週刊イエス

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【比較】「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比べてみた!

最近刊行した、新しい聖書翻訳、「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」はどう違うのか、比べてみました。

 

 

▼「新改訳」と「共同訳」

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 日本語の聖書の翻訳は、主に3種類ある。ひとつは、「明治元訳・大正改訳」を源流とする、「文語訳聖書」。文語訳聖書を現代流の日本語に改定したのが「口語訳」である。

 ふたつめは、1970年に初版を刊行した新改訳聖書である。新改訳聖書は、いわゆる「福音派」というグループを中心に、プロテスタントの一部に強く支持されている。

 最後は、カトリックプロテスタントが共同で翻訳した「共同訳」。1987年に刊行した「新共同訳聖書」は、現在、日本で最も読者が多いとされる翻訳である。

 近年、「新改訳」と「共同訳」の新しい翻訳が、相次いで発表となった。2017年秋には、新改訳聖書2017」が刊行。直近の2018年12月には、「聖書協会共同訳」が出版された。

 私は、それぞれの新しい翻訳を手にとって読んでみた。面白い。今まで見えなかった聖書の言葉が、浮き出てくるようだった。また、イエスを信じて以来基本的に「新改訳」を読んできた私にとって、「共同訳」に触れるのは、全く新しい体験であった。感動した。新しい翻訳を通じて、神の知らない姿を感じ取れた気がした。

 世の中に完璧な翻訳などない。それぞれに良さ、弱点があるのは言うまでもない。私も、「新改訳」には新改訳の良さがあり、「共同訳」には共同訳の良さがあると思う。そこで、今回、具体的に「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」を比較し、その違いを示したいと思う。

 

▼自然な日本語

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 翻訳の評価は、何に主眼を置いたかによって基準が変わる。「新改訳聖書2017」と「聖書協会共同訳」の双方の翻訳ポリシーを読んでみると、どちらも「自然な日本語」を目指すというものが、要素のひとつのようである。

 では、どちらの方がより自然な日本語なのか。こればかりは、好みの問題も入ってくるので、一概に優劣はつけられない。しかし、読んでみた私の感覚で申し上げれば、こと「自然な日本語」に限って言えば、「聖書協会共同訳」に軍配が上がると思う。個人的感覚で言えば、スラスラ読めるのは、聖書協会共同訳の方だ。参考に、聖書の一部分を取り出して、比較してみよう。

 

<1:「私はある・いる」>

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 聖書の神は、トリッキーな自己紹介をする。その部分を見てみよう。

新改訳聖書2017>

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣われた、と」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

出エジプト記 3:14〜15)

<聖書協会共同訳>

神はモーセに言われた。「私はいる、という者である」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと」重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました』これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

出エジプト記 3:14〜15)

  

 これは、神がモーセに自己紹介をした有名なシーンである。ヘブライ語では「エヒエ・エセル・エヒエ」(אהיה אשר אהיה)という。「現在・過去・未来」、時を超えて存在するという意味である。英語では、ほとんどの訳が「I AM WHO I AM」と表現している。神が、「俺は俺だ」とおちゃめな自己紹介をしたという解釈もある。「ここにいるよ」という、神からのメッセージでもある。

 日本語では、伝統的にこの名前を、「私はある」と訳してきた。新改訳はそれに倣っている。しかし、聖書協会共同訳は今回、大胆にもこの訳を「私はいる」に変更した。

 よくよく考えたら、当たり前なのだが、日本語で「人・生き物」の存在は「いる」と表現する。逆にモノは「ある」と表現する。「私はいる」「お父さんがいる」「ワンちゃんがいる」とは言うが、「パソコンがいる」「ポテトチップスがいる」「聖書がいる」とは言わない。逆に、「私はある」「お父さんがある」「ワンちゃんがある」とは言わないが、「パソコンがある」「ポテトチップスがある」「聖書がある」とは言う。日本語は、命あるものと、ないものの存在を明確に区別しているのだ。

 そう考えると、神については「私はいる」と表現した方が適切だろう。むしろ、なぜ今まで「わたしはある」という表現に甘んじていたのか分からない。大方、「神は人ではない」というような、もっともらしい理由があったのだろう。しかし、それは分かりづらいだけだ。今回の聖書協会共同訳の英断を、私は歓迎したい。

 他にも、細かいが表現の違いに注目してみよう。

新改訳聖書2017>

イスラエル子ら

・あなたがたの父祖の

・これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

<聖書協会共同訳>

イスラエル人々

・あなたがたの先祖の

これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。

 いかがだろうか。「子ら」より「人々」の方が民族を指すと分かりやすい。「父祖の神」とは日常会話では言わないので、やはり「先祖の神」の方がシンプルだろう。最後は、これは好みだが、個人的には聖書協会共同訳の方が、「これこそ」と揃えて、体言止めで2つの文を揃えることで、詩的にパリっとまとまっており、読みやすいと思う。

 

<2:主語と述語をそろえる>

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 日本語は、主語が非常に大切な言語である。よく「日本語は主語を省略できる」と勘違いしている人がいるが、間違いだ。日本語ほど主語にこだわる言語は少ない。お手元の小説なんかを手にとって、主語にマルを付けてみよう。その多さに驚くだろう。

 日本語の基本は、「主語から書く」というものだ。そして、「主語を揃える」というのもまた読みやすくするテクニックの一つである。以下の聖書の言葉を読み比べてみよう。

新改訳聖書2017>

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。 ー主のことばー 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イザヤ書 55:8〜9)

<聖書協会共同訳>

私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。 ー主の仰せ。 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。

イザヤ書 55:8〜9)

  いかがだろうか。上の文は、太字で主語を示している。主語をまとめよう。

 <新改訳聖書2017>

・わたしの思いは、

あなたがたの道は、

・わたしの道は、

・わたしの思いは、

 

<聖書協会共同訳>

・私の思いは、

・私の道は、

・私の道は、

・私の思いは、

  実はこれ、同じ内容を繰り返す、ヘブライ語によくある表現方法である。

 「A・B・B'・A'」というふうに、同じ内容の順番を入れ替えて、最初と最後で同じ意味合いのものを強調する。これは聖書でよく見かけるヘブライ語文法だ。

 この場合、日本語としては、同じ主語で並べた方が分かりやすい。しかし、新改訳聖書2017では、なぜか二番目だけが「あなたがたの道」となっており、主語にズレが生じている。

 原語をチェックすると、確かに直訳的には、新改訳の方が正しい。しかし、私の限られたヘブライ語知識で恐縮だが、流れ的には重要なのは語順ではなく、むしろ「A・B・B'・A'」の用法だと感じる。それをふまえると、やはり聖書協会共同訳のように、「私の〜」で4つの文の主語を揃えた方が、きれいにまとまっているように見える。

 

<3:代名詞の省略>

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 日本語は、「代名詞」をあまり用いない。そのため、「あなた」「彼」「彼女」などの代名詞は、極力省いた方が自然な日本語になる。では、その観点で次の箇所を見てみよう。

新改訳聖書2017>

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきて言った。あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」

(マタイの福音書 4:1〜4)

<聖書協会共同訳>

さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいてきてエスに言った。神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

  いかがだろうか。新改訳聖書2017では、「あなたが神の子なら・・・」と、「あなた」を用いている。一方、聖書協会共同訳は、「神の子なら・・・」と、代名詞を省いている。私は、聖書協会共同訳の方が好みだ。欲を言えば、その後の「これらの石に」の部分の「これらの」も必要ないと思う。「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」このくらいシンプルで良いと思う。

 また、太字で示した両者の違いも興味深い。悪魔が誰に話しているのか、共同訳の方が明確である。他の部分も、共同訳の方が、「生きるもの」「言葉によって」など、丁寧な言葉づかいで、自然な日本語のように感じる。

 また、悪魔のセリフにも違いがある。新改訳はあくまでも丁寧な命令口調。一方、共同訳の方は「命じたらどうだ」と、いかにも誘惑する口調である。ここも面白い違いではないか。

 

 <4:一文の長さ>

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 日本語は、一文が短い方が圧倒的に読みやすい。以下、比べてみた。

新改訳聖書2017>

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

イザヤ書 61:1〜2) 

<聖書協会共同訳>

主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み、囚われ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。

イザヤ書 61:1〜2)

  新改訳の方は、一文が長い。一方、共同訳の方は、一文が短く訳され、読みやすい。また、新改訳は、一文に「わたしに」と「わたしを」などが混在していて、文章が伝えたい内容がわかりにくい。共同訳の方は、「私に」と「私を」が違う文に挿入され、目的を述べる文なのか、対象を述べる文なのか、明確である。

 一方、新改訳は、文の途中で日本語が迷子になってしまい、何を述べたい文なのか、イマイチ分からなくなっている。これは、新改訳の悪い癖だ。そのため、上記のように抜き出すと、「囚人には釈放を告げ・・・」と、途中で文章が尻切れトンボになってしまう。一文が長いと、主語と述語が離れがちになる。主語と述語が離れていると、読んでいて文章の趣旨がよく分からなくなってしまう。その点、まだまだ共同訳の方が、文章が短く、パリっとしていて読みやすい。

 

 

▼聖書協会共同訳の優れた原語解説

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↑聖書協会共同訳は、様々な形で原語・用語を解説している。

 聖書協会共同訳の優れたところに、詳細な原語解説がある。解説自体は、新改訳聖書にもあるのだが、聖書協会共同訳の方が、数で圧倒している。特に、「言葉遊び・ライム(韻)」「用語補足」においては、聖書協会共同訳が圧倒的に優れている。例を2つ挙げよう。

 

<1:言葉遊び・ライム(韻)>

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↑聖書協会共同訳。マルの部分に注目してほしい。

 まず、以下の聖書の言葉を比べてみてほしい。

新改訳聖書2017>

万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴

<聖書協会共同訳>

万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。主は公正を待ち望んだのに、そこには、流血正義を待ち望んだのに、そこには、叫び

イザヤ書 5:7)

  一見、何の変哲もない翻訳に見えるが、ポイントは原語の解説にある。新改訳聖書2017には、何の注釈もない。しかし、聖書協会共同訳には、以下のような注意書きがある。 

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 お分かりいただけただろうか。これは、ヘブライ語の言葉遊びなのである。韻を踏んでいるのである。まとめると、以下だ。

公正:ミシュパト

流血:ミスパハ

正義:ツェダカ

叫び:ツェアカ

  このようなヘブライ語の言葉遊びは、日本語に翻訳した途端に失われる。聖書協会共同訳では、この問題を欄外に注釈を付けることで解決した。このような言葉遊びは、実は聖書に多く見られる(例:創世記21:22〜31、エレミヤ1:11など)。この言葉遊びをあぶり出す工夫は見事だ。私は10年以上聖書を読んでいるが、恥ずかしながら、このイザヤの箇所の言葉遊びに気がついたのは、今回が初めてだった。ここだけではなく、聖書協会共同訳には、様々な注釈がついている。

 

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↑聖書協会共同訳は、詩篇で「いろは歌」である旨を明記している。

 他の工夫もある。例えば、聖書で一番長い箇所として有名な、詩篇119編は、実はヘブライ語の「いろは歌」になっている。新改訳聖書ではその点が明記されていない。しかし、聖書協会共同訳には、きちんと以下のように「アルファベットによる詩」と明記した上で、「アレフ」(א)(※ヘブライ語の一番最初のアルファベット)や「ベート」(ב)(※二番目)というように、いろは歌の頭文字を区分けしている。この点では、圧倒的に聖書協会共同訳の方が、良い工夫をしている。

 

 

<2:用語補足>

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 また、聖書協会共同訳には、用語の補足がある。例えば、以下を見てみよう。

<聖書協会共同訳>

ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢、洗礼(※「バプテスマ」のルビ)を受けに来たのを見て、こう言った。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。(中略)その手にはがある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。

(マタイによる福音書 3:7〜12)

  この「毒蛇」や「箕」を指す言葉は何なのか。毒蛇といっても、様々である。マムシかもしれないし、ハブかもしれない。否。当時のイスラエルには日本にあるマムシなどいないだろう。では、実際に指すものは何なのか。聖書協会共同訳の欄外には、以下の注釈がある。

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毒蛇:クサリヘビ

箕:農用フォーク

 なるほど。これなら分かりやすい。「クサリヘビ」とネット検索してみれば、画像が一発で出てくる。自然な日本語で示すために、本文では「毒蛇」と表記し、欄外に実際に示す用語を記載する。良い工夫である。

(※ただし、聖書協会共同訳で「毒蛇」に「どくじゃ」とルビを振っているのはどうかと思う。音読みと訓読みのルビが混在していると、違和感がある。両方、訓読みで統一した「どくへび」の方が良いのではないか)

 面白いのは、同じ「蛇」でも、マタイ3:7の「毒蛇」は「クサリヘビ」、ローマ3:13の「蛇」はコブラと欄外に書いてある点だ。当然、ギリシャ語も違い、前者が「エキドゥノン」、後者が「アスピドン」である。ちなみに新改訳聖書2017は、前者も後者も「まむし」となっていて、翻訳としては少し心もとない。

 他に同じような欄外解説の例を挙げれば、

「恋なすび」 → 「マンドレイク

「乳香」   → 「フランキンセンス

「岩狸」   → 「ハイラックス」

「かもしか」 → 「ガゼル」

 などがある。

 確かに、イスラエルニホンカモシカが居るわけないので、納得だ。 

 

 

▼アガパオー・フィレオー問題

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新改訳聖書2017のヨハネ福音書21章

 ここまで書くと、聖書協会共同訳が圧倒的、と見えなくもない。頑張れ、新改訳! と思うかもしれないが、新改訳聖書の方が良いと思われる部分も、ちゃんとある。私が一読した上で、一番最初に指摘したいのは、次の箇所である。

新改訳聖書2017>

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロ(※シモンはペテロの本名)に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」ペテロは答えた「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい」

エスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい」

エスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」

ヨハネ福音書 21:15~17)

<聖書協会共同訳>

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。

二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛してるか」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい」

ヨハネによる福音書 21:15~17)

 

 これは、イエス三度「知らない」と言って裏切ったペテロ(ペトロ)を、死から復活したイエス三度「私を愛するか」と言って赦したという、非常に心温まり、イエスの懐の深さに胸打たれる、有名なエピソードである。話の構成はシンプルで、イエスが三回「私を愛するか」と問い、ペテロが「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるものだ。とてもシンプルだ。

 しかし、ここに重要なカギが隠れている。実は、「愛している」のギリシャ語に違いがあるのだ。「アガパオー」の「愛」と「フィレオー」の「愛」が混在しているのである。日本語は、どちらも「愛する」だが、ギリシャ語には微妙なニュアンスの差がある。「アガパオー」は「無条件の愛」を表し、「フィレオー」は「友情の・条件付きの愛」を示している。流れをまとめてみよう。

<一度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<二度目>

エス:アガパオー

ペテロ:フィレオー

 

<三度目>

エス:フィレオー

ペテロ:フィレオー

 

 お分かりいただけただろうか。イエスが二度「私をアガパオーの愛で愛するか?」と聞いたのに対し、ペテロは「はい、フィレオーの愛で愛します」と答えているのである。これは、ペテロが「私は、あなたを無条件の愛では愛せません。ただ友情の愛でしか愛せません」と告白しているに等しい。エスを三度裏切ってしまったペテロが、いまだその罪悪感から逃れられていない証左である。

 しかし、イエスは、三度目に「私をフィレオーの愛で愛するか」とペテロに問う。これは、エスが「お前が友情の愛でしか私を愛せないのは分かっている。それでもいいんだ」と、言って、ペテロの頭をなでるような、温かく優しい言葉だ。エスが、弱い人間のところまでへりくだって降りてきて、あらん限りの愛でペテロを抱きしめたのである。

 さて、この「アガパオー・フィレオー」のくだりは、当然、ギリシャ語の原語を見ないと違いが分からない。日本語では両方とも「愛する」になるからだ。翻訳に注釈が絶対に必要なのは、このような重要な違いを表現するためだ。

 

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 新改訳聖書2017は、きちんと欄外の注釈に、どの部分が「アガパオー」で、どの部分が「フィレオー」なのか明記してある。しかし、聖書協会共同訳には、あろうことかこの部分の注釈が全くない。あれだけ細かな原語の注釈があるにもかかわらず、この重要な部分に限って、何の記述もないのである。

 聖書協会共同訳の底本も確認したが、原文のギリシャ語も、この「アガパオー」「フィレオー」の違いはきちんとある。なぜ「聖書協会共同訳」の方にはこの解説がないのか、理由は分からないが、これは見逃せない。この点においては、新改訳聖書2017の方が優れている。

 私が書いた解釈は、あくまでも解釈の一つにすぎない。しかしその意味合いは各自が考えるとしても、原語がわざわざ違う表現で書いてあるのだから、それを翻訳の際に読み手に伝えるのは翻訳者の大切な役目だろう。

 もっとも「アガパオー」と「フィレオー」の意味を知らない人にとっては、そもそも、新改訳2017の表記でも分からない。せめて、「アガパオー・フィレオー」の簡単な意味くらいは、注釈に書いてほしいものである。

 

 

▼「主」(しゅ)の書き方について

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 聖書の神は、世界を造った創造主であり、唯一絶対の神である。神は、徐々に自信の名前について明らかにしている。神は、モーセに対しては、「私はある・私はいる」と、おちゃめな自己紹介をした。しかし、神にはきちんと名前がある。その名前は「YHVH」(יהוה)の4文字で表わされる。正確な読み方は分かっておらず、ヤハウェとか「エホバ」とか言われる。ユダヤ人は、神の4文字の名前を発音せず、「アドナイ」(אדוני)(私の主人)とか、「ハシェム」(השם)(その名前)とか言って、読み替えている。日本語の聖書は、伝統的にこの神の名前を「主」(しゅ)と呼んできた。

 聖書の中には、神を示す言葉が何種類もある。「エル・エロヒーム」(אל,אלוהים)(神・神の複数形)、アドン・アドナイ」(אדון,אדוני)(主人・私の主人)など様々である。その中に、当然「YHVH」(יהוה)の4文字もある。また、その4文字を(書くのさえ恐れて?)省略した「YH」(יה)という表記もある。さらに、表記上は「YHVH」だが、わざわざ「エロヒーム」と読めるように、ふりがなを振っている場合もある。

 こんなにバリエーションがある「主」の名前が、日本語にすると、どの文字も「神」とか「主」とかになってしまう。これだと、原語の違いがいまいち伝わらない。

 「YHVH」をどのように表記するか。これは、聖書翻訳の中でも重要な要素のひとつである。ちなみに英語の場合は、「YHVH」を「LORD」と大文字で表記し、それ以外を「Lord」と小文字で表記するなどの工夫がある。 

