クリスチャンの間でにわかな流行をみせる、子どもを学校に通わせず教会や家庭で教育する「チャーチ&ホームスクール」ですが、その是非についてどう考えたら良いのでしょうか?
- ▼「チャーチ&ホームスクール」とは?
- ▼チャーチ&ホームスクールの目的
- ▼チャーチ&ホームスクールの利点
- 1:聖書を深く学べる
- 2:社会性と自発性が身につく
- 3:やりたいことに集中できる
- ▼チャーチ&ホームスクールの難点
- 1:どうしても「お勉強」にハンディキャップが生まれる
- 2:環境によっては孤独と戦う必要がある
- 3:環境によっては必要な一般常識が抜け落ちる可能性がある
- 4:ホームスクールが苦い思い出になると信仰から離れる危険性がある
- ▼チャーチ&ホームスクールを始める条件
- <ホームスクールについて>
- 1:両親ともに積極的な意思があるのは絶対条件
- 2:十分な勉学の環境を整えること
- 3:子どもの「可能性」を潰さない・保証すること
- 4:十分な課外活動の機会を与えるべき
- 5:時間を無駄にしない工夫をすべし
- 6:徹底的に聖書を教えよ
- <チャーチスクールについて>
- 1:学校の体制をチェックすべし
- 2:学校の「教え」をチェックすべし
- 3:卒業生の姿をチェックすべし
- ▼私なりの結論 ~学校に行っても聖書は読める~
▼「チャーチ&ホームスクール」とは?
一部のクリスチャンの間では、「チャーチ&ホームスクール」なるものが流行している。子どもを学校に通わせず、教会や自宅で教育する方法だ。教会が運営する「学校」に子どもを通わせるのが「チャーチスクール」である。教会が運営しているだけで、いわゆるフリースクールと形の上では同じだ。一方、自宅で完全に家族で完結する「ホームスクール」を選択する人もいる。中には家庭学習をしつつ、週に何回か教会にホームスクールの家庭が集まるなど、「チャーチ」と「ホーム」の中間のようなパターンもある。
私もホームスクールを体験した。中学校3年生から学校をドロップアウトし、高校は受験しなかった。その間は、カナダやアメリカを放浪したり、バイト生活に明け暮れたり、自宅や教会で自主学習をしたりした。結果的に、そこそこ良い都内の私立大学に進学し、無事卒業、就職もできたので良かったとは思う。
一般の人は、高校はともかく、義務教育である小中学校に通わないと聞くと驚くだろう。これが、意外と日本では何とかなってしまうものである。もちろん「レール」に乗らない道は、苦労も多い。なぜ、そんな茨の道を選択するのだろうか。今回は当事者の1人として感じる、チャーチ&ホームスクールの利点と難点、課題について語りたい。また、今お子さんがいて、どうしようか迷っている方に対しても、私なりの意見を述べたいと思う。
当然だが、国によって教育の状況や価値観、社会が求めるスキルや経験などは全く違う。また、時代によっても教育の様相は全く違う。そのため、今回の記事はあくまでも21世紀の日本においてのチャーチ&ホームスクールについてだという点をご理解いただきたい。
▼チャーチ&ホームスクールの目的
なぜ「チャーチ&ホームスクール」をするのか。まずは、その理由について見ていこう。理由はただ一点。「神を知り、聖書を学んでほしいから」である。もちろん、各家庭によって様々な理由が他にもあるだろう。「まず家族との関係を大切にしてほしい」「学校は信頼できない」など、親の思いは様々だ。ちなみに私は「学校が嫌いだから」だったが・・・(笑)
しかし、クリスチャンがチャーチ&ホームスクールを選択する際の根本的な理由は、ひとつしかない。唯一の神を知り、聖書を学ぶことを第一にする。聖書に基づいた価値観を養う。これが最大かつ唯一の目的であり、理由である。聖書にはこう書いてある。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
(伝道者の書 12:1)
父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。
(エペソ人への手紙 6:4)
若いうちに、創造者である神を知る。クリスチャンにとっては、とても大切な言葉である。自分の子どもを愛しているからこそ、神だけは知ってほしい。イエスだけは信じてほしい。クリスチャンの親ならば、そう思うのではないだろうか。
