週刊イエス

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ここがヘンだよキリスト教!(イエスを愛する者のブログ) ※毎週水曜日更新予定※

【聖書】「マナ」に隠された助け合いのヒント

聖書には「マナ」という不思議な食べ物が出てきます。実は「マナ」には助け合いの精神のヒントが隠されていた?!

 

 

▼「マナ」という不思議な食物 

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 聖書に「マナ」という不思議な食べ物が登場する。私の友人に「マナ」という人がいるので以前、「あなたの名前がついている食べ物が、聖書に出てくるんだよ」と手紙を書いたことがあった。聞く話によると、日本語の古語に「真菜」<まな>という言葉があり、「美味しいごちそう」を意味するそうだ。これは、聖書の「マナ」という単語の発音が、がシルクロードから伝わって、「美味しいごちそう」という日本語の単語となった・・・と考えるとちょっと眉つばだが、ロマンがある。

 さて、この摩訶不思議な食べ物の「マナ」は、一体どんなものなのだろうか。聖書を見てみよう。これは、モーセイスラエルの民を導き、エジプトから脱出した後の話である。

朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。(中略)イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。

出エジプト記 16:11~31)

 

 イスラエルの民は、エジプトから脱出し、荒野をさまよっていた。当然、食物などない。空腹になった民は、不満を言い始めた。「エジプトにいた方が良かった」と。そこで神は、この「マナ」という不思議な食べ物を与えたのであった。

 マナが実際にどんなものだったかは分からない。モーセは、マナを壺に入れて、後世のために保存した(出エジプト記16:33)が、現代には残っていない。私は、記述から見て、「赤ちゃんせんべい」みたいなものだったのではと、勝手に想像している。

 イスラエルの民は、「マナ」を見た時に、「これは何だろう」と言い合った。「何だこれは?」のヘブライ語が、そのまま「マナ」の語源となったという説もある。

 神は、イスラエルの民が約束の地、カナンに入るまで、40年間この「マナ」で民を養った。実は、このマナという不思議な食物の中に、神の面白い法則が見え隠れする。今回はこの「マナ」に迫っていく。

 

▼マナの不思議な法則1:不足を補い合う

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 マナには、主に2つの不思議な法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナは毎日降った。イスラエルの民は、降ったマナを集めて、それを調理して食べていた。欲張りの人間は、決められた量以上のマナをかき集めていた。私も、食べ放題の店に行くと、ついつい食べすぎてしまう。同じことだ。

 しかし、不思議なことに、このマナは「多く集めても少なく集めても、足りないことはなかった」と記述がある。つまり、どんな量を集めても、一定の量になってしまったのである。

モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物としてくださったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメル(2.3リットル)ずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。

出エジプト記 16:15〜18)

 

 マナは、一人あたり、どんなにたくさん集めても、少なく集めても、全員が2.3リットルになってしまった。これは本当に不思議な話である。

 

 これは神のオチャメな伏線だと、私は思う。神は、「マナ」の性質を通して、私たちに「分け合う」ヒントを与えているのだ。

今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。

(コリント人への手紙第二 8:14~15)

 

 パウロは、この「マナ」の性質を引用して、不足を補い合うことを教えた。たくさん持っている者が、不足している者を補う。これが、神が「マナ」の性質を通して示した法則である。

 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。

使徒の働き 20:35)

 

 「受けるよりも、与える方が幸い」これは、聖書が示す、クリスチャンの生きる基準である。

 日本は世界の中では非常に豊かな国だ。豊かな人は、不足している人々の分を、どうにかして補う必要がある。

 ただ、日本は霊的には、圧倒的に貧しい。そこに自分の財産を使いたいという人もいる。また、NPONGOを通しての支援は、本当にニーズのあるところに支援が届いているのかという疑問もある。これは難しい問題だ。深く語るのは避けるが、各々が、各々のやり方、ポリシーに従って支え合えばいいと思う。 

 

 

▼マナの不思議な法則2:神への信頼

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 マナにはもう一つの法則があった。

【マナの法則】

1:どんなに集めても一定量になった。

2:毎朝降り、次の日になると腐ってしまう。しかし、「安息日」だけは降らず、前日降ったマナは腐らなかった。

 

 マナの第二の法則は、「次の日になると腐ってしまうが、『安息日』だけは例外」という一風変わったものである。以下のように書いてある。

モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。

六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり2オメル(4.6リットル)ずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主<しゅ=神>の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから、今日は、それを野で見つけることはできない。六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない

出エジプト記 16:19〜26)

 

 イスラエルの民は、欲張ってマナをたくさん集めて残しておいた。しかし、次の日には腐って食べられなくなってしまうのだった。野原に残ったマナも、昼になると溶けてなくなってしまった。

 ところが、安息日の前日だけは例外だった。安息日の前の日だけは、2日分集めても、腐らなかった。安息日には労働をしてはならないため、マナを集めてはいけなかったし、マナは安息日に降らなかったのである。

 これは何を意味するのだろうか。神はこのような不思議な形で、神が人を養うことを証明したのだ。安息日に働かないというのは、実は相当な神への信頼が必要だ。けれどもこれは、神が必要なものを与えてくださる、という信頼の訓練だった。

 実に神は、イスラエルの民が約束の地「カナン」に入るまで、40年間、毎日マナを降らせてイスラエルの民を養った。神はこのような方法で、イスラエルの民に、「オレが君たちを養う、心配するな!」という事実を、体験をもって記憶に刻み込んだのだ。

 イエスも当然このマナの知識を持っていた。それゆえ、このように教えている。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6:34)

 

 神に信頼する人は、神が養ってくださる。神は、必ず必要なものを与えてくださる(※「主の祈り・後半」の記事参考)。クリスチャンは、神への全幅の信頼をもって、日々、明るく前向きに人生を送れるのである。

 

▼いのちのパンであるイエス

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  神は私たちを養ってくださる。しかし、人とは弱いもので、このような奇跡で養われても、感謝もせずぶつくさ言うものである。私にとって、とても印象的な、イスラエルの民の不平不満をご紹介しよう。

彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ」

民数記 11:4~6)

 

 イスラエルの民は、マナという不思議な、奇跡的な食べ物を与えられてなお、このようにぶつくさ文句を言っていたのだ。

 現代の私たちにとって、「きゅうり、すいか、にら、玉ねぎ、にんにく」がそれほど魅力的だとは思わないので、このシーンを読むとつい笑ってしまう。でも、確かに40年間、毎日同じものを食べろと言われたら、こう言いたくなるのも無理はない。一方で、豊かな国が食べ物に不満を言う中で、食べ物が得られず、苦しむ人たちもいる。私たちは、どうすればいいのだろうか。

 私なりの答えは、先に書いたように「各々が、各々のポリシーに従って、できる限りの助け合いをする」という、当たり前の解決方法だ。この問題に特効薬はない。ただ、その人たちのために祈ることは、誰でもできる。まずは、祈るという小さな一歩から始めてみてはどうだろう。

 しかし、この「食べ物」よりも、もっと大切なのは、「いのちのパン」であるイエスに出会うことである。

 食べ物を求める人たちに対して、イエスはこう言った。

エスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません

ヨハネ福音書 6:26~35)

 

 イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである、永遠のいのちのために、自分を信じよ!」と言ったのであった。神は、「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「いのち」を与えてくださるのである。

 クリスチャンは、食べ物に困っている人たちのために、祈り、自分ができることを通して助け合う必要がある。しかし、それ以上に、彼らが「いのちのパン」であるイエスを知るように祈りたい。イエスに出会わなければ、たとえどんなに食べ物で豊かになっても、虚しいからだ。どんなに健康で長生きしても、イエスを知らないまま死んでしまったら何の意味もない。食べ物などの必要の満たしを祈る以上に、本当に必要なイエスとの出会いを、もっと力を込めて祈ろうではないか。

 

 

▼おまけ:「5つのパンと2匹の魚」の奇跡

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 余談だが、5000人以上に人を腹いっぱいにした奇跡、いわゆる「5つのパンと2匹の魚の奇跡」(ルカ9章、ヨハネ6章など)には、様々な解釈がある。どうやって5000人が腹いっぱいになったのか、詳しい記述がどこにもないのである。

 聖書から分かる事実は以下である。

・イエスが弟子たちに大勢の人に食べ物をあげろと言った。

・少年が5つのパンと2匹の魚を持ってきた。

・イエスがそれを持って神に感謝した。

・それを分けると、大勢の人が満腹になった。

・めっちゃ食べ物が余った。

 肝心のどうやって満腹になったのかが、どこにも書いていないのである。

 ある人たちは、イエスが奇跡的にこのパンを増やして、人々を満腹させたと信じる。ある人たちは、そうではなく、人々が隠し持っていたパンを、皆、差し出して分け合ったと解釈する。少年がパンを持ってきたのを見て、食べ物を隠し持っていた人たちは、恥ずかしくなって分け合ったとする解釈だ。これは主に、イエスが奇跡を行わなかったと考える人達が行き着く解釈といって良いかもしれない。

 私自身は、よく分からないというのが正直なところだ。聖書に書いていないのだから、そこから先は想像しかできない。私は、イエスが実際に奇跡を行ったと考えている。しかし、この場面では人々が食べ物を出し合って、分け合ったと考えるのも、またロマンがあるとも思う。実は、マナの「一定量の法則」も、「たくさん集められる人が、集められない弱い人のために集めてあげて分け合っていた」という意味かもしれない!

 しかし、大切なのは、そこではなく、イエスが「いのちのパン」であるという事実である。クリスチャンはこのイエスによって救われ、新しい存在へと変えられ、本当のいのちを獲得しているのだ。この素晴しい「いのちのパン」に出会う人が、1人でも多くなったら、私は嬉しい。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<後編>

「主の祈り」は祈りのガイドラインです。その後半を見ていきましょう。

 

 ★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「主の祈り」は祈りのガイドライン

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 「主の祈り」は、イエスが教えた、祈りのガイドラインだ。エスは、「ただ同じ言葉を繰り返して唱えるのでは意味はない」と教えた。その後で、「だから、このように祈りなさい」と言って、祈りのガイドラインを与えた。それが「主の祈り」である。

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 

 この「主の祈り」の内容を8つに分割すると、以下のようになる。

【主の祈りの8つの要素】

1:神への呼びかけ

2:神の名を賛美する

3:御国の到来を願う

4:神の計画の成就を願う

5:必要の満たしを願う

6:罪の赦しを願う

7:赦しを受けた後のリアクション

8:悪からの救済を願う

 

 前半部分は、「神への呼びかけ」「神への賛美」、そして「神の国と到来を願い」「神の意思の実現を願う」というものだった。詳細は前回の記事を参考にしてもらいたい。

yeshua.hatenablog.com

 前半の祈りは、あえて日本後らしく言えば、「タテマエの祈り」だ。あえて言えば、「きれいごと」である。もちろん、心から神への賛美、神の計画の実現を願えたら、それに越したことはない。しかし、人間そんなに強い存在ではない。人間は、どうしても自分に必要なモノを願ってしまう生き物である。

 後半部分は、いよいよリアルな人間らしい「願い」の部分に突入していく・・・。ひとつずつ見ていこう。

 

 

▼5:必要の満たしを願う <いのちのパンであるイエス

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 神への呼びかけ、賛美、そして神の計画の実現を願った後に、いよいよ人間らしい「お願いごと」のパートに入る。それは、「必要の満たし」の願いである。

 究極的には、人間は、神の存在なくして生きられない。だからはじめに神の国の到来と神の計画の成就を願う。それと同時に、現実的に食っていかないと、この地上では死んでしまう。衣・食・住は人間にとって不可欠である。そこで、イエスはこう祈るよう教えている。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 

 人間、メシを食わなければ死んでしまう。「日ごと」「今日も」というのがミソだ。やっかいなことに、人間は「食いだめ」ができない。動物のように栄養をしっかり蓄えて、冬眠できれば、どんなに楽だろう。しかし、毎日必要な栄養を摂らなければ、健康を損なう。人は、毎日、必要なものを神に願い、神から与えられ、生きていくのだ。

 旧約聖書には、神が、天から「マナ」というパンのようなものを降らせて、イスラエルの民を養った場面がある。イスラエルの民が、エジプトから脱出した時である。神は「マナ」という不思議な食物によって、「神が人間を養う」という原則を示した。この「マナ」が、のちに「いのちのパン」となるイエスの伏線となっている(※「マナ」については別記事を書く予定)。

 さて、イエスの時代も、人々にとって一番の関心事は、やはりこの「食べ物」だった。当時、イスラエルの地域の人々は、ローマの圧政に苦しんでいた。二重、三重の税に苦しみ、貧しく、飢えていたのだった。だから、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上を満腹にさせた奇跡を行うと、人々は大勢ついてきた(ルカ9章、ヨハネ6章など)。彼らはイエスを救い主と信じていたのだろうか。もしかしたら、信じていた人もいたかもしれない。しかし、多くの人は、イエスに救いを求めたのではなく、「パンをくれ!」というモチベーションだった。

 

 そのように、「パン」を求める人たちに対して、イエスはこう言った。

エスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(中略)(イスラエル人たちは言った)「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのものに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません

ヨハネ福音書 6:26~35)

 

 イエスは、「この地上の有限のパンではなく、本当の救いである私を信じよ!」と言ったのであった。神が「マナ」で人々を養ったように、今度は「イエス」を通して「永遠のいのち」を与えてくださるのである。

