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【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(後半)  

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文・後半です。

 

 

▼「聖書と政治」の前半まとめ

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 前半の記事では、「教会と政治との関係」「弱者に寄り添ったイエスの姿」の2つのポイントから書いた。教会は世界から「区別」された共同体であり、その目的は究極的にはこの世の中にはない。ゆえに、「教会」という共同体単位としては、一定の政治的思想を、信者に押し付けるべきではない。

 エスは、「弱者」に寄り添った。それは弱者という「個人」に寄り添ったと同時に、彼らの「社会的立場」にも寄り添ったのである。弱者に寄り添うという視点で社会を見る時、政治とは必ずしも無関係ではいられない。大切なのは、どういう動機で政治に関わるかである。

 

 

▼3a:クリスチャンは、現実の政治にどう関われば良いのか

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 クリスチャンは、現実の政治をどう見て、どう政治と関われば良いのか。ボウカムは、まず私達に次のように警告する。

 

私たちと同時代の世界の文脈において本文を解釈するには、いくつかの危険がある。一つは私たちがあらかじめ考えている態度や計画を支持するために、本文を操作する危険である。これは聖書を政治的に使用するときの無意識の誘惑である。

なぜなら、聖書的権威は、政治的政策を正当化するためにたいへん有益な源となり得ることがあり、また私たちにとって、しばしば自らの政治的態度について自己批判的であることは難しいからである。聖書によって私たちの政治的態度が挑戦され変えられることは、私たちが思う以上に難しい。(P.56)

 クリスチャンは、自分の主張を裏付けるために、聖書の言葉を探す。この際、自分の主張を聖書によって正当化してしまう危険性がある。自分の主張が、聖書からくるものなのか、内心からくるものなのか、判別するのはとても難しい。聖書の「一部分」だけを抜き出すと、その危険性は増す。

 例えば、旧約の律法に「殺してはならない」と書いてあるから「戦争反対」と主張する人たちがいる。彼らは、同じ旧約聖書で神が「聖絶せよ」と命じ、イスラエルの民が戦争をした事実を意図的に無視している。これは極論だが、こう考えれば、短絡的に「戦争反対」「武力を持つのは罪」と言えないだろう。聖書全体で考えれば、「武力」の考え方については、深い議論になるのは当然である。聖書の一部分を抜き出し、短絡的な政治主張に結びつけるのは危険だ。

 ボウカムは、旧約聖書の基準について、このように述べている。

 

すなわち律法と預言者旧約聖書)は、私たちの政治生活への「指南書」にはなり得ないが、私たちの政治生活に対して「教訓的」であり得る。その教えを直接私たち自身に適用することはできないが、神がご自身の性格と目的を、イスラエルの政治生活において示される方法から、いかにそれが今日の政治生活に表されるべきかについて、何かを学べるかもしれない。(P.38) 

 旧約聖書は、私たちに「教訓」や「指針」を与える。神のキャラクターを知るエッセンスがある。しかし、それが今日の政治生活に、そっくりそのまま当てはめられるわけではない。あくまでも「何かを学べるかもしれない」レベルである。

 

 では、クリスチャンはどうしたらいいのだろうか。政治から遠ざかるべきなのだろうか。そうではない。クリスチャンは、「聖書」の基準を「指針」としながら、政治に関わればいいのだ。この際、大切なのは、「イデオロギー」と「聖書の価値観」が対立した場合、どちらを優先するかである。

 例えば、「憲法」について考えてみよう。あるクリスチャンの方々が声高に「憲法を守れ」と主張している。良いことだ。法律、憲法を遵守するのは、法治国家として当然である。

 では、憲法」と「聖書」が対立したらどうだろう。

 例えば、「憲法」にある「両性の合意」による結婚観は、「聖書」の価値観と合致する。これが、ある政治家が主張するように、「両者の合意」と改定しようとする議論が起こったら? その背景には、同性婚の是非がある。「両性」を「両者」と改定すれば、同性婚憲法違反ではなくなるからだ。もし「両性」ではなく、「両者の合意で結婚する」という価値観が憲法に書き込まれたら・・・。それでもあなたは「憲法を守れ」と言えるだろうか。これが、「政治的イデオロギー」と「聖書」どちらを主張の基準にしているか問われる瞬間である。

