教会に行くと、牧師が「先生」と呼ばれている。なぜ?
- ▼牧師に資格は必要?
- ▼牧師は先生ではない
- ▼私たちはみな兄弟である
- ▼「牧師」という言葉は、聖書に1回しか出てこない?!
- ▼反論1:「ラビ」は「先生」と違う?
- ▼反論2:「先生」がダメなら「父」もダメ?
- ▼ではどう呼べばいいのか。「さん」という日本語の推奨
- ▼大切なのは「心の動機」
▼牧師に資格は必要?
とある教会に遊びに行くと、牧師の娘が父親を「小林先生」と呼んでいた。ビックリした。「お父さんなのに、なんで先生って呼ぶの? おかしくない?」と、僕は彼女に尋ねた。「牧師は先生と呼ぶものでしょ?」彼女は当たり前のように言った。ほう、牧師は先生と呼ばなきゃアカンのか。カルチャーショックだった。確かに、教会に行くと集まった人たちは牧師を「先生」と呼んでいる。牧師は先生と呼ばなきゃいけない。初めて教会に来た人はそう思うだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。
「先生」と呼ばれる職業は、世の中にたくさんある。教師、医者、弁護士、政治家、大学教授…etc。どれも、資格が必要な職業ばかりだ。その職に就くだけでも、相当の労力、勉強、お金をかけて試験に臨み、合格してやっとその資格が得られる。政治家の場合は、何万人もの人に名前を書いてもらって、当選して初めて「先生」となる。
牧師には資格が必要なのか。否。牧師は国家資格ではない。教会や教団によっては、この神学校を卒業しなきゃいけないとか、このくらいの経験を積まなければいけないという決まりがある。しかし、それは聖書に書いてあるわけではない。ただの内規だ。それは、あくまで自分たちで決めた勝手なルールであって、普遍的なルールではない。牧師になるには神学校に行かないといけないなどという決まりは、聖書のどこにも書いていない。もしあなたがそう思っているとしたら、勘違いだ。牧師になるのに、資格は必要ないのである。
(※なお、聖書には「監督者」と「執事」の資格について記述がある。「監督者」、「執事」は、本来「牧師」とイコールではないと私は考える。ただし、現代の教会においては「牧師」が実質的な「監督者」であり「執事」の役目を担ってしまっている場合が圧倒的に多い。この点はまた別の記事を書こうと思う)
▼牧師は先生ではない
私達は、医者や弁護士などを先生と呼ぶ。資格や知識に敬意を払ってそう呼ぶ。牧師に対してはどうか。本来資格が必要ないとはいえ、やはり立場や知識に敬意を払って「先生」と呼ぶのは、礼儀的にも正しく見える。
しかし、イエスは「先生呼ばわれ」を禁じている。イエスはこのように言っている。
彼ら(律法学者たちやパリサイ人たち)がしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイの福音書23:5~8)
イエスは、これだけハッキリと「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」と命じている。言い訳の余地はない。ここで留意したいのは、「呼んではいけない」ではなく、「呼ばれてはいけない」と命じている点だ。重大なポイントだ。「呼ぶ方」をダメだと言っているのではなく、「呼ばれる方」にダメだといっているのである。
つまり、あなたがどこかの牧師を「~先生」と呼ぶとき、あなた自身はイエスの教えを破っていないが、呼ばれた牧師がイエスの教えを破っていることになる。あなたが、「~先生」と呼ぶとき、あなたは知らず知らずのうちに、牧師にイエスの教えを破らせているのだ。ビックリ!