 しかし、かといって現実的にメシは必要だし、暮らしていくにはお金は必要だ。しかし、イエスは、これについても「心配無用!」と言い切る。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。(中略)野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。(中略)あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくて良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

(マタイの福音書 6:25~34)

 

 素晴しい約束ではないだろうか。もちろん、これは、「働かなくても食っていけるぜベイビー」なんて言っているのではない。「明日のことを心配するな」と言っているのである。現実的に、衣食住や、他にも必要なものはある。それらのものを求めつつ、毎日、毎日、「今日も生かされている」と認識し、感謝しながら生きていこうではないか。今日を精一杯生きていこうではないか。

 

<祈りの例>

●今日も、必要なものをお与え下さい・・・

●@@@も@@@も必要です、与えてください。しかし、まず神の国と神の義を第一に求めることができますように・・・

●世界中で、食べ物がなくて困っている人たちの必要が満たされますように。何より、「いのちのパン」である、イエスさま、あなたに出会えますように・・・

●今日も生かされました! 感謝します。私が何を必要としているかは、あなたが全てご存知です。必要なものを与えてください・・・

 

 

▼6:罪の赦しを願う

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 前のパートは、肉体的に必要なものだった。次は、霊的に必要なものについての祈りに入る。

私たちの負い目をお赦しください。

 

 「負い目」という部分のギリシャ語は、2ヶ所しか出てこない特殊な単語だ。この部分と、ローマ4:4の「支払い」と訳されている部分しかない。総合的に考えて、「負債」というイメージが適切かと思われる。

 一方、ルカの福音書の「主の祈り」では、「罪」に相当するギリシャ語の単語が使われている。ギリシャ語の「罪」には、「的外れ」というニュアンスがある。神は、人間が愛し合うようにデザインしている。しかし、人間は神のデザイン通りに生きることができない。人間はどうしても、神のデザインからそれた、「的外れ」な生き方をしてしまう。これを聖書では「罪」と表現する。

 人は、神に「負い目」を感じている。人は、神から「良心」という基準を与えられているからだ。だから、たとえ聖書を読んだことがなくとも、何が罪で、何がそうでないか、心の奥底では、なんとなく分かっているのである。そして、この「負い目」から逃れられる人は一人もいない。罪を犯さない人間は、ただの一人もいないのである。

次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない

(ローマ人への手紙 3:10~12)

 

 人は自分で勝手に「基準」を作ることはできない。何が、正しくて、何が間違っているか、その基準を作るのは神である。なぜなら、神が「人間の生き方」をデザインしているからである。神が正しいとしたものは正しく、間違っているとしたものは間違っている。

 人は、自分の力では、自分自身の罪を赦すことができない。どんなに良い行いをしても、善行を積んでも、人は自分の罪をなかったことにはできない。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

(ローマ人への手紙 3:20)

 

 では、人はどうすれば良いのだろうか。自分の力で罪を打ち消せないのであれば、どのようにして希望を持つことができるのだろうか。心配ご無用! 神は、私たちのために、素晴しい処方箋を用意してくださっている。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けとることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

(ローマ人への手紙 3:23~24)

 

 私たちの罪は、私たちの善行によって打ち消されるのではない。ただ一度、神であり、王の王であるイエス・キリストが十字架で死んだことによって、全ての罪が赦されるのである。エスを信じれば、その瞬間に、現在、過去、未来の全ての罪が赦される。一度、罪の対価は、イエスのいのちという形で支払いが既にされている。もう人間は、神に対して「負い目」を感じる必要はない。

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

(テトスの手紙 3:5)

 

 私たちの罪は、既に赦されている。その代価となったイエスに、いつも感謝しようではないか。人間は、そう簡単に生き方を変えられない。デザイン通りでない生き方をしてしまうのが人の性である。そのたびに、軌道修正、軌道修正、軌道修正の日々なのだ・・・。罪が赦されたことを覚え、感謝し、またこれから犯してしまう罪も赦していただけるよう(それも既に赦されているのだが)、毎日覚えて祈りたいものである。

 

<祈りの例>

●私の罪を、十字架の犠牲で赦してくださり、ありがとうございます・・・

●赦されたのに、また同じ過ちを犯してしまう私を、どうかお赦しください・・・

●私の負い目をお赦しください。弱い私をお救いください・・・

●十字架の上で、現在、過去、未来の全ての罪を赦してくださった、あなたの大きな恵みに感謝します・・・

 

 

▼7:赦しを受けた後のリアクション

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 7つ目は、赦された後の人間が、どのようにリアクションをとるのか、という部分だ。イエスは、このように祈るよう教えている。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 赦された私たちは、当然他の人も赦す必要がある。エスは、罪を赦された人の責任を、このようなたとえ話で語っている。

<イエスのたとえ話・要約>

・王様に多額の借金をしている男がいた。

・彼は返済ができなかったので、王に赦しを懇願した。

王様は、彼をかわいそうに思い、彼の負債を免除してあげた。

・借金がチャラになった男は、他の人に金を貸していた。

・彼は、その人に借金の返済を催促した。

・その人は、借金が返せなかったので、男に赦してもらうよう懇願した。

男は、その人を赦さず、厳しい取り立てをした。

・王様は、その話を聞きつけ、「自分は借金をチャラにしてもらったのに、自分が貸した金は取り立てるとは何事か!」と怒り、男を牢屋にぶちこんだ。

(マタイの福音書18章)

 

 このたとえ話だけ聞けば、「なんてひどい話だ!」と憤りを覚えるかもしれない。しかし、よく考えてほしい。実際に私たち人間も、男と同じ過ちを犯しているのである。これは、かのダビデ王も犯してしまった間違いであった(2サムエル12章参照)。

 このたとえ話の「負債」は、私たちの「罪」を指している。男が、負債を払えなかったように、人間は罪の代償を払えないのである。しかし、王の王であるイエスは、この罪を赦すだけでなく、自分自身のいのちを代償として捧げてくださったのだ。それほどまでして、私たちは赦されたと知る必要がある。

 しかし、人間はいとも簡単に「自分は赦していただいた存在だ」という事実を忘れてしまう。そして、すぐに他の人が間違いを犯しているのを見て、「赦すまじ・・・!」となってしまうのだ。

 あなたも、そのような覚えはないだろうか。ある牧師が納得のいかない教えをしている、教会の他のメンバーが全然奉仕をしてくれない、教会の若者は喋ってばかりで全く手伝わない、教会のおじさんおばさんは世話焼きばかりでうっとおしい、あのミニストリーは人をつまずかせている・・・etc。赦された自分が、他の人を赦せていないのに気が付かないだろうか(そっくりそのまま私にブーメランで返ってくるので、痛い指摘である・・・)・

 もちろん、他の人が罪を犯していたら、「指摘」する必要はある。しかし、赦された私たちには「裁く(判決を下す)」資格はない。私たち人間は、まず自分が赦された存在であること、そして他の人に判決を下す資格はないことを知る必要がある。

 

 だから、イエスは祈りの中で、赦された者が取るべきリアクションはどのようなものか教えているのだ。どのようにリアクションすべきか。それは、「相手が何か自分に不利益なことをしてきても、愛を持って赦す」というリアクションだ。まさにイエスが教えた、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」の精神である。

 「赦す」対象は他者だけではない。自分自身を赦すのも、大事なことだ。現代の人間は、「自分を赦す」のがどうも苦手なようである。「こんな私なんて・・・」という声を聞く。とんでもない! あなたは、イエスが自らのいのちを差し出すほどに、価値がある存在だ! エスが死んでまで愛そうとしたあなた自身を、受け入れよう。あなたは、大切な存在だ。まずは、自分を赦そう。自分を赦さなければ、他者を赦すなど、とてもできない。

自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。

(コロサイ人への手紙 2:18)

 

 余談だが、伝統的な日本語の祈り方では、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」となっている。私は、これでは順番が逆ではないかと思う。「私たちが他者を赦す。だから私たちの罪も赦してくれ」では、おかしいのではないか。神は、私たちが生まれる遥か前に、既にイエスの十字架での死と復活を実現させてくださったのだ。罪の赦しは「先払い」である。あとは、私たちがそれに信頼するかどうかだ。「私は赦された」→「だから自分も他者を赦せる」という順番の方が、私はしっくりくる。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(ローマ5:8)

 

<祈りの例>

●赦されたので、私も他の人を赦したいです。どうかお助けください・・・

●赦したいですが、@@さんだけはどうしても赦せません。あなたの愛の心をください・・・

●赦してもらったくせに、他の人を赦せない私をお赦しください・・・

●あなたが死んでまで愛してくださった自分に、価値があると思えるようにしてください・・・

 

 

▼8:悪からの救済を願う

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 最後の祈りは、「悪からの救済」の願いである。イエスはこう祈るように教えている。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 

 最後は、守りの願いだ。これほど赦されても、人は弱い存在である。常に、心を張り、自分が「的外れ」になっていないかチェックする必要がある。

 気をつけたいのは、「成長のための試練」と「試み」は別のものであるという点だ。神を信じれば、人生全てウキウキハッピー! というわけではない。神は、「成長のための試練」は与える。

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(中略)霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

(ヘブル人への手紙 12:5~10)

 

 成長とは、より神を知り、神の姿に似せられていく様を指す。神を知ったら、神を求めずにはいられない。もし、全く神を知らなくて良いのなら、試練を通らなくてもいいだろう。しかし、一度神を知ったら、もう止められない。神を知りたくて知りたくて、仕方がなくなってしまうはずだ。

 「試み」とは、神から目をそらさせるものだ。それは、人によって違うだろう。名誉、栄誉、財産、仕事、諸々の誘惑・・・神から目をそらしてしまうキッカケは、いくらでもある。時には、家族や愛する人さえも、そのキッカケになりうる。聖書を読む行為さえ、心が神に向いていなければ、それは立派な「試み」になりうる。

 人は、すぐに道からそれてしまう、弱い生き物だ。だからこそ、「試みにあわせず、悪からお救いください」と祈る必要がある。心のベクトルを、神に向けるために。自分の目線を、自分自身ではなく、神に向けるために。今日も神に頼る必要があるのだ。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙12:2~3)

 

<祈りの例>

●私が神様から目をそらす原因になるものから遠ざけてください・・・

●あらゆる誘惑から守ってください・・・

●神様、あなたの道からそれる原因になっているものは何か教えてください・・・

●内心では薄々分かっています。どうかそれをギブアップできるように助けてください・・・

 

 

▼おわりに:シンプル&チョコチョコ祈りのすすめ

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 イエスは基本的な祈りを教えてくれた。たった8つの要素の、シンプルな祈りだが、そこには奥深い真理が隠されていると、分かっていただけたと思う。さっそくこの祈りを実践しよう。もちろん、この内容以外のことを祈っていけないわけではない。あくまでこれはガイドラインだ。この祈りをベースに、様々な形で祈ってみたらいいと思う。

 では、どう祈ればいいのか。私のオススメは、「シンプル祈り」である。エスが教えた祈り方は、とてもシンプルなものだった。「彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」とイエスが言っているのを忘れてはいけない。長々と偉そうな言葉を並べ連ねても、祈りがきかれるわけではない。シンプルでいいのだ。単純な言葉でいい。素朴な言葉でいい。神様は、父親が子どもの話を聞くように、私たちに耳を傾けてくださる。

 もう一つは、「チョコチョコ祈り」である。「どのくらい祈ればいいのだろう」と考える人もいるだろう。私のオススメは、「気がついた瞬間に、チョコチョコっと祈る」という方法である。私は、「祈りで大切なのは長さではない。心の向きと頻度だ」と考える。聖書にはこう書いてある。

絶えず祈りなさい。

(テサロニケ人への手紙第一 5:17)

 

 絶えず! 1年365日24時間!! 文字通り、「絶えず」祈っていたら、他のことは何もできなくなってしまう。どういう意味か。

 この箇所を引用した上で、「10分の1献金」になぞらえて「1日の10分の1の時間を祈りましょう」という説教を聞いたことがある。計算すると、1日の10分の1は、144分!!! 2時間24分である・・・。こんな長い時間毎日祈れるのは、せいぜい牧師や教会スタッフくらいである。社会人には無理!!! 彼らは、日本で働くサラリーマンの気持ちが全く分かっていない。そんなに時間捻出するためには、寝ないしか方法がないよ!!!

 エスは、十字架という世紀のいち大イベントの前に、どのくらい祈ったのだろうか。なんとびっくり、おそらく1時間x3セットである(マタイ26章、マルコ14章参照)。3時間はそれなりに長い時間だが、それでも人生のクライマックスでの3時間である。普段の生活で、2時間以上も祈らなければならないかと言われたら、私は疑問符がつくと思う。

 もちろん、長く祈るのは大切だ。神の前に、長い時間をかけて心を注ぎだすのも祈り方のひとつである。否定はしない。でも、それよりも、常に神に祈る生き方の方が大切ではないだろうか。 

 ある時、私はパソコンが不調でイライラしていた。すると、宣教師のオジサンが「直るように祈った?」と声をかけてきたのである。私はビックリした。それまで、「パソコンが直るように」と祈る発想が自分になかったのだ。私はその時、「ああ、この人は人生の全てのことを神様に委ねて生きているだ」と感じたのである。パソコンが直るように祈る是非は、この際おいておこう。大切なのは、「とっさの時に祈っているか?」ということである。

 だから私は、思いついたらすぐシンプルに祈るようにしている。「神様、ありがとう」「神様、助けて!」「神様、疲れたよー」「神様、あなたは素晴しい!」などなど・・・。祈りは神様とのコミュニケーションとよく言われる。LINEのチャット気分でいい。生活のふとした瞬間、瞬間に、神様に祈ってみたら、あなたの生活は変わるかもしれない。

 

 こんなことを言ったら、この記事が無駄になるかもしれないが、正直、祈り方や内容なんて、どうでもいい。神はあなたが祈る前に、全てあなたの祈りをご存知なのだから。

あなたがたの父(神)は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

(マタイの福音書 6:8) 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<前編>

教会で繰り返し唱える「主の祈り」、同じ言葉を繰り返して唱えるのに意味はあるのでしょうか?