 

 そこで、新改訳聖書2017では、「YHVH」を他と区別して表現するために、ある工夫をしている。それは、「YHVH」を、太文字の「主」と表記するというものである。

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新改訳聖書は、「主(YHVH)」の名前を太文字で区別している。

 「アドナイ」など「YHVH」ではない「主」は通常の太さで表記する。また、省略形の「YH」は、太文字の「」とし、欄外に「ヤハ」と読みを明記する。さらに、「YHVH」に「エロヒーム」と読み仮名がふられている場合(※ヘブライ語は、文字を読み替えることがよくある)は、太文字で「」としている。いずれも、明確に「YHVH」と区別しているのである。これが新改訳聖書2017の工夫なのだ。

 一方、聖書協会共同訳は、「YHVH」の「主」と、それ以外の「主」に明確な区別がない。比較してみれば、違いは一目瞭然だ。太文字などは聖書の表記そのままにしてある。

 

<ケース1>

新改訳聖書2017>

アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。主は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである」アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 <聖書協会共同訳>

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である」アブラムは尋ねた。「主なる神よ。私がそれを継ぐことを、どのようにして知ることができるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

  ここには、様々な「主」が登場するが、それぞれ全く違う表記である。違いをカッコ付で書くと以下のようになる。

新改訳聖書2017>

アブラムは主(YHVH)を信じた。それで、それが彼の義と認められた。主(表記なし・動詞の形で判別)は彼らに言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主(YHVH)である」アブラムは言った。「神(YHVHだが、「エロヒーム」の読み仮名つき)、主(アドナイ)よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」

(創世記 15:6〜8)

 

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↑聖書協会共同訳では、どの「主」も同じ表記で、違いが不明確。

 ご覧の通り、新改訳聖書は、太文字や表現の違いを用いて、日本語のままでも原典の単語の違いが鮮明に分かる。しかし、聖書協会共同訳では、全て「主」となってしまっており、判別ができない。この点で、新改訳聖書の方が丁寧である。 

 また、ここまで読んでお気づきになった方は、相当鋭いが、実は「私・わたし」の表記にも違いがある。

 新改訳聖書2017では、神が主体の場合は「わたし」とひらがなで表記し、それ以外は「私」と漢字で表記している。先に挙げた聖書の言葉でも、神のは「わたし」、アブラムは「私」というふうに区別してある。

 一方、聖書協会共同訳の方は、両方、漢字の「私」である。これでは、主体が神か、神以外か、違いが分からない。この部分においても、新改訳聖書の方に軍配が上がるだろう。

 (※私は、某学生会の先輩に、漢字の「私」は「わたくし」と読むのだ、そんなことも知らないのか愚か者! と言われたことがあるが、新改訳聖書2017の「あとがき」を読むと、読む際は一般的に「わたし」を想定していると書いてあった・・・笑)

 

<ケース2>

 神の名前、「YHVH」には、「YH」という短縮形がある。

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↑「YHVH」の短縮形、「YH」は、欄外に「ヤハ」と示している。

新改訳聖書2017>

私は言った。私は*主を、生ける者の地で*主を見ることはない。(中略)私は機織りのように自分のいのちを巻いた。主は私を、機から断ち切られる。

(欄外の表記 *「ヤハ」)

イザヤ書 38:11〜12)

<聖書協会共同訳>

私は言った。私は主を見ることはない、主を生ける者の地で。(中略)私は機を織る者のように自分の命を巻き終わった。主は、織り糸から私を切り離された。

イザヤ書 38:11〜12)

  この場合、「主」という日本語は、いずれも3回登場する。3回のうち、原典のヘブライ語は、順番に、「YH」「YH」「表記なし」である。ヘブライ語は、日本語と違い、動詞の形で動作の主体が分かる。そのため、その性質が薄い日本語に翻訳する際、主体を補わなければならない。神を「彼は〜」とするわけにはいかないので、どうしても「主は〜」と補う必要がある。つまり、日本語の聖書は、原典よりはるかに多くの「主」が登場するのである。こればかりは、太文字か否かで見分けるしかない。

 この問題を解決するため、新改訳聖書2017は、「YHVH」、その短縮形「YH」、「エロヒームの読み仮名があるYHVH」、それ以外の「主」を、明確に区別して訳出している。一方、聖書協会共同訳は、すべて「主」となっていて、原典が透けて見えない。日本語への翻訳で補った「主」と、原典にある「YH」が混在してしまい、違いが明確ではない。この点においても、新改訳聖書2017の方が丁寧な仕組みと言えるだろう。

 ★「主」の表記まとめ★

 

新改訳聖書2017>

「YHVH」:太文字の「

「アドナイ」:普通文字の「主」

「YH」:太文字の「」と表記し欄外に「ヤハ」と明記

「エロヒームのふりがながあるYHVH」:太文字の「

 

<聖書協会共同訳>

すべて普通文字の「主」

 

 

▼持ち運びやすさなどについて

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↑手前が「新改訳聖書2017」、中央が「聖書協会共同訳」

 さて、内容ではなく、物質そのものを見てみよう。「聖書協会共同訳」の最も大きな弱点がここにある。

 

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 ・・・そう、ハードカバーなのである!!!

 

 なぜハードカバーにしたのだろうか。なんでやねん。なんでハードやねん。

 これは、聖書協会共同訳の製作者たちが、「聖書は持ち運ぶもの」という認識が全くないことを示している。彼らにとって聖書は、「教会の礼拝で使うもの」であり、「教会堂で使うもの」なのである。「聖書を持ち運んで読み歩く」という想定が、全くできていない。これが、カトリックとの合同翻訳の限界なのか。そうか、あなたたちは、日曜日しか聖書を読まないのか・・・。まことに残念である。

 私は、聖書は常に持ち歩き、地下鉄の移動など、暇さえあれば聖書をひらき、読むようにしている。もちろん、昨今はアプリの聖書などがあるので、スマホで読めればそれで良い。しかし、注釈の有無、書き込みができる、紙の聖書の方が頭に入ってくる、縦書きが好きなどの理由で、私自身は、紙の聖書を持ち運んでいる。これは好みの問題なので、優劣はない。

 しかし、このように「聖書を持ち運ぶ」人にとって、ハードカバーの聖書協会共同訳は重いし、デカイし、めちゃくちゃ使いにくい。満員電車で、隣の人にぶち当たらないようにするのが、精一杯である。しかも、2ヶ月持ち運んだだけで、既にカバーがはがれそうになっている。耐久性にも問題がありそうだ。聖書協会共同訳は、より小さなサイズで、ハードではないカバーのバージョンを、早く刊行してほしい。 

 

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 一方、新改訳聖書2017は、ラバー状のカバーである。大きさも、写真を見ていただければ分かる通り、聖書協会共同訳より一回り小さく、持ち運びに便利だ。この大きさで、きちんと注釈も付いているので、申し分ない。持ち運びやすさの点においては、新改訳2017の方が、圧倒的に分がある。

 

 なお、これは意外と重要なのだが、両方の聖書の紙質が違う。新改訳2017は若干の厚みがあり、聖書協会共同訳の方がより薄い紙を用いている。これにより、ページのめくりやすさに圧倒的な差が生まれている。いわゆる「ぬめり感」。ぬめり感が高いほど、ページがめくりやすく、低ければめくりにくい。

 では、この両翻訳は、どちらが「ぬめり感」があるのか。ページのめくりやすさの軍配は、圧倒的に新改訳2017に上がる。

 というか、聖書協会共同訳のページが、ものすごくめくりにくい。圧倒的にめくりにくい。20代の私でさえ、めくりにくいと感じるのだから、教会参加者の大半を占めるご老人の方々は、もっとめくりにくいだろう。いや、めくれないのでは? 年賀状仕分けアルバイトで使う、指ゴムサックが必須である。私も、地下鉄で指をペロッとなめてから聖書をめくるのは、恥ずかしいからやめたいものだ。

 神の言葉を紡ぐ、聖書の出版なのだから、聖書出版団体のみなさんは、もっと紙質にもこだわってほしいものである。舟を編む」で、主人公たちが辞書の紙質にこだわって帆走したシーンを、ふと思い出した筆者であった・・・。

 

 

▼新しい翻訳の名前について

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 双方ともダサい! ダサすぎる!! 長いわ!!! 覚えにくいわ!!!! 

 なんやねん、「新改訳2017」って。なんで2017やねん。何やその数字。宗教改革から何年かしらんけど、そんなん自己満足以外の何物でもない。2017という数字を見て、「あー宗教改革から500年ねー」と察することができるのは、宗教オタクぐらいで、一般人にとっては何の価値もない。内向き傾向が強い、「福音派」の悪い癖。自己満足でしかない。「キリスト教」に関心がない人が聖書を読む想定をしていない。

 「聖書協会共同訳」って、何なの? 長い名前つけるの流行ってるの? 覚えさせる気がないの? 浸透させる気がないの? 「新共同訳」がなまじ「新」ってついちゃっているだけに、苦労したのだろうが、「聖書協会共同訳」って、これじゃあ「新共同訳」とどっちが新しいか分からない上に、覚えにくいし、言いにくいし、何のメリットもない。まだ候補だった「標準訳」の方がマシである(まぁ「標準訳」もひどいと思うが・・・)私は、いつもこの説明に苦労していて、「新しい新共同訳」とか、訳のわからない説明をしている。もうちょっと良いネーミングはなかったものか。

 日本の聖書翻訳者たちには、過去の用語を捨てる勇気と、新しいものを導入するセンスを求めたい。「新改訳聖書2017」も「聖書協会共同訳」も、浸透させようという気概を、全く感じない。

 しかも、以前記事を書いたように、「神」「愛」「教会」「洗礼」「牧師」などの悪しき翻訳ミスは、一向に改善されないまま、従来の翻訳を踏襲している。これは、「明治元訳・大正改訳」からの悪しき伝統である。いい加減にしてほしい。早くここから脱却してほしいものである。「神」や「愛」は、日本語そのものに定着してしまったから仕方がないとして、「教会」「牧師」だけでも何とかならないものだろうかと、個人的には思っている。

 ただし、表紙のデザインは両方とも、結構オシャレでGOOD。

 

 

▼いろいろな翻訳で読んでみよう!

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↑聖書協会共同訳には、このような詳細な地図も挿入されている。

 例にもれず長文記事となってしまった。ここらで筆を置こうと思う。私が最も伝えたいのは、「聖書は違う翻訳で読んでみると、さらに面白いよ!」というメッセージだ。今回挙げたように、どの翻訳も一長一短。良いところもあれば、改善すべきところもある。

 しかし、どの翻訳も、エキスパートたちが、考え、考え、考え抜いて翻訳している。私が今回挙げた点など、いくらでも論破されてしまうだろう。大切なのは、違う翻訳を通して、自分が知らない神の姿を、少しでも見出そうとする姿勢である。

 もし、聖書にマンネリを感じたら、違う翻訳を手に取って読んでみよう。神の違う姿が、イエスの違う姿が、聖霊を通して語られるに違いない。新改訳で。共同訳で。口語訳で。リビングバイブルで。現代訳で。岩波訳で。その他諸々の私訳で。もし英語ができるなら、英語の多数の翻訳で。他の外国語ができるならその原語で。ヘブライ語ができればヘブライ語で。ギリシャ語ができればギリシャ語で。聖書の冒険、探求は、限りなく続いていくのだ。

 

 聖書って、面白い。あなたにも、そう感じて欲しいと願う。

 

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↑聖書協会共同訳には、このような用語解説も付録で付いている。

 

<参考リンク> 

www.gospelshop.jp

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス10】「先生、『イエスの十字架』歌って!」能城黎@中学・高校教師

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第10弾は、能城黎さん!

f:id:jios100:20190317012637j:plain

【Profile】

名前:能城黎(Rei Noshiro)

生まれ:1991年

出身:東京都八王子市

学歴:東京学芸大学卒業

職業:中学・高校教師

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしー(のしろ、なのでのっしー)久しぶり。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 久しぶり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 改めて、今はどんな仕事をしてるの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分の母校でもある、都内の私立の中高一貫校で教員をしているよ。今年で6年目。

 f:id:jios100:20180905032057j:plainへぇー! 母校で教えるって感慨深いね。国語の先生だっけ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、ちょっと特殊で。今勤めている学校は、「国際学級」というのがあってね。帰国子女とか、外国籍の生徒を授業から「取り出し」て、国語を教えているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 「取り出す」とは?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 生徒一人ひとりの言語レベルに応じて、個別に教材を渡してるんだ。普段は普通のクラスにいる生徒さんも、言語レベル的に個別指導が必要な教科は、「国際学級」で個別に対応してるよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain つまり、一人ひとりに個別の時間割があるっていうこと?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain その通り。うちの学校は、国語、数学、理科、社会、英語の授業で「取り出し授業」に対応してる。理科や社会までやっている学校は珍しいんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ~~、電車のダイヤみたいに複雑な時間割になりそう・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、日常会話が分からない子たちのための日本語コースもあるよ。日常会話が問題ないレベルの子たちのためは、もう少しハイレベルな国語のコースもあって、僕はその国語のコースの担当。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語を教えてるんだね。今日はじっくり話を聞かせてください。

 

 

▼教えるのが好きだった

f:id:jios100:20190317013248j:plain

↑高校時代

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、なぜ先生になろうと思ったの?

 f:id:jios100:20190317013034j:plain クリスチャンだからとか全然関係なくて、単純に「教える」っていうのが昔から好きだったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain シンプル。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。例えば、テスト前に勉強についていけていない友達のために、黒板を使ってミニ授業をやっていたときもあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 生まれついての先生体質・・・! じゃあずっと先生になりたかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、本格的に教員になろうと思ったのは、高校2年生から3年生ぐらいかな。進路を決めなきゃいけない時期。それまでは、野球とか、スポーツをずっとやっていたから、スポーツ学科とかに行って、整体とかマッサージの世界に行こうかなとも思っていた。でも、その時期に「自分は教えるのが好きなんだ」と気がついて、本格的に教師を目指そうと思ったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 英語が得意なんじゃなかったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、英語はむしろ嫌いだったんだよね(笑)小学校の時にアメリカに2年住んでいたから、一般の日本人よりは英語ができたんだけど、僕が通っていた中高は、帰国子女ばっかり。しかも、入学時のクラス分けテストで思いがけずいい点を取っちゃったから、ハイレベルな英語のクラスに入れられてしまって。まわりは中学校で英検1級とか、そもそも家庭では英語でしゃべっているとか、海外に10年住んでましたみたいな人ばっかり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それはきっちいなぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain どう頑張っても5段階評価の3しか取れない。だから英語は好きになれなかったんだよね(笑)。だから、最初は社会科の教師を目指そうと思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 国語じゃないんだ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。社会科が好きだったから。それで、部活の顧問の先生に相談したら、その先生には、「社会科の教員は、なりたい人が多いから狭き門だよ」と言われてね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員の採用って、そのポジションに空きが出ないと採用がないんだよね。確かに社会科は人気だから厳しいなと思って。たまたま野球部の顧問の先生が2人とも国語の教員だったというのもあって、「国語はどうだ?」と勧められたのがキッカケで、国語教師もアリだなぁと考え始めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで進路を決めたんだ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。その先生の1人が、東京学芸大学に、小学校の日本語教育コースが新しくできるってことを教えてくれた。「推薦入試にトライしてみないか?」と背中を押してくれたんだよね。

 

 

▼心配ないよ、絶対大丈夫だよ  

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↑大学のサークル(CCC)時代。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 推薦入試は、どんな内容だったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 小論文と面接。それまでは私立文系を目指していたから、急な方今転換だったんだよね。だけど、ひたすら論文書いて対策したよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何人ぐらい受かったの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 合格枠は2人だった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 2人?! それって実は社会科教師になるより狭き門なんじゃぁ・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain だよね(笑)。途中でそれに気がついて間違えたなぁって(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain その通りすぎる(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain 自分は学校の成績は良かったんだけど、もっと高いレベルの高校はたくさんあるし、そこからも受験生がいるだろうから厳しいかなとは思ってたんだよね。だけど、海外で暮らしたことがあるっていう自分の人生には、その日本語学科のコースはピッタリだったし、アピールできるなっていう点もあった。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、新しいコースだったら狙ってくる人もいそうだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 倍率は3.5倍ぐらいだったんだよね。だけど、受験が終わった後、本当に不思議なんだけど、自分の人生の中で初めて根拠のない自信に満ち溢れたんだよね。心配ない。絶対大丈夫だっていう気持ちになった。これは神様がくださった安心感だなって思ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほ~~。面白いね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain だけど、結果が出る前に自信満々で大丈夫とか言って、違ったらイヤだからおおっぴらには言わなかったんだ。結局、心配していたのは母親だけ(笑)そのときに、「ああ、これが神様が一緒にいるという、心の平安なんだ」という確信をしたよ。これは自分の中ではすごい体験。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうやって大学に入って、どういう大学生活を過ごしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 大学時代は、ひたすらクリスチャンの集まりを企画したり、参加したり。CCC(※キャンパス・クルーセード・フォー・クライスト)っていう団体や、「超教派」(※教団や教派、グループなどの枠組みを超えたクリスチャンたちの集まり)の集会に、これでもかっていうほど参加したよ。音楽をやっていたから、集会でギターをひいて賛美の歌を歌うことも多かったな。あとは聖書をじっくり学んだり。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、のっしーは大学時代、クリスチャンとしての活動をしまくってたイメージがあるな。

 

 

▼「気づかなかった」と「もうふりむかない」

f:id:jios100:20190317013514j:plain ↑高校時代の仲間たち(いまの奥様も・・・)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そもそも、のっしーはどうやってイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 僕の父親は牧師で、ずっとクリスチャンの環境で育ってきたんだよね。アメリカに住んでる時も、クリスチャンが多い町だったというのもあって、クリスチャンっていうのは普通のことだった。でも、日本に帰ってきたときに、「クリスチャンだから」とか、「牧師の息子だから」という理由で、友達から軽くイジられることもあった。その時に初めて、日本って違うところなんだと感じたかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、日本だと完全アウェーだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain それだけじゃなくて、通っていた教会も小さな教会だったから、途中まで、日本には若いクリスチャンが全くいないと思い込んでもいたんだよね(笑)高校に入って、「Hi-ba」(ハイビーエー)という高校生のクリスチャンの集まりに行って、初めて同世代のクリスチャンに会って、ビックリしたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 聖書に出てくる預言者エリヤみたい(笑)

(※預言者エリヤは、神様に従う人が全くいない状況で、うつ病的になってしまった)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうそう。そんな感じ。その頃から、初めて自発的に神様のことをもっと知りたいと思うようになったかな。自分で聖書を読むようになって、初めて全部読んだ。それで、高校3年生の時に行ったクリスチャンのキャンプで、2つの賛美の歌を歌って、それが衝撃的で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なんていう曲?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 「気づかなかった」「もうふりむかない」っていう曲。その2曲をエンドレスでひたすら繰り返して歌ったんだけど、その歌の中で、自分がどれだけ神様の愛に気がついていなのか思い知って。どれだけ神様の呼びかけに、自分がふりむいてこなかったのかと感じた。その歌を歌っている中で、神様の愛に気が付かされたし、もう過去を振り返らないと思ったんだよね。そしたら、人生で初めてぐらいの勢いで号泣して。自然と涙が溢れて。これが神様の愛なんだと感じた。それが自分の中で一番印象に残っている出来事かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 文化としては触れていたけど、そこで初めて、神様の愛を「体感」したんだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。もうバプテスマも受けていたし、教会にもずっと通っていたけど、その時に初めて個人的に神様の存在を強く感じたかな。

 

 

▼神様からの幻を見て

f:id:jios100:20190317013951j:plain

↑大学卒業のとき

f:id:jios100:20180905032057j:plain ところで、気になっていることがあるんだけど。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 何?