もしこの記事を読んでいるあなたが牧師だとすれば、「先生呼ばわれ」は今後一切やめた方がいいとオススメしたい。もしあなたが、イエスの教えに耳をふさぎ、知らないふりをするなら・・・それはイエスから目をそむけることである。
聖書の別の箇所ではこう書いてある。
だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私(パウロ)があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。
(コリント人への手紙第一 14:37~38)
ここは、教会で「異言」(いげん)をどう扱うかパウロが指導した箇所だ。一義的にはその指導を守れときつく命じている部分である。「先生」の部分とは関係ない。しかし、パウロが命じたことを守らないとダメなのであれば、なおさら神自身であるイエスの教えを守らないとダメなのではないか。
私は、「この教えを守らないと救われない」という律法主義的な話をしているのではない。イエスを信じる者として、イエスの教えを大切にすべきだと言っているのである。大切なのは、「心の動機」である(後述)。
▼私たちはみな兄弟である
もう一度、先ほどのマタイの箇所を見てみよう。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
(マタイの福音書23:8)
イエスは、律法学者たちやパリサイ人たちが、人からの栄誉を受けたいがために、威張り、見栄を張っていたと指摘した。その後で、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない」と命じた。パリサイ人らとイエスの弟子、信者たちを対比しているのである。イエスは、教師たる存在は「神・イエス自身ひとりだけだ」と諭している。
それと当時に、イエスは「あなたがたはみな兄弟だ」と教えている。先生は神だけで、信者たちはみな上下関係なく、兄弟だと言っているのだ。また、イエスは別の箇所でもこう言っている。
大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。するとイエスは彼らに応えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「御覧なさい。わたしの母、私の兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」
(マルコの福音書 3:32~35)
イエスの親族は、イエスが預言者のような行動を始めたので、これはヤバイと思って連れ戻しに来たのである。しかし、イエスは、「神のみこころを行う者がわたしの兄弟姉妹、母だ」と言う。ルカの福音書では、「神のことばを聞いて行う人たち」と言っている。
教会に初めて行く人は、礼拝会の式次第に「~兄弟」とか「~姉妹」とか書いてあるのをみて、驚くだろう(※そうでない教会もある)。「えっ? みんな兄弟なの?」となるのである。もちろん違う。なるほど、肉体的な「兄妹」ではなく、精神的、霊的な兄妹姉妹なのだ。イエスの教えがベースになっているのである。
ともすると、牧師だろうが、長老だろうが、司祭だろうが、執事だろうが、伝道師だろうが、宣教師だろうが、教会スタッフだろうが、礼拝会に参加するだけの一般信徒であろうが、子どもだろうが、赤ん坊だろうが、大学生だろうが、独身だろうが、既婚者だろうが、どんな人であれ、イエスを信じ、神の言葉に耳を傾ける人ならば誰もが「兄弟姉妹」なのである。そこに優劣はない。もし、そうでないと考える人は、イエスの言葉で反証してもらいたい。イエスの言葉によれば、偉いのは牧師でも長老でもなく、「一番えらいのは子どもたちのような者」なのである。
また、イエスのこの言葉を忘れてはならない。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の共のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、なたがたはわたしの友です。(ヨハネの福音書 15:12~14)
この世界を作った、王の王であるイエス自身が、弟子たち、そして広い意味では私たちを指して、「わたしの友」だと宣言したのである。私たちはイエスの友達なのだ。イエスまでが友達と呼んでくださったのに、どうして同じ人間である牧師は「先生」になるのか。意味が分からない。
▼「牧師」という言葉は、聖書に1回しか出てこない?!
教会に行くと、「牧師」は切っても切り離せない、重要なポジションに思える。しかし、実は「牧師」という単語は、聖書に1回しか出てこない。1回こっきりのこの単語は、エペソ人への手紙4章に登場する。
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
(エペソ人への手紙4:11)
なるほど。「教会」の中の様々な役割の中のひとつとして、「牧師」が紹介されている。英語の翻訳でも、ほとんどが、「Pastors(パスターズ)=牧師たち」となっている。
もっとも、「牧師」と翻訳されているギリシャ語の「ポイメイン」は、1回だけではなく、何回か聖書に登場する。キングジェームズ・バージョン(欽定訳)では、18回出て来る。そのうち、「パスター・牧師」と翻訳されているのは、エペソの1回だけで、他の箇所では、「シェパード・羊飼い、羊を飼う者」と訳されている。エペソだけ、なぜか「牧師」と訳出しているのである。
これは、「教会中の役目を説明しているのだから、『羊飼い』よりも『牧師』が適切だろう」という考えに基づいた意訳だ。人の解釈が介入した、意図的で特殊な翻訳なのである。しかし、本当にそれは適切な翻訳だろうか。岩波版の聖書を翻訳した立教大教授の佐藤研氏は、著書でこう述べている。
(今までの一般訳は)教会内で礼拝に使うことを大前提にした、キリスト教徒に対する訳で、いわば内向きの翻訳で言って良いであろう。その意味では聖書学的性格さをぎりぎり追及した訳ではなかったと言える。(中略)「学問的」正確さの追究は、場合によっては、これまでのキリスト教的言語と齟齬をきたし、またはなはだしい衝突を起こすことにもなり得るということである。しかし、そのような翻訳作業が現代の日本においては意味があり、また必要なものではないかと考えている。
<佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」P12~32『日本における聖書翻訳の歩み』上智大学キリスト教文化研究所編 2013.>
佐藤氏が指摘するように、一般の翻訳の聖書は、「教会で使うことを前提」とした意図的な翻訳なのであろう。本来、翻訳作業の原則は、同じ単語は出来る限り同じ単語で訳出すべきだ。その原則に基づけば、エペソ4章の箇所は、本来「羊飼いor牧者」と訳すべきである。私は最低でも「牧者」が適切であると思う。英語の翻訳、イングリッシュ・スタンダード・バージョン(ESV)は、この原則にのっとり、「シェパーズ=羊飼いたち」と訳している。
結局のところ、「牧師」という役職は、後代の文化によって作られた虚像である。聖書に1回しか出てこないのではない。ゼロ回しか出てこないのである!!!
