週刊イエス

ここがヘンだよキリスト教(イエスを愛する者のブログ)

【疑問】牧師が間違っていると思った時どうすればいいのか <後編>

牧師や教会のリーダーに意見するのは気が引ける・・・一体どうしたらいいのでしょうか。

 

▼「指摘」はどんどんしよう

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 <前編>でも既に述べたが、「裁く」と「指摘する」は根本的に違う。イエスは「さばいてはいけません」と言ったが、「指摘してはいけない」とは言っていない。イエスの言葉のポイントは「まず自分自身を点検せよ」「そうすれば他人のズレを指摘できる」というところにある。聖書はむしろ信仰の仲間のズレを指摘することは推奨している。

 教会の共同体のかしらはイエスご自身であり、その他の信仰の仲間は、それぞれの部分である。牧師であれ、伝道者であれ、他のどのようなリーダーであれ、それぞれは教会の共同体の働きの部分である。どれかひとつだけがより重要とか、より特別とかいう区別はない。

 聖書の中には、プリスキラやアキラ、パウロカナン人の女など、相手が権威あるリーダーであっても勇気を持って「ズレ」を指摘した例が多くある。そして、そのような勇気ある行動は、良い結果をもたらしている。クリスチャンは、相手の顔色やその場の空気をうかがわず、「裸の王様」を指摘する勇気を持つ必要がある。

 とはいえ、実際問題、今すぐ「牧師のズレを指摘する」のはなかなか気が引ける、どうすれば「賢く」指摘できるのか分からない、という意見が大半であろう。「伝え方の批判」に終始してはいけないが、当然、「伝え方」を全く考えなくていいわけではない。では、どのように伝えればいいのだろうか。今回は具体的な「伝え方」について書く。

 

 

▼まずは「心の動機」をチェック ~ミリアムの失敗例~

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 誰かに何かを「指摘」したい。そう思う時は、まず「心の動機」のチェックが必要である。ここまで「指摘しよう!」と言っておいて何なのだが、たいていは、実はあまり相手に問題はなく、自分の心の中に問題がある場合が多い。過去に受けた苦い経験や傷が、あなたの心を蝕み、まっすぐに相手の言葉や行動を受け取れなくなっている時がある。そのような場合、あなたの「指摘」は相手やまわりにとっては「言いがかり」「被害妄想」になってしまう。それではもったいない。だからこそ、イエスは「まず自分の目から梁を取り除きなさい」と教えたのである。

 聖書の中で、間違った「心の動機」で指摘してしまったがゆえに、失敗してしまった例を挙げよう。

 

【ミリアムの失敗例】

 モーセとアロンには、ミリアムという姉妹(新改訳聖書では「姉」となっているが、必ずしもそうとは限らない)がいた。モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーだったが、ミリアム自身も女預言者であり、イスラエルの民の賛美をリードする者であった。現代の教会ならば、いわゆる「賛美リーダー」のような感じ。このミリアム、モーセを「非難」したために、神に怒られる。該当箇所を見てみよう。

 

そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難したモーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか」主はこれを聞かれた。モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

主は突然モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出ていった。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出ていくと、主は言われた。

「聞け、わたしのことばを。(中略)なぜあながたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか」主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。

雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアト(重い皮膚病と考えられている)に冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。

民数記 12:1~10)

 この事案の首謀者がミリアムであるのは明らかだ。ミリアムはアロンと共謀して、モーセを非難した。モーセは反論しなかった。すると、神が突然三人を呼び、ミリアムとアロンを叱った。そして、ミリアムは罰として重い皮膚病になってしまった。こういう話である。

 この場面は、ミリアムの「心の動機」が透けて見えて面白い。ミリアムがモーセを非難した「大義名分」は、モーセが外国人の妻をめとっていた点だった。しかし、よく考えてほしい。イスラエルの民の「選民思想」というのは、まだ後代のように確立していなかった。実は、彼女の非難の「心の動機」は別の所にあったのだ。

 「主はただモーセとだけ話されたのか」というのが、ミリアムの本当の動機だった。ミリアムは、モーセだけが神と直接話す特権を与えられたのを見て、悔しかったのだろう。「私だって預言者なのに、なんでモーセだけ!」「私だって神の預言者だ!」そういう感情に支配されてしまったのだ。