そう思った親は、子どもを教会に連れて行ったりする。しかし、それでは十分ではないと感じる親もいる。そんな親たちが目をつけるのがチャーチ&ホームスクールなのだ。子どもが学校に行く時間を、聖書を学ぶ時間に充てたい。まずは聖書から神について学んでほしい。これが最大の目的である。もちろん、国語算数理科社会のような、一般的な勉強もする。当然だ。
学校に行かせないなんて可愛そうだ、虐待だ、という意見もあるだろう。実際、ドイツなどではホームスクールは犯罪と捉えられ、有罪となったケースもあると聞く。しかし、日本では「不登校」や「フリースクールに通っている」などと同等の扱いを受けている。私の妹は大学に入るまで全く学校に行かなかったが、義務教育の間は「学校に来ない不思議な不登校の生徒」の1人だったようだ。日本では、割となんとかなってしまうのである。しかし、そうは言いながらも、子どもが友達を作ったりする機会は必要である。それについては後述する。
学校に通わせないメリットなどあるのか。そう思う方もいるだろう。私は大いにあると思う。しかし、気をつけないと大きなデメリットになる場合もある。順番に見ていこう。
▼チャーチ&ホームスクールの利点
1:聖書を深く学べる
チャーチ&ホームスクールの利点は、何といっても聖書を学べる点である。それが一番の目的なので当たり前だが、ホームスクールでは、何よりもまず聖書の学びを優先する。大概のチャーチ&ホームスクーラーは、聖書を読む訓練を受ける。毎日聖書を読む習慣はもちろん、聖書の言葉を暗記したり、言葉の意味を考え議論したりする機会が、多くなる。その結果、圧倒的に聖書に詳しくなる。ただ日曜日だけなんとなく教会に通っている「クリスチャンホーム」の子どもと比べると、特にホームスクールの子どもたちの聖書知識は段違いに深い。チャーチスクールの場合は、その学校の方針や本気度にもよるが、やはり聖書の言葉に触れる機会は多くなる。ホームスクールの子は、格段に聖書に対する洞察力が高まる。これは圧倒的だ。
私は、大学に進学してクリスチャンのサークル活動に行ってみたのだが、ほとんどの人が聖書をあまり知らない事実に驚いた。がっかりした。日曜だけ教会行って適当に聖書をパラパラやっている人と、毎日読み込む訓練を受けたホームスクールの子どもたちとの差を、肌で感じた。ホームスクールの圧倒的利点は、子どもに聖書を教えられる点だろう。
2:社会性と自発性が身につく
学校に行かないと、社会性が身につかないのでは? という不安をよく聞く。ハッキリ言うが、それは幻想だ。実は、チャーチ&ホームスクールで育った子どもたちの方が、社会性がある。私はそう思う。なぜか。それは、自然と自分と違う年齢層、バックグラウンドの人々と関わらざるを得ないからだ。教会に行くと、自分とは違う年齢層の人と関わることになる。外国からの宣教師もいる。教科ごとに家庭教師をつける場合もあり、大人と関わる機会が増える。時間があるので、様々なイベントや習い事に行く機会も多く、自ら人と接することができるようになる。学校という「ハコ」に同年代の子どもだけ集めて教育されるよりも、実は社会性が身につくチャンスが多いのである。
また、日本の学校に通うよりも、圧倒的に「自発性」が身につく。日本の学校は、過度な同調圧力の教育で、はんこを押したような子どもを作ってしまう。その結果、他者の様子を見て自分の意見を決める消極的な子どもになりがちだ。また、学校では与えられたものを忠実にこなすよう教えられるので、いざ自由になると、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう人も多い。一方で、ホームスクールの子どもたちは、何をするにも自分でやらないといけないので、自発的になる。自分の頭で考え、行動し、意見を述べなければいけない。ホームスクールの子どもたちは、一般の学校に通った子どもたちより、傾向として圧倒的に自発性・積極性が身についている。チャーチスクールの場合は、規模にもよるが、ほとんどの場合はとても小さな規模なので、ほとんどホームスクールと同じである。
3:やりたいことに集中できる