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学では、小学校の日本語教育コースに行ったんだよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうだよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ、なぜ今は中高一貫校の先生をしているの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain コース自体は小学校教育だったんだけど、追加で単位を取れば、中高の免許も取れたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは、母校で働くために?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、どうせならと思って。母校で働きたいと思ったのは、大学3年生のとき。実は、その頃、進路選択で、本当に教師になるか、神学校(聖書などを学ぶ大学院)に行くか迷っていて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやって決断したの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 祈りの集会の時に、「神学校に行くように神に導かれていると感じる人は、前に出てきてください」と言われた時に、前に出ていこうと思ったんだけど、なんとなく「違うな」と感じて、行かなかったんだよね。それで、「神様、僕はどのような進路に行けばいいですか」と真剣に祈ったんだよね。その時に、ある幻が見えて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まぼろし~?!

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。目をつぶっているときに、自分が通っていた学校が、上からフカンするように見えた。最初は暗かった学校に光が灯って、それがだんだんと広がっていく・・・そんな幻、ビジョンが見えたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain すごい。かなり具体的な幻だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain その意味はなんだろうと考えながら、聖書をひらいたら、「もし一粒の麦が落ちて死ねば・・・」という言葉を見つけたんだ。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

ヨハネ福音書 12:24〜25)

f:id:jios100:20190317013034j:plain その時に、自分がその学校に赴任して、そこで一粒の麦となるという未来を感じ取ったんだ。そこで、母校で教師になるっていう決心をしたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ワオ。ビジョンを見て、聖書の言葉に導かれたら、もう従うしかないね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうなんだけど、実は、4年生になるまでまだ迷ってた。そうこうしているうちに、これは本当に僕のミスなんだけど、気がついたら都立の教員採用試験の申し込みの締め切りが過ぎていたんだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain あら(笑)でも、母校は私立だよね?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。だからまだ残っていたんだけど、私立はポストに空きが出ないと募集がかからない。大学卒業間近になっても、まだ募集がかかっていなかった。だから、また神学校に行くか迷ってね。今度は、別の集会で、また同じように「神学校に行きたい人は、前に出てきてください」と言われたときに、前に行こうとした。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そしたら・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そしたら、立ち上がった瞬間に、ものすごい心理的なプレッシャーを感じたんだよね。直感で、違うというのが分かった。それで、座って、神様の前に反省して、今度こそ神様に従いますと決心した。その後は、心に安心があったかな。

 

 

▼必要だった回り道

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↑同僚の先生方と

f:id:jios100:20180905032057j:plain その後はどうしたの?

f:id:jios100:20190317013034j:plain そうやって、決心したタイミングで、なんと卒業する直前の3月の半ばに、母校の教員採用の募集が出たんだよね。これは行くしかないと思って、受けた。絶対受かる自信があったんだよね。このタイミングで、決心して、道が開かれて。これは神の計画だろうと確信があった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結果は・・・

f:id:jios100:20190317013034j:plain そこまで自信があったのに、落ちた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まじか。どんな気持ちだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 神様、なんで? っていう気持ち。その後は、他の私立も全然募集がかからなくて、卒業して、4月になっても就職が決まってなかった。臨時の教員採用の募集に登録して、最初は所沢の学校に週に1回だけ教えに行っていたかな。だけど、それだけじゃもちろん食べていけなかったから、空いている日は、アーク引越センターでアルバイトをしてたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 神様に従うって決心した直後に、そんな苦しんだらキツイよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うーん。まぁ、ポジティブすぎるのかもしれないけど、神様は何か理由があってこの道を通らせているのかなとも思ったかな。むしろ、今の妻、当時の彼女だけど、彼女の方が僕の将来を心配してたかも(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚を考えていたら、相手の仕事の状況は気になるよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 結局、その後で、東京都のあきる野市ってところの公立中学校で、非常勤で働けることになった。産休の先生の代わりで1年限定でね。自分が学んできたのは小学校だし、ビジョンは母校でっていうことだったけど、その時はこだわっていられなかった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 挫折って感じでもなかった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain いや、それはあるよ。人生で初めての挫折を味わったって感じだったかな。高校入試も帰国子女枠だし、大学も推薦。順調な人生で、初めての挫折だった。でも、今思うと、教師として働く上で、挫折した経験がなかったら、人の辛さにより添えなかったと思う。最初は、「神様、なんで?」と思っていたけど、実は必要な回り道だったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに。でもそれにしても大きな挫折だよね。辛いよなァ。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今思うと、あきる野市での公立学校の経験も、埼玉の私立の学校の経験も、絶対必要だったと思う。神様は、やっぱり理由があって、この回り道をさせたんだと今になっては感じるかな。

 

 

▼母校に再チャレンジ

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↑学校の礼拝の式の日

f:id:jios100:20180905032057j:plain 東京の公立の学校で1年、埼玉の私立で2年働いたんだよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。仕事も慣れてきて、経済的にも安定してきたから、正直いって、このままでもいいのかなとも思った。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そこから、また一歩踏み出して母校の採用を受けた理由は?

f:id:jios100:20190317013034j:plain なんかね、さっき話した幻・ビジョンがなくならなかったんだよね。かつて、牧師をしている父親に、「神様からのビジョンか、そうでないか、どうやったら分かるのか」と質問したことがあるんだけどね。父親は、「一概には言えないけど、神様からのビジョンは、何年経ってもなくならないよ」って言ってたんだよね。その通りに、母校に行って働くというビジョンは、ずっと心の中にあったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。神から与えられた思いは、なくならない・・・か。いいアドバイスだね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 母校からの募集は、落ちてからは1回も出てなかったんだけど、3年後の2017年に出た。そこですぐに受けて。試験では落ちた時と全く同じ古文の模擬授業をやったんだけど、すんなり受かった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 母校に行ってどうだった?

f:id:jios100:20190317013034j:plain もちろん、すべて順風満帆ではなかったかな。正直言うと、給料面でも以前の方が良かったし、今の学校は土曜日も授業があるから仕事は忙しくなった。妻も、当時、僕の仕事にあわせて土日休みの仕事を選んでくれていたから、「なんでもっと深く考えなかったの?!」と言われたしね(苦笑)あとは、埼玉の田舎の学校と、東京都内の学校の雰囲気の違いもあって、その違いに最初は戸惑ったかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事環境の変化は、すぐには慣れないよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain うん。だけど、遠回りした3年間は無駄じゃなくてね。経験という意味でもそうなんだけど、僕が遠回りをしていた3年間、母校は経営陣が変わったり、いろんな先生たちが辞めていったり、移行期で大変な時期だったらしいのね。その難しい時期を避けられたという意味合いもあるのかなと思ってるよ。

 

 

▼「先生、イエスの十字架歌って!」

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↑クラスの生徒たちと

f:id:jios100:20180905032057j:plain 先生の仕事は楽しい?

f:id:jios100:20190317013034j:plain めっちゃ楽しいよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain やりがいはどんなところ?

f:id:jios100:20190317013034j:plain 子どもたち1人ひとりの人生に関われるというところかな。その子の成長や変化を、間近で見られる。あとは、キリスト教主義の学校だから、毎週月曜日に礼拝があって、そこで学期に1~2回くらい、聖書の話をさせてもらう機会もあったんだよね。堂々と、ストレートに聖書の話ができるっていうのはいい機会かな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その立場は最高だね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あとは、子どもたちを励ませることかな。帰国子女の子とか、外国籍の子は、アイデンティティに苦しんだりもしているんだよね。「なんで自分が生きているのか分からない」とか相談してくれた子もいて。そういう時は、「そうだよね、迷うよね」と受け止めてから、「僕もそういう時があったけど、聖書を通して生きている意味を見いだせたんだ」といって話せる。落ち込んでいる子とかにも、お祈りしてるねとか言ったりもできるかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 中学、高校生ぐらいの子って割と素直だよね。

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。結構質問してくるよ。「十字架にかかったら何日ぐらいで死ぬんですか?」とか。一番おもしろかったのは、「なんでイエスは十字架にかかったんですか?」って。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音そのもの(笑)

f:id:jios100:20190317013034j:plain そう。そこから福音の話ができる。いつも意識しているのは、これまたヨハネ福音書だけど、この言葉。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

ヨハネ福音書 15:16)

f:id:jios100:20190317013034j:plain もしかしたら、僕がこの子が人生の中で出会う、最後のクリスチャンかもしれない。そう思ったら、僕の言動が全てこの子の人生の中に「残る」んだろうなと思って接しているよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 福音を隠さず、賢く伝えているのっしーの姿、励まされるな。

f:id:jios100:20190317013034j:plain あと、面白かったのは、今の中高生は、先生の名前で検索かけるんだよね。そしたら、学生時代にアップしてた賛美の歌を歌っている動画を、生徒がyoutubeで見つけたらしくて。その歌のタイトルが、「イエスの十字架」っていうんだけどね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain うわ。めっちゃキラーワード。

f:id:jios100:20190317013034j:plain すごくない?! イエスだけでも、十字架だけでもなくて、「イエスの十字架」だよ?!(笑)一番大切なメッセージが伝わった。で、その動画見つけた子が、廊下で大きな声で、「先生! 『イエスの十字架』歌って~!!」って叫んだりしてね(笑)それで、生徒にも先生にも僕がクリスチャンってことが堂々と伝わった。向こうはからかってるつもりなんだろうけど、いい効果を生んだよね(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain いじられたはずが、結果として、のっしーがクリスチャンであることが、学校中に伝わったんだね(笑)

 

 

▼夫婦としてのフィールドを求めて

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↑ご夫婦で。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分がクリスチャンだから、できているなと思うことはある?

f:id:jios100:20190317013034j:plain あまり意識したことはないけど、聖書の話になったときに、いろいろと聞かれることは多いかな。最近嬉しかったのは、自分が高校時代にお世話になった先生に、「能城先生の聖書の話、いつも楽しみです」と言われたことかな。こういう形でも、聖霊様が働かれるなんだなと感じたよ。先生によっては、「スピリチュアルなものと、キリスト教はどう違うんですか」と聞かれたりね。そういう話ができる機会があるのは嬉しいかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。堂々と語れるのは素晴らしいことだね。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンを教えてください。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 教員として、今の学校に努めている以上、学校で福音が伝わっていくのが見たいな。どういう形で実現するかは分からないけど、それが僕が見たビジョンだから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうだよね。のっしーを通して、学校でイエスのことが伝わるといいなと思います。

f:id:jios100:20190317013034j:plain もうひとつ祈っているのは、夫婦としての働き。夫婦としての共通のビジョンのこと。学校は、自分自身の働きのフィールドだけど、夫婦としてのフィールドは何か、これから求めていきたいなと思ってる。妻と僕が共通しているのは、人と関わることが好きっていうこと。今までは、目の前のことに必死だったけど、結婚して3年になるので、これから夫婦として何ができるか考えていきたいなと思うよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 結婚したら、2人で1人、だもんね。これからのっしーの人生を神様が導いてくださるように、祈っています。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉があれば。

f:id:jios100:20190317013034j:plain 今年のテーマはこれかな。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」

(ローマ人への手紙 10:11)

 

 f:id:jios100:20190317013034j:plain ただただ、神様に信頼するしかないなと思います。社会人になると、忙しくなるし、結婚すると、夫婦の時間もある。だけど、改めて神様との時間が大切で、神様に信頼していきたいなと思う1年です。

f:id:jios100:20180905032057j:plain のっしーのこれからの夫婦としての活躍も期待してます! 今日はありがとう。

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【聖書】聖書の日本語、実は翻訳ミスだった?!

愛、神、教会・・・日本語に影響を与えた聖書用語ですが、実は翻訳間違いだった可能性があるのです。どういうことでしょう・・・?!

 

 

▼聖書は日本語に影響を与えている

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 日本人のクリスチャンは、とても少ない。人口の、約0.4~1%(40万人~100万人)がクリスチャンだと言われている。これは、世界でもかなり少ない水準である。しかし、多くの日本人が、知らず知らずのうちに、聖書が語源の言葉を使っている。神、天使、悪魔、愛、教会、などなど・・・実は元々日本語にはなかった単語が、聖書翻訳の過程で生み出されていったのである。そして、それらの単語は、現在、自然な形で日本人の会話、文章の中に定着している。聖書は、日本語に多大な影響を与えているのである。

 さて、この翻訳の過程で、日本人の翻訳者たちが参考にしたのが、中国語の聖書だ。中国語の影響を語らずして、日本語の聖書翻訳は語れない。聖書が初めて日本語に翻訳されたのは、江戸末期~明治時代と言われている。その時代の知識層の人々にとって、「漢文」をマスターするのは必須条件だった。つまり、当時のエリートたちは、中国語ができたのである。だから、聖書を翻訳する際に、彼らが中国語の影響を強く受けていたのは間違いない。

 実は、この中国語の「聖書用語」が、日本語になった際に、そのニュアンスを分かりづらくしてしまっている原因なのである。日本人が聖書を読んでもピンと来ないのは、中国語の影響による翻訳ミスが大きな原因のひとつなのだ。聖書が語っている本来の意味から、ニュアンスのズレが生じているのである。今回は、簡潔に聖書の翻訳過程をまとめ、特に齟齬が大きいと思われる「聖書用語」を3つ紹介する。

 なお、今回の記事を書くにあたり、いくつかの本を参考にした(記事最後を参照)。今回の記事は、これらの書籍をベースにした、私の個人的意見であることをご留意願いたい。尚、聖書の翻訳課程はものすごく細かい経緯があり、それだけで何冊も本が書けてしまうほどだ。今回は、その中核だけを抜き出し、要約した「入門編」だとご理解いただきたい。

 

 

▼聖書はどのように翻訳されたのか

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 日本語で最初の本格的に翻訳された聖書は、「明治元訳」である(※以後、「明治訳」と記載する)。「明治訳」は、新約聖書部分が1879年に完成し、1887年に旧約聖書部分が完成した。これが、初めての日本語の完全な新旧訳聖書である。その前にも、1830年代から、シンガポールや台湾にいた宣教師や日本人たちが、部分的に福音書を翻訳してはいたのたが、一部分のみであったし、中国語やポルトガル語に翻訳された聖書を、再度日本語にするといった類のものであった。

 明治訳が、大正時代に入り、より身近な日本語に改善された。これが「大正訳」。「大正訳」はたいへん評判が良く、今の「文語訳」と呼ばれる聖書として今でも使用されている。この「明治・大正訳」が日本語の聖書のベースとなっている。

日本語に与えた聖書語の骨格は「明治元訳」で形成され、「大正改訳」でほぼ定まったということができる。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.175)

 

 戦後、この聖書の見直しがなされ、「明治・大正訳」をより現代的な表現に直したものが「口語訳聖書」である(※詳しくは後述)。その後、1978年に、カトリックプロテスタントが共同で翻訳し、発行したのが「共同訳」だ。「共同訳」は1987年に改良が加えられ、「新共同訳聖書」となった。「新共同訳聖書」は現在、最もメジャーな日本語訳といっていいだろう。

 一方、プロテスタントの「福音派」と呼ばれるグループは、1960年代に翻訳委員会(新改訳聖書刊行会)を設立。本格的に聖書翻訳をやり直し、1970年に発行したのが新改訳聖書である。「福音派」グループのほとんどは、この翻訳を用いている。「新改訳聖書」はその後、2版、3版と翻訳を繰り返し、2017年には新改訳聖書2017」が刊行された。

 「共同訳」側も、近年、新しい翻訳を行った。それまでは各章ごとに翻訳者がバラバラだった「新共同訳聖書」を改め、統一された翻訳委員会が再翻訳を試み、2018年冬に「聖書協会共同訳」を出版した。私は、最近この翻訳を主に読んでいるが、「新共同訳聖書」と比べると、かなりの改善が見られ、また解説や注釈も手厚く、重宝している。

 まとめると、日本語の聖書は江戸~明治時代に、西洋の宣教師の知識的、金銭的援助を受けながら成立した「明治訳」がベースとなっている。その翻訳過程において、中国語の聖書用語による影響が色濃く残っているのは、異論のない事実である。この四半世紀でかなりの翻訳がなされているといえ、「愛」「神」「教会」などの聖書用語は、そのまま明治時代の翻訳を踏襲している。それらの用語は、既に一般の日本語として定着してしまっており、もはや再定義は不可能に近いが、実はこの「聖書用語のニュアンスのズレ」が、日本人が聖書を読む際に、非常に大きな障壁となっているのである。では、なぜそのような「ズレ」が生じてしまったのか、見ていこう。

 

 

▼西洋の宣教師VS日本の知識人たち

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 日本で最初の本格的な翻訳である「明治訳」の聖書は、西洋の宣教師と日本の代表者(いずれも知識層)の混合チームが行った。この際、力関係的には西洋側が圧倒的優位(地位的にも、知識的にも)に立っていた。あくまでも西洋の宣教師たちが「翻訳者」であり、日本人たちは「助手」に過ぎなかった。しかし、日本側もプライドがあり、かなりの抵抗をしたようである。

 この際、両者の決定的な溝となったのが、ヘブライ語ギリシャ語から翻訳するのか」(西洋側)、「漢語(中国語)の聖書を基調とするのか」(日本側)という両者の考えの違いである。無論、前者の方が圧倒的に正しいのだが、日本側にヘブライ語ギリシャ語の知識がある人材が当時いなかった為、どうしても中国語の聖書に引っ張られる傾向があった。当時の聖書翻訳に関わった井深梶之助氏は、こう述べている。