 だからミリアムは、「外国人の妻がいる」という「大義名分」をおっ立てた。人間というのは不思議な存在で、はじめは「大義名分」でも、言い続けるうちに、まるでそれが本当の理由のように思えてくる。はじめはどうでもいい理由でも、考え続けるうちに、それが本当の理由になってしまう。だから、「指摘」する前に「本当にそれが問題なのか?」と、自分の「心の動機」のチェックが必要不可欠である。

 また、ミリアムはモーセと個人的に話すことをせず、アロンという「後ろ盾」をつけた。だからミリアムの「指摘」は指摘とならず、「非難」となってしまった。もし、正当な理由での指摘だったら、アロンと一緒になって言う必要はなかった。心のどこかに自信がないから、アロンを後ろ盾として、自分の心を安心させていたのである。

 神は、ミリアムの心なんてお見通しだった。だから、怒った。神の怒りで、皮膚病にかかってしまったミリアム。やさしいモーセは彼女が癒やされるように神に祈った。ミリアム、赤っ恥。それから後は、二度と同じ過ちは繰り返さなかったことだろう。

 この例から、以下のような教訓が得られると思う。誰かに何か「指摘」する前に、以下のような点を鑑み、自分の心をチェックしてみてはどうだろか。

【ミリアムの失敗例から学ぶ教訓・3つのチェックポイント】

1:あなたの「指摘」の動機は、別のところにあるのではないか。

2:あなたの「指摘」は「非難」になっていないか。

3:あなたは誰かを「後ろ盾」にしようとはしていないか。

 

 もう一点、「心の動機チェック」のオススメのやり方がある。単純だ。誰か信頼している信仰の仲間に相談すればいい。「今、こういう問題を抱えてるんだけど」「牧師がこう言っていて、私は違うと思うんだけど、どうかな?」と、信頼している人に聞いてみよう。きっと、あなたが考えつかなかったアイディアをくれるだろう。

 問題を抱えている時は、往々にして視野が狭くなりがちだ。まずは、相談し、セカンドオピニオンを聞いて、「心の動機」をチェックしよう。ただ、相談する相手の意見に同調しすぎてしまうと、「怒りの増幅」「ゴシップ、ウワサ話になりやすい」という副作用があるので、注意しよう。

 

 

▼あなたは毎日聖書を調べているか?

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 さて、「心の動機」をチェックした後、もうひとつ、何よりも大切なポイントがある。それは、あなたの「指摘」は聖書の言葉に基づいているか? という点だ。一番重要、かつ必要不可欠なポイントである。

 もし牧師や他のリーダーたちの意見が、「何か違うな?」と思ったら、まずは聖書を調べよう。そして、具体的にどの聖書の言葉とズレているのか、整理しよう。ここで、聖書の言葉が動機になっていないのであれば、もしかしたらあなたの動機は別の所にあるのかもしれない。

 聖書の中にも、こんな箇所がある。

 

この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。

使徒の働き 17:11~12)

 ベレヤという町の人々は、パウロとシラスの言葉を、ただ受け入れて信じたわけではなかった。彼らは、新しい意見に耳を傾け、その上でそれが本当かどうか、「毎日」「聖書を調べた」のである。これが、いわゆる「クリティカル・シンキング」である。

 現代のクリスチャンたちも、ベレヤの人々のような姿勢で生きるべきだ。牧師の言うことを鵜呑みにしてはいけない。果たしてその通りかどうか、聖書を調べまくって、自分の頭で考えよう。そうして、聖書をベースにして初めて「指摘」ができ、「健全な話し合い」ができる。

 牧師や宣教師の言うことを、ただ鵜呑みにするのでは三流。それが本当かどうか、毎日聖書を調べて二流。それを自分の言葉で伝えられて初めて一流。このようなマインドが当たり前になってほしいと、私は思う。

 

 

▼「私メッセージ」と「受け入れる素地」

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 さて、「指摘」の具体的なやり方のオススメは、「私メッセージ」である。「私は正しい、あなたは間違ってる」という言い方ではなく、「私はこう思うんですが、どう考えますか?」という言い方だ。クリスチャンの中には、「聖書にこう書いてあるんだから、あなたは間違っている」と言ってしまう人もいる。それだと、「間違い」という「結果」を押し付けていることになる。それはまさに<前編>で言った「裁く」になってしまう。