 同じように、同性愛や中絶について語る時、クリスチャンは「社会的価値観」との戦いを覚える。聖書を読めば、同性愛や中絶は、必ず葛藤を覚えるトピックである。しかし、社会的にはそれらに反対の声を挙げれば、「つるしあげ」をくらう。特に同性愛については、昨今では反対の声を挙げにくい「空気」が醸成されている。しかし、「聖書」を唯一絶対の基準と考えていれば、どうあっても同性愛を「そのままでいい」と捉えないはずだ。これもまた「社会的価値観・潮流」と「聖書」どちらに優先順位を置くか問われる瞬間であろう。

 

 クリスチャンが政治に関わる時は、まず「聖書」が唯一絶対の基準であるという大前提を守らなければならない。憲法脱原発、性的マイノリティーへの対応、安全保障の考え方などは、「目的化」しやすい。政治的イデオロギーは、「偶像化」しやすく、いとも簡単に、聖書の基準より大切なものとなってしまう。クリスチャンが政治に関わる際、この誘惑と常に戦わなければならない。

 

 

▼3b:権力とどのように向き合うか

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 クリスチャンにとっては、聖書が唯一、絶対の価値基準だ。しかし、同時に「聖書」の基準を自分の目的のために乱用してしまう危険性もある。ボウカムはこのように警告する。

 

現状を支持するためにローマ人への手紙13章1~7節をイデオロギー的に乱用することは、不正な政府への批判的な箇所に論及することによって訂正され得る。(57P)

 ローマ人の手紙13章は、有名な「権威に従え」と教える箇所だ。このような記述である。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(中略)同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その努めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7)

 この際、「権威」の念頭にあるのは、ローマ帝国である。この時代、クリスチャンの信仰は迫害されていた。しかし、パウロはあえて「権威に従え」と言っているのである。

 しかし、ボウカムは「だからといって、現行の政府のやっていることが全て正しいと決めつけるのは違うだろ」と注意している。これは正しい。同じように、聖書の言葉を根拠に、「牧師に従え」とか「教会の決定に従え」とか言って信者を縛り付ける教会もある。それは明らかな、聖書の言葉の乱用である。

 また、この箇所は、直接的には後段にある「納税」に関する記述であって、「なんでもかんでも上に従え」という命令ではない。ボウカムも、この箇所を「税金」に関する議論の際に用いている。税金に関する議論はこのブログでは避けるが、イエスははっきりとローマの納税は認め、ユダヤの神殿税の正当性については否定したが「彼らを怒らせないために」納税するようにしようという姿勢を示している。

 

 ローマの箇所から読み取れるのは、神が定めた権威の前に正しくあろうとするのは良いが、権力を正当化するために聖書を用いてはならないという至極当然の教訓である。

 権力は常に暴走する危険性がある。だから、権力をチェックする存在が必要だ。旧約聖書の世界では、預言者がその役割を担っていた。アハブ王と対決した預言者エリヤとエリシャは、分かりやすい権力チェッカーだ。現代において、メディアがその役割を担っている。以前、「記者の仕事は、ある意味で預言者の仕事だ」と言われたことがあるが、まさにその通りだ。

 インターネットが発達した現代においては、誰もが記者になりうる。首相や大統領の発言録は、今や簡単に全文を入手できる。様々なメディアの記事も、読むことができる。発信のプラットフォームも格段に増えた。もはや、メディアはその特権を失いつつある。ただ、現場の空気感が分からないと、誤解してしまうことも多い。よくある「メディア批判」は、ほとんど現場の仕組みを知らない、的外れの指摘が多い。

 クリスチャンは、ある意味でこの世の「見張り人」である。クリスチャンこそ、メディアリテラシーを鍛え、情報を正確に分析する訓練が必要だ。残念ながら、今はそうなってはいない。

 

▼3c:クリスチャンと民主主義・安全保障

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 民主主義の国家では、政治に参加するための一番の行動は、投票である。私たちは、この投票の重要性を、往々にして忘れがちだ。

 自民党杉田水脈議員が、「LGBTの人は生産性がない」とした論文を発表し、問題となった。インターネット上の議論を見ると、彼女を批判する声、擁護する声、様々あった。中には、「議員辞職すべき!」という声もあった。

 この議員辞職すべき!」という声だけは、言い過ぎだと指摘しておく。民主主義の国家において、国会議員は、有権者の投票で選ばれる。どんなにヘッポコの比例当選の議員であれ、国民の数万〜10万以上の票をもらって当選しているのである。とすれば、議員1人の後ろには、それだけの国民の票があるのだ。そう考えれば、杉田議員の主張は、ある意味で「国民の声」である。この論文を掲載した「新潮45」が、猛烈な批判の嵐によって休刊に追い込まれてしまったのは、本当に残念だ。

