週刊イエス

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【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(前半)

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文です。2本立ての前半です。

 

 

▼「聖書と政治」という本

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 私は、政治記者をしている。自民党幹事長、総理大臣、野党などを担当し、取材した。まだ経験は浅いが、今も国会の現場で取材をしている現役の記者だ。同時に、イエスを救い主と信じるクリスチャンである。

 「聖書と政治」という本を、友人に勧められた。「聖書」と「政治」というキーワードが、自分にピッタリだった。すぐ手にとり、読んでみた。面白い。翻訳の影響もあり、少し読みづらさはあったが、扱っているテーマは幅広く、どれも興味深いものだった。

 著者のリチャード・ボウカムは、「イエスとその目撃者たち」でも有名なイギリスの聖書学者だ。本書「聖書と政治」で、ボウカムは、創世記から黙示録まで聖書の様々な書簡に触れ、教会と国家の関係、「エステル記」をユダヤ人の物語として読むことや、核の脅威をクリスチャンとしてどう考えれば良いのかなどを論じている。

 今回は、「聖書と政治」の本の中から、私が個人的に気になったポイントに触れ、感想を述べたい。

 

 

▼1:「聖別」の意味 ~教会と政治の関係~

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 聖書は、イスラエル「聖なる民」とたびたび表現している。

 

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」

レビ記 19:1~2)

 「聖なる」という日本語を聞くと、「きれい・汚れていない」というニュアンスがあるかもしれない。しかし、聖書の「聖さ」には、別の意味がある。ボウカムは、「聖なる・聖さ」を次のように定義する。

 

イスラエルは神の契約の民であり、聖さの特別な関係において神と結ばれている。聖さの意味は本来、区別することである。神は特別な意味で、イスラエルの神であることを誓約された。その結果、イスラエルは他の諸国から、神ご自身の民として区別される。(P.65)

 「聖さ」は「汚れていない」という意味ではなく、「他と区別されている」という意味である。よく、「イスラエルは聖なる民」と言うと、「他の国は汚れているのか」と言う人がいるが、それは間違いだ。彼らは、素晴らしいから選ばれたのではない。ただ主権者たる神が、なぜかイスラエルという国を選び、彼らに使命を与えたのである。イスラエルは、神に選ばれ特権を得たが、同時に義務や困難も背負ったのであった。

 

 さて、現代の「クリスチャン、教会の共同体」はどのような存在なのだろうか。「クリスチャン・教会の共同体」も、イスラエルのように神に選ばれ、「区別」された存在である。ボウカムはこのように言う。

 

新約の教会は、特に政治的ではない国際的な共同体として、旧約のイスラエルと連続であり、また非連続でもある。イスラエルのように教会は、その生活のあらゆる面において神に献身した聖なる民であるように召されている。それゆえレビ記の標語(レビ19:2)は、ペテロの手紙第一の1章15~16節において教会にも適用される。(P.76)

 ボウカムが言及したペテロの手紙の記述は以下である。

 

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

(ペテロの手紙第一 1:15~16)

 現代の「教会の共同体」は、イスラエルと全く同じ存在ではない。ローマ11章を読めば、神がイスラエルを選んだ選びは、いまだ変わらないというのは明らかだ。しかし、「神が選び、区別した」という意味では、同じである。ペテロが、このレビ記の記述を引用し、教会の共同体にも当てはめていることから明らかであろう。

 このように書いた後、ボウカムは、教会にチクリとクギを刺す。

 

教会はその普遍的な開放性と、その根源的な聖さへの献身において、より終末的理想に近づくことを目指している。しかしそれができるのは、教会が政治的存在ではないからである。それゆえ教会は常に政治的存在になる誘惑に抵抗しなければならない。(P.76)

 

 教会が政治的存在になる。この誘惑は、想像しているより大きく、強い。

 昨今の日本のキリスト教の世界を見渡すと、この誘惑に完全に負けてしまっているケースが非常に多い。特に、特定の団体や教会のリーダーシップをとっている牧師や教育者たちが、この誘惑にハマっている。彼らは、自分の政治活動は個人の自由だと言い訳をして、自分が持つ影響力を利用している。彼らは、自分の行動や発言が、どのような政治的影響を与えるか考えず、意図的に無視している。