 

 

▼「主の祈り」が矛盾しちゃってる問題

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 「主の祈り」は、現代でも多くの信者が唱える有名な祈りの文言だ。礼拝会で、毎回「主の祈り」を暗唱する教会も多い。これは、イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りだ。マタイの福音書とルカの福音書に記述がある。マタイの方を紹介しよう。

 

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 なるほど。確かに、エスはこのように祈れと命じている。だから、今日でも教会で、クリスチャンたちがこの言葉を繰り返し暗唱しているのだ。

 どうしてイエスは「こう祈りなさい」と教えたのだろうか。ちょっと立ち止まって、前の文脈も見てみよう。

 

(以下、全てイエスの言葉)
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父(=神)に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい・・・

(マタイの福音書 6:5~9) 

 

 違和感を覚えないだろうか。「祈る時、同じことばをただ繰り返してはいけません」とある。イエスは、その後で、「こう祈りなさい・・・」と教えているのである。それならば、「主の祈り」を繰り返し唱える習慣こそが、「同じことばをただ繰り返している」状態ではないだろうか。私は、子どもの頃からこの矛盾が心にひっかかり、ずっとオカシイな・・・と思っていた。 今回は、この「主の祈り」の矛盾について書く。

 

 

▼「主の祈り」の本質は、その中身にある

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 イエスは、「同じ言葉を繰り返すな」と言ったあとに、「このように祈れ」と命じた。この言葉をただ繰り返し唱えるだけでは、イエスの命令と矛盾してしまう。

 では、どう考えたらいいのか。答えはシンプルだ。発想の転換をしてみよう。イエスは、「この言葉を繰り返し唱えよ」ではなく、「このような内容で祈ってごらんなさい」と言ったと考えればよいのだ。つまり、「主の祈り」の文言は、ただそのまま繰り返すためのものではなく、自分の言葉で祈るためのガイドラインと捉えるのだ。こう考えれば、「同じ言葉をただ繰り返す」ことにはならない。

 主の祈りは、基本的な祈りのポイントを抑えた、とても大切なものである。そのポイントを抑えるために、主の祈りを暗唱するのは良いことだと思う。ただ、呪文のようにこの言葉を繰り返すのではいけない。「主の祈り」の中身をしっかりふまえた上で、心から祈る必要がある。

 では、主の祈りの中身とはどんなものだろうか。今回は「主の祈り」を以下の8つに分割して考えてみる(前半は1〜4について書く)。

 

【主の祈りの8つの要素】

1:神への呼びかけ

2:神の名を賛美する

3:御国の到来を願う

4:神の計画の成就を願う

5:必要の満たしを願う

6:罪の赦しを願う

7:赦しを受けた後のリアクション

8:悪からの救済を願う

 

  

1:神への呼びかけ

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 最初の一文は、いつも見逃されがちな、大切な祈りの要素だ。「主の祈り」はこう始まる。

天にいます私たちの父よ。

 これこそ、大切な祈りの要素である。祈りのはじめに、神を「私たちの父」と呼んでいるのだ。これは、ユダヤ人にとっては、びっくり仰天のパラダイムシフトだった。彼らにとって神は「イスラエルの父」であっても、「わが父」とはとても呼べるような存在ではなかった(※筆が進みすぎたので詳しくは別記事で)。
 しかし、神は、私たちを「子ども」としてくださったのである。

 

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

(ローマ人への手紙 8:14~15) 

  本来、イスラエルの民ではない、外国人の私たちは「神の子ども」ではなかった。しかし、イエスを通して、神は私たちへの愛を示してくださった。そして、聖霊を与え、外国人である私たちさえも「子ども」としてくださったのである。神が私たちを「子ども」としてくださったからこそ、私たちは神を「わが父」と呼べるのである。

 また、「天にいる」という部分も大切だ。私たちの神は天におられる、全てを治めている神である。神の偉大さ、そのキャラクターを宣言し、そして「私たちの父よ」と呼びかける。これが、祈りの始まりなのである。

 実際に、こう祈ってみたらどうだろうという、例をいくつか挙げる。あくまで、例であって、いろいろな形があって良い。

<祈りの例>
●天にいるお父さん・・・

●この世界の全てを造った神様・・・

●愛する天の主よ・・・

●王の王である天の父よ・・・

 

 

▼2:神の名を賛美する

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 「主の祈り」は、以下のように続く。

御名が聖なるものとされますように。

 

 「呼びかけ」の次の要素は、「賛美」である。しかも、単純な賛美ではない。伝統的な言い方では、「願わくは、御名を崇めさせたまへ」と祈る。この表現には、「あなたを賛美します」以上の、奥ゆかしさが表れていると思う。

 本来、人間は神を賛美することすら値しない存在である。ちっぽけで、神様に向かって言葉を発するのすらためらわれる弱い存在、それが人間だ。旧約聖書の時代は、神の顔を見ただけで「死んでしまう」とされていた(士師記13:22、イザヤ6:5)。それほど神は恐るべき存在なのだ。だから、せめて「願うことなら、あなたの名前が崇められますように」と言うのだ。

 もちろん、「神を賛美してはいけない」とはならない。ただ、神はそれほど恐れ多い存在なのだと知らないといけない。神への恐れを理解すればするほど、その神ご自身が、人(イエス)となって地上に下り、死んでまで愛してくれたというのが、どれほど、めちゃんこスゴイのか、理解できるようになるからだ。

 

<祈りの例>

●神様、あなたの名前が聖なるものとされますように・・・

●全世界で、あなたの名前が崇められますように・・・

●あなたの素晴らしさを、賛美させてください・・・

●あなたはどれほど恐れ多い方でしょうか。あなたの前にひれ伏します・・・

 

 

3:御国の到来を願う

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 さて、「呼びかけ」、「賛美」の次は、「願い」に入る。しかし、自分の満たしを祈るのではない。3番目は、「御国の到来を願う」祈りだ。

 「御国」というのは、言い換えれば「天国」のことだ。「天国」といっても、大方の読者の方々が想像するような天国とは、少しニュアンスが違うと私は思っている。天国は「行く」ところではなく、「来る」ものなのである。もっと日本語的に言えば、「天国は実現するもの」なのだと、私は思っている。だから、イエスも、「天国に行けますように」と祈れと言っていない。イエスは、こう祈れと教えている。

御国が来ますように。

 

 詳しくは別記事を書く予定だが、この世の終わりに、イエスは再び地上にやって来る。そして、「新しい天と新しい地」を創造する。これが完全な「御国」、福音書では神の国と表現する状態である。では、「御国」は、いわゆる「世の終わり」まで実現しないのだろうか。私は、違うと思う。

 イエスはこうも言っている。

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです

(ルカの福音書 17:20~21)

 

 もし「御国・神の国」が、世の終わりまで実現しないのであれば、神の国はあなたがたのただ中にある」というのは矛盾してしまう。では、どういうことなのか。

 こう考えてみたらどうだろう。神の国の完全な実現は、イエスがこの地上に帰ってきて、新しい天と地を創造するときだ。しかし、そのエッセンス、その状態は、この地上でも実現可能である。神の国は、人と人との人間関係の間に実現する」と。

 「あなたがたのただ中にある」というのは、とても重要な言葉だ。人間がひとり、どんなに正しく生きても、そこに「神の国」は生まれない。人と人との人間関係の間に、「神の国」は実現する。私たち人間は、一人ひとりが「ミニ・イエスとなり、人と人が個人的に愛によってつながる時、そこに「神の国」の状態が現れる。一瞬かもしれない。不完全かもしれない。しかし、確かに「神の国」のエッセンスはそこに実現する。

 だから、「御国が来ますように」というのは二重の意味があると思う。

 ひとつは、イエスが帰ってくるのを待ち望むこと。これは、聖書にも書いてある。

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 もうひとつは、今生きている地上で、「神の国」のエッセンスが実現すること。互いに愛し合うという、イエスの教えによってそれは実現する。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

ヨハネ福音書 13:24~25)

 

 何より、神の国は第一に求めるべきものである。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

(マタイの福音書 6:33)

 

 他の何よりも、まず「御国」を願う。そうすれば、その他の「願い」は全て与えられるのだ。だから、一番最初に祈るべき、一番重要な願いは、この「御国」なのである。

 

<祈りの例>

●あなたの御国が、早く来ますように・・・

●イエスさま、早く帰ってきてください・・・

●あなたの「御国」の一部でも、この地上で実現しますように・・・

●「神の国」が来ますように。そのために互いに愛し合えますように・・・

 

 

▼4:神の計画の成就を願う

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 ここで、不思議な言葉が出て来る。「みこころ」だ。本来の日本語にはない。簡単に言えば、「神の計画」を指す。聖書を気仙沼の方言で翻訳したことで有名な山浦玄嗣氏は、この「みこころ」を、「神様のお取り仕切り」と訳した。山浦氏がおじいちゃんなので、ちょいとばかり古めかしいが、名訳である。現代風に訳せば、「神様のご意向」とでも言おうか。「天の思し召し」でもいい。要するに、「神様の計画通りに物事が進みますように」という意味だ。

 その上で、今一度イエスの言葉を見よう。

 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 

 まず、この祈りの前提として、「天では神の計画通りに物事が進んでいる」という考えがある。未だかつて天に昇った者はいない(ヨハネ3:13)、それゆえに、天の実情は誰もわからない。しかし、かつて天にいたイエスが言うのであれば、真実なのだろう。

 問題は、この地上での神の計画の成就だ。この地上でも、神の意向がなるように、祈る必要がある。だからイエスは、「地でも行われますように」と祈るよう教えたのだ。

 日本人は、これにピンとこないようである。「神がいるなら、どうして世界に戦争があるのか」「神がいるなら、どうしてこんなひどいことが私の人生に起きるのか」・・・よく聞く疑問である。詳しくはまた別記事を書くが、神がこの世の中の基準で、何か自分に良いことをしてくれる存在だと思ったら、大間違いである。神はご利益をくれる、都合のいい存在ではない。そんなスケールで神を考えること自体が間違っている。

 聖書そのものが、神が真実であり、人のスケールで神に物申すのが、いかに的外れかを指摘している。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二 2:13)

ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師(神)を粘土(人)と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

イザヤ書 29:16)

すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」といえるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

(ローマ人への手紙 9:19~21)

 

 人は、常に神の方向とは違う方へ進みたがる性質を持っている。世の中、なぜかそういう方向にベクトルが働いているのだ。だから、「神の計画が、天で完璧に遂行されているように、この地上でも、どうかそうなりますように。人間は神の意思とは違うベクトルに進みがちです。どうか神の計画が成就するようにしてください」という祈りが必要なのである。

 

<祈りの例>

●どうか、あなたの計画が実現しますように・・・

●自分の思いではなく、神の思いを行えますように・・・

●天では完璧な愛が満ちているように、愛がない自分が愛を実行できますように・・・

●自分にベクトルを向けるのではなく、神に、目の前の一人の人にベクトルを向けられますように・・・

 

 

▼「主の祈り」前半まとめ

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 「主の祈り」の順番は、とても精巧だ。まず、1:神に呼びかけ、2:神を賛美し、3:神の国の実現を願い、4:神の計画の実現を願う・・・。

 「主の祈り」の前半に、「自分のお願いごと」は、ほぼ入っていない。もちろん、「神の国の実現」や「神の計画の実現」が、心から自分のお願いごとになっているのであれば、素晴しい。でも、現実、人間は弱い存在だ。なかなかそうはならない。そんな弱い人間のために、イエスは、「こう祈ったらブレないぜよ」とガイドラインを与えてくれたのだ。

 次回は、「主の祈り」の後半に入る。後半の祈りは、より生活に迫る、現実的に人間が必要とする祈りの内容になる。

 

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「祝祷」は牧師だけの権利なのか?!

教会の「礼拝会」に行くと、最後に牧師が両手を広げて「仰ぎこい願わくは・・・」とか言い出します。これって何?!

 

  

▼「祝祷」とは?