ホームスクールの子どもたちの中には、自分のやりたいことが明確で、そのための特殊な勉強や訓練に没頭するケースも多い。例えば、英語を集中的に勉強するとか、webデザインを専門的に勉強するとか、カメラの腕を磨きまくるとかだ。以前このブログで紹介した中山さんは、弁護士になるのが夢だったので、法学部に入るための勉強を必死でした。その結果、見事、法科大学院在学中に司法試験に合格。ホームスクールから、弁護士になるという夢を叶えた。また、以前紹介したサムエルさんは、動画編集やカメラの技術を磨き、今は自分の事業を始めている。ホームスクールでなかったら、もしかするとその技術は磨けなかったかもしれない。
このように、ホームスクールの子どもたちは、クリエイティビティが磨かれる傾向にある。時間がたくさんあるので、やりたいことに集中できるからだ。もちろん、その時間を有効に使う必要があり、親はその手助けをする責任がある。これについては後述する。
▼チャーチ&ホームスクールの難点
もちろん、メリットばかりではない。デメリットも多い。では、どんなデメリットがあるのか見ていこう。
1:どうしても「お勉強」にハンディキャップが生まれる
やはり一番のデメリットは、いわゆる「お勉強」にハンディキャップが生まれることだ。この場合の「お勉強」とは、テストでどれだけ点数を取れるかの「お勉強」である。もちろん、勉強は個人の努力次第なので個人差はあるが、学校に通うよりは、さらなる努力が必要になるだろう。少なくとも、ハードルが上がるのは間違いない。
授業ではなく、自主学習が基本になるので、分からないことにぶつかると、それを乗り越えるのは大変である。特に理数系の科目は、専門的に教える先生が必須だ。この「お勉強」はとても重要で、親は子どもの勉強環境を整える必要がある。これについては後述する。
私は学校に通った中学時代までは、勉強に全く苦労した経験がなかった。授業を聞いていれば理解できた。しかし、高校に行かなかった3年間は大きかった。高校3年の年になり、大学の受験勉強をしようと参考書を買ったが、中身が全く理解できなかった。特に数学で苦労した。センター試験の数学模試で5点を取ったのは衝撃だった。個人の素質に関わらず、必要なカリキュラムが備えられていない中で自ら学ぶのは、やはりハードルが高い。「お勉強」の面では、学校に通うのと比べてハンディキャップが生まれるのである。
2:環境によっては孤独と戦う必要がある
学校に行かないと、同世代の友人を作るのが大変だ。教会の規模が大きければ、教会に同世代の友人がいるかもしれない。しかし、それは都市部に限られる。地方に行くと、ほとんどの教会の規模は小さい上に、同世代など皆無だ。課外活動や、習い事で仲間がいればまだマシだが、それすらないと友達を作る機会がない。ホームスクールの子どもたちは、友人がいない孤独と戦わなければいけなくなる。学校の目的は、勉強意外に「友達が作れる」という面もあるのだ。
私も高校時代は、同世代の仲間が少ないのが悩みだった。学校に行かないと、人と出会う機会も少なくなる。出会うのは中学の友人と、バイト先の仲間の数人だけ。私にとってそれは辛いことだった。以前インタビュー記事で紹介したサムエルさんも、北海道の田舎に住んでいたので、同じ悩みを抱えていたそうだ。友人を作る機会を備えるのも、ホームスクールをする親の役割だろう。
3:環境によっては必要な一般常識が抜け落ちる可能性がある
これは親の責任によるところが大きいが、あまり親が子どもの情報を遮断してしまうと、子どもが必要な一般常識を知らずに大人になってしまう可能性がある。学校に行けばそれなりに、一般的な常識は先生から、友人たちを通して身につく。それが良いか悪いかはさておき、社会で生きていくために必要な情報は、子どもに提供する必要があるだろう。
逆に、最近では子どもがパソコンやスマートフォンを使って、自ら情報を集めるようになっている。ホームスクールで子どもを放置すると、情報源がインターネットからのみになってしまう。最近は、粗悪なまとめ記事が横行していて、情報を正しく処理する力も必要になってきている。いわゆる「ネットリテラシー」を教える必要も出てきている。私のオススメは、近所の図書館を有効的に活用して、ネット意外の情報収集を身に着けさせるやり方だ。
