週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】クリスチャン同士でないと付き合ってはいけないのか?!

クリスチャンはクリスチャン同士で付き合うべきなのでしょうか。恋愛的な交際に関して、どのように考えたらいいのでしょうか。

 

 

▼クリスチャンは恋愛に奥手?

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 「私はクリスチャンです」と自己紹介すると、決まってされる質問がある。「クリスチャンじゃない人と付き合っちゃいけないの?」というものだ。クリスチャンではない人にも、一定程度そのような認識があるのは驚く。私は、「禁止されてはいないけど、自分はクリスチャンと付き合いたい」と答える。

 教会によっては、恋愛にとても慎重なところもある。若い男女が2人きりでお茶を飲んだり、外出するのを禁じているところもあれば、牧師の許可がなければ付き合ってもいけないと教える教会もある。じゃあどうやって結婚するんや! とツッコミたくなるが、実際そういう教会は多い。総じて、「クリスチャンは恋愛に奥手」「クリスチャンは考えが固い」「クリスチャンは恋愛に慎重」というイメージがあるのではないだろうか。

 一方で、あるクリスチャンたちは、そんな声や風潮を気にせず、自由に恋愛している。クリスチャン同士で付き合う人もいれば、クリスチャンでない人と付き合う人も結構多い。そのまま結婚に至るケースもある。中には「性」についての考え方もおおらかで、フリーセックスの考え方のクリスチャンもいる。

 実際、クリスチャンは「恋愛」に対してどう考えるべきなのだろうか。聖書には何と書いてあるのか。教会はどう教えたらいいのか。クリスチャンは、クリスチャン同士でないと付き合ってはいけないのだろうか。クリスチャンではない人と、交際してはいけないのか。「付き合う」とは何なのか。今回は、それらの疑問を、聖書の記述をもとに考え、私なりの意見を述べたいと思う。

 断っておくが、私は独身である。(※筆者は2020年1月に結婚しました)それに、クリスチャンでない人も、このブログの読者として想定している。だから、このような記事を書くのは僭越ではないかと、若干迷った。しかし、各方面からの希望もあり、今回筆を執った次第である。記事をお読みになる際は、あくまでも私の個人的な意見として受け止めていただきたいと思う。

 

 また、「みこころの相手」「クリスチャンの離婚・再婚」に関しては、以前記事を書いているので、それもふまえて読んでいただけると幸いである。

 

yeshua.hatenablog.com

 

yeshua.hatenablog.com

 

▼聖書は何と言っているか

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 まず、聖書は「恋愛」に対して何と言っているのだろうか。答えを先に書いてしまうと、ほとんど書いていない。そりゃそうだ。自由恋愛して、そこから結婚するのが当たり前、というのは近現代の常識である。私の祖父は今年89歳になったが、祖母と結婚する前に一度しか会っていないという。親戚が勝手に決めた結婚だった。祖母は、牛舎に引かれて嫁ぎにやってきたというから驚きである。

 このように、つい最近まで、少なくとも日本の歴史の中では、親が決めた相手と結婚するのが庶民にとっては当たり前だったのだ。聖書が書かれた何千年も前の時代では「自由恋愛」が基本的に想定されていなかったのは、当たり前の話である。

 とはいえ、実は聖書の中に恋愛をめぐるストーリーは、けっこう存在する。それに関する教えや教訓も種々書かれている。今回は、それらを「ヒント」にしながら、聖書の基本的メッセージを汲み取っていきたい。(長いので、聖書の基本的知識がある人は、<まとめ>の所まで読み飛ばしてほしい)

 

<アダムとエバの例>

神である主は、人から取ったあばら骨を1人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 1:22~24)

 最初の人間、アダムは、妻エバを得た。ここで一番のポイントは、「男は妻と結ばれ、二人は一体となる」という点である。2人のものがひとつとなる。これが聖書の示す結婚の奥義である。男と女。キリストと教会。イスラエルと外国人(異邦人)。聖書には、2つのものがひとつとなるという理念が、たびたび示されている。男女が結びつき一体となるというのが、聖書の基本的な「男女観」であり、あえていえば「恋愛観」である。

 

エサウと妻たちの例>

エサウは40歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

(創世記 26:34〜35) 

 アブラハムの孫、エサウは、2人の外国人の妻を迎えた。これは神に対する不遜な行為であった。エサウの祖父アブラハムは、神との契約を重視して「外国人と結婚せずに、親戚の中から息子イサクの妻を見つけよ」と家来に命じ、ようやくイサクとリベカが結婚できたのであった。そのイサクとリベカの子がエサウである。

 しかし、エサウくんはこの「契約」を完全に無視。勝手に外国人の妻を2人迎えてしまったのである。これは神との契約を無下にするだけでなく、両親の悩みのタネともなったのであった。

 クリスチャンはここからどう学ぶべきか。神を信じている人同士がひとつになるのが絶対的基準――というのが私の見解だ。これには異論があるだろうし、エサウのエピソードは直接その教訓を語ったものではないという指摘も、一定理解はできる。この議論は後述する。

 余談だが、知人が以前、クリスチャンではない人と結婚するクリスチャンをエサウくん」と呼んでいた。なかなか皮肉なあだ名だなと思ったが、クリスチャンでない人との付き合い・結婚の是非について的を得た指摘だと思う。

 

ヤコブと妻たちの例>

ラバンには2人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。ヤコブラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために7年間あなたにお仕えします」と言った。

(創世記 29:16〜18)

 ヤコブは恐らく、聖書で初めて恋愛結婚をした人物であろう。無論、イサクもそうだっただろうが、イサクとリベカの結婚はアブラハムの命令に従った家来が決めてきたもので、自由恋愛とはちょっと毛色が違う。

 ヤコブの恋愛結婚は、簡単なものではなかった。彼は、親戚のラケルを気に入り、ラケルの家族にラケルとの結婚を申し入れる。7年間のタダ働きを条件に、結婚が許される。しかし、7年後にやっと結婚できたと思いきや、ヤった後に相手は実は姉のレアだったとわかる(そんなことある?!)。

 結果的に、ヤコブはレアとラケルの両方と結婚するが、ヤコブは元々ラケルが好きだったので、ラケルを特別扱いした。その結果、2人の妻の間で嫉妬に燃えた争いが繰り広げられることになった。この嫁の間の争いは結果的に12人の子供をもたらすのだが、決して重婚を肯定しているわけではない。

 この非常に人間的なエピソードからわかる教訓は、どちらかの妻を特別扱いしてはいけない、という単純なものではない。ヤコブは「神のみこころ」を求めて結婚したのではなく「自分の好きな相手」と結婚したのであった。このことから、聖書の時代から、ある意味の「自由恋愛」が存在していたと分かる。

 

<サムソンの例>

サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる1人の女を見た。彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムなで1人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください。(中略)彼女が気に入ったのです彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。

士師記 14:1〜4) 

そのあと、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛した。彼女の名はデリラといった。

士師記 16:4) 

 聖書で恋愛と言えば、サムソンを取り上げざるを得ない。サムソンは屈強なイスラエルのリーダーだったが、外国人女性に恋をした。サムソンに関しては、ティムナの女とデリラの、2人の女性との恋の物語があるが、いずれもサムソンは女性への思いによって失敗している。

 ここから分かるのは、主に2つ。どんなに強い指導者であっても、女性への恋愛感情によって失敗する可能性があるという点。そして、神はその失敗さえもご自身の計画のために用いる、という点である。

 

ダビデとソロモンの例>

ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11:1〜3)

  ダビデとソロモンは、イスラエルで最も偉大な王であった。同時に、2人は女性関係で失敗した代表例でもある。

 ダビデの失敗は有名である。ダビデには数多くの妻がいた。ミカル、アヒノアム、アビガイル、マアカ、ハギテ、アビタル、エグラ、そしてバテシェバ、他の妻たち。ダビデは王なので、多くの妻がいたことは「罪」ではないと考えられるが、この結果、息子たちによる様々ないさかい、争い、殺し合いが絶えなかった。

 バテシェバに関しては、ダビデは明確な罪を犯した。バテシェバは、ダビデの前に既に他の男性と結婚していた。しかし、ダビデは不倫をして、バテシェバを妊娠させてしまう。ダビデは妊娠を誤魔化すために、また彼女を手に入れるために、夫ウリヤをわざと戦死させたのである。これはダビデにとって大きな罪となった。このバテシェバとの間に生まれたのがソロモン王である。

 ソロモン王は、偉大な王となった。しかし、彼は外国人の女を愛した。700人の妻と、300人の側女がいたというから驚きである。以前、教会にいた20代の独身女性が、「1000人もいたら、毎晩1人と夜をともにしたとしても、順番が回ってくるのは3年に1回か・・・」と感慨深げにつぶやいていたのを、よく覚えている。ソロモンにとって、女性への弱さは、後に偶像礼拝に転じてしまうという失敗を生むキッカケとなってしまった。

 しかし、不思議なことに、このバテシェバから生まれたソロモンの系譜が、後にイエスへとつながっていくのである。サムソンよろしく、女性への恋愛感情は、偉大な指導者をつまずかせるが、神はその失敗さえも用いるのである。

 

<ペテロとパウロの例>

私たち(パウロたち)には、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファ(ペテロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

(コリント人への手紙第一 9:5)

 今まで、旧約聖書の物語を見てきたが、今度は新約聖書を見てみよう。 これはパウロの書いた手紙の一部だが、ここからペテロは信者である女性と結婚していたと分かる。一方パウロは、他の様々な箇所から明らかだが、独身であった(※しかし、結婚経験はあり、死別または離婚して独身の状態になっていたとする説もある。私は死別ではないかと考えている)。

 これらの記述から、一般的にはイエスの信者たちには「信者である妻」がいたと分かる。一方パウロは、できるなら独身であるように勧めている。しかし、パウロは同時に「結婚は良いことである」とも書いている。

 

 

 ・・・いかがだろうか。他にも、アブラハムには実は後妻のケトラがいるだとか、その子孫がミデヤン人となっているだとか、そのミデヤン人の子孫とモーセが結婚してるだとか、イサクはただの棚ぼた野郎だとか、イエス系図に入ったタマル・ラハブ・ルツ・バテシェバの4人の女性のほとんどが外国人だとか、罪の結果がイエスにつながっているだとか、ダビデの息子アムノンが妹に恋をしてしまっただとか、ルツのロマンティックなエピソードだとか、エステルの物語だとか、書きたい例は数え切れないほどあるが、ここまでにしておきたい。まとめよう。

<まとめ>

・聖書の恋愛、結婚、男女観の原則は「2人がひとつになる」という価値観

・聖書の時代から恋愛感情による結婚は存在していた

神を信じ、神に信頼している人同士の恋愛、結婚が大原則

・大原則を破った場合、どんな偉大な人物も必ず失敗している

・しかし、神はその失敗さえもご自身の計画のために用いる

・イエス以降の時代の信者たちには「信者である妻」がいた

パウロ自信は独身を保ち、他の人にも独身であるようオススメした

・しかし、パウロ「結婚は良いこと」との認識を示していた

 

 まとめると、以上のようになる。加えて言えば、聖書では恋愛のエピソードは数多くあるものの、基本的に「結婚」が大前提としてある。婚姻関係以外の関係は、基本的に想定されていないのである。遊女はどうなんだとか、神殿娼婦はどうなんだとかいう意見もあるだろう。また、イスラエルの民と外国人の関係を、そっくりそのままクリスチャンとそうでない人との関係に適応するのは乱暴だという指摘もあるだろう。確かにそれは一理ある。しかし、そこまで語るとまとめきれないので、別の機会にする。

 繰り返すが、上に挙げたように、聖書は基本的に「結婚」を前提とした価値観で、男女の恋を描いている。とすると、現代的な「付き合う」とか「交際」であっても、その目的として「結婚」があると考えた方がよかろう。この記事で扱うのは一般論であって、個別のケースについてとやかく言うつもりはない。一般論として、クリスチャンであってもなくとも、「交際」の先には「結婚」という目的があるというのは、異論の余地はないだろう。これら点から、クリスチャンの「恋愛・交際」はどうあるべきなのか、考えてみたい。

 

 

▼クリスチャンではない人との恋愛はOK?

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 さて、ここからが本題だ。クリスチャンにとって、クリスチャンではない人と付き合うのはOKなのか、NGなのか? という根本的問題である。クリスチャンではない人と交際していいのかどうか。これは、特にクリスチャン人口が少ない日本においては、男女ともに、とても悩ましい問題のひとつである。選択肢が全くないからだ。教会に魅力的な男性や女性がいない! どうすればいいの?! という思いは至極ごもっともである。

 これについては、様々な意見があり、また様々な対応をしている人がいるのは承知している。その上で、私自身の考えを勇気を持って大胆に述べさせていただこう。

 

クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との交際は、ありえない。 

 

 これが私の考えである。異論、反論、オブジェクション、必ずあると思う。どうぞコメント欄に書いていただければと思う。

 このテーマについては、私もかなり悩みに悩んだ。実際、私の身の回りでも様々なケースがあり、一概には語れない。同時に、このテーマは「あの人はこうだった」「こういうケースを聞いた」「私はこうだった」などの経験論で語るのはふさわしくないと思う。あくまでも先に挙げた聖書の価値観に基づいた「一般的原則」として語りたい。

 

 

1:一般的な交際の目的はセックス/結婚である

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 誰かと付き合う時、必ず目的がある。私はクリスチャンではない人に「なぜ付き合うのか」と聞いて回ったことがある。「なぜその人と付き合うのか」「なぜ彼氏や彼女になるのか」と聞き、その結果、以下のような回答があった。

<なぜ交際するのか>

セックスするため/セックスしていい相手と認定するため(圧倒的多数の意見)

・なんとなく、好きだから

・時間やスケジュールを優先する相手と認定するため

・他人には言えない物事を共有する相手と認定するため

・魅力的な男性/女性と交際するとステータスになるから

いずれ、その人と結婚したいから(多数の意見)

 

 クリスチャンではない人に交際の目的を聞いた所、赤裸々に話してくれる人が多かった。ほとんどの人が、交際の目的として「セックス」を挙げた。確かに、誰彼構わずセックスする人は男性、女性に関わらず一般的にはよろしくないとされるだろう。それは、現代であってもそうだ。

 しかし、不思議なことに交際相手とはいくらセックスしても、誰も文句は言わない。むしろ安心できる。「交際」が始まった瞬間「合法的に」セックスができるのである。これはある意味、現代社会の謎だが、そういう仕組みになっている。

 以前、クリスチャンではない女性に「付き合うってことは、あなたとはセックスしてもいいですよっていう意思表示でしょ」とも言われたことがある。もちろん、例外は様々あると思うが、かなり乱暴に一般論をまるめると、「交際の中間的ゴールはセックスである」とも言えるだろう。

 もちろん、その先には「結婚」がある。一般的にはある期間の交際を経て、男女が結婚する。これが一般的、社会的、普遍的な価値である(異論反論オブ・・・略)。まとめれば、交際の目的はセックスであり、その先にあるのは結婚である。

 ともすれば、クリスチャンは誰かと交際する場合、「結婚前にセックスしていいのか」という点を考えなければならない。長々論じるのは避けるが、クリスチャンは結婚前のセックスはするべきではない、というのが私の立場である。また、「結婚が大前提の交際をした方が良い」とも考えている。それらに加え、「クリスチャン同士で結婚した方が良い」とも考えている。

 それらの点を踏まえれば、クリスチャンである人とクリスチャンではない人との「交際の価値観」「恋愛観」「結婚観」は、多少なりともズレが生じてくる。「セックス」も「結婚」も考えられないとなると、クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との交際をする意味が全く無くなる。何のために付き合うのか? という根本的な部分で一致しないのである。これでは交際の意味がない。

 

 

2:信仰の一致なしの交際は「つり合わないくびき」である

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 また、先に挙げた価値観に加え、聖書には以下のような記述がある。

不信者(クリスチャンではない人)と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

(コリント人への手紙第二 6:14〜16) 

 

 「不信者」という言葉は、個人的に好きではないが、「クリスチャンではない人」という意味である。「くびき」とは、上の写真のように牛の首にかけ、牛のペアの歩調を揃えるための器具を指す。

 先に挙げたように、セックスに対する考え方、結婚に対する考え方が、クリスチャンとそうではない人とでは全く違う。

 しかし、そんなのはオマケだ。もっと大事な価値観の違いがある。「神が世界や人を造った」「人には罪がある」「イエスが罪を背負って十字架で死んだ」「3日目に蘇った」「イエスは天に昇り、また地上に帰ってくる」「イエスを信じれば救われる」「死後には必ずさばきがある」といった、根本的な世界観や、人生の価値観、目的、優先順位がクリスチャンとそうではない人では、全く異なる。どちらが良い悪いではなく、単純に、しかし完全に違うのである。

 全く違う世界観、価値観、目的で生きる2人が、果たして交際してうまくいくだろうか。果たして2人がひとつとなって、夫婦として歩めるだろうか。できないとは言わない。しかし、方向性はバラバラになるだろう。これがまさに「つり合わないくびき」である。バラバラの方向のまま、一緒には歩めない。

 たまに「違う価値観の人と一緒になる方が良い」という意見も聞く。一理ある。しかし、クリスチャンとそうではない人の違いは、単なる価値観の違いではない。次元が全く違う。これはうまく説明できていないと思うが、本当に単なる「価値観の違い」なんていうものじゃないのだ。たいていクリスチャンは頭がおかしいから(じゃなきゃイエスが復活したなんて信じない!)聖霊なしには理解できない行動も、多々あるだろう。