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 クリスチャンの教会の礼拝会に行くと、集会の最後に、牧師が前に出て来て、両手を広げてこう言う。

 

「仰ぎこい願わくは、われらの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなた方の上に、豊かにあらんことを アーメン」 

 これは、いわゆる「祝祷」(しゅくとう)と呼ばれるものだ。英語でbenediction(ベネディクション)とも言う。表現や、やり方は教会やグループなどによって多少は違うだろうが、おおむねこのような表現で行う。集会に集った人たちを祝福する、祝福の祈りである。

 根拠となっている聖書の言葉は、新約聖書の第二コリントにある。

 

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

(コリント人への手紙第二 13:13)

 なるほど、ほとんどソックリそのままだが、多少のアレンジが加わっていると分かる。この言葉は、コリント人への手紙の一番最後に記されている。最後のあいさつ代わりの、祝福の言葉である。エス・神・聖霊という、いわゆる「三位一体」と呼ばれる神の性質にも触れつつ、神の恵みと愛が共にあるよう祈る、素晴しい言葉だ。

 現代のプロテスタント教会は、礼拝会の終わりに、たいていこの言葉を用いた「祝祷」を行う。この「祝祷」自体は、素晴しい行為であり、人々が集った時に聖書の言葉を用いてお互いに祝福し合うのは、とても良い習慣だと思う。

 素晴しいと思ったので、私はある時、祈り会の最後に「じゃあ、祝祷の言葉で祈ろう」と提案した。自分ではナイスな提案だと思ったのだが、そのうちの一人がこう言った。「祈れません」と。

 なぜ? と聞いてみると、「私の教団では、牧師以外の人は『祝祷』を祈ってはいけないという決まりがあるのです」と言う。驚いた。祈りを禁じるとは。一体聖書のどこに書いてあるのだろうか。今回は、この「祝祷」問題を考えたい。

 

 

▼根底にある「祭司」との混同

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 不思議に思ったので、私は、その一人に聞いてみた。「ねぇ、なんで牧師じゃないと『祝祷』を祈っちゃいけないの?」

 彼は答えた。「理由はよく分かりませんが、教団の決まりなのです。祝祷を祈るのが赦されるのは牧師だけで、伝道師や宣教師にも許されていません」

 なるほど、明確な根拠はないらしい。話を聞くうちに、私はある事実に気がついた。「あ、なるほど。祭司と牧師を混同しているから、こういう勘違いが起きるのか」

 このブログの読者なら、結論は既にお気づきかもしれない。その通り。聖書のどこにも「『祝祷』ができるのは牧師だけ」とは書いていない。そもそも、「祝祷」という言葉自体が聖書に書いていない。ただ、第二コリントの聖書の言葉をアレンジして祈りの言葉にしただけである。ただの文化である。それを「牧師しか祈ってはいけない」というのは、全くのデタラメ、ウソもいいとこだ。恥を知った方がいい。

 なぜこのような嘘偽りのデタラメが横行してしまうのか。それは、祭司と牧師を混同しているからである。牧師は神の言葉を取り次ぐ「祭司」ではない。一旦、両方の役割を整理しよう。

 

【祭司】

・祭司の役割は、「神と人との仲介」である。

・聖書で一番始めに「祭司」と呼ばれているのは「メルキゼデク」である(創世記14:18)

広義の「祭司」は、イスラエルの民である。イスラエルの民は「祭司の王国」と呼ばれる(出エジ19:6)

狭義の「祭司」は、イスラエルの民のうち、レビ族から任命された。レビ族は、幕屋の移動や設置、きよめの儀式を司式などを担った。服装や儀式については、細かく厳しい、具体的な決まりを守る必要があった。(出エジ28章など参照)

ダビデはレビ族ではなかったが、例外的に、「王であり祭司」であった。これはイエスの伏線(型)である。

エスは、「永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司」である(ヘブル6:20)

エスは、「新しい契約の仲介者」である(ヘブル12:24)

・よって、現代においてもイエスが私たちの祭司である。エスが仲介者となることにより、私たちは神との永遠の交わりを与えられる。

 

【牧師】

・牧師の本来の意味は、「羊飼い」である。

・牧師は、教会という共同体のひとつの役割に過ぎない。

牧師の役割は、共同体の管理と教育である(エペソ4:11)

・「神と人との仲介」は、祭司の役割であって、牧師の役割ではない。

エスが神と人との仲介者である。牧師ではない。

<過去記事参考>

yeshua.hatenablog.com

 

 牧師の役割は、共同体の管理と教育であって、神と人との仲介ではない。それは祭司の役割である。イエスは、たった一人の、永遠の大祭司となった。私たちは、個人的に大祭司であるイエスを信じ、救いを受ける。これがクリスチャンの信仰である。牧師を通して祈るのではなく、イエスの名前を通して神に祈るのである。

 これを混同してしまうと、間違いが起きる。祭司は「レビ族」だけの特権的役割だった。牧師をこれと同じに考えてしまうから、「その資格がない、牧師でない人は、その祈りは赦されていない」という考えにつながってしまうのだ。

 ハッキリいって、これは大間違いだ。とても傲慢な、間違った教えである。牧師は祭司ではない。共同体の役割の、ほんの一部分である。それなのに、牧師を祭司と勘違いし、「牧師でない人はこの祈りはしてはいけない」などと言うなんて、一体何様なのだろうか。牧師を通してでないと神に祈れないと、一体聖書のどこに書いてあるのだろう。

 

 

▼「主の祈り」はOKなのに「祝祷」はダメ?!

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 原点に戻ろう。「祝祷」は、第二コリントにある聖書の言葉をアレンジした文言である。このように、現代のキリスト教の文化では、聖書の言葉通りに祈ることが多い。本来、祈りの言葉は個人の自由な言葉でいいのだが、聖書の言葉で祈るのは、とてもいいガイドとなる。

 聖書の言葉を用いた祈りとして、最も有名なのは、やはり「主の祈り」だろう。クリスチャンではない人も、耳にしたことがあるかもしれない。マタイの福音書とルカの福音書に記述があるが、マタイの方を紹介しよう。

 

(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

(マタイの福音書 6:9~13)

 イエスが、このように祈れと命じたのである。もっとも、文脈を見れば明らかだが、この文言通りという意味ではなく、「こういう内容のことを祈ったらいいよ」というオススメである(※これについては別記事を書く予定)。現代の教会では、訳は様々だが、この祈りを繰り返し暗唱するところも多い。

 

 さて、問題は、なぜ「主の祈り」は推奨されているのに、「祝祷」になると牧師だけしかダメなのかという点である。この疑問の答えはない。なぜなら、そもそも「牧師だけしか祝祷できない」という考えが間違っているからである。この疑問に答えられるなら、意見を募集したい。

 何度も言うが、「祝祷」は第二コリントの聖書の言葉をアレンジしたものであり、それ自体に何ら拘束力もないし、神聖なものでもない。ただ、素晴しい文言だというだけだ。もし、「祝祷」は牧師だけしか唱えてはいけないとするならば、それは聖書の言葉を唱えることを禁じていると同じ意味になる。聖書の言葉を唱えるのを禁じる?! 誰が何の権利があって、そんな横暴なことができるのだろうか! ハッキリ言う。そんなのは只の人間が作ったまやかしだ。ごまかしだ。ウソだ。聖書の言葉を唱えるな、なんてそんなバカな決まりは、即刻無くしたほうがいい。呆れてものが言えない。

 聖書そのものが、私たちに祈るように勧めていないだろうか。お互いを祝福することを、勧めていないだろうか。

 

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。

(ローマ人への手紙 15:30)

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。

(コロサイ 4:2~3)

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

(ペテロの手紙第一 3:8~9)

 

 牧師でなければ、他の人を祝福できない、なんていうのはキリスト教の文化が作ってしまった大ウソであり、ごまかしである。聖書に基づいて、お互いをバンバン祝福し合おうではないか。

 

 

▼オススメの「祝祷」のやり方

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 では、「祝祷」はどうすれば良いのか。私は、ずっと牧師だけが両手を広げて、まるで自分がイエスになったのかのように会衆を祝福するスタイルに、疑問を感じていた。そして、最近、自分なりの答えに出会った。

 今、私が集っている教会の礼拝会に、初めて参加したときのことだ。司会者が、こう言った。「それではみなさんで、『祝祷』を捧げましょう」そして、全員が立ち上がり、全員の口で祝祷を用いて祈った。

 

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」 

 

 正直、目からウロコだった。「そうか。お互いに祝福しあえばいいのか!」これが、私の「祝祷」に対する答えになった。お互いに、「私たちの間に、神の愛と恵みと交わりが豊かにありますように」と祈り、祝福し合う。これが、互いに愛し合う共同体のひとつの形だと、私は感じた。 

 もちろん、「祝祷」の文言を用いない、というのもひとつの方法ではある。しかし、先に述べたように、聖書の文言を用いて祈り、互いを祝福するというのは、とても素晴しいことだ。

 祈りの言葉は、本来は自由である。しかし、自分の語彙はたかが知れている。だいたい、いつも同じような表現になりがちだ。クリスチャンの世界にいると、毎回同じような祈りを聞く。「~本当に、~~本当に、~~~~本当に・・・」というふうに、何度も「本当に」というフレーズを聞いたことがあるという人も多いだろう。

 別に、語彙力がなかったり、「本当に」と繰り返すのが悪いと言うつもりはない(私自身がそうなので・・・)。しかし、聖書の言葉を用いて祈れば、さらに祈りの言葉が広がる。表現が広がる。祈りが豊かになる。実際、カトリックの人や、イエスを信じたユダヤ人たちは、「祈祷文」を使って、決まった文言で祈っている。私はそれを否定はしない。私個人としては、聖書の言葉も、自分の言葉も用いて祈るのがオススメである。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちとともに、豊かにありますように」

 このような表現を使って、お互いに「祝祷」してみては、どうだろうか。

 

 

▼おまけ:実際に祈りに使えそうな文言集

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 以下は、私がよく祈りで用いる聖書の言葉だ。高校生の頃は、これらの聖書の言葉を印刷して、壁に貼って祈っていたりもした。また、ここに書いてはいないが、全ての詩篇は祈りに活用できる。とてもオススメなので、ぜひともアレンジしながら活用してほしい。

 

こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなた方の心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

(エペソ人への手紙 3:14~21)

 

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(中略)どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

(ローマ人への手紙 15:5~13)

 

どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない物としてくださいますように。アーメン。

(テサロニケ人への手紙第一 3:11~13)

 

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を癒やし、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。

詩篇 103:1~5)

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】クリスチャンになったら、「神社・お寺」に入っちゃいけないの?  

 クリスチャンは、神社やお寺に入ってはいけないのでしょうか? 「初詣」に行くのはどうでしょう?

 

 

▼どこからが偶像礼拝?

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 イエスを信じ、クリスチャンになると、ふとした疑問がわいてくる。「神社やお寺に入っちゃいけないのだろうか」という疑問だ。もし、宗教的でない日本の家庭で生まれ育っていれば、「初詣」や「お盆の墓参り」などは、当たり前に行ってきた「文化」であろう。では、ひとたびクリスチャンになった場合、これらの行為は、禁止されるのだろうか。

 確かに、聖書は「偶像礼拝」を禁じている。このような箇所がある。

 

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

出エジプト記 20:3~6)

 確かに、聖書にはハッキリと、「わたし以外にほかの神があってはならない」「偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」と書いてある。旧約聖書も、新約聖書も、この偶像礼拝や、ほかの神々を信じる行為を、最大の悪のように書き、忠告している。イスラエルやユダの王たちが失敗した多くの理由は、この「偶像礼拝」である。

 では、現代の日本に住むクリスチャンが、「神社・仏閣」に行く行為は、果たして「偶像礼拝」なのだろうか。お祭りは? お神輿は? 初詣は? お盆は? お焼香は? お墓参りは? どこまでが良くて、どこからが悪いのか。今回は、日本人が直面する、現実的な問題に焦点を当てて考えてみたい。

 

 

▼将軍ナアマンの姿勢

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 聖書に、「ナアマン」という将軍が登場する。彼のエピソードは、日本人にとって、とても参考になる。長いので、簡単に説明する。

 

▼ナアマンは、イスラエル人ではなく、外国の将軍だった。彼は重い皮膚病を患っていた。ある日、召使いの少女が、こんなふうに言った。「イスラエルにいる預言者なら、きっとその皮膚病を治してくれるでしょう」。ナアマンは、ワラをもつかむ思いで、仕えている外国の王を通して、イスラエルの王に手紙を書いた。

▼こうしてナアマンは、預言者エリシャのもとにやって来る。預言者エリシャは「ヨルダン川で7回、体を洗いなさい」と命じる。

▼ナアマンは、馬鹿にされたと思って、激怒して帰ろうとする。ナアマンの部下たちが、必死でなだめ、ナアマンはなんとか「念の為やってみるか」という思いで、ヨルダン川で7回、体を洗った。

▼すると、どんなことをしても治らなかった皮膚病が、たちまち治ってしまった。ナアマンは驚き、イスラエルの神、主を信じた。

 と、まぁこんな話である。このナアマンが唯一の神を信じた後に言った言葉が、非常に印象的だ。

 

ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人(預言者エリシャ)のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。(中略)しもべはこれからはもう、主(神)以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモン(外国の神)の神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように

エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。

(列王記第二 5:15~19)

 ナアマンは、外国の将軍だった。しかし、奇跡的な体験をして、イスラエルの神である「主」を信じた。彼は、自分が信じてきた外国の神(リンモン)に、自分からはいけにを献げないと決心する。

 しかし、ひとつの懸念があった。それは、彼が仕える王様が、外国の神、リンモンを信じていたからだ。ナアマンは、そこで王の腕を支える役目があった。リンモンの神殿にも入るし、膝もかがめる。ナアマンは、誠実に、大真面目に、リンモンの神殿で膝をかがめることを告白し、赦しを求めた。そして、預言者エリシャは「安心して行きなさい」と、ナアマンに告げた。これがことの顛末である。

