかがめる=礼拝のポーズをとる」ことは、「赦されて」いるのである。これは、非常に興味深いポイントである。

 

 ナアマンの話を読むと、「行為」ではなく、「心」に重点が置かれていると分かる。いけにを献げないというナアマンの決心は、神殿での行為が、本心のものではないと表している。ナアマンの主張は、「仕事上、やらなければならない行為なんです。不可抗力なんです。本心ではありません。だから赦してください」という歎願であった。

 ナアマンは信仰を持った後に、彼のそれまでの職務を放棄しなかった。面白いポイントだ。ナアマンは、将軍をやめて、神殿に入らないという選択もできた。しかし、彼はそうしなかった。現代社会では、信仰を持った後に、「日曜日に教会に行けないから」という理由で、仕事を辞めてしまう人も多い。もちろん、それもひとつの立派な信仰の表現だ。否定はしない。しかし、「今、自分が置かれている環境で、信仰者として精一杯、誠実に職務をこなす」というのも、ひとつの道ではないか。私は、そんな人を応援したい。

 この日本社会で生きていると、ナアマンのように「不可抗力」で本心ではない行動を取らないといけない場面も多いだろう。例えば、上司が亡くなった時、仏式のお葬式に出席しなければならない時がある。その時、お焼香をするのは、クリスチャンとしてどうかという葛藤は、もちろんあるだろう。しかし、私はナアマンのような信仰をもって、堂々と、その上司、そしてそのご家族に対して誠実に、儀式としてのお焼香をするのはアリだと思う。大切なのは心なのだ。お焼香というポーズをとりながら、神に祈ればいいのではないか、と、私は思う。

 もちろん、クリスチャンとして、どうしても仏式のお葬式には出席したくない、という信仰のスタイルを持つ人もいるかもしれない。それはそれで尊重したい。しかし、クリスチャンであるならば、その旨をしっかりと説明し、何かしらの形で、残されたご家族への愛の心を示す必要があると思う。結局、自分を守りたいのか、相手をケアしたいのか、その心のベクトルの違いである。

 

 

シャーマニズムによる「霊的に汚れる」というウソ

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 一方で、「神社・仏閣に入ると、霊的に汚れる」という主張をするクリスチャンたちもいる。このような主張を聞くたびに、私は心からため息が出る思いだ。「悪霊によって汚れる」なんていうのは、シャーマニズムが盛んな国が、クリスチャンの信仰と土着信仰を混ぜてしまった結果起こる間違った信仰である。

 聖書には、こう書いてある。

 

さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。(中略)私たちには父成る唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(中略)しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。(偶像に捧げた物を)食べなくても損にならないし、食べても特になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

(コリント人への手紙第一 8:4~8)

 そもそも、唯一の神以外には神は存在しない新約聖書の時代は、偶像へのいけにえとして捧げた動物は、からだが汚れるから食べてはいけないという価値観があった。仏壇に備えた白米とか、お餅とか考えればわかりやすいだろう。しかし、パウロ「そんな神、どうせいねえんだから、食っても食わなくても一緒!」とバッサリ切ったのである。しかし、それを食べちゃいけないと思っている人もいるから、思いやりの心を持とうね、というのがこのコリントの手紙のポイントだ。

 もちろん、一定の配慮は必要だ。しかし、本当に相手のことを考え、配慮するなら、ただ黙って見過ごすのではなく、「そんなもので、あなたは汚れないよ、大丈夫だよ」と、きちんと教えてあげるべきだ。

 預言者イザヤの書に、はっきりと偶像の無力さについて書いてある。

 

偶像を造る者はみな、空しい。彼らが慕うものは何の役にも立たない。それら自身が彼らの証人だ。見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。見よ。その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。(中略)それは(木材のこと)人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。また、温まって、「ああ、温まった。炎が見える」と言う。その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。「私を救ってください。あなたは私の神だから」と。

イザヤ書 44:9~17)

 

 さらにイエス自身も、このように言っている。

 

エスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」

(マタイの福音書 15:16~20)

 ユダヤ教では、「手を洗わないまま食べると、汚れる」という教えがあった。しかし、イエスは、「食ったもんは、どうせウンコになるんだから、気にするな。でも、本当に悪いものは、心の中からでてくるんだ。そっちに気をつけろ」と言ったのである。神社・仏閣に入ると「霊的に汚れる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。その前に、自分の心の中を吟味した方が100倍いい。

 勘違いしてほしくないのは、私は「悪霊」がいないと言っているわけではない。悪霊は、確かに存在する。ほとんどの場合、悪い思いは、自分の心の中に住み着いている。しかし、それらは「神々」ではない。権限を何も持っていない、大したことない存在だ。クリスチャンは、神の愛に引き寄せられた存在である。悪霊は、私たちに対して何の権力も持っていない。聖書にこう書いてある。

 

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ人への手紙 8:38~39)

 つまり、「どんなものも、神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のである。ましてや、「神社・仏閣」に行って、そこで手を叩いたからといって、何ら影響力はない。

 もちろん、自分の心が神から離れないように、用心は必要である。毎日、自分の心のチェックは必要だ。しかし、本当に気をつけるべきは「心の動機」であって、どこに行くとか何をするかではない。シャーマニズム教クリスチャンたちが言うように、「悪霊」なんかをいちいち気にしているようでは、まだまだ神の愛への信頼が足りない、と私は思ってしまう。彼らは、私たちに対して、何の影響力もないのだから。

 

 無論、本当に神道の神々を信じて、神社に行ったらダメだ。例えば、受験の成功を願いに神社に行ってお願いごとをしたら、それは完全にアウトである。受験に成功したかったら、勉強せよ! ホンマ・・・。

 

 

▼神は「生きている者の神」~日本人が直面する「お墓問題」~

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 「クリスチャンになったらお墓はどうすればいいのか?」これは、日本人なら誰もが直面する問題である。私なりの回答は、「どうでもいい」である。

 その最大の理由は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからである。

 

エスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です

(マタイの福音書 22:29~32)

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現の意味については、様々な意見があり、これだけで記事が書けてしまうので、今回は多くは語らない。ポイントは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」というところだ。

 このイエスの言葉は、「サドカイ派」と呼ばれるユダヤ教の一派の人たちへ向けられた言葉だ。サドカイ派は「肉体の復活」も「霊的な復活」も否定していた。エスは、はっきりと「死人の復活」を肯定した。つまり、私たちは死んだら必ず「復活」するのである。

 それが今の肉体をもってか、はたまた霊的なフワフワしたものかは、議論のあるところだ。ユダヤ教の人々は、死んだ後の体がそのまま起き上がってくると信じている。分かりやすく言えば、「きれいなゾンビ」みたいに埋葬されたそのままの場所と姿で起き上がってくる、と信じている。だから、彼らにとっては「土葬」は当たり前。燃やしてしまうと、復活の体がなくなってしまうからだ。彼らは、「オリーブ山」という山に、いつの日かメシアが来ると信じている。ゆえにオリーブ山は、お墓の一等地で、山の斜面にずらりとお墓が並んでいる。肉体が復活した後に、メシアにすぐ会えるからだ。

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↑オリーブ山の斜面(撮影:わたし)

 しかし、イエスは、「復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようだ」と言った。御使いは、基本的には目に見えない(アブラハムに現れたように、目に見える状態の場合もある)。めとることも、嫁ぐこともない。今の人間の肉体とは、明らかに違った状態で復活すると分かる。

 私は、肉体が残っていなくても、復活できると信じる。神の力はそんなにヤワなものではない。チリひとつに息を吹きかけて、アダムを造ったお方である。骨から肉を生じさせる主である。イエスのからだをそのまま復活させた神である。死体がたとえチリになっていようと、灰になっていようと、どこからでも復活させられるのが神の力だ。

 つまり、自分のことだけを考えるならば、お墓はどこでもいい。埋葬方法も土葬でも火葬でも鳥葬でも構わない。それが見かけが白く塗った墓でも、仏教墓地でも、石に十字架の形が彫ってあっても、本質的には何も変わらない。残るのは、「どういう心でどういう生き方をしたか」だけだ。いつまでも残るものは「信仰と希望と愛」だけなのだから。

 

 しかし、墓は、「残された、生きている者」にとって重要である。自分の信仰が、墓という形で、残された者たちに残る。自分の子孫が神を知るキッカケの少しにでもなるかもしれない。だから、信仰を形に残すという意味でも、キリスト教式の埋葬は「オススメ」ではある。一方で、残された人の関心事が、神ではなく、死人の偉大さになってしまう危険性もある。某お隣の国では、死んだ牧師の「何回忌」とか馬鹿らしいことをやっているが、それこそ人を礼拝する偶像礼拝だろう・・・。

 聖書は、葬式は「生きている者の為のもの」と言っている。

 

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。

(伝道者の書 7:2)

 埋葬されるお墓が仏式でもキリスト教式でも、本質は変わらない。よく、「家族と一緒の墓に入れないのか」という人がいるが、お墓が物理的に一緒になっても意味がない。イエスを信じなければ、復活した後、永遠に離れ離れなのだ。お墓の心配をするより、永遠を神とともに過ごすのか、それとも神と離別され永遠に苦しむのか、その行き先を心配した方がいい。

 個人的には、仏式のお墓に入るのは避けたいし、信仰があるのにどうしても仏式のお墓に入る理由は見つからない。しかし、特別な事情があれば、それは個別の回答があるだろう。私自身は、別に死体を燃やした灰を、海に撒いてもらっても構わないと思っている。結局は、個々がそれぞれの状況に合わせて、最も「心から神に従った」と言える判断をすれば、それでいいのだと思う。

 

 

▼おまけ:オリエンタリズムと戦え

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 他にも、日本にいるクリスチャンは、様々な文化に直面する。豆まき、ひな祭り、夏祭り、七夕の短冊、お盆、秋祭り、どんど焼き(田舎だけ?!)、除夜の鐘、などなど・・・。日本には、いろいろな文化、宗教が入り混じっている。

 クリスチャンは、それらのお祭り文化に、どう対応すえるべきだろうか。正直に言って、私の意見は「どうでもいい」である。前述した通り、それらはクリスチャンと神の結びつきに対して、何の影響力も持っていない。豆をぶつけられても、ひな壇を家に飾っても、七夕に願い事を書いても(まさか本気で信じている人は少数派だろう)、それらは何の意味もない。豆をぶつけられたら痛いし、ひな壇は飾ったらきれいだし、子供が短冊に願い事を書いたらカワイイ。ただそれだけの話だ。大切なのは、「どこでラインをひくか」である。私は、そのような文化は、地元地域の人との交流のチャンスだから、どんどんやったらいいと思う。その中で、本物の神がいかに素晴らしいか、イエスに信頼することが、どれほど希望に満ちたものか語ればいいと思う。

 実際、私の地元の教会は、「お祭りに店は出さないが、雨宿り場所として教会の建物を開放する」というラインをひいた。その結果、大雨が降り、地元の多くの人に教会の存在を知ってもらえた。クリスマス同様、文化はうまく利用しちゃえばいいのだ、と、私は思う。

 

 日本人は、宗教に対して、非常にゆるやかな考えを持っている。初詣で神社に行き(神道)、結婚式を教会で行い(キリスト教)、葬式は仏式(仏教)で行うくらいだから、そのテキトーさがうかがえる。もちろん、そうでない人もいるだろうが、私のように全く信仰心も何もない家庭で育つ人が、大半なのではないだろうか。以前、「私はクリスチャンです」と言ったら、とある美容師さんが、「あ~私仏教なんですよ~」と言った直後に、「神社とか好きですし」と言っていたのは正直、笑ってしまった。神道と仏教の違いも分からない、多くの日本人には、その程度の”信仰”しかないわけだ。

 しかし、日本人は宗教に対して無関心でもなく、無神論者でもない。これについては別の機会に語るが、「空気を読む」という言葉を広めた評論家の山本七平は、これを日本教と名付けた。山本七平は、「なぜ日本人はキリスト教を信じないのか」という目線から、徹底的に日本・日本人を研究をした学者である。彼の著作は、非常に面白いので、興味のある方はぜひ読んでいただきたい。

(個人的オススメ:「日本人とユダヤ人」「空気の研究」「日本人の人生観」「聖書の常識」)

 

 「日本のお祭りは、日本特有の文化でしかなく、偶像礼拝とはとても言えない」。これは、日本人が聞けば当たり前に思う。しかし、そう思えるのは、「これはどうせ文化で、何の意味もない」と思っている日本人特有の前提があってこそだ。外国人宣教師たちにとっては、そう捉えるのがどうも難しいようだ。