 もちろん、上記の聖書箇所が一義的に示しているのは、「間違った教えと距離をおけ」というものであって、クリスチャンとそうではない人の交際を書いたものではない。しかし、根本的価値観が全く違う2人が一緒になるのは難しいという原則は、ここから理解できるだろう。

 

 

3:クリスチャンではない人との関わりは積極的になるべき

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 では、クリスチャンではない人と一切関わってはいけないのか。それは極論すぎる。聖書にもこう書いてある。

私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出ていかなければならないでしょう。

(コリント人への手紙 5:10)

 

 「淫ら行いをする者」だなんて、クリスチャンはずいぶん偉そうだと思うかもしれない。この部分を書いた使徒パウロは、多少なりともそういう書き方をする人なので、お許し願いたい。ポイントは、クリスチャンではない人と一切付き合わないというのは的外れ、という部分である。むしろ、クリスチャンは、内輪のクリスチャンだけの交友関係に留まらず、交友の幅を広げた方がいいと思う。教会やクリスチャンは、クリスチャンではない人との関わりを、もっと増やすべきである。

 ただ、クリスチャンが、クリスチャンではない人との「恋愛的な交際」まで踏込むのは行き過ぎではないか、というのが私が強調したいポイントだ。先に挙げたように、一般的な交際の目的はセックスであり、結婚である。もしあなたがクリスチャンとして「結婚前のセックスは正しくない」「セックスは、結婚相手とのみ楽しむべき特別な関係である」「クリスチャンと結婚したい」という価値観を持っているなら、なぜクリスチャンではない人と恋愛的な意味で付き合うのか。

 さらにもっと根本的なことを言えば、なぜ最高のイエスに出会ったのに、その喜びを共有できない人と一緒に歩む人生を選ぶのか。申し訳ないが、私には全く理解ができない。

 クリスチャンではない読者の方は、「クリスチャンってなんて度量が狭いんだろう」と思うかもしれない。声を大にして言いたいが、差別をしているわけではない。ただ、もっと幸せな生き方と出会ってしまっただけなのだ。エスという最高のソウルメイトと出会ってしまっただけなのだ。そして、あなたにもこの素晴らしいイエスを知ってほしいと願っているだけなのだ。

 

 

▼いたずらに信者をしめつける教会の問題

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 さて、ここまで述べると「このブログは保守的だ」とか思うかもしれない。そのとおり。 聖書を読めば読むほど、クリスチャンの人に、クリスチャンではない人との交際はオススメできない。

 しかし、恋愛に消極的すぎるのも問題だと、私は考えている。記事の冒頭でも述べた通り、教会によってはあまりにも決まりが厳しすぎて、信者をがんじがらめにしてしまっているところもある。ある教会は、若い男女が2人で会うのを禁じている。ある教会は、牧師の許可なしに男女が交際するのを禁じている。お茶に行くのもダメなんだとか。

 声を大にして言いたい。アホちゃうか!!! 

 そんなんでどうやって結婚するん?! アーミッシュかよ!!! 今日びアーミッシュだって夜道で馬車デートするわ!!!(実話)

 

 ハッキリ言うが、この時代、そんなアホみたいな決まりで「恋愛禁止!」とかやっても全くの無意味!!! どうせみんな陰でコソコソやるに決まっている。

 それに、往々にしてそういうルールを率先して破るのは牧師とか伝道師とかいうリーダーたちなのである。坊主が肉を食ってる時代から、人間は何も進歩していない。一体、何回恋愛禁止のキャンプのスタッフが実はそこで出会って〜ウフフ、みたいな感じで結婚したケースを見てきたことか。片腹痛いわ! 私が通っていた教会の牧師は、かつて恋愛禁止の教会で、礼拝の会が終わると、こっそり付き合ってた彼女と違う出口から出て、教会から離れた場所で待ち合わせしていたとか。ふざけんなよ。牧師だけコソコソ得してんじゃねぇよ。真面目にルールを守ってた人の純朴な思いどうしてくれんねん。

 そういうアホみたいな教会の、意味のないルールに縛られて、苦しんでいるクリスチャンのみなさん、もう大丈夫。聖書にはクリスチャン同士の恋愛を禁じる記述は、一切ない。そのような決まりは、単純に信者をコントロールするために設けられた、人間による人間的なルールに過ぎない。あいつらは勝手に自分だけ例外にして、他の人を支配して喜んでいるだけの哀れな人間だ。気にしなくていい。勝手にデートしたら噂話されるのが怖い? そんなことで、ありもしない噂話を立てるような人たちや教会からは、足のちりをはらって自分から出ていけばいい。

 私は、クリスチャンはどんどん積極的に恋愛をして、クリスチャン同士の、イエスを中心にした結婚を目指すべきだと思う。そのために、教会がもっと積極的に信者たちを教育し、交際をサポートすべきだと思う。また、クリスチャン同士が交際関係になったら、関係をオープンにし、同じコミュニティの中で互いの関係のために祈り合った方が良いと思う。

 日本の教会は、これまで男女関係の教育やサポートをほとんどしてこなかった。その上、「恋愛禁止!」などという意味の分からないルールだけを作り、信者をコントロールしてきた。その結果何が生まれたか。クリスチャンの晩婚化。少子化。増える高齢の独身者たち。それならまだしも、クリスチャンとの結婚に見切りをつけてクリスチャンではない人と交際し、結婚する人が後を絶たない。そういう人は往々にして教会のコミュニティからも足が遠ざかり、しまいにはイエスを信じるのをやめてしまう。子供もイエスを信じない。結果は散々である。

 もうこんな幼稚な教えからは、卒業しなければいけない。もしあなたがクリスチャンで気になっている人がいたら、彼や彼女をお茶にでも誘ってみよう。話してみよう。関わってみよう。LINEしてみよう。デートに誘ってみよう。

 「みこころ」とかいう幻想を求めて祈り続けている人もいるだろう。祈りは大事だ。しかし、ただ一方的に祈っているだけでは(ほとんどの場合)何も始まらない。結局、行動をしなければ何も始まらないそして、早いうちに行動しないと、魅力的な人はどんどん先に結婚してしまうという悲しい現実が待っている。クリスチャンたちよ、恋愛に積極的になれ!

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

(コロサイ人への手紙 2:20〜23)

  

 

▼あなたの心の動機は何なのか 〜境界線の問題〜

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 クリスチャン同士の交際をこれだけ勧めておいて申し訳ないが、クリスチャンではない人との交際を禁じる記述は、聖書のどこにもない。そらそうだ。「付き合う」とかいう概念がなかったのだから。しかし、これまで述べてきたように、クリスチャンがクリスチャンではない人と恋愛的な交際をするのは、意味がないし、意義がないし、良くない影響の方が圧倒的に多いのは確かだろう。

 それでもなお、あなたがクリスチャンではない人と交際したいというのなら、あなたを止める権利は、私にはない。しかし、以下の点を警告しておきたい。

<クリスチャンではない人との恋愛的な交際を

 しようとしているクリスチャンへ>

あなたの愛する人は、あなたの愛するイエスを信じない可能性が大いにあります。

・あなたの力では、あなたの愛する人はイエスを信じることは不可能です。

・信じるとしても、いつ信じるか、タイミングは神のみぞ知るセカイ。信じない可能性も大いにあります。

あなたは、あなたの愛する人と、父なる神の素晴らしさ、イエスを知る喜び、聖霊に満たされる感動を一緒に味わうことができません。

・あなたの愛する人は、永遠の滅びに行く可能性があります。

・あなたは、あなたの愛する相手と、神との永遠を共有できないかもしれません。

・あなたは、あなたの愛する相手と一緒に祈ることができません。

・あなたの教会生活に支障が必ず出ます。

・今はOKでも、将来的に教会に行くこと自体を相手に快く思われない可能性があります。

・あなたの子供が、イエスに出会う確率が圧倒的に下がります。

・あなたの子供が、永遠の滅びに向かう可能性が、圧倒的に高まります。

・あなたが相手と別れたあと、その経験がクリスチャンの人との交際に悪影響をもたらす可能性が大いにあります。

・あなたが、どう思っているかどうかに関わらず、結婚前のセックスをする可能性が格段に高まります。

・あなたが聖書を読む時間を、相手が快く思わない可能性が大いにあります。

・あなたの祈りの生活は、おそらく以前よりおろそかになるでしょう。

・あなたが献金をする行為は、おそらく相手には理解されないでしょう。

・あなたが神からの示しを受け取り、転職、引っ越し、生き方の変更、その他諸々の方向転換をする際、おそらく相手には理解されないでしょう。

・その他、諸々の価値観の違いで、必ずやぶつかるでしょう。

・それでもいいなら、どうぞクリスチャンではない方と交際して、結婚していただいて構いません。

 

 クリスチャンでないけれど、「大切な存在で、この人と付き合いたい」とか「この人と結婚したい」と思う人はいるだろう。その場合、私のオススメは「相手と友情は保つが、相手がイエスを信じるまで交際はしない」という境界線の保ち方である。実際、男性、または女性側がそのように堅実に境界線を保った結果、もう一方がイエスを信じ、クリスチャンとなったケースを、私は複数知っている。彼らはいずれも今結婚して、幸せな家庭を築いている。一方で、境界線を保てなかった人の多くは、片方が信じないばかりか、自分自身もイエスを信じるのを辞めてしまっている。

 もちろん、クリスチャン同士の交際だからといって、全てが良いわけではない。クリスチャン同士であっても「境界線」を保つのは非常に大切である。細かなルールは聖書にあるわけではないから、2人で話し合って、適切な「距離感」を決めたら良いと思う。大切なのは、聖書に記述のある通り、「結婚が尊ばれること」である。

 結局は、心の動機が大切なのだ。あなたが、クリスチャンではない人と付き合いたいと思っている理由は何か。その理由は本音だろうか、言い訳だろうか。クリスチャンではない人と交際している人がよく言うセリフに「最近、聖書一緒に読んでるんだよね」とか「キリスト教に興味は持ってくれている」とか「教会に何度か来てくれた」みたいなものがあるが、ハッキリ言って全部言い訳だ。

 私のオススメは、イエスを伝えまくることと、相手が信じるまで付き合わないこと。しかし、今付き合っているなら、別れろというのも変な話なので、適切な境界線を引くようオススメしたいと思う。

 キリスト教の真髄は、「これをしてはダメ、これはしてOK」というような、宗教的なものではない。究極的には、「全てゆるされている」のである。しかし、その感動を一度味わったのであれば、もう元には戻れないはずだ。同じ喜びを共有できる人を、交際相手・結婚相手に選ぶはずだ。そうあってほしいと願う。あなたが「エサウくん」にならないことを、私は切に願っている。

 

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。

(ヘブル人への手紙 13:4)

 

 

<おまけ>

 クリスチャン界隈で、「恋愛は罪」かのような価値観を広めてしまった、ジョシュア・ハリスという人がいる。彼は、「聖書が教える恋愛講座」(原題:I Kissed Dating Goodbye. 邦題がひどい。正しくは「聖書が教えてない恋愛講座」)という本で、恋愛はよろしくないという間違った価値観をひろめてしまった。幸いにも近年、彼は自分の過ちを認めた。彼は本の内容の訂正、出版の停止、そして自らの間違った主張によって傷ついた全ての人に謝罪している。謝罪文・英語

 彼の主張は、一定は理解できる。しかし、あまりにも「失敗しないこと」を強調しすぎてしまったあまり、ねじ曲がった価値観が伝わってしまった。大切なのは「失敗しないこと」ではなく「失敗したと感じた時に、どう立ち上がるか」である。そして、教会がすべきは「成功するための教育」と「立ち上がるためのサポート」である。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス12】「イエスを伝えまくる」石川有生@「会いに行くキリスト教会」

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第12弾は、石川有生さん!

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【Profile】

名前:石川有生(Tomomi Ishikawa)

生まれ:1989年

出身:神奈川県逗子市

学歴:東北大学理学部卒業

職業:牧仕@会いに行くキリスト教

HP:https://ainiiku-church.com/

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20190529174810j:plain お願いします。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いきなりなんですけど、ぶっちゃけて聞いていいですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain なんですか?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 石川さんのやっていることがめちゃめちゃ気になるんですが・・・

f:id:jios100:20190529174810j:plain ああ、「会いに行くキリスト教会」ですか?

f:id:jios100:20180905032057j:plain そう! それ! なんなんですか。「会いに行くキリスト教会」って。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 文字通り、教会に来てもらうんじゃなくて、教会があなたに会いに行きますよっていうことです(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんなんですかそれ(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain キリスト教っていう宗教はもう辞めたんです(笑)。既存の教会って、教会にどうぞ来てくださいって感じじゃないですか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうですね。教会に来る人を増やすのが目的みたいになってしまっている面もありますよね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうなんです。そうじゃなくて、僕はイエスさまのことを伝えたいんです。だから、会いに行く。twitterなどのSNSで知り合った人に直接会いに行って、イエスさまってこういう存在ですよ、聖書にはこう書いてありますよって伝える働きをしています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。シンプルにイエスを伝えるってことですね。詳しくどうやっているのか聞きたいです。

f:id:jios100:20190529174810j:plain ぜひ。ちなみに、その前は、ブラック企業の営業マンとか、普通の一般的な教会の牧師もやってました。で、うつ病になって、回復して、今に至るという。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 面白すぎる・・・。ちょっと要素が渋滞してる気もしますが(笑)今日はゆっくり話を聞かせてください。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 喜んで!

 

 

▼イエスに出会えて嬉しい!!!

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↑大学時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain イエスを信じたのはいつですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 大学時代ですね。入学したての4月にキャンパスで教会に誘われて、そこから毎週教会に行くようになりましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最初からめっちゃ前向きですね。宗教怖いなとか思わなかったんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain うん。特に偏見はなかったですね。僕は当時は神なんていないと思ってたんですが、話してみるとクリスチャンの人はいい人そうだし、一回行ってみてもいいかなと。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最初の印象はどうでしたか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 教会の人がすごく明るく、優しく接してくれたのが印象的でしたね。ぶっちゃけ、教会の礼拝の式の内容は全く覚えてないんですけど(笑)。教会の人がすごく親切で。「また来てくださいね」って言われたのが嬉しくて、また次の週もいきました。そこから毎週。平日も集まりがあれば参加してました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なぜそんなに教会に行くことに積極的になれたんですか。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 高校時代は、ずっと野球に打ち込んでたんですけど、引退して、燃え尽きてしまったんですね。その頃に、ちょうど友人が白血病に亡くなったりして、「生きる目的って何だろう」と漠然と考えてました。それで、宇宙はどうやってできたのか知りたくなって、大学では宇宙論を学ぼうと思って、その分野では有名だった東北大学を目指したんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 名門ですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 頑張りました(笑)でも、いざ大学に受かっても、なぜか全然嬉しくなくて。なんだかなぁっていうモヤモヤを抱えていた時に、教会に誘われて、すごく居心地がいいなと思ったんです。だから自然と通うようになったというか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まず教会に行くようになって、そこからどうイエスを信じたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 教会に、1人の女性の宣教師さんがいて。その人の存在は大きかったですね。お茶とかに誘ってくれて、そこで色々質問してくるんですよ。「なんで教会に来るの」とか。一回、「イエスの奇跡を信じられるか」と聞かれて。僕は当時、よく分からなかったけど、「神なら奇跡はできるんじゃないか」って答えたんですね。それが信仰のキッカケだったと思います。その時に、その宣教師さんと一緒に、イエスさまを救い主として受け入れるお祈りを一緒にしたのを覚えています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、その宣教師さんと話す中で、イエスの姿が見えてきた感じですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 決定的だったのは、その夏にあったキャンプ事件ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain キャンプ事件?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 教会のキャンプに弟を連れて行こうと思ったんですよ。そしたら、親が猛反対。そりゃそうですよね。親はクリスチャンではないので、息子が変な宗教にハマったんじゃないかとすごく心配してたんです。三日三晩、猛烈に説得されました。「もう教会なんか二度と行っちゃいけないよ」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、いきなり息子が「教会行ってる」とか言い出したら、ビックリするかもしれませんね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですよね。でも不思議と僕の中には、「イエスさまが言っていること、聖書は正しい」という絶対的な確信があったんですよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこは揺らがなかった。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。感謝なことに。それで、親には「もう教会は行かない」と言って、納得してもらって。僕はキャンプに参加するのは諦めて仙台に帰りました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで・・・

f:id:jios100:20190529174810j:plain まぁ教会には行きましたよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ですよね(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain キャンプに行けなかったので、みんなどんな反応するか不安もあったんですけど、みんな喜んで迎えてくれました。それで、さっき話した女性宣教師さんに正直に状況を話しました。そのときに、宣教師さんはただ黙ってハグしてくれたんです。そのときに、何とも言いがたい愛に包まれた感じがして。聖書の言ってる「無償の愛」っていうものが存在するんだって心から分かったんですね。今思えば、あれがイエスさまに出会った瞬間だったと思います。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、教会がアヤシイ宗教だって言われているのに、弁明しないで迎え入れてくれたのは嬉しいですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。その年の12月にバプテスマを受けました。両親も、今は理解してくれています。

 

 

▼イエスを伝えまくる!

