週刊イエス

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【読書】クリスチャン政治記者が読んだ「聖書と政治」リチャード・ボウカム著(前編)

クリスチャンの現役政治記者が読んだ、リチャード・ボウカム著「聖書と政治」の読書感想文です。2本立ての前半です。

 

  

▼「聖書と政治」という本

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 私は、政治記者をしている。自民党幹事長、総理大臣、野党などを担当し、取材した。まだ経験は浅いが、今も国会の現場で取材をしている現役の記者だ。同時に、イエスを救い主と信じるクリスチャンである。

 「聖書と政治」という本を、友人に勧められた。「聖書」と「政治」というキーワードが、自分にピッタリだった。すぐ手にとり、読んでみた。面白い。翻訳の影響もあり、少し読みづらさはあったが、扱っているテーマは幅広く、どれも興味深いものだった。

 著者のリチャード・ボウカムは、「イエスとその目撃者たち」でも有名なイギリスの聖書学者だ。本書「聖書と政治」で、ボウカムは、創世記から黙示録まで聖書の様々な書簡に触れ、教会と国家の関係、「エステル記」をユダヤ人の物語として読むことや、核の脅威をクリスチャンとしてどう考えれば良いのかなどを論じている。

 今回は、「聖書と政治」の本の中から、私が個人的に気になったポイントに触れ、感想を述べたい。

 

 

▼1:「聖別」の意味 ~教会と政治の関係~

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 聖書は、イスラエル「聖なる民」とたびたび表現している。

 

主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」

レビ記 19:1~2)

 「聖なる」という日本語を聞くと、「きれい・汚れていない」というニュアンスがあるかもしれない。しかし、聖書の「聖さ」には、別の意味がある。ボウカムは、「聖なる・聖さ」を次のように定義する。

 

イスラエルは神の契約の民であり、聖さの特別な関係において神と結ばれている。聖さの意味は本来、区別することである。神は特別な意味で、イスラエルの神であることを誓約された。その結果、イスラエルは他の諸国から、神ご自身の民として区別される。(P.65)

 「聖さ」は「汚れていない」という意味ではなく、「他と区別されている」という意味である。よく、「イスラエルは聖なる民」と言うと、「他の国は汚れているのか」と言う人がいるが、それは間違いだ。彼らは、素晴らしいから選ばれたのではない。ただ主権者たる神が、なぜかイスラエルという国を選び、彼らに使命を与えたのである。イスラエルは、神に選ばれ特権を得たが、同時に義務や困難も背負ったのであった。

 

 さて、現代の「クリスチャン、教会の共同体」はどのような存在なのだろうか。「クリスチャン・教会の共同体」も、イスラエルのように神に選ばれ、「区別」された存在である。ボウカムはこのように言う。

 

新約の教会は、特に政治的ではない国際的な共同体として、旧約のイスラエルと連続であり、また非連続でもある。イスラエルのように教会は、その生活のあらゆる面において神に献身した聖なる民であるように召されている。それゆえレビ記の標語(レビ19:2)は、ペテロの手紙第一の1章15~16節において教会にも適用される。(P.76)

 ボウカムが言及したペテロの手紙の記述は以下である。

 

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

(ペテロの手紙第一 1:15~16)

 現代の「教会の共同体」は、イスラエルと全く同じ存在ではない。ローマ11章を読めば、神がイスラエルを選んだ選びは、いまだ変わらないというのは明らかだ。しかし、「神が選び、区別した」という意味では、同じである。ペテロが、このレビ記の記述を引用し、教会の共同体にも当てはめていることから明らかであろう。

 このように書いた後、ボウカムは、教会にチクリとクギを刺す。

 

教会はその普遍的な開放性と、その根源的な聖さへの献身において、より終末的理想に近づくことを目指している。しかしそれができるのは、教会が政治的存在ではないからである。それゆえ教会は常に政治的存在になる誘惑に抵抗しなければならない。(P.76)

 

 教会が政治的存在になる。この誘惑は、想像しているより大きく、強い。

 昨今の日本のキリスト教の世界を見渡すと、この誘惑に完全に負けてしまっているケースが非常に多い。特に、特定の団体や教会のリーダーシップをとっている牧師や教育者たちが、この誘惑にハマっている。彼らは、自分の政治活動は個人の自由だと言い訳をして、自分が持つ影響力を利用している。彼らは、自分の行動や発言が、どのような政治的影響を与えるか考えず、意図的に無視している。

 神学的には非常に慎重な人が、政治の話になると、なぜか途端にタガが外れてしまう。聖書を学ぶはずの団体で、政治色が濃い憲法の勉強会をひらく。特定の政治団体に偏った政治思想を押し付け、国会議事堂の前で祈るよう促す。クリスチャンのリーダーが、政治色の濃い本を出版する・・・etc。

 冷静に見れば、そのような行為は、「政治的存在になってしまっている」のは明らかだ。しかし、誰もそれをおかしいと言わない。「そんたく」しているのである。この状況自体がもうアウトだと、私は思う。

 さらに踏み込めば、私が見聞きするリーダーたちの「政治的主張」は、乱暴に「保守・中道・革新」に区分すれば、圧倒的に「革新」に偏っていると思う。もっと大胆に踏み込めば、ほぼほぼ共産党化」している。私はこれを大変懸念している。

 

 教会やクリスチャン団体が、政治と関わる際に注意しなければならない理由はたくさんあるが、その中で特に強調したい点が2つある。

 ひとつは、神がクリスチャンや教会の共同体をこの世界から「区別」したから。

 もうひとつは、教会や団体が政治に深く関わると、政治団体に利用される危険性が高いからだ。私から見れば、ある教団・団体は革新的な政治組織に乗っ取られてしまっていると言っても言い過ぎではない。

 もちろん、これは「革新が悪い」とか、特定の政治思想への批判ではない。ただ、クリスチャンとしての本来の生き方から逸れてはいないか、という警告である。

 

 聖書は、「政治に関わるな」と教えてはいない。しかし、ボウカムが言うように、聖書が目指すものと、現代の政治が目指すものは、「区別」されている。

 クリスチャンが目指し、待ち望んでいるのは「イエスの再臨」である。この世の中は不完全で、いつの日かイエスがこの地上に帰ってくる。そして、イエスは新しい天と地を創造する。イエスを信じる者たちは、その中で神を礼拝し、楽しみ、喜ぶ。

 現代の政治が目指すものは、リーダーや体系によって様々だが、この国を、社会をより良くしていこうというのが基本だ。この地上をbetterにするのが目的である。これは、終末を待ち望むクリスチャンの考えと、明らかに異なっている。クリスチャンにとって、この地上は「仮住まい」であり、一時的な命や場所でしかない。

 聖書が言う、クリスチャン・教会の共同体の存在の本来の目的は、政治の世界で活動することではない。共同体の目的は、もっと大きな、終末的理想なのである。(無論、個人が政治の世界で活躍することを否定するものではない)

 

 

▼2a:弱者と「連帯」したイエスの姿

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 ボウカムがこの本で何度となく繰り返しているのは、「イエスは弱者と連帯した」という表現である。おそらく、これこそ彼が最も強調したかったポイントである。

 

エスが無力な人々と連帯したことは、私たちに政治の限界を(政治がどんなに重要であっても)思い起こさせる。エスに従う道がある。最も恵まれない人々との連帯を愛し、彼らの問題への政治的な解決の領域を超えていく道である。政治的な権力者は、例えばマザーテレサの働きを助けることはできるが、それを行うことはできない。(P.114)

 エスは、世の中から見捨てられた人、弱い人たちに寄り添った。高熱などの病気の人、夫を亡くした女性、ツァラアトという皮膚病の人、障害者、外国人の女性、不倫をしてしまい社会的に追放された女性、などなど・・・。イエスは、社会的に「汚れた存在」とされていた人たちのものに歩み寄り、彼らに触れ、彼らと一緒に食事をしたのである。

 イエスの姿は、「個人的でミクロなアプローチ」である。エスのアプローチは、社会全体を良くしよう、というマクロな方向性ではない。人ごみの中に、1人の心の病んでいる人を見つけるというアプローチである。ザアカイのエピソードは、イエスの姿勢を分かりやすく表している。

 

 ザアカイの話を簡単に紹介しよう。(詳細はルカの福音書19章を参照)

 ザアカイという人がいた。彼は、税金を取り立てる役人だった。彼は、税金を過剰に取り立てて利益を得ていたので、町の人たちからは嫌われていた。そんな時、イエスが町にやってくる。ザアカイは、イエスを一目見ようと木に上る。そんな時、イエスがザアカイに声をかける。「木から降りてきなさい。今日あなたと一緒に食事をしよう」。イエスはそう言った。イエスは人ごみの中から、ザアカイを見つけ、彼に寄り添ったのであった。ザアカイは心を溶かされ、不正に取り立てた税金を返すと約束した。

 このエピソードから、イエスはしばしば「個人的・ミクロなアプローチ」をしたと捉えられる。しかし、ボウカムは、「イエスのアプローチは”個人的”なものだけではない」と主張する。

 

エスは確かに人々と個人として出会ったが、彼らが属している特定の社会的集団をも尊重した。エスに出会った人々は、福音書の物語においては個人として現れるが、ある人々は私たちにとって、ある社会的集団の代表者として現れる。福音書はイエスが関係した人々を集団として言及している。(中略)このように政治は、個人として個人を扱うよりは、社会の構造と集団を扱う。(中略)イエスが愛にあふれてすべての人々とさまざまな方法で一体となったという文脈においてこそ、エスが貧しい人々に「優先的」な関心を示されたことについて考察しなければならない。(中略)イエスがさまざまな集団を「優先した」のは、彼らが社会的、経済的、宗教的理由のために神の民の社会から相対的に排除されていたからである。(P.281~282) 

 ボウカムは、「イエスがザアカイに寄り添ったのは、彼が『取税人』という立場にいたからという理由もある」と主張する。それは病人でも同じ。「ツァラアトという皮膚病の人」、「『外国人』の『女性』」、「障害がある人」、などなど・・・いずれも「社会的に弱い立場」にあった人々である。

 その立場を決めるのは「政治」だ。だから、イエスは政治を全く無視したわけではない。政治によってラベリングされ、立場を決められてしまった、弱く、苦しんでいる人々だからこそ、イエスは寄り添ったのだ。ゆえに、私たちも政治と全く関係ないとは言えない。

 「政治」というときに、私たちは21世紀のポリティクスを念頭に置いてはならない。1世紀の「政治」は「宗教」とは切っても切り離せないものであった。「皮膚病」、「外国人」、「女性」、「障害がある人」、などなど・・・弱い立場にあった人たちは、なぜそのような立場にあったのか。その理由は、「宗教・文化」にあったのだ。

 実際、彼らが弱い立場に置かれた根拠は、聖書の記述だった。ユダヤ教では、障害がある人は祭司になれなかった。それはレビ記の記述が根拠になっている。ダビデの発言から、障害者は神殿に入ることができなかった。それらは全て、当時のローマの政治家が決めたのではなく、ユダヤ教の宗教的な文化が背景にあったのだ。

(もっとも、21世紀の政治も、全く宗教と無関係ではない。日本の政治においては、創価学会が母体の公明党がある。立憲民主党の議員らには仏教系の「立正佼成会」が支援する議員らがいる。他にも見えない宗教団体が背後にたくさんある)

 

 イエスは、そのような宗教的・文化的に「弱者」であった人々に「優先的」に接し、寄り添うことで、彼らを自由にした。これは、「政治」と全く無関係ではない。

 現代の政治は、より大きな形で弱者を支援する。例えば、我々は、「税金」を納めることによって、「生活保護」や「障害者年金」などのシステムの恩恵に預かっている人々を支えている。見えにくいが、これも立派な「弱者への優先的な寄り添い」にカウントしても良いと、私は思う。

 もっとも、さらに直接的に関わるべきと考える人もいる。「Servants」(サーバンツ)という団体のように、実際に東南アジアのスラムに住むというミニストリーを行っている人たちもいる。彼らのミニストリーは、ただ同じ場所に行って、一緒に住むだけ。教会を作ったり、システマチックな”布教活動”をしたりはしない。その行動は尊重されるべきものである。

 

 さて、本題に戻れば、クリスチャンにとって大切なのは、どのようなモチベーションで、政治に関わるかである。ボウカムは次のように言う。

 

新約の自由の理解は、他者からの自由ではなく、むしろ他者のための自由である。それはすでに旧約の社会的責任において暗示されている。(P.261)

外的な解放がその名に値するのは、人々が自由にされ、生きるのは他者のため、すべての他者のため、さらに彼らを抑圧する人々のためとなったときである。(P.232)

 ボウカムは、私たちが真実に自由になるのは、弱者と連帯(寄り添う)したときだ。と言う。その通り。こう考える時、「安倍政権・自民党政権が続けば、信教の自由を脅かす!」と声高に叫んでいる人たちのモチベーションは、どこにあるのだろうと疑問に思う。彼らに、社会的弱者への関心はない。自分たちの宗教活動が脅かされるという妄想に取り憑かれているだけだ。

 戦時中、本当にイエスに信頼した人たちは、信仰を捨てなかった。信仰を捨てて、神社参拝や天皇崇拝をしたのは、妥協してしまった人たちだった。私たちの信仰は、国の方針なんて人間が決めたもので、左右されはしない。迫害されたら、ラッキー、くらいの信仰を持とうではないか。

 

 

▼2b:マクロとミクロの世界

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  弱者と連帯したイエスの姿を見るとき、クリスチャンの政治への関わり方が少し見えてくる。この世の中の政治は、「マクロ的思考」で動いている。この「国」を良くしたい。この「社会」を良くしたい。GDPを上げたい。出生率を上げたい。政治とは、えてしてマクロな視点になりがちである。それは、ある意味で当然のことである。

 しかし、イエスは違った。「このザアカイという人の悩みは何だろう」というのが、イエスの視点だった。盲目の人に、「あなたは何をしてほしいのか」と、あえて聞いた。それが、イエスの姿だった。イエスは離れていても、言葉だけで病気を治すことができた。もし、「より多くの人を治した方がいい」のであれば、ちゃちゃっとやってしまえばよかった。しかし、イエスはそうしなかった。彼は、自分の足で歩いて、手でさわって、一人ひとりと関わったのである。