 特に、西洋の人たちは、日本人の信仰のいい加減さを理解できない。彼らは、どうもあの「神社」にスーパーナチュラルパワーがあると思っているらしい。豆まきをすることが、神への冒涜だと思っているらしい。短冊に願いごとを書く行為が、偶像礼拝だと思っているらしい。何度、外国人の宣教師から、「日本人が偶像礼拝をやめるように祈っている」と言われたことだろう。面倒くさいので、いちいち否定はしていないが、それを聞くたびに、「ああ、まだ日本人というものを分かってもらえていないんだなぁ」と感じる。

 彼らは、オリエンタリズムという病気に侵されている。これは、日本人にとっては、ショッキングな事実だ。いや、彼らにとってはもっとショッキングかもしれない。しかし、これは紛れもない事実だ。

 オリエンタリズムとは何か。

 

オリエンタリズム】(Orientalism)

東洋研究または東洋趣味を意味する概念として使用されてきた言葉だが,アメリカの文学者 E.W.サイードが同名の著作 (1978) を発表してから植民地主義的な思考の総体を意味するようになった。東洋(第三世界) についての観念は同地域の現実を客観的に表象したものではなく,植民地支配を正当化するために西欧の側から一方的に強制された差別的な偏見の総体とされる。受動性,肉体性,官能性といった異国情緒的な東洋イメージは西欧文明の優位性を保証すると同時に,現実の植民地支配を合理化する根拠としても利用されたのである。

 わかりやすく言えば、西洋の人は、われわれ東洋人に対して、「無意識の優越意識を持っている」のである。もっと単刀直入に言えば、彼らはわれわれを「東洋の文化的に遅れているサル」だと思っているのである。これは、悲しいが事実だ。ヨーロッパでは、まだまだ根強く残っている。欧州に行ったことがある人は、うなずいていただけるかもしれない。

 そして、私は批判を恐れず大胆に言うが、「宣教師として来る人ほど、この傾向が強い」のである。これは、完全に私の経験・体感をベースにした一方的な言い分なので、異論、反論、疑問、質問は大いに歓迎したい。しかし、彼らからは、本気でオリエンタリズムからの優越感を感じる時がある。もちろん個人差はおおいにあるが、これを感じる時、毎回悲しく思う。

 日本に来ている宣教師、または宣教師になろうとしている人にお願いだ。我々は、「日本人」である。中国人でも、韓国人でもない。「日本人」がどういう民族か、まず知ってほしい。「おまえらが英語を話せ」という姿勢ではなく、日本語を身に着けてほしい。アメリカや中国や韓国で成功した方法を、日本に押し付けないでほしい。この悲しい島国の言語と文化と背景を理解しようという姿勢を見せてほしい。これほど福音を必要としている国はない。あなたたちだからお願いしたい。どうか、私たちを理解してほしい。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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日本人とユダヤ人」(角川文庫ソフィア)イザヤ・ベンダサン山本七平)著 1971/9/30

http://amzn.asia/d/6EqrVxS

 

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オリエンタリズム」(平凡社エドワード・W・サイード 1993/6/1

http://amzn.asia/d/2YxHKeE

 

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「賛美歌・聖歌」じゃなきゃ賛美じゃないの?

教会によっては、「賛美歌」の歌集の歌じゃないと賛美じゃない、っていうところもあるみたいです。そもそも「賛美」って何なのでしょうか・・・??

  

 

▼「賛美歌」じゃなきゃ賛美じゃない・・・?

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 教会に行くと、様々な音楽のスタイルと出会う。伝統的なアカペラやオルガンで歌うスタイルもあれば、ギターやドラムなどを用いたバンドスタイルの、コンテンポラリーなものまで様々だ。どの歌い方にも趣があり、それぞれの良さがある。

 教会によっては、「賛美歌」や「聖歌」と呼ばれる歌集を使っている。なんと、教会によっては、この「賛美歌」や「聖歌」の歌集に入っている歌しか、「賛美」と認めないところもあるようだ。聞くところによれば、それ以外の歌は、「準賛美」とか、「準備賛美」と呼ばれるらしい。私は、そのようなバックグラウンドの教会で育たなかったので、その話を聞いた際、こう思った。まるでエホバの証人みたいだな、と。

 私は、かつて「エホバの証人」のメンバーだったことがある。その時は「エホバの賛美歌」以外の歌を口にするのは禁じられた。学校の校歌も口パクしていたのを覚えている。そこまでやるのは、やりすぎだと分かるだろう。しかし、現実にプロテスタントの教会も、本質的には同じことを行っているのではないだろうか。

 何が賛美で、何が賛美ではないのか。そもそも、「賛美」とは何なのだろうか。今回は、「賛美」とは何か、を焦点に記事を書く。

 

 

▼「賛美」の語源

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 旧約聖書には、詩篇を筆頭に、さまざまな賛美の歌が収録されている。「ほめたたえよ」「あがめよ」「賛美せよ」などなど、旧約聖書には、たくさんの賛美の表現がある。実は、賛美を表すヘブライ語の単語はひとつだけではない。聖書の登場人物は、実に様々な種類の単語を用いて神をたたえている。今回は、その中で代表的なものを8つ挙げて説明する。

詩篇63篇は、この賛美のスタイルを学ぶのに適したテキストである。後述するが、詩篇63篇に登場する単語には、その箇所を書いた)

 

1)テヒラー(תהלה

歌う、公共の場で賛美をする、アナウンスする

(「詩篇」自体のヘブライ語が、これの複数形「テヒリーム」)

2)トーダー(תודה

感謝する、告白する

3)ザマール(זמר

ほめ歌う、楽器を演奏する

4)バラーフ(ברך

祝福する、ひざまずく、敬礼する、ほめたたえる(63:4)

5)ヤダー(ידה

手をあげる、感謝する

 6)サバーフ(סבח

ほめる、自慢する(63:3)

 7)ラナンרנן

喜ぶ、叫ぶ、泣き叫ぶ、喜びのあまり歌う(63:7)

8)ハラル(הלל

輝く、賛美する、自慢する、気が狂ったように叫ぶ。

「ハレルヤ」は、「ハレル+ヤ(神の意)」である。(63:5,11)

 

 全てが神を賛美する単語であるが、微妙に意味が違う。実は、聖書には他にも様々な形で神を賛美する単語がある。全てを羅列すると辞書の索引みたいになってしまうので、今回は避ける。

 読んでいただければ分かると思うが、賛美には様々なスタイルがあった。歌を歌う場合もあれば、楽器を演奏する場合もあり、泣き叫ぶ場合もあり、手をあげる場合もあり、静かにひざまずく場合もあった。歌うだけが賛美なのではなく、主の前にひざまずいて静まる、というのも立派な賛美のひとつなのだ。

 こう見ると、「この歌だけが賛美歌であとは、認められない」という考えは、ちょっとトンチンカンだな、というのは誰でも分かるだろう。大切なのは、どのような心で神を素晴らしさを宣言するかであって、どんな歌や行動でも、それを表すのは可能なのだ。

 

 

▼力の限り跳ね回ったダビデ

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 聖書の登場人物は、実に様々な方法で神を賛美した。賛美の第一人者、ダビデ王は、「神の箱」(お神輿的なもの)がエルサレムに戻ってきた際、気が狂ったように踊りまくった。

 

ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデ(祭司の衣装)をまとっていた。ダビデイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。主の箱(お神輿的なもの)がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカル(ダビデの妻)は窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。

(サムエル記第二 6:14~16)

  考えてみてほしい。王様が、力の限りジャンプして、ジャンプして、ジャンプして喜び踊ったのだ。裸で。人の目も気にせず。そのダビデ王の姿を見て、イスラエルの民は歓声をあげ、楽器を吹き鳴らして、喜び踊った。

 ダビデの妻のミカルは、それを見てドン引き。ミカルは、心の中でダビデをバカにした。おまけに、その後で嫌味まで言ってしまった。一見、ミカルが悪者のように見える。しかし、逆に言えば、ダビデは周りの人がドン引くくらい、「力の限り跳ね回った」のだ。ダビデは、それほど、全身全霊をかけて、神の存在を喜んだのであった。

 旧約聖書の最後の本、「マラキ書」にはこう書いてある。

 

しかしあなたがた、私の名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

(マラキ書 4:2)

 神に出会うと、それまでの傷ついた心が癒やされる。イエスに出会うと、それまで自分を縛っていたものから、解放される。それゆえ、クリスチャンはその喜びを噛み締めて、子牛のように、跳ね回って、喜び踊って、泣き叫びながら、神を賛美するのである。そこに、日本人特有の恥じらいはない。なぜか。神に変えられた後は、人の目を気にする必要はないからだ。関心のベクトルが、「自分がどう見られているか」よりも、「神に対する感謝と喜び」に変わるからだ。

 私が関係のあった、とある教会では、文字通り泣き叫びながら、跳ね回って賛美する女性たちがいた。誰かがふざけて、このマラキ書の箇所になぞらえて、彼女たちを「コウシーズ」と名付けたのを覚えている。彼女たちは、ひと目もくれず、文字通り跳ね回って神を賛美していた。その姿はまことに麗しかった。

 もちろん、「神の前にひざまずいて、静まる」というのも、ひとつの「賛美」のスタイルである。それは、前項目のヘブライ語からも明らかであろう。私の意見では、各々が、自分が一番神に感謝の気持ちを表せるスタイルで賛美すればいい。私自身は、力の限り跳ね回るスタイルが、自分に合っているので、できればそうしたい。しかし、教会の集会の中では、他の人も各々のスタイルで賛美している。その人たちが賛美するスタイルを邪魔しないように、私は、適切な表現の仕方で、賛美するよう工夫している。集会の秩序を保つのも、「愛」のひとつの表れである。

 

 

▼「賛美歌・聖歌」問題 ~楽器はどこまでOKか~

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 さて、本題の「賛美歌」や「聖歌」でなければ賛美ではないのか? という疑問に戻る。答えは、もちろんNOだ。「賛美」自体にも色々な表現がある。「歌」というのは、賛美のほんの一部だ。踊ったり、跳ねたり、手をあげたりするのも賛美のスタイルの一部だ。そこに優劣はない。言い換えれば、ライフスタイルそのものが「賛美」なのである。

 現代のコンテンポラリー音楽は、サタンの音楽だ、という人がいる。ドラムを用いるなんて、賛美とは言えないという人がいる。とんでもない。比較的、厳かで、「聖なる」印象のある、オルガンを用いた「聖歌」も、宗教改革の当初は「悪魔の音楽」と形容されたという。賛美に楽器を用いるなんて、とんでもないという価値観が、当時はあったのだ。礼拝会に会衆賛美を用いるようになったのは、ルターの時代以降であった。

 今現在、「正当・伝統的」と思われている賛美のスタイルも、実は歴史的に見れば、新しいものなのである。なぜその当時の新しいものは良くて、今の時代の新しいものは拒絶されるのか、明確な根拠が分からない。どんな音楽スタイル、または音楽でなくとも、賛美になりうる。神が見るのは形ではなく、心だ。どんな心で神に迫るのかが、一番大切なのである。

 そもそも、音楽を用いた賛美は、はるか昔、アダムとエバの直後の時代から始まっていた可能性がある。こんな箇所がある。

 

(カインの子孫の話の流れで・・・)その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。

(創世記4:21)

 このユバルの立琴と笛が何のために用いられたかの記述は、聖書にはない。しかし、楽器を使うというのが、はるか昔から行われていた文化だというのは分かる。アダムは800年生きたとあるから、この時まだ存命だったかもしれない。

 ほかにも、ダビデ王の時代に、歌や楽器に熟練した者たちが、賛美の担当を担っていたと分かる箇所がある。実に、たくさんの楽器が登場する。

 

歌い手ヘマン、アサフ、エタンは、青銅のシンバルを鳴らした。ゼカリヤ、アジエル、マアセヤ、ベナヤは、『アラモテの調べ』にのせて、琴を奏でた。マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベデ・エドム、エイエル、アザズヤは、『第八の調べ』にのせ、竪琴に合わせて指揮した。レビ人の長の一人であるケナンヤは歌唱を担当し、歌唱を導いた。彼はそれに通じていたからである。(中略)・・・イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げた。

(歴代誌第一 15:19~28)