 杉田議員は何も法は犯していない。政治資金規正法など、法律を犯しているのであれば、「責任を取って辞職しろ!」との指摘は理解できる。誰も、犯罪者に投票しているとは思っていないからだ。しかし、主義主張を理由に「議員辞職しろ!」というのは、行き過ぎだ。それは、彼女のバックにいる国民の声を無視することであり、言論統制である。リベラルな論客は、実は自分たちが一番警戒し、批判している言論統制を、自分たちで行ってしまっているのである。

 杉田議員の主義主張に問題があれば、その審判は次の選挙の時、票として現れる。民主主義の国であれば、選挙の結果は絶対なのだ。この民主主義のシステムを、多くの人は誤解している。「アベはやめろ!」と叫ぶのは表現の自由だが、彼が民主主義のプロセスによって選ばれたリーダーであることを忘れてはならない。クリスチャンは政治と関わる時、情緒的でない、システムを理解した冷静さが必要である。

 

 また、クリスチャンの中には、「武力を持つべきでない」という人もいるだろう。私も明確な答えは持ち合わせてはいなかったが、とある安全保障の専門家が、こんなことを言っていた。

 

警察は一定の権力と武力をもって、法の秩序を守っている。それに反対する人は、ほとんどいない。国が武力を持つのも、国際的な法の支配を守るためである。例えば、国境を守ったり、化学兵器の使用によって国民を苦しめている権力者がいれば、国際的な法のルールに則って、武力を行使する。国の軍隊の目的や行為は、国境を超えているだけで、本質的には警察と同じである。

しかし、この秩序を守る行為が、国単位になった瞬間に、多くの人が反対する。その境目はどこにあるのか。甚だ疑問である。

 

 なるほど、一理ある。聖書にもこうある。

 

彼(権力者)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

(ローマ人への手紙 13:4)

 この言葉は、警察権だけに与えられているのか。それとも、国防や、安全保障、国際的な法の秩序を守る権利のために、この剣を用いてはいけないのか。よく考えてみてほしい。

 クリスチャンこそ、知っておかねばならない。唯一絶対の権威者は神であること。イエスもその権威を持っていること。しかし、神の許容範囲の中で、この世には人間が決めた権力者がいること。その権力者に敬意を払いつつ、感情的ではなく冷静に権力に向き合う姿勢が必要である。

 

 

▼4:核の脅威と神の約束

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 核の脅威は、現代において考えるべきトピックである。ひとたび核戦争が始まれば、世界は危機に陥る。環境を破壊し、人間は存続できないかもしれない。

(ちなみに、「地球を守れ」というのは筋違いだ。地球という惑星は、どんな状態でも存続する。正しくは、「人間が住める環境を守れ」である)

 クリスチャンは、この「核の脅威」をどう考えるべきか。ボウカムは、「神とノアの約束」に焦点をあてる。このノアは、「ノアの箱舟」の、ノアである。

 ノアの箱舟の時、大洪水が起こり、ただノアと家族を残して世界中の人が死んだ。神は、その後、このように約束する。

 

わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを討ち滅ぼすことは決してしない。(中略)わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。(中略)わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。(創世記8:21・9:11~13)

 神は、空に虹をかけて「もう生き物を滅ぼすようなことはしない」と約束する。だから、この神の約束を信じれば、「核戦争によって人類は滅びない」のである。だから、クリスチャンは核戦争を心配しなくてもいい。

 しかし、ボウカムはこう指摘する。

 

重要なことだが、人間の生存が人間の手の中にあるという状況において、神が全滅を防ぐという摂理があると「思い込んで」はならない。この状況においては、神は寛容にも私たちをその罪の結果にゆだねているが、そのことが神の裁きとなるかもしれない。言い換えるなら、神が人間の生存を約束しているからといって、人間はそれを確保する自らの責任を免れることはできない。(P.270)

 つまり、神が核戦争を用いて、この世の終わりを実現する可能性もある。そうボウカムは言っているのである。さらに言えば、たとえボウカムが間違っていても、「核戦争によって人類は滅びない」が、「核戦争は起こりうる」のである。