 イエスのアプローチは、「目の前の一人の人の心にふれる」という方法だった。クリスチャンは、ここに一つの政治的アプローチのヒントを見出すことができる。それは、マクロではなく、目の前の一人のためのミクロなアプローチである。どういうことか。分かりやすくまとめてみた。

 

【マクロ(政治的な)アプローチ】

・この国のGDPを高めたい

・この国の結婚率を上げて、出生率を上げたい

・日本のキリスト教の世界を元気にしたい

・日本人のクリスチャンが聖書が読めるようになってほしい

 

【ミクロなアプローチ】

・お隣の山田さんが明日食べられるものに困っている➔お惣菜をあげよう。

・教会の高橋くんが出会いに困っている➔祈ってみよう。誰かを紹介してみよう。

・隣の教会を元気にしたい➔まずは何が問題なのか聞き取りをしてみよう。

・教会の渡辺くんが聖書が読めるようになってほしい➔じゃあ一緒に読むよう誘ってみよう。

 

 この国を良くしたい。日本のキリスト教界をどうにかしたい。そう考えると、なかなか答えは見つからない。しかし、小さく考えれば簡単だ。隣の山田さんを笑顔にしたい。お隣の教会の佐藤さんが、車がなくて買い物ができずに困っているから、助けてあげたい。そういう小さく、個人的な解決方法を考えれば、簡単で、すぐに実行できる。これがミクロなアプローチだ。

 

 

▼前半まとめ

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1:教会、クリスチャンは「区別」された存在である。ゆえに、教会という単位で、ある一定の政治的な方向性を信者たちに強いるべきではない。

2:エスは弱者に寄り添い、連帯した。エスは「個人」にも「立場」にも寄り添った。だから、私たちはイエスの姿から、政治に全く無関心であるわけにはいかない。大切なのは、「弱い人に寄り添う」というイエスの模範を、どう現代の政治に関わりながら実現していくかである。イエスの「ミクロなアプローチ」はクリスチャンにとって、とても参考になる。

 

 政治ほど、正解がなく、指針もなく、主張にバラつきが出るものも珍しい。実際に取材をしていて、政府の主張も、与党の主張も、野党の主張も、どれも納得のいく部分と、いかない部分がある。メディアの切り口も、日本の記者クラブ制度という極端な横並び体制にも関わらず、様々なものがある。

 一方で、クリスチャンには「聖書」という唯一絶対の指針がある。私たちは、まず「聖書」をベースに置いて、その上で政治と関わる必要がある。時に、社会的常識や風潮と、聖書の価値観が真っ向から対立する時は、冷静な判断力が必要である。

 イエスは、決してマクロな方法をとらなかった。彼は、「目の前の一人の人」に寄り添ったのであった。しかし、イエスのその姿勢が、結果として多くの人の心を打ち、2000年経った今でも、世界中の人々を魅了しているのである。ミクロなアプローチが、結果としてマクロなアプローチとなっているのだ。これが神の法則だ。クリスチャンは、このようなマインドを持って、政治について考えてみてはどうだろうか。 

 

次回は、

3:クリスチャンは現実の政治とどう関われば良いのか、

4:核の脅威と神の約束にどう向き合うべきか、

5:エステル記の解釈から、時代を乗り越えられなかったルターの姿を見て学ぶこと、

 

の3つのテーマについて語ろうと思う。

★後編はこちら★

yeshua.hatenablog.com

 

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「聖書と政治 社会で福音をどう読むか」リチャード・ボウカム 著・岡山英雄 訳、いのちのことば社 http://amzn.asia/d/hc7jhra

  

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

www.cloudchurch-japan.com

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

www.youtube.com

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエスNo.4】「問題意識を仕事にする」津村崇啓@会社経営者(不動産・結婚相談所)

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第4段は、津村崇啓さん!

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【Profile】

名前:津村崇啓(Takahiro Tsumura)

生まれ:1986

出身:北海道札幌市

最終学歴:早稲田大学創造理工学研究科 修士課程修了

職業:不動産コンサル会社

→ 株式会社プラウス取締役(不動産店長・結婚相談所所長)

プラウスHP】PRAUS

【結婚相談所HP】marriage-lita

 

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180823113525j:plain よろしくお願いします。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 津村さんは、色々なことを手がけてらっしゃるイメージがあるのですが、結局、仕事としては何をやっているんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 不動産業をやっています。それと合わせて、クリスチャン専門の結婚相談所を今年の4月からはじめました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 不動産に結婚相談所! なんだか繋がりが見えない組み合わせですが、順番にお聞きしていきたいと思います。

 

 

ミステリサークルに入りたくて大学へ

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f:id:jios100:20180702131349j:plain ご出身はどちらなんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 北海道出身です。でも、うちは転勤族だったから、北海道は2歳までしかいなくて、そのあとは横浜に5年、名古屋に5年、そのあと長野6年。それで大学から東京ですね。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain わわ。そうなると、地元と聞かれても、どこって言えないですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうなんですよ。難しいですよね。「名古屋出身」とか「長野出身」とかいう人たちがいると、「私もです」って話は合わせられますけど、本当の故郷はどこだか分からないですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学は早稲田に。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうです。早稲田の理工学部

f:id:jios100:20180702131349j:plain 理工学部ですか。てっきり商学部とかで経営を学ばれたのかと。

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは。でも、一応、経営システム工学っていうのをやっていたんですよ。でも、早稲田を目指したのは、別に勉強が目的じゃなかったんですよ。高校時代、推理小説にハマっていて。早稲田には「ワセダミステリクラブ」っていう有名なミステリー小説のサークルがあって。そこにどうしても入りたくて、早稲田を受験したんです(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ミステリクラブ! 聞いたことあります。推理小説を書いたりもしてたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain いや、サークルに書く人はいたんですけど、僕は書かなかった。読んで、ひたすら推理小説について語るっていう感じでした。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 理工学部では大学院まで行かれたそうですが、何を研究していたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 人間工学っていうのをやっていました。ちょっと昔、「人間工学採用」っていうシャーペンとかも売っていましたけど、あんな感じです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なんだか、今の不動産や結婚相談所の仕事と、全く関係ない感じですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは、本当そうだよね。

 

 

エスとの出会い 〜リスクと期待値?!〜

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f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスと出会ったのはいつですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 大学1年生の時。キャンパスのベンチに座っていたら、クリスチャンの先輩が声をかけてくれて。それがきっかけで教会に行き始めたんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 教会に誘われて抵抗はなかったんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 全くなかったですね。行ってみて、イヤだったら引き返せばいいだけの話だし、それよりも「知ってみたいな」という好奇心が勝りましたね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最初に教会に行った時の印象は?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain ビックリでした。それまでの「教会」のイメージと全く違いました。静かにお祈りとかしているイメージだったのに、音楽はバンドのスタイルでバリバリやってるし。建物も「十字架かかってるけどただのビルじゃん」って思って。すごく賑やかで、「こんなところが教会なんだ」っていうのが素直な感想ですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そこから徐々にイエスを知っていった?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。学生だったので、日曜日は特にやることもなかったし、抵抗なかったですね。教会行ったら、韓国系の教会だったので、ビビンバ食べ放題だったんですよ(笑)学生にとってタダ飯ほどありがたいことはなくて(笑)そういう結構単純な理由でしたね。教会に行き始めたのが大学1年の5月で、その年のクリスマスに洗礼を受けました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 洗礼を受けるキッカケはあったんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain う~ん。僕は衝撃的に出会うっていうパターンじゃなかったんですよね。これは、ある意味理系の考え方なんですけど、リスクと期待値を比べたんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain リスクと期待値・・・???

f:id:jios100:20180823113525j:plain 考え方が2つありますよね。イエスがこの世に来て、死んで復活したとか、神様がこの世界を創造したっている考え方がひとつ。もうひとつは、今まで当たり前に信じてきた、ビッグバンが起こって、地球が偶然できたっていう考え方。どちらも可能性あると思ったんですよね。

で、別に信じる、信じないっていうのは一つの決断だから、信じてみて、もし間違っていれば、その時引き返せばいいやと思って。だから信じることのリスクはないな~って(笑)リスクと言えば日曜日に教会行く時間が取られるっていうことくらい。だったら信じる期待値の方が高いなっていうのがキッカケ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain めちゃくちゃ合理的じゃないですか・・・(笑)

f:id:jios100:20180823113525j:plain ははは。でも、洗礼を受けて12年が経ちますけど、この道は絶対に正しかったと思いますよ。生きている中で、神様が働いているのを感じますから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様に信頼して生きていると、その力を感じずにはいられないですよね。

 

 

日曜日に休める会社を探して

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 就職活動は、どのようなポイントで会社を選んだんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain 大学時代にクリスチャンになったので、一番のポイントは、日曜日に休めるっていうことでしたね。教会に行くことを最優先にしたかったから。あとは、不動産っていう業界は、ずっと興味がありました。土地とか建物っていうのは「衣食住」の「住」にあたる重要な部分で、絶対になくならないものの一つ。だから、日曜休める+不動産業の会社っていうポイントで選びました。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最初は経営者じゃなくて、就職の道を選んだんですね。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。でも当初から経営者の道は考えていました。それで、将来的に独立とか、起業っていうことを考えた時に、ある程度小さい会社で働いて、その会社がどう成長していくか、間近で見てみたかったっていうのはありましたね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ナルホド。つまり、ポイントは日曜日休めて、不動産業で、かつ小さい会社ってことですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。あとは、「新卒をまだ採用していない会社」

f:id:jios100:20180702131349j:plain 新卒を採らない会社? どういうことですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 新卒を採用できるっていうことは、会社がそれなりの成長をしているっていうことじゃないですか。それより前のステージを経験したかったので、新卒の募集をかけていないところを探しました。あとは、「不動産業の経験がなくてもOK」っていうことかな。で、その条件で探したら、もうほぼ就職した会社以外見つからなくて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学院卒とはいえ、新卒だったんですよね? 新卒採用していない会社にどうやって入ったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。だから、その会社に「新卒でも採用してもらえますか」とメールで送ってトライしてました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うわぁ、そこはアグレッシブなんですねやっぱり・・・。面接の時意識したことはありますか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり、まず最初に「日曜日に休みたい」と伝えることかな。そうすると、必然的にクリスチャンであることを伝えられるし。それで、就職が決まった。会社名が「リ・バイブル」。

f:id:jios100:20180702131349j:plain めっちゃクリスチャンっぽい名前じゃないですか・・・(笑)

f:id:jios100:20180823113525j:plain 別にクリスチャン全然関係なかったんですけどね。僕の「株式会社プラウス」より、よっぽどクリスチャンっぽい名前ですよね(笑)

 

 

不動産コンサルティング会社に ~壮絶な社会人生活~

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↑大学院卒業後、就職した不動産会社

f:id:jios100:20180702131349j:plain それで、始まったばかりの不動産会社に入社したんですね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。不動産のコンサルティング会社ですね。まだ会社が始まって3年目で、従業員も5人しかいないところでした。人数が少なかったので、社長のそばで、全部物事が決まっていくというのを間近で見ることができました。死ぬほど忙しかったですけどね(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain めちゃめちゃ少数精鋭ですね。日曜は休めたんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain そこは休ませてもらいましたね。でも、それ以外の日は、頑張りましたよ。9時に出社して、その日の24時まで毎日働く生活をしていました。それがイヤだったので、せめて、朝3時間早く出社するから、3時間早く帰らせてくれと交渉したんです。それで僕は6時に出社して、21時に帰ったりしていました(笑) 

f:id:jios100:20180702131349j:plain ひええええ。1日15時間労働ですか・・・どのくらい続けたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 結局、キツすぎたというのもあって、半年でその会社は辞めました。その後、転職しようと思ったのですが・・・

f:id:jios100:20180702131349j:plain 思ったのですが・・・?

 

 

履歴書書くのがめんどくさくて独立

f:id:jios100:20180912120447j:plain

↑不動産屋を開業

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社を辞めてからはどうしたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain その後、もう1~2社くらいは会社で勤めようと思ったんですよ。それまでのつなぎとして、副業のつもりで不動産をやっていたんですよね。そしたら、あれ? 不動産でも食べていけるなと思って。結局、そのまま独立しちゃいました。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain なぜ他の会社には行かなかったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 正直に言うと、履歴書を書くのがめんどくさくなっちゃって(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain えっっっ。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 途中までは書いたんですけどね。ああ、またこれ書くのかって思ったらめんどくさいなって(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇぇ(笑)

f:id:jios100:20180912120502j:plain

↑会社のチラシ。実は就活イエスNo.3で登場したダニエルさん作成!