しかも、エペソ4章には、「使徒」、「伝道者」(伝道師ではない!)、「教師」など、他の役目も並列的に書いてある。牧師だけが特別なのではない。
(※この教会の中の役目についても、また別の記事を書く予定。「とりあえず伝道師っておかしくない?!」というタイトルで)
(追記:書きました)
▼反論1:「ラビ」は「先生」と違う?
よくある反論が、「ラビと先生は違う」というものだ。私は一度、「なぜあなたは先生を呼ばれることを許容しているのか」と、ある牧師に尋ねた。彼は、「イエスが言ったのは、『ラビ』でしょ。『ラビ』は日本語の『先生』とは違うからOKなんだよ」と言った。
確かにイエスが、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」と言った部分の「先生」の原語は、「ラビ」である。この、「ラビ≠先生論」を唱える人は、思いのほか多い。この主張は正しいのだろうか。
いや、全くのこじつけだと断じていい。確かに、「ラビ」は、ユダヤ教の宗教指導者を指す、特別なヘブライ語だ。日本語の、「先生」が教室で教える人を示すのとは、明らかに違う。「ラビ」は宗教指導者であり、聖書の解釈の幅を決める権限さえ持っている。ユダヤ教の人々にとっては、「どのラビにつくか」が非常に重要だ。パウロも、「私はガマリエルの弟子だ」と、パリサイ人としての自分のアイデンティティーを語った。
現代のユダヤ教徒の間でも、「あなたのラビは誰?」という会話をよく耳にする。その人の信仰スタンスをはかる目印になるからだ。これは、プロテスタントの人が、「あなたはどこの教団?」、「どこの教会?」と聞くのと似ている。どこの教団や教派に属し、どの牧師の教えを受けているかで、その人のスタンス、アイデンティティーがはかれるのである。
であるならば、ユダヤ教の「ラビ」と、プロテスタントの「牧師先生」は全く同じではないか。その人の教えが、その人の信仰のスタンスを決め、その人の生き方に影響を及ぼす。まさに、「宗教指導者」の意味で全く同じ意味合いなのである。
しかし、私達のアイデンティティーは、ラビでもなく、牧師でもない。私達のアイデンティティーはイエスただ一人である。唯一のラビがイエスなのである。私達の信仰スタンスを形作っているのは、牧師ではなく、イエスなのである。この事実を知ってはいても、日々意識している人が、どれほどいるだろうか。
また、言語的にも「ラビ」と現代の「先生」は完全に違うとは言えない。「ラビ」はヘブライ語なので、ギリシャ語聖書では訳出する必要がある。こういう箇所がある。
イエスは振り向いて、彼ら(アンデレと誰かもう一人)がついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか」。彼らは言った。「ラビ(訳すと先生)、どこにお泊りですか」
聖書そのものに、ヘブライ語の「ラビ」は、ギリシャ語の「ディダスカロス=先生」だと紹介されている。「ディダスカロス」は、同じ単語が使われている他の箇所を見ると、「先生」の箇所もあれば、「師匠」とも翻訳されている。宗教指導者としてのラビと、そうでない、黒板に板書をするような一般の「先生・師匠」との差が確かにあることはある。しかし、ありこそすれ、尊敬する対象で、教えを受け、言動にならう対象には変わりはない。本質的には意味合いは同じだと、聖書そのものが明示しているのである。よって、「ラビ≠先生論」は、根拠に乏しいと言わざるを得ない。
▼反論2:「先生」がダメなら「父」もダメ?