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↑教会のクリスマス会で

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学生活は何をしていたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain キャンパスでイエスさまを伝えまくっていた思い出しかないですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どう伝えるんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain シンプルに、キャンパスにいる人に声をかけて、イエスさまの話をするんです。ダイレクトに。それで、教会に誘う。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほとんど断られるんじゃないですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 大体断られますよね。なんだコイツ? って(笑)声をかけたうちの1%くらいの人と仲良くなれるんですよ。100人声かけて1人教会に来てくれるって感じですよね。それで、興味ありそうな人がいたら、「じゃあ聖書を一緒に学んでみませんか?」って。その流れがほとんどですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい地道な活動ですね・・・それがキッカケで信じた人もいたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね、中にはバプテスマを受けた人もいました。逆に、「キリスト教嫌い」ってなる人もいましたけどね。とにかくイエスさまを伝えまくりました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何人にも断られて、心折れませんでしたか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 僕は、イエスさまに出会えた喜びが、あまりにも大きかったんですね。人生の意味さえ分からなかったのに、イエスさまに出会って全てが解決した。だから、1人でも多くの人にこのイエスを伝えたいという思いが爆発してたので、断られても、次、次って感じでした。爆発したまま、10年経ってますね。今30歳ですけど、そこは変わっていません。

f:id:jios100:20180905032057j:plain イエス大好き野郎ですね。

 

 

▼神学校とブラック企業

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↑神学校卒業の時

f:id:jios100:20180905032057j:plain 卒業後はどうしたんですか? さっき聞いたところだとブラック企業の営業マンとか何とか・・・

f:id:jios100:20190529174810j:plain 実は、大学を卒業する前に、教会が運営していた神学校(聖書学校)に入学したんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ダブルスクールですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神学校に行こうと思ったキッカケは何ですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain ローマ書9章3節の言葉を読んだのが契機でしたね。

わたし(パウロ)自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

(ローマの信徒への手紙 9:3 新共同訳) 

f:id:jios100:20190529174810j:plain この言葉は、使徒パウロユダヤ人の救いのためならば、自分はどうなってもよいという祈りなんですね。自分が神様に見捨てられてもいいというのは、衝撃でした。僕も日本人のために、イエスさまのことを伝えていきたいと素直に思って、それで神学校への入学を決めました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 衝撃ですね。日本人にもこの福音を知ってほしいっていう熱い思い、ステキです。神学校は何年通ったんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 3年間のコースでした。授業は、インターネットで受けられたので、それは助かりましたね。でも、卒業間際になって教会でちょっとトラブルがあって、いろいろ考えた結果、一度休学しました。それで、大学も卒業していたので、一度は社会人経験も必要だろうということで、営業マンになったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それが今思うとブラック企業だったと。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain どんな会社だったんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 法人向けに、電子ブレーカーを売る会社でした。営業職で受験したのも、どうせなら一番きついことを経験してみようと思って。でもなかなかのブラックでしたよ(笑)。まず日付が変わるまで帰れない。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはエグい・・・

f:id:jios100:20190529174810j:plain 営業の区域がバカ広かったんですよ。東北エリア全域だったので。直行直帰でも例えば仙台から青森まで車で行って帰ってきたりすると、もう夜中。人間関係も軍隊みたいだったので、なかなかにキツかったですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 営業はイエスを伝えるのと似ている面もあると思うのですが、どうでしたか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 似ているところはありますね。その点は慣れていた部分もあると思います。ちなみに、瞬間的にですが、営業成績で全国1位になったこともあります。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え! すごい!!

f:id:jios100:20190529174810j:plain でも、営業は本当にやりたいことじゃなかったので、1年弱勤めて、結局また神学校に戻りました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain イエス伝えたすぎたい気持ちが抑えられなかったんですね(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain その通りですね(笑)

 

 

うつ病になる

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石巻の教会にて

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神学校を卒業してからはどうしていたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 2017年の1月に神学校を卒業して、仙台の教会で9ヶ月働きました。その後、石巻の教会に異動になったんですが・・・

f:id:jios100:20180905032057j:plain なったんですが・・・?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 異動して半年経った時に、倒れたんです。うつ病でした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何かハプニングが?

f:id:jios100:20190529174810j:plain いえ、何か大きなキッカケがあったっていうよりも、積み重なったものですね。教会のトラブルから、ブラック企業、そして教会での働き。ずっと全速力で駆け抜けていました。それで、突然倒れてしまったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 失礼ですけど、うつ病になると、どんな感じなんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain もう体が動かなくなるんですよ。一番ひどいときは1ヶ月で20kg痩せました。慢性的な不眠症全然眠れないんです。それから微熱がずっと続く。咳が止まらない。そんな感じの症状ですね。今思えば、受験生の頃から不眠の症状はずっとあったんですけど、自分がうつ病だとは思いたくなかったんですね。だから頑張った。でもそのツケがきて、本当に動けなくなってしまったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 教会の仕事どころじゃないですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうなんです。だから、石巻の教会仕事を辞めて、地元の神奈川に帰りました。それで、ずっと実家に引きこもってました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 薬とか飲むんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 飲みますね。気分的な落ち込みを抑える薬とか、睡眠導入剤とか。でも薬飲んでも、全然眠れないんですけどね。それよりキツいのが、「離脱作用」っていうんですけど、薬が抜けていくときに、なんとも言えない倦怠感が襲ってくるんですよ。無気力になって、また不眠になって、それが入り混じって、精神的な不快感がずーっと続くんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 死にたくなる感じですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain よく勘違いされるんですけど、「死にたくなる」わけじゃないんですよ。どっちかというと、「生きたくない」っていう感情なんです。自暴自棄になって、精神的に汚い部分が、心から出てきて。「ああ、もう生きるのやめたいな」って思うんです。それで、生きるのやめる方法が「死ぬ」しかないから、「ああ、死のうかな」って。うつの症状が強く出てるときは、死がものすごく近く感じるんですよね。「お腹が空いたから、ご飯食べよう」っていうぐらいの感覚で、「生きたくないから、死のう」ぐらいに思っちゃうんですよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはマジ怖いですね。どうやってその状態から回復したんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain それがですね・・・

 

 

うつ病から回復したキッカケはイエス

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↑病気から回復した頃

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやってうつ病から回復したんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain しばらくの間、実家に引きこもってたんですけど、ある日友達から連絡が来て。近くの教会でゴスペルコンサートをやるっていうんですね。そのついでに、イエスを伝えるのを手伝ってくれないかって言われて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ヤバい状態なのに。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうなんですよ(笑)こんな状態なのに、何言うてんねん思いましたね。ぶっちゃけ、本音では行きたくなかったんですけど、好きなゴルペルアーティストも出るから、まぁいいかなって思って行ったんですよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで、どうなったんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 実は、その時に会ったクリスチャンじゃない人に、イエスさまを伝える機会があって。その時に病気が癒やされたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ええ?! どういうことですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain イエスさまを伝えた瞬間、力が湧いてきて、うつ病の症状がでなくなったんです。その日、家に帰ってからも、よく眠れて。それから本当に1回も症状が出ていないんです。完全に治りました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんてことだ・・・エスを伝えることこそが、石川さんの力の源だったんですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうなんです。「イエスさまを伝える」これが僕の人生の目的だと確信しました。実は、病気になってからも、「イエスさまを伝えたい!」っていう思いだけは、ずーっと心の中にあったんですね。それで、実際にイエスさまを伝えたら、病気が治った。こんなことある? って思いましたけど、もうイエスさまを伝えるために生きていこうって、決心しましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ワオ。素晴らしいですね。人にイエスを伝えることを通して、自分自身の病気が癒やされてしまう。よっぽど、石川さんにとってのエネルギー源なんですね。その後はどうしたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 病気が治ってから数ヶ月語に、地元の教会の協力牧師として働くようになりました。ただ、やはり前の教会のトラブルの件を快く思わない方もいて、それが原因で人間関係がうまくいかなくなってしまったので、その教会での仕事は終わりにしたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで「会いに行くキリスト教会」が始まるわけですか。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。

 

 

▼「会いに行くキリスト教会」の着想

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 「会いに行くキリスト教会」の発想はどこからきたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 地元の教会で働いている時に、もっとイエスさまのことを伝えたいなぁって思っていたんですよ。教会の牧師って、教会内部の仕事が多くて。もちろんそれも大事なんですけど、僕はイエスさまを伝えたかったんですね。それで、「教会の方が人々に会いに行けばいいじゃないか」って思ったんですよ。そこからまず、「会いに行くキリスト教会」って名前がきて。そのあたりが発想のキッカケですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「会いに行く」って言いますけど、どうやって出会うんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain SNSがほとんどです。最初は、道行く人に声をかけるっていうやり方もやったんですけどね。500人ぐらいに声をかけましたけど、誰とも深い話ができなかったんです。この方法は難しいなぁって実感しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、道行く人にいきなり声かけられたら、僕だって構えちゃいますね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 僕が学生時代の頃は、そうでもなかったんですけどね。ここ10年で、人の反応が変わってきたように思いますね。以前の教会の牧師や宣教師たちも、「10年前より声かけても反応が悪くなった」と言ってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 10年の間に人の反応が変わった・・・面白いですね。なぜだと思いますか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 僕の考えでは、SNSが発達して、人が人間関係を現実世界でゼロから作らなくなったからだと思います。昔は、人間関係を作るなら、直接出会うしかなかった。でも今は、直接ゼロからのコンタクトが難しくなってるんですよ。逆にfacebooktwitterなんかで、ネットで多少のやりとりがある人だと、現実でも会いやすくなってるんです。リプライやコメントする関係性ができていると、会ってもいいかなって気になるでしょ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド・・・めちゃめちゃ面白いですね。確かに最近はそういう出会いが多いかもしれないです。直接のやりとりしてなくても、インスタ見てるだけで、なんか知ってる気持ちになったりしますよね。数回しか会ったことない人でも、SNSのやりとりで、仲良くなったり。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。僕が大学の頃はそんなのなかったですからね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 僕が大学1年生の頃は、mixiで友達作って、マイミク(※mixi内の友達)同士でキャンパス内グループを作ってました。

f:id:jios100:20190529174810j:plain ああ、ありましたね、mixi(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学デビューでmixi結構重要だったんですよ(笑)mixiやってないとグループに入りそびれたり・・・それが今もっと大規模にあるわけですね。大学3年の時に留学から帰ってきたら、みんなfacebooktwitter始めていてビックリしましたね(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain 過渡期ですね(笑)

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 話が戻りますけど、道行く人に声かけるのが難しいとなって、どうしたんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね、これじゃダメだって悩んでいる頃に、facebookで自分のうつ病になった経験をつらつらと書き出してみたんですよ。そうしたら、思いの外、反応があったんです。高校時代の友達から「投稿読んだよ」って連絡が来て。それで、自分がなぜクリスチャンになったのか話をすることができました。それで、情報を発信するのがいい方法だなって思ったんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、自分の体験を書くと。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 自分を開示するんです。普通に、道行く人に話しかけてもダメだけど、自分を開示して、情報を発信すると、人と出会えるってことに気がついたんです。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 面白い! 確かに、僕もtwitterやインスタで「この人面白いな」って思っている人をフォローしたりしてますけど、そういう人から「会いませんか」ってメッセージ来たら、会っちゃうかも。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 人とのつながりって、人間みな求めているものだと思うんですが、直接ゼロからのコンタクトってなかなかできないんですよね。リプライやコメントする関係性があると、出会えると分かって、今はSNSでつながった人に会いに行くっていうのがほとんどですね。

 

 

▼会いに行きまくるキリスト教

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↑会いに行きまくっている石川さん

f:id:jios100:20180905032057j:plain SNSといっても、どのプラットフォームが一番多いですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 一番多いのはtwitterですね。facebookは、基本的に既に知っている人のコミュニティじゃないですか。でも、twitterは基本的に知らない人同士のつながりが多いんです。出会いたいと思っている人も結構いるんですよね。いろんな価値観を知りたいっていう人もいて。twitterを通して、今200人以上に出会ってますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 200人?! 1日何人くらいに会ってるんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 1日3件ぐらいアポ入れてますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 完全に営業マンじゃないですか。

f:id:jios100:20190529174810j:plain ははは。

f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンであることは公言してるわけですよね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 全面に出してますね。twitterアカウントにも「会いに行くキリスト教会」って書いてますし(笑)こうしてると、出会ったときに、相手が初っ端からいろいろ質問してくれるんですよ。「クリスチャンって何ですか」とか、「何を信じてるんですか」とか。クリスチャンじゃない人と会うのがほとんどなので。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いいですねそれ。会話のタイミング掴んでから話すとか、まどろっこしいしことしなくていいですもんね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。クリスチャンじゃない人は、本当に興味持って話を聞いてくれますね。逆にクリスチャンからは、「どうやったらそんなに出会えるんですか」って聞かれます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 会う約束はどうやって取り付けるんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 基本的に、twitterの僕の投稿を見て、リプライをくれるか、DM(ダイレクトメッセージ)が送られてくる場合が多いですね。僕の方からDMを送る場合もありますけど。向こうから連絡が来る場合と、僕から連絡する場合が、半々ぐらいですかね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 意外と会ってもらえるものなんですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。200人に会って、「知りたい」っていうニーズはあるなって思いました。よく宗教に対する偏見があるとか言いますけど、そんなの全然なくって。「聖書ってどういうイメージですか?」と聞くと、ほとんどの人が「いいイメージ」って言うんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain たしかに、「偏見がある」っていう偏見かもしれないんですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 以前の教会では、「日本人は信じない民族だ」という言い方をしてたんですが、実際に150人に会って話してみて、それは間違いだと分かりました。「日本人は信じないんじゃなくて、知らないだけ」なんです。イエスさまのことを伝えて、聖書の話をして、「聞いたことがない」っていう人が120%なんです。むしろ、「知りたい」「聞きたい」という人がほとんどでした。そうやって行動してみたことで、自分が今まで持っていた固定観念が崩れましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、「信じない」のではなく、ただ「知らない」ということですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうなんです。「知りたい」というニーズがあるなら、僕は会いに行って「伝える」。シンプルなんですよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ネットでつながった人と会うのは怖くなかったですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 最初はやっぱり怖かったですね。昔の「出会い系」的なイメージもありましたね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、もう慣れました?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 一応、今でも毎回緊張はしてるんですよ(笑)たまにビジネスの勧誘目的だったっていうケースもあります。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ゲー! それは怖い・・・

f:id:jios100:20190529174810j:plain そういう場合も、相手の話は聞くようにしてます。一度、情報商材の詐欺もあったんですけど、説明が下手くそで(笑)魅力あるものを伝えるんだから、魅力ある話し方出来ないとダメですよね。本当に魅力を感じたらやるけど、魅力感じないからといってお断りしました(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 会う人はどういう年代が多いんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 20代がやっぱり多いですね。中には30~50代の方もいらっしゃいます。ほとんどが男性です。女性の方は1対1で会うのは抵抗があって、控えていたんですが、最近だと誰かもう1人いれば会ったりしていますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 社会人が多いんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。学生はむしろ少ないです。やっぱりネットでつながった人と直接会うのはまだ抵抗あるんですかね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「会いに行くキリスト教会」っていう名前もキテレツですしね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain ははは(笑)

 

 

▼イエスを伝え続けたい

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f:id:jios100:20180905032057j:plain ぶっちゃけた話聞いていいですか。

f:id:jios100:20190529174810j:plain はい。

f:id:jios100:20180905032057j:plain お金はどうしてるんですか? 「会いに行くキリスト教会」だけじゃ生活厳しいですよね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain その通りです。生活費のためにバイトしてます。吉野家で。牛丼作ってます。学生時代からやっていたので、慣れているっていうのもありますし、吉野家ってどこにでもあるから、引っ越しても続けられて便利なんですよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ。じゃあバイトする傍ら、1日3件アポとって会って・・・ってやってるんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。バイトは本当に生活できるギリギリですよね。安心、安全はないんですけど、逆にストレスもないんです。病気から回復して、本当に自分にはこれしかないんだと気が付きました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴいなぁ・・・今後のビジョンは何ですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain とにかく「イエスさまを伝えたい」その一点に尽きます。教会を作るんじゃなくて、ただただイエスさまを伝える。「救い」は神様の領域ですから。僕が誰かを救えるわけじゃない。僕ができるのは、ただイエスさまを伝えるだけ。いい意味でそれ以外のことは何も考えてないです。とにかく伝えよう、と。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結果は委ねるっていうのは、本当に大事ですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain そうですね。それは病気になって初めて理解できました。自分が教会に所属できなくなったときに、教会に人を招こうとしても限界があるって気がついたんですね。それが「会いに行くキリスト教会」を始めたキッカケでもあります。教会があると、どうしても声をかける人の範囲も決まってくる。そうじゃない。僕は会いたい人がいれば、日本中に行きたいんです。今、現実的にそれが叶えられていますね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。教会だと場所が固定されるけど、今の石川さんのスタイルだと日本中行けますね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 今までの「教会観」が、一回病気になってみて、客観的に見られるようになったんですね。自分が所属している教会でなくとも、その人が神様を信じられるのであれば、どこでもいいやと。「教会開拓」(※新しい教会を作る)っていうの考えたことあるんですけど、なんか自分1人でっていうのがしっくりこなかったんですね。よく教会開拓の美談で、「誰もいない礼拝堂で聖書を語ったところから始まった」っていうのあるじゃないですか。

f:id:jios100:20180905032057j:plain あるあるですね。1万回ぐらい聞いたことあります(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain なんかそれがしっくりこなくて。誰もいないところで語っても無駄じゃない? って思っちゃったんですよね。そんな無駄なことしてる暇があったら、もっと有意義なことやった方がいいじゃんと。外に出ていって、イエスさまを伝えた方が有意義だと僕は思ったんですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おっしゃる通りですね。僕も意味分かりませんでした(笑)

f:id:jios100:20190529174810j:plain 以前の教会にいた頃は、「この人は自分の教会に来てくれるかな」と心のどこかで思っていたりして。それが嫌だったんですね。駆け引きみたいで。だから、今はとにかく「イエスさまを伝える」これ一本です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今まで会った人で、一番遠い人はどこで会ったんですか?

f:id:jios100:20190529174810j:plain 福岡県ですね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そりゃまた遠い。

f:id:jios100:20190529174810j:plain 今、月に1回はエリアを決めて、その地域に行くキャンペーンをやってるんですよ。1月は関西。2月は関東。3月は名古屋。4月は長野と九州。マル1ヶ月神奈川にいませんでした(笑)。5月はまた関西、6月は栃木と東北に行く予定です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい。交通費半端ないですね。

f:id:jios100:20190529174810j:plain それが一番キツイです。バイトもできなくなるし。でも、必要ならば神様が備えてくださると思っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉を。

 f:id:jios100:20190529174810j:plain さっき言ったローマの9章3節ですね。

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

(ローマの信徒への手紙 9:3 新共同訳)

 

f:id:jios100:20190529174810j:plain 僕も、パウロのような思いで、イエスさまを伝え続けたいと思っています。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 純粋に、シンプルにイエスを伝え続ける石川さん! 尊敬&応援してます!!!