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1人でやっていくノウハウはどこで身につけたんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain これは、完全に神様の助けですよ。それこそ、スキルがあるわけでもないし。でも、なぜか仕事が舞い込んでくるんですよ。キツイ時も、もちろんありましたけどね。でも、ヤバい時になったら、必ず神様が動き出してくれて、自然と物事が動き出すんですよね。  

f:id:jios100:20180702131349j:plain クリスチャンとしての人生って、そういう小さな奇跡を喜べることが、特権ですよね。

 

 

「クリスチャンの結婚」への問題意識

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↑不動産のお店にはカップルも来店する

f:id:jios100:20180702131349j:plain 結婚相談所を始めるキッカケは何だったんでしょうか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain ずっと自分の中で問題意識があったんですよね。僕はもう12年間教会に通っていますが、クリスチャンが結婚する難しさを肌で感じていました。特に、教会の中にいる素敵な女性たちが結婚できないという姿を見ていて、「このままじゃいけない」と、問題意識を持ったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 確かに、クリスチャン同士の結婚って難しいですよね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうなんです。クリスチャン同士で結婚したいと思ったときに、教会の中で探す以外に、チャンスがとても少ない。そもそも、日本の教会の男女比は3:7くらいで、女性が圧倒的に多いので、なかなかクリスチャンの結婚は大変だなと思っていたんです。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 教会の中で出会いがなかったら、もうどうしようもない。

f:id:jios100:20180823113525j:plain おっしゃる通り。だから、クリスチャンの結婚に対して、できることがあるんじゃないかなと、ずっと考えていたんです。ニーズもあるなと思って。3~4年前から、そういうことをずーっと考えていました。そして、今年結婚相談所を立ち上げました。

 

 

▼結婚相談所を立ち上げたキッカケ 

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↑津村さんの結婚相談所「Lita marriage service」のチラシ

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実際に、今年、結婚相談所を立ち上げた。そのアクションに踏み切ったキッカケは何だったんですか? 

f:id:jios100:20180823113525j:plain 実際にクリスチャンの結婚相談所をやっている方と知り合ったのがキッカケですね。「ペテロの涙」というクリスチャンの結婚相談所を運営している方と、今年の1月に知り合って。はじめは、不動産の仕事が欲しくて会ったんですよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 不動産の仕事で・・・?

f:id:jios100:20180823113525j:plain ホラ、結婚すると、新しい物件を探すじゃないですか。だからそこで物件を探している人たちと繋げてほしいなと思って。元々は、そういう不動産のビジネスの目的で会ったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain でも、それが結婚相談所を立ち上げるキッカケになった。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そう。話を聞いているうちに、「あれ、これ自分でやってもいいんじゃないかな」と思い始めてですね。結婚相談所というビジネスモデルは昔からあるし。1月にペテロの涙の人と出会って、3月末までに、教会の独身メンバーたちを呼んで、ヒアリングをしました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ヒアリング・・・?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain つまり、何に問題意識があるかっていうことですよね。ビジネスにするためには、まず現場のニーズを知らないといけないので。それで、ある程度の方向性を固めて、4月に結婚相談所をスタートさせました。Lita(リタ)という名前です。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 元々あった問題意識をビジネスに発展させてしまうなんて・・・。普通発想はあっても行動までできませんよね。スゴイなぁ。

 

 

結婚相談所を始めて

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↑お見合いのための場所は必ず津村さんが下見をしている。

f:id:jios100:20180702131349j:plain Litaっていうのは、どういうサービスなんですか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain いわゆる、仲人型の結婚相談所です。アプリとかもありますけど、仲人として人が介在しないと、単純な出会い系と同じになってしまいますから。Litaの場合は私が必ず全員と面談してから紹介するようにしています。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、全員と面談しているんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain はい。紹介する前に、会員さんの承諾を得られれば、必ずその教会に行くようにしています。牧師さんにも挨拶して、祈ってくださいとお願いしています。牧師さんに挨拶をすると、その会員さんの本当の人柄も見えますし。あとは、教会からも信頼してもらえるように注意しています。勝手にやっていると思われると、会員さんにとっても良くないので。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ものすごく細かいところまで配慮なさってるんですね。ところで、気になっていることがひとつ。

f:id:jios100:20180823113525j:plain なんでしょう?

f:id:jios100:20180702131349j:plain Litaって、値段設定がめちゃくちゃ安いじゃないですか。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 安いですね(笑)

f:id:jios100:20180702131349j:plain ゲロ安ですよね。

f:id:jios100:20180823113525j:plain 普通の結婚相談所は、入会金10万、月額1万とかザラですからねLitaは、入会料28,800円、月額2,980!)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain その意図はどんなところにあるんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain これは、実際にやってみて、多少変わってはきているんですが、元々は若い内から結婚に向けて動いてほしいなと思ったからですね。20代でさえ、クリスチャンの結婚っていうのは狭き門じゃないですか。動き出すのは早ければ早いほどいい。そう思った時に、20代でも気軽に使える値段設定っていうのをまず考えました。将来的には、クリスチャンなら、社会人になったら必ずLitaを使うっていうくらいを目指して始めました。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 実際にやってみたところ、どうなんですか? 若い人も利用されてるんでしょうか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり当初の方向性とは違いましたね。

 f:id:jios100:20180702131349j:plain 一体どんなとろこが・・・?

 

 

見えてきた課題 〜結婚相談所は教育の仕事〜

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↑新宿のオアシスブックセンターにもLitaのチラシがあります。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain フタを開けてみると、少し現状は違って。20代はそもそも、結婚に対してのモチベーションが低いってことが分かったんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 確かに、僕も20代ですが、登録するのは抵抗があります。

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですよね。もちろん、20代でも登録していただいている方はいらっしゃいますが、どうしても率としては30代、40代が多くなる。値段の問題じゃないんだっていうのが分かったんです。安ければ若い人も使うと思ったんですが、そうではなかった。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 現状はどうだったんですか?

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 一番は、人間の心のモチベーションですよね。本当に結婚したい人は、値段なんて関係ない。100万円でも200万円でも構わないから、結婚したいと。そのぐらい切迫感がある。20代には、まだその切迫感がないんですよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain やっていく内に、課題が見えてきたんですね。何が必要だと思いますか? 

 f:id:jios100:20180823113525j:plain やっぱり、教育ですよね。教育的側面がものすごく必要。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 私も、日本のクリスチャン界は「結婚観」について教育不足だと感じています。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですよね。究極的には、結婚相談所って、紹介じゃなくて、教育の仕事だと思うんですよね。結婚に関して、クリスチャンとそうでない人は、そもそもの考え方が根本的に違う。神様は、「サポーター・助け手」として女性を作ったじゃないですか。その女性と男性という2つの存在が1つになるっていうのが、結婚の基本じゃないですか。 

f:id:jios100:20180702131349j:plain その通りです。

f:id:jios100:20180823113525j:plain 「好きだから結婚する」っていうのは、クリスチャンにとっては違うんです。もちろん、感情は神様が作るものだし、自由意志も与えられていますが、でも、「結婚」ってもっと奥深いものだと。人間の感情って移り変わるものじゃないですか。ずっと「好き」でいられるんですかと。そうじゃなく、クリスチャンの結婚は、「愛する」という決断をして、家庭を作るっていうことなんですよ、って思うんですね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 本当にその通りです。その価値観が当たり前になってほしいなと思います。

 

 

経営者としての難しさ

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンはありますか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain とにかくいろんな人にLitaのサービスを知っていただいて、結婚するカップルの率を上げていきたいですね。このサービスがあったから結婚できたという人が増えて、幸せな家庭を増やしたいっていうのが根本にあります。結婚してからのサポートのプログラムもやっていけたらと思います。夫婦の関係改善のプログラムとか。

f:id:jios100:20180702131349j:plain クリスチャンの経営者としての難しさはありますか?

f:id:jios100:20180823113525j:plain そうですね。何だろうなぁ・・・やっぱりお金を求めるかどうかっていう葛藤は、クリスチャンではない人より多いと思います。普通は、お金をできるだけ稼いで、企業をできるだけ長く存続させるのが目的じゃないですか。でも、クリスチャン経営者が、お金を目的にすると、神様に叱られる(笑)。

f:id:jios100:20180702131349j:plain お金についての葛藤はありそうですね。 

f:id:jios100:20180823113525j:plain 経営者としてよくある葛藤は、日曜日に仕事をするかどうかということだと思います。お店だったら、日曜日も仕事した方が絶対に儲かるんですよ。不動産っていう仕事も、土日が稼ぎ時です。当たり前ですよね。休みで、物件を見に行くのは土日なんですから。

だから、日曜日に物件を見に行きたいと、お客様に言われたときにどう対応するか。私の場合は、できるだけ土曜にずらしてもらうか、それでも無理なら日曜の午後にしてもらうようにしています。要するに、目先の利益か、神様か、どちらを優先するかっていう問題だと思うんですよね。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも心に留めている聖書の言葉があれば教えてください。

 f:id:jios100:20180823113525j:plain 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」
(テサロニケ人への手紙 5:16~18)<新共同訳>

これは洗礼を受けた時から握っている聖書の言葉です。シンプルに、神様が「喜べ、祈れ、感謝せよ」と言っていることを守ればいいんだ! っていつも思っているんです。

f:id:jios100:20180702131349j:plain いつも神様を信頼して、自分の問題意識をすぐに行動に移して解決しようとする津村さん、カッコいいです・・・!!! ありがとうございました!

 

↓↓↓津村さんの結婚相談所、【Lita marriage service】のリンクはこちら↓↓↓

marriage-lita

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LitaのLine@↓↓

https://line.me/R/ti/p/%40mgt4652r

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「神学生」ってそんなに特別なの?

教会に行くと、「神学生」という謎のポジションの人がいます。彼らはそんなに特別で、エラいのでしょうか?

 

 

▼「神学生」ってなんぞや

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 教会に行くと、ちょっと若くて、メガネをかけている、無口で真面目そうなお兄さんがいる。「あのお兄さんは、『神学生』なのよ。偉いわねぇ」とオバちゃんたちが言う。私は、子ども心ながらに、「神学生ってなんぞや」と思っていた。教会の人たちは、「牧師」や「伝道師」に接するように、「神学生」にも接していた。子どもの私から見た「神学生」は、教会の雑務をこなす、アシスタントのように見えた。

 大きくになってくると、「神学生」というのは、「神学校」という学校で聖書とかを勉強してるらしい人だと分かった。いずれ、「伝道師」とか「宣教師」とか「牧師」とかになる人たちなんだろうなと思っていた。

 私がイエスと出会ったのは、16歳の時だった。すぐに信じた。その時の喜びは、比べようがない。嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。世界が180度変わって見えた。私の夢は、すぐに「牧師になってこの喜びを伝えたい!」というものになった。今でもそれは変わっていない。

 そこで、違和感を覚えた。あれ、待てよ。「神学生」は、私と同じ夢を持っているはずだ。このイエスの素晴らしさを伝えたくて、クリスチャンたちを教えたくて、励ましたくて、神学校に入学したはずだ。それなのに、なぜ。私は、今まで出会った「神学生」たちを思い返していた。どうして彼らは、絶望的な顔をしているのだろう。今まで出会った神学生は、それはそれは暗く、無口で、真面目は真面目だが人と関わらず、いつも肩を落としているように、私には見えた。

 もっと大人になると、だんだんと問題点が見えてきた。今回は、「神学生」という呼び名にそもそも意味はあるのか。「神学生」を特別扱いするデメリット。「神学生」と他を区別することで起きる怠惰の危険性、について書こうと思う。

 

 

▼「神学生」はただの「大学院生」

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 まず、「神学生」という呼び名を考えたい。「神学生」とは、「神学校」という学校に通っている人を指す。では、「神学校」とはどういうところなのか。聞いてみると、聖書や神学、ヘブライ語ギリシャ語を学ぶのだという。組織神学とかよくわからんやつもやるらしい。

 つまり、簡単にいえば、「神学校」というのは、「聖書」や「キリスト教」を学んでいる大学院である。「神学生」はそこで学ぶ「大学院生」である。たまに学士からの神学校や、博士課程の神学生もいるが、とにかく、「大学生・大学院生」と変わりがない。つまり、教会では、なぜか「ただの大学院生」に「神学生」というラベルを与え、呼んでいるのだ。

 呼び名だけならば、まだいい。しかし、多くの場合、「神学生」には、過剰な期待がかけられる。「牧師や宣教師、伝道師のたまご」という目で見られ、品行方正な生き方を期待される。「教会のことは手伝って当たり前」というプレッシャーがかけられる。聖書に詳しく、どんな質問にも的確に答えられるという印象をもたれる。素晴らしい人格者。ピアノやギターもできる。そんな期待が、「神学生」という呼び名に、無意識に込められている。 

 誤解を恐れず言えば、この期待は全くの間違いだ。神学校に言っている学生は、そのような人ではない。ただの大学院生だ。他の工学部の大学院生や、法学部の大学院生と、何ら変わりはない。ただの学生に、そのような期待をかけてしまうのは、筋違いだ。

 もっと誤解を恐れず言えば、神学生の中には、「他に行くところがなかった」という人もいる。社会で失敗してしまった、活躍できなかった、認めてもらえなかった。そのリベンジとして来ている人も、実際のところ、いる。これは悲しいが、現実だ。私の友人は、都内の大学院を卒業後、ある神学校に入学したが、こう言っていた。

 

「神学校に行けば、もっと聖書のことを学べると思っていたけど、勘違いだった。そもそもクラスメイトに、勉強ができない人が多すぎる。大学レベルのことについていけていない。彼らのペースに合わせるので、授業の進みが遅く、すごくフラストレーションがたまる。これなら、自分で本を読んで勉強する方がマシだった」

(とある”神学生”のつぶやき)

 彼は、そう落胆し、神学校を退学した。「神学生」は、学力面で実は一介の学生より劣っていることもあるのだ。

 もっと言えば、牧師や宣教師にもそのような期待をするのも筋違いである。私たちが、期待をおける人間はいない。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」(マタイ11:11)というのは本当なのである。

 人間に期待はできない。では、誰に期待ができるのか。私たちが期待をおける方はただ一人、神であるイエスである。それ以外は、みな同じ人間だ。ミスもするし、不完全で、時代の枠から出ることのできない存在である。聖書にはこうある。

 

どんな知恵も英知も、はかりごとも、主(神)の前では無きに等しい。

箴言 21:30)

 彼らは、「聖書について勉強をしている」というだけの学生である。彼らが聖書を研究しているように、法学部の学生は法律を研究している。会社で働く人間は、働くスキルを極めている。そこに、上下関係はない。どちらが偉くて、どちらが劣るという関係ではないのである。「神学生」というラベリングに、意味はない。

 

 

▼無駄なプレッシャーを「神学生」に与えるなかれ

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 この「神学生」、かわいそうなことに、いらないプレッシャーと日々戦っている。先に述べたように、教会の中では、他の人と区別され、比較され、過剰な期待をかけられる。それが分かった時、私は、「ああ、だから僕が出会ってきた『神学生』はみな、無口で、表面だけ真面目で、人と関わらなかったのか」と納得した。彼らは、この意味不明な期待に応えようとするあまり、ボロを出すまいと、人との関わりを避けていたのである。なんとかわいそうな神学生! 彼らは、必死で素の自分を隠し、表面上の「神学生」を演じていたのだ。