もうひとつの反論は、「ではあなたは父親を『父』と呼ばないのか?」という指摘である。その理由は、マタイの「先生と呼ばれるな」箇所のすぐ後ろにあるこの記述だ。
あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
(マタイの福音書23:9)
つまり、「先生」と呼ばれてはいけないの後に、「父」と呼んでもいけないと書いてあるので、その教えは同等の命令であるはず。しかし、現実には、肉体的な父親を「父」と呼んでいるのだから、牧師を「先生」と呼んでもいい、という理論である。
これは、全く的外れな指摘だ。イエスはAとBを守れと言った。だけど現実としてBは守ってないからAも守る必要がない、というトンデモナイ理論である。論理構成そのものが論評に値しないが、Bを守っていないという指摘も、実は間違っている。
これは、日本人が複数形を理解できないために起こりがちな誤解だ。よく箇所を読んでみよう。「自分たちの父」と書いてある。「自分」ではない。「自分たち」だ。つまり、肉体的な「父親」ではなく、どちらかというと、自分のルーツとなる「先祖たち」、「父祖たち」を指しているのである。
ユダヤ人にとって、家系図は今日に至っても、非常に重要なアイデンティティーのひとつである。家系図がないと、正式なユダヤ人とは認められない。彼らにとっては、「父祖たち」、つまり、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の系図であることがアイデンティティーなのである。
しかし、バプテスマのヨハネも別の箇所でもこう教えている。
『我々の父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
(ルカの福音書3:8)
イエスは、肉体的な先祖には、本当の意味はないと教える。よく、「いつイエス様に出会ったの?」と聞くと、「いや、僕の親は牧師だから」と答える人がいる。とんでもない。あなたが牧師様の息子だろうが、娘だろうが、救いには全く関係はない。ただイエスを信じるのみだ。ユダヤ人は、ユダヤ人というだけで、悔い改めずとも救いに入れると思っていた。ヨハネは、そのような帰属意識を持ったユダヤ人たちを厳しく戒めたのだ。
イエスは、「自分たちの父と呼んではいけない」と言い、もはや信者のアイデンティティーは「ラビ」でもなく、「先祖」でもなく、イエス自身だと教えているのだ。私たちのアイデンティティーは、「牧師」でも、「所属」でもない。私たちのアイデンティティーは、イエスご自身、神そのものなのである。私たちの国籍は天にあるのだ。
▼ではどう呼べばいいのか。「さん」という日本語の推奨
以上のことから、マタイ23章を否定できる根拠は全くないと言っていい。牧師に限らず、兄弟姉妹の間では「先生」と呼ぶことはオススメできない。
では、どう呼べばいいのか。英語圏などでは、「Pastor ○○=パスター○○」といった感じで、「○○牧師」と呼ぶ。私が行ったことのあるイスラエルのメシアニック・ジュー(=イエスをメシアと信じるユダヤ人)の集会では、牧師に敬称はつけず、名前で呼び捨てだった。韓国は、逆に最上級の敬称で、「モクサニム=牧師様」と呼ぶ。
(※神様は「ハナニム=唯一様」で、神様と牧師に同じ敬称が使われているのだから驚きである。あるユダヤ人宣教師は、韓国のキリスト教を「三位一体ではなく、父子聖霊牧師の四位一体だ」と批判した。今回はこれ以上の言及は避ける)。
(追記:上記の韓国語の旨、韓国語に詳しい方から「ニムは『様』だが、韓国語では役職名そのもので敬称になりえないので、言語として必要な用語であって、神様の『様』と単純比較できない。また、『最上級の表現』でもない」とのご指摘いただきました。訂正します。ただし、「モクサニム」には「先生」のニュアンスが日本語以上に厳格にあるそうです。)
日本語ではどうか。「~牧師」でもいいかもしれない。しかし、言葉の細かい点を指摘すれば、「師」という言葉自体に「師匠・先生」の意味が含まれる。マタイ23章で、イエスはこうも教えている。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
(マタイの福音書23:10)