 彼らは、長い聖書の中では、「誰やねん」という存在ではあるが、聖書に名前がハッキリと明記された、「賛美リーダー」だ。また、これらの歌や楽器を担当する者たちは、技術的にも、熟練した者たちであったと分かる。

 

これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の身やで歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった彼らの同族の数は288人であった。彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。

(歴代誌第一 25:6~8)

 ここから分かるのは、様々な楽器があったこと。歌や楽器の訓練を受けていたこと。師匠や弟子がいたことである。たまに、「賛美は心だから、技術は重要ではない」という意見も耳にする。「賛美は心」だというのは、ごもっともだ。しかし、「最高の賛美を捧げたい」という思いで、歌や楽器を練習し、熟練した者となって、神にハイクオリティな音楽を捧げたいと思うのは、とても大切な「心」である。良いものを捧げたアベルは、適当に捧げたカインよりほめられたではないか。ユダヤ人は、未だに神に捧げるものに傷がついていないか、入念にチェックをする。賛美のために、歌や楽器を練習し、高い技術力をもって神を賛美する人々を、私は尊敬する。

 

 ライフスタイルそのものが賛美である。「賛美歌」や「聖歌」といった、たかだか数百年の、人間が作った歌集にこだわらず、もっと幅広い目線で賛美を捉えたらどうだろうか。詩篇では、「新しい歌を主に歌え」と何度もオススメされている(例:詩篇33:3)。新しい賛美の歌を、どんどん作って、歌っていこうではないか。神の素晴らしさ、その偉大さを目の当たりにして、体験する時、立ち上がって、喜び踊り、涙を流さずにはいられないのだから。

 

 

詩篇63から分かる「苦しい時こその賛美」

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 さて、前述した詩篇63篇は、以下である。実に学ぶ要素がたくさんある。

 

神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ、私の唇は、あなたを賛美します。それゆえ私は、生きるかぎりあなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。脂肪と髄をふるまわれたかのように、私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で、私の口はあなたを賛美します。床の上で、あなたを思い起こすとき、夜もすがら、あなたのことを思い巡らすときに。まことに、あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私を支えてくださいます。

詩篇63:1~8)

 

 賛美の表現が、この詩篇にはたくさん隠されている。「あなたを切に求めます」「私のたましいは、あなたに渇き」「あなたをあえぎ求めます」「あなたを仰ぎ見ています」「私の唇は、あなたを賛美します」「生きるかぎりあなたをほめたたえ」「両手を上げて祈ります」「私の口はあなたを賛美します」「喜び歌います」などなど・・・。前述したヘブライ語のいくつかも、この詩篇では登場する。まさに、全身全霊をかけて、様々な方法、表現で神を賛美していたのである。

 注目すべきは、この箇所だ。

 

水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

詩篇63:1)

 この詩篇の筆者は、「乾いた地」を、「聖所」と表現している。実は、この詩篇の作者がいる場所は、「水のない」「衰え果てた乾いた地」なのである。人間的には、決して、神の恵みを感じられないような、そんな乾いた所だ。

 詩篇63篇のタイトルは、「ダビデの賛歌。ダビデがユダの荒野のいたときに」となっている。ユダの荒野というのは、岩地の荒野だ。実際に行った時に、写真を撮ってきた。

 

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 見渡す限り、枯れた岩地が続く。ダビデがいたのは、このように、文字通り水もなにもない荒野である。人は水を飲まないと死ぬ。指すような日照りが、ダビデを襲っていたことだろう。

 しかし、ダビデはこう宣言した。「私のたましいは、あなたに渇き」と。彼が乾いた時、本当に欲したのは、水ではなかった。神ご自身だったのだ。私たちは、この姿勢に、「苦しい時こそ、神ご自身をほめたたえる」という、賛美の本質を見る。

 イエスも、本当に人の心を満たすのは、物理的な水ではなく、イエス自身だと言う。

 

エスは答えられた。「この水(井戸の水)を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」

ヨハネ福音書 4:13~14)

 

 もうひとつ注目すべきポイントは、「聖所で」という言葉だ。この場所は、神を礼拝する幕屋でも、神殿でもなかった。なにもない荒野だ。渇ききった砂漠のど真ん中で、この詩篇の作者は、「こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ているます」と宣言する。

 詩篇の別の場所では、こう書いてある。

 

あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

詩篇22:3)<新改訳第三版>

 ダビデは、荒野の中で賛美し、そこを「聖所」と表現した。それは、神ご自身が、賛美の中に住まうと、彼が悟ったからであった。

 イエスも、実にこのように言っている。

 

エスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

ヨハネ福音書 4:21~24)

 イエスは、礼拝する場所が重要ではなく、「御霊と真理」が大切だと言った。「御霊と真理」が何かを語ると、それだけでいくつも記事が書けてしまうので省くが、要するに、(少し乱暴だが)その心が大切だと言ったのだ。

  私たちは、どんなに苦しい状況であっても、神の存在をそこに見出し、神に拠り頼む。そして、歌や踊りや、生き方の全てをもって、神をほめたたえる。場所や状況は関係ない。賛美があるところに、神の存在もあるのだから。

 

 

▼おまけ 「特別賛美」というシステム

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 さて、クリスチャンの集会には「特別賛美」という特殊なプログラムがある。集会の流れは、ざっくり言うと、はじめに賛美の歌を何曲か歌い、その後、牧師か誰からの話があって、その後また何曲か歌って終わる、というものが多い。

 「賛美」は、全員で歌う場合が多いのだが、この「特別賛美」というものが始まると、途端にコンサートちっくになる。それまで全員で歌っていたのに、急に一人か二人が前に出てきて、歌や音楽を披露するのだ。

 私は、この「特別賛美」を否定しない。前述した通り、神によりよいものを捧げたいという気持ちで楽器や歌を極めるのは、良いことだと思うからだ。しかし、それが賛美ではなく、ただのコンサートになってしまっていないか。心が神に向いているのかどうか、常に吟味が必要であろう。確かに、それまで全員で歌っていたのに、急に独奏がはじまるのだから、少し違和感があるのも正直なところだ。初めて教会に来た人が、混乱しないための工夫も必要である。

 それは、会衆賛美にも同じことが言える。賛美をリードする者たちは、常に自分ではなく、神がほめたたえられるような心持ちと工夫が必要だ。最高の賛美リーダーは、誰がどういうリードをしていたか忘れさせる、「透明なリーダー」だと、誰かが言っていた。人に栄光を返さず、ただ神のみを見るのは、容易ではない。しかし、全てを忘れて、ただ神のみを賛美しつづけた時、本当の喜びに包まれる。その賛美の瞬間を少しでも味わいたいものである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(後編)  

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文・後半です。

★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「聖書と政治」の前半まとめ

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 前半の記事では、「教会と政治との関係」「弱者に寄り添ったイエスの姿」の2つのポイントから書いた。教会は世界から「区別」された共同体であり、その目的は究極的にはこの世の中にはない。ゆえに、「教会」という共同体単位としては、一定の政治的思想を、信者に押し付けるべきではない。

 エスは、「弱者」に寄り添った。それは弱者という「個人」に寄り添ったと同時に、彼らの「社会的立場」にも寄り添ったのである。弱者に寄り添うという視点で社会を見る時、政治とは必ずしも無関係ではいられない。大切なのは、どういう動機で政治に関わるかである。

 

 

▼3a:クリスチャンは、現実の政治にどう関われば良いのか

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 クリスチャンは、現実の政治をどう見て、どう政治と関われば良いのか。ボウカムは、まず私達に次のように警告する。

 

私たちと同時代の世界の文脈において本文を解釈するには、いくつかの危険がある。一つは私たちがあらかじめ考えている態度や計画を支持するために、本文を操作する危険である。これは聖書を政治的に使用するときの無意識の誘惑である。

なぜなら、聖書的権威は、政治的政策を正当化するためにたいへん有益な源となり得ることがあり、また私たちにとって、しばしば自らの政治的態度について自己批判的であることは難しいからである。聖書によって私たちの政治的態度が挑戦され変えられることは、私たちが思う以上に難しい。(P.56)

 クリスチャンは、自分の主張を裏付けるために、聖書の言葉を探す。この際、自分の主張を聖書によって正当化してしまう危険性がある。自分の主張が、聖書からくるものなのか、内心からくるものなのか、判別するのはとても難しい。聖書の「一部分」だけを抜き出すと、その危険性は増す。

 例えば、旧約の律法に「殺してはならない」と書いてあるから「戦争反対」と主張する人たちがいる。彼らは、同じ旧約聖書で神が「聖絶せよ」と命じ、イスラエルの民が戦争をした事実を意図的に無視している。これは極論だが、こう考えれば、短絡的に「戦争反対」「武力を持つのは罪」と言えないだろう。聖書全体で考えれば、「武力」の考え方については、深い議論になるのは当然である。聖書の一部分を抜き出し、短絡的な政治主張に結びつけるのは危険だ。

 ボウカムは、旧約聖書の基準について、このように述べている。

 

すなわち律法と預言者旧約聖書)は、私たちの政治生活への「指南書」にはなり得ないが、私たちの政治生活に対して「教訓的」であり得る。その教えを直接私たち自身に適用することはできないが、神がご自身の性格と目的を、イスラエルの政治生活において示される方法から、いかにそれが今日の政治生活に表されるべきかについて、何かを学べるかもしれない。(P.38) 

 旧約聖書は、私たちに「教訓」や「指針」を与える。神のキャラクターを知るエッセンスがある。しかし、それが今日の政治生活に、そっくりそのまま当てはめられるわけではない。あくまでも「何かを学べるかもしれない」レベルである。

 

 では、クリスチャンはどうしたらいいのだろうか。政治から遠ざかるべきなのだろうか。そうではない。クリスチャンは、「聖書」の基準を「指針」としながら、政治に関わればいいのだ。この際、大切なのは、「イデオロギー」と「聖書の価値観」が対立した場合、どちらを優先するかである。

 例えば、「憲法」について考えてみよう。あるクリスチャンの方々が声高に「憲法を守れ」と主張している。良いことだ。法律、憲法を遵守するのは、法治国家として当然である。

 では、憲法」と「聖書」が対立したらどうだろう。

 例えば、「憲法」にある「両性の合意」による結婚観は、「聖書」の価値観と合致する。これが、ある政治家が主張するように、「両者の合意」と改定しようとする議論が起こったら? その背景には、同性婚の是非がある。「両性」を「両者」と改定すれば、同性婚憲法違反ではなくなるからだ。もし「両性」ではなく、「両者の合意で結婚する」という価値観が憲法に書き込まれたら・・・。それでもあなたは「憲法を守れ」と言えるだろうか。これが、「政治的イデオロギー」と「聖書」どちらを主張の基準にしているか問われる瞬間である。

 同じように、同性愛や中絶について語る時、クリスチャンは「社会的価値観」との戦いを覚える。聖書を読めば、同性愛や中絶は、必ず葛藤を覚えるトピックである。しかし、社会的にはそれらに反対の声を挙げれば、「つるしあげ」をくらう。特に同性愛については、昨今では反対の声を挙げにくい「空気」が醸成されている。しかし、「聖書」を唯一絶対の基準と考えていれば、どうあっても同性愛を「そのままでいい」と捉えないはずだ。これもまた「社会的価値観・潮流」と「聖書」どちらに優先順位を置くか問われる瞬間であろう。

 

 クリスチャンが政治に関わる時は、まず「聖書」が唯一絶対の基準であるという大前提を守らなければならない。憲法脱原発、性的マイノリティーへの対応、安全保障の考え方などは、「目的化」しやすい。政治的イデオロギーは、「偶像化」しやすく、いとも簡単に、聖書の基準より大切なものとなってしまう。クリスチャンが政治に関わる際、この誘惑と常に戦わなければならない。

 

 

▼3b:権力とどのように向き合うか

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 クリスチャンにとっては、聖書が唯一、絶対の価値基準だ。しかし、同時に「聖書」の基準を自分の目的のために乱用してしまう危険性もある。ボウカムはこのように警告する。

 

現状を支持するためにローマ人への手紙13章1~7節をイデオロギー的に乱用することは、不正な政府への批判的な箇所に論及することによって訂正され得る。(57P)

 ローマ人の手紙13章は、有名な「権威に従え」と教える箇所だ。このような記述である。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(中略)同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その努めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7)