 神学校によっては、「携帯電話の使用禁止」や、「異性と会うのを禁止」(または許可が必要)しているところもあるという。これには開いた口がふさがらない。お前ら、いつの時代のアーミッシュだよ。と言いたくなる。今日び、アーミッシュの若者は馬車でデートし、ユダヤ人の超正統派だってナイショでケータイを使ってるし、ナンパもしているのに・・・。キリスト教だけが時代遅れ。そのような禁欲主義は、隠れてコソコソする技を身につけるだけだ。だから、牧師のカネ・女問題は後を絶たない。ああ残念だ。そのような禁欲主義は「肉のほしいままの欲望に対して、何のききめもない」。猛省せよ。

 

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

(コロサイ人への手紙 2:20~23)

 

 クリスチャンは、もう一度、「ラベリング」をやめる必要がある。牧師だろうが、宣教師だろうが、牧師の子どもだろうが、神学生だろうが、クリスチャンの家庭に生まれていようが、大人になってからクリスチャンになっていようが、全くもって関係ない。クリスチャンは、同じ、「赦された者」として、お互いを「不完全で弱い存在」だと認め合いつつ、愛し合う必要がある。お互いに、支え合い、助け合う必要がある。そして、足りないところを補い会い、それぞれの役割を果たすことで、成長していく必要がある。

 

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(中略)

キリストによって、からだ(共同体)全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:13~16)

 

 福音を語ったり、福音に生きるのは、牧師や神学生だけの役割ではないのだ。

 

 

▼自分で学ぶ気概を持とう

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 「神学生」というフレーズを使うと、怠惰になる危険性がある。それは、無意識に「神学生」と自分を区別してしまい、自ら学ばなくなるという危険性である。聖書を見れば、「自分で聖書を読む」のがいかに大切か分かる。

 

この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。

使徒の働き 17:11~12)

 ベレヤの町の人々は、パウロが伝えた話も鵜呑みにせず、聖書を自分たちで調べて、そして信じるという判断をしたのである。聖書は、それを「素直で熱心だ」と表現している。新改訳第3版では、彼らは「良い人たち」と表現されている。

 もちろん、「牧師」や「神学生」はそれなりの時間や労力、財力を投資して、聖書を学んでいる(学んでいた)はずである。だから、彼らの知識にあずかるのは、方法論としておおいにアリだ。むしろ、効率が良いので、どんどん教えてもらったらいいと思う。しかし、「彼ら"しか"語る資格がない」と考えてしまっては黄信号。その失敗を犯したのは、ローマ・カトリックで、最終的には、「一般信徒は聖書を読む資格がない。司祭が聖書を読み、信徒は聞くのみ」という文化になってしまった。それに異を唱え、「聖書は誰でも読める」としたのがルターの宗教改革だった。

 そもそも、なぜ大学に行くのだろうか。それは、「その大学にしかない情報、つまり蔵書や論文を読むため」である(もちろん他にもあるが、私の言いたいことを汲み取ってほしい)。かつては、新しい情報を得るには、本や論文を読むしかなかった。だから人々は大学に集い、本を熱心に読んだ。

 その前提に立つと、現代において、大学に行く意味はなくなったとは言わないが、薄まったといえるだろう。なぜなら、ある程度の本、論文、情報は、インターネットを通して、自分の手に入るようになったからだ。インターネットの開発のそもそもの目的が、遠くにある大学の書籍や論文を読めるようにするためのシステムだったと言われている。今や、死海文書もgoogleで読める時代になった。また、様々なセミナーなど、学ぶ機会も、神学校以外にたくさん提供されるようになっている。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代が来ているのである。学ぶリソースはいくらでもある。「神学校」なんてところにいかなくても、いくらでも学べるのだ。

  クリスチャンは、自分で学ぶという努力を、怠ってはいないだろうか。自ら学ぶことができない人は、神学校に行っても、結局、授業がツマラナイだとか言い訳をして、学ばない。結局は、学ぶ心、学ぶ姿勢があるかどうかなのだ。まず、自分自信で学ぶ気概を持とうではないか。

 

 

▼おまけ:「PK・かたくりこ」という謎の呼び方

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 オマケに、クリスチャンの世界には、まだまだ謎の呼び名がある。私は、こんなくだらないラベリングは、即刻やめればいいのにと、悲しく思っている。今回は、2つ解説しよう。

 

【PK】

・Pastors Kidsの略。「牧師の子ども」という意味。某ゲームキャラクターの必殺技、「PKファイヤー」ではない。牧師の子どもと、他の子どもに何の区別も差別もないはずなのに、なぜかこうやってラベリングをする。周囲は、「牧師の子どもだからイイ子に違いない」という間違った印象を持ち、自分たちは「真面目に生きなきゃ」という、間違ったプレッシャーを感じている。冗談でよく、「Problem Kids」の略だとも言われる。牧師の子どもであろうが、他の子どもであろうが、本質は同じ。この呼び方には、デメリットだけがあって、メリットが全くない。何がPKじゃ。サッカーじゃねえんだからさ。

【かたくりこ】

「片親だけがクリスチャンの子ども」の意味。両親どちらかだけがクリスチャンというパターンは以外に多く、このようなジョークの呼び名がついている。これも、ナンセンスだ。クリスチャンの信仰は、親によるものではない。自分でイエスを信じるかどうか、ただそれ一本のみである。このような呼び名がつくと、「片親だけがクリスチャンだと劣等だ」と感じる人もいるのではないか。そんなことは全くない。この呼び名も、センスが全くない。福音を理解していない。他にも、「モンブラン」という呼び方もあるそうだが、意味が分からないので誰か教えて。

 

 こんな呼び名にいちいち腹を立てるなと思う人もいるかもしれない。しかし、逆に言えば、このような小さなことから変えていかなければ、無意味なプレッシャーをお互いに与え続ける、教会の悪い習慣は、変わらないと思う。

 

最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

(ルカの福音書 16:10)

 


(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【疑問】「神のみこころ」は、どうやって見極めるのか?

クリスチャンはよく「神様のみこころだ」と言って物事を決めますが、本当に「神様のみこころ」なのでしょうか?

 

 

「みこころ」の乱用

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 クリスチャンと話していると、時々、耳慣れないフレーズが出てくる。「みこころ」というのもそのひとつだ。「御心」と書く。「みこころ」とは、神の御心、つまり、「神の計画」を意味する。それなら、神の計画と普通の言葉で言えばいいだが、なぜかクリスチャンはそういう特殊な用語が大好きで、このような言葉をよく使う。

 クリスチャンは、神の計画通りに生きていきたい、という考えを持っている。クリスチャンにとって、この「みこころ」を知り、それに従うというのは、人生の至上命題だ。進学、就職、結婚、子育て、転職、などなど・・・。人生の分岐点で、「みこころ」を求めるのは、クリスチャン人生の常である。

 本当に神の計画に従いたいというモチベーションを持っているのであれば、それは素晴らしい。しかし、時としてこの「みこころ」という言葉は、人が道を間違える原因にもなったりする。どのようにしてか。それは、自分の決断を、「みこころだ」と言って正当化する時である。本当は、自分勝手な考えで決断しただけなのにも関わらず、「神のみこころだ」と言って、自分自身を納得させる。または、他の人の忠告を聞き入れない理由にする。神から何の語りかけも、促しもないのに、「これは神のみこころだ」と言って、正当性を作り出そうとする。または、全力を出さない言い訳に使われる。信じられないかもしれないが、これはクリスチャンの世界のあるある話なのだ。

 クリスチャンでない人は、これを聞いて、「えっ、それって神への冒涜じゃないの?」と思うかもしれない。その通り。完全に冒涜だ。私は、この「みこころ」を利用する行為が大嫌いで、神の計画だと語る際は、慎重にならないといけないなと思っている。しかし、残念ながら「みこころ」という言葉は、乱用されているように感じる。では、どんなケースがあるのか、簡単に見ていこう。

 

 

それ、「みこころ」じゃなくて「おこころ」じゃないの?

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 いくつかの例を紹介する。

 私が韓国系の教会に通っていた時に、いきなり、何人かの大人たち(女性たち)が、「神のみこころだ」と言って、教会に学校を作った。いわゆる、「チャーチスクール」というものである。長い話を短くすると、この「みこころ」で始まったチャーチスクール、2年と持たずにつぶれた。「みこころ」ではなかったのだ。(※つぶれることも含めて「みこころ」だったのかもしれないが、それはひとまず置いておこう)

 状況を見れば、当たり前だった。「みこころ」と言って始めたのにも関わらず、先生は誰ひとり確保できていなかった。カリキュラムも教科書もなかった。結局、子どもたちは、ほったらかし状態。まともな教員も確保できず、だんだんとその女性たちの間に争いが起き、そして分裂した。結局、子どもたちはロクな教育も受けられず、親の暴走の犠牲者となったのであった。私もその一人である。

 彼女たちは、「本当はみこころではない」と分かっていたのだろう。もし、本当に「みこころ」だと思っていたのなら、もっと本気で準備をしたはずである。神の計画に対して、本気で、全力でやらなければ、神に対して失礼だ。単純明快。彼女たちは、本音では、「神のみこころ」じゃなくて、「自分のおこころ」だと分かっていたのである。

 お国柄か、お隣の国の教会では(短絡的な一般化をゆるしてほしいが、本当に実体験なので・・・)、このような「みこころ暴走」が起こりがちだ。クリスチャンは、このよな暴走に巻き込まれないように、「みこころ」かどうか、慎重に吟味しなければならない。

 

 もうひとつ、よくある「みこころ暴走」の例が、男女のお付き合い、そして結婚である。本当によくある。あるあるすぎて笑える。「みこころの結婚相手は存在するのか?」という視点で、以前、記事を書いたので、詳しくはそちらを参照してほしい。

yeshua.hatenablog.com

 

 簡単に言えば、「運命の赤い糸」のような「みこころの相手」は存在しない。しかし、「あなたが一生愛すると神の前で約束した相手」は「みこころの相手」である。人間の好き嫌いの感情で結婚するのではなく、決断としてその人と一生寄り添うというのが、「みこころ」である。具体的に言えば、クリスチャン同士が結婚するのであれば、それは「みこころの相手」になり得る。

 しかし、たまに暴走して、相手のこともよく知らないのに「みこころだ」と言って結婚してしまうカップルがいる(向こう見ず・暴走)。または、単純に相手のことが好きなだけなのに、「みこころだ」と言って結婚してしまうケース(感情や行動の正当化)。または、「感情では好きではない」のに、「みこころだから」と自分を納得させて結婚してしまうケース(感情の無視)。または、未婚というコンプレックスから逃れるために、「みこころだ」と言って、よく考えず結婚してしまうケース(結婚自体の目的化)。いずれも、後々上手くいかなくなるケースが多い。

 

 特に、男性側が、「あなたが『みこころの相手』だと示されました。結婚してください」と、突然迫ってくるケースを、本当によく聞く。どこからともなく現れたその男が、「みこころだから結婚して」と言うのである。一般の世界だったら、ただのストーカーだが、クリスチャンの世界ではこれが通じてしまうから、恐ろしい。

 また、牧師たちが、「この人と結婚したらどうだろう」という紹介をするケース。これも本当に多い。私は、紹介による結婚を否定しない。私が違和感を覚えるのは、「牧師に言われたから『神のみこころ』に違いない」という考えだ。これが、本当によく耳にするケース。声を大にして言いたい。そんなわけ、ねーだろ!!! ・・・言い過ぎた。「そうかもしれないし、違うかもしれない」。これが適切な表現だ。

 こうして、感情や「心の動機」にフタをしたまま結婚した人たちはどうなるのだろうか。その結果は、悲惨だ。人間関係を壊し、信頼を壊し、家庭を壊してしまうことになる。一番悲惨なのは、その結婚により、神への信仰を失ってしまうケースである。

 「みこころ」を履き違えると、暴走する。客観的に見ていて、「ありえない」「やりすぎ」「ちょっとおかしい」、そんな行動が正当化されてしまう。その結果は、破滅の道である。

 

 

聖書で「みこころ」を履き違えた人たち

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 聖書にも、この「みこころ」を履き違えてしまった人たちがいる。ひとつの例を紹介しよう。私の聖書の中の好きなキャラの一人、カレアハの子ヨハナンである。

 背景を少し紹介すると、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂していた時代。南ユダは、バビロンに攻められ、多くの者がバビロンに補修された。しかし、南ユダに残っていた者たちもいた。バビロンは、この地域を治めるために、ゲダルヤという人を総督として、その地域を治めようとした。

 ゲダルヤは結構イイやつだったが、イシュマエルという人のクーデターによって殺されてしまう。軍の高官だったヨハナンは、イシュマエルたちを恐れ、残っている民全員を連れて、エジプトに逃げようと画策する。そんな時の話である。聖書をすべて書くと長いので、簡単に流れを紹介する。

 

●カレアハの子ヨハナンたち

預言者エレミヤさん。神が私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくれくれるように、神様に祈ってくれや。」

預言者エレミヤ

「承知した。神様に祈ってみるけんね。神様に言われたことは、全部言うけんね」

●カレアハの子ヨハナンたち

「私たちは必ず、あなたを通して神様がお告げになることを行います。それが良いことでも悪いことでも、必ず従います」

<10日後・・・>

預言者エレミヤ

「お、10日後に返事が来たぞ。おーい、ヨハナンたち、神様から返事が来たぞ!」

●カレアハの子ヨハナンたち

「おおっ、どないです?」

預言者エレミヤ

「もしこのユダの土地に残るなら、神様はあなたたちを守ります。もし、エジプトに逃げようとするなら、必ずそこで死にます。だからエジプトに行っちゃダメよ」

●カレアハの子ヨハナンたち

「・・・ウソや! あんたウソついてるやろ! それは神様の計画じゃない! そんなこと言うて、俺たちをバビロンに連れて行こうっていう算段なんやろ。俺たちはエジプト行くもんね!