 

 つまり、「外国の神の神殿に入ること」「そこで膝をかがめる=礼拝のポーズをとる」ことは、「赦されて」いるのである。これは、非常に興味深いポイントである。

 

 ナアマンの話を読むと、「行為」ではなく、「心」に重点が置かれていると分かる。いけにを献げないというナアマンの決心は、神殿での行為が、本心のものではないと表している。ナアマンの主張は、「仕事上、やらなければならない行為なんです。不可抗力なんです。本心ではありません。だから赦してください」という歎願であった。

 ナアマンは信仰を持った後に、彼のそれまでの職務を放棄しなかった。面白いポイントだ。ナアマンは、将軍をやめて、神殿に入らないという選択もできた。しかし、彼はそうしなかった。現代社会では、信仰を持った後に、「日曜日に教会に行けないから」という理由で、仕事を辞めてしまう人も多い。もちろん、それもひとつの立派な信仰の表現だ。否定はしない。しかし、「今、自分が置かれている環境で、信仰者として精一杯、誠実に職務をこなす」というのも、ひとつの道ではないか。私は、そんな人を応援したい。

 この日本社会で生きていると、ナアマンのように「不可抗力」で本心ではない行動を取らないといけない場面も多いだろう。例えば、上司が亡くなった時、仏式のお葬式に出席しなければならない時がある。その時、お焼香をするのは、クリスチャンとしてどうかという葛藤は、もちろんあるだろう。しかし、私はナアマンのような信仰をもって、堂々と、その上司、そしてそのご家族に対して誠実に、儀式としてのお焼香をするのはアリだと思う。大切なのは心なのだ。お焼香というポーズをとりながら、神に祈ればいいのではないか、と、私は思う。

 もちろん、クリスチャンとして、どうしても仏式のお葬式には出席したくない、という信仰のスタイルを持つ人もいるかもしれない。それはそれで尊重したい。しかし、クリスチャンであるならば、その旨をしっかりと説明し、何かしらの形で、残されたご家族への愛の心を示す必要があると思う。結局、自分を守りたいのか、相手をケアしたいのか、その心のベクトルの違いである。

 

 

シャーマニズムによる「霊的に汚れる」というウソ

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 一方で、「神社・仏閣に入ると、霊的に汚れる」という主張をするクリスチャンたちもいる。このような主張を聞くたびに、私は心からため息が出る思いだ。「悪霊によって汚れる」なんていうのは、シャーマニズムが盛んな国が、クリスチャンの信仰と土着信仰を混ぜてしまった結果起こる間違った信仰である。

 聖書には、こう書いてある。

 

さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。(中略)私たちには父成る唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(中略)しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。(偶像に捧げた物を)食べなくても損にならないし、食べても特になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

(コリント人への手紙第一 8:4~8)

 そもそも、唯一の神以外には神は存在しない新約聖書の時代は、偶像へのいけにえとして捧げた動物は、からだが汚れるから食べてはいけないという価値観があった。仏壇に備えた白米とか、お餅とか考えればわかりやすいだろう。しかし、パウロ「そんな神、どうせいねえんだから、食っても食わなくても一緒!」とバッサリ切ったのである。しかし、それを食べちゃいけないと思っている人もいるから、思いやりの心を持とうね、というのがこのコリントの手紙のポイントだ。

 もちろん、一定の配慮は必要だ。しかし、本当に相手のことを考え、配慮するなら、ただ黙って見過ごすのではなく、「そんなもので、あなたは汚れないよ、大丈夫だよ」と、きちんと教えてあげるべきだ。

 預言者イザヤの書に、はっきりと偶像の無力さについて書いてある。

 

偶像を造る者はみな、空しい。彼らが慕うものは何の役にも立たない。それら自身が彼らの証人だ。見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが神を造り、偶像を鋳たのか。何の役にも立たないものを。見よ。その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。(中略)それは(木材のこと)人間のために薪になり、人はその一部を取って暖をとり、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。また、温まって、「ああ、温まった。炎が見える」と言う。その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。「私を救ってください。あなたは私の神だから」と。

イザヤ書 44:9~17)

 

 さらにイエス自身も、このように言っている。

 

エスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」

(マタイの福音書 15:16~20)

 ユダヤ教では、「手を洗わないまま食べると、汚れる」という教えがあった。しかし、イエスは、「食ったもんは、どうせウンコになるんだから、気にするな。でも、本当に悪いものは、心の中からでてくるんだ。そっちに気をつけろ」と言ったのである。神社・仏閣に入ると「霊的に汚れる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。その前に、自分の心の中を吟味した方が100倍いい。

 勘違いしてほしくないのは、私は「悪霊」がいないと言っているわけではない。悪霊は、確かに存在する。ほとんどの場合、悪い思いは、自分の心の中に住み着いている。しかし、それらは「神々」ではない。権限を何も持っていない、大したことない存在だ。クリスチャンは、神の愛に引き寄せられた存在である。悪霊は、私たちに対して何の権力も持っていない。聖書にこう書いてある。

 

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

(ローマ人への手紙 8:38~39)

 つまり、「どんなものも、神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のである。ましてや、「神社・仏閣」に行って、そこで手を叩いたからといって、何ら影響力はない。

 もちろん、自分の心が神から離れないように、用心は必要である。毎日、自分の心のチェックは必要だ。しかし、本当に気をつけるべきは「心の動機」であって、どこに行くとか何をするかではない。シャーマニズム教クリスチャンたちが言うように、「悪霊」なんかをいちいち気にしているようでは、まだまだ神の愛への信頼が足りない、と私は思ってしまう。彼らは、私たちに対して、何の影響力もないのだから。

 

 無論、本当に神道の神々を信じて、神社に行ったらダメだ。例えば、受験の成功を願いに神社に行ってお願いごとをしたら、それは完全にアウトである。受験に成功したかったら、勉強せよ! ホンマ・・・。

 

 

▼神は「生きている者の神」~日本人が直面する「お墓問題」~

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 「クリスチャンになったらお墓はどうすればいいのか?」これは、日本人なら誰もが直面する問題である。私なりの回答は、「どうでもいい」である。

 その最大の理由は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからである。

 

エスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です

(マタイの福音書 22:29~32)

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現の意味については、様々な意見があり、これだけで記事が書けてしまうので、今回は多くは語らない。ポイントは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」というところだ。

 このイエスの言葉は、「サドカイ派」と呼ばれるユダヤ教の一派の人たちへ向けられた言葉だ。サドカイ派は「肉体の復活」も「霊的な復活」も否定していた。エスは、はっきりと「死人の復活」を肯定した。つまり、私たちは死んだら必ず「復活」するのである。

 それが今の肉体をもってか、はたまた霊的なフワフワしたものかは、議論のあるところだ。ユダヤ教の人々は、死んだ後の体がそのまま起き上がってくると信じている。分かりやすく言えば、「きれいなゾンビ」みたいに埋葬されたそのままの場所と姿で起き上がってくる、と信じている。だから、彼らにとっては「土葬」は当たり前。燃やしてしまうと、復活の体がなくなってしまうからだ。彼らは、「オリーブ山」という山に、いつの日かメシアが来ると信じている。ゆえにオリーブ山は、お墓の一等地で、山の斜面にずらりとお墓が並んでいる。肉体が復活した後に、メシアにすぐ会えるからだ。

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↑オリーブ山の斜面(撮影:わたし)

 しかし、イエスは、「復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようだ」と言った。御使いは、基本的には目に見えない(アブラハムに現れたように、目に見える状態の場合もある)。めとることも、嫁ぐこともない。今の人間の肉体とは、明らかに違った状態で復活すると分かる。

 私は、肉体が残っていなくても、復活できると信じる。神の力はそんなにヤワなものではない。チリひとつに息を吹きかけて、アダムを造ったお方である。骨から肉を生じさせる主である。イエスのからだをそのまま復活させた神である。死体がたとえチリになっていようと、灰になっていようと、どこからでも復活させられるのが神の力だ。

 つまり、自分のことだけを考えるならば、お墓はどこでもいい。埋葬方法も土葬でも火葬でも鳥葬でも構わない。それが見かけが白く塗った墓でも、仏教墓地でも、石に十字架の形が彫ってあっても、本質的には何も変わらない。残るのは、「どういう心でどういう生き方をしたか」だけだ。いつまでも残るものは「信仰と希望と愛」だけなのだから。

 

 しかし、墓は、「残された、生きている者」にとって重要である。自分の信仰が、墓という形で、残された者たちに残る。自分の子孫が神を知るキッカケの少しにでもなるかもしれない。だから、信仰を形に残すという意味でも、キリスト教式の埋葬は「オススメ」ではある。一方で、残された人の関心事が、神ではなく、死人の偉大さになってしまう危険性もある。某お隣の国では、死んだ牧師の「何回忌」とか馬鹿らしいことをやっているが、それこそ人を礼拝する偶像礼拝だろう・・・。

 聖書は、葬式は「生きている者の為のもの」と言っている。

 

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。

(伝道者の書 7:2)

 埋葬されるお墓が仏式でもキリスト教式でも、本質は変わらない。よく、「家族と一緒の墓に入れないのか」という人がいるが、お墓が物理的に一緒になっても意味がない。イエスを信じなければ、復活した後、永遠に離れ離れなのだ。お墓の心配をするより、永遠を神とともに過ごすのか、それとも神と離別され永遠に苦しむのか、その行き先を心配した方がいい。

 個人的には、仏式のお墓に入るのは避けたいし、信仰があるのにどうしても仏式のお墓に入る理由は見つからない。しかし、特別な事情があれば、それは個別の回答があるだろう。私自身は、別に死体を燃やした灰を、海に撒いてもらっても構わないと思っている。結局は、個々がそれぞれの状況に合わせて、最も「心から神に従った」と言える判断をすれば、それでいいのだと思う。

 

 

▼おまけ:オリエンタリズムと戦え

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 他にも、日本にいるクリスチャンは、様々な文化に直面する。豆まき、ひな祭り、夏祭り、七夕の短冊、お盆、秋祭り、どんど焼き(田舎だけ?!)、除夜の鐘、などなど・・・。日本には、いろいろな文化、宗教が入り混じっている。

 クリスチャンは、それらのお祭り文化に、どう対応すえるべきだろうか。正直に言って、私の意見は「どうでもいい」である。前述した通り、それらはクリスチャンと神の結びつきに対して、何の影響力も持っていない。豆をぶつけられても、ひな壇を家に飾っても、七夕に願い事を書いても(まさか本気で信じている人は少数派だろう)、それらは何の意味もない。豆をぶつけられたら痛いし、ひな壇は飾ったらきれいだし、子供が短冊に願い事を書いたらカワイイ。ただそれだけの話だ。大切なのは、「どこでラインをひくか」である。私は、そのような文化は、地元地域の人との交流のチャンスだから、どんどんやったらいいと思う。その中で、本物の神がいかに素晴らしいか、イエスに信頼することが、どれほど希望に満ちたものか語ればいいと思う。

 実際、私の地元の教会は、「お祭りに店は出さないが、雨宿り場所として教会の建物を開放する」というラインをひいた。その結果、大雨が降り、地元の多くの人に教会の存在を知ってもらえた。クリスマス同様、文化はうまく利用しちゃえばいいのだ、と、私は思う。

 

 日本人は、宗教に対して、非常にゆるやかな考えを持っている。初詣で神社に行き(神道)、結婚式を教会で行い(キリスト教)、葬式は仏式(仏教)で行うくらいだから、そのテキトーさがうかがえる。もちろん、そうでない人もいるだろうが、私のように全く信仰心も何もない家庭で育つ人が、大半なのではないだろうか。以前、「私はクリスチャンです」と言ったら、とある美容師さんが、「あ~私仏教なんですよ~」と言った直後に、「神社とか好きですし」と言っていたのは正直、笑ってしまった。神道と仏教の違いも分からない、多くの日本人には、その程度の”信仰”しかないわけだ。

 しかし、日本人は宗教に対して無関心でもなく、無神論者でもない。これについては別の機会に語るが、「空気を読む」という言葉を広めた評論家の山本七平は、これを日本教と名付けた。山本七平は、「なぜ日本人はキリスト教を信じないのか」という目線から、徹底的に日本・日本人を研究をした学者である。彼の著作は、非常に面白いので、興味のある方はぜひ読んでいただきたい。

(個人的オススメ:「日本人とユダヤ人」「空気の研究」「日本人の人生観」「聖書の常識」)

 

 「日本のお祭りは、日本特有の文化でしかなく、偶像礼拝とはとても言えない」。これは、日本人が聞けば当たり前に思う。しかし、そう思えるのは、「これはどうせ文化で、何の意味もない」と思っている日本人特有の前提があってこそだ。外国人宣教師たちにとっては、そう捉えるのがどうも難しいようだ。

 特に、西洋の人たちは、日本人の信仰のいい加減さを理解できない。彼らは、どうもあの「神社」にスーパーナチュラルパワーがあると思っているらしい。豆まきをすることが、神への冒涜だと思っているらしい。短冊に願いごとを書く行為が、偶像礼拝だと思っているらしい。何度、外国人の宣教師から、「日本人が偶像礼拝をやめるように祈っている」と言われたことだろう。面倒くさいので、いちいち否定はしていないが、それを聞くたびに、「ああ、まだ日本人というものを分かってもらえていないんだなぁ」と感じる。