 この際、「権威」の念頭にあるのは、ローマ帝国である。この時代、クリスチャンの信仰は迫害されていた。しかし、パウロはあえて「権威に従え」と言っているのである。

 しかし、ボウカムは「だからといって、現行の政府のやっていることが全て正しいと決めつけるのは違うだろ」と注意している。これは正しい。同じように、聖書の言葉を根拠に、「牧師に従え」とか「教会の決定に従え」とか言って信者を縛り付ける教会もある。それは明らかな、聖書の言葉の乱用である。

 また、この箇所は、直接的には後段にある「納税」に関する記述であって、「なんでもかんでも上に従え」という命令ではない。ボウカムも、この箇所を「税金」に関する議論の際に用いている。税金に関する議論はこのブログでは避けるが、イエスははっきりとローマの納税は認め、ユダヤの神殿税の正当性については否定したが「彼らを怒らせないために」納税するようにしようという姿勢を示している。

 

 ローマの箇所から読み取れるのは、神が定めた権威の前に正しくあろうとするのは良いが、権力を正当化するために聖書を用いてはならないという至極当然の教訓である。

 権力は常に暴走する危険性がある。だから、権力をチェックする存在が必要だ。旧約聖書の世界では、預言者がその役割を担っていた。アハブ王と対決した預言者エリヤとエリシャは、分かりやすい権力チェッカーだ。現代において、メディアがその役割を担っている。以前、「記者の仕事は、ある意味で預言者の仕事だ」と言われたことがあるが、まさにその通りだ。

 インターネットが発達した現代においては、誰もが記者になりうる。首相や大統領の発言録は、今や簡単に全文を入手できる。様々なメディアの記事も、読むことができる。発信のプラットフォームも格段に増えた。もはや、メディアはその特権を失いつつある。ただ、現場の空気感が分からないと、誤解してしまうことも多い。よくある「メディア批判」は、ほとんど現場の仕組みを知らない、的外れの指摘が多い。

 クリスチャンは、ある意味でこの世の「見張り人」である。クリスチャンこそ、メディアリテラシーを鍛え、情報を正確に分析する訓練が必要だ。残念ながら、今はそうなってはいない。

 

▼3c:クリスチャンと民主主義・安全保障

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 民主主義の国家では、政治に参加するための一番の行動は、投票である。私たちは、この投票の重要性を、往々にして忘れがちだ。

 自民党杉田水脈議員が、「LGBTの人は生産性がない」とした論文を発表し、問題となった。インターネット上の議論を見ると、彼女を批判する声、擁護する声、様々あった。中には、「議員辞職すべき!」という声もあった。

 この議員辞職すべき!」という声だけは、言い過ぎだと指摘しておく。民主主義の国家において、国会議員は、有権者の投票で選ばれる。どんなにヘッポコの比例当選の議員であれ、国民の数万〜10万以上の票をもらって当選しているのである。とすれば、議員1人の後ろには、それだけの国民の票があるのだ。そう考えれば、杉田議員の主張は、ある意味で「国民の声」である。この論文を掲載した「新潮45」が、猛烈な批判の嵐によって休刊に追い込まれてしまったのは、本当に残念だ。

 杉田議員は何も法は犯していない。政治資金規正法など、法律を犯しているのであれば、「責任を取って辞職しろ!」との指摘は理解できる。誰も、犯罪者に投票しているとは思っていないからだ。しかし、主義主張を理由に「議員辞職しろ!」というのは、行き過ぎだ。それは、彼女のバックにいる国民の声を無視することであり、言論統制である。リベラルな論客は、実は自分たちが一番警戒し、批判している言論統制を、自分たちで行ってしまっているのである。

 杉田議員の主義主張に問題があれば、その審判は次の選挙の時、票として現れる。民主主義の国であれば、選挙の結果は絶対なのだ。この民主主義のシステムを、多くの人は誤解している。「アベはやめろ!」と叫ぶのは表現の自由だが、彼が民主主義のプロセスによって選ばれたリーダーであることを忘れてはならない。クリスチャンは政治と関わる時、情緒的でない、システムを理解した冷静さが必要である。

 

 また、クリスチャンの中には、「武力を持つべきでない」という人もいるだろう。私も明確な答えは持ち合わせてはいなかったが、とある安全保障の専門家が、こんなことを言っていた。

 

警察は一定の権力と武力をもって、法の秩序を守っている。それに反対する人は、ほとんどいない。国が武力を持つのも、国際的な法の支配を守るためである。例えば、国境を守ったり、化学兵器の使用によって国民を苦しめている権力者がいれば、国際的な法のルールに則って、武力を行使する。国の軍隊の目的や行為は、国境を超えているだけで、本質的には警察と同じである。

しかし、この秩序を守る行為が、国単位になった瞬間に、多くの人が反対する。その境目はどこにあるのか。甚だ疑問である。

 

 なるほど、一理ある。聖書にもこうある。

 

彼(権力者)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

(ローマ人への手紙 13:4)

 この言葉は、警察権だけに与えられているのか。それとも、国防や、安全保障、国際的な法の秩序を守る権利のために、この剣を用いてはいけないのか。よく考えてみてほしい。

 クリスチャンこそ、知っておかねばならない。唯一絶対の権威者は神であること。イエスもその権威を持っていること。しかし、神の許容範囲の中で、この世には人間が決めた権力者がいること。その権力者に敬意を払いつつ、感情的ではなく冷静に権力に向き合う姿勢が必要である。

 

 

▼4:核の脅威と神の約束

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 核の脅威は、現代において考えるべきトピックである。ひとたび核戦争が始まれば、世界は危機に陥る。環境を破壊し、人間は存続できないかもしれない。

(ちなみに、「地球を守れ」というのは筋違いだ。地球という惑星は、どんな状態でも存続する。正しくは、「人間が住める環境を守れ」である)

 クリスチャンは、この「核の脅威」をどう考えるべきか。ボウカムは、「神とノアの約束」に焦点をあてる。このノアは、「ノアの箱舟」の、ノアである。

 ノアの箱舟の時、大洪水が起こり、ただノアと家族を残して世界中の人が死んだ。神は、その後、このように約束する。

 

わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを討ち滅ぼすことは決してしない。(中略)わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。(中略)わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。(創世記8:21・9:11~13)

 神は、空に虹をかけて「もう生き物を滅ぼすようなことはしない」と約束する。だから、この神の約束を信じれば、「核戦争によって人類は滅びない」のである。だから、クリスチャンは核戦争を心配しなくてもいい。

 しかし、ボウカムはこう指摘する。

 

重要なことだが、人間の生存が人間の手の中にあるという状況において、神が全滅を防ぐという摂理があると「思い込んで」はならない。この状況においては、神は寛容にも私たちをその罪の結果にゆだねているが、そのことが神の裁きとなるかもしれない。言い換えるなら、神が人間の生存を約束しているからといって、人間はそれを確保する自らの責任を免れることはできない。(P.270)

 つまり、神が核戦争を用いて、この世の終わりを実現する可能性もある。そうボウカムは言っているのである。さらに言えば、たとえボウカムが間違っていても、「核戦争によって人類は滅びない」が、「核戦争は起こりうる」のである。

 しかし、私の個人的意見では、それでもなお、クリスチャンは核戦争を恐れる必要はない。なぜなら、クリスチャンは死を恐れる必要がないからである。

 クリスチャンは、イエスを信じた瞬間から、「永遠のいのち」が与えられる。全ての人は死んだ後、復活し、神の前で裁きを受ける。イエスを信じる者は、その後、神との永遠の関係を楽しむ。このような希望をクリスチャンは持っている。パウロは、「世を去ってキリストと共にいる方が望ましい」(ピリピ1章参照)とすら言っている。だから、クリスチャンは死を恐れなくて良い。むしろ今死んでもいいくらいの気概が必要である。

 クリスチャンが最も恐れるべきは、愛する家族や友達が、この素晴らしい福音を知る前に死んでしまうことである。ゆえに、クリスチャンが努力すべきは、福音を宣べ伝えることであって、人間の人間による、有限の、短期的な平和活動ではない。核戦争が起こらなくても、人はいずれ死ぬ。その前に福音を聞かなければ、核戦争が起ころうと、起きまいと、何の意味もなさないのである。

 平和活動は、「福音を聞く機会をできるだけ引き伸ばす」という意味で尊いしかし、クリスチャンがエネルギーを傾ける方向を、間違えてはいけない。聖書には、「神の日の到来を早めなければならない」とも書いてあるのだから。

 

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 

ユダヤ人の物語としてのエステル記 ~時代を乗り越えられなかったルターの姿~

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 「エステル記」は、聖書の中でもユニークな一冊である。エステル記には、「神」という言葉が一度も出てこない。そして、極めて「ユダヤ的要素の濃い」本である。

 エステル記がどういう物語かは、短いので本文を是非読んで欲しい。要約すれば、ユダヤ人の女性、エステルが、外国の偉大な王の王妃となる。王の側近のハマンは、ユダヤ人撲滅の策略を立てるが、エステルと叔父のモルデカイがこれを阻止する。ユダヤ人は外国人から身を守り、敵を殺して大勝利を収める。と、こんな内容である。

 このエステル記について、ボウカムはこう述べる。

 

エステル記は、多くのキリスト者の読者を不快にさせてきた。しかしルター以降、しばしば引用される見解は、ルター自身のエステル記の見方を代表するものではなく、後世の多くの批評の典型である。「私はこの書(第二マカベヤ)とエステル記に敵意を抱いているので、それらがまったく存在しなければ良かったのにと思う。なぜなら、それらはあまりにもユダヤ的であり、多くの異教的な間違いがあるから」B・Wアンダーソンは、多くのその後の不平を要約して、こう書いている。(P.234)

  ボウカムは、「ルター自身の見解ではない」とある意味、ルターを擁護している。しかし、ルターがユダヤ人に敵意を持っていたのは、彼の著作から明らかである。

 ルターは、ユダヤ人をどうしても好きになれなかった。ルターは、明らかにユダヤ人に対しての民族的な嫌悪を持っていた。現代において、彼の考えは明らかに間違っているのは、ホロコーストの経験から、全世界が知るところとなっている。

 ルターが反ユダヤ主義から逃れられなかったという事実は、プロテスタントの信者にとって衝撃ではないだろうか。私は、初めて彼の主張を知った時、素直に驚いた。それまで彼は、聖書を自分の言語で読めるようにした、ヒーローだった。しかし、彼もただの人間に過ぎなかったのだ。ヒーローはイエスただ一人なのだ。

 このことから、ルターでさえ時代の常識には逆らえなかったと分かる。アメリカ合衆国の生みの親は、皆、敬虔なキリスト教徒だった。しかし、ネイティブ・アメリカンに対する差別意識、黒人奴隷の存在の容認など、現代では考えられない「常識」があった。私たちは「時代」という枠からは抜け出せない。この事実は衝撃的で、ある意味絶望さえ覚える。

 

 聖書にも、実はこう書いてある。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

(伝道者の書 3:11)

人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。

(伝道者の書 8:17)

  私たちは、時間を超えられない。人は、時代という枠に囚われて生きている。今の時代当たり前だったことが、100年後には当たり前でなくなっている。今の私の主張が、「彼はこの時代の常識から逃れられなかった」と言われる時代が来る。

 神は時間を超えられる。神は、その時代、時代に、少しずつ真理を明らかにする。玉ねぎの皮を剥くように、本のページをめくるように、少しずつ。でも確実に。死海写本が見つかる前と後では、聖書研究の根幹が違った。この先の時代も、常識が覆される時代が来るであろう。

 

 しかし、私たちの世代の議論は、決して無駄ではない。ルターは反ユダヤ主義から逃れられなかったが、ルターがいなければ、自分の言語で聖書が読まれることはなかった。カルヴァンの主張は全て正しくなかったが、彼がいなければ、クリスチャンの自由な経済活動は許されていなかった。

 ルターがもしホロコーストの時代を経験していたら、あるいは違う主張をしていたかもしれない。その意味で、幸か不幸か、ホロコーストの経験が、世界的に反ユダヤ主義を払拭する一助となったのである。ボウカムもそう述べている(P.250)。

 ただ、今の世界のメディアの傾向は、明らかに反ユダヤ主義に偏っている。日本語のイスラエル関連のニュースは酷すぎる。取材する前から書くことが決まっている。記者失格だ。イスラエル軍のメディア関係者は、「日本のメディアは共同通信NHK朝日新聞もウソばっかりだ」とぼやく。私も同意見だ(※私が働いている会社はもっと酷い)。