 

 この後、カレアハの子ヨハナンたちがエジプトでどうなったか、言うまでもあるまい。結局彼らは、口では「良いことでも悪いことでも従います」と格好いいことを言っておきながら、心の中では既に決断をしていたのである。彼らは、「神のみこころを求める」というポーズはとったが、本心では「エジプトに逃げよう」と決心していたのである。

 カレアハの子ヨハナンは、有能な将軍だった。その有能さが仇となった。神のことばより、自分の判断の方が正しいと思ってしまったのだった。

 

 このエピソードから、何が神の「みこころ」で、何が「みこころでなかった」かを判断する時は、慎重に自分の心をチェックしなければならないことが分かる。

 

 

「みこころ」かどうか見分けるポイント

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 では、どうすれば「みこころ」と、そうでないものを見分けられるのだろう。一番カンタンなのは、「みこころ」と言わないことである。どんなことでも神に信頼して、自分のベストを尽くす。これがシンプルかつ最善の方法だ。

 しかし、そうも問屋がおろさない。クリスチャンにとって「みこころ」は超大事。無視できないものである。なので、3つほど、私なりのオススメのやり方を下に示してみた。

 

1:心の動機をチェック

 やはり鍵になってくるのは、「心の動機」である。本当の自分のモチベーションである。

 この「心の動機」は、いわば自分の「良心」である。自分の良心は、本当の心の動機をよく知っている。パウロもこう述べている。

 

律法を持たない異邦人(外国人)が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

(ローマ人への手紙 2:14~15)

 あなたが、「神のみこころだ」と言う時、あなたの「良心」は、チクリとあなたの心を刺してはいないだろうか。または心の中で言い訳をしていないだろうか。自分の心の動機に素直になれば、意外と人間は正しい判断ができるのだ。神はそのように自分の心を判別できるように、人間を造っている。

 

2:聖書の本質からそれていないか

 聖書の言葉は、自分の心を判別する一番のツールである。聖書にこう書いてある。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

(ヘブル 4:12)

 神のことばは、あなたの霊を刺し通し、本当の「心の動機」を見分けることができる。あなたが言う、「みこころ」は、聖書の言葉に基づいているだろうか。もしそれがなければ、少し危ないかもしれない。

 また、あなたが言う「みこころ」は、聖書の本質から外れていないだろうか。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」申命記6:5)、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタイ7:12)、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34)という、聖書の本質を実行できているだろうか。もしそうであれば、「みこころ」という印籠を手に、人をこき使ったりはしない。

 教会の中には、「みこころ」を免罪符に、信者たちを奴隷のごとくこき使うところも多い(特にお隣の・・・略)。それは、この聖書の本質から、明らかに外れている。いつも、聖書と実態がズレていないか、チェックが必要だ。

 この際、聖書の言葉を見つけて、「この言葉が与えられた」といって、自分の意見を正当化する人がいる。これは非常に厄介。本物と見分けにくいからだ。聖書の言葉を使っているからといって、「みこころ」だとは限らない。悪魔でさえ、聖書の言葉を使って、イエスを誘惑した事実を忘れてはいけない(マタイ4章)。

 この時もやはり、1番目の「心の動機」が重要になってくる。時系列がカギだ。聖書の言葉を読んで、悟りを得たのか。それとも、自分の思いが先にあって、後から聖書の言葉を取ってつけたのか。この2つは似て非なるもので、本人の「良心」は必ずどちらか分かっている。結局、判別も決断も、最終的には自分の心でしかできないのである。

 

3:怒りなど、「忠告を受け入れない」反応が出ていないか

 周辺が判別できるとしたら、「忠告を受け入れるか」であろう。客観的に見ていて、明らかに「暴走」している場合、周辺の人は当然忠告をする。忠告に対して、どのように反応するかで、相手の「心の動機」を判別できる。

 以下、忠告を受け入れた王様と、受け入れなかった王様の反応の違いを例として挙げる。

 

【忠告を受け入れた王・アマツヤ

(アマツヤは、敵と戦うために、軍隊を招集して、賃金を払った。その時・・・)

すると、神の人(預言者)が彼(アマツヤ)のもとに来て言った。「王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです。しかし、もしあなたが行くのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神はあなたを敵の前につまずかせられます。神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからです」

マツヤは神の人に言った。「では、イスラエルの部隊に与えた100タラント(お金)はどうしたらよいのか」

神の人は答えた。「主は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます」

そこでアマツヤは、エフライムから彼のもとに来た部隊を、もとのところに帰すために切り離した。

(歴代誌第二 25:7~10)

【忠告を受け入れなかった王・ウジヤ】

(ウジヤは元々、神に従う、良い王様だったが・・・)

しかし、彼(ウジヤ)が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。

すると、彼の後から祭司アザルヤが、主に仕える80人の勇敢な祭司たちとともに入ってきた。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である主の誉れは与えられません」

ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。

(歴代誌第二 26:16~19)

 

 この2人の反応は、対照的である。忠告を受け入れたアマツヤ王は、冷静に、「では、どうしたらよいのか」と預言者に訪ねた。そして、預言者の言葉にすぐに従った。彼は、忠告を受け入れる心があったのである。

 忠告を受け入れなかったウジヤ王は、激しく怒った。祭司たちの忠告は、正しいものだったのにもかかわらず、激高したのである。その結果、「ツァラアト」という皮膚病になってしまい、もはやそれまでの王としての威厳を失ってしまったのであった。

 私たちの心には「良心」がある。「図星を突かれると人は怒る」とはよく言ったものだ。良心が「みこころではなく、自分で決めたことだ」と分かっている場合、「違うんじゃないの」という忠告の声ほど痛いものはない。結果、激しく怒ったりなど、過剰に、感情的に反応することが多い。冷静に人の忠告を聞けない状態の人の「みこころ」は、どうもアヤシイと言えるだろう。

 

 

「みこころだ」ではなく「みこころだった」と言おう

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 私は「これはみこころだ」という言い方はしない。なぜなら、この地上で起こっていることは、全て「神のお取り仕切り」の中にあるからである。聖書にこう書いてある。

 

だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙 11:34~36)

 この世の全てのことが、「神のみこころ」なのだ! アラ、簡単。私たち人間は、まるで大仏の手のひらで踊る孫悟空のようなものである。全ては神の手うち。この世で起こっている「悪いこと」も、実は神の計画のうちなのである。聖書にはこうある。

 

すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。

箴言 16:4)

 理由はよく分からないが、戦争、飢餓、殺人、事故、災害など、この世の不条理も含めて、全て「神の計画」なのである。

 とはいえ、人間が何もできないわけではない。神は人間に「自由意志」も与えている。私たちは、良いことばかりするロボットではない。人間は、常に決断し続け、行動し続けている。私たちは、自分の行動の報いを受ける。夜にラーメンを食べれば太るし、運動すれば痩せるのである。

 であるなら、私は、未来の話に「みこころ」を用いるのは適切ではないと思う。むしろ、「思い返せば、これはみこころだった」と、過去の出来事に対して使う方が、「みこころ」の使い方として適切だと思う。

 「ああ、あの時は辛かったけど、今思えば、その経験が活きている。あれは、神様の計画だったんだ」「ああ、あの時は絶望していたけど、その経験がなければ、この人には出会えなかった。全て神様の計画だったのだ」。このようなメンタルが、クリスチャンには求められているのではないだろうか。

 クリスチャンは、常に、「イエスならどうするか」を基準に、自分の頭で考え、行動する必要がある。いつも、「神様、あなたの道に従いたいです。聖霊様、助けてください」というマインドで、全力を尽くす必要がある。人事を尽くして天命を待つ、とはちょっと違う。天命にゆだねて、人事を尽くす。これこそが、クリスチャンに求められているマインドではないだろうか。

 

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。こういうわけで、なすべき良いことを知っていながらそれを行わないなら、それはその人には罪です。

ヤコブの手紙 4:13~17) 

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【就活イエスNo.3】「現代の箱舟を作りたい」大原昌人(フォト・ダニエル)@会社経営者

「就活イエス」は、

エスを信じる人たちの、「就活」「働き方」に迫っていくインタビュー記事です。

シリーズ第3段は、大原昌人さん! 

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【Profile】

名前:大原昌人(Masato Ohara)(フォト・ダニエル)

生まれ:1991年

出身:埼玉県富士見市

最終学歴:慶應義塾大学環境情報学部卒業

職業:楽天株式会社 → 株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長

仕事HP:PHOTO DANIEL 

 

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今日はよろしくおねがいします。

f:id:jios100:20180816142653j:plain よろしく。出てきた質問には何でも答えるので。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ありがたいです! 男性にインタビューするのは初めてですね。今は、どんな仕事をしているんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 前働いていた楽天を辞めて、「ダニエルズアーク」っていう会社を立ち上げたばかりなんだよね。ちょうど1ヶ月前くらい。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、1ヶ月前?! どんな会社なんですか。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain おいおい話すけど、企業を対象に、撮影の仕事とかクリエイティブ系の案件をやっているよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ほおおお。確かに、いつもハイクオリティな写真をupするのを見かけます。じっくり聞かせてください・・・。

 

 

自信を喪失して・・・

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f:id:jios100:20180702131349j:plain イエスを信じてクリスチャンになったきっかけは何だったんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain  高校までは、とにかく自信満々な子どもで。自分最強くらいの感じで、自分は何でもできると思っていた。でも、高校1年生のときに付き合っていた彼女に突然フラれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あちゃー。辛いっすね。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。それがキッカケで、心がやたら敏感になって。いつも不安を抱えて生きるようになった。電車に乗るのも、町中で人とすれ違うのも怖くなってたくらい。高校時代は、そういうふうに、もがいていたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain そんな時に・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そんな時に、大学のオープンキャンパスに行ってね。慶応じゃなくて早稲田なんだけど(笑)。そこで、クリスチャンの人に声をかけられて。教会に誘われたんだよね。その時は、なんとなく今の自分が知らない世界を見られそうな気がして、全く抵抗なく行ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 初めての教会はどんな印象でしたか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会の空気感とか、いる人たちの雰囲気が、なんだか他と違うなと思ったよね。その頃は1年以上、ずーっと落ち込んでいたんだけど、なぜか教会にいる時だけ心がふわっとつつまれて、解放されるような感覚があった。で、結局、浪人することになるんだけど、その頃から毎週教会に行くようになったかなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それでイエスを信じた。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。自分は結構疑い深い性格で、「宗教は弱いやつが信じるものだ」と思ってたんだよね。だけど、聖書をちゃんと読むと、あれ、これ否定できないなぁと思ったんだよね。あれ、これリアルじゃね? って思い始めて。ちょうどその頃、人生どん底で迷っていて、最終的に人生を神様にかけてみようと思って信じた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 自分最強から、どん底に落ちて、そこからイエスに出会う。ジェットコースターみたいな人生ですね。

 

 

▼ドキュメンタリーに作家にクリエイティブに教会に・・・

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f:id:jios100:20180702131349j:plain そのあと、慶応大学に。

f:id:jios100:20180816142653j:plain そうそう。湘南藤沢キャンパス(SFC)ってとこでね。元々自分は理系だったんだけど、特にやりたいこともなくて。「高校時代に将来やりたいこと決めなきゃいけないの?」って思ってた。だから、理系とか文系問わず、総合的なことを学べるところがいいなと思ってSFCに行ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 大学時代は何に力を入れていたんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ドキュメンタリー制作の研究会に入っていて。あとは、作家の先生のもとで、文章の書き方とかを教わるコースにも通っていた。ガチでやってたのはその2つかな。あとは、個人的な趣味で、Macを広げて、Photoshopとか、Illustratorで作品を作ったりしてたっていうのが大学の4年間かな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うっへぇ、なんでもやってますね。教会生活は?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会のウエイトも大きかったよね。教会生活は、ものすごい濃かった。だいたい土日は一日中教会だったな。2011年の震災の時は、トラックで東北に人を送り込んで、軍隊みたいなこともやってたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 結構激しめの教会生活ですよね・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ほんとだよね。今思うと、社会人の時にクリスチャンになってたら、あの生活はできなかった。最適なタイミングで神様に出会えたと思うよ。

 

 

▼元々就職活動するつもりはなかった

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 就職活動はどうしたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 元々就活する気はなかったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、そうなんですか。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。僕の時は、大学3年生の12月が就活が始まる時期だったんだけどね。12月に入っても何もしてなかった。というのも、大学を卒業したら、教会が運営する「神学校」に入ろうと思ってたんだよね。牧師になろうかなと思っていて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ。実は私もそうでした。就活に切り替えたのは、なぜですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 教会の牧師さんに、「神学校に行こうと思ってる」って相談したら、意外に、「社会人経験が何もないまま牧師になっても、人生の厚みが薄くなってしまうよね」みたいなことを言われて。自分でも、確かにそうだなと思って。

f:id:jios100:20180702131349j:plain よく言われますよね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。で、じゃあ1年は働いてみようかなと思ってね。1年限定で働くつもりで就活を始めたんだよね。12月の後半くらいだったかなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 受ける会社の分野は決めていたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 1年で辞めるつもりだったから、どうせやるならハード目の方がいいかなって(笑)。あまり分野は絞らず、理念とか面白そうだと思った会社は全部、説明会に行ってたよ。で、行っていた学部がネット系に強かったし、自分もMacでいろいろやっていたっていうのもあって、最終的にはインターネット系で、かつ1年で比較的辞めやすいっていう点で、楽天に決めた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1年で辞めるとは言っていたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain いや、それは流石に言わなかった(笑)。やっぱり、採用コストを考えると、3年で辞めるならまだしも、1年で辞める人は雇わないからね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain さすが、経営者の目線ですね(笑)。面接ではどんな面白エピソードを語ったんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain メインのトピックは、教会生活の話かな。教会でどんなことをしていたとか。みんな、あんまり聞いたこと無いトピックでしょ? だから、興味を持ってもらえたっていうのはあるかな。

 

 

楽天に入社して

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 楽天で最初の配属はどこだったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 最初は、楽天市場のクリエイティブの部署。「編成部」っていうところに配属された。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 編成部・・・何をするんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天市場のトップページに、セールとか、イチオシの商品とかの企画があるでしょ? あれを作る部署。その時期に何を売り出そうとか。夏だけど、どういうキャンペーンをやろうかとかを考えて、プロジェクト作って、みたいな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain デザインもやっていたんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain いや、自分はテレビ局でいえばプロデューサーとか、ディレクターみたいな立場で。実際の作業はプログラマーさんにお願いして、自分はディレクションするみたいな感じ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 楽天って新入社員からバリバリ働くイメージがありますが・・・