 彼らは、オリエンタリズムという病気に侵されている。これは、日本人にとっては、ショッキングな事実だ。いや、彼らにとってはもっとショッキングかもしれない。しかし、これは紛れもない事実だ。

 オリエンタリズムとは何か。

 

オリエンタリズム】(Orientalism)

東洋研究または東洋趣味を意味する概念として使用されてきた言葉だが,アメリカの文学者 E.W.サイードが同名の著作 (1978) を発表してから植民地主義的な思考の総体を意味するようになった。東洋(第三世界) についての観念は同地域の現実を客観的に表象したものではなく,植民地支配を正当化するために西欧の側から一方的に強制された差別的な偏見の総体とされる。受動性,肉体性,官能性といった異国情緒的な東洋イメージは西欧文明の優位性を保証すると同時に,現実の植民地支配を合理化する根拠としても利用されたのである。

 わかりやすく言えば、西洋の人は、われわれ東洋人に対して、「無意識の優越意識を持っている」のである。もっと単刀直入に言えば、彼らはわれわれを「東洋の文化的に遅れているサル」だと思っているのである。これは、悲しいが事実だ。ヨーロッパでは、まだまだ根強く残っている。欧州に行ったことがある人は、うなずいていただけるかもしれない。

 そして、私は批判を恐れず大胆に言うが、「宣教師として来る人ほど、この傾向が強い」のである。これは、完全に私の経験・体感をベースにした一方的な言い分なので、異論、反論、疑問、質問は大いに歓迎したい。しかし、彼らからは、本気でオリエンタリズムからの優越感を感じる時がある。もちろん個人差はおおいにあるが、これを感じる時、毎回悲しく思う。

 日本に来ている宣教師、または宣教師になろうとしている人にお願いだ。我々は、「日本人」である。中国人でも、韓国人でもない。「日本人」がどういう民族か、まず知ってほしい。「おまえらが英語を話せ」という姿勢ではなく、日本語を身に着けてほしい。アメリカや中国や韓国で成功した方法を、日本に押し付けないでほしい。この悲しい島国の言語と文化と背景を理解しようという姿勢を見せてほしい。これほど福音を必要としている国はない。あなたたちだからお願いしたい。どうか、私たちを理解してほしい。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

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日本人とユダヤ人」(角川文庫ソフィア)イザヤ・ベンダサン山本七平)著 1971/9/30

http://amzn.asia/d/6EqrVxS

 

f:id:jios100:20181005162955j:plain

オリエンタリズム」(平凡社エドワード・W・サイード 1993/6/1

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「賛美歌・聖歌」じゃなきゃ賛美じゃないの?

教会によっては、「賛美歌」の歌集の歌じゃないと賛美じゃない、っていうところもあるみたいです。そもそも「賛美」って何なのでしょうか・・・??

  

 

▼「賛美歌」じゃなきゃ賛美じゃない・・・?

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 教会に行くと、様々な音楽のスタイルと出会う。伝統的なアカペラやオルガンで歌うスタイルもあれば、ギターやドラムなどを用いたバンドスタイルの、コンテンポラリーなものまで様々だ。どの歌い方にも趣があり、それぞれの良さがある。

 教会によっては、「賛美歌」や「聖歌」と呼ばれる歌集を使っている。なんと、教会によっては、この「賛美歌」や「聖歌」の歌集に入っている歌しか、「賛美」と認めないところもあるようだ。聞くところによれば、それ以外の歌は、「準賛美」とか、「準備賛美」と呼ばれるらしい。私は、そのようなバックグラウンドの教会で育たなかったので、その話を聞いた際、こう思った。まるでエホバの証人みたいだな、と。

 私は、かつて「エホバの証人」のメンバーだったことがある。その時は「エホバの賛美歌」以外の歌を口にするのは禁じられた。学校の校歌も口パクしていたのを覚えている。そこまでやるのは、やりすぎだと分かるだろう。しかし、現実にプロテスタントの教会も、本質的には同じことを行っているのではないだろうか。

 何が賛美で、何が賛美ではないのか。そもそも、「賛美」とは何なのだろうか。今回は、「賛美」とは何か、を焦点に記事を書く。

 

 

▼「賛美」の語源

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 旧約聖書には、詩篇を筆頭に、さまざまな賛美の歌が収録されている。「ほめたたえよ」「あがめよ」「賛美せよ」などなど、旧約聖書には、たくさんの賛美の表現がある。実は、賛美を表すヘブライ語の単語はひとつだけではない。聖書の登場人物は、実に様々な種類の単語を用いて神をたたえている。今回は、その中で代表的なものを8つ挙げて説明する。

詩篇63篇は、この賛美のスタイルを学ぶのに適したテキストである。後述するが、詩篇63篇に登場する単語には、その箇所を書いた)

 

1)テヒラー(תהלה

歌う、公共の場で賛美をする、アナウンスする

(「詩篇」自体のヘブライ語が、これの複数形「テヒリーム」)

2)トーダー(תודה

感謝する、告白する

3)ザマール(זמר

ほめ歌う、楽器を演奏する

4)バラーフ(ברך

祝福する、ひざまずく、敬礼する、ほめたたえる(63:4)

5)ヤダー(ידה

手をあげる、感謝する

 6)サバーフ(סבח

ほめる、自慢する(63:3)

 7)ラナンרנן

喜ぶ、叫ぶ、泣き叫ぶ、喜びのあまり歌う(63:7)

8)ハラル(הלל

輝く、賛美する、自慢する、気が狂ったように叫ぶ。

「ハレルヤ」は、「ハレル+ヤ(神の意)」である。(63:5,11)

 

 全てが神を賛美する単語であるが、微妙に意味が違う。実は、聖書には他にも様々な形で神を賛美する単語がある。全てを羅列すると辞書の索引みたいになってしまうので、今回は避ける。

 読んでいただければ分かると思うが、賛美には様々なスタイルがあった。歌を歌う場合もあれば、楽器を演奏する場合もあり、泣き叫ぶ場合もあり、手をあげる場合もあり、静かにひざまずく場合もあった。歌うだけが賛美なのではなく、主の前にひざまずいて静まる、というのも立派な賛美のひとつなのだ。

 こう見ると、「この歌だけが賛美歌であとは、認められない」という考えは、ちょっとトンチンカンだな、というのは誰でも分かるだろう。大切なのは、どのような心で神を素晴らしさを宣言するかであって、どんな歌や行動でも、それを表すのは可能なのだ。

 

 

▼力の限り跳ね回ったダビデ

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 聖書の登場人物は、実に様々な方法で神を賛美した。賛美の第一人者、ダビデ王は、「神の箱」(お神輿的なもの)がエルサレムに戻ってきた際、気が狂ったように踊りまくった。

 

ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデ(祭司の衣装)をまとっていた。ダビデイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。主の箱(お神輿的なもの)がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカル(ダビデの妻)は窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。

(サムエル記第二 6:14~16)

  考えてみてほしい。王様が、力の限りジャンプして、ジャンプして、ジャンプして喜び踊ったのだ。裸で。人の目も気にせず。そのダビデ王の姿を見て、イスラエルの民は歓声をあげ、楽器を吹き鳴らして、喜び踊った。

 ダビデの妻のミカルは、それを見てドン引き。ミカルは、心の中でダビデをバカにした。おまけに、その後で嫌味まで言ってしまった。一見、ミカルが悪者のように見える。しかし、逆に言えば、ダビデは周りの人がドン引くくらい、「力の限り跳ね回った」のだ。ダビデは、それほど、全身全霊をかけて、神の存在を喜んだのであった。

 旧約聖書の最後の本、「マラキ書」にはこう書いてある。

 

しかしあなたがた、私の名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

(マラキ書 4:2)

 神に出会うと、それまでの傷ついた心が癒やされる。イエスに出会うと、それまで自分を縛っていたものから、解放される。それゆえ、クリスチャンはその喜びを噛み締めて、子牛のように、跳ね回って、喜び踊って、泣き叫びながら、神を賛美するのである。そこに、日本人特有の恥じらいはない。なぜか。神に変えられた後は、人の目を気にする必要はないからだ。関心のベクトルが、「自分がどう見られているか」よりも、「神に対する感謝と喜び」に変わるからだ。

 私が関係のあった、とある教会では、文字通り泣き叫びながら、跳ね回って賛美する女性たちがいた。誰かがふざけて、このマラキ書の箇所になぞらえて、彼女たちを「コウシーズ」と名付けたのを覚えている。彼女たちは、ひと目もくれず、文字通り跳ね回って神を賛美していた。その姿はまことに麗しかった。

 もちろん、「神の前にひざまずいて、静まる」というのも、ひとつの「賛美」のスタイルである。それは、前項目のヘブライ語からも明らかであろう。私の意見では、各々が、自分が一番神に感謝の気持ちを表せるスタイルで賛美すればいい。私自身は、力の限り跳ね回るスタイルが、自分に合っているので、できればそうしたい。しかし、教会の集会の中では、他の人も各々のスタイルで賛美している。その人たちが賛美するスタイルを邪魔しないように、私は、適切な表現の仕方で、賛美するよう工夫している。集会の秩序を保つのも、「愛」のひとつの表れである。

 

 

▼「賛美歌・聖歌」問題 ~楽器はどこまでOKか~

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 さて、本題の「賛美歌」や「聖歌」でなければ賛美ではないのか? という疑問に戻る。答えは、もちろんNOだ。「賛美」自体にも色々な表現がある。「歌」というのは、賛美のほんの一部だ。踊ったり、跳ねたり、手をあげたりするのも賛美のスタイルの一部だ。そこに優劣はない。言い換えれば、ライフスタイルそのものが「賛美」なのである。

 現代のコンテンポラリー音楽は、サタンの音楽だ、という人がいる。ドラムを用いるなんて、賛美とは言えないという人がいる。とんでもない。比較的、厳かで、「聖なる」印象のある、オルガンを用いた「聖歌」も、宗教改革の当初は「悪魔の音楽」と形容されたという。賛美に楽器を用いるなんて、とんでもないという価値観が、当時はあったのだ。礼拝会に会衆賛美を用いるようになったのは、ルターの時代以降であった。

 今現在、「正当・伝統的」と思われている賛美のスタイルも、実は歴史的に見れば、新しいものなのである。なぜその当時の新しいものは良くて、今の時代の新しいものは拒絶されるのか、明確な根拠が分からない。どんな音楽スタイル、または音楽でなくとも、賛美になりうる。神が見るのは形ではなく、心だ。どんな心で神に迫るのかが、一番大切なのである。

 そもそも、音楽を用いた賛美は、はるか昔、アダムとエバの直後の時代から始まっていた可能性がある。こんな箇所がある。

 

(カインの子孫の話の流れで・・・)その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。

(創世記4:21)

 このユバルの立琴と笛が何のために用いられたかの記述は、聖書にはない。しかし、楽器を使うというのが、はるか昔から行われていた文化だというのは分かる。アダムは800年生きたとあるから、この時まだ存命だったかもしれない。

 ほかにも、ダビデ王の時代に、歌や楽器に熟練した者たちが、賛美の担当を担っていたと分かる箇所がある。実に、たくさんの楽器が登場する。

 

歌い手ヘマン、アサフ、エタンは、青銅のシンバルを鳴らした。ゼカリヤ、アジエル、マアセヤ、ベナヤは、『アラモテの調べ』にのせて、琴を奏でた。マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベデ・エドム、エイエル、アザズヤは、『第八の調べ』にのせ、竪琴に合わせて指揮した。レビ人の長の一人であるケナンヤは歌唱を担当し、歌唱を導いた。彼はそれに通じていたからである。(中略)・・・イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げた。

(歴代誌第一 15:19~28)

 彼らは、長い聖書の中では、「誰やねん」という存在ではあるが、聖書に名前がハッキリと明記された、「賛美リーダー」だ。また、これらの歌や楽器を担当する者たちは、技術的にも、熟練した者たちであったと分かる。

 

これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の身やで歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった彼らの同族の数は288人であった。彼らは、下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引いた。

(歴代誌第一 25:6~8)

 ここから分かるのは、様々な楽器があったこと。歌や楽器の訓練を受けていたこと。師匠や弟子がいたことである。たまに、「賛美は心だから、技術は重要ではない」という意見も耳にする。「賛美は心」だというのは、ごもっともだ。しかし、「最高の賛美を捧げたい」という思いで、歌や楽器を練習し、熟練した者となって、神にハイクオリティな音楽を捧げたいと思うのは、とても大切な「心」である。良いものを捧げたアベルは、適当に捧げたカインよりほめられたではないか。ユダヤ人は、未だに神に捧げるものに傷がついていないか、入念にチェックをする。賛美のために、歌や楽器を練習し、高い技術力をもって神を賛美する人々を、私は尊敬する。

 

 ライフスタイルそのものが賛美である。「賛美歌」や「聖歌」といった、たかだか数百年の、人間が作った歌集にこだわらず、もっと幅広い目線で賛美を捉えたらどうだろうか。詩篇では、「新しい歌を主に歌え」と何度もオススメされている(例:詩篇33:3)。新しい賛美の歌を、どんどん作って、歌っていこうではないか。神の素晴らしさ、その偉大さを目の当たりにして、体験する時、立ち上がって、喜び踊り、涙を流さずにはいられないのだから。