 しかし、私の個人的意見では、それでもなお、クリスチャンは核戦争を恐れる必要はない。なぜなら、クリスチャンは死を恐れる必要がないからである。

 クリスチャンは、イエスを信じた瞬間から、「永遠のいのち」が与えられる。全ての人は死んだ後、復活し、神の前で裁きを受ける。イエスを信じる者は、その後、神との永遠の関係を楽しむ。このような希望をクリスチャンは持っている。パウロは、「世を去ってキリストと共にいる方が望ましい」(ピリピ1章参照)とすら言っている。だから、クリスチャンは死を恐れなくて良い。むしろ今死んでもいいくらいの気概が必要である。

 クリスチャンが最も恐れるべきは、愛する家族や友達が、この素晴らしい福音を知る前に死んでしまうことである。ゆえに、クリスチャンが努力すべきは、福音を宣べ伝えることであって、人間の人間による、有限の、短期的な平和活動ではない。核戦争が起こらなくても、人はいずれ死ぬ。その前に福音を聞かなければ、核戦争が起ころうと、起きまいと、何の意味もなさないのである。

 平和活動は、「福音を聞く機会をできるだけ引き伸ばす」という意味で尊いしかし、クリスチャンがエネルギーを傾ける方向を、間違えてはいけない。聖書には、「神の日の到来を早めなければならない」とも書いてあるのだから。

 

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 

ユダヤ人の物語としてのエステル記 ~時代を乗り越えられなかったルターの姿~

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 「エステル記」は、聖書の中でもユニークな一冊である。エステル記には、「神」という言葉が一度も出てこない。そして、極めて「ユダヤ的要素の濃い」本である。

 エステル記がどういう物語かは、短いので本文を是非読んで欲しい。要約すれば、ユダヤ人の女性、エステルが、外国の偉大な王の王妃となる。王の側近のハマンは、ユダヤ人撲滅の策略を立てるが、エステルと叔父のモルデカイがこれを阻止する。ユダヤ人は外国人から身を守り、敵を殺して大勝利を収める。と、こんな内容である。

 このエステル記について、ボウカムはこう述べる。

 

エステル記は、多くのキリスト者の読者を不快にさせてきた。しかしルター以降、しばしば引用される見解は、ルター自身のエステル記の見方を代表するものではなく、後世の多くの批評の典型である。「私はこの書(第二マカベヤ)とエステル記に敵意を抱いているので、それらがまったく存在しなければ良かったのにと思う。なぜなら、それらはあまりにもユダヤ的であり、多くの異教的な間違いがあるから」B・Wアンダーソンは、多くのその後の不平を要約して、こう書いている。(P.234)

  ボウカムは、「ルター自身の見解ではない」とある意味、ルターを擁護している。しかし、ルターがユダヤ人に敵意を持っていたのは、彼の著作から明らかである。

 ルターは、ユダヤ人をどうしても好きになれなかった。ルターは、明らかにユダヤ人に対しての民族的な嫌悪を持っていた。現代において、彼の考えは明らかに間違っているのは、ホロコーストの経験から、全世界が知るところとなっている。

 ルターが反ユダヤ主義から逃れられなかったという事実は、プロテスタントの信者にとって衝撃ではないだろうか。私は、初めて彼の主張を知った時、素直に驚いた。それまで彼は、聖書を自分の言語で読めるようにした、ヒーローだった。しかし、彼もただの人間に過ぎなかったのだ。ヒーローはイエスただ一人なのだ。

 このことから、ルターでさえ時代の常識には逆らえなかったと分かる。アメリカ合衆国の生みの親は、皆、敬虔なキリスト教徒だった。しかし、ネイティブ・アメリカンに対する差別意識、黒人奴隷の存在の容認など、現代では考えられない「常識」があった。私たちは「時代」という枠からは抜け出せない。この事実は衝撃的で、ある意味絶望さえ覚える。

 

 聖書にも、実はこう書いてある。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

(伝道者の書 3:11)

人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。

(伝道者の書 8:17)

  私たちは、時間を超えられない。人は、時代という枠に囚われて生きている。今の時代当たり前だったことが、100年後には当たり前でなくなっている。今の私の主張が、「彼はこの時代の常識から逃れられなかった」と言われる時代が来る。

 神は時間を超えられる。神は、その時代、時代に、少しずつ真理を明らかにする。玉ねぎの皮を剥くように、本のページをめくるように、少しずつ。でも確実に。死海写本が見つかる前と後では、聖書研究の根幹が違った。この先の時代も、常識が覆される時代が来るであろう。