 「私の」オススメは、「私は、聖書にこう書いてあるのを読んで、あなたの意見に違和感を覚えるのですが、どう考えますか?」という問いかけ方だ。これなら、「一緒に考える」という相互のやりとりに持っていきやすい。

 聖書を根拠とし、「私はこう思うが、どう考えるか?」という私メッセージを、個人的に投げかける。これをされたら、まぁ「できた大人」なら、意見を聞き入れて、一緒に考える時間を持てくれることだろう。そこから、問題の解決が始まる。個人的に、それから複数人で、それでもダメなら共同体で、という<前編>で書いたイエスの基準を忘れずに。

 たいていの場合、リーダーたちはシッカリ聖書を読み込んでいる(・・・そう信じたい)。だから、あなたが「聖書にこう書いてある」と言った時、「そうだね。でも別の場所にはこうとも書いてあるよね」と柔軟な対応をしてくれるだろう。そして、あなたに新しい視点を与えてくれるだろう。そうなっても、その「指摘」はムダにならず、あなたの視野を広げてくれる。だからこそ、「指摘」して、「話し合う」のはとても良い作用をもたらす。

 ただ、中には、残念ながら根本からズレてしまっている牧師やリーダーたちも多くいる。あなたが、「聖書にこう書いてあって、あなたの意見は違うと思うんですけど」と指摘した時、「ウチの教団ではこうなんだ」とか、「キリスト教の伝統ではこうなんだ」とか、「●●の本にはこう書いてある」とか言ってきたら、黄信号。その人は「聖書」よりも「伝統」や「教団の決まり」を重視してしまっているのである。アチャー・・・。

 イエスは、聖書より伝統を重視したパリサイ派を批判した。覚えているだろうか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。(中略)このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。

(マルコの福音書 7:9~13)

 聖書を土台に議論をしたいのに、そういう「伝統ではこうだ」とか「●●先生はこう言っている」とか、抽象的な議論に引っ張ってくる人がいる。残念でならない。私は、聖書の言葉と聖書の言葉で議論をぶつけ合いたいのだ! (タルムードの議論のように・・・)

 

 残念ながら、反対意見を言われると、すぐに態度を硬化させたり、意見を無視したり、その人の悪いウワサを触れ回る、残念な大人が大勢いる(しかも、牧師もいっぱい!)。イエスの教えにならい、まずは個人的なメッセージを送ってみて、何度無視されたことだろう。一度、若者の意見(それも素晴らしい意見)を無視しているリーダーがいたので、個人的に「リーダーが若手の意見を無視するのは、おかしいんじゃないですか」と指摘してみた。するとその人は、「ああ、アイツの言うことは偏っているから相手にしなくていい」と言ったのだ。呆れて物も言えなかった・・・。私は、そんな大人にはならないと決意している。いい大人なら、冷静で、論理的な議論をしてほしいものである。

 ただ、そういう残念な大人と鉢合わせてしまっても、悩まない方がいい。逆ギレして非難されても、あなたが気にする必要はない。アッチの問題なのだ。そういう時は、「かわいそうな人やなぁ」とでも思って、あわれみ、祈ってあげよう。あなたの怒りがもったいない。

 イエスも、パリサイ派は相手にしたが(まだパリサイ派は議論の余地が1ミリぐらいあったのだろう。)、サドカイ派なんて相手にもしなかった。全部を相手にしていると、心が疲れる。頑固な態度を取られたら、ササッと身を引くのがいいかもしれない。ただ、相手の悪いウワサ話だけはしないように気をつけよう。

 

 

▼教え合うコミュニティになれるか

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 聖書は「互いに教え合え」と勧めている。

 

キリストのことばが、あなたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

(コロサイ人への手紙 3:16)

 あなたがクリスチャンならば、ただ黙って傍観者になるのではなく、知恵を尽くして互いに教え合おうではないか。「心の動機」をチェックした上で、相手が誰であっても、相手を大切する思いで「指摘」し、「忠告」し合おうではないか。「責め合う」のではない。互いに、寝ても覚めてもイエスと一緒に生きるために、お互いにチェックしあうのだ。そしてお互いを高め合おうではないか。プライドを捨て、イエスにピントを合わせ、ますます喜びに満ちた人生を歩もうではないか。

 

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

(1テサロニケ 5:10)

 

 

(了)