週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【疑問】なぜクリスチャンはすぐ「サタン」のせいにするのか

クリスチャンの人に悩みを相談すると、「それ、サタンだね」とドヤ顔で言ってくるのですが、本当にそうなのでしょうか。

 

 

▼「それ、サタンだね」って何?

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 クリスチャンの人に悩みを相談すると、よく返ってくる答えがある。

 「それ、サタンだね」

 耳なじみのない人はビックリするだろう。どういう意味なのだろうか。

 「サタン」とは、言わずと知れた"悪魔"の通称である。旧約聖書には「サタン」と翻訳される言葉は、19回登場する。そのうちの16回「ヨブ記」で登場する。つまり、「サタン」は、ヨブ記独特の特殊な固有名詞である。他にも「サタン」という発音のヘブライ語旧約聖書に9回ほど登場するが、いずれも文脈などの理由から「敵対する者」と訳されている。新約聖書ではそれよりも多く、36回登場する。

 イエスが荒野でサタンの誘惑を受けたのは有名な話である(マタイ4章参照)。イエスは最後にこう言った。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみ仕えなさい』と書いてある」

(マタイの福音書 4:10)

 

 イエスでさえも、サタン(悪魔・敵意)の誘惑を受けたのだから、私たち人間はなおさらである。だから、クリスチャンが言う、「それ、サタンだね」というのは、その人が直面している困難は、「サタンのせいだ」「サタンの影響だ」という意味なのだ。

 言い換えれば、「あなたが難しい状況にいるのは、サタンがあなたを邪魔しようとしているからだ」という意味になる。言われた人は、ドキッとするだろう。でも、この指摘、的を得ているのだろうか。本当に、サタンという悪魔みたいな存在がウヨウヨ飛び回って、人間の邪魔をしているのだろうか。今回は、この「サタンだね」発言の是非について問うていきたい。

 

 

▼サタンじゃねぇよ、お前だよ

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 結論から言ってしまえば、「サタンじゃねぇよ、お前だよ」というのが私の意見である。なんでもかんでもサタンのせいにするクリスチャンは、責任転嫁をしていると、私は思う。そういう人たちは、いつまでたっても自分の言動に責任を持たない、フワフワした無責任な人間になってしまう。クリスチャンでない方の中には、「だからクリスチャンは信用できない」と思っている人もいるのではないだろうか。

 日曜日になると体調が悪くなって、教会に行けない? じゃあ行かなきゃいいじゃない! そんなのサタンでもなんでもない、ただの疲れである。だったらきちんと睡眠をとって休もう。教会の人間関係が嫌だから、精神的につらくて行きたくないのかもしれない。じゃあ、その人間関係をなんとかするために、自分から歩み来れることは何か考えて行動すればいい。

 聖書読みたくない気分? 甘えんな。サタンのせいにするな。忙しくてもメシは食うだろう。じゃあ霊のメシを食わなくてどうする。意地でも読みやがれ。読めないのは習慣がついていないからであって、サタンが邪魔しているからじゃない(大体、読まないから私はダメだという思考も間違っているのだが・・・)。

 結局、「それ、サタンだね」というのは、「思考停止」なのである。サタンのせいにして思考停止している暇があったら、現状を真正面から見つめて、具体的な解決策を練って、行動すればいい。そうすれば、たいていの問題は解決する。ウジウジしている暇があったら行動しよう。

 

 私は別に、サタンの存在を否定しているわけではない。前述した通り、「サタン」という表現は聖書に55回登場する。これは、「天の御国」(35回)や、「復活」(41回)よりも多い。何より、イエスが「下がれ、サタン」という表現をしているのだから、サタンというものがどういう形状であれ、その存在は否定できない。

 しかし、疑問なのは、「その困難は、本当にサタンの仕業なのか?」という点である。実は、聖書の中で、サタンが、直接的に人間の人生に介入したと明記してあるケースは、ほとんどない。かなり稀である。後述するが、サタンが誘惑したのは、どれもイスラエルの王レベルの指導者に対してである。しかもそれは、国の行く末を決める決断など、大きな岐路にたった時の話であって、細かい一人ひとりの人間の困難の原因がサタンだという記述は、実は全くと言っていいほど無い。

 私は大胆にこう言おう。あなたが教会の人との人間関係に難しさを抱えているのは、実はサタンが原因ではないかもしれない。普段のコミュニケーション不足が原因ではないか。自己中心的な、あなたの心が原因かもしれない。今一度、自分の胸に手をおいて考えてほしい。

 あなたが神からのビジョンだと思って突き進んだプロジェクトが上手くいかないのは、実はサタンのせいではない。そのビジョンは、実は神からの召しではなく、承認欲求を満たすための自己実現になっているのではないか。ただの準備不足から起こるエラーではないのか。チームワークを乱しているのは、サタンではなく、マネジメントができていない、あなた自身ではないのか。 

 そもそも、「全てうまくいく」のが神の計画とは限らない。使徒パウロは神に従ってから、命を狙われ続け、囚人にまでなった。イエスの弟子たちは、ほとんどが処刑された。信仰心にあついステパノは石打ちで死んだ。これは、サタンの仕業なのだろうか。否、聖書にはこう書いてある。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 