せっかく聖書を日本語に翻訳しても、ただ少数の学者だけに読めて、普通の人に読めるようでは、何の利益があるのかと、(西洋宣教師)の先生はしばしば繰返した。また、翻訳の補佐役の日本人が、「漢文はこうだ」と言うと、「漢文は原文じゃない」と力説されたことが何度もあった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.99 <※表現を現代風にしている>)

 

 当時の日本人は、たとえ知識層であっても、中国語に加え、オランダ語や英語を知ってるというのが関の山で、ラテン語はおろか、ヘブライ語ギリシャ語が分かる人材はいなかった。だから、当時の日本語聖書は、外国語、とりわけ中国語と英語に翻訳された聖書を再度、日本語に翻訳し直すという「二重の翻訳」によって出来上がったのである。

 当然、西洋の宣教師たちの助けで、原語のニュアンスはある程度加味したのだろう。しかし、当時日本に来ていた宣教師は、ほとんどが中国で実績をあげてから日本に来た人々だった。これは、違和感なく中国語の用語が受け容れられてしまった一つの要因にもなった。

あえていうならば、日本のキリスト教の受容は、聖書語に関する限り、儒教や仏教の経典と同じく、中国経由なのである。たとえば「神」や「愛」という重要な言葉は、その訳語をめぐり中国で激しい論争があったにもかかわらず、日本ではあたかも「原語」として、ほとんど論争ひとつ起こらずに受け容れられてしまった。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.220)

 

 「聖書用語選定」の過程で、最終決定をするのは常に日本側であった。これは、当時の西洋の宣教師が謙遜に日本人たちの決定を尊重したからでもある。結構なことだが、その結果、知識層の日本人たちは、ほとんどの聖書用語を漢文から引用してしまった。こうして、「神」「愛」「洗礼」「教会」などの、あえて言えば「間違った翻訳用語」を転用してしまったのであった。

 中国語や英語の聖書から、日本語への「二重翻訳」の結果、中国語では、まだギリギリ残っていたそのニュアンスが、全く違うものになってしまったのである。結局、日本語の聖書のベースとなった「文語訳」の正体は、以下のようなものである。

文語訳(明治・大正訳)は、宣教師が和英辞書を用いて翻訳作業をしたものの、既に漢文聖書が存在したため、日本人側の助手と共にその翻訳には漢文の語彙を当て、訓読みにして、描き下ろし翻訳された聖書である。(中略)文語訳は学識的だったため主に知識層に受け入れられた。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 当時の日本人知識層の漢文への過剰な信頼とプライド。宣教師たちの中国での経験。ヘブライ語ギリシャ語から直接翻訳できる人材の不在。これらが、日本語の聖書用語に、決定的な「分かりづらさ」を生み出してしまったのだ。

 では、「中国語」の影響で、どのようなニュアンスの違いが生まれてしまったのか。具体的に3つの単語を挙げる。

 

▼用語1:愛

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 「愛」は最も日本人に想像し難い言葉のひとつである。そもそも、日本語で「Love」を表す言葉は、本来は「愛」だけではなかった。以下をご覧いただきたい。

「愛」:上の者が下の者を憐れむ愛。君主がしもべを愛する。親が子を愛する。また、性的な「エロス」の愛の意味。

「忠」:しもべが君主に忠義を尽くす愛。忠誠心。

「孝」:子どもが親に対して孝行する愛。親孝行。

「悌」:年上のきょうだいを愛する愛。

「敬」:部下が上司を敬う愛。敬愛。

「仁」:他人を憐れみ、大切に思う愛。仁義。仁愛。

 

  なるほど、日本語では、立場や相手によって「愛」の用語が違うのである。「忠義を尽くす」「親孝行をする」「敬愛を示す」「仁義を切る」どれも自然な日本語である。だから、簡単に「この用語」と決めつけるのは、至難の業である。

 そもそも聖書の「愛」は、ギリシャ語の「アガペー」(無条件の愛)、「フィレオー」(友情の愛)、「エロス」(性的な愛)など様々な用語がある。ヘブライ語も「愛」や「慈しみ」や「憐れみ」など様々あり、用語を統一するのは不可能である。というより、ふさわしくない。

 初期の翻訳者たちは、この「愛」をどう訳出するか、相当苦労したようである。初期の翻訳で、「Love」は、「御大切にする」と翻訳されている。宣教師ヘボンは、「Love」を「いつくしみ」と訳している。やはり「愛」は、友情や親の愛情、そして性的なニュアンスもあったために、避けられたのだろう。当初は避けられた「愛」が、これまた中国語聖書の影響で、「明治訳」の際に定着し、今日に至っている。

 私は、「愛」の訳は、ケース・バイ・ケースで訳出したらいいと思っている。例えば、「神は愛です」というギリシャ語風表現は、「天の主はやさしい神様です」や「天の主は憐れみ深いお方です」というように訳出した方が良いと思う(日本語は「私は道である」というような、「生き物=モノ」という構文を用いない)。「互いに愛し合いなさい」は、「お互いに、思いやりの心を持ちなさい」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、「まわりの人を、あなた自身のように大切にしなさい」としたら、心にシックリくるのではないだろうか。

 私の個人的な意見では、あえて「愛」を一言で訳すなら「仁」または「仁愛」の方が良かったと思う。場合によっては、「大切にする」「思いやる」「受け入れる」「いつくしむ」「あわれむ」などの言葉が適切なように思う。現代においては、聖書用語の影響で「愛」の意味合いそのものが変わってきている。だから、無理して単語を変える必要はもはやないのだが、「仁」が採用されていれば、日本人の神の愛に対する理解は、さらに深まっていたのではないかと思う。

 究極的には、「そばいいるよ」「ここにいるよ」というのが、日本語の最大限の愛情表現ではないかと、私は思う。そう考えると、神がモーセに名前を尋ねられたときに「私はここにいる者だ」(I am who I am)と答えた(出エジプト3:14)のも、シックリ来るのではないだろうか。

 

 

▼用語2:神

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 「神」は、数多くの聖書用語の中で、最も翻訳についての議論があった用語であろう。英語でいえば「God」。ヘブライ語では「エロヒーム」、そして有名な「ヤハウェ」などとされる、「4文字(IHVH)」の神の名前である。

 この「God」をどう訳すかは、中国で激しい議論となった。「神」「天」「上帝」「天主」「天皇」「神主」などの数多くの候補から、最終的には「神」(シン)を採用するか、「上帝」を採用するかで大きな対立となった。アメリカ系の宣教師は「神」を主張し、イギリス系の宣教師は「上帝」を主張した。

 「神」採用論には、大きな問題があった。そもそも、「神」は、「山の神」のような精霊・スピリット的な用語で使われていた単語だった。明らかに、天地万物を創造した唯一の神というニュアンスとは違っていた。

 しかし、「上帝」にも問題があった。中国で「上帝」は国の王、つまり「皇帝」を指す用語だった。アメリカ系宣教師たちは、唯一の神と皇帝が混同されるのを嫌った。政治的ニュアンスを避けたかったのである。その結果、最終的には「神」に落ち着いたのであった。

 しかし、カトリックは「神」の使用を嫌い、新しい造語である、「天主」(てんしゅ)を採用した。この影響は今でも残っていて、例えば韓国語ではカトリックを「天主教」(チョンジュキョ)、プロテスタントを「基督教」(キドッキョ)といってハッキリ区別する。

 

 さて、中国語の聖書が「神」を採用したため、日本語への翻訳の際も、「神」(カミ)が重視された。初期の翻訳の中には、「上帝」や「真神」(真の神という意味)、中には「ゴクラク」と訳したものもあった。しかし、徐々に「神」が主な用語となっていった。

 いわずもがな、これは非常に悪い翻訳であった。日本語の「神」(カミ)は、ご存知の通り、中国語以上に「唯一の天地万物の創造主なる神・ヤハウェ」とは意味がかけ離れている。「八百万の神」というように、日本では、そこらへんの木も「カミ」、岩も「カミ」、そよ風も、虫も、鳥も、何もかもが「カミ」だったのである。中国語でも意味が離れていたのに、日本語にしたらさらにニュアンスが変わり、全く違う意味になってしまったのである。どちらかと言えば、「天使・御使い」の方が、本来の「神」の意味に近い。

 初期の聖書翻訳に多大なる貢献をした宣教師のヘボンも「神」採用には前向きではなかったようである。

ヘボンは、同じ「神」の語を使う際の中国と日本における相違に触れ、中国で「神」の語を採用した訳者も、もし日本にいたら「神」の語は使わなかったであろうと述べている。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.201)

 

 初期の日本聖書翻訳者たちが、「神」と「God・ヤハウェ」の違いを、言葉によって定義づけできなかったため、このような誤解が生じてしまった。中には、「上帝」「天父」「真神」などの用語を主張した人もいたが、その声はかき消されてしまった。カトリックは「天主」を使い続けたが、1959年に「神」に変更してしまった。そのまま「天主」を使っていればよかったものを・・・。

 では、どう言えば良かったのか。私は「天」または「天主」を支持する。有名な「敬天愛人」という西郷隆盛の言葉にもあるように、日本人にとって自らの運命を握っているのは、「神」でも「仏」でもなく、「天」であった。「天のカミサマの言う通り」という歌を子どもが歌っているのを見たこともあるだろう。「お天道様は見ている」と言うだろう。「神」より「天・天主」の方がよっぽど、「唯一」「天地万物を創造した」「力がある」「誰に対しても神である」存在として人々に広まったのではないだろうか。しかし、残念ながら、時すでに遅しではある。「愛」と同じく、聖書用語によって日本語の「神」のニュアンスも変わりつつある。

 

 

▼用語3:教会

f:id:jios100:20190327012525j:plain 「教会」。こればかりは今すぐにでも変更した方が良い訳である。そもそも、「教会」と訳された、ギリシャ語の「エクレシア」、ヘブライ語の「ケヒラー」は、いずれも「人の集まり」という意味である。素直に訳すなら「集会」が正しい。

この語(エクレシア)は一般に「教会」と約される。しかしその際私たちは、だいたいにおいて「教会」という建物を想像するのではないだろうか。だが「教会」という固有の建物が建つのは、早くて三世紀末から四世紀初頭である。それまでは皆、個人の家に集まって礼拝等を行っていたのである。これを「家の教会」(house church)などと言っているが、いずれにせよekklesia(エクレシア)とは、新約聖書に関する限り、建物を指してはいず、むしろ人々のコミュニティの謂(いい・「意味」)なのである。したがって日本語としては、「集会」と言った方が正しい。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.26)

 

  「教会」は、それまでの日本語になかった、全く新しい用語である。言わずもがな、中国語からの借用である。中国語でなぜ「エクレシア」を「教会」と訳したのは不明だが(※詳細求む)、日本語への翻訳の際、中国語の単語を用いたのは明らかである。

 実は、ヘボンの最初の翻訳では「エクレシア」は「集会」となっていた。それが、「明治訳」の際に、やはり中国語を重視したためか、「教会」に変わってしまったのである。これは、当時の翻訳委員会の最大の過ちと言えるかもしれない。

 本来の「エクレシア」は、「イエスに信頼する者たちの集まり」というふうに、「人」に焦点が置かれていた。しかし、それが「教える会」となってしまった。「教会」は、何かを学ぶ場所となってしまったのである。その結果、「学ぶこと」「組織」に焦点が置かれてしまい、本来の「お互いを思いやる」「励まし合い、支え合う」という集会の目的がブレブレになってしまった。そして、現代の日本の多くのクリスチャンが陥っている、「教会教信者」を生み出すこととなってしまったのである。

 私は、「集会・集い」に今からでも訳語を変更すべきだと思っている。

 

 

▼その他の用語(洗礼・聖霊

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 他にも、ヘンテコな聖書用語、議論のあった用語 は様々ある。例えば、「バプティゾー」(洗礼・せんれい)をどのように訳すかは、日本語聖書作成の際、激しい議論があったようである。「洗礼(せんれい)」にするか、バプテスマにするか、はたまた「しづめ(沈め)」にするか。聖書を気仙沼の方言で訳した山浦玄嗣氏は、「お水くぐり」と訳出している。「洗礼」のニュアンスがいかに間違っているかの詳細は当ブログの過去記事を参照していただきたい。やはり「洗う」「きよめる」というニュアンスがある「洗礼」は上手い翻訳とは言えない。個人的には「沈め」「浸し」「お水くぐり」などが良い訳語かと思う。

 また、聖霊も誤解のある表現だ。聖霊」とは、神の力の現れ、神の息吹である。ギリシャ語では「プネウマ」。ヘブライ語では「ルアフ(風)」である。これをとって、初期の翻訳では、「神風(しんぷう)」という案もあったようだ。山浦氏は、「神さまの息」としている。「霊」という単語は、「精霊」や「幽霊」を連想させる。こちらも、例に漏れず(霊だけに)、中国語からの借用である。

 私は、「プネウマ・ルアフ」の訳語として、「神風(かみかぜ)」が良いと思うが、どうも「神風特攻隊」と重なってしまうのでダメだ。「神の息吹」などはどうだろう。当初は、「聖気」という案もあったようである。「神通力」はどうだろう。ダメ?

 他にも「天使」「悪魔」「義」など、翻訳過程で議論があった単語は数え切れない。気になったものは、一度調べてみてはどうだろうか。

 

▼おまけ:口語訳と共同訳系・新改訳系の決定的違い

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 最後に、「口語訳聖書」と「共同訳聖書」「新改訳聖書」の決定的な違いについて書く。何度も言っているように、日本語の聖書のベースとなっているのは「明治・大正訳」、のちの「文語訳聖書」である。その際、参考になっているのは主に中国語(漢文)の聖書である。

 さて「口語訳」と他の翻訳の決定的違いは何か。実は、「口語訳」は、「文語訳」を現代版にした、「日本語→日本語」の翻訳なのである。

文語体の改訳試訳版と、「口語訳」をくらべてみると、後者は新訳というよりは、国語改革にしたがい、文語体の試訳をそのまま口語体に置き換えた感が否めない。

(鈴木範久「聖書の日本語」p.152)

口語訳聖書は、聖書原点と英語聖書を照らし合わせながら文語訳聖書を改訳したものである。原語からの翻訳と、新国語表記に沿いつつ義務教育を終えた者が読める漢字を使用して頒布された。

(渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」p.75)

 

 つまり、「口語訳聖書」は、原文からの翻訳作業を経ておらず、「文語訳聖書」を現代的日本語に改良しただけなのだ。

 一方で、「共同訳」「新改訳」は、日本語ではなく原語から、時代とともに改訳が繰り返されている。個人的には、日常的に使用するなら、「共同訳系」か「新改訳系」がオススメである。それも、新しい翻訳(「聖書協会共同訳」「新改訳2017」など)をオススメする。なぜなら、聖書研究の積み重ねによって改良されているし、現代の日本語により近い形で翻訳されているからである。

 もっとも、イエスの言葉は、本当の意味での「原語」で残されているわけではない。それもそうだ。イエスヘブライ語アラム語で話したとされている。それなら、ギリシャ語で書かれている福音書のイエスの言葉は、既にギリシャ語へと「翻訳」されていることになる。ここまで書いておいて恐縮だが、ギリシャ語の原語でさえも、「原語ではない」という認識で聖書を読むことが、一番大切なのだ。だから、聖書を読む際には、その時代、文化、原語、背景、対象、筆者を念頭に置きながら読む必要がある。

 

私たちは、イエスの生の言葉をもはや持っていないのである。

(佐藤研「福音書翻訳のむずかしさ」p.18)

 

 (了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

▼参考図書

・鈴木範久「聖書の日本語」岩波書店、2006年

・佐藤研「聖書翻訳の難しさ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

・渡部信「日本における聖書翻訳の歩み」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

山浦玄嗣ケセン語訳聖書からセケン語訳聖書へ」(「日本における聖書翻訳の歩み」上智大学キリスト教文化研究所編、2013年)

山浦玄嗣「いちじくの木の下で 上下巻」イー・ピックス、2015年

【疑問】クリスチャンはギャンブルをしてはいけないのだろうか?

競馬、パチンコ、宝くじ・・・クリスチャンはこのような、いわゆる「ギャンブル」とどう付き合っていくべきなのでしょうか?

 

 

▼クリスチャンはギャンブルをしてはいけない?

