週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<前編>  ~洗礼はきよめではない~

 「洗礼」を受けないとクリスチャンにはなれないのでしょうか。

 

 

▼ハードルが高い「洗礼」

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 クリスチャンになるには、「洗礼<せんれい>」を受けないといけない。多くの日本人がそう思っていることだろう。ハッキリ言う。それは間違いだ。

 イエスを信じている友人が相談してきた。「牧師に洗礼を受けたいと言ったら、『じゃあ洗礼準備コースを受講してください」と言われたとのことである。準備コースの期間を聞くと、6ヶ月だという。それを終えないと洗礼は受けられないということだった。

 彼は、「今すぐにでもクリスチャンになりたいのに、あと6ヶ月待たなければいけない」とガッカリしていた。私は、憤りを抑えて彼に言った。「イエスを信じているなら、キミはもうクリスチャンだよ」と。クリスチャンである母に聞いてみると、やはり「6ヶ月の洗礼準備コースを受けさせられた」とのことだった。理解ができなかった。

 ちなみに、私は16歳のときにイエスを救い主として信じ、受け入れた。しかし、当時の長野県内の教会の牧師が心底嫌いだったので、洗礼は受けなかった。1年後、ようやく「洗礼は人から受けるものではない」と思えるようになり、同じ牧師から洗礼を受けた。新潟では「信濃川」と呼ばれる「千曲川」での洗礼式だった。

 

 

▼「洗礼」の意味とは

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 「洗礼」とは何か。現代のプロテスタント教会で行われる「洗礼」には、大きくわけて2種類ある(※この是非については後述)。

 

「滴礼」<てきれい>

牧師が手に水をとり、信者の頭にふりかける。たいてい教会堂の中で行われる。

 

「全浸礼」<ぜんしんれい>

川や池、湖などに、信者の全身を沈める。室内プールでやる場合もある。

※追記※
「灌水礼」<かんすいれい>というものもあるらしい。水を頭に注ぐのだそうな。筆者は見たことはないし、滴礼と変わるのは水の量くらいだろう。

 いずれも、通常、エスを救い主として受け入れた人のための儀式として、人生1回こっきりで行われる。中には、生まれたばかりの新生児に洗礼を授ける、「幼児洗礼」たるものを行う教会もある(※詳細、是非については後編で述べる)。

 「洗礼<バプテスマ>」という単語は、旧約聖書には1度たりとも登場しない。ただしその起源は、いわゆるノアの箱舟、そしてモーセの海割り」であろう。その後も、エッセンスとしては、祭司の「ミクバ」でのきよめの儀式などとして登場する(※これらも後述する)。

 洗礼が本格的に登場するのは、新約聖書福音書からだ。ギリシャ語では、「バプテゾー」という単語で出てくる。転じて「バプテスマ」、または「洗礼」といわれる。この単語の意味も、改めて後述する。

 「洗礼」は、イエスを救い主と信じた人のための特別な儀式なのは間違いない。では、聖書は、洗礼がどのようなものだと説明しているのか。新約聖書から見ていこう。

 

 

新約聖書の「洗礼」

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 聖書で一番はじめに洗礼を授けたのは、言わずと知れたバプテスマのヨハネである。彼は、ヨルダン川バプテスマを授けていた。人々がヨハネのもとに集い、罪を告白し、おそらくヨルダン川にザブンと入って、新生を象徴する儀式を行っていたと想像される。

 歴史を学んだ人は、バプテスマのヨハネの「エッセネ派」特有の儀式だと言うだろうが、今回のテーマからは逸れるので割愛する。さて、このバプテスマのヨハネが登場するシーンを見よう。

 

バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを述べ伝えた。ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。(中略)

そのころ、エスガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川ヨハネからバプテスマを受けられた。

(マルコの福音書 1:4~9)

 ヨハネ、めちゃ突然の登場である。彼は突然、荒野に現れ、バプテスマを授けだした。実は、イエス自身もヨハネからバプテスマを受けたのであった。「正しいこと」とイエスが言ったことから(※マタイ3章参照)、「バプテスマ」行為そのものは肯定的に受けてとめて良い。