 

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】おすすめの聖書の読み方4選!

聖書を読んでみようと思っているけど、どこから始めていいか分からないアナタ! 私なりのオススメの聖書の読み方を4つご紹介します。

 

 

▼聖書を読もう!

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 聖書は、最高の本である。読んでも読んでも飽きない。聖書は、底の知れない真理で溢れている。私は、仕事中も暇さえあれば聖書を読んでいる。社会人としては失格だが・・・(笑)

 よく、「聖書を全部読んだんですか」と聞かれるが、もちろん答えはイエス。「聖書って1回以上読むものなんですか」とも聞かれるが、答えはイエス。「同じ本を何度も読んで面白いんですか」とも聞かれるが、答えはイエス読むたびに、まるで玉ねぎの皮をむいているように、その度に新しい発見がある。それが聖書である。聖書を読む体験は素晴らしい。超ウルトラスーパーオススメ。なぜオススメかは、先週の記事を参考にしていただきたい。

 でも、そんなこと言っても、聖書は分厚い本である。手にするだけで、読む気が失せるのも分かる。文体も、古代のヘブライ語アラム語ギリシャ語で書かれたものなので、日本語ではどうも読みづらい。大体、どこからどう読んでいいかも分からない。

 そんなアナタに、私なりのオススメの「読み方」を4つ紹介したいと思う。もちろん、これらは「正解」ではない。いろんな読み方がある。この4つを複合的に組み合わせて読むのもアリだ。あくまでも、「私のオススメ」として、参考にしていただきたい。

 

 

▼読み方1:通読型

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 第一のオススメは「聖書通読」である。文字通り、聖書の最初から最後まで、通して読む方法である。聖書には、「章」や「節」がある。これは、聖書の原典には当然ないのだが、聖書があまりにも長いため、便宜上割り振られた「住所」のようなものである。この「章」を基準に、1日に読む目安を決めて、毎日、または継続的に読むようにすると、続けやすい。

 具体的には、1日に4章読むと、毎日読めば1年で聖書を読破できる。4章というと、膨大に聞こえるかもしれないが、ページ数にすると、意外と少ない。例えば、創世記1章~4章までは5ページちょっと。マタイの福音書1章~4章までも、5ページちょっとである。聖書の中で一番長いのは、詩篇119編であるが、それでも10ページ弱である。4章分を読む分数を換算しても、数分~10分というところだろう。意外と、続けられそうではないか。

 世の中には、便利なことに「聖書通読表」というものがある。読んだ場所を塗りつぶしていくカードのようなものだ。私は、日本聖書協会が10部で200円という破格で提供している、聖書通読表をオススメしたい。ここから聖書通読表を購入できる。

www.bible.or.jp

 

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↑私が使っている「聖書通読表」

 小学校の頃の「なわとびカード」のように、読んだ場所が埋まっていくというのは、意外と楽しい。「聖書通読表」はシンプルで、自分のペースに合わせて使えるので、オススメだ。「新改訳聖書」に対応していないのが玉にキズだが、正直聖書の区分は変わらないので、「新改訳」ユーザーは、「口語訳」のバージョンを使えば問題ない(「新共同訳」は、「外典」がついていたり、章の区分が多少異なる)。

 同じページにある「一年聖書通読日課表」は、1年で1周できるよう、あらかじめ読む場所が割り振られているカードである。自分で読む場所が決められないという人は、こちらもオススメである。カードに書いてある場所を読むだけ。カンタンである。だけれども、人間忙しいので、読めなかった日があったりすると、このやり方は挫折しやすい。自分に合ったカードを使ってみよう。

 他にもこんなカードもある。これは、「日課表」と同じで、読む場所が決められている方式だ。こちらはすぐにダウンロードできるが、ちょっとクオリティに難があるのが惜しい。

biblestyle.com

 1日数分~10分、4章、約5ページ読むだけで、1年で聖書を読み切れる。8章読めば、半年で。16章読めば、3ヶ月で読み切れる。意外とカンタンじゃないだろうか。このやり方のメリットは、続ければ誰でも聖書を1周読めるという点にある。

 でも、頭から読んでいくと、どうしても苦手な文体や場所にぶち当たった時に、挫折しがちだ。そんな人にオススメしたいのが、次の読み方である。

 

 

▼読み方2:バランス型

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 次にオススメしたいのが、「バランス型」の読み方である。どういうことか。聖書は、実は様々な「本」の集合体である。旧約39巻、新約27巻の、全部で66巻ある。様々な区分があり、ざっと挙げると、以下のようになる。(ちなみに、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)では、トーラー、ナビイーム、クトビームの3つの区分がされているが、今回はわかりやすくするためキリスト教の区分に限る)

 

旧約聖書

モーセ五書・トーラー>

創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記

 

<歴史書

ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(第一、第二)、列王記(第一、第二)、歴代誌(第一、第二)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記

 

<知恵文学・諸書>

ヨブ記詩篇箴言、伝道者の書(コヘレトの言葉)、雅歌

 

<預言書>

イザヤ書エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、オバデヤ書、ナホム書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

新約聖書

福音書

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書ヨハネ福音書

 

<書簡・手紙>

使徒の働き(使徒行伝)、ローマ人への手紙、コリント人への手紙(第一、第二)、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙(第一、第二)、テモテへの手紙(第一、第二)、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙(第一、第二)、ヨハネの手紙(第一、第二、第三)、ユダの手紙、ヨハネの黙示録

 

 このように大きく分けると、聖書は、旧約4種類、新約2種類の合計6種類に区分できる。第二のオススメの読み方は、この区分ごとに少しずつ聖書を読んでいくやり方である。例えば、以下のように読む。

<1日に読むスケジュール例>

モーセ五書から1章

・歴史書から1章

・知恵文学から1章

・預言書から1章

福音書から1章

・書簡・手紙から1章

合計:6章

 この読み方のメリットは、バランスよく聖書を読める点である。しかも、聖書は横断的に「伏線」が隠されているため、このように分割して読むと、モーセ五書で読んだ伏線が、その日読む福音書で回収される、なんていう発見もできたりする(しかも、けっこう頻繁に体験する)。これは、私もいまだに実践しているオススメの読み方だ。

 1章ずつだと覚えきれない、頭がついていかないという人は、こんな読み方もアリだ。

<1日によむスケジュール例>

モーセ五書、歴史書、預言書から3章

詩篇を1編

福音書や手紙から2章

合計:6章

 

 もっともっと読みたいという人は、こんな読み方もアリだろう。

 <1日に読むスケジュール例>

モーセ五書から3章

・歴史書から3章

詩篇から1編

・預言書から3章

福音書から2章

・書簡・手紙から2章

合計:14章

 このように、バランスよく読めば、「レビ記でつまずいた」とか、「歴代誌で飽きた」とか、「エゼキエル書で挫折した」とか、「新約聖書ばっかり読んでる」みたいな、ありがち挫折パターンから逃れられる。

 「旧約聖書がなかなか読み進められない」という声は、クリスチャン界隈ではよく聞く。しかし、実は、旧約聖書が分かるようになると、新約聖書がもっと面白くなるのだが・・・。旧約聖書が苦手な人は、この「三角食べ」のようなバランス型の読み方を試してみてはどうだろう。

 

 

▼読み方3:3色ボールペンで聖書汚し型

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 3つ目のオススメの読み方は、「3色ボールペンを使う」というものである。どういうことか。別に4色でも5色でも、蛍光ペンでもいいが、とにかく色ペンで聖書に書き込みまくる! というものである。

 色分けの基準は、自分で決めれば良いが、参考までに私が小中学生頃からやっていた「色分け」のやり方をお示しする。

<3色ボールペンの使い方の例1>

赤:印象に残った箇所

青:新しい発見をした箇所

緑:意味が分からなかった箇所、疑問に思った箇所

<3色ボールペンの使い方の例2>

赤:「愛」など、神様のポジティブな印象を受けた箇所

青:「戒め」など、神様の恐ろしい印象を受けた箇所

緑:自分が読んで教訓を得た箇所とその教訓

<3色ボールペンの使い方の例3>

赤:特に気になった箇所に線をひく。

青:その時、自分のテーマになっている語彙にマルをする。

緑:繰り返し使われている語彙、キーワードにマルをする。

 

 色分けをすると、聖書が視覚的に見えてくるのでオモシロイ。そう、このやり方のメリットは、聖書を立体的に読めるようになるという点である。再びそのページをめくった時に、そのページに自分がどのような印象を受けたのか、読み込まなくても分かるようになる。また、色塗りは基本的に楽しい行為なので、自然と読むのも楽しくなる。

 また、以前自分が使っていた聖書をひらくと、当時の自分がどのような印象をもってその言葉を読んでいたかが明らかになる。私は、小学校6年生から聖書を読みはじめ、16歳でイエスを本当に信じた。その間に読んでいた聖書をひらくと、神が人間を罰したり、戒めたりする箇所ばかりに線が引いてあった。イエスを本当に信じるまでは、「良い行い」が人を「救う」と考えていたので、その反発で、罪を犯したり、「失敗」するのを、必要以上に恐れていたのである。心の状態が、聖書に線を引く行為で、後に明らかになったのである。

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↑私の書き込み例。「霊」と「肉」が対比されているのがわかる。「しかし」を三角で囲うの、懐かしい感じがしませんか?

 線を引くだけでなく、様々な書き込みを余白にするのも、とても大切だ。聖書はどんどん汚したほうが良いというのが、私の持論だ。たまにカッコつけて「線を引かない」という主義者もいるが、私は格好悪くても線を引きまくって、神様についてもっと知れた方が良いと思う。人に見せるためにではなく、自分のためにやっているのだから。

 人間は、忘れやすい生き物だ。聖書を読んだ時の感動を、今すぐ聖書に書き込もう。ノートより、聖書そのものに書き込む方が、私はオススメだ。ノートはほとんどの人が見返さないが、聖書は見返すからだ。もし古くなったら、買い換えればいい。聖書はただの紙とインクである。たまにボロボロになっても同じ聖書を自慢げに使い続ける主義者もいるが、私は「読みにくくないのかなぁ」と思ってしまう。聖書はどんどん使い古したほうが良いと、私は思う。

 

 

▼読み方4:じっくり研究型1<SOAP

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 最後のオススメは、「じっくり研究する」という読み方である。この読み方は、「通読」「バランス」「ボールペン」のような、サラッと読むようなものではない。じっくり腰を落ち着け、コーヒーの一杯でも入れて、「さぁ、かかってこい」という感じで、聖書の言葉を研究するのである。この場合、ほとんどが1章や、それ以下の短い箇所を、とことん研究するといったやり方である。

 

SOAPという読み方>

 例えば、巷でSOAP」(ソープ)と呼ばれる読み方がある。SOAPというのは、要素の頭文字を表したものだ。

SOAPの要素>

S=Scripture(聖書の言葉)

O=Observation(観察)

A=Application(適用)

P=Pray(祈り) 

 この4つの順番で聖書を読むというものである。まず「聖書の言葉」をじっくりと読む。その上で、読んだ言葉を、じっくり「観察」する。この「観察」のプロセスが最も大切である。聖書の言葉を読むだけでなく、観察しまくる。キーワードは何か。この章にタイトルをつけるとしたら何か。代名詞は何を指すか。特定の用語は何回用いられているか。同じ表現は聖書の他の部分に出てくるだろうか。動詞は自動詞か他動詞か、受け身か、etc・・・高等教育を受けた人なら、「現代文」のやり方と言えばピンとくるだろうか。

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↑私の書き込み例。「心」と「思い」が並列表現になっている。

 「聖書の言葉」を「観察」した上で、その言葉は自分にとってどんな意味があるのか考える。これが「適用」だ。聖書は読むだけでは意味がなく、その言葉をどう捉え、どう自分の「生き方」を変えるのか考え、実行するのが大切である。

 その上で、最後に「祈る」。自分の力だけでは、真に聖書は理解できないし、それに応じた「適用」もできない。神の力、聖霊の力が必要である。それゆえ、祈るのである。これが、SOAPという聖書の研究の仕方である。

 

 ちなみに、「観察」の過程のひとつとして、「ローマ人への手紙」とか「ヨブ記」といったような聖書の「本」まるまる1巻をチャート分けするという研究のやり方をする人もいる。章や節といった概念を取っ払い、自分で新たに区分けやタイトル付けをし、キーワードは何か、メインテーマは何か、チャートを作るというものだ。私も、何冊かでやったことがあるが、知っているようで知らなかった聖書の体系が分かるので、時間がある人にはオススメだ。

 

 

▼読み方4:じっくり研究型2<IBS

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 もう一つが、IBS(Inductive Bible Study)というやり方である。日本語では「帰納的聖書の学び」と言われるが、何のこっちゃ分からない。カンタンに言えば、「聖書から聖書を学ぶ」という意味である。つまり、何かテキストとか、他のものを使わず、聖書の言葉そのものから、その内容を理解しようとするやり方である。先に挙げた「SOAP」と似ているが、IBSの基本的なやり方を紹介する。

IBSの3つの段階>

1:Observation(観察)

2:Interpretation(解釈)

3:Application(適用)

 

<Observation・観察のやり方>

 まず、徹底的に聖書の本文を「観察」する。例えば、基本的な「5W1H」を書き出してみる。「何が、いつ、どこで、誰が、なぜ、どうやって」を書いてみる。これが、意外と難しい。テキストを見て、何が起こったのか、いつおこったのか、誰が登場するのか、なぜこうなったのか、どうやって起こったのかを書いてみよう。

 その上で、今度は以下のような点に注目してみよう。

<観察する際の注目点>

1:繰り返し使われている表現、キーワード

2:独特な表現や言い回し

3:比較(A>B)、並列表記(A≒B≒C)

4:比喩的な表現(直喩、隠喩)

5:疑問に思う点(多くの場合、解釈のカギとなる)

 このような点に注目すれば、自ずと、テキスト自体が伝えたいメッセージが見えてくる。その上で、次のステップに移る。

 

<Interpretation・解釈のやり方>

 さて、観察した結果、得た情報をもとに、聖書が伝えるメッセージを解釈する。この際、とても大切なポイントが5つある。

<解釈する際の注意点>

1:文脈に注意する

2:時代背景に注意する

3:用語の意味に注意する

4:文法に注意する

5:聖書全体の解釈とのバランスに注意する 

 まず大切なのが、文脈だ。誰が、誰に対して、どんな目的で語っている場面なのか知る必要がある。それは命令なのか、オススメなのか、戒めなのかを捉える必要がある。文脈抜きに聖書の言葉を「抜き出す」と、とんでもない解釈が可能となってしまう。

 また、時代背景も大切だ。旧約なのか新約なのか。当時の文化背景は。社会状況はどうか。聖書の言葉が書かれた時代状況を加味しないと、これまたどんでもない解釈が生まれてしまう。

 用語の意味に注意も必要だ。この際、ヘブライ語ギリシャ語の意味合いに注意する必要がある。以前このブログでも述べたが、例えばヨハネ福音書21章15節~19節の「愛する」という単語は、「アガパオー」と「フィレオー」という2種類のギリシャ語が使われている。この意味の違いを捉えないと、適切な解釈はできないのである。また、同じ意味で、ヘブライ語ギリシャ語の文法にも注目する必要がある。

 最後に、これが最も大切だが、自分の解釈が「聖書の他の場所のメッセージと整合性が取れているか」という視点が必要だ。例えば、「神は喜んで与える人を愛してくださる」(コリント人への手紙第二9:7)と書いてあるからといって、「たくさん献金する人ほど愛される」という解釈にはならない。聖書の他の箇所と整合性が取れないからだ。例えばレプタ銅貨を投げ入れた未亡人が、イエスに一番評価された箇所と、どう整合性をつけるのかという問題になる。聖書全体のメッセージと、いかにバランスをとるかが、解釈する上で一番重要である。

 

<Application・適用のやり方>

 さて、最後に「観察」して「解釈」したものを、自分の人生に「適用」する。ここが正直一番難しい。全ての言葉が、現代の私たちに当てはまるとは限らないからだ。以下は、単純に「適用」のコツだけを並べて書いておく。

<適用する際のコツ>

1:自分にとって、どういう意味があるのか考えてみる

2:自分の生活態度で、変えるべき点はどこか考えてみる

3:どう祈ってみたらいいか、考えてみる

4:できたら、一部、暗記してみる

 適用は、なかなか良し悪しで判断できるものではない。それぞれのやり方で得た考えを、人生に当てはめてみてはどうだろうか。「千里の道も一歩から」。小さなことから始めてみよう。1日に100章読んで何もしない人より、1章読んで実行する人の方が、意味があると思う。

 また、多くの人がすぐにネット上の記事や、牧師や教師の意見に頼りがちである。まずは聖書そのものを自分で読み込み、聖霊の知恵を求めつつ学ぶのが大切だ。こんなブログを読むより、聖書の1章でも読んだ方が、実はあなたのためになる!