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 ギャンブルは、太古から人間を虜にしてきた営みである。ギャンブルの起源は明らかになっていないが、古代エジプトでは既に占いから派生したくじ引き的なものがあったようだし、古代ローマギリシャでも「貝合せ」やサイコロを使った賭博などが流行っていたようだ。現代の日本でも、競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじtoto)といった公営ギャンブルをはじめ、パチンコ、スロットなどの「私営ギャンブル」など、様々なギャンブルを楽しめる。他にも、トランプ、ルーレット、スポーツ賭博に賭け麻雀など、ギャンブルの種類には枚挙にいとまがない。

 もちろん、国によって法律は様々だ。比較的安易に楽しめる国もあるし、特別な地区のみで賭博を行える国もある。一方で、厳しく禁止している国も多く、社会的・司法的な制裁がかなり厳しいところも多い。日本では、賭博は基本的に禁止だが、先に挙げたようなものは「合法」とされている。

 さて、クリスチャンはこのギャンブルとどう付き合うべきなのだろうか。聖書は何と言っているのか、見ていこう。

 

▼聖書には明確な記述はない

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 残念な知らせがある。実は、聖書にギャンブルについての直接的な記述は全くといっていいほど無いのだ。では、どう考えれば良いのか。「言及がないのだから、何でもOK!」となるのだろうか。それでは議論が少し乱暴すぎるだろう。少しでも聖書の中にヒントを探し、聖書の「価値観」から答えを導き出す必要がある。

 もちろん、旧約・新約時代ともに、社会的にギャンブルは存在していた。例えば、旧約聖書ではヨナの話で出てくる。ヨナが乗っていた舟が難破しそうになり、神が怒っていると考えた乗組員たちは、犯人探しのためにくじを引いた。その結果、ヨナが選ばれ、海に投げ込まれ、かの有名な魚に呑み込まれる話となったのである。これは、お金よりももっと重い、命を賭けた、いわばギャンブルである。他にも祭司が「くじ」を引く記述も様々見られる。しかし、これらはギャンブルというより「占い」の側面が強いだろう。

 新約聖書では、ほとんど言及はないが、例えば「エスの下着を兵士たちがくじで分けた」という記述はある。しかし、これはただ事実を述べただけで、否定も肯定もしていないから、ここから論じるのは難しい。 

 また、イエスのたとえ話の中には、「貸してもらった財産を投資して増やした召使いが褒められ、失敗を恐れて土の中にその財産を隠した召使いが非難される」といったものがある(ルカの福音書19章参照)。これは、神から与えられた能力、経験、知識をどう用いるか、イエスの教えや福音そのものをどう用いるかという教訓を語るたとえ話だ。投資的なマインドが褒められてるという事実は、一目置く必要があるだろう。これについては後述する。

 兎にも角にも、聖書の価値観をベースに議論するのが基本である。聖書は、「富」について、こう述べている。 

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。(中略)だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

(マタイの福音書 6:19〜24)

(イエスは)そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人が有り余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです

(ルカの福音書 12:15) 

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙 4:28)

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。

(テサロニケ人への手紙 4:11〜12)

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に鎮める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

(テモテへの手紙第一 6:6〜10) 

 

 聖書は、明らかに「金が目的」となる人生を否定している。ルカの福音書16章14節で、パリサイ人たちを「金を愛するパリサイ人」と揶揄している事実からも、それは明らかだろう。もちろん、「金」がなければ、この社会で生きていくのは難しい。教会だって運営できない。聖書だって買えない。このブログの執筆も不可能だ。人間が生きていくのに「金」は必要だが、それは手段であって、目的ではないと、まずは覚えておく必要があるだろう。

 

 

▼ギャンブルをする目的と中毒性

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 先に挙げた聖書の基本的な価値観を抑えた上で、「なぜギャンブルをするのか?」という点を考えたいと思う。どのギャンブルも、基本的には何かに「お金を賭けて」、その結果次第でそれに応じた「お金」がもらえる、という仕組みだ。賭けたお金以上の返金があれば、利益(勝利)となる。短絡的に見れば、「お金」がギャンブルの目的となっていると考えてもいいかもしれない。しかし、それ以上の目的・理由があるのは明白だろう。

 多くの人は、ギャンブルで一度勝つと、その経験を忘れられない。一度ギャンブルで勝つ経験をすると、その時の興奮が強烈に記憶に残る。その記憶があまりにも強烈なので、その後に負けて損をしても、「まだ取り返せる」「取り返さなくては」という気持ちになってしまう。例え、単発で勝ったとしても、トータルで見ると大損をしているのに、やめられないのである。これが、「依存症」である。

 厚生労働省の2013年の調査(もはや信用できないが・・・)によると、日本人の成人の4.8%がギャンブル依存症だという。これは、アメリカ(1.5%)や韓国(0.8%)などと比べても、極端に高い数字といえる。日本には、先に挙げた競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ、スポーツ振興くじといった「公営ギャンブル」と、明らかに違法なのになぜか許されている、パチンコ、スロットといった「私営ギャンブル」があり、それらがハマる原因となっているのは間違いない。

 依存症は、意志の強さや弱さに関係なく、誰でもなりうる。そして、依存症は意志の強さや弱さに関係なく、抜け出すのがとてもむずかしい。さらに依存症は、人の生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのもの、全てをぶち壊してしまう危険性がある。

 依存症は、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症から、人に対する依存、役割に対する依存など、その種類も様々である。ここで、「依存症は良くないのか」という議論をするつもりはない。クリスチャンであるなしに関わらず、依存症は絶対に良くないというのは、当たり前の話だ。私の友人がある時こう言っていた。「世界中で健康的な依存症はただひとつ。イエス依存症だ」と。

 そう。依存症の何が問題か。それは生活、経済、人間関係、社会的地位、価値観、人格、命そのものを台無しにしてしまうから・・・だけではない。依存症の一番の問題は、何よりも大切なイエスの姿が見えなくなってしまうところにある。クリスチャンの人生は、常に自分の中心にイエスを迎え入れる人生である。常にイエスを見続ける人生である。常にイエスを思い続ける人生である。それを阻害するものは、何だって良くはないだろう。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを自覚していないのですか。

(コリント人への手紙第二 13:5)

 

 

 

▼結局、ギャンブルはいいの? ダメなの?

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 話が少し逸れた。結局、クリスチャンはギャンブルをしていいのだろうか。聖書に明確な記述はないが、私の個人的な意見を述べたい。

 まず、先に挙げたが、以下の前提がある。

・聖書は、ギャンブルについて直接的に語っていない。

聖書は、「お金が目的」となる人生を否定している。

・お金は目的はなく、手段である。

・ギャンブルの一義的な目的は、「お金」である。

・しかし、依存症になると、お金以上にギャンブルそのものが目的化する。

・依存症になると、人生をぶち壊す。

依存症から抜け出すのは、その人の意志の強さに関わらず、非常に難しい。

依存症の一番の問題は、イエスが人生の中心でなくなること。

 

 以上の前提から、冷静に考えて、「ギャンブルはやらない方がいい」と私は考える。至極当たり前のことだが・・・。これは、決して「依存症にならなきゃいいよ」という生易しいものではない。なぜか。依存症になるかならないかは、意志の強さではコントロールできないからだ。依存症に苦しむ人々は、最初から依存症になるとは思っていない。「自分は大丈夫」「ちょっとだけだから」「のめり込みはしないから」と考え、手を出したら最後、抜け出せなくなってしまうのである。

 そもそも、「公営ギャンブル」や「私営ギャンブル」は、興行として成り立つから存在している。つまり、ほとんどの人が損をするから、ビジネスとして成り立っているのである。例えばパチンコ市場は、1990年代には30兆円もあったと言われている。それだけの人がパチンコに依存し、パチンコ屋の利益の元となってしまっているのである。はじめから損をする確率が高いものを、オススメするわけがない。

 しかし、「ギャンブルは罪」と考えると、多少行き過ぎである。何度もこのブログにも書いたが、信仰は人を縛るものではなく、解放するものである。何をしていい、何をしちゃダメといった「宗教」ではなく、ただイエスによって自由になるというのが、イエスに対する信仰である。

 私の個人的意見は、ギャンブルは基本やらない方が良い。例外はある。例えば馬が大好きで、お金ではなくレースそのものに魅力を感じているというのなら、別に楽しんでもいいのではないかと、私は考える。しかし、ギャンブルは、ゲーム性とギャンブル性のどちらに魅力を感じていようと、先に挙げたように依存症になる確率が非常に高いので、オススメはしない。また、日本では賭博行為は基本的には禁止なので、法律を守るというのも、基本中の基本である。個人的な賭け事、例えば賭け麻雀などは、完全な違法行為である。

 結局のところ、クリスチャンがどういう態度を取るべきかは、以下の聖書の言葉に要約できる。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

(ローマ人への手紙 14:22〜23)

 

 もしあなたがギャンブルに興じることに罪悪感を覚えるなら、絶対にやめた方がいいだろう。

 

 

▼投資はどうなのか?(株、FX、仮想通貨、その他の投資)

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 さて、多少具体的な話題に入る。ギャンブルが危険な行為なら、投資はどうなのだろうか。近年は、不動産や株取引に始まり、FXや仮想通貨など、様々な投資の方法がある。クリスチャンは、これらに手を出してはいけないのだろうか・・・?

 まず、「ギャンブル」と「投資」は根本的に違うという点を抑えておきたい。「ギャンブル」は先に挙げたように、経営側が経営できうるシステムになっている。つまり、圧倒的に負ける確率が高いのである。長くやればやるほど、トータルで見れば損をするシステムになっているのがギャンブルだ。しかし、「投資」はその限りではない。様々な情報をもとに、自分の判断で、自分のシステムで投資をするのである。負けが前提でないという点で、「投資」は「ギャンブル」と全く違う行為といえる。

 「投資」だって先行きが分からないのだから、ギャンブルじゃないかという指摘もあろう。「投資もお金が目的じゃないか」という意見もあろう。その通り。しかし、それを言ってしまえば、人はみな先のことは分からないのだから、人生そのものがギャンブルになってしまう。また、この世の経済活動だって全てお金が目的ということになってしまう。

 プロテスタントが起こるまでは、乱暴に言えば、自由な経済活動も罪とされていた。しかし、カルバン派を中心に、プロテスタントでは自由な経済活動は是とされた。マックス・ウェーバーが「資本主義はキリスト教から生まれた」という趣旨の主張をしたのは、有名である。先に言ったように、「お金は目的ではなく手段であり、お金は社会で生きていくのに必要なもの」である。だから、私はクリスチャンは「投資」をしても良いと思う。それが自分の生き方ならば、どんどんやったらいいのではないか。

 先に触れたが、エスも積極的に投資した召使いを褒めたというたとえ話をしたのである(ルカの福音書19章参照)。これは、自分に与えられた才能をどう活かすか、神の福音をどう用いるかという視点で語られた寓話だ。私たちは、今与えられた人生を、どう「投資」して神のために生きるのか。目の前の一人の人に生きるのか、よく考えたらいいのではないだろうか。

 

 

公営ギャンブルの場合(競馬、競輪、競艇オートレース、宝くじ) 

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 公営ギャンブルの中でも、特に競馬、競輪、競艇オートレースについて議論したい。日本の公営ギャンブルは、それぞれが独自の論理をもって「合法」とされている。 

・競馬:元々は軍馬育成のため。今は畜産振興のため。農林水産省の管轄。

・競輪:自転車競技産業の発展のため。経済産業省の管轄。

競艇船舶の発展のため。また利益は、日本財団の福祉事業に使用される福祉のため。国土交通省の管轄。

オートレース産業発展のため。経済産業省の管轄。

 

 公営ギャンブルは、それぞれが、地方自治体や産業の発展、そして福祉のためという名目で運営されている。確かに、例えば福祉事業を行う日本財団の資金元は競艇である。人々が競艇で使ったお金が福祉事業に使われているのである。みなさんも、町中を走る日本財団の障害者施設の送迎車などを見たころがあるだろう。ギャンブルのお金が福祉に回っているとは、少し皮肉ではあるが、うまいシステムを考え出したものだ。だから、そのお金は、ある意味では「良いこと」に使われているのである。

 名目があるとはいえ、ギャンブルには変わりないのだから、競馬、競輪、競艇オートレースにハマるのはオススメしない。しかし、それぞれが産業であり、一種のスポーツである。競馬を見るのが趣味でも、全く問題はないと、私は思う。クリスチャンが競馬を見たり、競輪という「競技」を楽しむのは、何の問題もない。例えば、私は北海道に旅行に行った際、帯広の「ばんえい競馬」を見に行った。ただ見るだけではツマラナイので、200円だけを適当な馬に賭けて楽しんだ。値段が低ければ良いと言うつもりはないが、自分なりの「依存にならない工夫」は必要だろう。私の場合は、完全に観光目的だったので、そもそものモチベーションが違った。

 なり手になるのはどうか。それこそ、問題はないだろう。ジョッキーになりたい、競輪選手になりたい、ボートレーサーになりたいなどの夢は、素晴らしい夢だと思う。クリスチャンのジョッキー、クリスチャンの競艇選手がいても良いではないか。

 自分自身がなり手になるのを、「人をギャンブルに依存させている」という指摘もあるかもしれない。しかし、私の意見では、それは個人の責任の範疇を超えている。そう言い出したら、例えばコンビニ店員をやれば「人の健康を害する」となるのだろうか。ケータイ会社で働けば「スマホ依存を作り出している」となるのだろうか。出版社で働けば、「漫画依存を作り出している」となるのだろうか。私はテレビ局で働いているが、「テレビ依存を作り出している」となるのだろうか。それはサービスをどう使うかの問題であって、そこまで言い出すとキリが無くなる。

 そもそも、なぜサッカー選手が良くて、ジョッキーがダメ、となるのだろうか。同じスポーツなのに、それはオカシイだろう。

 

 では、宝くじはどうか。クリスチャンが宝くじを買うのは良いのだろうか。結論から言えば、「個人のモチベーション次第」である。宝くじも、先に挙げたように、各省庁が運営するものである。

・宝くじ:地方自治体の発展公共事業のため。総務省が管轄。

スポーツ振興くじTOTO):スポーツ振興が目的。文部科学省が管轄。

 

 宝くじやスポーツ振興くじも、そのお金が公共事業などに使われている。その意味では、「良いこと」に使われているのだから、いちいち目くじらを立てる必要もないだろう。しかし、先に何度も挙げたように、その「依存性」には注意すべきである。

 筆者個人は、宝くじが当たると思っていない人間なので、全く魅力を感じたことはない。それよりも、そのお金で何か有益な投資をした方が良いと思うクチだ。しかし、これも各個人の判断なので、クリスチャンがどうすべきかなど議論するまでもないだろう。

 

 

▼パチンコという脱法ギャンブル

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 さて、パチンコやスロットなどの「私営ギャンブル」はどうか。これは、先に挙げた公営ギャンブルとは全く毛色が違う。日本では、先に挙げた公営ギャンブル以外の賭博は一切禁止されている。しかし、パチンコ・スロットはなぜか容認されているのである。

 その理由は、パチンコのセコいシステムにある。パチンコでは、お金を直接的に賭けず、お金と引き換えにもらったパチンコ玉を元手にゲームをする。その玉を打ち込み、玉が減ったり、減ったり、たまに増えたりするのだが、最終的な出玉に応じて、景品がもらえる。しかし、目的はその景品ではない。その景品をパチンコ屋の隣の「引換所」に持っていくと、景品の種類に応じてお金がもらえるのだ。つまり、実質的にはお金を賭けているのに、一回引き換えていることにより、「パチンコ屋はお金じゃなくて、あくまで景品をあげてるだけだから、ギャンブルではない」と主張しているのである。これこそ、ちゃんちゃらおかしい! 普通に賭博やろ?! 普通に犯罪でしょ?! 公営ギャンブルは百歩譲ってOK。しかしパチンコ、お前はダメだ。

 パチンコは明らかな違法行為である。しかし、それを皆が黙認している。なぜか。あまりにもビジネスが大きくなってしまったために、パチンコ業界の利権も大きくなってしまったのだ。そのため、政治で動かそうにも、動かせない事態になってしまっているのである。なんたる体たらく! しかし、パチンコを違法にしようものなら、必ずや利権が働いて、その人は消されてしまうであろう。 

 私は、パチンコは明らかに違法だと思っている。そして、そのバックグラウンドには某国が絡んでいる。これは、皆が知っている明確な事実なのに、誰も言わない「タブー」となってしまっている。日本のパチンコ屋のほとんどが「“外国人”の経営」だと言われている。私が大人になったとき、「ああ、だからあのクラスのあの子のウチはお金持ちだったのか」と納得したものである。みなさんも、心のどこかではそれを知っているのに、それが人種差別になるからと、目を伏せているのではないか? でも犯罪はダメだ。こんな犯罪がまかり通っている日本社会はダメだ。誰かが変えないといけない。私は、小さな声だが、この主張はずっと続けていきたい。

 今までパチンコが、何人の人生を潰してきたことか。パチンコは、「公営ギャンブル」とは違い、名目すらない、ただの屁理屈の上に成り立っているセコい賭博だ。私は、クリスチャンがパチンコを楽しむのは、大変危険だと思う。そのお金は、公共事業や福祉に使われないどころか、ただの会社の利益となっている。もしかすると、北の国にそのお金が流れているかもしれない・・・。パチンコ・スロットに関しては、私は比較的、厳しい対応を取るスタンスである。

 

 

▼おまけ:ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか?

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 最後に、少しセンシティブな話題だ。ギャンブル経営者からの献金はもらっていいのか? という問題である。これは非常に難しい。なぜなら、経済活動のどこで「これOK」「これはダメ」と線引きするのか、明確な基準がないからだ。それゆえ、それぞれの教会や宣教団体、宣教者が各々の基準や信念に従って個別に判断するしかないと思う。

 私個人の意見としては、線引きをするなら「違法行為かどうか」でしたらいいと思う。そうした場合、「公営ギャンブル」はOKだが、パチンコは「違法」だと私は思っているので、パチンコ屋経営者からの献金はお断りするだろう。もし自分のまわりに、クリスチャンになったパチンコ経営者がいたら、足を洗うようオススメするとも思う。

 しかし、世の中にはもっと悪い、信者からお金を搾り取る「カルト的教会」もあるので注意が必要である。人々を洗脳し、お金を巻き上げるカルトほど厄介なものはない。クリスチャンは、コリント人への手紙第一、第二に記述があるパウロのように、献金はしっかりと「脇を締めて」管理すべきである。

 ギャンブルは、簡単に依存性になる危険性がある。しかし、同時にスポーツであり、娯楽でもある。私たちは、自分の心を吟味しながら、これらの娯楽に付き合った方が良い。そして何よりも、イエスを心の中心に迎える人生を歩もうではないか。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンは「占い」をしちゃいけないの?

よく見る「占い」ですが、クリスチャンは見るのもやるのもダメなんでしょうか?