 同時に、王の王であるイエスが人間のヨハネから洗礼を受けたことから、誰が授けるかは重要ではないとも受け止められる。ヨハネ自身、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要がある」とイエスに言ったのに、イエスはそれを諌めて、ヨハネから洗礼を受けたのであった。

 では、イエスは誰かに洗礼を授けたのだろうか。

 

パリサイ人たちは、イエスヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが― ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

ヨハネ福音書 4:12)

 エスご自身は誰にも洗礼を授けなかった。少なくとも記述はない。ただ、イエスの弟子たちは洗礼を授けていた。詳細な記述はないが、おそらくバプテスマのヨハネと同じように、「罪の赦しに導く、悔い改めのバプテスマ」だったと考えられる。

 バプテスマの際に、必ず伴ったのは「罪の告白」と「悔い改め」だった。また、パウロ(サウロ)、コウネリウス、エチオピアの宦官、パウロとシラスに自殺を止められた兵士など、新約聖書には「洗礼」が信仰告白とともに行われている。このことから、「洗礼」は、信仰のスタートに関わる、重要な儀式であると分かる。

 ヨハネはイエスについて、「水のバプテスマを授ける人だとは説明しなかった。ヨハネは、イエスはこんな方だと言う。

 

バプテスマのヨハネの言葉)私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方(イエス)は聖霊によってバプテスマをお授けになります。

(マルコの福音書 1:8)

 聖霊によるバプテスマ。ぶっちゃけ、パッと読んだだけでは、何のことだかわからないだろう。新約聖書旧約聖書の知識を前提として書いているので、「バプテスマ」の意味については記述が足りないのだ。では、「バプテスマ」とは何なのか、旧約聖書の視点もふまえながら考えていこう。

 

 

▼洗礼はきよめの儀式ではない ~よくあるカンチガイ~

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 「洗礼・バプテスマ」の元々のギリシャ語、「バプテゾー」は、本来は「浸す」とか、「沈める」という意味だ。北海道の方言では「うるかす」とか言うらしい。

 ゆえに「洗う」という意味の「洗礼」という単語は間違いだ。前回の記事(※記事はこちら)で書いたように、中国訳をそのまま日本に輸入してしまったのが原因である。中国語への翻訳過程そのものが間違いだらけだった。それを日本語に無理やり導入したのだから、さらに本来の意味と離れてしまった。

 「洗礼」は誤訳――これは現代キリスト教の世界では常識である。その証拠に、多くの日本語訳が「洗礼」ではなく「バプテスマ」としている。たとえ「洗礼」という漢字があっても、「バプテスマ」のルビをふっているパターンがほとんどだ。「ガリラヤのイェシュー」の著者、山浦玄嗣は「バプテスマ」を「お水くぐり」と翻訳している。

 日本人は、神道などの文化から、水をかぶる行為を「きよめ」としてイメージしてしまいがちだ。「洗う礼=洗礼」という誤訳も相まって、洗礼は「罪をきよめる儀式」と考えられがちだ。しかし、それは間違いだ。旧約聖書の「水」は「きよめ」とは少しニュアンスが違う。

 どう違うのか。イエスは、パリサイ派のラビ、ニコデモとこんな議論を交わしている。これもまた奇妙なやりとりだが、ここにヒントがある。

 

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。

ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」。

エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風(プネウマ)は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」

ヨハネ福音書 3:3~8)

 この箇所は、「水」「霊」「肉」「風」といった単語の旧約聖書の意味合いを知らないと正しく解釈できない。旧約聖書ヘブライ語の「水」「霊」「肉」「風」という単語には、どのような意味合いがあったのであろうか。簡単に見ていこう。

 

【水】

ヘブライ語の文脈で「水<マイム>」は、羊水を意味する。または「いのち」を表す。「水よって新しく生まれる」というのは、文字通り、「肉体が新しく母の胎から生まれる」ことを意味した。水に一回入って、出て来るという行為は、「きよめ」ではなく「生まれ変わり」を意味した。