 

 いかがだっただろうか。以上、私がオススメする、4つの聖書の読み方である。今日から、少しずつでいい。1章でも、1節でも聖書を読み始めてみてはどうだろうか。その一助になれば、私も幸いである。

 

 

▼おまけ1:聖書を読む習慣をつけるコツ

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 おまけに、「どうしても聖書が読み進められない」という人のために、私なりのオススメを短くまとめてみる。

 

<1:読む時間・シチュエーションを決める>

 一番のオススメは、「読む時間を決める」というものである。これが、一番の習慣づけになる。ダイエットと同じで、聖書はひとたび習慣になれば、スイスイ読めてしまう。正解はない。「朝起きて読む」「寝る前に読む」「お昼休みに読む」。なんでもいい。

 シチュエーションを決めるのも大切である。「ベッドの上で」「自宅の机で」「リビングで」。正解はない。自分に合ったものを見つけよう。私は、通勤の地下鉄の中で読んでいる。意外と集中できるので、通勤電車、オススメである。時間的にちょうどいいし、通勤時間は、どんなに忙しくても必ず発生する時間なので、毎日続けやすいのである。読むのが苦手という人や、車通勤の人は、「オーディオバイブル」(聞く聖書)なんていうものもある。

www.gospelshop.jp

 

 

<2:誰かとバディを組んで読む>

 ダイエットも同じだが、誰かとバディを組んでやると続けやすい。私が集う教会のコミュニティのメンバーでは、有志の何人かでLINEグループを作り、その日読んだ聖書箇所を報告するというやり方を自主的に行っている。自慢するためでなく、単純にお互いに続けるために行っている。「誰かに報告する」というモチベーションがあるだけで、1人で読み続けるより、圧倒的に続けやすくなる。

 

<3:聖書通読表をつける>

 くだらないと思うが、表をぬりつぶすだけで、モチベーションになるものだ。私もいまだに塗りつぶしている。ダイエットも、自分の体重を毎日測って記録するだけで、効果があるという。聖書も、自分が今どこを読んでいて、どこを読んでいないか、「視覚化」するのが大切である。これだけで、何もしないより、グンと続けやすくなる。

 

 

▼おまけ2:さらに研究するために

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 さらに聖書を研究したい! という人にオススメの3つのポイントを挙げる。

 

<1:違う翻訳で読んでみる>

 当たり前だが、聖書は「翻訳された書物」である。それゆえ、翻訳のパターンによっては、全く違う表現も見受けられる。例えば、以下をご覧あれ。全部同じ聖書の部分の翻訳である。

私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。

(ピリピ人への手紙 4:17 新改訳聖書2017)

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。

(フィリピの信徒への手紙 4:17 聖書協会共同訳)

私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。 

(ピリピ人への手紙 4:17 新改訳聖書3版)

贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。

(フィリピの信徒への手紙 4:17 新共同訳聖書)

わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。

(ピリピ人への手紙 4:17 口語訳聖書)

贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。 

(ピリピ人への手紙 4:17 リビングバイブル)

 

 同じ部分でも、これだけの違いが出るのである。面白い。中には、ほとんど意味が違うのではないかという部分もある。ぜひ、ひとつの翻訳だけでなく、様々な翻訳を比べて読んでみることをオススメする。

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↑違う翻訳を読むと、以前の翻訳との違いが目につく。

 

<2:違う言語で読んでみる>

 さらに発展して、違う言語ができる人は、違う言語で読むのをオススメしたい。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、インドネシア語、韓国語、中国語、ラテン語、などなど・・・聖書は様々な言語で翻訳されている。

 私の知人の家族は、南太平洋の国、パプア・ニューギニアで聖書を翻訳していたそうだ。パプア・ニューギニアには、100を超える言語があると言われているが、担当したのはメラメラ語という言語だったらしい。聖書には「罪が雪よりも白くなる」という表現がある。しかし、パプア・ニューギニアには「雪」が降らないので、現地の人には理解できないし、「雪」にあたる言葉がなかったそうだ。翻訳者は、苦悩した上で、「雪」の部分を「ケアケア」という真っ白な鳥に置き換えたそうだ。これだけでも、面白いと私は思う。

 特に英語は、本当にたくさんの翻訳がある。主要なものだけでも、KJV、NIV、NLT、NASB、ESV、BSB、CSB、CEB、NETなどなど、数え切れない。英語が少しでもできる人は、ぜひ様々な翻訳を見比べてみるようオススメする。

 

 私は普段、このウェブサイト・アプリで英語の翻訳を見比べている。(無料!)

<ウェブサイト>

biblehub.com

<アプリ>(iphone/Android対応)

biblehub.com

  翻訳を一覧で見るだけでなく、原語や用例までチェックできるので、オススメだ。

 

<3:ヘブライ語ギリシャ語をチェックする>

 最後に、これが最も重要だが、ヘブライ語ギリシャ語などの原語をチェックするのが大切だ。学者レベルの人からは、それでも不十分と言われそうだが・・・。なぜなら、「原典」といってもどこからが原典なのかハッキリしないため。聖書は基本的に写本しか残っていないのである。が、しかし、とにかく翻訳する際に「底本」となっているものをチェックするのは大事だ。

 幸いなことに、現代ではヘブライ語ギリシャ語を「神学校」でわざわざ学ばなくても、英語ができれば丁寧な解説をウェブサイトやアプリで調べることが可能だ。以下、私が普段使っているアプリを2つオススメしたい。どちらもスマホに導入可能!

 

1:Blue Letter Bible(無料!)

iPhone用>

Blue Letter Bible

Blue Letter Bible

  • Blue Letter Bible
  • 辞書/辞典/その他
  • 無料

 <Android用>

play.google.com

<パソコン用>

www.blueletterbible.org

 

2:e-sword(安い!)
iPhone用>

e-Sword LT: Bible Study to Go

e-Sword LT: Bible Study to Go

  • Rick Meyers
  • 辞書/辞典/その他
  • ¥360

 <パソコン用>

www.e-sword.net

 

 これらのアプリを使えば、

ヘブライ語ギリシャ語の意味

・同じ単語が使われている他の聖書箇所

・何回その単語が使われているか

・その単語が他にどう訳されているか

 などをカンタンに調べられる。一網打尽! インターネットが普及する前は、このようなヘブライ語ギリシャ語の解説は、神学校の図書館に行かなければ分からなかった。しかし、今や誰でも簡単にチェックすることができる。しかも(ほぼ)無料で。サンキューテクノロジー! もはや学校に行かなくとも、誰でもこのような情報にアクセスできる時代になったのだ。

 だから、まずは自分で学んでみよう。聖書は、アナタの人生を変える。そして、読んでも、読んでも、読みまくっても、飽きない。面白い。何千年も人間が研究しても底が尽きないほど、面白いものなのだ。さぁ、あなたも、レッツバイブルスタディー

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】聖書を読むのが大切な4つの理由

クリスチャンでも、クリスチャンでなくとも、聖書を読むのはめちゃんこオススメです! なぜオススメなのか、4つの理由で紹介します。

 

 

▼聖書を読むのは大事か?

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 聖書は、あなたの人生を変える。私は、強烈な確信をもって断言する。聖書を読むのは、めちゃめちゃ、めちゃのめちゃんこオススメである。クリスチャンの人にとっては、聖書を読むのは毎日の食事のよう。クリスチャンでない人にとっては、聖書はいのちを得させる人生のカギだ。

 私は、小学校6年生の頃から聖書を読み始めて以来、ほぼ一日も欠かさず聖書の言葉に親しんできた。今まで、およそ15~20回ほど読んでいると思うが(全然足りない!)、読むたびに新しい発見があり、飽きることはない。聖書の言葉に親しみ、そのたびに神の新しい姿を教えられてきたと思う。

 東京に出てくるまでは、このように毎日聖書を読むのが、クリスチャンにとって「当たり前」だと思って育ってきた。しかし、上京し、様々なクリスチャンたちと接する中で、どうやらそれが「当たり前」でないと気がついた。こんなに楽しいのに、なぜだろう。なぜ聖書を読まないのだろう。不思議でならなかった。実は、今でも不思議に思っている。

 思うに、聖書を読むことの魅力が、十分に伝わっていないのだと思う。聖書の言葉に親しむより、日曜日に教会に行く方が優先されてしまっているのではないか。キリスト教」っぽい「品行方正」でいる方が、聖書の言葉に従うライフスタイルより優先されているのではないか。教会が、聖書の魅力を十分に伝えきれていないのではないか。そう思えてならない。

 今回、聖書を読むのが、なぜ大切なのか。なぜ欠かせないのか。私なりに4つの点に絞って書いてみた。読者のみなさんには、これを機にぜひ聖書に親しんでいただけたら、私としては嬉しく思う。

 

 

▼理由1:聖書から「義」について学べる

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 聖書は、あなたに「義」を教える。何が神の基準で、何が人間の本来のデザインで、どう生きたらいいのか、神は人間にどのような生き方を望んでいるか、聖書の言葉を通して知ることができる。聖書にはこうある。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感(息吹)によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

(テモテへの手紙第二 3:15~17)

 

 ここでいう「聖書」とは、一義的には旧約聖書を指す。旧約聖書が書いているのは、大胆に要約すれば、イエスについてである。新約聖書は、旧約聖書が指し示すイエスその人について書いてある書物だ。旧約聖書が語るものは一体何だったのかを、新約聖書が明らかにしているのだ。新約聖書は、旧約聖書の解説書だ」と言う人もいる。あえて言えば、旧約聖書は問題集であり、新約聖書は回答集のようなものだ。だから、広い意味では、旧約聖書新約聖書も同じように「教え」「戒め」「矯正」「義の訓練」のために有益である。

 ここでいう「義について学ぶ」とは、「神の思いを知る」という意味と等しいといって良いと思う。神がどのようにこの世界を作ったのか。いかに、アブラハムという人が選ばれ、約束が交わされたのか。その子孫であるイスラエルの民が、どのように歩んだのか。どのように神の約束が受け継がれていったのか。神がイスラエルの民を通じて、どのような「生きる基準」を示したのか。イスラエルの人々が、どのように神に反抗したのか。神を信じる人が、どのように神を礼拝し、神に従い生きたのか。預言者が、どのようにメシアの出現を預言し、世の終わりについて語ったのか。これら全ては、旧約聖書から学べる。そして、その時代の人々が待ちに待ったイエスという人について、新約聖書を通して知ることができる。それら全てを通して「神の思い」の断片が、だんだんと理解できるのだ。

 聖書を読んでいくと、だんだんと「神がデザインした生き方」が分かるようになってくる。もちろん、クリスチャンが信じているのは、「行いではなく、信仰による救い」である(※詳しくは以前の記事を参照)。しかし、イエスを信じ、神と和解したクリスチャンは、神との関係を深めながら生きる人生を歩みたいと願うようになる。その基準、神の思いが記されているのが聖書だ。だから、クリスチャンにとって、聖書を読み、その言葉に従って生きる「生き方」は、当然である。

 これはちょうど、好きな人ができたら、徹底的にリサーチするのと似ている。好きな人に、既にパートナーはいるのかどうか。その人は、どんな人か。好みの食べ物、好みの服装、趣味は何か。性格はどうか。好きな人がいたら、その人のことをいつも考え、その人がどのような考え方をするのか、徹底的にリサーチするだろう。

 クリスチャンの歩みは、それと似ている。エスを信じ、イエス大好き! 神様大好き!! そうなったらならば、聖書を徹底的に調べ、神はどんなお方なのか。イエスはどんな人なのか。徹底的に知りたいと思わないだろうか。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

(ローマ人への手紙 15:4)

 

 クリスチャンを「教え」「戒め」「矯正し」「訓練」するのは、聖書そのものである。牧師でもなければ、日曜学校の先生でもなければ、信仰書でもなければ、日曜礼拝でもない。聖書そのものが、読む人に「神の思い」を教え、知恵を与えるのである。

 もちろん、牧師の説教もためになる。日曜学校もためになる。信仰書もためになるし、日曜礼拝も大切だ。インターネットで有名な牧師の説教を聞くのも良いだろう。神学を学ぶのも良い。ためになる。

 しかし、それら全ての何よりも大切なのは、「聖書そのものを学ぶ」という姿勢である。聖書は聖書から学べる。聖書そのものより、「参考書」を優先してしまう人が多いように思う。参考書は、オマケだ。まずは聖書を穴があくほど読むよう、私としてはオススメしたい。難しい? 心配ない。イエスが約束した「聖霊」が、聖書の言葉が理解できるように、あなたを助けてくれるだろう。

 

 

▼理由2:聖書から「イエス」について学べる

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 「義」を教えるのみならず、聖書はあなたに「知恵」を与える。何の知恵か。それは、キリスト・イエスに対する信仰を与える知恵である。聖書を通し、私たちは、イエスが何を言ったか、何をしたか、何を教えたかを学べる。イエス自身がこう言っている。

あなたがた(ユダヤ人)は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたし(イエス)について証ししているものです。

ヨハネ福音書 5:39)

 

 この「聖書」とは、言わずもがな、「旧約聖書」を指す。しかし、「新約聖書」はイエスその人について書いたものである。「旧約聖書」はイエスについて証言し、「新約聖書」でイエスその人の言動がありありと語られているのである。旧約聖書は、イエスについて書いているのである。

 例えば、新約聖書ヨハネ福音書は、福音書の目的についてハッキリと書いている。

エスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト(メシア)であることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(中略)これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子(ヨハネ)である。私たちは彼の証しが真実であることを知っている。イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

ヨハネ福音書 20:30~21:25)

 

 ヨハネは、ハッキリと福音書の目的について、「イエスを信じるため、また信じていのちを得るため」と書いている。聖書は、読んだ人がイエスを信じるために書かれていると言っても過言ではない。最後のシメの言葉は、ヨハネらしい、なんとも詩的でロマンチックな表現である。

 実際に、イエスが復活した際、弟子たちは最初、復活を信じられなかった。そんな彼らに対して、復活したイエス自身が、聖書を用いて自身の復活を語ったのである。

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリスト(メシア)は必ずそのような苦しみを受けて、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」それからイエスは、モーセやすべての預言者たち(≒旧約聖書)から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

(ルカの福音書 24: 25~27)

 

 旧約聖書も、新約聖書も、イエスについての秘密でいっぱいだ。旧約聖書には、イエスについての「伏線」が数限りなく隠されている。新約聖書では、その「伏線回収」が多くなされている。伏線回収系のマンガや映画が大好きな私は、聖書にイエスの伏線と回収を見つけるたびに大興奮。

 聖書の言葉を通して、イエスの新しい姿を、毎日知り続けることができる。これこそが「いのち」である。

 

 究極的には、聖書の言葉そのものが、イエス自身である。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(中略)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネ福音書 1:1~14)

 

 これは、「神のことば」がそのまま「イエス自身」であるという、大胆な表現である。聖書の言葉そのものが、イエス自身を現しているどころか、そのことば自体がイエスなのである。

 もっとも、この「ことば」はギリシャ語の「ロゴス」だけで考えると間違える。筆者がヘブライ語アラム語話者であり、そのマインドで書いたものであるという事実を忘れてはならない。今回、詳しく語るのは避けるが、ヘブライ語「メムラ」の意味もふまえて理解するのが大切だとだけ述べておく。

 聖書の言葉は、あなたに「イエスについて」教える。聖書を通して、イエスをもっと深く知ることができる。聖書はあなたにイエスを教えるのみならず、聖書のことば自体が、イエスそのものなのである。

 

 

▼理由3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

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 聖書は、あなたの心を明らかにする。自分が何を考えているのか。その「心の動機」は何なのか。それが、聖書の言葉を通して明らかになる。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでにも刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

(ヘブル人への手紙 4:12~13)

 

 聖書の言葉は、あなたの「心の思い」を見分ける。どういうことか。聖書を読んでいると、自分の心の動機は何なのか、判別できるのである。これは、不思議なのだが、事実である。

 聖書を読むと、自分の中の隠れていた悪い思いや、心が明らかにされる。聖書を読むと、自分の中の気が付かなかった「心の動機」に気がつく。聖書を読むと、人生が方向転換されるのである。

 私自身も、その体験をした。私は16歳でイエスを信じて以来、ずっと「牧師」になりたかった。イエスに出会えた喜びで、このイエスを他の人にも伝えたいと思ったのである。はじめの思いは純粋でも、それはいつしか、「牧師になって人から評価されたい」という思いに変わっていった。動機が「イエスを伝えたい」ではなく、「俺が尊敬されたい」という自己承認欲求に変わっていったのである。

 しかし、21歳のある日、聖書を読んでいると、聖書の様々な箇所(ホセア1章、箴言3章、ピリピ3章など)を通して、自分の間違った自己承認欲求に気が付かされたのだ。たった1日の間に、これら全ての聖書の言葉が語られ、ガツンと心を打ったのである。反省した。人生の目的が「イエス中心」でなかったと気がついた。神に「私の人生を本当に神に捧げます」と祈った。そして、人生が方向転換したのであった。牧師を目指した少年は、今、神の不思議な導きで、記者の仕事をしている。それは、全て聖書の言葉を通しての気づきであった。