 

 

▼日本人は占いが大好き

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 日本で生活すると、あらゆるところに占いがある。日本人は占いが大好きだ。朝の情報番組では、必ず占いコーナーがある。星座占い。血液型占い。手相占い。神社のおみくじ。姓名判断。タロット占い、などなど・・・。名前の画数まで気にするのは、世界でも珍しい風習ではないだろうか。

 この占いをどの程度信じているかも、人によって様々である。私はクリスチャンの家庭ではなかったのだが、自分からおみくじを引きに行ったことはないし、テレビの星占いを関心を持って見た覚えはない。一方で、占いをある程度本気で信じている人もいる。画数で名前を変えたり、ラッキーアイテムを必ず身につける、という人もいるのではないだろうか。コワモテのお兄ちゃんが意外と、大切にお守りをいつも身につけている、というのも割と「あるある」だろう。

 さて、日本では日常的に身の回りにある「占い」だが、クリスチャンはどう占いと付き合っていくべきなのだろうか。ある人は、絶対関わってはいけないと言うし、そこまで深く考えなくても良いという人もいるだろう。見るのはOK? やるのはOK? それとも、全部ダメ? さて、聖書は占いについて何と書いてあるのか、見ていこう。

 

 

▼イエスへの信仰は、「縛り」ではなく「解放」するもの

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 議論の大前提として覚えておいてもらいたい。基本的に、イエスへの信仰は、誰かを縛るものではなく、解放するものである。信仰は、人を自由にする。それについては以前、別記事を書いたので、詳しくはそちらを参考願いたい。
yeshua.hatenablog.com

 まとめると、クリスチャンに「禁止事項」は基本的にはないのである。だから、この記事の主眼は「クリスチャンは占いやったらダメ」というものではなく、「聖書は占いについて何と語っているか」という点である。

 もちろん、イエスの教えをどのように受け取るかによって、それぞれが判断する生き方の基準はあるだろう。自由だからといって、なんでもしていいわけではない。自由にされたからといって、すぐに人を殺しまくるのはオカシイ。それは誰でも分かる。

 福沢諭吉が英語の「freedom」「自由」「御免(ごめん)」のどちらに訳すかで迷ったというのは有名な話だが、私は「御免」の方が本来の「自由」のニュアンスを的確に捉えていると感じる。神の許可する範囲での自由、といったニュアンスがあるからだ。

 聖書は、人は基本的に自由だが、全てが益となるわけではないと語る。

「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

(コリント人への手紙第一 6:12) 

 

 問題は、どこにその基準を置くかなのだが、その基準を作るのに、大切なのは聖書の価値観を知るという一点に尽きる。では、「占い」について聖書を見ていこう。

 

 

▼聖書は「占い」について何と言っているか

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 「占い」に類する言葉は、意外と多く登場する。以下、まとめてみた。

旧約聖書

「カサム」:占う。動詞。20回登場。

「ケセム」:占い。名詞。11回登場。

「ナハシュ」:まじないをする、占う。動詞。11回登場。

「ナハシュ」:まじない、占い。名詞。2回登場。

「アナン」:占い。卜占(ぼくせん)。動詞。「雲」が語源。「雲」によって天気を予報することから派生した単語。11回登場。

※なお、新改訳聖書第三版では、「カサム・ケセム」を「占い」、「ナハシュ」を「まじない」と区別して訳出しているが、新改訳聖書2017版では「カサム・ケセム」を一部、「占い」に変更している(出エジプト44:5節、15節)。他の箇所では「まじない」のままである。その2節の訳出に、どのような意図があったのか分からないが、原語が違うのだから、やはり従来どおり「まじない」とした方がいいのではと個人的には思う。ちなみに聖書協会共同訳は新改訳三版のような区別となっている。

新約聖書

「プソン」:占い。動詞。1回のみ登場(使徒16:16)

「マントゥオマイ」:予言。動詞。1回のみ登場。(使徒16:16)

 

 聖書に「占い」に類する単語は、合計で57回登場することになる(※もっとあったらご指摘願う)。割と多いなぁという印象だ。つまり、それほど重要ということである。

 他にも、「呪術者」や「霊媒師」などと訳出される単語もあるが、今回は「占い」に限る。さて、占いについて代表的な聖書の言葉を見てみよう。

 
イスラエルへの掟>

まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神が何をなさるかは、時に応じてヤコブに、すなわちイスラエルに告げられる。

民数記23:23)

 この箇所の強調点は、イスラエルと他の民を区別する」という点である。同様の記述は、実に多い(第二列王記17:17、エレミヤ27:9、など)。この時代、占いやまじないは、よくある宗教的な行為だった。神は、他の宗教とイスラエルの神への信仰を明確に区別するために、このような指示をしたのだろう。他の民族は、占いによって未来を知るが、イスラエルには神ご自身が何をするか示すという点が強調されている。

 

イスラエルの祭司たちへの掟>

あなた(イスラエル)の神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなた(イスラエル)は、その異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねてはならない。あなた(イスラエル)のうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者(ぼくしゃ)、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。(中略)あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがたがそうすることを許さない。

申命記 18:9~14)

 これは、占いなどに関する、一番基本的な聖書の言葉である。神は、イスラエルの民、とりわけ預言者や祭司たちに対しては、明確に占いやまじない、霊媒や口寄せを禁止した。神は一貫して、「自分が先に何が起こるか決定するのだ」と強調している。大切なのは、これは当時のイスラエルへの命令であり、外国人である現代の私たちへの直接的な命令ではないという点だ。それを忘れてはならない。ただ、神に聞くという姿勢は参考になる。

 

<偽預言者たちへの非難>

彼ら(偽預言者)はむなしい幻を見、まやかしの占いをして、「主<しゅ>のことば」などと言っている。主が彼らを遣わしたのではないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。あなたがたが見ているのはむなしい幻、あなたがたが語るのはまやかしの占いではないか。「主<しゅ>のことば」などと言っているが、わたし(神)が語っているのではない。

エゼキエル書 13:6~7) 

 これは、他の宗教との対比ではなく、同じイスラエル人たちの中での対比である。神の声を聞いて、そのまま預言していた預言者たちと、自分勝手に預言していた偽預言者たちが、比較対象だ。神は、偽預言者たちの預言を「まやかしの占い」と言い、厳しく非難した。神の声を聞く行為と、それ以外の行為が「占い」とされ対比されているのが、ここのポイントである。

 <まとめ>

・「占い」は「未来を知る」ための宗教的行為だった。

イスラエルにとって「未来を知らせる」のは神ご自身であった。

神は、イスラエルの民に対して、占う行為を明確に禁止している。

・ただし、この命令はイスラエルに対するものであって、外国人に対するものではない。

・ニセの預言をする行為も「占い」と呼ばれ、神に批判された。

神は「私こそが未来に何が起こるか決め、そして知らせる存在なのだ」と強調している。

 

 

▼聖書の代表的な占いエピソード

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 さて、もっと大きなスケールで聖書を見てみたい。占いに関する代表例を3つ挙げよう。占い師バラム。霊媒をしたサウル。そして、エペソの信者たちのリアクションから学びたい。

 

<バラクとバラム>

 旧約聖書で最も有名な占い師は、バラムであろう。簡単に箇条書きで説明する。

1:バラクという王様がいた。バラクイスラエルが勢いづいていているのでビビりまくり、何とかして、イスラエルを滅ぼせないかと、占い師バラムに使者を遣わした。(※なぜこんなややこしい名前を並べたのかと、神に文句を言いたくなるが、オバマ大統領が王様」と覚えれば簡単だ。バラク・オバマだから。オススメの覚え方である)。

 

2:ロバが喋るなど、紆余曲折を経て(※民数記22~24章参照)、占い師バラムは、バラク王のところへ行く。

 

3:占い師バラムは、バラク王にせがまれ、3回イスラエルを呪おうとするが、その度に神からお告げを受け、逆にイスラエルを祝福してしまう。(※実は、先述した民数記23:23の言葉は、直接的にはバラムの言葉だが、これは神が彼に告げた託宣である)

 

4:結果的に、バラム王はイスラエルを呪うことはできなかった。

 

5:占い師バラムは、結局あっさりと殺されてしまった(ヨシュア記13:22)。 

 占い師バラムは、イスラエルを呪おうとしたが、結局のところ出来なかった。そして殺されてしまった。バラムは、その後も聖書の中で「反逆の象徴」として描かれている。まさに不名誉な称号を得てしまったわけだ。

 

<サウル王と霊媒師>

 さて、イスラエルのリーダーの中で、占い・霊媒をした人がいる。それはサウル王である。簡単にまとめてみた(※詳細はサムエル記第一28章を参照)。

1:ペリシテ人(当時、イスラエルの最大の敵)たちが攻めてきた。

 

2:預言者サムエルは既に死んでいた。ほかの祭司たちが預言しようとしても神からの応えがなかった。為す術がないサウル王は、恐れて震えた。

 

3:どうにもならないので、サウル王は霊媒師に頼った。サウルは霊媒師たちを国外追放していたので、ばつが悪く、こっそり変装して出かけた。

 

4:変装したサウルは、霊媒師に預言者サムエルの霊を召喚するよう願う。サムエルの霊は出てきたが、サウルは「神に見捨てられた」という事実を知っただけであった。

 

5:結局、サウル王は、ペリシテ人との戦いで、息子たちもろとも戦死してしまう。その後、王位はダビデに引き継がれたのであった。 

 サウル王が霊媒師たちを国外追放していたことから、占いや霊媒は決して正しい行為と言えなかったと分かる。しかし、預言者サムエル亡き今、サウル王に残された選択肢は霊媒師に頼るというものだけだった。結局、サウルは自分が神に見捨てられたと知っただけで、死んでしまったのであった。この故事は、占いがネガティブに扱われていると同時に、当時の人々が禁止された占いという習慣をやめられなかったという事実も示している。

 

<エペソの信者たち>

 新約聖書の時代の信者たちは、占いにどのような対応をしていたのだろうか。エペソ(今のトルコ)の信者たちについて、以下のような記述がある。

このこと(※使徒パウロのマネをして霊を追い出そうとした人たちが、えらい目にあった)がエペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持ってきて、皆の前に焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。

使徒の働き 19:17~19)

 エペソにいた信者たちは、イエスを信じた。その結果、それまでやっていた宗教的行為を離れ、魔術書を焼き捨てたと記録がある。つまり、イエスを信じた後は、そのような占いに頼らなくなったのである。使徒の働き」は、他にも魔術師エルマ(エリマ)との対決(使徒13章)や、占いをする女の霊を追い出す(使徒16章)などの記述もある。

 

 これら3つのエピソードで分かるのは、「聖書は占いについて否定的なニュアンスで語っている」という事実である。占いはいつも悪者の象徴として描かれ、その人たちの行く末は破滅である。エペソの信者たちは、外国人も含めて、占いや魔術などの行いを捨てた。それは、イエスへの信仰を持つようになったからである。

 

 

▼実はイスラエルの祭司も占いをやっていた?

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  聖書は「占い」について否定的である。しかし、聖書をよく読むと、実はイスラエルの民も、「占いチック」なことをやっていたという衝撃の事実が分かる。それは、祭司の儀式に関わる部分である。

さばきの胸当てにはウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの息子たちのさばきを胸に担う。

出エジプト記 28:30)

 

 ウリムとトンミムというのは、謎も多いのだが、どうやら「YES/NO」を決めるための「くじ」のようなものだったと言われている。ウリムは「光」の意味。トンミムは「完全」を意味する。おそらく、特別な石のようなものを、祭司のポケットに入れて、くじびきのような形にし、「白か黒か」「是か非か」「半か丁か」的な形で、未来を占っていたのではないだろうか。

 前述したサウル王も、預言者サムエルの死後は、祭司のウリムとトンミムで神のお告げを知ろうとしていたようである。

サウルは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても預言者によってもお答えにならなかった。

(サムエル記第一 28:6)

 

 ウリムとトンミムによる「さばき」は、祭司およびレビ人の特権であったようだ(民数記27:21、申命記33:8など)。そして、少なくとも紀元前450年頃、エズラやネヘミヤの時代までは使用されていた方法だと分かる(エズラ2:63、ネヘミヤ7:65)。

 他にも、ユダヤ人たちには「プル」という「くじ」で物事を決める習慣があった。また、先述の使徒の働きの記述からも、当時の人々がまじないや占いを(してはならないと命じられているにも関わらず)し続けていたのは、明白である。

 では、これらの習慣は、現代の私たちが占いをしていい理由になるのだろうか。ポイントは、占いをする動機にある。

 

 

▼そもそも、なぜ占いをするのか?

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 そもそも、なぜ占いをするのだろうか。その理由を考えてみると、スッキリする。占いとは、未来に起こりうることを、事前に知る行為である。なぜ知りたいのだろうか。それは、人間は先に起こることが分からないからである。先に何が起こるか分かれば、悪いことを避けられる。

 要するに、人間、先のことが分からないと不安なのだ。なぜ占いをするのか。その理由は、「不安や恐れ」が根底にあると言っていい。言い換えれば、自分の運命や運勢、行く末を知って安心したいというのが、占いをする最大の理由だろう。ラク王も、サウル王も、不安で不安で仕方がなかった。だから占いをするのだ。

 そう考えるとき、クリスチャンが占いをするという行為は、聖書の価値観とは、少しズレているのではないだろうか。聖書は恐れについてこう言っている。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちに留まっておられます。(中略)愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

ヨハネの手紙第一 4:16~18)

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ人への手紙 8:38~39)

 

 クリスチャンにとって、自分の未来がどうなろうが、死のうがどうしようが、それを恐れる必要はないのである。むしろ、「恐れには罰が伴う」とさえ書いてある。神という存在は、愛そのものだ。その愛が心のうちにあるのであれば、自分の未来を心配する必要はない。ゆえに、エスを心の中で信じるクリスチャンは、占いに頼らなくていいのである。クリスチャンは、自分の未来について、不安になる必要はないのだ。

 これが、クリスチャンの魅力である。クリスチャンになったら、もう未来のことで不安になる必要はない。どんな災難が起ころうと、神の愛から私たちを引き離せはしない。だから、堂々と神・イエスに信頼して人生を謳歌すれば良いのだ。

 

 もう一つ大切なのは、「神の主権」を認識することだ。未来を決めるのは神であり、この世の中のすべてを動かしているのも神である。その「のり」を占いという行為で、超えてはいけない。

 イスラエルの人々の「ウリムとトンミム」に始まる占いチックな行為も、元をただせば、「神の指示を仰ぐため」である。行動はどうあれ、彼らのモチベーションは「神の声を聞く」というものだった。それは自分勝手な「占い」という行為とは、少し毛色が違うのではないだろうか。聖書において、神は一貫して、神が未来を定めると強調している。物事を成すのも神、そしてそれを告げるタイミングや方法を決めるのも神ご自身である。

 

 

▼クリスチャンにとって変わらない未来は?

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 人間は、先に何が起こるか分からない。クリスチャンであっても、預言という特別な能力を神から与えられている場合でない限り、明確な未来は分からない。預言者であっても、その預言は「本当かどうか吟味すべきもの」である(コリント人への手紙第二14章を参照)。本当に未来がどうなるのかは、神のみぞ知るのだ。エス自身でさえも、世の終わりがいつ来るか知らないという記述もあるくらいだ。

 しかし、クリスチャンが確信を持って宣言できる未来がある。それは、イエスがいつの日か、この地上に戻ってくるという希望である。エスは十字架で私たちの罪のために死に、三日目に蘇り、弟子たちに現れ、天に上った。エスは、私たちのために天に場所を用意し、またこの地上に迎えに来て下さる。私たちは終わりのラッパの合図とともに復活する。そしてイエスと会う。エスはその後また帰ってきて王となる。その後、新しい天と地が創造される。私たちは、イエスと永遠を喜ぶ。これがクリスチャンが持っている希望である。これは、信じるだけで与えられる希望である。聖書は、この希望について、様々な形で約束している。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方(イエス)に信頼する者は、だれも失望させられることがない

(ローマ人への手紙 10:9~11)

わたし(イエス)の父(神)の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

ヨハネ福音書 14:2~3)

エスが昇っていかれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ。白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、そうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります

使徒の働き 1:10~11) 

私(パウロ)があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。(中略)死が一人の人(アダム)を通してきたのですから、死者の復活も一人の人(イエス)を通して来るのです。(中略)しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。

(コリント人への手紙第一 15:3~24)

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響とともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主<しゅ=イエス>と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

(テサロニケ人への手紙 4:16~18)

 

 クリスチャンは、このような変わらない希望を持っているのだから、占いに頼る必要は、もとよりないのである。

 

 

▼「占い」との付き合い方

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 さて、以上、聖書の価値観を述べたが、最後に、現実的に日本に満ち溢れる「占い」とどう付き合っていけばいいのか、私なりの考えを述べたいと思う。

 まず、何度も述べたように、クリスチャンは未来を恐れる必要もないし、恐れてはいけない。だから、恐れから未来を知ろうとする「占い」に頼る必要はないし、頼らない方が良い。これは明確である。だから、占いを見たりするのはオススメできない。自分からタロット占いをやったり、星座占いを他の人を対象にクリスチャンがやってあげたりっていうのは、もっとオススメしない。 

 クリスチャンの中には、「預言」の賜物(≒神からの才能)を持っている人がいる。この「預言」については、いつか記事を書きたいと思っているが、これはノストラダムスの「予言」とは違い、神の言葉や思いを取り次ぐ、「預言」である。だから、「言葉を預かる」と書く。これは、少々デリケートな話題なので、深入りは避けるが、巷には「●●カフェ」とかのたまって、この預言を占いチックなものにしてしまっている不届き者もいるようだ。懸命な読者は、そのようなキリスト教ビジネスに騙されぬよう、気をつけるようオススメしたい。

 

 占いは避けたほうが賢明だが、人間関係上、避けられないケースもある。例えば、一緒に神社でおみくじを引こうと誘われた場合などである。おみくじは、信じない人にとってはただの紙切れなので、霊的な効果は全くない。ただ友達と「大吉だった」「凶だった」と言って、楽しみたいというのだけが理由であれば、全く問題ないだろう。私だったらやらないと思うが。

 テレビの占いなんて、インチキもいいところだ。以前「日付を間違えて放送してしまいました」などと訂正放送をやっていたのも見たことがある。有名な脚本家の三谷幸喜さんは、売れない放送作家だった時代に占いコーナーを担当したそうだが、その際、毎日、広辞苑の適当なページをひらいて、そこに書いてあったものをラッキーアイテムに指定していた・・・なんていう馬鹿みたいな話もある。

 つまり、テレビの占いや血液型占い、星座占いなんていうものは、もとよりほとんどの人が本気で信じていない、ただのお楽しみクイズなのだから、別に気にする必要はないだろうというのが、私の意見だ。しかし、占いや魔術、オカルト系のものというのは厄介なもので、一度のめり込むと、どんどん深みにハマってしまう魔力がある。だから、私のオススメとしては、そういう類のものからは、一歩距離を置いた方が良い。何にしても「心の動機」が一番である。

 占いなどというもので、いちいち心が盛り上がったり、沈んだりしていたら、人生ツマラナイ。変わらない神に希望を置く人生の方が、1億倍楽しいと、私は思う。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエス9】「愛は人間関係から生まれる」鈴木百合香@障害者施設支援員

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、

「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第9弾は、鈴木百合香さん!

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【Profile】

名前:鈴木百合香(Yurika Suzuki)

生まれ:1993年

出身:神奈川県横浜市

学歴:国際基督教大学ICU)卒業

職業:障害者施設支援員                                                                    

 

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain ゆりかめっちゃ久しぶりだね。6年ぶりとか? 

f:id:jios100:20190212224349j:plain 覚えてないぐらい昔だね(笑)  

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今はどんな仕事をしているの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 今は、知的障害者の方の施設で働いているよ。障害者施設の支援員というのかな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain そうなんだ。具体的にはどんなことをするの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 1年目はグループホーム世話人という立場で、掃除、洗濯、料理といった、利用者さんの生活を支える仕事をしていたよ。一言で言えば、「お母さん」になるみたいな仕事かな。そこの施設には6人ぐらいの障害者の方が住んでいて、おかえりなさいから、いってらっしゃいが私の仕事。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! お母さんみたいって、分かりやすい。今は違うの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 2年目からは、もっと大規模な「通所施設」(ホームではなく、通いの施設)に異動になって、今は60人ぐらいの利用者さんを職員20人で支援しているっていう感じかな。健康チェックとか、ウォーキングをしたり、ダンスやレク。班に分かれて作業もするから、私は今キャンドル班でろうそく職人してるよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain ほ~~。似たような施設に会社の研修で行ったことあるなぁ。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうなの? どうだった?

f:id:jios100:20180905032057j:plain ぶっちゃけ、めっちゃ大変そう・・・

f:id:jios100:20190212224349j:plain 確かに最初は本当に大変だったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 資格とか必要なの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、特にないよ。ただ、社会福祉士」や「介護福祉士の資格があると就職は有利かも。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして目指したかとか、いっぱい聞きたいことあるので、ゆっくり聞かせてください!