4:ホームスクールが苦い思い出になると信仰から離れる危険性がある
最大のリスクは、「学校に行かせてもらえなかった」と子どもが思い、心の傷になるというものだ。ホームスクールが苦い思い出になると、多くの場合その人は信仰から離れてしまう。「神を知ってほしい」というのが一番の目的だったのに、逆に神から遠ざける結果となってしまうのである。残念ながら、私はそのようなケースをたくさん見てきた。
私の経験から、その原因のひとつとして、親の準備不足や、環境の整備不足が挙げられると思う。十分な環境が整えられず、子どもが不満を覚えてしまうのだ。勉強をさせてもらえなかった、可能性をつぶされた、孤独を強いられた・・・・・・そんな苦い思いが、いつしか神に対する苦い思いへと変換されてしまうのである。これではいけない。チャーチ&ホームスクールを始めるにあたっては、様々な環境を整える必要がある。では、具体的にどのような準備や環境の整備が必要なのか、私なりにまとめてみた。
▼チャーチ&ホームスクールを始める条件
<ホームスクールについて>
1:両親ともに積極的な意思があるのは絶対条件
大大大前提として、両親がともに積極的に「ホームスクールをやりたい」という意思があるのが絶対的な条件だ。夫婦が子どもの子育て方針で一致できていないと、そもそも上手くいかない。よくあるパターンは、女性の方が先に「やりたい」という意思を持ち、夫を巻き込むというケースだ。夫は心の中では反対していても、言い出せない。結局、夫婦の間で温度差を抱えながら、ズルズルとホームスクールが始まっていく・・・というのは最悪のケースである。
子どもから見て、そんな「夫婦不一致」のホームスクールなぞ、笑止千万。聖書の教えを体現できていない親を見て、どうして聖書に従おうと思えるだろうか。
キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(中略)「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」(中略)あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。
(エペソ人への手紙 5:21~33)
まずは夫婦の双方に、積極的にホームスクールをする意思があること。これが、ホームスクールを始める大前提である。
2:十分な勉学の環境を整えること
ホームスクールを始めるためには、子どもが本来学校で受ける程度の、またそれ以上の勉学の環境を整えなければならない。勉強しやすい机や文房具、静かな環境、必要な教科書、参考書、ドリルなど物理的なものから始まり、各教科を教えられる「先生」が必要である。親が先生役をできればいいが、子どもが成長し、中学校レベル、高校レベルになってくると、だんだんとハードルが高くなってくる。場合によっては「家庭教師・テューター」をプロに依頼する必要がある。参考書を渡して、「勉強しなさい」は、とてもじゃないがホームスクールとはいえない。それは子どもの放置だ。本来子どもが受けるべき教育環境を整える。これは最低条件である。
忘れてはならないのは、国語算数理科社会英語といった基礎教科に加え、体育、家庭科、音楽、美術(図工)、技術、情報処理、プログラミング、統計などといったその他の教科もカバーしなければならない点だ。音楽、美術、技術などは専門的な知識も必要であり、これまた親が無理ならば専門の教師を雇う必要がある。そのためには、かなりの投資をしなければならない。ホームスクールは、意外とハードルが高いのである。
3:子どもの「可能性」を潰さない・保証すること
なぜ、このような「お勉強」が大事なのか。疑問に思う人もいるだろう。ホームスクールは、そのような世の中の「お勉強」は頑張らなくて良いんだ。そういう主張の人もいるかもしれない。私はそうは思わない。聖書にはこう書いてある。
人はうわべを見るが、主は心を見る。
(サムエル記第一 15:7)
この言葉は、「主は心を見る」の部分に力点が置かれがちだし、実際それは正しい着眼点だ。しかし、「人はうわべを見る」という前半も大切である。そう、人はうわべを見るのである。実際、この世の中は、うわべで人を評価する。就職活動をする際には「どの大学を卒業したか」で人の価値が判断される。少なくとも日本の一般的な就職活動の基準はそうだ。高卒と大卒では、平均年収に開きがある。