 今の私たちの議論は、のちの時代の常識を作る糧となる。その意味で、クリスチャン同士で、時にぶつかり合いながら、恐れずに政治的議論をするのは、とても大切である。クリスチャンが政治を語るべきでないという主張は、ぶつかりたくない日本人にとって正しく見えるかもしれないが、その主張は明らかに間違っている。

 

 最後にボウカムの主張に戻れば、現代においてエステル記は、ユダヤ人の物語として読むべきである。神がイスラエルを「区別」して選んだ事実は、現在に至るまで有効だ。それはローマ書11章を読めば、明らかである。私たち外国人(異邦人)は、ありがたいことに「接ぎ木」された存在だ。だからこそ、イスラエルの民を尊重し、彼らのために祈り、国家としてのイスラエルに関心を持ち、イスラエルの祝福を祈り、彼らが待ち望んでいるメシアがイエスであると伝えるのは、とても大切なのだ。

 リベラル主義者のクリスチャンは、ねじ曲げられたメディアの情報を信じて、国家としてのイスラエルを批判する。それは本当に正しいのか? あなたは聖書にハッキリと書いてある神のイスラエルに対する約束と、あなたの政治的主張、どちらを大切にしているのだろうか。

 

 

▼全体のまとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

 

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した(つながった)。イエスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。カギは「ミクロなアプローチ」である。

 

3:クリスチャンは、政治的イデオロギーと聖書の価値観がぶつかった時、唯一絶対の基準としての聖書を選び取るべきである。聖書のある特定の部分だけを受け入れ、特定の記述を無視してはならない。権力を正当化する際に聖書を用いてはならない。常に心の動機をチェックする必要がある。

 

4:クリスチャンは世の終わりを待ち望むべきである。永遠のいのちがあるのだから、死を恐れる必要はない。クリスチャンがエネルギーを傾けるべきは、この世の平和維持活動ではなく、福音を述べ伝えることである。

 

5:私たちは時間という枠を超えられない。しかし、今の議論が後の時代の議論を作る。クリスチャンは、政治的議論を避けず、積極的に議論したら良い。エステル記はユダヤ人の物語であり、クリスチャンは現代の国家としてのイスラエルに関心を持つべきである。

 

 

▼おわりに・・・

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 ボウカムの「聖書と政治」は、とても面白かった。政治に答えはない。ゆえに、ボウカムの主張も、「Aも正しいけど、でもBも正しいよね」といった、曖昧模糊なものになっている。それは仕方がない。日本人もそのような議論が好きだ。しかし、それだけでいいのだろうか。大切なのは、しっかりと聖書の土台に足を据えながら、自分で情報を収集し、自分の考えを確立し、「波に弄ばれたりしないように」することだ。

 昨今のクリスチャンの議論を見ると、左派も右派も、聖書よりイデオロギーを優先してしまっているように、私は、どうしても感じる。かといって、政治を無視し、簡単に「クリスチャンは、政治と関わるべきでない」というのも違う。大切なのは、まず聖書の唯一絶対の基準を心の中心に据えて、この社会を観察することである。

 イエスは、この社会で見捨てられた弱者に寄り添った。今、自分がイエスのようにできることは何だろう。目の前の一人のために、何ができるのだろう。そう考え続け、行動し続けることが、一番大切なのではないだろうか。

 

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(前編)

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文です。2本立ての前半です。

 

  

▼「聖書と政治」という本

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 私は、政治記者をしている。自民党幹事長、総理大臣、野党などを担当し、取材した。まだ経験は浅いが、今も国会の現場で取材をしている現役の記者だ。同時に、イエスを救い主と信じるクリスチャンである。

 「聖書と政治」という本を、友人に勧められた。「聖書」と「政治」というキーワードが、自分にピッタリだった。すぐ手にとり、読んでみた。面白い。翻訳の影響もあり、少し読みづらさはあったが、扱っているテーマは幅広く、どれも興味深いものだった。

 著者のリチャード・ボウカムは、「イエスとその目撃者たち」でも有名なイギリスの聖書学者だ。本書「聖書と政治」で、ボウカムは、創世記から黙示録まで聖書の様々な書簡に触れ、教会と国家の関係、「エステル記」をユダヤ人の物語として読むことや、核の脅威をクリスチャンとしてどう考えれば良いのかなどを論じている。

 今回は、「聖書と政治」の本の中から、私が個人的に気になったポイントに触れ、感想を述べたい。

 

 

▼1:「聖別」の意味 ~教会と政治の関係~

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 聖書は、イスラエル「聖なる民」とたびたび表現している。

 

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」

レビ記 19:1~2)

 「聖なる」という日本語を聞くと、「きれい・汚れていない」というニュアンスがあるかもしれない。しかし、聖書の「聖さ」には、別の意味がある。ボウカムは、「聖なる・聖さ」を次のように定義する。

 

イスラエルは神の契約の民であり、聖さの特別な関係において神と結ばれている。聖さの意味は本来、区別することである。神は特別な意味で、イスラエルの神であることを誓約された。その結果、イスラエルは他の諸国から、神ご自身の民として区別される。(P.65)

 「聖さ」は「汚れていない」という意味ではなく、「他と区別されている」という意味である。よく、「イスラエルは聖なる民」と言うと、「他の国は汚れているのか」と言う人がいるが、それは間違いだ。彼らは、素晴らしいから選ばれたのではない。ただ主権者たる神が、なぜかイスラエルという国を選び、彼らに使命を与えたのである。イスラエルは、神に選ばれ特権を得たが、同時に義務や困難も背負ったのであった。

 

 さて、現代の「クリスチャン、教会の共同体」はどのような存在なのだろうか。「クリスチャン・教会の共同体」も、イスラエルのように神に選ばれ、「区別」された存在である。ボウカムはこのように言う。

 

新約の教会は、特に政治的ではない国際的な共同体として、旧約のイスラエルと連続であり、また非連続でもある。イスラエルのように教会は、その生活のあらゆる面において神に献身した聖なる民であるように召されている。それゆえレビ記の標語(レビ19:2)は、ペテロの手紙第一の1章15~16節において教会にも適用される。(P.76)

 ボウカムが言及したペテロの手紙の記述は以下である。

 

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

(ペテロの手紙第一 1:15~16)

 現代の「教会の共同体」は、イスラエルと全く同じ存在ではない。ローマ11章を読めば、神がイスラエルを選んだ選びは、いまだ変わらないというのは明らかだ。しかし、「神が選び、区別した」という意味では、同じである。ペテロが、このレビ記の記述を引用し、教会の共同体にも当てはめていることから明らかであろう。

 このように書いた後、ボウカムは、教会にチクリとクギを刺す。

 

教会はその普遍的な開放性と、その根源的な聖さへの献身において、より終末的理想に近づくことを目指している。しかしそれができるのは、教会が政治的存在ではないからである。それゆえ教会は常に政治的存在になる誘惑に抵抗しなければならない。(P.76)

 

 教会が政治的存在になる。この誘惑は、想像しているより大きく、強い。

 昨今の日本のキリスト教の世界を見渡すと、この誘惑に完全に負けてしまっているケースが非常に多い。特に、特定の団体や教会のリーダーシップをとっている牧師や教育者たちが、この誘惑にハマっている。彼らは、自分の政治活動は個人の自由だと言い訳をして、自分が持つ影響力を利用している。彼らは、自分の行動や発言が、どのような政治的影響を与えるか考えず、意図的に無視している。

 神学的には非常に慎重な人が、政治の話になると、なぜか途端にタガが外れてしまう。聖書を学ぶはずの団体で、政治色が濃い憲法の勉強会をひらく。特定の政治団体に偏った政治思想を押し付け、国会議事堂の前で祈るよう促す。クリスチャンのリーダーが、政治色の濃い本を出版する・・・etc。

 冷静に見れば、そのような行為は、「政治的存在になってしまっている」のは明らかだ。しかし、誰もそれをおかしいと言わない。「そんたく」しているのである。この状況自体がもうアウトだと、私は思う。

 さらに踏み込めば、私が見聞きするリーダーたちの「政治的主張」は、乱暴に「保守・中道・革新」に区分すれば、圧倒的に「革新」に偏っていると思う。もっと大胆に踏み込めば、ほぼほぼ共産党化」している。私はこれを大変懸念している。

 

 教会やクリスチャン団体が、政治と関わる際に注意しなければならない理由はたくさんあるが、その中で特に強調したい点が2つある。

 ひとつは、神がクリスチャンや教会の共同体をこの世界から「区別」したから。

 もうひとつは、教会や団体が政治に深く関わると、政治団体に利用される危険性が高いからだ。私から見れば、ある教団・団体は革新的な政治組織に乗っ取られてしまっていると言っても言い過ぎではない。

 もちろん、これは「革新が悪い」とか、特定の政治思想への批判ではない。ただ、クリスチャンとしての本来の生き方から逸れてはいないか、という警告である。

 

 聖書は、「政治に関わるな」と教えてはいない。しかし、ボウカムが言うように、聖書が目指すものと、現代の政治が目指すものは、「区別」されている。

 クリスチャンが目指し、待ち望んでいるのは「イエスの再臨」である。この世の中は不完全で、いつの日かイエスがこの地上に帰ってくる。そして、イエスは新しい天と地を創造する。イエスを信じる者たちは、その中で神を礼拝し、楽しみ、喜ぶ。

 現代の政治が目指すものは、リーダーや体系によって様々だが、この国を、社会をより良くしていこうというのが基本だ。この地上をbetterにするのが目的である。これは、終末を待ち望むクリスチャンの考えと、明らかに異なっている。クリスチャンにとって、この地上は「仮住まい」であり、一時的な命や場所でしかない。

 聖書が言う、クリスチャン・教会の共同体の存在の本来の目的は、政治の世界で活動することではない。共同体の目的は、もっと大きな、終末的理想なのである。(無論、個人が政治の世界で活躍することを否定するものではない)

 

 

▼2a:弱者と「連帯」したイエスの姿

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 ボウカムがこの本で何度となく繰り返しているのは、「イエスは弱者と連帯した」という表現である。おそらく、これこそ彼が最も強調したかったポイントである。

 

エスが無力な人々と連帯したことは、私たちに政治の限界を(政治がどんなに重要であっても)思い起こさせる。エスに従う道がある。最も恵まれない人々との連帯を愛し、彼らの問題への政治的な解決の領域を超えていく道である。政治的な権力者は、例えばマザーテレサの働きを助けることはできるが、それを行うことはできない。(P.114)

 エスは、世の中から見捨てられた人、弱い人たちに寄り添った。高熱などの病気の人、夫を亡くした女性、ツァラアトという皮膚病の人、障害者、外国人の女性、不倫をしてしまい社会的に追放された女性、などなど・・・。イエスは、社会的に「汚れた存在」とされていた人たちのものに歩み寄り、彼らに触れ、彼らと一緒に食事をしたのである。

 イエスの姿は、「個人的でミクロなアプローチ」である。エスのアプローチは、社会全体を良くしよう、というマクロな方向性ではない。人ごみの中に、1人の心の病んでいる人を見つけるというアプローチである。ザアカイのエピソードは、イエスの姿勢を分かりやすく表している。

 

 ザアカイの話を簡単に紹介しよう。(詳細はルカの福音書19章を参照)

 ザアカイという人がいた。彼は、税金を取り立てる役人だった。彼は、税金を過剰に取り立てて利益を得ていたので、町の人たちからは嫌われていた。そんな時、イエスが町にやってくる。ザアカイは、イエスを一目見ようと木に上る。そんな時、イエスがザアカイに声をかける。「木から降りてきなさい。今日あなたと一緒に食事をしよう」。イエスはそう言った。イエスは人ごみの中から、ザアカイを見つけ、彼に寄り添ったのであった。ザアカイは心を溶かされ、不正に取り立てた税金を返すと約束した。

 このエピソードから、イエスはしばしば「個人的・ミクロなアプローチ」をしたと捉えられる。しかし、ボウカムは、「イエスのアプローチは”個人的”なものだけではない」と主張する。

 

エスは確かに人々と個人として出会ったが、彼らが属している特定の社会的集団をも尊重した。エスに出会った人々は、福音書の物語においては個人として現れるが、ある人々は私たちにとって、ある社会的集団の代表者として現れる。福音書はイエスが関係した人々を集団として言及している。(中略)このように政治は、個人として個人を扱うよりは、社会の構造と集団を扱う。(中略)イエスが愛にあふれてすべての人々とさまざまな方法で一体となったという文脈においてこそ、エスが貧しい人々に「優先的」な関心を示されたことについて考察しなければならない。(中略)イエスがさまざまな集団を「優先した」のは、彼らが社会的、経済的、宗教的理由のために神の民の社会から相対的に排除されていたからである。(P.281~282) 