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 本当そうだよ。結構、「入社1年目の社員に、こんなにやらせるの?!」みたいな感じだった。仕事はバリバリやってはいたね。だけど、自分は、仕事の細かさとか、マナーとか、そういうところは弱かったので、その点ではかなり怒られたりしたなぁ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain マナーで怒られるとか、楽天はフラットなイメージがありましたけど、意外ですね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain 意外と気にする人は気にするんだよね。コミュニケーションをよくとるとか。仕事のお願いの仕方とか。あとは、リリースするページの抜けや漏れをキッチリ確認しないと怒られたり。それまでは、自分は苦手なことは得意な人にやってもらおうっていう考えだったから、いい訓練になったよ。

 

 

預言者の登場 ~買って応援プロジェクト~

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↑ ダニエル氏提案の「買って応援」プロジェクト

f:id:jios100:20180702131349j:plain 一番達成感のあった仕事は何ですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 一番は、熊本地震があったときのキャンペーン。さっきも言ったみたいに、東日本大震災のときは、自分も現地に行って、バリバリ支援をしていたんだけど、熊本地震の時は、なぜか客観視してしまっていた自分がいたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 分かります。社会人だと、学生の頃より、遠い世界の話だと感じる。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そうそう。で、そのとき、本当にたまにしか教会に来ない人がいてね。半年とか1年に1回くらいしか会わない人。その人がちょうどそのタイミングで教会に来て。その人が、「今、おまえ何もやらないの?」と言われた。「お前、神様の子供だよね」みたいな感じで。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ドンピシャリのタイミング。

f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。自分としては、神様が預言者を自分のところに遣わしたと思ったよ。別にその人と仲いいわけじゃないし。その時だけ、なぜか自分に対して強くそう言ってきたから。これは神のおぼしめしだと思ってハッとしたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それでどうしたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain そのすぐあとに、自分に何ができるか考えたんだよね。やっぱり仕事で何かできないかなぁと思った。その時は、楽天市場のプロデューサーの立場だったから、自分で企画を作れると思ったんだよね。そんな時に、熊本を「買って応援する」という店に行列ができたという記事を読んで。それがキッカケで、楽天でも「買って応援」の企画を作ったらどうかと思いついた。それで、パワーポイントに企画をまとめて、三木谷社長楽天市場のトップの執行役員の人にメールで送ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain ええっ、三木谷さんにメールを! 行動早いですね。そして大胆。

f:id:jios100:20180816142653j:plain うん。例の預言者が現れた次の日にメールを送ったよ。そしたら、普段社長にメールするなんてありえないんだけど、数十分で社長が返事をくれて。「やっていいよ」と言ってくれた。それで、執行役員の人がいろいろな人と繋げてくれて、「買って応援」のキャンペーンが、その5営業日後くらいでリリースされた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain スピード感がはんぱない!

f:id:jios100:20180816142653j:plain 普通はそういう企画って、楽天でも1~2ヶ月はかかるんだよね。それを1週間で作り上げた。お店とか楽天市場のユーザーから、「今までにないよね」とか、「現地の励ましになるよね」っていう感じで、ツイッターとかで口コミで広がって話題になったよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain どういう企画だったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天市場のすべての商品に対して、1つの商品を買うと、楽天がそれに対して10円分の義援金を出すっていう企画。それがすべて熊本の被災地への義援金になった。1週間で4万3000件以上の商品が売れたよ。しかも、その後Yahoo!が全く同じ企画を後追いでやってきたりして、日本のeコマース(インターネット市場)業界では話題になった。

f:id:jios100:20180702131349j:plain うへーービッグ・プロジェクトになったんですね。

f:id:jios100:20180816142653j:plain マジであの預言者がいなかったらやらなかった。この仕事が認められて、楽天市場MVP賞に選ばれたんだよね。入社2年目の5月だったかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain あの預言者の一言が、熊本に元気を与えただけでなく、仕事の成功にもつながったんですね。神様が働くってすごいパワーですね。

 f:id:jios100:20180816144801j:plain

 ↑ 楽天市場のMVPに選ばれた

 

 

▼「牧師」は目的じゃない

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f:id:jios100:20180702131349j:plain 結局、楽天では何年働いたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 結局のところ、楽天では3年働いたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1年で辞めなかった理由は?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 働いてみて、「牧師」っていう肩書きは目的じゃないって気がついたんだよね。人生の路頭に迷っている人たちに、力づくでイエスさまを信じさせることはできないけど、彼らの心にふれることはできる。そういうことをやりたいと思っていたから、牧師を目指したんだよね。で、1年間働いてみて、「あ、これって牧師にならなくても、サラリーマン、社会人でもできるじゃん!」って気がついたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 分かります。牧師じゃなくても、本質的なことはできる。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ビジネスマンっていろんな幅があって、社会に与えるインパクトも大きいなぁって思ったんだよね。そしたら、「牧師になるぞ」っていう気持ちがだんだんなくなってきて。自分がやりたかった、「人の心にふれる」っていうことは、牧師じゃなくてもできるぞって思った。それが1年で辞めなかった理由かな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 1ヶ月前に楽天を辞めたと。独立に踏み切るキッカケはあったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain さっきも言ったけど、自分が何をするかは、自分で決めたいっていうタイプなんだよね。だから元々自分で何かをやりたいとは思っていた。

でも、やっぱり一番のキッカケは、「箱舟を作りたい」っていうことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 箱舟を作りたい・・・??

 

 

株式会社ダニエルズアークを設立 ~現代の箱舟を作りたい~

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f:id:jios100:20180816142653j:plain ある時、本屋でクリスチャンの写真家の本をたまたま見たんだよね。そこに書いてあったことに心を打たれて。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 何て書いてあったんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain イエス・キリストは、病人を癒やしたりして、その時代に生きていた人の心にふれた。今の時代は、例えばロックバンドとかが、彼らの曲を通して、飢え乾いている若者の心にふれていると。要するに、アプローチが違うだけなんだと。それ読んで、面白いなと思ったんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど。「心にふれる」という本質は同じだと。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain その通り。エスさまの当時の人間の問題は、病気とか飢えだった。でも、現代の先進国では、心に飢えた人が多い。そういう人にとっては、音楽で心をゆさぶる人はある意味「メシア」になる。「心にふれる」という意味では、イエスさまのアプローチと、自分たちのアプローチは違うんだなと思った。だったら、自分ができる「心にふれる」ことは何かと考えた時に、自分はビジネスを通してできるんじゃないかなと考えたんだよね。

f:id:jios100:20180702131349j:plain それが「箱舟」と。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain そう。今の社会は、企業や社会の固定観念に囚われている人たちが多いでしょ。仕事ってこういうもんだっていう。そういう人たちを、自分の会社で解放していきたいなと思った。新しいビジネスを生み出すって、ある意味でイエスさまがしたことと、同じじゃないかと。だから、「囚われていた人たちを解放する」という意味での「箱舟」を作りたいなと。社名はそこから来てる。「株式会社ダニエルのはこぶね」っていうのも最後までアリかなぁと思っていたよ(笑)。結局、「株式会社ダニエルズアーク」になったけど。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど、「囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」と聖書に書いてあるとおりですね。

 

 

会社を立ち上げて

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↑ 今までのお仕事で作ったポスター

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社はすぐ立ち上げたんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 楽天を辞める前に、半年ぐらいよく考えて、しっかり準備もしたよ。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 準備とはどういう?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 例えば、ウェブとか写真を仕事にしたときに、マネタイズ(利益になる)できるようにする準備。仕事にできるようにする下準備かな。実績づくりとか、サンプルづくりとか。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 会社はどんなことをしているんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain 最初チラっと言ったけど、ウェブデザインとかクリエイティブ系のことから、写真撮影の案件とか、いろいろ。主に企業を対象に、セミナーとか座談会の撮影とかも請け負っているよ。まだ会社が始まって1ヶ月くらいだし、まだまだこれから。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 気になってたんですけど、なんでニックネームが、「フォト・ダニエル」なんですか?

f:id:jios100:20180816142653j:plain それは、楽天にニックネームで呼び合う制度があったからだね(笑)。自分は、神様を優先するっていうダニエルの生き様が好きで。この神様が本物だと他の人にも思ってもらえるように、ダニエルをニックネームにした。

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今後のビジョンは?

f:id:jios100:20180816142653j:plain ちゃんと売上のベースを作って、この箱舟にもっと人を載せていくことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 人を雇いたいと?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 「雇う」っていう言い方も自分はあんまりしっくりきてなくて。一緒にやりたいことをやって遊んで、それで利益出していこうっていう感じかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 今は起業したわけですけど、1回会社に入ったのは経験としてどうでしたか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain それも、めちゃめちゃ良かったと思う。特に、「あ、人ってこういうことで怒るんだ」ってわかった(笑)。今までは、自分の価値観しか知らなかったけど、他の人はこんな考え方をするんだって分かって良かった。あとは、ビジョンだけ掲げても、人はついてこないんだなって体感できたことかな。

f:id:jios100:20180702131349j:plain へぇ。人はビジョンじゃなくて、何で動くんですか?

 f:id:jios100:20180816142653j:plain ビジョンじゃなくて、こいつだったら仕方がないな、という人間関係で人は動く。信頼関係。例えば、配慮して根回しをしておくとか。人は偉大なビジョンについていくんじゃなくて、「こいつがこう言ってるからしょうがないな」という感じで、ヌルヌルと動くものなんだって学べた。

f:id:jios100:20180702131349j:plain なるほど・・・僕も勉強になります。

 f:id:jios100:20180816142653j:plain 今までは、偉大なビジョンを掲げれば、勝手に人はついてくると思ってたんだけど、それじゃあ人は動かないって学べた。それは会社に入ってなかったら学べなかったなぁ。

 

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↑ ダニエルズアークでは、こんな美しい写真作品もお願いできちゃうゾ!

 

f:id:jios100:20180702131349j:plain 最後に、いつも握っている聖書の言葉があれば教えてください。

f:id:jios100:20180816142653j:plain 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたの正しさを、真昼のように輝かされる」

詩篇 37:5~6)

神様に道をゆだねたとき、神様の光がこの世の中に表れるっていうイメージがいつもあります。

f:id:jios100:20180702131349j:plain 神様にゆだねて進んでいる姿を見て励まされました。僕の心は既にふれられました・・・。ありがとうございました。

 

ダニエルさんのHPはこちら!
PHOTO DANIEL

 

(おわり)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか?

神学校を卒業した人は、すぐに「牧師」にならずに、「伝道師」となるケースが多いそうです。なぜなのでしょうか?

 

 

 ▼「とりあえず伝道師」

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 「牧師になるには、どうすればいいの?」よくある質問のひとつだ。私は、「日本には牧師という国家資格はないので、今すぐにでもなれますよ」と答える。実は、牧師になる明確な条件、資格などない。団体に所属する牧師になりたいのであれば、各団体の基準があるだろう。特定の学校を卒業するのが条件だったり、特定のトレーニングを受けるのが条件だったりする団体もある。団体に所属しない教会などでは、独自の基準があったり、逆に全く基準がなかったりもする。

 では、聖書には何と書いてあるのだろうか。実は、何も書いていない。牧師の資格など、どこにも書いていない。もし、「牧師」を「監督者」や、「執事」と捉えるならば、明確な基準が聖書に書いてあるが、それは別の機会に書く。

 一般的なケースは、牧師になる前に、「神学校」という学校で一定期間、勉強をするというものだ。2~4年間くらい、神学校で勉強をする。卒業してから、さぁ牧師になろうというのが、よくあるパターンだ。

 しかし、神学校を卒業しても、すぐに牧師になるわけではない。どこかの教会に行って、「伝道師」となるケースが大半だ。この「伝道師」というポジションがクセモノで、別に「伝道」をするわけではない。牧師ではないのだが、なんちゃって牧師みたいな、サポート的な立場になるのが一般的だ。いわば、「ディレクター」になる前に、「AD」の仕事をやらないといけないような感じだ。

 「伝道師」は、牧師ではないが、牧師っぽい立ち位置になる。教会の若者たちの担当になる場合も多い。肩書は「伝道師」なのだが、伝道がメインの仕事ではない。私は、この伝道師を「とりあえず伝道師」と呼んでいる。

 この「とりあえず伝道師」は、すぐに牧師にならない。いや、すぐに牧師になってはいけない空気感がある。私は、この「とりあえず伝道師」はもう時代遅れだと思う。即刻やめた方がいいと思う。その理由を、これから簡潔に述べる。

 

 

▼そもそも牧師と伝道師は別の役割

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 「伝道師」は、「牧師」になる前のステップなのだろうか。言い換えれば、伝道師より牧師の方が格上なのだろうか。聖書が何と言っているか見てみよう。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

(エペソ人への手紙 4:11~12)

 (※少し横道にそれるが、そもそも、「牧師」という単語は、この部分の1回しか聖書に出てこない。しかも、「牧師」というのは意図的な誤訳で、本来は「牧する者」という意味であるから、「牧者」または「羊飼い」が正しい。「伝道者」は「師」ではなく「者」となっている。同様に、「教師」も本来は「教育者」とすべきである。当記事では、今後、「牧者」と「伝道者」と表記する)

 

 この箇所から、「教会」と名付けられた共同体には、大きく分けて5つの役割があるとされている。順番に、使徒」「預言者」「伝道者」「牧者」「教育者」である。これを、いわゆる「五職」と呼ぶ。

 ただ、最後の「牧者」と「教育者」はひとつの役割だという意見もある。「使徒」「預言者」「伝道者」「牧者+教育者」の「四職だとする見解だ。確かに、ギリシャ語を見ると、その主張には根拠がある。それぞれの役割をつなぐ接続詞には、全て「and」という意味での「デ(de)」という単語が用いられている。しかし、「牧者」と「教育者」をつなぐ部分のみが、「デ」ではなく、「カイ(kai)」という単語を使っている。「カイ」は「and(~も)」にもなるが、「also(~であり、また)」という意味もある。

 この部分のギリシャ語が全て並列の関係ならば、全て「デ」を用いれば良いのに、最後だけ「カイ」を使っているのである。その意図を考えると、「牧者であり、また教師でもある」と解釈した方が正しいかもしれない。