学歴は人の優劣を定めない。しかし、この社会においては一定の「資格」のようになっている。実際問題、大卒でなければ教員にはなれない。医者になりたければ医学部を出なければならない。法曹になりたければ法学部に行って国家試験をパスしなければならない。看護師になりたければ国家試験を受けて、資格を取らなければならない。大卒でなければ採用されない会社はごまんとある。現実的な問題として、就職において学歴による「足切り」は存在する。
もっとぶっちゃけて言えば、「お勉強」は人生の道を切り開く「道具」になる。例えば外交官になりたいと思ったとしよう。そのためには、いわゆる「キャリア」の国家公務員となって「外務省」に入省しないといけない。そのためには、まず東京大学(できれば法学部)に入学しないと、話にならない。その他、旧帝大、早慶上智であっても戦えなくはないが、狭き狭き狭き門になるのは間違いない。行った大学によって、合否に大きな差が出るのである。これは現実だ。小さい頃に「お勉強」をしてテストで点が取れないと、戦いの土俵にも登れないのである。賛否や良し悪しはともかく、今の日本の社会はそういう仕組になっている。
「お勉強」をしてテストで点を取って、より「良い大学」に入るのは、「目的」ではない。「学歴」は、人の価値を定めるものではない。しかし、やりたいことを実現するための「チケット」になる。道を切り開く「道具」になるのだ。
この社会は「人をうわべで見る」社会だ。「どこどこ大学卒業」「何学部卒業」「持っている資格は何か」「TOEIC何点か」「外国語は話せるか」「部活で活躍したか」「親は何をしているか」「お金持ちかどうか」などなど・・・いわゆる「タコつぼ」でこの世の中は支配されている。だったら、その「タコつぼ」を「武器」として使って、自分のやりたい人生を歩めば良いではないか。
だから私は、「お勉強」してテストの点を取る技術を身につけることは「人生の選択肢を広げること」だと思っている。なぜか。例えば、大学に入った後に「外交官になりたい」と思ったとしても、一定のレベル以下の大学だったなら、外交官にはなれないからである。「やりたいこと」が見つかった後で、そのための資格すら取れなかったら、時すでに遅し。戦いの土俵にも立てないのである。
大学に入るまで「やりたいこと」が見つからない人にとっては、「お勉強」をして、テストの点が取れるように「準備」をしておく。それが「選択肢」を広げるための備えとなる。東大を卒業すれば、キャリア官僚にもなれるし、会社員にもなれるし、アルバイトもできる。しかし、そうでなかったら、なれない職業やできないことだってあるのである。
もちろん、やりたいことが小さい頃から既に明確な人は、その道に突き進めば良いと思う。私の妹は、助産師になるために県立の看護大学に進み、今では看護師・助産師として働いている。友人のホームスクール出身者は、医学宣教師になるために、必死で勉強をして医学部に入った。そもそも大学など行かず、自分の事業を立ち上げたり、芸能方面で活躍する人もいる。やりたいことがある人は、それでいい。しかし、やりたいことが明確でない場合、必要なのは「選択肢を広げておくこと」である。
この考え方でいくと、ホームスクールの親には、子どもの「可能性」を担保する責任がある。子どもの進学に、ホームスクールの親は大きな責任を持つ必要がある。子どもが将来、「やりたい」と思ったことを、本気でサポートできるのか、考える必要がある。学校に行かせられなかったために、大学に行く学力を与えられなかった、では話にならない。子どもの未来を、ホームスクールという方法でつぶさないでほしいと思う。きちんと専門の教師を備え、必要な教育を備える必要がある。
また、経済的理由で子どもの進学先を限定するホームスクールの親もいる。私は違和感がある。例えば、高校に行っていれば、指定校推薦の奨学金制度を使えたかもしれない。ホームスクールをやるのであれば、少なくとも子どもが「医学部に行きたい」とか「この私立大学に行きたい」とか言ったときに、経済的にOKを出せるぐらいの準備は必要だと思う。