 ボウカムは、「イエスがザアカイに寄り添ったのは、彼が『取税人』という立場にいたからという理由もある」と主張する。それは病人でも同じ。「ツァラアトという皮膚病の人」、「『外国人』の『女性』」、「障害がある人」、などなど・・・いずれも「社会的に弱い立場」にあった人々である。

 その立場を決めるのは「政治」だ。だから、イエスは政治を全く無視したわけではない。政治によってラベリングされ、立場を決められてしまった、弱く、苦しんでいる人々だからこそ、イエスは寄り添ったのだ。ゆえに、私たちも政治と全く関係ないとは言えない。

 「政治」というときに、私たちは21世紀のポリティクスを念頭に置いてはならない。1世紀の「政治」は「宗教」とは切っても切り離せないものであった。「皮膚病」、「外国人」、「女性」、「障害がある人」、などなど・・・弱い立場にあった人たちは、なぜそのような立場にあったのか。その理由は、「宗教・文化」にあったのだ。

 実際、彼らが弱い立場に置かれた根拠は、聖書の記述だった。ユダヤ教では、障害がある人は祭司になれなかった。それはレビ記の記述が根拠になっている。ダビデの発言から、障害者は神殿に入ることができなかった。それらは全て、当時のローマの政治家が決めたのではなく、ユダヤ教の宗教的な文化が背景にあったのだ。

(もっとも、21世紀の政治も、全く宗教と無関係ではない。日本の政治においては、創価学会が母体の公明党がある。立憲民主党の議員らには仏教系の「立正佼成会」が支援する議員らがいる。他にも見えない宗教団体が背後にたくさんある)

 

 イエスは、そのような宗教的・文化的に「弱者」であった人々に「優先的」に接し、寄り添うことで、彼らを自由にした。これは、「政治」と全く無関係ではない。

 現代の政治は、より大きな形で弱者を支援する。例えば、我々は、「税金」を納めることによって、「生活保護」や「障害者年金」などのシステムの恩恵に預かっている人々を支えている。見えにくいが、これも立派な「弱者への優先的な寄り添い」にカウントしても良いと、私は思う。

 もっとも、さらに直接的に関わるべきと考える人もいる。「Servants」(サーバンツ)という団体のように、実際に東南アジアのスラムに住むというミニストリーを行っている人たちもいる。彼らのミニストリーは、ただ同じ場所に行って、一緒に住むだけ。教会を作ったり、システマチックな”布教活動”をしたりはしない。その行動は尊重されるべきものである。

 

 さて、本題に戻れば、クリスチャンにとって大切なのは、どのようなモチベーションで、政治に関わるかである。ボウカムは次のように言う。

 

新約の自由の理解は、他者からの自由ではなく、むしろ他者のための自由である。それはすでに旧約の社会的責任において暗示されている。(P.261)

外的な解放がその名に値するのは、人々が自由にされ、生きるのは他者のため、すべての他者のため、さらに彼らを抑圧する人々のためとなったときである。(P.232)

 ボウカムは、私たちが真実に自由になるのは、弱者と連帯(寄り添う)したときだ。と言う。その通り。こう考える時、「安倍政権・自民党政権が続けば、信教の自由を脅かす!」と声高に叫んでいる人たちのモチベーションは、どこにあるのだろうと疑問に思う。彼らに、社会的弱者への関心はない。自分たちの宗教活動が脅かされるという妄想に取り憑かれているだけだ。

 戦時中、本当にイエスに信頼した人たちは、信仰を捨てなかった。信仰を捨てて、神社参拝や天皇崇拝をしたのは、妥協してしまった人たちだった。私たちの信仰は、国の方針なんて人間が決めたもので、左右されはしない。迫害されたら、ラッキー、くらいの信仰を持とうではないか。

 

 

▼2b:マクロとミクロの世界

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  弱者と連帯したイエスの姿を見るとき、クリスチャンの政治への関わり方が少し見えてくる。この世の中の政治は、「マクロ的思考」で動いている。この「国」を良くしたい。この「社会」を良くしたい。GDPを上げたい。出生率を上げたい。政治とは、えてしてマクロな視点になりがちである。それは、ある意味で当然のことである。

 しかし、イエスは違った。「このザアカイという人の悩みは何だろう」というのが、イエスの視点だった。盲目の人に、「あなたは何をしてほしいのか」と、あえて聞いた。それが、イエスの姿だった。イエスは離れていても、言葉だけで病気を治すことができた。もし、「より多くの人を治した方がいい」のであれば、ちゃちゃっとやってしまえばよかった。しかし、イエスはそうしなかった。彼は、自分の足で歩いて、手でさわって、一人ひとりと関わったのである。

 イエスのアプローチは、「目の前の一人の人の心にふれる」という方法だった。クリスチャンは、ここに一つの政治的アプローチのヒントを見出すことができる。それは、マクロではなく、目の前の一人のためのミクロなアプローチである。どういうことか。分かりやすくまとめてみた。

 

【マクロ(政治的な)アプローチ】

・この国のGDPを高めたい

・この国の結婚率を上げて、出生率を上げたい

・日本のキリスト教の世界を元気にしたい

・日本人のクリスチャンが聖書が読めるようになってほしい

 

【ミクロなアプローチ】

・お隣の山田さんが明日食べられるものに困っている➔お惣菜をあげよう。

・教会の高橋くんが出会いに困っている➔祈ってみよう。誰かを紹介してみよう。

・隣の教会を元気にしたい➔まずは何が問題なのか聞き取りをしてみよう。

・教会の渡辺くんが聖書が読めるようになってほしい➔じゃあ一緒に読むよう誘ってみよう。

 

 この国を良くしたい。日本のキリスト教界をどうにかしたい。そう考えると、なかなか答えは見つからない。しかし、小さく考えれば簡単だ。隣の山田さんを笑顔にしたい。お隣の教会の佐藤さんが、車がなくて買い物ができずに困っているから、助けてあげたい。そういう小さく、個人的な解決方法を考えれば、簡単で、すぐに実行できる。これがミクロなアプローチだ。

 

 

▼前半まとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した。エスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。イエスの「ミクロなアプローチ」はクリスチャンにとって、とても参考になる。

 

 政治ほど、正解がなく、指針もなく、主張にバラつきが出るものも珍しい。実際に取材をしていて、政府の主張も、与党の主張も、野党の主張も、どれも納得のいく部分と、いかない部分がある。メディアの切り口も、日本の記者クラブ制度という極端な横並び体制にも関わらず、様々なものがある。

 一方で、クリスチャンには「聖書」という唯一絶対の指針がある。私たちは、まず「聖書」をベースに置いて、その上で政治と関わる必要がある。時に、社会的常識や風潮と、聖書の価値観が真っ向から対立する時は、冷静な判断力が必要である。

 イエスは、決してマクロな方法をとらなかった。彼は、「目の前の一人の人」に寄り添ったのであった。しかし、イエスのその姿勢が、結果として多くの人の心を打ち、2000年経った今でも、世界中の人々を魅了しているのである。ミクロなアプローチが、結果としてマクロなアプローチとなっているのだ。これが神の法則だ。クリスチャンは、このようなマインドを持って、政治について考えてみてはどうだろうか。 

 

次回は、

3:クリスチャンは現実の政治とどう関われば良いのか、

4:核の脅威と神の約束にどう向き合うべきか、

5:エステル記の解釈から、時代を乗り越えられなかったルターの姿を見て学ぶこと、

 

の3つのテーマについて語ろうと思う。

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエスNo.4】「問題意識を仕事にする」津村崇啓@会社経営者(不動産・結婚相談所)

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第4段は、津村崇啓さん!

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【Profile】

名前:津村崇啓(Takahiro Tsumura)

生まれ:1986

出身:北海道札幌市

最終学歴:早稲田大学創造理工学研究科 修士課程修了

職業:不動産コンサル会社

→ 株式会社プラウス取締役(不動産店長・結婚相談所所長)

プラウスHP】PRAUS

【結婚相談所HP】marriage-lita

 

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180823113525j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 津村さんは、色々なことを手がけてらっしゃるイメージがあるのですが、結局、仕事としては何をやっているんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 不動産業をやっています。それと合わせて、クリスチャン専門の結婚相談所を今年の4月からはじめました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 不動産に結婚相談所! なんだか繋がりが見えない組み合わせですが、順番にお聞きしていきたいと思います。

 

 

ミステリサークルに入りたくて大学へ

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f:id:jios100:20180702131349j:plain ご出身はどちらなんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 北海道出身です。でも、うちは転勤族だったから、北海道は2歳までしかいなくて、そのあとは横浜に5年、名古屋に5年、そのあと長野6年。それで大学から東京ですね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain わわ。そうなると、地元と聞かれても、どこって言えないですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうなんですよ。難しいですよね。「名古屋出身」とか「長野出身」とかいう人たちがいると、「私もです」って話は合わせられますけど、本当の故郷はどこだか分からないですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学は早稲田に。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうです。早稲田の理工学部

f:id:jios100:20180702131349j:plain 理工学部ですか。てっきり商学部とかで経営を学ばれたのかと。

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは。でも、一応、経営システム工学っていうのをやっていたんですよ。でも、早稲田を目指したのは、別に勉強が目的じゃなかったんですよ。高校時代、推理小説にハマっていて。早稲田には「ワセダミステリクラブ」っていう有名なミステリー小説のサークルがあって。そこにどうしても入りたくて、早稲田を受験したんです(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ミステリクラブ! 聞いたことあります。推理小説を書いたりもしてたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain いや、サークルに書く人はいたんですけど、僕は書かなかった。読んで、ひたすら推理小説について語るっていう感じでした。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 理工学部では大学院まで行かれたそうですが、何を研究していたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 人間工学っていうのをやっていました。ちょっと昔、「人間工学採用」っていうシャーペンとかも売っていましたけど、あんな感じです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なんだか、今の不動産や結婚相談所の仕事と、全く関係ない感じですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは、本当そうだよね。

 

 

エスとの出会い 〜リスクと期待値?!〜

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f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスと出会ったのはいつですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 大学1年生の時。キャンパスのベンチに座っていたら、クリスチャンの先輩が声をかけてくれて。それがきっかけで教会に行き始めたんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 教会に誘われて抵抗はなかったんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 全くなかったですね。行ってみて、イヤだったら引き返せばいいだけの話だし、それよりも「知ってみたいな」という好奇心が勝りましたね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最初に教会に行った時の印象は?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain ビックリでした。それまでの「教会」のイメージと全く違いました。静かにお祈りとかしているイメージだったのに、音楽はバンドのスタイルでバリバリやってるし。建物も「十字架かかってるけどただのビルじゃん」って思って。すごく賑やかで、「こんなところが教会なんだ」っていうのが素直な感想ですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこから徐々にイエスを知っていった?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。学生だったので、日曜日は特にやることもなかったし、抵抗なかったですね。教会行ったら、韓国系の教会だったので、ビビンバ食べ放題だったんですよ(笑)学生にとってタダ飯ほどありがたいことはなくて(笑)そういう結構単純な理由でしたね。教会に行き始めたのが大学1年の5月で、その年のクリスマスに洗礼を受けました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 洗礼を受けるキッカケはあったんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain う~ん。僕は衝撃的に出会うっていうパターンじゃなかったんですよね。これは、ある意味理系の考え方なんですけど、リスクと期待値を比べたんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain リスクと期待値・・・???

f:id:jios100:20180823113525j:plain 考え方が2つありますよね。イエスがこの世に来て、死んで復活したとか、神様がこの世界を創造したっている考え方がひとつ。もうひとつは、今まで当たり前に信じてきた、ビッグバンが起こって、地球が偶然できたっていう考え方。どちらも可能性あると思ったんですよね。

で、別に信じる、信じないっていうのは一つの決断だから、信じてみて、もし間違っていれば、その時引き返せばいいやと思って。だから信じることのリスクはないな~って(笑)リスクと言えば日曜日に教会行く時間が取られるっていうことくらい。だったら信じる期待値の方が高いなっていうのがキッカケ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain めちゃくちゃ合理的じゃないですか・・・(笑)