 

 話を元に戻すと、「五職」だろうが、「四職」だろうが、「牧者」と「伝道者」は、本来は違う役割なのである。「伝道者」は、「牧者」になるためのステップとしてのポジションではない。もしそう考えているならば、明確な間違いだ。

 

 

▼「五職・四職」とは

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 「五職・四職の内容については、多少議論がある部分なので、詳細は語らないが、だいたい以下である。当然、異論があるところもあるが、参考にしていただきたい。

 

使徒

神の特使。狭義の使徒は、イエスの12人の弟子+マッテヤ。イエスが12人の弟子たちを、「使徒」と名付けたところが起源。12弟子ではないパウロは、自身を「使徒」だとした。広義としては、福音をあますところなく述べ伝え、リーダーを育成し、教会を生み出していく働き。現代用語では、起業家、開拓者、創始者、コーディネーター。

預言者

神のことばを伝える役割。未来を予知する「予言」とは違い、神の意思を地上で明らかにする役目。広義の預言は、聖書のことばを解説することも含むとされる。「預言」は唯一、誰もが行うことのできる賜物として聖書に明記されている(1コリント14:31)。

【伝道者】

聖書に直接の記述が少ないが、神の道を伝える人。福音を伝える人。エチオピアの宦官に聖書の解説をして、イエスの福音を伝えたピリポは、伝道者と形容された(使徒21:8)。

【牧者】

羊飼いの意味である。イエスは、ついてくる者たちを羊に例えた。そこから、教会の共同体においては、集っている一人ひとりのことを指す。その一人ひとりをケアし、正しい道へと導き、攻撃から守るのが牧者である。現代用語では、カウンセラーのような役割である。

【教育者】

共同体の中で、知識的に教育をする役割である。知識的な部分においても、霊性の部分においても、人間性の部分においても、共同体の一人ひとりを教え、訓練する役割である。多くの場合、「牧師」はこの「教育者」の役割にエネルギーを割いている。

 

 「五職・四職」の役割の違いは、だいたい、こんなところである。こう見ると、「牧師予備軍」の人々が「伝道師」として教会に飼い殺されるのは、ちゃんちゃらおかしい話なのである。この役割の違いすら分かっていない。「伝道師」となるならば、文字通り、「伝道者」の役割を果たさなければならない。それは決して、牧師への準備期間や、訓練期間、ステップアップのための期間、役割ではない。

 イエスを信じるクリスチャンが、もし職業として「牧者」や「伝道者」を目指すならば、この「五職・四職」の役割の違いを意識すべきだ。記者になりたい人は、記者の訓練をする。ドラマのプロデューサーになりたい人は、ドラマの現場で修行を積む。記者になりたい人は、ドラマのADはやらない。それぞれが目的に沿った訓練をしなければ、2テモテ2章に書かれるような、「熟練した者」にならない。

 

 ただ、パウロは自身を「宣教者、使徒、また教師として任命された」と語っている(2テモテ1:11)。このことから、複数の役割を1人が担うことも可能だと分かる。ゆえに、「伝道者でもあり牧者でもある」というのであれば、「とりあえず伝道師」は、あながち間違いではない。

 しかし、そんなパウロみたいなスーパーマン、そんなに存在しない。現実の教会を見ると、両方をしっかりやろうというモチベーションのある人が、どれだけいるだろうか。ほとんどの人が、牧師へのステップアップとして伝道師の役割を捉えているのではないだろうか。

 私は、完全に「教育者タイプ」の人が、無理をして「カウンセラー」をしているパターンや、逆に「カウンセラータイプ」なのに、無理をして「教育者」になろうとしているケースをたくさん見てきた。それは、リーダーにとっても、共同体の一人ひとりにとっても、全員不幸である。説教が下手でもいいが、下手なら他の上手な人にゆずって、カウンセラーとしての役割をまっとうすればいいのに、なぜ一人で全部やろうとするのだろうか。

 聖書が違う役割として説明しているものを、ないがしろにはしていないだろうか。

 

 

▼人手不足の牧師業界

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 私が、「とりあえず伝道師」をやめようというのには、もうひとつ理由がある。それは、圧倒的な牧師不足の現状である。2014年の国際宗教研究所の統計によると、日本の牧師の42%が65歳以上。23%が71歳以上である。つまり、2018年の今、少し乱暴に数えれば、約65%の牧師が70歳以上なのだ。日本人の平均寿命は83歳。あと10年、15年もすれば、半分以上の牧師がいなくなってしまうのである。(参考:国際宗教研究所「現代宗教2014」)

 日本基督教団の教会は日本全国で約1700。そのうち担当牧師が1500。すでに教会の数より、牧師の数が少ない。そのうち半数以上があと10年~15年でいなくなる。日本のキリスト教会は、絶望的な牧師不足に陥っているのである。

 そんな人手不足の中、なぜ、「とりあえず伝道師」にならなければいけないのか。準備が必要? その準備のために、神学校で2年も3年も4年も勉強するのではないか? 神学校は、大学院的な位置づけのところが多い。大学卒業して22歳。その後、神学校に2~4年行ったとして、24~6歳。その後、一体何年「とりあえず伝道師」をすれば牧師になるのだろうか。結局、牧師になる頃には、30代。家族がいる。飯を食わさなければならない。現実的に、牧師にならない、なれない。こうして、人手はどんどんどんどん不足していくのである。

 人手不足なのに、牧師になろうとすると、やれ、「神学校行かないといけない」、やれ、「何年、伝道師やらなきゃいけない」と周りが言う。そこまでハードルを上げられると、「じゃあ別の道に行こうかな」となる。牧師不足の現状を生み出しているのは、なりにくい制度そのものなのではないだろうか。人手がほしいなら、ハードルを下げる。条件をよくする。世の中では当たり前の話が、なぜクリスチャン界では通用しないのか。理解に苦しむ。

 

 

▼完璧な牧師などいない

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 ここまで言うと、「訓練されていない人が、いきなり牧師になるなんてありえない!」というヒステリックな声が聞こえてきそうだ。ちょっと待ってほしい。そんなことは言っていない。私も、共同体の中の重要な役割を担う人は、それなりの訓練が必要だと思う。

 聖書には、こう書いてある。

 

あなたは努めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

(テモテへの手紙第二 2:15)

 先にも述べたが、「ふさわしいと認められる人」の部分が、新改訳聖書第三版では、「熟練した者」となっている。これは、パウロが弟子であるテモテに対して送った手紙の内容だ。テモテは、まだ若手のリーダーだった。若いなりに、苦労があったのだろう。パウロは、こんな励ましの言葉をテモテに送っている。

 

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

(テモテへの手紙第一 4:12)

 パウロは、「若さを不完全さの言い訳にするな。むしろ、熟練した者として、みんなの模範になれ!」と、厳しい言葉で、テモテのケツを叩いたのであった。これを見ると、答えは明瞭だ。リーダーにとって、若いとか年寄りとか、年齢が重要なのではなく、知識において、人間性において、どれだけ訓練され、練達しているかが重要なのである。

 だから、教会の中の役割を担う人々に、訓練は必要なのである。問題は、「神学校がその訓練となっているのか?」「とりあえず伝道師になることが、訓練になるのか」というポイントである。私の個人的な意見では、全く訓練になっていないと思う。ただただ、眠たい授業を我慢する、自分の意見を飲み込んで我慢する、無駄な時間になっているのではないだろうか。(我慢の訓練にはなっているのかもしれないが・・・)

 ほとんどの場合が、「まだ若いから」という理由で、牧師ではなく、伝道師として飼い殺されてしまっているのではないか。若い時の情熱やエネルギーが削がれ、牧師になる頃には、すっかりツマラナイ人間になってしまう。そんなケースを、私は何度も目にしてきた。

 どのようにして、人は練られていくのだろうか。どのようにして人は成長するのだろうか。人は、人との関係の中で成長するのである。「五職・四職」を神が立てたという箇所の続きは、こうなっている。

 

キリストによって、からだ全体(教会の共同体のこと)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 共同体の中で、「五職・四職」のリーダーたちが、一人ひとりをそれぞれの役割に従って「整える」。そうすれば、「キリストのからだ」と例えられる共同体が、その中の一人ひとりが働き合い、支え合っていくことで、お互いに成長していくのである。

 つまり、何が言いたいか。神学校に行くことや、伝道師の肩書きを持つことが、人を成長させるのではない。机にかじりつくことが人を成長させるのではない。人から「先生」と呼ばれることが人を成長させるのではない。人と人の人間関係において、人は成長していくのである。それは、教会の中でも同じである。

 私は、年が若くても、どんどん「牧者」になればいいと思う。同じように「預言者」「伝道者」「教育者」になればいいと思う。完璧な牧者などいない。完璧な伝道者などいない。知識は、やりながら増し加えられる。人と関わっていけば、おのずと成長していく。何事も、トライ&エラー。なぜ、足踏みをしているのか。神学校に行って、信仰的に落ち込む人をどれだけ見てきたか。「とりあえず伝道師」になって、素晴らしかった情熱を失ってしまい、イヤミな人間になってしまった人を、どれだけ見てきたか。なんと悲しいことだろうか。

  もちろん、何でもかんでもOK! となってしまうリスクがあるという指摘はある。その懸念は分かる。しかし、「とりあえず伝道師」を卒業して「牧師」になった人も、失敗はするし、完全ではない。だったら、早いウチに始めた方がいいのではないだろうか。教会のリーダーの役割を担う人々は、よく自分の心を見張り、ほかのクリスチャンの仲間や、リーダーの仲間たちの心をチェックし合う必要がある。

 現行の牧師になるシステムは、少しハードルが高すぎると思う。教会の中に人が何千人もいて、人手が余って余ってしょうがないのであれば、今のシステムは分かる。経済的援助も楽だろう。アメリカや韓国ではうまくいくのかもしれない。

 しかし、日本は状況が違う。圧倒的にマンパワー、経済力が足りない。私は、今のような「牧師」の考え方では、いずれこのシステムは破綻してしまうと思う。しかも、相当近い将来に。職業としての牧師や伝道師のあり方、教会のあり方を、見つめ直さなければならない時代になっているのではないだろうか。

 

 

▼牧師とか伝道師とかいう肩書きはオマケ

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 では、どういうあり方がいいのだろうか。私が個人的にオススメしたいのは、「もう肩書なんてオマケだよ」と思うことである。どんな仕事をしていても、どんな立場であっても、「牧者」としての働きはできる。「伝道者」としての働きはできる。それが当たり前になれば、人手不足は解消する。「献身者」と「一般信徒」、「直接献身」と「間接献身」、「伝道師」と「信徒伝道者」などという、くだらないラベリングは、もういい加減やめたらどうだろうか。

 クリスチャンは、それぞれが神から与えられた能力がある。よく、「賜物」とか「ギフト」とか言うのがそれだ。それぞれが、自分がどのタイプか考えて、神のために生きていく。自分が「使徒タイプ」だと思えば、教会やミニストリーや会社、団体をどんどん立ち上げていけばいい。「預言者タイプ」だと思えば、神からの示しを求めたり、聖書の難解な箇所を解説すればいい。「伝道者タイプ」だと思えば、イエスの素晴らしさ、恵みの福音を、会う人、会う人にどんどん伝えていけばいい。「牧者タイプ」だと思えば、人の話をよく聞いて、導くカウンセラーになればいい。「教育者タイプ」だと思えば、いいカリキュラムを作ったり、教壇に立って教えればいい。

 この素晴らしい福音、イエスの素晴らしさを、共に喜び、ともに建て上げていく。肩書きなんてオマケだ。大切なのは、その中身の働きなのだ。別に、他の仕事をしていても、その働きはできる。

 最後に、私が感動した、ある人の言葉を紹介しよう。詳細は、来週アップする予定の職業インタビュー記事(就活イエス)でご覧いただきたい。

 

エスさまは、人々を癒やすことを通して、当時の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らの心を解放した。

僕は、自分の会社を立ち上げることによって、社会の固定観念に囚われている人たちの心にタッチして、彼らを解放したい。

(ー株式会社ダニエルズアーク代表取締役社長 大原昌人)

 

 人の心に触れるのは、別に「牧師」という職業でなくともできるのだ。

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

【旅行記】イスラエルで見た聖書<ナザレ村>

イスラエルに一度足を踏み入れてみてください。聖書の世界がビビットになりますよ。

 

▼なぜイスラエル

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 読者のみなさんは、イスラエルに行った経験はあるだろうか。イスラエルに行く前と後では、聖書の読み方が変わる。イスラエルには、聖書にある地名がそのまま残っている。読み飛ばしていた片仮名の地名が、目につくようになる。その情景、温度、空気、匂い、地理感覚が分かるようになる。曖昧模糊だった聖書の世界が、ビビットになる。まだイスラエルに足を踏み入れていない方には、ぜひその一歩を踏み出すよう、オススメしたい(実は飛行機、10万円前後で行ける)。

 先週、私は1週間ほどイスラエルに旅行に行った。1年の留学をしていた頃から、実に5年ぶりだったが、やはり何度行っても面白い。今回は、新たなに訪れた「ナザレ村」について書く。

 

 

▼ナザレ村って一体何?!