 

 しかし、私たちの世代の議論は、決して無駄ではない。ルターは反ユダヤ主義から逃れられなかったが、ルターがいなければ、自分の言語で聖書が読まれることはなかった。カルヴァンの主張は全て正しくなかったが、彼がいなければ、クリスチャンの自由な経済活動は許されていなかった。

 ルターがもしホロコーストの時代を経験していたら、あるいは違う主張をしていたかもしれない。その意味で、幸か不幸か、ホロコーストの経験が、世界的に反ユダヤ主義を払拭する一助となったのである。ボウカムもそう述べている(P.250)。

 ただ、今の世界のメディアの傾向は、明らかに反ユダヤ主義に偏っている。日本語のイスラエル関連のニュースは酷すぎる。取材する前から書くことが決まっている。記者失格だ。イスラエル軍のメディア関係者は、「日本のメディアは共同通信NHK朝日新聞もウソばっかりだ」とぼやく。私も同意見だ(※私が働いている会社はもっと酷い)。

 今の私たちの議論は、のちの時代の常識を作る糧となる。その意味で、クリスチャン同士で、時にぶつかり合いながら、恐れずに政治的議論をするのは、とても大切である。クリスチャンが政治を語るべきでないという主張は、ぶつかりたくない日本人にとって正しく見えるかもしれないが、その主張は明らかに間違っている。

 

 最後にボウカムの主張に戻れば、現代においてエステル記は、ユダヤ人の物語として読むべきである。神がイスラエルを「区別」して選んだ事実は、現在に至るまで有効だ。それはローマ書11章を読めば、明らかである。私たち外国人(異邦人)は、ありがたいことに「接ぎ木」された存在だ。だからこそ、イスラエルの民を尊重し、彼らのために祈り、国家としてのイスラエルに関心を持ち、イスラエルの祝福を祈り、彼らが待ち望んでいるメシアがイエスであると伝えるのは、とても大切なのだ。

 リベラル主義者のクリスチャンは、ねじ曲げられたメディアの情報を信じて、国家としてのイスラエルを批判する。それは本当に正しいのか? あなたは聖書にハッキリと書いてある神のイスラエルに対する約束と、あなたの政治的主張、どちらを大切にしているのだろうか。

 

 

▼全体のまとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

 

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した(つながった)。イエスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。カギは「ミクロなアプローチ」である。

 

3:クリスチャンは、政治的イデオロギーと聖書の価値観がぶつかった時、唯一絶対の基準としての聖書を選び取るべきである。聖書のある特定の部分だけを受け入れ、特定の記述を無視してはならない。権力を正当化する際に聖書を用いてはならない。常に心の動機をチェックする必要がある。

 

4:クリスチャンは世の終わりを待ち望むべきである。永遠のいのちがあるのだから、死を恐れる必要はない。クリスチャンがエネルギーを傾けるべきは、この世の平和維持活動ではなく、福音を述べ伝えることである。

 

5:私たちは時間という枠を超えられない。しかし、今の議論が後の時代の議論を作る。クリスチャンは、政治的議論を避けず、積極的に議論したら良い。エステル記はユダヤ人の物語であり、クリスチャンは現代の国家としてのイスラエルに関心を持つべきである。

 

 

▼おわりに・・・

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 ボウカムの「聖書と政治」は、とても面白かった。政治に答えはない。ゆえに、ボウカムの主張も、「Aも正しいけど、でもBも正しいよね」といった、曖昧模糊なものになっている。それは仕方がない。日本人もそのような議論が好きだ。しかし、それだけでいいのだろうか。大切なのは、しっかりと聖書の土台に足を据えながら、自分で情報を収集し、自分の考えを確立し、「波に弄ばれたりしないように」することだ。

 昨今のクリスチャンの議論を見ると、左派も右派も、聖書よりイデオロギーを優先してしまっているように、私は、どうしても感じる。かといって、政治を無視し、簡単に「クリスチャンは、政治と関わるべきでない」というのも違う。大切なのは、まず聖書の唯一絶対の基準を心の中心に据えて、この社会を観察することである。

 イエスは、この社会で見捨てられた弱者に寄り添った。今、自分がイエスのようにできることは何だろう。目の前の一人のために、何ができるのだろう。そう考え続け、行動し続けることが、一番大切なのではないだろうか。

 

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

 

(了)