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは。でも、洗礼を受けて12年が経ちますけど、この道は絶対に正しかったと思いますよ。生きている中で、神様が働いているのを感じますから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様に信頼して生きていると、その力を感じずにはいられないですよね。

 

 

日曜日に休める会社を探して

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 就職活動は、どのようなポイントで会社を選んだんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 大学時代にクリスチャンになったので、一番のポイントは、日曜日に休めるっていうことでしたね。教会に行くことを最優先にしたかったから。あとは、不動産っていう業界は、ずっと興味がありました。土地とか建物っていうのは「衣食住」の「住」にあたる重要な部分で、絶対になくならないものの一つ。だから、日曜休める+不動産業の会社っていうポイントで選びました。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最初は経営者じゃなくて、就職の道を選んだんですね。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。でも当初から経営者の道は考えていました。それで、将来的に独立とか、起業っていうことを考えた時に、ある程度小さい会社で働いて、その会社がどう成長していくか、間近で見てみたかったっていうのはありましたね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ナルホド。つまり、ポイントは日曜日休めて、不動産業で、かつ小さい会社ってことですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。あとは、「新卒をまだ採用していない会社」

f:id:jios100:20180702131349j:plain 新卒を採らない会社? どういうことですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 新卒を採用できるっていうことは、会社がそれなりの成長をしているっていうことじゃないですか。それより前のステージを経験したかったので、新卒の募集をかけていないところを探しました。あとは、「不動産業の経験がなくてもOK」っていうことかな。で、その条件で探したら、もうほぼ就職した会社以外見つからなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学院卒とはいえ、新卒だったんですよね? 新卒採用していない会社にどうやって入ったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。だから、その会社に「新卒でも採用してもらえますか」とメールで送ってトライしてました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うわぁ、そこはアグレッシブなんですねやっぱり・・・。面接の時意識したことはありますか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり、まず最初に「日曜日に休みたい」と伝えることかな。そうすると、必然的にクリスチャンであることを伝えられるし。それで、就職が決まった。会社名が「リ・バイブル」。

f:id:jios100:20180702131349j:plain めっちゃクリスチャンっぽい名前じゃないですか・・・(笑)

f:id:jios100:20180823113525j:plain 別にクリスチャン全然関係なかったんですけどね。僕の「株式会社プラウス」より、よっぽどクリスチャンっぽい名前ですよね(笑)

 

 

不動産コンサルティング会社に ~壮絶な社会人生活~

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↑大学院卒業後、就職した不動産会社

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、始まったばかりの不動産会社に入社したんですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。不動産のコンサルティング会社ですね。まだ会社が始まって3年目で、従業員も5人しかいないところでした。人数が少なかったので、社長のそばで、全部物事が決まっていくというのを間近で見ることができました。死ぬほど忙しかったですけどね(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain めちゃめちゃ少数精鋭ですね。日曜は休めたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain そこは休ませてもらいましたね。でも、それ以外の日は、頑張りましたよ。9時に出社して、その日の24時まで毎日働く生活をしていました。それがイヤだったので、せめて、朝3時間早く出社するから、3時間早く帰らせてくれと交渉したんです。それで僕は6時に出社して、21時に帰ったりしていました(笑) 

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひええええ。1日15時間労働ですか・・・どのくらい続けたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 結局、キツすぎたというのもあって、半年でその会社は辞めました。その後、転職しようと思ったのですが・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain 思ったのですが・・・?

 

 

履歴書書くのがめんどくさくて独立

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↑不動産屋を開業

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社を辞めてからはどうしたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain その後、もう1~2社くらいは会社で勤めようと思ったんですよ。それまでのつなぎとして、副業のつもりで不動産をやっていたんですよね。そしたら、あれ? 不動産でも食べていけるなと思って。結局、そのまま独立しちゃいました。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain なぜ他の会社には行かなかったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 正直に言うと、履歴書を書くのがめんどくさくなっちゃって(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えっっっ。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 途中までは書いたんですけどね。ああ、またこれ書くのかって思ったらめんどくさいなって(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇぇ(笑)

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↑会社のチラシ。実は就活イエスNo.3で登場したダニエルさん作成!

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1人でやっていくノウハウはどこで身につけたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain これは、完全に神様の助けですよ。それこそ、スキルがあるわけでもないし。でも、なぜか仕事が舞い込んでくるんですよ。キツイ時も、もちろんありましたけどね。でも、ヤバい時になったら、必ず神様が動き出してくれて、自然と物事が動き出すんですよね。  

f:id:jios100:20180702131349j:plain クリスチャンとしての人生って、そういう小さな奇跡を喜べることが、特権ですよね。

 

 

「クリスチャンの結婚」への問題意識

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↑不動産のお店にはカップルも来店する

f:id:jios100:20180702131349j:plain 結婚相談所を始めるキッカケは何だったんでしょうか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain ずっと自分の中で問題意識があったんですよね。僕はもう12年間教会に通っていますが、クリスチャンが結婚する難しさを肌で感じていました。特に、教会の中にいる素敵な女性たちが結婚できないという姿を見ていて、「このままじゃいけない」と、問題意識を持ったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 確かに、クリスチャン同士の結婚って難しいですよね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうなんです。クリスチャン同士で結婚したいと思ったときに、教会の中で探す以外に、チャンスがとても少ない。そもそも、日本の教会の男女比は3:7くらいで、女性が圧倒的に多いので、なかなかクリスチャンの結婚は大変だなと思っていたんです。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 教会の中で出会いがなかったら、もうどうしようもない。

f:id:jios100:20180823113525j:plain おっしゃる通り。だから、クリスチャンの結婚に対して、できることがあるんじゃないかなと、ずっと考えていたんです。ニーズもあるなと思って。3~4年前から、そういうことをずーっと考えていました。そして、今年結婚相談所を立ち上げました。

 

 

▼結婚相談所を立ち上げたキッカケ 

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↑津村さんの結婚相談所「Lita marriage service」のチラシ

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実際に、今年、結婚相談所を立ち上げた。そのアクションに踏み切ったキッカケは何だったんですか? 

f:id:jios100:20180823113525j:plain 実際にクリスチャンの結婚相談所をやっている方と知り合ったのがキッカケですね。「ペテロの涙」というクリスチャンの結婚相談所を運営している方と、今年の1月に知り合って。はじめは、不動産の仕事が欲しくて会ったんですよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 不動産の仕事で・・・?

f:id:jios100:20180823113525j:plain ホラ、結婚すると、新しい物件を探すじゃないですか。だからそこで物件を探している人たちと繋げてほしいなと思って。元々は、そういう不動産のビジネスの目的で会ったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、それが結婚相談所を立ち上げるキッカケになった。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。話を聞いているうちに、「あれ、これ自分でやってもいいんじゃないかな」と思い始めてですね。結婚相談所というビジネスモデルは昔からあるし。1月にペテロの涙の人と出会って、3月末までに、教会の独身メンバーたちを呼んで、ヒアリングをしました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ヒアリング・・・?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain つまり、何に問題意識があるかっていうことですよね。ビジネスにするためには、まず現場のニーズを知らないといけないので。それで、ある程度の方向性を固めて、4月に結婚相談所をスタートさせました。Lita(リタ)という名前です。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 元々あった問題意識をビジネスに発展させてしまうなんて・・・。普通発想はあっても行動までできませんよね。スゴイなぁ。

 

 

結婚相談所を始めて

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↑お見合いのための場所は必ず津村さんが下見をしている。

f:id:jios100:20180702131349j:plain Litaっていうのは、どういうサービスなんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain いわゆる、仲人型の結婚相談所です。アプリとかもありますけど、仲人として人が介在しないと、単純な出会い系と同じになってしまいますから。Litaの場合は私が必ず全員と面談してから紹介するようにしています。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、全員と面談しているんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain はい。紹介する前に、会員さんの承諾を得られれば、必ずその教会に行くようにしています。牧師さんにも挨拶して、祈ってくださいとお願いしています。牧師さんに挨拶をすると、その会員さんの本当の人柄も見えますし。あとは、教会からも信頼してもらえるように注意しています。勝手にやっていると思われると、会員さんにとっても良くないので。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ものすごく細かいところまで配慮なさってるんですね。ところで、気になっていることがひとつ。

f:id:jios100:20180823113525j:plain なんでしょう?

f:id:jios100:20180702131349j:plain Litaって、値段設定がめちゃくちゃ安いじゃないですか。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 安いですね(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ゲロ安ですよね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain 普通の結婚相談所は、入会金10万、月額1万とかザラですからねLitaは、入会料28,800円、月額2,980!)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その意図はどんなところにあるんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain これは、実際にやってみて、多少変わってはきているんですが、元々は若い内から結婚に向けて動いてほしいなと思ったからですね。20代でさえ、クリスチャンの結婚っていうのは狭き門じゃないですか。動き出すのは早ければ早いほどいい。そう思った時に、20代でも気軽に使える値段設定っていうのをまず考えました。将来的には、クリスチャンなら、社会人になったら必ずLitaを使うっていうくらいを目指して始めました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実際にやってみたところ、どうなんですか? 若い人も利用されてるんでしょうか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり当初の方向性とは違いましたね。

 f:id:jios100:20180702131349j:plain 一体どんなとろこが・・・?

 

 

見えてきた課題 〜結婚相談所は教育の仕事〜

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↑新宿のオアシスブックセンターにもLitaのチラシがあります。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain フタを開けてみると、少し現状は違って。20代はそもそも、結婚に対してのモチベーションが低いってことが分かったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 確かに、僕も20代ですが、登録するのは抵抗があります。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですよね。もちろん、20代でも登録していただいている方はいらっしゃいますが、どうしても率としては30代、40代が多くなる。値段の問題じゃないんだっていうのが分かったんです。安ければ若い人も使うと思ったんですが、そうではなかった。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 現状はどうだったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 一番は、人間の心のモチベーションですよね。本当に結婚したい人は、値段なんて関係ない。100万円でも200万円でも構わないから、結婚したいと。そのぐらい切迫感がある。20代には、まだその切迫感がないんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain やっていく内に、課題が見えてきたんですね。何が必要だと思いますか? 

 f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり、教育ですよね。教育的側面がものすごく必要。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 私も、日本のクリスチャン界は「結婚観」について教育不足だと感じています。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですよね。究極的には、結婚相談所って、紹介じゃなくて、教育の仕事だと思うんですよね。結婚に関して、クリスチャンとそうでない人は、そもそもの考え方が根本的に違う。神様は、「サポーター・助け手」として女性を作ったじゃないですか。その女性と男性という2つの存在が1つになるっていうのが、結婚の基本じゃないですか。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain その通りです。

f:id:jios100:20180823113525j:plain 「好きだから結婚する」っていうのは、クリスチャンにとっては違うんです。もちろん、感情は神様が作るものだし、自由意志も与えられていますが、でも、「結婚」ってもっと奥深いものだと。人間の感情って移り変わるものじゃないですか。ずっと「好き」でいられるんですかと。そうじゃなく、クリスチャンの結婚は、「愛する」という決断をして、家庭を作るっていうことなんですよ、って思うんですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 本当にその通りです。その価値観が当たり前になってほしいなと思います。

 

 

経営者としての難しさ

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンはありますか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain とにかくいろんな人にLitaのサービスを知っていただいて、結婚するカップルの率を上げていきたいですね。このサービスがあったから結婚できたという人が増えて、幸せな家庭を増やしたいっていうのが根本にあります。結婚してからのサポートのプログラムもやっていけたらと思います。夫婦の関係改善のプログラムとか。

f:id:jios100:20180702131349j:plain クリスチャンの経営者としての難しさはありますか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。何だろうなぁ・・・やっぱりお金を求めるかどうかっていう葛藤は、クリスチャンではない人より多いと思います。普通は、お金をできるだけ稼いで、企業をできるだけ長く存続させるのが目的じゃないですか。でも、クリスチャン経営者が、お金を目的にすると、神様に叱られる(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain お金についての葛藤はありそうですね。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain 経営者としてよくある葛藤は、日曜日に仕事をするかどうかということだと思います。お店だったら、日曜日も仕事した方が絶対に儲かるんですよ。不動産っていう仕事も、土日が稼ぎ時です。当たり前ですよね。休みで、物件を見に行くのは土日なんですから。

だから、日曜日に物件を見に行きたいと、お客様に言われたときにどう対応するか。私の場合は、できるだけ土曜にずらしてもらうか、それでも無理なら日曜の午後にしてもらうようにしています。要するに、目先の利益か、神様か、どちらを優先するかっていう問題だと思うんですよね。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも心に留めている聖書の言葉があれば教えてください。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」
(テサロニケ人への手紙 5:16~18)<新共同訳>

これは洗礼を受けた時から握っている聖書の言葉です。シンプルに、神様が「喜べ、祈れ、感謝せよ」と言っていることを守ればいいんだ! っていつも思っているんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain いつも神様を信頼して、自分の問題意識をすぐに行動に移して解決しようとする津村さん、カッコいいです・・・!!! ありがとうございました!