 神のことばは生きている。聖書の言葉は生きている。読むと、あなたの心の思いが明らかになる。「心の動機」があらわになる。自分の心のモヤモヤが晴れない時、答えは聖書の中にあるのかもしれない。モヤモヤしている人、聖書読むのオススメ。

 

 

▼理由4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

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 最後に、聖書は「自分の思い」のみならず、「他人の発言」を吟味できる。おごがましく聞こえるかもしれないが、これは「他人を非難する」という意味ではなく、「サポートし合える」という意味だ。まずは聖書が何と書いてあるのか見てみよう。

パウロは、いつものように人々のところに入って行き、3回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリス(メシア)です」と説明、また論証した。(中略)兄弟たちはすぐ、よるのうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、2人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

使徒の働き17:2~11)

 

 使徒パウロは、いつもユダヤ人や外国人たちと議論し、イエスはメシアであると立証していた。それは、いつも「聖書に基づく議論」であった。聖書がイエス・メシアについて何を書いていて、いかにイエスがそれに当てはまるか、論じあっていたのであった。これは、聖書を知らないとできない議論である。

 そして、ベレヤという町にいた人々は、「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のである。彼らは、パウロの言葉をうのみにしなかった。自分たちで「毎日聖書を調べて」、パウロが言っていることが本当か調べたのである。

 現代のクリスチャンたちは、この姿勢が多少欠けているように思う。牧師やリーダーたちの教えを、うのみにしてはいないだろうか。権威ある(と言われている)牧師だって、間違いは犯す。彼らの教えにも、矛盾は存在しえる。どんな人の教えであれ、「本当にそうかな?」というクリティカル・シンキングで聞くという姿勢は大切である。必ず聖書を調べ、間違っていたら、指摘する。そんな姿勢がクリスチャンには必要である。

 

 また、聖書は互いに教え合うように勧めている。

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

 同じように、聖書の別の箇所では、「互いに預言ができること」「互いの預言を吟味すること」を教えている。

預言する者たちも、2人か3人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人はだまりなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも1人ずつ預言することができるのです。

(コリント人への手紙第一 14:29~31)

 

 コミュニティの中で、互いに聖書の言葉を用いて教え、またその内容を吟味し合うように、聖書は教えている(「預言」の定義については、この記事で触れるのは避ける)。この「吟味」が、日本の教会には圧倒的に欠けていると感じる。

 1人ひとりのクリスチャンが、しっかりと聖書を読み込む必要がある。そして、互いに教え合うコミュニティへと発展する必要がある。「神学校」に行く必要はない(※以前の記事を参照)。誰もが、聖書の言葉に親しみ、互いに吟味し合い、指摘し合い、愛し合うことができる。

 

 「教え合うコミュニティ」については、詳しくは以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼まとめ

 聖書は、あなたの人生を豊かにする。聖書は、あなたにいのちを与える。聖書は、あなたに希望を与える。聖書を、ぜひ読んでみようではないか。

<聖書を読むのを勧める4つの理由>

1:聖書から「義」について学べる

2:聖書から「イエス」について学べる

3:聖書から「自分の心の思い」を吟味できる

4:聖書から「他人の発言」を吟味できる

 

 ぶっちゃけ、この4つ以外にも、たくさんの理由がある。書いたら書ききれない。それほど、聖書は魅力に満ちた本だ。私は聖書の虜になってしまった。ぜひ、あなたも一度読んでみてはどうだろうか。実際に、どう読めば良いのか。私なりのオススメを、次週書こうと思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのか?

「友達を救いたい!」クリスチャンがそう言うのをよく耳にします。クリスチャンは誰かを「救う」ことができるのでしょうか?

 

 

▼友達を「救いたい」?

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 大学の時、あるクリスチャンの友人が、こう言っていた。「卒業までに1人でもいいから救いたいんだよね」「救い」とは、クリスチャンの専門用語で、誰かがイエスを信じるようになる状態を指す。簡単に言えば、「誰かを救いたい」というのは、「誰かをクリスチャンにしたい」という意味だ。つまり、友人は、「自分が卒業するまでに1人でもいいから、誰かをクリスチャンにしたい」と言っているのである。

 私はその時、「オカシイなぁ」と思いつつも、否定はしなかった。違和感の正体が、あまり掴めていなかったのである。今となっては、それはおかしいとハッキリ断言できるが、当時はまだ目がひらけていなかったのである。

 果たして、クリスチャンは誰かをクリスチャンにできるのか。エスを信じるようにさせられるのか。誰かを救えるのか。今回は、このポイントについて見ていこう。

 

 

▼「救い」とは?

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 まずは、前提となる「救い」について、もう少し詳しく解説する。聖書の言葉を順に見ていこう。これは、聖書の言葉で最も有名なものの一つである。

 

<イエスを信じれば、永遠のいのちを持つ>

神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ福音書 3:16)

 

 エスを信じる者は、一人として滅びず、永遠のいのちを持つ。これが、一番シンプルな良い知らせ、いわゆる「福音」である。クリスチャンの信仰は、この一言に要約できると言ってもいい。

 

 

<救いは「行い」ではなく「信仰」による

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

(エペソ人への手紙 2:8~9)

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書(≒旧約聖書)によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、エスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

(ローマ人への手紙 3:20~26)

 

 旧約時代は、神から与えられた律法を守ることが求められた。それゆえ、律法を守るユダヤ人が神の約束を受け継ぐと信じられていた。それは無駄だったわけではなく、イエスによる救いの「伏線」だったのだ。

 すべての人は、「罪を犯して」神との「関わり」が持てなくなっている。罪とは、神と共に歩まない状態であり、「すべての人」がその状態に、生まれながらにして陥っている。その状態を解決するのは、律法を守る「行い」ではなく、イエスを信じる「信仰」なのだ。イエスが十字架で、私たち人間の罪の報いを代わりに受けた。それを信じることだけで、私たちは「価なしに義と認められる」のである。

 

 

<救いとは、神との和解である>

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

(ローマ人への手紙 5:1~2)

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(中略)しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

(ローマ人への手紙 5:5~11)

 

 これは、私がイエスを信じるキッカケとなった聖書の言葉である。私たち人間が「まだ」罪人だった時に、イエスが私たちのために死んでくださった。私たちが良い行いをしたからではなく、まだ生まれるはるか前から、イエスは「前払い」で、十字架で命を捨ててくださったのである。

 イエスの死と復活によって、何があったのか。それは、神の怒りからの救いである。神との和解である。神は完全な方なので、私たちが罪の状態を放置したまま、神と関係は持てない。しかし、イエスを信じさえすれば、「神との平和」があり、「神と和解」できるのである。これが、イエスに対する信仰であり、「救い」である。

 

 

<イエスによってのみ救われる>

皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。(中略)この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

使徒の働き 4:12)

 

 イエスを信じる以外の救いは、決してありえない。イエスだけが、唯一の救いの道なのである。

 

 

<「救い」とは、まとめ>

 まとめると、「救い」は、神の怒りからの救いである。私たち人間は、生まれながらにして、神のデザイン通りの生き方から逸れてしまう。それが罪である。例外はない。死んだ後、すべての人が「神のさばき」を受ける。例外はない。聖書にこう書いてある。

しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

(ヘブル人への手紙 9:26~28)

 

 しかし、エスを信じれば、神の怒りから救われ、義と認められる。神と和解できる。良い行いをするかどうかは関係ない。ただ、シンプルにイエスを信じるかどうかが、「救い」である。イエスを信じれば救われる。イエス以外の救いはない。クリスチャンの信仰は、いたってシンプルである。

 だから、私は「救い」と言わずに、単純に「イエスを信じる」と言う方がしっくりくる。「私が救われた時」と言わずに、「イエスを信じた時」と言った方が腑に落ちる。「誰かを救いたい」ではなく、「誰かにイエスを信じてほしい」の方が心にストンと来る。信仰は、シンプルなものだから。

 では、クリスチャンは誰かを「救う」ことはできるのか? 本題に入っていこう。

 

 

▼クリスチャンは誰かを救えるのか?

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 私の友人が言ったように、「誰かを救う」ことはできるのだろうか。答えは簡単。NOである。3つのポイントで見ていこう。

 

▼1:救いは「恵み」である

 クリスチャンはなぜ「救われている」のか。それは、シンプルに、イエスを信じているからだ。では、なぜイエスを信じられるのか。それは「神の恵みによる」と書いてある。聖書を見てみよう。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。

(ローマ人への手紙 4:16)

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙 1:7)

 

 クリスチャンが救われるのは、決して信心深いからではない。それは、神の一方的な恵みによる。「救い」は、神の恵みによるプレゼントなのだ。よく、クリスチャンでない人から、「敬虔なクリスチャンなのか」と聞かれるが、私はいつも答えに詰まる。私が信心深いのではなく、神の一方的な憐れみ、お恵み、懐の深さによって、私の罪は赦されているのだ。

 救いは、決して誰か人間によるものではない。神が一方的な恵みで、先に死んでくださったからこそ、実現するのだ。あとはそれを信じるだけ。めちゃくちゃシンプル。そこに、人間が介在する余地などない。

 

 

▼2:救いは「選び」である

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 なぜイエスを信じられるのか。聖書にはこう書いてある。

神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。(中略)キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。

(エペソ人への手紙 1:3~11 聖書協会共同訳)

 

 聖書によれば、イエスを信じた者たちはみな、神に「選ばれた」存在である。エスを信じられるようになったのは、全て「神の計画」であり、人間の行いによるものではない。だから、「誰かを救いたい」などというのは、人間の傲慢以外の何物でもない。

 カルヴァンは、この言葉などを根拠に、「神は救われる人と滅びる人を、予め決めている」という、「予定説」(二重予定説)を唱えた。私はこれは言い過ぎだと思う。この言葉の文脈、強調している点をよく考えた方が良い。「エペソ人への手紙」で強調されているのは、「神の恵み」と「神の計画」である。「あなたがイエスを信じられているのは、全て神の恵みによるのだ、救いは行いではなく、信仰なのだ」というのがポイントだ。「神は救う人を予め選んでいる」というのはズレた解釈だ。

 究極的には、全ての人が救いに選ばれている。私はそう信じる。聖書の別の場所にはこう書いてある。

主は、ある人たちが(世の終わりが)遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

(ペテロの手紙第二 3:9)

 

 神はすべての人が、悔い改めて、イエスを信じるよう望んでいる。しかし、それは神が強制することではない。信じるのは、私たちの責任である。もし神が人間に信仰を強制したら、私たちは単なるロボットに過ぎない。

 また、カルヴァンが言うように、既に「救われる人」が決められているのだとしたら、イエスのことを伝える必要はどこにもなくなる。しかし、イエスはそうは命じなかった。イエスの最後の命令はこうである。

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 

 イエスは、弟子をつくり、イエスのことを教えよと命じた。ペテロやパウロ、ピリポにステパノ、テモテにアポロ、ヤコブヨハネ・・・イエスに直接会った弟子たちも、会っていない弟子たちも、皆、イエスを宣べ伝えたのである。元々、滅びる人も救われる人も決まっていたら、彼らはそうしなかっただろう。

 エペソ人への手紙で語っているのは、「すべては神の手による」という、神の偉大さの強調であって、救いが既に全部決まっているという意味ではない。時を超える神の目では、既に全てが決まっているが、時を超えられない人間にとってできるのは、この素晴らしいイエスを伝えることである。

 聖書のほかの部分では、「いつでも信じるチャンスはある」というメッセージが書いてある。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取り除けられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

(コリント人への手紙第二 3:12~17)

 

 これは、旧約聖書時代に、モーセの律法の巻物に垂れ幕をかけて覆っていた伝統を用いた比喩である。モーセは、神と面会した時に、神のあまりの栄光のために顔が光った。モーセは顔に布をかけて覆った。それをふまえて、律法の巻物も布で覆われていたのだ。ユダヤ教では、現代でも律法の書に、象徴的に覆いをかけている。旧約聖書の律法が「伏線」として示している真理、すなわちイエスについては、その時が来るまでは「覆われて」いたのである。

 しかし、真理が明らかになった今、覆いは取り除かれた。人がイエスを信じるなら、いつでも誰でも心の覆いは取り除かれ、「救い」を受け取れる。それは全ての人に公平に差し出されている救いである。そして、それは元々神の計画である。大仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、人の行動は、全て神の意思による。神は時を超えるので、信じられたのは、常に神の「選び」によるのである。

 

 

▼3:救いは「聖霊」による

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 最後に、救いは「聖霊」の力によるという、最大のポイントを説明したい。聖霊とは、イエスが送ると約束した「助け主」であり、神ご自身の力の現れである。聖霊は、神ご自身である。聖書にはこう書いてある。

肉のうちにある者は神を喜ばせることはできません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなた方の死ぬべきからだも生かしてくださいます。

(ローマ人への手紙 8:9~11)

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。

(エペソ人への手紙 1:13~14)

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一 12:3) 

神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。エスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。

ヨハネの手紙第一 4:2~3)

 

 どんな人も、聖霊の力なしには、イエスを主と告白できない。聖霊によって、私たちは新しい「いのち」を得ている。聖霊は、救いを受け取っていることの証拠である。人がイエスを信じられるのは、信心深いからとか、大きな信仰を持っているからではない。それは全て、聖霊の働きによるのである。(聖霊の働きには、段階があるのだが、それはまた別の記事で書こうと思う)

 

 もし、クリスチャンが自分で誰かを救えると思っているとしたら、それは勘違いだ。神の恵み、選び、そして聖霊の力を軽んじている。私たちができるのは、ただただイエスを伝えるだけだ。信じるかどうかは、アナタ次第。信じたとしたら、それは神の恵みであり、計画であり、神が与えた聖霊の働きによるのである。

 

 

▼ただ神を自慢しよう

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 結局のところ、クリスチャンにできるのは、「イエスって最高だぜ!」と自慢しまくる生き方である。聖書にはこう書いてある。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。

(コリント人への手紙第二 4:1~5)

 

 クリスチャンができるのは、イエスを伝えるところまで。それを信じるか信じないかは、聞いた人が決めるのだ。クリスチャンの目的は、キリスト教信者を増やすことでも、教会のメンバーを増やすことでも、キリスト教国家を増やすことでもない。ただただ、イエスを信じて神と一緒に生きるのを、楽しむのがクリスチャンの生き方である。ぶっちゃけ言うと、イエスと一緒に生きるの最高! 

 そんなクレイジーで楽しい人生を、あなたも体験してみてはどうだろうか。やり方はカンタン。イエスを信じるだけ。シンプル。何の義務もない。イエスを信じる人生、超最高。私に言えるのは、残念ながらここまで。信じるか信じないかは、アナタ次第。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス11】「意地でも神様に従う」浅井元規@経営者・コーチング

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第11弾は、浅井元規さん!