 

 

詩篇63から分かる「苦しい時こその賛美」

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 さて、前述した詩篇63篇は、以下である。実に学ぶ要素がたくさんある。

 

神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ、私の唇は、あなたを賛美します。それゆえ私は、生きるかぎりあなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。脂肪と髄をふるまわれたかのように、私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で、私の口はあなたを賛美します。床の上で、あなたを思い起こすとき、夜もすがら、あなたのことを思い巡らすときに。まことに、あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私を支えてくださいます。

詩篇63:1~8)

 

 賛美の表現が、この詩篇にはたくさん隠されている。「あなたを切に求めます」「私のたましいは、あなたに渇き」「あなたをあえぎ求めます」「あなたを仰ぎ見ています」「私の唇は、あなたを賛美します」「生きるかぎりあなたをほめたたえ」「両手を上げて祈ります」「私の口はあなたを賛美します」「喜び歌います」などなど・・・。前述したヘブライ語のいくつかも、この詩篇では登場する。まさに、全身全霊をかけて、様々な方法、表現で神を賛美していたのである。

 注目すべきは、この箇所だ。

 

水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

詩篇63:1)

 この詩篇の筆者は、「乾いた地」を、「聖所」と表現している。実は、この詩篇の作者がいる場所は、「水のない」「衰え果てた乾いた地」なのである。人間的には、決して、神の恵みを感じられないような、そんな乾いた所だ。

 詩篇63篇のタイトルは、「ダビデの賛歌。ダビデがユダの荒野のいたときに」となっている。ユダの荒野というのは、岩地の荒野だ。実際に行った時に、写真を撮ってきた。

 

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 見渡す限り、枯れた岩地が続く。ダビデがいたのは、このように、文字通り水もなにもない荒野である。人は水を飲まないと死ぬ。指すような日照りが、ダビデを襲っていたことだろう。

 しかし、ダビデはこう宣言した。「私のたましいは、あなたに渇き」と。彼が乾いた時、本当に欲したのは、水ではなかった。神ご自身だったのだ。私たちは、この姿勢に、「苦しい時こそ、神ご自身をほめたたえる」という、賛美の本質を見る。

 イエスも、本当に人の心を満たすのは、物理的な水ではなく、イエス自身だと言う。

 

エスは答えられた。「この水(井戸の水)を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」

ヨハネ福音書 4:13~14)

 

 もうひとつ注目すべきポイントは、「聖所で」という言葉だ。この場所は、神を礼拝する幕屋でも、神殿でもなかった。なにもない荒野だ。渇ききった砂漠のど真ん中で、この詩篇の作者は、「こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ているます」と宣言する。

 詩篇の別の場所では、こう書いてある。

 

あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

詩篇22:3)<新改訳第三版>

 ダビデは、荒野の中で賛美し、そこを「聖所」と表現した。それは、神ご自身が、賛美の中に住まうと、彼が悟ったからであった。

 イエスも、実にこのように言っている。

 

エスは彼女(サマリヤの女)に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父(神)を礼拝する時が来ます。(中略)まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

ヨハネ福音書 4:21~24)

 イエスは、礼拝する場所が重要ではなく、「御霊と真理」が大切だと言った。「御霊と真理」が何かを語ると、それだけでいくつも記事が書けてしまうので省くが、要するに、(少し乱暴だが)その心が大切だと言ったのだ。

  私たちは、どんなに苦しい状況であっても、神の存在をそこに見出し、神に拠り頼む。そして、歌や踊りや、生き方の全てをもって、神をほめたたえる。場所や状況は関係ない。賛美があるところに、神の存在もあるのだから。

 

 

▼おまけ 「特別賛美」というシステム

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 さて、クリスチャンの集会には「特別賛美」という特殊なプログラムがある。集会の流れは、ざっくり言うと、はじめに賛美の歌を何曲か歌い、その後、牧師か誰からの話があって、その後また何曲か歌って終わる、というものが多い。

 「賛美」は、全員で歌う場合が多いのだが、この「特別賛美」というものが始まると、途端にコンサートちっくになる。それまで全員で歌っていたのに、急に一人か二人が前に出てきて、歌や音楽を披露するのだ。

 私は、この「特別賛美」を否定しない。前述した通り、神によりよいものを捧げたいという気持ちで楽器や歌を極めるのは、良いことだと思うからだ。しかし、それが賛美ではなく、ただのコンサートになってしまっていないか。心が神に向いているのかどうか、常に吟味が必要であろう。確かに、それまで全員で歌っていたのに、急に独奏がはじまるのだから、少し違和感があるのも正直なところだ。初めて教会に来た人が、混乱しないための工夫も必要である。

 それは、会衆賛美にも同じことが言える。賛美をリードする者たちは、常に自分ではなく、神がほめたたえられるような心持ちと工夫が必要だ。最高の賛美リーダーは、誰がどういうリードをしていたか忘れさせる、「透明なリーダー」だと、誰かが言っていた。人に栄光を返さず、ただ神のみを見るのは、容易ではない。しかし、全てを忘れて、ただ神のみを賛美しつづけた時、本当の喜びに包まれる。その賛美の瞬間を少しでも味わいたいものである。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(後編)  

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文・後半です。

★前編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

 

▼「聖書と政治」の前半まとめ

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 前半の記事では、「教会と政治との関係」「弱者に寄り添ったイエスの姿」の2つのポイントから書いた。教会は世界から「区別」された共同体であり、その目的は究極的にはこの世の中にはない。ゆえに、「教会」という共同体単位としては、一定の政治的思想を、信者に押し付けるべきではない。

 エスは、「弱者」に寄り添った。それは弱者という「個人」に寄り添ったと同時に、彼らの「社会的立場」にも寄り添ったのである。弱者に寄り添うという視点で社会を見る時、政治とは必ずしも無関係ではいられない。大切なのは、どういう動機で政治に関わるかである。

 

 

▼3a:クリスチャンは、現実の政治にどう関われば良いのか

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 クリスチャンは、現実の政治をどう見て、どう政治と関われば良いのか。ボウカムは、まず私達に次のように警告する。

 

私たちと同時代の世界の文脈において本文を解釈するには、いくつかの危険がある。一つは私たちがあらかじめ考えている態度や計画を支持するために、本文を操作する危険である。これは聖書を政治的に使用するときの無意識の誘惑である。

なぜなら、聖書的権威は、政治的政策を正当化するためにたいへん有益な源となり得ることがあり、また私たちにとって、しばしば自らの政治的態度について自己批判的であることは難しいからである。聖書によって私たちの政治的態度が挑戦され変えられることは、私たちが思う以上に難しい。(P.56)

 クリスチャンは、自分の主張を裏付けるために、聖書の言葉を探す。この際、自分の主張を聖書によって正当化してしまう危険性がある。自分の主張が、聖書からくるものなのか、内心からくるものなのか、判別するのはとても難しい。聖書の「一部分」だけを抜き出すと、その危険性は増す。

 例えば、旧約の律法に「殺してはならない」と書いてあるから「戦争反対」と主張する人たちがいる。彼らは、同じ旧約聖書で神が「聖絶せよ」と命じ、イスラエルの民が戦争をした事実を意図的に無視している。これは極論だが、こう考えれば、短絡的に「戦争反対」「武力を持つのは罪」と言えないだろう。聖書全体で考えれば、「武力」の考え方については、深い議論になるのは当然である。聖書の一部分を抜き出し、短絡的な政治主張に結びつけるのは危険だ。

 ボウカムは、旧約聖書の基準について、このように述べている。

 

すなわち律法と預言者旧約聖書)は、私たちの政治生活への「指南書」にはなり得ないが、私たちの政治生活に対して「教訓的」であり得る。その教えを直接私たち自身に適用することはできないが、神がご自身の性格と目的を、イスラエルの政治生活において示される方法から、いかにそれが今日の政治生活に表されるべきかについて、何かを学べるかもしれない。(P.38) 

 旧約聖書は、私たちに「教訓」や「指針」を与える。神のキャラクターを知るエッセンスがある。しかし、それが今日の政治生活に、そっくりそのまま当てはめられるわけではない。あくまでも「何かを学べるかもしれない」レベルである。

 

 では、クリスチャンはどうしたらいいのだろうか。政治から遠ざかるべきなのだろうか。そうではない。クリスチャンは、「聖書」の基準を「指針」としながら、政治に関わればいいのだ。この際、大切なのは、「イデオロギー」と「聖書の価値観」が対立した場合、どちらを優先するかである。

 例えば、「憲法」について考えてみよう。あるクリスチャンの方々が声高に「憲法を守れ」と主張している。良いことだ。法律、憲法を遵守するのは、法治国家として当然である。

 では、憲法」と「聖書」が対立したらどうだろう。

 例えば、「憲法」にある「両性の合意」による結婚観は、「聖書」の価値観と合致する。これが、ある政治家が主張するように、「両者の合意」と改定しようとする議論が起こったら? その背景には、同性婚の是非がある。「両性」を「両者」と改定すれば、同性婚憲法違反ではなくなるからだ。もし「両性」ではなく、「両者の合意で結婚する」という価値観が憲法に書き込まれたら・・・。それでもあなたは「憲法を守れ」と言えるだろうか。これが、「政治的イデオロギー」と「聖書」どちらを主張の基準にしているか問われる瞬間である。

 同じように、同性愛や中絶について語る時、クリスチャンは「社会的価値観」との戦いを覚える。聖書を読めば、同性愛や中絶は、必ず葛藤を覚えるトピックである。しかし、社会的にはそれらに反対の声を挙げれば、「つるしあげ」をくらう。特に同性愛については、昨今では反対の声を挙げにくい「空気」が醸成されている。しかし、「聖書」を唯一絶対の基準と考えていれば、どうあっても同性愛を「そのままでいい」と捉えないはずだ。これもまた「社会的価値観・潮流」と「聖書」どちらに優先順位を置くか問われる瞬間であろう。

 

 クリスチャンが政治に関わる時は、まず「聖書」が唯一絶対の基準であるという大前提を守らなければならない。憲法脱原発、性的マイノリティーへの対応、安全保障の考え方などは、「目的化」しやすい。政治的イデオロギーは、「偶像化」しやすく、いとも簡単に、聖書の基準より大切なものとなってしまう。クリスチャンが政治に関わる際、この誘惑と常に戦わなければならない。

 

 

▼3b:権力とどのように向き合うか

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 クリスチャンにとっては、聖書が唯一、絶対の価値基準だ。しかし、同時に「聖書」の基準を自分の目的のために乱用してしまう危険性もある。ボウカムはこのように警告する。

 

現状を支持するためにローマ人への手紙13章1~7節をイデオロギー的に乱用することは、不正な政府への批判的な箇所に論及することによって訂正され得る。(57P)

 ローマ人の手紙13章は、有名な「権威に従え」と教える箇所だ。このような記述である。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(中略)同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その努めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

(ローマ人への手紙 13:1~7)

 この際、「権威」の念頭にあるのは、ローマ帝国である。この時代、クリスチャンの信仰は迫害されていた。しかし、パウロはあえて「権威に従え」と言っているのである。

 しかし、ボウカムは「だからといって、現行の政府のやっていることが全て正しいと決めつけるのは違うだろ」と注意している。これは正しい。同じように、聖書の言葉を根拠に、「牧師に従え」とか「教会の決定に従え」とか言って信者を縛り付ける教会もある。それは明らかな、聖書の言葉の乱用である。

 また、この箇所は、直接的には後段にある「納税」に関する記述であって、「なんでもかんでも上に従え」という命令ではない。ボウカムも、この箇所を「税金」に関する議論の際に用いている。税金に関する議論はこのブログでは避けるが、イエスははっきりとローマの納税は認め、ユダヤの神殿税の正当性については否定したが「彼らを怒らせないために」納税するようにしようという姿勢を示している。

 

 ローマの箇所から読み取れるのは、神が定めた権威の前に正しくあろうとするのは良いが、権力を正当化するために聖書を用いてはならないという至極当然の教訓である。

 権力は常に暴走する危険性がある。だから、権力をチェックする存在が必要だ。旧約聖書の世界では、預言者がその役割を担っていた。アハブ王と対決した預言者エリヤとエリシャは、分かりやすい権力チェッカーだ。現代において、メディアがその役割を担っている。以前、「記者の仕事は、ある意味で預言者の仕事だ」と言われたことがあるが、まさにその通りだ。

 インターネットが発達した現代においては、誰もが記者になりうる。首相や大統領の発言録は、今や簡単に全文を入手できる。様々なメディアの記事も、読むことができる。発信のプラットフォームも格段に増えた。もはや、メディアはその特権を失いつつある。ただ、現場の空気感が分からないと、誤解してしまうことも多い。よくある「メディア批判」は、ほとんど現場の仕組みを知らない、的外れの指摘が多い。

 クリスチャンは、ある意味でこの世の「見張り人」である。クリスチャンこそ、メディアリテラシーを鍛え、情報を正確に分析する訓練が必要だ。残念ながら、今はそうなってはいない。

 

▼3c:クリスチャンと民主主義・安全保障

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 民主主義の国家では、政治に参加するための一番の行動は、投票である。私たちは、この投票の重要性を、往々にして忘れがちだ。

 自民党杉田水脈議員が、「LGBTの人は生産性がない」とした論文を発表し、問題となった。インターネット上の議論を見ると、彼女を批判する声、擁護する声、様々あった。中には、「議員辞職すべき!」という声もあった。