 

 

▼失敗からイエスとの出会い

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↑高校3年の時のキャンプ

f:id:jios100:20180905032057j:plain ゆりかはどうやってイエスを信じたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 私の母方の家族は、ひいおじいちゃんも牧師、おじいちゃんも牧師といった感じで、クリスチャンの家庭だったんだよね。私で5代目。私の父親はクリスチャンではないんだけど、小さい頃から教会は両親と妹と一緒に通っていたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあ物心ついたときから信じていた感じ?

f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、ちょっと違うかな。最初は聖書の話はストーリーのようなものとして捉えていた感じ。心から信じたのは高校になってから。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやって信じたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 高校1年の時に生徒会に入ったんだけど、そこで、とあるミスをしちゃって。今思うと大したことないんだけどね。提出物を出す期限を間違えてたみたいな。だけどその時はめちゃめちゃショックで。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かに、当時はそれが全てだもんね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうなの。その時に、「ああ、今まで自分は自分の力で生きていたんだ」って気が付かされたんだよね。それで、泣きながら聖書を読んだら、「主はあなたの羊飼い」詩篇23:1)っていう言葉が出てきて。ああ、神様は私を導いてくださっている方なんだって気がついた。それで今までただの物語だった聖書が、リアルに自分の生活に関わるものになったかな。それで信じた。信じてすぐにバプテスマを受けたよ。 

f:id:jios100:20180905032057j:plain それが16歳のとき。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうだね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 失敗という経験を通して、神様が語りかけてくれたんだね。

 

 

▼貧困国の支援者を目指していたが・・・ 

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↑大学時代の友人と

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで、今のような仕事はその頃から目指していたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、全然(笑) 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 全然かーい!

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう。実は、興味があったのは貧困国の支援。小学校の頃から、友達に呼びかけて、自主的に募金活動のためのフリーマーケットをひらいたりもしたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 小学校からその行動力、すごいね!

f:id:jios100:20190212224349j:plain 水が飲めない人がいるとか、食べ物がなくて死んでいる人がいるっていうのを聞いて、自分も何かできないかなと思っていたんだよね。それで考えたのがフリーマーケット。少額だったけど、自分ができる小さなことで、世界の人を助けられるという感覚がすごく嬉しくて。小学校の作文でも「将来はユニセフで働きたい」って書いたりしてたな。ユニセフしか知らなかったからなんだけどね笑

f:id:jios100:20180905032057j:plain なるほど。弱い人を助けたいという思いがあったんだね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうだと思う。それで、ICU国際基督教大学を目指したよ。ICUは、平和研究や開発研究も盛んだし、国際関係学のコースもある。幅広く学べるし、この大学いいなぁって思ったんだよね。

f:id:jios100:20190212225130j:plain

↑大学時代のサークル仲間と

f:id:jios100:20180905032057j:plain だけど、結果的にはそっちの道には進まなかった?

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう。大学に入ったら衝撃で。それまでは、「自分はクリスチャンだから、貧困の問題に立ち向かいたいと思うんだ」と思っていたんだけど、全く違った。大学には、クリスチャンじゃなくても、世界の貧困や社会問題に立ち向かいたいと思っている人が大勢いたんだよね。当たり前だけど(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain そりゃそうだ(笑)

f:id:jios100:20190212224349j:plain それに気がついた時に、自分がしたいのは貧困問題を仕事にすることじゃないって思ったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain というと?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 例えば、ユニセフに入っても、大きな歯車の一部にしかならない。自分が支援したいのは、目の前で泣いている人なのに、組織に入ると、どうしても現場の人たちに支援が行き届くまで、時間がかかってしまうんだよね。それに気がついた。目の前の1人を支援したいのが、私の思いだったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ナルホド。例えば、貧しい人たちを支援したくて団体に入っても、経理部に配属されたら、日々向き合うのは人間じゃなくてエクセルになっちゃうもんね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain その通り。もちろん、組織としてはその仕事もすごく大切なんだけど、私としてはもっとダイレクトに神様の愛、「福音」を伝えるスタイルがいいなと思ったんだよね。単純に社会的な支援をするよりも、福音を伝える方がいいなと。それが大学1年目ぐらい。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 大学時代って人生の方向性を定めるいい時間だよね。

 

 

▼内定をもらったが・・・

f:id:jios100:20190212225221j:plain

↑旅行したイスラエルで神の導きを求めた。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それからどうやって今の仕事につながったの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 実は、今の仕事はやりたくて始めたわけじゃないんだよね。本音では海外宣教師になりたいと思っていて。ICUは卒業後、海外に行く人も多かったから、自然と海外に行きたいなという思いが強くなっていった。イスラエルの大学に留学するっていうのも真剣に考えていたんだけどね。でも、親に相談したら、親はまず日本の社会で働いた方がいいっていう意見だった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それで就活をすることにしたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうなんだよね。でも本心では海外に行きたい! って思いが強かったから、乗り気にならなくて。実はほとんど受けなかった。ほとんど一本釣りで、「日本郵政」に内定をもらったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ! すごいね。興味あったの? 郵便局。

f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、正直、土日しっかり休めて福利厚生がちゃんとしてる・・・って考えて決めた感じ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain すげーな。狙い撃ちだね。面接ではどんなこと話していたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 正直、面接はすごく楽しくて、自分の人生を単純に語っていた感じ。最後の面接では、「どうしてそういう考えになったんですか?」と聞かれて、よっしゃ! 福音伝えるチャンス! って思ったよ(笑)

f:id:jios100:20180905032057j:plain へぇ・・・で、すごく気になるんだけど、内定もらっていたのに、どうして今その仕事じゃないの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain うん。実は、10月1日の「内定式」に行かなかったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain え!!!

f:id:jios100:20190212224349j:plain 当日の朝までは、行くつもりだった。本当に。でも、朝、聖書を読んだら、「キリストは、その口に何の偽りも見出されなかった」(1ペテロ2:22)と書いてあったんだよね。つまり、イエス・キリストは嘘はつかなかったということ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain うんうん。

f:id:jios100:20190212224349j:plain 内定式に行くってことは、「私は4月からこの会社で働きます」って言うことじゃない? 

 f:id:jios100:20180905032057j:plain まあ、そうなるね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう考えた時に、「本音では海外に行きたいのに、この会社で働きたいっていうのは嘘じゃん!」っていうのに気がついてしまって。それで、どうしても行けなくなってしまった。そこで、会社に電話をして、「海外留学したいから内定を辞退します」って伝えたんだ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えーー! 別に内定持ったまま進路決まってから断ればいいのに。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そうなんだけど、どうしても自分の中で納得がいかなくて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 10月1日はどうしていたの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain これから先どうしていこうかっていうことを、ずっと祈っていた。もちろん、神様が一番良いところに導いてくれるとは思っていたけど、自分がやりたいことは明確にならなくて。本音では、宣教師になったり、とにかく外国に行きたいと思っていたんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain でも、そうしなかった。

f:id:jios100:20190212224349j:plain うん。それには理由があってね・・・

 

 

▼ギリギリに決まった就職

f:id:jios100:20190212225423j:plain 

↑大切な家族と

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうして海外に行く道を選ばなかったの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 宣教師になりたいと両親に相談したときに、あまり色良い返事がもらえなかったんだよね。特に父親は日本で普通に就職してほしいと思っているようだった。父親はクリスチャンではないのだけど、家族の中に牧師や宣教師になった人が多くて、そういう人たちの苦労を見てきたから、自分の娘はそうなってほしくなかったみたい。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 確かにまわりに苦労している人がいたら、娘にはその道に行ってほしくないとは思うよね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain だけど、最初は私も自分のやりたいことを主張したんだよね。だってそのために内定も蹴ったんだし。だけど、父親はそれを受け入れてくれなくて、だんだんと親子関係がこじれてきちゃってね。最後は本当に冷戦状態だった。このままの状態で、もし仮に無理やり海外に出ていったら、もう家に帰ってこれないような気がしたんだよね。だから、その状態から早く抜け出したいっていうのが正直なところだった。

f:id:jios100:20180905032057j:plain どうやって今の就職先に決まったの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain ぶっちゃけ言うと、紹介。3月29日に決まって、4月1日に働き始めたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain うわ、急転直下。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう。最後に就職が決まった時は、正直言って悲しかった。自分は海外に行きたいと思っていたのに、結局地元でやりたかったわけでもない仕事をすることになったからね。最終面接の日も泣いてた。だけど、その時に教会に行ってピアノを引いて賛美の歌を歌っていたら、新しい曲がスラスラっと出てきて。心が落ち着いた。その時できた曲には、後で「大切なあなた」ってタイトルをつけたよ。

 

 

▼キラキラ海外から雑巾の世界へ

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↑教会では賛美の歌のレコーディングもしている。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 仕事を始めた後はどうだった?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 正直、本当に大変だった。それまで、ICUでパソコンをパチパチやって、海外に行くぞというキラキラした世界から、一転、真逆の世界。一番使う道具は雑巾だし。暗くて狭いグループホームでひとりぼっち。利用者さんが失禁したのを掃除しなきゃいけないし、匂いとかもすごい。そんな世界で働かなきゃいけなくて、とても楽とはいえない世界だったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ひえ~。想像を絶するね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain それでも、3ヶ月ぐらいすると、慣れてきて、6人の利用者さんの世話人という立場で働けるようになってきた。利用者さんたちも、今まであまり接してきたことのない人たちだった。施設に入れるような人だから、ある程度お金を持っている人が多いのだけどね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain よく考えてみたらそうだね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain 着ている服がイヴ・サンローランとか高級なものなんだけど、それを失禁したマットを洗っている洗濯機に一緒に入れたりするんだよね。自分としては衝撃だった。世の中の価値観に生きていない彼らの姿に衝撃を受けて、学ぶことも多かったよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain じゃあしばらくしたら慣れてきたんだ。

f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、実は1年目の夏から、少し大変なことがあってね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 何があったの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain グループホームでは、スタッフが私1人の時間が多かったんだけど、利用者さんの方が私に対して、ひどい他害行為するようになってしまって。こういう施設では珍しくないことなんだけど、毎日殴る、蹴る、つばをかけるみたいな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain えええ?!

f:id:jios100:20190212224349j:plain 毎日、20ヶ所以上のあざを作って帰っていた時もあった。でも、1年目でこれが特別ひどいということは分からなくて、相談もできなくて苦しかった。だんだんと、施設の方でもサポートしてくれるようになったけど、その1年間は辛かったな。でも、その中で、イエスさまの愛を思い出したんだよね。それまでは自分はどんな人でも愛せると思っていた。だけど、人生で初めて「愛せない」ということを体験したんだよね。だけど、イエスさまは私たちのために死んでまで愛してくれた。改めてイエスさまの愛の大きさを感じたよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いや・・・ちょっとコメントできないくらい大変でしょ・・・その中でもイエスさまの姿を見失わなかったのは本当に幸いだね。

 

 

▼聖書のメッセージを語る機会が与えられ

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↑職場で利用者の方々と作っているキャンドル

f:id:jios100:20180905032057j:plain その状況から脱出できたの?

 f:id:jios100:20190212224349j:plain いや、実はその状況は続いたんだよね。2年目の4月にもっと大きな施設に異動になって、それで助かったという感じ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 良かったねぇ。

f:id:jios100:20190212224349j:plain 2年目の4月からは、今の60人ぐらいの通所施設で働くようになったんだよね。キリスト教の施設なので、月曜日と金曜日は、利用者さん全員で礼拝の会を開いているんだ。そこで、聖書の話を職員全員の持ち回りですることになって。そこで初めて、福音を大胆に60人の利用者さんと20人の職員の前で語れるようになったんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain おお。直接語れる機会は嬉しいね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう。最初にできたときは本当に嬉しかった。1年間は闇の時代だったけど、ずっと地道に耐えてきて、ようやくチャンスが与えられた感じ。ずっと祈ってきたから、すごくやる気になった。「私はすべてのことを、福音のためにしています」(コリント人への手紙第一 9:23)という、聖書の言葉が心に響いていたよ。毎日の積み重ねが、この結果に繋がったと思った。普通の企業じゃこういう直接福音を語るっていうのは難しいけど、キリスト教の施設だからこそできることかなぁと思うよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 耐えて、耐えてきたからこそ、与えられたチャンスだね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain それだけじゃなく、私に対して他害行為が出ていた方が、その1年後にバプテスマを受けることになってね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain ええっ、そうなの?

f:id:jios100:20190212224349j:plain そう。神様は全てを変えて益としてくださるというのを、目の前で見せられた形だよ。

f:id:jios100:20180905032057j:plain いやぁ、神様のやることはいつも面白いね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain この仕事をして分かったのは、どんな人でも一緒に過ごして、月日を重ねるたびに人間関係ができてくるってことなんだよね。最初は、利用者さんのマイナスな面ばかり見えてしまうんだけど、だんだんと関わることによって、信頼関係が生まれるんだよね。そうすると、だんだん、利用者さんの意味の分からないこだわりさえも、その人自身の個性だと思えてきて、愛おしくなるんだよね。それが愛が生まれる瞬間。愛せない人を愛せるようになると体験できた瞬間だったよ。

 

 

▼置かれた立場で福音を伝えたい

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f:id:jios100:20180905032057j:plain クリスチャンだから今の仕事で他の人と違うなと思うことはある?

f:id:jios100:20190212224349j:plain エスさまの名前で祝福できるところかな。利用者さんが、神様につくられた者だとして価値ある者だと思えるところ。イエスさまが死んだほどの価値がある者だもんね。あと、利用者さんが病気や怪我をしたら、イエスさまの名前で祈れることは特権かな。でも、これは本当にそうなんだけど、彼らをサポートしているはずなのに、気がついたらいつも彼らから愛をもらっていることが多いんだよね。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それは僕も震災のボランティアとかで感じたなぁ。助けに行っているはずなのに、逆に助けられるという。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 今後のビジョンは? 

f:id:jios100:20190212224349j:plain 大きいビジョンとしては、全世界に福音が伝わることが一番の願い。その中で、自分に任されたことをやていきたいな。形にとらわれず。

f:id:jios100:20180905032057j:plain まだ海外に行きたいという気持ちはある?

f:id:jios100:20190212224349j:plain うん。イスラエルへの留学も考えているけど、まだちょっと具体的にはなっていないかな。神様の導きを求めて祈って、待っている段階。でも、立場とか、どこにいるとか、あんまり重要じゃない気がしてきていて。

f:id:jios100:20180905032057j:plain というと?

f:id:jios100:20190212224349j:plain 毎日ちゃんと仕事をして、その中で人間関係、信頼関係を作っていく。今置かれた立場で、神様のことを語って、福音を伝えていくというのが、大切じゃないかなって思うんだよね。外からゲストで来た人が何を言っても、結局は「外の人」。だけど、いつも一緒にいる「中の人」が真剣に信じている神様の姿を伝えるのが大事だなと思ったな。

f:id:jios100:20180905032057j:plain それすごく共感するな。「牧師」とか「宣教師」とか、立場にとらわれず、いつでもどこでも、何しててもそれが福音を伝える働きになったらいいよね。

f:id:jios100:20190212224349j:plain 福音を伝えることが生きがいでしょう。そうしてなかったら生きてる意味なくない?!

f:id:jios100:20180905032057j:plain パウロみてぇだな。

 

f:id:jios100:20180905032057j:plain 最後に、いつも心にとめている聖書の言葉を。

f:id:jios100:20190212224349j:plain この言葉かな。

しかし、私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ人への手紙 8:37~39)

 f:id:jios100:20190212224349j:plain どんなことがあっても、神様の愛から離されることはない。身をもって体験しました。

f:id:jios100:20180905032057j:plain 自分が思い描いた将来じゃなくても、神様の愛は離れない!

f:id:jios100:20190212224349j:plain 肩書きより、神様の愛から離れない生き方が大事。神様と共に歩む方がずっと価値がある。

f:id:jios100:20180905032057j:plain その通りだね。神様を見続けて歩んでいってください!

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】洗礼を受けないと「聖餐式」<せいさんしき>に参加できないのか?!

 

教会では、パンを裂き、ぶどう酒を飲む「聖餐式」<せいさんしき>を行います。これを受ける権利、司式する権利は誰にあるのでしょうか?

 

 

▼「聖餐式」を行えるのは牧師だけ?

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 クリスチャンたちが行う儀式の一つに、聖餐式<せいさんしき>と呼ぶものがある。詳しくは後述するが、パンを食べ、ぶどう酒を飲み、イエスの犠牲を覚えるための儀式である。これは、イエスが直々に弟子たちに「わたしを覚えて行え」(ルカ22:19)と言ったもので、有名な「最後の晩餐」はそれを命じたシーンである。

 ある時、私はあるクリスチャンの友人に、パンとワインを買ってきて、「聖餐式」をやろうと提案した。友人は、パンとワインを差し出した私を見て、バツが悪そうに言った。「それを食べるわけにはいきません。うちの教団では、『聖餐式』は牧師が司式をしなければ、やってはいけない決まりなんです」。驚いた。イエスの命令を、牧師だけの特権として、制限しているのである。もったいぶるのも馬鹿らしいので言うが、そんな記述は聖書のどこにもない。私は唖然として言った。「それじゃあ、ただの宗教じゃないか」。

 聖餐式」を行うのは、牧師だけの特権ではない。「聖餐式」は、イエスが信じる人たちに「わたしを覚えて行え」と命じた、大切なものである。クリスチャンの中には、「バプテスマ(洗礼)を受けていないと聖餐式に参加してはいけない」と主張する人たちもいる。聖書のどこにそう書いてあるのだろうか。

 「聖餐式」を行う資格、参加する資格は、一体誰にあるのだろうか。そもそも、「聖餐式」にはどんな意味があるのだろうか。今回は、このクリスチャンの摩訶不思議な儀式について書こうと思う。

 

 

▼そもそも「聖餐式」って何?