【霊】と【風】

ヘブライ語「ルアフ」は、「風・息・霊・生命」など、様々な意味がある。上記の箇所で「風」と翻訳されているギリシャ語の「プネウマ」も、「風・息・霊・生命」などを意味する。アダムに神が吹き入れた「息」も「ルアフ」である。「霊によって生まれる」とは、神の息が吹き込まれるという意味である。「神の息」が吹き込まれると、いのちが満ち溢れるのだ。そしてその「息」がどこから来るかは、神のみぞ知る。この認識を持つと、最後の段落が少し理解しやすくなるだろう。

【肉】と【霊】

日本語の「肉」は、「肉欲」といった「性的」「世的」「金銭的」なニュアンスで使われがちだが、ヘブライ語の「肉」は少しニュアンスが違う。ヘブライ語の世界の「肉」は、「有限」を意味する。「いつか腐ってなくなるもの」「朽ち果てるもの」という意味合いがある。

「肉」の対語としてるのが、「霊」だ。「霊」は永遠に続くもの。日本語の「霊」は「お化け」とか「死んだ人の魂」のようなイメージがあるが、上記のようにヘブライ語の「霊」は「神の息」の意味であって、永遠を象徴するものである。

 

 これらを総合すると、イエスがニコデモに伝えた内容は以下である。

 

1:人は、有限の「肉」によって生きている。人はいつか必ず朽ち果てる有限の存在だ。

2:人は、「水」をくぐって、もう一度「生まれ変わる」ことができる。

3:人は、「水」をくぐった後、「神の息(霊・風)」によって満たされ、有限の「肉」の存在ではなく、永遠の「霊」の存在になる。

4:「水」をくぐり、「神の息」に満たされ「生まれ変わる」。そうすれば、「神の国」すなわち、神の完全な支配を体験できる。その人は、神の基準で生きるようになる。有限の「肉」のからだではこれは体験できない。

 ニコデモは、この「生まれ変わり」を理解できなかった。エスは、「肉」→「霊」の生まれ変わりを論じた。しかし、ニコデモは「肉」→「肉」の生まれ変わりでしか考えられなかった。だから、「年取ってるのに、また母ちゃんのお腹にもどれっちゅうんか?!」と、トンチンカンなリアクションをしたのである。  

 このエピソード、「からだのよみがえり」を信じていたパリサイ派のラビのニコデモでさえ、理解できなかったというのが面白い。おそらく、パリサイ派の信じる「からだのよみがえり」は、自分の肉体が墓場からゾンビのように復活することだったのだろう。現に、エルサレムのオリーブ山には無数のユダヤ人の土葬のお墓がある。オリーブ山は、お墓の一等地。有名なラビでも相当なお金を積まないと入れない高級墓地なのだとか。なぜか。彼らはメシアがオリーブ山に来ると信じているからだ(※イエスの再臨もオリーブ山だと言われている)。メシアが来ると、死者は復活する。彼らはそう信じている。だから体がよみがえった時、すぐにメシアに会えるように、オリーブ山にお墓を作るのだ。

 そういう理由で、「水をくぐって生まれ変わる」というのが、ニコデモには理解できなかった。ニコデモの言葉は、「輪廻転生するとでもいうのか」とでも訳せるだろう。輪廻転生の発想がある日本人には、あまりピンとこないが、「霊的な復活」の概念が、ニコデモには分からなかったのだ。

 復活を論じた箇所でも、このような言葉がある。

 

血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった」。しかし、最後のアダム(イエス)はいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。

(コリント人への手紙第一 15:44~46)

 話が少し逸れたが、これらを総合的に考えれば、「洗礼」は「きよめ」の儀式ではないと分かる。「洗礼」は「生まれ変わり」を示す儀式だ。「肉」のからだから、「霊」のからだへと作り変えられるための、「生まれ変わり」の儀式なのである。

 

 

旧約聖書の「洗礼」の伏線

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 「洗礼」という単語こそ、旧約聖書には1度も出てこない。しかし、その伏線はたくさん張り巡らされている。何といってもその起源は、ノアの箱船だ。新約聖書にも、ハッキリこう書いてある。