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【Profile】

名前:浅井元規(Motoki Asai)

生まれ:1990年

出身:愛知県名古屋市→神奈川県茅ヶ崎市

学歴:米テキサス州立大学卒業→CFNI(Christ For The Nations Institute)卒業

職業:経営者( pro.de.sign <プロデザイン>)、コーチ等

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20190424014849j:plain よろしく。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今は、どんな仕事をしているの? 

f:id:jios100:20190424014849j:plain 去年から、pro.de.sign」(プロデザイン)という事業を立ち上げてやっています。形としては自営業かな。プロデザインは、「あなたらしくあるために、いつも隣にいる仲間」という”タグライン”(企業理念的なもの)でやってます。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分で事業をやっているんだね。具体的にはどういう内容なの?
f:id:jios100:20190424014849j:plain プロデザインでは、「個人コーチング」「オンラインサロン」をメインに活動してるよ。
f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。カッチョイイ。もう少し具体的に何をやっているか教えてもらえますか?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 「個人コーチング」では、その人が抱えている課題や目標に一緒に向き合って、前進していけるようなサポートをやっているよ。

「オンラインサロン」では、インターネット上のコミュニティを作ってコーチングや自分らしく生きることに関心がある人たちがつながって、日常的に居場所として帰ってこられる場所を目指しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その2つを通して、「あなたらしさ」を追求するサポートをしているということ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そういうことだね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どこかの団体に所属したりしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain いや、全部自分でやっているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほええええ。今日はそのへんもゆっくり聞かせてください。

 

 

▼春のジャケットにつられて・・・ 

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↑高校時代。右下が元規さん。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 出身はどこ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 生まれたのは名古屋市なんだけど、物心ついたときから神奈川の茅ヶ崎市に住んでいたから、地元は茅ヶ崎かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやってイエスを信じようと思ったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ウチは元々、クリスチャンの家族ではなかったんだよね。だけど、2008年の9月、家に帰ったら、母親が突然「今日、クリスチャンになった」とか言い出して(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いきなり(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう(笑)母親は、元々、ずっと真理を求めていて、それまでもスピリチュアル系とかにハマってたりもしてたんだけどね。心理学とかも勉強したり。そこで行き着いたのが、アーサー・ホーランド牧師のメッセージで。これは真理だと思って、アーサーさんに「洗礼してください」とお願いしたら、アーサーがバケツで水を汲んできて、はい、洗礼、みたいな(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain むちゃくちゃやな(笑)母親がいきなりクリスチャンになって抵抗なかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 俺と兄は、「あ、そう・・・」みたいな感じで、全然興味なかったんだよね(笑)別に教会も行かなかったし。でも、次の年、2009年の3月、高校卒業した直後に、母親が「教会行ってみない?」って誘ってきて。「一緒に来たら、横浜で服を買ってあげるよ」と言われて、春先だし、ジャケット欲しいなって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 春ジャケットにつられたんだ(笑)

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。それで、「New Hope 横浜」っていう教会に行ったんだけどね。そこに一歩足を踏み入れたときに、自分が感じたことのない暖かさに包まれて、神様の存在を強く感じたんだよね。それで、賛美の歌が始まったら、心の内側から喜びが溢れて、めっちゃ涙があふれそうになって、なんだこれ? ってなった。集会の最後に、「今日、イエスさまを信じたい人、受け入れたい人」というアナウンスがあって、気がついたら手を挙げていたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain わお。教会にいった初日に。

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↑すぐにバプテスマを受けた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その1ヶ月後にバプテスマを受けたよ。自分は、昔から頭で納得できないと進めないタイプなんだけど。イエスさまについては、心の中で絶対に自分に必要なものだと分かっていた。頭で全部は理解できなかったけど、世界の造り主がいて、その造り主である神様が喜ぶ選択をしていきたいと思ったんだよね。それまでの自分は、八方美人的なところがあって優柔不断だった。信じてからは、自分の人生ではなくて、神様に選択肢を委ねることを決めたって感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい人生の方向転換だね。家族はどう思っていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 実は、母親が信じてから1年以内に、家族全員が信じたんだよね。母の後、俺、兄、父親。そして、そこから3年以内に、両方の祖父母も信じたんだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ、すごいね。おじいちゃんもおばあちゃんも信じたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain まさに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」使徒の働き16:31)っていう聖書の言葉通りになったね。

 

 

▼スポーツの世界で活躍を夢見て

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アメリカ留学時代
f:id:jios100:20180905032057j:plain 信じた後は、どういう進路にいったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 元々、2009年の5月からアメリカへの留学が決まってたんだ。信じたちょうど40日後にアメリカに飛び立ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へええ! どこの大学?

f:id:jios100:20190424014849j:plain テキサス州立大学。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして留学を考えていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さい頃から、国際交流の団体のプログラムに参加していて。小学校のときはロシア、中学校のときはニューヨークにホームステイしたり、高校1年のときはモンタナ州に1年間留学してたりもしたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain モンタナ! またニッチなところに・・・

f:id:jios100:20190424014849j:plain 小さな村で、幼稚園から高校まで100人ぐらいしかいない学校に行っていたよ。もちろんアジア人は村で1人。ジャッキー・チェンが来た!」とか言われたね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって、海外に興味を持っていたんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。アメリカでは、みんな自分の価値観を持っていることに驚いたんだよね。それと比べて、自分は八方美人的だなぁと。しっかり自分の価値観を持ちたいと思って、はじめからアメリカの大学に行こうと思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain テキサス州立大学では何を勉強したの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 幼稚園の頃から、サッカーをやってて。ボランチのポジション。ずっとスポーツに関わっていたのと、人をサポートするのが昔から好きだったから、両方を活かせるスポーツ医療の世界で働きたいと思って、アスレティックトレーナー(AT)の勉強をしたよ。テキサス州立大学は、その分野では結構有名な大学なんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain アスレティックトレーナーとは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 怪我をした選手のリハビリや、体のサポートをする資格かな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 専門職って感じだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain ATの資格を取得するのには5年かかったよ。その頃の僕のビジョンは、クリスチャンがあまり入れないスポーツ業界やアスリートたちに福音を伝えるということだった。スポーツ選手が怪我をするっていうのは、それまでのアイデンティティを失うってこと。その選手たちに、リハビリで関わることによって、その人の価値をスポーツ以外のところに見出してもらえるようにって思ってた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大切な働きだね。なかなか素人は入れない世界だもんね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。僕は将来の計画を立てるのが好きなんだけど、その頃は、アメリカでカイロプラクティックの医院で働きながら、勉強をしたいと思っていた。ATっていうのは、単体じゃなくて、他に別の資格があると強い資格なんだよね。だから、働きながら勉強して、カイロプラクティックの資格も取って、日本のサッカーチームのトレーナーになれたらなと思ってた。そのチームで認められて日本代表のチームに入って、誰かに気に入れられて専属トレーナーになる・・・っていうような未来を想像してたなぁ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そうならなかった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうなんだよね。進路を祈り始めたら、神様が全く違うことを示して・・・

 

 

▼スポーツの世界から、聖書の世界へ

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↑神学校のミッショントリップ

f:id:jios100:20180905032057j:plain 全く違うこととは?

f:id:jios100:20190424014849j:plain スポーツの世界に行くように、5年もかけて勉強したのに、アメリカで就活を始めたら、どう祈っても、神様が「神学校(聖書学校)に行きなさい」と言っているように感じたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どういうことを通してそれを感じたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 就活をしていても、心の中に安心感がなかったり。あとは、いつも「神学校」っていうフレーズが頭にあったんだよね。両親からも、「神学校に行くことも選択肢に入れて、祈ってみてもいいんじゃないか」って言われて、それで祈っていた。極めつけは、当時、キャリー・ジョブっていう人の「フォーエバー」っていう賛美歌がヒットしていて、その曲を聞いたときに、神様に「私に人生を捧げなさい」と言われた気がしたんだよね。そこで、神学校に行こうと決めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 資格まで取ったのに、違う道に! それでも神様に従ったんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、「神様、国家資格を取って、最初っからそれをやらないって何?!」って思ったよ。さすがに。手に職の世界なのに、学んだ直後にやらなかったら忘れちゃうよね。最初は迷ったけど、祈っても、祈っても、気持ちは変わらなかった。教会の牧師が神学校を紹介してくれて、進学先も決まった。そしたら、その学校がさっきのキャリー・ジョブの卒業校だったんだよ。そこでも神の導きみたいなものを感じたな。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。祈っても気持ちが変わらなかったんだね。神様がそこに導いたのかもしれないね。神学校に入ってからはどう過ごしていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 神学校はめちゃめちゃ良かったなぁ。1年間のコースで、聖書の言葉と祈りを通して、日常の中で神様と共に歩むことを教えてくれる学校だったよ。授業は午前中だけだったから、午後はいつも、「神様、午後はどう過ごしたらいいですか」と祈ってから始めることにしていた。日によって、「カフェテリアに行って、あの人に話しかけてみよう」とか、「クラスメイトのあの人に会いに行ってみよう」とか、そういう気持ちになって。それは、全部神様の導きだと今でも思ってるよ。そうやって、聖霊を通して、”神の声を聞く”っていう訓練ができたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・! 生活の中で全ての行動を神様に聞きながらやっていたんだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。聖書を読む時も、神様にどこを読めばいいか祈ってからいつも決めていたよ。神様に従うということを教えられた1年間だったな。

 

 

▼神の導きに従い続け・・・

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カリブ海の国、キュラソーにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後の進路も、もちろん神様に祈って決めたんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。神学校時代の夏休みに、神学校で知り合ったブラジル人の友達の故郷に2ヶ月間行ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ、めちゃめちゃ面白い。

f:id:jios100:20190424014849j:plain その教会で勉強したいなぁと思っていた矢先に、「ここでインターンをしないか?」とお呼びがかかったんだよね。これこそ神様の導きだと思って、準備を始めた。ビザもその教会が準備してくれることになったんだけど、予定より時間がかかって、ひとまず日本に帰らないといけなくなったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 日本に帰ったら、状況が変わった?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 2ヶ月、ビザの発行を待っていた間に、神様にもう一度聞いてみようと思って。今ある選択肢を全部放り投げて、神様に、「どれが残りますか?」と聞いてみることにした。そしたら、ブラジルへの思いはなくなっちゃって。別のミニストリーの思いだけが残ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。ブラジルの人もびっくりだね。

f:id:jios100:20190424014849j:plain 申し訳なかったんだけど、ブラジルの教会には断りの連絡を入れたよ。その後で、働き始めたのが、7MEDIA」(セブン・メディア)という会社。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアは何をやっている会社なの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain ソーシャルメディアを中心とした、様々なメディアを通して、次世代の宣教をしていくっていう会社かな。2016年から2017年の10月まで、2年弱働いていたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain セブンメディアというくらいだから、7つのメディアがあるんだよね?

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。A〜Gの頭文字をとって、7つの領域に力を入れていたかな。

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EDUCATION(教育)

FAMILY(家族)

GOVERNMENT(政府・政治)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この7つの領域だよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこで何をやっていたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン(輝く)・コーディネーター」という肩書きで、いろいろな人間関係の構築を担当していたよ。日本の牧師やリーダーたちと話して、人や教会をつなげたりとか。一番やっていたのは、「シャイン・ジャパン」という働きで、いろいろなイベントを企画・実行したり。最後にやったのは、10カ国から100人ぐらいのチームが集まって、日本の教会と協力して、伝道の集会をやったりしていたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。その2年間で大変だったのは、どんなこと?

 f:id:jios100:20190424014849j:plain 人手が足りなかったことかな。会社といっても、フルタイムのスタッフは、僕と社長の2人しかいなくて、仕事量はかなり多かった。インターンが1人か2人いるときはあったんだけど、基本的にフルタイムは2人だけ。でも、逆に言えば、その経験を通して、自分の力ではできない仕事を、神様に頼って、神様が成し遂げてくださるということを学ばせてもらったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 番神様の働きかけを感じたのはいつ?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 「シャイン・ジャパン」の働きを、マレーシアでやったときかな。「シャイン・マレーシア」として、大きな集会をやったんだよね。現地のユース世代や、牧師たちが集まった。そこで、自分がそのコンセプトを説明したり、聖書の話を大勢の前でさせてもらう機会もあった。全然そんな経験もなかったし、絶対無理だって思っていたことも、神様の助けで乗り越えさせてもらって、実践の中で学ばせてもらったことはすごく大きかったよ。

 

 

▼さらに導きのままに・・・ 

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↑マレーシアの大会では、スピーカーも努めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そこも2年で辞めたんだよね。どうして?

f:id:jios100:20190424014849j:plain セブンメディアで働いている時に、ヨハネ福音書の言葉が心に迫ってきたんだよね。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ福音書 1:5)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この聖書の言葉を読んだときに、自分はもっと世の中に出ていくように導かれている気がしたんだよね。セブンメディアの仕事では、クリスチャンじゃない人との日常的な関わりが少なくて。俺は、もっとクリスチャンじゃない人と、日常的に関わって、聖書のこととか、イエスさまのことを話したいと思ったんだよね。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで、セブンメディアを辞めたと。

f:id:jios100:20190424014849j:plain うん。2017年の10月いっぱいで辞めて、その後も神様にどうしたらいいか祈った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今度は何が示されたの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain そこで、頭の中に浮かんだのが、元々勉強していたアスレチック・トレーナーの世界のこと。正直いうと、神様に対して「今さらですか?」という思いだった。3年前に手放したものだから、完全に忘れているし、資格も失効してると思ってた。だけど、よくよく調べてみたら、60時間の講習を受けて、テストをクリアすれば、資格が復活することが分かって。でも、資格の失効期限まで、残り2ヶ月しかなかった。だから、あわてて取得し直したよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ギリギリの資格復活! その後は?

f:id:jios100:20190424014849j:plain  その後は、FiNCという会社で、パーソナルトレーニングのジムで働いていたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain FiNC! LINEマンガのCMでめっちゃ出てくる(笑)巡り巡って、神様が元々学んでいた経験を活かしてくれたんだね。

 

 

▼行き着いた先は・・・

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↑マレーシアにて

f:id:jios100:20180905032057j:plain そのジムの仕事も、辞めた。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そう。半年ぐらいした頃に、また「違う」という気持ちになった。そこで、仕事はひとまず辞めると会社に伝えたよ。でも、神様に祈っても、なかなか具体的に示されずに、迷っている時期が続いたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 転機となったことはあったの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今年の8月に、また聖書の言葉がから思うことがあったんだよね。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に善い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復習の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。

イザヤ書 61:1〜3)

エスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』これらよりも重要な命令はありません」

(マルコの福音書 12:29〜30)

f:id:jios100:20190424014849j:plain この2つの聖書の言葉を読んで、この世の価値観に囚われている人に、真理を伝えたいと思ったんだよね。真理を知って、縛られているものから解放されていって欲しいなと思った。知力も、感情も、意思も。神様の愛が土台となっているプラットフォームの上で、心の開放やいやしが行われていくといいなと思って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その答えが、コーチングやオンラインサロンだったんだ。

f:id:jios100:20190424014849j:plain はじめは、神様に具体的にどうしていいか祈っても、なかなか答えがなかった。徐々に、そういう道が開かれていった感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain コーチングはどうやって学んだの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain それも、たまたま、ジムトレーナーの時のお客さんが、コーチング界の有名な人で。その人が俺にすごくよくしてくれて、いろんなセミナーとか、コーチングの知識をつけるのに必要なものを紹介してくれたりしたんだよね。そういうのも、全部神様の導きだと思ってる。

f:id:jios100:20180905032057j:plain スゴイ。今までの経験も、全部次につながっている感じがするな。

f:id:jios100:20190424014849j:plain そうだね。今まで、「神様に従う」っていう選択をして、いろいろな経験をさせてもらってきているんだけどね。全部、次につながっていて。今まで歩んできた道があったから、今があるんだと強く感じるな。無駄なことは、何ひとつなかったと思う。

その導きの先に、今のpro.de.sign」(プロデザイン)の形が出来上がってきたっていう感じかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど・・・どこまでも神様に従う! っていう精神、尊敬します。

 

 

▼社会の中にプラットフォームを作りたい

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f:id:jios100:20180905032057j:plain 気になるのは、今の仕事はどうやってお金にしているの?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 正直いうと、お金をどう生み出そうかは、何も考えていないんだよね。お金が目的になると、進まなくなるから。そこも神様に委ねているよ。今は実家に住んでいるというのもあるけど、コーチングの仕事の収入や、オンラインサロンの会費などが主かな。あとは、前勤めていたFiNCから、業務提携の話ももらって、自分の好きなタイミングでその仕事もできる。それも、大学時代の知識とかも役立っているから、神様の導きに無駄はないと感じるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど、収入は一本じゃなくて、複合的にやっているんだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンはどんなこと?

f:id:jios100:20190424014849j:plain 今やっているオンラインサロンが、「自分らしさって何だろう」という目線の会話が生まれるコミュニティになってほしいなと思っているよ。聖書の言葉が土台となった脳科学や心理学の言葉を伝えることで、クリスチャンだけではなく、クリスチャンでない人も自然に会話に入れるコミュニティを目指しているかな。聖書の勉強会もやりたいけどね。俺の目標としては、社会の中にプラットフォームを作っちゃって、その中で福音を語りたい。教会とかに「来てもらう」だけじゃなくて、こちらから社会の中にプラットフォームを作っちゃう。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 分かる! 自分から出ていく、これすごく大事だよね!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 当面のビジョンは、オンラインサロンのコミュニティが、現実のコミュニティになることかな。そこで紅茶を飲んだりしながら、いつでも自分らしくいられる場所を作りたい。「家に帰ってきたような隠れ家」っていうのが目標かな。今は、コミュニティの仲間たちと、「コーヒー淹れ方ワークショップやりたい」とか、「レザークラフト体験」とか、趣味やビジネスでも、いろいろなことをやりたいと話しているよ。最終的には、そこが日曜日は教会になって、福音が語られて、祈りがあって・・・というようなコミュニティになったらなと思っているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 元規くんのコミュニティが、神様の計画通りに用いられるように、願っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも、元規くんが覚えている聖書の言葉を教えてください!

f:id:jios100:20190424014849j:plain 黙示録の言葉です。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

(黙示録 2:10)

f:id:jios100:20190424014849j:plain 最初は、頑張って、神様に忠実でないといけないと思っていた。でも、だんだんと、この言葉は、「元規が私(神様)につながっていれば、この言葉があなた自身だ。あなたは死ぬまで忠実であるよ」と約束してくださっている感じがしたんだよね。「あなたは、私に忠実であるように造られている」と神様が語ってくださっているような感じがして。この命を、神様のために捧げる人生。それが俺のモットーです。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 人生の行動全てを神様にゆだねている、元規くん。これからの、ますますの活躍に期待します!!! 

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「元号」を使ってはいけないのか?

クリスチャンは「元号」を使うべからず・・・そんな議論があるそうです。果たして本当にそうなのでしょうか・・・?

 

 

▼クリスチャンは元号を使ってはいけない?