 神学的には非常に慎重な人が、政治の話になると、なぜか途端にタガが外れてしまう。聖書を学ぶはずの団体で、政治色が濃い憲法の勉強会をひらく。特定の政治団体に偏った政治思想を押し付け、国会議事堂の前で祈るよう促す。クリスチャンのリーダーが、政治色の濃い本を出版する・・・etc。

 冷静に見れば、そのような行為は、「政治的存在になってしまっている」のは明らかだ。しかし、誰もそれをおかしいと言わない。「そんたく」しているのである。この状況自体がもうアウトだと、私は思う。

 さらに踏み込めば、私が見聞きするリーダーたちの「政治的主張」は、乱暴に「保守・中道・革新」に区分すれば、圧倒的に「革新」に偏っていると思う。もっと大胆に踏み込めば、ほぼほぼ共産党化」している。私はこれを大変懸念している。

 

 教会やクリスチャン団体が、政治と関わる際に注意しなければならない理由はたくさんあるが、その中で特に強調したい点が2つある。

 ひとつは、神がクリスチャンや教会の共同体をこの世界から「区別」したから。

 もうひとつは、教会や団体が政治に深く関わると、政治団体に利用される危険性が高いからだ。私から見れば、ある教団・団体は革新的な政治組織に乗っ取られてしまっていると言っても言い過ぎではない。

 もちろん、これは「革新が悪い」とか、特定の政治思想への批判ではない。ただ、クリスチャンとしての本来の生き方から逸れてはいないか、という警告である。

 

 聖書は、「政治に関わるな」と教えてはいない。しかし、ボウカムが言うように、聖書が目指すものと、現代の政治が目指すものは、「区別」されている。

 クリスチャンが目指し、待ち望んでいるのは「イエスの再臨」である。この世の中は不完全で、いつの日かイエスがこの地上に帰ってくる。そして、イエスは新しい天と地を創造する。イエスを信じる者たちは、その中で神を礼拝し、楽しみ、喜ぶ。

 現代の政治が目指すものは、リーダーや体系によって様々だが、この国を、社会をより良くしていこうというのが基本だ。この地上をbetterにするのが目的である。これは、終末を待ち望むクリスチャンの考えと、明らかに異なっている。クリスチャンにとって、この地上は「仮住まい」であり、一時的な命や場所でしかない。

 聖書が言う、クリスチャン・教会の共同体の存在の本来の目的は、政治の世界で活動することではない。共同体の目的は、もっと大きな、終末的理想なのである。(無論、個人が政治の世界で活躍することを否定するものではない)

 

 

▼2a:弱者と「連帯」したイエスの姿

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 ボウカムがこの本で何度となく繰り返しているのは、「イエスは弱者と連帯した」という表現である。おそらく、これこそ彼が最も強調したかったポイントである。

 

エスが無力な人々と連帯したことは、私たちに政治の限界を(政治がどんなに重要であっても)思い起こさせる。エスに従う道がある。最も恵まれない人々との連帯を愛し、彼らの問題への政治的な解決の領域を超えていく道である。政治的な権力者は、例えばマザーテレサの働きを助けることはできるが、それを行うことはできない。(P.114)

 エスは、世の中から見捨てられた人、弱い人たちに寄り添った。高熱などの病気の人、夫を亡くした女性、ツァラアトという皮膚病の人、障害者、外国人の女性、不倫をしてしまい社会的に追放された女性、などなど・・・。イエスは、社会的に「汚れた存在」とされていた人たちのものに歩み寄り、彼らに触れ、彼らと一緒に食事をしたのである。

 イエスの姿は、「個人的でミクロなアプローチ」である。エスのアプローチは、社会全体を良くしよう、というマクロな方向性ではない。人ごみの中に、1人の心の病んでいる人を見つけるというアプローチである。ザアカイのエピソードは、イエスの姿勢を分かりやすく表している。

 

 ザアカイの話を簡単に紹介しよう。(詳細はルカの福音書19章を参照)

 ザアカイという人がいた。彼は、税金を取り立てる役人だった。彼は、税金を過剰に取り立てて利益を得ていたので、町の人たちからは嫌われていた。そんな時、イエスが町にやってくる。ザアカイは、イエスを一目見ようと木に上る。そんな時、イエスがザアカイに声をかける。「木から降りてきなさい。今日あなたと一緒に食事をしよう」。イエスはそう言った。イエスは人ごみの中から、ザアカイを見つけ、彼に寄り添ったのであった。ザアカイは心を溶かされ、不正に取り立てた税金を返すと約束した。