 

↓↓↓津村さんの結婚相談所、【Lita marriage service】のリンクはこちら↓↓↓

marriage-lita

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(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「神学生」ってそんなに特別なの?

教会に行くと、「神学生」という謎のポジションの人がいます。彼らはそんなに特別で、エラいのでしょうか?

 

 

▼「神学生」ってなんぞや

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 教会に行くと、ちょっと若くて、メガネをかけている、無口で真面目そうなお兄さんがいる。「あのお兄さんは、『神学生』なのよ。偉いわねぇ」とオバちゃんたちが言う。私は、子ども心ながらに、「神学生ってなんぞや」と思っていた。教会の人たちは、「牧師」や「伝道師」に接するように、「神学生」にも接していた。子どもの私から見た「神学生」は、教会の雑務をこなす、アシスタントのように見えた。

 大きくになってくると、「神学生」というのは、「神学校」という学校で聖書とかを勉強してるらしい人だと分かった。いずれ、「伝道師」とか「宣教師」とか「牧師」とかになる人たちなんだろうなと思っていた。

 私がイエスと出会ったのは、16歳の時だった。すぐに信じた。その時の喜びは、比べようがない。嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。世界が180度変わって見えた。私の夢は、すぐに「牧師になってこの喜びを伝えたい!」というものになった。今でもそれは変わっていない。

 そこで、違和感を覚えた。あれ、待てよ。「神学生」は、私と同じ夢を持っているはずだ。このイエスの素晴らしさを伝えたくて、クリスチャンたちを教えたくて、励ましたくて、神学校に入学したはずだ。それなのに、なぜ。私は、今まで出会った「神学生」たちを思い返していた。どうして彼らは、絶望的な顔をしているのだろう。今まで出会った神学生は、それはそれは暗く、無口で、真面目は真面目だが人と関わらず、いつも肩を落としているように、私には見えた。

 もっと大人になると、だんだんと問題点が見えてきた。今回は、「神学生」という呼び名にそもそも意味はあるのか。「神学生」を特別扱いするデメリット。「神学生」と他を区別することで起きる怠惰の危険性、について書こうと思う。

 

 

▼「神学生」はただの「大学院生」

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 まず、「神学生」という呼び名を考えたい。「神学生」とは、「神学校」という学校に通っている人を指す。では、「神学校」とはどういうところなのか。聞いてみると、聖書や神学、ヘブライ語ギリシャ語を学ぶのだという。組織神学とかよくわからんやつもやるらしい。

 つまり、簡単にいえば、「神学校」というのは、「聖書」や「キリスト教」を学んでいる大学院である。「神学生」はそこで学ぶ「大学院生」である。たまに学士からの神学校や、博士課程の神学生もいるが、とにかく、「大学生・大学院生」と変わりがない。つまり、教会では、なぜか「ただの大学院生」に「神学生」というラベルを与え、呼んでいるのだ。

 呼び名だけならば、まだいい。しかし、多くの場合、「神学生」には、過剰な期待がかけられる。「牧師や宣教師、伝道師のたまご」という目で見られ、品行方正な生き方を期待される。「教会のことは手伝って当たり前」というプレッシャーがかけられる。聖書に詳しく、どんな質問にも的確に答えられるという印象をもたれる。素晴らしい人格者。ピアノやギターもできる。そんな期待が、「神学生」という呼び名に、無意識に込められている。 

 誤解を恐れず言えば、この期待は全くの間違いだ。神学校に言っている学生は、そのような人ではない。ただの大学院生だ。他の工学部の大学院生や、法学部の大学院生と、何ら変わりはない。ただの学生に、そのような期待をかけてしまうのは、筋違いだ。

 もっと誤解を恐れず言えば、神学生の中には、「他に行くところがなかった」という人もいる。社会で失敗してしまった、活躍できなかった、認めてもらえなかった。そのリベンジとして来ている人も、実際のところ、いる。これは悲しいが、現実だ。私の友人は、都内の大学院を卒業後、ある神学校に入学したが、こう言っていた。

 

「神学校に行けば、もっと聖書のことを学べると思っていたけど、勘違いだった。そもそもクラスメイトに、勉強ができない人が多すぎる。大学レベルのことについていけていない。彼らのペースに合わせるので、授業の進みが遅く、すごくフラストレーションがたまる。これなら、自分で本を読んで勉強する方がマシだった」

(とある”神学生”のつぶやき)

 彼は、そう落胆し、神学校を退学した。「神学生」は、学力面で実は一介の学生より劣っていることもあるのだ。

 もっと言えば、牧師や宣教師にもそのような期待をするのも筋違いである。私たちが、期待をおける人間はいない。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」(マタイ11:11)というのは本当なのである。

 人間に期待はできない。では、誰に期待ができるのか。私たちが期待をおける方はただ一人、神であるイエスである。それ以外は、みな同じ人間だ。ミスもするし、不完全で、時代の枠から出ることのできない存在である。聖書にはこうある。

 

どんな知恵も英知も、はかりごとも、主(神)の前では無きに等しい。

箴言 21:30)

 彼らは、「聖書について勉強をしている」というだけの学生である。彼らが聖書を研究しているように、法学部の学生は法律を研究している。会社で働く人間は、働くスキルを極めている。そこに、上下関係はない。どちらが偉くて、どちらが劣るという関係ではないのである。「神学生」というラベリングに、意味はない。

 

 

▼無駄なプレッシャーを「神学生」に与えるなかれ

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 この「神学生」、かわいそうなことに、いらないプレッシャーと日々戦っている。先に述べたように、教会の中では、他の人と区別され、比較され、過剰な期待をかけられる。それが分かった時、私は、「ああ、だから僕が出会ってきた『神学生』はみな、無口で、表面だけ真面目で、人と関わらなかったのか」と納得した。彼らは、この意味不明な期待に応えようとするあまり、ボロを出すまいと、人との関わりを避けていたのである。なんとかわいそうな神学生! 彼らは、必死で素の自分を隠し、表面上の「神学生」を演じていたのだ。

 神学校によっては、「携帯電話の使用禁止」や、「異性と会うのを禁止」(または許可が必要)しているところもあるという。これには開いた口がふさがらない。お前ら、いつの時代のアーミッシュだよ。と言いたくなる。今日び、アーミッシュの若者は馬車でデートし、ユダヤ人の超正統派だってナイショでケータイを使ってるし、ナンパもしているのに・・・。キリスト教だけが時代遅れ。そのような禁欲主義は、隠れてコソコソする技を身につけるだけだ。だから、牧師のカネ・女問題は後を絶たない。ああ残念だ。そのような禁欲主義は「肉のほしいままの欲望に対して、何のききめもない」。猛省せよ。

 

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

(コロサイ人への手紙 2:20~23)

 

 クリスチャンは、もう一度、「ラベリング」をやめる必要がある。牧師だろうが、宣教師だろうが、牧師の子どもだろうが、神学生だろうが、クリスチャンの家庭に生まれていようが、大人になってからクリスチャンになっていようが、全くもって関係ない。クリスチャンは、同じ、「赦された者」として、お互いを「不完全で弱い存在」だと認め合いつつ、愛し合う必要がある。お互いに、支え合い、助け合う必要がある。そして、足りないところを補い会い、それぞれの役割を果たすことで、成長していく必要がある。

 

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(中略)

キリストによって、からだ(共同体)全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:13~16)

 

 福音を語ったり、福音に生きるのは、牧師や神学生だけの役割ではないのだ。

 

 

▼自分で学ぶ気概を持とう

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 「神学生」というフレーズを使うと、怠惰になる危険性がある。それは、無意識に「神学生」と自分を区別してしまい、自ら学ばなくなるという危険性である。聖書を見れば、「自分で聖書を読む」のがいかに大切か分かる。

 

この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。

使徒の働き 17:11~12)

 ベレヤの町の人々は、パウロが伝えた話も鵜呑みにせず、聖書を自分たちで調べて、そして信じるという判断をしたのである。聖書は、それを「素直で熱心だ」と表現している。新改訳第3版では、彼らは「良い人たち」と表現されている。

 もちろん、「牧師」や「神学生」はそれなりの時間や労力、財力を投資して、聖書を学んでいる(学んでいた)はずである。だから、彼らの知識にあずかるのは、方法論としておおいにアリだ。むしろ、効率が良いので、どんどん教えてもらったらいいと思う。しかし、「彼ら"しか"語る資格がない」と考えてしまっては黄信号。その失敗を犯したのは、ローマ・カトリックで、最終的には、「一般信徒は聖書を読む資格がない。司祭が聖書を読み、信徒は聞くのみ」という文化になってしまった。それに異を唱え、「聖書は誰でも読める」としたのがルターの宗教改革だった。

 そもそも、なぜ大学に行くのだろうか。それは、「その大学にしかない情報、つまり蔵書や論文を読むため」である(もちろん他にもあるが、私の言いたいことを汲み取ってほしい)。かつては、新しい情報を得るには、本や論文を読むしかなかった。だから人々は大学に集い、本を熱心に読んだ。

 その前提に立つと、現代において、大学に行く意味はなくなったとは言わないが、薄まったといえるだろう。なぜなら、ある程度の本、論文、情報は、インターネットを通して、自分の手に入るようになったからだ。インターネットの開発のそもそもの目的が、遠くにある大学の書籍や論文を読めるようにするためのシステムだったと言われている。今や、死海文書もgoogleで読める時代になった。また、様々なセミナーなど、学ぶ機会も、神学校以外にたくさん提供されるようになっている。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代が来ているのである。学ぶリソースはいくらでもある。「神学校」なんてところにいかなくても、いくらでも学べるのだ。

  クリスチャンは、自分で学ぶという努力を、怠ってはいないだろうか。自ら学ぶことができない人は、神学校に行っても、結局、授業がツマラナイだとか言い訳をして、学ばない。結局は、学ぶ心、学ぶ姿勢があるかどうかなのだ。まず、自分自信で学ぶ気概を持とうではないか。

 

 

▼おまけ:「PK・かたくりこ」という謎の呼び方

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 オマケに、クリスチャンの世界には、まだまだ謎の呼び名がある。私は、こんなくだらないラベリングは、即刻やめればいいのにと、悲しく思っている。今回は、2つ解説しよう。

 

【PK】

・Pastors Kidsの略。「牧師の子ども」という意味。某ゲームキャラクターの必殺技、「PKファイヤー」ではない。牧師の子どもと、他の子どもに何の区別も差別もないはずなのに、なぜかこうやってラベリングをする。周囲は、「牧師の子どもだからイイ子に違いない」という間違った印象を持ち、自分たちは「真面目に生きなきゃ」という、間違ったプレッシャーを感じている。冗談でよく、「Problem Kids」の略だとも言われる。牧師の子どもであろうが、他の子どもであろうが、本質は同じ。この呼び方には、デメリットだけがあって、メリットが全くない。何がPKじゃ。サッカーじゃねえんだからさ。

【かたくりこ】

「片親だけがクリスチャンの子ども」の意味。両親どちらかだけがクリスチャンというパターンは以外に多く、このようなジョークの呼び名がついている。これも、ナンセンスだ。クリスチャンの信仰は、親によるものではない。自分でイエスを信じるかどうか、ただそれ一本のみである。このような呼び名がつくと、「片親だけがクリスチャンだと劣等だ」と感じる人もいるのではないか。そんなことは全くない。この呼び名も、センスが全くない。福音を理解していない。他にも、「モンブラン」という呼び方もあるそうだが、意味が分からないので誰か教えて。

 

 こんな呼び名にいちいち腹を立てるなと思う人もいるかもしれない。しかし、逆に言えば、このような小さなことから変えていかなければ、無意味なプレッシャーをお互いに与え続ける、教会の悪い習慣は、変わらないと思う。

 

最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

(ルカの福音書 16:10)

 


(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。