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 「平成」が終わり、「令和」が始まった。5月1日、新しい時代の幕開けだ。

 菅官房長官が新元号を発表した4月1日、私は、総理官邸のエントランスで取材をしていた。臨時閣議が終わり、大臣たちのコメントを取るべく、今か今かと発表の時を待っていたのである。菅長官が「令和」と発表し、その文字を掲げた時は、なんだかしっくりこないような気もした。

 しかし、4月1日の新元号発表から1ヶ月。はじめは違和感のあった新しい元号も、耳に馴染んできたような気がする。「R」のサウンド。初の日本文学からの引用、かつ原典は中国の文学である点。「令」という新しい文字と「和」の組み合わせ。「昭和」の「和」を再び使うのは予想外だったが、決まってみれば「令和」はいい2文字ではないかと、個人的に思う。後に、「広至」「万和」「英弘」など、他の5つの案がスクープされたが、「令和」がやはり良いと感じた。

 元号が「令和」に決まった日、クリスチャン界隈では、ある聖書の言葉が話題となった。イザヤ書の言葉である。

わたし<神>があなたに与える命令平和。あなたを支配するものは恵みの業。

イザヤ書60:17 新共同訳聖書)

 

 神が平和を命じるという聖書の言葉の中に、「令」の文字と、「和」の文字がある。「令和」の言葉が、聖書の中にも隠されていたのである。

 もちろん、新元号は聖書を出典にしたわけではないが、面白いなとは思う。この日、多くのクリスチャンたちがこの事実をSNSにアップし、ちょっとしたブームとなった。クリスチャンたちも、新元号の制定を祝し、聖書の言葉に共通点を見つけ、神の言葉を宣言していたのである。(もっとも、聖書協会共同訳や新改訳聖書2017などは、「私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする」と訳している)

 

 しかし、このお祝いムードに待ったをかける声が、同じクリスチャンの中から上がっているようだ。一言で言えば、「クリスチャンは元号を用いてはいけない」という主張である。なぜか。元号は、天皇が時空を支配する象徴だから、クリスチャンは用いてはいけない。それは偶像礼拝である」というのが理由らしい。

 私は、初めてこの主張を耳にした時、驚いた。クリスチャンと元号の関係性を、考えてもみなかったのである。

 確かに、調べてみると、確かにいくつかのキリスト教団体が、公式に天皇の退位・即位、元号の改定に関する声明を発表していた。

日本基督教団

天皇の退位および即位の諸行事に関する声明 - 日本基督教団公式サイト

 

<日本バプテスト連盟>

元号法成立に対する反対の声明(1979年6月6日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

20190424 新天皇即位と元号改元に際しての私たちの信仰的表明(2019年4月24日 理事会声明) – 日本バプテスト連盟

 

日本聖公会

天皇の退位と即位に関する声明

  

 いずれも、「政教分離」の原則から、天皇の退位・即位に関する儀式や、新元号の改定に異議を唱える内容となっている。この内容の是非については、記事の最後で述べる。果たして、「クリスチャンは元号を用いるべからず」は、正しい主張なのだろうか。まずは、この点に絞って見ていきたい。

 

 

天皇が時空を支配する?

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 まず、「クリスチャンは元号を用いるべからず派」の人々の主張を見ていこう。断っておくが、私はこの主張に賛同しているわけではない。だから、今から列挙するのは、私が「こういう主張がある」と聞いたり、またはネットで検索して「クリスチャン」と言っている人が主張していたものである。それゆえ、かなり精度が低い無理矢理な主張になっているが、ご容赦願いたい。なにしろ、私は元号廃止論者ではないので、自分で論理的にこのアイディアをサポートできないのである。 

<クリスチャンは元号用いるべからず論者の主張>

元号は古来、中国の皇帝が、時空を支配する思想に基づいて作られた。

元号は現在、天皇が時空を支配するという思想に基づいている。

・つまり、元号を使用すると、天皇が時空を支配していると認めることになる。

・クリスチャンが元号を使うのは、天皇の支配を認めることになるから、それは偶像礼拝である。

 

 いかがだろうか。確かにナルホド、一応、論理的ではある。「時空を支配??」という謎はあるが(笑)。

 聞くところによると、元号を使うのは良くない」と教えている牧師もいるようだ。あるクリスチャンの人は、「令和」に関する話をしていたら、牧師から「しないように」と指導を受けたという。あるクリスチャンの人は、役所の手続きで「平成」や「昭和」にマルをせず、二重線で元号を消して西暦を記入するようにしているという(運転免許証はどうするのだろうか・・・)。自分がそうするのは勝手だが、他の人にも同じようにするよう勧める人もいると聞く。

 そこまでする必要があるのだろうか。私の考えでは、全くないと思う。では、私がどう考えるのか、順番に述べたい。

 

 

▼時空を支配しているのはサタンである

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 天皇は時空を支配していない。聖書を見てみよう。

エスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」

ヨハネ福音書 12:30~31)

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

(コリント人への手紙第二 4:4)

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

(エペソ人への手紙 2:1~3) 

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ人への手紙 6:11~12)

私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:19)

 

 これらの言葉から、悪魔、すなわちサタンがこの世を支配しているのだと、ハッキリ分かる。サタンは、「空中の権威を持つ支配者」なのである。しかし、これは神が負けてしまったという意味ではない。サタンは、神が許可した範囲でしか動けない。ヨブ記を読めば、それは明らかである。詳しくは、以前の記事を参照していただきたい。

yeshua.hatenablog.com

 天皇は人間であるから(もはやこれに異論はないだろう)、時空の支配者などではない。今、この世を自己中心で、罪で満たしているのはサタンである。しかし、それは神の許可した範囲内でのことである。全てが神の権威の下に、神のコントロールの下で動いているのだ。つまり、時空の支配者は狭義ではサタンであり、広義では神ご自身である。天皇が時空の支配者となってしまうなどというのは、クリスチャンにとっては妄想であり、妄言である。

 

 

▼クリスチャンは神の支配の中にいる

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 エスを信じ、クリスチャンとなった人は、もはやこの世の支配、サタンの支配の下にはいない。神の支配の下にいる。聖書を見てみよう。

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(中略)私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

ヨハネの手紙第一 5:4~19)

御父は、私たちの暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

(コロサイ人への手紙 1:13~14)

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

(コロサイ人への手紙 1:16~17)

 

 実は、地上に存在する支配や権威は、全て神、イエスによって造られたものなのである。天皇が時空を支配しようが、サタンが支配しようが知ったこっちゃない。本当に支配しているのは、神ご自身なのだ。そして、イエスを信じたクリスチャンは、この世の支配から抜け出し、全く新しい存在として、神の支配の中へと移っているのである。

 

 イエスが、税金を納めるかどうかについて語ったエピソードをご存知だろうか。

彼ら(イエス一行)がカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生(イエス)は神殿税を納めないのですか」彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン(ペテロ)、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」

(マタイの福音書 17:24~27)

 

 イエスは、自分たちを「神の子」とした。これは、「神こそが王である」と宣言している部分でもある。この世界を本当に支配しているのは神なのだ。その子どもである私たちは、地上の王へ税金を納める義務は、本来はない。しかし、それだと信仰を勘違いされてしまう恐れもあるので、しっかりこの世の義務である税金は納めようではないか。これがイエスの教えである。

 本来、クリスチャンにとってこの世の支配者が誰だろうが、実はどうてもいいのである。本当に支配しているのは神なのだから。その神に信頼して、この世の義務も果たすのが、イエスが教えた「生き方」である。

 

 

▼聖書は人間の支配や暦を受け入れている

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 また、聖書はこの世の権威に対して、このように書いている。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は、自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びていないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7) 

そこで、私(パウロ)は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。

(テモテへの手紙第一 2:1~4)

 

 聖書は、権威のために祈るよう勧めている。時の支配者は、ローマ帝国であった。また、イスラエルを支配していたのは、本来、外国人だったヘロデなどの王たちであった。支配者たちが、イエスを信じるクリスチャンを迫害していた、そんな時代である。

 そんな中であっても、聖書は「上に立つ権威に従うべき」「王たちと高い地位にある人のために祈りなさい」と教えているのである。非常に興味深い。聖書は、この世の支配を認めず逆らえとは教えていない。むしろ、彼らに従い、法を遵守し、彼らのために祈るよう教えているのである。

 であるならば、天皇であろうが、総理大臣であろうが、日本という国が様々な歴史を経て、象徴なり三権の長とした「人間」に対して、クリスチャンが敬意を払い、彼らのために祈るのは至極当然である。民主主義の国において、国民主権の価値観のもと、公正な選挙で選ばれたリーダーをリスペクトし、彼らのために祈るのは、クリスチャンにとって推奨されるべきことである。

 

 また、聖書はユダヤ暦以外の暦も使用している。例えば、以下のような箇所もある。

 

アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき・・・

(ネヘミヤ記 2:1) 

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第2年まで中止されたままになった。

エズラ記 4:24)

クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で、王座に着いていたころ、その治世の第3年に、彼はすべての主張と家臣たちのために宴会を催した。

エステル記 1:1~3)

ユダの王ゼデキヤの第10年、ベブカドネツァルの第18年に、主からエレミヤにあったことば。

エレミヤ書32:1) 

ペルシアの王キュロスの第3年に、ベルテシャツァルと名付けられていたダニエルに、あることばが示された。

(ダニエル書 10:1)

 

 聖書は、思いっきり他の国の王の治世の「年号」を用いている。エレミヤ書に至っては、ユダヤの王と他の国の王の治世の年号を併記までしている。もし、他の国の王の治世で年月を表すのが、「悪いこと」なのであったら、聖書記者たちはユダヤの暦で換算し直して表記しただろう。しかし、このようにありとあらゆる他の国の王の治世で年月が記されている。つまり、年号を使おうが使うまいが、結局のところどうでもいいのである。あなたが元号を使っても、使わなくても、神がこの世界を支配している事実は変わらないのだから。

 

 

▼結局、どっちでもよくね?

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 とどのつまり、元号を使ってもいいし、使わなくてもいいのである。それは、聖書からみれば、どっちでも良い。元号を使っても、使わなくても、サタンは神の許可する範囲内でこの世を支配している。神の権威は、そのはるか上にある。クリスチャンにとって大切なのは、元号を使わないことではなく、この世の支配者のために祈り、自分の義務を果たすことである。エネルギーを裂く方向を間違えてはいけない。

 結局のところ、今回の結論は、次の聖書の言葉に要約できる。

ある日を別の日より大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(中略)私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。

(ローマ人への手紙 14:5~14)

 

 「元号」そのものには、何の効力もない。「それ自体で汚れているものは何一つない」のである。しかし、「元号」を使うのは偶像礼拝だと考える人にとっては、それは偶像礼拝になる。「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」のが大切だ。

 私個人の意見では、「クリスチャンは元号は使うべからず」は、行き過ぎた主張だと思う。そして、信者たちに行政的な手続きのやり方まで指導し、他の人にそれを強制することは、たとえ牧師であっても「やりすぎ」だと思う。こと「元号」に関しては、個々人が自分で聖書を読み、神の前で正しいと思うようにすれば良いと、私は思う。

 

 

▼おまけ1:天皇制の是非という別の問題

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 「元号」については、述べた通りだ。この手の議論をすると、必ず天皇制の是非」について話題が及ぶが、これは全くの別問題である。この議論に深入りするのは避けるが、私個人の意見を簡単にまとめたい。

 まず、天皇は、「日本国の象徴」であり、「国民統合の象徴」である(憲法第1条)。皇位世襲であり、国会の決議した皇室典範により継承する(憲法第2条)。これらは全て、日本国憲法で規定されている。つまり、天皇憲法の規定に基づいた「象徴」なのである。

 天皇制には神道という宗教的なバックグラウンドがある。だから、クリスチャンは天皇を認めるべきでないという人もいる。私は、それには懐疑的な立場だ。そもそも「神道」自体が、極めて曖昧な、後の時代に「作り出された」宗教である。その儀式や伝統には、ユダヤ教ペルシャの宗教の影響が色濃く見える。おそらく、シルクロード、中国経緯で伝わったものだろう。西洋で破門された「ネストリウス派キリスト教」の影響もあると考えられる。天皇自体も、最初から文献があるわけではなく、後の時代にさかのぼって「こういう感じでした」という記述を、あえていえば「作り出した」のである。

 これは極めて日本的だ。「古事記日本書紀が作成されたのは8世紀。イスラム教の誕生が7世紀なので、それより後である。当時の日本は、文献がなかった。中国へ渡った大使たちが、中国の発展に追いつこうと、日本独自の「神話」を「作り出した」のである。同時に「天皇」という存在も、有り体に言えば「作り出した」のである。これは議論のあるところだろうが、私はそう考えている。極めて日本人らしい、「そういうことにした」という典型例である。

 以来、天皇は、ハッキリ言って「政治利用」され続けてきた。天皇は神と言いながら、歴史の中の権力者に利用されまくっていたのである。矛盾することをできてしまうのが、本当に日本人らしい。私は、取材する中で、「生物学的には、男系だけで子孫が保てるのは4代が限界」との声も聞いた。天皇はずっと同じ家系ではなく、養子や隠し子など、様々な、あの手この手を使って維持されてきたのである。これは、誰もが認める歴史的事実であろう。

 

 日本中が天皇を「神」だと考えていた時代でさえ、天皇は軍に利用されていた。GHQ天皇を尋問した際、昭和天皇が「私が止められる空気ではなかった」と供述したことに、西洋の人々は驚きを隠せなかった。「あなたは神ではないのか」。「決める権限はあなたにあるのではないか」。そう思ったことだろう。日本を支配しているのは、実は天皇でも政府でもなく、「空気」なのである(by山本七平)。

 そして、戦後、日本中の人々が、すぐに「天皇」を「人間」であり「象徴」だとして受け入れた。終戦が1945年8月で、憲法の交付が1946年11月である。この間、わずか1年3ヶ月。1年余りの間に、日本人は全く違う考え方を受け入れたのである。「そういうことにした」のである。これが日本人のサガであり、西洋の人々には決して理解できないだろう。

 

 まとめると、天皇日本国憲法で制定された立場である。これを否定するならば、憲法を変えないといけない。同時に、憲法には政教分離の規定もあり、天皇が形上、内閣総理大臣を任命したり、国会の開会を宣言したりするのは、憲法と矛盾する。実は、憲法には矛盾する内容が含まれていて、これを受容しているのも、また日本人的と言えよう。結局のところ、私は天皇制は無くならないと思っているし、無くならないなら騒いでも仕方ないと思っている。

 ただ、基本的人権」の観点から、天皇制を疑問視する声はあって当然だと思う。天皇は、生まれながらにして、職業選択の自由がない。信仰の自由もない。プライバシーもない。男子は一生皇族である。女性だって、結婚しようと思えば、週刊誌やワイドショーの標的になる。かわいそすぎないか。天皇だって、公務が詰め込まれ、ほぼブラック企業状態である。生まれた瞬間に自分の未来が決まっているというのは、基本的人権を主張する民主主義国家として、いかがなものか。そういう指摘はあって当然だとは思う。

 

 

▼おまけ2:キリスト教団体の主張について・憲法と聖書どちらが大切なのか

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 最後に、先に挙げたキリスト教団体の主張について、私なりのコメントをしたいと思う。上記の団体の声明は、いずれも憲法の「政教分離」の規定を根拠に、天皇皇位継承の儀式に税金を使うのはオカシイ、元号も使わないし、祝日も認めない、といった類のものである。

 別に、どんな要請をしたり、どんな声明を発表したりするのかは、個々の団体の自由である。ただ、私としては、これらの団体の主張を見て、憂慮する部分が2つある。

 ひとつ目の懸念は、これらの団体が、憲法をまるで聖書よりも大切かのように扱っている点だ。私たちクリスチャンが信じるのは、聖書の記述であって、憲法ではない。「憲法守れ!」と言う前に、聖書の記述に照らし合わせて、物事を捉えた方が良いのではないだろうか。これらの主張は、まるでクリスチャンが聖書を信じる人たちではなく、憲法を遵守する人たちに見えてしまうような気がしてならない。

 特に、聖光会の「かつて、天皇を 中心とした国家神道のもとで、植民地支配と侵略戦争をした反省の上に作られた憲法を守ることは、わたしたちの責任だといえます」という主張は、いささか行き過ぎだと思う。クリスチャンが守るべきは、神の言葉であって、人間が作った憲法ではない。しかも、憲法を守ることが責任ならば、その第1条、第2条で定められた「天皇」の存在を認めることになるが、それはいいのか。矛盾するのではないだろうか。憲法を守れと言いながら、主張そのものが憲法と矛盾しているのである。

 もう一つは、日本のキリスト教団体の中に、日本共産党の思想が入り込んでいるのではないか、という懸念である。例えば、「天皇が時空を支配する」などといった表現は、共産党特有の表現であり、これらが牧師たちの口から出てくること自体、私にとっては驚きである。

 参考までに、共産党・志位委員長の公式見解を掲載する。(参考URL)

慣習的使用に反対しないが、使用の強制に反対するーー新元号の発表にさいして

2019年4月1日 日本共産党委員長 志位和夫

 一、元号は、もともとは中国に由来するもので、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づくものである。それは日本国憲法国民主権の原則になじまないものだと考えている。

一、わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではない。
 同時に、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する。

一、政府は、これまでも「一般国民にまで(元号の)使用を強制することにはならない」ことを「政府統一見解」として明らかにしている。
 この立場を厳格に守ることを、あらためて求める。

 いかがだろうか。元号反対派の牧師たちが口にする言葉と、驚くほど似ていないだろうか。 

 共産党の思想が、良いか悪いかを論じるつもりはない。彼らはれっきとした公の政党である。しかし、同時に公安調査庁が、破壊活動防止法に基づき、調査対象団体に指定している団体でもある事実は、バランスの面から述べなければならない。

 個々の政治的思想は自由なので、別にクリスチャンが共産党員になっても構わない。しかし、本来、クリスチャンの信仰と共産党の思想は、完全に別物である。全く別の考えが、キリスト教団体に入り込んではいないか。近年、共産党は「宗教団体との対話」と称して、キリスト教団体との交流を進めている。私は、この動きに対して、懸念を持っている。

 クリスチャンの信仰は聖書に基づくものである。クリスチャンの信仰は、憲法に基づくものでも、共産党の思想に基づくものでもない。エスを信じて生きることと、共産党の思想は、全く関係がない。教会や団体のリーダーたちには、自分の政治的思想と、聖書を教えることや、教会の共同体を牧会することを、きちんと区別していただくよう、願うばかりである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。