 なぜ苦しまなければならないのだろうか。詳細は過去記事を参考にしてほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 ひとつだけ、別の聖書の部分を紹介したい。

苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。

詩篇 119:71)

 

 神をもっと知るためには、ある程度の苦しみは必要なのである。

 

 

▼聖書で「サタン」が人に影響を及ぼしたケース

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 さて、サタンが実際に人間の人生に影響を及ぼしたことが明記されているケースは、聖書の中で意外と少ない。「サタン」と明記されていないものを含めても、アダムとエバダビデ、ヨブ、イエス、ペテロ、イスカリオテのユダ、アナニヤぐらいだろう(他にあればご指摘願う)。

1:アダムとエバ

「蛇」にそそのかされて、神に食べてはいけないと言われていた実を食べてしまった(創世記3章)。

2:サウル王

「主の霊が彼を離れ、『わざわいの霊』が彼をおびえさせた」との記述がある。(しかし、注意して読むと、この部分は「主<しゅ・神の意>からのわざわいの霊」とある。つまり、サウルを惑わしたのは、サタンではなく、神が送った霊によるのである。<サムエル記第一16章>)

3:ダビデ

「サタン」にそそのかされて、イスラエルの人口調査をしてしまったとの記述がある(歴代誌第一21章)。しかし、サムエル記第二の同じ部分の記述(24章)によると、「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして・・・」とあり、ダビデをそそのかしたのは「サタン」ではなく、「主(神)の怒り」となっている。いずれにせよ、神の権威の範疇で行われたことである(※また、「人口調査」が悪いことなのか否かは議論があり、それについては、この記事に詳しく記載がある。ツイッターでご指摘いただいたアシェラさん、感謝)。

 4:ヨブ

「サタン」が神にヨブを貶める許可を求め、神が許可したという、有名なストーリーである。はじめに、神はヨブの財産をサタンが自由にするよう許可した。サタンにより、ヨブは10人の子どもを含む、全財産を失った。それでもヨブが信仰を捨てなかったので、ヨブの体をサタンが自由にするよう許可した。しかし、ヨブのいのちを取ることは許さなかった。結局、すべては神の権威の範疇で行われていたヨブ記1~2章)。

5:イエス

荒野で「悪魔」の試みを受けた。「石をパンに変えてみろ」「神殿の屋根から飛び降りてみよ」「私をひれ伏して拝め」という3つの誘惑をしたが、イエスは負けなかった。「下がれ、サタン」という有名な文言がある。このイエスと悪魔のやり取りについては、非常に興味深いので、これについては別途記事を書く予定(マタイの福音書4章)。

6:ペテロ

エスが、自分が殺され、3日目によみがえることを明示し始めると、弟子のペテロはイエスをわきに連れて、「そんなことが起こるはずがない」といさめた。師匠がヤバイことを言い出したので、静止しようとしたのである。すると、イエス「下がれ、サタン」と言い放った。ペテロびっくり。ペテロはイエスから唯一、「サタン呼ばわり」された人間である(マタイの福音書16章)。

7:イスカリオテのユダ

言わずと知れた、イエスを売った「裏切り者のユダ」である。彼に「サタンが入った」という明確な記述がある。しかし、これも、イエスの十字架での死と復活という、神の計画を実現させる一助となってしまった。サタンの働きが、かえって神の働きを実現してしまったのである(ルカの福音書22:3、ヨハネ福音書13:27など)。

8:アナニヤ

彼は、初期の教会のメンバーであった。その頃の教会では、各々が自分の財産を売って、分配し、コミュニティを形成していた。しかし、彼は売上金の一部をちょろまかして、金額をごまかして報告していた。ペテロが「アナニヤ、どうしてあなたはサタンに心を奪われ・・・」と言っているので、このリストに追加する(使徒の働き5章)

 

 人間が「サタン」と思われる存在にそそのかされた記述は、この8つしかない(と、思われる、追加あればご指摘願う)。

 これらを見て分かる教訓はいくつかあるが、まとめると以下である。

 

●サタンは神の許可がないと何もできない。

●全ては神の権威の範疇で行われている。

●サタンが働いても、結局神の計画が実現してしまう。

 

 つまり、サタンがどうそそのかそうが、全ては神の権威の範疇で行われているのである。仏の手のひらで踊る孫悟空よろしく、サタンも神の手のひらで踊らされているのである。

 であれば、神を信じたクリスチャンたちが、「サタン」といった小さな存在は恐るに足りず。気にする方が無粋である。それよりも、汚い自分自身の心に気をつけたほうが100倍いい。

 おそらく、エスがペテロに対して言い放った「下がれ、サタン」という言葉が強烈すぎて、多少聖書を読んだことのあるクリスチャンは、悪いことがあると全て、自分の中に悪魔がヒッヒッヒと高笑いしながら入り込んで悪さをするイメージが脳裏にこびりついてしまっているのだろう。そこから来る、「それ、サタンだね」である。

 しかし、これは全くの大間違い。サタンはあなたなんか見向きもしてない。勝手に自滅するような人間を、サタンは狙わない。サタンが狙うのは、イエスダビデやヨブやペテロといった「強敵」である(失敗してるけど)。私たちは、まず、自分の胸に手を当てて、自分自身の言動に気をつけようではないか。

 

 

▼サタンには注意、でも自己中心にはもっと注意!