 この議員辞職すべき!」という声だけは、言い過ぎだと指摘しておく。民主主義の国家において、国会議員は、有権者の投票で選ばれる。どんなにヘッポコの比例当選の議員であれ、国民の数万〜10万以上の票をもらって当選しているのである。とすれば、議員1人の後ろには、それだけの国民の票があるのだ。そう考えれば、杉田議員の主張は、ある意味で「国民の声」である。この論文を掲載した「新潮45」が、猛烈な批判の嵐によって休刊に追い込まれてしまったのは、本当に残念だ。

 杉田議員は何も法は犯していない。政治資金規正法など、法律を犯しているのであれば、「責任を取って辞職しろ!」との指摘は理解できる。誰も、犯罪者に投票しているとは思っていないからだ。しかし、主義主張を理由に「議員辞職しろ!」というのは、行き過ぎだ。それは、彼女のバックにいる国民の声を無視することであり、言論統制である。リベラルな論客は、実は自分たちが一番警戒し、批判している言論統制を、自分たちで行ってしまっているのである。

 杉田議員の主義主張に問題があれば、その審判は次の選挙の時、票として現れる。民主主義の国であれば、選挙の結果は絶対なのだ。この民主主義のシステムを、多くの人は誤解している。「アベはやめろ!」と叫ぶのは表現の自由だが、彼が民主主義のプロセスによって選ばれたリーダーであることを忘れてはならない。クリスチャンは政治と関わる時、情緒的でない、システムを理解した冷静さが必要である。

 

 また、クリスチャンの中には、「武力を持つべきでない」という人もいるだろう。私も明確な答えは持ち合わせてはいなかったが、とある安全保障の専門家が、こんなことを言っていた。

 

警察は一定の権力と武力をもって、法の秩序を守っている。それに反対する人は、ほとんどいない。国が武力を持つのも、国際的な法の支配を守るためである。例えば、国境を守ったり、化学兵器の使用によって国民を苦しめている権力者がいれば、国際的な法のルールに則って、武力を行使する。国の軍隊の目的や行為は、国境を超えているだけで、本質的には警察と同じである。

しかし、この秩序を守る行為が、国単位になった瞬間に、多くの人が反対する。その境目はどこにあるのか。甚だ疑問である。

 

 なるほど、一理ある。聖書にもこうある。

 

彼(権力者)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

(ローマ人への手紙 13:4)

 この言葉は、警察権だけに与えられているのか。それとも、国防や、安全保障、国際的な法の秩序を守る権利のために、この剣を用いてはいけないのか。よく考えてみてほしい。

 クリスチャンこそ、知っておかねばならない。唯一絶対の権威者は神であること。イエスもその権威を持っていること。しかし、神の許容範囲の中で、この世には人間が決めた権力者がいること。その権力者に敬意を払いつつ、感情的ではなく冷静に権力に向き合う姿勢が必要である。

 

 

▼4:核の脅威と神の約束

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 核の脅威は、現代において考えるべきトピックである。ひとたび核戦争が始まれば、世界は危機に陥る。環境を破壊し、人間は存続できないかもしれない。

(ちなみに、「地球を守れ」というのは筋違いだ。地球という惑星は、どんな状態でも存続する。正しくは、「人間が住める環境を守れ」である)

 クリスチャンは、この「核の脅威」をどう考えるべきか。ボウカムは、「神とノアの約束」に焦点をあてる。このノアは、「ノアの箱舟」の、ノアである。

 ノアの箱舟の時、大洪水が起こり、ただノアと家族を残して世界中の人が死んだ。神は、その後、このように約束する。

 

わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを討ち滅ぼすことは決してしない。(中略)わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。(中略)わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。(創世記8:21・9:11~13)

 神は、空に虹をかけて「もう生き物を滅ぼすようなことはしない」と約束する。だから、この神の約束を信じれば、「核戦争によって人類は滅びない」のである。だから、クリスチャンは核戦争を心配しなくてもいい。

 しかし、ボウカムはこう指摘する。

 

重要なことだが、人間の生存が人間の手の中にあるという状況において、神が全滅を防ぐという摂理があると「思い込んで」はならない。この状況においては、神は寛容にも私たちをその罪の結果にゆだねているが、そのことが神の裁きとなるかもしれない。言い換えるなら、神が人間の生存を約束しているからといって、人間はそれを確保する自らの責任を免れることはできない。(P.270)

 つまり、神が核戦争を用いて、この世の終わりを実現する可能性もある。そうボウカムは言っているのである。さらに言えば、たとえボウカムが間違っていても、「核戦争によって人類は滅びない」が、「核戦争は起こりうる」のである。

 しかし、私の個人的意見では、それでもなお、クリスチャンは核戦争を恐れる必要はない。なぜなら、クリスチャンは死を恐れる必要がないからである。

 クリスチャンは、イエスを信じた瞬間から、「永遠のいのち」が与えられる。全ての人は死んだ後、復活し、神の前で裁きを受ける。イエスを信じる者は、その後、神との永遠の関係を楽しむ。このような希望をクリスチャンは持っている。パウロは、「世を去ってキリストと共にいる方が望ましい」(ピリピ1章参照)とすら言っている。だから、クリスチャンは死を恐れなくて良い。むしろ今死んでもいいくらいの気概が必要である。

 クリスチャンが最も恐れるべきは、愛する家族や友達が、この素晴らしい福音を知る前に死んでしまうことである。ゆえに、クリスチャンが努力すべきは、福音を宣べ伝えることであって、人間の人間による、有限の、短期的な平和活動ではない。核戦争が起こらなくても、人はいずれ死ぬ。その前に福音を聞かなければ、核戦争が起ころうと、起きまいと、何の意味もなさないのである。

 平和活動は、「福音を聞く機会をできるだけ引き伸ばす」という意味で尊いしかし、クリスチャンがエネルギーを傾ける方向を、間違えてはいけない。聖書には、「神の日の到来を早めなければならない」とも書いてあるのだから。

 

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

(ペテロの手紙第二 3:12)

 

 

ユダヤ人の物語としてのエステル記 ~時代を乗り越えられなかったルターの姿~

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 「エステル記」は、聖書の中でもユニークな一冊である。エステル記には、「神」という言葉が一度も出てこない。そして、極めて「ユダヤ的要素の濃い」本である。

 エステル記がどういう物語かは、短いので本文を是非読んで欲しい。要約すれば、ユダヤ人の女性、エステルが、外国の偉大な王の王妃となる。王の側近のハマンは、ユダヤ人撲滅の策略を立てるが、エステルと叔父のモルデカイがこれを阻止する。ユダヤ人は外国人から身を守り、敵を殺して大勝利を収める。と、こんな内容である。

 このエステル記について、ボウカムはこう述べる。

 

エステル記は、多くのキリスト者の読者を不快にさせてきた。しかしルター以降、しばしば引用される見解は、ルター自身のエステル記の見方を代表するものではなく、後世の多くの批評の典型である。「私はこの書(第二マカベヤ)とエステル記に敵意を抱いているので、それらがまったく存在しなければ良かったのにと思う。なぜなら、それらはあまりにもユダヤ的であり、多くの異教的な間違いがあるから」B・Wアンダーソンは、多くのその後の不平を要約して、こう書いている。(P.234)

  ボウカムは、「ルター自身の見解ではない」とある意味、ルターを擁護している。しかし、ルターがユダヤ人に敵意を持っていたのは、彼の著作から明らかである。

 ルターは、ユダヤ人をどうしても好きになれなかった。ルターは、明らかにユダヤ人に対しての民族的な嫌悪を持っていた。現代において、彼の考えは明らかに間違っているのは、ホロコーストの経験から、全世界が知るところとなっている。

 ルターが反ユダヤ主義から逃れられなかったという事実は、プロテスタントの信者にとって衝撃ではないだろうか。私は、初めて彼の主張を知った時、素直に驚いた。それまで彼は、聖書を自分の言語で読めるようにした、ヒーローだった。しかし、彼もただの人間に過ぎなかったのだ。ヒーローはイエスただ一人なのだ。

 このことから、ルターでさえ時代の常識には逆らえなかったと分かる。アメリカ合衆国の生みの親は、皆、敬虔なキリスト教徒だった。しかし、ネイティブ・アメリカンに対する差別意識、黒人奴隷の存在の容認など、現代では考えられない「常識」があった。私たちは「時代」という枠からは抜け出せない。この事実は衝撃的で、ある意味絶望さえ覚える。

 

 聖書にも、実はこう書いてある。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

(伝道者の書 3:11)

人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。

(伝道者の書 8:17)

  私たちは、時間を超えられない。人は、時代という枠に囚われて生きている。今の時代当たり前だったことが、100年後には当たり前でなくなっている。今の私の主張が、「彼はこの時代の常識から逃れられなかった」と言われる時代が来る。

 神は時間を超えられる。神は、その時代、時代に、少しずつ真理を明らかにする。玉ねぎの皮を剥くように、本のページをめくるように、少しずつ。でも確実に。死海写本が見つかる前と後では、聖書研究の根幹が違った。この先の時代も、常識が覆される時代が来るであろう。

 

 しかし、私たちの世代の議論は、決して無駄ではない。ルターは反ユダヤ主義から逃れられなかったが、ルターがいなければ、自分の言語で聖書が読まれることはなかった。カルヴァンの主張は全て正しくなかったが、彼がいなければ、クリスチャンの自由な経済活動は許されていなかった。

 ルターがもしホロコーストの時代を経験していたら、あるいは違う主張をしていたかもしれない。その意味で、幸か不幸か、ホロコーストの経験が、世界的に反ユダヤ主義を払拭する一助となったのである。ボウカムもそう述べている(P.250)。

 ただ、今の世界のメディアの傾向は、明らかに反ユダヤ主義に偏っている。日本語のイスラエル関連のニュースは酷すぎる。取材する前から書くことが決まっている。記者失格だ。イスラエル軍のメディア関係者は、「日本のメディアは共同通信NHK朝日新聞もウソばっかりだ」とぼやく。私も同意見だ(※私が働いている会社はもっと酷い)。

 今の私たちの議論は、のちの時代の常識を作る糧となる。その意味で、クリスチャン同士で、時にぶつかり合いながら、恐れずに政治的議論をするのは、とても大切である。クリスチャンが政治を語るべきでないという主張は、ぶつかりたくない日本人にとって正しく見えるかもしれないが、その主張は明らかに間違っている。

 

 最後にボウカムの主張に戻れば、現代においてエステル記は、ユダヤ人の物語として読むべきである。神がイスラエルを「区別」して選んだ事実は、現在に至るまで有効だ。それはローマ書11章を読めば、明らかである。私たち外国人(異邦人)は、ありがたいことに「接ぎ木」された存在だ。だからこそ、イスラエルの民を尊重し、彼らのために祈り、国家としてのイスラエルに関心を持ち、イスラエルの祝福を祈り、彼らが待ち望んでいるメシアがイエスであると伝えるのは、とても大切なのだ。

 リベラル主義者のクリスチャンは、ねじ曲げられたメディアの情報を信じて、国家としてのイスラエルを批判する。それは本当に正しいのか? あなたは聖書にハッキリと書いてある神のイスラエルに対する約束と、あなたの政治的主張、どちらを大切にしているのだろうか。

 

 

▼全体のまとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

 

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した(つながった)。イエスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。カギは「ミクロなアプローチ」である。

 

3:クリスチャンは、政治的イデオロギーと聖書の価値観がぶつかった時、唯一絶対の基準としての聖書を選び取るべきである。聖書のある特定の部分だけを受け入れ、特定の記述を無視してはならない。権力を正当化する際に聖書を用いてはならない。常に心の動機をチェックする必要がある。

 

4:クリスチャンは世の終わりを待ち望むべきである。永遠のいのちがあるのだから、死を恐れる必要はない。クリスチャンがエネルギーを傾けるべきは、この世の平和維持活動ではなく、福音を述べ伝えることである。

 

5:私たちは時間という枠を超えられない。しかし、今の議論が後の時代の議論を作る。クリスチャンは、政治的議論を避けず、積極的に議論したら良い。エステル記はユダヤ人の物語であり、クリスチャンは現代の国家としてのイスラエルに関心を持つべきである。

 

 

▼おわりに・・・

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 ボウカムの「聖書と政治」は、とても面白かった。政治に答えはない。ゆえに、ボウカムの主張も、「Aも正しいけど、でもBも正しいよね」といった、曖昧模糊なものになっている。それは仕方がない。日本人もそのような議論が好きだ。しかし、それだけでいいのだろうか。大切なのは、しっかりと聖書の土台に足を据えながら、自分で情報を収集し、自分の考えを確立し、「波に弄ばれたりしないように」することだ。

 昨今のクリスチャンの議論を見ると、左派も右派も、聖書よりイデオロギーを優先してしまっているように、私は、どうしても感じる。かといって、政治を無視し、簡単に「クリスチャンは、政治と関わるべきでない」というのも違う。大切なのは、まず聖書の唯一絶対の基準を心の中心に据えて、この社会を観察することである。

 イエスは、この社会で見捨てられた弱者に寄り添った。今、自分がイエスのようにできることは何だろう。目の前の一人のために、何ができるのだろう。そう考え続け、行動し続けることが、一番大切なのではないだろうか。

 

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。