 このエピソードから、イエスはしばしば「個人的・ミクロなアプローチ」をしたと捉えられる。しかし、ボウカムは、「イエスのアプローチは”個人的”なものだけではない」と主張する。

 

エスは確かに人々と個人として出会ったが、彼らが属している特定の社会的集団をも尊重した。エスに出会った人々は、福音書の物語においては個人として現れるが、ある人々は私たちにとって、ある社会的集団の代表者として現れる。福音書はイエスが関係した人々を集団として言及している。(中略)このように政治は、個人として個人を扱うよりは、社会の構造と集団を扱う。(中略)イエスが愛にあふれてすべての人々とさまざまな方法で一体となったという文脈においてこそ、エスが貧しい人々に「優先的」な関心を示されたことについて考察しなければならない。(中略)イエスがさまざまな集団を「優先した」のは、彼らが社会的、経済的、宗教的理由のために神の民の社会から相対的に排除されていたからである。(P.281~282) 

 ボウカムは、「イエスがザアカイに寄り添ったのは、彼が『取税人』という立場にいたからという理由もある」と主張する。それは病人でも同じ。「ツァラアトという皮膚病の人」、「『外国人』の『女性』」、「障害がある人」、などなど・・・いずれも「社会的に弱い立場」にあった人々である。

 その立場を決めるのは「政治」だ。だから、イエスは政治を全く無視したわけではない。政治によってラベリングされ、立場を決められてしまった、弱く、苦しんでいる人々だからこそ、イエスは寄り添ったのだ。ゆえに、私たちも政治と全く関係ないとは言えない。

 「政治」というときに、私たちは21世紀のポリティクスを念頭に置いてはならない。1世紀の「政治」は「宗教」とは切っても切り離せないものであった。「皮膚病」、「外国人」、「女性」、「障害がある人」、などなど・・・弱い立場にあった人たちは、なぜそのような立場にあったのか。その理由は、「宗教・文化」にあったのだ。

 実際、彼らが弱い立場に置かれた根拠は、聖書の記述だった。ユダヤ教では、障害がある人は祭司になれなかった。それはレビ記の記述が根拠になっている。ダビデの発言から、障害者は神殿に入ることができなかった。それらは全て、当時のローマの政治家が決めたのではなく、ユダヤ教の宗教的な文化が背景にあったのだ。

(もっとも、21世紀の政治も、全く宗教と無関係ではない。日本の政治においては、創価学会が母体の公明党がある。立憲民主党の議員らには仏教系の「立正佼成会」が支援する議員らがいる。他にも見えない宗教団体が背後にたくさんある)

 

 イエスは、そのような宗教的・文化的に「弱者」であった人々に「優先的」に接し、寄り添うことで、彼らを自由にした。これは、「政治」と全く無関係ではない。

 現代の政治は、より大きな形で弱者を支援する。例えば、我々は、「税金」を納めることによって、「生活保護」や「障害者年金」などのシステムの恩恵に預かっている人々を支えている。見えにくいが、これも立派な「弱者への優先的な寄り添い」にカウントしても良いと、私は思う。

 もっとも、さらに直接的に関わるべきと考える人もいる。「Servants」(サーバンツ)という団体のように、実際に東南アジアのスラムに住むというミニストリーを行っている人たちもいる。彼らのミニストリーは、ただ同じ場所に行って、一緒に住むだけ。教会を作ったり、システマチックな”布教活動”をしたりはしない。その行動は尊重されるべきものである。

 

 さて、本題に戻れば、クリスチャンにとって大切なのは、どのようなモチベーションで、政治に関わるかである。ボウカムは次のように言う。

 

新約の自由の理解は、他者からの自由ではなく、むしろ他者のための自由である。それはすでに旧約の社会的責任において暗示されている。(P.261)

外的な解放がその名に値するのは、人々が自由にされ、生きるのは他者のため、すべての他者のため、さらに彼らを抑圧する人々のためとなったときである。(P.232)

 ボウカムは、私たちが真実に自由になるのは、弱者と連帯(寄り添う)したときだ。と言う。その通り。こう考える時、「安倍政権・自民党政権が続けば、信教の自由を脅かす!」と声高に叫んでいる人たちのモチベーションは、どこにあるのだろうと疑問に思う。彼らに、社会的弱者への関心はない。自分たちの宗教活動が脅かされるという妄想に取り憑かれているだけだ。