「浪人」についても、ホームスクールをやるのであれば、覚悟する必要があると思う。ただでさえ勉学の面でハンディキャップを子どもに与えるのだから、1年や2年浪人しても良いという経済力と度量と余裕が、ホームスクールをやる際には必要だと思う。それが子どもの「可能性を潰さず、保証する」ということである。
4:十分な課外活動の機会を与えるべき
小学校、中学校の子どもにとって、「お勉強」は人生の半分にも満たない。休み時間のドッジボール、バスケットボール。放課後のサッカー。中学や高校に入ったら部活動がある。運動会もあれば、文化祭もあるし、遠足や移動教室、修学旅行などもある。それらの「課外活動」が学校の意義の半分以上を占めていると言ってもいい。そして、そこから学ぶことも多い。失敗や友達とのぶつかり合いを経験し、挫折も学ぶ。ホームスクールの子どもたちも、そのような経験が必ず必要である。
そのため、ホームスクールをする親は、地域のクラブ活動や、スポーツクラブなど、課外活動の場を精力的に備える必要がある。教会に限らず、地域社会と密接に関わる活動もたくさんできればベストだ。私の妹たちは、地域のスイミングスクールに通ったり、ピアノを習ったりしていた。私はというと、完全に放置されていたので、バイトをして、海外ふらついたり、中学の友達とバスケをしたり、地域のバレーボール教室に顔を出したりと自由にやっていた。しかし、自分でできる人とそうでない人がいるので、親には子どものために場を備える責任がある。
5:時間を無駄にしない工夫をすべし
ホームスクールをする場合、親は子どもを「放置」してはならない。よくあるのが、課題を与えて、自主学習させるパターンである。これはあまりいい方法とは言えない。時間をいかに無駄にせず、効率的に勉強を進めるか、親には工夫が必要である。
また、子どもにパソコンやスマートフォンを与える際は、要注意だ。子どもはすぐにパソコンやスマホの虜になる(大人だってそうだ)。貴重な時間を、youtubeをダラダラ見て過ごしてほしくはないだろう。親が見ていないところで、子どもはコソコソとズルをするものだ。私の妹は、私がパソコンの履歴を調べたところ、センター試験の1週間前でも毎日夜中の2時までyoutubeを徘徊していたことが明らかになった。それでも余裕のよっちゃんで志望校に受かったのだから大したものだが・・・。ずっと家にいるからこそ、親がきちんと子どもを管理・ケアする必要がある。
6:徹底的に聖書を教えよ
何よりも、ホームスクールをやるなら、徹底的に聖書を教える必要がある。これはもう徹底的に、だ。生半可ではいけない。意味がない。聖書を骨の髄まで染み込ませるような教育が求められる。私が出会ったホームスクールの子どもたちは、ほとんどが聖書を教え込まれてきたように思えた。しかし、中にはただ「放置」されていた可愛そうな子どもたちもいた。聖書の内容もろくに知らず、教育を受けないまま育ってしまったようだった。これではホームスクールの目的もクソもない。この点だけは、絶対にブレてはいけない。
ホームスクールの親は、聖書を読み込ませる覚悟が必要だ。また、自分も教えるだけの聖書の素養を身につける必要もある。良いテキストが探せればなお良い。良い解説書、良い説教・メッセージの録音、良い信仰書なども見定め、子どもにオススメする必要がある。間違っても、ジョシュア・ハリスの「聖書が教える恋愛講座」などという悪書を子どもに渡してはいけない。
<チャーチスクールについて>
1:学校の体制をチェックすべし
チャーチスクールで最も大切なのは、学校の体制だ。教師は何人いるのか、カリキュラムはどうなっているのかをチェックする必要がある。十分な教師の数は揃っているか。誰がどの教科を教えるのか。教師に適切な教える資格はあるのか、等々、親は入念に確認する必要がある。
日本にある多くのチャーチスクールの体制は、残念ながら万全とは言えない。それが日本の現状だ。教える資格のない教会のメンバーが、ボランティアで教えているといったケースも多い。それでは「スクール」の体をなしていない。教師の人数がきちんと揃っていない学校は、やめておいた方が懸命だ。