この「師」と訳出されている単語は、ギリシャ語では「カセギテイス」。すべて、「師匠・マスター」と訳されている(3回しか出てこない)。ゆえに、「先生・師匠」の意味が文字自体にある「師」がつく「牧師」は適切でないように思う。
何より、「~牧師」と日本語で呼ぶのは、堅苦しくて、兄弟姉妹らしさがない。元々、「羊飼い」の意味であった、「牧師」という言葉も、現代の文化では、「先生」の意味を持つ特別な言葉になってしまっている。「牧者」ならまだぎりぎりアリかもしれないが。
とはいえ、イスラエルのように呼び捨ても違和感がある。日本の文化では、年上の人や、尊敬する人を呼び捨てにするのは失礼にあたる。年も近く、友達関係であるなら、相手が牧師であっても呼び捨てでいいかもしれない。教会によっては、牧師に愛称があるところもある。素晴らしい文化だ。しかし、そうはしにくいケースも多いと思う。やはり、一定の敬意は示したいものである。
ではどうすればいいのか。私は、「~さん」を強く推奨する。「さん」は日本語のとても便利素晴らしい、尊敬を表す言葉だ。それでいて、「先生」の意味はない。これ以上便利な敬称はない。韓国語の「~シ=~氏」は、少し堅苦しく適切でないかもしれないが、日本語の「さん」は何の違和感もない。
私は、牧師に敬称を付けるなら、尊敬も親しみも込められる、「さん」付けを、強くオススメする。何も、牧師を尊敬するなといっているわけではない。むしろ、同じ兄弟姉妹として、愛し合い、戒め合い、支え合い、互いにキリストに似た者とされていこうと言っているのだ。時に、相手が牧師であっても、間違いを愛を持って指摘することは、絶対に必要であると思う。
余談だが、私は普段、政治の記者の仕事をしている。政治家は、ふつう、「先生」と呼ばれる。しかし、政治家と記者の立場は、本来対等である。よって、私たち記者は、政治家を「先生」と呼ぶんではいけないと、徹底的に教えられる。記者は、政治家を「~さん」(または衆院議員に限れば「~代議士」)と呼ぶのだ。ただの記者でさえ、呼び方に気を使っているのだから、イエスに命を救われたクリスチャンが、イエスの教えを守るのは、当然ではないだろうか。
▼大切なのは「心の動機」
私は、言葉の論争をしようとしているのではない。聖書にこう書いてある。
これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神のみ前で厳かに命じなさい。(テモテへの手紙2:14)
大切なのは、言葉ではなく、「心の動機」である。あなたの心が、どこに向いているかである。人は、何か釈明するとき、理由を探すとき、必ず「心の動機」がある。ペテロが「イエスを知らない」と言ったのを、「イエスの預言だから」というのは簡単である。しかし、本質は、彼の心の中の恐れであった。彼はイエスより、自分の命を大切にしたのである。
人は、論理的な説明をする前に、何か本質の心の動機を持っている。「疲れたから」といって誘いを断った本当の理由は、「その人に会いたくない」からかもしれない。「新しい可能性のために転職したい」という本当の理由は、「イヤな上司に耐えられない」からかもしれない。誰しもが、行動の根本にある、心の理由がある(※たいてい、それはコンプレックスが理由のことが多い)。私がこの記事を書く心の動機は、恐れずに書けば、聖書を読んだときに、教会の現状に違和感を覚えたからだ。誰も疑問を持たず、牧師を「先生」と呼んでいることに我慢ならなかったのだ。
あなたの心の動機は何だろうか。あなたが牧師を「先生」と呼ぶのはどういう理由だろうか。あなたが「先生」と呼ばれるとき、どういう気持ちだろうか。律法学者やパリサイ人が、イエスに指摘されたのは、「心の高ぶり」であり、「見栄を張る心」であった。あなたが「先生」と呼ばれるとき、「人からの栄誉」を感じていないか。神の前で、本当に、1ミリも感じていないと誓えるか。あなたが「先生」と呼ばれるとき、自分が相手より上だと思っていないか。あなたが「先生」と呼ぶとき、相手が自分より上だと思っていないか。
イエスはこう言っている。
あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
(マタイの福音書23:11~12)
私は、「牧師」より、つかえるしもべ、「僕仕」になりたい。
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。