 

その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

(ペテロの手紙第一 3:19~21)

 ノアとその家族は、大洪水の中、箱舟を通して生き延びた。「水を通って生きる」という伏線である。また、「イエス」という箱舟を通して救われるという伏線でもある。

 

 その後も、様々な伏線がある。ひとつは、いわゆる「モーセの海割り」だ(※「モーセ十戒」とカンチガイしている人がたまにいるが、モーセが海を渡ったのと、十戒とは別のエピソードである)。

 知らない人のために、エピソードを簡単に説明する。アブラハムの孫、ヤコブの一族は、ききんのためにエジプトに下った。はじめは良かったのだが、そのうち、悪いファラオの時代になり、イスラエル人は奴隷に成り下がってしまった。そこに登場したのがモーセ。紆余曲折を経て、神はモーセをリーダーとして、イスラエルの民をエジプトから脱出させる。エジプトからカナンの地を目指すイスラエルの民。しかし、目の前には紅海が。後ろからは、エジプトの軍勢が追ってくる。

 そこで、神の命令通り、モーセが紅海に杖を向けると、一晩中強い風が吹いて、紅海が真っ二つに割れた。イスラエルの民は急いで海が割れた間のかわいた地面を通って、紅海を渡った。後を追ってきたエジプトの軍勢が、海の間を通っているときに海が元に戻った。エジプトの軍勢は、全員溺れ死んでしまい、イスラエルの民は助かった。これがいわゆる「モーセの海割り」である(※出エジプト記14章参照)。

 

 イスラエルの民は、神の導きによって、海を通って命を救われた。「モーセの海割り」は、何度も何度もイスラエルの民が口ずさみ、祈り、歌い、記憶している感動的なエピソードなのだ。詩篇などで何度も登場する。実は、このエピソード、「水を通って命が救われる」というところが、後の「バプテスマ」の「伏線」となっているのだ。

 新約聖書も、それについて解説している。

 

兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくはありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中でモーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

(コリント人への手紙第一 10:1~4)

  海とはもちろん、「モーセの海割り」の紅海のことである。「雲の下」「雲の中」というのは、イスラエルの民が荒野で40年間放浪した時、民を導いた神の雲の柱のことを指す。「霊的な食べ物」はマナ(出エジ16章参照)、「霊的な飲み物」はメリバの岩から出た水(出エジ17章参照)のことである。それらが全て、バプテスマ、そしてイエスの伏線なのである。

 

 他にも、イスラエルの民がいよいよ約束のカナンの地に入る時、民がヨルダン川を渡って約束の地に入るシーンもある。祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れると、水が積止まり、川を渡ることができた。これも「水を通る」という伏線である(※ヨシュア記4章参照)。

 また、祭司が幕屋で奉仕する前の準備として、「ミクバ」という一種の「お風呂」のようなものに入る儀式がある。今でもイスラエルに「ミクバ」の遺跡はたくさんある。よくわからない人は、プールに入る前に通る消毒槽みたいなものをイメージしてもらえばいいと思う。これこそ、まさに「お水くぐり」といった感じだ。これも、「きよめ」の儀式というより、一度「生まれ変わり」新しい状態で神の前に出るという意味合いがあった。旧約聖書の文脈では、「生まれた状態」のものはすべて「良い」ものなのである。神が創造の際に「すべて良かった」と宣言したからである(※創世記1章参照)。

 「洗礼」は、決して軽んじていい儀式ではない。旧約から何度も伏線がはられ、バプテスマのヨハネによって行われ、イエスも受けた上で本当の「生まれ変わり」を示すものとして説明した。「洗礼」はイエスによって「生まれ変わる」ための大切な、大切な儀式なのである。

 

 今回の記事のポイントをまとめると、以下である。

 

1:「洗礼」は、悔い改め、罪の告白をして、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエスは「霊」のバプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には、「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 

さて、以上の点をふまえた上で、次回は、以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには、「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのか。

3:洗礼を授けるのは、牧師だけの権利なのだろうか。

 

 この3つについて、次回の記事で詳細に考えていく。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com


(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。