また、カリキュラムもきちんと調べる必要がある。学校によっては、指導要領すらないところもある。どの教科をどこまで、どう教えるのか。聖書はどう教えるのか。使うテキストは何か。きちんと親が把握する必要がある。きちんと体制が整っていない学校は、あまりオススメできない。
2:学校の「教え」をチェックすべし
学校、またその学校を運営する教会が聖書をどう解釈し、教えているかに着目する必要がある。何度かその教会を訪問することを、強くオススメする。特に、牧師などのリーダーたちがどのように聖書を解釈し、語り、教えているのか知る必要がある。違和感があれば、絶対にやめた方がいい。私の妹が行ったチャーチスクールは、「信仰があれば老眼にならない」などというトンデモナイ教えを奉じていたそうだ。
また、一部のカリスマ的なリーダーが強権的に権力をふるっているところもある。そのようなチャーチスクールは、子どもを奴隷のように扱う。教会の「ビジョン」のために子どもたちを振り回す。道具として子どもたちを使う。このようなスクールには、絶対に子どもを通わせてはいけない。チャーチ&ホームスクールの一番の目的は「神を知り、聖書を学ぶ」ことなのだから、それにふさわしくない学校はやめておいた方がいいだろう。やはり、入学前に親が入念にチェックする必要がある。
3:卒業生の姿をチェックすべし
卒業生がどう過ごしているかも、チャーチスクールを吟味する上で大切な着眼点だ。卒業生は、卒業後も神を恐れ、聖霊に従い、キリストを宣べ伝えているだろうか。卒業生は、今どんな仕事をしているのか。卒業生は、いきいきとした人生を送っているのか。きちんと把握する必要がある。卒業生の姿が尊敬できないならば、その学校はやめておいた方が賢い。
▼私なりの結論 ~学校に行っても聖書は読める~
ここまで書くと、ほとんどの人は「チャーチ&ホームスクール」って難しそうだなァと思うだろう。そのとおり!! 実は、チャーチ&ホームスクールはめちゃくちゃハードルが高いのである。ホームスクールは、夫婦双方の積極的な意思が必要である。そして、確かな計画とカリキュラム、教師の確保、子どもの課外活動の確保、未来の道の確保が必要である。これらの備えを考えたときに、どうしても、ある程度の経済的豊かさが前提となってくる。税金で運営している学校に通わせず、自前でやろうというのだから、お金がかかって当たり前だ。ホームスクールを日本の現代社会でやろうとするなら、ある程度の経済力は持っておかないと厳しいだろう。
チャーチスクールに至っては、正直、日本ではまだ環境が整っていなさすぎると感じる。不十分な教員の数、テキトーなカリキュラム、子どもを利用している実態、などなど・・・問題を挙げればキリがない。聖書の教えも偏っていたり、不十分なところが多すぎる。私としては、あらゆる意味で日本のチャーチスクールはオススメできない。
最後に、「神を知り、聖書を学ぶ」という基本的な目的に戻ってもらいたい。冷静に考えていみたい。
ホームスクールでなければ、神を知ることはできないのだろうか。
ホームスクールでなければ、聖書を学ぶことはできないのだろうか。
答えは、否、である。そう。ホームスクールをやらなくても、子どもに聖書を教えられるのだ。毎日聖書を読む習慣を、教えることはできるのだ。聖書の基準で生きていくことを、教えられるのだ。やり方は、様々あるだろう。
学校に行くことは、聖書を教えないことではない。学校に行かせることは、子どもを神から引き離している行為ではない。学校に行っていても、聖書は読めるし、祈れるし、神と共に歩む人生を選び取ることはできる。むしろ、友達にイエスを伝える素晴らしいチャンスが生まれる。不十分な環境でホームスクールやチャーチスクールをすることこそ、子どもが神から遠ざける愚行である。
ホームスクールを考えておられる方は、今一度、目的は何だったのか考え、祈った上で冷静な判断をしてほしい。ホームスクールは目的ではない。「お勉強」は目的ではない。ただひとつ、イエスのみが人生の目的なのだから。
イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
(ヘブル人への手紙 2:9~10)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。