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 もちろん、サタンには注意しなければならない。その「サタン」が、自己中心的な心を指すのか、はたまたフワフワと空中に浮いている黒くて尖ったしっぽを持っている悪魔を指すのかは、一旦置いておきたい。ただ明確なのは、聖書が明確に「サタン」に対して注意喚起をしていることだ。聖書を見てみよう。

(夫婦関係において)互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのあらかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 7:5)

あなたがたが何かのことで人を赦すなら、私もそうします。私が何かのことで赦したとすれば、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。それは、私たちがサタンに乗じられないようにするためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

(コリント人への手紙第二 2:10~11)

ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。

(テモテへの手紙第一 5:14~15) 

 

 このように、特に新約聖書では、「サタン」に気をつけるように明確に指示をしている。「悪」にまで範囲を広げると、もっとわかりやすい。

主を愛する者たちよ。悪を悪め。

詩篇 97:10)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。

(ローマ人への手紙 12:9) 

あらゆる形の悪から離れなさい。

(テサロニケ人への手紙 5:22)

 

 聖書は、私たちに「サタンの策略に注意せよ」、「悪から離れよ」と教えている。確かに、人間はすぐ道を外してしまう、弱い存在だ。注意するにこしたことはない。

 しかし、聖書は同時にこうも言っている。

しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

(コリント人への手紙第二 11:14~15)

 

 サタンは、巧妙に変装して「クリスチャンのふりをして」近づいてくる。牧師とかが案外一番危ないので注意! (以前の記事を参照)

yeshua.hatenablog.com

 しかし、そうであっても、ぶっちゃけ「大したことではない」のである。サタンは、神に許可をもらわないと動けないような、小さな存在である。自分が神から離れさえしなければ、サタンは私たちに何もできない。サタンを恐れる前に、神を恐れよ!!!

 

 

▼サタンに注目するのか、神に注目するのか

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 イエスはペテロに対した何と言ったか、もう一度見てみよう。

下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

(マタイの福音書 16:23)

 

 エスが問題にしたのは、ペテロが「神の計画より、人からどう思われるか」を優先したからである。言い換えれば、神に目を向けず、人に目を向けていたからである。

 私たちが一番注意しなければいけないのは、実はサタンの攻撃ではなく、「自分の心のズレ」である。自分の目線が、神から逸れていないか。これが一番重要なのである。

 実は、「それ、サタンだね」とか、「神様、サタンからお守りください」とギャーギャー騒いでいる人たちほど、神ではなくて、サタンに注目してしまっているのである。ビジネスの世界でも、目的を達成することがフォーカス(焦点)で、リスクヘッジ(トラブル回避)はその目的を達成するためにするものである。目的がボヤボヤで曖昧なくせに、ありもしないリスクを心配して、騒いでどうするの? といった感じだ。そういうのを、「杞憂」という。

 サタン、サタンと騒ぐ人に限って、サタンに焦点が言ってしまっている。こうなると、もうサタンの策略にハマっている。クリスチャンが語るべきは、「サタン」というリスクではなく、どうやったら神をもっと知れるのかだ。どうやったら神の愛で人を愛せるか。それを実行できるか。どうやったらこの素晴らしいイエスをより明確に伝えられるのか・・・etc。

 クリスチャンが語るべきは、イエスマジすごくね?! ということであって、サタンについてではない。サタンなぞ気にせず、ゴールであり、目的であり、全てであるイエスについてもっと語り合おうではないか。心にあることが、口から出てくるのだから。

 

 私たちに必要なのは、「サタンに攻撃される」と怯えることではない。自分の「心の動機」が、「神」に向いているのか、それとも「自分」に向いてしまっているのか、いつも吟味することこそ、本当に必要なことなのである。

 あなたがミニストリーをする、本当の「心の動機」は何だろうか。たまに、ミニストリーが「居場所」となっている人を見かけるが、それは危うい。ミニストリーは、あなたの自己実現をする場所ではない。神の福音を伝える場所だ。勘違いしないでほしい。そんなの、「サタンの攻撃」以前の問題である。有名な牧師や宣教団体のリーダーほど、この「自己承認欲求」が目的となってしまっているケースを、本当によく見かける。あぁ・・・。

 あなたが教会に集う理由は何だろうか。あなたが聖書を読む理由は何だろうか。あなたが長々と祈る理由は。あなたが献金をする理由は。あなたが福音を伝える理由は。あなたが賛美を歌う理由は。あなたが作曲をする理由は。あなたが宣教旅行に行く理由は。あなたがキリスト教団体の職員になる理由は。あなたが牧師になる理由は。あなたが教会役員になる理由は・・・etc。

 

 問うていけばキリがない。

 

 実は、ほとんどが「サタンの攻撃」以前の問題だったりするのだ。

 

(了) 

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。