 戦時中、本当にイエスに信頼した人たちは、信仰を捨てなかった。信仰を捨てて、神社参拝や天皇崇拝をしたのは、妥協してしまった人たちだった。私たちの信仰は、国の方針なんて人間が決めたもので、左右されはしない。迫害されたら、ラッキー、くらいの信仰を持とうではないか。

 

 

▼2b:マクロとミクロの世界

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  弱者と連帯したイエスの姿を見るとき、クリスチャンの政治への関わり方が少し見えてくる。この世の中の政治は、「マクロ的思考」で動いている。この「国」を良くしたい。この「社会」を良くしたい。GDPを上げたい。出生率を上げたい。政治とは、えてしてマクロな視点になりがちである。それは、ある意味で当然のことである。

 しかし、イエスは違った。「このザアカイという人の悩みは何だろう」というのが、イエスの視点だった。盲目の人に、「あなたは何をしてほしいのか」と、あえて聞いた。それが、イエスの姿だった。イエスは離れていても、言葉だけで病気を治すことができた。もし、「より多くの人を治した方がいい」のであれば、ちゃちゃっとやってしまえばよかった。しかし、イエスはそうしなかった。彼は、自分の足で歩いて、手でさわって、一人ひとりと関わったのである。

 イエスのアプローチは、「目の前の一人の人の心にふれる」という方法だった。クリスチャンは、ここに一つの政治的アプローチのヒントを見出すことができる。それは、マクロではなく、目の前の一人のためのミクロなアプローチである。どういうことか。分かりやすくまとめてみた。

 

【マクロ(政治的な)アプローチ】

・この国のGDPを高めたい

・この国の結婚率を上げて、出生率を上げたい

・日本のキリスト教の世界を元気にしたい

・日本人のクリスチャンが聖書が読めるようになってほしい

 

【ミクロなアプローチ】

・お隣の山田さんが明日食べられるものに困っている➔お惣菜をあげよう。

・教会の高橋くんが出会いに困っている➔祈ってみよう。誰かを紹介してみよう。

・隣の教会を元気にしたい➔まずは何が問題なのか聞き取りをしてみよう。

・教会の渡辺くんが聖書が読めるようになってほしい➔じゃあ一緒に読むよう誘ってみよう。

 

 この国を良くしたい。日本のキリスト教界をどうにかしたい。そう考えると、なかなか答えは見つからない。しかし、小さく考えれば簡単だ。隣の山田さんを笑顔にしたい。お隣の教会の佐藤さんが、車がなくて買い物ができずに困っているから、助けてあげたい。そういう小さく、個人的な解決方法を考えれば、簡単で、すぐに実行できる。これがミクロなアプローチだ。

 

 

▼前半まとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した。エスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。イエスの「ミクロなアプローチ」はクリスチャンにとって、とても参考になる。

 

 政治ほど、正解がなく、指針もなく、主張にバラつきが出るものも珍しい。実際に取材をしていて、政府の主張も、与党の主張も、野党の主張も、どれも納得のいく部分と、いかない部分がある。メディアの切り口も、日本の記者クラブ制度という極端な横並び体制にも関わらず、様々なものがある。

 一方で、クリスチャンには「聖書」という唯一絶対の指針がある。私たちは、まず「聖書」をベースに置いて、その上で政治と関わる必要がある。時に、社会的常識や風潮と、聖書の価値観が真っ向から対立する時は、冷静な判断力が必要である。

 イエスは、決してマクロな方法をとらなかった。彼は、「目の前の一人の人」に寄り添ったのであった。しかし、イエスのその姿勢が、結果として多くの人の心を打ち、2000年経った今でも、世界中の人々を魅了しているのである。ミクロなアプローチが、結果としてマクロなアプローチとなっているのだ。これが神の法則だ。クリスチャンは、このようなマインドを持って、政治について考えてみてはどうだろうか。 

 

次回は、

3:クリスチャンは現実の政治とどう関われば良いのか、

4:核の脅威と神の約束にどう向き合うべきか、

5:エステル記の解釈から、時代を乗り越えられなかったルターの姿を見て学ぶこと、

 

の3つのテーマについて語ろうと思う。

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

 

 

(了)