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 聖餐式」とは何なのか。まずは、現代の教会で、聖餐式をどのように行うのか解説する。たいていの場合は、小さく小分けにしたパンとぶどうジュースを、信者たちの間に配る。そして、「これがイエスのからだと血の象徴です」と言いながら、一斉に食べる。この儀式は、定期的に行う。教会によっても違うが、年に3回イースターなどに合わせてだったり、毎月1回だったり、多いところは毎週行ったりする教会もある。

 これは、イエスが直接命じたもので、全ての福音書に記述がある。例えば、ルカの福音書にある記述は以下のようなものだ。

それから(イエスは)パンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」

(ルカの福音書 22:19~22)

 

 この儀式で、パンを食べ、ワインを飲むから、罪が赦される・・・とかそういうわけではない。この儀式は、あくまでも、「イエスの十字架の犠牲」を思い出すためのものである。「わたしを覚えて、これを行いなさい」と命じている通り、「イエスを思い出す」というのがこの儀式の一番の目的であり、テーマである。

 しかし、現代の教会では、この「聖餐式」が異常なほど、「聖なる儀式」として扱われている感じがある。例えば、司式は牧師しかしてはいけないとか。バプテスマを受けていなければパンを食べてはいけないとか。教会のメンバーにならなければ参加してはいけないとか・・・多岐にわたる決まりがあるのだ。

 中には、バプテスマ聖餐式の2つを「聖礼典」(せいれいてん)という仰々しい名前までつけて、特別視している教会もある。果たして、この決まりや認識は、聖書の記述から来るものなのだろうか。それとも、ただの文化なのだろうか。聖書を調べてみよう。

 

 

▼元々は「過ぎ越しの食事」だった!

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↑「最後の晩餐」は「過ぎ越しの食事」のシーンである。ただ、当時はこのようなテーブルではなく、床に寝そべって食べていたと言われている。そもそも、こんなテーブルで全員が同じ方向を向いて食べるはずがない。「あたしンち」じゃあるまい。

 まずは根本を見ていきたいと思う。聖餐式」の元々のルーツは、ユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」というお祭りである。「過ぎ越しの祭り」とは、紀元前、めっちゃ昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷だった頃の話に遡る。

 神は10の災い(奇跡)を用いて、イスラエルの民をエジプトから脱出させた。「エジプトの10の災い(奇跡)」と言えば、ご存知の方もいるかもしれない。ナイル川が血に変わったり、疫病で家畜が死にまくったり、いなごが大量発生して作物が全滅したり・・・そりゃもうひどい災害がエジプトを襲った。かなり省くが、特に最後の「長子が全員死ぬ」という災いが決め手となり、イスラエルの民はエジプトを脱出することができた。それを記念するのが「過ぎ越しの祭り」である。

 脱出の後、神はイスラエルの民に、この事実を忘れないよう、お祭りとして覚えよと命じた。最後の災いには、殺されない方法があって、それが「子羊の血を家の門柱に塗る」というものだった。血が塗ってあった家を、天使が「通り過ぎた・過ぎ越した」ので、この祭りは「過ぎ越しの祭り」と呼ばれる。ヘブライ語では「ペサハ」という。

 この「過ぎ越しの祭り・ペサハ」は、紆余曲折がありながら、後の時代も堅く守られ、現代においても続いている。子羊を料理し、イースト菌を入れないパンを焼き、苦い葉などを食べて、ワインを複数杯飲み、この故事を思い出すのである。

 実は、有名な「最後の晩餐」の絵は、この「過ぎ越しの祭り」の食事のシーンを描いたものである。ご丁寧に、きちんと新約聖書福音書には、それが書いてある。先ほどの、ルカの福音書の、少し前の部分を見てみよう。

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒のこの過越しの食事をすることを、切に願っていました。

(ルカの福音書 22:14~15)

 

 そう、エスは、「聖餐式」を命じたのではない。「過ぎ越しの食事」の一部を「わたしを覚えて行え」と命じたのである。新改訳聖書第三版では、イエスの言葉を、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と表現している。「どんなに望んでいたことか」と言うほど、この過ぎ越しの食事は大切だったのである。

 旧約聖書には、様々なイエスの「伏線」がある。「過ぎ越しの祭り」もその「伏線」のひとつである。門柱に塗られた血は、イエスが十字架で流した血を。血のために刺殺された子羊は、イエスの犠牲を。過ぎ越しの食事で食べるイースト菌を入れないパンは、イエスのからだを、それぞれ表している。何と不思議なことに、過ぎ越しの祭りで子羊をいけにえに捧げるその日に、イエスは十字架にかかって死んだのである。そして、その血によって、罪が赦されるのだ。「過ぎ越しの祭り」はイエスの十字架の伏線なのだ。

 まとめると、エスが「わたしを覚えて行え」と言った「聖餐式」の儀式は、元々は「過ぎ越しの食事」なのである。それゆえ、現代の聖餐式は、「過ぎ越しの食事」を簡略化した儀式なのである。聖餐式」についてまとめると以下である。

 

1:「聖餐式」は「過ぎ越しの食事」である。

2:「聖餐式」の目的は「イエスを思い出すため」である。

3:「過ぎ越しの食事」はエスの犠牲の伏線である。

 

 

 

▼本来の「聖餐式」は食事である

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 さらに聖書を読みたいと思う。イエス以後の信者たちは、どのように「聖餐式」を行っていたのだろうか。この食事のシーンは、主に「パンを裂く」という言葉で表す。

彼ら(新たに信者となった人々)はいつも、使徒たちの教えを守り、交わり(交流)を持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(中略)そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。

使徒の働き 2:41~47)

私たち(パウロ一行)は、種なしパンの祭り(≒過ぎ越しの祭り)の後にピリピ(町の名前)から船出した。5日のうちに、トロアスにいる彼らのところに行き、そこで7日間滞在した。週の初めの日(日曜日)に、私たちはパンを裂くために集まった。(中略)そして、また上がっていって、パンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。

使徒の働き 20:6~11) 

 

 これらの記述から分かるように、イエスの後の時代の人々は、旧約聖書にある祭りを、その伏線の意味をふまえながら、忠実に行っていた。しかし、こと「聖餐式」においては、年に1回の「過ぎ越しの祭り」の時だけでなく、「毎日」「週の初めの日」など、集まるたびに食事をしていたことが分かる。

 また、次のような聖書の言葉もある。

しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐(過ぎ越しの食事・聖餐式)を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(中略)ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

(コリント人への手紙第一 11:20~26)

 

 ここを見ればわかるように、この「聖餐式」は、「式」と呼ぶような儀式ではなく、どちらかと言えば「食事会」のようなものだったと考えられる。当時は、「教会」の建物などなく、各々の「家」に集まり、一緒に食事をして、交流していた。その食事会の際に、裕福な人たちが我先にと食べて、飲んで、酔っ払っていて、障害者や未亡人など、貧しく、弱い立場の人々がないがしろにされていた姿を、筆者パウロは指摘し、批判したのであった。

 つまり、「信者たちの交流や、支え合い」や、「イエスを思い出す」という本来の目的ではなく、「食べ物」や「儀式」などに焦点がズレてしまっていたと、パウロは戒めたのである。

 ここから分かるのは、現代の「聖餐式」は決して聖書に基づいた聖なる儀式などではなく、元々の「食事会」が簡略化され、残ってきたただの文化だという事実だ。ゆえに、食事会の司式の権利を限定する根拠など、あるはずもない。牧師しか聖餐式を行ってはいけないなどというのは、根拠のない、全くのデタラメだというのが分かるだろう。むしろ、いたずらに制限をかける行為は、「イエスを思い出す」という本来の目的を、阻害しているのではないだろうか。

 

 ちなみに、多少マニアックな話だが、「食事会・聖餐式」と、概念的なイエスの犠牲を通した赦しによる、「神との関係の構築」は明確に区別されている。前者は「主の晩餐」(キリヤコン・デイブノン)、後者は「主の食卓」(トラペゼース・キリオウ)と表現する。これらは、新約聖書で、明確に区別されて書かれている。

「主の晩餐」:実務的。過ぎ越しの食事。パンとワイン。

「主の食卓」:概念的。イエスの十字架による赦し。イエスそのもの。

 

 「主の晩餐」は、パンとワインをもって「イエスの犠牲を思い出す」という部分に主眼が置かれている。「主の死を告げ知らせる」と書いてある通りである。

 「主の食卓」は、コリント人の手紙第一10章を見れば分かるが、もっと大きなスケールの概念的なものに主眼が置かれている。「イエスの犠牲によって、神と人が関係を持てるようになった」というのが、そのメインポイントである。

私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから(≒皆がともに同じイエスを信じるという意味)。(中略)あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

(コリント人への手紙第一 10:16~21)

 

 

バプテスマを受けていないと「聖餐式」をやっちゃダメ?

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 さて、聖餐式でたびたび問題になるのが、バプテスマ(洗礼)を受けていないと、参加してはいけないのだろうか?」という疑問だ。聖書には何と書いてあるのだろう。その議論で、「いけない派」の人々が根拠とする聖書の言葉は、以下である。少し前に挙げた、コリント人への手紙第一の11章の続きの部分である。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

(コリント人への手紙第一 11:27~29)

 

 なるほど。どうやら、「バプテスマを受けていなければ、聖餐式に参加してはいけない」と主張する人々は、「からだをわきまえる」という部分をとって、「自分の罪をそのままにした状態で、聖餐式のパンを食べたら呪われる」というように考えているようだ。

 これは、この後の部分を読んでいないから起きる、とてもくだらない解釈である。かわいそうに、そのような人々は日本語が読めないために、正しく聖書のメッセージを受け取れないのである。また、たとえその解釈が正しいとしても、罪を取り除くのは「バプテスマ」ではなくて、「イエスの犠牲、イエスの血、そしてそれを信じる心」なのであるから、そもそもの聖書理解が間違っている。哀しいことだ。聖書全体の文脈が理解できない人たちが、間違ったルールを作ってしまったのである。

 続きの部分は、以下である。

あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は(自分の)家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 11:30~34)

 

 お分かりだろうか・・・。ひとつひとつ解説しよう。

 

 まず、最初の部分で言及しているのは、「ふさわしくない『仕方』」についてである。「ふさわしくない『状態』」のことではない。まずこの時点で、「自分の罪をそのままにした状態で」という解釈は間違っていると分かる。

 「ふさわしい『仕方』」とは何か。それは全体を読めば推し量れる。ひとつは、「過ぎ越しの食事」の「やり方」であろう。ユダヤ教の文化では、この「過ぎ越しの食事」について、かなりの細かいルールがあった。食べ物の順番、ワインを飲むタイミングや杯数(伝統的には、4杯~5杯)、食前の祈りの文言や、唱える「詩篇」の言葉などである(伝道的には、詩篇113~114編を朗読する)。

 福音書にある「感謝の祈りをしてから」「賛美の歌を歌ってから」などの記述や、ワインを複数杯飲んだという記述から、イエスたちも、この「仕方」を細かく守っていたことがうかがえる。

 しかし、コリントの共同体の人々は、どうだったか思い出してほしい。

それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。

(コリント人への手紙 11:21~22)

 

 こう書いてあるとおり、「我先にと自分の食事をする」始末だったのである。「ふさわしい仕方」どころの話ではない。貧しい人たちは後回しにされ、食べ物は平等に配られず、酔っぱらいもいたという、まさにカオスな状況だったのである。

 こういう状況で、紀元1世紀の衛生状況で食事をしたらどうなるか。当然、病気が流行するはずである。それによって、「弱い者や病人や、死んだ者がかなりいる」という状況になっていたのである。当たり前だ。アホちゃうか、という状況だったのだ。「千と千尋の神隠し」で、主人公の千尋の両親が、ガツガツ食べ物を食べて、みるみる豚になってしまった姿を想像していただければいいかもしれない。読めば分かるがここには「バプテスマ」の「バ」の字も、「洗礼」の「せ」の字もない。

 それどころか、これは「自分自身を吟味しなさい」という命令である。自分を吟味するのは、自分自身である。教会の組織や、制度や、ルールによって吟味するものではない。ここをどう読んだら「バプテスマを受けていなければ、聖餐式に参加できない」という解釈になるのだろうか。本当によく分からない。たぶん、聖書を読んでいないのだろう。

 

 コリント人への手紙で命じられている内容をまとめると、以下の4点である。

1:自分自身を吟味しなさい。すなわち、自分で自分の心の状態を見極めなさい。

2:ふさわしい「仕方」で食べなさい。すなわち、食事の衛生や秩序を保ちなさい。ユダヤ人なら文化的なやり方を守りなさい。

3:食事をする際は、互いに待ち合わせなさい。すなわち、他者を思いやる心を持ちなさい。

4:待てないほど空腹なら、自宅で食事をしなさい。共同体で「食事・聖餐式」をする目的は、「交流」と「イエスの犠牲を思い出すため」である。「食事」が目的ではない。

 

 もう一度言おう。バプテスマは関係ない。むしろ、教会の共同体として、「イエスは、十字架にかかって、私たち一人ひとりの罪を代わりに背負って、死んだんだ」と思い出すために、バンバン食事を一緒にしたらいいのではないだろうか。その際、大切なのは、思いやりであり、秩序である。バプテスマを受けているかどうかではない。

 

 

▼イエスを信じていない人は「聖餐式」に参加できる?

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 さて、最後に、少しデリケートな話題に入ろうと思う。エスを信じていない人も、「聖餐式」に参加していいのか? という問題だ。

 読者の皆様は、どう感じるだろうか。私の結論は、「別にいいんじゃね?」というものである。理由は以下のイエスの教えである。

聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。(中略)口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。

(マタイの福音書 15:10~20)

 

 「聖餐式」のパンとワインは、別に何も特別なものではない。ただのパンと、ワインかぶどうジュースである。普通にスーパーで売っている、パスコの「超熟」と、ウェルチの100%ぶどうジュースだ。食べても、飲んでも、何の害もない。うんこになるだけだ。そこになにか聖なる力が働いているわけでもあるまい。「罪をきよめる」のは、そのパンでもぶどうジュースでもない。「イエスの犠牲」を信じることによってのみ、罪が赦されるのである。

 そもそも、聖餐式を本気で信じるなら、イースト菌を入れない「マッツァ」と呼ばれるパンを使うべきだ。それなのに、イースト菌入りまくりの食パンを使うなど、言語道断。ワインだって、「ぶどうジュース」に逃げず、本物のワインを使うべきだ。それを、「酒を飲んではいけない」というこれまた聖書に記述のないクソ勝手な決まりを作ったプロテスタント教会が整合性を保つために勝手に「ぶどうジュース」を使ってしまっているのである。「ふさわしい仕方」はどこに行ってしまったのか。

 つまり、「聖餐式」を行っている人たちは、「パン」や「ワイン・ぶどうジュース」に効力はなく、それが象徴する「イエス自身」が大事だと本心では分かっているのである。それならば、未信者であっても、そのどこでも売ってるパンとぶどうジュースを受け取って、イエスを知る機会になった方が、100億倍いいのではないか。制限されたら、嫌な気持ちになると、想像できないのだろうか。それが「愛」なのだろうか。

 まだイエスを信じていない読者は、堂々とパンとぶどうジュースを食べてほしい。しかし、その100倍ぐらい、それならイエスを信じてみようぜ! とオススメしたい。

 

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

(コリント人への手紙 8:8)

 

 

▼おまけ:大きな意味での「からだ」という解釈

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 さて、これはおまけだ。読まなくても良い。

 先程の、「からだをわきまえる」という表現について一言。「からだ」とは、新約聖書では、「教会の共同体」を指す比喩である。「教会の共同体」はよく、「キリストのからだ」と表現される。

 従って、コリント人への手紙の一部を、「教会の共同体」と解釈して読んでみよう。同じ聖書の箇所を同じ翻訳で読んでもツマラナイので、普段と違う翻訳で、先程の聖書の言葉を再掲する。

従って、ふさわしくないしかたで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は、主<しゅ>の体(≒教会の共同体)と血に対して罪を犯すことになります。人は自分を吟味したうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主<しゅ>の体(≒教会の共同体)をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです。

(コリントの信徒への手紙一 11:27~29 聖書協会共同訳)

 

 こう読むと、いかに「過ぎ越しの食事」「食事会」「聖餐式」の秩序が大切かというのがよく分かる。しかし、私は、信じていない人が参加するのを「秩序がおかしくなる」とは思わない。むしろ、聖書に記載のない「バプテスマ受けてなきゃダメ」「牧師いなきゃダメ」といったルールで縛りまくることこそ、最悪ではないか。なぜなら、「イエスを思い出す」という最大の目的を、儀式的なものに矮小化することによって、阻害しているからだ。むしろ、どんどんその意味を宣伝し、イエスの名前を広げることこそ、聖餐式の目的ではないのだろうか。

 また、「バプテスマを受けてなきゃ聖餐式に参加できない」などと言って、参加したい人の気持ちをくじくのも良くない。それは、共同体の中で、果たして本当に愛を示していることになるのだろうか。それこそ、「教会の共同体をわきまえない」ことにならないだろうか。コミュニティの一人ひとりを軽んじていることにならないだろうか。

 

 最後に、自戒も込めて、「聖餐式・食事会」の実話に基づくお話をお伝えして終わりたい。

 

 私が昔集っていた、韓国系の教会には、目の見えないお兄さんがいた。ある時、韓国から韓国人のおばちゃん集団がやって来た。よくある、「短期宣教チーム」である。なんだかよく分からないが、「宣教チーム」として、教会で自分のストーリーを話したり、温泉に入ったりして帰っていくチームだ。「宣教チーム」での経験が、韓国教会ではステータスになるそうで、毎年大勢のおばちゃんやおじちゃんたちがやって来ていた。

 さて、とある日曜日、この「宣教チーム」が突然大勢来たものだから、「聖餐式」のパンとぶどうジュースが足りなくなった。順番が最後になり、受け取れなかったのが例の目の見えないお兄さんだった。「僕の分はないんですか?」。悲しそうに言った彼の声が忘れられない。彼に聖餐式のパンとぶどうジュースを分けてあげた人はいなかった。

 その日はたまたま、教会の誰かの誕生日で、1階のキッチンには大きなケーキが準備してあった。礼拝堂は、2階にあったので、「宣教チーム」のおばちゃんたちは、我先にとキッチンに降りていき、ビビンバとわかめスープを頬張り、最後にケーキをむしゃむしゃと食べていた。例の目の見えないお兄さんはというと、目が見えないため、2階から1階の屋外にある階段を降りて、キッチンに入ってくるまでに、かなりの時間がかかった。

 目が見えない人は、耳や鼻がいい。彼はキッチンに入ってくるなり、こう言った。「あれ、ケーキの匂いがしますね」。しかし、ケーキはおばちゃんたちによって食べ尽くされていた。彼にケーキを分けてあげた人は、いなかった。 

 

 教会の共同体でくらい、互いに愛を示したいものである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。