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 ナザレというと、キリスト教をかじったことがある人は、ナザレのイエスというフレーズを思い出すだろう。そう、ナザレとはイエスの出身地である。あれ? 生まれたのはベツレヘムでは? と思う人がいるかもしれないが、生まれた町と「出身地」は違う。例えば、私は、長野県立科町で生またが、幼少期に育ったのは同県小谷村。現在、実家は東御市というところにある。同じようにイエスベツレヘムで生まれたが、実は幼少期をエジプトで過ごし、その後、家族とともにナザレに住んだ。イエスは生涯の大半をこのナザレで過ごしたのであろう。当時は名字はなかったため、「どこどこの誰々」というのが通称だった。さしずめ「ナザレ村のイエスさん」ということであろう。

 このナザレという町、今でも存在する。イスラエルの北部に位置する町だ。実は、今はアラブ人の町となっていて、8万人ほどが住んでいる、ムスリムもいれば、クリスチャンもいる、比較的多様な町である。

 ナザレの中心部から10分ほど歩いたところに、「ナザレ村」という場所がある。え? ナザレが2つあるの? そういうことではない。1世紀頃、ちょうどイエスがこのナザレにいた頃を再現した、いわば「博物館」のようなものだ。このナザレ村、今回始めて訪れたのだが、驚くほど聖書、キリスト教のエッセンスが詰まっている。いくつか、面白かったものを紹介しよう。

 

 

▼ロバの道 〜ナビとしてのロバの存在〜

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 ナザレ村に入ると、まずロバたちが出迎えてくれる。

 ナザレに限らず、イスラエルは山の斜面の上に町が建てられていることが多い。エルサレムやハイファも、山の町だ。車で行くと、細い坂道ばかりで、「なんでこんなところに道を作ろうと思ったの?!」と不思議になる。実は、ロバが道を作ったのである。

 そのような山の町々は、古代から建てられていた場合が多い。その際に、欠かせなかったのはロバだった。ロバは、本能的に山の斜面で、登りやすく、一番合理的な道を見つけ出す名人だ。いわば、ロバはその時代の「グーグルマップ」だった。人々は、ロバに導かれ、山の上に町を作ったのであった。

 ロバが道案内をしたという、面白い記述が民数記22章にある。説明を聞きながら、その情景を思い出した。バラムという預言者が、バラクという王様(ややこしい。私は「オバマが王様」と覚えている)に、イスラエルの民を呪ってほしいと依頼される。はじめは断っていたが、贈り物など、次々と好条件を出された預言者バラムは、ついにロバに乗ってバラク王に会いに行く。その道中で、ロバは神の使いが道をふさいでいるのを見て、止まろうとする。神の使いが見えなかった預言者バラムは、「なぜ行かないのか」とロバを叩く。するとロバが喋りだし、「なぜ私を打つのですか」と叫ぶ。その後で、神がバラムの目を開き、バラムはロバが正しく、自分が間違っていたことを知る。そんなストーリーである。そのようなエピソードは、きっとロバが人の道案内をするという常識から生まれたのであろう。他にも、イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入場する象徴的なシーンなど、ロバは何回か聖書に登場する重要な動物である。

 

 少し進むと、今度は羊たちと出会う。

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 羊は、聖書の中で最も言及が多い動物ではないだろうか。よく、エスは「羊飼い」に、信者たちは「羊」に例えられる。羊は、目が悪い動物だ。ほとんど見えない。盲目である。その代り、耳が発達していて、よく聞こえる。イエスは、こういうたとえ話をしている。

 

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

ヨハネ福音書 10:26~27)

 エスは、自分の教えに従う人々を、羊飼いの声に従う羊になぞらえた。そのとおり、羊は目が見えない弱い動物だが、羊飼いの声を聞き分けられるのだ。良い羊は、羊飼いのそばにいることが一番安全だと知っているのである。他の人間が声マネをしても、ついていかないというから驚きである。

 また、聖書の中の「詩篇」にはこんな台詞もある。

 

主(神)は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。(中略)たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖。それが私の慰めです。

詩篇 23:1~4)

 なるほど、イエスはこの詩篇の記述を念頭に、先のたとえ話をしたのかもしれない。

 しかし、ひとつ疑問がある。「ムチと杖」が慰めとはどういうことだろうか。まさか、これを歌った詩篇の作者に「Mの気」があったわけではあるまい。この疑問は、羊飼いがどのように羊を導き、守ったかを知ればすぐに解決する。

 羊は目が見えない。では、羊飼いはどうしたかというと、道からそれそうになった羊を、杖をつかって矯正し、正しい道に導いたのだ。杖は、羊を正しい道に導き、崖から落ちないように守った道具だった。

 ムチはどうだろうか。ムチは、羊を襲う動物を追い払うための道具だった。敵を追い払い、羊を守るムチ。危険から守ってくれるムチは慰めであった。なるほど、しっくりくる。

 

 ナザレ村には、残念ながらヤギはいない。なぜなら、ヤギは言うことを聞かず、飼うのが難しいからだそうだ。エスが従順な人を「羊」に、強情な人を「ヤギ」にたとえた話を思い出す。

 他にも、動物を使ったたとえ話は枚挙にいとまがない。ロバや羊などの動物は、この時代の人たちの生活に、密接に関わる動物だった。聖書の中で何度も登場するのは、その時代の人々にとって、とても身近な、イメージしやすい存在だったからである。現代の私たちは、聖書をより深く理解するために、その動物の特徴や性格をよく知り、学ぶ必要がある。

 

 さて、町といっても、当時のナザレは数百人が住む小さな村だったと考えられている。そんな小さな村で、人々は何をしていたのだろうか。

 

 

▼ワイン踏み場と物見やぐら 〜イエスのたとえ話のリアリティ〜

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 羊とバイバイすると、大きな岩場が見えてくる。実は、この岩、1世紀の「ワイン・プレス」の遺跡なのだという。ワイン・プレスとは、「ぶどう踏み場」とも訳せばよいだろうか。ぶどうの実を収穫し、それを足で踏みつけて、ワインを作るための果汁をしぼるための場所である。1世紀は機械などもちろんないので、岩場にくぼみを作り、人の足で踏みつけて果汁を採っていた。

 その隣には、ワインづくりを見守る「物見やぐら」がある。当時の人々にとってはワインは、水と同じくらい大切なものだった。日常的に飲んでいたと考えられている。聖書の中でも、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」(テモテへの手紙第一 5:23)と書いてあるくらいだ。

 そのワインづくりを見守り、泥棒や野生の動物から、ぶどうを守る役目を担っていたのが、「見張り人」であった。彼らは、交代で「物見やぐら」にのぼり、ぶどう畑や、ぶどう踏み場を監視していたのだった。

 ナザレ村にある畑は、ぶどう踏み場の遺跡以外は再建したレプリカだ。しかし、当時の様子をイメージするのに役立つ。イエスのたとえ話でも、このような記述がある。

 

それからイエスは、たとえで彼らに話始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした・・・

(マルコの福音書 12:1~2)

 垣根、踏み場、見張りやぐら。全て、ワインづくりに欠かせない、当たり前の畑の風景だった。なるほど、こうして見ると、エスのたとえ話は、いかに当時の人たちの生活になじんだものだったのかが分かる。エスは、実際に自分が目にしたもの、じっと見つめ、自分の手で触ったもの、体験したものを中心に、ストーリーを組み立てていったのであろう。

 

 

▼コミュニティセンターとしてのシナゴーグ

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 さらに奥に進んでいくと、ひとつの建物がある。シナゴーグだ。日本語の聖書では、「会堂」と翻訳されている。ヘブライ語では「ベイト・ハ・クネセト」という。

 ナザレ村にあるシナゴーグは、そんなに大きくない。バスケットコートの半分くらいの広さだ。このシナゴーグは、今日のように土曜日(安息日)の集会にも使われたが、それ以外にも、教育や裁判など、地域のあらゆる行事のために使われていた。いわば、コミュニティセンターのような役目を担っていたのだ。

 イエス自身も、このコミュニティセンターとしてのシナゴーグで何度も教えた。山上の説教などが有名だが、実はイエスはほとんどの教えをこのシナゴーグで行ったと考えられている。パウロなど使徒たちも、基本的にはこのシナゴーグで教えていた。

 写真にある巻物は、イエスが読んだある箇所を想起させる。この場所である。

 

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために」イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

(ルカの福音書 4:16~22)

 

 イエスが読んだのは、旧約聖書の「イザヤ書」の61章の記述である。イエスは、土曜日(安息日)にこの聖書の巻物を皆の前で読み、「私が旧約聖書で預言されていたメシア(救い主)である」と宣言したのであった。

 ナザレの人々は、「これは素晴らしい教えだ」と最初は受け入れた。しかし、イエスがすぐ後に、ユダヤ人だけでなく、外国人にも神の恵みがあると言い始めた途端、ナザレの人々は怒り、イエスを殺そうとした。「崖から突き落とそうとした」とルカの福音書4章にある記述は、当時よくある処刑のスタイルだったらしい。両手を縛って、逆さにして頭を打ちつけるように落とす。崖といっても、身長より少し高いくらいの低い崖だったようだ。それでも死なない場合、上から岩を落としてトドメをさす。これがいわゆる「石打ち」である。この説明を聞くまで、いくつもの石を投げつけて殺すのかと思っていたので、少しイメージが変わった。

 イエスは、彼らからどうにかして逃れて、ガリラヤ湖畔のカペナウムという村に行った。そこで、またシナゴーグに入って人々を教えたのであった。今回の旅では、ナザレからガリラヤ湖まで運転したのだが、意外に遠くて、1時間弱かかった。その道を歩いていくのは、結構な労力だったであろう。

 

 また、このシナゴーグの天井を見ると、いわゆる「からぶき屋根」になっている。

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  イエスがカペナウムという町の家にいたとき、群衆が押し寄せて、あまりの人の多さに入れなかったため、人々が屋根をはがして病人をイエスのもとに吊り降ろしたという有名な話がある(マルコの福音書2章)。日本の瓦屋根の常識からいうと、「屋根をはがすなんてえらいこっちゃ!」と思うのだが、この当時の屋根は、このような「からぶき屋根」で、土とワラを混ぜて作ったようなものだった。イスラエルは乾燥地帯だが、秋から冬にかけては雨も降るので、土が固まって、いい屋根になるのだそうだ。このような福音書の記述も、当時の常識で考えないと、深い理解ができないのかもしれない。

 

 

▼オリーブ搾り機 〜3度祈る意味〜

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 イエスは、「良い麦と毒麦」のたとえ話もしている。良い麦に毒麦が混ざってしまったので、収穫の時まで待てという話である。これは、世の終わりを示したたとえ話である。

 毒麦と良い麦は、成長しないと違いがわからない。写真の手前が、実がなる良い麦。奥の茶色いのが毒麦だ。良い麦は、実を結ぶと、その重さで頭を垂れる。実を結ぶと、おのずと頭を垂れて、謙遜な姿になることの証とされている。早稲田のシンボルマークもそんなような意味だったような・・・(笑)。

 

 さて、ナザレ村の奥の方に、作業場がある。作業場の隅には、私が個人的に一番印象的だったものがある。オリーブ絞り機だ。

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 この機械の奥に、オリーブを袋につめて置く。オリーブは一気に絞るのではなく、重さを変えつつ、3回に渡って絞るという。面白い。

 1度目は、優しく、少ない力で絞る。このとき採れる油は、とても上質な油。イエスが女性に油を注がれたシーンがあるが、その時の油である。イスラエルでは、王様に任命する際に、この油を頭から注ぐ習慣があった。そのような儀式で使う油が1つ目の油である。

 2度目は、手前の3つの重りをつけて、ある程度の負荷をかけて絞る。その時採れた油は、食用の油になる。オリーブオイルは、当時の生活にはなくてはならないものだった。

 3度目、最後は、もっと重りを重くして、かなりの力をかけて絞る。オリーブはカスカスになっているが、まだまだ油は絞れる。このときの油は、イメージするような輝く緑色ではなく、赤黒い色をしているという。この油は、灯りをともす燃料の油になる。イエスのたとえ話でも、この油を持って花婿が来るのを待っていた侍女たちが登場する(マタイ25章)。

 

 面白いのが、この3度という回数だ。イエスは、ゲッセマネの園で、神に3回祈った。十字架で死ぬことから免れるよう、祈っていたのである。3度目に祈ったときに、血のような汗が流れたと聖書に記述がある。オリーブを3度目に絞るときは、赤黒い油が採れるというから、興味深い。しかも、ゲッセマネという単語は、「オリーブ絞り機」(ガット・シュムニームという単語が由来だというから、さらに面白い。

 実は、この3度という数字は、聖書では大切な意味がある。何度も登場する。ペテロは、イエス3度「知らない」と言った。イエスは、ペテロに3度「わたしを愛するか」と聞いた。パウロは「自分のとげ」を取り去ってくださいと神に3度願った。ペテロは3回ユダヤ人が食べてはいけない食物を入れた風呂敷が下がってくる幻を見た。サムエルは3回神様からの呼びかけを聞いた。ルツはナオミに3回「帰りなさい」と言われたが拒んだ。ユダヤ人は3回まで他人の間違いを許せと言われていた、などなど・・・。3回という数字は、聖書の中にたくさん出てくる。

 この3回という回数が、数学的な量を表す3回なのか、それとも聖書でよくある、ある一定の「繰り返し・段階」を意味する、意味合い、象徴としての3回なのか。これについては、様々意見がある。しかし、このように当時の文化の中にあった3回という数字を、聖書の中の数字と関連付けて考えてみると、興味深い事実がたくさん見えてくる。

 

 

ミニストリーとしてのナザレ村

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 このように、「ナザレ村」では、1世紀当時の暮らしを、耳で聞いて、目の前でじっと見て、触って、体験することができる。ただ、このナザレ村、イスラエルにある他の博物館とは少し、毛色が違う。ガイドのお姉さんが、最後にこんな台詞を言っていたのが印象的だ。

 

この「ナザレ村」は、ただの博物館としてやっているわけではありません。ビジネスでもありません。これは、ミニストリーとしてやっているのです。 〜ナザレ村のお姉さん〜

 

 ミニストリーというのは、イエスのことを少しでも伝えたい、という思いからなされる様々な活動のことを指す。このナザレ村の目的は、1世紀の暮らしをそのまま伝えることではなく、聖書をより深く理解して体験するため、なのだ。ゆえに、ナザレ村の多くがレプリカであり、本物の遺跡ではない。本物なのは、ぶどう踏み場と動植物だけだ。あとは、体験のためのレプリカである。正直、ビジネスとしての博物館的なクオリティを期待していくと、物足りないかもしれない。しかし、ガイドの解説は、他のどこよりも聖書の記述に基づいている。ひとつひとつは細かいことかもしれない。しかし、聖書の細かなニュアンスが、よく分かるようになる。だから、「ミニストリー」という言葉がしっくりくる。

 聖書の世界を、耳で聞いて、実際にじっと目で見て、自分の手で触って、体験できる。そんなナザレ村に、ぜひ足を運んでみてはどうだろうか。

 

www.tripadvisor.jp

 

(了)

 

このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

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※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。